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『隻創移吉金文選』訓注(二) 進藤英幸

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『隻創移吉金文選』訓注(二)

進藤英幸

324

Shuang Jlan Chi Ji Jin Wen Zhuan(『讐鼠

                       一Translation and Annotation(2)一

1言多吉金文選』)

Hideyuki SHINDO

    Yu Xing Wu(干省吾,1896-1984),from Hai Cheng Xuan, Iiao Ning Sheng, is a scholar of

classic Chinese literature and ancient writing, whose chief interest is researches into bronze ware and

materials of the Yin and Zuon eras.

     In Shuang Jlan Chi Ji Jin Wen Zhuan(1933),one of his most outstanding works, he deciphered

words and sentences, ming wen(銘文),engraved on 485 pieces of bronze ware of the Yin and Zhon

eras. Classic lite}ature alon is not sufficient for understanding Chinese ancient culture, and for this

reason, this work is useful to make up the deficiencies of our research.

    To understand deeply his“Study on ming wen on the bronze ware of the Xi Zhon era”, it is

necessary to translate his work・

. ~

2一

『讐創移吉金文選』訓注(二)

進藤英幸

はじめに

                    あざな            そうけん

 本選集者の子省吾(一八九六~一九八四)は字は思泊、書斎に双剣

し診と名づけていた。遼寧省海城県の出身で、藩陽国立高等師範文科を

卒業。中国古典と古代文字の研究者で、早くから股周青銅器および文

物の収集と整理に潜心されていた。一九三一年に北京に移居して以

後、輔仁・北京・燕京・吉林大学等の各大学講師、教授、名誉教授を

勤め、故宮博物院の鑑定委員や考古学社の社員をもかねた学究者であ

った。本著述は一九三三年(干氏三十七歳)の自刊である。股周時代

の青銅器を中心に選び集め、それに鋳刻されている銘文を考釈したも

のである。彼の数多い業績の中でも優れたものとして価値は今日なお

高い。本選集には四百八十五条の考釈が掲載され、考釈中、問題とな

る語句に彼の簡潔な注釈が添えられているものである。

 西周の銘文を研究するにあたって、その基礎知識を得るため、本選

集を採用し、訓注を施すことにした。

一3一

325

326

克鐘(藤井有鄭館)

克鐘銘。

唯+蚤ハ年九月初吉ゑ宣王ゑ周康剥烈ウ呈乎

婁自晃嘉愈麹墨婁豊離軌

嗣蓑襲簸靱讐望訂書窒禾

蟹婁秦鴛布丸敢封揚季体用作登

穿白寳鯉暑純蝦雰嚢葦子,孫、

永寮

  凡 例

  そうけんしきつきんぶんせん

一、『笠創移吉金文選』は、干省吾が古代の青銅製の器物に鋳刻され

た文字(11銘文)の中から、比較的優れたものを選んで、釈文を施

して編集した著書である。この著書には、釈文だけあって器影も銘

文も載っていない。

一、

ア氏の釈文を訓読するにあたってそのまえに、各郵器の器影とそ

 の銘文を掲載した。

一、

e器の名称・製作の年代・出土地・現在の収蔵場所などを簡略に

示した。

一、

e器の器制と銘文の内容を要約して示した。

一、エ」氏の釈文および注文を㈹と㈹とに分けて示した。㈹は、干氏の

釈文を訓読したもの。圖は、子氏の注文を訓読したものである。

なお、訓読中に説明を要する語に、〈小注〉を付した。

一、

揩ヘ、干氏の釈文・注文のうちで補足説明を要する語句に、※印

 を付し補注として加えたものである。

一、㈹の訓読文の中で、番号を付した箇所は個の注文になるところで

 ある。ただし、一字だけの干注は〈 〉でくくって読み、㈹に置い

 て圖に示さなかった。

一、訓読文で( )でくくった語句は干氏の釈文・注文にはなく、訓

 読者が補ったものである。

一、訓読文のルビは、音読みは現代表記で、訓読みは旧表記で示し

 た。

一、

囁フは釈文の㈲だけを原文に従って旧字体で訓読し、それ以外は

 原則として常用字体を用いた。

一4一

327

『壁創言多吉金文選』訓注(二)

㌧瑚■麟脚剛■顔鱒騨職・ 姦

v一

i礫轟

〈鼓左 銘文〉

(第一器)

〈鉦 銘文〉

(第一器)

鴬瞬酬騨醐P懸

.一儲酬, 充鍾

§

式特矛納驚衡繕

〈鼓左 銘文〉

(第二器)

〈鉦 銘文〉

(第二器)

5

328

  こく  しょう めい

3 克 鐘 銘

器 名  克編鐘(方溶益『綴遺斎舞器款識考釈』巻一) 克鐘(呉

   大徴『窓斎集古録』第一冊)

時代 孝王(『商周青銅器銘文選』第三巻)夷王(郭沫若『西周

   金文辞大系図録考釈』上編) 属王(呉其昌『金文麻朔疏謹』

   巻四) 宣王(唐蘭『西周青銅器銘文分代史徴』附件二・陳邦懐

   『嗣撲斉金文駿』)

                            こうしょ

出 土   「関中から出土」(『綴遺斎舞器款識考釈』巻一) 「光緒

    こういん            きざん  ほうもんじにん

    庚寅〈一八九〇年〉岐山県法門寺任村から出土」(『貞松堂集

    古遣文』巻三・『三代秦漢金文著録表』巻こ

収 蔵

  第一器は、寧楽美術館蔵(奈良市)

  第二器は、藤井有隣館蔵(京都市)

  第三器は、上海博物館蔵

  第四器は、天津市芸術博物館蔵

  第五器は、上海博物館蔵

  第六器は、天津市芸術博物館蔵

略 解

 本鐘は現在、六器見ることができる。六器のうち二器はわが国に存

している。王国維の『三代秦漢金文著録表』巻一(羅福願校補)によ

ると、第一器から第五器まで編鐘とされている。

 第一器は、鉦間に三行二十七字と鼓の左側に二行十二字とからな

り、銘文全体の前半部にあたる。

   佳十又六年九月初吉

   庚寅王在周康刺宮王

   乎士普召克王親令克

        (鉦の銘)

   這脛東至干京

   自易克旬車馬

     (鼓の銘)

 この鐘は、いま寧楽美術館に収められている。『三代秦漢金文著録

               といさい              すうあん

表』(一九三三年刊)では蔵器家を陶斎(端方の号)とし、郷安の『周

                  こうよう

金文存』巻一目録(一九一六年刊)にも「痩陽端氏」としているが、

羅振玉(一八六六-一九四〇)はその著『貞松堂集古遺文』巻一(一

                  じゅてい  とうさい

九三〇年刊)に、「此の鐘器は黄県の丁(樹槙)飼斎の所蔵であった」

と記している。なお、銘文は『周金文存』に「克鐘」として著録され

るのを初見とする。

 第二器は、鉦間に三行二十七字と鼓の左側に三行十五(重文二を含

む)字とからなり、銘文全体の後半部にあたる。第一器の銘文に接続

するものである。

   乗克不敢家専彙王令

   克敢封揚天子休用乍

   朕皇且考白寳割鐘用

        (鉦の間)

   匂屯霞永

   令克其萬

   年子≧孫≧永寳

     (鼓の銘)

              きりゅうもんしょう

 この鐘は、いま藤井有隣館に「旭龍文鐘」として収められている。

              とうさい

たんほう

端方(一八六一1一九一一)の『陶斎吉金続録』巻一(「九〇九年刊)

一6一

329

『隻創言多吉金文選』訓注(二)

に「克鐘二」として著録されるのを初見とする。『三代秦漢金文著録

                   ていあん  はんそいん

表』巻一に蔵器家として「宝華庵(端方)・鄭盒(播祖蔭)」をあげ、

『周金文存』巻一目録にも同じく「呉県活氏・痩陽端氏」と記してい

     ほうしゅんえき

る。また、方溶益は『綴遺斎舞器款識考釈』巻一(一九三五年刊)

のなかで、第二・三器はともに呉県の播(伯寅)祖蔭(一八三〇ー一

八九〇)の所蔵であったと述べていることからして、以前は播氏の蔵

であったが、そのあと、端氏に帰して今は藤井有隣館蔵となったもの

と思う。

 第三器は、鉦間に三行三十字と鼓の左側に二行十字とからなり、銘

文全体の前半部にあたるが、第一器とは銘文の配置に違いがある。

   佳十又六年九月初吉庚

   寅王在周康刺宮王乎土

   晋召克王親令克遍脛東

         (鉦の銘)

   至干京自易

   克旬車馬乗

     (鼓の銘)

     りゅうしんげん    き

            こしつ

 この鐘は、劉心源の『奇触室吉金文述』巻九(一九〇二年刊)に「右

(克鐘)は播(祖蔭)師の器なり」とし、方溶益も、本鐘の第二・三

器はともに播氏の所蔵であったとしている。『三代秦漢金文著録表』

巻一では「鄭盆(播祖蔭)・宝華庵(端方)」とあるから、収蔵の流伝

は第二器と同じく播氏から端氏に帰し、現在は上海博物館蔵となった

ものと思われる。なお、『商周青銅器銘文選』第三巻には、この器の

形制を「高さ五十四センチ、舞の縦は十九・七セソチ、舞の横は二十

七センチ、鼓間は二十三セソチ、銑間は三十二・,三センチ」としてい

る。また、銘の著録は、劉心源をはじめ方溶益や端方の『陶斎吉金続

録』巻一の「克鐘一」、郷安の『周金文存』巻一などにある。

 第四器は、鉦間に三行二十四字と鼓の左側に三行十七(重文二を含

む)字とからなり、銘文全体の後半部にあたる。第三器の銘文に接続

するものである。

   克不敢家尊貧王令

   克敢封揚天子休用

   乍朕皇且考白賓翻

        (鉦の間)

   鐘用匂屯段

   永令克其萬

   年子≧孫≧永寳

     (鼓の銘)

 この鐘の銘は『周金文存』巻一に著録されるのを初見とするが、羅

振玉は『貞松堂集古遺文』巻一に「この鐘器の収蔵は誰だかわからな

い」と記している。『三代秦漢金文著録表』巻一に蔵器家として、「移

りんかん                                りんねん

林館」とあるが、山東省日照(県)出身の丁(麟年)氏家蔵印本であ

る『移林館吉金図識』(宣統二年〈一九一〇〉刊、のちに孫海波が目

録と序文を付して民国三〇年〈一九四一〉に、北京東雅堂書店からの

重印本がある)には、この鐘の器影も銘も著録されていない。よって

流伝の状況は判然としないが、今は天津市芸術博物館蔵(『毅周金文

集成』第一冊)とされている。

 第五器は、鉦間に二行十四字と鼓の左側に三行十九字とからなり、

銘文全体の前半部にあたる。おそらく、この銘文に接続する後半部の

銘の鐘器があったと思われるが、今のところわからない。

   佳十又六年九月

一7一

330

   初吉庚寅王在周

      (鉦の銘)

   康刺宮王

   乎士普召

   克王親令克這浬東至干京

          (鼓の銘)

        ごたいちょう                     かくさい

 この鐘の銘は、呉大徴(一八三五-一九〇二)の『窓斎集古録』第

一冊(一九一八年刊)に「窓斎自蔵」として著録されるのを初見とす

る。『周金文存』巻一目録には「播氏・端氏」と所蔵者名を記し、『三

代秦漢金文著録表』巻一には「惣斎(呉大激)・鄭盒(活祖蔭)」とし

ている。呉氏が自蔵と記しているように、呉大徴の所蔵器であったで

あろうが、その以前は播氏の所蔵品であったものが端方にわたり、さ

らに呉氏に帰したものと思われる。現在は上海博物館蔵(『股周金文

集成』第一冊)とされている。

 第六器は、銘文は十六行八十一(重文二を含む)字からなった全文

である。本器はこれまで鐘器として著録されてきたが、最近になっ

           はく

て、鐘と同じ機能を持つ「鎮」とされている。前の五器と全銘の配置

がちがっている。

佳十又六年

九月初吉庚

寅王在周康

刺宮王乎士

齊召克王親

令克這浬東

至干京自易克

旬車馬乗克

不敢家専萸

王令克敢樹

揚天子休用

乍朕皇且考

白賓割鐘用

匂屯段永令

克其萬年子≧

孫≧永寳

 この銘は『周金文存』巻一に「克鐘」として著録されるのを初見と

する。それ以後、『貞松堂集古遺文』巻一(拓本を模写したもの)・『西

             りゅうたいち

周金文辞大系図録考釈』上編・劉体智の『小校経閣金文拓本』巻一・

『三代吉金文存』巻一なども「克鐘」として著録されている。羅振玉

は『貞松堂集古遺文』巻三の「克鼎」の項に、「趙信臣という商人の

ことばとして、趙が活文勤(祖蔭)公からの依頼を受け、出土地(岐

山県法門寺任村)に出かけて諸器を購入した。それは光緒十六年に出

                             こう

土したもので、克鐘・大克鼎および中義父鼎など百二十余器が同じ奮

中から発見されたものであった」と記している。第六器はもちろんこ

の数のなかに入っていたものである。羅氏は同じ『貞松堂集古遺文』

                      ちょう

巻一の「克鐘」の項で、「この鐘器は全(銘)文なり、張燕謀侍郎の(所)

蔵」と記している。さきの『周金文存』に著録された拓片には、羅振

玉の蔵書印があり、「これもまた克鐘、かつこの金文の拓本ははなは

だ少し」と添え書きされたものである。この器の流伝経路が明確では

ないが、現在は天津市芸術博物館蔵となっている。その銘を著録した

『商周青銅器銘文選』第三巻(釈文及注釈)に、「また克鍾、全文克鐘

と名つく。銘文は克編鐘と相同じきも、(器の)形式はすなはち同じ

からず。し鐵,幡は平かにして、翻配(切り口)は檸が形(だ円に近い形)

     よう                     ちゅう とって

に近似し、雨(鐘の円柱形の柄)なく、紐(把手にあたる部分)あり。

銘よりしてまた鐘となす」とし、その器制は、高さ六三・五センチ、

舞の縦は一八・八センチ、舞の横は二五・三センチ、鼓間は二九・一

センチ、銑間は三四・七センチであるとしている。

                  しん  こうしょ

 本器は、すでに羅振玉が述べたごとく、清の光緒一六年(一八九〇)

    きざん  ほうもんじにん

 せんせい

に陳西省岐山県法門寺任村から、克鐘・克鼎および中義父鼎など実に

一二〇余の古銅器とともに出土したものとされていたが、当時の発掘

               ちんほうかい

状況は判然としていない。近年、陳邦懐(一八九七ー一九八六)は、

                 はく

本鐘器のうちの第六器は鐘ではなく「鍾」であることを『文物』(}

一8一

331

『隻劔言多吉金文選』訓注(二)

九七二年第六期)に「克鍾簡介」と題し、「克鋳」の図版とその「全

銘新拓」とを掲載して解説されていた。銘文の内容は鐘器のものと全

く同じであるが、器形がちがっていることからして、本鐘器の今まで

の伝世は五器であったと思われる。なお、最近の著録書である『股周

金文集成』第一冊(一九八四年刊)には、第六器を陳邦懐の説のごと

く「克鎮」としている。『商周青銅器銘文選』第一二二巻(一九八六

年二九八八年刊)のほうは「克鐘」としている。このちがいの判断

は、銘文を重視するか、器形を主体におくかによるもののようであ

る。器形のちがいの一つとして、鐘は下縁が内湾しているのに対し、

鉾は下縁が直線になっている。

 本鐘の五器全部の正確な規模は判断しかねるが、第二器と第三器は

『陶斎吉金続録』の建初尺によると、ほぼ同じものである。白川静氏

は「少くとも一・二・三・四(器)の間に編鐘の関係は成立しない」

(『

熾カ通釈』二八)とされている。

                     まい      とつにゅう

 器の中央の縦帯の部分(鉦)の両側に三個ずつ枚という突乳が三段

             てん                       き  もん

あり、その乳列の間、つまり、寡の部分と舞の面上には変った慶の文

よう     こ

様があり、鼓の部分には双鳳が相むかった文様を飾っている。鼓面の

      きりゅう

双鳳は、また魑龍ともみえるもので、鳳と龍の二つの文様を合せたも

   ぎ

ののように思える。なお、変った文様には魑と要のいずれとも定めが

               こんこう

たいものが多くみられるが、両老の混濡が起っていた時期があったよ

うに思う。この器の鼓面の文様はその消息を示すものと考えられよ

うσ 

銘文の内容は、時に周王が克に浬東の地域を巡察するように命じ、

旬車・馬乗を下賜されたことの記事である。克氏は岐山(陳西省の北

東部)の大族で、天子からの賜わりものに感謝し称揚して、(それを

記念して)わが皇祖考伯を祀るために宝林鐘を作ったというのであ

る。なお、文中の浬東は、浬水(甘粛省の東部に発し、東南に流れて

             い か

陳西省に入り、西安の東方で滑河に注ぐ川)の東方地域の意。京師は

国都の意ではなく、『詩経』の大雅・公劉篇にみえる京師であり、今

                ひん

の陳西省邪県一帯の丘陵地で、もとの幽の地域であるとされる。

㈲釈文の訓読

 こ                              こう    れつ

 唯れ十又六年九月初吉庚寅、王、※周の康刺〈烈〉宮に在り。王、

 し こつ  よ 

こくめ   みつか   

けい

※士雷(留)を乎〈評〉び、克を召さしむ。王、親ら克に命じ、※渥

東を融りて、※廓師①に至らしむ。克に概無・馬乗を鐡ふ。克、轍で

おと     ひろ         さだ              たまもの             わ

墜さず、専く王命②を箕む。克、敢て天子の休に樹揚して、用て朕が

        ほうりんしょう          じゅんか               もと

皇祖考白(伯)の寳割鐘を作り、用て純蝦永命ならんことを匂む。克

其れ萬年ならんことを。子々孫々、永く寳とせよ。

㈲ 釈注の訓読

  ご  がいせい              いつ

                しゅつ

                         いつ

①呉(閨生)北江先生曰く、「通・達は同宇なり」と。「遙」は即ち

 はくぼうほ き  しゅつ みな  しゅつじゅん             じ が

 伯想父殼の述、皆、率循の義なり。○『爾雅』の釈詰篇に、「這は

 めぐ

 循るなり」と。

  ふてん   し

②専貧は布き定むるなり。

〈小注〉

                 はくぼうほたい            しょうしん

△呉閨生の語は、『吉金文録』巻三の「伯葱父敦」(あるいは「小臣

                 めぐ

 せきき

 謎暇」とも)の注に「述・這は同字、循る(巡察する意)なり」と

 ある。

◎ 訓読の補注

※ 佳十又六年九月初吉庚寅ー『商周青銅器銘文選』第三巻の注釈

 編に、銘文の年月を西周の孝王十六年九月初吉庚寅の旧とされてい

一9一

332

 る。この書の巻末に付した「年表」に拠ると、孝王十六年は紀元前

 九〇九年であり、九月甲申朔から七日めが庚寅にあたるとされてい

 る。

※ 周康刺(烈)宮-「康刺宮」を方溶益は「康王の廟なり」とし

 ている。白川静氏は、康刺宮は康昭宮(「頚壷」)・康穆宮(「克蓋」)

 とともに康宮諸宮の一つであるが、本器以外に見えない(『金文通

 釈』二八)としている。郭沫若も、この器だけにみえる語であると

 し、唐蘭が「康王の廟中の属王廟」だとされるのを正確でないとい

 っている。白川氏は唐蘭のいう属王廟と、この器の紀年を宣王とす

 る説に対して、克氏諸器との関連において成立しがたいし、刺を属

 と釈することにも問題があるとされている。

※士普(召)ー「旨」は、文献では召。郭沫若は「士普は函鼎・

 醤壷の普、及び票殴の宰普と、当にこれ一人なるべし」(『両周金文

 辞大系』上編)という。『商周青銅器銘文選』の注釈では、士普と

 宰普とは同一人であるとし、さらに郭氏の説を敷衛して、召鼎の召

 と士留および召壷の召とは同一人ではなく違う職分の者であるとい

             さいき 

たいしそき

 う。白川氏は、「宰普の名は票段・大師盧段にもみえ、その関係舞

 器は概ね諮孝期にあると考えられるものであるから、郭氏は本器を

 夷王期に属したのである。郭氏のように本器の士普を宰普と一人と

 すれば、たとえば宰晋の名のみえる大師盧殴は孝・夷・属の何れに

 も属しがたく、酪王期のものであろうから、本器との距離は少なく

 とも五十年以上となって、一人の時期としては長きに過ぎるのであ

 る。……普も宰晋と士普とは世代が異なるとすべきであろう」とし

 ている。

※ 王親命克這脛東至干京師ー「親」は、「みつから」あるいは「し

               かんえき           

 たしく」と読む。『詩経』の大雅・韓変篇に「王、親ら之に命ず」(「集

 伝」によると、宣王が親しく韓侯に命じて侯伯となした意)という

句がある。「命」を金文では「令」に作って同じく用いる。「這」は、

地域を巡察する意。「宗周鐘銘」の這省に同じ。「浬東」は、浬水の

東方地域。浬水は甘粛省にみなもとを発して、陳西省で滑水に注ぐ

かわ。「京師」は、ここでは後世の国都・首都の意ではない。古い

金文では「師」と「自」が同じように使われるが、郭沫若はここの

                   しんきょうてい     しんこうてい

「京自」は「京師」の意ではないとして、「巫日姜鼎」や「巫日公墓」

                かんじょ                   けい

にみえる京自で、巫日の首都、つまり『漢書』地理志にいう太原の京

りょう

陵であり、ト辞にも京自の語があり、京陵にあたるとして、『詩経』

    こうりゅう                     ひん

の大雅・公劉篇にみえる「京師」「京」「幽」とコ尽自」とは異なる

とし、またこの詩は後出の詩篇であって信頼されないとしている。

           ひん

これは唐蘭が、この京自は那(幽、公劉のいたところ、今の西陳省

那県)地を指すとして、公劉篇の詩句を挙げ、京は幽の別名である

としたのに反論した記事である(『両周金文辞大系考釈』上編の克

鐘の条)。これに対して白川氏は、「銘文の京自を以て習の京陵と解

するならば、その地は浬より洛・河を超え、呂梁の瞼峻をわたり、

  かんえき

       ゆうひ

詩の韓突にいう熊熊群棲の地を過ぎて山河数百里にも及び、到底這

省舎命のことを行いうる範囲ではない。這省の地は脛東の流域にと

どまるものであるから、至と称するのである」とされている。そし

て結局は、銘文の京自は、おそらく詩の大雅・公劉篇にみえる京師

であろうとする。その詩に

 あつ                ゆ        ふ

 篤いかな 彼の百泉に逝き 彼の博

 げん  み    すなは なんこう  のぼ       けい

 原を謄る 廼ち南岡に陽り 乃ち京

  み    けいし   や

 を襯る 京師の野

                   たいこくてい   なんぢ 

でん  ふ

 といって幽居の状を詠んでいる。薄原は、大克鼎に「女に田を陣

げん  たま

原に易ふ」とある、劉心源は「陣原はまた地名。字書に陣の字な

し、(陣原)疑ふらくは即ち薄原ならん」(『奇触室吉金文述』巻二)

として詩の漕原であろうという。王国維も「(大)克鼎銘考釈」の

一10一

333

『隻創言多吉金文選』訓注(二)

条下に、「諸地名考ふるなし。按ずるに、この(大克)鼎は宝鶏県

                   めぐ

の滑水南岸より出づ。而して克鐘に、浬東を這りて京師に至るの語

     こく         けい  い        また      こうりゅうを      ひん

有り。これ克の封地は、運・清の二水に跨がり、公劉居る所の幽の

  ほぼ

地と略同じ。即ち陣原は殆んど即ち詩の博原ならん」(『観堂古金文

考釈』・『観堂集林』巻第十八「克鐘・克鼎賊」)と、克氏と淳原

との関係を論じている。大克鼎の陣原は詩の博原、克鐘の京師も詩

の京師で、いずれも滑北の地である。ただ王国維のいう克氏の諸器

を宝鶏の出土とするのは、先に引いた『貞松堂集古遺文』巻三の中

                           きざん

で羅振玉は、王氏の伝聞の誤りであろうとされていた。また、岐山

を根拠とする豪族であった克氏が脛東の巡察を命ぜられているのは

その地望に合っているが、浬・滑二水の間を領有したのではなく、

                          こうしょく

「這」は査察行為である。ただ詩の公劉(集伝では周の先祖后稜の

            たい

曽孫なりと。毛伝では公劉、部〈后稜の封じられたところ。今の陳

西省武功県の南西の地〉に居る、而して夏人の乱に遭ふ、公劉を迫

逐す、公劉すなはち中国の難を避け、遂に西戎を平げてその民を移

し、幽に邑す。とある)の博原はその地が岐山に近く、そのため「大

克鼎」ではその地の田を分賜されたといっているのである。ともか

く陣原を王国維説のように詩の博原と解しうるならば、京師もまた

旧幽の地であることになる。『商周青銅器銘文選』(注釈篇)では「京

自は即ち京師で、地区の名である。今の陳西省邪県一帯の高地、そ

の主要な城邑が幽であった」としている。白川氏も、浬東より京自

に至るという這省の範囲はおそらく一〇〇キロメートルを越えず、

またその方向は浬東の丘陵地帯であったものとされている。

 また、当時この方面の巡察を必要とした理由として、白川氏は

  けんいん

「北方撮貌の侵冠に備えることが考えられる。北方族の侵冠は脛洛

二水の上流より南し、滑北の丘陵地帯で合流するという経路を以て

行なわれた」と説いている。そうすると、『詩経』の小雅.六月篇

の「撮狐鞭蕊臓なり我ここに用・て急なり」とか、惹篇に爵

 獄たる溺し舞撮貌を征伐す」とあったり、また、黙麹篇の「量に印

             すみや                        かく

  いまし

 びに戒めざらんや 撮貌孔だ棘かなり」という詩句、出車篇の「赫

 かく   なんちゅう     ここ たいら

 赫たる南仲獺貌干に夷ぐ」などと詠まれている詩篇は、いささか

 なりとも本器の銘にいう脛東這省と、北方獄貌の侵冠あるいはその

 防備とのかかわりあるものと思われる。また、白川氏は「小克鼎」

 (『金文通釈』二八)の解説の中で、本器の「這」は、小克鼎の「遇

 正」また宗周鐘の「這省」と類似の意味をもった語であり、這とい

 う行為には重大な軍事的意味が含まれているとみるべきであるとさ

 れている。

        てんしや

※ 旬車馬乗ー「旬車」は田車、堅くてがんじょうな車。『詩経』小

            てんしゃすで  よ    し ぼはなは さかん

 雅の車攻と吉日の両篇に「田車既に好し 四牡孔だ阜なり」とあり、

 また、『石鼓文』(第二鼓目)の「田車孔だ安し」とある田車の意。

      あんのん

 郭沫若は「安穏の軽車で、狩猟に便利な車」という。白川氏は、車

         かた

 攻篇に「我が車既に攻し」とあるは堅固にして装備のできた意であ

 る。この度の遍省が長途にわたるものであり、また山陵の険をおか

 すものであるから、特に璽贈な車が与えられたのであろうとする。

 軽い車というより堅固な車のほうがわかり易い。「馬乗」は馬四頭

 の意。

※ 克不敢墜専貧王命1「墜」(落す・失う)は、金文では一般に「家」

 となっている。『国語』の「巫日語二」に「敬不墜命」(敬なれば命を

墜さず)とあり・章昭の注に亟は失うなり」とある。「鑑」の

      せつもん

 「専」は、『説文』に「布なり」とあって敷く意。「食」は、『説文通

 訓定声』に「貧は仮借して定となす」とある、定めおく意。つまり、

 こく

 克は広く巡察して王命を公布伝達して、北方の夷独に備えたのであ

 る。これ以下の語は金文の常用句である。

※ 作朕皇租考白寳割鐘  「作」・「祀」は金文では「乍」・「且」と

一11一

334

 書くことが多い。また、「白」は文献の「伯」。伯(白)を語末につ

 けた例文はきわめて少ない。郭沫若はこの場合の「伯」を皇祖皇考

                あさな

 の爵称か、あるいは考伯は、皇祖の字であろうとしている。白川氏

 は考伯を皇祖の廟号と解してもよいとされている。「宝割鐘」の「劃」

 は薔の繁文である。本銘は刀労に従っているが、ほかに金(鐙)や

 禾(麓Qを加えたものもある。なお、鐘名については次の井仁委鐘

 に述べる。

         かつ    かつ

※ 匂純蝦永命…ー「匂」は勾と同じ、「こい求める」の意。「純蝦」

 は金文では「屯段」に書かれる。文献では『詩経』に多く出てくる

         ひんししょえん    なんぢ じゅんか  たま          たの

 語である。小雅の賓之初錘篇に「爾に純蝦を錫ふ 子孫それ湛しむ」

 とあり、毛伝は、「蝦は大なり」といい、鄭玄は「純は大なり。椴

 は の主人に与ふるに福を以てするを謂ふなり」と注されている。

 詩句の意は、祖霊を盛大に祭る故に、先祖からも大いなる福を子孫

 に賜うのである。先祖の祭りが終わって、子孫も祖霊から大なる福

     かんらく                             けんあ      がいてい

 を受けて酬楽するという場面である。また、大雅の巻阿篇に「豊弟

    なんぢ 

をじゅんかつね

 の君子、爾をして爾の性を彌へしめ、純蝦爾に常ならん」とあり、

             あた               なんぢ

 鄭玄は「純は大なり。福を予ふるを綴と日ふ。女をして大いに神の

                  ひきゅう            じゅんか  たま

 福を受けしむ」と注している。魯頬の悶宮篇に「天、公に純搬を錫

   びじゆ

          やす

 ひ、眉寿にして魯を保んず」とある。純蝦は、祖霊ないし天から賜

 わる大いなる福の意である。長寿と将来にわたる多福の安寧であろ

 う。「永命」は、銘文では「眉寿永命」(雁侯鐘)・「純魯永命」(師

 奥鐘)・「通禄永命」(痕鐘甲)などという語句になって使われる。

 「用匂し以下は鐘銘の常用の語である。

〈主な参考文献〉

白川静  『金文通釈』二八.(『白鶴美術館誌』第二八輯)

林巳奈夫  『股周青銅器の研究〈股周青銅器綜覧一〉』(吉川弘文館)

貝塚茂樹  『中国古代史学の発展』(弘文堂書房)

孫詰譲  『古箔拾遺』巻中

郭沫若  『両周金文辞大系考釈』(上篇)

陳邦懐  『嗣僕斎金文賊』

呉閲生  『吉金文録』巻二

『股周金文集成』第一冊(中華書局)

『商周青銅器銘文選』第三巻(文物出版社)

『書道金集』第一巻(平凡社)

『金文集』3(「書跡名品叢刊」二玄社)

4荊箋甦.鎌

器時出

名  邦叔鐘(玩元『積古斎鐘鼎舞器款識』巻三) 井人残鐘(呉

 栄光『笏清館金石文字』巻五) 邪節毎鐘(徐同柏『従古堂款

 識学』巻七) 邪人鐘(何昌済『韓華閣集古録賊尾』甲篇)

 井妥妓鐘(劉心源『奇触室吉金文述』弓九) 邦人鐘(呉大徴

 『憲斎集古録』第一冊) 邪仁妥鐘(郷安『周金文存』巻一)

 蘇父大徹鐘(端方『陶斎吉金続録』巻一) 井人妄鐘(郭沫若

 『両周金文辞大系図録考釈』上編) 邪人編鐘〈井人人妥鐘〉(容

 庚『商周舞器通考』) 井編鐘〈井仁妥鐘〉(白川静〈金文通釈〉

 三こ

代共和(呉其昌『金文麻朔疏謹』巻四)属王(唐蘭『西周

 青銅器銘文分代史激』附件二) 宣王(郭沫若『両周金文辞大

 系図録考釈』上編・『上海博物館蔵青銅器』附冊) 夷王或属

 王(『商周青銅器銘文選』第三巻)

土  第一・二・三鐘器の出土年代は未詳。第四鐘器はコ九六

 六年に陳西省扶風県斉鎮村の東から」(『股周金文集成』第「冊)

一12一

335

『隻創言多吉金文選』訓注(二)

〈鼓左 銘文〉

 (第四器)

〈鉦 銘文〉

(第四器)

〈鼓左 銘文〉

 (第二器)

〈鉦 銘文〉

(第二器)

井仁安鐘銘・

井4女司親藍文祖皇奄節哲や轡静細帥飾望㌍

搾ヂ寄女禾訣帝節駐乗紐皇券傍罰余槍あ趣ゆ

堕塗纒文礪転曾鴫嬬彫鞍瑠齢醤錦醜麹赫麟斜

舷鮒設嵯詠瀦樋楓燈敏睡嶽玲嫡繊曳底宗室舜

安作琳久大薔・鐘・堵輯触鵜覇酎用追孝侃前.丈

.人・・乳飯在キ数、粂・降余厚多福無壁麦其

賜卑子.一孫一、.永穿用葛・

遅久鍾銘

喫剃移吉金丈選   上 一          三

井仁麦鐘く上海博物館蔵♪

13一

336

収 蔵

   第一器は、泉屋博古館(京都市)

   第二器は、上海博物館

   第三器は、書道博物館(東京都)

   第四器は、宝鶏市博物館

略 解

 本鐘は現在、四器見ることができる。四器のうち二器はわが国に存

している。器制からみて、また銘文が複数の鐘に分載されている点か

ら、本器は編鐘であったことがわかる。

 第一器は、鉦間に四行三十二字と、鼓の左側に三行十一字(重文二

字を含む)とからなり、銘文全体の前半部にあたる。

   丼仁妾日親盤文且

   皇考克質畢徳得屯

   用魯永冬干吉妥不

   敢弗帥用文且皇考

       (鉦の銘)

   穆≧乗徳

   妥害≧聖                    ’

   越建塵

    (鼓の銘)

 この鐘は、いま泉屋博古館に収蔵されているが、その流伝について

は当館の紀要第一巻に松井嘉徳氏が「井人人妥鐘」と題し、詳細なる

考証を施して発表されていた。この器は玩元(一七六四-一八四九)

  せつこさいしょうていい きかんし

の『積古斎鐘鼎舞器款識』(一八〇四年刊)に「邪叔鐘」として著録

されるのを初見とするが、鉦間の銘文だけを著録し、鼓の銘文を欠い

                             いん

ている。この器の銘文全体がはじめて著録されたのは、呉栄光の『笥

せいかんきんせきもんじ                                  じゆうこどう

清館金石文字』(一八四二年刊)であり、その後、徐同柏の『従古堂

かんしがく                        くんころくきんぶん

款識学』(一八八六年刊)・呉式券の『撲古録金文』(一八九五年刊)・

     き こしつきつきんぶんじゅつ                            ほう

劉心源の『奇触室吉金文述』(一九〇二年刊)に著録され、そして方

しゅんえき  

ていいさいいきかんしこうしゃく

溶益の『綴遺斎舞器款識考釈』(一九三五年刊)などに著録されて一

                            ひつげん

般に知られるようになったといわれる。また、この鐘ははじめ畢況

(一

オ三〇1一七九七)の所蔵で、張師誠(一七八四t一八三〇)か

                    ちんかいき

ら劉喜海(一七九三-一八五二)の手を経て、陳介祓(一八=ニー一

                        しん

八八四)の所蔵に帰したものであろうとされる。陳氏は清末の著名な

金石家で、本器はいわゆる「陳氏十鐘」の一器として知られるもので

ある。その器制は、

          せん                        こ

 通高は六十五センチ、銑間は三十七・四センチ、鼓間は二十五セン

  ぶ

チ、舞縦は二十三・四センチ、舞横は三十・三センチ、重さは三十四

             か まはんしゅう       てん        きりゅう しゃ

キロがあり、器全体に褐緑色の蝦墓斑銃があり、寡間に有舌旭龍の斜

かくもん                                              よう  せっ

格文、鼓面に有舌長鼻で頭首の一対の旭龍文、舞の上面および雨に窃

きょくもん

曲文を飾っている。

 と、松井氏は紹介され、なおその器形は、泉屋博古館収蔵の「號叔

                          さく

旅鐘」や、一九六〇年に陳西省扶風県斉家村から出土した「柞鐘」な

どに近いとされている。

           もんよう

 第二器は、第一器の銘と文様とが全く同じである。呉大徴の『憲斎

集古録』(一九一八年刊)に「邦人鐘」として著録されるのを初見と

する。呉氏はその著に「憲斎自蔵」と記しているように、彼の所蔵器

であったろうが、方溶益が『綴遺斎舞器款識考釈』巻一に「活伯寅(祖

                 はんそいん

蔭)尚書所蔵」ということから、以前は播祖蔭(一八三〇1一八九〇)

の所蔵品であったと思われる。現在は上海博物館の所蔵に帰し、器影

は『上海博物館蔵青銅器』に収められている。その形制は、

 高さは六十九・五センチ、舞縦は二十六・五センチ、舞横は三十二

一14一

337

『隻創言多吉金文選』訓注(二)

・八センチ、鼓間は二十九センチ、

八キロ

 とあり、第一器よりやや大きく、

銑間は三十八センチ、重さは三十

編鐘であると解されている。

 第三器は、鉦間に四行三十七字(重文四字を含む)と鼓の左側に二

行十字(重文二字を含む)とからなり、銘文全体の後半部にあたる。

   宗室稗妥乍餅父大

   薔鐘用追考侃前≧文

   人≧其嚴在上激≧案≧降

   余厚多幅無彊妥其

       (鉦の銘)

   萬年子≧孫≧

   永寳用菖

    (鼓の銘)

 この鐘を王国維の『三代秦漢金文箸録表』巻一(羅福願校補)には、

蔵器家として活祖蔭と端方を記している。端方の『陶斎吉金続録』(一

                             すう

九〇九年刊)に「嶽父大林鐘」として著録されるのを初見とする。郷

あん安

は『周金文存』(一九一六年刊)巻一の附説に三鐘器の銘文を著録

し、「前銘のもの二器、後銘のもの一器である。全銘文を二器に分け

て鋳出することは、初期の金文にはこのような例が有るものである。

第三の鐘器を『陶斎吉金続録』に宝室鐘と名づけている。近ごろ王国

維によってはじめて、第三器の銘文が第一器あるいは第二器の銘文に

接合するものであることを発見された」と解説している。なお、郡氏

はその著の目録に、王国維の著録表に従って「四十四字は後銘。呉県

の播(祖蔭)氏、渡陽の端(方)氏」と所蔵家の名を記している。銘

文の前半部(第一・二器)とあわせて著録されたのは、呉大激の『憲

斎集古録』がはじめである。本器は現在、書道博物館の所蔵になって

いる。その器制は、

通高は七十センチ、銑問は三十九・三センチ、鼓問は二十八・八セ

ンチ、舞縦は二十四・五センチ、舞横は三十一センチで、文様は第一

・二器と同じである。

 第四器は、鉦間に四行三十四字(重文五字を含む)と鼓の左側に四

行十四字(重文二字を含む)とからなり、銘文全体の後半部にあたる。

   庭宗室稗妾乍鯨

   父大薔鐘用追考≧

   侃前≧文人≧其嚴在上

   敏≧漿≧降余厚多幅

        (鉦の銘)

   無彊麦

   其萬年

   子≧孫≧永

   寳用菖

    (鼓の銘)

 本鐘は、一九六六年に陳西省扶風県斉鎮村の東から出土したものと

される。器影および拓本は『文物』(一九七二年の七期号に発表され

た周文の「新出土的幾件西周銅器」という論文と図版)や『陳西出土

商周青銅器』(三)にみえる。出土状況の詳細は不明である。現在は

陳西省宝鶏市博物館に収蔵されている。その器制は、

 通高は五十四センチ、雨の高さは十六センチ、銑問は三十二・五セ

ソチ、鼓間は二十ニセンチ、舞縦は十九センチ、舞横は二十七・五セ

ンチ、重さは三十六キロ

であり、第丁二・三器にくらべて少しばかり小さいようである。文

                         らんちょうもん

様は、前の三器と基本的には同じであるが、鼓の右側に鶯鳥文を飾

一15一

338

っているのが違っている。周文や松井氏も指摘するように、一行めの

第一字の「庭」字が多いこと、二行めの第三字の「奮」字が他器と異

なること、同行の第七字の「考」字に重文の印が附されていることや、

鉦間および鼓面における配字の仕方などの異っている点があげられる

が、しかし、この第四器の出現によって、井仁妥鐘は前銘が二器、後

銘が二器となり、二組の鐘器と考えられる。この第四器は文様と銘文

について他器と若干ちがうところがあり、あるいはもう一組があっ

て、その後銘にあたるものと考えられなくもない。『商周青銅器銘文

選』(三)に「伝世共有五枚」とあるが、第二・四器にあたる銘と釈

文を掲載するだけである。「五枚」といっているのは、今のところ確

実ではない数だろう。

 この鐘は重厚で素朴であり、形態が比較的大きく、編鐘でもある。

銘文の形式は井仁妥の典型的な自述の語からなっている。「善良であ

った文祖皇考は、そのすばらしい徳によって多大なる神祐を授かり、

吉祥が末長く続くことをえたもうたが、妥はその祖考の徳を率用して

宗室(一族一門)をついだので、和父の大林鐘を作って父祖の霊に孝

養を尽くし、文徳ある前文人がわれわれに限りなく多福を下したまわ

んことを」と述べた内容である。

                    い き

 このような自述形式の銘は、西周前期の「也殴」にみえるほか、

 しぼうてい   しゅくしょうほ う             だいこく     こう

「師望鼎」・「叔向父禺段」・「禺鼎」・「大克鼎」・「痩殴」などもこの形

式で、西周後期の舞器の銘にはもっとも多くみられる。さらに鐘器で

は、「単伯鐘」・「號叔旅鐘」・「梁其鐘」・「痕鐘甲」などにみえて、祖

考の徳を顕彰するものが多い。

      き                         ナへ

 なお、井は姫姓の諸侯で文献では邪に作り、西周の青銅器銘文によ

   ぼくおう

ると、穆王期の銘文にはじめてあらわれ、関中の各地に根拠地を有

し、井伯・井叔・井季などの分家を擁して王朝の卿士をつとめたが、

幾多の王朝を経過して、その権勢は次第に衰えていったようである。

松井氏は、新出の器による知見を中心として、陳西の井一族の動向を

考証されてたうえ、この鐘器および銘分について次のように結論づけ

ている。

 「共和期以前、おそらく號叔旅鐘・梁其鐘などに近い時期のものと

考えられる井人人妥鐘(井仁妥鐘のこと)は、……その形制も他の鐘

に勝るとも劣らない雄偉なもので、作器者井人人妥の勢力を窺わしめ

る。しかし、その銘文は、祖考を顕彰し、その徳に倣うことをいうの

みであり、例えば號叔旅鐘の”対天子魯休揚”や梁其鐘の”梁其敢対

天子 顕休揚”のように周王との結びつきをいうものとは、若干雰囲

気を異にするように感じられるのである。……西周中期には王朝の執

政者を出しながら、夷・属期に至って動揺しつつあった一族の影が、

或はこの銘文に読みとれるのであろうか。」

 と述べているように、この鐘は西周後期の器で、ほぼ夷末属初期に

あたるものである。

                 し                   し

 この文は有韻で、郭沫若は「徳・徳は之部入声、吉・室は至部、上

     よう

・彊⊥旱は陽部」の韻を指摘しているが、白川静氏はさらに他にも「人

   しん

.年は真韻、趣・鐘は東韻、また考・考・魯なども声韻に近く、殆ん

ど句ごとに声の譜和を求めているようである」とされている。

㈹ 釈文の訓読

   けい   じんねい      けんしゅく              よ      そ

 ※井(邪)の仁妥曰く、※盟盟なる文租皇考、※克く皐(豚)の徳を

 あきらか                   ろ

質〈哲〉にし、※純を得て用て魯たり、※吉に永終なり。※妾、敢て

      ぼく            と    しゅつよう

文租皇考の、穆々として徳を乗るに帥用せずんばあらず。妾、※憲々

譲垂①として、莚まりて宗室に慮る・・購に妾・墜秘)知の

だいりんしょう

                  たの

大薔鐘②を作り、※用て追孝し、前文人を侃しましむ。前文人、其れ

        まう   よく

嚴として上に在り、凱々寮々として、余に厚き多幅を降すこと無彊な

らん。妥、其れ萬年ならんことを。子々孫々、永く費として用て菖

一16一

339

『隻創言多吉金文選』訓注(二)

きょう

(享)せよ。

⑧釈注の訓読

                   れいとく

①唐(蘭)云ふ、「『中庸』に、”憲々たる令徳”」と。○『詩(経)』

 (小雅)藤う概に、「顎恥軸々たり」と。『諾如(解字)』、引きて「製」

        しゅうぼくおう    がくむ             まさ きょうがく

 に作る。『列子』周穆王の、「董夢」の注に、「董は当に驚愕の愕と

        こ  がく  がく   いにしへ               もんぜん   ちょう

 為すべし」と。是れ壷と郡は、古、通ずるの謹なり。『文選』の長

 てきふ                                             のっと

 笛賦の注に、「郭は直言なり」と。言は、其の祖考の賢聖なるに法

 って正直なり。

          つひ       るい         さいしん          し

②『書経』舜典に、「犀に上帝に類す」と。『(票沈)伝』に、「犀は

 遂なり」と。

〈小注〉

△『中庸』は、朱子章句では第十七章で、『詩経』の大雅・仮楽篇の

                 

 第一章の、「仮楽の君子、顕々たる令徳」とある句を引用したもの

 である。本銘や『中庸』の「憲」を『詩経』では「顕」になってい

 る。なお、この詩句は、『左伝』の文公四年と嚢公二十六年にも引

 かれている、句意はほぼ同じ。「訓読の補注」の項を参照されたい。

                  じょうてい  はな  がくふ  

△『詩経』の小雅・常様篇の第=早の、「常禄の華、那不 韓々たり

                がく

 <鄭注の訓〉」(にわ桜の花びらが、薯を同じくして、美しくむらが

 り咲いている)とある句。

△『説文』巻六下「那」字に引用句はない。朱駿声の『通訓定声』に、

 この詩句の鄭玄の注を引いた後に「(郡)字亦作薯」とある。

                            がくむ

△『列子』巻三の周穆王篇に、「夢に六候あり、……二に曰く、董夢

 (驚いたことのために見る夢)。……」鮎弼醤㊨注に、「周官の注に

       まさ きょうがく

 云ふ、董は当に驚愕の愕と為すべし、」と。周官は、『周礼』巻二十

                                  じょうげん

 五の春官〈占夢〉。そこには、「二に曰く、垂夢。」とあり、鄭玄の

     

 注も「垂」となっている。

            ばゆう

△『文選』巻十八の長笛斌(馬融作)に「不占は節邪を成す」とあり、

 りぜん                                   ふせん

 李善の注に「字書に曰く、都は直言なり」とある。「不占」は、陳

    せい       せつがく

 不占、斉の人。「節郷」は、節操があり直言してはばからぬこと。

                    こうあんこく

△『書経』舜典に「犀に上帝に類す」とあり、孔安国・票沈両伝とも

 「騨は遂なり」と注されている。なお、『史記』巻一の五帝本紀中の

 帝尭の条下には「犀」を遂字に作っている。「類」は上帝を祀る祭

 名。

◎訓読の補注

             けい

※ 井仁妥ー「井」は文献の邪。「仁妥」は、人字の下に重点、女字

 の上に重点を加えた字体になっているが、これまで異釈が多い。器

 名の名稻が多いのはそのためである。白川氏は、人・女字に重点を

 加えた字は「いつれも重読すべき字ではない」とし、さらに「金文

                     せつもん

 に某人を冠して氏号を称する例なく、……字は説文に仁字の古文と

 してあげるものと形近く、仁であろう。……従って作者は の仁妥

 という人物である」と述べ、また、「金文において地名下につづけ

 て某人というものは概ね徒隷の属で、氏姓あるものの称ではない」

 といっている。松井氏は、白川氏の説に対して、①人字の下に重点

 を加えた字は、明らかに重文である「前文人」の人字と同じ字体で

 あること、②井人某という称が存在したこと、③某人と地名を冠し

 た称が必ずしも徒隷の属とはいえないことの三点を論じ、容庚の説

 に従って「井人人妥」と読むべきであろうとされていた。松井氏の

 説が妥当であると思うが、今ここでは干省吾の釈文に従っておくこ

 とにする。

※ 窺彊  「窺」は顕の意。銘文は顕の字をサに従い、玩元は碑に、

 孫論譲は頽(『古箱余論』巻三)に釈しているが、顕の異体字であ

一17一

340

ろう・謬知藤に嬰・塾轟に器、羅響難、饗に

 號皇、痩鐘丁・戊に號福とあるのも、みな顕の意である。白川氏

 は「 顕にはこの字(號)を用いない。用字上の区別があったので

 あろう」といっている。「揺」は「盟」とも釈す、淑の意。「観彊」

 は文祖皇考を称美する語である。

                          ばんせいき

※ 克賀(哲)畢徳  「早」は豚字の古文。この語句は、番生段に

           りょうき

「克誓(哲)豚徳」と、梁其鐘に「克想(哲)豚徳」とあり、また、

 大克鼎に「葱蕨徳」と、師望鼎に「折心蕨徳」という表現に同じであ

 る。いずれも祖考を称讃する語句である。本器の銘の「哲」字は貝

               ししょうばん         

 に従うが、ほかに心・言・徳(「史膀盤」の粛薇)に従う字体が

    くち

 ある。口に従う字体は金文にはみえず、後起のものであるとされ

 る。

※ 得純用魯ー銘文の得字は、手と貝に従っているが、師望鼎.大

                    

 克鼎・號叔旅鐘・梁其鐘などに「得純亡敵」とあり、史將盤に「篠

 越得絶」とみえる。この二字を劉心源は「賓屯(純)」、方溶益・呉

                  しぼうてい

 式券は「貴屯(純)」と釈し、郭沫若は師望鼎の釈文で責純とした

                           かくしゅくりょ

 うえで渾厚敦篤の意味をもつ渾沌と解している。干省吾は號叔旅

 、鐵銘の注に本鐘の句を引いて、得と用は対語、純と魯は対語とし、

 純は美、魯は嘉(さいわい)の意としている。それでもわかるが金

 文には叢鼎に「屯(純)魯掌萬年」、師惣鐵謬「屯魯永令ハ命)」、

 煮琵し鐵/煮備睡に「屯魯多鷺、大寿萬年(眉寿無彊)」とあり、ま

 た、士父鐘に「康祐屯魯」、痕鐘甲に「受余屯魯、通禄永命」、痩鐘

 戊に「永命紳縮、嚴泉屯魯」などと、萬年や永命などの語と並用さ

 れた「屯(純)魯」という語もあるところからして、松井氏も指摘

 するように本銘の「得用純魯」は、この「純魯」と同じ意味の表現

 で、次の「永終干吉」の語句と合せ考えれば、「得用純魯」の互文

 として祖考の永命・永終というものと思われる。

※ 永終干吉ー銘文の「冬」は終字。「永終」は、『詩経』の周頬.

 鼠影篇に「庶幾夙夜、以加終誉(薦ね輝く底壊幽 以て赫くぶ驚を繹え

        ぎょうえつ              たいうぼ      

 ん)」、『論語』の尭日篇および『偽古文尚書』の大禺護に「天禄永

  

 終(天禄永く終へん)」としてみえる。尭日篇の場合は古注の意、

 大禺談は偽孔伝の意で、天から与えられた恵みの末長く続くことの

 意味である。

                      ばんせいき

※ 妥不敢弗帥用文祖皇考穆々乗徳-この句は、番生毅の「番生不

                      ひ ひ

 敢弗帥刑皇祖考不杯元徳」(番生、敢て皇祖考の 杯なる元徳に帥

          しゆくしょうほうき

 刑せずんばあらず)、叔向父萬毅の「肇帥刑先文祖共明徳乗威儀」

 よじ                       つつ           と     りょうきしょう

 (肇めて先文祖に帥刑し、明徳を共しみ、威儀を乗り)、梁其鐘の

                 つ

 「梁其肇帥刑皇祖考乗明徳」(梁其、肇ぎて皇祖考に帥刑し、明徳を

    こうしょう                                  したが

 乗り)、疲鐘甲の「疾不敢弗帥祖考乗明徳」(痕、敢て祖考に帥ひ、

    と

 明徳を乗らんずばあらず)などとよく似た表現で、祖考の徳になら

 い従うことを述べている。

※ 憲々聖超ー銘文の「害≧」は憲々。「憲々」について、郭沫若

                                     よ

 は、『詩経』の大雅・仮楽篇に「仮楽の君子、顕々たる令徳」(嘉い

 徳を修めて心楽しむ君子は、その徳が大いにあらわれ輝いている)

                       

 とある句を、『中庸』に「嘉楽の君子、憲々たる令徳」と引くこと

 を根拠にして、「顕々」(明かにかがやくさま)と同じであるとする

 (『両周金文辞大系図録考釈』)。白川静氏は、これに対して、「ただ

        せいそう                   ねい

 ここでは、次の聖遽二字が名詞であり、上に一安を主語として取るも

 のであるから、憲々は述語的として取るものであるから、憲々は述

               けんけん

 語的によむべきであり、おそらく春々などに当る語であろう。詩の

         けんけん     かいこ

 (小雅)小明篇に”蜷々として懐顧す”(振り返り見て深く慕い思う

 意)とあり、ここでは聖魑に春々たるをいう」という。「聖趣」の

 趨は、郭沫若も指摘するように字書にない字で、異釈が多い。子省

       がく            カく

 吾は注して、「垂はすなわち郡、直言(率直に意見を述べる)」の意

一18一

341

『隻創言多吉金文選』訓注(二)

としているが、孫論譲の『古箱余論』巻三の説と同じである。呉式

        ごがいせい

券・何昌済は器、呉閲生は喪、劉心源は喪にして爽とし、次の一字

       そうちょう

(楚)とつづけて爽箆に釈して、鐘声をいう語とする。干省吾は後

に「趣」を「魑」字に改め、爽とした(『古文字研究』第五輯「膀

盤銘文十二解」のうちの「彼越」の条。『双剣移駿契餅枝三編』附

「双剣移古文雑釈」中の〈釈聖越〉)。郭沫若は高尚の尚、あるいは

党善の党であろうとしている。白川氏は、これらの諸説を不当とし

て、「字は喪に従い走に従う。行為的な意味を示す字形であるから、

  そうせき

その踪 をいう字であろう」としている。松井氏は、近年になって

出土した史瘤盤の「篠纏得純」の越字、および痕鐘戊の「痩、起々、

夙夕聖越、追孝干高祖辛公・文祖乙公・皇考丁公蘇薔鐘」の聖越と

         とうらん きゅうしゃくけい  りがくきん  こうねんい

いう語を釈するに、唐蘭・装錫圭・李学勤・黄然偉などは干省吾

                    せつもんかいじ

の説に従って越字を爽とし、「爽は明なり」(『説文解字』三篇下)

                じょちゅうじょ

の義としている説をとりあげ、また徐仲野が、これを減とし、善

の義とする、という諸説を掲示し、「聖越」を形容詞あるいは副詞

とする説と、白川氏のように名詞とする説の二つにわけられるとし

て、痕鐘戊の「夙夕聖越」の夙夕は、金文においては「夙夜(夙夕)

を敬しみ」というように名詞として使用される場合が多いが、ほか

に「夙夕して……」と副詞的にも使用される。しかし、目的語をと

る用法はみあたらず、「夙夕聖越」の聖越を名詞として「夙夕」の

目的語とするのは困難である、とされてから、本銘の「憲々聖遽」

の語を次の「楚処宗室」にかかる副詞句とし、「憲々聖越として」

と訓読されている。語法的には松井氏のいうとおりであろうが、

「聖越」の意味が明確でないのが惜しまれる。なお、唐蘭・喪錫圭

の説は、『文物』(一九七八年第三期の「略論西周微氏家族害蔵銅器

群的重要意義」1陳西扶風新出培盤銘文解釈i・「史嫡盤銘解釈」)

にあり、李学勤・徐中静の説は、『考古学報』(一九七八年第二期の

 「論史矯盤及其意義」・「西周緒盤銘文箋釈」)にあり、黄然偉の説

 は、『池田末利博士古稀記念東洋学論集』(「西周史暗盤銘文釈義」)

 にある。

        ち              えん        ちょう         り

※ 楚処宗室1「楚」字を、孫論譲は奄、劉心源は毘、何昌済は離

 と解しているが、いずれも文義にそわない。秦公殴に「眈楚在天」、

 秦公鎗に「眈建在位」、晋姜鼎に「乍楚為亟」とある建と同じであ

             ひん    ろうばつ

 ろう。郭沫若は、『詩経』の幽風・狼践篇に「狼践其胡、載嚢其尾」

              ふ     すなは        つまつ

 (毛伝による訓は、狼その胡を践みて、載ちその尾に楚く)とある

                       せいろう

 楚字として、踏(ふむ)と解している。なお、張政娘は、「周属王

 胡盤釈文」(『古文字研究』第三輯)のなかで、『詩経』の小雅・節

                     こ        てい

 南山に「サ氏大師、維周之氏」(サ氏は大師、維れ周の氏)とある

 氏字として、毛伝にいう「本(もと)なり」の意としている。翫齢

                             なが

 の「眈在位、乍嚢在下」の嚢字の場合などは、張氏のごとく、「眈

       もとい  つく

 く位に在りて、楚を乍り、下に在り」ともよめる。白川氏は、「留

 処」(とどまりおる)の意としている。本銘は白川説のほうがわか

                            かはく

 り易いであろう。「宗室」は、先祖のみたまやのあるところ。過伯

 き                   いんきつてい                        とうへい

 殴の「用乍宗室宝隣舞」、サ姑鼎の「穆公乍サ姑宗室干口林」、豆閉

 き

 殴の「用干宗室」などにみえる。また、文献では『詩経』の召南・

 さいひん             ● ●                      ゆ

 采頭篇に「干以麓之、宗室騙下、誰其 之、有斉季女」(干きて以

    てん         ゆうか             つかさど   さい    きじょ

 て之を彙す、宗室の騙下に、誰か其れ之を る、斉たる季女あり)

                    したが

 とあり、その序に、「大夫の妻、よく法度に循ふなり。よく法度に

 循へば、則ち以て先祖に承け、祭祀を共すべし」といい、宗室にお

 ける女性と祭祀とのかかわりを述べている。松井氏は、「金文にお

     いんきつてい    ぼくこう

 いても、サ姑鼎に”穆公、サ姑の宗室を口林に作る”とあり、女性

 の作器者サ姑と宗室の関わりをいうほか、新出の強伯作井姫鼎に、

 意味は不明であるが、“井姫隔亦烈祖考凌公宗室口”といい、やは

 り女性の井姫と宗室の関わりが窺える」とされ、本銘に「楚処宗室」

一19一

342

 という、「井人人妥」の妥字は女に従う字であり、あるいは本鐘の

 作器者は女性であったかも知れないとしている。

※ 騨妥作謙父大薔鐘ーこの句以下は、鐘銘の末辞である。宗周鐘

 ・號叔旅鐘・師曳鐘などの銘に似た表現である。「疑」は、銘では

 辞字で、「かくて・ここ」にといった意の接続詞。「餅父」を郭沫若

 は、師無外の蘇父で、すなわち共伯和のこととし、「妥」は共伯和

 の子であろうとする。呉其昌(『金文麻朔疏謹』巻四)・陳夢家(『西

 周年代考』)などもそうである。白川氏はこれらの説に対して「銘

 辞の全体は共和期執政の人を碩するものとしては適わしくない」と

 いい、さらに「本器についていえば、この蘇父を伯餅父・師噺父と

 一人とする確証はなく、器の時期も必ずしも属末共和に下るもので

 はない」とされ、その文辞は大克鼎・番生殴など、むしろ夷王期の

 末の器に近いものであると述べている。

      りん      りん

 「大薔鐘」の薔の字は林と通用し、すでに容庚が『金文編』巻六に

 掲載するがごとく、『左伝』裏公十九年に「季武子以所得於斉之兵

   

 作林鐘而銘魯功焉」(季武子、斉に得る所の兵を以て林鐘を作りて

 魯の功を銘せり)という。鐘については、大欝鐘のほかに、宝鐘(宗

          かくしゅくりょしょう             そこうかしょう

 周鐘銘)・大醤蘇鐘(號叔旅鐘銘)・宝大曹鐘(楚公豪鐘銘)・宝割〈曹

                  ちほしょう        ほうししょう

 ・林〉鐘(克鐘・士父鐘銘)・噺薔鐘(遅父鐘銘)・転鐘(聖氏鐘銘)・

   ちゅこうたくしょう              けいちゅヒよう       じゅんヒよう

 禾鐘(郊公鋭鐘銘)・大林〈稟〉鐘(号仲鐘銘)・和鐘(徽見鐘銘)・協

               そしょう

 鐘(痕鐘銘乙)・転曹〈鐙〉鐘(盧鐘一・演鐘銘丙.戊)・大宝協餅鐘

 (疾鐘銘甲)などとさまさまに表記されている。

※ 用追孝侃前文人-「追孝」は、死んだ父祖の霊によく仕えて、

                           じゅんじしょう

 死後の孝養を尽くす意で、舞器の銘に常用される語である。徹児鐘

 に「台追孝先且、楽我父兄」(以て先祖に追孝し、我が父兄を楽し

      じけんき

 ましむ)、邦遣殴に「用追孝子其父母」(用て其の父母を追孝す)、

 じゃくこうへいこうてい                              しんこう

 都公平侯鼎に「用追孝干蕨皇且農公」(用てその皇祖農公を追孝す)

                                    

などとみえる。文献では、『礼記』の祭統篇に「祭者所以追養継孝」

(祭とは養を追ひ孝を継ぐゆえんなり)とあって、宗廟の祭祀をい

うのである。『書経』の文侯之命篇では、「追孝干前文人」とある。

「前文人」は『注疏』に「孝道を前世の文徳の人に追行す」とある

ごとく、文徳のあった人で、その祖父あるいは祖先をいうのであ

る。

            きかん                しゆしゅう

「侃前文人」の「侃」は、「喜侃」(喜んで楽しむ)の意で、師曳鐘

            し ほしょう

に「用喜侃〈前〉文人」、士父鐘に「用喜侃皇考」とあり、また、

けいちゅう

号仲諸器に「其用追孝干皇考己白、用侃喜前文人」(其れ用て皇考己

            かんき              こうしょう

伯に追孝し、用て前文人を侃喜せしめんYとか、痕鐘戊に「追孝

干高且辛公……瓢錨鐘、用郡各喜侃、楽前文人」(高祖辛公……に

追孝するの輪鑑鐵.〈をつくる〉。用て昭格喜微し、前文人を楽しまし

む)などと、金文では常用される句である。これ以下の本銘は、す

でに訓注した宗周鐘、號叔旅鐘の銘文と同類の表現である。

〈主な参考文献〉

白川静 『金文通釈』三一(『白鶴美術館誌』第三一輯)

松井嘉徳 「井人人妥鐘」(『泉屋博古館紀要』第一巻)

林巳奈夫 『段周青銅器の研究〈股周青銅器綜覧一〉』(吉川弘文館)

孫諮譲  『古箱拾遺』巻中

郭沫若  『両周金文辞大系考釈』(下篇)

タ盛平『西周微氏家族青銅器群研究』(文物出版社)

容庚  『商周舞器通考』上冊

呉閲生  『吉金文録』巻二

『商周青銅器銘文選』第三巻(文物出版社)

『股周金文集成』第 冊(中華書局)

一20一

『金文集』3(「書跡名品叢刊」二玄社)

『中国書道全集』第↓巻(平凡社)

(しんどう ひでゆき)

『隻創言多吉金文選』訓注(二)

一21一

343