言結七 「六石台孝経」の疑義について建五碑の理由...

16
玄宗「石台 154 一はじめに 玄宗とその書 玄宗の隷書と行書 「 石台孝経」碑の形状とその書 建碑の理由について 「 石台孝経」の疑義について 「 石台孝経」は現在、陝西省博物館の西安碑林にあ る。唐、天宝四年(七四五)の刻で歴代碑林の中心で あった。本稿では、玄宗の閲歴と、その書の特質を探 り、碑の 形状を示し、建碑の理由を中心として考察を 加え、「 石台孝経」成立の一斑について管見を述べた。 そして、その成立には、楊貴妃入内のための政治的意 図が働いていたことを無視で きないことを結論とした。

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Page 1: 言結七 「六石台孝経」の疑義について建五碑の理由 …...玄宗「石台孝経」成立再考 154 則秀尾長 言結七 「六石台孝経」の疑義について建五碑の理由について「四石台孝経」碑の形状とその書玄三宗の隷書と行書玄二宗とその書

玄宗

「石台孝経」成立再考

154

はじめに

玄宗とその書

玄宗の隷書と行書

「石台孝経」碑の形状とその書

建碑の理由について

「石台孝経」

の疑義について

「石台孝経」は現在、陝西省博物館の西安碑林にあ

る。唐、天宝四年

(七四五)の刻

で歴代碑林の中心で

った。本稿では、玄宗の閲歴と、その書の特質を探

り、碑

の形状を示し、建碑の理由を中心として考察を

加え、「石台孝経」成立の

一斑に

ついて管見を述べた。

そして、その成立には、楊貴妃入内

のための政治的意

図が働いていたことを無視できな

いことを結論とした。

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「石台孝経」は現在、陝西省博物館の

〈西安碑林〉にあ

る。唐、天宝四年

(七四五)の刻で、歴代碑林の中心であ

  

 

った。玄宗

(六八五~七六二)の在位は、七

=

一紅七五六

年である。唐朝、第六代

(中宗

・睿宗の重祚を数えると第

八代)の天子である。

 

「石台孝経」の成立は、玄宗の性格好尚

一大変転期に

置し、楊貴妃

(七

一九~七五六)の入内

(七四五)と、

 

 

同期であ

った。玄宗の内面

の変化を考えるとき、「石台孝

経」成立は、

一瞥、奇異にもとれる。

小稿では、玄宗の閲歴と、その書

の特質を探り、碑の形

状を示し、建碑の理由を中心として二

二二の考察を加え、

「石台孝経」成立の

一斑について管見を述べた

い。

一一

玄宗とその書

七十有余年にも及ぶ玄宗

の生涯で、特筆すべきことは、

性格好尚の変転である。開元末、天宝初期まで、玄宗は実

によく政治に意を注ぎ、宰相もその人を得、〈開元の治〉

とよばれる盛世となり、文化は爛熟した。しかし、玄宗は

次第に政治を怠り、天宝四年

(七四五)に楊貴妃を得てか

らは、驕奢安佚に傾き、政治を顧みなくな

った。そしてつ

いには、天宝十四年

(七五五)、〈安史の乱〉とよばれる大

乱を招

いたのである。

那波利貞氏は、『唐代社会文化史研究』の中で、「唐の開

元末、天宝初期の交が時世の

一変転期たるの考証」をされ、

玄宗の性格好尚に関しても、

開元の末、天宝初期の交に時世が変転期に到達するや、

奇しくも玄宗の性格好尚に於ても急激にして鋭敏なる

 

 

変転現象を示した。

とされ、また、

開元二十八年迄は先づ儒教的克

己主義の性格であるが、

開元二十九年以後、天宝二三載

の交は漸く性格の変転

せむとする期にして、天宝四載

八月楊氏の入内後は道

 ら

 

教的享楽主義

の性格に変転して居る。

と述べ、論証されている。「石台孝経」

の建碑は、天宝四

  

 

(七四五)九月であり、楊貴妃入内

(七四五)八月十九

日のすぐ後である。よって玄宗は、

この時代の

一大変転期

に生きた人であり、「石台孝経」はまた、玄宗

の性格好尚

一大変転期に位置する。

玄宗に関しての記事は、『新唐書』に、

玄宗至道大聖大明孝皇帝諱は隆基、睿宗の第三子なり。

母昭成皇后竇氏と日ふ。性英武

にして、騎射を善くし、

 

 

音律、暦象の學に通ず。

(下略)

考再立成椡孝台陏宗玄55 

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とあり、また

『旧唐書』に、

玄宗至道大聖大明孝皇帝諱は隆基、睿宗の第三子なり。

母昭成順聖皇后竇氏と日ふ。垂拱元年秋八月戊寅、東

都に生まる。性英斷にして多藝、尤も音律を知り、八

  

 

分書を善くす。

(下略)

とある。玄宗は、多芸であり、書は八分

(隷書)に秀でた

ことを特筆されている。唐室にあ

って、太宗

(五九六~六

四九)が王羲之の書を好み、古今帝王中に冠絶した健筆を

ふるったことは周知の事実である。そして、その後、歴代

の天子はみな書を好まれ、伝わる碑石類は多

い。その中で

玄宗は隷書に専精し、また行書をよくした。『宝刻類編』

 

 

 

に収められた玄宗

の碑石類は、三十三ある。最早その多く

  

 

みることは不可能だが、唐の諸帝王中では

一番多い。こ

のうち八分

(隷書)十五種、行書七種、他は書体不明であ

る。また、『金石萃編

・同補正』に収めてある玄宗の隷書

  

 

は、七種ある。これによ

っても

『旧唐書』(巻八本紀第

 ね

 

八)に

「八分書を善くす。」とあるのも納得できるであろ

う。玄宗得意の書体は、八分

(隷書)であ

ったことが伺え

る。

玄宗の隷書と行書

玄宗は何故、八分

(隷書)を好んだのであろうか。今日

では知るべくもないが、楷書全盛の当時、かくも多く隷書

碑を書いたのは、単純に

「玄宗は隷書が得意だ

った。」と

看過できま

い。北宋の

『宣和書譜』

に、

なら

初め翰苑の書體の世習に狃ふを見て、鋭意、章草

.八

はいだつ

 お 

分を作り、途に舊學を擺脱す。

とあるから、開元

・天宝当時、世間

に流行していた院体風

の俗流にあきたらず、努力して章草

(隷書の早書き)

.八

(隷書)を書き、沈滞していた伝統から抜き出ようとし

たとも察せられる。また同じく、『宣和書譜』に、

えん

唐の開元の年、時主厭然、隸字傳はらざれば、以て後

學に矜式する無きを知り、乃ち詔して

『字統』四十卷

を作り、專ら隸書を明らかにす。是に於て間ま人を得、

以て其の求に應ず、韓擇木の徒

の如き是なり。然らば

  

 

則ち學の興廢は、其の時に繋か

るか。

として、時主

(玄宗)が後世の人に隷書の範式を示すため

『字統』を作らしめ、隷書を明らかにした記事がみえる。

他の隷書碑はともかく、「石台孝経」碑もまた、『字統』と

同じように隷書の範式を後世の人に示すべく建てられたと

解すことはできないであろうか。それも、「石台孝経」の

場合は、玄宗自らが努力して作

った隷書を示すことによ

『孝経』とともに自らの隷書を永く後世に垂範しようと

したといえよう。また実際、玄宗は隷書でも

って書の世界

65 

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に強い影響を与えたのである。

玄宗の行書について特筆すべきことがある。前出の

『宝

刻類編』でみたように、玄宗の書いたとされる碑石類には

確かに八分

(隷書)碑が多く、幾何かの行書碑がみられた。

しかし、今

『宣和書譜』にある、宋代の御府に所蔵されて

いた玄宗の書蹟をみると、意外にも隷書より行書で書かれ

 め

 

たも

の方

い。

團鬮固

「五王

」・「法

字」

・「喜

篇」

・「太

一字

」・

「賜趙宣王等勅」・「訪道勅」・「喜賓勅」・「賜李

含光勅」二

・「批答李含光表修斎」二

・「批答李含光表

謝賜」・「批答李含光表投璧」・「批答李含光表起居」・

「批答李含光表香信」・「批答李含光表謝修功徳」・「批

答張九齢謝知制誥表」・「批答楊励俗等表」・「批答裴耀

卿等雪篇表」・「批答裴耀卿等賀雨表」・「批答裴耀卿等

奏謝宣示聖旨」・「賜裴耀等詩」・「鶺鴒頌」・「送虚己赴

蜀川詩」・「春台望雑言」

玄宗の書蹟のうち

『宝刻類編』所収の書蹟は、碑石類で

ある。『宣和書譜』の方は、その成立が徽宗期の内府に収

蔵されていた書蹟の総目録と

いった性格から、記された書

蹟は

〈紙〉に書かれたものが多か

ったのではないかと想定

される。だとすると、碑石に刻された玄宗の書蹟には

〈隷

〉で書かれたものが多く、紙本の書蹟には

〈行書〉で書

かれたものが多か

ったのではないかということが指摘でき

よう。また書蹟の題目をみると、《詔

・勅》(みことのり。

天子の命令)・《批答》

(天子が臣下

の上奏文に対して可否

を書

いて答えること。また、その回答

の文書。)・《詩》と

いったも

のに、〈行書〉が使用され

ていることが指摘でき

る。詔

・勅

・批答は、それぞれ目下

の者に対しての文章で

あり、これに

〈行書〉が使用されている点は注目に値する。

思うに

〈行書〉が

〈隷書〉に比して、軽いものとみなされ

ていたことによるものであろう。玄宗は

〈隷書〉に対して、

一種の権威を認めていたのである。また、詩に行書が多か

ったのは、詩と

いう

一つの文体を表現するのに

〈行書〉が

適していると思

ったからであろう

か。なお、《批答》は、

「石台孝経」の批答も含め、総て

〈行書〉で書かれ、その

伝えられているものが特に多いことは、特筆すべきである。

玄宗は

〈隷書

〉と

〈行書〉を意識的

に使い分けていたので

ある。「石台孝経」の序と本文と注

〈隷書〉で書かれ、

批答が

〈行書

〉で書かれている理由もこれで納得できるの

ではないだろうか。

そして、

一般的に、唐代の正式書体は楷書だとされてい

るが、玄宗

の在位中は、行書

・八分

(隷書)

・章草

(隷書

の速書き)が時代の規準的書体とされていた点は、看過で

きないであろう。この点については、『宣和書譜』の粛宗

考再立成 経孝台陌宗玄57 

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(七

一i

二)

の項

で、

のよう

いる。

た明

に在

に当

て、

・八分

・章

の書

 め

以て、時の矜式と為す。

思うに、玄宗の好尚は、時代の書体をも

一変させ、盛唐を

象徴するかのごとき豊麗な唐隷を残したのである。行書に

ついては、歴代の唐の皇帝がよくしたのであるから、玄宗

のみを特別視する必要はないが、開元以後、ことに隷書碑

が多く現れているのは、前述のような玄宗の好尚と奨励に

よるところが大なのである。開元以後、韓択木

・蔡有鄰

梁昇卿

・史惟則

・盧蔵用

・田羲咥

・徐浩

・徐嬌之

・張廷珪

の能書家が唐隷を残したが、風尚をリードした玄宗

の作

品が、唐隷中も

っとも多く現存することは特筆すべきこと

である。

「石台孝経」碑の形状とその書

前項で玄宗の書蹟に

〈隷書

〉と

〈行書〉が多く、玄宗が

これらを使

いわけていたことを述べた。「石台孝経」は、

この双方をみることが可能な碑である。以下、便宜上形状

を示す。

「石台孝経」は、光沢ある黒大理石の三角柱を四つ合し

いる。高さは三

・七メートル、幅は

一・二四メートル。

(碑

の字面の縦三メートル、横

一・ニメートル。)方柱状

の本身の下に、約

一・五メートルの三層からなる石台があ

る。石台にはそれぞれ唐代流行の蔓草と瑞獣が陽刻されて

いる。また、上部には巻雲紋を刻した方形の石蓋を載せて

いる。石台から石蓋までをあわせると、高さ五メートル余

に及ぶ巨碑である。石質は頗る良く、文字の刻も精巧であ

る。早くから碑亭内にあ

ったため、欠けた文字も十字余と

少な

い。碑

の上部に篆額がある。「大唐開元天宝聖文神武

皇帝注孝経台」と書かれ、四行、行四字からなる。皇太子

の亨

(粛宗)の筆になるものである。この篆額は、碑の第

一面の上に掲げてあるが、第二面

・第三面

・第四面の上に

も同面積で、文字を刻して無い部分がある。以下、「石台

孝経」にどのように文字が刻されているかを記す。なお、

これには、書跡名品叢刊

『玄宗

・石台孝経

(上)』二玄社

発行

の全拓写真を参考にした。

「石台孝経」は、四面環刻で、書かれた文字は第

一面の

首行に、「孝経序」と入れ、序との間には

「御製序拝注及

皇太子臣亨奉

勅題額」と楷書

で書かれた

一行がある。

ハレ

 

序文は、第三行めから十行めまで八行におさめ、十

一行め

「孝経

開宗明義章第

一」から本文に入る。本文は、行

五十五字、注は双行で、小字に書かれている。

一行を注の

小字になおすと、行

=

○字の割で刻されている。第

一面

.

第二面

・第三面とも十八行である。第四面は、七行で本文

 

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は終わる。後半は上下に分け、上部に当時、銀青光禄大夫

 

 

国子祭酒であ

った、李斉古の真行書の上表文が小字九行三

〇〇余字刻され、そのあと玄宗の批答

(行書)三行三十八

が刻されている。下段には、李林甫以下、四十五人の名

が四段に刻されている。これはこの碑の建碑

に参画した

々と思われる。

なお、唐に始まる避諱欠筆を

「石台孝経」もしている。

  

 

これについて塚田康信氏は、

経文注文において

「民」

・「治」の両字は太宗李世民、

高宗太子治の名にいみて、すべて末画が欠いてある。

 

 

れ、

西

一氏

の唐

て、

(高

)

・世

(太

)

・治

(高

)

・顯

(中

)

る。

・治

(中

)

「祇

「泯

の欠

によ

であ

る。

の調

では

く淵

V・〈世

〉・

〈民

〉・〈治

〉・〈泯

つい

てそ

一画

 

 

いる

、〈顯

〉に

いて

、〈顯

〉と

ってお

の二画が欠筆されている。これは、中宗に対する敬意

の強

い表われと解することはできないであろうか。

石 台(筆 者撮影 第一面右下最上段 の瑞獣)

159玄 宗 厂石台孝経」成立再考

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160

(石台孝経

一面)

(石台孝経

第二面)

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(石台孝経

第三面)

(石台孝経

第四面)

〔筆者撮影

西安

・碑林にて〕

161玄 宗 「石台孝経」成立再考

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建碑の理由について

玄宗は何故、大学の前に

「石台孝経」を建てたのであろ

うか。これまでの考察ですでに、「石台孝経」は玄宗自ら

が努力して作

った隷書を示すことによ

って

『孝経』と共に

自ら

の隷書を永く後世に垂範しようとしたとの

一理由を得

た。しかし、これだけが建碑の理由だとは考え難

い。以下、

建碑

の理由について考察を深めたい。

「石台孝経」の第四面に、李斉古

の上表文に対して玄宗

の批答がある。

みつか

孝は徳の本、教の由りて生ずる所なり。故に親自ら訓

注し、將來に垂範す。今石臺巧を畢り、亦卿

の善き職

よみ

 お

 

なり。進むる所の本を覽て、深く用心を嘉す。

これによれば、「孝は、あらゆる道徳

の根本であり、教化

の生じる根源である。だから、自ら訓注をほどこし、将来

に模範を示す。」という理由がわかる。「石台孝経」碑は、

『孝経』をもって、将来に垂範せんがために建てられたこ

でき

る。

で便

『孝

ふれ

てお

い。

「孝

の字

『説

に、

(孝

)

に事

の省

 お

 

ふ。子は老を承くなり。(『説文解字注附索引』)

る。

「老

の省

「子

(汚

)

さえ

いる

さま

より

・親

いて

つく

す意

。」

いる

「経

『説

ハふ

 

(經

)

の從

。糸

に从

ひ璽

の聲

「た

いと

「璽

(機

て糸

った

)」

であ

、ま

「つね

「い

つも

い道

って、

一氏

の示

に善

る孝

こそ

・地

・人

一貫

不変

の法

であ

の秩

であ

の当

で あ

あることを示唆して

『孝経』と名づけたものであろう。

ということが納得できる。

『孝経』は戦国の世に曽子学派の手によって成立し、幾

の変遷を

へて、今日に伝わ

っている。ここで中国におけ

『孝経』の伝来を図式化したも

のを示し、特に

「石台孝

経」に直接関係する天宝重注についてはその成立過程を述

べたい。

26 

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 あ

 

〔中国における

『孝経』の伝来〕

讌繕轤釀

図のように

『今文孝経』には鄭玄の注があり、『古文孝

経』には孔安国の伝があ

った。そして唐代にな

って、孔

二注の是非論が次第に激化した。玄宗はこれを憂慮し、

開元七年

(七

一九)三月に詔して諸儒を集め、孔伝と鄭注

の是非を質さしめた。しかし、是非は容易に決することが

できなかった。そこで玄宗は詔を下して両注をしばらく並

び行なわせた。次

いで、開元十年

(七二二)六月、玄宗は

ら今文孝経を主として広く孔安国

・鄭玄

・韋昭ら、諸家

の注

の長所を採

って御注

一巻を作り、元行冲に命じてその

疏を作成させ、これを天下に頒布したのである。これが

〈開元始注

〉である。『唐会要』には、

 れ

 

開元十年六月二日上孝經に注し、天下及び國子學に頒

とある。ついで、天宝二年

(七四三)に、玄宗は重ねて

『孝経』に注し、天宝三年

(七四四)には天下に命じてこ

の重注を家ごとにおさめさせた。『唐会要』には、

天寶二年五月二十二日に至りて、上重注し、亦天地に

 お

 

『新

は、

二月

に、

 み

 

天下に詔して

『孝經』を家藏せしむ。

とある。そして、天宝四年九月に、八分

(隷書)の書体で、

〈天宝重注〉を書し、これを石に刻して長安の大学の前に

建てさせた。これが

「石台孝経」な

のである。

中国において、古くから孝治思想があったのは周知のこ

とである。天子自らが孝道を実践し、万民に良

い模範を示

すことが国を治める要と考えられて来たのである。だから

中国歴代の天子は孝道奨励を政治の第

一要諦とし、あらゆ

る経書

の中でも

『孝経』の講習を勧

めた。言わば、『孝

経』は孝治思想の頂点にたつものな

のである。桑原隲蔵氏

『中国の孝道』で、次のように述べておられる。

ヤつじ

『孝

に限

ってか

(何

度も

て)

に、

加え

ゆえ

っき

ょう

 ね

 

孝治の主意を、臣民に宣諭するために外ならぬ。

「石台孝経」の場合は、玄宗自らの注解だけでなく、序も

附し

(開元始注に施した元行冲の序を刪り、天宝重注に属

する

「石台孝経」では玄宗の

「孝経序」を以て之にかえて

考再立成椡孝台陏宗玄63 

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いる。)、自らの隷書で書き、巨碑に刻させ、それを長安の

大学に建てている。孝治の主意を、臣民に宣諭する以外の

でも

い。

「石

は、

、孝

の要として長安

の大学の前に建てられた碑なのである。な

お、玄宗の政治に対する基本的姿勢において、〈仏教〉

〈道教〉に対する意識も、鎮護国家と

いう政治的意図を多

に含んでいた点から考えても、「石台孝経」成立にあた

り、〈孝治

〉を意図したことは明らかである。

尤も、印刷術の無い時代のことである。だから、石経同

様、諸人の来観に供して経書の正しい本文を示すとともに、

『字統』のように依拠すべき文字

(『石台孝経』の場合は、

玄宗自慢の隷書)を明らかにし、その時代の人の準則とし、

永く後世に伝えんとしたとの見方もできるであろう。また

際そういった利点と計算はあ

ったと思う。しかし、『石

孝経』の場合、建碑に際しての最大の意識は、やはり

〈孝治思想

〉の上にあ

ったとみるのが妥当である。

 

 

 

 

 

玄宗には

「石台孝経」を建て、〈孝治〉をせざるを得ぬ

理由があ

ったのではないだろうか。「石台孝経」碑の成立

(七四五年九月)と、楊貴妃の入内

(七四五年八月十九

日)とがほぼ同期である点から考察してみよう。ここに、

  

 

那波利貞氏作、楊貴妃に関する略年譜を示す。

㎜開元七年

楊氏

一歳

玄宗卅五歳

此年六月

一日楊環

生る。

窺開元廿三年

楊氏十七歳

玄宗五十

一歳

此年十二月

壽王の正妃に冊立せらる。

窺開元廿四年

楊氏十八歳

玄宗

五十二歳

此年十

一月

武惠妃薨去す。

踟開元廿八年

楊氏廿二歳

玄宗

五十六歳

此年十月勅

命にて女道士に度し太真の名を賜ふ。

㍑天宝四載

楊氏廿七歳

玄宗六十

一歳

此年八月十九

日入内貴妃とせらる。

閥天宝五載

楊氏廿八歳

玄宗六十二歳

此年七月六日

朝楊銛の家に帰り其の夜再び入内す。

㎜天宝九載

楊氏卅二歳

玄宗六十六歳

此年二月復た

私第に帰り次で入内す。

騰天宝十四載

楊氏卅七歳

玄宗七十

一歳

此年六月

日楊環の生日を華清宮に祝し茘枝香の曲成る。

襴天宝十五載

楊氏卅八歳

玄宗七十二歳

此年六月十

四日馬嵬の仏院にて縊死す。

(年号上の算用数字は筆者が附した西暦である。)

この表と、前述した

「石台孝経」

の成立過程を重ねると、

〈楊貴妃の入内〉と、〈「石台孝経」

の成立〉とは無関係で

ないことは歴然とする。寿王の正妃

にして人の妻である楊

環を入内させるのは、玄宗と

いえども躊躇を余儀なくされ

 

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たのではな

いだろうか。開元廿八年

(七四〇)の

「勅命で

女道士に度し、太真の名を賜ふ。」

1

このことは、入内

での五年間は形式上、楊環は寿王妃であ

ったことを意味

るが、将来、楊環を入内しようと

いう下心があ

ってのこ

であろう。玄宗はひとまず楊環を道教の尼にし、太真と

いう法号をあたえ、太真宮にすまわせた。

つまり、彼女の

自由意志で夫の寿王と離婚したと

いう形式をとらせたので

ある。

開元始注

(七二二年成立)は、確かに純粋な意味

で、

〈孝治〉の

一翼であ

ったと思う。しかし、「石台孝経」

建碑も含め、〈天宝重注〉には、《楊貴妃入内のための政治

的意図》が多く働

いていたのではないだろうか。

開元始注に施した元行冲の序を刪り、天宝重注に属する

「石台孝経」では玄宗自らの

「孝経序」を以て之にかえて

いるのも、「石台孝経」碑に

一種の権威を与えるためであ

り、そうす

ることによ

って

〈孝治

〉をしている自分

(玄

宗)を世にアピールし、楊貴妃入内に備えようとしたとみ

れるであろう。これによ

っても

《楊貴妃入内

のための政治

的意図》が

〈天宝重注〉に、特に

「石台孝経」に働

いてい

たことは明白である。その他、天宝三年

(七四四)にも、

「天下に詔して孝経を家蔵せしむ。」(『新唐書』本紀第五

玄宗)とあり、これにも

《楊貴妃入内のための政治的意

図》が読み取れよう。

また、楊貴妃の入内は、天宝四年

(七四五)八月十九日

である。その前月の七月二十六日に、玄宗は寿王に対し、

 お

 

韋氏を妃に冊立している。

つまり、寿王を慰めたのである。

これによって、この時期に、《楊貴妃入内のための政治的

ムリ

意図》が基本的に玄宗にあ

ったことがわかる。思うに、韋

氏の冊立は、寿王に対しての政治的行為であり、「石台孝

経」

の建碑は、政治的行為として、寿王に対しても、臣民

に対しても都合が良か

った

のであ

ろう。中国は古来

〈廃

〉の行なわれた国である。その国

で、天子がとる政治は、

〈孝治〉が理想とされたのである。〈孝治〉をしなければ、

〈廃立

〉が待

っていたのである。

「石台孝経」の疑義に

ついて

ここで言う疑義は、〔はたして玄

宗自

らが筆をと

って

「石台孝経」を書いたのだろうか。〕と

いうことである。

この問題は、「石台孝経」の成立に関連してぜひともここ

でふれておきたい。

先人の著録では、序

・本文

・注

・批答、ともに玄宗皇帝

の自筆としており、この疑義は述べられていな

い。ただ、

伏見冲敬氏は、『西安碑林』(西川寧

氏編

・講談社)の解題

で、

考再立成緻孝台陏宗玄65 

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この孝經の本文と注とは、古くから玄宗

「御書」と

いわれているが、実際に皇帝自身が筆をとって全文書

いたかどうか疑問である。李斉古の上表にも

「義展睿

詞。書題御翰」とあるが、これは、本文が皇帝の著作

であり、題字が皇太子の筆であるというのであろう。

最後の批答は玄宗の宸翰であろうが、これと本文とは

用筆の特徴がちがうように思う。西川博士も異筆説で

あることをうかが

った。

と述べ、疑問とされている。筆者も、第

一面、第二面と全

臨したが、確かに批答の文字と本文

(序も含めて伏見氏は

本文とされているのであろう。)とは用筆もバランスのと

り方も異な

っているように思う。しかし、本文と批答とは、

〈隷書と行書〉、〈小字と大字〉といった点を考えてみれば、

用筆やバランスのとり方が異な

っても不思議はないのでは

いだろうか。伏見氏

・西川氏の

「異筆説」なるものが、

ただ単に本文と批答の用筆のちがいを説くものなのか、そ

れとも前からの下りをうけて、実際に皇帝自身が筆をと

て全文書いたかどうかを説くものなのか理解しがたい。も

しも、皇帝自身が筆をと

って全文書

いたかどうかの

「異筆

説」の理由として本文と批答との用筆

の相違をあげておら

れるのなら、それは少し、おかしく思う。

筆者は伏見氏が指摘された点以外に、疑義をはさむ余地

があると思う。

一に、玄宗の性格好尚の

一大変転期に

「石台孝経」碑

が位置する点から。すなわち、天宝四年

(七四五)九月に

「石台孝経」は成立し、楊貴妃の入内が同年

の八月十九日

であり、精神的に儒教的精神が薄れ、道教的精神に移り

つある時期に、何千字もある隷書を自身ですべて書く気力

があったであろうかと

いう点から。

第二に、「石台孝経」を書いたと思

われる時間的問題か

ら。林秀

一氏が

『孝経学論集』の中

で、天宝重注の

「孝経

序」に関して行なわれた考証で、

天宝重注

に附する玄宗

「孝経

序」は、天宝四年

 お

 

「石台孝経」に至

って始めて製作せられたこと。

という結論が出ており、これが正し

いならば、時間的問題

から先に掲げた疑義はますます深ま

る。碑

の中心となる

〈天宝重注〉が成立するのは、天宝二年

(七四三)五月二

十二日である。また、「孝経序」が作られた

のが、林氏の

説に従えば、天宝四年に

「石台孝経」が建てられるに際し

てである。いま、石碑をみると、明らかに罫を引き、文字

のわりふりを考えて刻されている。もし、玄宗が序

・本文・

・批答すべてを自ら書

いたのなら、天宝二年五月二十二

日から天宝四年九月という二年余の期間に、他の政治に意

を注ぎながら、序を考え、序と本文

と注と批答とを書き、

66 

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そして刻させることをしなくてはならない。そしてこの間、

『新唐書』(巻五

・本紀第五

・玄宗)には玄宗は三度にわ

みゆき

って温泉宮に幸していると

いう記載がある。はたして先

のことが可能であろうか。それも精神的に儒教的精神が薄

れ、道教的精神に移り

つつある時期に。しかも、楊貴妃を

入内させんとして、入内させた時期に。

以上のことから、玄宗が、序と本文と注と批答とを総て

ら書いたとすることは、疑義を差しはさむ余地があると

思う。この問題を解決するには、筆跡を細密に調べ、天宝

二年~天宝四年あたりを中心にさらに詳しく調査し、玄宗

の代行をする可能性のある当時

の隷書と行書の名士につい

ても調査し、検討する必要があろう。また、現在

『字統』

(玄宗が後世の人に隷書の範式を示すために作らせたもの。

四十巻。)は、伝わ

っていな

いが、『字統』に玄宗の隷書も

あわせてとられていたとすれば、集字

の技法により碑を製

作したことも考えられよう。今後

の課題としたい。

本稿は、「石台孝経」成立

一斑について、建碑

の理由

を中心として卑見を述べてきた。以下、判明した事項をま

める。

一、「石台孝経」の成立は、楊貴妃入内とほぼ同期であ

て、玄宗の性格好尚の

一大変転期

に位置すること。

二、玄宗は

〈隷書

〉に専精し

〈行書

〉をよくしたこと。

三、「石台孝経」

の序と本文と注が

〈隷書〉で書かれ、批

答が

〈行書〉で書かれている理由

に、玄宗は

〈隷書〉と

〈行書〉を意識的に使い分けていたことがあげられるこ

と。

四、「石台孝経」は玄宗自らが努力して作

った隷書を示す

ことによ

って、『孝経』とともに自らの隷書を永く後世

に垂範しようとした碑とも考えられること。

五、「石台孝経」建碑

に際しての最

大の意識は、〈孝治思

想〉の上にあ

ったこと。

六、玄宗には、開元始注に施した元行冲の序を刪り、天宝

重注に属する

「石台孝経」に自ら

「孝経序」を入れ、

「石台孝経」碑に

一種の権威を与えて

〈孝治〉している

自分を世にアピールする必要性があ

った。いいかえれば、

「石台孝経」

の成立には、《楊貴妃入内

のための政治的

意図》が働

いていたこと。

七、「石台孝経」の成立には、玄宗自筆か他筆かの疑義が

あり、序

・本文

・注

・批答についての細密な調査など、

今後の検討が必要であること。

中国歴代の天子は、孝道奨励を政治の第

一要諦とした。

玄宗

「石台孝経」建碑の理由も、おおすじに於いて

く孝

考再立成緻孝台陏宗玄67H

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の上

った

し、

「石

、玄

の性

一大

《楊

のた

の政

いた

でき

い。

注(1)西安碑林に関する主な調査

・研究には次

のも

のがある。

「西安府文廟と碑林に於ける古碑」

(『書道全

集』第入巻所収

S

5

・2

・20発行

平凡社

関野貞氏)

『長安史蹟

の研究』

(東洋文

庫論

二十

一・二所

足立喜

六氏)

「西安碑林訪碑記」

(『書苑』第七号所収

心書房

結城令聞

氏)

『西安碑林』

(西川寧氏編

講談社)

「西安碑林

の研究」

(『福岡教育大学紀

要』第二十号

田康

氏)なお近年、同氏

『西安碑林

の研究』あり。

(2)

一九

一年三月

二十

六日、筆者

が訪れ

た際も、大成

殿後方

の庭

の正面

に、「碑林」と金字

で書

いた額

を掲げ

た碑亭

の中央

に、北面し

て据えられ

ていた。碑面は、拓本を

問にし

てガ

ラス

で覆

ってあ

った。

(3)楊貴妃

入内

の経緯

『唐

書』巻七

十六、后妃伝

上、楊貴

の条

に詳し

い。

(4)

『唐代社会文化史研究』

一六七頁創文社

(5)

『唐代社会文化史研究』

一七六頁創文社

(6)李斉古

の上表文

に、「天寶四載九月

一日」とあ

る。書跡名

叢刊

『唐

・玄宗

石台孝経』

(下)参照。

(7)

『新唐書』巻五、本紀第五、玄宗

玄宗至道大聖大明孝皇帝諱隆基、睿宗第

三子也。母日昭成皇

竇氏。性英武、善騎射、通音律、暦象之學。

(8)

『旧唐書』巻

八、本紀第

八、玄宗上

玄宗至道大聖大明孝皇帝諱隆基、睿宗

第三子也。母

日昭成

順聖

皇后竇氏。垂拱元年秋

八月戊

寅、生於東都。性英断多

藝、尤知

音律、善

八分書。

(9)

『石刻史料新編』

二四所収

『宝刻類編』巻

一・四参照。

(10)唐室中

ついで多くをあげ

るのは高宗

の八種

であ

る。

(11)

「王

皎碑」、「華

銘」

・「涼

国長

主碑」

・「郎国

碑」

・「紀太山銘」

・「慶唐観紀聖銘」

・「石台孝経」。

(12)本稿

(8)参照。

(13)

『中

国書論大系』第

五巻

二玄社

所収

『宣和書譜』

初見翰苑書體狃於

世習

、鏡意作章草

・八分、邃擺脱舊學。

(14)

『中

国書論大系』第

五巻

二玄社

所収

『宣和書譜』

開元年、時主厭然、知隸字不傳、無

以矜式後學、乃詔作

字統

四十卷

、專

明隸書

。於

是間得人、以應

其求。如韓擇木之徒

是矣。

則學之

興廢、繋其時哉。

(15)本稿

(13)

(14)

の出典参照。

(底本汲古閣本)

(16)『中

国書論大系』第

五巻

二玄社

所収

『宣和書譜』

又當

明皇在御、以行書

八分章草書、爲時矜式。

(17)書

跡名

品叢刊

『唐

・玄

・石台

孝経』

(上)

(二玄社)

の西

一氏

の解説

「七行」とあ

るが、

「八行」が正

しい。

(18)刻

石が完成

した時、打本を上

下二巻とし

て奉

った

ことを

べて

いる。本稿

(6)参

照。

(19)『福

岡教育大学紀要』

二四所収

「石台孝経碑

の研究」

(20)書

跡名

品叢

『唐

・玄

・石台

経』

(上)

(二玄社

)の西

林昭

一氏

の解説参

照。

 6 

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(21)

石碑第

一面、第十

四行

にあ

る。

(22)孝者徳之本、教之所由生也。故親自訓注、垂範將來。

石臺畢功

、亦卿之善職。覽所進本、深嘉用心。

(23)鬆

(孝)善事

母者

。从

省、从子。子

承老

也。

(『説文

字注』)

(24)經

(經)、織從絲也。从糸璽聲。

(同前掲書)

(25)

『孝経』林秀

一氏

・明徳出版社

九頁

(26)

『孝経』林秀

一氏

・明徳出版社

二〇頁

(27)

『唐会要』中

五八頁

世界書局

元十年六月

二日上注孝經、頒

于天

下及國子學。

(28)

『唐会要』中

五八頁

世界書局

天寶

二年五月

二十

日、上重注、亦頒于天地。

(29)

『新唐書』巻

五、本紀第

五、玄宗

天下家藏孝經。

(30)

『中国

の孝道』桑原隲蔵氏

講談社

一頁

(31)

『唐代社会文化史研究』那波利貞氏

創文社

一七四頁

(32)

『全唐文』巻三十八所収

「册壽王韋妃文」参照。

(33)

『孝経学論集』所収

「御注孝経序

に関する疑惑」林秀

一氏

明治書院

一六三頁

○本稿

は、〈玄宗

「石台

孝経」成立

-

建碑

の理由

を中

心と

i

>(「國學院大

學漢文学会会

報」第

32輯所収)をもと

に、

加筆訂正したも

のである。

玄宗 「石台孝経」成立再考169