『伊藤熹朔 舞台美術の巨人』38 journal of japan association of lighting engineers &...

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38 Journal of Japan Association of Lighting Engineers & Designers 『伊藤熹朔 舞台美術の巨人』 脚本家  荒井 修子 序章で、現日本舞台美術家協会の理 事長、堀尾幸雄がお言葉を寄せてい る。(以下、敬称は略させていただきま す) 「早い話『舞台美術家とは=伊藤熹 朔だ』と言っても過言ではない」と。 この本は、俳優座劇場が2014年に 創立60周年を迎え、その創設者・伊 藤熹朔の業績や個人の背景、考えなど を 1 冊にまとめた著作だ。「伊藤熹朔」 と言えば、舞台関係者の方々には説明 不要の人物であり、舞台美術、映画、 テレビなどの舞台美術家として、あら ゆる作品を手掛けて来られた先駆者 と言うべき方であるが、この本には、 業績のみならず、生い立ちからその哲 学に至るまで、かなり詳細な記述があ る。 この本を読んでいると、伊藤熹朔が 歩んだ道は、日本の大正、昭和期にお ける舞台芸術の歩み、そのものである ということがわかる。恥ずかしなが ら、私も、その偉大な功績のほんの一 端を知るに留まり、その人となり、考 え方などを深く存じてはいなかった。 この本で新たに知ったことは、まず、 伊藤熹朔が芸術界の「華麗なる一族」 であることだ。 彼は、1899 年 8 月1 日、東京・神田で、 伊藤為吉の息子として生まれた。 為吉は、アメリカに渡って建築を学 び、初代銀座服部時計店などを作った 著名な建築家である。兄に舞踊家の伊 藤道郎、弟に演出家・千田是也(本名・ 伊藤圀夫)がおり、ほかの兄弟たち、 親戚たちの多くが芸術家である。 子供の頃から弟である後の千田是 也と父の建築図面や建築模型、野外の パノラマを真似して遊んでおり、13 歳 のときにはすでに、兄、道郎らが創立 した演劇集団「とりで社」の第 1 回試 演で小道具の燭台を作り、舞台美術と 出会っていた。 その後、青山学院中等科から東京美 術学校西洋画科に進み、その後は、小 山内薫らと築地小劇場を興した土方 与志が、築地小劇場を始める前に行っ ていた土方模型舞台研究所に参加し、 舞台美術助手となってから、本格的な キャリアをスタートさせる。 舞台装置家としてのメジャーデ ビューは、1925 年 1 月の築地小劇場公 演第 19 回公演『ジュリアス・シーザー』 だった。 裕福な家庭の子息として何不自由 なく過ごしてきたかと思うが、そうで はない。 1923年には関東大震災があり、築 地小劇場はそれを機に建設されたと いう経緯からしても、伊藤熹朔の若手 時代は世間の動乱期であった。また、 裕福な家庭ではあったとはいえ、父・ 為吉の人生は、浮き沈みが激しく、家 族は常に翻弄されたという。 しかし、そんな中でも、伊藤熹朔は、 新劇、歌舞伎、新国劇、新派、商業演劇、 オペラ、ミュージカル、日本舞踊、バ レエ、ダンス、人形芝居と、大小を問 わず、あらゆるジャンルの作品を果て しない数、デザインした。 1954 年 4月に俳優座劇場が開場し、 伊藤熹朔は代表取締役会長の久保田 万太郎に次ぐ、代表取締役社長に就 任。劇作家・菊田一夫が、時に書き悩 んでいると、熹朔が先に舞台を作っ て、それを見て書いたと語ったほど信 頼されていたという。 脚本の理解に長け、劇作家が心から 信頼する舞台美術家、それが伊藤熹朔 であった。 しかし、著名な作家から信頼をされ、 舞台美術の第一人者でありながら、こ の本に掲載された遺稿からは、舞台作 りに対する真摯で謙虚な姿勢が多く 見受けられる。 中でも、舞台美術が演劇の中で独自 な価値を主張したいと考えて、舞台美 術だけが拍手喝采を得ようとするこ とを「無駄な努力」と一蹴している。 「舞台装置は演劇という総合芸術の 一つの部分(中略)劇作家の心を、俳 優の心を自分の心としなければ舞台 装置の仕事はできない」と書いてい る。「画家であってはいけない、舞台 装置家になれ」とも。卓越した能力が ありながら、周囲と調和することこそ が作品を最良のものにするという考 え方ができること。伊藤熹朔が、周囲 から第一人者と言われ、ともすると傲 編集:俳優座劇場 出版社:NHK出版 定価:本体2,100円+税 ISBN:978-4-14-009355-9

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Page 1: 『伊藤熹朔 舞台美術の巨人』38 Journal of Japan Association of Lighting Engineers & Designers 『伊藤熹朔 舞台美術の巨人』 脚本家 荒井 修子 序章で、現日本舞台美術家協会の理

38 Journal of Japan Association of Lighting Engineers & Designers

『伊藤熹朔 舞台美術の巨人』

脚本家 荒井 修子

 序章で、現日本舞台美術家協会の理事長、堀尾幸雄がお言葉を寄せている。(以下、敬称は略させていただきます) 「早い話『舞台美術家とは=伊藤熹朔だ』と言っても過言ではない」と。 この本は、俳優座劇場が2014年に創立60周年を迎え、その創設者・伊藤熹朔の業績や個人の背景、考えなどを1冊にまとめた著作だ。「伊藤熹朔」と言えば、舞台関係者の方々には説明不要の人物であり、舞台美術、映画、テレビなどの舞台美術家として、あらゆる作品を手掛けて来られた先駆者と言うべき方であるが、この本には、業績のみならず、生い立ちからその哲学に至るまで、かなり詳細な記述がある。 この本を読んでいると、伊藤熹朔が歩んだ道は、日本の大正、昭和期における舞台芸術の歩み、そのものであるということがわかる。恥ずかしながら、私も、その偉大な功績のほんの一端を知るに留まり、その人となり、考え方などを深く存じてはいなかった。この本で新たに知ったことは、まず、伊藤熹朔が芸術界の「華麗なる一族」であることだ。 彼は、1899年8月1日、東京・神田で、伊藤為吉の息子として生まれた。 為吉は、アメリカに渡って建築を学び、初代銀座服部時計店などを作った著名な建築家である。兄に舞踊家の伊

藤道郎、弟に演出家・千田是也(本名・伊藤圀夫)がおり、ほかの兄弟たち、親戚たちの多くが芸術家である。 子供の頃から弟である後の千田是也と父の建築図面や建築模型、野外のパノラマを真似して遊んでおり、13歳のときにはすでに、兄、道郎らが創立した演劇集団「とりで社」の第1回試演で小道具の燭台を作り、舞台美術と出会っていた。 その後、青山学院中等科から東京美術学校西洋画科に進み、その後は、小山内薫らと築地小劇場を興した土方与志が、築地小劇場を始める前に行っていた土方模型舞台研究所に参加し、舞台美術助手となってから、本格的なキャリアをスタートさせる。 舞台装置家としてのメジャーデビューは、1925年1月の築地小劇場公演第19回公演『ジュリアス・シーザー』だった。 裕福な家庭の子息として何不自由なく過ごしてきたかと思うが、そうではない。 1923年には関東大震災があり、築地小劇場はそれを機に建設されたという経緯からしても、伊藤熹朔の若手時代は世間の動乱期であった。また、裕福な家庭ではあったとはいえ、父・為吉の人生は、浮き沈みが激しく、家族は常に翻弄されたという。 しかし、そんな中でも、伊藤熹朔は、新劇、歌舞伎、新国劇、新派、商業演劇、

オペラ、ミュージカル、日本舞踊、バレエ、ダンス、人形芝居と、大小を問わず、あらゆるジャンルの作品を果てしない数、デザインした。 1954年4月に俳優座劇場が開場し、伊藤熹朔は代表取締役会長の久保田万太郎に次ぐ、代表取締役社長に就任。劇作家・菊田一夫が、時に書き悩んでいると、熹朔が先に舞台を作って、それを見て書いたと語ったほど信頼されていたという。 脚本の理解に長け、劇作家が心から信頼する舞台美術家、それが伊藤熹朔であった。 しかし、著名な作家から信頼をされ、舞台美術の第一人者でありながら、この本に掲載された遺稿からは、舞台作りに対する真摯で謙虚な姿勢が多く見受けられる。 中でも、舞台美術が演劇の中で独自な価値を主張したいと考えて、舞台美術だけが拍手喝采を得ようとすることを「無駄な努力」と一蹴している。 「舞台装置は演劇という総合芸術の一つの部分(中略)劇作家の心を、俳優の心を自分の心としなければ舞台装置の仕事はできない」と書いている。「画家であってはいけない、舞台装置家になれ」とも。卓越した能力がありながら、周囲と調和することこそが作品を最良のものにするという考え方ができること。伊藤熹朔が、周囲から第一人者と言われ、ともすると傲

編集:俳優座劇場 出版社:NHK出版定価:本体2,100円+税 ISBN:978-4-14-009355-9

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慢になりかねない立場にありながら、真摯で謙虚な気持ちをもち続けられるということに、才能以上に彼の心の深さを感じる。文中には、「この世で決して怒らないという人は傑物に相違ない、それが彼だ」と伊藤熹朔を称した文章もある。 この本を読んでいると、才能というものは、強く正しい精神の中にこそ宿るのだと再認識させられる。彼が、自分が名をあげることばかりに執着する人柄であれば、どんなに才能があっても、総合芸術である舞台芸術の世界で大成されることはなかったのではないかと思う。 この本には、伊藤熹朔が経験した舞台美術に関する大切な事柄、細やかな注意点が、惜しみなく説明されている。舞台装置図が沢山掲載されていることで、かなり見やすく、舞台の詳細を知らずとも想像できるものになっている。「幕間時間を短くする方法」など、過去に書かれた短いコラムのようなものも挟まれており、楽しめる。 生前最後の構想ノートである1966年、現帝国劇場開場記念帝劇グランドロマン『風と共に去りぬ』などの装置図がカラーで掲載されていることも、この本の贅沢な点の一つだろう。また、『風と共に去りぬ』の装置図など多くの資料が入ったバッグが、新幹線の特急券を買っているわずか1分ほどの間に盗難にあったという話も面白かった。結局、バッグは戻ってきたそうだが、専門的な話以外にも、こういった当時のエピソードが添えられていることが、伊藤熹朔への親しみをより深いものにしてくれる。詳細なエピソードが満載なのは、やはり、この本を俳優座という身近な存在が編集しているからであろう。 彼の人柄が滲み出るようなエピソードに事欠かない。読み進めているうちに、会ったこともない伊藤熹朔という人が浮かび上がってくるように感じられる。 自分が手がけた数々の舞台におけ

る苦労話も多く語られているが、それ以上に印象深かったのは、舞台の裏方の人を紹介するくだりだ。 「縁の下の力持ちで一生終わってしまう人もいる」 そういった人の話はあまり知られることがないからと、詳細に紹介している。それも、すべての人の仕事を褒めている。その描写が細やかであることを見ても、伊藤熹朔が、どんなにその人々を愛し、尊敬し、信頼しているかがわかる。上辺を見て褒めているのではない、思いがそこに通っている。 さらには、仕事が舞台だけではなく、映画、テレビに及ぶので、「テレビは装置材料のストックを作れ」などの実用的なアドバイスも豊富だ。まだ、テレビも今のように確立されたものがない時代だったはずで、それは、彼が経験によって編み出したものだ。 彼は、その自分の蓄積を惜しみなく後進の舞台美術家に伝える。 この本の中にこんな一文がある。 「私は若い人達に、私の歩いた回り道を再び歩かせようとは思いたくない。私の知っていることは、若い人達に教えたい、そして、若い人達は、五年もかかれば私を卒業するだろう。(中略)この仕事はますます栄える事と思う。私は若い人々が私の仕事を踏み台として、より良き仕事をしてもらいたいと願っている。そして、これから若い人達と大いに張り合いたいという気持ちでいる」 こうした伊藤熹朔の人柄ゆえか、この本は、中盤、日本の元祖マルチタレントと言われる徳川夢声との対談、海外への旅行記を挟んで、その後は、同輩、後輩の舞台美術家、著名な舞台、映画、テレビの制作者、俳優、学者の方々の文が沢山寄せられている。 さまざまな分野の人々から尊敬され、慕われていたことが、ここからもわかる。 伊藤熹朔は、1967年3月31日に67歳で亡くなられた。その折りに里見弴葬儀委員長のもと、舞台、映画、テレ

ビなどの関係者が大勢集まり、盛大な演劇葬が行われたのだが、その後の惜別の思いを綴った言葉もこの本には綴られている。舞台美術家の金森馨は、「伊藤熹朔先生の舞台装置の概念とその世界。それは非の打ちどころがなく、“舞台の法律”ですらあった」と書いている。だが、その文章の最後には、師の打ち立てた至上の舞台装置の法律、モラルからの脱出を図らなければならないと述べている。 「師の後を追い、師を越えようとし、師亡き後の日本の舞台装置をさらに育て、師の作り上げたものを守ろうとすれば、時に師の教えに背くこともあるかもしれぬ事を、恩師・伊藤熹朔先生に今、頭を垂れて許しを乞うのである」と。 私は、この言葉こそ、「私は若い人々が私の仕事を踏み台として、より良き仕事をしてもらいたいと願っている」と言った彼への最高の惜別の言葉なのではないかと感じた。 あとがきの株式会社俳優座劇場元代表取締役・原恒雄の言葉にあったが、この本は、まさに、舞台美術にとどまらず、舞台、映画、テレビなどすべての創作に携わる人々への「道しるべ」である。我々が生きる現代よりも過酷な時代の中、舞台芸術という未開の荒野を開拓してきたフロンティア、伊藤熹朔の生き様は、私たちに、「舗装された道ばかりを行って満足していてはいけない」と、投げかけているように思える。伊藤熹朔ほどの偉大な存在も、常に模索を重ね、学び、一つ一つ前進していた。無駄を恐れず、大きく知の翼を広げることによってのみ、芸術の未来は拓ける。 時を越えてなお、伊藤熹朔の生き方は、そのことを私たちに教えてくれるのだ。