遊戯療法の本質 - 大阪経済法科大学 ·...

6
─ 11 ─ 遊戯療法の本質──現象学的事例研究 母子相互の心地よさの交換としての遊び 愛着とは、ある特定の他者との間に形成され る身体的かつ情愛的なきずなであり、人生早期 にかぎらず、生涯にわたっての人間の関係性に おいて重要な意味をもつことが知られている。 乳児が特定の対象(母親的人物)との間で織 りなす愛着関係には、授乳・抱っこ・おしめ替 えなどの身体的相互関係、笑顔の交換などの情 動的(感情的)相互関係、音声のやりとりなど の言語的相互関係があり、人が人格を形成して いくうえで大切な関係性の基が含まれている。 母親的人物と乳児との間で行われる感覚の共 有、情動の共有、言語の共有は、子どもが成長 し他者との関係を築き、孤独を受け入れ、社会 共同体の中で規範を守りながら生活していくう えで重要な基盤となる。 フロイトは、乳児期の母子相互の愛着関係を 性愛的活動として捉え、次のような文章を残し ている。「明らかなのは、子どもが指しゃぶり に耽るという行動がかつて体験し、今蘇ってい る、ある快感の追求によって決定づけられてい ることである。ごく単純な場合には、子どもは 皮膚の粘膜のどこかをリズミカルに吸うことに よって、この満足を見出している。子どもが、 今、再び取り戻そうと努めるこの快感が、いつ 初めて体験されたのか、これも容易に推測でき る。最初の、そしてもっとも生命的な活動、す なわち母親の乳房ないしその代理物を吸った体 験が、子どもをこの快楽に親しませたにちがい ない。子どもの口唇は、我々の観点からいえ ば、性感帯のように働き、流れ入る温かな母乳 のもたらす刺激は、疑いもなく、快楽に満ちた 感覚の源となる。性感帯の満足は、最初の段階 では、栄養の充たされる満足と連合している。 性愛的な活動は、自己保存を目的とする機能に 密着しており、後になって、それから独立して いくのである」(『フロイト著作集:性欲論三 篇』人文書院) 滝川一廣は、フロイトのこの性愛的相互交 流について「この<性愛>的相互交流とそこ に得られる心的(感情的)ないし身体的(感 覚的)な充足への、子どもの側からの能動的な 強い志向性を、フロイトは『幼児性欲infantile sexuality』と呼んだと考えればよいと思う。 成人男女の<性愛>的な交流と、大人と子ども の、一般的には親子の交流のあり方には、どこ かとても似たところがある。フロイトは、ここ で、<性愛>的な心の動きは『成人』だけのもの ではなく『幼児』にすでにそれはある、という より、こちらの方が出発点なのだと強調したの である」と述べている(『家庭のなかの子ども学 校のなかの子ども』岩波書店)。 新生児は、すでに自らの五感でもって母親を 認識することが知られている(山本高治郎『母 乳』岩波新書)。 乳児が反射的に口にする母親のおっぱいは温 かく美味しい。母親のおっぱいを飲んでいる 時、乳児は母親の温もりを感じつつ、母親の匂 いに包まれ、母胎内で慣れ親しんだ鼓動を体感 しながら、母親の心地よい声のひびきを耳に、 その胸に抱かれる。このように授乳ひとつとっ てみても、乳児は母親を心地よい安心できる対 象として、体全体の知覚を通して認識している のである。一方、母親はやわらかで温かな乳児 を抱きながら、その愛くるしい視線とコミュニ ケートしつつ、乳児の声を聴き、甘酸っぱい匂 いを嗅ぎながら、小さな口で乳頭を吸ってもら う快感に浸る。このように、母親も乳児を愛着 の対象として、体全体の知覚によって認識する のである。母親と乳児は、このようにお互いの 遊戯療法本質 ──現象学的事例研究 愛甲修子

Upload: others

Post on 14-Aug-2020

2 views

Category:

Documents


1 download

TRANSCRIPT

Page 1: 遊戯療法の本質 - 大阪経済法科大学 · 遊戯療法の本質──現象学的事例研究 と、火遊び(放火)、金銭せびり(恐喝)、金銭 持ち出し(盗み)などの問題行動が目立ったこ

─ 11 ─

遊戯療法の本質──現象学的事例研究

母子相互の心地よさの交換としての遊び

愛着とは、ある特定の他者との間に形成される身体的かつ情愛的なきずなであり、人生早期にかぎらず、生涯にわたっての人間の関係性において重要な意味をもつことが知られている。

乳児が特定の対象(母親的人物)との間で織りなす愛着関係には、授乳・抱っこ・おしめ替えなどの身体的相互関係、笑顔の交換などの情動的(感情的)相互関係、音声のやりとりなどの言語的相互関係があり、人が人格を形成していくうえで大切な関係性の基が含まれている。

母親的人物と乳児との間で行われる感覚の共有、情動の共有、言語の共有は、子どもが成長し他者との関係を築き、孤独を受け入れ、社会共同体の中で規範を守りながら生活していくうえで重要な基盤となる。

フロイトは、乳児期の母子相互の愛着関係を性愛的活動として捉え、次のような文章を残している。「明らかなのは、子どもが指しゃぶりに耽るという行動がかつて体験し、今蘇っている、ある快感の追求によって決定づけられていることである。ごく単純な場合には、子どもは皮膚の粘膜のどこかをリズミカルに吸うことによって、この満足を見出している。子どもが、今、再び取り戻そうと努めるこの快感が、いつ初めて体験されたのか、これも容易に推測できる。最初の、そしてもっとも生命的な活動、すなわち母親の乳房ないしその代理物を吸った体験が、子どもをこの快楽に親しませたにちがいない。子どもの口唇は、我々の観点からいえば、性感帯のように働き、流れ入る温かな母乳のもたらす刺激は、疑いもなく、快楽に満ちた感覚の源となる。性感帯の満足は、最初の段階では、栄養の充たされる満足と連合している。

性愛的な活動は、自己保存を目的とする機能に密着しており、後になって、それから独立していくのである」(『フロイト著作集:性欲論三篇』人文書院)

滝川一廣は、フロイトのこの性愛的相互交流について「この<性愛>的相互交流とそこに得られる心的(感情的)ないし身体的(感覚的)な充足への、子どもの側からの能動的な強い志向性を、フロイトは『幼児性欲infantile sexual i ty』と呼んだと考えればよいと思う。成人男女の<性愛>的な交流と、大人と子どもの、一般的には親子の交流のあり方には、どこかとても似たところがある。フロイトは、ここで、<性愛>的な心の動きは『成人』だけのものではなく『幼児』にすでにそれはある、というより、こちらの方が出発点なのだと強調したのである」と述べている(『家庭のなかの子ども学校のなかの子ども』岩波書店)。

新生児は、すでに自らの五感でもって母親を認識することが知られている(山本高治郎『母乳』岩波新書)。

乳児が反射的に口にする母親のおっぱいは温かく美味しい。母親のおっぱいを飲んでいる時、乳児は母親の温もりを感じつつ、母親の匂いに包まれ、母胎内で慣れ親しんだ鼓動を体感しながら、母親の心地よい声のひびきを耳に、その胸に抱かれる。このように授乳ひとつとってみても、乳児は母親を心地よい安心できる対象として、体全体の知覚を通して認識しているのである。一方、母親はやわらかで温かな乳児を抱きながら、その愛くるしい視線とコミュニケートしつつ、乳児の声を聴き、甘酸っぱい匂いを嗅ぎながら、小さな口で乳頭を吸ってもらう快感に浸る。このように、母親も乳児を愛着の対象として、体全体の知覚によって認識するのである。母親と乳児は、このようにお互いの

遊戯療法の本質──現象学的事例研究

愛甲修子

Page 2: 遊戯療法の本質 - 大阪経済法科大学 · 遊戯療法の本質──現象学的事例研究 と、火遊び(放火)、金銭せびり(恐喝)、金銭 持ち出し(盗み)などの問題行動が目立ったこ

アジア太平洋研究センター年報 2009-2010

─ 12 ─

知覚(視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚)を通して相互対象として認識し合い、快(心地よさ)の交換としての愛着遊びを行う。

一方、Abuse(虐待)を受けている乳児の場合はどうであろうか。例えば、母親が若く、まだまだ遊びたい盛りの場合、母親は自らの甘えを満たすために乳児を利用するおそれがある。このような場合、乳児側の不快状態は大抵見落とされ、母親の都合で乳児の世話がなされていく。乳児の泣く声は聞こえても、泣き声の意味を推し量る術をもたない母親は、乳児との性愛的相互交流を行うことが難しい。乳児は空腹でもお乳がもらえず、おしめがぬれていても替えてもらえず、抱っこしてもらいたくても抱いてもらえないということを学習していくうちに、泣かなくなっていく。泣いても不快が快に変わることがないことをすでに学習しているので、乳児は泣くことが無意味なことを知っているからである。

こうして乳児は、母子相互の身体的・情動的・言語的快の交換を学習する機会を逸する。本来ならば、母親が乳児の甘えを満たすことで双方共に心地よさを感じるはずの愛着遊びは成立しない。愛着遊びは、乳児側の心地よさと母親側の心地よさの共有体験があってはじめて成り立つ快の交換遊びだからである。Abuseを受け続けてきた乳児は、情動の発達や身体的発達やことばの発達に遅れがみられることが知られている。

アヴェロンの野生児や本事例の守(まもる:仮名)にも、情動や言葉の発達の遅れと併せて身体感覚における快・不快の混乱が認められた。

H.S.サリヴァンは、幼児の不安について、次のように記述している。「幼児とは、物理化学的に条件づけられた、くり返し起こる各種の欲求を持ち、それを満足するには—呼吸の場合を除けば—対人的な協業が必要であり、この協業のことを『やさしい庇護』と呼んでもよいということである。幼児の欲求を解消するための、このやさしい庇護の協業は、もし母親的な庇護役の中に不安があれば妨害され、攪乱される。母親的な庇護役の中にあるこの不安は、その女性が幼児にやさしく庇護的な協業をする邪魔をするばかりでなく、幼児の中に不安を誘導発生させる。他方、幼児の中にあるこの不安は、乳を吸

うとか嚥み込むなど、自分の欲求の満足のための協業のうち幼児の側でしなければならない役割の邪魔をもする。さて、これらの欲求が満足させられないままで緊張が持続し、あの不安の緊張がこれに加われば、幼児がその時間のきわめて大きな部分を割いてとらなければ死んでしまう、生物学的に不可欠な睡眠というものも妨害される。もっとも、欲求と不安がどんどん累積していっても、覚醒状態から睡眠への位相変化は、幼児が無感情となれる能力を持つことによって守られている」(『精神医学は対人関係論である』みすず書房)

Abuseは、母親が未熟な場合に限らず、その他、様々な要因から生じる。例えば、NICU(新生児集中治療室)に入らざるを得ない乳児の場合は、母親不在の保育器の中で過ごすことになる。NICUにおいては、母親が始終傍に付き添うことが難しいことから母子相互の愛着遊びの機会が限られてしまう。この場合は環境的要因から母子相互の愛着遊びが剥奪されることになる。また、母親に余裕(精神的、時間的、経済的)がない場合や、母親自身がAbuseの体験者で愛着遊びを学習していない場合なども、母子相互の愛着遊び関係が成立しづらい。自閉症のように子どもの側にもともと愛着を形成しづらい関係性の障害があることで、乳児側に母親との関係をうまく作れない場合も、母子相互の愛着遊びの成立は困難となる。

人間は愛着遊びにはじまる母子相互の関係遊びを通して、その後の人間関係づくりの基盤を形作っていき社会共同体へと向かう。要するに、人は、身体・情動・ことばを介しての愛着遊び(相互承認関係)を通して母子愛着関係を構築し、その後、他者との協同遊びへ、さらには、ルール遊びへと向かい、社会における多様な文化的規範を遵守しながら成長し、自分の中に羅針盤をもつ一人の大人となっていくと言えよう。

遊戯療法がもつ意味

筆者が守と出会ったのは今から十数年前のことである。筆者は、当時、児童相談所で嘱託心理判定員の仕事をしていた。当時、守は7歳だった。守がどうして児童相談所に来たかという

Page 3: 遊戯療法の本質 - 大阪経済法科大学 · 遊戯療法の本質──現象学的事例研究 と、火遊び(放火)、金銭せびり(恐喝)、金銭 持ち出し(盗み)などの問題行動が目立ったこ

─ 13 ─

遊戯療法の本質──現象学的事例研究

と、火遊び(放火)、金銭せびり(恐喝)、金銭持ち出し(盗み)などの問題行動が目立ったことから、両親が困り果てた末、守を連れて相談に来たためだった。

児童相談所で子どもに対して行う心理療法のひとつに遊戯療法がある。遊戯療法が何故子どもの問題行動を改善するうえで有効であるか、子どもに関係性の変容が生じるのは何故かなどについては、いまだ解明できていない(弘中正美『遊戯療法と子どもの心的世界』金剛出版)。

守の問題行動について主体側の知覚を中心に身体や情動の観点から捉えなおしてみると、まず浮かび上がってくるのは、これら全ての行動が守にとっての快(心地よさ)を目がけるひとり遊びであったという点である。以下、守の問題行動について、守(主体)と両親(客体)に分けて、それぞれの意識世界から、守の行動の意味を記述してみよう。⑴家の障子の桟にライターで火をつける行為 守;ライターで火をつけるといった心地よさを目がける行為父母;一歩間違えば火事になるところだったという危機感。守を許せない気持ち。 ⑵弟の貯金箱や財布から金を盗る行為や近所の人に金をせがむ行為守;食べたい菓子を買って食べられるといった心地よさを目がける行為。父母;人の金を盗むとは何ごとだという守を許せない怒りの気持ち。 ⑶隣家の敷地内に大小便をする行為守;自宅トイレが守にとっては安全な場所でなかった可能性がある。自宅の庭でなく、隣家の庭を利用するのは、そこが守にとって安全な場所だったのかもしれない。父母;隣家や近隣と近所づきあいができなくなるのではないかと不安な気持ち。 ⑷妹の顔目がけて高い所から小便をする行為。 守:妹や弟は大切にされていて自分だけが虐げられている妬みに加え、妹が泣くのが面白いといった心地よさを求める気持ち。父母:妹の顔に小便をかけるとは、許せない卑劣な行為だとする気持ち。 ⑸糞尿まみれになって指しゃぶりをしながら寝ている。守;ひとり遊び(身体遊び)をしている心地よ

さを求める気持ち。父母;小学生にもなって不潔な手のかかる子どもだという嫌悪感を伴う気持ち。以上、⑴〜⑸の行動は守にとっては心地よいが、両親にとっては不快な行為である。

問題行動を呈する子どもは、自らの欲求を満足させるための行動をとっているのだが、その行動がその時代や社会共同体において問題と見なされる場合がある。万引きや、お金を盗む行為、教師の話を聞けなかったり、お友だちに暴力をふるってしまったりする行為は、子どもの身体的・情動的快を目がける行為であり、ひとり遊びの範疇と捉えることができよう。

乳児期、赤ちゃんが自分の排泄物に触ったり口に入れたりする時期があることが知られている。守は生まれて半年間保育器の中で過ごしたことから、母親との相互関係を充分に体得する機会を持たなかった。このことは、守が関係性の基盤ともいうべき母子相互関係の発達課題を達成できずにきていることを暗示している。母親との愛着関係の代償として、自分の排泄物

(母胎内にあったもの)にまみれたり、親指(乳房)をしゃぶったりすると捉えると、糞尿にまみれて指しゃぶりをする行動も守にとっての身体的快を目指すひとり遊びの範疇に含まれることになる。自分の排泄物のなかで指しゃぶりをすることが母とつながりたくてもつながれない愛着遊びの代用的役割を果たしている。

関係性の発達と遊び

守は在胎26週、800gという低体重児で生まれた。そのため、生まれてすぐに母親から切り離され、母親のいない保育期の中で一人ぼっちで生きざるを得なかった。生後の6ヶ月間におよぶ母子相互関係が希薄な状態は、母親と守との関係をも希薄にした。母親は守を産んだが守との間で愛着遊びを行うことができなかった。守は母親から生まれたが母親との間で心地よい愛着関係を学習することができなかった。子どもなら大抵が体験するはずの母子相互の愛着遊びを学習できなかった守のような子どもは、その後の人生に大きな負荷を負うことになる。

運のよいことに、守は遊戯療法のなかで生ま

Page 4: 遊戯療法の本質 - 大阪経済法科大学 · 遊戯療法の本質──現象学的事例研究 と、火遊び(放火)、金銭せびり(恐喝)、金銭 持ち出し(盗み)などの問題行動が目立ったこ

アジア太平洋研究センター年報 2009-2010

─ 14 ─

れなおしの遊びを体験している。この遊びは守以外の人間にとっては、単なる「遊び」にしか写らないかもしれないが、守にとっては母親の胎内から生まれ出てこの世に受け入れてもらうための大切な体験(疑似体験)となった。

赤ちゃんと母親との間でなされる心地よさを交換する愛着遊びは、赤ちゃんが母親の胎内から生まれ出た直後からスタートしている。守のように祝福されずに生まれ、その後も長期に渡って母子相互の心地よい体験を学習できないままに生き抜いてきた子どもの場合は、生まれなおしの疑似体験遊びが、その後の関係性の発達にとって大変重要な意味をもつことになる。

また、もうひとつ守にとって運がよかったことは、児童相談所に保護されたことで安全な空間としての生活の場を確保できたことである。そして虐待されるおそれのない温かな場所で母親との間で体験できなかった愛着遊びを母に代わる治療者と擬似体験ができたことである。

守を妊娠した時、母親は17歳、父親は18歳だった。若すぎる二人にとって、親になるという現実を受け入れることはあまりにも重い仕事だった。母親は妊娠による変化(つわり、身体の変化など)を自らの幸せを奪う苦しみとして受け取り、守を自分に害を及ぼす異物とみなした。父親は守から母親を守ることにのみ力を注いだようにも思える。

滝川は、人間の関係性は、母子間の感覚の共有から始まり、うれしい、悲しいなどの情動の共有へ、そして模倣にはじまる行動の共有へ、そして、躾によるルールの共有へと変化していくとする(前出『家庭のなかの子ども学校のなかの子ども』)。人間が共同体の中でルールを守りながら他者と協調関係のなかで生きていくためには、滝川が言うところの「関係」・「共有」の発達というものが重要である。

表1(巻末資料)は、遊びをひとり遊び、ふたり遊び、集団遊びに、そしてそれらをさらに身体遊び、象徴遊び、ことば遊びに分類したものである。

守の遊びについて表2(巻末資料)にまとめた。遊戯療法を受ける以前の守の遊びは、ひとりで行う身体遊びと暴言などの反社会的遊びのみだった。母子相互の愛着遊びを体験したことのなかった守にとって、身体的快を求める遊び

だけが唯一の遊びとなっていたことが推察できる。

守は遊戯療法のなかで、治療者と二人で身体的心地よさの共有・情緒の共有・行動の共有・ルールの共有を体験した。そのことから自然とふたり遊びが可能となり、いつの間にか反社会的行動が消失し、対話が成立するようになっていった。

守のように母子相互の愛着遊びを十分学習できなかった子どもは、感覚の共有→情動の共有→行動の共有→ルールの共有へと共有体験を積み重ねていくことが困難である。母子相互の身体的・情動的・言語的相互の関係性構築に関する学習が何らかの事情でなされてこなかった子どもの中には、大人になるまでに人間関係上で何らかの不自由さを抱える子どもがいることが推察される。このように考えてみると、共同体において社会のルールを守りながら他者と協同的に生きていくといった行為が、実は遊びと地続きであることがわかる。

遊戯療法の本質

神田橋條治は、種々の芸術療法の位置づけの共通基盤に「気(雰囲気)」を置いている(『発想の軌跡2』岩崎学術出版)。

遊戯療法は、興味深いことに芸術療法ととてもよく似ている。何が似ているかというと、神田橋が示唆するように、般若心経でいうところの、触る・嗅ぐ・見る・聴く・味わう全てが遊戯療法にも含まれている点がひとつ。もうひとつは、遊戯療法が芸術療法と同じく、主体が常に他者の視点を自らの内側に置こうとしている点にある。遊戯療法のなかで、守は母親的人物である治療者に抱かれ、身体の匂いに包まれ、歌を歌ってもらい、絵を描き、話しかけられた。守にとって遊戯療法の世界は、母親的人物と二人で作り出す、独特の雰囲気を醸し出す世界だった。

遊戯療法は、大人(治療者)と子ども(クライエント)とで行う心理療法である。遊戯療法で重要なことは、治療者が大人であること、そしてクライエントが子どもであることだと言われている。大人である治療者は子どもであるクライエントと遊び、子どもであるクライエント

Page 5: 遊戯療法の本質 - 大阪経済法科大学 · 遊戯療法の本質──現象学的事例研究 と、火遊び(放火)、金銭せびり(恐喝)、金銭 持ち出し(盗み)などの問題行動が目立ったこ

─ 15 ─

遊戯療法の本質──現象学的事例研究

は大人である治療者と遊ぶ。治療者が大人でなければならない理由は、子どもであるクライエントが治療者という対象を自らにとっての重要な他者として位置づけることができるからである。治療者が大人であれば、治療者はそれまで経験した、乳児期から成人期のうちのどの段階の人物にでも変身することが可能だからだ。もしも治療者が子どもであったならば、子どもは対象をそれまでの経験でしか志向することができない。クライエントである子どもが治療者である子どもに母親を投影した場合、治療者である子どもは母親としての気(雰囲気)を醸し出すことに失敗するであろう。神田橋の言うように、治療の基盤としての雰囲気を醸し出すためには、治療者が大人であることが必要最低条件なのである。

竹田青嗣は、現象学的還元を、「体験」を「意識の経験」としてもう一度見直してみるという作業であると述べている(『現象学は〈思考の原理〉である』ちくま新書)。

守は、遊戯療法のなかで、治療者である筆者(ぬいぐるみの熊)を虐待する母親の象徴として殺し、生まれなおしの作業(暗い戸棚から生まれ出る遊び)をしている。守は、母胎に代わる暗い戸棚から治療者(母親的人物)の手によって引っ張り出され、祝福され、抱かれる経験をした。守にとって、この生まれなおしの作業は、実的体験として身体化された。その後、守の暴言や反社会的行為は消失し、絵やことばで象徴遊びができるようになっていった。

児童相談所での治療を終えて家庭に戻った守は、小学校や地域社会で規範が守れるようになり、お友だちと仲良く遊べるようになっていた。

心理療法には多くの技法があり、芸術療法も遊戯療法もそのうちのひとつである。全ての心理療法に共通して言えることは、「体験」を「意識の経験」としてもう一度見直してみる作業を行うことにより治癒が生じるということである。

神田橋が「治療者が逆転移反応を自覚するのにフォーカシングは最も有用な技法であると知った。その考えは今も変わっていないし、対話の場における治療者の姿勢の中核はリスナーの姿勢であると常に自分に言い聞かせてもいる」と述べている(前出『発想の軌跡2』岩崎学術出版)。

ジェンドリンのフォーカシング(現象学の流れを組む心理療法)は、治療者側の「体験」を「意

識の経験」としてもう一度見直す作業であり、クライエント側の「体験」を「意識の経験」としてもう一度見直す作業でもある。

遊戯療法を行う治療者は、自らフォーカシングを行うことで、クライエントとしての子どもが、治療者をどのように身体的かつ情緒的に体験しているか自覚することが大切であり、同様に、治療者が子どもをどのように身体的かつ情緒的に体験しているか自覚することも大切である。

遊戯療法の意味を誤解して、単に子どもと遊べばよいのだ、と捉えている治療者が多くいると聞く。遊戯療法と遊びとの大きな違いは、遊戯療法があくまでも子どもを主体とする心理療法であり、治療者側はあくまでも客体であるという点である。子どもが治療者という対象を自らの体験のなかから、主体である子ども独自の対象として意識化し、治療者との遊びを意識の経験としてもう一度見直す作業こそが遊戯療法には求められている。

遊戯療法においては、治療者と子どもとが二者関係の中で独自の気(雰囲気)を醸し出す空間を創造し、生き生きとした遊びを展開していけるか否かが重要な鍵となる。そこから子ども側と治療者側の関係性の変容が生じて、子どものwell-being(福祉)へと直接繋がっていくことになる。

(帝京平成大学専任講師)

Page 6: 遊戯療法の本質 - 大阪経済法科大学 · 遊戯療法の本質──現象学的事例研究 と、火遊び(放火)、金銭せびり(恐喝)、金銭 持ち出し(盗み)などの問題行動が目立ったこ

アジア太平洋研究センター年報 2009-2010

─ 16 ─

参考文献(引用文献を除く)愛甲修子「障害者の孤独、その現象学的解明」『帝京平成大学研究紀要』第20巻2号、2009年エリコニン『遊びの心理学』新読書社、2002年 ホイジンガ・ヨハン『ホモ・ルーデンス』中央公論社、1970年池田由子『児童虐待、ゆがんだ親子関係』中公新書、1987年カイヨワ・ロジェ(1970)『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社学術文庫、1970年正高信男『子どもはことばをからだで覚える メロディから意味の世界へ』中公新書、2001年

宮本健作『母と子の絆 その出発点をさぐる』中公新書、1990年野村庄吾『乳幼児の世界 こころの発達』岩波新書、1980年竹田青嗣・愛甲修子「看護にいかす現象学の知」『看護研究』Vol.41No.6、医学書院、2008年チェシック・モートン『子どもの心理療法』創元社、2000年ルビンシュテイン『一般心理学の基礎4』明治図書、1946年

表1 遊びの分類

身体遊び 象徴遊び ことば遊び

ひとり遊び水遊び、砂遊び、なわとび、ブランコ、すべり台、鉄棒、リズム遊び、粘土遊び

人形遊び、お絵かき、折り紙、ブロック遊び 読書、日記

ふたり遊び

母子愛着遊び(感覚・情動・音声の共有)かくれんぼう、くすぐりっこ、シーソー、卓球、バドミントン

あやとり、ままごと、スクイッグル、囲碁、将棋、トランプ しりとり、電話ごっこ

集団遊び 雪合戦、ドッジボール、野球、サッカー ままごと、トランプ しりとり、かるた

表2 守の遊び

身体遊び 象徴遊び ことば遊び

ひとり遊び指しゃぶり、妹の顔におしっこをかける、糞尿まみれ、火遊び、暴力、砂遊び

お絵かき 金銭せびり、暴言

ふたり遊び 母子愛着遊び、かくれんぼう、キャッチボール

ままごと、スクイッグル、鬼ごっこ、箱庭遊び 対話

集団遊び 追いかけっこ、ドッジボール ままごと、トランプ

※表2の下線部分は心理療法開始前の守の遊びである。