英語文型への接近 - nanzan...

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15 英語文型への接近 三浦 陽一 要  旨 言語の話し手は概念によって対象を客体的かつ主体的に認識する。概念は人体の 仕組み(主体性)と現実世界のあり方(客体性)に規定されて、〈実体→属性→条 件→連結〉の順に序列化されており、この序列は対自表出と対他表出という二本の ベクトルがつくる平面上に表示できる。英語の文型(文をつくる規範)は実体につ いての認識の転換と連合=概念の運動の弁証法的な型であり、上記のベクトル平面 上に整然と配列でき、5 × 2 10 種類ある。以上によって英語文型の基本的な配列 が明らかになった。 キーワード:文型、概念、認識の転換と連合、対自表出と対他表出、弁証法 はじめに あるテーマの下に文を集めたとき、それは文章と呼ばれる。文章は言語の最大の単位で あり文章は文の集合だから、文の基礎的構造である文型は英語の背骨のようなものであ る。だから文型論は英文法の「アルファでありオメガである」とさえいわれる。 (安藤貞雄 『英語の文型』開拓社、2008 年、V 頁) これまでの文型論には、戦前では Onions の「動詞型」をもとにして日本で流布した伝 統的な「5 文型」や Palmer の「27 動詞型」があり、最近では COBUILD Verbs: Patterns & Practice1997)が採用する「100 動詞型」や「5 文型」に義務的副詞句のパターンを二つ 加えた Quirk らの「7 文型」論、これに「2 項形容詞」タイプを追加した安藤貞雄の「8 型論」などがある(安藤『現代英文法講義』開拓社、2005 年、同『英語の文型』開拓社、上掲、2008 年。) 前置詞句と副詞句を区別するなど、語の形態を基準にすれば文型(動詞型)の数は多く なり、補語か修飾語かなど文中での機能を基準に分類すれば数が少なくなる。したがって 基準のとり方によっては「透明な一つの文型」(例・He/ put/ a glass/ on the table.)しかな いのが英語だというベーシックイングリッシュの「1 文型論」も主張されることになる。 (相沢桂子『850 語に魅せられた天才オグデン』北星堂、2007 年、158 161 頁。日本で流布した「5 文型」 の成立については、安井稔『英語教育の中の英語学』(大修館書店、1973 年)、170 頁以下。いろいろな

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英語文型への接近

三浦 陽一

 言語の話し手は概念によって対象を客体的かつ主体的に認識する。概念は人体の仕組み(主体性)と現実世界のあり方(客体性)に規定されて、〈実体→属性→条件→連結〉の順に序列化されており、この序列は対自表出と対他表出という二本のベクトルがつくる平面上に表示できる。英語の文型(文をつくる規範)は実体についての認識の転換と連合=概念の運動の弁証法的な型であり、上記のベクトル平面上に整然と配列でき、5×2=10種類ある。以上によって英語文型の基本的な配列が明らかになった。

:文型、概念、認識の転換と連合、対自表出と対他表出、弁証法

はじめに

 あるテーマの下に文を集めたとき、それは文章と呼ばれる。文章は言語の最大の単位で

あり文章は文の集合だから、文の基礎的構造である文型は英語の背骨のようなものであ

る。だから文型論は英文法の「アルファでありオメガである」とさえいわれる。(安藤貞雄

『英語の文型』開拓社、2008年、V頁)

 これまでの文型論には、戦前ではOnionsの「動詞型」をもとにして日本で流布した伝

統的な「5文型」やPalmerの「27動詞型」があり、最近ではCOBUILD Verbs: Patterns &

Practice(1997)が採用する「100動詞型」や「5文型」に義務的副詞句のパターンを二つ

加えたQuirkらの「7文型」論、これに「2項形容詞」タイプを追加した安藤貞雄の「8文

型論」などがある(安藤『現代英文法講義』開拓社、2005年、同『英語の文型』開拓社、上掲、2008

年。)

 前置詞句と副詞句を区別するなど、語の を基準にすれば文型(動詞型)の数は多く

なり、補語か修飾語かなど文中での を基準に分類すれば数が少なくなる。したがって

基準のとり方によっては「透明な一つの文型」(例・He/ put/ a glass/ on the table.)しかな

いのが英語だというベーシックイングリッシュの「1文型論」も主張されることになる。

(相沢桂子『850語に魅せられた天才オグデン』北星堂、2007年、158―161頁。日本で流布した「5文型」

の成立については、安井稔『英語教育の中の英語学』(大修館書店、1973年)、170頁以下。いろいろな

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国際教育センター紀要 第11号

文型論の簡単な紹介は、晴山陽一『日本人のための英文法』(ちくま新書、2001年)、130頁以下。生成

文法の観点から学校文法の「5文型」の問題点を指摘した好論文として、伊藤英彦「5文型を再考する」『関

東学院大学経済学部教養学会』46号、2009年1月。)

 こうした文型論は、言語が生きている具体的な場を考えることなく、たんに語の配列が

「正しい」と認められる文をランダムにとりあげて形式的に整理したものである。それは

(表現はわるいが)死んだ昆虫をあちこちから集め、形だけみて標本箱に整理しているよ

うなところがある。こういう作業は延延とつづけることができるが、分類の基準が形式的

なものなので、生きた対象をつかんだ分類は期待できそうにない。

 そんななかで、現実の言葉の本質に迫る迫力を私が感じたのは、三浦つとむ、宮下眞二、

吉本隆明、鈴木覚氏らの論考であった(「言語過程説」と呼ばれている)。その多くは数十

年前に書かれた論考だが、こういう方向で考えていくなら文型についても確かな理解が得

られそうだという感触があった。

 そして数年をかけるうちに少しずつ考えがまとまってきたのであった。本稿はそういう

私の考察の要約である。

I 表現の主体と対象を復活させる

 三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』(初出1954年、現在、講談社学術文庫)。よく知ら

れているけれどわかりにくいこの本に、すべての写真や写生は「うつされる相手のかたち

をとらえるだけでなく、うつす作者の位置をも示している」という話がでてくる(講談社

学術文庫版、16頁)

 例として、ここに9.11事件の二枚の写真を並べてみよう。( )

 ほぼ同じ瞬間の同じビルをとっているので客体的には同一物であるが、二枚の写真には

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英語文型への接近

撮影者の位置のちがいが写っている。写真には客体的表現と主体的表現が分かちがたく溶

け合っていることがわかる。

 三浦つとむは、言語も基本的には同じであるとして、次のように述べる。

「 [≒上の写真を撮った人] [9.11事件の現場]

対象から与えられた感覚・表象・概念ばかりでなく、そ

れに伴う話し手の感情・判断・欲求・目的なども現実の の一部分を構成してい

ます。一つの統一を持つ現実の から、一つの統一を持つ現実の がうまれ、

これが客体的表現と主体的表現の組み合わせによる一つの統一を持つ としてあ

らわれるところに言語の構造が考えられなければなりません。」(三浦つとむ『日本語

はどういう言語か』前掲、234―235頁)

 もうひとつ、言語と現実の世界について三浦つとむは次のように述べている。

「文法上から言って、 『×

×がある』『××は〇〇である』『××は△い』『××は〇〇している』などの文の

タイプは、その基礎にそれぞれの をかくしもっているわけで

す。

。」(三浦『日本語はどういう言語か』前掲、235頁)

 ここで指摘されているのは、表現しようとする対象の「タイプ」を反映して、話し手は

文の「タイプ」を選ぶということ、つまり言語と現実を結ぶ「型」があるということであ

る。ところが、これまでの文型論にはそうした観点が欠落している。このことを鈴木覚氏

は端的に次のように指摘している。

「There is a pen on the desk. なる文を示して、これは正しい文ですかと尋ねると、

大抵の立派な言語学者は正しい文だと返事する。……見掛けでは、いわゆる〈文法

的〉には正しい文であろう。……[しかし、話し手が]見間違って、ただの棒切れ

を対象として発せられた文ならば、客体の認識における間違いに基づくもので、形

式的に見掛けは幾ら正しく見えても正しくない文である。……太郎の There is a

pen on the desk. と次郎の There is a pen on the desk. では、二人とも見掛けの上で

同じことを言っているようでもその表現過程は様々なのである。」(鈴木覚「時枝誠記・

三浦つとむの言語過程説に学ぶ」、横須賀壽子編『胸中にあり火の柱』明石書店、2002年所収、

33頁)

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国際教育センター紀要 第11号

 太郎がある日の新聞の写真を見て「霞が関で火事があった」と言ったとすれば、それは

正しい文であろう(対象と表現の一致)。しかし、次郎が先にあげた9.11事件の写真を指

して、「霞が関で火事があった」と言ったとすれば、それは間違った文である(対象と表

現の不一致)。

 花子がご馳走してもらって、ほんとうにおいしかったので「おいしい!」と叫んだとす

れば、正しい文である(認識と表現の一致)。他方で、じつはおいしくなかったけれど相

手に悪いので表現上は「おいしい!」と言ったら、認識とはちがう表現という意味で正し

くない文である(認識と表現の不一致)。しかしこれとても、「おいしい!」がほんとうは「ま

ずい」という意味であることが聞き手にわかったなら、認識を正しく伝えたという意味で

は正しい文であったともいえる(話し手の認識と聞き手の認識の一致)。

 以上のようにどんな文でも必ず主体的な話し手がおり、具体的な表現対象があって、両

者の相互関係を反映して言語表現はおこなわれる。

 これは言語だけでなく人間の表現一般に共通するダイナミズム(相互の関係の運動)で

あって、言うまでもないようなことではある。ところがいまの言語研究ではほとんど無視

され、文の「なか」の語どうしの結合の仕方だけを追いかけるのが「学問的」とされる。

言語学の対象は、政治も社会も文化も、話し手も現実の世界も、すべてを切り捨てて得ら

れる純粋な体系(共時態)のことだというソシュール以来の近代言語学の発想が強固だか

らである。

 むろん、文の「なか」の結合の仕方は重要である。しかし、それを追いかけることがす

なわち言語の分析だと発想してしまうと、たんなる形式論や実用主義におちいりやすい。

これまでの文型論の危うさ・浅さはここに原因がある。

 英語表現における主体と対象の統一の仕方、その典型的タイプとしての文型に接近する

こと。これが文型論の課題である。

 そのために、本稿では次のように論じていく。

◇まず、映画、絵画、音楽という三つの表現ジャンルを参考にして、人間の対象認識と表

現のプロセスをつかんでみる(II)。どのジャンルにおいても表現の内実(意味)は表

現者の認識の転換と連合であり、その転換と連合の仕方には一定の「作法」がある。以

上によって、人間の表現がいかにして主体性と客体性を統一していくか、その基本を提

示する。(III)

◇言語の話し手は概念という媒介によって主体的および客体的に対象を認識する。人間は

概念をつかうことで無限の具体的対象を把握できる。そして概念はたんに抽象的な規範

ではなく、具体的な主体が具体的な対象の認識内容を保存して伝えるものである。そし

て概念は、われわれ人間の身体の構造(主体性)と現実世界のあり方(客体性)に規定

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英語文型への接近

されて、〈実体→属性→条件→連結〉の順に序列化されている(IV)。

◇概念は人体が生む声音と描線を素材とし、語彙規範にしたがうことで単独の語(単語)

となり、単語は文中で品詞となる。単語をあつめて文をつくる規範をここでは文型と呼

んでいる。(V)

◇指示表出と自己表出(吉本隆明)にならって、すべての言語表現を対自表出と対他表出

という二本のベクトル平面でとらえ、これによって上記の概念(→単語→品詞)の序列

(実体→属性→条件→連結)が表示できる(VI)。

◇英語の典型的な文は、末尾の語(概念)の実体性の強弱によって、上記のベクトル平面

に整然と配列できる。これによって英語文型の相互のちがいと関連が明らかになる。英

語の基本文型(文をつくる規範)は2×5=10種類である。英語における認識の転換と

連合の型は弁証法の論理を内包しており、これは英語の認識の深化の型である。(VII)

II われわれは対象をどう認識し表現しているか―映画・絵画・音楽・言語

 ここでは、人間が対象を主体的かつ客体的に認識して表現するプロセスを映画、絵画、

音楽を例にしてたどってみよう。

 まず、映画のプロセスである。

①  映画ではたとえば (防犯カメラのように誰もが共有している客

体的画像)と (表現主体が選んだ角度からの主体的画像)の両方を駆使して撮

影する。むろん、固定カメラといってもどこに設置するか、何台つかうかいったところに

撮影者の主体的判断がはたらくし、移動カメラといっても客体的な対象のあり方と無関係

に画像をつくれるわけではない。画像と同時に場面音も録音することがある。

②  撮影した膨大な動画から効果的な部分を選んでつなぎあわせ、な

めらかさやスピード感(切れ)のある認識の転換と連続となるようにカット(編集)し、

かつBGMを挿入する。

③  

 以上のプロセスのうち、とくに注目したいのは「カット」(編集)という技術である。

「編集された映像は機能するという事実が20世紀初頭にみいだされた。これは映画

史において飛行機の発明にも値する画期的な発見だろう。」(ウオルター・マーチ(吉

田俊太郎訳)『映画の瞬き 映像編集という仕事』フィルムアート社、2008年、22頁より要約)

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国際教育センター紀要 第11号

 ではなぜ人間はカット(飛躍)の多い一連の映像を苦もなく受け入れ、そのほうが心地

よいとさえ感じるのか。それはもともと人間が不連続に生きているからである。われわれ

は瞬(まばた)きによって現実に不連続性を与えてはじめて世界を理解することができる

(マーチ『映画の瞬き』前掲、22頁)。

 そして人は言語によって昼間でも不連続な「夢」を語っている。過ぎてしまったことを

目前のことのように語り、まだ来ていない明日の天気を語り、紙のシミにすぎない文字を

読んでは涙を流す。In the car John said to me, “Yoko was a dancer in New York.”という文なら、

車で語りあうジョンと話し手の映像と、別の時点でニューヨークで踊るヨーコの映像が話

し手によって編集されている。人間は夢の中のように想像力でどこにでも飛んでいって撮

影し録音し編集する。まことに、「言語の大部分は『夢』を扱っている」のだ。(三浦つとむ『日

本語はどういう言語か』前掲、26頁)

 そして「瞬き」で切り取った画像を突き詰めていくと、われわれは に近づく。じっ

さい、上記の映画編集者は、動画を編集するとき静止画像を利用すると述べている。ひと

つの場面の主要な画像を選んでスチル写真にし、パネルに貼りつけて一連のシークエンス

を決める。すなわち動画を「絵画」に変換して組み合わせるというのである。(マーチ『映

画の瞬き』前掲、22頁)

 しかし、絵画は言語ではない。言語は音声として表現されるのだから、われわれは絵画

を に変換しなければならない。もちろん本物の絵画を本物の音楽に変換するのは容易

ではないが、われわれは言語においてそれに似たことを平気で実行している。

 たとえば、一個のリンゴの画像をみて「リンゴ」という声に変換する。のどかな光景を

みて「平和」という声に変換する。これらの音声は単線のメロディーであるが、その声に

は倍音があり調性がありリズムがある。すなわち言語は音楽に近い。

 そして表現の順序においても音楽は言語と類似性がある。

 日本における近代指揮法の確立者として知られる斎藤秀雄は、音楽にも「作法」がある

といい、それは〈事実と感情〉を交互におくことだと述べている。

「人間がものを説明する時、まず具体的な事実を話して、その次に、それについて

どう感じるか、それでどうするかを話すわけです。日常の会話でも、『こんにちは』

が最初に出てくるでしょ。いきなり『それで、どうします?』とは言わない。『今

日はお天気がいいね』と確認しておいてから、『だから散歩に行こうじゃないか』

となる。心に触れ合うものは初めからは出てこない。

シューベルトの『鱒(ます)』って曲がありますね。初めのメロディーは、鱒が水

の中でぴょんぴょんとはねて泳いでいる。それがあるから、その次に出てくるフレー

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英語文型への接近

ズが、『ああ楽しいじゃないか』と心に響く。初めは軽くて、その次に柔らかいも

のが出てきて対照になっている。遠近があって、柔らかいもののほうが心を表現す

る。これは だろうと思う。いろんなメロディーを調べてみて

も、必ず を言って、その次に を言う。もしそう見えなく

ても、メロディーがそういう特徴を持っていなくても、こじつけでもいいからそう

いうふうに演奏すると、みんな〈分かった、分かり易い〉って言います。」(斎藤秀雄『斎

藤秀雄講義録』白水社、1999年、18―19頁より要約)

 あとで述べるように、英語の文型がはじめに名詞(→主語)という客体的表現をおき、

次にそれについての話し手の判断を述べることは、音楽において「事実的なこと」からは

じめて、その次に「感情的なことを言う」ということに似ている。

 言語は最終的には のように発表される。言語は人体の音声器官による音響(声音)

として発せられるからである。音楽はまた手の筋肉による描線(文字)としても表現され

るが、これは に相当する。

……

 以上のように、

( )

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国際教育センター紀要 第11号

 言語の表現形態はリニアな音声や文字というごくシンプルなものにすぎないが、それで

も驚くほど豊かな表現力をもつのは、映画のように多面的な撮影方法と、絵画のように現

実を大胆にカットする技術と、音楽のように肉体的な律動を言語が内蔵しているからであ

る。

III 言語の内容は〈認識の転換と連合〉である

 さて言語表現はたんに語どうしの結合関係ではない。表現の背後にある話し手の〈認識

の転換と連合〉が言語の内容をなす。このことは一般にあまり理解されていないと思われ

るので、少し説明しておこう。

 〈認識の転換と連合〉がわかりやすい言語表現の例として、短歌を考えてみる。

春の岬 旅のをはりの鴎かもめ

どり浮きつつ遠くなりにけるかも(三好達治『測量船』1930年)

 この作品は、まず「春の岬」(福井県三国町)という冒頭句によって、そこに立つ作者

の位置と光景をあらわしている。客体的表現による「事実的なこと」の「確認」(斎藤秀雄)

である。

 つぎに「旅のをはりの鴎どり」で、作者は一瞬かもめになりすまし、長い「旅」の経験

を思っている。そして今では鴎にとっても作者にとってもそれが「をはり」をむかえたこ

とを認識したあと、「浮きつつ遠くなりにけるかも」で作者は「春の岬」にたちもどり、

「旅」の「をはり」の意味に深い感懐をこめている。ここが斎藤秀雄のいう「感情的なこと」

「心に響く」部分である。

 ここには「春の岬」の風や光がもたらす視覚・触覚・嗅覚、「旅」の孤独な光景、「浮き

つつ遠くなり」ゆく「鴎どり」の動線といった認識の転換があり、それは岬→旅→岬とい

う作者の立ち位置(映画のカメラ位置、絵画の写生位置)の転換によって支えられている。

 ほとんどが客観的叙述からなるこの作品は、末尾の「けるかも」という主体的表現に

よって統一されている。

 〈認識の転換と連合〉の形式。それが短歌である。

 短歌や音楽のように韻律性の高い表現ばかりではなく、通常の文でも基本的には同様の

ことがおこなわれる。すなわち文が表現する内容は話し手の認識の転換と連合であり、そ

の表現形式は客体的表現プラス主体的表現である。

 そして認識の転換と連合に定型があるとき、格変化や助詞のような認識の結合のための

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英語文型への接近

表現は必ずしもなくてもすむ(げんに、さきの三好達治の短歌には助詞がひとつもない。

韻律という定型に支えられているからである)。

 これに似た〈認識の転換と連合の定型〉が英語の文型である。例をあげよう。

Juliet shot the tiger dead.(ジュリエットはその虎を撃ち殺した)

 話し手は「ジュリエット Juliet」を客体的に把握したあと、その動的属性が「撃つ」こ

とにあると認識し、同時にその行為が現在とは切り離された過去のことであることも主体

的に認識している(shot)。次にshotの先にある対象へと目のつけどころを移し、それが

「虎 the tiger」であると認識する。そして最後に「虎」の状態に目をこらして、それが「死

んでいるdead」と結論づける。

 ここには、認識の転換を示す格変化や助詞はいっさいない。しかし「ジュリエット」か

ら「虎」への認識の転換と連合がひとつの文にまとめられ、しかもshotからdeadまでの

わずかな時間差まで表現されている。いわばジェットコースターに乗った人間が見る光景

のようなスピード感がある。吉本隆明はすぐれた短歌は「光速度写真的に分解」できると

言ったが、英語の文もそれに似ている(吉本隆明『言語にとって美とはなにか I』初出1965年、現

在角川文庫、134頁)。

 そしてほとんどが客体的表現で構成されたこの文は、唯一、shotという過去時称による

主体的表現によって統一されている。(他に主体的表現として肯定判断があるが、これは認識はあ

るが表現がない「ゼロ記号」である。時称表現やゼロ記号については、三浦陽一「英語時称の言語過程」

『中部大学人文学部紀要』2010年7月。)

 英語において、こうした認識の転換と連合をひとつの文にまとめるために作動する規範

が「文型」である。

IV 人間は概念によって無限の具体的対象を客体的かつ主体的に把握する

 映画が動画、絵画が静止画、音楽が音響を媒介として対象を表現するように、話し手は

言語に特有の媒介たる概念と声音・描線をつかって対象を表現する。

 概念 conceptとは、「事物やその過程の本質的諸特徴を反映する思考形式で、人間の思

考活動の基本的単位」である。

概念は言語とともに生まれ、言語で表現される。(森

宏一編『新装版哲学辞典』青木書店、1996年、50頁)

 概念の多くは、対象を現象的に把握した日常的概念である(塩とは「白くてしょっぱい

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国際教育センター紀要 第11号

粉である」とする類)。しかし必要に応じて人間は科学的概念も用いる(塩とは「塩化ナ

トリウムNaClである」とする類)。いずれにせよ人間は概念をつくり運用することによっ

て対象の感覚的認識のレベルからより論理的で関連把握的な認識へと思考を高めていく

(たとえば「ぜんざいに少し塩を入れると甘味が濃くなる」といった一般的な関連把握が

可能になる)。

 では、人が抱く概念には、主要なものと副次的なものはないのだろうか。

 ここに、「個人が習得してゆく概念の原初は身体的経験の型である」という注目すべき

理論がある。(尼ヶ崎彬『ことばと身体』勁草書房、1990年、154頁)

「私たちは自分自身や外部の物体を として、また

として経験している。ここから、非物体的なものを実体や容器になぞらえ

て理解しようとする傾向が生じる。たとえば精神を実体とみなして、もろさや強靭

さについて語る。あるいはインフレを実体とみなしてそれと戦ったり、その側面を

見ようとしたりする。」(尼ヶ崎『ことばと身体』前掲、135頁)

 これによれば、「実体」の概念は人間の身体的経験から「直接現れ出る概念」である。

 「実体 substance」とは、「さまざまに変化してゆく物の根底にある 、そう

した変化によって様態を変えながらも同一にとどまり、つぎつぎに現れる

として考えられるもの」で、典型的には「名詞」として表現される。(粟田・古在編『岩波小

辞典哲学』岩波書店、1958年、83頁)。

 「名詞」という概念の形式は、実体もしくは容器としての自分の身体や世界の事物につ

いての直接的経験から生まれる。

 では「動詞」はどのようにして生まれた概念だろうか。私見では、これにもわれわれ人

間の身体に基盤がある。

 それは瞬(まばた)きと眼球運動である。人間は両目が顔の前面にあるため両眼視によ

る立体的認識能力が発達していて、しかも眼球は一点を凝視するときも絶えず微動してお

り、そのおかげで人間はもの(→実体)を立体的な「起こり」として知覚できる(これを

固視微動という)。

 特殊な装置で網膜の同じ位置に対象の像が写るようにすると、対象は知覚から消えてし

まい、われわれはものを見ることができない。瞬きと固視微動によって対象の像に断絶を

もたらすことによって、人間は対象の立体性や動きを〈まとまり〉として把握しているの

である。(http://web.sfc.keio.ac.jp/~watanabe/cog5.htm)

 このことは、人間が対象を把握するということは何が「起こっている」かを把握するこ

とであることを示している。言語は対象となる実体の「起こり」の様子すなわち動的属性

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英語文型への接近

をつかむことで事態を把握する。これは動詞というものの認知上の重要性を示唆する。

 また実体には、リンゴが「赤い」というように眼球を動かしても動きとして知覚するわ

けではない静的な属性もふくまれている。これを概念化したものが形容詞である。

 実体 /容器の把握(→名詞)、ものの「起こり」の認知(→動詞)、静的な属性の認知(→

形容詞)の次には、空間という概念が「元型的概念」となる。

「他の概念のよりどころでありながら、それ自体は他の概念にたよらず直接に理解

されるような概念とは、たとえば〈上―下〉〈前―後〉〈内―外〉〈遠―近〉などの

空間概念がそうである。これらの概念構造は私たちの日々の身体的経験から理解さ

れている。日常のさまざまな概念がこの によって構造化されている。た

とえば『気分は上々だ』『気持ちが落ち込んでいる』という。」(尼ヶ崎『ことばと身体』

前掲、133―134頁より要約)

 これは「ある領域の経験の『型』を他の領域に転用するという『なぞらえ』の原理」で

ある。たとえば「インフレが進んだ」り、「平和がやって来た」りするのである。(同前書、

136頁)

 こうして、概念の源泉は人間の身体からそれを越えた客観的な世界全体へと広がってい

く。自分の身体という主体的なものと、現実の外界という客体的なものの両方が概念の源

泉となるのである。

 以上のことを英語に適用してみると、いくつか推測できることがある。

■英語は話題にする対象を実体 /容器(→名詞)として概念化し、これを「主語」として

とりたてることからはじめる言語である。実体 /容器は「諸性質の担い手」であるから、

それについてさまざまなことを文として語ることができるのである。( の起源)■動詞は、対象とした実体がどのような「起こり」をもっているかを認識することで、対

象のまとまりをとらえる概念である。それは、瞬きや固視微動と関連がある。英語の基

本動詞はhave、do、give、get、take、make のように人間の身体的経験を原義とするも

のが多いが、これも身体感覚の基本性を示唆する。( の起源)■このような「起こり」の感覚の次には、重さや色のような対象の静的性質についての認

識が「元型的概念」となる。( の起源)■次に〈上―下〉〈前―後〉〈内―外〉〈遠―近〉などの空間概念がくる。英語の前置詞は

もともと空間的な関係をあらわし、そこから時間的な関係の表現にも「なぞらえ」てつ

かわれるようになった。( の起源)■以上のようなさまざまな概念のありようの程度や様相をつけくわえる抽象的な概念もあ

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国際教育センター紀要 第11号

る( の起源)。概念どうしを結びつける概念もある( の起源)

 人体や世界のあり方を反映して、概念にもこのような序列がある。それは名詞にはじま

り、次第に実体性が希薄になっていく順序である。この概念の序列は、〈 (→名詞)

→ (→動詞・形容詞)→ (→前置詞・副詞)→ (→接続詞)〉の順になって

いる。「属性」は実体がもつ性質であり「条件」は実体が置かれている諸条件、「連結」は

概念どうしの結合である。後述するように、英語の文型は(「連結」を除いて)この順に

概念を並べていくかたちをとる。

 ここで注意しておきたいのは、概念はたんなる抽象的規範ではなく、具体的な主体が具

体的な対象の認識内容を保存して伝える主体性をもつということである。

 一個のリンゴを写した写真は、たとえ白黒写真であってもリンゴの「赤さ」を保存して

伝える。同じように、誰かが「冷蔵庫にリンゴがある」といったとき、「リンゴ」という

音声には「赤い」とか「甘い香りがある」といった属性が保存されている。聞き手は、話

し手が発した「リンゴ」という音声の語彙(「これこれの音声はこういう意味を伝えるも

のだ」という社会的に認められたルール)を手がかりにして、具体的な「リンゴ」の様子

を推測する。このとき「リンゴ」が指すものは世界にひとつの具体的存在であって、たん

なる抽象的概念ではない。

V 語彙と文型はレベルのちがう概念である

 さて、概念化に関連することで、もうひとつ確認しておくべきことがある。それは〈語

彙と文型〉の違いである。

 言語の素材である声音や描線は、語彙(対象を単語レベルに概念化する規範)によって

単語となる。その単語を集めて文とする規範が文型である。 (a

word) (a part of speech) 。

 単語と品詞の違いを示す例をあげよう。

Romeo arrived yesterday.

 この文のyesterdayは、ふつう時をあらわす副詞とされる。たとえば辞書を引くと最初

に「副詞」とある。しかし、じつはyesterdayは 属する日の一日前の日をいう語

であり、話し手との関係でひとつの時点を実体としてとらえた である。(宮下眞二『英

語文法批判』日本翻訳家養成センター、1982年、157頁。じっさい、the day before yesterday(おととい)、

yesterday’s paper(きのうの新聞)では代名詞である。)

27

英語文型への接近

 ともすると、この文のyesterdayはRomeoにとっての「昨日」だとイメージするが、そ

れは話し手の存在を抜きにして文内部ではたらく規範だけを見ようとする態度からくる、

“永遠の勘違い”である。

 yesterdayは誰にとっても共通する観点から客観的に実体をとらえた でもなければ、

たんに表現を多面的にする でもない。yesterdayとは 、今日よりも一

日前の日をさす である。

 このことは、話し手とRomeoが同じ時間を共有しているためになかなか気づかないの

だが、文を変えて、

Romeo died yesterday.

にしてみるとわかりやすくなる。Romeoはすでに死んでいるので、yesterdayとは話し手

にとっての「昨日」である。

 しかし、yesterdayが代名詞だとすれば上記の文は〈名詞+動詞+代名詞〉という構造

をしていることになり、いわゆる5 文型でいうSVOの第3文型ということになりかねない。

 これはじつは、yesterdayが時点をあらわすことは自明なので、時点の一般的な関係を

あらわす前置詞onが表現化していないのである。(宮下『英語文法批判』前掲、158頁)しかし、

それではこの文でon yesterday と言ってもいいかというと、それはもはや非文法的に感じ

られる。

 話し手との関係における時点をあらわし文中で前置詞の省略が文法化した代名詞は、ほ

かにもnow、then、today、tomorrow などがあり、同様に話し手との関係における場所を

あらわし文中では前置詞の省略が文法化したhere、thereのような代名詞もある。これら

は代名詞として成立した語でありながら、文中では副詞として使われることが多い。

 yesterdayは単語(語彙)のレベルでは代名詞であるが、文(品詞)のレベルでは代名

詞としての語彙を止揚・保存した副詞として使えるという規範が存在するのである。

※ : (彙は「集める」の意)という言葉は、ふつう、ある地域、分野、個人など一定の範囲で使われる語の総体をいうが、この論文では一組の声音や描線をひとつの たらしめる言語規範という意味でつかっている(語がひとつであることを明示するときは単語と呼ぶ)。通常の意味の「語彙」は多数の語が成立した結果を指しているのに対して、私がいう「語彙」は個々の語が成立するための規範(ルール)のことである。また、 という言葉はふつう文を分類した各種の型をいうが、ここでは語を集めて とし文として成立させる言語規範という意味で使っている。通常の意味の「文型」は結果として成立した文を分類したものであるのに対して、私がいう「文型」は英語の文が成立する過程ではたらく一群の規範(ルール)である。したがって、私の定義では

ことになる。

 声音や描線が語彙によって単(立の)語となり、単語(a word)は文型によって品詞(a

28

国際教育センター紀要 第11号

part of speech)へと変換される。この関係をひとつの図にすると次のようになる。( )

 A light light lighted.(淡い光がひとつ灯った)という同形異語彙の多い文を例にとると、

「light光」という名詞として成立した語は同形のまま形容詞、名詞、動詞という三種の品

詞として使われている。

 文型は語を集めて文とするための言語規範であり、図2のヨコ方向に文の語順を整序す

るプロセスにおいて単語を品詞として取り入れている。

 文のなかの「働き」という角度から語のまとまりを理解するための分類もある。それが

主語、述語、目的語、補語、修飾語といった「 」による分類である。

 料理にたとえれば、ある特定の遺伝子(語彙)によって一本の大根(単語)となったも

のが、ある料理に使われるときは「せん切り大根」(品詞)となる。これは働きからいえば「刺

身のつま」(機能)である。

 本稿では以上のような言葉の使い分けを前提として文型を考えていく。

VI 言語表現をつかまえるベクトル平面―指示表出と自己表出―

 さて、言語は最終的に音楽に似た表現形態をとると先に述べた。そして楽音をとらえる

ために楽譜というシステムがある。ならば文をとらえるための記譜システムのようなもの

は作れないものだろうか。記号で書かれた関数(たとえば y=2x+5)が座標上で↗のよ

うな一本のラインに変換できるように、英文の認識の転換と連合の型をひとつの平面上の

軌跡として可視化できないだろうか。

 ここに吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』(初版1965年、現在角川文庫)で示したひ

語彙と文型

単語が文型に入って品詞になるための語彙の二次的規範=品詞

音響/描線が単立の語(単語)になるための規範=「語彙」

【語彙】

29

英語文型への接近

とつの図がある。 がそれで、ヨコ軸に「指示表出」、タテ軸に「自己表出」をとると、

あらゆる言語表現はこの座標平面のなかで展開する。話し手は図の原点に位置どって、「言

語面」に向かって言語を表出する。吉本はこの図を「言語の構造」と呼んでいる。(吉本『言

語にとって美とはなにか I』角川文庫版、70頁)

 ここで「指示表出」とは、何かを正確に指し示すことを重視する心の方向であり、「自

己表出」とは、話し手が自分の感情を思わず吐露するような心の方向をいう。

 「これは何?」と聞かれ、正確な回答を目指して「馬車。」と答えたとすれば、感情面(自

己表出性)が希薄で指示表出性が強い表現である( )。逆に、ロミオがジュリエッ

トのあまりの美しさに「ああ!」と嘆息したとすれば、感情の自己表出性が強い。( )

 むろん、「指示表出」しかなくて「自己表出」だけがあるとか、逆に「自己表出」だけがあっ

て「指示表出」がゼロの言語表現といったものがあるわけではない。また、どちらの表出が強

いかは、後述のように表現の最中においても変化する。 のなかで「言語面」に向かう二

本の軌道が曲っているのはそのことを示唆する。この様子を吉本は、「表現された言葉は指

示表出と自己表出の織物だ」と表現している。(吉本『言語にとって美とはなにか I』前掲、7頁)

 自己表出と指示表出の違いは文型の分析にとって重要なので、違いを示唆する語をペア

で例示してみる。

主体的⇔客体的

文学的⇔言語学的

芸術的⇔事務的

個性的⇔類型的

指示表出性

30

国際教育センター紀要 第11号

感情的⇔論理的

表現的⇔概念的

象徴的⇔機能的

直接的⇔媒介的

即自的⇔対他的

価値的⇔意味的

物語的⇔報道的

内的⇔外的

楽しい⇔正しい

 ところで馬車がジュリエットに迫ってきて、驚いたロミオが思わず「馬車!」と叫んだ

とすれば、それは迫ってきたものが客観的に馬車と呼ばれるものであることも指示するが、

むしろ「危険だ!」という個人の感情を表現する=自己表出の度合いが強い( )。「あ

あ!」にしても、「今ロミオはなんて言ったの?」と聞かれて誰かが冷静に「ああ!(っ

て言いましたよ)」と答えたとすれば、それは冷静な指示表出性に包まれた「ああ!」で

ある。( )

 表面にあらわれた音声や文字の背後には、それぞれの話し手の具体的な認識(対象の心

内でのわかり方)があるので、表面的には同じ語であっても具体的な認識は異なるのであ

る。そうした認識の軌跡を描くための座標軸(ベクトル)が指示表出と自己表出である。

ああ

ああ

ああ

ああ

31

英語文型への接近

 以上を前提に、一般的にどの語彙(単語ないし品詞)が「言語面」のどこに位置するか

を示したのが である。

 名詞がもっとも実体性→指示表出性を強くもち、以下、感嘆詞にいたる四分円を上に行

くにつれて実体性が希薄化→自己表出性が増していく。

VII 英語文型のマトリックス―対他表出と対自表出

 ここまでの考え方をふまえて、いよいよ英語の文型をつかんでみよう。

 私が考える基本文型を文中の機能による表記と品詞名による表記の両方で例文とともに

列記すると、次のようになる。

機能による表記      品詞名による表記       例文

①SVCn(狭義) N1+V+P/AV(be/do型) The buildings were in New York.

②SVC N1+V+A(be-A型) The sky was blue.

③SVC N1+V+N2(be-N型) It was a terrorist attack.

④SVO N1+V+N3(do型) The attack killed many people.

⑤SVO N1+V+N4(have型) We have the memory.

 この五種類にキャップをかぶせるようなかたちで次のタイプがある。

⑥SVOCn(広義) N0+V+N1+(V)+Cn(狭義)/A/N2/N3/N4(make型)

We saw the buildings collapse.

32

国際教育センター紀要 第11号

【略語一覧】:S(ubject)主語、V(erb)動詞、C(o)n(dition)条件(広義と狭義がある)、O(bject)目的語、C

(omplement)補語:N(oun)名詞、V(erb)動詞、A(djective)形容詞、P(repositional phrase)前置詞(句)、A(d)V(erbial

phrase)副詞(句)(なお、代名詞はここでは名詞と同じに扱い、たんに名詞(N)と表記している。)

 以上によって、英語の基本文型は5×2=10種類となる。これらは客観的な対象たる実

体(S)の「起こり」の様子(V以下)を主体が認識して表現するさいの英文の定型である。(な

お、①SVCnのCnは言う必要がない場合は省略することが文法化している。例・Birds fly

(in the sky). ここでは詳述しないが、特殊な文型とされる「there構文」は①の派生型と考

えられる。)

 ここで、まえにあげた吉本隆明の を下敷きにして、末尾の語が担う概念(→品詞)

に着目して上記のすべての基本文型を配置してみる。すると を得る。これが英語の文

型を包摂するマトリックス(母型)である。

 英文は対象に関する話者の表出意欲を満足させるべく、原点から発出したあと動詞の概

念内容に応じた仰角をとり、それぞれのベクトルを描いたあと、最後に四分円上の文型末

尾の語(言語面)に達して終わる。

 たとえば、 をマトリックスとして上記の①~⑤および ⑥の例文を配列すると の

SVCn(狭)(be/do型)

make

イラスト:平田ひよの

33

英語文型への接近

ように描ける。

 このような英語の文型(認識の転換と連合の型)を検討してみると、以下にみるように

弁証法的な認識展開の型が埋め込まれている。

 話題の対象たる実体。話し手が対象をとらえたばかりの 的な認識。(即自an sich

とはその物がその物にぴったりと重なり、いまだ分裂がない状態のこと)

 実体の「起こり」の認識。これは即自を脱した 的な認識である。(対自 für sichと

は自己が二重化ないし分化すること)。対自は即自につづく事物の発展の第二段階である

が、高次の意味では対自はすでに〈 〉という第三段階に達している(岩佐茂

ほか『ヘーゲル用語事典』未来社、1991年、72頁)。すなわち文とは本来、N1+V(=SV)によっ

て完結しているものであり、Vは結論である。しかしそれだけでは意味が不明確である場

合に、以下のように他の概念を付加して〈即自かつ対自〉にいたる認識の運動を表示する。

その結果、5×2種類の文型が形成されたのである。

 N1+Vをめぐる状況=空間的→時間的な位置(存在条件)の認識。P(前置詞)の「目

的語」となる名詞は、対象N1の空間的位置や時間的関係の基準としての側面の認識をあ

らわし、Pの意味を補足する。

 N1+Vの程度や様相(存在条件)という抽象的な認識。

 N1のもつ属性のうち、色彩や軽重など変化の少ない静的な属性の認識。N1+Aだけで

も対象認識は完結しうるが、N1とAのあいだに「起こり」を認識できる場合もあるため、

SVCn(狭)(be/do型)

イラスト:平田ひよの

see

saw

We

34

国際教育センター紀要 第11号

N1+V+A(=SVC)の形式が文法化した。

 N1の属性を照らし出す実体N2の認識。N2の においてN1をとらえる。いわばN2

はN1の鏡のような役割を果たす。(媒介性Mittelbarkeitとは、ものごとが他者との時間的・

空間的な連関のなかで存在していることを指す)

 N1の「起こり」の対象となっている実体N3の認識。N3はN1を においてとらえ

る認識の展開をつくる。N3はN1の「起こり」がどのようなものかを補足しており、広義

でのN1+Vの条件である。(対他 für Anderesとは、他のものと関連し交渉している状態)

 N1に包摂されながら自己のもとにある=自在の状態にある実体N4の認識。N4はN1を

N4の による媒介において認識する展開をつくる。N4は実体の「起こり」の結果を

補足しており、広義でのN1+Vの条件である。(自在bei sichとは他者のもとにいながら

自己を喪失することなく自己のもとにいる状態を意味する。「自由自在」の自在ではなく「自

らのもとに在る」という意味での自在。)

 上記の概念(認識)の連合を包摂する実体の認識。

 以上のように、英語の文型は対象(S=即自)の運動(V=対自)の自己実現の様態(Cn、

P、AV、A、N2、N3、N4)を認識する型である。人間は概念によって対象の感覚的認識の

レベルからより論理的で関連把握的な認識へと思考を高めていくことは前述したが、英語

の文型にはそうした認識の深化・高度化の型が裸体的にみられる。(「思惟の形式はまず人間

の言語の中に表出され貯えられている。」ヘーゲル(武市健人訳)『大論理学』岩波書店、上巻の一、8頁)

 英語は対象(N1またはN0)の運動を5×2種類の基本文型に代表される認識の転換と連

合によって表現する。近代英語には約500年の歴史があるが、英語話者たちが集団的に洗

練させてきた認識の深化の基本型が5×2種類の基本文型なのである。

※基本文型ごとの認識の型をもう一度要約しておくと、①のSVCnは、ものごとSがある条件Cnの下でに到達している(V)という認識。この型が他の型の原形となっている。②③のSVCグルー

プは、ものごとSが②自己のもつ属性Aのもとにある(V)、あるいは③他物N2の属性の のもとにある(V)という認識。④⑤のSVOグループは、ものごとSが④N3との において〈即自かつ対自〉に到達している(V)という認識、あるいは⑤N4の とともに〈即自かつ対自〉に到達している(V)という認識である。⑥は以上の五つの認識の型を生成させる実体N0をそえた認識である。いずれも、SVの次にくる語はSVの広義の「条件」を補足しており、①から⑤へと順に実体性を濃くしていく。

  は、英語における「起こり」の認識は基本的に三種類あることも示している。図中

のbe、do、haveが表す〈存在・変化・保持〉である。be、do、haveがあらわす「起こり」

の内実はきわめて一般的抽象的なので、(a)SVOC(make型)と(b)SVOO(give型)に

おいては、

35

英語文型への接近

……

 ここに至って、吉本の と本稿の のちがいが明らかになる。吉本の は言語の

文学的な分析まで視野に入れて、基本ベクトルを〈自己表出/指示表出〉と表した。それ

に対して本稿は言語学的に英語の文型をつかむことが目的であるので、原点に〈即自〉(展

開以前の実体のあり方)をおき、Vのゾーンでは〈対自表出/対他表出〉のベクトルとし、

文型末尾のゾーンでは〈実体性弱・実体性強〉の基準をおく。Vから文型末尾の語までの

ゾーンは、SVの起こりがどのような条件Cn(文型①のCnと区別して広義のCnと呼ぶ)

のもとに起こるかを表現する場所である。以上のことを図にすると となる。

声音実体性強

話し手イラスト:平田ひよの

実体性弱

対自表出

対他表出

Cn(狭義)

Romeo.

・・・

36

国際教育センター紀要 第11号

 ここでいくつかの応用的な文の軌跡をたどってみよう。( )

・“Juliet loved Romeo.”は④型であるが、loveの意味がdo(変化)よりも have(保持)寄

りなので、④と⑤の中間の軌跡をとる。

・“Juliet put the knife on the table.”のタイプも分類上問題になるが、これは、“Juliet put

the knife”の部分はN1+V+N3の④型の軌跡をとるが、putの認識内容が対他性だけで

なく条件Cnを補足してはじめて対自性が満足できるものであるため、そのあと“on

the table”という①型の方向へとベクトルを転進させた文である。

・これまで分類がむずかしいとされてきた“Juliet was afraid of snakes.”のタイプはどう

説明できるか。“Juliet was afraid”の部分はN1+V+Aの②型に属するが、同時に“of

snakes”の部分も義務的である(安藤貞雄『英語の文型』前掲、11―12頁)。これはafraidが感

情をあらわすために対自性(≒自己表出性)が強いので、afraidがどのような条件Cnに

おいて起こるかを補足して客観性(聞き手にとってのわかりやすさ)を確保したいとい

う表出意欲が残る。そのためCn(①型)の方向へと表出のベクトルを転進させて、“of

snakes”を付加したのである。その結果、この文は にみるように原点から②に直線

で向かったあと①の方へ曲がる複合的な軌跡をもつ。

……

 以上のまとめとして、本節のはじめにあげた5つの基本文を例にして、話者の視点(主

37

英語文型への接近

③SVC(be-N型)

話し手

客体的表現(対象の実体的・関係的把握)

S V C

It

a terrorist attack.

Itwas

was a terrorist attack.

客体的表現(肯定判断・過去時称)

客体的表現(sの属性認識を媒介する実体)

認識の枠

「起り」の客体的表現(単数)

It was a terrorist attack.

主体的表現(肯定判断・過去時称)

話し手

客体的表現(対象の実体的把握)

S V O

The attack

killed

many people.

Theattack

killed many people.

客体的表現(「起こり」の対他性の対象)

認識の枠

The attack killed many people.

④SVO(do型)

「起り」の客体的表現

主体的表現(肯定判断・過去時称)

話し手

客体的表現(対象の実体的把握)

S V Cn

The buildings

In New York.The buildings

were

were in New York.

客体的表現(「起こり」の条件)

認識の枠

The buildings were in New York.

①SVCn(be/do型)

「起り」の客体的表現(複数)

主体的表現(肯定判断・過去時称)

話し手

客体的表現(対象の実体的把握)

S V CThe sky

The sky

blue

was

was blue.

客体的表現(Sの属性)

認識の枠

The sky was blue.

②SVC(be-A型)

「起り」の客体的表現(単数)

主体的表現(肯定判断・現在時称)

話し手

客体的表現(対象の実体的・関係的把握)

S V OWe have the memory.

客体的表現(「起り」によって自在の状態にある対象)

認識の枠

We have the memory.

⑤SVO(have型)

「起り」の客体的表現

thememory

We

have

38

国際教育センター紀要 第11号

体的視点)からみた認識の連合の仕方をイメージ図にしたのが である。

 さらに認識の転換と連合の様子を加えたものが である。文のベクトルをロ

ケットの軌跡にたとえれば、ロケットの噴射口(話者の視点)からみた様子が「認識の枠」

のなかに描いてある。そしてロケットの飛行を地上から観察した様子がその下に描いてあ

る。(なお、図11―1~5にある客体的表現/主体的表現については、三浦陽一「英語時称の言語過程」『中

部大学人文学部紀要』2010年7月前掲を参照されたい)

おわりに

 ある言語が独立しているのは、独自の表現素材と独自の表現形式をもつからである。英

語の独特の発音は独自の表現素材であり、英語の文型は英語独自の表現形式である。

 本稿は、英語の文型という森の入口への道順を示したにすぎない。森のなかには典型的

な樹木のほかにいくつもの小景が見える。それは森の美をつくる要素でもあるが、その検

討は別の機会にゆずる。小論のタイトルを「英語文型への接近」としたゆえんである。

参考文献

尼ヶ崎彬『ことばと身体』勁草書房、1990年安藤貞雄『英語の文型』開拓社、2008年岩佐茂ほか『ヘーゲル用語事典』未来社、1991年ウオルター・マーチ(吉田俊太郎訳)『映画の瞬き 映像編集という仕事』フィルムアート社、

2008年斎藤秀雄(小澤征爾ほか編)『斎藤秀雄講義録』白水社、1999年三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』(初出1954年、現在講談社学術文庫)三浦陽一「英語時称の言語過程」『中部大学人文学部紀要』2010年7月所収宮下眞二『英語文法批判』日本翻訳家養成センター、1982年吉本隆明『言語にとって美とはなにか I、II』(初版1965年、現在角川文庫)

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英語文型への接近

An Approach to the English Sentence Patterns

Yoichi MIURA

Abstract

Language speakers understand their objects through concepts. Concepts can be

classified into four categories by the degree of substanciality: substance, attribute,

condition, and connection. According to the categories of the words following SVs,

English basic sentences can be represented as vectors within the plane stipulated by two

benchmark vectors: for itself expression and of others expression. In the final analysis,

English has 5× 2=10 key sentence patterns which reflect dialectic cognition patterns

of human concepts.

Keywords: sentence patterns, concept, swithing and linking of cognition, for itself

expression and of others expression, dialectic