欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … ·...

13
- 1 - 潅頂における弟子の簡擇について 瀨岡 吉彦 要約 潅頂儀礼における弟子の簡擇の視点から、『大日経』『真実摂経』『大日経疏』を比較し、『大日経疏』 は『大日経』を『真実摂経』の立場から解釈したものであることを主張する。 目次 第1節 『真実摂経』における弟子の資質 第2節 『大日経』と『大日経疏』の第一の文 第3節 『大日経疏』の第二の文 第4節 『大日経』『真実摂経』以外密教経典における弟子の資質 [4-1] 『略出念誦経』 [4-2] その他の密教経典 第5節 結論 第1節 『真実摂経』における弟子の資質 『真実摂経』においては、潅頂儀礼に引入される弟子の「是器非器」は問われない。す なわち、次の如くである。 引用文<1> 金剛頂一切如來眞實攝大乘現證大教王經(不空訳)・大曼荼羅廣大儀軌品之 三(T865_,18,217b27 -c16) 次當廣説金剛弟子。入金剛大 次にまさに金剛弟子の金剛大曼荼羅に入る儀軌を広説す 曼荼羅儀軌。於中我先説令入盡 べし。中に於いて我は先ず入 らしめんことを説かん。 無餘有情界。拔濟利益安樂。最 尽無余有情界を抜済し、利益し、安楽する最勝の悉地の 勝悉地因果故。入此大曼荼羅。 因果の故なり。この大曼荼羅入るには是器と非器とを簡 是器非器不應簡擇。何以故。 擇すべからず。何をもっての故に。 (a)世尊或有有情作大罪者。彼入 (a)世尊、或いは有情ありて、大罪を作するもの。彼、 此金剛界大曼荼羅。見已入已。 この金剛大曼荼羅に入り、見終わり、入り終わって、一 離一切惡趣。 切の悪趣を離る。 ( b)世尊或有有情。諸利飮食貪 (b)世尊、或いは有情有りて、諸々の利と飲食と貪欲に

Upload: others

Post on 06-Aug-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 1 -

潅頂における弟子の簡擇について

瀨岡 吉彦

要約

潅頂儀礼における弟子の簡擇の視点から、『大日経』『真実摂経』『大日経疏』を比較し、『大日経疏』

は『大日経』を『真実摂経』の立場から解釈したものであることを主張する。

目次

第1節 『真実摂経』における弟子の資質

第2節 『大日経』と『大日経疏』の第一の文

第3節 『大日経疏』の第二の文

第4節 『大日経』と『真実摂経』以外の密教経典における弟子の資質

[4-1] 『略出念誦経』

[4-2] その他の密教経典

第5節 結論

第1節 『真実摂経』における弟子の資質

『真実摂経』においては、潅頂儀礼に引入される弟子の「是器非器」は問われない。す

なわち、次の如くである。

引用文<1> 金剛頂一切如來眞實攝大乘現證大教王經(不空訳)・大曼荼羅廣大儀軌品之

三(T865_,18,217b27 -c16)

次當廣説金剛弟子。入金剛大 次にまさに金剛弟子の金剛大曼荼羅に入る儀軌を広説す

曼荼羅儀軌。於中我先説令入盡 べし。中に於いて我は先ず入 らしめんことを説かん。

無餘有情界。拔濟利益安樂。最 尽無余有情界を抜済し、利益し、安楽する最勝の悉地の

勝悉地因果故。入此大曼荼羅。 因果の故なり。この大曼荼羅入るには是器と非器とを簡

是器非器不應簡擇。何以故。 擇すべからず。何をもっての故に。

(a)世尊或有有情作大罪者。彼入 (a)世尊、或いは有情ありて、大罪を作するもの。彼、

此金剛界大曼荼羅。見已入已。 この金剛大曼荼羅に入り、見終わり、入り終わって、一

離一切惡趣。 切の悪趣を離る。

(b)世尊或有有情。諸利飮食貪 (b)世尊、或いは有情有りて、諸々の利と飲食と貪欲に

Page 2: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 2 -

欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。 染著し。、三昧耶を憎悪するを先行とするもの等。かく

如是等類。隨意愛樂入已。則得 の如き等の類、意の愛楽に従って入り終われば、すなわ

滿一切意願。 ち、一切の意願を満たすことを得。

(c)世尊或有有情。愛樂歌舞嬉戲 (c)世尊、或いは有情有りて、歌舞、嬉戲、飲食、玩具

飮食翫具。由不曉晤一切如來大 を愛楽し、一切如来の大乗現証の法性を曉晤せずに由り

乘現證法性故。入餘天族曼荼羅。 て、余の天族の曼荼羅に入りて一切の意願を満たすこと

於滿一切意願。攝受無上。能生 において、無上を摂受し、能く愛楽、歓喜を生ず。一切

愛樂歡喜。一切如來族曼荼羅禁 如来族の曼荼羅の禁戒、怖畏して入らず、彼の為に悪趣

戒。怖畏不入。爲彼入惡趣壇路 の壇路の門に入る。まさにこの金剛大曼荼羅に入るべし。

門。應入此金剛界大漫荼羅。爲 一切の適悦最勝悉地、安楽悦意を受用せしめん為の故に、

令一切適悦最勝悉地。安樂悦意 よく一切の悪趣の現前の道を転ずる故に。

受用故。能轉一切惡趣現前道故。 (d)世尊、正法に住する有情有りて、一切の衆生のため

(d)世尊復有住正法有情。爲一 に、一切如来の戒定慧、最勝悉地、方便、仏菩提を求む

切衆生。求一切如來戒定慧最勝 る故に、久しく禅定、解脱、地等を修し、彼等を勞倦す。ろうげん

悉地方便佛菩提故。久修禪定解 この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

脱地等。勞倦彼等。入此金剛界 切如来の果、なお難じからじ。いわんや余の悉地の類に

大曼荼羅。纔入已。一切如來果 おいておや。

尚不難。何況餘悉地類。

第2節 『大日経』と『大日経疏』の第一の文

『大日経』では、阿闍梨の資質を述べた後、次のように弟子の資質が述べられる。すな

わち、次の如くである。

引用文<2> 大毘盧遮那成佛神變加持經(善無畏訳)・入漫茶羅具縁眞言品第二之一(0848_,

18,0004b03- 0004c01)

復次祕密主彼阿闍梨。若見衆生 <また次に、祕密主、彼の阿闍梨、もし衆生を見て

(1)堪爲法器 (1)法器と為るに堪え、

(2)遠離諸垢。 (2)諸垢を遠離し、

(3)有大信解勤勇深信。 (3)大信解・勤勇・深信あり

(4)常念利他 (4)常に利他を念ず。

Page 3: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 3 -

若弟子具如是相貌者。阿闍梨應自 もし弟子、かくの如き相貌を具うれば、阿闍梨、まさ

往勸發如是告言 に自ら往きて、勸發して、斯くの如く告げて言うべし。

(中略) (中略)

如上之所説或所意樂處 如上の所説或いは所意の樂處

利益弟子故當畫漫茶羅 弟子を利益する故に、まさに曼荼羅を画くべし。

『大日経疏』はこの文を次のように注釈している。

引用文<3> 大毘盧遮那成佛經疏(一行記)・卷第三・入漫荼羅具縁眞言品第二 (1796_,39,

0614a24- c20)

經云。復次祕密主。彼阿闍梨 経にいわく、復次祕密主。彼阿闍梨若見衆生。堪爲法

若見衆生。堪爲法器遠離諸垢。 器遠離諸垢。有大信解勤勇深信常念利他といっぱ、即ち

有大信解勤勇深信常念利他者。 これ阿闍梨の支分中に、弟子の儀式を摂受することを明

即是阿闍梨支分中。明攝受弟子 かす。この中に衆生、二種あり1)。

儀式也。此中衆生有二種。

(1) (1)

(a)或已發菩提心。往詣善知識所 (a)或いは、菩提心を発しおわり、善知識の所に往詣し、

求請眞言行法。 真言法を求請す。

(b)或未發菩提心。而師自鑒別 (b)或いは、未だ菩提心を発せずして、師、自らこれを鑒けん けん

之。知彼堪爲法器能持是法。 別し、彼、法器となるに堪え、よくこの法を持すること

(c)或於瑜伽中見(c1)彼根縁。 を知る。

(c2)或諸佛菩薩之所囑累。令爲 (c)或いは瑜伽中において、(c1)彼の根縁をみる。(c2)

灌頂而教授之。(c3)或親見衆聖 或いは諸仏菩薩にこれ囑累され、潅頂をなし、これを教

爲其作灌頂法。然後付囑令其教 授せしめるを見る。(c3)或いはまのあたりに、衆聖それ

授。 をなし、潅頂の法を作すを見て、然る後、付囑してそれ

を教授せしめるを見る。

有如是相乃可傳法也。如貧里 かくの如き相あれば、すなわち法を伝うべきなり。貧里

穢食。不可置於寶器。輪王妙藥。 穢食の如きは宝器に置くべからず。輪王の妙薬、薄福の

不可使薄福之人輒爾服之。以 人に使うべからず。すなわち、それこれを服せば消せざ

Page 4: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 4 -

不消故。或能斷命故。須函蓋相 るを以ての故に。或いはよく命を断つ故に。すべからく

稱則授受皆得其宜。 函蓋相稱して、すなわち授受すれば、皆宜しきを得。

(2) 又如弊衣垢膩滋甚。則不可 (2)また、弊衣、垢膩し、しげく甚だしきは、すなわち

頓加染色。先當教令澣灌。然後 頓に色を加染すべからず。先にまさに教えて澣灌すべし。

可以施綵繪之功。衆生亦爾。若 然る後、以て綵繪の功を施すべし。衆生もまたしかり。

先習垢染。則不染法界之色。故 もし先に垢染を習えば、すなわち法界の色に染まず。故

須遠離諸垢也。 に、須く諸垢を遠離すべし。

(3) 有大信解者。此信解。梵音 (3)有大信解といっぱ、これ信解なり。梵音は阿毘目底

阿毘目底。謂明見是理心無疑慮。 なり。いわく明らかにこの理を見て心に疑慮なし。(中

如鑿井已漸至泥。雖未見水必知 略)下に深信といっぱ、これ信なり。梵音は捨 駄な

在近。故名信解也。下云深信者。 り。これ事に依り、人に依るの信なり。(中略)梵音は

此信。梵音捨 駄。是依事依 本、これ両名なり。唐音は、以てすなわち別なき故に、

人之信。如聞長者之言。或出常 同名、信と言うのみ。もし人、上の如き不思議法界を説

情之表。但以是人未嘗欺誑故。 くを聞かば、宿 殖の善本をもって神明明利なるが故に、しゆくじき

即便諦受依行。亦名爲信。與上 すなわちよく忍んでその言を受け、衆生の心中にさだめ

文信諸佛菩薩義同。梵語本是兩 てこの理ありと知る。名付けて信解とす。また先世おわ

名。唐音無以甄別故。同名言信 りて、かって善知識に親近する故に、三宝の縁において

耳。若人聞説如上不思議法界。 深し、處を比量籌度すべからずといえども、すなわち、じゆう

以宿殖善本。神情明利故。即能 よく懸信す。かるが故に深信という。勤勇これ精進の別

忍受其言。知衆生心中決有此理。 名なり。

名爲信解。又先世已曾親近善知 (中略)

識故。於三寶縁深。雖不可比量 籌じゆう

度處。即能懸信。故曰深信。勤

勇是精進別名。釋論云。譬如穿

井以見濕泥轉加精勤必望得水。

又如鑚火已得見煙。倍復力勵必

望得火。

故次信解而明勤勇也。所以然 かるが故に、信解に次いで勤勇を明かす。所以然るは、

Page 5: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 5 -

者。今此自然智慧。要因瑜伽。 今この自然の智はかならず瑜伽による。しかもこの瑜伽

而此瑜伽。必須大精進力。故釋 必ず大精進力を用ちう。

論云。禪定智慧。不可以福願求。 (中略)

亦非麁觀能得。要須身心精勤急

著不懈爾乃成辨。如佛所説。血

肉脂髓皆使竭盡。但令皮骨筋在

不捨精進。如是乃得定慧。得是 斯くの如く、すなわち定慧を得。この二事を得て、すな

二事則衆事皆辨。故須具精進性 わち衆事、みな辨ず。かるが故に、須く精進性を具える

者。方可傳授也。 者は、まさに伝授すべきなり。

(4) 復次精進是一切善法之根 (4) また次に、精進、これ一切、善法の根本なり。能

本。能發動先世福徳。如雨潤種 く先世の福徳を発動す。雨、種を潤し、能く必ず生じせ

能令必生。若無勤勇之心。則雖 しめる如く、もし勤勇の心無くば、すなわち宿殖の業有

有宿殖之業。無由發起。乃至今 りと雖も、よりて発起することなし。なおし今世に至り

世利樂尚不可得。何況菩提道邪。 て利楽、なお得るべからず。いわんや菩提道をや。この

是故由發行因縁便得深信。以深 故に発行の因縁によりて、すなわち深信を得。深心をも

心故。即能志求勝法荷負衆生。 っての故に。すなわち、よく勝法を志求して、衆生を荷

須養以大悲胎藏令得増廣。故云 負す。須く養うに大悲胎蔵をもって、増広を得せしむ。

有常念利他之性者。方可傳授也。 かるが故に云う、常念利他の性ある者、まさに伝授すべ

復次阿闍梨。於瑜伽中。見聞 きなり。

諸佛菩薩稱其具如斯徳。或見在 また次に阿闍梨、瑜伽中に於いて、諸々の仏、菩薩そ

衆聖前。至誠懃懇希求道要。經 のかくの如き徳を具えると称するを見聞す。或いは衆聖

歴多時初不懈退。乃行利他之事 の前にありて、至 誠 、 懃懇 して、道要を希求し、多じよう ごんごん

救攝衆生。本尊哀愍遣令教授。 時を経歴して初めより懈退せず、すなわち利他の事を行

諸如是例可以意知。又深行阿闍 じ、衆生を救攝し、本尊、哀愍して遣じ教授せしむを見

梨六根淨故。見彼無量劫來障道 る。諸々のかくの如き例、意をもって知るべし。また深

成道因縁。無有錯謬。又於普門 行の阿闍梨、六根淨の故に、彼の無量劫來の障道、成道

漫荼羅根縁相攝之處。亦悉知之。 の因縁を見て、錯謬あることなし。また普門曼荼羅の根

乃名善觀弟子也。 縁相攝の處において、亦、悉くこれを知る。すなわち善

經云。若弟子具如是相貎者阿 く弟子を觀ると名付くるなり。

Page 6: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 6 -

闍梨應自往勸發如是告言者。此 經云。若弟子具如是相貎者阿闍梨應自往勸發如是告

有二義。 言といっぱ、此れに二義あり。

(i)一則除弟子疑心故。但恐無 (i)一つには、すなわち、弟子の疑心を除く故に。但し

智疑悔則爲永失。是以不妄與人。 無智、疑悔、すなわち永く失をなすことを恐る。是れを

必是可傳。自當求而授與不俟來 以って妄りに人に与えず。必ず是れを伝うべし。自らま

請也。 さに求めて授與し、來請を待たず。

(ii)二爲除阿闍梨悋心故。乃至 (ii)二つには、阿闍梨の悋心を除く故に。なおし無間

無間火聚中。有可流通亦當往赴。 の火聚の中に至りて、流通すべきあり、またまさに往き

況遇良縁求而不惠耶。 て赴かん。況んや良縁に会い求めて惠ぐまざらんや。

かくして、『大日経疏』の第一の文は、冗長の感はあるものの、ほぼ『大日経』の主

張にそって、潅頂に入る弟子を簡擇していると云うことができるであろう2)。

第3節 『大日経疏』の第二の文

ところで 、『大日経疏』では、第一の文の後に、ある状況のもとでは、弟子の資質を

問わないことを主張する、次の第二の文がある。

引用文<4> 大毘盧遮那成佛經疏・卷第四・入漫荼羅具縁眞言品第二之餘(1796_,39,0616c

25-0617a14)

偈云。如上之所説。或所意樂 偈に云う。如上之所説。或所意樂處。利益弟子故。當

處。利益弟子故。當畫漫荼羅者。 畫漫荼羅といっぱ、なおし諸々の勝地を求め至りて、皆

乃至求諸勝地皆不能得。不可令 得ること能わず。この密教を遂に伝えられること無きに

此密教遂無所傳。但隨阿闍梨心 せしめるべからず。ただし、阿闍梨の心、好樂されれば、

所好樂。謂有利益之地。即可造 利益の地ありという。すなわち、曼荼羅を造るべし。も

漫荼羅也。若深釋者。但觀彼有 し深釈すれば、ただし、彼、少分の善根ありて、正しく

少分善根正希願者。皆可擇其心 希願する者を観れば、皆、その心地を選び、治め、平正

地治令平正。爲造大悲漫荼羅也。 ならして。爲に大悲漫荼羅を造るべきなり。またこの衆

又此衆生。乃至好樂遮文荼荼吉 生、なおし遮文荼・荼吉爾を好樂する者、世間の小術に

爾者世間小術。亦於此門而攝受 至るまで、またこの門においてこれを摂受す。よくこの

之。能得見此本尊時。自然得見 本尊を見るを得るとき、自然に無量の聖衆を見ることを

Page 7: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 7 -

無量聖衆也。 得るなり。

問曰。上明擇弟子中。要具衆 問って曰く。上に弟子を選ぶを明かす中に3)、必ず 衆

徳堪爲法器方乃教授。而今擇地 徳を具え、法器となるに堪えるを、まさにすなわち教授

義中。乃至一豪微善無不得傳者 すべし。しかるに、今、地を選ぶの義の中に、なおし一

何耶。答曰。是中有二種弟子。 豪の微善に至りて、伝え得ざる者無しとは何ぞや。答え

若求傳法弟子堪紹阿闍梨位者。 て曰く。この中に二種の弟子あり。もしは伝法の弟子、

則簡非其人道不虚行。若結縁弟 阿闍梨の位をつぐに堪えるものを求めるは、すなわち、

子。則擧手低頭之善。無所不攝 非(器)を選んで、その人、道虚しく行わず。もし結縁

也。又深行阿闍梨以明見根縁故。 の弟子ならば、すなわち挙手低頭の善、摂せざるところ

或有人過去道機已熟堪爲法器。 なし。また深行の阿闍梨、以って明らかに根縁を見る故

而於現世之中。沒在泥滓截餘豪 に、或るいは、人ありて、過去の道機、すでに熟し、法

髮善根。故阿闍梨即擇此中少分 器になるに堪え、しかるに現世の中において、沒して泥

平地。開出祕藏漫荼羅。何必待 滓にあり、豪髮の善根を截餘す。故に阿闍梨、すなわちぜち

安心諦理之人。方作佛事。故與 この中に少分の平地を選び、秘蔵曼荼羅を開出す。何ぞ

前説不相違也。 必ず安心諦理の人を待ち、まさに仏事を作すや。ゆえに、

前説と相違せず。

ここでは、微善の弟子にも潅頂を与える理由として、第一に、弟子を伝法と結縁に分け、

後者については、原則として簡擇しないこと、第二に、一見、微善にみえる人も、大きな

宿善があって隠されている場合があることが指摘されている。後者はともかく、前者は、

『大日経』と『真実摂経』との「融和」をはかったものに相違ない。

第4節 『大日経』と『真実摂経』以外の密教経典における弟子の資質

[4-1]『略出念誦経』

『一切如来真実摂経』の漢訳として、第1節で引用した不空訳の他に、施護訳(『三十

巻本』)と金剛智訳『略出念誦經』があると言われる(『岩波仏教辞典』)。ところが、潅

頂儀礼における弟子の非簡擇については不空訳と施護訳との間には差異はないが、『略出

念誦経』は、次のように(阿闍梨と)弟子の資質について述べている。

引用文<5>

金剛頂瑜伽中略出念誦經(金剛智訳)巻第一 (0866_,18,0223c14-0224b04)

Page 8: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 8 -

(i) (1)凡欲修行者。(2)有具智慧 (i)(1)およそ修行せんと欲する者、(2)智慧を具有

者。(3)明了於三摩耶眞實呪法。(4) する者、(3)三昧耶の真実の呪法において明了し、(4)

於諸壇場中。從尊者阿闍梨受潅頂已。 諸々の壇場の中において、尊者阿闍梨より潅頂を受

清潔其身。(5)無所畏懼深大牢強。 けおわり、 その身を清潔にし、(5)畏懼するところ

善調心勇志不怯弱。恭敬尊重衆所樂 なく、深大にして牢強、よく心を整え、勇志あり、

見。(6)哀愍一切常行捨施。(7)住菩 怯弱ならず、恭敬尊重、衆に見んことをねがわれ、(6)

薩戒樂菩提心。具如是功徳者。應依 一切を哀愍し、常に捨施を行じ、(7)菩薩戒に住し、

於師教勤修供養。(8)三摩耶應當守 菩提心をねがい、かくの如き功徳を具す者、まさに

護無令退失。(9)於金剛阿闍梨不得 師の教えによりて勤修供養すべし。(8)三昧耶、まさ

生輕慢。(10)於諸同學不爲惡友。(11) に守護して退失せしめることなく、(9)金剛阿闍梨に

於諸有情起大慈悲。(12)於菩提心永 おいて輕慢を生じえず、(10)諸々の同学において悪

不厭離。 友をなさず、(11)諸々の有情において大慈悲を起こ

於一切壇法中。具足種種智慧功徳者。し、(12)菩提心に於いて永く厭離せず、一切の壇法

許入念誦設護摩受潅頂等法。 の中に於いて、種々の智慧功徳を具足する者、念誦

に入り、護摩を設け、潅頂等の法を受くることを許

せ。

(ii)於此金剛界大壇場。説引入金 (ii)この金剛界大壇場において金剛弟子を引入する

剛弟子法。其中且入壇者。爲盡一切 法を説かん。その中、しばらく入壇する者は、こと

衆生界。救護利樂。作最上所成事故。ごとく一切衆生界の為に、利楽を救護し、最上の所

於此大壇場。應入者不應簡擇器非器。成の事を作する故に、此の大壇場において、まさに

所以者何。 入る者、まさに器非器を簡擇すべからず。所以は、

いかん。

(a)世尊或有衆生4)造大罪者。是等 (a)世尊、或いは衆生ありて、大罪を造るもの。これ

見此金剛界大壇場已。及有入者。一 ら、この金剛大壇場に見終わり、及び入るものあら

切罪障皆得遠離。 ば、一切の罪障、皆遠離するを得。

(b)世尊復有衆生。耽著一切資財飮 (b)世尊、また衆生有りて、一切の資財、飲食、欲

食欲樂。厭惡三摩耶不勤於供養。是 楽に耽著し、三昧耶を厭惡して供養において勤めず。

彼人等於壇場。隨意作事得入者。一 この彼の人等、壇場において、意に随って事を作し

切所求皆得圓滿 入り得る者は、一切の所求、皆円満す。

Page 9: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 9 -

(c)世尊或有衆生。爲樂妓樂歌舞飮 (c)世尊、或いは衆生有りて、妓樂・歌舞・飮食を楽

食。隨意所行故。爲不了知一切如來 することを為し、意に随って行ずるところ故に、一

大乘。無問法故。入於餘外道天神廟 切如来の大乗を了知せざるため、余の外道の天神廟

壇中。爲成就一切所求故。至於一切 壇の中に入り、一切の所求を成就する為の故に、一

如來部壇場戒。攝取衆生事。能生無 切如来部の壇場戒に至り、衆生の事を摂取し、能く

上愛喜者。怕怖畏故不入是彼等入住 無上の愛喜を生ずる者、怕怖畏する故に、これに入

惡趣壇場道者。亦堪入於金剛界大壇 らず、彼等悪趣壇場に入住する者、また金剛界大壇

場。爲獲一切喜樂最上成就。得意悦 場に入るに堪え、一切の喜楽、最上の成就を獲るた

安樂故。及爲退一切惡趣。所入道門 めに、意悦安樂を得る故に、及び一切の悪趣の所入

故。 道門を退けんがための故に。

(d)於禪解脱等地勤修苦行。亦爲彼 (d)禅、解脱等の地において苦行を修す。また彼等

等。於此金剛界大壇場。纔入亦得。 のために、この金剛界大壇場において、わずかに入

不難得一切如來眞實法。何況諸餘所 りまた得。一切如来の法を得ること難からず。いわ

成。 んや諸々の余の所成においておや。

(iii)若有諸餘求請阿闍梨。或阿闍 (iii)もし諸々の余ありて、阿闍梨に求請せば、或

梨。見於餘人(ア)堪爲法器(イ)離於過 いは阿闍梨、余人において(ア)法器になるに堪え、(イ)

失。(ウ)廣大勝解心行敦徳。具足信 過失を離れ、(ウ)廣大なる勝解・心・行ありて、徳に

心(エ)利樂於他。見如是類已。雖不 敦く、信心を具足し、(エ)他に於いて利楽す。斯くの

求請應自呼取告之。 如くの類を見終われば、求請せずといえども、まさ

善男子於大乘祕密行之儀式。當爲 に自ら呼取して、これに告ぐべし。善男子、大乗秘

汝説。於大乘教中汝是善器。若有過 密行の儀式において、まさに汝のために説かん。大

去應正等覺。及以未來現在依護者。 乗教中において汝、これ善喜なり。(中略)

所住世間爲利益者。彼皆爲了此祕法

故。於菩提樹下獲得最勝無相一切智

勇猛釋師子。由獲得祕密瑜伽故。推

破大魔軍驚怖 人者。是故善男子。

爲得一切智故。於彼應作正念。

(iv) 持誦者如是多種。喜利彼已 (iv)持誦者はかくの如く多種なり。かれを喜利し

心生愍念。的知堪爲弟子。應當爲彼 おわりて、心に愍念を生ず。まさに弟子となるに堪

Page 10: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 10 -

善遍開示常念誦時作法事處。 うことを知る。まさに彼の爲に善く遍ねく常に念誦

する時と法事を作する處を開示すべし。

この文中で(i)は、潅頂を授ける阿闍梨の資質を問うていると考えるべきであろう5)。...

実際、『大日経』の阿闍梨の資質を問う文とこの文とを比較すると次の如くである。

引用文<6>大毘盧遮那成佛

金剛頂瑜伽中略出念誦經(金剛智訳)巻第一 (0866_,18,022 神變加持經、入漫茶羅具縁

3c14-0224a04)(引用文<5>の(i)) 眞言品第二之一(0848_,18,

0004a26- b02)

漫茶羅位初阿闍梨。

(1)凡欲修行者。

(2)有具智慧者。 (a)應發菩提心。

(3)明了於三摩耶眞實呪法。 (b)妙慧慈悲兼綜衆藝。

(4)於諸壇場中。從尊者阿闍梨受潅頂已。清 (c)善巧修行般若波羅蜜。

潔其身。 (d)通達三乘。

(5)無所畏懼深大牢強。善調心勇志不怯弱。 (e)善解眞言實義。

恭敬尊重衆所樂見。 (f)知衆生心。

(6)哀愍一切常行捨施。 (g)信諸佛菩薩。

(7)住菩薩戒樂菩提心。 (h)得傳教潅頂等。

具如是功徳者。應依於師教勤修供養。 (i)妙解漫茶羅畫。

(8)三摩耶應當守護無令退失。 (j)其性調柔離於我執。

(9)於金剛阿闍梨不得生輕慢。 (k)於眞言行善得決定。

(10)於諸同學不爲惡友。 (l)究習瑜伽。

(11)於諸有情起大慈悲。 (m)住勇健菩提心。

(12)於菩提心永不厭離。

於一切壇法中。具足種種智慧功徳者。許入念 祕密主如是法則阿闍梨。諸

誦設護摩受潅頂等法。 佛菩薩之所稱讃。

見られるように、『略出念誦経』の項目のほとんどは、『大日経』のそれに相応してい

る。ただし、『略出念誦経』の(9)「於金剛阿闍梨不得生輕慢」(この阿闍梨とは、潅頂を

おこなう阿闍梨自身が潅頂を受けた阿闍梨であると解釈せざるを得ない)と(10)「於諸同

Page 11: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 11 -

學不爲惡友」には『大日経』に対応する項目がない。

それにしても、一旦(ii)で弟子の簡擇を否定しながら、(iii)で再び弟子の資質を要求

しているのは、どのように解釈すべきであろうか。この疑問を解くのは「若有諸餘求請阿

闍梨。或阿闍梨。見於餘人・・・」という箇所である。ここで「余」または「余人」は、(ii)

では満足しない他の部分と解釈すれば、『大日経疏』にならって、(ii)は結縁潅頂、(iii)

は伝法潅頂に対応すると考えることができる(事実、「国訳一切経」の訳者はそのように

解釈している)。

いずれにせよ、引用文<5>の(ii)は『真実摂経』の引用文<1>の内容そのままであり、

引用文<5>の(iii)は『大日経』の引用文<2>の内容そのままである。これは『略出念誦経』

が両経の混淆として編まれたことを示唆している6)。

[4-2]その他の密教経典

遠藤[3](p.288)は、弟子の簡擇を問題にしている経典として、上掲のものの他、次を

挙げている。

(i) 『金剛頂經一字頂輪王瑜伽一切時處念誦成佛儀軌 』(No. 0957 不空譯 ) in Vol.19

(ii) 『觀自在菩薩如意輪瑜伽』(No. 1086, 不空 ) in Vol. 20

(iii)『觀自在如意輪菩薩瑜伽法要』 (No. 1087, 金剛智 )in Vol. 20

(iv)『甘露軍茶利菩薩供養念誦成就儀軌』(No. 1211 不空譯 ) in Vol. 21

(v)『蕤呬耶經』 (No. 0897 不空譯 ) in Vol. 18

(vi)『蘇悉地羯羅經』 (No. 0893C, 輸波迦羅 =善無畏)in Vol. 18

その一々についての詳細は補論にゆずるが(省略)、特に気付いた一点だけを述べる。

すなわち、(vi)を除く他の全ての経典には、弟子の資質として、「良い家柄(種族)の出

身であること」を要求していることである。すなわち、弟子の資質の一つとして

(i)では、「族姓具相好」(0957_.19.0320c12)

(ii)では、「族姓敬法者」(1086_.20.0207a03)

(iii)では、「族姓敬法者」(1087_.20.0211b27)

(iv)では、「族姓具諸根」(1211_.21.0042b15)

(v)では、「謂族姓家生」(0897_.18.0762c24)

をそれぞれ挙げ、かつ(v)では、弟子の資質のない者として、「下賤家生」(0897_.18.07

63a01)と「生於穢族」(0897_.18.0763a04)を挙げている。

Page 12: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 12 -

『真実摂経』はもちろんのこと、『大日経』でもこのような、家柄による限定がないこ

とを考えると、これらの経典は、たとえインドで作られたものであっても、また有名な訳

者を持っていても、かなり未成熟な段階での「経典」として扱うべきであろう。その意味

では、逆に、そのような限定をもたない(vi)『蘇悉地羯羅經』に注目すべきであろう。す

なわち、そこでは、阿闍梨(と「同伴」)には高い資質を要求するが、潅頂を受ける弟子

には次のように要求しているだけである。

引用文<7> 蘇悉地羯囉經 (輸波迦羅(=善無畏)譯)分別阿闍梨相品第三(A0893_.18.

0605a03- a09)

弟子之法。視阿闍梨。猶如三寶 弟子の法、阿闍梨を見るに、なおし三宝及び菩薩等の

及菩薩等。爲能授與歸依之處。於 如し。能く授与し帰依する為の処なり。諸々の善事に

諸善事。而爲因首。現世安樂。當 おいて、しかも因の始めとす。現世は安楽、当来は果

來獲果。爲依阿闍梨故。不久而得 を獲る。阿闍梨に依るが為の故に、久しからずして無

無上勝事所謂菩提。以是義故。比 上の勝事、いわゆる菩提を得。この義をもっての故に、

之如佛。以爲弟子。承事闍梨。無 これに比すること仏の如し。以て弟子とす。闍梨に承

有懈怠。勤持不闕。所授明王及明 事すること、懈怠あることなし。授かるところの明王

王妃。當得悉地必無疑也 及び明王妃を闕かさず勤持せよ。まさに悉地を得るこ

と必ず疑いなし。

第5節 結論

潅頂において『大日経』は弟子を簡擇している。それに対して『初会金剛頂経』では、

弟子を簡擇していない。『大日経疏』は、潅頂を二種に分け、結縁潅頂には弟子を簡擇し

ないが、伝法潅頂では簡擇するとしている。この意味でも、『大日経疏』は『大日経』の

単なる解説書ではなく、それを『金剛頂経』的に解釈したものと言わざるをえない。

もっとも、『金剛頂経』系でも別の経典では、弟子を簡擇しているが、これらの経典

は第4節[4-2]で述べた理由からも余り信用できない。したがって、現在の潅頂が結

縁潅頂と伝法潅頂(および・または、受明潅頂)に分かれる「典拠」は、今のところ『大

日経』と『真実摂経』の混淆と考えられる『大日経疏』と『略出念誦経』以外に求めるこ

とはできない7)。

Page 13: 欲染著。憎惡三昧耶。爲先行等。染著し。、三昧耶を憎悪するを … · ろうげん 悉地方便佛菩提故。久修禪定解この金剛界大曼荼羅に入り、わずかに入り終われば、一

- 13 -

参考文献

[1]上田霊城「結縁潅頂の庶民化(一)」印度学仏教学研究 37(19-1),1970

[2]上田霊城「結縁潅頂の庶民化(二)」印度学仏教学研究 39(20-1),1971

[3]遠藤祐純『金剛頂経研究』ノンブル社, 2008

[4]小野塚幾澄「金剛超瑜伽中略出念誦經について」印度学仏教学研究20(10-3)1962

[5]田中公明『超密教時輪タントラ』東方出版、1994

1)この「二種」とは、弟子となる資質を持つものと持たないものである。

2)ただし、特に、引用文<3>の最終部分の「乃至無間火聚中。有可流通亦當往赴。」という文は注目すべ

きであろう。それは、弟子となる器は地獄にいる大悪人にもいることを示唆しているからである。

3) 引用文<3>>をさす。

4)不空訳、施護訳ともに「衆生」という語句は使われないが、『略出念誦経』では「有情」という語句の

他に、「衆生」が盛んに用いられている。

5) 『国訳一切経』では 『略出念誦経』を各段に分けて、引用文<5>の(i)の段を表示して「二、愛法者

の資格を明かす」としている。「愛」は明らかに誤植であるが、これが「受」の誤りか、「授」の誤りか

で大きな違いが生じる。以下で述べる理由によって、一応は後者とした。

6)小野塚幾澄氏は、つとに『略出念誦経』の執金剛阿闍梨偈等を検討された結果、「大本の金剛頂経は別

としても、少なくともこの略出経は、その抄出者が、大日経の思想を可成りよく理解していたか、また

は大日経を大いに参考にしたということを想像させうる」([4]p.117)と述べられている。

7)上田霊城氏は、[1][2]において、結縁潅頂が近世江戸期になって急速に庶民に広まったこと、その仕

掛け人は淨厳(1639- 1702)と蓮体(1663-1726)であったと述べられている。しかし、そのような運動の

基礎となる淨厳の理論(上田[2]pp.241-242)は、今ひとつ納得がいかない。

田中公明氏は、弟子の資質への要求が、『金剛頂経』で変容することを述べ、続いて「つまり、宗教が

信徒を増やし、勢力を拡大するには、広く大衆に門戸を開放しなければならないが、指導者となるべき

人材は、慎重に選ばなければならないというわけである。そこで密教では一般信徒向けアマチュア用の

潅頂とプロフェッショナル用の潅頂が区別されるようになった。」(田中[5]p.125)と述べられている。事

実としてはそうであろうが、『金剛頂経』のこのような変容が実は『大日経』の影響の下で進められた..

ことに注意すべきであろう。