越ヶ谷宿~粕壁宿 越ヶ谷宿~北越谷 -...

1
④白屋旅館 建長元年板碑 久伊豆神社 天嶽寺 ⑩鍛冶忠(雑貨商) ⑧木下半助商店 埼玉県 越谷市 ディーグラフォート 和幸楽器 49 52 404 52 325 19 越ヶ谷2 石川医院 ビジネスホテル岡本 越谷2北 越谷2 水道企業団 越ヶ谷3 埼玉懸県信金 観世音堂 越谷5 高元建設 ふれあい公園 社務所 越谷 大沢公園 大沢1 越谷局 大沢1 くるまやラーメン 大沢2 かごの屋 公民館 第一体育館 越谷消防署 大沢3 埼玉 りそな 山田歯科 大沢小 ライフピア 黒田ビル トヨタ 東口 北越谷駅入り口 東急ストア 足利 大沢3 御殿町 中町 香取神社 越谷御殿跡 天嶽寺 久伊豆神社 レザン 商工会 越ヶ谷本町 豊田設備 夢空間 会田金物店 大野家 横田診療所 旧白屋旅館 行徳屋 田中米殻店 光明院 弘福院 本陣問屋大松福井家 越ヶ谷本町 米長乾物店 遠藤家の蔵 照光院 古奥州道 大房村道 きどころパン 弓道場 あおい ふれあい公園 緑の森公園 越ヶ谷 一里塚 越ヶ谷小学校 ナカノヤ 桐センター江戸屋 フカノマテリアル 天理教 及川釣具店 岡埜製菓 天理教前 越谷消防署前 茶畑入口 駅東口 大沢4 大沢3 越ヶ谷小前 鍛冶忠 大沢池 大沢という地名は、昔、大小いくつもの 池沼からなっていた沼沢地であった。長元 7年に住人、深野源三郎という人が富士山 に登り、大沢の滝から、影向石という石を もち帰って、浅間神社(いまはなくなって います。)をお祀りしたからという説もあ ります。 藁の鳥居 木にわらを巻いたものを 横木とした珍しい鳥居です。 15 埼玉県越谷市 越ヶ谷宿~粕壁宿 歩行距離1547m18分) http://nikko-kaido.jp/ [email protected] 歩く地図でたどる日光街道 越ヶ谷宿 ~ 北越谷 日本橋から6番目の一里塚があ る。痕跡が全くない。 6 越ヶ谷一里塚 ⑭米長乾物店 ②田中米店 ③行徳屋 ⑤横田診療所 ⑯市神社 越谷御殿跡碑 ⑫遠藤家の蔵 浅間神社 ⑪会田金物店 河内屋旅館 縛られ狛犬 享保7年(17 22)奉納 の足を麻縄で縛られた石造りの狛犬があ る。願をかけると、家出人が戻って来た り、悪所通いをしなくなるとの信仰があ る。 建長元年板碑 市内で最古、最大の 板碑で板石塔婆とも称されます。中世に 流行した供養塔で、建長元年(1 249年) の銘が刻まれています。高さ155cm、 幅56cmで弥陀一尊の梵字が刻まれ、鎌 倉期の特徴がよく表れています。 ⑦浅間神社 文明 8年 (1476)の奉納になる御正 躰が保存されている。境内 のケヤキは幹囲7m、樹高 23m、幹は地上6mのところ で6本に分岐さらに上方で 多数の枝を広げている、樹 齢約600年。 ⑥有瀧家のタブノキ タブノキは、幹回り 3.7m、樹 高17m、 枝張り (径)は10mである。樹齢 は 400年以 上と推定され る。 塗師屋 木下半助商店 浅間神社 弘福院 ⑰岡埜製菓 ⑮大野屋 ⑲本陣大松福井家跡 越ヶ谷宿の本陣は当初越ヶ谷本町の 会田八右衛門が世襲で勤めていたが、 安永3年(1774)没落、越ヶ谷町から 退転した。名主、問屋、本陣、3役兼 帯、その後、照光院が仮本陣を務める が、安永9年大沢町の福井権右衛門家 が明治3年の本陣脇本陣廃止まで続 く。 市神社 神明社 市神社跡 ⑬天麩羅蒲焼「稲荷屋」 久伊豆神社参道入口藁の鳥居 稲荷屋 高札場 越谷宿の参勤交代 越ヶ谷宿は参勤交代で38藩以上が宿を 利用した。弘化5年(1848)仙台藩伊達 陸奥守の場合は、家来衆は玉屋彦右衛門 (脇本陣)、虎屋伊左衛門(脇本陣)、 かのふ屋富蔵など55軒。坊主足軽衆はめ うが屋つめ、河内屋治郎左衛門、難波屋 長治郎など21軒。小人衆は亀屋甚内、若 野屋金次郎、住吉屋嘉助など14軒。日雇 衆は小林屋、畑野屋など2軒。仙台藩一 行は本陣を含め93軒に分宿。本陣には祝 儀金3両3分、宿泊料金3両1分2朱と銀6匁 5分、風呂代薪8把分、銭4貫文、手伝い 人足4人文銭800文、馬5疋の飼料代銭2 貫64文。 coffee time 1 2 3 4 5 6 7 8 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 ⑱饂飩屋 元和1年(1615)創業の温鈍屋があ った。フランスギメ美術館の創始者エ ミールギメも訪れスケッチを残したし かし、平成23年(2011)火災で焼失し た。 千住馬車鉄道 明治26年2月~30年3月まで千住茶釜崎 から粕壁最勝院まで千住馬車鉄道が通 っていた。1頭立てで乗客定員1 2名、6 人が向かい合って座り、駅者車掌が乗 って千住~粕壁間40㎞を3時間かかっ て運行されていた。(乗合馬車の2倍 の早さ)大沢駅は大松屋(本陣)前、 大沢~千住茶釜崎まで途中草加馬と乗 客が一休みし片道40銭、約2時間を要 した。千住からは2頭立ての乗合馬車 で浅草広小路まで行くことができた。 東武鉄道開業により明治33年2月2日に 廃業した。 越谷宿の伝馬負担 伝馬屋敷(表間口6間以上)は馬一 株につき1疋負担。歩行屋敷(表間口6 間未満)人足1人負担(馬1疋は人足2 人分に相当する) 越ヶ谷町 伝馬役1 20軒半、歩行役21 軒。大沢町 伝馬役73軒、歩行役5軒 (宝永4年1707)。伝馬役・歩行役の 屋敷株を所有した者が本百姓身分とし て町政に参加できた。その他の者は地 借店借と称され身分が区別されてい た。 越谷宿の問屋場 問屋場は当初、名主宅持ち回りであ ったが、宝永4年2月中町の名主会田五 郎平宅、大沢町名主江沢太郎兵衛宅の 2カ所に定着した。問屋場の経費は、 越ヶ谷町85軒、大沢町55軒の合計140 軒の伝馬役1軒2両3分の出金・合計385 両で賄われていた(安永2年の定め) 諸経費の内訳は帳付け、人馬差しなど の給与、事務用品、本陣御用宿の補 助、人馬買上賃など。 越谷宿の食売旅籠屋 越ヶ谷宿文化文政期(1804~29)飯 盛旅籠屋22軒大沢下組に集中してい た。享保年間までは江戸の女がほとん どであったが、その後、越後からの女 が多くなった。文政10年(18 27)飯盛 旅籠屋1軒あたり銭105貫500文町銭と して納めた。明治6年食売女解放令に より衰退する。 天嶽寺 この寺は城砦といわれ、家 康、秀忠、家光も狩猟の時に訪れていた という。 山門は黒門で、境内中ほどには赤門が ある。黒門は四代住職が正親町天皇の第 三皇子であったので、門の屋根に菊の紋 章の鉄鋲が施されている。赤門は家康よ り寺領高15石が寄進された時に許されて 建立されたと伝えられている。 本尊は「木造釈迦如来涅槃像」は普通 の立像、座像とちがいきわめて珍しい。 越谷吾山 越谷市出身の江戸中期の俳人で、わが 国初の方言の研究書「諸国方言物類称 呼」を著した越谷吾山の墓と句碑があ る。「ひとつるべ水の光やけさの秋」 入口の庚申塚に宝永年間(1673)の庚 申塔、元禄8年(1695)の青面金剛庚申 塔などがたくさんある。参道には「か八 しも二郷半、川かみかすかべ」と刻まれ ている。 coffee time 麻雀東東 酒処びー子 運寿司 中華宝来 一割屋 脇本陣「虎 屋」山﨑次兵 衛跡 八木橋学習会 の南隣、生そ ば三舛屋あた 問屋場江沢 太郎兵衛屋 敷跡 若松印刷、 中田絵画教 室南隣 脇本陣「玉屋」深野彦右衛門跡 深野造園の北隣あたり 脇本陣つちや(推定) 梅花山照光院 鐘楼は安永8年(1779)6 月鋳造。三ノ宮一乗院末、樽不動を安置 し。せり「新編武蔵風土記稿」「明治10 年2月この地に大沢小学校開校さる」の 碑。福井家が天明元年(1781)に本陣を 引き受けるまでは仮本陣をつとめてい た。 阿久津乳業 黒田履物店 生そば三舛屋 「御成道鳩ヶ谷宿 江出る道筋有レ 之」(日光・奥州 ・甲州道中宿村大 概帳) 金麟園茶舗 NTT東日本 まつやま呉服店 寿司平野屋 もんや本店 ⑨塗師屋 「太物荒物店 塗師屋市右 衛門」(東興商人鑑講) 鈴木金物 おかもと 越ヶ谷5 ⑳弘福院 円空作による阿弥陀如来の坐像(総高 36.87cm)で優れた作品がある。 埼玉県内に残された円空仏は元禄2年 (1689)日光山登山へ向かう途中に彫刻 されたものといわれる。 弘福院の円空仏も同年のものとみられ ている。円空は寛永9年(163 2)美濃国 竹ケ鼻の生まれ、幼年にして仏門に入り 白山頂上などにこもって修業を積んだ が、富士山頂での修業には霊感をうけ仏 像十二万体を彫ることを念願したといわ れ、全国各地を歩いて木彫仏を残した が、元禄8年(1695)美濃国弥勒寺前の 長良川河畔で生定した。生年六十三歳 (越谷市教育委員会掲示より) 新町八幡神社 有瀧家のタブノキ 脇本陣四ツ目屋(浜野家) 名主問屋本陣会田八右衛門家 本陣会田八右衛門家 は安永2年(1773) 没落 問屋場会田五郎兵衛跡 9 饂飩屋跡 本陣大松福井家(きどころパン店) 久伊豆神社 「宿の東のかたに久伊豆大明神といふ 大社あり。所の鎮守なり。久伊豆三左衛 門といふ人をまつりしよし」(日光道中 行程記安見絵図) 久伊豆神社は、古来より四丁野村、越 ヶ谷宿、大沢町、瓦曽根町、神明下村、 谷中村、花田村の七ヵ村の総鎮守でし た。国学者平田篤胤の寓居「松越庵」、 その門人が寄進した藤棚、参道には土井 晩翠の歌碑「気吹の屋いづみの霊の宿れ りし あとなつかしき越ヶ谷のさと」が ある。越谷吾山の「出る日の旅のころも やはつかすみ」の歌碑もある。 延宝3年(1675)に建てられた手水舎 は、「登龍門」の彫刻がある。 平田篤胤 江戸後期の国学者。日本古来の神道 を主張し、儒教と仏教を激しく攻撃 し、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響 を与えた。越谷の富商油屋山崎長右衛 門は篤胤の門人で、越谷の納豆屋の娘 おりせを後妻に世話をした。 越ヶ谷の由来 台地の麓の低湿地帯の意味 で、古利根川と綾瀬川に囲ま れ、中央に元荒川が蛇行して流 れる低湿地帯だった 。穀倉地 帯で江戸城下への野菜の供給地 でもある。 越ヶ谷町は奥州街道(のちの 日光街道)の宿場町として誕生 しましたが、はじめ、町は本町 と新町に分けられましたが、土 豪会田出羽が所有していた土地 があり、そこを中町と名付けま した。 coffee time 二郷半領の碑(場所未確認) 参道の中程には、二郷半領の碑があ る。二郷半とは江戸初期、吉川・彦成の 二郷と彦成以南は下半郷とし、合わせて 二郷半領と呼んだという。 葛西用水・逆川 「越ヶ谷御殿跡」碑の下を流れるの は、「宿内字元荒川有。幅大概四拾間 程、橋渡也。此川水元は武州大里郡熊ヶ 谷宿裏手より流れ来、流末は星川と落 合、夫より古利根川と落合、夫より海上 江落る」(日光・奥州・甲州道中宿村大 帳) 万治3年(1660)幕府代官伊奈半左衛 門忠克が利根大堰から水田の灌漑として 取り入れ、葛西用水・逆川となり元荒川 の下を潜る伏越となっている。 越ヶ谷御殿跡 徳川家康によって慶長9年(1604)に 設けられた御殿で、その広さはおよそ現 在の御殿町全域と推定されている。 「此宿字大沢板橋脇四、五町右之方に 字御殿場と申所有レ之、寛文之比(1661 ~73)は御殿有レ之由申伝ふ」(日光・ 奥州・甲州道中宿村大概帳) 当初この地は越ヶ谷郷の土豪会田出羽 の陣屋があったが、家康が増林にあった 御茶屋御殿を移し、家康・秀忠などがし ばし訪れて泊まり、鷹狩をしていた記録 が残されている。明暦の大火(明暦3年 1657)で江戸城本丸、二の丸の復旧のた め移築されたが、文久年間(1861~ 1864)に消失してしまった。 越谷宿本陣の食事 参勤交代で本陣に宿泊するお殿様の食事 は、【夜】御平:椎茸、ゆば、長芋、竹の 子、三つ葉 御皿:くわい、蓮根、かんぴょ う、しいたけ、ひろゆば 御汁:しいたけ、 焼き豆腐、青葉 香の物:大根の味噌漬け、 しょうがの糀漬 御膳:米【朝】御平:あん かけ豆腐、しょうが 御汁:大根の千本切り 御皿:竹の子 香の物:大根の味噌漬け、 大根の糀漬 【弁当】玉子焼き、こぶたけの うまに、よせ豆腐 coffee time 塗師屋(小泉市右衛門宅) 大沢橋 江戸時代、境板橋と称されてい た。明暦元年(1655)に関東代官伊奈半 左衛門忠克によって架け替え工事がされ ているので、ここに橋が架かったのはか なり古い年代であると考えられる。 ①新町八幡神社 文和2年(1353)銘 の板碑を御神体としており、力石や絵馬 なども残っている。 神明社 越ヶ谷六斎市 (2.7日)の市神社であ る。 「蒲生村を過ぎ、越 ヶ谷に着き、荒川橋 を渡って大沢町の橘 屋に泊まる。よい宿 屋である。」(西遊 草清河八郎)

Upload: others

Post on 26-May-2020

7 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 越ヶ谷宿~粕壁宿 越ヶ谷宿~北越谷 - FC2tochigikanko.web.fc2.com/niko-dochu/chizu-pdf/k-15.pdf第一体育館 越谷消防署 大沢3 埼玉 りそな 山田歯科 大沢小

④白屋旅館

建長元年板碑

久伊豆神社

天嶽寺

⑩鍛冶忠(雑貨商)

⑧木下半助商店

埼玉県

越谷市

ディーグラフォート和幸楽器

49

52404

52

325

19

越ヶ谷2石川医院Hビジネスホテル岡本

越谷2北

越谷2

水道企業団

越ヶ谷3 埼玉懸県信金

観世音堂

越谷5

高元建設

ふれあい公園

社務所

越谷

大沢公園

大沢1

越谷局

大沢1

くるまやラーメン

大沢2

かごの屋

公民館

第一体育館

越谷消防署

大沢3

埼玉りそな

山田歯科 大沢小

ライフピア

黒田ビル

トヨタ

東口

北越谷駅入り口

東急ストア

足利

大沢3

御殿町

中町

香取神社

越谷御殿跡

建長元年板碑

天嶽寺

久伊豆神社

レザン

商工会

越ヶ谷本町

豊田設備

夢空間

会田金物店

大野家

横田診療所旧白屋旅館

行徳屋

田中米殻店

光明院

弘福院

本陣問屋大松福井家

越ヶ谷本町

米長乾物店

遠藤家の蔵

照光院

古奥州道

大房村道

きどころパン

弓道場

あおい

ふれあい公園

緑の森公園

越ヶ谷一里塚

越ヶ谷小学校

ナカノヤ

桐センター江戸屋フカノマテリアル

天理教

及川釣具店

岡埜製菓

天理教前

越谷消防署前

茶畑入口

駅東口

大沢4

大沢3

越ヶ谷小前

鍛冶忠

大沢池大沢という地名は昔大小いくつもの池沼からなっていた沼沢地であった長元7年に住人深野源三郎という人が富士山に登り大沢の滝から影向石という石をもち帰って浅間神社(いまはなくなっています)をお祀りしたからという説もあります

㉔藁の鳥居 木にわらを巻いたものを横木とした珍しい鳥居です

15埼玉県越谷市

越ヶ谷宿~粕壁宿

( 歩行距離 1547m 18分 )

httpnikko-kaidojpJZE00512niftynejp

歩く地図でたどる日光街道

越ヶ谷宿 ~ 北越谷

久伊豆神社

縛られ狛犬

日本橋から6番目の一里塚がある痕跡が全くない

6 越ヶ谷一里塚

⑭米長乾物店

②田中米店 ③行徳屋

⑤横田診療所

⑯市神社

越谷御殿跡碑

⑫遠藤家の蔵

浅間神社

⑪会田金物店

H河内屋旅館

㉘縛られ狛犬 享保7年(1722)奉納の足を麻縄で縛られた石造りの狛犬がある願をかけると家出人が戻って来たり悪所通いをしなくなるとの信仰がある

㉓建長元年板碑 市内で最古最大の板碑で板石塔婆とも称されます中世に流行した供養塔で建長元年(1249年)の銘が刻まれています高さ155cm幅56cmで弥陀一尊の梵字が刻まれ鎌倉期の特徴がよく表れています

⑦浅間神社 文明8年(1476)の奉納になる御正躰が保存されている境内のケヤキは幹囲7m樹高23m幹は地上6mのところで6本に分岐さらに上方で多数の枝を広げている樹齢約600年

⑥有瀧家のタブノキタブノキは幹回り

37m樹高17m枝張り(径)は10mである樹齢は400年以上と推定される

塗師屋

木下半助商店

浅間神社

弘福院

⑰岡埜製菓

⑮大野屋

⑲本陣大松福井家跡越ヶ谷宿の本陣は当初越ヶ谷本町の会田八右衛門が世襲で勤めていたが安永3年(1774)没落越ヶ谷町から退転した名主問屋本陣3役兼帯その後照光院が仮本陣を務めるが安永9年大沢町の福井権右衛門家が明治3年の本陣脇本陣廃止まで続く

市神社

神明社 市神社跡

⑬天麩羅蒲焼「稲荷屋」

久伊豆神社参道入口藁の鳥居

稲荷屋

高札場

越谷宿の参勤交代越ヶ谷宿は参勤交代で38藩以上が宿を利用した弘化5年(1848)仙台藩伊達陸奥守の場合は家来衆は玉屋彦右衛門(脇本陣)虎屋伊左衛門(脇本陣)かのふ屋富蔵など55軒坊主足軽衆はめうが屋つめ河内屋治郎左衛門難波屋長治郎など21軒小人衆は亀屋甚内若野屋金次郎住吉屋嘉助など14軒日雇衆は小林屋畑野屋など2軒仙台藩一行は本陣を含め93軒に分宿本陣には祝儀金3両3分宿泊料金3両1分2朱と銀6匁5分風呂代薪8把分銭4貫文手伝い人足4人文 銭800文馬5疋の飼料代 銭2貫64文

coffeetime

1

2 3

45

678

1011

1213

1415

1617

18

19

20 21

22

23 24

2526

27

28

29

⑱饂飩屋元和1年(1615)創業の温鈍屋があったフランスギメ美術館の創始者エミールギメも訪れスケッチを残したしかし平成23年(2011)火災で焼失した

千住馬車鉄道明治26年2月~30年3月まで千住茶釜崎から粕壁最勝院まで千住馬車鉄道が通っていた1頭立てで乗客定員12名6人が向かい合って座り駅者車掌が乗って千住~粕壁間40を3時間かかって運行されていた(乗合馬車の2倍の早さ)大沢駅は大松屋(本陣)前大沢~千住茶釜崎まで途中草加馬と乗客が一休みし片道40銭約2時間を要した千住からは2頭立ての乗合馬車で浅草広小路まで行くことができた東武鉄道開業により明治33年2月2日に廃業した

越谷宿の伝馬負担伝馬屋敷(表間口6間以上)は馬一株につき1疋負担歩行屋敷(表間口6間未満)人足1人負担(馬1疋は人足2人分に相当する)越ヶ谷町 伝馬役120軒半歩行役21軒大沢町 伝馬役73軒歩行役5軒(宝永4年 1707)伝馬役歩行役の屋敷株を所有した者が本百姓身分として町政に参加できたその他の者は地借店借と称され身分が区別されていた

越谷宿の問屋場問屋場は当初名主宅持ち回りであったが宝永4年2月中町の名主会田五郎平宅大沢町名主江沢太郎兵衛宅の2カ所に定着した問屋場の経費は越ヶ谷町85軒大沢町55軒の合計140軒の伝馬役1軒2両3分の出金合計385両で賄われていた(安永2年の定め)諸経費の内訳は帳付け人馬差しなどの給与事務用品本陣御用宿の補助人馬買上賃など

越谷宿の食売旅籠屋越ヶ谷宿文化文政期(1804~29)飯盛旅籠屋22軒大沢下組に集中していた享保年間までは江戸の女がほとんどであったがその後越後からの女が多くなった文政10年(1827)飯盛旅籠屋1軒あたり銭105貫500文町銭として納めた明治6年食売女解放令により衰退する

㉕天嶽寺 この寺は城砦といわれ家康秀忠家光も狩猟の時に訪れていたという山門は黒門で境内中ほどには赤門がある黒門は四代住職が正親町天皇の第三皇子であったので門の屋根に菊の紋章の鉄鋲が施されている赤門は家康より寺領高15石が寄進された時に許されて建立されたと伝えられている本尊は「木造釈迦如来涅槃像」は普通の立像座像とちがいきわめて珍しい

㉖越谷吾山越谷市出身の江戸中期の俳人でわが国初の方言の研究書「諸国方言物類称呼」を著した越谷吾山の墓と句碑がある「ひとつるべ水の光やけさの秋」入口の庚申塚に宝永年間(1673)の庚申塔元禄8年(1695)の青面金剛庚申塔などがたくさんある参道には「か八しも二郷半川かみかすかべ」と刻まれている

coffeetime

麻雀東東

酒処びー子

運寿司中華宝来

一割屋

脇本陣「虎屋」山﨑次兵衛跡八木橋学習会の南隣生そば三舛屋あたり

問屋場江沢太郎兵衛屋敷跡若松印刷中田絵画教室南隣

脇本陣「玉屋」深野彦右衛門跡深野造園の北隣あたり脇本陣つちや(推定)

梅花山照光院 鐘楼は安永8年(1779)6月鋳造三ノ宮一乗院末樽不動を安置しせり「新編武蔵風土記稿」「明治10年2月この地に大沢小学校開校さる」の碑福井家が天明元年(1781)に本陣を引き受けるまでは仮本陣をつとめていた

阿久津乳業

黒田履物店

生そば三舛屋

「御成道鳩ヶ谷宿江出る道筋有 レ之」(日光奥州甲州道中宿村大概帳)

金麟園茶舗

NTT東日本まつやま呉服店寿司平野屋

もんや本店

⑨塗師屋 「太物荒物店 塗師屋市右衛門」(東興商人鑑講)

鈴木金物

おかもと

越ヶ谷5

⑳弘福院円空作による阿弥陀如来の坐像(総高3687cm)で優れた作品がある埼玉県内に残された円空仏は元禄2年(1689)日光山登山へ向かう途中に彫刻されたものといわれる弘福院の円空仏も同年のものとみられている円空は寛永9年(1632)美濃国竹ケ鼻の生まれ幼年にして仏門に入り白山頂上などにこもって修業を積んだが富士山頂での修業には霊感をうけ仏像十二万体を彫ることを念願したといわれ全国各地を歩いて木彫仏を残したが元禄8年(1695)美濃国弥勒寺前の長良川河畔で生定した生年六十三歳(越谷市教育委員会掲示より)

新町八幡神社

有瀧家のタブノキ

脇本陣四ツ目屋(浜野家)

名主問屋本陣会田八右衛門家

本陣会田八右衛門家は安永2年(1773)没落

問屋場会田五郎兵衛跡

9

饂飩屋跡

本陣大松福井家(きどころパン店)

㉙久伊豆神社「宿の東のかたに久伊豆大明神といふ大社あり所の鎮守なり久伊豆三左衛門といふ人をまつりしよし」(日光道中行程記安見絵図)久伊豆神社は古来より四丁野村越ヶ谷宿大沢町瓦曽根町神明下村谷中村花田村の七ヵ村の総鎮守でした国学者平田篤胤の寓居「松越庵」その門人が寄進した藤棚参道には土井晩翠の歌碑「気吹の屋いづみの霊の宿れりし あとなつかしき越ヶ谷のさと」がある越谷吾山の「出る日の旅のころもやはつかすみ」の歌碑もある延宝3年(1675)に建てられた手水舎は「登龍門」の彫刻がある縛

られ狛犬

平田篤胤江戸後期の国学者日本古来の神道を主張し儒教と仏教を激しく攻撃し幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた越谷の富商油屋山崎長右衛門は篤胤の門人で越谷の納豆屋の娘おりせを後妻に世話をした

越ヶ谷の由来台地の麓の低湿地帯の意味

で古利根川と綾瀬川に囲まれ中央に元荒川が蛇行して流れる低湿地帯だった 穀倉地帯で江戸城下への野菜の供給地でもある越ヶ谷町は奥州街道(のちの日光街道)の宿場町として誕生しましたがはじめ町は本町と新町に分けられましたが土豪会田出羽が所有していた土地がありそこを中町と名付けました

coffeetime

㉗二郷半領の碑(場所未確認)参道の中程には二郷半領の碑がある二郷半とは江戸初期吉川彦成の二郷と彦成以南は下半郷とし合わせて二郷半領と呼んだという

㉒葛西用水逆川「越ヶ谷御殿跡」碑の下を流れるのは「宿内字元荒川有幅大概四拾間程橋渡也此川水元は武州大里郡熊ヶ谷宿裏手より流れ来流末は星川と落合夫より古利根川と落合夫より海上江落る」(日光奥州甲州道中宿村大194794帳)万治3年(1660)幕府代官伊奈半左衛門忠克が利根大堰から水田の灌漑として取り入れ葛西用水逆川となり元荒川の下を潜る伏越となっている

㉑越ヶ谷御殿跡徳川家康によって慶長9年(1604)に設けられた御殿でその広さはおよそ現在の御殿町全域と推定されている「此宿字大沢板橋脇四五町右之方に字御殿場と申所有レ之寛文之比(1661~73)は御殿有レ之由申伝ふ」(日光奥州甲州道中宿村大概帳)当初この地は越ヶ谷郷の土豪会田出羽の陣屋があったが家康が増林にあった御茶屋御殿を移し家康秀忠などがしばし訪れて泊まり鷹狩をしていた記録が残されている明暦の大火(明暦3年1657)で江戸城本丸二の丸の復旧のため移築されたが文久年間(1861~1864)に消失してしまった

越谷宿本陣の食事参勤交代で本陣に宿泊するお殿様の食事は【夜】御平椎茸ゆば長芋竹の子三つ葉 御皿くわい蓮根かんぴょうしいたけひろゆば 御汁しいたけ焼き豆腐青葉 香の物大根の味噌漬けしょうがの糀漬 御膳米【朝】御平あんかけ豆腐しょうが 御汁大根の千本切り御皿竹の子 香の物大根の味噌漬け大根の糀漬 【弁当】玉子焼きこぶたけのうまによせ豆腐

coffeetime塗師屋(小泉市右衛門宅)

大沢橋 江戸時代境板橋と称されていた明暦元年(1655)に関東代官伊奈半左衛門忠克によって架け替え工事がされているのでここに橋が架かったのはかなり古い年代であると考えられる

①新町八幡神社 文和2年(1353)銘の板碑を御神体としており力石や絵馬なども残っている

神明社 越ヶ谷六斎市(27日)の市神社である

「蒲生村を過ぎ越ヶ谷に着き荒川橋を渡って大沢町の橘屋に泊まるよい宿屋である」(西遊草清河八郎)