奈良学ナイトレッスン 第9期 大和の伝説と伝承に遊ぶ ~第一 …1...

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1 奈良学ナイトレッスン 第9期 大和の伝説と伝承に遊ぶ ~第一夜 弘法大師と大和の伝説―伝説入門~ 日時:平成 25 年 7 月 31 日(水) 19:00~20:30 会場:奈良まほろば館 2 階 講師:齊藤純(天理大学教授) 内容: 1.柳田國男の伝え方 2.奈良に伝わる弘法大師のお話 3.主人公は入れ替わる 4.主人公は時代によって変わる 5.日本人古来の信仰的な心情 1.柳田國男の伝え方 今回は、「弘法大師と大和の伝説」というテーマで、伝説とはどんなものかということ。 それから、伝説をどう考えていけばいいのか、ということをお話しようと思います。それ をある本の内容に沿って、読書案内という形でお話していくのがいいと思いました。柳田 國男(やなぎたくにお)という民俗学の開拓者がいます。現在の伝説研究や昔話研究の大 枠を作った人です。やはりその基本から、始めるのがいいかと思いました。 ただ、すでにご存じの方もいると思うのですが、柳田國男の言っていることは、実は非 常に分かりにくい。まず、文章が擬古文というもので、今の人には分かりません。内容に ついても、分からないところがあります。開拓者であるため、充分な資料を持っていなく とも、人を感心させるようなことを言わなければならなかった。しかも論敵が多いから、 足元をすくわれないようにもしなければならない。従って、結論はかなり曖昧であったり するのです。そのくせ、人を攻撃する時は舌鋒鋭い。そういう特徴があります。 しかし、彼はときどき非常に分かりやすい本も書いています。一つは『火の昔』、いろり など、日本人の火の生活の歴史を語ったもので、これが非常に分かりやすい。もう一つは、 昭和4年に書かれた『日本の伝説』という本があります。もともとは児童向け文庫として 出されたもので、たいへん内容が分かりやすい。柳田は、児童向けといっても決して程度 を落としていない。我々から見ればまだ仮説の段階にあるものでも、堂々と子ども向けに 分かりやすく書いています。この本は私が中学生の頃に読んで、非常に惹かれたものでし た。分からないなりに読んで、一種のセンスのようものが身についたと思っています。 『日本の伝説』は伝説集です。一般的に伝説集を編もうと思うと、バラエティに富んだ

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    奈良学ナイトレッスン 第9期 大和の伝説と伝承に遊ぶ

    ~第一夜 弘法大師と大和の伝説―伝説入門~

    日時:平成 25 年 7 月 31 日(水) 19:00~20:30

    会場:奈良まほろば館 2 階

    講師:齊藤純(天理大学教授)

    内容:

    1.柳田國男の伝え方

    2.奈良に伝わる弘法大師のお話

    3.主人公は入れ替わる

    4.主人公は時代によって変わる

    5.日本人古来の信仰的な心情

    1.柳田國男の伝え方

    今回は、「弘法大師と大和の伝説」というテーマで、伝説とはどんなものかということ。

    それから、伝説をどう考えていけばいいのか、ということをお話しようと思います。それ

    をある本の内容に沿って、読書案内という形でお話していくのがいいと思いました。柳田

    國男(やなぎたくにお)という民俗学の開拓者がいます。現在の伝説研究や昔話研究の大

    枠を作った人です。やはりその基本から、始めるのがいいかと思いました。

    ただ、すでにご存じの方もいると思うのですが、柳田國男の言っていることは、実は非

    常に分かりにくい。まず、文章が擬古文というもので、今の人には分かりません。内容に

    ついても、分からないところがあります。開拓者であるため、充分な資料を持っていなく

    とも、人を感心させるようなことを言わなければならなかった。しかも論敵が多いから、

    足元をすくわれないようにもしなければならない。従って、結論はかなり曖昧であったり

    するのです。そのくせ、人を攻撃する時は舌鋒鋭い。そういう特徴があります。

    しかし、彼はときどき非常に分かりやすい本も書いています。一つは『火の昔』、いろり

    など、日本人の火の生活の歴史を語ったもので、これが非常に分かりやすい。もう一つは、

    昭和4年に書かれた『日本の伝説』という本があります。もともとは児童向け文庫として

    出されたもので、たいへん内容が分かりやすい。柳田は、児童向けといっても決して程度

    を落としていない。我々から見ればまだ仮説の段階にあるものでも、堂々と子ども向けに

    分かりやすく書いています。この本は私が中学生の頃に読んで、非常に惹かれたものでし

    た。分からないなりに読んで、一種のセンスのようものが身についたと思っています。

    『日本の伝説』は伝説集です。一般的に伝説集を編もうと思うと、バラエティに富んだ

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    ものを並べて「日本には、こんなにたくさんの話がありますよ」と言いたくなるところで

    すが、柳田は敢えてそうせずに、似たような話を次から次へと列挙していきます。なんで

    そんなことをするのでしょうか。柳田は伝説には似たようなものがあちこちにたくさんあ

    る、つまり「型」があるということを気づかせようとしているわけです。この本の原題は

    『日本の伝説』ではありませんでした。原題は『日本神話伝説集』、「神話」という言葉が

    入っていたのです。ところがこの本のどこを見ても、我々が神話と考えるものは書いてあ

    りません。我々が神話と考えるものは、天照大神(あまてらすおおみかみ)がどうした、

    素戔嗚尊(すさのおのみこと)がどうした、大国主命(おおくにぬしのみこと)がどうし

    た、というように『古事記』『日本書紀』に出てくるような神様が何かしたという話。とこ

    ろがそれは一切書いてない。書いてあるのは、源義経が腰掛けた、弘法大師がやってきて

    杖をついた、など。これらのどこが神話なのだ?というようなものですが、それを敢えて

    神話と名付けたのには、柳田の意図がありました。つまりこういう伝説は、元は神話なの

    だということです。そして、それらを比べていけば、『古事記』『日本書紀』には記されな

    かった、民衆が伝えていた神話が復元できるのではないか、と。このタイトルで、おそら

    く子どもは、これはどういうことだろうと思い、大人になってやがてその意図に気づく。

    そういう仕掛けがある本です。

    この本は、柳田の書いたものの中では分かりやすく、また「伝説とは何か」というもの

    に自然に気づくようになっています。文庫版も出ておりますので、是非読んでみてくださ

    い。この『日本の伝説』の解説をしながら、一方で大和の伝説を紹介していこうと思いま

    す。今日は弘法大師の話です。

    『日本の伝説』では、似たような伝説を集めているのですが、その中の「大師講の由来」

    というところで、弘法大師がこういうことをした、という話をまとめています。弘法大師

    というのはご存じのように平安時代のお坊さんで、唐に渡って密教を日本に持ってきた非

    常に徳の高い立派な人です。そのお坊さんのこんな話が伝えられている。

    福井県若狭のお話です。若狭に比治川という川があって、普段は水のない水なし川です。

    なぜ水のない川になったかというと、昔この村に老女がいて川で洗濯をしていた。そこへ

    弘法大師僧空海が行脚してきて、「喉が渇いた。水でももらいたい」とこのおばあさんに言

    った。ところが、おばあさんはすげなく「この村には飲み水はない」と言った。これに対

    し空海は非常に立腹し、唱え事をした。すると、川から水がことごく地面の下を流れてし

    まい、村では何の役にも立たない川になってしまった。(『日本の伝説』より)

    徳の高いお坊さんが、なんてひどいことをするのでしょう(笑)。おかしいですよね。し

    かしこんな話を、土地の人はきっとそうだと思って伝えているわけです。この場所に水が

    ない、それはなぜかというと……と、具体的な場所の話をしています。このことも考えて

    いきましょう。

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    また、一方ではお坊さんらしい慈悲深い話もあります。

    近江の湖水の北にある今市という村。滋賀県の話です。共同井戸が一つある。それが非

    常によい水だった。これはどういうことかというと、弘法大師がこの村にやってきて、若

    い娘に出会う。「水が飲みたい」と言う。

    いつもやたら水をほしがりますね(笑)。

    しばらくして、「なんでこんなに、なかなか水が出てこないのだ」と言うと、若い娘は親

    切に遠いところまで飲み水を汲みに行っていたとのこと。それは気の毒だというので持っ

    ていた杖で岩の間を突くと、きれいな水が湧き出した。それがこの井戸だというのです。

    (同上)

    いくら弘法大師の徳が高いからといって、杖でちょんと突いたらすぐに水が出るとは考

    えにくい。しかしこれは何かの寓話だと。親切にすればよいことがあるよ、と言おうとし

    ているのかも知れません。しかしそれなら、こんな言い方ではなく、もっと分かりやすい

    普通の話にすればいい。なぜこんな、よく考えると、あれ?というもので慈悲深さを例え

    ようとするのか。しかも、こんな話はまた他にもあるのです。

    埼玉県入間郡。ここでも弘法大師が来た時に、やはり気立ての優しい女性が機(はた)

    を織っていた。そして、また「水がほしい」と言った。一生懸命機を織って仕事をしてい

    たけれど、お坊さんがやってきて「水をくれ」といったので、わざわざ遠いところまで汲

    みに行った。「それは気の毒な」。

    気の毒というなら自分で汲みに行けと思いますね(笑)。

    さっそく杖を差して、出るようにしてくださった清水があるという話があります。(同上)

    前の話とそっくりです。

    「大師の井戸のいちばん北の方にあるのは、今わかっているものでは山形県の吉川という

    所で……」とあるのですが、実はいま、もっと北の青森でも見つかっています。

    さてその、山形県の吉川というところ。「弘法大師が湯殿山を開いた」という伝説があり、

    湯殿山に修行地を開きに来たということになっている。そして喉が乾いて、ある百姓の家

    に入って「水を飲ませてくれ」と言い、今度は女房がひどい女で、米のとぎ汁を出した。

    それを大師は黙って飲んで行ったけれども、あとで女房の顔は馬になってしまった。(同上)

    慈悲深いお坊さんの例えで、こんな話はおかしいですよね。なんでこんな妙な話になる

    のか。

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    また二、三町過ぎたところで、今度の家の女房はまた機を織っていた。ここでも水がほ

    しいと言うと、また遠いところへ汲みに行った。喜んで、この村にはよい水がないらしい

    から掘ってあげようといって杖をつつくと水が湧いたというお話もあります。(同上)

    2.奈良に伝わる弘法大師のお話

    『日本の伝説』の中で、奈良県の伝説は3話しか扱われていません。それは、弘法大師

    の話ではありません。ただ、弘法大師の話は奈良にないのかというと、実はちょっと探し

    ただけでも見つかります。柳田があげたような話は、決して柳田があげただけではなく、

    全国にある。そして奈良にもあるということを確認していきましょう。

    奈良県吉野郡東吉野村というところで伝えられている話。2つあるのですが、どちらも

    『東吉野の民話』(東吉野村教育委員会 1992)という資料集にあるお話です。これは

    学術的な調査を行い丁寧つくられた資料集です。こうした調査に、私も参加したことがあ

    りますが、録音機を持ってあちこちを回り、多くの人に話を聞いて、そのうちから話とし

    て整ったものを文字に起こしたものです。ですから、土地の人の語り口がそのまま記録さ

    れています。

    一方で、あらすじを記すわけではないので、ちょっと意味がとりにくいところもありま

    すが、だいたい似たような話ということはわかってもらえるかと思います。

    まず一つ目です。奈良の言葉です。

    お大師さんが、こう、来はりますやろ。そしたら、丁重にね、あのう、ちゃんとし

    てあげたら、その代わりにね、

    「井戸(ぞ)を、一生、水をね、不自由せんように掘っといてあげる。」

    って言(ゆ)うてね。この川の向かいの西垣勝之さんて言う家(うち)に、ほんの小

    さい、こう、浅い井戸なのですけどね、どんな日照りにでも、水切れたことありませ

    んしね、そこの水が、とてもおいしいくてね。それは、この村にもあるのですわ。(『東

    吉野の民話』より)

    というような話。土地の人に聞くと、こんな感じで話してくれます。次も同じです。

    東川(うのがわ)で、何した時やなあ、その、お大師さんが、

    「水をください。」言(ちゅ)うたら、

    「ちょっと待ってください。今ここには水がございませんので、待ってください。」と。

    ほて、そのおばあさんがやなあ、トットコトットコと、そのバケツさげて、その川ま

    で汲みに行って、汲みに行って帰って来て、ほたら、

    「汗だらくになって何してくれた。そこまでしてくれたか。よし、それだったら、わ

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    たしは、ここい水出るようにしてあげるから。」と言(ゆ)うて、杖を三べんかなんぼ

    か、トンとついて、そて願(がん)かけたら、現在、あの高いところでも、水が湧き

    上がってくる。(同上)

    東川は、川上村で、話を聞いた東吉野村・中黒の、隣村です。隣村の話も聞こえてくる

    のですね。

    同じ話です。気づかれたかと思いますが、空海に応対する村人の性別は、特にそれをい

    う場合、すべて女性ですね。おばあさん、若い娘。これは全国的にそうで、奈良でももち

    ろんそうです。吉野町に伝わる話もそうです。同じような話なので繰り返しませんが、お

    ばあさんが「ちょっと待ってなさいや」とバケツ持ってな、と。ただ、弘法大師の時代に

    バケツはないと思うのですけれども(笑)。

    こういうアナクロ的なところがあるのです。実は伝説は過去の姿をしていますが、現在

    の考えの投影なのです。

    一方、次の伝説を見てください。これは吉野町の話です。

    まあ弘法大師か大師さんか知らんけど。お大師さんがきて、

    「一杯水くれ。」言うてな。たら、

    「そんな飲ます水はない。」って。あっても無いように言うて。ほでそのお大師さんが

    また山の上登って行ったら、あの波津いうとこ登ったら、そこへまた

    「水くれ。」言うたら、どっからか遠いとこからでも汲んで。そのお遍路、お大師さん

    に出したら、

    「頂きます。ありがと。」言うて。杖でついたらそこへ水が湧いたって。山の上で。ほ

    で、現在でも上に水あって下に、水、高佐には水ないと。(『奈良県吉野町民間説話報告

    書』名古屋大学大学院国際開発研究科 1997より)

    水をやらなかったところでは、もう水は湧かなくなる。親切にしてくれたところには、

    どんどん水が湧くようになる。そういう話ですね。

    最初に水なし川の話がありましたが、おそらく、これもおそらく、良いことをしたら良

    い報いがあり、悪いことをしたら悪い報いがある、というような話の後半だけ残ってしま

    った。そんな話ではないかと思われます。

    こんな話はいくらでもあります。『大和の伝説』(大和史蹟研究会 1960)という奈

    良県の伝説研究の基本となる本があります。そこにあるお話です。辰市村、現在の奈良市

    ですね。そこの東九条にも弘法井戸というのがあって、まだ使われている。弘法大師がや

    ってきて、おばあさんが遠慮しながら悪い水を出した。哀れに思って杖をついたら、湧い

    たのがこの井戸であった。そんなふうに、いくらでも似たような話があります。

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    私が勤務している天理大学の近くでも、3つくらいあっという間に見つかる。北菅田と

    いうところに勝泉井(しょうせんいど)というのがあるけれども、弘法大師がやはり錫杖

    でもって湧かしてくれた。共同井戸なので大事にして使っています。

    あるいは、天理から山手のほうに滝本に行くと、やはり杖を掘った井戸があって、共同

    井戸になっている。あるいは、南の釜口長岳寺というお寺にも井戸があって、弘法大師が

    やってきて水をくれというのを、娘がわざわざ汲みに行ってくれた。そしてそのせいでお

    ばあさんに叱られた。こういうのは登場する人は2人とも女性なのですね。気の毒だと思

    って杖をついたら水が湧き出したというような井戸です。

    それから、機織りしている話ですが奈良にもあります。『東吉野の民話』にある弘法機(こ

    うぼうばた)の話ですが、これは水の話から離れてしまっています。

    お遍路さんが来て、「手拭い貸してくれ」と言う。

    どうも弘法大師という人は、水や手拭いやら、ねだってばかりです(笑)。

    「わたしのところ手拭いあらへん」「そんならいいわ」と言ってよそへ行った。次の家に行

    ったところ、機を織っていた。「手拭い貸してくれ」「手拭いあらへんけど、この織りかけ

    の機を切って、差し上げます」「ありがとう」。それを拭いてお大師さんが出ていった。そ

    うしたら、その機織りは、織らなくてもどんどんどんどん機ができる。(『東吉野の民話』

    より)

    ちょんと突いて水を出す以上に、もっと不思議な奇跡が起きています。

    3.主人公は入れ替わる

    その他、妙な話もあるのです。以下、しばらくのお話は『大和の伝説』からです。

    桜井の井戸、粟殿(おうどの)の井戸で、おばあさんが大根ひきをしているところに弘

    法大師が回ってきた。「喉が乾いた。大根くれ」。今度は大根くれです(笑)。おばあさんは

    「喉が乾いたなら川の水でも飲め」と言って、大根をやらなかった。そしたら、ここで出

    来る大根はみな、細くて苦くなった。なんてひどいことをするのでしょうね。そして、大

    師が水を飲んだところからは清らかな水が湧き出した。それで井戸を掘ってお大師さんを

    祀った。

    大根に関わる話が生駒でも伝えられています。これはかなり、他の伝説と比べると変形

    して笑い話みたいになってしまっているのですが。

    生駒郡の目安村の川で、色黒の乙女が大根を洗っていた。弘法大師がお通りになって、

    「大根とおまえの顔とどっちが白い」と問います。唐まで行って修行をしてきた人の言う

    ことではないと思うのですけれどね(笑)。乙女は「私の顔のほうがずっと黒い」と答えた。

    「それなら大根のように白い顔に生まれるようにしてやろう」と仰せられた。それから目

    安の村に色白の美人が多くなったといいます。

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    落ち着かない話ですね。いいことしたのか、悪いことしたのかよく分からない。どうや

    ら大根に何か関わりがある。それから、大根ができなくなったという話のように、いろい

    ろな果物や野菜ができたりできなかったりする話もやたらとあります。

    天理市内の話ですが、桃の話です。

    豊田という村があって、下垣内(しもがいと)と上垣内(かみがいと)とふたつの地域

    に分かれている。下垣内に弘法大師がやってきて、「桃をくれ」と言う。下垣内の子どもら

    は桃をやらない。あまつさえ、悪口を言う。大師は怒って「これからここでは桃はならぬ

    ぞ」と言って上垣内に回った。上垣内の子どもらはいい子なので桃をくれた。そうしたら

    「ここにいい桃をならしてやる」。だから今でもいい桃がなる。

    それから滝本というところ。橋の近くで百姓が柿を食っている。弘法大師がやってきて

    「1つくれ」と言う。快くあげた。そうすると、以後1年に2度柿がなるようになった。

    今でも2度なる。

    確かに、品種によって、2度なる柿もあるのです。

    2度なるのは柿ばかりではなく、福住に2度なる栗がある。ここの坂を上ってきて大和

    高原にこられた弘法大師に、遊んでいた子どもが栗をあげた。大師は喜んで2度なるよう

    に、そういう秘法をされた。

    今度も同じ天理市です。子どもが杏をとっていた。そこへ弘法大師がお通りになった。

    弘法大師がさも欲しそうに見ておられるので(笑)、ひとりの子どもが「和尚さん、杏やろ

    け」といって1つ上から投げた。大師は両手でうけられた。そして、「1年に2度なるよう

    にしてやろう」といって、米谷の方へ行かれた。今でも年に2度なるという。

    ここに現れた弘法大師像は、とうてい修行した高僧とは思えません。非常に怒りっぽく、

    すぐ喜ぶ。要するに喜怒哀楽が激しい。特に怒ったことと、喜んだことの結果が長々とそ

    の土地に残ってしまう。そういう人のようですね。

    また柳田の『日本の伝説』に戻ります。柳田國男は弘法大師の例を挙げていきながら、

    こういう疑問を出します。

    ここでまず最初に、われわれが考えてみなければならぬのは、それがほんとうに弘法

    大師の僧空海であったろうかということであります。広い日本国中をこの通りよく歩き

    廻り、どこでも同じような不思議を残して行くことは、とても人間わざではできぬ話で

    ありますが、それを神様だといわずに、なるべく誰か昔の偉い人のしたことのように、

    われわれは考えてみようとしたのであります。(『日本の伝説』より)

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    後の方の「われわれ」というのは、われわれ日本人の先代の人たちということです。つ

    まり、この数行で結論を言ってしまっているのです。柳田の考えでは、弘法大師ではなか

    ったのだろう、神様のはずだったんだろう、とうてい人間業でできることではない、とい

    うことです。そして、「それには弘法大師が最もその人だと、想像しやすかっただけではな

    いでしょうか」と続きます。このあと、興味深い事例をあげて、主人公はたいして大事で

    はないということを柳田は説きます。

    上州の奥にある川場の温泉なども、昔弘法様が来てある民家に一泊したときに、足を

    洗う湯がないので困っていると、さっそく杖をその家の入り口にさして、出して下され

    たのがこの湯であるといい伝えております。それだからこの温泉は脚気(かっけ)によ

    くきくのだと土地の人はいい、またその湯坪の片脇に、今でも石の小さな大師様の像を

    立てて、拝んでいるのだということであります。(『日本の伝説』より)

    弘法大師の出した水は、病気に効くというのですね。霊力、力のある霊泉ですね。効果

    のある温泉を出してくれた人を湯坪の近くに祀っている。

    こういう話は奈良県にもあります。以下の2つは『大和の伝説』にあるお話です。吉野

    郡の大淀町に地名が「薬水」というところがあります。近鉄吉野線にも「薬水」という駅

    があります。

    薬水に薬水井というのがある。弘法大師が室生と高野山を往復していたころ、この土地

    の人が病気に苦しんでいるのを聞いて、この水を教えた。

    教えたというのですが、井戸があることを発見し、掘ったに等しいものですね。村の人

    がこの水を服用すると、病はたちどころに治る。かたわらには大師堂も建てられた。そし

    て、信仰しない人がこれで米をといだり、おむつを洗ったりすると、祟りで失明する。だ

    から通常の水ではない。非常に効果があると同時に、一種の禁忌、戒めが伴っている井戸

    です。

    2つ目は、また話が込み入っているのですが、五条市の話です。

    弘法大師が高野山に行く途中、この近くの峠で子どもが泣いているのを聞いた。見てみ

    ると、おっぱいが腫れ上がっているお母さんがいた。お乳が出ないのだ。大師は可哀想に

    思って薬を教えてあげた。近くの木の脂をとって乳房につけると、腫れ物は消えた。そし

    てここに井戸を掘って、その水で薬を溶いて膏薬をつくりなさいと教えてくれた。

    薬の由来になっていますが、一方で弘法大師が井戸を掘ってくれたことと結びついてい

    ます。

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    霊力のある泉を湧かせてくれたというのも上州・川場温泉だけではないのです。これが

    少し変わった話になっているのが、『日本の伝説』に書いてあるお話です。同じ温泉を湧か

    せてくれる話ですが、摂津の有馬、湯山温泉の「願いの湯」は豊臣秀吉がやってきて杖で

    温泉を湧かせてくれたという。

    太閤(たいこう)が有馬に遊びに来た時に、清涼院(せいりょういん)というお寺の

    門の前を通ってじょうだん半分に杖をもって地面の上を叩き、ここからも湯が湧けばよ

    い。そうすれば来てはいるのにといいますと、たちまちその足もとから、温泉が出たと

    いいます。それでその温泉の名を上の湯、一名願いの湯とも呼んでおりました。

    つまり、同じ温泉を湧かしてくれたという話ですが、弘法大師でなく、豊臣秀吉でも話

    は成り立つ。そういう例があるわけです。

    主人公は地域によって入れ替わる、ということがまずここで言われています。

    次も『日本の伝説』にあるお話。尾張、今の愛知県ですね、東浦町の生路(いくじ)と

    いうところ。お寺の下にきれいな水があって、大師の掘った井戸だと土地の人はいってい

    た。それが最初からの言い伝えではなかった。なぜわかったかというと、こんな記録があ

    る。

    四百年前ばかり前に、あるお坊さんがこの寺に頼まれて書いた文章には、大昔日本武尊

    (やまとたけるのみこと)が、ここに来て狩りをなされ、渇きを覚えたが水がないので、

    ゆはず、弓の端ですね、そこで岩をつきさすと、清い泉が湧いた。それがこの井戸である

    と記してある。近頃は水も出なくなったけれど、以前は村の者が非常に大事にしていた。

    穢れのあるものがもし汲もうとすると水の色が濁ってしまう、そんなことを言っていたと

    いうのです。

    後ほどもう少し丁寧に紹介しますが、これは『張州府志』という江戸時代の地誌に書い

    てあることなのですが、江戸時代には、弘法大師が掘ったと言われていたようなのです。

    ところが、400年くらい前に、お坊さんがこの寺にやってきて残した漢詩に付属してい

    る漢文があるのです。それを読むと、日本武尊がやってきて、それで突いて湧いたという

    ことが分かる。そうすると、この同じ生路というところにある井戸ですが、江戸時代には

    弘法大師の話ですが、室町時代の頃の漢文の記録によると日本武尊の話になる。つまり、

    同じ土地の井戸での同じような話でも、主人公は日本武尊から弘法大師になる。これも弘

    法大師である必要はまったくないということです。

    柳田國男は、地域が変われば主人公が変わるという例を挙げた後、同じ地域の同じ場所

    の同じ伝説についても、時代が変われば主人公が変わってしまうということを言っている

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    わけです。

    奈良県でもそう確認できる例があります。『奈良県吉野町民間説話報告書』にある吉野町

    の話です。

    上市に大西寺(だいさいじ)というお寺があるのだそうです。大西寺に香井(かがい)

    という井戸があります。なぜ香井という名前がついたかというと、ここでは蓮如上人がや

    ってきた。弘法大師ばかりではなく、蓮如上人までが「暑いから冷たい水が飲みたい」な

    どと言います。井戸の水を汲んで蓮如上人に差し上げたところ、いい匂いのするおいしい

    水だということで、香井と井戸の名前を付けた。名前をつけるということは、その時から

    特別な井戸になるわけです。その土地で大事にされている特別な井戸の始まりは、蓮如上

    人がやってきて水を飲んだこと。それで名付けられた。他であれば弘法大師がやっていて

    もおかしくない話ですが、蓮如上人になった。

    おそらく大西寺は蓮如上人にゆかりのある浄土真宗のお寺なのでしょう。

    さらに興味深い例があります。『大和の伝説』にある2つのお話です。

    広大寺池という池が奈良市の南にあります。この池は、非常に大きな用水池で、あちこ

    ちに用水路が延びています。広大寺池の周辺ばかりではなく、かなり離れたところでもこ

    の池のことはよく知られていて、この池のおこりの話を伝えています。

    比較的近い場所で、帯解町ではこんな話を伝えている。

    弘法大師が帯解のほうにやってきた。途中の平田というところでまた1軒の家に入る。

    軒並み入っては水くれ水くれ言っているのですね(笑)。

    ここも老婆ひとりしかいない。怪んで訳を聞くと、

    「このあたりは、水がありまへんので、田植がすみますと、毎日毎日水かえに行かね

    ばなりまへん。内の者もみな行きましたんで、わたしひとりるすをしております。」

    と答えた。弘法大師はまたあわれに思い、百姓共のために、大きな池を掘ってくれた。

    いま、関西線・帯解駅の西にある池がそれで、初め大師の名を記念して「弘大池」とい

    ったが、その後今の通り「広大寺池」になった。

    こう帯解町では伝えています。

    ところが、同じ広大寺池の話を、大和郡山市の稗田、ここも広大寺池から用水を引いて

    いる村です。そこでは違う人になっています。聖徳太子がやってきた。

    村の人が稗の御飯をさしあげたところ、たいへんお気にめして、

    「どうしてこんな珍しいものを食べているのか。」

    とお問いになったので、

  • 11

    「この土地は水の便が悪く、米が十分にとれないので、稗を常食としています。」

    と答えた。太子は、

    「それはかあいそうだ。水の便を計ろう。」

    とおおせられて、その付近を馬にのってお回りになり、今の奈良市池田町にきて馬をと

    め、錫杖(しゃくじょう)でお掘りになると水がわき出たので、さっそく池をおつくり

    になった。今の広大寺池が、この池といわれている。

    という話。聖徳太子が錫杖で、というのは、やはりこれはおかしいですが。

    稗田のほうでは、広大寺池は簡単に言うと聖徳太子が錫杖でついて掘ってくれた。一方

    帯解町では弘法大師が掘ってくれた池だと。つまり、同じ池のおこりについて、弘法大師

    が主人公の話もあれば、聖徳太子が主人公の話もある。要するに入れ替えが可能なわけで

    す。

    4.主人公は時代によって変わる

    もう一度、柳田があげた主人公が地域と時代によって変わる、そのことの例を有馬の話

    と生路井(いくじい)の話で確認してみようと思います。

    まず、有馬と豊臣秀吉の話です。

    『有馬私雨(しぐれ)』という、江戸時代に作られた大衆向けの、今で言う旅行ガイドブ

    ックがあります。先ほどの豊臣秀吉の伝説は、挿絵とともにここに記されているのです。

    挿絵では、豊臣秀吉が杖をついて、もやもやっとしたものが湧き出ている。解説の短冊が

    あって、「おんつえの下より湯いづ」、杖の下より湯が出た。有馬の中心にあって薬師さん

    を祀った温泉寺というお寺の奥の院に、清涼院極楽寺というお寺があります。その奥の院

    で豊臣秀吉が杖をついたらお湯が湧いたということを江戸時代から言っているわけです。

    もちろん、こんなことが実際にあったはずはないのですが、しかし、それらしいことは

    本当にあったようです。というのは、阪神淡路大震災があったときに、清涼院極楽寺の庫

    裏(くり)が倒壊し、建て直すときに発掘調査をしました。実は極楽寺の庫裏の下は、豊

    臣秀吉が掘った願いの湯の場所だと言われていた。神戸市教育委員会も張り切って調査し

    たら、蒸し風呂の跡が出てきたのです。それから、露天風呂が見つかりました。岩風呂で

    湯船があって、岩に溝が掘ってあって、お湯が流れ込むようになっていました。そこから

    なんと軽石がみつかっているのですね。明らかに入浴したということが分かる。そして、

    泉源、お湯が沸き出した新たな湯坪が見つかりました。この遺跡がいつの時代のものかは、

    ここから出てきた瓦で分かります。この時代のこの瓦の模様は、使える人が決まっていた。

    ここに出て来た瓦の文様と規格は、すべて豊臣秀吉が築造したお寺に使用したものと同じ。

    だからここにあったものは、豊臣秀吉が作った新たな温泉施設だったということが明らか

    になったのです。

    それがわかったあとで、「有馬縁起」という古文書に書かれている内容が見直された。も

  • 12

    ともと、豊臣秀吉は有馬に別荘を持っていました。それが慶長の大地震で倒壊します。そ

    して、新たな別荘を作ろうと工事をしていたところ、ある石塔の下から、にわかに熱い塩

    のお湯が湧きだした。湯玉の立つこと一尺五寸余り。まるで大雨のあとに例えられるよう

    ににわかに洪水のように湧きだして流れて、皆驚いて肝を冷やした。豊臣秀吉はそれを喜

    んで、今まで作りかけていた御殿をやめて、こちらのほうに作ることにしました、と縁起

    に書いてありました。

    この縁起のように都合のよいことが起こるはずがないというので、あまり信用されてい

    なかったのです。ところが、これがすべて発掘の成果と一致するのですね。ただここで注

    意しなければならないのは、杖でついたらお湯が湧いたということではない(笑)。つまり、

    豊臣秀吉の希望通りにお湯が湧いたことは歴史的事実だったとしても、それを語り伝える

    時に、やはり、杖でつくと願い通りにお湯が湧くという形にしないと、収まりがつかない。

    その心持ちはいったいどこから来るのだろうということなのです。

    伝説の中には、歴史的事実が含まれている場合もあります。その割合は常に一定ではあ

    りません。この有馬のようにある程度、歴史的事実が結びついている場合もあれば、ほと

    んどない場合もある。伝説から歴史的事実を復元するというのは、難しいことで、どこま

    でが本当かというのを見切らなければいけない。

    逆に、柳田国男の強調していたような型、杖でついたらお湯が湧いたという型がどこに

    でもあるということを知っていたならば、足をすくわれないで、事実を見ることができま

    す。伝説の研究には、このような役立ち方もあるのですが、しかし、柳田の狙っていたの

    は、実はそちらのほうではありません。

    もう一つ、生路井(いくじい)の例を挙げます。先ほど少し触れました『張州府志』と

    いう尾張の地誌にある話です。○○州というのは、中国風の言い方で、国名の一字をとる

    のです。尾張の張をとって、張州。大和国は、和州。関東だったら上野(こうづけ)国が

    上州、安房(あわ)国が房(ぼう)州という具合です。

    張州というのは尾張藩。だいたい愛知県の地誌です。尾張藩が作ったいちばん正式な地

    誌なのですが、そこに生路井という井戸が出てくる。「俗に言う弘法のうがつところという、

    それは非なり」俗に、土地の連中は、弘法大師が掘ったものだと言っているがそれは誤り

    だ、という具合に『張州府志』の著者は言うのです。著者は尾張藩の儒学者ですが、なぜ

    そんなことが言えたのでしょうか。

    万里集九(ばんりしゅうく)という人がいます。室町時代の、京都五山の禅宗のお坊さ

    んで、漢文や漢詩をよくした人です。あちこち旅行して、紀行文も残しました。この人が

    常照庵(じょうしょうあん)というお寺にやってきて、「常照庵薬樹詩序(やくじゅのしの

    じょ)」という文章を書くのです。

    常照庵というお寺に薬の木があった。それを常照庵のお坊さんが切って、困っている人

    にさし与えた。それはたいへん立派なことだと万里和尚が称える詩を書いた。さらに、こ

    んな事情で詩を書きましたよという文章を残す。その時に、常照庵の辺りのこともこんな

  • 13

    風に書き付けておいた。

    知多郡(ちたごおり)に生路という場所がある。昔、熱田(あつた)の霊祀(熱田神宮

    に祀られている神様)──熱田神宮にはいろいろな神様が祀られているのですが、日本武

    尊(やまとたけるのみこと)と草薙(くさなぎ)の剱が主神です──その熱田の神様、つ

    まり日本武尊が東征の時(東に向かって征伐に来たとき)、生路あたりで猟をしてたいへん

    喉が渇いて、ゆはずで岩をついたら泉が湧いた。それを生路井と言うのだ。穢れのある者

    がこれを汲もうとすると水の色が変わる、という。

    この江戸時代の『張州府志』の記述で、江戸時代には、弘法大師の伝説になりかけてい

    たということが分かります。同時に『張州府志』は、室町時代の万里集九の記録に遡って、

    それは違うぞ、ということも言ってくれているわけです。

    万里集九の詩は、『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』という漢詩文集に入っています。

    要するに室町時代のお坊さんが書いた漢文の中に、日本武尊がやってきて、弓で突いとい

    うことが載っている。ただし、江戸時代の記録になると弘法大師が掘ったとなりかけてい

    た。それが分かります。

    井戸というと、我々はついつい掘り抜きの井戸を想像します。しかし、井戸の「井」は

    本来、そういう意味ではなくて、いちばん正確な現代語訳をすると、「人間が利用する水」

    という意味なのです。だから、用水路があって、その用水路の水を分ける場所も「井」と

    呼んだりします。一番目の堰を「一ノ井」、二番目の堰を「二ノ井」、そういう地名がつい

    ているところがあちこちにあります。それから、堰があるところを「イゼキ」というので

    す。運んできた水を、人間が利用できるようにちょっと高いところを樋のようなものを渡

    して、手にあてられるようにしてあるでしょう。それが「とい」ですね。そして、まわり

    をかけてあるのが「かけい」ですね。「い」というのは本来、人間が利用する水。これも弘

    法井戸といいながら、ほとんど清水の場合が多いのです。特に古い井戸ほどそうです。地

    面を掘り抜く技術がない場合は、むしろ清水、わき水を見つけて、その回りに村をつくっ

    ていきます。

    昔の人にとって、井戸は非常に大事なものでした。そういう井戸を掘ってくれたという

    ことは、ほとんど村を作ってくれたに等しいことになります。

    主人公は変わるということがはっきりわかったかと思います。では元の形は何か。元は

    どうだったのかということですね。

    これはあくまで仮説ですが、柳田国男はこう考えました。

    伝説の弘法大師は全体に少し怒り過ぎ、また喜び過ぎたようであります。そうして仏

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    法の教化とは関係なく、いつもわれわれの常の生活について、善い事も悪い事もともに

    細かく世話を焼いています。(『日本の伝説』より)

    本当に、仏教や弘法大師を信心する人だけでなく、普通の民衆の生活のいいこと悪い事

    にとにかく関わろうとする。そんな存在であったらしいのです。

    杖立て清水をもって百姓の難儀を救うまではよいが、怒って井戸の水を赤錆(あかさ

    び)にして行ったり、芋や果物を食べられぬようにしたというなどは、こういう人たち

    には似合わぬ仕業(しわざ)であります。(同上)

    つまり、修行を経た高僧のやることではないということですね。では、誰か。

    ところが日本の古風な考え方では、人間の幸不幸は神様に対するわれわれの行いの、

    正しいか正しくないかによって定まるように思っていました。(同上)

    つまり、簡単に言うと「神様でした」ということですね。

    その考え方が、今でも新しい問題について、おりおりは現れて来るのであります。(同

    上)

    おそらく「新しい問題」というのは、やはり日常のあらゆることについて神様の機嫌が

    関わってくるという感覚は、今でも我々は持っているのではないかということですね。

    だから私などは、これを弘法大師の話にしたのは、何かの間違いではなかろかと思う

    のであります。(同上)

    つまり、神様であった。その名前が分からなくなって弘法大師だとした。しかし、何も

    弘法大師である必要はなく、日本武尊でもよかったし、蓮如でもよかった。それから関東

    地方では、弓でついて水を湧かす話がやたらにあって、それはだいたい土地を守ってくれ

    た代表のように言われる八幡太郎義家になっているのです。

    柳田の仮説はこうですが、やはり、それに合う話があります。柳田はおそらくわかって

    いて、わざと書いていないようなのですが、柳田が想定していた話というのは、こんな話

    でしょう。

    5.日本人古来の信仰的な心情

    『常陸国(ひたちのくに)風土記(ふどき)』というものがあります。いまの茨城県を扱

  • 15

    った風土記です。風土記というのは、奈良時代に政府が日本の約 60カ国、当時の国は今の

    県に相当するような単位ですが、60カ国の国司、つまり国の長官に命じて書かせた報告書

    です。律令制度がうまく機能するためには、例えば、税金として何を納めさせるかは、そ

    の土地の状況を知っていないと何を取り立てていいのか分からない。だから、産物や土地

    の肥沃の具合、特産物は何かを報告しろと命令を出します。それに対する報告書が返って

    きます。それを風土記と言うのです。

    ただ当時は風土記と呼ばれていませんでした。おそらく、報告書という意味で「解(げ)」

    「解文(げぶみ)」と呼ばれていたと思われます。それがのちに、中国の言葉を使って「風

    土記」と呼ばれるようになりました。

    そのときの指示に、産物だけではなく、土地の伝承を書けとあるのです。特に地名とそ

    の由来を書きなさいと。

    なぜそんなことをしたのか、いろいろな考えがあるようですが、興味深い考えの一つに、

    その土地の地名と地名のいわれを知ることは、その土地を精神的に支配することだという

    ふうに昔の人は考えたのではないか。名付け親みたいなものですね。名前とその由来を知

    っているということは、もうそれを支配していることになる。

    古代には『万葉集』などに、恋しい人の本当の名前が知りたいなどということが書いて

    ある。ということは、本当の名前を教えないのですね。では、誰に知らせるのかというと、

    夫になる人のみ知らせる。なぜそんな習慣があるのかというと、やはり、古代文学の研究

    者の解釈では、名前を知るということは、そのものを支配するということだと。

    それと同じで、地誌で、わざわざ地名とその由来を知らせよというのは、その地名を朝

    廷が知ることによってその土地を支配する。なぜその名前になったかというのも理解でき

    る。だから、その土地を治めていることになるのだ、という考えがあったのではないかと

    言われているのです。

    風土記には、言い伝えがたくさん載っています。これが非常に興味深い。みなさんは、

    地誌は地理的な情報源だと思っておられる方も多いかも知れませんが、そうではなく、言

    い伝え集として読んでも面白いのです。特に『古事記』『日本書紀』というような、中央の

    政府・朝廷がまとめたものにはない、地方の伝説が載っているのが興味深い。いわば、当

    時の民俗資料です。一段階古いものや民衆の考えに近い伝承が載っている可能性が高い。

    その点で、非常に注目されるものです。その『常陸国風土記』の中に、こんな話がある。

    富士山と筑波山の話として有名な話です。神祖(みおや)の尊(みこと)とは、神様の親

    の神様。これは神様が主人公の話なのです。

    古老が言ったことは次のようである。昔、神祖の尊が多くの神々の所をご巡行、旅を

    して巡っていって、駿河国(するがのくに)富慈(ふじ)の岳(やま)にお着きになり、

    とうとう日暮れになって、今夜の宿をお頼みになった。この時、富慈の神が答えて言っ

    たことには、

  • 16

    「新穀(しんこく)、のお祭(収穫祭)をして、家の中は物忌(ものいみ)(精進潔斎)

    をしております。今日のところは、わかって頂きたいのですが、ご承諾いたすわけには

    まいりません」と申した。(日本古典文学全集5『風土記』小学館より)

    親の神が泊めてくれと言ったのに、お祭りをやっているから、泊められないと。

    さて、神祖の尊は、恨み泣いてののしる言葉を投げかけ、「ほかならぬおまえの親なの

    だ。どうして泊めようと思わないのか。おまえが住んでいる山は、生きている限り、冬

    も夏も雪がふり霜がおいて、寒さがつぎつぎと襲い、人々は登らず、飲食物を供える者

    はないであろう」と呪(のろ)われた。(同上)

    富士山をそうやって呪ってしまった。それで雪が降る。

    今は「人々は登らず」なんてことはなく、世界遺産にまでなっていますが。

    今度は筑波山の所に行った。ここでも宿泊をお頼みになる。この時、筑波の神が答えて

    言ったことには、「今夜は新嘗(にいなめ)の祭(収穫祭)をしていますが、それでもお泊

    めいたしましょう。お気持ちに逆らうようなことは致しますまい」。それで飲食物を用意し

    て、うやうやしく拝みつつしんでお仕えした。そこで神祖の尊が、嬉しさをつつみきれず、

    未来へのお約束をなさった。

    ここで、祝福の歌を歌います。「立派な山だ、人はみな、登るだろう。飲食物は豊かにと

    れるだろう。この一族はいつまでも栄えるだろう」

    こういうわけで富士山は、雪が降る。登ることができない。筑波山は人々が集まって歌

    い舞い、飲み食うことが、今に至るまで絶えない、というような話です。(同上)

    これは、神様のさらに親の神様の話です。主たる登場人物のところに、より上位の神様

    が回ってくる。しかも、その神様は、土地の神様ではなく旅をする神様。今まで扱ってき

    たほとんどの弘法伝承や、それ以外の伝承も、すべて土地の人ではない。どこからかやっ

    てくる、自分よりも立場が上の力を持っている人。そういう人が神様ですね。

    そういう人が泊めてくれと言う。泊めてくれということは、単純に寝るところを用意す

    るわけではないです。素泊まりではない。泊めるということは、寝床を用意し、食べ物と

    飲み物を与えるということです。

    そして、泊めなかったらどうなるかというと、その場所は寂れてしまう。飲み物も食べ

    物もとれなくなる。一方で、別な所にやってきて泊めてくれと言う。そして飲み物・食べ

    物与える。そうすると、飲み物・食べ物がどんどんとれるようになり、栄える。

    おそらく、弘法大師の話は、元はこのような話だったのではなかったか。つまり、やた

    ら、飲み物くれ、水くれ、大根くれ、栗くれ、柿くれ、桃くれ(笑)。これらはいずれも、

  • 17

    神様への供え物なのですね。供え物の要求です。やってきて泊めるということは、神様の

    いる場所を用意して供え物を与える、つまりそこでお祭りをするわけですね。

    いつもは別世界にいる、どこか遠い所にいる神様がある日やってきて、いる場所を与え、

    飲み物・食べ物を与えて、もてなして帰っていっていただく。それがうまくいくと、その

    村は栄える。そんな信仰が背景にあって、『常陸国風土記』のこの説話もできているものと

    考えられます。

    そして、同じ信仰が弘法大師の話の背後にもあって、それでやたらに、弘法大師はもて

    なされると有頂天になり、祝福を与え、もてなされなかったら、もてなされるべきものが

    できなくなる、どうやらそういうことだったようです。

    ですから、弘法大師のような仏教的に徳の高いお坊さんではなくて、むしろもっと原始

    的な神様。要するに喜怒哀楽が激しく、簡単に言うと祝福と祟りを両方与えるような、非

    常に慈悲深くもあるけれど恐ろしい神様の話が、やがて主人公が分からなくなって、あれ

    は誰だったのだろうということになって、旅をしてやってきて、あちこちにいいこともし

    てくれている人だから、きっと弘法大師だろうとなった。

    杖というのも、神様を祀る印なのですね。依り代という棒を立てて、そこに神様がやっ

    てくる。そういうことの印だったようです。柳田はそのように解釈していいます。

    そういうお祭りと、お祭りに伴う神話が元は、弘法大師の話の背後にあったというのが

    柳田の説明です。

    柳田はそういうことをいいながら、現代にもつながっているところもある、と言ってい

    ますが、我々もこんな話、今でも愛好していないでしょうか。

    水戸黄門の話のベースはまさにこれですね。普段は正体が分からない。しかし、正体が

    分かると、自分よりワンランク上の立派な人たちが、人知れず日本全国を歩き回っていて、

    恵まれない親切な人の家にやってきて、親切にされると、助けてやる。心がけの悪い、悪

    代官や悪徳商人がいたりすると、こらしめて、彼らを立ちゆかなくしてしまう。それで我々

    は喝采を贈っております。

    これも実は、弘法大師の話や富士や筑波の話を間においてみると、実は非常に古くから

    ある素朴な日本人の信仰的な心情が反映しているのではないかと思われるわけです。

    それは、奈良の伝説にもずっと残っておりますし、日本のあちこちの伝説にも残ってい

    るわけです。

    日本人の弘法大師の信仰が、伝説の形で現代にまで続いているそのベースには、日本古

    来の伝承的な考えがあるということを言いました。それが全国にも、古くからの神様に対

    する信仰が残っている。伝説はそういう側面がある。

    我々が歴史的事実を伝えていると思っている伝説ですが、歴史的な見かけはあくまで装

    いであって、それは簡単に言えば入れ替わりが可能な部分なのです。時代、登場人物、場

  • 18

    所、それらはすべて差し替えが可能であって、結局、柳田国男は多くの伝説を比較するこ

    とによって、差し替えが可能な部分と動かせない部分を明らかにしました。

    動かせない部分というものは、柳田の考えでは神話の話に基づくものだとしました。た

    だし、急いで付け加えておかなければなりませんが、現在の伝説研究では、柳田の考えが

    すべてあてはまるわけではありません。つまり、歴史的事実から生まれてきた伝説だって

    ある。単純に神話から生まれたのではなく、エピソードが誇張されて大きくなっていく伝

    説もある。それから、人間関係から生まれる伝説だってあるでしょう。

    伝説の訴えようとしているものは必ずしも信仰だけではないのですが、柳田国男は、誤

    った歴史、不十分な歴史と思われていた伝説に、極めて真面目な神話の名残というものを

    ぶつけることによって、伝説が真剣に研究するに値するものだということを言ったわけで

    す。

    それを子ども向けに易しく書いたものが『日本の伝説』であったと言えるかと思います。

    『日本の伝説』、やはり、読んでみていただくのがよろしいかと思います。同じような伝

    説を並べながら、筆の立つ人なので飽きないのですね。下手な人が同じ伝説を並べると飽

    きるのですが、ところどころにコメントを入れながら話をしていきますので、たいへん面

    白い本になっています。読んで頂けたら私のつたない説明よりは、いろいろ分かることが

    あるかと思います。

    ありがとうございました。