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八郎潟中央干拓地「大潟村」における 平成23年7月 秋田県大潟村 農村集落 建設 村づくり 変遷 干拓前 干拓後

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八郎潟中央干拓地「大潟村」における

平成23年7月

秋田県大潟村

農村集落の建設と村づくりの変遷

干拓前 干拓後

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本書の刊行について… …………………………………………… 1

1. 大潟村の誕生… ⑴…大潟村の位置と全景… ……………………………………… 2… ⑵…八郎潟の干拓計画… ………………………………………… 3… ⑶…八郎潟干拓工事と干拓地の概要… ………………………… 3… ⑷…八郎潟新農村建設事業団… ………………………………… 9

2. 大潟村の集落… ⑴…集落地の選定と集落計画の移り変わり… …………………12… ⑵…総合中心地の集落計画… ……………………………………17… ⑶…公共施設の整備… ……………………………………………20… ⑷…農家住宅の整備… ……………………………………………25… ⑸…商店街の整備… ………………………………………………26… ⑹…その他の施設整備… …………………………………………28… ⑺…道路の整備… …………………………………………………29… ⑻…八郎潟新農村建設事業完了後の集落整備… ………………31

3. 大潟村の農業… ⑴…干拓面積と農地面積… ………………………………………32… ⑵…大潟村の圃場… ………………………………………………34… ⑶…大潟村への入植… ……………………………………………35… ⑷…水稲単作経営から田畑複合経営へ… ………………………36… ⑸…現在の大潟村農業… …………………………………………38… ⑹…干拓地の維持管理… …………………………………………43

4. コンパクトタウンとしての大潟村の特徴… ⑴…大潟村の土地利用と人口… …………………………………45… ⑵…総合中心地への集中のメリット… …………………………46… ⑶…住宅と日常生活… ……………………………………………46… ⑷…コミュニティの形成とコミュニティ活動… ………………48… ⑸…教 育… ………………………………………………………52… ⑹…大潟村の財政事情… …………………………………………54… ⑺…問題点… ………………………………………………………56… ⑻…まとめ… ………………………………………………………57

5. 参考資料… 大潟村管内図… 大潟村総合中心地平面図

目 次

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本書の刊行について

 平成23年3月11日の東日本大震災における未曾有の災害により犠牲になられた方々のご冥福

を衷心よりお祈り申し上げますとともに、被害に遭われた皆様に心からお見舞い申し上げます。

そして、一日も早い復興を心からお祈り申し上げます。また、日夜、復旧復興に当たられている

皆様に心から敬意を表します。

 

 昭和39年に八郎潟干拓により八郎潟の湖底に誕生した大潟村は、本年47年目を迎えます。干

拓当初の湖底の大地はすべてが計画的に整備され、緑豊かな新生の大地として生まれ変わりまし

た。整然と整備された大規模農地、どこまでも続く防風林、緑あふれる住宅街、居住地中央に配

置された公共施設、農業倉庫群、ハウス団地等、暮らしやすい豊かな村となりました。

 農業は農地と宅地を分離したことで、移動には時間がかかるものの圃場整備や農作業が効率よ

く行える環境が整っています。生活面では当初より上下水道が整備され、光通信もいち早く導入

されるなどコンパクトな街の良さが活かされています。そして、住民のコミュニティ活動や生涯

学習・生涯スポーツ活動も盛んで高齢者の方々も活き活きと暮らしています。

 こうした村づくりも計画段階の変更や時代の変化に応じた対応など変遷をたどって現在に至っ

ています。これまでの経過や現在の大潟村の様子は、震災復興を目指す地域の参考になるものと

考えます。大潟村のこれまでの歩みが少しでも震災復興のお役に立つことを願い、本書「八郎潟

中央干拓地『大潟村』における農村集落の建設と村づくりの変遷」を作成いたしました。

 なお、本書の発刊においては、ゴールデンウイーク期間中に行われている大潟村の「桜と菜の

花まつり」を見学に来た宮城県石巻市の佐々木様から、「何もない湖の上に、たった50年できれ

いな花が咲く大潟村ができたのなら、きっと石巻も同じように豊かな街に復興できると信じた

いです。」という葉書を頂いたこと、その後、全国首長連携交流会の講演会で日本政策投資銀行

藻谷浩介氏より被災地の復興に当たり「八郎潟を干拓して米の優良農地を築いた秋田県大潟村を

モデルにすればよい」とのご提言をいただいたことが契機であり、大潟村として復興支援に協力

できることとして「被災市町村視察受け入れ事業」を立ち上げ、その一環として本書を発行する

運びとなりました。ご連絡を頂いた佐々木様、ご提言をいただいた藻谷様には深く感謝申し上げ

ます。

  平成23年7月1日

大潟村長 髙 橋 浩 人

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(1)大潟村の位置と全景

 秋田県大潟村は、男鹿半島の付け根に位置し(図

1–1)、 当 時 日 本 第 二 の 湖 だ っ た 八 郎 潟( 面 積

22,024ha)を干拓し、その湖底に昭和39年10月1日

に誕生した新しい自治体です(図1–2)。大潟村は稲

作中心の大規模機械化農業を実践する日本のモデル農

村を目指し、昭和42年から49年まで延べ5回にわた

り、国により入植者が全国から募集されました。そし

て、国により村の農業と生活の基盤が整えられ、国と

ともに村づくりが進められたという他市町村にない特

異な歴史的経緯をもっています。

大潟村の誕生1

大潟村

秋田県

【図1–2】 大潟村の全景

【図1–1】 大潟村の位置

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1. 大潟村の誕生

(2)八郎潟の干拓計画

 かつての八郎潟は、東西12km・南北27km・周囲82km・総面積22,024haの規模をもち、

南部の船越水道で日本海と通じる汽水湖でした(図1–3)。水深は最深部でも4~5m程度で

あり、さらに湖底は平坦で大部分が肥沃な重粘土質土壌でしたので、干拓しやすい条件を持っ

ていました。

 産業や農業の振興を目的に、明治時代から多くの人々が八郎潟に注目し、干拓計画を立てま

したが実現には至りませんでした。しかし第二次世界大戦後、日本では食糧不足が大きな問題

となったことから、昭和27年に日本政府は食糧増産5カ年計画を策定しました。この計画で

は干拓事業が重要項目とされ、八郎潟干拓計画が再び検討されました。しかしながら、当時の

日本には軟弱地盤上に大きな干拓堤防を建設する技術がなく、八郎潟の干拓は難しいものでし

た。そこで当時の吉田茂首相はオ

ランダに技術援助を求め、オラン

ダの支援を得て昭和32年に「国

営八郎潟干拓事業計画」が完成し、

この計画に基づき工事が進められ

ることになりました。

(3)八郎潟干拓工事と干拓地の概要

 昭和32年、国営八郎潟干拓事業が着工しました。以来、堤防の建設、排水路網の整備、排

水機場の建設、防潮水門の設置など、一連の工事は順調に進みました。昭和38年10月に堤防

と排水機場が完成し、干拓地内の排水が開始され、昭和41年に完全に八郎潟の湖底が干陸さ

れました。続いて、用水路、排水路、農道、圃場、公共施設、農家住宅、カントリーエレベー

ター、格納庫など、農村に必要な様々なインフラを整備する「八郎潟新農村建設事業」が進め

られました。この事業は、国直轄ではなく、「八郎潟新農村建設事業団」という特殊法人が設

立され、その任に当たりました(詳細は後述)。昭和32年から始まった干拓事業は、最終的に

20年の歳月と約852億円が投じられ、昭和52年3月に完了しました。工事の様子を図1–4~

図1–13に示します。

【図1–3】 かつての八郎潟。八郎潟南部の日本海上空から撮影

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【図1–6】完成間近の中央干拓地堤防

【図1–4】干拓堤防建設予定地で、湖底の浚渫に活躍した浚渫船「八竜」

【図1–5】堤防建設に必要な土砂は、八郎潟の湖底土が用いられ、土運船で運ばれた

【図1–7】 工事中の防潮水門。防潮水門の完成により海水が遮断され、八郎潟の淡水化が進んだ

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1. 大潟村の誕生

【 図1–8】工事中の南部排水機場。干拓地内の排水のため、排水機場が2か所に設けられた

【図1–9】完成した干拓堤防と北部排水機場(右下)。まもなく排水機場が稼働し、中央干拓地

(右側堤防の右)から排水が始まる

【図1–10】昭和39年9月15日、完全干陸を前に干陸式が行われた。既に水深の浅い八郎潟の西部を中心に約6,000haの湖底が姿を現し、水量としては約90%が排水されていた

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【図1–12】干拓地の農地整備は、±5cmを目標に整備が行われました

【図1–13】堤 防 に 農 業用水取水口の設置工事が行われ、用水路網も整備されました

【図1–11】干陸と並行して、排水路の掘削工事が行われました

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1. 大潟村の誕生

 国営八郎潟干拓事業により、22,024haの八郎潟のうち、中央部分に中央干拓地15,666ha

が、東・南部の湖岸部に周辺干拓地1,573haが湖底に造成されました。干拓前後の八郎潟を図

1–14に、八郎潟干拓地の概要図を図1–15に示します。中央干拓地は単独の自治体「大潟村」

として、完全に干陸する前の昭和39年10月に発足し、周辺干拓地は隣接する自治体に帰属し

ています。八郎潟の残りの水面は調整池、東部承水路及び西部承水路となっています。調整池

は船越水道に設けた防潮水門により日本海からの海水が遮断され、淡水化されており、干拓地

の農業用水源及び大潟村の飲料水源となっています。中央干拓地は延長51.5kmの堤防で囲ま

れています。中央干拓地内の農業排水は、小排水路等を経て全て総延長15.7kmの幹線排水路

に流下し、その下流末端に設置された南部及び北部排水機場から調整池及び東部承水路に排水

されています。また農業用水は、干拓堤防に設けられた取水口19力所から、総延長94kmの幹

線用水路、総延長448kmの小用水路を経て、水田へ供給されています。

【図1–14】干拓前の八郎潟(左)と干拓後の八郎潟(右)

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日 本 海日 本 海

防潮水門防潮水門調 整 池(八郎湖)調 整 池(八郎湖)

八郎潟町

【図1–15】八郎潟干拓地の概要図

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1. 大潟村の誕生

 中央干拓地の圃場は、大型農業機械による効率的な作業を考慮し、大潟村の入植者用は一区

画1.25haまたは1.1ha、周辺農家の増反用は一区画50aに整備されています。整備された中央

干拓地の農地面積は、11,755haに達しています。大潟村への入植者は国により全国から募集

され、昭和41年から昭和49年まで 5 回にわたり580戸が、昭和53年に秋田県の単独事業によ

り9戸が順次入植し営農を開始しました。(※P35表3–3「年次別入植者数」参照)1戸当た

りの配分面積は15haとなっています。また周辺干拓地は、八郎潟周辺の農家や漁業者に増反

地として配分されています。

(4)八郎潟新農村建設事業団

 八郎潟の湖底に誕生した広大な土地に、全く新しい農村を建設するためには、農地や道路、

住宅の整備など、広い範囲の様々な事業を円滑かつ早急に実施する必要がありました。その

際、誰が主体となり、どのように計画を立て整備していくのかが大きな課題でした。法令上、

干拓等の農地の造成とその維持に関わる基幹的な部分の整備(例えば排水機場の建設等)は、

国が直接工事を行いました。しかし、干拓後の農地の区画整理、用排水路や農道や圃場等の整

備、電気や水道の整備、農家住宅の建設、役場・公民館・学校等の公共施設の整備は、基本的

に自治体が国などから補助や融資を受けて実施することが通例でした。これまで国により主導

された全国各地の干拓地では、干拓工事は国により直接行われたものの、干拓後は干拓地を周

辺の自治体に帰属させ、その自治体が主体となって干拓地の地域づくりが行われていたので

した。

 八郎潟干拓地の場合は、中央干拓地の面積が15,000ha以上もあり、今まで国が行った干拓

事業とは比較にならないほど大規模なものでした。また、中央干拓地への入植もかなりの数に

のぼり、当時は将来の人口も多くなると予想されていました。さらに、入植者が入植するに当

たり、あらかじめ農地や公共施設、農家住宅などを計画的に整備しておく必要がありました。

しかし、必要な農地整備や公共施設整備の事業量はきわめて膨大であり、巨額の費用がかかる

ものでした。発足したばかりの大潟村では、これらの事業を行うことは不可能でした。

 そこで、大潟村の建設に関わる広範囲の様々な事業について、政府の責任と出資により、事

業実施を管理し統一的に実施する事業主体「八郎潟新農村建設事業団」(以下、事業団)が設

立され、事業が進められたのです。事業団の目的は、「国営八郎潟干拓事業により生ずる土地

につき総合的かつ計画的に農地等の整備、農村施設の造成等の事業を行なうことにより、当該

土地に係る区域に模範的な新農村を建設すること」であり、以下の項目が主な業務でした。

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○大潟村内の農地や宅地などの整備。

○入植者住宅及び農業用共同利用施設(農産物乾燥貯蔵施設・機械格納庫など)・役場庁舎・

小中学校・街路などの公共施設の整備。

○事業団が整備した土地や施設のうち、事業団が所有するものの災害復旧。

○事業団が整備した公共施設の譲渡、及び入植者住宅や農業用共同利用施設の譲渡や貸

付、管理。

○事業団が干拓予定地の配分を受けて取得した土地の譲渡。

○トラクターやコンバインなどの大型農業機械の譲渡及び貸付。

○国または地方公共団体の委託を受けて行う入植者の指導訓練、営農試験、営農指導、国

営干拓工事及び土地改良財産の管理。

 八郎潟干拓工事は昭和32年から国の直轄事業で行われてきましたが、昭和40年当時はまだ

工事が完了してなかったので、引き続く工事は事業団が国から委託される形で進められまし

た。干拓工事により整備された排水機場や防潮水門、堤防や用排水路の維持管理についても、

国が事業団に委託する形で進められました。また、入植者に対しては、事業団が干拓地におけ

る大規模機械化農業の訓練を行い、入植後は住宅や共同利用施設の譲渡や貸付をし、そして営

農の指導まで行いました。このように、事業団は干拓地を管理し、大潟村の社会基盤を整備す

るだけではなく、入植者の営農や生活をも支えた組織だったのです。

 しかし、事業団は独自に計画を立て、独自に土地や施設の整備ができる組織ではありません

でした。事業団法により、八郎潟干拓地の土地や施設の整備を行う際には、農林大臣や自治大

臣から基本計画の指示を受けることになっていました。大きな社会情勢の変化により、基本計

画の変更が余儀なくされるときもあったのでした。

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 大潟村の集落地は中央干拓地の西部に位置しており、「総合中心地」と呼ばれています(図2–1、巻末参考資料も参照)。この地域は安定した砂地盤であり、また比較的標高が高かった

(−1.5 ~−0.5m)ことから、様々な施設を建設するのにふさわしいと判断され、約690haが集落地となりました。しかし、大潟村の集落地が現在の1集落のみに落ち着くまでには長い年月がかかりました。干拓工事期間中、高度経済成長に伴う社会情勢の変化により、営農規模が議論され、その都度集落地のあり方が検討され、集落計画が変更されたのです。集落計画の変遷は表2–1のとおりです。営農計画、建設コストや集落設置後の村の財政負担、通学や買い物など、入植者の生活の影響などが検討され、最終的に現在の総合中心地のみの1集落案に落ち着いたのでした。昭和52年の八郎潟干拓事業の完了後には、大潟村では大潟村総合発展計画が策定され、これに基づき様々な施設の整備が行われました。

大潟村の集落2

【図2–1】総合中心地の位置

案 年 作成時期集落案の呼  称

計画作成機  関

集落の位置と数

前提となる入植戸数と1戸あたり営 農 規 模

前提となる営農形態

前提となる農村建設計画

農業施設

コミュニティ計 画

居住・生産区の分離

歩車分離

緑地配置計画(防災林含む)

工業用地

総合中心地の中心

案A

八 郎 潟 干 拓工事の開始時

道路沿い列状集落案 農林省

総合中心地+5中心地+

5副中心地+列状集落

4,800戸2.5ha

個別経営徒歩通作

水稲移植栽培分散 × × × × × ×

案B35

八郎潟干拓工事期間中

( 干 陸 前 )

8集落案農 村建 設研究会

総合中心地+2中心地+6集落

2,400 ~4,800戸

2.5 ~ 5ha

協業経営自動車通作

水稲直まき栽培分散 ○ × × ○ × ×

案C36 8集落案 日本都市

計画学会総合中心地+

2中心地+6集落2,400戸

5ha

協業経営自動車通作

水稲直まき栽培酪農の導入

分散 ○ ○ ○ ○ ○ バスターミナル

案D37 8集落案 日本都市

計画学会総合中心地+

2中心地+6集落2,400戸

5ha

協業経営自動車通作

水稲直まき栽培集中 ○ ○ ○ ○ ○ バスター

ミナル

案E37 総合中心地

集 中 案日本都市計画学会 総合中心地

800 ~1,200戸

10ha

協業経営自動車通作

水稲直まき栽培集中 ○ ○ ○ ○ ○ センター

ベルト

案F40 第1次入植

者の募集前 4集落案 農林省 総合中心地+3集落

1,300戸7.5ha

協業経営自動車通作

水稲直まき栽培集中 ○ ○ ○ ○ ○ センター

ベルト

案G43 第4次入植

者の募集前総合中心地1集落案 農林省 総合中心地 引き続き

検  討 引き続き検討 集中 ○ ○ ○ ○ × センターベルト

案H48 第5次入植

者の募集前 1集落案 農林省 総合中心地 580戸15ha

大型農業機械の共同利用等による田畑複合経営、自動車通作

集中 ○ ○ ○ ○ × センターベルト

【表2–1】集落計画の変遷

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(1)集落地の選定と集落計画の移り変わり

①列状集落案(案A) 干拓工事着工前に農林省が策定した原案です(図2–2)。計画策定にあたり、山形県庄内平

野や八郎潟の周辺農村の調査が行われ、水稲単作で1戸あたり配分面積が2.5ha、入植農家戸

数を4,700戸と見込み、住宅から自分の圃場まで徒歩通作を想定していました。そのため、道

路沿いに住宅を設け、住宅に隣接して農地を配置する計画でした。さらに、行政・経済機能の

中心となる総合中心地1箇所(約40ha)、戸数1,000戸単位の中心地を4箇所(約10ha/箇所)、

戸数500戸単位を中心とする副中心地を 5 箇所(約5ha/箇所)設ける計画でした。総合中心地

には、役場、公民館、農協、警察署、郵便局、病院、幼稚園、小・中学校、高校などの公共施

設を置き、4箇所の中心地には役場出張所、公民館、農協支所、警察官派出所、幼稚園、小・

中学校等を置き、さらに5箇所の副中心地には農協倉庫や公民館、保育園などを置くことが想

定されていました。

 この集落案は土地の配分面積が少

なく、かつ徒歩通作・個別経営によ

る営農が優先された計画であるた

め、居住場所によっては公共施設ま

でが遠いこと、当時想定されていた

飛行機による薬剤散布ができないこ

と、上水道・下水道・ガスの配置及

び維持管理の費用がかさむこと、系

統的なコミュニティの計画が立てら

れないこと、などが課題として挙げ

られました。

【図2–2】列状集落案の計画図

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2. 大潟村の集落

②8集落案(案B~D)・総合中心地集中案(案E) 昭和35年からは、農林省の委託により農村建設研究会、日本都市計画学会で集落計画が議

論されました(案B~D、図2–3)。中央干拓地は、秋田市、能代市、男鹿市の3都市を結

ぶ三角形の中央部に位置しており、基本的な生産活動や生活は、この3都市内部でおさまるこ

とを想定し、地域構成の単位、集落と道路の配置が検討されました。

 地域構成については、高度な生活水準を維持するには、小学校、診療所、購買施設、農産物

の貯蔵庫や農機具庫などが必要であり、これらの施設が健全に維持されるためには、1集落

あたり300戸以上の戸数と1,000ha以上の

耕地面積が必要と判断されました。そして、

以下の通り集落構成の基準を設けました。

○幹線道路・幹線排水路で区画し、同

一の農業用水系統のエリアに1集落

を設ける。

○集落の構成単位は250 ~ 500戸の集

村形態とする。

○集落では小学校、商店、保育所など

の維持が可能で、徒歩圏に日常生活

に必要な諸施設を設ける。

○3集落により1地区を形成し、1地

区内の中央の集落を中心集落として

中学校、診療所、役場出張所等を設

ける。

 その結果、中央干拓地を1,500 ~ 1,700haの8耕地集団に分け、それぞれに集落を設け、そ

のうちの3集落を地区中心集落とし、うち1つの中心集落を総合中心地として、全集落を支配

する考え方にまとまりました。総合中心地は地盤の良い中央干拓地西部に設け、総合中心地と

各集落の間に環状線を配置するものでした。

 その後、中央干拓地での営農計画の策定にあたり、入植者の経営面積を拡大する方向となり

ました。従って入植農家戸数は大幅に減少し、様々な生活施設の設置は困難と予想されまし

た。施設を充実させ生活文化の向上を図るという観点に立てば、全人口を総合中心地に集中さ

せ、集落の人口を維持し集落機能を成立させることが必要でした。総合中心地の計画も、この

【図2–3】8 集落案の集落配置計画図

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ときに立てられました(図2–4)。その際に大きな課題となったのは、営農と生活の分離で

したが、農業の近代化と自動車の普及から、この問題は解決可能いう結論となりました。そこ

で、集落予定地は予定地として残しつつも、全住民の住居を総合中心地に集中する計画(案E)

となったのでした。

③4集落案(案F) 大潟村が昭和39年10月に発足し、入植事業

を開始するにあたり、農林省は八郎潟中央干拓

地における新農村建設の基本計画を定めなけれ

ばなりませんでした。そこで農林省では、昭和

37年に提案された集落案をもとに、4集落案

の計画(案F)を策定しました(図2–5)。

 この計画を策定した際、大蔵省や自治省は建

設費用と大潟村の財政を考慮し、1集落案を主

張しました。しかし農林省は、1集落だと圃場

への通作の時間ロスが大きい上、総合中心地か

ら10km以上も離れた圃場を配分される農家が

多数出ること、圃場が離れていると圃場の近く

に生産施設が必要となり、ここに電気や上水道

23

2017

19

18

25

2527

27

27

24

15 16

22

2326

21

81

2

35 6

47

10

1112

2828

29

27

14 13

12345678910

11121314151617181920

21222324252627282930

村 役 場警   察事務所・金融機関農協事務所商 店 街公民館・図書館診 療 所中心地タワー観光施設・旅館中 学 校

小 学 校運 動 公 園宗 教 施 設墓   地天然ガスプラント浄 水 場火 葬 場ゴ ミ 焼 場汚泥処理場公共施設用保留地

入植者訓練所訓練所農業施設農業施設用地機械公団機械修理工場工業施設用保留地公   園緑   地農 家 住 区非農家住区農家住区用保留地

【図2–4】総合中心地計画図

【図2–5】4集落案の集落配置計画図

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2. 大潟村の集落

などの施設が必要になってくること、八郎潟干拓地に期待する農民像は、協業により大型農業

機械を用いて営農を行う連帯意識にあるので、一度に大きな集落をつくっては、協業の連帯感

を薄めるおそれがあること、などの理由から4集落案を提案し、この集落案をもとに、昭和

40年9月に八郎潟新農村建設事業団に集落建設の基本計画を指示したのでした。

④1集落案(案G) 昭和41年に第1次入植者の募集が行われました。この際、配分面積はおよそ5、7.5、10ha

のいずれかを選択できましたが、現実にはほぼ全員に10haの農地配分となりました。その結

果、同規模で今後入植を続けていく入植農家数は約1,000戸となり、4集落案で想定した農家

戸数が大幅に減少することから、再び集落計画が検討されました(案G)。

 地盤の条件、建設コスト、村の財政負担、小学校や中学校などの生活環境の整備や住民の利

用を考慮すれば、総合中心地のみの1集落案が有利でした。集落地と圃場が離れることにより

通作時間の増大が考えられましたが、自動車通作を条件とすれば大きな支障はありません。一

方で、圃場が離れることにより農業資材の搬入経費の増大が考えられ、圃場管理や農業機械の

共同利用においても、集落地と圃場が近いほうが有利と思われました。

 従って最終的な結論は出せず、昭和42年の第2次入植者についても総合中心地内に生活の

場を提供するという形で入植が進められました。その後、基本計画を変更しないまま、実際に

は1集落案で入植事業が実施されていったのです。

⑤1集落案(案H、現計画) 昭和40年代に入ると、米の生産量が消費量を上回るようになり、昭和45年から米の生産調

整が始まりました。中央干拓地での営農計画は水稲単作経営であったため、入植事業は第4次

入植(昭和45年)で中断しました。その結果、中央干拓地の入植用農地の約半分(約5,000ha)

が、利用方針が定まらないまま取り残されることとなりました。この土地利用については様々

な角度から議論され、そして昭和47年、事業団は田畑複合経営による営農計画と入植再開に

ついて農林省に提案しました。農水省は八郎潟新農村建設事業を完成することを基本に、以下

の条件で入植を再開したのでした。

○新入植者に対する土地配分は、中央干拓地全体の稲作面積を現在の稲作面積より増加し

ないことを前提に行う。生産調整については、現在の稲作面積の中で従来と同様の調整

を行う。

○新入植者には15haの土地を配分し、既入植者には5haの土地を追加配分する。これに

より、既入植者、新入植者とも1戸あたり稲作7.5ha、畑作7.5haの土地配分とする。

○15haの経営規模により、おおむね水稲単作経営10haに見合う所得を確保し、将来の田

畑輪換経営を目指す。

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○昭和48年度に新入植者の募集・選考を行い、昭和49年度に新入植者の訓練、土地の新

規・追加配分を行った上で、昭和50年度から全入植者が15haの土地面積で営農を開始

する。

 この決定により、中央干拓地の土地利用は、1戸あたりおおむね10haの水稲単作経営から、

1戸あたりおおむね15haの田畑複合経営へと営農計画が変更され、従って大潟村の農家戸数は

580戸となりました。集落計画においても、昭和48年度まで4集落の計画を変更しないまま、

実際に総合中心地のみの1集落で整備されてきましたが、営農計画の変更を受け、最終的に総

合中心地のみの1集落案に落ち着き、図2–6に示すとおり総合中心地の土地利用計画も定め

られました。

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西四丁目 東四丁目

東三丁目西三丁目

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西二丁目

西一丁目

東一丁目

東二丁目

7

凡  例

役     場

警察官派出所

公  民  館

診  療  所

幼  稚  園

小  学  校

中  学  校

上水道施設

下水道施設

公団公共用住宅

墓     地

ゴミ処理場

農 協 倉 庫

児  童  館

防  災  林

緑     地

農協事務所

八郎潟ガーデン

電  話  局

農 家 住 宅

農業機械格納庫

家 庭 菜 園

入植指導訓練所

乾燥調製貯蔵施設

県立農業短大

消 防 施 設

ガス圧調整所

土地改良区倉庫

役 場 倉 庫

土地改良区事務所

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444342 414039 383736 3534 3332 31育 苗 施 設

農業生産施設

文 教 発 展

公民館分館

住 宅 発 展

農協機械整備工場

G  関  連

A ・ (保 健)

   池

児 童 公 園

公 共 施 設

業 務 施 設

郵  便  局

商     店

3840

【図2–6】総合中心地土地利用計画図(昭和48年)

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2. 大潟村の集落

(2)総合中心地の集落計画

 約690haの面積をもつ総合中心地内の土地利用は、日本都市計画学会集落計画委員会を中心

に検討され、居住施設区、農産施設区、保健体育施設区、環境衛生施設区の4つの区域に分

け、生活の場と生産の場を完全に分離し、さらに居住施設区の中心にセンターベルトと呼ばれ

る公共施設帯を設けることになりました(図2–7)。総合中心地土地利用の内訳は表2–2の

通りです。そして事業団は入植者の入植と営農活動に間に合うように年次計画をたて、道路や

上下水道、防災林、宅地造成、公共施設、農業関連施設の整備などの工事を行ったのでした。

 

 従来の農家は、住宅と農地が近接しており、その住宅地にも納屋や畜舎などがあり、生活と

営農活動を行う場が同一でした。大潟村は、当初から生活の場と営農活動の場を完全に分離し

て整備されていることが大きな特徴です。生活の場を総合中心地の中央に設け、全て徒歩によ

る生活を可能としました。また営農活動の場である機械格納庫やカントリーエレベーターは生

活の場の東側と南側に設け、これらの施設や圃場へは自動車で通うこととされました。

 集落の中で、生活の場となる居住施設区の中央には、南北に1.6km、幅200mのセンターベ

ルトといわれる公共施設地帯(現在の大潟村字中央)が設けられました。センターベルトは、

北から墓地、教育・運動公園、役場・農協等、業務施設、観光・供給施設の各ブロックに分け、

それぞれに施設が整備されました(図2–8)。そして村民の居住区として、センターベルト

の西側に西1~3丁目、東側に東2・3丁目の計5住区が設けられました。

【図2–7】総合中心地の土地利用計画

【表2–2】総合中心地の土地利用別面積

保健体育施設区域

中央ベルト区域

住宅発展区域

環境衛生施設区域

農産施設区域

利 用 目 的 面積(ha)

農家住宅用地 45.71

機械格納庫用地 39.70

大潟村公共施設用地 25.01

大潟村公共施設発展用地 33.57

農産施設等の用地 115.32

秋田県(短大等)の用地 142.55

街路・排水路・緑地等の用地 284.40

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 集落地内では、街路沿い及び住区と

住区の境界にクロマツやポプラが植栽

されました(図2–9)。住区と住区

の間には遊び場や避難所として使える

オープンスペースの緑地帯を設け、徒

歩で通行が可能となっています(図2–10)。住区内の道路にも特徴があり、

隣接する住区に直接通り抜けができな

いように、道路がループ式に整備さ

れています(図2–11)。これは当時、

村の農家ではトラックを含め2~3台

の自動車所有が想定されていたことか

ら、住区内において、大型車の通行を

できるだけ減らし、子どもやお年寄り

などの交通事故を防ごうと、日本建築

学会が考え出したものでした。

①……教育・運動公園②……役場、農協、公民館、   商店、診療所③……業務施設④……観光施設⑤……供給施設等⑥……墓地

②③

【図2–8】センターベルトのブロック分けと、各ブロックにおける公共施設等の配置(当時)

【図2–9】住区と住区の境界の防災林

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2. 大潟村の集落

【図2–11】住区内の道路配置図の例(西1丁目)

【図2–10】住区と住区の間の緑地帯。児童館が設けられているところもある

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(3)公共施設の整備

①整備された主な施設 大潟村は昭和39年10月に誕生しましたが、当時は湖を干拓した大地に行政区が設置され、

そして行政の事務を行う組織が設立されただけであり、他の自治体にあるような役場、公民

館、学校、病院といった公共施設は全くありませんでした。

 本来であれば、公共施設はその自治体が、自主財源や起債、国や県などの補助を受けて整備

することになっています。しかし大潟村は全く新しい土地に誕生したうえ、昭和41年には第1

次入植者が募集され、翌42年に入村することになっていたので、短期間の間に住民が大潟村

で生活をする上で必要なインフラを整えておく必要がありました。財源のない大潟村が、単独

で公共施設を整備することは不可能でした。そこで国が村に代わって「公用又は公共用に供す

る施設及び住民の共同の福祉のために必要な施設」を建設し、完成後は大潟村に長期間の年賦

支払の方法により譲渡されました。初期の大潟村では、このような形で公共施設の整備が進め

られました。なお、公共施設の整備工事は八郎潟新農村建設事業団により行われました。

 本来であれば入植前に全ての公共施設を整備できれば良いのですが、予算枠と施工能力の関

係上、使用度の高い施設から優先して建設されました。未整備の施設の行政サービスは当初、

既整備の施設に同居するなどして行われました。こうして整備された主な公共施設と完成年度

は表2–3のとおりであり、完成後に大潟村に譲渡されました。

【表2–3】八郎潟新農村建設事業団により整備された主な公共施設

※規模は建設当時の数値。

施 設 名 規  模 構    造 完成年度 譲渡先または建 設 団 体

入 植 指 導 訓 練 所 5,575㎡ 鉄 筋 コ ン ク リ ー ト 41 国 有 財 産

役 場 1,500㎡ 鉄筋コンクリート2階建 42,50 大 潟 村 へ 譲 渡

公 民 館 1,250㎡ 鉄筋コンクリート2階建 44 大 潟 村 へ 譲 渡

公 民 館 分 館 213㎡ 鉄筋コンクリート平屋建 50 大 潟 村 へ 譲 渡

小 学 校 3,800㎡ 鉄筋コンクリート2階建 43 大 潟 村 へ 譲 渡

中 学 校 3,150㎡ 鉄筋コンクリート2階建 45 大 潟 村 へ 譲 渡

幼 稚 園 652㎡ 鉄筋コンクリート平屋建 47 大 潟 村 へ 譲 渡

診 療 所 677㎡ 鉄筋コンクリート平屋建 45 大 潟 村 へ 譲 渡

公 用 公 共 用 住 宅 4 ~ 100㎡×85棟 コンクリートブロック 40 ~ 51 大 潟 村 へ 譲 渡

農 協 事 務 所 2,078㎡ 鉄筋コンクリート平屋建 43 ~ 50 大潟村農協建設

郵 便 局 99㎡ 補強コンクリートブロック造 49 特定郵便局建設

警 察 官 派 出 所 164㎡ 鉄 筋 一 部 鉄 骨 48 五城目警察署建設

児 童 館 195㎡×4棟 鉄筋コンクリート平屋建 44 ~ 50 大 潟 村 建 設

秋田県立農業短期大学 13,240㎡ 鉄 筋 コ ン ク リ ー ト 48 秋 田 県 建 設

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2. 大潟村の集落

② 役場庁舎の共同利用 大潟村役場庁舎は、センターベルト地帯の中央部に昭和42年12月に完成しました(それま

では秋田市内に庁舎がありました)。役場庁舎の規模は、当時の自治省の基準をもとに検討さ

れ、庁舎の全体面積を1,500㎡とし、第1期工事分は900㎡でした(図2–12)。

 当時は村民向けの公共施設は役場庁舎以外にありませんでした。庁内には、五城目警察署大

潟村警察官連絡所が設けられ、警察官1名が配置されたほか、入植者の子の保育のために保育

所が昭和43年4月に設けられ、2~5歳児27名が入所し、保母2名で保育が行われました(図

2–13)。そのうえ簡易郵便局も役場庁舎に入っていました。このように、当時は役場に様々

な機能をもつ公共施設が「雑居」している状態であり、これは各施設が整備されるまで続きま

した。

 議場については別棟とされ、第5次入植者の入植終了後、初めての村の村長・村議会議員選

挙が行われる昭和51年9月を前に、昭和50年12月に整備されました。

③ 公民館 大潟村公民館は、村民の教育と文化の拠

点となるべく、秋田農業博覧会が開催され

た昭和44年に役場庁舎の北側に建設されま

した(図2–14)。農業博覧会では大潟村の

「パビリオン」となり、高い位置から干拓地

の様子を眺めてもらおうと、秋田県により

6階建ての展望塔が併設されました。公民

館の1階には干拓事業に関する展示室が設

けられており、大潟村を訪れた多くの方々

が展示を見学し、そして展望塔に足を運び、

広い干拓地を一望して行ったのでした。

【図2–13】役場内に設けられた保育園

【図2–12】当時の役場庁舎

【図2–14】大潟村公民館

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 秋田農業博覧会終了後は、公民館では様々な研修や各種サークル・団体の活動の場として盛

んに利用され、大潟村の生涯学習・芸術文化活動及び軽スポーツ活動の拠点として機能し、ま

た冠婚葬祭の場としても使われました。

④ 小・中学校 第1次入植者が入村した

昭和42年11月、まだ大潟

村には小学校・中学校があ

りませんでした。入植者の

子どもたちは、総合中心地

から最も近い琴浜村(旧若

美町、現男鹿市)の野石小

学校と潟西中学校に入学

し、スクールバスで通学し

ていました。その一方で、

昭和43年以降も順次入植

が計画され、児童・生徒数が大幅に増えることから、教育・運動公園エリア(図2–15)に、

小学校と中学校を建設する準備が進められました。

 大潟小学校は将来の生徒増加を考慮し、1学年3クラス、全体で18クラスの規模の校舎建設

が計画されました。その第1期工事として昭和43年4月から12クラス分の校舎の建設が始ま

り、同年12月に鉄筋コンクリート2階建ての校舎が完成しました(図2–16)。第2次入植者

の入村にあわせるため、大潟小学校と大潟中学校の開校は同年11月1日となりました。しか

し、中学校の校舎はまだ建設が始まっておらず、小学校の校舎のうち6クラスを小学校、3ク

ラスを中学校、残り3クラスを幼稚園が共同利用していました。また、当時としては珍しかっ

たプールも建設されました。

 第4次入植者数が決まった昭和45年、小学校に隣接して中学校の建設が始まりました(図2–17)。昭和50年度の園児・児童・生徒数を推計し、大潟村の学校の規模を幼稚園4クラス、

小学校12クラス、中学校6クラスとし、既に建設されていた小学校12クラス分を差し引いて、

9クラス規模の中学校とされました。また、引き続き小学校と中学校の校舎を、幼稚園・小学

校・中学校が共同利用することとされ、これは昭和47年の小学校に隣接した幼稚園園舎の完

成まで続きました。

 このような経緯で、大潟村では幼稚園・小学校・中学校が相互に連絡通路で結ばれた、全国

でも珍しい校舎が完成しました。昭和43年の開校当初は1学年十数名からのスタートでした

が、入植により毎年児童・生徒数が増え、活気がある学校になっていったのでした。

【図2–15】教育・運動公園エリアの計画図

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2. 大潟村の集落

⑤ 幼稚園・保育園と児童館 入植当初の入植者の家族構成は、夫婦と

その子、という家庭が比較的多かったこ

とから、夫婦で営農をするにあたり、保育

園の開設が望まれていました。しかし、昭

和43年春の第1次入植者の営農開始時に

は保育園の開園が間に合わず、4月から役

場庁舎内に簡易保育所が設けられました。

このときの乳幼児(2~5歳)は27名で、

2名の保母が保育にあたりました。

 昭和44年1月には大潟幼稚園が大潟小

学校内に設けられ、4・5歳児が幼稚園に

移りました。3歳児以下の保育に対しての

要望は強く、県の全額補助のもと、「住民

の集会の場」「児童の遊び場」「乳幼児の保

育の場」として各住区に集会室、遊戯室、

トイレなどがある児童館が建設され、社会

福祉協議会が運営する形で無認可保育所と

して保育が行われるようになりました(図

2–18)。これは昭和54年6月の大潟保育

園の開園まで続きました。

 幼稚園は、小学校・中学校の校舎完成後

も引き続き小・中学校校舎を共同利用していましたが、昭和47年12月に、小学校に隣接して

幼稚園園舎が完成し、共同利用は完全に解消となりました。

【図2–16】建設中の大潟小学校 【図2–17】中学校は大潟小学校に隣接して建設された

【図2–18】児童館での保育と保育の様子

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⑥体育施設 大潟村は全国各地からの入植者で構成されていたため、住民の連帯意識をスポーツ活動で醸

成し、新たな郷土意識を認識してもらうことが必要と考えられ、運動公園が整備されました。

大潟小・中学校にはグラウンド、体育館、プールがありましたが、村民からの要望もあり、新

たにセンターベルト内の学校施設の北側に、野球場、陸上競技場(サッカー可能)、テニスコー

ト、バレーボールコートが設けられました。

⑦診療所 診療所は、隣接する八郎潟町にある

秋田県厚生連湖東総合病院から、診

療、治療、検査、手術などの援助を受

けるとともに、村民の保健活動を診療

所と一体となって行うべきとの考えの

もと、診療所・保健センターを同一の

建物として、昭和45年度に整備しま

した(図2–19)。昭和49年4月から

は専任の医師が常駐しています。

⑧上下水道 大潟村の水源としては当初、寒風山山麓(男鹿市)や井川ダム(井川町)、萩形ダム(上小

阿仁村)からの導水が検討されましたが、水利権や補償の問題で実現に至らず、最終的に総合

中心地内で地下水をくみ上げることになりました。

 1日最大給水量を240L/人、計画給水人口を4,000人、1日あたり最大給水量を1,350㎥と

し、水源となる深さ82 ~ 100mの深井戸を昭和41年から44年度までに3か所、総合中心地に

設置しました。また浄水場は、1日あたりの1,415㎥の計画浄水量をもつ施設を水源地付近に

設けられました。しかし、現実には水源1か所あたり350㎥ /日以上の揚水は不可能であり、

その後井戸の機能の低下が発生したことから、昭和57年に、中央干拓地の正面堤防からの浸

透水に水源を変更しています。

 下水道施設については、環境保全と行財政上から、公共下水道方式が採用され、大潟村の総

合中心地のうち178.59haを予定排水区域及び予定処理区域とする下水道処理施設が設けられ

ました。排水は暗きょ方式とし、汚水中継ポンプ場が総合中心地内2か所に設けられ、のちに

秋田県立大学短期大学部設置に伴いさらに1か所の汚水中継ポンプ場が設けられました。下水

処理場は、総合中心地の北西部に設けられ、沈殿池+3か所の酸化池により浄化する方法とな

りました。

【図2–19】 診療所

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2. 大潟村の集落

(4)農家住宅の整備

 大潟村への入植が始まる前に、入植者が暮らす農家住宅を総合中心地に整備しておかなけれ

ばなりませんでした。当時の一般的な農家の宅地面積は、母屋や作業舎、物置などが同じ敷地

内にあるので、1,000㎡~ 1,300㎡と広いものでした。しかし大潟村の場合、当初は大圃場で

大型機械を使った協業経営を営農方針としていたので、農業機械の格納庫や米の乾燥調整貯蔵

施設などの共同利用施設は、住宅地からやや離れた農業生産施設区域に整備され、さらに1戸

あたり500㎡の家庭菜園用地も農業生産施設区域に設けることとしたので、1戸あたりの宅地

面積は1000㎡−500㎡=500㎡となりました。

 住宅の面積は、当時の開拓営農地の家族構成や農林省の農家住宅設計基準案をもとに検討さ

れ、5人家族の場合の住宅面積は1戸あたり70㎡となりました。住宅の構造は、軟弱地盤上で

の建築と火災時の延焼防止のため、頑丈な基礎をもつコンクリートブロック造の耐震耐火構造

とされました。また、平坦な大地に変化をもたらし、かつ雪の落下を容易にするため、2階建

ての場合は三角屋根とし、住区ごとに赤・黄・青のいずれかの色を採用することになりました。

そして八郎潟新農村建設事業団に

より、昭和42年から49年までに、

のべ580戸の農家住宅が建設されま

した(図2–20)。

 住宅の間取りはいくつかのタイ

プが設けられ、入植者が選ぶこと

ができました。2階建ての場合の

主 な 間 取 り は、 1 階 が 居 間・ 台

所、6畳和室が2室、浴室、洗面

所、トイレでした。2階は増築ス

ペースであり、入植者が自分で整

備する空間となっていました(図2–21)。トイレは当初から水洗で当

時としてはとても珍しいものでし

た。また、ガスは旧若美町(現男鹿

市)から天然ガスが供給されていま

した。

【図2–21】 入植者住宅の間取りの一例

【図2–20】建設された入植者住宅

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 このような形で整備された農家住宅でしたが、実際に入居してみると、親戚が来ても泊まる

部屋がない、車庫がない、家族構成が変わったなどの理由で使いにくくなり、入植後数年の間

にほとんどの農家で増築が行われました。また、宅地面積も500㎡では狭いとの意見が多く出

され、第3次入植者の住宅からは700㎡に拡大されました。

 大潟村の特徴であった三角屋根の住宅ですが、現在では改築が進み、入植当時のままに残っ

ている住宅はほとんどありません(図2–22)。しかし、三角屋根に愛着をもち、三角屋根を

生かしつつ増改築を行った方も多く、その名残はまだ随所に見ることができます。

(5)商店街の整備

 昭和42年11月の第1次入植者の入村以

来、大潟村における日常生活の買い物は、

秋田県経済連(農協)のスーパーマーケッ

ト(図2–23)と周辺自治体からの行商に依

存していました。しかし、農協のスーパー

は閉店時間が早く、入植者の購買の時間帯

とずれがあること、行商では商品の質や量

に限界があることなどから、購買において

は不便な日常生活を送っていました。また、

秋田県観光開発公社が経営する「八郎潟ガー

デン」以外に飲食店は無く、さらに理容院・

美容院がないなどの問題もありました。

【図2–22】現在の大潟村の農家住宅

【図2–23】 秋田県経済連が設置したスーパーマーケット。 後に大潟村農業協同組合が運営

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2. 大潟村の集落

 そこで、日本建築学会では昭和46年度に大潟村の全世帯を対象にアンケート調査を行いま

した。その結果、鮮魚店、精肉店、青果物店、衣料品店、理容院、雑貨店、医薬化粧品店、美

容院、飲食店などの設置を希望していることが分かりました。この意向を受けて、村の安定時

における人口を4,000人(当時の推定)とし、村民の購買能力を勘案した結果、総合食料品店、

青果精肉店、鮮魚店、衣料品店、日用雑貨店、理容院、美容院、食堂をそれぞれ1軒ずつ配置

することとしました。商店は2階建ての長屋形式で、1階部分を売り場としており、その面積

は約50㎡でした。

 商店の建設に当たっては費用負担の問題もありました。土地・建物ともに個人が設置する場

合では商店の経営が成り立たないと推定されました。また、店舗の建設を個人に委ねると集落

計画にそぐわないものとなることが懸念されました。さらに、個人の店舗を事業団事業で、補

助金を用いて行うことにも問題がありました。そこで、1階の店舗部分は村が、店舗の内装工

事は入居者が、2階部分の住宅を事業団事業で行うこととし、昭和48年度に5戸、49年度に

3戸が建設されました(図2–24)。

 なお、昭和63年に商店街の再編整備により、アーケード、駐車場が整備されました。現在

は美容院、理容院、居酒屋、郵便局、歯科医院、接骨院、菓子店、雑貨店、食堂があります

(図2–25)。

【図2–25】現在の商店街

【図2–24】整備された商店街(当時)

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(6)その他の施設整備

①大潟村農業協同組合 昭和42年11月に、秋田県経済連により470㎡の事務所、店舗、ガソリンスタンドが設けら

れ、業務が始まりました。昭和45年9月に大潟村農業協同組合が設立されると、これらの施

設は継承され、以後、設備が充実していきました。現在は、センターベルトに大潟村農協会館

及び店舗(スーパーマーケット)が、南地区に倉庫、自動車整備工場、農業機械整備工場、油

槽所、加工センターなどが、西側の県道沿いにガソリンスタンドが設けられています。

②郵便局 当初、大潟村には郵便局はなく、役場内に簡易郵便局が開設されていました。しかし、年

金、積み立て、電報などの取扱ができなかった上、貯金の払い出しに限度額があったことか

ら、昭和49年2月に無集配の特定郵便局が、利便性を考えセンターベルトの商店街の中に建

設されました。土地は大潟村からの借地、建物は郵便局長個人が建設し、郵政省に賃貸する形

式となっています。

③警察官駐在所 当初、大潟村には駐在所はなく、管轄の五城目警察署が役場内の一室を借りて巡査駐在所を

設けました。その後、入植に伴い人口が増え、交通量も増大したことから、秋田県警察本部で

センターベルトの道路沿いに宿舎付きの警察官派出所を設けました。

④消防施設 昭和48年6月に、大潟村と隣接する自治体(4市町村)で消防一部事務組合を組織し、隣

接する若美町(現男鹿市)に若美分署が設けられ、若美分署が大潟村の管轄となりました。そ

の後、昭和54年に大潟分署が開設され、救急車1台が配置されました。現在はポンプ車1台、

救急車1台が配置されています。

 また消防団は昭和43年6月に結成され、各住区の中央緑地帯に小型ポンプ1台を配置する

格納庫と40㎥の地下貯水槽が設けられており、さらに、ポンプ車1台を有しています。

⑤塵芥処理場 塵芥処理場が建設されるまで、大潟村では一時的に総合中心地に近い、1級幹線排水路中の

掘削跡地に塵芥を投棄していました。しかし、投棄した塵芥が燃えだしたり、大雨時に塵芥が

幹線排水路に流れ出し排水機場に達することもあったことから、塵芥処理施設の建設が検討さ

れました。

 塵芥処理施設は焼却処理施設とし、隣接する若美町、八郎潟町と共同で、大潟村の総合中心

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2. 大潟村の集落

地の東側に、昭和57年に建設されました。施設規模は、想定人口が23,293人、1人あたり排

出量を873g、1日あたり処理能力を20トンとし、1日8時間稼働する10 t 焼却炉を2基設置

するものでした。完成後は大潟村ほか二町衛生処理組合が組織され、施設の管理・運営にあた

りました。

⑥秋田県立農業短期大学 食糧供給基地としての秋田県の地位を強固にし、その中核となるすぐれた実践者・技術者を

養成するため、秋田県により総合中心地の南部に建設が進められ、昭和48年4月に開学しま

した。広い実験圃場を有しています。

 現在は、秋田県立大学大潟キャンパスとして、生物資源科学部アグリビジネス学科及び附属

フィールド教育研究センターが設けられており、4年制に移行しています。

(7)道路の整備

 中央干拓地内の道路については、①1級幹線道路(総延長33.5km)、②2級幹線道路(総延

長34.8km)、③支線道路(用排水路沿いに設置、総延長157.1km)、④農道(総延長452.2km)

に分けて整備されました。うち①は県道、②は県道及び村道、③は村道、④は大潟土地改良区

の管理道路となっています。

 道路の整備にあたり、道路構造令により、道路に近い河川や湖沼、水田の水面よりも0.5m

以上の高さが求められていました。また、積雪期は路面の高さが高いと両側に除雪しやすく、

除雪費も安価となることから、積雪期の道路は1.0 ~ 1.5mの高さで整備されていました。こ

れらのことから、1級幹線道路及び2級幹線道路は原地盤から1.0mの高さを、支線道路は冬

期間の除雪を行わないことから、田面上の高さ0.5mを基本として計画されました。

 その後、軟弱地盤上における道路は、将来どうしてもかさ上げが必要になってくること、及

び入植終了後10年間はかさ上げをしなくても基本の路面の高さを維持できること、を考慮し、

1級幹線道路及び2級幹線道路は原地盤から1.5mの高さで、支線道路は原地盤から0.7mの高

さで施工が行われました。

 整備された道路の路線網及び断面図は図2–26及び図2–27のとおりです。

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【図2–26】整備された道路の路線網

【図2–27】道路の断面図

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2. 大潟村の集落

(8)八郎潟新農村建設事業完了後の集落整備

 八郎潟干拓工事と、八郎潟新農村建設事業は昭和52年3月で終了しました。その後、大潟村では村民のニーズに対応して様々なインフラが整えられました。その概要は表2–4のとおりです。

【表2–4】八郎潟新農村建設事業完了後に大潟村で整備された主な施設施 設 名 完成年度 事業費(千円) 施 設 の 概 要 備  考

村民体育館 昭和54年 283,600 鉄筋コンクリート2階建、建築面積2,182㎡(うち体育室1,127㎡)、ステージ、観客席、事務室、暖房設備有。

大潟保育園 昭和54年 187,438 鉄筋コンクリート平屋建、建築面積920㎡、野外遊び場2,328㎡、保育室、調理室、職員室、ホールなど。

村民野球場 昭和55年 111,909 球場内面積12,941㎡(両翼97m、中堅120m)、スタンド1,006㎡、外野芝張り、スコアボード、更衣室など。

簡易水道整備 昭和56年 289,500 水源変更。

保健センター 昭和57年 88,235 鉄筋コンクリート平屋建、床面積499㎡、機能訓練室、会議室、集会室、栄養指導室、事務室など。 診療所に隣接して建築。

ごみ焼却施設 昭和57年 414,300 人口25,000人を想定、焼却能力15t/日×2基

防災行政無線通信施設 昭和61年 29,020 無線室×1、子局(拡声器出力30 ~ 120W)×12

ふれあい遊創館 昭和61年 149,960 鉄筋コンクリート平屋建、床面積839㎡、和室、情報交換広場、調理室、事務室など。 後に村民センター。

役場庁舎増改築 昭和62年 268,653 鉄筋コンクリート2階建、床面積1,287㎡。 旧庁舎に隣接して建築。

新浄水場 昭和63年 673,400 緩速ろ過方式、給水人口3,410人、1日最大給水量2,130L、自家発電機有。

商店街再編整備 昭和63年 113,960 アーケード、駐車場整備など

汚水中継ポンプ場 平成元年 271,500 床面積1,044㎡、管理棟、車庫など。送水能力1,080㎥ /日×3基(分流式)

当初は単独週末処理。平成5年より流域下水道へ接続。

大潟村特産品センター 平成元年 107,591 木造平屋建、床面積342.36㎡、平成5年度まで自販機、野菜直売コーナーなどを増設。

工事費は増改築を含めた総額。平成12年4月まで使用。

村民テニスコート 平成元年 42,710 砂入り人工芝(全天候型)2面、照明4基。

村営住宅 昭和60 ~平成3年 600,983 4DK(68.7㎡)×のべ54戸 昭和60年、昭和61年、平成

元年、平成3年建設。

上水道給配水管更新 平成3年 822,560 平成2・3年度に総合中心地内において更新。

温泉保養センター「ポルダー潟の湯」 平成3年 912,543

鉄筋コンクリート平屋建、床面積2,035㎡、大浴場260㎡×2、和室のべ102畳、大広間99畳、多目的室152㎡、食堂、受付、土産品売り場など。

ほかに井戸2か所掘削に計103,206千円(ふるさと創成1億円)。

ふれあい健康館 平成3年 574,788 鉄筋コンクリート平屋建、床面積1,673㎡、和室、ボランティア活動室、ホール、浴室、事務室など。

多目的運動広場 平成4年 164,800 面積580㎡、グラウンドゴルフ場、休憩室、事務室、夜間照明3基有。

ポルダー研修館 平成5年 348,960 鉄筋コンクリート平屋建、床面積、研修室、和室など。

B&G海洋センター 平成5年 190,973 面積208㎡、上屋付プール(25m×6コース)、幼児プール、更衣室、事務室等 後にB&G財団より譲渡。

大潟村ソーラースポーツライン 平成6年 1,616,720 総延長31km、幅員7m周回路、アスファルト舗装。

特定公共賃貸住宅 平成6・7年 243,711 1LDK(床面積25㎡)×12戸×2棟

ふるさと交流施設 平成8年 4,371,645鉄筋コンクリート8階建、建築面積7,919.30㎡、客室88室、展望浴場、レストラン、ホール、宴会室、フロントなど。

村負担分は976,145千円。ポルダー研修館とともに「ホテル サンルーラル大潟」へ。

多目的グラウンド 平成11年 225,225 面積18,569㎡、サッカー場兼ラグビー場、管理棟有。

大潟村干拓博物館 平成12年 1,634,171 鉄筋コンクリート平屋(一部2階)建て、建築面積2,529㎡、常設展示室、企画展示室、研修室、収蔵庫、事務室等 展示工事を含む。

産直センター潟の店 平成12年 317,625 鉄筋コンクリート平屋(一部2階)建て、建築面積1,049㎡、販売コーナー、軽食コーナー、事務室など

特別養護老人ホーム・ケアハウス 平成13年 1,486,000 鉄筋コンクリート平屋建、床面積4,897㎡、特別養護老人ホーム、

ケアハウス、在宅介護支援センター、地域交流ホール、事務室など

スパイラルマグナス風車 平成20年 27,491 風車直径11.5m、12kW。

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(1)干拓面積と農地面積

 八郎潟干拓事業により誕生した干拓地は図1–15のとおりで、干拓面積と干拓地に整備され

た農地面積は表3–1のとおりとなっています。干拓地のうち、15,666haの中央干拓地は全て

大潟村に属しています。大潟村の行政区域面積は、中央干拓地に加え、八郎湖調整池、東部承

水路、西部承水路を含んでおり、17,005haとなっております。周辺干拓地とは、男鹿市、潟

上市、井川町、五城目町、八郎潟町、三種町の八郎潟の湖岸沿いに造成された干拓地です。

 中央干拓地の農地11,755haは、入植者(589戸)に8,976ha、増反者(2,072戸)に1,848ha、

公的機関・団体に931haが配分されています。なお、増反とは、干拓地の近くに住み農地を

有し農業を営んでいる方で、干拓地の土地を配分され、耕作面積を広げることを意味してい

ます。

【表3–1】干拓面積とその内訳

地区面積の内訳(ha) 農地配分戸数(戸)

地区面積 農 地 集落用地 施設用地 その他 入 植 増 反

中央干拓地 15,666 11,755 730 2,235 946 589 2,072

周辺干拓地 1,563 1,047 − 516 − − 2,373

合 計 17,229 12,802 730 2,751 946 589 4,445

 八郎潟干拓地は、その多くが「ヘドロ」と呼ばれる土壌が分布しています。この土壌は、モ

ンモリロナイトという粘土成分を多く含み、ミネラルに富む特徴をもっていますが、極めて排

水が悪い重粘土質土壌であり、深いところでは地下40mにも達しています。また、乾燥する

と収縮し、堅くなる性質をもっています。八郎潟干拓地の断面図は図3–1のとおりです。

大潟村の農業3

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3. 大潟村の農業

東~西断面図

東西

日本海 大潟村

八郎潟町

0m

10

20

30

40

南~北断面図

北南

日本海調整池

(八郎湖) 大潟村0m

10

20

30

潟上市

男鹿市

西部承水路

東部承水路

三種町

堤防

堤防

堤防

堤防

堤防堤防

 干拓地の土壌の大部分は、極めて排水の悪い重粘土質土壌が深い所では地下40m以上にも達する軟弱地盤になっています。

重粘土質土壌

重粘土質土壌

【図3–1】八郎潟干拓地の断面図

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(2)大潟村の圃場

 大潟村の入植者の営農計画は、当初は水稲を中心作物とし、大型農業機械を用いる営農体

系でした。入植後は、大型トラクター3台、大型コンバイン1台の組み合わせを1セットと

し、約60haの圃場を1単位とし、1戸あたり10ha、6戸の協業組織で営農を行う経営が計

画され、圃場の大きさや配列が検討されました。その結果、60haの基本単位の圃場の長辺は

1,000m、短辺は600mとし、短辺を4等分し、150mごとに小排水路と小用水路及び幅3m

の農道を交互に配置し、圃場ごとに用水・排水が調節できるように計画されました。4 枚の大

きな圃場は畦で12等分され、こうして整えられた圃場の面積は1枚あたり約90m×140m≒

1.25haとなります。大潟村の圃場の標準区画図を図3–2に示します。

 後に入植者は1人あたり約1.25ha×8枚=約10haの配分を受け、さらに昭和49年に約

1.25ha×4枚=約5haの追加配分が行われました。最終的に、農家1戸あたり約15haが配分

され、各農家では当初配分された約10haの基本圃場と追加配分された約5haの副圃場に「通

勤」する形となりました。

 実際問題として、約10haの基本圃場と約5haの副圃場との間は数キロ程度離れていました。

そこで農作業の効率化をはかるため、昭和56・57年と平成元・2年の2回にわたり、農業委

員会が農地交換分合事業を実施し、農地の集団化が図られました。その概要は表3–2のとお

りです。

 交換分合が行われても、住居と圃場が離れて

いることは変わりなく、自宅から圃場まで片道

10km以上の「通勤」を行っている人もいます。

【表3–2】 交換分合の参加農家数と移動面積

【図3–2】 大潟村の圃場の標準区画図

参 加 農 家 数 389 戸

対 象 面 積 6,000ha

交換分合による移動面積 2,969ha

集 団 化 率 58.50%

幹線用水路

 道

農道・小用水路

農道・小用水路

小排水路

小排水路

小排水路

支線排水路

140m90m

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3. 大潟村の農業

(3)大潟村への入植

 大潟村の入植者は、全国各地からの入植希望者の中から選抜されました。昭和41年には、

第 1 次入植者の選抜が行われました。合格者は1年間の入植訓練の後、昭和42年に家族と共

に大潟村に入植し、昭和43年から営農を開始しています。以後順に第2次から昭和45年の第

4次まで460戸が入植したところで、昭和45年から始まった米の生産調整のため、入植が一

時中断されました。その後、田畑複合経営に営農計画が変更され、昭和49年に第5次入植者

120名の入植で、国営事業での入植は終了しました。第1次から第5次までの入植者は580名

となっています。その後、昭和53年に秋田県の単独事業で玉川ダム建設に伴う入植者9名を

加え、最終的に全国38の都道県から計589名が入植しました。

【表3–3】年次別入植者数

第1次 第2次 第3次 第4次 第5次 県 単 合計

応募者数(人) 615 281 309 389 870 − 2,464

入植者数(人) 56 86 175 143 120 9 589

入   植   年 昭和42年 昭和43年 昭和44年 昭和45年 昭和49年 昭和53年

営 農 開 始 年 昭和43年 昭和44年 昭和45年 昭和49年 昭和50年 昭和55年

【表3–4】出身県別入植者数 単位:人

都道県名 入植者数 都道県名 入植者数 都道県名 入植者数

北 海 道 83 新 潟 県 22 鳥 取 県 4

青 森 県 17 富 山 県 4 島 根 県 1

岩 手 県 14 石 川 県 3 香 川 県 1

宮 城 県 10 福 井 県 3 徳 島 県 3

秋 田 県 323 長 野 県 4 愛 媛 県 2

山 形 県 11 静 岡 県 2 高 知 県 3

福 島 県 3 愛 知 県 5 福 岡 県 2

茨 城 県 4 岐 阜 県 2 佐 賀 県 12

栃 木 県 6 三 重 県 8 長 崎 県 1

群 馬 県 2 滋 賀 県 4 熊 本 県 3

埼 玉 県 1 奈 良 県 1 鹿児島県 3

千 葉 県 1 兵 庫 県 4 沖 縄 県 1

東 京 都 3 岡 山 県 13 合計 589

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(4)水稲単作経営から田畑複合経営へ

 八郎潟干拓事業は、主要食糧である米の増産を目的に工事が行われました。従って、入植当

初は1戸当たり10ha規模の水稲単作経営の営農が行われてきました。しかし、米の生産調整が

始まり、水稲単作経営での入植事業は第4次入植(昭和45年)で中断した当時、中央干拓地

の農地の半分が未利用のまま残された状態でした。

 議論の末、昭和48年に八郎潟干拓地における営農計画が 「当分の間、田と畑の面積をおお

むね同程度とする15ha規模の田畑複合経営を行うこと」に変更されました。これにより、第

1~4次入植者には5haを追加配分して15haに、最後の入植となる第5次入植者には15haの

農地配分が行われ、昭和50年の営農から田畑複合経営が始まりました。

 干拓地の土壌は、極めて排水の悪い重粘土質土壌が深い所では地下40m以上にも達する軟

弱地盤で、大型機械化作業での営農は困難を極めていました。こうした畑作に不向きな土壌条

件に加えて、栽培する畑作物は、面積規模を考慮した場合、麦・大豆等の土地利用型作物が主

体となり、単位面積当たりの収益性は米に比較してはるかに低く、更には、①基盤整備は田と

しての造成であったので、国への土地償還金は畑作であっても田として支払わなければならな

かったこと、②登記上の地目は田であり税法上の取り扱いも田であったにもかかわらず転作奨

励金の交付対象外であったこと、により、昭和50年から始まった畑作営農は入植農家の経営

を次第に圧迫するに至りました。

 こうした状況にもかかわらず、農地配分にあたっての国との契約から、入植者は国の営農計

画に従う義務を負っていました。ところが昭和53年に10年間の長期にわたる水田利用再編対

策が打ち出されたことから、「当分の間」の田畑複合経営が相当長期にわたることが予想され、

入植者が国の指導に一斉に反発して稲作上限面積を超えて稲を作付けし、国の是正指導で青刈

りするという、 マスコミ等で全国的に報道された「青刈り問題」の事態に至りました。

 村としては、排水対策を主体とした畑作に対する各種補助事業制度の導入を図りながら、国

に対し 「15ha全面水田取り扱い・県内一般農家並みの転作率」 について再三にわたって要望活

動を展開し続けてきました。これに対して国は、昭和60年から畑作の転作扱い面積を、0.37ha

から4.6haへと段階的に拡大しました(図3–3)。平成2年3月には村の要望が受けいれられ、

圃場の全面水田取り扱いと秋田県平均の転作率が実現しました。この「全面水田認知」まで

15年もの歳月を要しました。認知により、転作に取り組む農家の経営が安定することになり

ました。

 また、この間には稲作上限面積を守らず国から農地の買戻しを受けた農家の出現を契機に、

年々稲作上限面積を守らない農家〔以後国は農地の買戻しを行わず、転作非協力・新規自己開

田扱い農家〕が約半数の農家まで増え続け、こうした農家による自由米流通の急激な増加、及

びマスコミ等で全国的に報道された昭和60年の不正規流通米検問など、様々な問題が発生し

ました。このことは、入植農家間に大きなしこりを残すと共に、農政に対する大きな不信とな

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3. 大潟村の農業

りました。

 現在、国の制度改革により戸別所得保障制度が導入され、平成23年には約9割の農家が制

度に加入し、転作に取り組むようになりました。このように、大潟村の農業は大きな転機を迎

えています。

【図3–3】水稲作付面積・転作の取扱経過

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(5)現在の大潟村農業

①大潟村の農業 大潟村では、昭和43年に第1次入植者により営農が始まり、40年以上が経過しました。表

3–5に大潟村の作付面積と反収の推移を、表3–6にここ5年間の農業粗生産額の推移を示

します。表に示されるように、現在の大潟村の農業生産の特徴は、米を主体に畑作では大豆・

麦類をはじめとしてメロン・カボチャ等による土地利用型の田畑複合経営と、野菜・花き等を

組み合わせた複合経営となっています。また、昭和50年代後半から有機農業の取り組みが始

まり、平成2年には農薬の空中散布を中止し、有機栽培や特別栽培(減農薬・減化学肥料栽培)

が拡大しました。環境に配慮した「環境創造型農業」の実践が行われています。

 大潟村の農業経営面積は、平成16年以降は水稲作付面積が8,000ha以上で推移しており、逆

に畑作面積は1,000ha以下で推移しています。これは、加工用米の栽培面積が増加したことに

よるものです。畑作は年により収量及び販売価格の変動が大きく、水稲栽培においても、単収

に左右されやすく、収入の変動が大きいことが特徴となっています。所得確保のため、有機栽

培米や特別栽培米の栽培を早くから行ってきたものの、米価の下落により15ha規模の経営と

いえども、所得の確保が難しくなっているのが現状です。また大潟村には、作物ごと、または

栽培手法ごとに数多くの栽培研究会があります。常日頃から作物の栽培研究に余念が無く、研

究心は旺盛であり、農家同士が切磋琢磨しています。

【表3–5】大潟村の作付面積と反収の推移 〔単位〕上段:ha、下段:kg/10a

年 水 稲 麦  類 豆  類 野菜類他 畑作計 総 計 備    考大麦 小麦 大豆 小豆

昭和50年 5,185 − 937 3 − 27 967 6,152 田畑複合経営が開始530 − 251 130 − − − −

昭和55年 4,652 37 3,317 482 424 234 4,494 9,146 S53年以後畑作の転作扱い面積が段階的に拡大581 287 303 166 11 − − −

昭和60年 5,957 815 1,495 791 356 229 3,686 9,643590 513 344 204 150 − − −

平成10年 8,073 141 28 510 2 48 729 8,802 長雨のため収穫期の大豆に被害577 345 196 120 50 − − −

平成13年 7,876 98 78 727 2 51 956 8,832600 336 447 264 123 − − −

平成14年 7,890 33 115 880 4 47 1,079 8,969 長雨、 雪害による減収と品質低下568 500 438 179 109 − − −

平成15年 7,901 13 148 782 1 47 991 8,892 7~8月異常低温、 日照不足537 456 430 147 78 − − −

平成16年 8,258 11 127 426 2 41 607 8,865 8~9月の台風塩害による被害427 156 283 61 101 − − −

平成17年 8,394 1 73 389 2 42 507 8,901592 460 373 210 180 − − −

平成18年 8,281 5 80 364 2 41 492 8,773600 92 409 230 180 − − −

平成19年 8,346 15 62 328 2 41 448 8,794582 325 436 210 180 − − −

平成20年 8,192 10 62 599 2 39 712 8,904606 444 445 200 180 − − −

平成21年 8,299 − 229 603 − 33 865 9,164599 − 480 120 − − − −

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3. 大潟村の農業

【表3–6】ここ 5 年間の農業粗生産額の推移 〔単位〕千円

平成17年 平成18年 平成19年 平成20年 平成21年

水 稲 10,786,988 10,349,594 9,714,744 11,423,662 11,433,532

大 麦 818 348 1,323 1,331 −

小 麦 23,460 27,805 7,066 18,480 39,572

普 通 大 豆 129,402 135,608 112,392 119,820 79,240

青 大 豆 37,686 33,793 30,564 32,650 11,400

黒 大 豆 8,558 7,161 3,157 672 −

小 豆 2,154 1,242 1,242 1,242 −

野 菜 68,787 80,354 81,112 68,050 55,435

メ ロ ン 35,036 37,555 35,959 32,379 28,319

カ ボ チ ャ 32,251 40,689 43,054 33,728 24,866

ニ ン ニ ク 1,500 2,110 2,099 1,943 2,250

花 き 39,500 34,335 22,143 18,135 14,625

畜 産 79,560 87,880 89,929 71,684 26,913

野 菜 そ の 他 − 197,246 197,246 187,328 171,638

 合  計  11,176,913 10,955,366 10,260,918 11,943,054 11,832,355

※JA大潟村 営農支援課推計値

 大潟村の農家戸数の推移を表3–7に、平成

22年の耕作面積の分布を表3–8に示します。

入植時と比べ、農家戸数は66戸、約11%減少

しています。また売買や貸借も行われており、

当初配分された15ha以上の面積の農地を所有

している農家が220戸に達しています。

 大潟村の農家の経営状況を表3–9に、近年

の農業産出額等の推移を表3–10に示します。

現在は、土地や農家住宅の償還は全て完了して

いますが(表3–11)、米をはじめとする農産

物価格の低迷など農業経営を取り巻く状況は厳

しく、経営基盤の強化が更に求められていま

す。このため村では、稲作の高い生産力を維持

しつつ、さらに複合部門を強化した生産構造を

確立するとともに、地域農業の担い手として今

後育成すべき経営体を明確にし、こうした経営

体に対して経営規模の拡大や複合化等のための

【表3–7】大潟村の農家戸数の推移

【表3–8】大潟村の耕作面積の分布

農家戸数

(戸)

経営移譲農家戸数(戸)

割 合

(%)

入 植 時 589 0 0.0 平成10年 558 199 35.7 平成12年 551 233 42.3 平成14年 544 268 49.3 平成16年 542 312 57.6 平成18年 540 350 64.8 平成20年 529 393 74.3 平成22年 523 406 77.6

面積(ha) 戸数(戸) 割合(%) 0 ~ 5 5 1.0 5 ~ 10 14 2.7 10 ~ 15 13 2.5

15 271 51.8 15 ~ 20 84 16.1 20 ~ 25 84 16.1 25 ~ 30 26 5.0 30 ~   26 5.0

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支援を重点的に実施することによって、収益性の高い農業経営の実現を図ることにしていま

す。具体的には、農業経営において他産業従事者と均衡する年間総労働時間(主たる従事者一

人当たり)1,800 ~ 2,000時間程度、1経営体当たりの年間農業所得1,000万円程度の水準を

実現できるものとし、これらの経営体が農業生産の相当部分を担う農業構造の確立をめざすこ

ととしています。

【表3–9】大潟村の農家の経営状況

項 目

農家1戸あたり経営収支 水稲10aあたり生産費 水稲10aあたり労働時間

粗収益 経営費 所 得 所得率 大潟村 秋田県 全 国 家族労働 雇用労働 合 計

(千円) (%) (円/10a) (時間/10a)

昭和46年 5,639 2,430 3,209 56.9 29,800 42,738 45,427 17.70 26.60 44.30

昭和50年 12,548 6,568 5,980 47.7 57,563 69,815 77,756 23.43 7.43 30.86

昭和55年 21,072 13,157 7,915 37.6 93,096 118,767 131,714 20.09 8.16 28.25

昭和60年 22,488 13,909 8,579 38.1 90,909 127,438 137,367 15.57 7.97 23.54

平成2年 25,377 15,264 10,113 39.9 88,182 128,092 136,310 14.88 5.60 20.48

平成7年 27,319 16,366 10,953 40.1 100,573 116,600 132,276 14.90 1.42 16.32

平成9年 31,353 17,307 14,046 44.8 107,380 116,053 132,609 16.03 2.17 18.20

平成10年 30,851 17,216 13,635 44.2 109,263 116,447 114,232 15.98 2.59 18.57

平成11年 25,691 14,741 10,950 42.6 104,087 114,232 132,074 18.53 2.61 21.14

平成12年 24,576 14,961 9,615 39.1 98,575 111,590 129,029 16.97 1.20 18.17

平成13年 27,318 14,278 13,040 47.7 110,606 110,527 126,846 20.70 1.45 22.15

平成14年 26,954 14,270 12,684 47.1 101,880 106,805 123,210 20.27 1.34 21.61

平成15年 29,835 15,511 14,324 48.0 103,939 110,103 121,943 18.99 1.87 20.86

平成16年 20,029 14,719 5,310 26.5 99,159 105,753 119,558 18.56 1.75 20.31

平成17年 26,086 13,976 12,110 46.4 104,703 106,162 118,594 19.43 2.45 21.88

平成18年 24,503 14,091 10,412 42.5 100,035 107,001 116,225 19.95 2.75 22.70

平成19年 24,294 13,227 11,067 45.6 95,116 103,465 113,358 18.33 2.54 20.87

平成20年 29,839 15,656 14,183 47.5 101,221 112,150 120,934 16.70 1.66 18.36

※農家10戸のデータの平均値であり、大潟村の全農家の平均値ではない。

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3. 大潟村の農業

【表3–10】近年の農業産出額等の推移

農家戸数 農業産出額(1) 1戸あたり農業所得(2)

経営者1人あたり農業所得(3)

あきたこまち米価(4) 作況指数

(5)(戸) (千円) (千円) (千円) (円)

平成7年 560 12,509,351 10,953 4,652 17,688 92

平成8年 558 14,784,828 14,399 7,235 17,400 102

平成9年 558 14,236,652 14,046 4,794 18,000 101

平成10年 558 12,558,667 13,635 4,882 16,500 99

平成11年 552 12,529,899 10,950 4,158 15,000 103

平成12年 551 11,279,579 9,614 3,229 13,980 100

平成13年 548 12,449,011 13,040 5,182 14,820 102

平成14年 544 11,818,528 12,684 5,630 14,820 99

平成15年 540 14,934,073 14,324 8,784 21,000 94

平成16年 542 7,131,990 5,310 △ 200 11,658 69

平成17年 542 11,176,913 12,110 4,315 13,020 100

平成18年 540 10,955,366 10,412 3,383 12,500 99

平成19年 533 10,260,918 11,066 3,724 12,000 102

平成20年 529 11,943,054 14,183 4,792 13,800 105

平成21年 523 11,832,355 14,705 6,116 13,800 97

(1)農業産出額はJA大潟村営農支援課による推計値。

(2)大規模農家経営実態調査(10戸)による。ただし、平成21年は速報値。

(3)確定申告による農業所得から、経営者1人あたりの推計値。

(4)JA大潟村による統計値(農業産出額推計基礎数値)。

(5)秋田県農林統計協会による秋田県中央地域の作況指数。

【表3–11】入植者が支払った償還金

区    分支 払 期 間 概算償還額(万円/年)

うち据置期間 1~4次入植 5次入植

土 地 負 担 金 25年 3年 200 250

農 地 等 整 備 費 25年 3年 130 160

農 家 住 宅 購 入 費 25年 5年 20 30

農業用共同利用施設費 20・25年 5年 10 20

※全て償還済。

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②6次産業化 平成22年度から国において、農村の再生と付加価値の創造、及び農村における農産物の生

産から加工・販売までを一貫して行う6次産業化を推進する政策が始まりました。この枠組み

のなかで、大潟村では米の多様な利活用を推進するため、「米粉」に焦点をあて、新規需要米

である米粉用米を活用した「大潟村米粉プロジェクト」により、米粉用米の生産、製粉、米粉

利用食品の製造・販売まで行うことができる環境を構築し、多様な農業生産を展開し、農家所

得の向上と地域経済の活性化を目指しています。

 具体的には、農林水産省の農山漁村活性化プロジェクト支援交付金を活用し、米粉用米の処

理加工施設を整備するとともに、商品開発とマーケティングを行うものです。事業実施主体

は、㈱大潟村カントリーエレベーター公社(大潟村)、㈱大潟村あきたこまち生産者協会(大

潟村)、誘致企業である餃子計画(本社大阪市、工場を大潟村に建設中)、㈱デリカ研究所(東

京都)であり、事業の内容及び役割分担は図3–4のとおりとなっています。すなわち、新規

需要米の生産者、製粉業者、加工業者が連携し、村内産の新規需要米を製粉し、米粉めん、米

粉餃子、米粉冷凍パン生地などの加工を大潟村において一貫して行い、大潟ブランドの確立と

米粉食文化の普及など「米粉の郷づくり」を進めていくものです。

農家・役場・JA 米粉製粉事業者 米粉加工事業者 卸売・小売事業者

新規需要米生産農家

大潟村役場JA大潟村農業振興地域活性化

㈱大潟村カントリーエレベーター公社

米粉の製粉

㈱大潟村あきたこまち生産者協会

米粉の製粉

㈱餃子計画(村誘致企業)

米粉餃子、米粉冷凍パン生地の製造

㈱大潟村あきたこまち生産者協会米粉めん、米粉パスタ等の製造

マーケット

㈱デリカ研究所 商品開発・研究・マーケティング

農山漁村活性化プロジェクト支援交付金

・新規需要米の栽培・多収穫品種により生産コストの削減

【図3–4】大潟村米粉プロジェクトの概要

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3. 大潟村の農業

(6)干拓地の維持管理

 八郎潟干拓事業により誕生した大地を維持管理するために、様々な施設があり、表3–12の

とおり管理されています。中央干拓地を囲む堤防は、八郎潟に注ぐ2級河川である馬場目川の

堤防という考え方で、秋田県の管理となっています。また、船越水道も秋田県の管理となって

います。総合中心地と村を結ぶ1級幹線道路は県道となり、秋田県の管理となっています。土

地改良施設の管理は、国との管理委託協定により、秋田県または大潟土地改良区が行っていま

す。そのうち土地改良施設については、国・県とともに受益者(農地の所有者)が負担金を出

し、管理が行われています(表3–13、表3–14)

【表3–12】中央干拓地の維持管理区分管理施設名 施 設 の 状 況 所有 管理

中 央 干 拓 堤 防

総延長51.5km

県 県正面堤防:高さ+2.8 ~ 4.2m,最大幅261m東部承水路堤防:高さ+3.1 ~ 4.1m,最大幅176m西部承水路堤防:高さ1.85m,最大幅53m

1 級 幹 線 道 路 総延長42.4km(県道3路線) 県 県2級幹線・支線道路 総延長242km(村道111路線) 村 村集 落 内 排 水 路 村 村船 越 水 道 延長1,900m、幅390m 県 県

土地改良施設

防 潮 水 門 全幅370m、ローラーゲート14門、閘門ゲート1組、魚道2箇所(旧水門は幅390m、ゲート10門、魚道1箇所) 国 県

南 部 排 水 機 場

中央干拓地排水ポンプ4台

国 県(径2,200mm,12t/秒×2、径1,800mm,8t/秒×2)西部承水路水位調節ポンプ1台

(径2,200mm,13.5t/秒×1)

北 部 排 水 機 場中央干拓地排水ポンプ4台

国 県(径2,200mm,12t/秒×2、径1,800mm,8t/秒×2)

浜 口 機 場西部承水路水位調節ポンプ2台

国 県(径1,200mm,3.5t/秒×2)

幹 線 排 水 路中央幹線排水路:延長15.7km、底幅70m

国 県1級幹線排水路:延長6.9km、底幅30m

テ レ メ ー タ ー 5局(親局は南部排水機場) 国 県取 水 口 19箇所(サイフォン式*箇所、樋門式*箇所) 国 県

用 水 路幹線用水路:総延長93.65km

土改※ 土改※小用水路:総延長449.6km

支線・小排水路支線排水路:総延長108.6km

土改※ 土改※小排水路:総延長520.7km

農 道 総延長435.7km 土改※ 土改※

※大潟土地改良区

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【表3–13】土地改良施設の維持管理費

負担区分 負担割合 維持管理費※

国 40% 約1.20億円

県 30% 約0.90億円

受益者 30% 約0.90億円

計 100% 約3.01億円※平成20年度実績

【表3–14】受益者に対する大潟土地改良区の賦課金

負 担 区 分 10a当たり金額 15ha当たり金額

経 常 賦 課 金 2,647円 397,050円

県営維持管理事業分担金 970円 145,500円

合   計 3,617円 542,550円※平成21年度実績

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(1)大潟村の土地利用と人口

 大潟村の土地利用の状況を表4–1に、人口の推移を表4–2に示します。平成22年国勢調

査においては、秋田県の総人口は前回(平成17年)と比べて5.2%の減少でしたが、大潟村は

1.2%の減少であり県内で最小の減少率となっています。1世帯あたり人口は減少傾向にあり、

平成22年においては、秋田県の平均2.78人に対し、大潟村は4.00人でした。農家では経営移

譲がすすんでおり、また住宅地の分譲や生活環境・教育環境の整備に努めていることが、人口

の維持につながっていると考えられます。

【表4–1】大潟村の土地利用の状況

区 分 面積(ha) 構成比(%) 内     容

農 地 11,577 68.1 入植者・増反者農地、県立大・農業試験場農地

宅 地 239 1.4 入植者住宅地、公共住宅など

堤 防 335 2.0

防 災 林 地 585 3.4

用 排 水 路 718 4.2

河 川 991 5.8 八郎潟残存湖、東部・西部承水路の一部

鳥獣保護区 39 0.2 大潟草原鳥獣保護区

そ の 他 2,521 14.8 排水機場、緑地、緑道、未利用地など

合 計 17,005 100.0

【表4–2】大潟村の人口推移

世帯数 人 口 1世帯あたり人口

昭和45年 380 1,640 4.32

昭和50年 686 3,273 4.77

昭和55年 706 3,334 4.72

昭和60年 704 3,254 4.62

平成2年 711 3,286 4.62

平成7年 757 3,311 4.37

平成12年 762 3,323 4.36

平成17年 784 3,256 4.15

平成22年 804 3,218 4.00

コンパクトタウンとしての大潟村の特徴4

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(2)総合中心地への集中のメリット

 昭和39年の大潟村発足後、いくつかの集落案が検討されましたが、実際には総合中心地の

みの1集落を整備することで事業計画が進行していきました。総合中心地には将来の拡張性も

考慮し、十分な面積を確保しつつ、センターベルトと居住区などを分離した集落配置となって

います。前述したように、結果的に十分なインフラを整えることができ、これらの施設のほと

んどは住民が歩いて行くことができる距離に配置されており、住民の利便性の向上につながっ

ています。診療所と保健センター、幼稚園・小学校・中学校、ホテル・温泉保養センター・福

祉施設など、施設を隣接して整備することで、単独建設の場合よりコストを削減できたほか、

維持管理に必要な人員についても削減することができ、建設コスト及び維持管理コストの削減

につながっています。また一体感のある建築デザインなどのメリットもあります。

 情報通信基盤においては、秋田県内では平成14年8月に秋田市でNTT東日本による光ファ

イバー利用サービスの提供が始まりましたが、大潟村ではその翌年に光ファイバー網がNTT東

日本により村内全域に敷設され、県内でも早い段階から高速インターネット通信環境が整いま

した。

(3)住宅と日常生活

 かつては赤、青、黄色の三角屋根をもつ農家住宅が特徴でしたが、事業団が建設した住宅は

現実には農家にとっては非常に狭く、使い勝手が悪いものでした。そこで入植後に増改築が盛

んに行われました。また、入植者世代から後継者世代へ経営移譲されている農家が多く、3世

代同居の住宅も珍しくありません。中には4世代同居の方もいます。平成17年国勢調査によ

れば、大潟村の世帯のうち、持ち家の1世帯あたり人数は4.13人、持ち家の1世帯あたり延

べ面積は256.1㎡と、県内一高い数値となっています。

 農家の生活は、農繁期(3月~ 11月)と農閑期(11月~ 3月)で大きく異なります。農家

の一年の生活は、おおむね以下の①~④ですが、田植えの前後(4~5月)と収穫(9 ~ 10月)

のピークを避けて、様々なイベントが行われます。スポーツや文化活動、婦人会などの各種団

体の活動も、農繁期のピークは行われませんが、定期的に活動日が定められ、農作業の合間を

ぬって多くの村民が活動に参加します。

 収穫後の農閑期は、多くの農家にとって1年の疲れを癒し、来年に向けての英気を養う大事

な時期です。そのためスポーツや文化活動が盛んに行われ、公民館や村民センター、体育館の

スケジュールが埋まります。様々な種目の村民スポーツ大会も行われます。毎年2月下旬には

芸術文化祭が行われ、1年間の芸術文化活動の成果が発表され、大いに盛り上がります。

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4. コンパクトタウンとしての大潟村の特徴

① 春 3月になると、大潟村でも雪融けが進み、農家では苗を育てるための土の確保、種もみの選

別、トラクターや田植機の点検・整備、苗を育てるハウスにビニールをかけることなど、家族

総出で田植え作業に向けての準備が行われます。

 4月に入ると農作業が本格化します。農家では育苗用のビニールハウスを整地し、田植えの

計画にあわせて育苗箱に土をつめ、種もみをまいていきます。その育苗箱はハウス団地のビ

ニールハウスに整然と並べられます。苗の管理は最も重要で、気温に合わせてハウス内の温度

を調整し、水やりを行って苗を成長させます。田んぼでは、トラクターを用いて耕起作業が始

まります。また、特産のカボチャやメロンの苗づくりも始まります。

 5月上旬になると田植えが始まります。田植えには10条植えの田植機が活躍します。育苗

用のビニールハウスから田んぼへ、育苗箱を満載したトラックが向かいます。育苗箱の移動は

重労働です。田植機で田植えできなかったところは、補植が行われます。代かき、田植え、育

苗用ビニールハウスの管理と、農家にとっては最も忙しい時期となります。また、カボチャを

栽培している農家では、下旬に畑にカボチャの苗の植え付けが行われます。メロンの苗をハウス

に移植するのもこの時期です。田植え後のビニールハウスでは、野菜などの栽培が始まります。

② 夏 6月の田んぼでは雑草も大きくなるので、草取りや畦の草刈りが欠かせません。特に無農薬

栽培の農家では草取りが大変な作業です。また、毎日田んぼを見回って水管理をすることも重

要な農作業の一つです。大豆を作付している農家では、天気予報を確認し、雨が降る前のタイ

ミングで大豆の播種が行われます。カボチャの苗も生長し、つるを伸ばしていくので管理が欠

かせません。このように6月も大切な農作業がたくさんありますが、最も大変な田植えが終

わったこともあり、村では「さなぶり」が行われます。さなぶりとは、田植えを無事終えたこ

とを祝い、田の神様を送る行事であり、大潟村では各住区や団体ごとにさなぶりが行われ、お

酒を飲みながら楽しいひとときを過ごします。また、6月からは村のいろいろな行事が行われ

ます。

 7月になると稲も大きくなり、落水が行われます。以後、落水と湛水が交互に繰り返されま

す。これらの水管理とともに、雑草取りや畦の草刈りが農作業の中心となります。朝早くから

作業をする方がほとんどで、日中は田んぼにはほとんど人影はありません。大豆やカボチャ

畑、野菜を栽培しているハウス内の雑草の管理も大事な仕事です。畑作物では、7月下旬から

特産のアムスメロンやカボチャの収穫が始まります。田植え後のビニールハウスに作付した

様々な野菜が出荷のシーズンを迎え、産直センター(道の駅おおがた)にたくさんの野菜が並

びます。

 8月には「出穂」の時期を迎え、下旬になると穂が垂れはじめ、色もやや黄色味を帯びるよ

うになります。

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③ 秋 9月は収穫の時期です。農家によって差がありますが、9月中旬から10月にかけて収穫が

行われます。コンバインで収穫された稲籾はダンプカーに積み込まれ、カントリーエレベー

ター公社や各農家の乾燥施設に運ばれます。そして大潟産の新米として、消費者のもとに出荷

されます。また、秋野菜も収穫され、産直センターに出荷されます。

 10月中旬には稲刈りがほぼ終了しますが、今度は大豆の収穫が11月まで続きます。田んぼ

では、稲の切り株が残されるだけとなり、寂しい光景が広がりますが、この頃から来年の農作

業に向け、圃場の水を排水する明きょや暗きょ作業が、雪が降る前まで行われます。

 11月に入ると日が短くなり、曇りの日も多くなる中、暗きょ管の工事や大豆の収穫作業、

そしてコンバインなどの農業機械の整備が行われます。そしてガンやカモ、白鳥などの渡り鳥

が多数飛来します。それに併せ、オオワシやオジロワシ、ハイイロチュウヒなどの猛禽類も集

まります。

④ 冬 12月になると雪がちらつきはじめます。しかし、花き生産農家のビニールハウスではオラ

ンダから輸入したチューリップの球根の植え付けがピークを迎えます。

 1月は多くの農家は農作業を休んでいますが、チューリップを栽培している農家では、2月

から3月の出荷に向け、管理に余念がありません。

 2月は、大潟村ではチューリップの出荷のピークを迎えます。出荷は3月まで続きます。こ

の頃、農家は税金の申告や春からの営農計画に沿った準備が始まります。

(4)コミュニティの形成とコミュニティ活動

①組織づくりによる仲間づくり 地域社会を構成し、地域の課題を地域住民で解決していくためには、住民同士の相互交流が

必要です。大潟村は5回にわたる入植事業により、全国から人々が集まりました。入植者は1

年間の共同生活による入植訓練を行っていましたので、同じ入植年次の人々の間ではお互いに

顔を分かっていましたが、家族には知り合いがほとんどいませんでした。そこで、自分の家の

両隣や道路を隔てた向かい側の家のつきあいから始まり、自治会、同郷人、様々な組織、サー

クル活動、PTA活動などを通じて仲間づくりが行われました。一方入植者は、他の入植者の

家に遊びに行ったり、農業のやりかたを教わったりするなど、次々と新しい知り合いができる

状態でした。また共同意識も強く、農作業を始め、様々な場面で助け合う意識を持っていま

した。

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4. コンパクトタウンとしての大潟村の特徴

 入植者は、これまで生活してきた環境や考え方など、様々な価値観を持つ人の集まりである

だけに、お互いの垣根を低くしようという努力が行われました。第1次入植者の入植後、1年

もたたないうちに、PTA、猟友会、青風会(入植者の親たちの会)、村政審議会(注1)、料

理教室、生花教室などが組織され、また趣味の活動として器楽グループ(後のウキヤガラボー

イズ)や柔道などの活動が始まりました。第2次入植者の入植後には、婦人会や青年会など、

いわゆる社会教育団体が組織されました。これらの会合は主に役場や学校、入植訓練所で行わ

れましたが、手狭で不便でした。

 昭和47年に公民館が開館し、村民の社会的・文化的な要求に応え、村の教育課題や生活課

題の解決を行うとともに、村民の連帯を作りあげる役割を担うようになりました。社会教育主

事等の職員も配置されました。実施事業においては、できるだけ仲間づくりができるような配

慮が行われ、夏の盆踊り大会、秋の収穫前に行う村民運動会、農閑期の2月に行われる文化祭

などが行われ、併せて様々な生涯学習団体の学習支援を行うようになりました。その後、各団

体では主体的に活動を行うようになりました。活動の後の「反省会」も楽しみの一つであり、

連帯意識を育むのに大きく貢献しました。また、昭和53年には大潟神社が完成し、毎年9月

10日には例大祭が行われ、威勢の良い若者の担ぐ御神輿が村内を練り歩きます。

 現在では、大潟村で組織されている各種団体・サークル等は表4–3のとおりであり、人口

3,300人規模の自治体としては非常に多く、様々な分野における組織づくりが村民の連帯を醸

成するための仲間づくりとなっていることの証左といえます。また、夏の盆踊り大会は青年会

主催となり継続されており、文化祭は芸術文化協会主催により「大潟村芸術文化祭」となり、

2月に1年の各団体の活動の成果が発表されています。また村民運動会は平成11年度を最後

になくなりましたが、いつでも、どこでも、誰でも楽しめるスポーツの機会を提供するため、

平成22年から総合型スポーツクラブ「スポーレおおがた」が発足しています。

(注1)村草創期においては、毎年入植が行われていたため設置選挙が行われませんでした。村議会

が発足するまでの間、住民の意思や意見を反映させるため、諮問機関としての村政審議会が昭和43年

に設置されました。各住区の自治会から選出された代表が、村長職務執行者からの諮問に対し、審議

し、意見を述べるしくみでした。

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【表4–3】大潟村の各種団体・サークル

大潟村婦人会 大潟村芸術文化協会 大潟村体育協会

大潟村若妻会 書道同好会 大潟村野球協会

大潟村青年会 緋陽人形同好会 大潟村卓球協会

大潟村老人クラブ連合会(5団体) 湖踊会(民踊舞踊) 大潟村ソフトボール協会

住区自治会(22団体、県立大寮含む) 囲碁同好会 大潟バレーボールクラブ

JA青年部 コールかざはな 大潟村山友会

大潟村国際交流協会 人形劇同好会「八郎」 大潟村はしろう会

大潟村シルバー人材センター 白鳥短歌会 大潟ソフトテニスクラブ

大潟村社会福祉協議会 絵画同好会 大潟スキークラブ

大潟村耕心会 大潟吟詠会 大潟村剣友会

大潟村壮悠会 箏曲正絃社 大潟村ゲートボール協会

農業近代化ゼミナール 裏千家お茶愛好会 大潟ローイングクラブ

大潟村子ども会育成連絡協議会 華道池坊田村教室 バドミントン同好会

ひまわり会(保育園PTA) 大潟村写真クラブ 大潟村相撲連盟

大潟幼稚園PTA 華道池坊中村教室 大潟村ゴルフクラブ

大潟小学校PTA 龍勢会(和太鼓) 大潟村射撃同好会

大潟中学校PTA 組ひも絹の会 大潟村グラウンドゴルフ愛好会

大潟村高校生をもつ保護者の会 紅花会(着付け) 大潟サッカークラブ

大潟の自然を愛する会 水墨画彷友会 大潟ボウラーズクラブ

コガムシの会 男声コーラス 大潟スイミングクラブ

大潟村案内ボランティアの会 花かげ会(大正琴) 大潟村ミニテニス愛好会

図書ボランティア 七宝焼同好会 大潟村体育指導委員会

子育てサポーター 生花小原流たんぽぽ教室 大潟村スポーツ少年団

大潟村商工振興会 琴修会大正琴サンフラワー 大潟ラグビースポーツ少年団

大潟村消防団 拓邑俳句会 大潟小野球スポーツ少年団

大潟村婦人消防協力隊 生花小原流藤平教室 大潟小女子ミニバススポーツ少年団

大潟村交通指導隊 小原流花っこクラブ 大潟村剣道スポーツ少年団

大潟村猟友会 大潟川柳倶楽部 大潟ジュニアスキースポーツ少年団

グリーンツーリズム連絡協議会 陶ゆう会 大潟卓球クラブスポーツ少年団

ボランティアセンター(24団体加盟) 花かげ会(文化箏) 大潟村ドッジボールスポーツ少年団

各種栽培研究会(30団体) 三味線愛好会 スポーレおおがた(総合型地域スポーツクラブ)

書道講座

俳句りんどうの会

ハノハノ・レフア(フラダンス)

フラサークル・プアレア

稲の花の会

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4. コンパクトタウンとしての大潟村の特徴

②高齢者のコミュニティ 一方で入植者の家族にとっては、入植後は村内にほとんど知人がいない状態でした。特に入

植者の父母や祖父母は、入植する前は農業に従事し、農繁期は朝早くから夜遅くまで働くこと

を習慣にしてきた方々であり、比較的年齢も若い方や、意欲や能力も高い方がたくさんいまし

た。しかし、大潟村での農業は、入植当初はグループによる協業経営であり、さらにトラク

ターやコンバインなどの大型農業機械を取り扱うため、入植者の父母や祖父母に与えられる役

割は少ないものでした。入植する前は一家の屋台骨を支えてきたのに、入植してからはその役

割は入植者夫婦に奪われる形となってしまったのでした。また、出身地も言葉も生活習慣も異

なることに対し、入植者夫婦のように柔軟に適応できないのも悩みでした。第1次入植者の入

植後には、入植者の父母の会「青風会」が組織され、お互いの親睦が深められるようになりま

した。また、婦人会が主催した手芸講習会がきっかけで「御殿まり」をつくるグループが生ま

れ、内職も兼ねて御殿まりが作られ、村の特産品となりました。

 一方で、お小遣いをもらっても村で使える場面は少なく、また自動車免許をもっていない方

も多かったことから、自分の意のままに出かけたりすることもままならなかったようです。村

の草創期には、特に高齢者にとっては生活にストレスが多かったと思われます。

③自治会のコミュニティ 大潟村では、東3丁目1番地、西2丁目3番地など、番地ごとに約30 ~ 50戸がまとまっ

て21自治会が形成されており、住民自治の基盤を形成しています。自治会単位でレクリエー

ション活動、各種スポーツ大会(駅伝、野球、バレーなど)、各種文化活動などのほか、住区

周辺緑地の草刈り、八郎湖堤防沿いのゴミ拾い、住区花壇整備などの環境美化活動(図4–1)、

【図4–1】住区ごとに花壇が設けられ、村の花であるサルビアが植栽されている

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さらに各住区に設けられている公共施設や公共設備の管理などが行われており、会長、副会

長、会計、事業担当者など、互選により役割が分担され、関連行事が行われています。役場職

員は各住区に原則3年の任期で担当が置かれ、さなぶりや収穫感謝祭への出席と意見交換、広

報の配布依頼などを行い、地域住民と接点ができるように努めています。

 これらの活動によりコミュニティ活動は充実するのですが、自治会費などの負担は他の自治

体の集落と比べて高く、負担に感じている住民もいます。

(5)教 育

①学校教育 大潟村草創期においては、入植者の平均年齢が若いことから、出生率が高いことが大きな特

徴でした。大潟幼稚園の設置後は、2歳から保育園(当時は児童館で、社会福祉協議会委託に

よる無認可保育所でした)、4歳から幼稚園に入園します。また小学校や中学校では、当初は

全部転校生であり、迎える児童・生徒より迎えられる児童・生徒のほうが多かったものです。

そのため先生にとっては学習の進度調整が難しかったようです。また、先生は秋田の出身なの

で、当初は秋田弁がわからない児童・生徒もいましたが、時間が経つにつれ秋田の言葉にも溶

け込んだようです。

 現在大潟村では、自ら学び自ら考えるなど「確かな学力」を育むとともに、家庭や地域が一

体となって、他人を思いやる心や感動する心などの「豊かな人間性」を育み、次世代を担う人

材を育成するため、以下のとおり独自の教育を行っています。保育園・幼稚園・小学校・中学

校においては大潟村の特性を生かした特色ある園経営、学校経営を行うとともに、個に応じた

指導体制を推進しています。主な事業は以下のとおりで、大潟村の教育施設の立地条件を生か

した一貫教育体制、きめ細かな指導体制、スクールサポートコーディネーターを介しての地域

人材の積極的な活用は、大潟村の教育の大きな特徴となっております。また、平成22年度か

ら大潟小・中学校の改築を行っており、平成24年度に完成予定となっています(図4–2)。

○保育園から中学校までの一貫した教育の推進

○総合的な学習を活用した体験にもとづく教育の推進

○幼稚園、小学校、中学校への補助講師配置

○地域人材を活用した学習支援

○インターネット学校菜園の活用や学校給食における地産地消食農教育の推進

○ALTによる英語教育の充実と小学校英語活動支援

○韓国との子ども海外研修事業(中学校)

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4. コンパクトタウンとしての大潟村の特徴

②生涯学習・生涯スポーツ 前述したように、大潟村において生涯学習・生涯スポーツは、知識やスキルの習得とともに

仲間づくりという観点から発展してきました。現在も目指す方向性は変わらず、さらに到達目

標の獲得、連帯意識の醸成(特に嫁いだ方)、生き甲斐ややり甲斐(特に高齢者)、地域貢献な

どにおいて、非常に重要な役割を占めています。

 大潟村では多様化する学習ニーズに対応するため、公民館・干拓博物館・体育館において、

それぞれの施設の特徴を生かし、ライフステージと住民の課題に対応した学習・スポーツの機

会の充実に努めています。また、数多くある生涯学習・スポーツ団体やボランティア団体の育

成と、指導者の人材育成を行っています。これらの部局においては、配置職員が限られている

ことから、教育委員会と地域住民が協働で事業を実施する形となっています。

 具体的には、公民館では、子どもたちの健やかな成長と家庭教育の充実を図るため、家庭教

育支援事業を実施しているほか、子どもたちの生きる力を育むため、子どもたちに土・日曜日

や長期休業期間中に、文化活動、体験活動、スポーツ活動を行う機会を設けています。また、

図書ボランティア、子育てサポーター、多くの芸術文化活動団体の活動支援が行われていま

す。干拓博物館では八郎潟干拓事業の資料と大潟村の歴史・文化・自然を生かした企画展示や

各種普及事業を地域住民と協働で行っているほか、大潟村案内ボランティアの会の会員養成と

活動支援を行い、村の歴史を多くの方々に理解してもらう取り組みを行っています。

【図4–2】大潟小・中学校完成予想図

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 生涯スポーツ分野においては、様々なスポーツ団体の連携と協力のもと、大会を実施すると

ともに、総合型スポーツクラブ「スポーレおおがた」を育成し、活動を支援しています。また、

スポーツ少年団の団員育成や、スポーツ指導者の養成も行っています。

(6)大潟村の財政事情

 昭和54年以降の大潟村の財政規模について表4–4に示します。昭和52年に八郎潟干拓事業

が完工し、八郎潟新農村建設事業団が解散したことから、インフラの整備を大潟村が独自で行

うようになりました(表2–4)。その結果、公債費が増加傾向となりましたが、平成5年ま

での公債費比率は10%以下であり、また財政力指数は平均で0.329であることから、町村Ⅰ–

0の類似団体と比較しても良好な財政を維持してきました。

 経常収支比率は、平成6年度までは65%以下と、きわめて良好でしたが、ソーラースポー

ツラインの整備(平成6年、約16億円)、干拓博物館・産直センター潟の店の建設(平成12年、

約19.5億円)、特別養護老人ホームの建設(平成13年、約15億円)と、様々な施設整備の償還

額が増加したことに加え、バブル景気崩壊後の米価の下落、三位一体改革に伴う地方交付税の

抑制などにより、平成15年度に初めて経常収支比率が80%を超え、政策的経費の割合が減少

し、財政が弾力性を失いつつある傾向となりました。また同年、住民アンケートにより、大潟

村は単独立村の道を選択しました。特に、平成16年は台風による塩害が発生し、農家の収入

が大幅に減少したことから、平成17年度の経常収支比率は99.8%に達しました。平成18年度

以降は、政策的経費に配慮しつつ可能な範囲で繰上償還を行い、経常収支比率が80%を下回

るよう財政運営の健全化に努めているところです。また公債費比率は減少傾向となっており

ます。

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4. コンパクトタウンとしての大潟村の特徴

【表4–4】大潟村の財政規模

年 度歳 入

歳  出 標準財政規模 財政力

指数

経常収支比率

実質収支比率

公債費比率うち公債費

(千円) (千円) (千円) (千円) (%) (%) (%)

昭和54年 1,906,599 1,842,210 38,590 1,037,582 0.334 58.7 6.7 2.5

昭和55年 2,366,257 2,291,739 58,793 1,173,165 0.317 60.7 6.4 3.9

昭和56年 1,966,988 1,912,914 66,419 1,274,608 0.281 55.6 4.3 4.3

昭和57年 2,077,182 1,998,026 88,838 1,359,242 0.262 57.9 5.9 5.7

昭和58年 2,770,296 2,668,137 87,545 1,238,757 0.265 61.0 8.5 6.2

昭和59年 1,825,870 1,752,686 90,141 1,263,714 0.285 64.2 6.0 6.1

昭和60年 2,207,601 2,105,785 94,651 1,379,579 0.301 61.4 7.5 5.9

昭和61年 1,974,370 1,833,064 98,498 1,402,668 0.319 63.9 10.3 5.8

昭和62年 2,282,794 2,146,981 96,623 1,417,302 0.330 59.9 9.9 6.1

昭和63年 2,221,167 1,915,103 99,871 1,694,141 0.335 55.0 18.4 5.3

平成元年 2,712,870 2,422,900 106,060 1,886,168 0.330 53.3 15.6 5.1

平成2年 3,485,487 3,383,886 100,614 2,085,661 0.300 52.9 5.3 4.4

平成3年 4,260,401 4,107,176 138,215 2,190,174 0.290 55.8 7.3 6.3

平成4年 3,645,565 3,428,115 228,932 2,358,075 0.280 61.3 9.6 9.4

平成5年 5,129,940 5,006,783 241,672 2,759,032 0.270 54.6 4.3 8.5

平成6年 4,143,748 4,010,390 309,824 2,509,481 0.290 62.4 5.5 12.3

平成7年 4,389,160 4,314,047 336,720 2,665,602 0.310 68.0 2.9 12.5

平成8年 3,527,929 3,455,730 409,260 2,655,365 0.340 73.6 2.8 15.1

平成9年 3,479,033 3,395,587 415,418 2,692,475 0.340 68.9 3.5 15.0

平成10年 3,947,642 3,825,333 435,807 2,687,687 0.330 79.9 4.4 15.6

平成11年 5,147,677 5,059,194 397,888 2,630,741 0.320 73.9 3.5 14.4

平成12年 4,825,084 4,747,920 432,463 2,575,278 0.318 76.4 3.2 14.9

平成13年 3,188,498 3,095,588 447,213 2,418,990 0.314 75.5 3.9 12.6

平成14年 3,102,958 3,006,955 347,811 2,155,370 0.330 78.3 4.6 13.8

平成15年 3,004,728 2,855,648 409,734 2,056,042 0.350 81.6 7.4 16.8

平成16年 3,112,256 2,943,189 423,147 1,894,439 0.380 81.2 9.1 19.1

平成17年 2,814,889 2,703,757 418,357 1,918,610 0.440 99.8 6.0 18.7

平成18年 3,320,471 3,210,501 577,602 1,905,833 0.430 81.8 6.1 18.3

平成19年 3,394,174 3,266,077 545,537 1,857,304 0.430 83.4 6.8 15.1

平成20年 2,928,711 2,768,480 414,435 2,001,993 0.380 77.4 6.4 7.8

平成21年 3,267,531 3,033,440 242,179 2,053,621 0.390 76.7 10.9 6.5

最低値 1,825,870 1,752,686 38,590 1,037,582 0.262 52.9 2.8 2.5

最高値 5,147,677 5,059,194 577,602 2,759,032 0.440 99.8 18.4 19.1

平均値 3,175,093 3,048,624 264,479 1,974,152 0.329 68.2 6.9 10.1

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(7)問題点

 平成22年2月に、大潟村では平成22年度から平成29年度までの「大潟村総合村づくり計画」

を策定しました。策定にあたり、村内の26団体83名(男性56名、女性27名)からヒアリング

を行いました。この分析結果にもとづき、大潟村の問題点を整理します。

①村に対する現状認識と将来の方向性 ヒアリング対象の多くの方々は、良好な自然環境、経済的余裕、助け合い、近所づきあい、

しがらみがないなどを背景に、「住みよい」「住み続けたい」という意向を強くもっています。

また、大潟村のイメージとしても「生活が豊かな村」「農業者としてのプロ集団」「仕事を通じ

て四季を感じることができる村」「パイオニア」「自立している村」「挑戦・進取の精神のある村」

など、総じて肯定的なイメージをもっています。

 その一方で、村民に欠けている点として、「1次入植者のもっていた『気概』の希薄化傾向」

「若い人たちに農業に対する危機感がない」「協調性や団結力に欠ける」「農家間の格差の発生」

「心の底がわからない」「ちょっと話したことがすぐに広がる」「金銭感覚の欠如」「金で解消し

ようとする思考」「おごり」など、意識や連帯といった部分に関することと、「お金」に関する

問題提起が示されています。

 また、村政に対しては、福祉分野や合併しなかったことなどにおいて満足度が高くなってい

ますが、農家間格差を発生した農業政策や情報伝達の方法、農業用水の水質汚濁、計画性・実

現性をもって取り組みを行わなかったことなど、個別的・具体的な機能や分野に対する指摘と、

村づくりの政策のあり方に関する分野において満足度が低くなっています。

 大潟村の将来の方向性については、「若者が定着し、安心して農業が続けられる村」「働く場

のある村」「健康で長生きできる村」など、農業を基軸とし、二・三男や孫が定住でき、新し

い村民相互のコミュニティ意識の確立とともに、地域ブランド化など農業振興施策を望んでい

ることが示されています。

②日常的な交流と各団体・組織の課題 ヒアリングにより、「年齢、性別に関係なく、特に趣味のグループに複数参画しているケー

スが極めて多い」「子どもを通してのつきあいも多い」「住区内のつきあいが薄くなっている」

などが示されました。すなわち、大潟村の住民においては、趣味のグループを主体に活動が活

発になっているが、住区内交流や世代間交流の活動はあまり意欲的ではなく、趣味のグループ

においては信頼関係が構築できているが、他のグループが集まり判断する、考える、意思表示

をするといった交流における信頼関係は薄いと考えられます。

 また、各団体・組織の課題においても、「会員の確保」「役員のなり手がいない」「会員の高齢化」

「自前の企画能力の醸成」「会員の意欲の減衰」「金を出せばよいとする風潮」などの意見が出

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4. コンパクトタウンとしての大潟村の特徴

され、特に入植者世代を中心に活動している団体・組織においては活動の硬直化と活動の魅力

の低下がみられ、課題となっていることが示されています。

(8)まとめ

 「行政」「農業」「村づくり」に分け、大潟村の今までの歩みをまとめると表4–5のようにな

ります。農業面では、田畑複合経営に営農計画が変更されてから、生産調整協力・非協力農家

に分かれました。様々な場面で対立構造や疑心暗鬼の風潮もみられ、住民相互の信頼関係に大

きな傷跡を残しました。その一方で、入植者の離農は約11%(平成22年度)に抑えられ、耕

作放棄地を出さず、さらに環境に配慮した農業を村内全域で展開し、日本の食糧生産基地とし

ての役割を担ってきました。平成22年度から戸別所得保障制度が導入されたことにより、麦

や大豆などに加えて加工用米などの新規需要米に対しても生産調整の対象となったことから、

平成23年には約9割の農家が制度に加入し、転作に取り組むようになりました。生産調整問

題に端を発したこの対立構造も、対立する理由が存在しなくなりました。入植者から後継者に

世代交代も進んでおり、大潟村の農業は大きな転機を迎えています。

 こうした社会情勢の変化に対応し、大潟村の諸課題を解決するため、平成22年に「大潟村

総合村づくり計画」を策定しました。村づくりの主役である「ひと」(住民)が、大潟村の広

い大地を舞台に様々な分野で活躍し、活力ある「産業」を創造し、快適で安心して心豊かな「く

らし」を送ることができる村を目指して、以下の3つの基本理念を掲げています。このこと

は、住民の「自助」と地域の「共助」、そして、それらに対する行政の「公助」体制の確立を

図るとともに、大潟村の基幹産業である農業をたくましく、活力あるものにさらに発展させる

ことでもあります。そして、希薄となりつつあるひととひととの絆をこれまで以上に強く結び

つけ、快適で安心な潤いのある村づくりを目指します。これらの基本理念を踏まえて、将来像

は「豊かな自然 みなぎる活力 人いきいき 元気な大潟村」と設定し、現在諸施策を進めて

います。

<基本理念>

「ひと」が主役 −ひとづくりは村づくり ひとが主役の村をめざします−

「産業」に活力 −活力みなぎる村づくりをめざします−

「くらし」に絆と潤い

       −安全・安心、ひととひとの絆づくりと潤いのある村づくりをめざします−

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【表4–5】大潟村の今までのあゆみ

時  期 行   政 農   業 村づくり

第 

1 

昭和39年度~昭和52年度 

◦大潟村発足。◦県知事・県議会の承認(村長職務執行者、予算・決算)

◦制限自治(任期2年の村長・村議会議員選挙)。

◦八郎潟新農村建設事業団により、優先順位が高い社会基盤の整備。

◦昭和43年より水稲単作の営農開始。

◦大型農業機械の共同利用による協業経営(後に瓦解)。

◦直播き失敗による大面積圃場での手植え。

◦田植機の普及。◦田畑複合経営への営農計

画の変更。◦八郎潟新農村事業団によ

る営農指導。

◦昭和42年から大潟村に入植開始。

◦組織づくりによる仲間づくり。

◦活動できる施設整備への要望。

第 

2 

昭和53年度~平成15年度 

◦制限自治の終了。◦大潟村単独でのインフラ

整備。◦交流基盤の整備・充実と

交流施策の展開。

◦畑作営農による農家経営の圧迫。

◦不当作付と青刈り問題。◦自由米の流通量増加。◦生産調整協力、非協力農

家に2分。◦15ha全 面 水 田 取 扱 の 実

現。◦有機栽培、減農薬・減化

学肥料栽培の拡大。◦農産物の産直販売。◦八郎湖の水質汚濁。

◦活動できる施設・設備の充実。

◦組織、団体の活動の活発化。

第 

3 

平成16年度~

◦ 単 独 立 村 の 自 立 計 画 提出。

◦福祉基盤の整備・充実。◦農産物の6次産業化と農

業所得の向上施策。◦新エネルギーの本格的利

用。◦住民との協働

◦ 環 境 創 造 型 農 業 の 展 開(農地・水・環境保全向上対策事業)。

◦後継者への経営移譲の増加。

◦米価の下落。◦加工用米(米粉用米)の

栽培増加。◦農産物の6次産業化。

◦世代交代の進行(入植者から後継者へ)。

◦高齢による組織・団体の活 動 の 停 滞 と 新 し い 組織・団体づくり。

◦つきあいの希薄化。◦行政との協働。

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11109

87

65

43

21

下 水 道 管 理 事 務 所

上 下 水 道 施 設

中 学 校

小 学 校

幼 稚 園

村 民 セ ン タ ー

保 育 園

診 療 所 ・ 保 健 セ ン タ ー

公 民 館

警 察 官 駐 在 所

役 場

2221201918171615141312

農 業 技 術 交 流 館

格 納 庫 団 地

育 苗 団 地

住 宅土 地 改 良 区 事 務 所

農 協 事 務 所

緑 地防 災 林

村 民 セ ン タ ー 分 館 ( 集 会 所 )

農 協 施 設

墓 地 公 園

3332313029282726252423

多 目 的 運 動 広 場

サ ン ル ー ラ ル 大 潟

ポ ル ダ ー 潟 の 湯

ふ れ あ い 健 康 館

野 球 場

体 育 館

コ ミ ュ ニ テ ィ 会 館

防 災 貯 水 槽

秋 田 県 立 大 学 大 潟 キ ャ ン パ ス

カ ン ト リ ー エ レ ベ ー タ ー 公 社

生 態 系 公 園

4140393837363534

秋 田 銀 行 大 潟 支 店

障 害 者 支 援 施 設

ケ ア ハ ウ ス ゆ う ゆ う

特 養 老 人 ホ ー ム ひ だ ま り 苑

産 直 セ ン タ ー 潟 の 店

干 拓 博 物 館

情 報 発 信 者 住 宅

多 目 的 グ ラ ウ ン ド

凡  例

大潟村総合中心地平面図

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八郎潟中央干拓地「大潟村」における

平成23年7月

秋田県大潟村

農村集落の建設と村づくりの変遷

干拓前 干拓後