江戸時代に於げる蝦夷地移民論 - huscap江戸時代に於ける蝦災地移民論...
TRANSCRIPT
Instructions for use
Title 江戸時代に於ける蝦夷地移民論
Author(s) 高倉, 新一郎
Citation 北海道帝國大學法經會法經會論叢, 4, 22-35
Issue Date 1936-01
Doc URL http://hdl.handle.net/2115/10626
Type bulletin (article)
Note 研究
File Information 4_p22-35.pdf
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
江戸時代に於ける蝦災地移民論
江戸時代に於げる蝦夷地移民論
1d" I司
1入
居
新
長1)
lま
し
;6,
き
粧消現象としての移民現象は、労働力が一地方より永久に他地方に移るととを意味する。而して共方向は、総
ての流と同じく、過剰なる前所より不足なる筒所へ移る事は勿論で、と!誌に過剰と一一弓引い、不足と呼ぶも、夫は一
定の環境に於ける相封的現象なる事は論やる迄もなからう。而も非、流の原因をなす持力の議姿は、一時的な、若
しくは定期的な移動、即ち永久的な移住に到して出稼なる形式に依て満足され得る場合があるが、共需要が順調
なる護述、即ち恒久化し、平常化する場合に於ては、出稼は組めて容易に移住に鑓やる事を件、移住が自然な殻
迭をなす場合には多くとの形式を探って居る。
川HM時の産業株態と政治機構に基き、人口増加の停滞を見た程人口座の茜しかった江戸時代に於て、
不足に依て充分にそのお源を利川し作ない松前蝦夷地の存在は、内地の諸務、殊にその経済的近接地方の住民の
流れをその方向に誘致した事は常然であった。例へば一冗除十四年(一七
O一)一万八千二百飴人を数へた土着人
が、一大明七年(一七八七)には二万五千飴人となり、一年平均約九十人、人口千中約五人の増加を川んた事は、土
一方持力の
荒を徐り好まなかった松前誌の政策を考へ合せる時、官時としてはかなりの増加であったと立はねばなるまい
ov
而して是等が主として移民主迎へての増加であった事は、その戸数の増加が人口のそれに比して頗る大ハ一ヶ年
に千均四十二戸)なる事に拡ても解し符られやう。
帥却し赴昨年の移民は主として内地各務でもその移動を妨げな'かった良氏以外の町人、漁夫であり、その教も多か
ら今、け一品を迎へる松前漆の態度は、その大部分配内むる蝦夷地には移住を絶封に許さや、松前地の移住に到して
は、け一んを妨げなかったとしても頗る消極的で、杭極的に之を求めゃうとする意闘に訣けて肘たから、かLる移民
現象に針しては何等の問題も起り得なかった。
然るに、故一初は享保以来漸く行詰りを見せた山口同時代の岡氏経済を打開するため蝦夷地の世主的問殻の必姿が諭
ぜられ、更に天明以後にありては国防的見地より来た蝦夷地の恒久的経時の玄場から、共見解に拍車を加へられ、
又共可能性が立殺さるL
に至ると、大規模な農民の移住を必然的に必要とするに五ったが、長奴制度を前提とし
てのみ成立する封建治下に在つては、農民は領主の下に隷属して土地に挺縛せられ、職業の移梓、居住の移特等
の・自由は制限されて日間たのみか、農村戸口の減退、土地の荒底は極度に恐れられて、土地を離れた百姓は強制的
に邸泣せしめる方針が採られて対た際、
一時に多人数の農民を移住せしむると-百ふ事は容易ならぬ事であった。
故に、一一日蝦夷地開拓論に及ぶ者にとっては、世然に、如何にして、如何なる方面よりとの移民を件べきかと言ふ
問題に及ばねばならなかった。
私はん寸此底で、主として大量の移民を而も急激に移す必要にせまられた、路四亜の南伎を知りその防備のため
念激な蝦夷地開拓の必要が認められた天明以後の論策により、対建制度の重躍の下に於ける移民論を紹介たいと
忠ふ。而
して営時の大問題であったYけに蝦夷地粧管論策はかなりの敢に上り、私の知り得ただけでも数十篇に迷す
江戸時代に於ける蝦炎地移民論
42 統計表lif:t録北海道奥1)
江戸時代に於ける蝦災地移民諭
二四
るが、その多くは北門警備諭であって、蝦央地開拓論は警備の必要から個れられて居るに過ぎや、蝦夷地開拓を
主とするものも、北ハ必所主論が多くして、その手段方法等を詳論したものは極めて砂く、従ってとL
に求める椋な
移民論策も充程に多くはないが、而も天川五年蝦夷地調官刊の結果出来上った、幕府HM初の蝦夷地開拓案たる松本
伊豆守秀持の「巾上世田」、その剖煮に円十くも弟子故上徳内を随伴せしめた本多利明の多くの附拓意見中、寛政コ一年
2
3
五月「赤人日本岡へ漂訴に擬へ近年繁々渡来するに前ある事」、寛政七年正月「自然治道之排」等、寛政七年時せら
れて松前に五り、松前の施政に怖らやして、水戸立原市内を通じて幕開に之を訴へ、迭に幕府蝦夷地直結の内を作
A習
った大原左金吾の北川鎖錦諭「北地危一百」、同じ頃「婆不他綜」をものして「奥蝦夷地を開くの大計」を論じた井
au
上開明門下の逸才土生熊五郎、寛政三年「草茅危一一百」をものし「蝦夷の事」を論じた大阪の儒中井竹山、文化年
内4
問「年成銑」をものし、その中に幕府の蝦夷地絞告を評したその北地中井履軒、文政年間蝦夷地松前氏復傾後、蝦
央地能債の必要乞論じて止まなかった徳川持附、我が間経済撃の大成者で蝦夷地の事に注立を怠らなかった佐藤
ou
いお淵、並にその遺志位檎いで、安政五年「蝦夷地開拓私組織」をものした弟子大久保融、弘化元年「束帯弐論」を
著して時務を論じた九州の引率帆足高泉、安政二年徳川一作昭の訪問に臨じてその立見を吐露した「新政談」中に
詳細なる「奥地問き舟仰僚」を説いた江戸の儒者藤森弘府、安政一冗年期織部正に従って蝦夷地を廻り、川到なる
蝦夷開拓策「北門私議」をものし、作に川ひられんとして翠年惜しくし捜した帆足南黒門下の横井盟山等の内に
求める事が出来る。
HM等の人々は官時代の蝦高地開拓論者の代表的なものであり、
HM等の人々から聞き作た所の
ものは略常時の立見を代去するものであらうと信やる。
而も昔時に於て、大規模な移住を必要とする所は松前蝦夷地より外には占なかったから、その地への移民論は又
常時に於ける移民論であった。
東京日々新院j附録
明治it九年北海之殖K
4)
11)
北海道史 i:r~ ・ :134 3) 何れも北海道隊所政務本による。日本経済殺害念十二所牧7) グ 袋十六所牧
函館nl日純泉校所蔵の潟本日本級済議書谷二十六
グ 袋三十二所牧所牧
1)
2)
5)
6)
S)
9)
10)
一、白骨属
民
凡そ航民地の粧告は農業者の移住に依て始めて恒久化される。との事・百は植民史上に明かな事であるが、露四
一生の南下に刺戟されて起った蝦夷地の永久的絞替の根本も亦共農業的向殻にるる事、犬がためには民業者を移す
事の位も策を作たものであった事は首時の論者が何れも持しく認めて居た酷であった。然し常時の封建制度下で
はとの事は容易でなかった。
農民の性居移特の束縛が草に政治的な意味に止る強制に過ぎなかったとする・ならば、より山知い幕府の椛力に依
て
、
例
へ
ば
土
生
熊
五
郎
が
・
「夷地ノ大小三肱ジ、同ツ一一ハツホド己分テ手近クノ諸伎ニ割リワタシ、右ハ或ハ十ヶ年ノ内一士急度可レ開ナトト
被一仰付一、年限中ハ諸殺御莞、江戸参勤モ家老名代一一テ御臨スムト辿令一一陣間一旦其他ノ産物ヲ給テ勝手一一直グサ
マ運上所へハラヒ、或白防ニテ諸岡へ相メグラシ、年々産物ノ入尚ヲ杭リテ共飴力ニテ民ブ一紛日一一植へ付ベシ。
一υ持活況議十ヶ年ノ後ユイヨ(共土地ヒラヶ、人民繁殖スルトキハ、共功ヲ賞、ンテ、岱ヲス、メ封ヲ
マシハ中略)十ヶ年ノ後一一Js
ヨ/¥土地ヒラケズ、人民不ニ繁殖一共岱又是二惟ズ」
と論じた校に、農民に封して直接支配樺を有する領主に依て之を行はしめる事も出来たらうし、活しくは大久保
融が「蝦夷地開拓私議」に論じた様に、
「我縮図ノ石数ヲ合計シテ凡ソコ一千万有ト見積リ、
一万石ノ地ヨリシテ年々罪アルモノ、持H
シキモノヲ閣が、デ十数
年ノ間共妻子ト共一一献セシム。是レ亦年々男女六千飴人ノ良民ヲ柏ユルノ善策ナリ。」
とある如く、各務から共必要な人数を徴裂して移す事も出来たらうし、又本多利明がその著「自然治道之排」巾
「属品の開業に丹誠ありて回一に盆ある事」に論じた桜に、
江戸時代に於ける蝦古河地移民論
二五
江戸時代に於ける蝦災地移民論
一一一k‘ ノ、
「奥羽越杭加能等の国々の者は蝦夷の住居勝手次第たるべき旨命令あらば、同より好み望みの者ともなれば、妻
子引辿引移り住居する脊とも多くるるべし。」
と一一首ひ、藤森弘庵が「天下中稼ぎ心掛るもの、(中略)参り度ものは勝手に参る枝に設し」と言った校に、百姓の
移住に封する束縛を殺め、以てその移住を刷る事も出来たらう。
一品質一の議論は、安政六年以来奥澗の諸法に向って警備依託の形で行はれ、二一の議論は、蝦夷地側の禁制は幕
府の蝦夷地直結と共に之を陵し、内地各務の方に存する制限は安政二年旗本・御家人・清水附陪は・浪人・百姓・
町人等に向って幕府が蝦夷地移住を勧誘した備書を出すととに依って百行に移された。
併し乍ら是等の試みが飴り大きな成功を粛す事の出来なかつのは、蝦夷地移住を防げた封建的東純なるものは、
山単なる政治的なものではなく、絞済的・枇命目的なものであったからである。
幕府の前牛時代と具り、話時に於ては、農民離村都市集中は益々多くなり、幕府は之が阻止に法令を雨下させ
ねばならや、而もH
正に釘する制主の態度は前今期程の強硬さは見られなくたり、従って蝦災地の移民に封しでも、
例へば藤森弘陪の如く、「下々大利を付て、上には御世話の御入川計にて別の御徒を見やノ」廉潔な役人を一決して山口
出を正しくしならば「十年を過ぎ百南の人数出来すべし」等と城市概論を辿べる論者も山川て来る松にたったが、夫は
農村人口の過剰より来るものではなく、負捨の加重に依て「円余をゃぶりて流浪U」「凶窮に耐えかねて農業をすて
け」都舎に走るもので、北ハ錦めに王る所に田川荒陵D嘆を聞いて肘たのである。百際操業人口は此の時期に於て
唯に増加を止めたのみではなく、減少の傾向すら認められて肘たのである。藤森弘施が、本多利明等の、思試に
馴れて肘るから一信濃・川洞等一主岡の住民を移住せしめゃうとする誌を汗して、「右闘技辿友枝に飴計の人多く有レ
之ものにては無レ之、夫を無理に多く移し候得ば、川一ん迄共土を安んじ庇ものを遠方へ遣し新百姓に政供者、人的
に民り候のみならや、北パ本凶uハさへも人数不足の底へ、一ス々如レ斯多人数引移候は、北ハ跡荒撫に相成一川
d
レ巾候」と
熊i翠蒋111 集議外詩 日本倫狸;総統陽切j翠汲中
玉くしげ月IJ本 日本経済~主主~ ~十六 ]8 本庄博士主!~:済史研究 llû
、,〆、JJ
、P/
1AけれMOJυ
一一一同った事は、是を会開に就いても一一一口ひ持たのであった。
蝦夷地問穫は急務ではるるが、農村人口が減じ従って岐に聞けた川畑の荒廃する事は常時の支配者の誌も好ま
ぬ所である。殊に蝦夷地移民論の多くが錆政者への建策の形を採って居るものであるだけ、支配訴の立を迎へな
ければならない。従って現在の必要人員には何等の影響を及すととのない方面に夫を求めなければならない。夫
には農村人口の増加を凶ってその増加分を蝦夷地移民とする事でるる。半にして官時の農民人口の減少は全く絶
望的たものとは考へられなかった。営時農民人口の増植を防げて居た故大の原凶である飢餓・疫病の流行等は、
封建制度の重墜に起因する農民生活の困勉に原因するとはさ口へないまでも拍車をかけられて肘た主は引百で
bる
が、円五等の匡正には技術そのものL進歩を侠たねばならぬ貼が多い複雑な問題で、
HAkm寸に封しでは極めて消極的
な針策しか考へられて居ら&なかったが、「共子を成長までの哨岐に衆主の妨となり、一又川より貧窮なれば成長の後
共子に分け譲るべき貯もあらざれば、育て置き却て歎きを設くるとて」行ふ「子下し」「間引」等と呼ばれた堕胎・
乳児殺に依て失はれて居た人口は、僅少の努力でもHMを救ふ一与が出来ると考へられて居た。大原氏金五日等は平く
も円一止に目をつけて、領主より一郡に一ケ所位養育の館を建て、乳母や乎羽町教師等をやとひ置き、貧民の子を父の
姓名を書して此底に拾てさ壮、
HMを十五才迄養育し、長じて親子の名乗をさせ、配偶を出来れば、H一止を移民とし
て北地に送るべきを言ひ、棋一川持昭も亦略同様の方策位以て蝦夷地の住民を務息すべき取を、その著「北方未来
考」で詑き、横井盟山も「人を掌殖」するには「四洋諸州の法に倣ひ御料に於て貸院幼院を置くに如くととなし」
として居る。然し是等は論者自身が荷しく認めて居る様に首両の念に肱やる手段ではない。
かくして常時の欣勢に肱やるだけの移民を農民に求める事が出来なかった場合多く白乞つけられ諭ぜられたの
は罪人・浮浪人又は乞食棋多の三者であった。
江戸時代に於ける蝦京一地移民論
七
亦人日本凶へ諜支dこ擬へ近年繁々来渡するに謂ある事本多利明1)
江戸時代に於ける蝦災地移民諭
二八
=、回一昨
人
移民としての非人は、険制の植民運動に於てもとくに注意せられたものであって、白山移民を得られ難い場合、
多く強制移民として夫が選ばれた。初期のアメリカ植民時代に於てはその例頗る多く、濠洲・悶比利直等は刑罰
植民地として有名な所であった。
我闘に於ても非人を溢土に放逐する附謂流罪は古くから行はれ、後には、例へば杭渡の金山共他に於けるが如
く、その労力を利用するに五って居るが、是が移住の原因となった事は、松前に於ける日本への前勤の先脳在た
した所前渡誌の一部は鎌倉時代の流刑者の子孫であると一一一日はれて居る市引に依ても知られる。
紋に非人を蝦東地に送るべしとする議論は、蝦夷地開拓の最も金務なるた論ぜられ始められた首初から川へら
れ、即ち本多利明は岐に克政三年、「日本問中の盗人、或は法皮を犯したる輩の死刑に底すべき非人を悉く助命
せしめ、北北の料き非人とも悉く送り悲しなば、或は漁獄を仕、或は耕作を仕て生計を保つべけれ。同より助命
を家りたる酷なれば、自然と開殻成就'一すべきととを一言ひ、「絡別の重き罪人の外は悉く蝦夷土地の庶民たるべ
きとの御制度御建主」あれと主張し、大阪友金一介も、「非人などもわ流すべきものか又は殺すべきものも、大かた
の引は非一等をゆるして彼土へ法し、(中時)始は仮小民を建連ね、各部分をして一伍に一人の長を置き、廿五人
に一士を添ると巾椋に紛伍の法を以て指揮せしめ、外に老農を添て師とし、法令を蹴にして問地せしめ」よと言
ひ、中井竹山もその著「本茅危言」に於て、「伊豆ノ大白・八丈れ
γ隠岐・佐渡への流入の内を此に流して夷民と
雑り肘らしめ、北ハに耕作漁織をさせ・::」よと一言ひ、
H疋等の設は後世迄もその支持者を得た。即ち杭藤ハ山川淵が蝦
夷地に移民を移すべきを詑き、海防策に於て、「日本組岡中ノ死罪ノ宥ヲ合集シテ」円一んを詰るべきを説いて居る
のは、
AV
同時の常識の探別に過ぎないが、更に進んで、「一日一盛魂を興したる者は、共律流刑に歪らざるをも佐渡
の金山の水汲人口広か蝦央地の仙切か品々の軍役人口止に川」ふべしと一士一日ひ、耽に非人のみ友らや口明・同引の類の
病患の姦賊で世の政教を敗る心事故も大なるもの迄是を夷蝦地に法って姿畑を開かしむべしと一目ひ、その弟子大久
保融も「本地有非ノ者共ノ死刑-一王ルモ猫共ノ八義ヲ分チ、枕レ助ヶ、共ノ妻子緋レ附シテ其地一一法ルヲ姿トス。
況ンヤ流刑迫放J
者ニ於一プヲヤ」と論じ、徳川狩昭も天保五年十一月一一一円大久保忠良に宛てた蝦有地立見口上書
中に「
非常の願なれども、天下にて料き死山みの者一等ゆるめ、又は遼品になるべきもの不レ残被=下置一、制山中杭き死非
軍一き追放の者はいふに不レ及彼地へ杭付、夫々家内をも潟レ持仕法立にて錆切開一候はむ、迫k
人も増加すべき敗」
と言って肘る。
斯く非人を移すとι一4Hふととは、唯に蝦夷地に必要なる勢力の供給を急激に得られるばかりではなく、本阿に於
ては危険分子を隔離し、枇合の安官T-E保つととになり、他商彼等の環境を換へる事に依てその新なる生前を約束
する仁政でもあった。
との事に就いてもつとに論ぜられ、本多利明も
「此者(盗人)をも悉く召捕って蝦央土地へ送り遺したらば、日本の良川んの災窓口も遁て安械を得べし。又彼恐黛
も蝦夷土地にいまだ金銀銭の油川もなく、衣類器財も乏しき土人・少ければ、悪事を働くべく校なくして是非とも
に白業を勧め守り、生討を働み益すべし」
と柴概し、徳川一作昭も、「江戸に無病者・思考減候へば、自ら火災共外の悪事も,次第/¥に減可レ巾道現と存候」
と言ひ、中井履軒の如きは、開拓に別ふるよりも寧ろかL
る賠で非国移ほんの必要を詑いて居る。即ち「年成録」
に於て、
「わが域中の非人をなるたけ宥めてとL
に流すべし。
(中時)折ふしは逃亡あり、
逃亡すれば又他岡にて悪をな
江戸時代に於ける蝦夷地移民論
-fL
27ST{ヲ(活"f!本谷六71,戸落史料別記
江戸時代に於ける蝦十点地移民諭
O
す、民の忠やまや、松前にては逃亡の誕なし。たよそ人倫や一ゃぶりたる悪人はわが日の本の地にはゐかぬといふ
法令いとよし、不幸の子・不忠の回・泥説の男女・破戒の品川・盗賊・博徒皆こL
に流していとよし。永牛にもま
さるぺし。仰い大赦るりても終身めしかへされぬものをえらぷべし。盗賊・博徒はいかばかり懲しでも改らぬ病な
れば、腕章のえらびなしゃ。されば勢線の類骨とL
にあるべし。」と一一日ひ、「控も博もならぬ底に枕されては沿の
づから常の人となるべし」と見て居る。
然し是等の利証はかL
る非人を出す闘に於て見出し作るもので、円一んを受ける同に於ては必十大きな弊芥が作っ
た。殊に環境の盤化に依てHMを矯正し得べしとする議論は論者自身に依ても不安があり、中井履軒等は、「いづこ
の閣にでも流入を受れば、その間同弊ある事」を認め、「流入の食」と名付けて松前講に穀高を増し興へよとす仏、
竹山に五つては工円エオ危一一日」に於て、
「流罪-一ナル松ノ者ナレパ、皆大好感一一一ア夷民ノ別拝ヲ見スカシ、大-二次陥μ院内スベケレパ、又事モ起ル可等一百
人モ有ルナレドモ、
HMハ官ヨリ強ク制シ、夷氏二耐シ、好人ノ分
-7肝アラパ勝手一一打殺シテ数無ル可」
と極論して、それを批判した「草茅危一一日摘議」の著者一脚惟孝に「是政ヲ知ザルナリ。岡下相殺シテ官ヨリ禁ゼザ
ル政ハナキコトナリ。グトへ貫一一非アリトモ一山下相殺ストキハ踊飽相苓
J
ア起ルベシ。」とたしなめられて居る。
同じく非同移民を主張した徳川汗昭も、「非人も身命を助り候事伏、完心にひるがへり航ものも可レ有之候へ
共、まづは元来の山地徒故士民ともに差引手配り方飴程六ケ敷は差見え供。」と案じて舟る。
放にとの問題が研討されるにつれてその慣値が疑はれ始め、横井盟山学は「北門私議」に於て、「一には八丈島
の流人並に軒き出入を移すの設もあるべし。右椋の惑を局すものは念に詩歌に服従せ歩、却て愚直の蝦夷人を伐
ふべし。赴れ亦た良策に非十。」と断呼として排して居る。
藤萩弘府は同じく非囚移民を排して居る一人であるが、
HXは又別の論撲からで、
「罪人辿左様に多人あるもの
各二四,日本終済叢書1)
にてはなし、又厳怯在立て多く罪人乞幹へ、設防を修めんとして一撲に相成閣を亡し供才、奈の始山正に御座候山
此事も容易に相成粂候」と一一日ひ、唯金掘にのみ是を川ふべき一部を話って居る。蝦夷地に修した非同を鏑犬に使川
•
すべしとする一訟は本多利明も主張して居るが、円一止等は佐渡等の制度から考へついたものらしく、蝦央撫育の閥係
から、非同移住策を採川し・なかった幕且肘も、安政以後蝦夷地に闘費した鎮山には与を使役した様である。
-一一、浮浪人・乞禽
非人と相並んで移民の釘照となったものは浮浪人・乞食でるる。欧洲諸問に於てもその初期に於て移民として
逸られた者は主として貧民でるった。我固に於ても、本多利明は同じくH一んをも移民とすべき市引を論じ、
「日本問中に人別帳外にて隠れ居る流浪者は、江戸を始とし諸問繁華の土地に彩しく、此布引北八は侃…業にして同加
を砲丸すのみに非らや、悪事を山明記とたし、良民を損ひ、庶民の災宋けとなる者彩しき事なり。兆一だ惜しき者とも、なれ
ば、御手話あり、一富岡出生の品。は蝦夷土地へ遣し、与の降らざる岡の出生者は東作の小笠原品杯へ遣したき者ど
もなり。」
と一一β
ひ、大原正金五口も、
「実に家長もなく、今月にも移して平速の川にあつべきもの御座候。北ハ者共は世人の拾てL願歩、その身も川正の
みの生控とbきらめ居候者共にて、一一一都の外道中筋又は同舎など碑っき捌り、人よりわづかの物を付て絡には溝
壁に倒れ死する乞子の類可レ立候。(中略)此類の者をあつめ候はい
A
海内治ぴたピしく可レ有レ之候。此者共を不レ
残共家元を正して械多の類を除き、爾後には一衣一飯を興へて悉く松前南部の方へ向はぜ中度候。」
と論じ、大久保融も、罪人と共に貧民を移すべき事を論じた。
而も肱洲に於て初期に移民の多くを貧民に求めたのは、主として問内に於ける不安とそれが救他に要する負捨
江戸時代に於ける蝦夷地移民論
江戸時代に於ける蝦災地移民諭
を兎れると共に、公民をして新しい運命を開拓せしむる事が出来たととにあり、本聞にとっても、又本人にとっ
ても望ましい事である引は、既に我岡の論者も日米付いて居た底で又後者が一那賀だとしたならば、移民として充分
に役に立つと信ぜられて肘た取は前に皐げた本多利明の言に依ても知るととが出来ゃうし、又大原友金五日が設い
アこ、「彼等も一日一はかく成りはて似ても、数年難背の間後悔致し居るべく、然るを上より御引揚にて一衣一飯にもあ
りつき、御川にも刺立候事政、いかばかりるり難く存、労につき可レ巾候。此もの共一初落ぶれ候時も、さすが盗賊
にもなるべき出性も川県レ之、かやうに成り出る者どもなれば引あげて川ゆぺきとならば悦んで令に従ひ可レ山・候」
の言でも知り仰やう。非人の移杭には飴りに望をかけなかった藤森弘庖も、
「此江戸に多きは乞食・非人・閥人の類に御座候。円一ι宇一旦天下多事の時に山口同り、飢餓勺にでも出逢食品次仮に五
候はwh
、必流賊に可二相成-と識宥は心配仕る市引なり。故に此ものは聞もあるに付、共頭に命ぜられ、引連参候枝
被て仰波-て可レ然か」
と一三口ひ本岡の利益からとの移性を支持して居る。
然しこの浮浪人・乞食もその担度とそ迷へ非人と同じく移民として大きな蹴貼を持って居た。
般に横井型山
晴子は
「一日一乞りに身を附落せしもの、決して再び働き業を錯し符ざるものあり。但し百人中の五人三人は士山の引立ち
良民に従るものもるるべし。然れども無棋のもの産物官障の地に多く紫まるとと決して良策に非歩。」
として凡止を排斥して肘る。質際に於て、安政後明治初年にかけて、小規模乍ら浮浪者の移住が行はれたが、何れ
も失敗に了った。
回、織
多
械多の起原に」戚ては種々の論議があるが、要するに吐舎の落伍者で、身分制度の国定された江戸時代に於ては
賎民として百姓町人と区別され、人別にも載せられない一極の「祉命日外の枇舎人」と目せられ、首時の枇舎から
飴し物と硯られて居た。市も山口同時に於けるその祉舎の人口増加は著しく、他の百姓が減少して居る際に、との枇
舎の者ばかりは目立って増加して居たため、然らざれば枇舎の負捨となる罪人・浮浪人・乞食等と共に、AV
同時の
祉舎に大さな影響を及すととなしに移し得る移民の候補者とされたのは首然であった。
との議論は幕府の埜初の蝦夷地拓殖計劃たる天明五年松本伊豆守の意見書に既に採用され、顕弾左衛門自ら、
自身の支配下にある長吏非人共三高三千人の内七千人に諸問の長吏非人二十三高人の内六高三千人を誘ひ計七寓
人程引連移住せんととを承諾したからとて、その移住計劃さへ進めたらしいが、伊豆守のふ八脚に依て事は挫折し
た。大原友金吾は営時の44A
別的な感情からだらう、乞安の内より械多を除いて移すべきを一一日って居るが、検多の
移さうとする意見には共後も多くの支持者を得、帆足高虫等も「東潜夫論」に於てとの説を持し、
「械多ト立モノ古奥羽-一位セシ一種ノ夷人ノ奇ナリ。上古蝦夷ノ停ヲ伊勢ノ廟=献ジヌヒシェ、牛馬ヲ喰テ皮肉
ヲナゲチラシ、神山ノ木ヲ伐テ叫呼セシ故、倭姫ノ命朝廷-一請一ア是ヲ諸州ニ移シ玉ヘリ。是ヲ佐伯部トイブ。今
暁多ノ先祖ナリ。共後町村麻呂奥羽ノ地ヲ一午、ゲテ、蝦夷ヲ謹グ日本人トセり。故二械多モ常ノ人ト異ル事ナシ
(中略)立ク謹ク召集メテ大一刑制一一詣シ、誠除シテ千人トナシ五ヒ、
HMヲ蝦夷島空瞭地一一移シ耕種寸前牧ノ業ヲ開
カシムベシ」
と論じて居る。但しその根本思想は矢張罪人・浮浪人等を法ると同じ理由で、「穣多ハ盗賊ヲ監スル名有テ、買
ハ盗賊ノ宿ヲナス。且ツ千人ト交ハラヌユヱ共悪事露顕セズ諸候ノ城下=夷秋ノ邦アルガ如シ」と言ひ、円一んを蝦
夷地に移せば「盗論は長く止むべし」と設いて居る。
移民としての罪人・乞食の不通営なるを説いた横井型山も、その師でるる寓虫の意見はそのまL
ついで、良民
江戸時代に於ける蝦夷地移民論
江戸時代に於ける蝦東地移民論
I!!,j
の生産なき者と共に械多をも移すぺきち包設き、
「古来械多は非類に過したれとも(中略)天地の聞に人の形をなせしもの笠非類の現あらんや。会く往古人俗の
カタ訴に向れるのみ。然れとも組習の久しき械多も自ら良民にはなるを得ざるものと心得居るたり。此む習試を
一援するには、榊官に命せられ、天照大一肺の御玉出中の前にて不浮を蹴ひ除き、以後は大紳より御ゆるしにて良民
と箆し下さる故能々心底
ρ汗械を浮め、人倫の道を竪く守り、蝦夷地へ罷り越し職業を」版くべき回目申渡さぱ必十
難有かるべきなり。(中略)且一又械多とヱ
.yとは平日の所業より不潔を厭はさる陥習は大に似たり。共上肉食に習
へる故、自然泉気にも能く堪べし。囚て械多の農業を岳地すものには農業を勤め或は獣類を扱ひ慣れたるには牛馬
を牧者させ傍ら肢を捕へしむべし」
とのべ、その蝦夷地移民として趨首なるを主張して居る。との議論は明治に入ってからも、即ち明治二年三月公
議所に於て、高泉の子孫盟後日間謀議員帆足龍吉に依て、「稜多を一千人とし蝦夷地に移すべき議」として、加藤弘
之の「非人械多御陵止の儀」と並んで提出され、内山総助の「械多非人の身分御改正の議」に依て賛成を得て居
る。但し貫行を見る事なく、械多の身分底止に依てとの問題は消滅した。
結
論
以上に於て江戸時代に於ける蝦夷地開拓意見中に現はれた移叫ん論中、封建制度の束縛の下に如何なる方向に移
民が求められたかに就て語った。而して共HMも有力なものとして皐げられたのは非人・浮浪宥・械多等の直接公
課を負指せや、枇舎から排斥若くは厄介脱された者で、H一品を非として、良民を移さん事を主張した者、例へば横
井盟山の如きも「良民の生産たを者を」移すべきととをのべて居る。
移民が所前良氏を主とするに王り、非人・貧民等の排斥さるL
に五ったのは世界の移民史上に於ても新しい事
即ち移民政策が人口問題と結び付いた後のととで、初期
ll殊に封建制度の盛んであった中世紀に在つては、
付人口の過剰現象は痛感せられや、山各関は互に相敵腕してゐたために、仏共閣の人口を減少せしむるとと、弘
商業上の秘結が他国に漏れる恐がるるとと、仏母国の兵力を減退せしむる、と一一首ふ理由で歓迎せられざるのみか
寧ろ禁止され、後母国の立場より移民の利益友るを認めても、たほ闘中に於ける不用の人民の庭分法たる性質を
失はや、貧民等が主として是に官てられ、特に強制的な移民を要する場合には罪人が用ひられた。
我闘に於ても同様で、我国に於ては各封建領主聞の封立闘係は、その濁立性が快けて居たどけ諸外閣の夫れと
は韮だしくはなかった様で
bり、叉兵農が殆んど完全に分離して居たためbpuの理由は薄弱であったが、技術が
幼稚な事に因り農業は極度の芽作経替に陥って居たL
めに、制主は農民人口の多きを望んで減少を憂へ、政治的
には農民人口の過剰を感じなかった乙とから、その移動を喜ばなかった上、蝦夷地開拓の利益は左程深く認識し
なかったから、第政者に封し、建策のためにものされた移民論はとの黙にふれる事なしに、その移民を多く農民
以外のもの即ち貧民・糠多等から求めねばなら・なかった。殊に閤防的見地から九日激なそれを必要とする場合には
強制をなし得る罪人が有力なものとして拳げられた。而もHM等のものは、唯に圏内に不用であったばかりでなく
有害であって、H一Aが移住は又その底分を意味して居たのであった。
但し移民事業が健全なる歩をつどけて行くに従ひ、是等のものが移民として不趨首である事が注意しられ始め、
事貫上金く日正を排斥するに至る。我閣に於ても弐第にその批判が的を射る椋になって来て、明治維新に歪り封建
的束縛が解かれて農民を移民として得る事の決して困難でたい様になると、従来の議論は殆んど絡息して了った
のである。
附
記江戸時代の蝦夷地移民論は翠にこうしたもののみに止らず。更に其移民技術の兵般的方法にまで立入ヲて説いたものも
あり、吐記等は賀行と筏接な関係を持って居て、移民論としては更に興味が深いが、この慰は別に論ずるととミする。
江戸時代に於ける蝦夷地移民論
ミo: