谷口博士と商業の本質 -...

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一は し が き 経済学の研究歴程における谷口吉彦博士の 負せいだいて、その研究業績をまとめられた を「延長」させ、また「発展」させたといわれる 態紅関する研究、∵あるいは視野を広くして外国為 紅ついても深い関心を寄せられた。博士のたどられた学 価値をもち、後進の学究を導く指南車たるを失わないものが このような博士の広い経済学研究について、わたくしは、取り も高く評価する。なぜなら、これほわたくしによれば、谷口博士の したものであり、その後の幾多の研究にたいして、つね紅理論的根基と ある。それとともにこの一巻は、商業の基本概念について、ひとつの新ら 学」の体系を樹立しょうとする真聾な学問的野心をもっているという点からも 〓〇五) 一 谷口博士と商業の本質 谷口博士と OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

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  • 一は し が き

    経済学の研究歴程における谷口吉彦博士の歩みほ、なかなかに長くまた広い。商業経済学の確立という大きな抱

    負せいだいて、その研究業績をまとめられた『商業組織の特殊研究』(昭和六年)を基調としながら、その基本観念

    を「延長」させ、また「発展」させたといわれる.『配給組織論』(昭和十年序文参照)、百貨店・小売商等の企業形

    態紅関する研究、∵あるいは視野を広くして外国為潜・国際経済、そして時には広域経済にもおよび、また繹済恐慌

    紅ついても深い関心を寄せられた。博士のたどられた学問研究行程とその業績には、今日もなおかえりみらるべき

    価値をもち、後進の学究を導く指南車たるを失わないものがある。

    このような博士の広い経済学研究について、わたくしは、取りわけ右玖『商業紆織の特殊研究』〟巻を、もっと

    も高く評価する。なぜなら、これほわたくしによれば、谷口博士の経済学研究における学問的方法を基本的に形成

    したものであり、その後の幾多の研究にたいして、つね紅理論的根基となっているもののように考えられるからで

    ある。それとともにこの一巻は、商業の基本概念について、ひとつの新らしいユ夫をこころみ、そこに「商業経済

    学」の体系を樹立しょうとする真聾な学問的野心をもっているという点からも、今にしてなおその学問的価値を失

    〓〇五) 一

    谷口博士と商業の本質

    谷口博士と商業の本質

    行 雄

    大 泉

    OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

  • っ七ほいないもののように思われる。

    わたくし自身は谷口博士の『商業組織の特殊研究』が世に問われると、ほとんど時を同じうして、商業の本質に

    関する宿年の私見を世紀披渡し、多くの同学着から厚意ある批判や叱正をうけながら、今日もなお思索の途をたど

    りつつあるものであるが、谷口博士説とのひとつの興味あるつながりほ、博士がその著のなかで、私見との接近を明

    (1)

    示されていることである。所説の精密な比較において、両者の意味するものが正確に山致して、そのあいだにいささ

    かの軒軽もないかどうかは、紅わかに断定することのできないことではあるが、しかし、商業現象を個々の経済活

    動から離れたひとつの綜合的国民経済ないし社会経済現象として据えようとする態度に関するかぎり、両者のあい

    (2)

    だに共通するもののあることは認められうるであるう。これを思うとき、谷口博士の商業経済学の構想は、わたくし

    にとっても並々ならぬ学問的興味と関心とをよび起す。殊にわたくしにとっては、『商業観織の特殊研究』の原理

    的部門を成す第二篇「商業および商業組織」が、格別の注意をよびおこす。ここでは、そこに展開せちれた谷口博

    士の商業観をたどりながら、折にふれて私見の二瑞をも加えつつ、故人の学問的業績へのささやかな忍草としたい。

    (1) 谷口吉彦⊥商業組織の特殊研究』(昭和六年)、劇八-一九頁の(註二)によれば、

    「大泉行雄教授が、商業通論は『商業という社会現象・社会的機構の統一的観察でなけれはならない』と主張される場合

    の意味は、もっとも私見に近いものと想像される。」と。

    (2) わたくしの商業本質観については

    大泉行雄『商業原理講話』 (昭和六年) 罪四講

    第三〇巻 第二・三号

    『商業本質論』 (昭和十七年四月)第四章「商業の本質」

    『現代商業の基本問題』 (昭和十七年山月) 等】 【商業における問題性」

    (γ〇六)、 二

    OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

  • 谷口博士の『商業組織の特殊研究』は、その副題が示すように、「商業経済学の基礎づけ」を志向するものであ

    ヽヽヽ、、、 るが、それほ、屑米の経営学にたいして、独立の研究領域としての商業の経済学を確立しょうとするもの軋はかな

    らない。そして、商業研究についてのこの二つの領域を識別するための基本概念を成すものが、経済したがってま

    た商業虹おける「活動」と「現象」についての概念規定である。両者ほおよそつぎのよう匿理解せられる。

    ひろく経済に関する事象は、これを経済活動と経済現象とに分けること

    的意思の、直接の結果としてあらわれるものであるが、後者は、そのような経済活動の綜合としての現象として、

    社会的に現われるものである。ここでは経済活動ほ、さらに経済行為とも区別されて考えられている。経済行為は

    いちいちの個別的なるものを指しているが、経済活動は、かかる経済行為の統副的な連続として捉えられるので

    ある。それでは経済活動と経済現象とを本質的に分つ基準はなんであるか。それほ「意思性の有無」という形式的

    なものに求められねばならないといわれる。経済活動ほ意思活動であり、一定の目的をもった意識的活動であり、

    したがって雷心による統制活動でもある。これ紅反して経済現象は、まさしく右と反対の性格をもつもので、谷口

    博士の力点は、経済現象をもノつて、経済活勤とは質的に異なる統一的なもの上して実在することを認めようとする

    ところ紅あるといえる。もとよりこれらの二者は無縁の存在ではない。三石にしてつくせば、両者は相互関連の関

    係をもち、互に原因となり、計た結果セもなる。つまり個々の活動をはなれては綜合的現象の存立しえないことか

    らみれば、活動は原因であって現象ほ結果だといわれねばならないが、逆に活動は現象から規制されるという必然

    谷口博士と商業の本腰

    (6七) 三

    還済境活の太質』 (昭和二六毎)第三部「商業の本質把握への適用」璽ハ章「商業の太質」

    二 商業における活動と現象

    OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

  • 性紅おいて、現象が原因であり活動は結果であるともいわれるのである。

    さて如上の劇般論を商業に移すとき、そこでほ経済の一領域である商業事象についても、右に説けると同様に商

    業の活動と商業の現象が識別されることになる。つまり経済活動としての層業と経済現象としての商業がこれであ

    る。

    三 商業活動の本質

    谷口博士紅よれば、商業活動の本質ほ「商品の売買」にはかならない。詳言すれば「転売の目的をもろて商品を

    買入れ、之を他の商品に転換することなぐして、他に販売する所の意識的計画的統一活動をもって、今日の社会に

    お軒る商業活動の本質」であるとみるのである。すなわち、博士に在ってほ、経済活動としての商業の本質は売買

    である点に存する。この点に関するかぎり、その説くところほ商業学説として長く行われてきた伝統的な通説とそ

    の配れを血にするものといえる。その通説と異なるところは、博士にあっては、別に現象としての商業に関する把

    (1)

    嫁が存することである。

    しからば商業と不可分ともみられる営利については、いか賢」れを理解するか。博士によれば、今日の社会にお

    ける商業活動の大部分は、営利活動として行われつつあることは事実である。しかし営利は単に商業活動だけに限

    られるものでほなく、今日における殆どすべての産業ほ営利活動としていとなまれるものであるから、営利は商業

    だけに本質的な要素ではないとみられねばならないと論定せられる。

    ここで経済活動としての商業の本質を、商品の売買にもとめようとする、いわゆる「商業売買説」に対比して、

    わたくし白身が商業の本質をいかに理解するか、また私見の立場よりみるとき、売買をもって活動としての商業の

    第三〇巻 第二・三号

    (一〇八) 四

    OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

  • 本質であるとする主張にたいしでは、いかなる批評があたえられるか。これら軋ついては、すでに他の機会におい

    て私見を公にしてきているから、ここで改めてくりかえすことはさけたいと思う。ただ経営体の浩動としての商業

    本質が売買であるという説にたいして、ごく手短かに私見の要旨だけを述べるにとどめたい。わたくしほ経済活動

    としての商業、つまり商業活動の本質を明らか紅するためには、その活動をふくむ全体関連をまず把握し、その全

    体関連の上で、個々の経営体の活動がいかなる職能を遂行するかを明らかにするととによってのみ、はじめて活動

    そのものの意義が正当に解明されるものと思うのである。この全体関連から択断して個別的活動の手続き、過程だ

    けをそれだけとして取上げて、果してその活動の本質が据えられるかは疑問である。おそらくそれは不可能といわ

    ねばなるまいノアリスト⊥プ.レスの名言「切断された腕は、腕ではない」との主張警」こで省察する必要がある。本

    来、ひとつの社会のうちに商業といわれ経済活動を成立させるゆえんのものは、その社会において、かかる活動を

    存立させるような構造なり、必要なり、また要請なりが基底にまず存在することを前提としなけれはならない。そ

    うでなければ、はじめから商業活動そのものを存立させる鹿討がないからである。原始共産社会や純粋に白給自足

    の経済社会では、商業活動は成立する余地がない。それが、ある社会において成立するとすれぼ、その活動に存在

    理由をあたえるもの、つまりそのような活動の本質を規定するものが社会の全体関連のうちに存在することをかえ

    りみなければならないのである。したがって活動を全体から切りはなして、活動の形態だけを取上げて本質を説こ

    うとすることほ妥当とほいわれない。売買ほいわば本質を実現するためのひとつの形式にすぎないのでほないか。

    商業の本質が、どのような形式、どのような手段方法によって具体的に実現されるか。その現代的な方式、そして (

    2)

    また今日では法制的な形式が売買であるといわなければならないのである。

    商業の本質としての営利を否定する谷口博士の主張ほ、通常山般に説かれる.ところと異なるところなく、営利は

    (劃〇九) 五

    谷口博士と南米の本質

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  • (二〇) 六

    第三〇巻 第二・一一亨

    ひとり商業のみに存在するものではなく、今日の産業は多くの場合、営利を目的として行われる飢え、営利をもっ

    て商業の太質的な要素であるとほいわれないというのにある。南米の永常を経済社会の全体関連において理解しょ

    うとする職能論的把握においては、いうまでもなく営利ほ商業の本質的要素でほありえないことは当然である。し

    かしながら、学説としては、商業のうちに営利を不可欠の要素として取上げる考え方の存在することも看逃すこと

    (3)

    はできない。

    さて営利は商業以外の他の産業紅おいても、今日多くの場合に存在するから、これを商業の本質的要素とはいわ

    れないという説にたいしては、若干の省察掛必要である。まことに資本主義経済社会の企業は、利潤追求すなわち

    営利を目的とすると解せられるかぎり、単に商業のみならず、諸他山切の企業も営利を目的とするのであるから、

    営利が商業だけにかぎられないことは、その説くがごとくである?しかしまさ警」の点に問題がある。営利は商業

    の本質的要素ではないとしても、しかし、なぜ商業はそれはどに営利と不可分のごとく考えられてきたか。企業と

    しての農業、工業も、ひとしく営利を目的とするものに相違ないのに、なぜ商業についてのみ特に営利との結合が

    問題となるのであるか。わたくしはこの点を重要な課題だと考える。それほ一言直していえば、今日め経済社会が

    商業経済の社会だからであり、換言すれば市場経済の社会だからであり、そこにまた農業やエ業と比べて、商業の

    特異なる職能が存在するからである。

    たとえばいま企業として・の工業経営を取上げてみる。今日の大資本紅よる近代的工業は、もっともよく利潤追求

    をその目的としてかかげるものであり、そこには営利実現のための劇切の活動が作用しているといわなければなら

    ない。工業としての経営の内部における組織。管理。技術過程のすべてを通じて、営利実現の意識が作用している

    ことはいうまでもない。生産性の向上や、能率増進や、あるいほ経営の合理化ということほ、他にも重要な意義を

    OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

  • もつとはいえ、一面において営利の増進庇無関連であるとほ決していわれないむとである。しかしながら、このよ

    うな経営の内部における利潤追求の活動の結果が、現実に計理の上で、利潤として実現されるのは、いかなる過程に

    ょるのであるか。それは.今日の経済社会においてはまさしく市場の体系を通じてである。そして、この財貨につい

    ての需給の適合作用を機能的に実現する過程が商業にはかな払ないのである。商業の本質を、農業や工業に対比し

    て捉えようとすれば、実にこの点をこそ捉えなければならない。企業の経営がハその出発点と到達点紅おいて、ひ

    とつの貨幣価値としての資本において据えられ、企菓経営の行線と循環は、資本の循環過程として理解されること

    は改あて多くをのぺる要がない。注意を要することは、そのような資本玖循環を現実に実現してゆく今日の経済磯構

    が商業関係であること、つまり需給適合のための市場の関連であるということである。営利が現実に実現されるのは

    財貨の流通を

    潤を実現したかは、市場を通じてはじめて示されることであり、その場合の経済領域は商業なのである。商業と営

    利との宿縁は、このような関係のうち紅ひそんでいる。商業が古くから営利の別名のよう紅さえ考えられ、時には

    「商業主義」.(COmm2rCia-iⅧm) といわれるものが貨殖主義(CFremati賢sm)と同じ意味に用いられて批判されて

    きたことの消息も、右紅のべるような経済の構造のうちにこれをかえりみなければならないことである。営利をも

    って商業の本質的要素とほ考えないという説には、わたくしも同じ立場にたつものであるが、さらに立入って、営

    利と商業との宿命的なつながり紅分析を加えてゆくことが、商業の本質把握のために良二層必要なことであると恩

    4

    ーヘノ

    () ○

    (1) 岡本理二 「商業の意義虹関する若干の考察」(「商学討究」第二巻第一号こ九五仙年) においては、谷口博士の「経済活

    動としての南米」の規定を「商発売買説」として類別せられ、これを批評せられる。教授はまた谷口博士の「社会経済現象

    谷口博士と商巣の本質

    二 †こ 七

    OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

  • (∵三) 八

    第三〇巻第二・三号

    としての商米」の把握を高く評価せられるのであるが、しかし汚動と現象を「意思性の有無」によって区別することへの

    疑問を提出し、また人格的流通の実体のなんたるかを反問し、さらに商業の客体を曹冒限定することに批判的である。

    なお、岡本教授の右の論文では、私見にたいしても綿密な批判が下されているが、それ誓いては、教授の厚意を謝しっ

    つわたくし紅おいても一層の反省を加えたいと思う。

    (2)商業の本質を亮寅として捉える理解にたいして、それは形式的把握であつて、本質の把握軋ほ到達しえないという考察に

    ついては

    大泉行雄、『商柴本質論』八六頁以下

    (3) 営利をもっ七商業の必要なる要素とする主張として

    本間卑作、「商の主観的要素としての営利的精神」(富山大学紀要経済学部論集、第六号、昭和三十年)。その説くとこ

    ろは「商を以て営利的精神を以てする再販売のための購入」であると解し、「商業を以て斯様な滴の巣(静的概念)又は

    斯様な商業をとすること(動的概念)」と規定される。そしてさらに「資本主義的な商及び商業と共産主義的な配給及び

    配給職共とを区別する差別目標の主要なるものは実にこの個人的な営利心の有無に帰せられる」と説かれる。営利すなわ

    ち利潤追求は、資本主義体制における企鼠の本質的要素にはかならないから、それを特に商業についてだけ強調すること

    は許されないことは、さきにも述べたとおりである。また資本主義的な商業と共産主義的な配給とを区別する主要な目標

    が個人的な営利心であるとすれば、さて、その場合紅は営利という相違を捨象すれば、あとほ両者に共通なものが残ると

    いわなければならなぃことになるaそこでこの区別の主要目標である営利心を取り去ってみれば、そこ忙はじめて商業紅

    固有なるもの、つまり本質的なものが両者に通じて見いだされることになるといわれるのでほないか。

    なお「営利主義」については、

    大泉行雄、「営利主義」 (平井黍太郎編『経営学辞典』 】〇三頁

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  • (4) 商業と営利との密接な関連の解明についてほ、

    大泉行雄、『経済生活の本質』東七章「営利の問題」、二七五!二七八革

    四 経済項象としての商業

    谷口博士の説くところ紅よれほ、さきにその要旨についてうかがったように」個別経済主体の意識的・計画的・

    統一的活動としての商業は、「商品の売買活動」であることをもって、堰の本質とす牒ものである。しかるにこの

    ような商業活動の、綜合された結果として、そこ紅社会経済現象としての商業、すなわち商発現象が浮び上ってく

    る。活動としての商業は、意識的・計画的なものであるから、これはいいかえれぼ商業の経営にはかならない。

    「商業経営にあっては、対外的なる売買活動がその本質的活動である。」↓商業経営の対外活動即ち仕入および販

    売ほ、商業活動の本質的部分を虐める。」(還某組織の特殊研究』八八-八九頁)。これにたいして商業現象は、「商

    品の生産者から消費者への社会的流通現象」であり、「商漂現象なるものほ、個別経済の商業活動に基づいて社会

    的に自然的に発生するところの無意識的な山つの経済現象としての商品の社会的流通である。」 (同上、一七頁、二

    〇頁)。

    経済生活が発展してゆくとともに、生産と消費とは、人格的・場所的・時間的に分離する。しかるに生産は消費

    のための手段であって、それ自体目的ではないゆえに、この分離したものを連絡するための社会的な手段が存在し

    なければならない。そこで場所的分離を克服する手段として存立するものが交通運輸事業でありへ時間的分離を克

    服する手段として存立するものが貯蔵すなわち倉庫業であり、そし七人格約分離を蒐服する手段が実に商業である

    という。それゆえ博士にお心てほ、社会経済的現象としての商業の本質は、「人格的流通」に存するのであり、商

    (一二三) 九

    谷口博士と商業の本質

    OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

  • (〓四)、〟Q

    第三〇巻 第二ニュ骨

    業がそれ以外に、廟所的ないし時間的流通の機能を遂行するとしても、それ腰本質的機能とはいいえず、本質に布

    いする附随的なものにすぎないと解せられることになる。

    さて谷口博士による商業現象としての本質すなわぁ人格的流通は、これを他の表現をもってすれば博士の意味

    する商品配給にはかならないことは、その著『配給粗放論』によっても明白である?この書の説くところによれば

    商品配給とは「商品が最初の生産者から最後の消費者まで、転々として社会を流通してゆく現象」であり、これは

    換言すれば商品流通あるいほ商業現象にはかならない。(同軍四-五頁)。人格的流通に中心をおく博士の所説が、

    ヒルシュの処分権の移転を説き、クラークの所有権の移転を主張する所論と共通するところのあることは、博士み

    ずからこれを認められる。その異なるところは、商業そのものの捉え方にあるといわれる。すなわち社会経済的ま

    た咋国民経済的に見た商巣は、さき.にも紹述したように、個々の売買活動の社会的に綜合された結果とし七の、商

    品の社会的人魔的流通現象である。しかる紅ヒルジュやクラークにあっては、国民経済的紅見た商業も、個別経済

    的に見た商業と同じく個々の売買活動にはかならないのである。つまり売買活動の国民経済的な作用ないし撤能を

    取上げるのにすぎず、その綜合としての商業現象はみのがされているといわなければならないと。

    商業現象についての右のような理解は、そのままこれが商業組織の理解に導入せられる。組織についてのノ根本的

    な考え方は、さきの活動と現象払おけるのとまったく同一である。組織は関係の反復または連続による常住的関係

    の存在を意味するものであるが、かかる組織を形成させる原動力は機能にはかならない。組織が発達してゆくと

    は、これが岬面では分化をすすめるとともに、他面では静二を形成してゆく過程である。さて意思性の有無という

    観点からみるとき、そこには経営組織と経済組織とが分けられる。前者は意思創造的のものであり、後者ほ自然発

    生的のものであるが、しかし両者が全然無関係でないことほ、さきに経済活動と経済現象との関係について論じな

    OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

  • 場合と同株である。粗放についてのこの・ような議論を商巣に移すとき、そこに商業経営としての組織と‥社会組

    織としての南米が分けられることになる。後者は、多数の取引関係が、前後に逢続して劇連の連鎖が上下に綜合さ

    れる結果として、社会的に成立する関連とみられるが、右の槻能ほ、縦の閲係としての蒐集と分配(無意識的な社

    会経済現象)があり、同時にまた、多数の同種活動またほ同種経営の綜合より成るひとつの横の組織が社会的に存

    在することになるとみられる。

    博士によれば、商業についての個々の経営主体が意識し目的とするところは、その売買によって利潤を求めるこ

    之以外には存しない。商品を生産者から消費者へ流通させるというようなことは、彼等の意思でもなければ、また

    目的でもないのである。それにもかかわらず、生産者から消費者への商品の流通が、なんびとの計画にも意思にも

    よらず絶えず社会の中に流れているのほなぜであるか。それは「価格の相違」七いう事実匠よるものと見られる。

    上述するところによって、谷口博士の説かれる凝済現象としての商業の要旨を捉ええたと思う欄であるが、まず

    興味を覚えることほ、商業を個別経眉の活動から切りはなして、社会経済の綜合的現象として、すなわちひとつの

    独眉なる現象として捉えようとする学問的方法である。この点払わたくしは私見と共通するもののあることを認あ

    る。わたくし払おいて、この社会経済の全体関連に壌ける商業の把握は、特にヱれを経済について、痕能として捉

    えようとする方法から重要なことである。それは農業やエ巣が経済という全体関連の上で、生産に関する部門を職

    能とするにたいし、商業がその流通部朋を職能とするという理解をえんがためである。そしてそのような考え方こ

    そが、商業の本質理解を可能にすると思うのである。それゆえ私見の立場からも、博士の▼説かれる経済現象七して

    の商業は、きわめて意味のふかいもののあることを認めなければならない。

    だが、博士における「人格的流通」といわれるも∽の実体は、果してどのようなものであろうか。さきにもかえ

    谷口博士と商其の本質

    (一一五) 一山

    OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

  • 二宗) 三

    第三〇巻第一∵三号

    りみたように、博士において、社会経済現象としてその商業の本質的横磯は「人格的分離の克服」つまり人格的流

    通にあるといわれる。そして場所的ならびに時間的な分離の克服は、これ紅たいして附随的なものであると説かれ

    る。しかし、その人格的流通とは、現実にいかなるものであろうか。いまこれをもっとも普通に理解すれば、財貨

    がある人から他の人へ移転する事象といえよう。つまり経済的な価値物件が、人から人へとその帰属をかえる関係

    にはかならない。もしこれを法律論的にいえほ、それは所有権の移転であり、そして今日、その有償的な一般的形

    ヽヽ

    式が法律上の契約としての売買にはかならないのである。七たがって、商業の経済的活動としての本質は「商品の

    ヽヽ

    売買」であり、その社会凝済的現象は「人格的流通」にあるとの区別は、厳密には、同一事に帰してしまう怖れがあ

    る。およそ交換ないし売買という事象ほ、当事者間における経済行為であり、それら行為が統劇的に連続された鴻

    のが谷口博士のいわゆる経済活動なのであるが、そもそも売買という関係のうち虹は、当然に財貨の人から人への

    移転が本質的要素をなしておるもので、そこには明らかに「人格的流通」が予定せられている。このようにみれほ

    商業活動の特質は「売買」であるのにたいし、商業現象の特質は「人格的流通」であると区別することは必ずしも

    妥当とはいわれない。進んでいえば、売買についても、むしろ人格的流通こそがその主眼であるといわなけれほな

    らない。この点では売買についての法律的規定が、これを当事間の契約とし「その意思表示を重要視する点などに

    かえりみれば、そこにはもっともよく人格的流通の意味が示されているとも見られるのである。それゆえわたくし

    ほ、商業の社会経済的な現象にしての本質的要素は、人格的流通というところに力点がおかれるのでほなく、経済

    社会の全体的関連において、すなわち商業が路地の産業との関係において、どのはぅな職能を遂行するかに求めら

    れねばならないと考える。そしてこれについては、眉きにも三言れておいたように、生産と消費の適合作用、・つ

    まり劇般的に需要と供給の適合という社会経済的職能にこそ、商業の本質が認められると見るものである。そして

    OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

  • 売買であれ、交換であれ、あるいは取引であれ、すべて個別的経営体の活動は、そのような太質を現実に実現する

    ための現象形態であるとみるのである。

    一歩をすすめて論ずる。谷口博士においては、経済生活の発展の結果、生産と消費が人格的・場所的・時間的に

    分離することになり、そのためにこめような分離にたいしての連絡の手段が社会的に存在しなけれぼならなくなる

    と考えられる。そして場所的分離にたいする克服手段が交通道輸であり、時間的分離にたいする克服手段が貯蔵制

    度であり、人格的分離紅たいする克服手段が商業であると解明される。さち紅商業は、いうところの人格的流通の

    ほかにl、場所的ないし時間的流通をなすことは疑ないけれども、これら二者ほ本質たる人格的流通にたいしては附

    魔的なもので.あると規定されるのである一バ

    さてこのような場所と時間とを別にした人格的流通というものは、一体いかなるものであろうか。人格的流通と

    は、財貨の所有ないし財貨の処分権がある人から他の人へと移ることである。このようなことの発生するのは、生

    産者と消費者とが同仙人でないという根本事実に一もとづく。それはいいかえれぼ、生産の場所と消費の場所が異な

    るということであり、したが?てまた必然に生産の時と消費の時とが異なるということでもある。これを逆匿いえ

    ば、場所的分離や時間的分離がそもそも発生することの根底には、生産者と消費者、これを一般的にいって供給者

    と常要者が別々の人間、すなわち異な′る人格的存在であるという人格的分離が横たわっているからで、ことさらに

    人格的分離を切りほなし、しかもこれを他の二者と対比させるということは適切なる分析ではない。いわば、一種

    のトクトロ汐イである。.場所や時間にお折る分離、すなわちそのあいだの懸隔の存在を取上げることほ必要なこと

    (1)

    であるが、それらが人格的分離と別に成立するもののように説くことに批判の余地があるのである。

    (1) もし強いて、場所と時間との制約から独立した人格的流通というものを想定すれば、それは民法の契約にみられる諾成契

    谷口博士と商業の水質

    (二七) 一三

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  • 第三〇巻 第二土工号

    (〓八) 一四

    約としての売買の成立のどときものであろう。ただしこの場合紅は、純粋に形式的な法律的理解となる。当事者の意思表

    示の脚致によって売買契約は成立するのであ渇から、そのかぎりでほいわゆる人格的流通が行われるであろう。けれども

    これを現実の経済論として論ずれぼ、そこには必然に場所と時間との上での流通が不可分のものとならざるをえない。場

    所、時間、人格をそれぞれ別のものと⊥て考えることにはな庖考慮の余地があるように思われる。この問題紅ついてほ、

    大泉行雄、『南米原理講話』 (昭和六年)八】-八二貢をみられよ。

    五商業の附随的活動

    さき紅われわれは、商業活動の本質を商品の売買にあるとした博士が、運送・貯蔵・金融等、売買以外の活動を

    もつて、これを商業に附随的な活動と規定することにふれておいた。この点については、私見は博士の説かれると

    ころと若干々の趣きを異にする。

    こめ問題は商業理論において、商業概念の広狭とか、固有南米ないし純粋商業にたいする補助商業ないし機関商

    業等と七て論じられてきた滝のである。谷口博士の場合も大体において、このような二つの概念によって問題を解

    明されようとするもめのよう濫思われる。

    現実に経瞥される商巣ほ、いうまでもなくつねに歴史的な制約にたつものであるから、その現象形態ほたえず変

    化するものであり、そこには形態・規模・組織等についてのノ消長・拡充・変遷がみられることは当然である◇した

    がってまた、経済関係の発達・推移に応じて、これまで存在しなかった活動、存在の必要でなかった活動が、新ら

    たに存立することほありうることである。その場合に、その新らしく発生した活動を捕えて、これが既成の概念規

    定に包摂されるかどうかと提問することは、必ずしも適当とはいわれない。ある、トはまた、その斬らしぐ発生した

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  • 活動を包摂するため紅、既成の概念を改造するということも単純には許されることではない。なぜなら、既成の概

    念は虻の歴史性においてその存在理由をもったものであるゆえ、これ許その時、その時の条件に照合して改変して

    ゆくということでは、統山的な理解の体系を形成することは、はとんど不可能にも近いからである。売買にたいし

    て運遷・貯蔵・金融・保険等を商業にたいする附随的活動と解することは、これらの諸活動が今日もつ機能と意味

    かちも適切でほない。けだしこれらの諸活動ほ、その遂行するところけっして商業にとって附随的な位置紅立つも

    のではなく、それぞれに独自の職能を遂行する立場にあるとみられねぼならないからである。谷口博士がこれらの

    藷業を南米紅附随する要素と.いわれて、これを補助商業とは解せられていない点には、ひとつの進展が認められる

    と思うの・であるが、七かし、これちの性格を商業に閲随するものとみること町、ややもすれほ伝統的な学説たるか

    のまうな誤解を招くおそれなしとしない。

    わたくしはこの問題を、むしろ商業職能の分化という観点から取上げねばならないと考える。経済社会が未発達

    で、したがって多くの機能が未分化の状態にあった発適の段階では、商業の職能につい、ても、必要なる多くの活動

    農凛が商業者自身によ1て担当されたに相違な小。財貨の流通にともなう金融・運送・保管・危険負担などの藷業

    凝が、商人白身によって同時紀行われたであろう。しかるに経済社会の発展は、経済的諸機能の分化を生み、その

    結果、分業が成立して、それぞれ濫特化された職能を遂行するあいだから、それらが全体として仙定の目的を達成

    すること紅なる。それゆえに私見をもってすれば、これらの分化し独立したそれぞれの業務について、それが商巣

    なりや否やとの提問ほ、さして意味あるものとほいわれない。もし厳密にいうならば、それらはそれぞれに特殊なる

    職能をもつ独白の業務だといわなければなるまい。それらのあいだに強いて共通の要素を見出そうとすることほ、

    あるいほ無理と萎え思われる。かって増地膚治郎博士が、広義の商業に共通なる本質的特徴を発見することほ、今

    谷口博士と商業の本質

    (一山九) 一五

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  • 二二〇) 二ハ

    第三〇巻 第二・三号

    日なお不可能であると論定されたのは、まさ虹との点を指摘されたものであった。それゆえ、もし強いてそれらの

    あいだに共通者をみいだそうとすれば、単に営利業というがごとき形式だけにとどめねばならぬであろう。それは

    たとえばぁが商法において理解されているような商の意義となるが、この場合の商業ほむしろ広く企業とでもいう

    はどの意味と見なければならない。

    いわゆる広義の商業といわれる渚企業が、なぜ商業として規定されるかが重要な問題なのではない。定義の厳格

    さや、概念構成の入念さと・いうどときほ、学問の進渉にとって必ずしも須要のことではない。いな、かえってその

    ような概念のもてあそびは往々にして学問研究を思わぬ邪路紅みちびく懸念がある。ワルター・オイケンが概念経

    済学として警戒するものも、このような点である。肝要なことは、事物と事象の現実態を虚心に取上げてこれに道

    理ある理解をあたえるこ

    今日の商業職能は、経済社会の発達と、詩経済職能の分化の進展、また詩経済活動の拡充などによって、社会の

    単純な時代におけるように、劇切を商人が遂行することは不可能なことになった。今日は南米の目的を達成するた

    めに、多数の特殊な経済活動が、それぞれ専門の職能を分担し、てれらの職能の綜合によってその山つの目的が達

    成されるのである。かっては一個の商企業によって遂行されていた種々なる職能が、いまやそれぞれ固有の職能を

    もつ経営体に分化せられ、これらが商企業と結合することによって、そこに社会的な組織として商業職能が実現さ

    へ1)

    れると偽るべきだと考える。

    (1) 広義の商業、補助商業、等についての私見については、

    大泉行雄∵「商業↑および「補助商業」 (「経営学辞典」中の当該項目、九三六-九三八頁)

    六 商業と商業者の職分

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  • 商業経営の主体が目的とするところほ、売買によって利潤をえんとすることである。圧そこには商品を生産者から

    消費者へ流通させようとする意思や目的のごときものが存在しない事実は、さきにも述べたように谷口博士の指摘

    されるところである∵それにもかかわらず、社会経済として商品が生産者から消費者へと流通する結果になるのは

    価格の相違によるという。つまり、価格の作用によって、商人白身がその意思としてはもたないものを、無意識の

    うちに実現するにいたると見るのである。もし「価格の相違」という言葉に代えるに「見えざる手」という言葉を

    もってすれば、右の表現は草ことにス、、、ス的な印象をわれわれ軋あたえてくれる。さてこの価格の相違とはなんで

    あるか。それはとりもなおさず市場の関連である。競争を基本原理とする経済社会では、まさしく直接的に利潤追

    求が経済活動を指導する。個々牒主体の活動によって、経済社会の全体の上に、なにが実現され、な紅が結果され

    るかは、個々の活動者の意図するとこ・ろでも、また目的.とするところでもないことは、まさにその言うごとくであ

    ろう。しかし、エこでもわれわれは問題を一歩前進させて考察することが必要ではないであろうか。商業経営体の

    主体的活動は、つねにそのような経済の全体関連に関する無意識性紅とどまるものであろうか。かれらの経済活動

    の配慮は、永久にただ売買紅よる利潤獲得のみ紅局限されて、それを超えた視野紅ほまったくおよびえないもので

    あろうか。

    むしろ経済についての省察と自己意識がすすめられるとともに、商業経営者自身において、商業の社会経済的意

    挙がいよいよ深く追求され反省されることになりゆくのでほないか。そうしてまた、このような商業経営者の自虐

    識の強化が、商業者としての職分へとつながりゆくことになるのではなかろうか。問題がここまで追求されでくれ

    ば」商業につ.いての本質論は資本主義体制と社会主義体制との対比において、新らしく取上げられる要請をもつこ

    とにもなるのではなかろうか。企業としての商業ホ、利潤追求を目的とするのは当然である。けれどもさきにもす

    谷口博士と商業の本質

    二〓こ 仙七

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  • 、、

    第三〇巻∴第二・三号

    (ゴ一二) 「八

    でに関説したよう紅、利潤追求の本質は商業だけに局限される事実でほなくて、それは企業一般に関する特質だと

    見ちれねぼならない。つまり資本主義体制の二股的な性格として問題となるものである。そのかぎりでは商業もま

    漉その

    商業が対比され、その特質を濁められるときには、利潤の追求とか営利の実現ということでは、少しもその特質を

    示すこと濫ほならないであろう。行論切必然的な要請は、商琴の職能についての分析へと迫ってゆくに相連ない。

    そこからのみ、はじあて商業という経済的領域の本質的な性格が捉えられる1のである。そうだとすれば、このよう

    な商業の体質は、当然に利潤追求とは異なる要素でなければならぬはずであるぺ商業の経営活動においては、今日

    Ⅶ経済休制の規制紅よ、って利潤追求がその動因として作用するのが事実で為るとしても、南米者がこの商業の本質

    について、いつまでも無自覚であるとは考えちれないことである。もt商業者がこのような本質的なるものへと意

    識を高めてゆくとすれば、そこ紅商業者匿お骨る職分の問題が展開され七くることもまた自然の数だといわなけれ

    ほならない。それは、超越的な倫理観とか、ヤ方的な観念ないし理念の信奉というような態度ではなく、経済の現

    実態の分析のあいだから自覚され意蘭される性質のものである。谷口博士の商業観において、このような問題はど

    う取上げちれるのであるか。教えを乞うべせその人の、今は亡きことを心から惜しまれる。

    (一九五七年四月十四日)

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