高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す...

17
Title 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関する研 究( fulltext ) Author(s) 金,広植 Citation 学校教育学研究論集(24): 13-28 Issue Date 2011-10-31 URL http://hdl.handle.net/2309/127830 Publisher 東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科 Rights

Upload: others

Post on 26-May-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

Title 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関する研究( fulltext )

Author(s) 金,広植

Citation 学校教育学研究論集(24): 13-28

Issue Date 2011-10-31

URL http://hdl.handle.net/2309/127830

Publisher 東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科

Rights

Page 2: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

* きむ かぁんしく 社会系教育講座キーワード:説話(ソルファ)/俚諺/高橋亨/『朝鮮の物語集』/朝鮮人論

高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関する研究

金     広  植*

1.はじめに

 今の韓国では、神話・伝説・民譚1 の総称として「ソ

ルファ(説話)」(以下、説話と記す)というタームが用

いられる。1920年代以降、方定煥(1899 ~ 1931)、崔南

善(1890 ~ 1957)、孫晋泰(1900 ~ ?)によって、説話

研究が本格化し、その概念が形成されたとされている。

しかし、朝鮮における説話の成立過程を明らかにするた

めには、朝鮮語のみならず、当時の「国語」=日本語で

の研究も検討する必要があると思われる。三人はいずれ

も日本留学の経験者で帝国日本の学知と無縁ではなかっ

たからである。

 日本語による朝鮮説話に関する本格的な研究は、高木

敏雄(1876~ 1922)から始まった。高木は1912年に「日

韓共通の民間説話」(『東亜之光』7‒11、7‒12)を発表

し、日韓の説話研究の道を開いた。高木は初期の神話研

究に続き、『童話の研究其資料』(1913年)、『童話の研究』

(1916年)を出すなど、1910年代から民間説話を論じて

いる。なお、関敬吾が指摘するように「現在、昔話・民

話という用語が一般に使用されているが、最初は童話も

しくは民間童話という言葉が好んで使用された」。2 高木

は、民間童話=民間説話というタームを使い、本格的に

朝鮮説話を論じ、その後の日本人及び朝鮮人の研究に影

響を与えた。3

 ところで高木の論考は、それに先行する高橋亨(1878

~ 1967)の資料集に大きく依存している。高橋は、早く

から朝鮮説話に注目して1910年 9 月に『朝鮮の物語集

附俚諺』(日韓書房、以下『物語集』と略す)を刊行し、

1914年 6 月には増補版『朝鮮の俚諺集 附物語』(以下、

『俚諺集』と略す。二つの資料を総称して資料集と呼ぶこ

とにする)を出している。1910年代初めに行われた高木

の比較研究論の中、朝鮮の材料は高橋の資料からの引用

が中心となっている。4 つまり高木の論考は、高橋の資料

集の基盤の上で成り立っており、朝鮮の説話研究のため

には何よりも先ず高橋の資料集の検討が求められている

のである。

 西岡健治は次のように指摘している。1904年に六合館

で出版された辞典『言海』によれば「ものがたり 物語」

とは、「(一)事ヲ語ルコト。ハナシ。談。説話。(二)一

ヲ記シタル草紙ノ類ノ称。「竹取──」「源氏──」」のこ

とだという。それによれば、『物語集』の「物語」とは、

(一)の「説話」のことであることがわかる。また、高橋

は資料の中に多くの注を付けているが、「淫僧食生豆四

升」(1910年版、63頁)の後ろに、「こはこの国の口伝へ

をば有りの儘に綴りしなり」(下線は西岡による)と述べ

ている。これによっても、高橋が『物語集』のなかに朝

鮮の民間伝承を集めたことがわかる。5

 西岡が指摘する通り、高橋の資料集は民間伝承を集め

た説話集としての特色を持っている。高橋は説話という

タームを用いてはいないが、高木以降の先行研究によっ

て、先駆的な説話集として取り上げられてきた。

 そこで本研究では、朝鮮説話研究の活性化に大きな契

機を与えた高橋の『物語集』『俚諺集』を取り上げ、その

内容を考察することとする。また、高橋の資料集は、朝

鮮人研究の一環をなすものであるため、彼の朝鮮人論と

の関わりにスポットを当てて検討する必要がある。

- 13 -

Page 3: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

2.高橋亨の朝鮮研究

 高橋亨は1878年新潟県中魚沼郡川治村で父・茂一郎、

母・きいの長男として生まれた。6 1898年、東京帝大文

科大学に入学し、1902年に支那哲学科を卒業する。同年

12月に建部遯吾(1871 ~ 1945;1901年から東京帝大教

授となり、社会学講座を担当)の推薦で、九州日報の主

筆となり、博多に赴く。1904年末7、韓国政府の招聘を

受け、幣原坦(1870~ 1953)の後任として官立中学校の

教師となる。1908年、官立漢城高等学校の学監となり、

『韓語文典』(1909年)を刊行する。その「序」に、日本

の対韓経営における政府主力の時代は過去のものとなり、

渾然「一体としての国民を挙げて斯に従事すべき」8 であ

ると唱え、国民的経営の最要条件は、経済的交益と日韓

言語の交換だと主張しているように、彼は明治ナショナ

リズムの影響を受け、帝国日本の教育者として対韓経営

に奔走する。

 1910年『物語集』を刊行する。同年、朝鮮総督府嘱託

として「朝鮮の古書、金石文等」の収集、翌年には「李

王家奎章閣」9 図書の調査を担当するとともに、京城高等

普通学校の教諭を勤める。そして、普通学校用諺文綴字

法を定めるための会議に委員として参画し、1916年には

大邱高等普通学校長となり、1926年、京城帝国大学の創

立と同時に教授となる。1940年に京城帝大を退官後、山

口県に隠遁するが、1945年に明倫錬成所長となり再び京

城に戻るも、敗戦を機に同年10月、萩市に引き揚げる。

1949年、福岡商科大学教授を経て、1950年に天理大学教

授に招聘され、朝鮮学会の発足に尽力して、その副会長

となった。

 朴光賢は、高橋亨の朝鮮研究は三つの方面から展開さ

れたとして、以下のようにまとめている。一つ目は、朝

鮮語に対する関心である。『韓語文典』(1909年)と「日

韓両語語法の酷似せる一例」(1910年 2 月)などの研究

があり、金沢庄三郎の『日韓両国語同系論』(1910年)

のような理念的な研究ではなく、極めて実用的な側面か

らなされているものといえる。

 二つ目は、朝鮮人に関する叙述である。朝鮮人の内面

と生活を理解するための民譚と諺を集め、『物語集』、『俚

諺集』を刊行した。それから「朝鮮人」と題する論文を

『日本社会学院年報』(第 4 年 3、4、5 合冊、1917年 6 月)

に発表した。この論文で「余は朝鮮の思想及信仰即文学

と哲学と宗教との研究に従事」(1‒2 頁)すると述べて

おり、朝鮮研究者としての自分を本国に紹介している。

この時期は「朝鮮のママ

在る日本人は朝鮮人が従来悪政の結

果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感

化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

族的に向上せしむるを義務と自覚せざるべからず」(86

頁)として、朝鮮の植民統治のための調査事業の延長線

上に自身の学問世界を形作っていった転換期でもある。

 三つ目は、朝鮮の教化に関する調査である。これは本

格的に朝鮮総督府の調査事業に従事した時期になされた

成果であった。その内容は主に朝鮮教育史と朝鮮の儒学

と仏教を中心とした思想と信仰に関する研究である。植

民地統治のための「調査」事業を「学術」へと昇華させ

る上で中心的な役割を果たした。以上の三つの研究領域

は、深い関わりをもって結合している。10

 朴光賢の指摘する通り、三つの研究の関わりに注目し

て、その全体像を明らかにする必要があると思われるが、

従来の研究では高橋の朝鮮儒学観に批判が集中していた

ように思われる。11 近年、朝鮮仏教観及び文学観につい

ても、高橋の朝鮮人論を踏まえて研究されている。12 た

だ、高橋の初期研究では、流暢な朝鮮語能力13 を活かし、

朝鮮(人)を理解するために物語・俚諺に注目している

1904年末 官立中学校教師として渡韓

1910年 『朝鮮の物語集』を刊行

1914年 俚諺を増補して、『朝鮮の俚諺集』を刊行

1919年 「朝鮮の教化と教政」で文学博士取得

1921年 朝鮮総督府の視学官に就任

1926年 京城帝大教授に就任(朝鮮語学文学第一講座を担当)

表1 高橋の朝鮮における主な活動

- 14 -

学校教育学研究論集 第24号 (2011年10月)

Page 4: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

だけに、資料集と朝鮮人論との関わりを明らかにする作

業が求められる。

3.『物語集』に関する先行研究

 『物語集』について崔仁鶴は、「おそらく日本人が出版

したものの中で最初」の資料集と評価している。ただ、

『今昔物語集』類の援用であろうと思われる書き出し部分

の「今は昔」という表現について崔は、「この語は昔話研

究において誤解しうるおそれがある」としながらも、「現

在からみた場合、本格的な昔話研究の資料として完全で

ないにしても、少なくとも半世紀前に収集された資料で

ある点にその意義を認めたい。そして、外国人によるこ

のような資料集の出版はおそらく、国内の学者に一方で

は刺激を、また一方では失望を与えたのであろう」と指

摘している。14

 その後、金容儀、金歡姬らにより、近代初期の資料集

に収められている個別説話の変容及びその性格を考察す

る研究が行われてきた。15『物語集』に関する彼らの言及

は一部に留まっているが、その評価には大きな隔たりが

ある。例えば、金容儀は、『物語集』は「植民地期に日

本人が初めて刊行した韓国の民間伝承に関する資料集と

いう点で注目され、今日でもその資料的価値が認められ

る」16と評価しているのに対し、金歡姬は「早い時期に出

刊されたが、口碑文学的な価値が疑わしい」17と否定的

である。

 植民地期朝鮮の説話に関する研究は、権赫来によって

行われてきた。18 権は、「高橋が『朝鮮の物語集』を選集

し、作品を評価する過程で、意識的であろうと無意識で

あろうと植民史観に立脚した偏向性が介入した可能性」

があることを認めながら、「それにも拘わらず高橋が社会

観察者の意図ゆえに、作品自体の原型をむやみに歪めた

りはしなかったのではないかとも推論できる」19 としてい

る。そして権は、『物語集』の文学史的意義について次の

三点を挙げている。

 一つ目は、近代の最初に刊行された説話・古典小説集

であり、口伝説話の伝承の始発点を窺い知ることができ

る点である。二つ目は、収録された説話は肯定的であろ

うと否定的であろうと後代に持続的に影響を及ぼしたと

いう点である。三つ目は、収録された 4 編の古典小説類

の作品を通して、中世の古小説が近代の古典小説に認

識・形成されていく初期過程が把握できる点である。さ

らに権は、高橋の研究の功罪とともに、日本語資料の研

究の必要性についても付言している。20

4.高橋の資料集とその分類

 朴美京は、高橋亨の『俚諺集』を韓国語訳21して以来、

植民地期の資料集に対する研究の重要性を指摘し、高橋

亨をはじめ、三輪環の『伝説の朝鮮』(1919年)、朝鮮総

督府の『朝鮮童話集』(1924年)、中村亮平の『朝鮮童話

集』(1926年)における兄弟譚を分析している。そこで

朴は、『物語集』の「解語亀」という話の中に「時間を

関はず遊ぶもこの国の民性」という表現があり、注釈に

も「時間を構はぬ韓人」と付けられていることに注目し、

「作品自体の原型をむやみに歪めたりはしなかったのでは

ないか」という権赫来の判断に対して、「再考の余地が濃

厚である」22 としている。ただ、高橋が意図的に資料を

歪曲したかどうかは、同時代の他の資料との対比を通し

て分析しなければならないと思われる。

 前述したように、『物語集』の資料的価値については、

近代朝鮮における日本人初23の説話集と評価される一方

で、口碑文学的な価値を疑問視する意見や、意図的な改

作の可能性が提起されていて定まっていない。

 ところで、権は『物語集』の収録作品の性格を把握す

るために、類型分類の必要性を唱え、〈表 2 〉のように三

分している。『物語集』には番号が付されていないが、便

宜上、順番に従い番号を付して記す。

表2 収録作品の分類

類 型(数) 話

・文献説話類( 5 編) 12.淫僧食生豆四升16.盲者逐妖魔22.富貴有命、栄達有運24.神虎28.毒婦

・口伝説話類(19編) 1 .瘤取 2 .城隍堂 3 .貧郡守得銭 4 .嘘較べ 5 .風水先生

- 15 -

高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関する研究

Page 5: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

6 .巳時下午時発福 7 .得対句半死 8 .解語亀 9 .鬼失金銀棒10.贋名人13.片身奴14.無法者15.明者欺盲者17.妓生烈女18.癬疥病童知雨19.双童十度20.韓様松山鏡21.仙女の羽衣23.人と虎との争い

・古典小説類( 4 編) 11.興夫伝25.長花紅蓮伝26.再生縁27.春香伝

 資料集には28編の物語とともに、547編の俚諺が収録

されている。一方、1914年版は、俚諺を補充して1298編

の俚諺を収録している。物語の収録数について、西岡は

「変化がない」24とし、朴は「25.長花紅蓮伝」と「26.

再生縁」のみが「除外されている」25と述べているが、曺

喜雄と権赫来の指摘する通り、「13.片身奴」も削除され

て25編が収録されている。26既存の研究では、1910年版

と1914年版の違いは注目されてこなかったが、高橋の朝

鮮研究、特に朝鮮人論の中で、その変化の意味を捉える

必要があると思われる。俚諺の大幅な補充により、長編

の「25.長花紅蓮伝」、「26.再生縁」を除外したことは

理解できるが、短編の「13.片身奴」までも除外したこ

とは容易には理解し難い。権赫来の指摘通り、「13.片身

奴」はトリックスター(trickster)類型の説話として注目

に値するが、これが朝鮮人論を強調した1914年版で除外

されたのは、あるまじき朝鮮人の特性及び性格と合致し

ないと高橋は判断したからではなかろうか。

 先行研究では説話研究と俚諺研究の立場から、物語集

と俚諺集を完全に分離して研究されてきた。しかし、少

なくとも『物語集』を採集した高橋にとっては、二つは

分離されるものではなく深く結びつくものであったはず

である。二つの関わりに注目しなければならない。27 筆

者の分析によると、特に高橋の俚諺は物語と深く結びつ

いていることを確認できた。俚諺集には短い俚諺を紹介

してから高橋による詳しい解説がつけられているが、高

橋はその中で俚諺の発生が物語と深く結びついているこ

とを繰り返し述べているのである。

 高橋は以下の俚諺に解説を付けて、多くの俚諺は物語

に起源があると指摘している。〈65 飢えて錦が一度の飯〉、

〈134 豚は自分の番に湯を沸せと言ふ〉、〈410 大学を教へ

てやらうか〉、〈438 おれはパダロプンと言ふが、お前は

パダロプンと言へ〉、〈445 背負ひ込むだ坊主〉、〈579 盲

人が自分の鶏を捉めて食ふ〉、〈993 桑も亀も言を慎まず

して殃に罹れり〉、〈1005 甕商人が九々をする〉、〈1161 懐

仁郡に監司が来た〉、〈1163 尹君来る時に泣き、去る時に

復た泣く〉、〈1194 西門の門番餅を搗く〉、〈1203 すどろ

が寧辺へ往つて戻つて来た様だ〉の12の俚諺は、全て物

語に起源があるという。また、〈828 祈祷はしたいが、嫁

が巫女の舞のまねをして舞ふが憎らしい〉と〈832 鶏卵

に骨がある〉については、それぞれの俚諺の解説後に独

立した題「嫁達の姑の悪口」、「鶏卵有骨」を付け、朝鮮

の「俚話」として紹介している。以上の14の俚諺は、笑

話に分類できる話=「俚話」とされている。

 また高橋は、〈179 汝の家財はおれのもの、おれの家財

はおれのもの〉と〈764 燕は小さいが江南国に往く〉は

物語〈11.興夫伝〉から、〈300 松都末年の不可殺だ〉は

怪物・不可殺伝説から、〈697 瘤を捩られに行つて、ま

た附けられた〉は物語〈1.瘤取〉から出た俚諺と捉え

ている。さらに、〈346 虎が烟草を吸うた時代〉は朝鮮

の「伝説」から、〈1000 亦逐中に在り〉は「故事」から、

〈1092 枕を高くするものは命が短い〉は「俗伝」から、

〈466 蝙蝠の擬ねをする〉は「鳥獣合戦の昔譚より出」た

としている。以上のように、高橋は物語(俚話、伝説、

古譚、故事、俗伝)と俚諺を互いに深く関わっているも

のとして捉えていたことがわかる。

 〈表 2 〉の分類は、今日の一般的な分類基準であるが、

1910年当時は口伝説話と文献説話は明確に分かれていな

かったと思われる。前掲の西岡の引用にも述べられている

ように、「12.淫僧食生豆四升」(1910年版、63頁)の後の

注では、「こはこの国の口伝へをば有りの儘に綴りしなり。

慵齋叢話[1525年刊行された成俔の史話・随筆集─筆者

注]には少し違ひて書けり」となっている。つまり、「12.

淫僧食生豆四升」は口伝説話類とみなされていたと思わ

- 16 -

学校教育学研究論集 第24号 (2011年10月)

Page 6: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

れる。現在は文献説話として分類されている話が「口伝

へをば有りの儘に」綴ったという事実は重要である。

 語り手(=話者)に関して、高橋は何も言及していな

いが、『物語集』の萩野由之(1860 ~ 1924;東京帝大教

授、1909年に朝鮮で学術調査を行い、高橋と同じく新潟

県の出身)の「序」に、「(高橋君の)学校の子弟は、諸

方より来り学ぶものなるが故に、従つて広く各地の俗語

俚諺を調査するの便あり、此を以て多年採訪蒐輯せる」28

と述べている。ここから高橋は、これらの俚諺を学校の

子弟や子弟の紹介を経て採集したと推測されるが、採集

の過程や話者が明記されていないため、資料集として一

定の限界を持っていることは否めない。

 一方、『物語集』の「27.春香伝」の伝承の性格につ

いて、西岡は「春香伝」も口碑伝承であると主張してい

る。29 それに対して、権は古典小説が民譚となり再構成

される場合は探しにくいことを前提として、「高橋本の

内容及び文章では民譚的な‘口述性’を探すことができ

ない。また、これまで採集された口碑文学資料集の中で

も〈春香伝〉は発見された例がない」30と述べている。例

外として朴英晩の《朝鮮伝来童話集》(1940年)の話を

取り上げているが、確かに、西岡も認めているように、

1980年代に集大成された《韓国口碑文学大系》(韓国精

神文化院、全82巻)の索引にも「春香」の項目はなく、

「春香伝」の口承史料は少ない。31 高橋が採集した「27.

春香伝」が口碑伝承か、古典小説からの翻訳かを明確に

することは難しい。しかし、同じく権が古典小説類とし

て分類した「11.興夫伝」はどうだろうか。田中梅吉は

『朝鮮説話文学興夫伝』(1929年)を日本語訳して、その

解題の中で、朝鮮の民フヲルクスメールヒェン

間童話の「フンブとノルブの話」

は「朝鮮では至るところに伝はつてゐる」32 と指摘して

おり、1920年代の民間には「フンブとノルブ」民譚が多

く伝承されていたことが分かる。とすれば、「27.春香伝」

よりも、むしろ「11.興夫伝」の方が口伝説話類である

可能性が高いと思われる。

 その理由の一つは、当時は「フンブとノルブ」が広く

伝承されていたという田中の指摘である。二つ目の理由

は、『物語集』の目次における「興夫伝」の配置である。

古典小説類と思われるものが「25.長花紅蓮伝」「26.再

生縁」「27.春香伝」のように目次の後ろに配置されてい

るのに対して、「興夫伝」は前半部の11番目に配置され

ている。同じ古典小説類と権が分類する「興夫伝」だけ

が外れている。三つ目の理由は、話の長さである。「25.

長花紅蓮伝」「26.再生縁」「27.春香伝」などの古典小

説類の長さは19頁もの分量に達しているが、「興夫伝」は、

6.5頁と短い。むしろ28編中 5 頁前後の話が大部分であ

るのに対して、「25.長花紅蓮伝」「26.再生縁」「27.春

香伝」だけがかなり長いのであるが、「興夫伝」の短さは

口伝説話である可能性を示すのではないかと思われる。33

5.高橋亨の資料集と朝鮮人論

 『物語集』は、1910年 9 月に出版されたが、同年の『帝

国文学』8 月号に「韓国の俚諺」が収録されており、注

目される。そこで高橋は「朝鮮の社会研究の一部として

種々の方法に由りて京城地方の俚諺を蒐集せり」34と述べ

ている。高橋にとって、朝鮮の民間伝承の採集は、朝鮮

社会(特に風俗習慣)研究の一環であった。

 『物語集』の「自序」は「庚戌梅雨節」に書かれてい

るが、それは韓国が「併合」(8月22日)の直前のこと

であった。「自序」では、文学美術及び歴史伝記は社会

精神及び時代精神と理想を伝えるが、昔の習慣による嗜

好には「社会生活の流れのママ

停回して作成せる沈澱物」(即

ち其社会生活の精神の真を獲たるもの)が含有されてい

ると位置付け、「物語及俚諺の研究が社会的価値ある」(2

頁)ものとして次のように述べている。

 俚諺は社会的常識の結晶にしていつの世にか或人

之を創称して万人之に和し、遂に社会に風行し、其

の或るものは今日猶用ひられて千万無量の意味を一

句半語に寓し。ママ

物語は社会生活の精髄的縮図にし

て、或は極めて上代に、或は下りて中世に若くは近

き過去の人の手に成り、善く社会の興味を刺戟して

口々相承けて長く伝はり来れるものなり。(中略)更

に其の風俗習慣を一貫する所の精神を看取し、而し

て其の社会を統制する所の理想に帰納して、始めて

社会研究の能事畢れりとなすべし。是の社会精神と

理想とを完全に発見し得たらんには、これ網の大綱

を提げたるにて、為政者社会政策の経営施設にも多

大の貢献を与ふ。直ちに民衆の心泉を斟みて此に陶

冶の工夫を着くるを得せしむればなり(2‒4 頁)。

- 17 -

高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関する研究

Page 7: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

 先述の『韓語文典』のように、物語及び俚諺を通して

民族性の理解を深めることが「対韓経営」の貢献につな

がる、と高橋は主張しているのである。

 高橋の「朝鮮人」は最初、1917年に『日本社会学院年

報』に掲載された。総督府冊子「朝鮮人」(1920年12月

刊行)には、第四の後論がつけ加えられ、「朝鮮人特性

の研究は四年前の稿」に係ることと、この 4 年の間に起

こった出来事に対する彼の意見が述べられている。なお、

「高橋亨述」の「朝鮮人特性之研究」と題した油印本(東

京大学経済学部図書館所蔵)があり、流通していたよう

である。この油印本には、訂正の筆跡も残っていて、『日

本社会学院年報』に掲載される前の段階のものである可

能性も考えられる。35

 1920年、高橋は朝鮮総督府学務局発行の 3 冊の冊子を

執筆している。『朝鮮人』、『朝鮮の教員制度略史』、『朝

鮮宗教史に現はれたる信仰の特色』がそれである。その

うち、『朝鮮人』は翌年再版を出しているが、『朝鮮学報』

の「著作年表」では、『朝鮮人』だけが抜け落ちている。

しかし、具仁謨が指摘する通り、高橋の「地域学または

民族誌的朝鮮研究の初期成果を決算したものがまさに

『朝鮮人』であったといえる」。36

 以上の高橋が朝鮮人の性格について論じたものを時系

列に整理し、その目次及び内容をまとめたものが〈表 3 〉

である。

表3 朝鮮人の性格に関する言及が見られる論文の目次及び内容

『俚諺集』の「自序」

(1914年)

「朝鮮人特性之研究」油印本(1915年 5 月11日稿了)

「朝鮮事情」『講習会講演集』(1915年12月)

「朝鮮人」『日本社会学院年報』

(1917年 6 月)

朝鮮総督府学務局『朝鮮人』

(1920年12月)

総論 1 地理的攷察 2 地質的攷察 3 人種的攷察 4 言語的攷察 5 社会的攷察 6 歴史的攷察 7 政治的攷察 8 美術文学的攷察 9 哲学的攷察10 宗教的攷察11 風俗習慣ヨリノ攷察

歴史思想信仰

総説 1 地理的攷察 2 地質的攷察 3 人種的攷察 4 言語的攷察 5 社会的攷察 6 歴史的攷察 7 政治的攷察 8 文学及美術的攷察 9 哲学的攷察10 宗教的攷察11 風俗習慣よりの攷察

第一 総説 1 地理的攷察 2 地質的攷察 3 人種的攷察 4 言語的攷察 5 社会的攷察 6 歴史的攷察 7 政治的攷察 8 文学及美術的攷察 9 哲学的攷察10 宗教的攷察11 風俗習慣よりの攷察

思想の固着性思想の無創見暢気文弱党派心形式主義

各論 1 思想上ノ固着性 2 思想上ノ非独立性 3 極端ナル形式主義 4 不誠実 5 党派心 6 文弱 7 審美観念ノ欠乏 8 公私混淆 9 寛雍鷹揚10 従順11 楽天的

公私混淆寛裕鷹揚

各論 1 思想の固著 2 思想の従属 3 形式主義

4 党派心 5 文弱 6 審美観念の欠乏 7 公私混淆 8 寛雍、鷹揚 9 従順10 楽天的

第二 各論 1 思想の固著 2 思想の従属 3 形式主義

4 党派心 5 文弱 6 審美観念の欠乏 7 公私混淆 8 寛雍、鷹揚 9 従順10 楽天的

余論 余論 第三 余論第四 後論

- 18 -

学校教育学研究論集 第24号 (2011年10月)

Page 8: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

6.朝鮮民族六性について

 〈表 3 〉から明らかなように、朝鮮人の性格について高

橋が初めて言及したのは、『俚諺集』の「自序」である。

高橋は朝鮮民族の「六性」は、「何れも此の国の地質、

地理乃至社会組織に根して成立せるものなり」と前提し

た上で、地質・地理的な宿命論に基づき、それぞれの項

目について説明を加えている。

 思想の固着性とは一度是認して我が思想となした

る以上は時間の流に超逸して何時迄も之を把持して

動くことなきを謂なマ マ

ふり。思想の無創見とは哲学及宗

教に於て支那思想の外何等朝鮮に於て独立的に創造

せられたるものなきを謂ふなり。暢気とは気分寛裕迫

らず大に痛慮すべく失望すべき場合に処して能く楽

天的平静を維持するを謂ふなり。文弱とは文を尚び

て武を賤み遂に凛乎たる武的精神を失へるを謂ふな

り。党派心とは常に私党を樹てて以て個々の利益を

遂げんとする心を謂ふなり。形式主義とは形を履みて

実を忘れ名を得て実を顧みざるを謂ふなり。是等六

性は之を開けば更に又十数性となるべく大略以て朝

鮮民族性の常識的解説たるに庶幾かるべし。上下二

千年の朝鮮歴史は是の六性の具体化にして而して現

在尚ほ朝鮮人は不知不識此の六軌道の上を往きつつ

あるものなり。されば朝鮮の俚諺も先づ此等六民族

性を心に置きて而して之を味はば蜜を嘗めて舌を忘

れ馬に跨りて鞍を忘るるの妙あらん(強調は筆者)37。

 高橋は、上下二千年の朝鮮史は今もなお六軌道の上

を往来しているとして、朝鮮停滞論を主張している。ま

た、朝鮮民族六性を唱え、それを「常識的解説」と位置

付けて、自分の主張の正当性を裏付けようと努めている。

元々「常識的解説」が存在したのではなく、高橋の言説

により作り上げられた側面もあり、「彼が構築した『進歩

のない朝鮮の思想と宗教』というステレオタイプは、一

つの『作られた伝統 invention of tradition 』とも言えるだ

ろう」。38 留意すべきは、高橋が俚諺の中に表われた朝鮮

民族性を強調している点であり、彼の否定的な朝鮮民族

認識は、「支那」批判の延長線上にあるという点である。

 『俚諺集』の「自序」の次に、朝鮮人論を具体的にまと

めたのが、油印本「朝鮮人特性之研究」(1915年)である。

これについて前述したように、権は「訂正の筆跡も残っ

ていて、『日本社会学院年報』に掲載される前の段階の

ものである可能性も考えられる」と言及するに留まって

いるが、筆者の分析によると、油印本は1917年に『日本

社会学院年報』に掲載される前の段階のものと思われる。

〈表 3 〉のまとめのように、油印本と1917年本は、その目

次がほぼ同一で、題名変更に伴い冒頭が修正されたもの

の、総論部分はほぼ同一である。しかし、各論は油印本で

は11項目が、1917年本では10項目となっている。「4 不

誠実」が削除されているのである。39 それによって、1917

年本と1920年本は論理の矛盾を起している。つまり、油

印本における「形式主義、不誠実、非審美的、文弱、党

派心、公私混淆ノ六特性」40というくだりが、1917年本

と1920年本では、「4 不誠実」が削除されたことで、「形

式主義、非審美的、文弱、党派心、公私混淆の六ママ

特性」41

となり、「六性」ではなく「五性」となってしまっている。

これをみても、油印本が1917年本の底本になっていること

は明らかである。それぞれの六性は、〈表 4 〉のようになる。

表4 朝鮮人の六性

『俚諺集』(1914年 6 月)

『朝鮮人特性之研究』(油印本、1915年 5 月稿了)

「朝鮮人」『日本社会学院年報』

(1917年 6 月)

思想の固着性思想の無創見暢気文弱党派心形式主義

形式主義不誠実非審美的文弱党派心公私混淆

形式主義

非審美的文弱党派心公私混淆

 油印本では、「思想の固着性」と「思想の無創見」と

「暢気」を削除し、代わりに「不誠実」と「非審美的」と

「公私混淆」が新たに加えられている。また、「十一性ノ

中思想上ノ固着性ト思想上ノ非独立トハ恐ラク朝鮮民族

ノ最根本的ナル二特性」(66頁)という記述があり、「思

想の固着」と「非独立」という二性の下に「六性=形式

主義、不誠実、非審美的、文弱、党派心、公私混淆」が

位置付けられている。「非独立」と「非審美的」は「思想

の無創見」に関わる概念である。

 では、新しく追加された「公私混淆」とは何か。この

- 19 -

高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関する研究

Page 9: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

点について『朝鮮学報』の「著作年表」には抜けている

が、朝鮮人の性格を述べている教員向けの講演記録があ

る。その講演で、高橋は「朝鮮人の特性殊に吾々日本人

と比較して、如何なる点を異にするかといひますと、異

なる点が色々ありますが、只今は其の中公私混淆と寛裕

鷹揚の二目を挙げて」42と述べている。ここから高橋が朝

鮮人を常に日本人の対極にある他者として比較している

ことがわかる。次いで高橋は、朝鮮における「第一腐敗

の原因は公私混淆である」(314頁)と前提して、公私混

淆の弊の発生原因として以下の四点を挙げている。第一

は忠と孝とが別になっている社会組織、第二は公私混淆

の国=支那制度の悪い影響、第三は官吏の任期の短い事、

第四は支那朝鮮日本を含んだ東洋人の通有性である。

 それに対して、高橋は朝鮮人の長所として「寛裕鷹揚」

を取り上げ、これは「日本人の学ぶべき点であって将来

も持続せしめたい」(320頁)としている。朝鮮人の「寛

裕鷹揚」の発生原因として高橋は、第一に朝鮮の地質、

第二に朝鮮人が礼義を重んじること、さらに第三に黄喜

(1363 ~ 1452;朝鮮初期の文臣)を中心とした朝鮮の理

想的大臣の感化を挙げている。そして、次のように主張

している。

 第一の公私混淆と第二の寛裕鷹揚とは将来日本人

の朝鮮統治の結果如何になり行くかは注意すべきこ

とである。今日の朝鮮人は実に憐れな者である。日

韓併合当時は自分は韓国民にして日本人にあらずと

考へ居りしも、近頃は朝鮮人なる観念は有するも日

本国民であるといふ観念なく又韓国民だといふ観念

もなく言はば中性の国家観念を有す。(中略)故に公

私の別つべきは充分に教へてやり、寛容の風は保存

する様に努めたい(322‒323頁)。

 高橋において、「朝鮮の地質」は時には停滞論の根拠

となり、時には肯定的に取り上げられる可変的なもので

あった。注目すべきは、1910年の併合時、「韓国民にし

て日本人あらず」と考えていた朝鮮人が、「同化」政策に

より「中性の国家観を有す」るようになったと高橋が指

摘している点である。なお、高橋が朝鮮人の「寛裕鷹揚」

を評価していたとしても「寛裕鷹揚」を朝鮮民族六性に

入れることはなかったことにも留意しておく必要がある。

7.資料集に表われた朝鮮人

 次に、高橋の朝鮮人論の総論の中で、物語・俚諺がど

のように位置付けられているかを検討しておきたい。〈表

3 〉のように、総論は11項目に分けられ、その冒頭では

「11 風俗習慣俚諺物語」43となっているが、本文の「11 風

俗習慣よりの攷察」では、俚諺と物語についての言及が

ない。

 総論の11項目の中で、「11 風俗習慣よりの攷察」は最

も短いが、そこに「(朝鮮人は)恐らく今日世界に於ける

最古き風俗習慣を維持する人民の一なるべし。故に彼等

は尚各種文明機関を利用して文明的施設に順応すること

甚だ困難なり。同時に其の反面に於て儒教主義の行はる

る社会の美点と中世時代の美風を存し」44と記されてい

る。ここでも高橋は、一方では儒教主義を批判し、一方

ではその美点を評価している。このように、高橋の朝鮮

認識は両面的で、時勢により変化しうる流動的なもので

あったということができる。

 また、前述の『俚諺集』「自序」で、高橋は六性を朝

鮮民族性の「常識的解説」として「朝鮮の俚諺も先づ此

等六民族性を心に置きて而して之を味」わうべきと主張

していたことを想起されたい。『俚諺集』に収録された

1298編の俚諺のうち、六性に関わる俚諺をまとめると、

〈表 5 〉のようになる。

表5 六性に関わる俚諺

『俚諺集』(1914年)

思想の固着性 172思想の無創見(非審美的)暢気 280, 431, 728, 773, 925, 1065

文弱

党派心

形式主義 16, 152, 217, 234, 674, 1095, 1227

油印本(1915年)

不誠実 892

公私混淆 360

 〈表 5 〉は俚諺の中で、高橋のいう六性に比較的近い

と判断されるものを挙げてみた。しかし、思想の無創見

(非審美的)、文弱、党派心と直接に関わる俚諺は見当た

らない。また、〈172 昔の法を改正もせず、新しい法を出

- 20 -

学校教育学研究論集 第24号 (2011年10月)

Page 10: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

しもするな〉に対し、高橋は「朝鮮人の保守的性質を言

ひ出せるものなり」と記しているが、この性質は、思想

の固着性とは距離があるように見える。そして、〈360 刑

曹獄卒の悪習か〉は獄卒が金銭を要求して殴ることから、

「妄りに人を殴打する者あるに対して此の諺を用ふ」と

し、公私混淆とは深く関わっていないともいえる。高橋

は、「朝鮮の俚諺も先づ此等六民族性を心に置きて而して

之を味」わうことを勧めているが、収録された俚諺には

六性と深く関わるものは少ないといえる。

 高橋が収集した俚諺を分析した朴美京は、1910年代

という早い時期の採集であるだけに、高橋の資料集には

「朝鮮の風習、社会像に対する詳細で具体的な注をつけ

ており、俚諺の成立背景や当時の社会状況を垣間見るこ

とができる」45と指摘しつつも、「高橋の俚諺研究を通し

た朝鮮認識は、他分野に対する研究と並行して、最終的

には‘朝鮮人の後進性’を導き出すことにスポットが当

てられたといえよう。しかし、彼が調査した俚諺の内容

は、必ずしも彼が確定した六つの否定的な民族性に繋が

るものではない。彼が朝鮮の俚諺が持っている多様な側

面を無視したまま、朝鮮文化を徹底的に否定的な側面で

の逆機能のみを取り上げ把握している」46と論じている。

 『俚諺集』に収録されている1298編の俚諺の全てが朝

鮮民族六性に当てはまることはありえない。そもそも俚

諺には矛盾し合うものが多く存在しており、多様性に満

ちている。それを最初から「六性」という枠にはめて見

ようとする意識には植民者の傲慢が潜んでいたというべ

きである。朴が指摘する通り「(高橋)の俚諺研究には、

彼の朝鮮認識が基本的に潜んでおり、俚諺を採録する過

程は朝鮮認識を形成する過程でもあった」のである。47

 二つの資料集は、高橋が本格的に朝鮮人論を形成する

過程で生れた産物であり、高橋が朝鮮認識を形成するに

あたって大きな役割を果たした。高橋の朝鮮認識が資料

集の叙述に影響を与えた側面がある一方で、資料採集の

過程を通して高橋の朝鮮人論が形成されていった側面も

ある。すなわち、高橋にとって資料集は、朝鮮人論を「想

像」し、それを周知させる装置として機能したのである。

 次に、高橋の採集した物語に表われた朝鮮人論を探っ

てみたい。先述したように高橋は、朝鮮の滅亡の主たる

原因として「公私混淆」を挙げ、その発生原因として、

「支那」制度の悪い影響、官吏の任期の短いことなどを

挙げている。資料集では「支那」の悪い影響が頻繁に指

摘されている。「2.城隍堂」は未婚の男が城隍神と将棋

を競って勝ち、結婚できたという話であるが、城隍堂の

起源について、高橋は中国の「周」からの影響と断定し

ている。「5.風水先生」と「6.巳時下午時発福」は、墓

をめぐる風水に関わる話であるが、風水は「支那より輸

入せるもの」(30頁)と述べられている。また「10.贋名

人」は、ある両班(生学者)が成り行きで占い師になり、

「支那」の都まで赴き玉璽を探すという話であるが、「朝

鮮は新羅以来常に支那の属国」(55頁)で、「属国として

の礼儀のみ」(55頁)で、「之に甘服」することが「この

国の国民性」(56頁)であると決めつけている。

 また、官吏の任期の短い弊害を如実に描いた話がある。

「3.貧郡守得銭」がそれである。貧しい両班が幸運に

も「郡守様々と仰がれたかと思ふと間もなく免官の辞令」

(10頁)を受け、遠い赴任地まで行くお金がなく困ってい

た時、その事情を見抜いた「郡の官属の一人私かに郡守

に向ひて」(11頁)悪知恵を授け、酒屋をだまして賄賂

をもらって旅立ったが、「彼の吏員が郡守以上の利得をし

めしは無論なり」(13頁)という話である。この話は官吏

の任期の短いことによる弊害を端的に示すものであるが、

赴任してすぐに新赴任地への辞令を受けたという部分は

改作の可能性もある。実際に聴いたままの記録であると

しても、この話は、高橋の朝鮮人論を裏付け、形作って

いく上で、極めて都合の良い話になっている。

 六性の中で「暢気」は大いに失望すべき場合に楽天的

平静を維持することと定義されているが、「暢気」な朝鮮

人像は従順な朝鮮人を求める高橋の願望ではなかったか

と思われる。「8.解語亀」は父親がなくなってから財産

を独占した兄に捨てられた弟を「これも拙き我が運命な

りと諦あきら

めて、少しも兄をば恨まんとせず」(41頁)と描

いている。一般に説話は、困難な状況の中で、積極的に

自分の運命を開拓する人物よりは、善良なる心持の主人

公が運よく困難を解決する偶然性をモチーフとしており、

またそれが魅力でもある。こうした物語を例に民族性を

断定するようなことは適切ではない。高橋はそうした過

剰な解釈をもって従順な朝鮮人像を描き出そうとしてい

る。

 「14.無法者」は、貧しさのあげく盗みを働いた田舎者

の話で、そこには不潔な朝鮮人像が描かれている。また

- 21 -

高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関する研究

Page 11: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

「16.盲者逐妖魔」は、神通力を以って妖魔を駆逐した盲

者の話であるが、この物語に対して、高橋は鬼神を信じ

る「愚民」(91頁)という注をつけて、朝鮮人の俗信観

念を批判的に捉えている。また、「解語亀」にも「時間を

関はず遊ぶもこの国の民性」(42頁)という表現があり、

「文明人」高橋のオリエンタリズム的な朝鮮人認識を窺い

知ることができる。

8.日韓同型の話をめぐって

 最後に、日韓同型の話について言及しておきたい。萩

野由之は次のように述べている。

 日韓は同邦にして其古伝説には同型なるが多かり

しに、政教共に分れ、年代又遷りて、各自変化した

る所に、其国民性を露はせり。今此書について其一

二の例を言はば、鬼に瘤取らるる話の如きは、殆ど

宇治拾遺物語の伝説と同一なれども、羽衣伝説の如

きは、彼我によりて其国民性の異同を表白したり、

即ち我はこれを海辺の事となしつるに、彼は山間の

事となし、彼は天女の昇天を追跡して雲に入らんと

せるに、我にはさる執着なく、澹泊なる所に国民性

は窺ひ知らるべし(1‒2 頁)。

 萩野は、「1.瘤取」からは日韓同一を、「21.仙女の羽

衣」からは日韓国民性の異同を導き出している。萩野に

おいても、物語は民族性を示す重要な根拠とされている

のである。

 高橋が資料集の 1 番目に日韓同系の「瘤取」の話を配

置していることは注意を必要とする。「1.瘤取」は日本

でよく知られている「こぶとり爺さん」の類話である。

日本のものでは瘤爺が踊るのに対して、朝鮮のものは歌

うという違いがあるが、萩野はその違いについては触れ

ていない。

 また、「1.瘤取」は、その後、植民地朝鮮の教科書に

も「改作」収録され「日鮮同祖論」のイデオロギー装置

として使われたこともあり、他の資料集との比較を通し

て、その変容を明らかにする作業が求められる。48 ただ

し、高橋は「1.瘤取」について何も言及していない。

 「21.仙女の羽衣」について、高橋は萩野と同じく「是

亦朝鮮人と日本人との国民性の相違をも窺ふを得べきか」

(124頁)と述べている。「1.瘤取」と「21.仙女の羽衣」

のほかに、代表的な日韓同型の話として「11.興夫伝」

と「20.韓様松山鏡」がある。

 「20.韓様松山鏡」は、「韓様」という題からして、日

韓同型の話であることを示している。高橋は話の同型性

についてのみならず、「鏡」という言葉にも言及してい

る。屈かが

んで鏡を覗いたことから、「今猶かかみと屈かが

むと同

語」であるように、「韓語の鏡は「コウル」と云ひ、屈む

の「コウル」と全く同語」と指摘して、「かかる日韓両語

の趣味多き契合は、両国の文明及風俗を推究するに於て

甚だ貴重なる材料なるを信ず」(116頁)と述べている。

 日韓両語の類似性については、「日韓両語語法の酷似

せる一例」(1910年)でも論じられている。そこには、助

詞「ノ、ガ、ツ」に当たる韓語の「의、아ママ

、ㅅ」の酷似を

言及してから、「日韓両土は神代の昔に在りては其の国家

的境域を撤したりと云ふ者果して史実上確実に立証する

を得べしとすれば(され共予は曾尸茂梨を牛頭村に附会

せんとする論者には未だ賛成を表する能はず)是の言語

の甚しき同法則は更に猶一層の研究を要する者ママ

と云ふべ

し」49 と主張している。高橋は、行き過ぎた「日鮮同祖

論」者の論法に賛成しないものの、日韓両語の類似性に

関する研究の必要性を説いている。なお、「11.興夫伝」

は、日本の「舌切雀」と似ている話であるが、高橋はこ

れについては「1.瘤取」と同様に、何も言及していない。

 このように高橋が「1.瘤取」を先頭に配置してはい

るものの、日韓同型の話を強調しているわけではないと

思われる。当時の高橋は、古代日韓の史実を強引に結び

付ける主張に与しなかったが、言語学による日韓古代の

「文明及風俗」の研究の必要性は認めていた。また、高

橋が「日鮮同祖論」イデオロギーに与しなかったことは、

彼の朝鮮人論と深く関わっていると思われる。高橋にとっ

て、朝鮮人はたとえ日本人と「同祖」といっても、「支那

の属国」民であるため、まずは「支那離れ」を図ること

のほうが緊急の課題であったといえる。

 一方、高橋の否定的な朝鮮人論は「支那」批判の延長

線上で語られて、常に「支那」が念頭にあった。『物語

集』の「自序」では、「朝鮮の物語と我の其れと及び支那

の其れとの間に気脈のママ

辿るべきである」( 5 頁)と主張し

ているが、「支那の話」との比較はなされていない。「支

- 22 -

学校教育学研究論集 第24号 (2011年10月)

Page 12: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

那哲学」を専攻し、漢文に精通していた高橋ではあるが、

その後も中国を含めた比較は行っていない。そして、結

果的に高橋の研究範囲は日韓に限られたものに留まった

が、その後、高木敏雄を皮切りに、南方熊楠、松村武雄、

西村眞次、清水兵三、孫晋泰、鍾敬文らによって、日韓

の枠を超えた比較説話論が展開されることになる。50

9.おわりに

 これまで朝鮮説話研究において1910年刊行以来大き

く取り上げられてきた高橋の資料集を検討してきた。そ

して、資料集には物語と俚諺が収録されているが、俚

諺の中にも物語を起源とするものが多数存在している

ことを明らかにすることができた。また、高橋の資料

集は彼の朝鮮人論の形成過程で編まれていることが明

らかになった。つまり高橋の資料集は、高橋が本格的

に朝鮮人論を形成していく過程での産物であり、高橋

の朝鮮認識の形成過程で大きな役割を果たしたのである。

換言すれば、高橋の朝鮮認識と資料集とは相補的な関係

にあったのである。高橋は資料集を編むことを通して朝

鮮人論を「想像」し、それを固めていったということも

できる。ただし、高橋の資料集が与えた影響やそれに対

する批判に関する研究は別途追究すべき課題である。

【注】

1 今日、狭い意味でのソルファ(説話)は一般にミンダ

ム(民譚)と同じ意味で使われる。民譚は日本語の

昔話に近い概念として使われる。以下、文献の混同

を避けるために、韓国語の個別論文はそれを直訳し

て〈 〉で、同様に韓国語の単行本は《 》、日本語

の個別論文は「 」、日本語の単行本は『 』で表記

することをことわっておきたい。なお、韓国語文献に

は*印をつける。

2 関敬吾「解説」、高木敏雄『童話の研究』講談社、

1977年、213頁。

3 方定煥と孫晋泰における高木の影響については、次

の先行研究を参照。黄善英「交錯する童心─方定煥

と同時代日本人文学者における「子ども」」(東大比較

文学会『比較文学研究』88、2006年)と増尾伸一郎

「孫晋泰『朝鮮民譚集』の方法」(『平成21年度東京学

芸大学重点研究費報告書 韓国と日本をむすぶ昔話』

東京学芸大学、2010年)。

4 高木敏雄「日韓共通の民間説話」(『東亜之光』7 巻

11・12号、1912年、高木敏雄『増補 日本神話伝説の

研究 2 』平凡社、1974年所収)を参照。

5 西岡健治「高橋仏焉/高橋亨の『春香伝』につい

て」『福岡県立大学人間社会学部紀要』第14巻第1号、

2005年12月、44頁。

6 高橋亨の経歴については、権純哲「高橋亨の朝鮮

思想史研究」(『埼玉大学紀要教養学部』33巻 1 号、

1997年11月)と阿部薫編『朝鮮功労者銘鑑』(民衆時

論社、1935年)、そして朝鮮学会の『朝鮮学報』の次

の年譜などを参照。

「高橋亨先生年譜略」14輯、1959年10月。

「高橋亨先生著作年表」14輯、1959年10月。

「高橋亨先生年譜略・著作年表」48輯、1968年 7 月。

7 『朝鮮学報』の「年譜略」には「明治三十六[1903]

年末」渡韓となっているが、高橋亨『韓語文典』

(1909年)には「予明治三十七[1904]年冬此地に来

りて」(3 頁)となっている。ここでは、最も早い段

階である1909年の回想を信頼すると共に、幣原坦の

後任という事実も考慮し、1904年が妥当と判断した。

8 高橋亨『韓語文典』博文館、1909年、3 頁。

9 年譜には「李王家奎章閣」となっているが、それが

「李王職李王家蔵書閣」を指すのか、それとも「奎章

閣」を指すのか不明である。高橋は朝鮮総督府学務

局に所属しており、「奎章閣」の図書を調査した可能

性が高いと思われる。朝鮮王朝奎章閣の図書は「韓

国併合」の後、1911年 6 月旧慣制度調査を総括して

いた朝鮮総督府取調局が引き取ったが、1912年には

参事官分室に、1916年には官房総務課の博物館に、

1922年には学務局学務課分室を経て、京城帝国大学

設立後、1928年から 3 次に渡って延べ16万2159冊が

同大学付属図書館書庫に移管された。解放後は国立

ソウル大学校中央図書館の所管となり、分離独立し

て今のソウル大学校奎章閣にいたる(*キム・ムンシ

ク他『奎章閣 ─その歴史と文化の再発見─』ソウル

大学校出版文化院、2009年を参照)。

 一方、高宗は地位が落ちた奎章閣の機能を取り戻

- 23 -

高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関する研究

Page 13: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

す帝室図書館の建立のため、1909年から散在されて

いる典籍を集めさせた。これらを仁壽館に集め、奎章

閣に代わる新しい書庫を建立しようとしたが、1910年

の「韓国併合」で一時中断された。李王職は1915年

新しい書庫を建て初め、1918年に藏書閣が完成され

た。1935年10月に第 4 次藏書目録『李王家藏書閣古

図書目録』(李王職)が刊行されている。解放後、旧

王宮事務庁に改編され、韓国戦争の中、貴重本の一

部が逸失されたが、1955年昌慶苑事務所などを経て、

1981年大統領令により韓国精神文化研究院(現韓国

学中央研究院)に移され今に至っている(*《藏書

閣の歴史と資料的特性》、韓国精神文化研究院、1996

年を参照)。

10 *朴光賢〈京城帝大‘朝鮮語学朝鮮文学’講座 研究

─高橋亨を中心に〉、韓国語文学研究学会《韓国語文

学研究》41、2003年 8 月、345‒347頁。

11 例えば、*《オヌレ東洋思想》(13号、2005年秋・冬

号、芸文書院)は特集「解放60周年、我々の中の植

民地韓国哲学」が設けられており、以下のように八つ

の論文全てが高橋に関わる論考となっている。

チェ・ヨンソン〈高橋亨の韓国儒学観批判〉

イ・ヒョンソン〈高橋亨の朝鮮性理学研究影響と

新しい模索〉

パク・ホンシク〈高橋亨の朝鮮陽明学研究に対す

る批判小考〉

キム・キジュ〈高橋亨の朝鮮儒学観に対する批判

と代案的論議〉

イ・サンホ〈高等学校倫理教科書に表われた高橋

亨の影響〉

イ・ソンファン〈朝鮮総督府の支配政策と高橋亨〉

コ・ヒタク〈高橋亨の朝鮮思想史論の両面性〉

ホン・ウォンシク〈張志淵と高橋亨の‘儒者・儒学

者 不二・不一’論争〉

 上記の論文名で「批判」、「両面性」、「代案」が目

立っているように、高橋の儒学観については、厳しく

批判されている。ただこのような批判の背景には、権

純哲が指摘するように「彼の研究によって歪められて

韓国思想像を克服し、民族の自主的な思想像を構築

しなければならないといった解放後の韓国思想史学

界の同時代的課題があったことは留意すべきであろ

う」(権純哲、前掲論文、1997年、73‒74頁)。

 それと共に留意すべきことは、高橋の朝鮮儒学観

が必ずしも一貫したものではなく、時局によって変化

を見せているところである。井上の指摘する通り、高

橋は初めは李退渓を評価していなかったが、日中戦

争後、その評価が一変し、朝鮮人も国家総動員体制

に参画させるべく、李退渓評価を高めようとした。そ

こには「植民地朝鮮人の同化」や「改造」、すなわち

「半島士人の魂を根本的に救ふ良薬」としてとらえて

いたことは明らかである(井上厚志「近代日本におけ

る李退渓研究の系譜学」、島根県立大学総合政策学会

『総合政策論叢』第18号、2010年 2 月、76‒77頁)。

12 高橋と朝鮮仏教については、川瀬貴也『植民地朝鮮

の宗教と学知─帝国日本の眼差しの構築』(青弓社、

2009年)の「『朝鮮人』『朝鮮宗教』『朝鮮仏教』への

眼差し ─高橋亨を中心に─」を参照。朝鮮文学研究

については、*朴光賢の前掲論文を参照。

13 京城帝国大学教授時代、同僚らと共に高橋から朝鮮

語を教えてもらった高木市之助は「(高橋さんは)半

生を朝鮮教育に尽していた人で、特に朝鮮語の会話

が堪能で、高等普通学校長時代には生徒むけの校長

訓辞などは一切日本語を使わなかったというからたい

したものです」(『国文学五十年』岩波書店、1967年、

145頁)と回想している。

14 崔仁鶴『韓国昔話の研究 ─その理論とタイプインデッ

クス─』弘文堂、1976年、13‒14頁。

15 それぞれの論者の研究の中で代表的なものだけを紹

介しておきたい。

*金容儀〈民譚のイデオロギー的性格〉、中央大学日

本研究所《日本研究》14、1999年。

*大竹聖美〈「朝鮮童話」と虎 ─近代日本人の「朝鮮

童話」認識─〉(《童話と翻訳》5 輯、2003年)。

西岡健治「高橋仏焉/高橋亨の『春香伝』」『福岡県

立大学人間社会学部紀要』第14巻第 1 号、2005年。

*金歡姬〈〈きこりと仙女〉と日本〈羽衣〉説話の比較

研究が持っている問題点と可能性〉、《冽上古典研究》

26輯、2007年。

16 *金容儀、前掲論文、314頁。

17 *金歡姬、前掲論文、92頁。

18 権赫来による植民地期説話資料集に関する一連の研

- 24 -

学校教育学研究論集 第24号 (2011年10月)

Page 14: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

究には次のものがある。

*〈朝鮮総督府の『朝鮮童話集』(1924)の性格と意

義〉、《童話と翻訳》5 輯、2003年。

*〈昔語り、童話で書くことと朴英晩《朝鮮伝来童話

集》〉、《童話と翻訳》10輯、2005年12月。

*〈高橋本〈春香伝〉の特徴と意義〉、《古小説研究》

24、2007年。

*〈日帝下『興夫伝』の伝来童話化作業に対する考

察〉、《童話と翻訳》13輯、2007年 6 月。

*〈近代初期説話・古典小説集『朝鮮物語集』の性

格と文学史的意義〉、《韓国言語文学》64、2008年。

*〈日帝強占期虎・兎叙事の様相と文学教育〉、《温

知論叢》22輯、2009年。

*〈1920年代民譚の童話化と沈宜麟の《朝鮮童話大

集》〉、《民族文学史研究》39、2009年。

*〈解放以前三大伝来童話集の創作手法比較〉、《児

童文学評論》131、2009年夏。

19 *権赫来、前掲論文、2008年、224頁。

20 *権赫来、前掲論文、2008年、239‒240頁。

21 *高橋亨(朴美京訳)《高橋亨の朝鮮俗談集》語文学

社、2006年。俚諺のみが訳された。

22 *朴美京〈日本人の朝鮮民譚 研究考察〉(檀国大学

校日本学研究所《日本学研究》28輯、2009年 9 月、

79頁)。朴は、韓国俚諺に対する先行研究において、

高橋に対する検討がなかったことを指摘した上で、韓

国語訳と共にその内容を分析後、解放後の韓国学者

における高橋の強い影響について指摘しており、注目

に値する(前掲の朴美京による訳書の解説や、*〈高

橋亨の朝鮮俗談 研究考察〉(《日本文化学報》28、

2006年)を参照。

23 筆者の調査によると、日本語初の朝鮮説話集は、『暗

黒なる朝鮮』(日韓書房、1908年)に収録された「朝

鮮叢話」である。「朝鮮叢話」については、次の拙稿

を参照。*〈薄田斬雲と韓国説話集「朝鮮叢話」に

関する研究〉、《童話と翻訳》20輯、2010年。なお、

同じく日韓書房で刊行された『暗黒なる朝鮮』と『物

語集』であるが、『暗黒なる朝鮮』に収録された「朝

鮮叢話」は忘れ去られ、『物語集』のみが注目を浴び

ることとなる。

24 西岡健治、前掲論文、43頁。

25 *朴美京、前掲論文、2009年、77頁。

26 *曺喜雄、前掲論文、17頁。*権赫来、掲載論文、

2008年、233頁。

27 説話と俚諺の関わりについては、曺喜雄の研究を参

照(*《増補改正版韓国説話の類型》一潮閣、1996

年、67頁)。

28 高橋亨『朝鮮の物語集』日韓書房、1910年、1 頁。以

下の引用はページのみを記す。

29 西岡健治、前掲論文、44頁。

30 *権赫来〈高橋本〈春香伝〉の特徴と意義〉、《古小

説研究》24、2007年、381頁。

31 西岡健治、前掲論文、49頁。

32 田中梅吉、金声律訳『朝鮮説話文学 興夫伝』1929

年、大阪屋号書店、10‒12頁。底本は《흥부젼(フン

ブジョン)》(新文館、1913年)を使っている。また、

「序」によると、本書は崔南善から翻訳することを

「快諾」され、「また本伝に就ても予は指教を仰いだこ

ともある。それらの点に就て氏に深く感銘の意を表し

たい」(7 頁)となっており、田中は、崔南善とも交

流があったことがわかる。なお、先行研究では見落と

されてきたが、田中は朝鮮総督府刊行の『朝鮮童話

集』(大阪屋号書店、1924年)の編者でもある。『朝

鮮童話集』には25話が収録されているが、最後の25

番目には「ノルブと興夫」が収録されている。筆者

が確認したところ、「ノルブと興夫」の内容は、1929

年の翻訳版のあらすじである。田中については次の論

文を参照。拙稿「近代における朝鮮説話集の刊行と

その研究 ─田中梅吉の研究を手がかりにして─」(徐

禎完・増尾伸一郎編『アジア遊学138植民地朝鮮と帝

国日本』勉誠出版、2010年)。

33 また、高橋は1927年、新潮社の『日本文学講座』第

12巻に「朝鮮文学研究 ─朝鮮の小説─」を載せてお

り、古小説として「最民衆的な春香伝と、私の最好

きな沈青伝と洪吉童伝」(23頁)を取り上げているが、

「興夫伝」は入っていない。

34 高橋亨「韓国の俚諺 ─京城地方の俚諺一般─」、『帝

国文学』16巻 8 号、1910年 8 月、65頁。

35 権純哲、前掲論文、109頁。

36 *具仁謨〈解題『朝鮮人』と高橋亨の朝鮮研究〉(高

橋亨、具仁謨訳《植民地朝鮮人を論ずる》東国大学

- 25 -

高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関する研究

Page 15: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

校出版部、2010年、163頁)。

37 高橋亨『朝鮮の俚諺集』日韓書房、1914年、2‒3 頁。

38 川瀬貴也『植民地朝鮮の宗教と学知 ─帝国日本の眼

差しの構築─』青弓社、2009年、170頁。

39 また、油印本での「日本若シ陸続キニ在リナハ朝鮮

ハ古来日本ノ属国タリシナラム」という属国表現がな

くなり、1917年本は「日本若し陸続に在りせば形勢

に於て大なる変化を見しこと勿論なり」( 4 頁)となっ

ている。そして、朝鮮王朝の「党争」の期間が油印

本(13頁)では300年となっていたものが、1917年本

(16頁)では200年となっているなど、油印本に比べ

て1917年本は批判の水位が一部緩和されている。

40 高橋亨述『朝鮮人特性之研究』(油印本)1915年 5 月

11日稿了、66頁。

41 高橋亨「朝鮮人」、『日本社会学院年報』(第四年三、

四、五合冊、1917年 6 月)、67頁。朝鮮総督府学務局

『朝鮮人』1920年、61頁。

42 高橋亨「朝鮮事情(風俗習慣)」、朝鮮総督府内務部

学務局『大正四年十一月 公立普通学校教員 講習会

講演集』1915年12月、313頁。以下の引用はページの

みを記す。

43 油印本の 2 頁、1917年本の 3 頁。1920年本の 2 頁。

44 油印本の13頁、1917年本の16‒17頁。1920年本の12

頁。

45 *朴美京、前掲論文、2006年、457頁。

46 *朴美京、470頁。

47 *朴美京、454頁。

48 「瘤取」をめぐるイデオロギー性については、*金容

儀《瘤取り爺と内鮮一体》(全南大学校出版部、2011

年)と金宗大(南根祐訳)『トケビ 韓国妖怪考』(歴

史民俗博物館振興会、2003年)を参照。

49 高橋亨「日韓両語語法の酷似せる一例」、『朝鮮』4‒

6、1910年 2 月、朝鮮雑誌社、39頁。

50 日韓比較説話学の展開については、次を参照。

石井正己「郷土研究と出雲 ─清水兵三と高木敏雄・

柳田国男─」(山陰民俗学会『山陰民俗研究』14、

2009年)。

増尾伸一郎「孫晋泰と柳田國男 ─説話の比較研究の

方法をめぐって─」(説話文学会『説話文学研究』45

号、2010年)。

飯倉照平編「南方熊楠・高木敏雄往復書簡」『熊楠研

究』第 5 号、2003年 3 月。

小峯和明「南方熊楠・東アジアへのまなざし」(田村

義也・松居竜五編『南方熊楠とアジア』勉誠出版、

2011年)。

*拙稿〈清水兵三の朝鮮民謡・説話論に対する考察〉

《温知論叢》28輯、2011年など。

- 26 -

学校教育学研究論集 第24号 (2011年10月)

Page 16: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

A study on the theory of Koreans in Toru Takahashi’s “Chosen-no-Monogatari-shu”

Kwangsik KIM*

In modern Korea, “Solhwa” is used as a generic term of myth, legend and folktale, and the concept of “Solhwa” has been established by trichotomy. But on the formation of Korean folktale in colonial period, Toru Takahashi (1878-1967) had a considerable influence as much as early folklore around Toshio Takagi. Takahashi published “Chosen-no-Monogatari-shu (The collection of Korean stories)” (1910), and it was evaluated as pioneering collection.

Takahashi’s research for material and the formation of “The theory of Koreans” had overlapped and been mutual supplementation in his work. That is to say, his theory of

Koreans affected the description of “Chosen-no-Monogatari-shu”, and he formed the theory of Koreans through the research for material. I therefore analyzed the text in his collection and considered how Koreans had been represented.

Key words Folktale (Solhwa), Proverb, Toru Takahashi, Chosen-no-

Monogatari-shu (the collection of Korean stories), The theory of Koreans

*Division of Human and Social Science Education

- 27 -

Page 17: 高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関す …果養成せしめられたる暗き性質をば善政と優秀民族の感 化とに依りて洗除して以て日本人に同化すると同時に民

高橋亨の『朝鮮の物語集』における朝鮮人論に関する研究

金     広  植*

今の韓国では、神話・伝説・民譚の総称として「ソルファ(説話)」というタームが用いられ、三分法に基づく説話概念が定着している。しかし、植民地期における朝鮮の説話概念の成立には、高木敏雄らの初期民俗学の影響とともに、高橋亨(1878 ~ 1967)の影響に負うところが大きい。高橋は『朝鮮の物語集』(1910年)を刊行したが、それは先駆的な資料集として位置付けられてきた。

高橋の資料採集は、彼の朝鮮人論の形成過程と重なっており、相互補完的な関係にあった。つまり、高橋の朝鮮人論が『朝鮮の物語集』の叙述に一定の影響を与え、

一方では資料採集の過程を通じて、彼の朝鮮人論を形作っていったと思われる。そこで筆者は、高橋の資料集を分析し、その中に朝鮮人が如何に表象されたのかを考察した。

Key words 説話(ソルファ),俚諺,高橋亨,『朝鮮の物語集』,朝鮮人論

 *社会系教育講座

- 28 -