ジェーンズ - 熊本学園大学judy/janes/kaiho2011.pdf中原淳蔵と熊本洋学校...

1
abc abc L R 宿2009 - 調- 西稿姿

Upload: others

Post on 25-Dec-2019

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: ジェーンズ - 熊本学園大学judy/janes/kaiho2011.pdf中原淳蔵と熊本洋学校 (その二) 岩洋学校でのジェーンズの教育 井 善 太 (熊本大学名誉教授、県立技術短大校長)

中原淳蔵と熊本洋学校(その二)

洋学校でのジェーンズの教育

        

     

(熊本大学名誉教授、県立技術短大校長)

三.英語での勉学

 

さて、洋学校では当初通訳を付けて講義をする

予定であった。しかし、ジェーンズはそれを断り、

全てを英語で講義することとした。しかし、その

ためには、学生にまず英語を教えねばならなかっ

た。その結果、a

bc

を知らない日本人が、日本語

を全く話さない外国人から英語を習うという真剣

ながら滑稽な授業が始まった。最初に黒板にa

bc

を書き、それを指さして教師がエーといえば、生

徒一同がそれに呼応してエーという形で二日ばか

りで二十六文字を覚えたが、発音が難しく、例え

ばL

とR

は特に難しかったという。「教師が口で

エルと教え、生徒の応じたるをノットエルと訂正

すれば生徒も異口同音にノットエルとまねるな

ど、今にして思えば教師の苦心も察せられるので

ある。」、と中原は述べている。

 

しかし、学生たちの英語の上達は目覚ましかっ

た。その後の英語はスペリングブックより出発し

て上級読本、英作文と進み、文系科目では、万国

地理、歴史、英文学、科学の方では、算術、代数、

幾何、三角法、物理、化学、生理、などをスチー

ル氏の十四週間教科書などを用いて修了したとあ

る。「かくして三年間で、教師の談話もわかりま

た簡易の会話作文は差し支えなく小説を読んでほ

ぼ解するまでに進みたるは、全くゼーンズ氏教育

の力による」、と中原は語っている。なお、中原

の英語学習力は優秀で明治五年六月の明治天皇熊

本行幸の折、洋学校にも臨幸されたが、その時中

原は、阿蘇の市原大次郎(武正)とともに御前で

英語読本の暗唱を行っている。

四.ジェーンズの教育

 

中原は、後年、工学教育の道に携わっただけに、

ジェーンズの教育法については、冷静な分析と評

価を行っている。彼は、ジェーンズの教授法の概

要を以下のように四項目にまとめている。

(1)予習すなわち自習を専一とし、教室では予

習結果を教師に示して、訂正のみ受ける。

(2)科学の科目に関しては、教科書にある問題

の解答をあらかじめ行っておき、教師の問を待っ

て、口答、あるいは黒板での筆答を示すだけであ

る。

(3)上級生が交代で下級生を自分が習ったよう

に教える。教師は、教室を見回って監督指導を行

うだけである。

(4)授業時間は午前、午後で各三時間以内。科

目は文学科(エシック)、科学科{サイエンス}

に大別。それぞれについて単進とし、なるべく併

進を避ける。例えば、エシックでは読本、地理、

歴史など順次に学ぶ。また、サイエンスでは、数、

物、化学、生理など順を追って進めるということ

である。

 

ジェーンズが、多くの科目を多くの学生に一人

で教えたその仕組みがよく解る。そのほかの授業

の進め方の特長としては、

(5)定期試験、学年試験はなし。

(6)授業中口頭試問を課す。方法は席順に起立

させ、生徒に順次答えさせ、正否によって席替を

行う。

がある。(6)に関してはこれまでよく知られて

いるが、中原はこれに批判的で「今日より見れば

実に児童の競争心を激発して教育上弊害あるを免

れざるべきも、教師の弁が一言も解らない初年級

を激励するにはやむを得ぬ一方法と云うべきか」

と述べている。ただ、生徒が進歩してきたときに

は、前記の試問法に代えて宿題をだし答案を提出

させた。従って三年生では、席次と席順をはっき

り対応させることはなかったという。(以下次号)

写真は熊本高等工業学校校長時代の中原、前列中央

(磯田桂史氏:熊本大学博士論文2

009

より)

ジェーンズを招いた横井大平

  

-

アメリカでの現地調査から-

      

西 

忠温(元崇城大学教授)

昨年の大晦日にいみじくもジェーンズ邸の熊

本城域への移築が報道された。洋学校創設の源流

は幕末の開明思想家・小楠横井平四郎にありと考

えている筆者は秋に京都大での日本英学史会出席

を機に南禅寺天授庵の横井家墓所を再訪した。

 

本稿の主題である大平(たいへい)は小楠の兄

時明の次男、母清子は筆者故郷葦北郡津奈木町徳

永家の出身で長男は左平太である。大平は熊本市

京町の往生院に、左平太夫妻と清子は東京上野の

谷中霊園に眠っていて、ここへも二度墓参した。

父時明が早く

亡くなったた

め兄弟は小楠

の養子となっ

て可愛いがら

れ、江戸や福

井で修行して

いたが一八六四年(元治元

年)来熊した坂本龍馬に託

されて勝海舟の塾生となり、

次いで神戸海軍操練所に入所した。実は当時撮っ

たと思われる写真を昭和五六年頃市内で催された

小楠展で見た記憶がある。椅子に座り刀を斜めに

構えた、正装した海舟の後に海軍練習生姿の兄弟

が立っている四つ切りサイズの立派なものであっ

たがその後行方不明になっている。市文化財課、

小楠記念館、提供者の横井和子氏にも所在が分ら

ない由。どなたかご教示願えれば幸いである。

 

横井兄弟はその後長崎の外国人教師フルベッキ

の語学所で英語を専修していたが満足できなかっ

た。その経緯は小楠宛書簡に詳しい。やがて洋学

を本格的に修得するにはマタルス(水夫)となっ

てでも洋行する以外ないとの結論に達し、ニュー

ヨーク市オランダ改革派教会本部主事フェリス宛

のフルベッキ紹介状を懐にインド洋を経て出立す

ることになる。費用は内藤泰吉ら社中と徳富家が

金策に奔走した。フルベッキ直筆の書状は兄弟が

留学したラトガース大学(グラマースクール)に

所蔵されていた。六六年六月一〇日付の短い英文

であった。当時は海外渡航が許されていなかった

ため藩主の内諾を得ての密出国で兄は伊勢佐太

郎、弟は沼川三郎と変名を用いた。小楠からかの

有名な送別の詩を贈られた兄弟は「万一生命不幸

なりと雖も二人のうち一人は帰国して国の役に立

ちたい」との決死の覚悟で長崎から三本マストの

商船で出航した。

途中暴風雨に遭い、修理をしながら同年一一月下

旬ニューヨークに着いた横井兄弟はフェリスに面

会し「航海術を修め、大型船の建造法と大砲の製

造を学び、ヨーロッパ列強の日本侵略を防ぎたい」

と養父の海軍立国の強い意思を伝えた。この面談

の英文記録も残っている。左平太はその後新政府

の斡旋でアナポリス海軍兵学校に入校、大平は学

業半ばで肺を病み、六九年六月二一日帰国の途に

ついた。

 

水俣市立蘇峰記念館で三〇年ほど前、左平太ら

三名の熊本藩アメリカ留学生連署の元田永孚ら宛

て報告書(七十年一月付)写しを発見したが、そ

の中ですでに洋学校設立の必要性が説かれてい

る。大平は留学体験から先輩の素志を実現すべく

帰国後藩庁に建言し、病身を押して野々口為志と

上京、大学南校にいたフルベッキと交渉して

キャップテン・ジェーンズの招聘に至ったのであ

る。しかし明治四年(七十一年)、九月の開校を

待たずして四月大平は他界し、兄も八年十月後を

追った。(ちなみに兄弟は我国初の官費海外留学

生となった。)

ジェーンズ平成二十三年一月十一日 

第2号