ドイツ社会民主党と自由労働組合-組織統合過程にお url...

26
Meiji University Title �-�- Author(s) �,Citation �, 28(3): 81-105 URL http://hdl.handle.net/10291/10255 Rights Issue Date 1959-01-10 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

Upload: others

Post on 25-Jan-2021

3 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • Meiji University

     

    Titleドイツ社会民主党と自由労働組合-組織統合過程にお

    ける改良主義の擡頭-

    Author(s) 西尾,孝明

    Citation 政經論叢, 28(3): 81-105

    URL http://hdl.handle.net/10291/10255

    Rights

    Issue Date 1959-01-10

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    1組織統合過程における改良主義の擾頭1

    (407)

    西

    ドイツ社会民主党と自由労働組合

        目   次

    一 ドイツ労働運動の指導方針をめぐる社会民主党と組合との対立

    二 組織統合過程における自由労働組合の変質

     ω 組合主義の形成と総委員会の成立

     ② 社会民主党の反攻と総委員会指導体制の確立

     ㈲ 組合主義の確立と組合官僚の政治的進出

    三組織過程におけるバイエルソ社会民主党

     あ と が き

    一 ドイツ労働運動の指導方針をめぐる社会民主党と組合との対立

     二十世紀初頭プロイセソ、ザクセソなどの諸邦国で行われていた三級選挙制度は、労働者がその代表を邦議会に送るこ

    とを阻む頑迷な濾過装置であった。この制度は、納税額に応じて選挙権者を三級に分け、各級ごとに同数の選挙人を選出

    し、それらの選挙人が議員を選出する間接選挙制であるが、各級の構成員数に極めて大きな隔差があった為、納税額の少

    81

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    ない労働者階級がその代表を邦議会に送ることはまことに困難であった。例えば、一九〇〇年の選挙に於いて最多票を獲

    得したプ戸イセソの社会民主党は、約四〇〇議席中の僅か七議席を与えられたに過ぎず、また一九〇三年の選挙に於いて

    三二四一五七票を得た保守政党は、一四三議席を占めたのに対し、三一四一四九票を得たプロイセソ社会民主党は、議席

             (1)

    ○と言う有様であつた。

     一方、リープクネヒトによって「絶対主義の為の無果花の葉」句Φ一σq①づぴ『耳建邑αΦ昌bげω9¢郎ω巳と呼ばれたドイツ帝

      (2)

    国議会菊①冒げω3四は、議員が普通選挙によって全国民から選出される点で、当時のドイツに於いては最も民主的な機関

    であったが、それすらもユソカー”ブルジョア専制を正当化する暴虐な抑圧装置でしかなく、皇帝、帝国宰相、内閣、連

    邦参議院切燐pα①巽讐に次ぐ第五の車9Φ籠9奢げΦ巴に過ぎなかったのである。議会の主要な権限である予算案の審議

    権も、種々の操作によって名目化され、連邦参議院と邦議会とによって上下からその権限を抑制されていたので、実質的

                       (3)

    にはその権能を発揮することは困難であった。

     ドイツ帝国の支配構造が此のように専制的であり、民主的な諸権利を獲得せんとするドイツ勢働者のミニマムな要求す

    らも、巨大な障壁との死闘を余儀なくされたから、当時のドイツ労働者階級は当然に急進化した。

     一九〇五年イエナで行われたドイッ社会民主党(SPD)大会の決議文は、次のように述べている。

     「党大会はつぎのよ到に声明する。普通、平等、直接、無記名の選挙権または結社権がおかされたばあいには、全労働

     者階級はこれをまもるためのすべての手段をとる義務をもっている。本大会は、個々のばあいに、労働者階級にたいす

     るこの種の犯罪行為に反撃をくわえるための、またプロレタリアートの基本的な権利をたたかいとりプロレタリアート

    82(408)

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

     を解放するための、いちぽん有力な闘争手段の一つは、大衆的なゼネラル・ストライキを広範に採用ナることである、

     と考える。

      ストライキは、防禦のばあい、つまりブルジョアジーからの攻撃をうけたばあいにばかりではなく、労働者が攻撃を

                        (4)

     くわえるばあいにさえも、これを利用しうる」

     この決議文はドイツ労働運動の前述した急進化への可能性が、第一次戸シア革命の勃発によって鼓舞され激成されて顕

    在化したことを物語っている。同年十二月に行われたザクセソの普通選挙権要求デモや、ハソブルグの三級選挙制度反対

    ストは、政治的攻撃目標へと誘導されたドイツ労働者のエネルギーの噴出であった。それにも拘らず、由来SPD系の組

    合であった自由労働組合閃8δ○①≦Φ蒔ω喜母8⇒は、イエナ党大会から僅か三ヵ月後の同年十二月、ケルソで行われた組

    合大会で、

     「大会は、政治的大衆ストライキの宣伝によって一定の戦術をうちだそうとするいっさいの試みを排撃する。.大会は、

    組織労働者にたいし、・の種の試みに精力的に抵抗するよう勧告す鉛

    と述べて党大会の決議した大衆ストの戦術化を排撃した。翌一、九〇六年、マソハイムで行われたドイツ社会民主党大会

    が、党と組合とのこのような労働運動指導方針の背馳を、両組織の対等性を確認する形で妥協的に収拾し、爾後党が政治

    的大衆ストを動員したい場合には、労働組合総委員会○①⇔Φ雷涛o目巳δωδづの承認を要することを決議したことは、既に

            (6)

    旧稿で述べておいた。組合はSPDの政治主義を麦援できなかったのである。

    ;ハイ・党大会の前述の繋は、「党に対する労働組合官僚の完全な騎」を意味するとワルンケは述べ麓事実そ

    (409)83

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    れは、労働運動の政治化を意図したSPD左派に対するく中立V主義的組合官僚の勝利であったが、夫々に機能こそ異る

    とは言え、本来同一の労働者階級を指導し究極の目標を同じくする党と組合とが、当時のドイツに於いて何故対立し、S

    PDは〈中立〉主義的な組合官僚に何故屈し怨ければならなかったのか。政治的大衆ストを党が指導するに当っては組合

    総委員会の承認を要すると言う前述のマンハイム党大会の決定は、総委員会の政治的〈中立〉主義”経済主義的な性格から

    考えるならぽ、実質的にはイエナ党大会の決議を空語化するものに他ならない。SPDが何故組合に対するこのような譲

    歩を行わなけれぽならたかったかは、重要な問題であろう。

     一九〇五年九月、ケルン組合大会を批判したレーニソは、次の如く述べている。

                                                       も  も

     「この大会では、マルクス主義の伝統とその影響がもっとも強いドイツでさえ、労働組合のなかにー注目せよ、社会

     も  も  も  も                               も  も  ヘ  ヘ  へ  も

     民主党系の労働組合のなかにー反社会主義的な傾向、イギリスの、すなわち、無条件にブルジョア的な精神に立った

    『純組A呈義』への傾票発展しつつあるレ」とが・も・ともは・きり暴露され飽

     引用文中レーニンに攻撃されている組合官僚は、労働運動の政治的領域を政党が担当し経済的領域を組合が担当して両

    組織間の対等性を保つべきであると言う二柱論ヨo℃已母ω9ΦoQを当時強力に主張して、労働運動を政治的攻撃目標

    へと誘導せんとしたSPDの方針を拒み、合法主義を物神化して組合独自の活動領域を経済主義に限局していた。

     しからば組合官僚の中立主義は如何にして形成されSPD左派の政治主義的組合指導を挫折させたのであろうか。

     当時のSPDがその理論とするマルキシズムの現実からの遊離によって党内に修正主義を拾頭せしめていたことは既に

                     (9)                   ρ

    旧稿でふれたのでここではくり返さない。前述したドイツ労働運動の指導方針をめぐるSPDと組合官僚との対立も、。S

    84(410)

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    PD内に於ける急進主義者と組合官僚と提携した(もしくは自らが組合系党員である)改良主義者との相剋に還元して、

    当然その濫膓を求めるべきであろう。組合の方針に対するSPDの前述の譲歩は、党内に於ける急進勢力の改良主義勢力

    に対する敗北を意味するものに他ならない。従って、本稿に於いては改良主義および修正主義の推進機関であった組合の

    集権的組織と、これとはパラドキシカルに集権化には反対しながらもローカリズムの主張において改良主義に傾斜した南

    ドイツの社会民主党との組織化0過程をそれぞれ辿りながら、マソハイム党大会に於いて決定的となったドイツ労働運動

    に対する統一的な指導の破綻が、何故現実化したかを以下に述べることとする。急進化する可能性が当然考えられなが

    ら、

    修正主義へと傾斜したドイツ社会主義の逆説は、上からの組織化の困難さを何よりも如実に物語るものであろう。

    軸改良主義と修正主義とは、前者が理想への実践段階における漸進主義であるのに対し、後者はマルキシズム理論そのものの修正を

    志向する点で概念的には区別される。実際の歴史事象を記述するに当って、両者を用語的に峻別することは至難であるが、用語の

    混乱を避ける為、本稿では可能な限り右の用語例にしたがうこととする。

    (1) 田器機口こO。<Φ旨目Φ暮ωo団○お9魯国霞。隔弩剛o屯Φ鋒Z①嶺団o葺お㎝ρや切゜。㊤゜

    (2)諺巳Φ鴇自P口9日B臼。吐α2》目9ωρN霞OΦω。90げ8α曾∪①三ω。冨づ》旨①穽Φ瞥Φ≦Φ゜q毒σqしo蒔゜。°ω゜置゜

    (3)乞實§目ψbξ8①き勺。盛。巴ω透聲Φ舞Φαび団○。H①』薯団。葺H邊も.卜。㊤。°

    (4) ジムイホフ、国際労働運動史、国民文庫 一七三頁。

    (5) ~<,吐づ犀Φ国こd「σΦ巳σ財o罵Oび①頃象ΦO①ωoぼoげ80①↓∪Φo什ωoげΦ旨O①毛Φ巳閃のoげ”津ωびΦ≦①σq¢づ堕卜o°>O自゜(ワルソケ、

      動小史、国民文庫四九頁)。

    (6) 拙稿、「ドイッ社会民主党における組織論の陥穽」政経論双、第二七巻第五号。

    (7) ワルソケ、晶削楊…書、五〇百ハ。.             .

    (8) レーニソ、レーニソ全集、第九巻、三〇五頁。

    (9)拙稿、前出。

    ドィッ労働運

    (411)85

  • ドィッ社会民主党と自由労働組合

           二 組織統合過程における自由労働組合の変質.

                   ■

             ① 組合主義の形成と総委員会の成立

     ドイツ労働組合運動の本流であるいわゆる《自由》労働組合は、一八穴○年代のはじめにSPDの源流である全ドイツ

    労働蕩会の組織拡充機習§葺σ・・§冨として創立された組合を・その議とす麓天七葦ゴータに於いてラ

    ッサール派とアイゼナッハ派とが合同しドイツ社会主義労働者党を形成したが、両派傘下の労働組合を合併せんとする試

                             (2)

    みは、ドイツ帝国政府の弾圧政策によって実現しなかった。マルクス主義的である点でヒルシ・ドウソカー労働組合やキ

    リスト教労働組合から区別される諸組合は、一八七五年三〇組尺口から成る○Φ≦Φ葺ωoげp漆くΦ吾ぎαΦを形成したが、当時の

    組合員は僅か五万人に過ぎず(一三〇〇地区)、その組織は全国的なものでなかったので、ドイツの政治生活に於けるそ

    の影響力は当時未だ少なかった。のみならず、一八七八年、ビスマルクの弾圧政策が地方組合間の連絡を禁止して以来、

    非合法主義によって労働運動は辛うじて維持される実情であった。従って、一八九〇年に社会主義鎮圧法が撤廃されたと

    き、いわゆる自由労働組合は各地に穴掘り主義的な孤立を続けて来た組合の総体に過ぎず、未統合でルーズな拠点の集合

    が此の組合の実態であった。

     ところで、社会主義鎮圧法の束縛をとかれた自由労働組合は、一八九〇年を起点としてその組織の統合と強化とに着手

    した。組A口が集権化を迫られる事態に直ちに直面したからである。同年メーデi示威行進を行ったハンブルグの労働者た

    ちは、ハンブルグ.アルトナ使用老団体の諸産業部門に及ぶ広汎なロック・アウト戦術によって応酬され、組合からの脱

    86(412)

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

                          (3)

    退を職場復帰の条件として強要されたのである。このような情勢にあって、諸産業労働者の指導的な中核であった金属労

    働者組合は、労働組合を全国組織に拡大強化し、全ドイッ労働者の団結によって労働者の権利を擁護すべく、全国組合会

    議とお①目①言①OΦ≦Φ時ω。冨hけ囚oほΦお自を招集した。この計画を推進した金属労働者たちが、SPDの信任者く興亨

    轟βΦpωBp菖であったこと、および彼等の構想した全国的組合組織が諸種の職種を包括する産業別連合体ぎα¢ω9①く①マ

    げぎαΦにあったことは注目に価する。組合が党の為のおo目巳鉱昌αqω邸ぎづであると考えていた彼等にとって、そのような

    全国組織は将来の活動を容易にするものと考えられた。全国組合会議は一八九〇年十一月ベルリンで行われた。産業別連

    合体を全国的組合組織の基礎たらしめんとする金属労働者の提案が、この会議に提出されたことは言う迄もない。

     ところで、前記の金属労働老の構想は此の会議で強力な反対にあい挫折するの止むなきに至った。彼等の信任者として

                                    

    の政治主義と、後に自由労働組合の官僚的な指導者となったレギーンの経済主義とが、ここで正面から対決した。政治的

                                              (4)

    な結びつきを持たない職業別組合連合体巳o耳冨巨Φ首oH三ω9σQ①ぴ’5Ω①⇒窪しd興鼠ω<Φ吾蝉巳①を全国的組合組織の基礎と

                     (5)

    することをレギーンは強硬に主張した。結局、会議は対立した構想の何れをも採用せず、代りに中央機関として総委員会

    を設立し、レギーンをその議長としたのである。総委員会議長として組合の〈中立〉化を強力に推進したその後のレギーソ

    の活躍を見るとき、この会議に於ける金属労働者との対決は、レギーンの実質的な勝利に終ったものと見ることが出来る。

      蔚レギーン(ぴ①σq冨昌O,菖HG。①H山露O)は西プロイセソのマリーンブルグで生れた。幼くして両親を失ったので孤児院に引取られ、

      指物師の仕事を習った。職人試験をうけた後、当時の習慣であったハソブルグへの修業旅行に出て、そこで輕轄熟練工組合U畦甲

      oげω冨翫90げくΦおぢとSPDとに入った。そして、彼は間もなく当時二千七百の組合員を擁する此の組合の議長となった。 一八九

      〇年自由労働組合総委員会議長となった彼にとって組合の中立化と集権化とによって、つまり、指導理念と組織構造との両面から

    (413)87

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    組合の自主的な発展をはかることは、いわばライフ・ワークであったのである。彼の親友でありまた彼の後をうけてドイツ総同盟

    議長となったライパルトは、レギ:ソの伝記の中で、

    「レギーソの大きな功績は、社会主義鎮圧法の撤廃された後のドイッ労働運動を再び自由に発展できるようにしたこと、および、

    組合の新しい発展に精神的にも組織の面でも方向と目標之を与えたことである」

         (6)

    と記述している。レギーソは一八九三年ー一八九八年、及び一九〇三年以後SPDの帝国議会議員であると同時に、自由労働組合の

    絶対的な指導者であったが、一九二〇年自由労働組合が再編されドイツ労働組合総同盟(ADGB)となるや、その議長となった。

     総委員会はレギーンを議長とする七人のSPD党員によって構成されていたが、此の委員会に対しては、個々の組合を

    企業家の攻撃から守る為に支援して全ドイツ労働者の団結をはかることや、未組織地域における労働組合の結成を指導す

    ることなどがその使命とされた。そして、このような使命を遂行する為に、全国組合会議の召集、組合員数及び財政状態

    に関する統計資料の作成、組合報Oo睡①巷o巳①嵩σす詳α①目○Φ昌Φ霊貯o日琶δ診§α興O①乏①葺ω。げ鋒8ロ∪Φ9ω9一四巳ω(以

                                               (7)

    下『コレスポソデンツ・ブラツト』と略称する)の発行などが総委員会の主管事項とされた。つまり、総委員会は全国的

    な規模における組合活動を統合的に指導し推進して行く権限を与えられたのである。

     総委員会をピラミツトの頂点とする自由労働組合の全国組織は、かくてその礎石の設定を終った。自由労働組合の傘下

                                           

    には、多くの組合連合体があったが、中央連合N①⇒ヰ巴くΦ吾壁αΦが最強であり、金属労働老組合、木材労働者組合、建

                                 (8)

    築労働者組合、鉱山労働者組合は中央連合の四大組合であった。

      ・レギーソは数年後に回顧して「地方の組合連合は自由労働組合が社会民主々義的でなければならないと望んだが、中央連合は先ず

       、、                               (9)

       より良い労件条件の獲得にその眼を向けていた」と述べている。この連合体は職業別組織と産業別組織とをその基礎としていた

      (10)

      が、SPD信任者グループの政治的な組合指導には終始反対していた。

    88(414)

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

     ここで注意すべきことは、自由労働組合の全国組織化が、統合的指導機関である総委員会の形成によって、組織の頂点

    から先ず推進されたこと、および、統合的な枠組の設定が地方組織相互間の連繋に先行したことである。永い抑圧政策の

    下に孤立していたドイツ各地の労働組A口は、その故にこそ全国組織に統合されることが必要であったのであるが、統合化

    が一挙に上からの枠組設定によって推進されたとき、末だ強力であった地方組合の分権主義が、このような統合化につい

    て行けなかったことは否定できない。全国組織の形成という課題の切実性は、上からの組織化をドイッ労働組合に余儀な

    くせしめたのである。

     さて、自由労働組合の集権化がこのような指導機関によってなされて行ったとき、既に述べたレギーソ的経済主義のS

    PD信任者グループ政治主義に対する勝利とレギーン的組合官僚による不動の指導体制の確立とによって、組合がその性

    格を大きく変貌させたことは注目に価する。一八九〇年の総委員会の成立を転機として、自由労働組合はSPDの為の組

    織拡充機関から労働者の経済的な地位の向上を目指す自主的〈中立〉的な組織へと再編され、一九〇〇年に至る迄にその

    性格を全く一変するに至ったのである。同年カウツキーは、労働組合は労働者のすべての利益を擁護すべきものであるか

    ら、組合は労働運動の全分野を指導すべきであると主張して組合のく中立V化を攻撃したが、此のような提案は組合官僚

               か 

    によって顧みられなかった。一八九一年十一月の総委員会の機関紙『コレスポンデソツ・ブラツト』は、組合員に与えた

    呼掛けの中で組A口と政治組織との間に明確な一線を引き、「労働者の政党が行っている政治活動と組合の任務との間に横

    たわる差違は、前者が現存社会秩序の改造を意図するのに反し、後者は現在の市民社会的な基盤に立ち合法的に努力する

                 お 

                                             

    ことの中にある」と述べている。翌一八九二年ハルバースタツトで行われた第一回組合大会において、レギーソは組合が

    C415)89

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

                                      (13)

    政党政治から中立でなけれぽならないと論じて地方組合員の激憤をうけた。SPDと組合との対等性を志向する二柱論が

    組合官僚の指導理念であったことは、既に第一章で述べた。しかしながら一九〇六年のマソハイム党大会によって、SP

    Dが正式に組合との対等性を容認させられる以前に、組合では二柱理論がα①貯90に現在化しつxあったのである。

      ・此の大会に於いて、総委員会は正式に代議員の承認をうけた。議事の中心は組合の組織に関する問題であった。討論は組合指導者

      と分権主義者との組合内における対立を反映して、組合を分権組織にすべきか集権組織にすべきかと言う問題と、さきのベルリン

      組合会議以来の懸案であった産業別組織と職業別組織の何れを組合の基礎とすべきかと言う問題とに集中された。レギーソは此の

      大会でも中央集権的職業別組織を組合の枠組とすべきことを主張した。労働運動を政治目標への指導しようとした地方組合員たち

      は、組合が経済主義によってSPDから独立することを容認しなかった。しかしながら、彼等の分権論は圧倒的な多数で否決さ

      れ、職業別組織か産業別組織かの問題は依然として未解決の儘この大会は終った。「経済の領域での戦いではきまり交句を述べた

      ところで仕方がない。全く現実的な実践があるだけだ」とレギーソは此の大会で述べているが、現実主義的な此の言葉の中に総委

                            (14)

      員会議長としての彼の自信は十分読みとれるであろう。

      一八九〇年代に於けるドイツ資本主義の急速な発達は、圧倒的な労働人口の噴出と都市への産業の集中を促したので、

    .集権主義と分権主義とをめぐる組合内部の角逐は、当然前者に幸いした。かくて、組合内部に於ける政治主義のバルチザ

    ソである信任者グループ、分権主義老、左派組合員などが、総委員会を頂点とするく中立V主義的組合官僚の前に抵抗力

    を次第に失い駆逐されて行くとき、自由労働組合はその標榜するく中立V主義u経済主義から離れて、実質的には右寄りの

    コースへと近接しつΣあったのである。

     こエで、集権的組合官僚による組合組織の拡大が、どの方向になされたかを見ておくことは必要であろう。組合官僚が

    経済主義を標榜したのも、SPDの革命主義を踏襲することが組合の組織化にとってはハンデキヤツプと考えられたから

    90(416)

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    に他ならない。組A.員数の多い.」とが組A。姦くすると言う素朴な組織論と経済主義とを組合幹部がと・ていた以縮.社

    会主義的でない労働者たりとも組合員となる資格を持たない訳ではなかったのである。また、反社会主義的な組合すら加

               (16)

    盟も許されたと雪.われる。自由労働組A。の組織拡大過程については後に第3節でふれるので、こ碁は総委員会の組合指

    導の方向のみを以上の如く指摘したにと父める。

    (-)ω9。誘冨PO程8きω。9一u①ヨ。。量q一8朝山日刈も゜り゜

    (2) ジムイホフ、前掲書、 一六七頁。

    (3) ω90諺犀ρ8°鼻こO°㊤゜

    (4)。”吐p.p担㍉巳①.①。①≦①吐。の。げ”。①二。N・9冠①§藝・巨ω藝・亀・奪a・・§ぎ曇…。:量司爵§σq

      O節臣目Φσq笛昌ω(目o◎㊤OiH⑩卜∂O)聰の゜詰゜

    (5)葭創二ω゜Ho°

    (6)舞8°

    (7)<。邑pβ鼻゜℃の.Hピ

    (8) ω昏o諺冨ヒo℃69叶二℃.Φ゜

    (9)ぎ§p8.。詳二ω゜目卜。°

    (10) ωoげo話貯ρ8°息けこや㊤゜

    (11) 皆峯℃PH9

    (12) <錠勘P8°島什こψ嵩゜・

    (13) ω90話吋ρoやo罫篭O°μHド・

    (14) <錠鉱Poやafω○っ゜詰-日ω゜

    (51)天空年、『コレスポソデソツ・ごフッ・・紙上で・ギンは・われわれの組禦大きくなること・そが・力なのだLと述

      べているが(<鍵巴PoΨo罫ヒψHH)このような発想は今日でも随所でみられる。

    (16) ○。畠o易吋ρo℃°98や旨゜

    (417)91

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

             ② 社会民主党の反攻と組合主義の確立

     既に述べた如く、自由労働組合は総委員会の形成によってその全国的な組織化の枠組を設定したが、その実質的な組織

    の統合は、予期されたような進捗を直ちには見せなかった。一八八九年-九〇年のドイツ経済の好況が間もなく中だるみ

    に入ったこともその一園であった。中央連合傘下の四大組合に数えられる鉱山労働者組合しu①お鍵ぴ鐸實くΦ吾器αの如き

    は、一八九〇年以来その組合員数を減少さぜた。一八九一年のハソブルグ煙草工組合のストライキは、惨胆たる敗北に終

    り、また同年から翌年にかけて行われた賃上げ闘争に於いて、組織の強力さを誇る印刷工組合しd琴げα笙爵①H<巽げ9口9も、

    成果をあげることなく敗退した。社会主義鎮圧法が撤廃されたら組合の組織力は強まるだろうと言うドイツ労働者の期待

    はみたされなかった。ところで、一八九〇年の帝国議会選挙に於いて、予算案の反対などで終始オポジシヨソの立場を一

    貫して来たSPDが、一八八七年選挙に於ける七六万三〇〇〇票(得票率10・1%)から一躍一四二万七〇〇〇票(得票

    発゜7%)を獲得すると言三大飛躍を芒遂げたこと魔組倉対するSPDの発言力を次楚強くした。馨員会

    の経済主義的組合指導に対する彼等のかねてからの不満は、こxに集中的に爆発した。一八九二年のハルバースタツト組

                                               ‘      (2)

    合大会における組合幹部の言動は、『フオルベルツ』を始めとするSPD系機関誌からの集中攻撃にさらされた。組合は

    政治的中立を保っべきであると言うレギーソの大会での発言は、党員達を痛憤させた。そして、翌一八九三年のケルソ党

    大会に於いて、SPDの組合批判は最高頂に達した。一八九〇年の総委員会の成立を機として組A口がSPDから離脱しつ

    つあることは既に重ねて警告されて来たところであったが、総委員会が対立組織をつくるのではないかと言う党員の懸念

    が・この党大会において公然と表明され総・ギ・は「組合は党の組織化をはかる為の学校」であり現代の市民社会

    92(418)

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    の下では組合組織は弥縫手段以外の何物でもないと組合運動の指導者に思い込ませてはならない一と此の党大会で述べ、

                                  (4)

    かxる組合が政党の上位を占める危険性はあり得ないと弁明したが、SPDがその党員の中に組合主義への内応軍を持っ

    ていたことが、結局この党大会における組合幹部の弾劾を制約した。彼等は二っの組織間の対立を精算して党員が積極的

    に組合に加入することをこの大会で力説しそれを義務づけんとしたが、かれらの提案は一六九対二九で否決され、組合に

                            (5)

    対する和解決議を此の党大会で採択せしめたのである。しかしながら、組合幹部の提案が否決されたことからも明らかな

                                                   

    ように、組合幹部弾劾の空気は此の党大会で支配的であった。 「ドイツ労働組合はゴソパースの小麦やその亜流の育つ畑

    ではない」とレギーソの組合主義をきめっけた党幹部1・アウアーは、レギーソの総委員会が満足な組合指導を行ってい

    ないと攻撃した。べーベルも亦組合活動が些事にのみ専念している為「主要な問題がその視野から失われ、水割りした援

    助のみがそこで行われている」と述べてこのような組合活動の将来を期待しなかった。「われわれは希望すれば組合に入

    ることが出来る。だが、クルップやシトウムがラインやウエストフアーレンの石炭鉄鋼地帯でドルトムント組合に対して

    持ったような絶大な権力を、資本家が略取したならぽ、組合では駄目なので政治闘争だけがそこでは役立っのだ」とべー

          (6)

    ベルは述べている。

    静ゴソパース(O。ヨ℃興ωωこ日゜。切o山⑩謹)はユダヤ人の子としてロソドソのスラム街に生れ、 一八六二年煙草製造工としてアメリカ

    に移住した。初めマルキシズムの信奉者であったが、アメリカの社会経済的な環境の下では、階級闘争理論に基づく労働運動が組

    織不可能であると考・兄て、一八八六年アメリカ最大の全国組合連合体であるアメリカ労働総同盟(AFL)を創立し、以来四十年

    の永きに亘ってその会長としての不動の地位を保った。本文で述べたようにドイツ自由労働組合が総委員会の下に統合されたのが

     一

    ェ九〇年であるから、この統合化がAFLの創立から影響をうけたことは想像に難くない。アウアーが「ゴソパースの小憂」と

    (419)93

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

      述べているのは.アメリヵをもじったものであろうσ

     かくて、総委員会に対する批判は組合の内外の到るところでたかまって行った。一八九六年ベルリソで行われた組合会

    議は、総委員会制度の存続を認むべきか否かと言う討議をその主要な議題としていた。総委員会廃止論の論拠とするとこ

    ろは、総委員会はその官僚的な指導によって組合の自由な発展を阻害しており、また下部組織である労働組合が自組合の

    ことで精一杯である現状では、そのような費用のかかる制度を維持できないと言うにあった。総委員会に対して三ケ月毎

                                                   (7)

    に組合員一名当り五ペニツヒを納入する負担は、当時の下部組合にとっては決して軽いものとは言えなかった。金属労働

    者組合の議長であるシリツケは、組合を強化する為に総委員会を解散すべきことを主張し、「総委員会は党幹部に対して

                                                     (8)

    敵対的な態度をとっており、組合運動は党幹部から目の上の瘤Uo導一巳》βσq①のように思われている」と述べた。しか

    しながら、「総委員会を廃止することは組合の分権化を主張することであり、個々の組合相互間の連繋を断っことだ」と

                                              (9)

    言うレギーンの総委員会擁護論が、遂に八六対四三で勝利を占め、総委員会の存続は決定された。総委員会を牙城とした

    組合主義は、かくてその危機を脱したのであるが、以後総委員会廃止論はもはや提案されることはなかった。総委員会指

    導体制が、組合主義を全国組織の中に確立して行くのである。

     (1) <鎚鉱poや9けこω゜置゜

     (2) ぴ岸堕ψ嵐゜

     (3)塗αこω」9

     (4)彦Ω‘ω゜H9

     (5)量山二ω゜§

    94(420)

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    (6)

    (7)

    (3)

    (9)

    第1表 労働争議の件数と参加人員(1892年一1899年)

    δ乙‘ω゜目9

    旨箆こω゜嵩。

    ま置こωω゜ミ山◎。°

    号置゜、ω゜日゜。°

        ⑤ 組合主義の確立と組合官僚の政治的進出

    、。諺

    500

    1898 /899葺1895ノ8

             年労謝樹馴参加人員

            1892  旨        73  1      3,022

                 1          2        1893  1       116  1      9,356

            ・8941 ・3・[ ・,328

          1 1895  1       2Q4  1     14,032

                            

          …1896[  4831 128・・808      1 1897  、        578  :     63,116

          E 1898  ,        985  ;     60,162

          1 1899  ’       976       100,779

    Kuczynski, Die Geschichte der Lage der Ar

    Deutschland 1871-1932, S.50

    beiter in

     一八九六年のベルリソ組合

    会議において確立された総委

    員会指導体制が、〈中立〉主義

    をその組織化のシンボルとし

    ていたことは既に第一節で述

    べた。

     長い経済不況の後に迎えた

    十九世紀の最後の五ヵ年は、

    ドイツ産業の急激…な発達と景

    気の上昇とを可能にした。か

    くて、賃銀や労件条件の改善

    を要求する労働争議は各地に

    (421)95

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    瀕発した。第一表は労働争議件数が一八九五年一九〇〇年に近づくに従つて鰻上りの上昇を見せたことを示している。こ

    のような情勢が経済主義を標榜するその組織方針と相侯って自由労働組合の組織化を助け’たことは言う迄もない。一八九

    第2表SPDと自由労働組合(FG)の組織化

    θ組合員数

    綿卿鰯・切飾卿細脚50

    /9/2年/9081904〆900f896f892

    (註) 1906年以前のSPD党員数は統計資料がなく不明である。本表は

       Berlau, The German Social Democratic Party 1914-1921,

       p,348 と Varain, Freie Gewerkschaften, Sozialdemokratie

       und Staat, S.36の統計から作成した。

    二年二二万七〇〇〇であった組合員は、一八九

    六年には三二万九〇〇〇と増加し、それから四

    年後の一九〇〇年には六九万と文字通り倍加

                       (ユ)

    し、一九〇四年には一〇〇万を超えるに至った。

    かくて社会民主党への投票者に対する自由労働

    組合組合員数の比率は、次第に後者の方に比重

    を増大し、8対1(一八九三年)、4対1(一八

    九八年)、3対1(一九〇三年)と組合の組織化

            (2)

    は進められて行った。(第二表参照)そして、組

    合員数の増加は当然に組合の財政状態の好転を

    もたらした。一八九三年『コレスポンデソツ・

    ブラット』が初めて公表した自由労働組合の財

    政は、収入二こ四万六〇〇〇マルク、支出二〇

    三万六〇〇〇マルクであったが、二〇年後の一

    96(422)

  • 九≡年には収入八二〇〇万五〇〇〇マルグ、畜詣九〇万五〇〇〇マル・と飛躍的な増九をとげ廊)このような財政

    規模の拡大を、組合員一人当りについて算出して見ると、一八九六年が一一・五三マルク(収入)と九・八六マルク(支

    出)であったのに比し、一九一三年には三二・一七吋、ルク(収入)二九二二九マルク(支出)と、これもまた約三倍に増

    加している。

    (423)

    ドイッ社会民主党と自由労働組合

    ・クチソスキーの掲げる次の資料によって、此の期間にさしたる経済変動がなかったことがうかがわれるので、

    増加は、ほぼ実際的な組合財産の増大に見あうものと看倣して差支えないであろう。

    第3表 生計費と実質賃銀

      (1900年=100)

    生計費

    99

    97

    96

    95

    94

    96

    実質賃銀

      92  93

      94  95  98  97

    96

    X9

    00

    X8

    X8

    X9

    O0

    X9

    X8

    O1

    O1

    O0

    X9

    X9

    X7

    O1

    1           1        1  1  1           1

    99

    X9

    O0

    O1

    O2

    O2

    O3

    O7

    P3

    P4

    P4

    P7

    Q0

    Q4

    R0

    R0

       1  1  1  1  1  1  1  1  1  1  1  1  1  1

     第4表組合費別に

    見た組合数

    92

    X3

    X4

    X5

    X6

    X7

    X8

    X9

    O0

    O1

    O2

    O3

    O4

    O5

    O6

    O7

    O8

    O9

    P0

    P1

    P2

    P3

    18

    P8

    P8

    P8

    P8

    P8

    P8

    P8

    P9

    P9

    P9

    P9

    P9

    P9

    P9

    P9

    P9

    P9

    P9

    P9

    P9

    P9

    組 合 費゜

    0441 20

    以F

    20 「

    30i

    30

    40

    @40 50 50以上

    九八一九年.年

    32

    17

    214

    025

    (単位ペニツヒ)

    Kuczynski, oP. cit., S.96.

    本文に掲げた数字の

    組合費の引上げが行われたことも組

    合の財政状態を豊かにした原因であ

    る。この期間に多くの労働組合が組

    合費を引上げたことは第四表が物語

    る。(ジムイホフ、前掲書一七八頁)

    97

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

     自由労働組合の組合員と財政とがこのように強化されたことは、自由労働組合がドイツ労働者階級に対してSPDとは

    もはや比較し得ない程の影響力をもつに至ったことを物語ろう。組織規模からするならば、SPDの組合に対する劣勢は

    明白であった。例えば、一九〇七年自由労働組合は一七〇万近い組合員と三三〇〇万マルクに及ぶ財産を持っていたが、

                                   (4)

    同年SPDは五三万の党員と=二六万マルクの財産とを有したに過ぎない。組合官僚がSPDの中でその影響力を増大し

    始めたのは、

    第5表帝国議会への組合系議員の進出

    靴醐懸鷺聰そ規D数

    P席s

      一

    帝選

    このような組合組織の背景があったからに他ならない。第五表は一八九三年から一九一二年に至る迄の五回

       ー,ー-一  の帝国議会選挙に於いて、組合系議員が着実にSPDへの影響力を強化して行ったこ

    。6

    ?x』」一

    11

    Q1

    Q3

    Q9

    R2

    5

    12

    P9

    P3

    R6

    43

    T6

    W1

    S4

    110

    国議会

      挙

    1893年

    1898年

    1903年

    1907年

    1912年

    Varain, op. cit., S.45.

    とを顕著に物語っている。SPD議員の中で占める組合系議員の比率が、

    の11・6%から、21・4%(一八九八年)23・5%(一九〇三年)29・5%(一九〇

    七年)32・7%(一九一二年)と選挙毎に上昇していることは、此の段階における自由

    労働組合がSPD議員となる為の強力な地盤として機能しつつあったことを示すもの

    に他ならない。組合指導者であったレギーンやR・シュミットは、一九〇三年以降確

               (5)     ,

         マンダ ト

    実に議員に委任されている。その揺笙期に於いてSPDの為の組織拡充機関であった

    自由労働組合が、SPDへの従属体制をたちきりその集権的な組織を確立するに至る

    過程に於いて、〈中立〉主義・経済主義をその組織化のシソボルとしたことは、既に見

    て来たが、その組織が確立すると共に組合幹部が政治的分野への進出を公然と開始す

    るに至ったことは、果して何を物語るものであろうか。彼等の標榜した〈中立〉主義

    一八九三年

    98(424)

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    が、文字通りの政治的中立を志向するものではなく、改良主義の別名でしかなかったことは、ここで指摘されておかなけ

    ればならない。

     一九〇五年のイエナ党大会における大衆ストの戦術化を、SPDとの対等性を主張して拒絶した同年のケルソ組合大会

    の決定は、党内のラデイカリストに対する改良主義組合官僚の勝利であり、翌一九〇穴年のマソハイム党大会における党

    と組合との対等性の確認は、党内部からの改良主義的組合官僚の切り崩しにSPD左派が屈した結果と見られよう。イエ

    ナ党大会からマソハイム党大会に至る迄の情勢の推移については既に旧稿で述べたからここでは繰返さないが、自由労働

    組合に於ける改良主義官僚群の拾頭は、急進化の可能性の考えられるドイツ労働組合に於いてすら顕著であったのであ

    り、社会主義勢力の分裂を不可避にしていた。ドイッ資本主義の構造的変化とドイッ労働老の経済的な地位の向上乏が、

    SPD左派の理論としていたマルキシズムを、組織化のシンボルとしては機能しない迄に空語化していたことが、このよ

    うな分裂をドイツ社会主義にもたらしたと言えよう。自由労働組合総委員会がその集権的な官僚組織によってドイッ労働

    者を改良主義へと牽引して行ったとき、SPD左派系の下部組合はそのような指導に対してどのように抵抗したであろう

    か。ドイツ各地のSPDと組合との下部組合についてその実態を見ることは必要であるが、あとがきで述べるような資料

    の制約によって本稿ではとり上げえなかった。組合との比較的な視座から、本稿ではドイツ改良主義のもう一つの牙城で

    ある南ドイッの社会民主党の組織過程を、同じ時期に区切って併せて見ておくことにしたい。

    (1) く帥畦巴Po℃°o詳゜GQ°ω①゜

      自由労働組合の組合員数については研究書の聞に若干数字のくいちがいがある。例えば、》昌αΦ諺oP缶,ヨ日興oaΦ吐》日ぴoωρ

    (425)99

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

     9H刈・は天空年二夫○○○へ一九〇〇箕八〇〇〇〇人、記述してお低また。。イ。。璽則漿口一七七頁は天九一。・

     年二七七〇〇〇人、一九〇〇年六八〇〇〇〇人、一九〇五年二二四四〇〇〇人と記述している。細かい数字の正確は期し難い ー

     が、此の期間における組織化の急速であったことだけは、十分うかが・兄よう。

    (2)ω9。脱ω冨℃8°鼻二〇」。。°

    (3) <錠讐Po唱゜o罫ω゜ω㎝゜

    (4)彦α‘Qっ.ωs

    (5)量α‘ω「窟゜

    三 組織過程におけるバイエルソ社会民主党

     中部及び北部に比して産業化の遅れた南ドイツに於いては、SPDは明確な階級闘争理論をその組織化のシソボルとす

    ることが出来なかった。この地方が農業地帯であり、従って都市労働者がこの地方に少なかったことは、独立農民と小作

                                   (1)

    層の利益を擁護して先ず彼等を掌握することを、SPDに余儀なくした。ここに、南独社会民主党が改良主義へと傾斜し

    た一因があったのであり、此の地方のSPD指導者の苦悩があった。一八九四年、この地方の最も著名なSPDの指導者

    であるフオルマールは、バイエルンでSPDがかなりの影響力を持ちうるに至ったのは、「われわれが機械的なアヂの形

    態をやめて、地方と大衆とを理解し、それに応じてわれわれのアヂを適応させたからである」と述べている。エルフルト

    綱領の持つ革命的な性格はバイエルソ社会民主党が常に反対するところであり、彼等がその組織を拡大する為のハンデキ

    ヤップでしかなかった。「われわれが方針を変えるならばわれわれの成功はたちどころにして潰えるだろう」とフオルマ

    ールは述べたが、ここにパイエルソ社会民主党のローカリズムがひそんでいたのであり、SPPの中央集権主義に此の党

    (426)

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

                (2)

    が、終始反対した理由があった.フオルマ:ルはバイエルソ社会民主党にイニシアティブと責任とを獲保したいと考えた。

    「自由を求めんとするときは、われわれ自身が或る程度自由でなければならない」と述べて、彼は敢然としてSPDの集権

              (3)

    的な指導体制に反対した。一八九四年、バイエルソ社会民主党地方大会は、帝国議会では予算案に反対しながらも、邦議

    会では予纂に賛成して、全国の党員からの嬰たる批讐うけな.此の事実の中にも・ベルリソのSPD指導部に「身

    売証書」は書くまいとするバイエルン社会民主党の反プロイセソ的分権主義が表明されていよう。プロイセン化く①愚7

    ①島琶σqはバイエルン人の最も忌むところであったから、当時におけるバイエルン社会民主党の政策は、すべて反プロイ

              (5)

    セン主義で貫かれており、「反プpイセン」こそは当時のバイエルソ社会民主党の組織化のシンボルであったのであるコバ

    イェルン軍の統轄権、郵便切手発行権、鉄道管理権などをバイエルソに留保しておくことに、彼らの努力は集中された。

     ところでバイエルン社会民主党は当時どのような組織を持っていたのだろうか。当時のバイエルソには未だ社会的にも

    経済的にも独立した信任者が居らず、SPDの為の組織化は名望家の篤志活動に委ねられていたので党の組織はきわめて

    弱く、また一八九八年に至る迄はバイエルソの集会法が地方組織問の連絡を禁じていたので党員数も未だ少なかった。こ

    のような困難な状勢の中で行われた一八九四年のバイエルソ地方党大会は、邦議会議員団いき99σqω坤p臨δpを邦党指導

    部ピきq①ωN窪町巴馨Φ}H①とすること、および、党の下部組織を地区信任者○二ω<興鍾磐①房日p謬と郡信任者国『Φδ〈Φ冨鎚午

    Φ霧Bき⇒とに制限し允。 一八九六年には殆んどの帝国議会選挙区にこのような信任者が居たが、中部フランケン地方だ

    けは例外で、こ・では北バイエル・組織化同盟接一§昌のく①雪葺琴ασp《§霜織活動を行ってい噛.此の時期

                             

    のバイエルソ社会民主党には未だ専従の有給職員が居らず、党の主要な問題は党員問の個人的な折衝によつて殆んど処理

    (427)101

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    されていた。従って党活動の推進は専ら経済力のある名望家によって兼業的に行われ、経済力のあるものだけが党の指導

    ゜的な地位につくことが出来た。バイエルソ社会民主党の指導者であったフオルマールは夫人の財産によって恵まれていた

                                            (7)

    し、エアハルトは家具エ場の経営老であり、またグリレンベルガーは出版業を経営していた。

      ・一八九四年バイエルン社会民主党は初めてゼーギッツを職員として置いた。党のあらゆる雑務が彼を忙殺させたにも拘らず、彼の

                      (8)

       給料は組合から支払われていたと言われる。

     バイエルソ社会民主党がその組織化を活発にするのは、一八九八年に於ける集会法の廃止を契機とする。同年党規が起

    草され党組織の建設が行われ始めた。党の組織化の指導

    権は、ミユソヘソとニュールソベルグとルドウイッヒバ

    !フエソとにおかれた地方指導部O磐く○お訂巳に移さ

                          (9)

    れ、邦議会議員団はその政治的な監督権を留保した。バ

    イエルンの社会民主党が党費の納入を党員に義務づけ、

    その財政的規模を飛躍的に増大したのも一八九八年以降

    である。(第六表参照)

     バイエルン社会民主党が次にその組織を改革したのは

    一九〇五年である。此の年行われたイエナ党大会によっ

    て、SPDは信任者制度の廃止、地方組織の拡充、党財 102

    第6表バイエルソ社会民主党邦指導部の収支

       (1894年一1904年)   (単位マルク)

    犀 「疋一一’入1支 出

    93,481

    243,290

    240,127

    411,129

    920,346

      128,721

      323,638

      2S6,753

      489,513

    1,011,985

    1894-96

    1896-98

    1898-00

    1900-02

    1902-04

    ゜ Jansen, Georg von Vollmar, S・95・

    第7表 バイエルソ社会民主党の有給職員数一        1『 『-   7     .     1

    年 南バイエルソ北バイエルソ パルツ地方

    1902

    1906

    1908

    1910

    1

    2

    1

    1

    3

    2

    1

    2

    Jansen, op. cit., S.96

    (428)

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    政の確立などを決議して近代的な大衆政党としての基礎を確立したが、此の大会に於いてバイエルン社会民主党の分権主

    義はフオルマールの奮闘も空しく敗北した。かくて、ベルリンのSPD指導部を頂点とする集権的な党組織がバイエルン

    社会民主党をも統合するに至るのであるが、この大会はまたバイエルソ社会民主党に於ける名望家支配の凋落を画期づけ

    た時点でもあったのである。イエナ党大会に引続いて行われたシユヴァイソフルターの地方党大会に於いて、党の邦指導

    部ピ9口α霧くoお蜜づαを邦議会議員団から独立させること、及び今後は地方党大会が邦指導部を選出することが決議され

    た。党務と政務とのこのような分離が名望家に代る近代的事務官僚群の党内進出を促す機縁であったことは言う迄もな

     第8表 パイニルン社会民主党の組織化

           (党 員 数)

      ’                                   

    年 i南バイエルンiパルッ地方1北バイエルン

    14,139

    17,465

    26,038

    34,499

    44,662

    5,565

    5,969

    8,610

    9,638

    11,856

    5,750

    7,882

    13,101

    21,111

    30,594

    1904

    1906

    1908

    1910

    1912

    Jansen, op. cit., S.100.

    い。古い党員であったエアハルトやグリレンベルガーは、一九〇五年には既に党務か

                                      

    ら後退しており、フオルマールも亦党内での影響力を次第に喪いつつあった。

      ・フオルマールは此のような情勢の推移を阻止しようとも考えなかったし、阻止できをとも

      考えなかった。自分に代る覚の指導者を自己の復心であるAーミユラーやE・アウアーで

                        (10)

      みたすことが彼の成功した唯一の抵抗であった。

     ローカリズムの主張によって改良主義へと傾斜したバイエルンの社会艮主党が、そ

                                 (11)

    の後どのような歴史を辿ったかは、別の機会に述べたところであり、また本稿の主、題

    とするところでもないのでここではふれない。改良主義的なバイエルソ社会民主党

    が、既に述べた自由労働組合と共に、ケルン党大会からマンハイム党大会に至る一九

    〇五-六年の時点に於いて、SPDの急進化を内から脅かす存在であったことを、こ

    (429)103

  • ドイツ社会民主党と自由労働組合

    ・では指摘しておけば+分であろう。死〇三年の帝国議会選挙に於いてSPDは蓋議席を増すと言.美勝を得たが。4

                                                          1

    (第五表参照)、その直後の党大会でフオルマールは次の如く述べている。

      「われわれは全く歓迎された。だから、われわれの現在の立場をそれに順応させ、積極的に自己を改造して偉大な国

                                     (12)

      民的文化的な課題を共に遂行できるようになること以上のことは望まない」

     だが,フオルマールがこのように勝利に酔っていたとき、ドイツ支配階級の側でも労働者抑圧運動の組織化を開始して

    いた。すなわち、急進主義者がドレスデン大会とクリミチヤウ繊維労働者のストライキに於いて気声をあげた一九〇三

    年、政府は帝国議会選挙権を制限し、また翌一九〇四年ドイッの経営者たちは、ドイツ中央使用者連合国鋤o営珍Φ ①U①自,

    諺。げ葭〉旨興σq①σ①目く興σぎαΦとドイッ使用者連合同盟くΦおぢωUΦ9ωo冨「諺Hげ舞σq①げ興く①吾ぎαΦとを結成し、労働者の

    組織に対抗することを企図していた。このときに当って社会主義勢力が分裂していたことはまことに重大であった。

    (((((((((g87654321)))))))))ωOげO『ω犀ρOや9けこ℃°刈゜

    8置こやQQ°

    冒5ωΦ⇒園二〇Φo民σq<oづくo障目鍵、国ぢ①勺9三ω9①し口δσq「巷三ρお切○。°の・

    ωOゴO邑ω貯ρOやqけ゜℃°Q。’

    匂pづωΦPo”°9けこω゜忠.

    ま峯こ oつ゜O心幽

    象算9

    冒⇔ω①po℃°o一一こω゜㊤凱゜

    象諄9

    O蔭゜

    (430)

  • (10) 冒昌ω①P8°9什‘ω゜ΦΦ゜

    (11) 拙稿、「ミユンヘソに於ける労兵農協議会の成立」政経論双、第二七巻第六号。

    (12) 国8冨UこU興菊90房く①h冨ヨσqΦσq魯巳①ωoN芭留Bo町豊①<自ω①ヨo弓○邑診飾§αq寓ω差α8即虫魯ωぢσqω≦四巨ΦPN虫骨甲

     6げユ陣凄『O①ωo冨o茸ω芝一ゆΦ昌ωoげar巳㎝O.国Φ辞卜)°

    (431)

    ドイツ社会民主党と自由労働組合

    あ と が き

     ドイツ社会民主党の下部組織と自由労働組合とについては邦語の交献が殆んど出ておらず、また定訳らしいものが見当

    らない為、党組織や組合の名称はすべて仮訳にし原名と併記した。不適当なものがあると思われるが、お教え頂きたい。

    バイエルソ以外のドイッ各邦国のSPD下部組織や自由労働組合傘下のの各地の下部組合の動向については本稿において

    はふれることができなかった。数少いドイツの研究書や文献の殆んどはプ戸トコールなどの中央機関の資料に依存してお

    り、またそれ以下の組織の次元での資料が見当らない為、下部組合やSPDの末端組織の動向に切り込んで行けないのが

    筆者が今直面している壁であるが、今後の研究によって少しでも補いたいと考えている。

    105