スピノザの国家論 - 明治大学...スピノザの国家論 豆 立 石 龍 彦 35...

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スピノザ スピノザの国家論 35 「あのそそり立つ哲学の高嶺も、だ の用途や能力を超越したこれらの規定もまた 埋もれていた人間の叡知を人間のために取りも 難な仕事は、人間のなかにおいてこそあるのだ」(ζo馨巴σ ソクラテスについて述べられたこの言葉が、いわゆる ということは、考えてみると面白い。彼は厳粛な人生の運命を 人間知性の弱みを見事に喝破したのだ。そしてそれはまた、「人間 言つたスピノザの哲学にも、一脈相通ずるものがあるのである。 スピノザの哲学はある意味では形而上学または宗教とよばれていいかも 精緻を誇示するものでも、彼岸の救済にあこがれるものでもなく、深く現実の 確固不抜の洞察なのである。なるほど彼は実体(ω信げωけ鋤口け一9)であり自然(三9 た。そして神に酔つたひとと言われている。いかにも彼は酔つたであろう。人類中数えるば れない神に酔うという貴重な享楽をつかみえたひとであろう。しかしながら、はたして彼は心

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Page 1: スピノザの国家論 - 明治大学...スピノザの国家論 豆 立 石 龍 彦 35 スピノザの国家論 れない神に酔うという貴重な享楽をつかみえたひとであろう。しかしながら、はたして彼は心からの、いわば一直線た。そして神に酔つたひとと言われている。いかにも彼は酔つたであろう。

スピノザの国家論豆

スピノザの国家論35

 「あのそそり立つ哲学の高嶺も、だれ一人としてそこに落ちつけないものなら、一体なんの役にたとう。われわれ

の用途や能力を超越したこれらの規定もまた一体なんになろう。しかしながら彼こそは、天上にこのようにむなしく

埋もれていた人間の叡知を人間のために取りもどしたひとなのである。この叡知のもつとも正しい、またもつとも困

難な仕事は、人間のなかにおいてこそあるのだ」(ζo馨巴σq口o”国ωω巴ρ一目》Oげ掌。娼・㊤卸Hb。)。

 ソクラテスについて述べられたこの言葉が、いわゆる懐疑論者どして知られているモンテーニュによつて言われた

ということは、考えてみると面白い。彼は厳粛な人生の運命をよそにして、とかく勝手な抽象理論をのみもてあそぶ

人間知性の弱みを見事に喝破したのだ。そしてそれはまた、「人間にとつて人間ほど有用な興味あるものはない」と

言つたスピノザの哲学にも、一脈相通ずるものがあるのである。

 スピノザの哲学はある意味では形而上学または宗教とよばれていいかもしれない。だがそれは、単なる理論の宏大

精緻を誇示するものでも、彼岸の救済にあこがれるものでもなく、深く現実の人生、人間の共存のうえに目をむけた

確固不抜の洞察なのである。なるほど彼は実体(ω信げωけ鋤口け一9)であり自然(三9霞9。昌彗口壁ロω)である神を掲げ

た。そして神に酔つたひとと言われている。いかにも彼は酔つたであろう。人類中数えるばかりのものにしか与えら

れない神に酔うという貴重な享楽をつかみえたひとであろう。しかしながら、はたして彼は心からの、いわば一直線

Page 2: スピノザの国家論 - 明治大学...スピノザの国家論 豆 立 石 龍 彦 35 スピノザの国家論 れない神に酔うという貴重な享楽をつかみえたひとであろう。しかしながら、はたして彼は心からの、いわば一直線た。そして神に酔つたひとと言われている。いかにも彼は酔つたであろう。

36叢一弧両岡律一法

的な帰依のように神に酔えたのであろうか。そうではない。そうなるには彼はあまりにも人生の悲劇的なのを知りす

ぎていた。彼はすでに、実体である神の無限の属性(b#艮げ暮βω)のなかで、われわれが知りうるのはただ二つの

み、すなわち思惟(OOαq一け9け一〇)と延長(国答Φ昌ωδ)の二つのみと限つたではないか。ここに、カントの「物自体」

と同じく、彼においても認識論上の諦観、つまり理屈ではどうにもならぬ人生の制限、宇宙への諦めが見えている。

だがこの諦めは決して絶望的なものではない。それはすべての人知を知りつくして後の、深い反省と洞察とにもとつ

く客観的諦視なのである。

 「すべて自然物は、それが現存しているとしていないとにかかわらず、妥当に概念されうる。したがつて多くの自

然物の存在の初まりとその存続は、それらの定義からは帰結ざれえない。なぜならそれらの観念的本質は、それらが

存在し始めた後と前とでは同一であるからである。そこで、それらの存在の初まりがその本質から導き出されえない

と同じく、その存続もまたそれからは導き出されえない。いわばそれらが存在し始めるのに要すると同じ力が、それ

らが存続するためにも必要なのである。このことから、それにより多くの自然物が存在し、その結果活動するところ

の力は、神の永遠な力そのものにほかならないということが結論されてくる」(ハ弓踏90け゜ ℃O一;09切臼け一一》吻H)。.このよ

うにしてスピノザにおいては、あらゆる自然物はすべて神の永遠必然の力によつて生じ存続するものとされる。した

がつて自然の中の個物(幻Φωωぼo身巳母oω)である人間もまた「王国中の王国」(一目ロo臣β巨言一ヨ℃Φユo)としてで

はなく、単にほかの多くの自然物と同様にみなされているから、人間の所有している感情や能力も他の自然物と同じ

ように観察され取り扱かわれる。そしてこのようなものはすべて、神のうちに根拠づけられた自然の統一性・法則性

により支配せられているものであるから、スピノザにおける感情は、同時代の哲学者ゲーリンクスにおける感情のよ

うに決して道徳から峻別されてはいず、むしろ彼固有の特色をもつ実践倫理的な道徳説への道程として、その感情論

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一スピノザの国家論一37

は欠くことのできない意味を持つているものなのである。

 スピノザは感情論の冒頭において次ぎのような鋭い意見を述べている。「感情(》角ooεの)および人間の生活法に

ついて書き記している人々は、あたかも彼らが自然の共通法則にしたがう自然物を論ずるのではなくて、自然の外に

ある事物を論じているかのように見える。事実、彼らは自然の中の人間を王国中の王国であるかのように考えてい

る。というわけは人間というものが、自然の秩序にしたがうよりもむしろそれを乱し、自分の行動に対して絶対の力

を持つていて、自分のみで自分を決定することができるのだと彼らが信じているからである。そのうえ彼らは、人間

の無力および無常の原因を、共通な自然力に求めないで、彼らがそのために悲しみ、嘲り、蔑み、あるいはーこれ

が一番起りやすいのだがー呪う人間本性の、私が知らない欠点に帰している。そして、人間精神の無力さをより雄

弁にあるいはより巧みに罵ることを知つているひとは神のように思われている」(国9ご昌押》頃Φoε。同様のこと

が国家論の初めにもある。「哲学者たちによれば、われわれが苦しまなければならない諸感情は、人間が自分の罪の

ゆえに陥る過失であるかのように考えられている。それであるから彼らは、こうしたものを笑い、泣き、讐め、ある

いはもつと偽善的に、憎悪するのをつねとする。こうして、どこにも存在しないような人間性を口をきわめてほめそ

やし、これに反して、現実に存在する人間性をいろいろの言葉でけなしつけるときに、彼らはなにか嵩高なことでも

なし、さもさも叡知の頂きに達したかのように信じ込む。彼らはつまり、あるがままの人間ではなく、こうあつてほ

しいと願うような人間像を掲げているのである」(6同鋤Oe° 勺O一゜℃ 09”⊆一 H旧 吻一)。そして、「自然の中には自然の過失

のせいにされるようなどんなことも起らない。なぜなら、自然はつねに同じであり、自然の力と能力とはどこにおい

ても同一であるから。またその能力ならびに活動力、すなわち一切のものがそれに従つて起り、そして形相から形相

へと変つてゆくところの自然の法則および規則は、どこにおいてもまたつねに同一であるからである。したがつて、

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38叢一論律一法

すべての事物の本性を認識する様式は同一でなけれぽならない。つまりそれは、自然の普遍的法則ならびに規則によ

る認識でなければならない。それだから憎悪、憤怒および羨望の諸感情は、ほかの個物と同じく、自然の必然性と能

力とから生ずる。したがつてそれらの感情は、それらを認識させるある原因を持ち、またわれわれがそれを観照して

楽しむところのほかの事物の特性と同様に、われわれの認識に値する一定の特性を持つているのである」 (国夢゜ψ

目同導》鵠09’)。

 観照して楽しむ(Oo馨o日覧鋤江o山2Φoβ日母)。笑わず、歎かず、呪わずに悠然と万象の動き、人生の葛藤を眺

め楽しむ。それはすべてを知り尽した賢人の暖い心情と澄みきつた理性とがなす超人の態度である。

 ではスピノザはどのように人間の感情を観照したのであろうか。「感情とは、」と彼は定義する。「身体の活動力を

                                                  り

増大しあるいは減少し、促進しあるいは妨げる身体の発動(》中oo江o)、およびこれらの発動の観念である」 「国夢゜

目H噛∪①h°。。)。そして数多い感情の種類のうち、それらの根底となるものとして、快(い鋤o鼻冨)・不快(目艮ω葺冨)

および欲望(O郎営9寅ω)の三根本感情(》頃①o冒ωOユB9。目ごω)を彼はあげた。「欲望とは人間の本質が、その発動

の一つによつてあることをなすように決定されたものとして考えられるかぎり、その本質自身である」 (国夢こ目押

》鴇Φo鼠q日∪Φ臨巳謡oロoω一)。すなわち自己の有を実現しようとする人間のもつとも深い根底にひそむ努力なので、

「この努力が精神にのみかかわる場合には意思(<o冒碁9の)、精神と同様に身体にかかわる場合には衝動(》OやΦ-

鉱9ω)、そして自らの衝動を意識している場合には欲望となるのである」(国芸こ目り勺8b°Pωoげoご。また「快

とは人間が一層小さい完全性から一層大きい完全性に至る移行(]UH9]Pω一け一〇)であり、不快とは人間が一層大きい完

全性から一層小さい完全性に至る移行である」と規定されている(閣昏こ目押》諮o葺信ヨUo訪ロ葺oコ①ωb。庫Q。)。の

みならずこれらの三つは並行しているものではなくて、いずれも交互媒介的であり、相互依存的に人間の中にあるの

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スピノザの国家論39

である。つまり、自己保存の努力(Ooロ讐qωω巳ooづωo署9づα一)にとつていろいろの精神の状態が促進的であるか制

止的であるかということが、快と不快という二つの感情のうちにおいて、精神に意識されるのであるが、この意識あ

る衝動は欲望にほかならないから、欲望とは快と不快において成りたつものである。それとともに、快と不快もまた

欲望に関係づけられている。すなわち、「快と不快は、あくまでも生存してゆこうとする各人の力あるいは努力が、

それによつて増大しまたは減少し、促進されまたは妨げられる受動である。ところがわれわれは自己保存の努力を、

それが同時に精神と身体とに関係するかぎり、衝動および欲望と解する。したがつて快および不快は、欲望あるいは

衝動が外部の原因によつて増大され減少され、.あるいは促進され制止されるかぎり欲望または衝動そのものなのであ

る」(団詳げ゜》一一H》℃同Ob°α¶噂 H》¢ヨ゜)。

 ではこのような感情は、観念に対してどのような関係にあるのであろうか。観念とは客観的認識である。感情とは

特殊な意欲形態である。そこで、「愛とか欲望のような思惟の様相(]≦o島qの)、あるいはそのほかすべて感情の名に

よつでよばれるものは、同じ個体のな‘かに、愛されたり欲望されたりする事物の観念がないかぎり存在しない。これ

に反して観念は少しもほかの思惟の様相がなくても存在することができる」けれど(国匪;一H糟b首o巨9。。)、一方ま

た、「人間精神の現実的有(切ωωΦ旨け一帥  hO弓bP鋤一一ω)を形づくる最初のものは、現存するある個物の観念にほかならな

い」(国匪ご戸勺弓oや目)から、観念はすべての精神現象の基礎であり、したがつて感情発生の基礎でもあるので

ある。

 このような感情の観念依存性から次ぎの二つのことが起つてくる。すなわち、第一に、観念の対象が観念を通じて

生の促進あるいは制止の原因として現われるかぎり、快および不快の原因と考えられるから、ここに快および不快の

二大形式すなわち愛(》目自)と憎しみ(Oα言日)とが発生してくる。「愛とは外的原因の観念をともなつた快にほ

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40叢払百冊律一法かならず、憎しみとは外的原因の観念をともなつた不快にほかならない」(国けげご 一一H導唱巳Oや゜ドq◎暦 ωOげO一゜)。第二に、

同じくこの感情の観念依存性から、観念の妥当性および非妥当性に応じて能動(諺o江o)と受動(勺9。ω巴O)の二つの

感惰が分けられる。すなわち、「われわれの精神はあるとぎは働きをなし、あるときは働きをうける。つまりそれが

妥当な観念を持つかぎり必然的にある働きをなし、また非妥当な観念を持つかぎり必然的にある働きをうける。この

ことから精神は、それの持つ非妥当な観念の数に比例して働きをうけ、また反対に妥当な観念の数に比例して働きを

なす」(国一げこ HHH噛 ]℃邑OO°H 節 OO厭O一一゜)。受動的感情とはスピノザが「運命の暴力」とよんだ激情(℃効ωωδロoω)で

ある。それは非妥当観念である第一種の認識すなわち表象知(一目餌oq言櫛江oo豆巳o)によつて発せられる。能動的感

情とは妥当観念(冠8&器ρ§冨)である第二種の認識すなわち理性知(幻9江o)および第三種の認識すなわち直

観知(ωO一Φ口け一9 一βけロ一け一く9Ω)によつて発せられる精神の強さ(閏o暮詳βαo)である。それは勇気(》巳日o巴鼠ω)と

寛容(∩}⑦UO民Oω一一鋤ω)とに分かれる。「勇気は各人が理性にしたがつて自己の生存を維持しようとする欲望、たとえ

ぽ節食・節酒・危難のさいの沈着の類である。寛容は各人が理性の指令にしたがつて他人を援助しこれと交わりを結

ぽうとつとめる欲望、たとえば謙虚・温和などの類である」(国夢ご目押勺鴇oO°αり”ωoげoじ。ところでスピノザにあ

つては、ひとはできるかぎりこのような能動的感情をたかめることによつて受動的感情をおさえ、平静な理性的生活

のなかで完全な徳を築きあげなけれぽならないとされているから、その感情論は前述のように、あくまでも彼の道徳

説と密接不可分の関係にあるのである。この点から、彼が不動の心に到達するについての最大の妨害とみなしたいわ

ゆる激情というものを少し見てみよう。

 スピノザはエティカ第三部において、五十種にちかい感情の種類をあげ、それらの精神分析的基礎概念を明確に方

式化している。すわなち拒斥概念(∪Φ同切①σq誌頃αΦ同くoaぎσqロ昌oq)・無意識概念(bΦ見bごΦαq鼠中α段q旨ぴoミ島叶o旨Y

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ス ピ ノ ザ の 国家論41

言語拘束概念(Uo同頃oσq同戟伍曾のづ雷oげσqΦげぎαΦロげΦεなどであつて、それらはいずれも現代の精神分析学によつ

て始めて正当に価値づけられたものなのであるが、ここに一括して言いうることは、それらの諸感情の根底には、どの

ような正しい認識も行為の自覚も横たわつてはいないから、したがつてそれらは真の徳ではないということである。

本当の意味での自己認識というものは、自己の本質すなわち自己の力の認識であり、自己の無力の知覚はけつして自

己認識ではないのに、ひとは激情におけるほど自己の無力を痛感させられることはないからである。「人問は必然的

に諸感情に隷属する。そしてこのような人間の性情は、不幸なものを憐み、幸福なものを妬み、同情よりは復讐に傾

く。さらに各人は、ほかの人々が彼の意図にしたがつて生活し、彼の是認するものを是認し、彼の排斥するものを排

斥することを欲する。その結果、すべての人々はてんでに第一人者たらんとつとめるから、みな争いに巻きこまれ、

お互に制圧しようともがき、勝利を獲得したものは、それによる自己の利益よりは他人に与えた損害を誇るようにな

る」(目冨9・勺o『O碧9炉㈱切)。それであるから「われわれは、外部の諸原因から多くの仕方でかき乱され、ま

た逆風にあふられた海浪のように自己の行末と運命を知らずにさまよつているのである」(国導ご目炉勺8b・αP

ωoげo一゜)。そこには対象への明確な認識もなしに、あるいは愛しあるいは憎み、欲求し軽蔑し、或るときはこれを快

と感じ或るときはこれを不快と見て、変転混乱の極、どのように善処すればよいかという判断を失い、さらには、こ

のような行為がはたして善であるか悪であるかの見当すらつけられないほど狂おしい自失の状態がくりひろげられる

のである。まさしくわれわれは運命の嵐の前の一枚の枯葉のようなものだ。それは猛り狂う烈風にあふられて、走つ

てはよろめき舞つては倒れつつ、ひとり人生のはかない道化芝居を演じているのである。人間性の感情に対するかぎ

りない屈従である。抗し難い暴力である。スピノザですらも、親友ヤン・デ・ウィットが暴徒に惨殺の憂き目をみた

とき、前後を忘れて門口を飛び出そうとしたではないか。

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42叢論律一法 しかしながら、スピノザが冷静に嘲らず憤らず、研ぎすまされた知性によつて、感情の起源を明確に画き出した跡

をたどつてみるならば、われわれはまたそこに、自己の才能を可能なかぎり自己の性格に適用することができた天才

思想家のきびしい人生行路を眺めることができるであろう。そして、あらゆる煩悩をかくあるべぎ運命の煩悩として

認識することができた結果、煩悩の激浪の中を巧みに舟をあやつつてゆく賢人の澄んだ瞳を眺めることができるであ

ろう。再言すれば、スピノザはけつして煩悩を解脱し、いわゆる「無激情」の境地に在りえたのではなかつた。彼は

ただでぎるかぎりみずからの激情をおさええただけなのである。ここに自己の無力をさとつた彼の諦観がある。「ど

こを眺めても、空々寂々たりというような境地に落ちつくためには、魂にとつて、どれほどの困苦がいることであろ

う」とモンテーニュは言つている(ζ〇三鉱αqづΦ”国ωω鉱ωゆ目H℃Oげ9。b°お)。そしてスピノザもこう定義する。「受動

あるいは感情は、しつように人間につきまとうものであるから、彼のほかの働きあるいは力ですらも防ぐことができ

ない」(両夢こ同く》℃同oや①)。

 ではなにが受動である感情にうち勝ちうるのであろうか。感情にうち勝つものは同じく感情でなければならない。

すなわち「感情は、それと反対な、そしてそれよりも一層有力なほかの感情によるのでなければ、抑制されあるいは

除かれることはできない」のである(国けげこH<9勺目OO。N)。この一層有力な感情とは能動的感情として先きほどあ

げた精神の強さにほかならない。それはわれわれの本性から出る自己保存の努力であり、妥当な認識から生ずる快あ

るいは欲望だけに関係する感情である。しかもそれはけつして激情に類するものではなく、かえつてこれにうち勝つ

精神の力なのである。であるからわれわれはこの精神の力によつて激情を克服するとともにまた、「受動である感情

は、われわれについて明瞭判然な(O一90瞥O ①け α一ωけ一]口Oけ①)観念を持つやいなや、受動であることをやめる」ものであ

るから(国↑げ願りく導℃↓O℃°QQ)、「精神が明瞭判然と知覚して、それにまつたく満足するような事物を思惟するように

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スピノザの国家論43

感情から決定されるために、おのおのの感情をできるだけ明瞭判然と認識し、感情が外的原因の思想から分離して真

の思想と結合するように努力しなけれぽならない」のである(]円けげご く”℃層Ob°心。ωOげO一゜)。つまり、身体発動の根

源を個々別々の外的原因のうちには認識せず、すべてのものに共通な性質のうちに、すなわち自然連関のうちに、そ

の因果必然性を認識するのである。しかも感情は、おれわれに多く知られれば知られるほどわれわれに支配されるこ

とが多く、精神がそれによつて悩まされることがますます少なくなるものであるから、その結果、愛や憎しみが崩壊

するぼかりでなく、このような感情から生ずる衝動あるいは欲望もまた過度にはなりえなくなるであろう。なぜな

ら、たとえば受動において野心(跨巳ぴ凶鉱o)とよばれている衝動は、それが能動においては敬震(国Φ欝の)とよばれ

徳の一種とみなされるように、人間がそのために働きをなしあるいは働きをうけるといわれているものは、じつは同

一の衝動の二様相にすぎないからである。

 また「われわれが受動である感情によつて決定されるすべての活動へ、その感情なしにも理性によつて決定される

ことができる」という事実から(両けげ二 H<順 勺村Ob° α㊤)、「われわれが自憎の感情の完全な認識を持たないうちに、

われわれがなしうる最善のことはといえば、それは、われわれが正しい生活法あるいは確実な生活律を考えて、これ

を心に刻みつけ、生活してゆくうえにしばしば起る特殊の場合において、つねにそれを適用するということにほかな

らない。そうすれぽわれわれの表象力は、そうした生活律から広い影響をうけ、そのうえ、その生活律はつねにわれ

われの手近かにあるようになる。たとえぽわれわれは、愛または寛容によつて憎しみを征服し、憎み返しによつて報

いてはならない、ということを一つの生活律として立てたとする。しかしながらこのような理性の指令を適用する場

合、いつでもそれを手近かに持つているためには、われわれは人々から加えられる通常の害悪をよく考え、またそれ

がどのような方法によれば一番よく寛容にょつてとり除かれうるかということを考慮しなければならない。というわ

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44叢一訟百冊律一一 @

けは、われわれがこのように害悪の表象像を生活律の表象と結合することによつて、われわれに害悪が加えられるや

いなや、この生活律はいつでもわれわれに与えられるということになるからである。同じように、恐怖から逃がれる

ためには、われわれは勇気についてとくと考えなければならない。すなわちわれわれは、人生において普通に起る危

難を幾度びも数え表象し、同様に、またそれが、沈着と精神の強さとによつてもつともよく回避され征服されるよう

な方法をも考えておかなくてはならない。しかしながらまた、われわれがつねに快感によつて行動へ決定されるよう

にわれわれの思想ならびに表象像をととのえるにあたつて、つねにおのおのの事物における善い点を見なければなら

ないということも注意しておかなくてはならない。それであるから、感情ならびに衝動を自由に対する愛のみによつ

て統御しようとつとめるものは、できるかぎり徳および徳の原因を認識し、なおそのうえに、これらについての真の

認識から生ずる歓びでもつて彼の精神を充たすことにつとめるであろう」(団祥げご く°℃hOO°]°O矯 ωOげO一゜)。

 それではこのような正しい理性的生活法(男oo欝く貯Φ昌臼轟鉱o)にそなわつた徳(<一含二ω)とはいつたいどのよ

うなものであろうか。単なる唯物論者ではなかつたスピノザは、また単なる観念論者でもなかつた。彼はあらゆる現

実逃避に反抗したように、道徳家としてもあくまでも現実的所与から出発しようとする。徳とは彼にとつて雲のうえ

の理想ではなくて、われわれの人間的本質に合致した生活様式であつた。そして自由とは法則を内に蔵しているがゆ

えに、法則を超越しているのである。他律道徳と自由意思の概念は彼においては峻拒された。ただ自律道徳と内在的

自由概念とが彼の内在思想にとつては好ましい。そして、神の内に基礎づけられた自然の統一性は、それが一切を支

配することを要求するという理由から、道徳界を自然界から切り離して他の法則に属させることを許さない。スピノ

ザは徳をこのように定義した。「徳と力を私は同一のものと解する。換言すれぽ、人間について言われる徳とは、人

間に自己の本性の法則のみによつて理解されるような或ることをなす力があるかぎり、人間の本質または本性そのも

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スピノザの国家論45

のである」(閏詳げこ一く》UO頃゜Q◎)。 つまり、この力は人間においても万物におけると同様に自己保存の努力として現

われ、欲望は本性にほかならないということになる。したがつて、自己の有(国のωo)を実現しようとする人間の根底

にあるこのような努力は、内在の倫理学からは否定されず肯定され、道徳とは人間がその本質を実現しようとするさ

いの指標を意味する。また無限者の概念は完成の概念と一致する。無限であることが神の本質であるように、自己完

成が人間の目的である。自由でない人間は感情によつて外物から強制される未完成のひとである。自由人のみが自己

を外物から独立させ、自己の本質を自由にし、神性を自己のうちに実現させうるのである。

 言い換えれぽ、「理性は、自然に反する何物も要求しないから、各人が自己を愛し、自己の利益をそれが真に有用

であるかぎり求め、実際に自己を一層大きい完全に導くものすべてを欲し、自己の生存をできるだけ維持しようと努

力することを絶対的に要求する。であるから徳の基礎とは自己保存の努力そのものであり、そこに入間の幸福がある

のであるから、それ自身のためにのみ努力されるべきもので徳より貴重で有用なものは考えられない。したがつて、

同時に生存し、行為し、生活すること、すなわち現実に存在することを欲しないものは、幸福に生存し、善く行為し

生活することを欲することができない。のみならず彼自身の利益すなわちその生存を維持することをおろそかにする

かぎり、人間は無力(一ヨや9Φロω)なものであるから、自殺するものは無力な精神の持主であり、自己の必然からで

はなく、自己の本性に反する外的原因にまつたく屈した結果なのである」(】円けげご 一く  勺厭OO° H◎Q噂 ωOげO一゜)。しかし

ながらこれに反して、自己にとつて利益である自己生存の維持に一層努力をかたむけるものはますます有徳なのであ

り、それだから「絶対に徳にしたがつて (Φ図く貯ε8)働くということは、自己にとつて利のあるものを求め、理

性の導くように(Φ×臼oεε雷鉱o巳ω)行為し、生活し、生存を維持するということにほかならない」(国ひ゜」<り

男δ℃・b。恥)ここに、徳と力(℃9①暮冨) とを周じものと解するスピノザ哲学のダイナミックな積極性格の特色があ

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46叢一一論律法

らわれている。そしてそれとともに、現代の哲学においてきわめて重要なものとなつた「利益」という概念が、すで

に三百年のむかしスピノザによつて、このように明確かつ即物的に適用されていたという驚くべき事実をわれわれは

見逃してはならないであろう。

 それではこのような自己保存の努力という視点から、スピノザは善(じdo5郎目)・悪(言巴信巨)という概念をどの

ように考えていたのであろうか。自然である神(H)O信ω ω一く① 口Oけ信↓動)による万有の統一という基本観念に立つて、

彼は人間に善・悪という特別なカテゴリーを適用することを拒んだ。善・悪とは、諸物が人間に対して持つている効

用価値を表現する比較概念にすぎない。すなわち、「善および悪については、これらの語は、事物がそれ自体で観察

されるかぎり、事物におけるどのような積極性をも表示するものではなくて、単なる思惟の様相、すなわちわれわれ

が事物を相互に比較することによつて形成する概念にすぎない。なぜなら同一事物が、同時に善および悪、ならびに

善・悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。たとえば、音楽は憂うつなものには善く、悲哀なものに

は悪く、聾のものには善くも悪くもない」(国⇔げこ  H/N糟 勺触90h9けけO)。のみならずスピノザにあつては、「善.悪の認

識は、それらがわれわれに意識されたかぎりにおいて、まず快・不快の感情であり、,次ぎにこうした快・不快の感情

を、われわれが或る事物についていだくかぎりにおいて、それらは善・悪の認識となつてくる」のであるから(国9こ

一く、勺機o掌。。)、彼が善・悪の認識を快・不快の感情に基づけた理由は、単にこのような善・悪の認識によつて激情

を克服しようと企図したまでにすぎないのである。なぜなら、「善・悪の真の認識は、それが真であるというだけで

はどのような感情も抑制することはでぎず、ただそれが感情としてみられるかぎりにおいてのみ、感情を抑制するこ

とができるものである」から(]円け『こ  H~♂  勺同OO° 目蔭)、したがつて、「現実に認識の助けとなるもののみが善であつ

て、反対に、認識を妨げるものは悪なのである」(団鐸げこ H~♂ ℃月Ob°N¶℃ H》Oヨ゜)。

Page 13: スピノザの国家論 - 明治大学...スピノザの国家論 豆 立 石 龍 彦 35 スピノザの国家論 れない神に酔うという貴重な享楽をつかみえたひとであろう。しかしながら、はたして彼は心からの、いわば一直線た。そして神に酔つたひとと言われている。いかにも彼は酔つたであろう。

スピノザの国家論47

 このようにして善・悪の彼岸をめざすダイナミックな道徳論によれば、善・悪その他あらゆる巷間の価値は一括し

て相対的なものとされてしまい、ただ第二種・第三種の認識を通してなされる無限者との一致にのみ、その絶対的価

値は認められるのである。人間は真に創造的である場合にのみ真に道徳的であることができる。創造的ということは

認識する人間のことである。そして、認識することによつてのみ人間は煩悩を克服することができ、外的原因からま

つたく自由なのである。すなわち、「理性を通してわれわれがおこなう一切の努力は、認識以外のどのようなものに

も向わず、また精神は、理性を用いるかぎり、認識の助けとなるものだけを彼に有用であると判定する」(国爵こH<導

勺30°b。①)。「ところが、いま精神が認識できる最高のものは神である。それだから精神の最高の徳は、神を理解しあ

るいは認識することである」(国夢;捌く”勺目o弓゜卜。◎。”U①B°)。しかも人間の最高善すなわち神の認識がすべての人間

に共通であることは、偶然からではなく理性の性質自身から起つてくることなのである。というわけは、「最高善は、

人間の本質が理性によつて規定されるかぎり、その本質自身から導かれ、また人間は、もし彼がこの最高善において

楽しむ力を持たなかつたならば、存在することも考えられることもできないからである。つまり、神の永遠無限な本

質について妥当な認識を持つことは、人間精神の本質に属するからである」(国夢こ一く”℃厭oO°。。9ωoげoじ。

 このようにしてスピノザは、その時代に盛んであつた超越の倫理学に反対して、価値と規範とを彼岸にではなく、

生そのものの内に求めた。彼が堂々と、「自由のひとは死ほど考えないことはなく、彼の叡知は死についての冥想で

                                           ダ   ラ  ヲ   ゾ ラノ テ

はなく生についての冥想である」(同けげ;一く°]℃鴎OO°O『)と 一両い放つとき、われわれは思わずも、「未レ知レ生焉知レ死」

(論語・先進・第ゼ一)と言つた孔子の面影に接するであろう。彼は此岸での道徳的行為を彼岸の果報によつてぎめ

る超越的幸福説をしりぞけ、あくまでも道徳性そのものの中に道徳性の価値を認める自律的人格概念をうち立てんと

したのである。そしてそれとともに、人間の純粋な能動性以外のあらゆる道徳上の補助手段を拒否し、奴隷道徳を作

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48

「叢論律一法

り出すにすぎない希望や恐怖のみでなく、同情(OOヨヨ一ωΦ邑9け一〇)や後悔(勺oΦ巳8ロ自9)すらしりぞけもした。す

なわち、「同情は、理性に導かれて生活するものにとつては、それ自身では悪でありまた無用である。したがつて、

理性の命令によつて生活するものは、できるかぎり同情に動かされないように努めるものである」(国爵;目く導℃『oO°

αO鱒O自o一一゜)。また、「後悔も徳ではなく理性から生じはしない。かえつて彼のした行為を後悔するものこそ、最

初に腐つた欲望から、次ぎには不快から征服されるものであるから、 二重に不幸あるいは無力なのである」 (国夢こ

同く層勺巴ob°罐塵U⑦ヨ゜)。いわば彼にあつては、同情や後悔というものはなんら能動的感情ではなくむしろ受動的

感情なのであるから、それ自体では非道徳的なものにほかならないのである。パスカルとは正反対なこれらの強い言

葉は、おそらく従来のキリスト教徒にとつては解し難い異教徒的なものであつたであろう。さすがにゲーテとともに

稀有のヨーロッパ人であつたモンテーニュはこのことをよく知つていたらしい。「後悔とはわれわれの意思のとり消

しにすぎない。後悔はその人間に過去の徳行と節制とを否定させるものである。病気のさいの寒さ暑さが外部から

くる寒暑よりもとりわけ身にこたえるのと同じく、後悔は心中に生まれるものだけにそれだけ痛烈である」(]≦oロー

け巴σq昌Φ鱒司ωω鉱ρH目鴇Oげ鋤ΨbO)Q

 以上によつてもわかるように、スピノザの徳あるいは人生観は、自然の流れに理性の樟をさしながら、逆らわずあ

せらず、じつと方向を見定めて漕ぎ下るということなのである。したがつて彼においては禁欲も生の否定としてしり

ぞけられた。彼は賢者の行為について、いかにも楽しくそしてうがつたことを言つている。「どのような神もまたど

のような人間も、嫉妬家のほかは、われわれの無力や苦悩をよろこびはしないし、また落涙、嘆息、恐怖、そのほか

精神的無力の印しであるこの種のことがらを徳に数えはしない。反対に、われわれが感ずる快が一層大きけれぽ大き

いだけ、われわれはますます大きい完全に進む。つまり、われわれはますます多くの神性を必然的に分有する。それ

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ス ピ ノ ザ の 国 家 論

一49

だから、事物を利用しそしてできるかぎり事物を楽しむことは、まつたく賢者の行為である。私は言う、適度の快い

飲食によつて、同様にまた、いい匂いや緑なす植物の美、装飾、音楽、遊戯、演劇、ならびに他人を害しないで各人

が楽しみうるこのような種類のすべてのことによつて、自身を更新し強壮ならしめることは賢者の行為であると。な

ぜなら、人間の身体は異なつた性質のはなはだ多くの部分から組織されていて、これらの部分は、全身がこれらの諸

性質から起りうるすべてのことに対してふさわしく、そしてまた精神が多くの事物を同時に認識するのにふさわしく

あるために、種々の新しい営養をたえず必要とするからである」(国魯;一くu℃居8°膳伊ωoげo一゜)。 こうして彼自身

もまたフランス軍陣営内にあつて、大いにその気品と身だしなみをうたわれたのであつた。彼はいつも礼服を着用し

                  ッテ  ノ ニ スル    エ  ヲ

て出かけたということだ。まさしく、「従二心所レ欲不レ喩レ矩」(論語・為政・第二)といつたところであろう。

 ではこのような人類史上たぐいまれな自由のひとであつたスピノザにおいて、真の自由(一U一げ①厭け”ω)ならびに自由

人(団ObPO 一自)O同)とはどのように解されていたのであろうか。一切は神からのみ生ずるという彼の哲学からすれ

ば、真に自由なものはただ神のみであるということは自明の事実であつた。彼はこう定義する、「自由なものとは、

自己の本性の必然性からのみ存在し、自身によつてのみ行為に決定されるものであり、必然なものとは、或る一定の

仕方で存在し、活動するように他から決定されたものである」(切けげ己 一鴇 一)①h° ¶)。そして、「神のみ自己の本性の必

然性から存在し働くものであるから、神のみひとり自由の原因なのである」(団冨冒こ 一り ℃hOb° H刈》 OO厭O一一゜ 卜o)。ま

た、「自然の中には偶然なものは一つもなく、すべては神の本性の必然性から一定に存在し活動するように決定され

ている」ものであるから(国⇔げ゜》 H” 勺畦OO° 卜∂O)、「人間の有する意思は現実の悟性や欲望などとともに、自由なる原

因((U9信ω9 一=)O『9)ではなくて必然なる原因(O簿信ω簿昌ΦoΦωω碧冨)である」(国ひご押勺3娼゜。。b。)。したがつて、

「人間がもしみずからを自由であると思うなら大間違いで、それは彼らが自己の現実の行為だけを意識して、その行

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50

一叢弧百冊律法

「為が決定される諸原因を知らないためである。意思とはなんであるか、それがどのようにして身体を動かすのかを知

つているものはいない」(国けげ゜》一一一層勺『OO°N噂 ωOげO一゜)。そこで、「自己の精神の自由な指令によつて話したり黙つた

り、そのほかさまざまなことをしていると信ずるものは、まさしく目を開いて夢みるものなのである」(国夢二目炉

℃δO°bo”ωoげoド)。

 このように絶対に意思の自由(ピ一σΦ『9 くO一蔭日旨9ω)を峻拒するスぜノザは、神でない個物の間では、自由と名づけ

られる一切のものを取りあげてしまつた。すなわち彼は個物に関しては決定論者だつたのである。しかしまた、この

点だけを強調してスピザノを科学的決定論の代表者とみなすことは誤つている。なぜなら彼はまた一面においては内

在の自由概念の創造者でもあつたからである。自由とはもちろん恣意ではない。自由はすなわち必然(ZΦo①ωω一冨の)

である。人間において真に自由を体得したものは、必然を運命とみて、ただ黙つて全自然における自己の合法則性か

らのみ行動するのである。彼は言う、「感情もしくは意見のみによつて導かれるものと、理性によつて導かれるものと

の間にどのような違いがあるかを知るのはたやすい。というわけは前老は、欲するにせよ欲しないにせよ彼がまつた

く知つていない事柄をする。これに反して後者は、自己以外のどのようなものにも従わず、彼が人生において最も重

要であると認識し、またそれだ伽らほかのすべてのもの以上に彼が欲することだけをする。したがつて私は前者を奴

      ノ

隷、後者を自由なひととよぶ」(両夢こH<”勺同ob°①◎ωoげo一゜)。同様の趣旨は国家論にもみられる。「われわれが人

間をより一層自由であると思うにつれて、われわれは人間が必然的に自己を維持し、自己の精神を支配しなけれぽな

                                  !

らないことをより一層容認しなければならない。事実自由とは徳あるいは完全性であり、したがつて人間の無力を示

す事柄はすべて人間の自由の表出ではない。それであるから人間は、存在しないことあるいは理性を用いないことが

できるというかぎりで自由であるとは言いきれないのであつて、彼が人間性の諸規則に従つて存在し活動する力を持

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一スピノザの国家論一51

っているかぎりにおいてのみ自由であるということができるのである。そして、絶対的に自由に存在し思惟し活動す

る神もまた、必然に、すなわち自己の本性の必然性に従つて存在し思惟し活動しているのである。なぜなら神が、存

在すると同じ自由性でもつて活動することは疑いないところであるから。このように神は、自己の本性の必然性から

存在すると同様に、また自己の本性の必然性から活動もする。つまり絶対的に自由に活動するのである」 (目鑓oρ

勺o『○琶暮HH”吻『)。また短論文では、「われわれがたしかに幸福と休息とについて主張している真理に到達するた

めに、われわれはこれ以外、すなわち、われわれ自身の利益を心にとどめるという原理以外の他のなんらの原理も要

求はしない。ところでこのことは、まず神につ・いての認識ならびに愛を獲得しないかぎりは少しも進みえないから、

神を求めるということはもつとも必要なことなのである。そして反省と熟慮の結果われわれが、神が善いものの中で

もつとも善いものであることを発見してしまうと、われわれはここに留り休息するように強いられてしまう。次ぎに

理性の力というものは、われわれにとつて第一等の価値のあるものではなく、単にわれわれがそれによつて望みの場

所に上りうるはしごのようなもの、あるいは、なんらの虚偽も隔着もなくわれわれが神を求め、神と一体となるよ

うにわれわれを激励するために最高善の報いをもたらすようなものなのである」とも言つている (↓鑓oゴじd厭Φ<寅

一H》O①O偉けま)。

 これらの例によつてもわかるように、スピノザもまたデカルト同様精神の最高善(ωq日bP信目 5P①口け一の げO昌口bP)を

めざし、それによつて獲得される内的幸福(切o讐詳⊆Oo)に安らわんとしたのである。しかしながらデカルトにあつ

ては、最高善とはわれわれの精神とりわけ意思の完成を意味していたのに反して、同じく実践道徳的でありながら意

思の自由をしりぞけるスピノザでは、意思の完成は道徳の理想ではなく、ただ完全な理性認識の洗練だけが真の幸福

に達しうるものとなされている。したがつて自由の問題についても、たとえばマールブランシュのように弁神論上の

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52叢一払司田律一法

見地から、自由は人間のみに属する悪の一種の機会因(Ooo9。のδロ)、換言すれば人間の欲求の選択という消極的保留

といつたものではなく、一方では無力と決定づけられた運命を肯定しながらも、他方その運命である自然の流れに樟

をさす自己内部の力の積極性を認めたものなのである。彼はこう言つている。「精神が他人からだまされるかぎり判

断能力もまた他人の権利のもとにある。それだから精神は理性を正しく用いることができるかぎりでのみ自己の権利

のもとにあることになる。まつたく人間の力は身体の強さによつてよりは精神の力によって測定されるものであるか

ら、もつとも多く理性を所有しもつとも多く理性に導かれる人々は、もつとも多く自己の権利のもとにある。そこ

で、私は理性に導かれているかぎり人間をすべて自由であると名づける。なぜならこのような人間は、自己の本性か

らだけで妥当に理解される諸原因から、行動へと決定されるからである。もつとも彼はそれらの諸原因から必然的に

行動へと決定されるのではあるけれども。なぜなら自由とは行動の必然性を排除しないで、かえつてこれを前提とす

るからである」(臼暴oe°りorO鋤b蓉H炉吻HH)。

 ここにスピノザの特色ある人格説があらわれてくる。元来彼の個性概念は有機的であつた。それだから細胞は組織

されて肝・肺・心臓などになり、それらが組み合わされて人間という個物になり、人間が組み合わされて国家さらに

は宇宙全体が形づくられている。そして個物間には実在性と現実性の差違があり、人間の個別的本性も思惟の永遠の

様相であるから、人間は実在性を多く持てば持つほど価値がある。なおまた、表象能力と自己意識とは可滅なもので

あるけれども、人間の持つ観念は残るものであり、したがつて、あらゆる事物の観念は永遠なのであるが、とりわけ

人間身体の観念としての人間精神は、彼の人格が偉大なれぽなるほど一層永遠なのである。つまり諸観念の価値差は

永遠性の価値差によつて測かられ、不死はわれわれに与えられているのではなく課せられているのである。それだか

らわれわれはつねに自己を永遠化するように存在しているのである。

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一スピノザの国家論一53

 このようにして人間は自己自身の実現という真の行為によつて、自己がより大きな完成へ移行し、より大きな価値

を持つようになるのを感ずるのである。そしてこの感じは喜びであるから、人間を創造的にするあらゆる認識行為は

道徳的であるとともにまた快適でもある。この喜びは、それが喜びの原因であるところの対象に結びつけられるとき

は愛(bヨo同)となる。であるから認識することによつて自然の法則と一致する喜びから、万物の根源としての唯一

の存在者である神への愛が生ずる。ところでこの神に対する愛は、人々がこのような愛において一層多く神と結ばれ

れば結ばれるほどますます大きくなるものであるから、ここにスピノザの倫理学が単なる個人倫理学にとどまらず、

さらに進んで全体的、現実的倫理学の様相を帯びてくるゆえんがあるのである。

 スピノザによれぽ、「人間にとつて人間ほど有用なものはなく」(寓o日ぎ一巳げ嵩げoヨぼo客ま口ω…国けげご同く’勺8や

H。。)、とりわけ理性に従つて生活する人間ほど絶対的に有用なものはない。「しかしながら人間が理性に従つて生活す

ることはまれであつて、多くは感情にうち負かされた結果、嫉妬のために互に不快な思いをし、はては相敵視し合つ

ている状態である」(め夢こ一く噂曽8°。。伊Oo目oFH即ω。げoじ。すなわち、「人間は本性上敵なのである」(出o旨ぎΦω

①図昌讐霞9ユげoω8ωω庫暮…日円90叶゜勺9°O琶鐸二㌍吻匡)。それであるから彼らを、万物はすべて等しく同権である

という自然権Q口ω昌9q轟Φ)のもとに立たせると、それはかえつて各人の権利行使をほとんど不可能にさせてしま

うであろう。なぜかといえば、生得的な自然権は現実的にはなんら権利ではなく、その結果、各人は理論のうえでは

自己の権利のもとにある(ω巳甘ユωΦωωo)はずだのに、実際はむしろ他人の権利のもとにある (9。一8同置ω冒ユω

ΦωωΦ)ことになるからである。そこで、各人が真に自己の権利を行使し、和合して生活し、相互援助をすることがで

ぎるためには、むしろ彼等がその自然権をすて、自然状態(ωけ9δ一仁の旨鋤けρ弓鋤一一ω)を脱して、他人に害を与えないとい

う保証を相互に与えることが必要となる。つまり社会契約が必要となつてくるのである。

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54叢一論律一法

 それでは現実の社会において、具体的に人間相互間の連帯性を維持してゆくにはどうすれぽいいのであろうか。と

もすれば激情に倒されやすい人間の間では、それを理性によつてまかなうことはむずかしい。「感情にうち勝つもの

はより強い感情である。したがつてこの場合嫉妬にうち勝つものは恐怖である。刑罰である。これによつて始めて共

通の生活法に規定され法律が施行される社会が形成されるのである。このような社会のうち、法律または自己保存の

努力で成り立たされたものを国家(O一く一富ω)とよび、その権利によつて保護されるものを国民(Ωくδ)という」

(国けげこ H<矯 }∪、Oも゜ 唱Q¶矯 ωOげO一゜ 卜o)。

 このようなスピノザの国家観は、彼がみずから国家論の冒頭で明言しているように、けつして架空的なものではな

く現実に存在する国家の実際的な組成指導であつた。したがつてそこでは、「どのような志操が人聞を正しい政治へ

と励ますかということは大して問題ではない。ただ正しい政治が行なわれれぽいいのである。なぜなら、精神の自由

あるいは力は個人としての徳ではあるが、国家の徳は安全性のなかにだけ存在しているからである」(目昼oけ・勺o一;

O①b巳H”吻①)。事実、「民衆や国事に多忙な人々が理性の指図だけに従つて生活するように導かれうると信じている

ものは、詩人たちの黄金時代かあるいは寓話を夢みているものなのである」(6冨9’勺orO巷暮炉吻朝)つそれだか

ら、「国家生活の目的は生活の平和と安全とにほかならない。政治は人間が和合して生活し、法律が侵害されずに維

推されてゆく場合が最善なのである。平和状態が国民の無気力に由来する国家、そしてその国民があたかも家畜のよ

うに導かれて単に隷属することのみ教えられている国家は、国家というよりは暗野(ωo嵩εαo)とよぽ九てしかるべ

きである」(弓鑓oρ℃9こO鋤b三くり㈱b。粋ら)。

 そしてこのようなスピノザの国家概念はまた、当時有力であつたボッブスの機械的国家概念とも異なつて、きわめな

てダイナミックな国家概念であつた。彼の考えでは、国家は単なる外面的に強制された統一体であるというだけでは

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スピノザの国家論

+分ではなく、内面的に自律性を持つ統一によつて結合されているものでなけれぽならない。すなわち、「最善の政治

というものは、まず第一に理性と真の精神力と精神生活とから規定づけられた生活を意味しているのである」(↓学

9。

純マ℃orO碧9<鴇㈱㎝)。そのうえ、他人の幸福はまた自分の幸福の一つでもあると言つたス.ビノザの倫理観念

にとつては,このように他人と共同して完成にたずさわるということは、いわば最高善ででもあつたのである。ここ

に、あらゆる個性がより高い個性と結合することによつてより完全性を増したように、人間が相互扶助によつて生の

課題を遂行する場合、万人の力を共通の目標に向ける最高の形式は、とりもなおさず国家形態に帰するということに

なつてくる。それだからスピノザの哲学にあつては、いかなる個人倫理学にも反して国家が肯定せられているのであ

る。すなわち、「道徳的人間は、自分自身のみに服従する弧独においてより、共通な法律のもとに生活する国家にお

いてはるかに自由なのである」(団渥げ; 一く噛 勺目Ob°刈Q◎)。

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