ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに...

102
平成23年度 ハンガリー音楽の軌跡 ~ハンガリー的要素を基とした創作曲への試み~ 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 教科・領域教育専攻 芸術系コース(音楽) M09201C 大網明代

Upload: others

Post on 16-Mar-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

平成23年度

学 位 論 文

    ハンガリー音楽の軌跡

~ハンガリー的要素を基とした創作曲への試み~

 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科

教科・領域教育専攻 芸術系コース(音楽)

   M09201C 大網明代

Page 2: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

日次

はじめに...、...

凡例...,......、

.......、.............、.....I.................、....、..、.、............、.........1...、..........,............1

................................、........ .......、........、......、...........,........1...............2

第1章 ハンガリーの歴史第1節 民族と文化のルーツ..,..........1......一、......................、.............1.........

第2節 ハンガリーにおけるロマとジプシー楽団...........、.、......................

第3節 19世紀ヨーロッパにおけるハンガリー音楽文化の影響........、..

.、..、.......3

 ........8

..........17

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展第1節ハンガリー音楽を見直したバルトーク・ベラ.......................................24

第2節 声の多様性を生かし学校教育に取り入れたコダーイ・ゾルターン.......40

第3章

第1節

第2節

第3節

バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

21世紀にかけて活躍したハンガリーの作曲家.....,...、、..、............I........50

自作曲《CSARDAS for F1ute》の概要..1.1............、..,.....................、.........63

《CS五RDAS for F1ute》のハンガリー音楽的要素について..、.......1........70

おわりに、.、.................、、...、、................、.............、.....、......一、................、...、.......、.........81

参考文献楽譜、及び資料....,.....1........、............1..............1..............................1...1..84

謝辞........................、...、、............、.....、、........、、....1............、...、.........,..........、..............88

巻末資料《CSARDASforFIute》CompbyA㎞yoUEMATSU楽譜・音源(CD)

Page 3: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

はじめに

 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

は主に西欧音楽を学んでいたので、ハンガリー音楽の定義なるものが不明であ

った。1999年夏初めてのインターナショナルサマースクールで、ブダペス

トに降り立った時、ハンガリー人は、髪も目も黒に近く、身長もさほど高くな

く、どちらかというと農耕民族である私たち日本人に近い西洋人という印象を

もった。スラヴ系、ラテン系でもない。かといってゲルマン系とも少し異なる

アジアを垣間みた。

 2000年夏、ハンガリーのリスト音楽院で学ぶこととなり、正式にブダペ

ストに住居を構え生活し始めるといくつもの気づきや疑問が生まれた。容姿だ

けではなく言葉までもがなじみやすい。子音は母音を伴って発音されるハンガ

リー語(マジャル語)が、母音で終わる日本語を話す私たちにはラテン、ゲル

マン、スラヴ語より遥かに耳なじみが良いということ。

 そして最たる疑問は、沢山のハンガリー人の音楽家を知ることにより「ハン

ガリー人作曲家の書く曲、ハンガリー人の演奏家の奏でる手法にどうして懐か

しさを覚えるのか?」

 ハンガリー人(マジャル民族)はその昔、東に故郷のあった民族である。複

雑な歴史を経て、東洋の記憶をしっかり精神に抱き、西欧とは異なる独自の文

化を発展させていったという。そのことが音楽にどのように影響しているのか。

西欧音楽とはどこか違う哀愁帯びた独特の音楽はどんなルーツを経て生まれた

のか。

 それらの疑問を研究し、それを踏まえ、自作曲制作へと発展させて提示して

いくこととする。

1

Page 4: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

凡例

1

2

3

4

5

6

《》 曲名、曲名集に用いる。

「」 資料名、重要語句を示す場合に用いる。

『 』 書籍に用いる。

ハンガリー人の名前は現地表記に従い姓、名の順とする。

ハンガリーの地名は正確なハンガリー語発音のまま日本語表記する。

自作曲《CSARD五S虹F1ute》の作曲者名は筆者の音楽活動名であ

るAkiyo U醐ATSU(上松明代)で署名する。

2

Page 5: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章ハンガリーの歴史

第1章:ハンガリーの歴史

第1節民族と文化のルーツ

 中欧ヨーロッパに位置するハンガリー。「中欧ヨーロッパ」とは、ポーランド、

チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの四カ国を指す。

 1989年のいわゆる「東欧革命」で社会主義体制が倒れて以来、ヨーロッパで

は、何が「東」で何が晒」か、そして何が「中央」なのか、人々の理解に混乱が

生じていた。1989年以前は、「東欧」の範囲は今よりも明確であった。それは

何よりも政治的な便宜上での概念で、その実体は、北は東ドイツから南はバルカン

半島まで、ヨーロッパの中・東部にかたまっていた。それはおもに、当時のソ連勢

力圏の社会主義諸国のことだったからである。民族的にはこの地域の住民の多くが

スラヴ系だといわれる。

 しかし民族的にはスラヴ系とはいえ、政治的な意味での「東欧」という区分は、

民族や文化に関する何らかの共通点に基づくものではなかった。

 チェコやポーランド、ハンガリーといったもともとヨーロッパ志向の強い国の知

識人にとっては、本来のr東」とはヨーロッパとは異質なロシア(ソ連)のことで

あり、自分たちが「東」の勢力圏に強制的に組み込まれたのは不本意なことだった

から、社会主義体制が崩れるやいなや、「自分たちの国は東欧ではなく、中欧なの

だ」と主張し始めたのは当然の感情といえよう。

以下、ハンガリーの歴史を記す。

 ハンガリー共和国の首都ブダペストが誕生してからまだ130年程しか時を経

ていない。この周辺地域に人が住んでいた痕跡は旧石器時代にまでさかのぼって確

認することが出来る。

 5世紀初頭にはフン族が、その後にはゴート人、ランゴバルド人、アヴァール人

などがこの辺りを通過していった。

 その後にやってきたのがハンガリー(自称マジャル)人だった。ハンガリー人の

3

Page 6: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

祖先はウラル山脈辺りを起点として民族移動を繰り返してきた元はアジア系遊牧

騎馬民族で、9世紀未に現在のハンガリーの地にたどり着き、先住のスラヴ人を征

服し、この地に定往したのである。東方からヨーロッパの地に侵入した異民族の中

で、今も間その言語と文化を保持したまま生き残っているのはハンガリー人だけで

ある。

 ハンガリー語は言語系統からいうと、ウラル語に属しており、周辺で話されてい

るチェコ語、スロヴァキア語、ポーランド語はスラヴ系の言語であり、インド=ヨ

ーロッパ語族に属する諸言語とは、文法構造も語彙もまったく異なっている。

 同じウラル語族に属するのは、ヨーロッパのはるか北方で話されているフィンラ

ンド語やエストニア語である。これらの言語は元々同じ一つの言語から分化し、発

展してきたもので、その言語(祖語)を話してきた人々はウラル山脈辺りに暮らし

ていたとされている。

 ハンガリー語とフィンランド語は、単語の後ろに接尾辞を接続させることによっ

て表現するなど、文法構造のうえではよく似ている。しかし、今はそれぞれの話し

季が互いに相手の言葉を理解することはまったく出来ないし、肌が白く背がスラリ

と高いフィンランド人と、どちらかといえば浅黒く髪の色も黒に近く小柄なハンガ

リー人が同系であるとは、現在の外見からは想像出来ない。もっとも、言語の系統

と民族の系統は必ずしも一致するわけではない。それに、共通の言語を話していた

のは、今から数千牢も昔のことである。

 ハンガリー語の他のヨ}ロッパ言語との決定的な違いは、人の名前は娃・名の順

に、住所も大きいほうの単位から順に書き記す。

 今日のハンガリー人の宗教は、ほとんどはカトリック教徒である。(他、プロテ

スタント、カルビン派新教)ゲルマン大移動が収拾し、また同じく略奪遠征を繰り

返し、他の民族から恐れられたマジャル人たちも定住化が進み、それと共に、キリ

スト教が浸透してゆく。

 11世紀初頭、イジュトヴアーン1世がローマ教皇から王冠を授かり、初代国王

となる。そしてここにハンガリー王国が誕生し、正式にキリスト教に改宗しヨーロ

ッパの文化にとけ込んでいった。

4

Page 7: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

 13世紀、一時的にモンゴル来襲により国土が侵略され荒廃するが、その後、勢

力は増幅し、14世紀後半、北はポーランド、南はバルカン半島にまで勢力を伸ば

し、その勢いは15世紀にオーストリアまでも勢力圏内に入れることになる。

そしてヨーロッパ最大の帝国に発展した。

しかしそれは一時的なものであった。

 14世紀後半から繰り返し行われたオスマン軍の北進に悩まされ、1526年ハ

ンガリー軍はモハーチの戦い(モハーチとはハンガリー南部の国境に近い街)で、

オスマン軍に大敗する。.

 その後1世紀半もの間、オスマン帝国の支配下に置かれることとなった。(*今

現在もスポーツなどで他国に惨敗した時ハンガリー人はよく「モハーチ以来の大敗

北」という言い方をする。)

 オスマン時代のハンガリー王国は、中心のオスマン帝国領、西部と北部に位置す

るハプスブルグ領、東部のトランシルヴァニアとに3分割された。そしてハプスブ

ルグ家とオスマン帝国というふたつの大国の狭間で、国境線をめぐる争いは終始絶

えることなく、厳しい戦国時代を迎える。この間、当時のオスマン帝国のスルタン

(国王)だった、スレイマン1世に年貢を納めることによって辛うじて独立を保つ

ことが出来たトランシルヴァニアのみが、ハンガリー文化の伝統を死守出来た。現

在ルーマニア領となっているトランシルヴァニアが、真のハンガリー文化が残る地

としてハンガリー人の心の故郷となっている。

 このオスマントルコ人はイスラム教徒であったため、ブダにある聖母教会(現在

世界遺産にも登録されているマーチャーシュ教会)をモスクに改造したり、キリス

ト教会からはマリアやキリスト像が取り除かれ、壁にはメッカの方扇を指し示すミ

フラーブ(聖寵せいがん・モスク内の壁のくぼみ)が造られた。温泉大国であるハ

ンガリーの最初の浴場もこの時代に建設された。・(トルコ式浴場)

5

Page 8: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章ハンガリーの歴史

 このように今も、ブダペストの街にはイスラム建築が渾然一体となって、オスマ

ン時代の痕跡をしっかり残しているのである。

 17世紀1686年、ハンガリーはハプスブルグ軍によってようやくオスマン支

配から解放される。しかし今度はそのハプスブルグ家の支配下に入り、マリア・テ

レジア在位時代(1740~80年)に再興され、徐々に発展の道をたどった。こ

の頃フランス革命にさえ影響を与えた啓蒙思想が、ハンガリー人の民族意識が大き

く発展させることとなる。特に、言語に対する意識が高まり、ハンガリー語がハン

ガリー民族のアイデンティティーを構成する重要な要素になっていく。

 こうして民族意識に目覚めたハンガリー人たちは1848年、ハプスブルグ家か

らの自由と平等と独立を勝ちとるために立ち上がったが、この独立戦争は敗北に終

わった。

 しかし、独立戦争敗北後のハプスブルグ家による抑圧支配は長続きしなかった。

1859年ソルフェリーノの戦いでフランス、イタリア軍に敗北して弱体化したオ

ーストリアは、ハンガリーとの和解を迫られた。こうして1867年、ハプスブル

グ帝国と妥協が成立し、ハンガリーは実質的な自治を手に入れ、オーストリア=ハ

ンガリー二重帝国が生まれた。ハンガリー王国の王位はハプスブルグ家のオースト

リア皇帝フランツ・ヨーゼフが兼ねることになった。尚、王妃はハンガリー人の間

で大変な人気だったエリザベート(ハンガリー語ではユルジェーベト)である。

 1914年オーストリアーハンガリー帝国はセビリアに宣戦布告し、第一次世界

大戦が勃発するが、1918年敗戦し、それによってオーストリア=ハンガリー帝

国は崩壊した。そしてハンガリーはオーストリアからの独立を宣言し、ハンガリー

共和国が成立した。

 第一次世界大戦の敗戦国となったハンガリーは、トリアノン条約によって領土の

3分の2以上を失い、人口の約3分の1がハンガリー周辺諸国で暮らさざるをえな

6

Page 9: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

。第1章 ハンガリーの歴史

くなった。現在も、ルーマニア、スロヴァキア、ウクライナ、クロアチア、オース

トリアといった周辺の各国に多くのハンガリー人が生活している。その申でもとり

わけ多いのがルーマニアのトランシルヴァニア地方で、約200万人のハンガリー

人が生活し、両国間の大きな民族間題になっている。

 トリアノン条約によって失われた領土を回復しようとしたハンガリー人は、ドイ

ツ、イタリア寄りの外交政策をとり、1941年第二次世界大戦に参戦したが、1

945年ソヴィエト軍の進撃によりドイツ軍は敗退する。それに伴いハンガリーは、

ソヴィエト軍に解放されようやく終戦を迎えた。その後1949年、ソ連の影響の

下、社会主義国家となり、ソヴィエト軍は戦後もハンガリーに居座り、共産党によ

る一党独裁が始まる。これに対して民衆が蜂起した1956年のハンガリー動乱で

は、ソヴィエト軍との市街戦で、ブダペストの街はまたもや傷つくこととなった。

 1989年、ハンガリーは一党独裁の共産主義国から複数政党制の民主国家へと

生まれ変わり国名を「ハンガリー人民共和副から現在の「ハンガリー共和国」に

変更した。

 ハンガリー人にとって「自由」とは当然の権利ではなく、常に戦い勝ち取ってい

かなければならないものであった。ハンガリー共和国の誕生は、何十年ぶりかで「中

欧ヨーロッパ」に復帰した瞬間であっただろう。

7

Page 10: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1車 ハンガリーの歴史

第2節ハンガリーにおけるロマとジプシー楽団

 先にも記した19世紀、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代のハンガリ

㎞音楽はどうだったのだろうか。

 この時代、当然のことながら首都が2つあれば、王宮、国会議事堂もそれぞ

れ2っずつあった。「音楽の都」と呼ばれるウィーン、「ドナウの真珠」と名付

けられたブダペストである。オーストリアはモーツァルト、シューベルト、シ

ュトラウスなど、現在もi肖、人気を博している音楽家が多数いるだけでなく、

広い文化レベルの高い土地として特別な地位を築いてきた。

 一方ハンガリーはといえば、首都ブダペストが華やかに再開発されたものの、

どちらかと言えば、壮大に広がる平原やバラトン湖、ドナウ川など恵まれた自

然環境と、そこで営まれる農業(ワインの産地としても名高い)が盛んで、人々

が思い描くハンガリーはむしろ牧歌的な風景だったのだろう。

 19世紀初頭までのハンガリーの音楽生活といって思い浮かべられるのは、

ハンガリー王国最大の大地主であったエステルハージ家や、18世紀後半から

注目を集めるようになった「ジプシー楽団」くらいではないだろうか。

そんなハンガリーの特殊といっても過言ではないジプシー楽団の歴史を追って

いくこととする。

 尚、日本では現在も「ジプシー」という呼び方が一般的だが、ここでは「iコ

マ」という呼称で記す。また、「ジプシー」という呼称は歴史的な固有名詞、作

品名にのみ用いて、人そのものはロマと呼ぶことにする。

 ハンガリーにおける最初のロマ(ハンガリー語ではツインカニと呼ぶ)に関

する記録は13世紀あたりに見られるが、確度の高い記述が頻出し始めるのは

14世紀後半からである。当時のハンガリー王位継承者であったジグモンドに

よる「ロマの指導者を決定するように」との勅令記録や、ハンガリー領スロヴ

ァキアの1399年の文献に登場するr馬の管理をさせるアンドラーシュとい

う名のロマ」などといった記述がその存在を立証させる根拠となっている。

8

Page 11: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1車ハンガリーの歴史

 そして15世紀には、音楽に携わっていたロマについての記録がかなりの数、

存在した。それに伴い注目すべきは音楽家、楽士たちの存在である。ベアトリ

ス王妃、ラーシュ2世、ジグムント1世などが彼らの演奏を寵愛し、王宮で御

前演奏をさせていた。

 17世紀に入るとこのような記録は見られなくなった。わざわざ記録するま

でもなく、ロマの音楽が目新しいものではなくなったからだ。残された数少な

い記録にはこうある。「彼らは生まれつき音楽に向いている。ほとんどすべての

ハンガリー貴族はヴァイオリン弾きで錠前屋を営むロマを抱えている」(168

3)この記述からもわかるように、当時のロマの多くは鍛冶屋を兼業していた。

そしてもう一つは、この頃までにヨーロッパでもっとも代表的な楽器であるヴ

ァイオリンの演奏を覚えるようになったことだ。このようにジプシー楽団で見

られるような貴族とのかかわりがこの頃からすでに始まっていたのである。

 しかしこのあと、ハンガリーの時代の変化と共にロマたちの取り巻く環境も

激変した。

 17世紀末にオスマン・トルコ占領から解放されたハンガリーはハプスブル

グ家の支配下に入った。ハプスブルグの領土から「ロマ、浮浪者」を排除する

命令(1749)が公布され追い出されたが、ハンガリーがトルニコ占領時とそ

のあとの戦いで国土が荒廃し、人口も大幅に減少していたため、ほどなくこの

方針は変更された。18世紀中期にはジプシーを定住させ、またハンガリー人

と同じように納税や兵役を義務づけたり、ハンガリー人と同じ言葉を話し(ロ

マニー語を話していた)服装や職業などもハンガリー人同様の生活を強要され

た。そして「新しいハンガリー人(丘jmagyarウーイマジャル)」という呼び名さ

え作られたのである。このことが、それまでハンガリーに住み着き生活してい

たジプシーとハンガリー人との同化を促進させることとなった。

 この一連の出来事こそがジプシー楽団の誕生への直接的なきっかけとなった。

たとえ魅力的な音楽を奏で人の心を捉えられたとしても、彼らだけの独特の生

活スタイルのままであれば、通例で宮廷や貴族社会に出入りすることは無理で

9

Page 12: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

策1筆 ハンガリーの歴史

あっただろう。上流階級と密接に関わった彼らの音楽活動はこのようにして可

能となった。

 「新しいハンガリー人」としてハンガリー式の名前をもつようになったロマ

は、音楽史の中でも名前を残すようになった。その最初はバルナ・ミハーイと

いう人物で、彼は当時の北部ハンガリーの宮廷音楽家として起用されたとの記

録がある。(1776)それによればバルナは名ヴァイオリン奏者であり、身分

の高いハンガリー人を相手に演奏しても恥ずかしくないような、立派な物腰の

人物だったらしい。楽団の他のメンバーはロマではなかったため、その部分で

ジプシー楽団とは異なるが、かなり近い存在である。また、バルナは他の「ジ

プシー演奏家」11人と演奏の腕を競ったとも記されているため、バルナのよ

うな立場で音楽活動をしていたロマがかなりの数存在したと例える。18世紀

後半にはハンガリ 東部、北部、さらにはウィーンでもハンガリー出身のrジ

プシーパンド」が活動していたとの記録があり、絵画にもその様子が描かれて

いる。ロマたちはハンガリーで早くから音楽活動を行ってきたが、国内に定住

しマジャル化が推し進められることで、ハンガリー人の音楽生活に深く根付き

活動を広げることになったと確認できるものである。

19世記り口のジブシ 業1≡0の責奏■■.申臭の鼻上重の業●がツィンバロム.

1805旱にポジョニで出■された業口裏量から。

10

Page 13: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリ…の歴史

 このように18世紀後半にはすでにジプシー楽団は成立していたように思わ

れるが、ツィンカ・バンナ(?~1772)の登場をもって正式にジプシー楽

団が始まったとハンガリーの音楽史では書かれることが多い。

 この人物は当時のハンガリー北酉部(現スiコヴァキア領)に定住していたロ

マの女性で、領主の命令によりヴァイオリンを買い与えられ、習わされていた。

そして結婚を機に、夫とその兄弟とでアンサンブルと組んだことが、ジプシー

楽団の事の始まりであるといわれている。彼らの楽器編成は、2本のヴィオリ

ン、ツィンバロム、コントラバスであった。

.そもそもジプシー楽団が演奏していた楽器だが、ヴァイオリンとコントラバ

スは西洋楽器であるが(後にクラリネットも入る)、ツィンバロムが入っている

ことが最大の特徴であろう。しかしツィンバロムは、当時のハンガリー人貴族

が愛好していた楽器で、ロマ固有の楽籍というわけではなさそうである。

 先にも述べたツィンカ・バンナのジプシー楽団は、自発的な活動は許されて

いたかった。というのも、演奏の場といえば領主の館であったため、ロマたち

は支給された制服を着衣し、食事の際のBGM的な演奏や舞踊の伴奏に従事す

るという完全奉仕の立場にあった。

 ロマのハンガリーへの定住の初期の頃は、まだその立場が不安定なもので、

自由に活動が出来るとはいえ、彼らから見たツィンカたちの活動は例外酌に条

件のよいかなり安定したものだったに違いない。

 ツィンカ・バンナよりさらに多くのことが知られているのが、ヤーノシュ・

ビハリ(1764~1827)である。ビハリは国内外での演奏の機会を持ち、

ジプシー楽団が広く各国に知られるようになる直接的なきっかけを作った、ハ

ンガリー音楽の歴史上、重要な役割を果たした人物である。彼の演奏は王侯貴

族をはじめ、有名音楽家、文人などが耳にしており、その申の一人にリストも

含まれている。

11

Page 14: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

 ヤーノシュ・ビハリは5人からなるジプシー楽団を組織し、ヴァイオリンの

名手として名声を獲得していた。その演奏場所は実に壮大で、国家的な行事や

貴族、政治家など様々な式典、戴冠式とそれに伴う舞踏会などに呼ばれていた。

国家的公式行事で彼のジプシー楽団の演奏を聴いた人の中にはハイドンなどの

ようにエステルハージの宮廷に仕えていたり、マリー・アントワネットの寵臣

の一人であったエステルハージ伯爵の館に滞在したシューベルトなどもいた。

 彼の作品は「楽譜」として現在まで存在する。このことはビハリ以前のロマ

にはなかった。しかしビハリは楽譜の読み書きが出来なかったため、おそらく、

ビハリが弾いでい走自作を同時代の人が書き留めたと考えられる。

その数は約80曲にものぼる。

ビハリの優れた演奏は大勢の音楽家の心を捉え、彼らはそのイメージに基づい

て「ジプシー」をテーマにし、また、そのモチーフを発展させて作品を生み出

したのである。

【譜例】ヤーノシュ・ビハリ《ハンガリー舞曲》または《ヴエルブンコシュ》

        Ao曲㎜麩皿d{8誠(1804頃)

■瑚H

1ム

Page 15: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

 ジプシー形式の影響を感じさせる作品にはハイドン《ハンガリー風ロンド》

やシューベルト《ハンガリー風メロディー》ウェーバー《アンダンテとハンガ

リー風ロンド》ドヴォルジャーク《ジプシーの歌》サラサーテ《ツィゴイネル

ワイゼン》ブラームス《ハンガリー舞曲集》などがあげられる。そして忘れて

はならないハンガリー生まれのフランツ・リスト《ハンガリー狂詩曲》である。

【譜例】ハイドン《ハンガリー風ロンド》 (ピアノ・トリオ G-dur Hob.XV:

25)より一策3楽章

ム醐。

へ肛■r

n’㎜o鵬

㎜り蛎z.

匹==■r

r■「

13

Page 16: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1車ハンガリーの歴史

 以上のように、18世紀から王9世紀初頭にかけての作曲家は多かれ少なか

れハンガリー・ジプシー音楽の影響を受けている。それは例外的とも言えるほ

どのビハリの活躍によりジプシー楽団がよく知られるようになっただけでなく、

ハンガリー音楽を代表するような存在にまでなったことにある。そしてビハリ

は特権階級の間でももてはやされ、その結果ジプシーそのものの社会的地位を

上げ、ビハリのフォロアーとして同じような編成で、冠婚葬祭などの場で演奏

するジプシー楽団はこの時期、飛躍的に増加した。

また世襲の伝統は彼から始まったと言われている。

 一方、ハンガリーの音楽史では、ジプシー楽団が成立した18世紀から19

世紀に2つの大きな動きがあった。兵隊の募集のための音楽「ヴェルブンコシ

ュ」と大衆音楽としての歌曲「マジャル・ノク」である。

 ハプスブルグ家の支配下であったハンガリーでは1715年から募兵制度が

採られこの制度は19世紀半ばまでおよそ1世紀半続いたのであるが、募兵制

度とは徴兵制度のように強制力がなかったため、常に兵隊が不足し、新しく若

い兵士を必要としていた。その兵士を獲得する方法として募兵部隊は、主に地

方をまわって若者を勧誘した。この募兵方法が一風変わっていた。それは募兵

部隊の者たちが地方の小さな街や村に現れ、人々の集まる広場や市場で、音楽

と踊りによって若者の注意を引いだというものである。そしてこの募兵制度が

始まってからいくらも経たない1730年代には、音楽と踊り(舞踊音楽)が

「ヴェルブンコシュ」と呼ばれる芸術様式として独立した。

この言葉の語源はドイツ語で募兵を意味するヴェアフング(Werbu㎎)で、そ

れに由来する語rヴェルブンコシュverb㎜1kos」の名で呼ばれることが多いが、

当初はハンガリーを指す語「マジャルmagyar」と呼ばれていた。ハンガリー人

の舞踊の音楽だから「マジャル」というわけである。

 このヴェルブンコシュ(マジャル)と呼ばれる舞踊音楽は国内だけでなく1

8世紀末頃には国外でも広く知られるようになり、「ハンガリーの」を意味する

14.

Page 17: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

Unga血scher(独)やbon餌。is(仏)の語に「舞曲」がついて「ハンガリー舞

曲」と呼ばれることが多かった。この種の音楽の流行は19世紀全体を通じて

人気を博したわけだが、この時代の「ハンガリー…  」という題名をもつ音

楽のほとんどが例外なくヴェルブンコシュの影響を受けている。そしてこの中

には先にも述べたリストやブラームスが含まれているのである。

 ヴェルブンコシュの定型は、ゆったりとした速度(La㎎o)から曲が始まり、

中盤で動きのある生き生きとした速度まで上がり(Au暇。 a血mato)、そして終

盤に向かって加速し華々しく(Prest/a㏄e1.)終わる、というものである。ジプ

シー楽団にとってこのパターン化された作り方はとても都合の良いものだった。

 まず繭の出だしの部分では、拍子感覚が曖昧になるほど、様々な装飾音符を

入れ、演奏する。(tempo,mbato・ab1ibに近い)原型はごく単純なはずのメロ

ディーはジプシー楽団が演奏することによって、時に甘やかに、時にもの悲し

く、複雑な音楽へ変身するのである。このゆったりとした部分こそ、プリマ・

ヴァイオリンにとっての見せ場であり、一番の聴かせ所なのだ。そして旋律を

展開させて演奏するプリマ・ヴァイオリンと、その場その場でそれに対応する

その他の楽団員のコール&レスポンスが繰り広げられる。このやりとりを聴い

て聴衆は、どの程度の技巧をもったプリマ・ヴァイオリンか、どの程度の器用

さのある楽団員なのかを判断し楽しむのである。

 次に、加速してゆく曲の終盤部分では、プリマ・ヴァイオリンだけではなく、

クラリネットやツィンバロムなど他の楽器も、超絶技巧を即興的に存分に発揮

する。この終盤部分は速度こそ加速するが、拍子が安定している分、前半に比

べてアンサンブルしやすい。

 もう1つの動きは、19世紀から20世紀にかけて生まれた音楽ジャンル「マ

ジャル・ノク」である。これは歌曲でラブソングが主流であった。マジャル・

ノクにはスローテンポの「ハルガト㎞(ha11ga此)」と4分の2拍子の舞踊曲「チ

ャールダーシュ」とに分類された。チャールダーシュは、2部形式で作られる

15

Page 18: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

ことが多く、ゆったりとしたテンポ部のRaSSan(ラッシャン)と速いテンポ部

のFriska(フリシュカ)に分けられる。

20世紀初頭のハンガリーの作曲家、バルトーク・ベラとコタ㎞イ・ゾルタ㎞

ンの2人によって集められた民族音楽の音源は、このマジャル・ノクが多く含

まれている。

 周辺の国々、特に西欧でハンガリー音楽を思い浮かべる時に想起するのが、

このヴェルブンコシュなのである。これはロマが音楽に専念出来る、特別な環

境が整っていたハンガリーだったからこそ発展出来た。そしてジプシー楽団の

見事をいえる即興演奏の特別な才能などに示されるいわば名人芸が、ハンガリ

ーのロマが音楽において秀でた民族であるという印象を世界に広めた。

このジプシー楽団がハンガリー音楽史において印象付けた功績はやはりとても

大きいと言える。

 このようにみると、ヴェルブンコシュやチャールダーシュが、ハンガリーの

伝統的な音楽でないと全面的に否定することは出来ないが、明らかに民族音楽

そのものではなく、大衆的娯楽音楽に属し、主に表現の面において職業的なジ

プシー音楽家の影響を濃厚に示している。しかしそうした誤解を含みながらも、

ジプシー的なスタイルは巨匠的な音楽作りを発展させた19世紀末の流れをい

っそう推進するような形で、ハンガリーを代表する音楽として広く西欧まで浸

透していったのである。

16

Page 19: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

第3節 19世紀ヨー回ツバにおけるハンガリー音楽文化の影響

 ハンガリー音楽とゆかりの深い19世紀の著名な作曲家の中には、シューベ

ルトやブラームス、そして忘れてはならない、リストがいる。しかしながら、

これらのいずれもが厳密な意味でのマジャル人固有の民族音楽ではない。しか

しながら19世紀西欧ではそれが充分にハンガリー的(ジプシー的)な仔まい

を彷佛させていた。彼らの作品があたかもハンガリーを代表する音楽のように

誤解されるようになったことにどのようなものがあるのか。

以下が、その要素の概要である。

a.ジプシー音階

ジプシー音階は、2カ所の増2度音程を含み、主音から増4度音程も特徴とな

る。また、第6音が属音に対して短2度の下方性導音として働くのも特徴の1

つである。ハンガリーの多くのロマン派音楽(特にヴェルブンコシュルとチャ

ールダーシュ音楽)に使われるためにそう呼ばれるのであるが、それと同じ理

由から「ハンガリー」旋法(もしくは音階)と呼ばれることもある。

げ音上のジプシー替着)

短2度r・‘・…  1

着2度 場2度

(A音上のジプシ・育融)

      ,4度増2度

着2度    短2度

17

Page 20: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

b.リズム(拍節的特徴)

曲の区切れによく登場するポカーゾーと呼ばれる終止音型。元はハンガリー舞

踊くヴェルブンコシュ)におけるもっとも重要な動きの一つで、「ハンガリー風」

を醸し出すパターンとしては非常にポピュラーなリズムである。

【譜例】 リスト《ハンガリー狂詩曲 第3番》

『村ゲン1㌧、“仰柚終七榊一ソ

 オーストリアを代表するシューベルト(1797~1828年)は、ウィー

ンで生まれ育った。その後1818年、21歳の時にエステルハージ家の音楽

教師としてハンガリーへ行くことになる。まさにその時期にジプシー楽団やヴ

18

Page 21: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第ユ車 ハンガリーの歴史

を残している。《ハンガリー風メロディ汽一m◎“》のように、タイトルからのイ

メージ通りハンガリー音楽を感じさせるものもあれば、1827年に完成され

た《即興繭◎p.142》の第4番はジプシー音階を用い、全体がハンガリーのジプ

シー音楽風な要素で彩られ、ヴェルブンコシュ的躍動感ある。

【譜例】 シューベルト《即興曲集 第4番トm◎ll◎p.143》より

4.

ム此ε職8ふ鉗胴〕do・

 徴念8  £ 2

{.’

ηト・棚

、   ’   ,一    ‘

 。  ‘ .2

婁曇

U

8.、“・・一,’‘“・I‘‘’‘・II一“’「

・ ・∫・ 一・ vo’’書e.’ ‘

篭幕暮暮幕奪舳

3           注

零二二1

s

19

Page 22: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

 次にブラームス(1833~1897年)はドイツの大作曲家であるがハン

ブルクで生まれ育った。 (後にウィーンに定住)彼はハンガリー音楽との関わ

りが深く、1853年にハンガリーのヴァイオリニストであるレメー二と演奏

旅行へ北・東ドイツヘ行き、そして彼からジプシ 音楽を教えてもらったこと

が創作活動に大きな影響を及ぼすこととなった。

【譜例】リスト《ハンガリー狂詩曲、第13番》より

晩脾8①醐㎜曲。.

嵩.

区譜例】 ブラームス《二重協奏繭 ◎p.102第3楽章》より

  購、  ♪2.  2)二.字一一旋律郁恢幻咋1/

ム㎜Ψ08曲胴8M0・

ηh膿

・圭

㌧20

Page 23: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章ハンガリーの歴史

【譜例】 ブラームス《二重鶴奏曲 ◎p.102第3楽章》より

進4度

(ハ裏口に観順夢

着2度

目’   b’短2度      幅2度

(亦樹■0に銅■)

L;二J       L二_二}」

度2度       糧2度 ] 幅2度

 先にも登場したエドゥアルト・レメー二(1830-898)は1846年、

ハンガリ}革命に加わるが、革命の鎮圧と共に身の危険を案じ、オーストリア

帝国からドイツのハンブルクに一時難を逃れた。多くのハンガリー人の中には

レメー二以外にも音楽家がおり、ジプシー楽団の楽隊も含まれていた。ハンブ

ルクではレメー二の演奏するエキゾチック且つ情熱的な演奏は、ドイツの聴衆

を魅了した。ハンブルクでレメー二のピアノ伴奏者として共演していたのがブ

ラームスで、ふたりは演奏旅行を行いその旅の最中、レメー二はブラームスに

ハンガリー民族舞曲を弾いて聴かせた。その影響がブラームスに《ハンガリー

の主題による変奏曲》や《ハンガリ 舞曲集》を創作させたといえる。

 その後レメー二は、1854年にイギリスのヴィクトリア女王のお抱えヴァ

イオリニストとなり、1860年には大赦によりハンガリーへ帰国し、後に皇

帝フランツ・ヨーゼフのヴァイオリニストにもなった。北米、中米、インドシ

ナ半島、中国、日本と、文字通り世界中を演奏旅行したのである。

21

Page 24: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

 ブラームスのいたドイツ国内だけでなく、世界申を当時のジプシー音楽が魅

了したと言っても過言ではないだろう。

 ハンガリー生まれの作曲家リスト・フェレンツ(1811~1886年)は、

文字通り、ハンガリー生まれなのであって、厳密にはハンガリーの作曲家と呼

ぶにふさわしくない。彼の活躍の中心はフランスのパリ、ドイツのヴァイマー

ルであって、祖国での活動は晩年になってからである。(リストがハンガリー人

か否か、賛否両論がある。しかしここではハンガリー人という見解で記す。)

 リストの父はハンガリーの貴族であるエステルハージ・ミクローシュ侯に仕

えていた。このエステルハージ家では18世紀に宮廷の公用語をドイツ語とし、

次第にハンガリー的な特質を失ったとされる。そうした関係から、ハンガリー

西部地域(ウィーン近郊)では、日常的にドイツ語を話し、ハンガリー語の読

み書きができない人は珍しくなかった。故に、その土地で育ったリストは、ハ

ンガリー語はまったく話せなかった。(後に彼は日常的にフランス語を話すよう

に在る。)

 リストの音楽の才能に気づいていた父は、エステルハージ家を始めとする貴

族たちの前でピアノの演奏会を次々に開催し、大成功を収めていった。この当

時のハンガリーは音楽教育の確立したシステムがなく、また教育水準が高くな

かったため、一家は音楽の勉強に専念出来るウィーンヘ移り住んだ。こうして

リストはその後も、イタリア、フランス、ドイツなどヨーロッパで活躍。言わ

ば、コスモポリタンである。

 しかしリストは晩年ハンガリーに帰郷した時、ハンガリーの人々が自分を故

国の偉大なる作曲家と敬愛してくれた気持ちに感銘を受け、またその気持ちに

応え、自身を「マジャル人」と呼んでいたという。 (リスト生誕200年目で

ある2011年、ハンガリーの「フェリヘジ空港」が「ブダペスト・フェレン

ツ・リスト国際空港」に名称変更した。このことからもいかにハンガリー人が

リストを誇りに思い、今現在も愛しているかが分かる。)

西欧で成功を収めてからしばしハンガリーに戻ってくるようになったリスト

22

Page 25: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第1章 ハンガリーの歴史

は、チャリティーコンサートを開催したり、政治的なイベントで演奏をした。

ハンガリー側としては、こうした彼の「帰国」は最初から国外で(特に西欧)

名を成した名士を受け入れるという格好だった。リストも他の国々とは異なる

思慕の感情をもっていたので、その後も晩年まで密接な関係を築いてゆくこと

となる。

 また19世紀当時、西欧に比べて発展途上であった音楽家の育成、音楽水準

の向上にも力を入れ、王立音楽院(現在のリスト音楽院)の開校にも力を入れ

た。そして自身もマスターコースで教師としてピアノ科の学生を指導すること

となる。その尽力の甲斐あって、音楽院は次第に拡大を続け、開校5年目には

ニコンサートホールを備えた新しい校舎に移ることとなる程だった。

 このような功績からみても、彼自身はやはりハンガリーを「祖国」と見なし

ていたといえるであろう。

 彼らは当時のハンガリーでは大衆音楽であったジプシー音楽(またはハンガ

リー風)をロマンチックに尚且つアカデミックに作った。

真のハンガリー民謡は、その後バルトークやコダーイの調査・研究によって明

らかにされ、それをもとに「ハンガリー音楽」が作り上げられてゆく。

23

Page 26: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

第1節ハンガリー音楽を見直したバルトーク・べ一ラ

 ハンガリー人の最も偉大な作曲家であるバルトークだが、厳密に言うと先に

記したリストと同様、バルトークも生地は現在のルーマニア領だ。しかしリス

トの生まれた地が現在のオーストリア領、所謂西欧音楽の生まれた地、に対し

てバルトークの生地は地形的に奥まっており、農民文化が色濃く根付いている

地域であった。

 べ一ラ・バルトークは当時のハンガリー東部、エルデーイ地方(現ルーマニ

ア、トランシルヴァニア地方)のナジセントミクローシュに生まれた。父は農

業学校の校長で熱心な音楽愛好家でピアノやチェロの演奏もした。母は同じく

教職に就いていて、ピアノの演奏をした。このような比較的恵まれた音楽環境

にあり、バルトークの早熟な音楽的才能は早くから認められた。

 その後バルトークが8歳の時に父が亡くなり、恵まれた環境は一変した。バ

ルト㎞クの才能を伸ばすため、住居も学習の場も点々と渡り歩いた。その後、

作曲家で技巧派のピアニストとしてもてはやされたドホナー二・エルネーと出

会い、彼の勧めにより、ブダペストに移り住むこととなった。1899年ブダ

ペストの王立音楽院に入学した(ドホナー二とは同窓生となる)。リストの築い

た音楽院はドイツ的な音楽教育を中心としており、ここで作曲とピアノを学ん

だバルトークにとってブラームスの音楽を踏襲していた作曲の教授ハンス・ケ

シュレル(ヤーノシュ・ゲスラー)は幾分退屈な存在だったようだ。

 結局、バルトークは王立音楽院でピアニストとしての才能を伸ばし、卓越し

たピアニストとしての名声を高めていったものの、作曲に関しては当時の「ハ

ンガリー的」と見なされていた要素を用いつつ、リストやブラームスといった

大家たちのスタイルに影響を受けた作品を手がけており、独自のスタイルを確

立出来ないまま意気消沈していた。

24

Page 27: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

 しかしリヒャルト・シュトラウスの音楽の研究が彼の作曲家としての道に決

定的な変化をもたらしたのである。

 1902年2月にブダペストで初演された《ツァラトゥストラはこう語った》

を聴いて強い衝撃を受けた。そのことからシュトラウスのスコアーを熱心に研

究し始め、《英雄の生涯》を暗譜するまでになった。後にバルトークは、

『Z㎝ekδz1ony』(音楽ジャーナル)誌(1905,2)に《家庭交響曲》を紹介

する論文を書いた。シュトラウスの作品に影響を受け、作曲に対する情熱が再

燃したのである。02年末に部分的にオーケストレーションされた交響曲変ホ

長調(DD68)にはすでに、影響された痕跡が現れている。そしてこの時期に彼

の音楽に影響を与えたもう一つは、ハンガリー独立を求めてますます強くなる

民族意識であった。

 1903年王立音楽院を卒業したバルトークは、ハンガリー以外のヨーロッ

パ主要国でもピアニストとしてのキャリアを着々と積んでいく一方で、最初の

大作ともいえる交響詩《コッシユート》の初演を成功させ、作曲家としても認

められつつあった。翌年の1904年、作曲と練習に集中するためハンガリ㎞

の北部にあるゲメル県(現スロヴァキア)に部屋を借り、家族と離れて数ヶ月

を過ごした。元々地方出身のバルトークではあったが、ある程度の規模にある

地方都市に住んでいたため、文化水準が保たれた生活を送っていた彼には、ハ

ンガリーの田舎の伝統音楽に本格的に触れる機会はそれまでなかった。しかし、

ゲメルで彼の身のまわりの世話をしてくれていたリデイという娘が歌っていた

ハンガリ㎞民謡を耳にしたバルトークは、最初それがどういう歌であるのか理

解出来ず、困惑した。その歌はバルトークがこれまでに「ハンガリー的なもの」

として聴いていた音楽ではなく「真にハンガリーのもの」と見なせる音楽と出

会ったのである。それにより彼の活動は大きく変化することとなった。

王立音楽院を卒業してまもなくの1905年、音楽院時代に交流はなかった

25

Page 28: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2車 20世紀ハンガリー音楽の発展

が、バルトークの一級下で作曲を学んでいたコダーイ・ゾルターンと出会い、

さらに伝統音楽を知ることとなる。コダーイは作曲だけでなく、総合大学で民

俗学も学び、伝統音楽に関する知識が豊富であった。この分野においては先輩

であったコダーイの助けもあり、本格的にハンガリー伝統音楽調査に乗り出す

ことになった。

 その同じ頃、バルトークは音楽院のピアノ教授に任命されこれにより、安定

した生活を得、夏の長期休暇や復活祭(4月)万聖節(11月)などを利用し、

国内だけでなく隣国であるスロヴァキア、ルーマニアの伝統音楽調査に手を仲

はすことが出来るようになった。しかしこの場合のスロヴァキアやルーマニア

は、当時のハンガリー国内(正確にはオーストリア竈ハンガリー帝国のハンガ

リー王国内)のスロヴァキア系、ルーマニア系住民を対象としての調査である。

ちなみにバルトークの指し示すハンガリー民謡、スiコヴァキア民謡、ルーマニ

ア民謡などの区分とは、それが歌われる言語の種類によるものだと考えてよい。

 そして、その後の民謡収集は隣国だけに留まらず、ブルガリア、セルビア、

ルテニア、トルニコ、さらに北アフリカにまで及ぶこととなる。

 1906年から本格的に民謡収集を始めたバルトークとコダーイ、さらに2,

3人の若い作曲家たちであったが、その結果、それぞれの曲の変化形も含めて、

8000曲が収集された。次に収集した出たちを、次の3つのグループに分け

たのであった。

①盲い音楽様式によるもの

②様式上の統一性をもたない種々の時代のもの

③新しい音楽様式によるもの

 彼は、これらのうちの古い様式による曲が、非常に古い音楽文化の遺産を受

け継いでいるものであり、しかも、その継承が「農民階層」によってなされた

ものである、という仮説を立てたのである。事実、それらの曲のもつ古風な味

わいとパルランド・ルバートリズムは、この仮説の正しさを裏付けている。

26

Page 29: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

 次にこれらの古風な性格の曲に支配的な音階は譜例①である。

ただし、この音階の各音のほかに、譜例②、③に示した、本来この音階に含ま

れていない2つの音が、小節の弱拍部にグルペットの副次的な音として経過的

に現れることもある。そしてこのような場合の5音音階(ペンタトニック)は

ドリア、エオリア、あるいはフリギア旋法に変わる。

②     (または) ③    (または)

 バルトークが活躍した20世紀は、ドビュッシーやシェーンベルクが和音や

不協和音を機能和声からび解放と平行して、「リズムの解放」も頻繁に見られる

ようになった。これまで特に、18,19世紀においてのリズムは狭い枠のな

かに閉じ込められ、その中で和音やモチーフといった領域が開拓されたのであ

る。その申でリズムは2拍子、3拍子といった拍節法によって規制され、旋律

や和声に従属する脇役であった。しかし例えば3拍子の2小節を2拍子の3小

節に読み替えて演奏するヘミオラや、演奏におけるテンポ・ルバートなどのリ

ズム法もある。しかしそれらは確立した拍節リズムを前提とした中での技法で

あった。このように機能和声の解放と同時に、リズムもほかに従属する脇役か

ら、存在感を現すようになっていったのである。

27

Page 30: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

策2筆 20笹紗、ンガリー音楽の発農

またパルランド・ルバート(P班1a皿d㎜ba伽)と呼ばれる話し言葉(言葉調)

のように拍が伸縮する自由なリズムと、厳格なルパートのないリズムテンポ・

ギュースト(Te皿pogiu80)とがある。

舳■電脳

虚’8詞1蛇胆 ξ ・ 幽.・ ω四,

欄 一 ,狐熊胆ξ一価  ●6恥

㌫ ‘百6i●9わ’わ一舳, 一触

佃 1 謡工“ o’b・敏・

㎏茅雌機一裏新「“川

凶一期}

’ 誠・凶

螂一冊’榊・嚇・

  7舳岬蟹i旧8t0.J』①0

事蚤幸姿獲建饗蟄曽璽ヨ   A 鵡.一。.刺  ユ 1殖一罰}舳・㎞t 舳1・凹拙い㎏

幹烹書手看繋弾鷺苔奏翌

 譜面を一見して明らかなように旋律が小節の弱拍部から始まることは決して

ない。その理由はハンガリー語と直結していて、ハンガリー語はいつも言葉の

最初にシラブルにアクセントがくるからである。また、パルランド・リズムに

よる繭においては、旋律線は装飾音によって豊かに彩られており、曲の各列の

最後の音は引き延ばされている。

28

Page 31: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20雄紀ハンガリー音楽の発展

 古い様式の舞踊曲ではいかにもという特徴的なリズムが次の通りである。

譜例A,B,C,D。尚、譜例Dにおいては曲の各列の終わりに用いられる。

④差よ ♪♪よ

⑧麦♪J・ 一. ♪

◎麦♪よ ♪J.

⑨1♪よ J き

λ干崎考釧‡④⑧◎⑨ハダンて,一構舳木ていさ白

29

Page 32: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー晋業の発農

 1914年から17年にわたって書きためられた民謡を編曲した《ハンガリ

 農民の歌》に、上記で述べた様々な民族的手法のリズムが多く内在している。

その中で特によく使われるハンガリ 民謡リズムの曲を例に挙げる。

【譜例】 バルトーク《ハンガリ 農民組曲》フルート編 より

     編曲 ポール・アルマ

F1曲6

?旭撒。一

)一H、

30

Page 33: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

策2筆 20雌ハンガリー音楽の莞農

地d胴㎏(一.・80)

ρ㎜ωoo一㏄

  7^・ い

軋。舳伽。

ゲ物・.

Ψへ/竈・、、 /得」

 ガ:畠,一ρ』ザ、   ・へ。

’㌧・ノ

一ジ

、ピ)’

I肺。・・④蜘迎ム

ψ仰

」尖

31

Page 34: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

策2章 20世混ハンガリー音楽の発展

畑榊。仏100〉

C

(c

32

Page 35: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2箪 20世紀ハンガリー音楽の発展

書デし

,榊

φ 炉j

二〕r}rr1

ん3

’「rr凶7

{グ

し」こ二二〕選^4

33

Page 36: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

策2章 20撞紀ハンガリー青業の発展

ξ

加曲㎜㎏(J榊) 2側必 ○帥

。壌

)㎜1ψ

 ◎

・1河・匂

力。伽加

』β1、一』~一J^  ^  ^ ▲

・・} b

』象・・J^  ^

、ム

34

Page 37: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

 伝統音楽は“自由なリズム型と拍節の後退が頻繁であることはとても新鮮な

こと”だった。これは要するに2拍子系か3拍子系のような規則的な拍子で曲

が進むのではなく、箇中のある部分では拍子感覚が曖昧であり、また拍子が明

確なところでも、ずっと同じ拍子が続くとは限らず、次々に異なった拍子に移

行することもある。ということだ。

 例えば、スラヴ系のブルガリアの民俗音楽には2拍子と3拍子の単位を不均

等に緕合した拍子があるが、この生き生きとした「ブルガリアリズム」は、ピ

アノのための《ミクロコスモス》第6巻をはじめ、彼の作品にしばしば用いら

れている。

【譜例】 バルトーク 《ミクロコスモス 第6巻》より

gJT;rコJ■コπコ“§r□月∫刀1

童月月.r;rコ11§月月月∫刀1

§J1 1§・「;r1JTコ月1

35

Page 38: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

《三フ画スそ入》

…1

杣θ脚聰01-0,一。m

1

8

\ //  小節洲唯桃榊

/ \、

冒岬1

8 量8 5

1 一

^^

ξ

”ψ㍗グ

36

Page 39: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20地紀ハンガリー音楽の発展

妙吟

胴2

5舳筐商、りれ、      2

2 ・5‘

5 61{ 高ζ咳(

..’ @ン  ’・’\c

\ツ’’

・ 】

 2

37

Page 40: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20徽紀ハンガリー音楽の発展

彼は収集した民謡を編曲し、あるいは旋律やモチーフ、リズムを利用する形

で作品に反映させてきた。中でもリズムの使い方が非常に印象的である。

 これまで西洋音楽の一定の拍子・拍節感に慣れ親しんでいる人には、このよ

うなイレギュラーな拍子の音楽はどこかとらえどころのない印象を与える。

音の並び方と拍子が西洋音楽と異なることは、バルトークにとって西洋音楽の

音楽語法から離れて発想出来る可能性を意味していた。真に「ハンガリーのも

の」を模索していた若いバルトークにとって、これは「決定的な意味をもつこ

と」になった。もともとハンガリーは東からヨーロッパヘやってきた民族であ

り、東から来た民族と西欧音楽とは異なる音楽語法が存在していた。そしてそ.

のことが、「真にハンガリーのもの」を表現する上でまたとないツールをバルト

ークに与えることになった。

 こうして得られた民謡は編曲された形で、旋律やモチーフ、あるいはリズム

を利用する形で、彼の作品に反映されるようになっていったのである。

 最後にバルトークは19世紀までrハンガリー音楽鶉ジプシー音楽」である

という概念はまったく別のものであるということを自身の著書である『バルト

ーク音楽論集』で記した。以下、引用である。

「“もともとハンガリー自身のもの”として外国で非常によく知られている芸術

音楽の作品の中で、ハンガリーの民俗音楽がどのような役割を果たしているか

ということについて、ここで触れておきたいと思います。ところで、私はリス

トの《ハンガリー狂詩曲》とブラームスの《ハンガリー舞曲》を考えているの

ですが、実は、これらの有名な曲の中には、真の意味での民謡は一つもありま

せん。リストとブラームスが自身の作品の中に用いた曲のすべては、いわゆる

素人作曲家の作曲になるものでした。その理由はほかでもなく、リストやブラ

ームスの時代には、いわゆる教養人と呼ばれた人々の間で、実際の民俗音楽に

ついてほとんど何も知られていなかったということと、また仮に、何か知って

38

Page 41: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

いたとしても、そうした人々にとっては、民謡とは単に“民衆の歌”という集

合名詞にひっくるめられるような曲にすぎず、民衆的な通俗歌もいっしょくた

に考えられていたということになります。

ところで、リストがジプシーについて書いた著書の中でおかした誤りは、さら

に著しいものです。彼は、ジプシーたちが演奏している山や、彼が自身の作品

に用いた曲が、実際ジプシーの創作なるものである、と信じているのです。そ

して、彼によりますと、ハンガリーの農民たちの音楽には何らの音楽的価値も

ない、というわけです。これから見ても、彼が農民音楽について何も知らなか

ったことは明らかです。また仮に、何か知っていたとしても、その数は全くと

るに足りないほどのものだったでしょう。ましてや農民音楽を体系的に収集し

ようなどとは、夢にも考えて見なかったことは明らかです。彼が行きずりに農

民たちのもとを訪れたとしても、農民たちは、最も単調な、しかも真の民謡に

は決してなりえないような、都会で生まれた曲を歌うことによって彼をもてな

したに違いありません。といいますのも、農民たちは、都会の紳士たちの前で

は、どうしようもないほどにきまって、最も新しい、いわば都会から来たての

歌を歌い始めるのが常だからです。つまり、そのような歌こそが、都会の紳士

の前で歌うのに最もふさわしいものなのだと信じ込んでいたのです。そして、

長い間さんざん手間どらせたあげくに、ようやく私たちの前に、村の宝物を持

ち出してくるというわけです。」

B・バルトーク 肝バルトーク音楽論集』 岩城竃 紹駅あごら行書 1988 より

39

Page 42: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー昔楽の発展

第2節 声の多様性を生かし学校教育に取り入れた

       コダーイ1ゾルターン

 先にも述べたとおり、ハンガリーを代表する音楽家の名前を挙げよという間

いの答えの多くは、リスト・フェレンツかバルトーク・ベラであることが多い。

確かに日本に限ると特定分野の人を除いて、ニコダーイの知名度は低いかもしれ

ないが、ハンガリーの音楽史の申では間違いなく重要人物の一人に挙げられる。

彼は祖国ハンガリーの音楽また音楽教育に貢献した。ここでバルトークと異な

る点は、極めて「ハンガリー的」であった。

そして日本の特定分野の人にあたるのは、「合唱曲」を通して親しんでいる人々

のことである。彼はハンガリーの素朴な民謡を、声の持つ可能性を音楽へと結

びつけ、無限の多様性を用いることで、複雑にしかし柔和に、且つ表情豊かな

音楽作品へと変貌させたのである。

 コダーイは1882年にハンガリー南部のケチュケメードに生まれる。その

後、現スロヴァキア領に位置する北部のガラーンタに転居しここで3歳から1

0歳までを過ごした。このガラーンタという地域はジプシー楽団発祥の地とし

ても知られ、彼自身も幼少の頃、当地で有名だったジプシー楽団を聴いたと後

に振り返っている。10歳からはその少し北の歴史的な街ナジソソバト(こち

らも現スロヴァキア領)に移り、当地の管区ギムナジウムに通った。この時代

に彼はカトリックととりわけ音楽文化に深く触れた。声の音楽としてはガラー

ンタで古い民謡に親しんだが、ナジソソバトでは教会合唱団に参加することで、

キリスト音楽の豊かなレパートリーを知ることとなった。学業においては全て

の試験に抜群の成績を収めたが、特に文学と語学に秀でていた。同時にピアノ、

ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを習いオーケストラの演奏会のメンバーに加

わり、作曲も始めた。初期の作品のうち、フル編成のオーケストラのための序

曲二短調が王898年2月に、2台のヴァイオリンとヴィオラのための3重奏

曲変ホ長調が99年2月に演奏されている。

40

Page 43: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20雄紀ハンガリー音楽の発展

 そんなコダーイだったが、彼に音楽の才能があることを認めながらも職業的

な音楽家となることに難色を示した両親の意向を汲んで、ブダペスト分科大学

哲学科に入学、ハンガリー語、ドイツ語とならんで文学を専攻した。同時に、

王立音楽院の入学試験も受け、作曲科で学ぶこととなった。(バルトークと同じ

くヤーノシュ・ケシュレルに師事)バルトークより1年遅れの1900年のこ

とである。

 ニコダーイは平行した2つの勉学についてこう語った。「2種類の勉学のバラン

スをとるのは難しかった。ある時は一方に、別の時はもう一方に多くの時間を

割く、といった状態だった」らしく、王立音楽院では同時期に在学していたカ

ールマン・イムレ(後にオペレッタ作曲家として世界的成功をおさめる)やヴ

ェイネル・レオー(コダーイより年下の作曲家としては最も成功した一人)ら

に奨学金や賞をもっていかれた。このことから、2つの専攻をまっとうするの

はいかに優秀なニコダーイとて相当に難しく、苦労した様子が例える。

 こうして1905年に音楽院を修了、翌年06年には大学でのハンガリー語

研究の成果をまとめた博士論文「ハンガリー民謡における韻律法の節構造」に

よって博士号を取得した。

 このように言語や文学といった“言葉”にかかわる領域を学んだことで、幼

い頃から民謡やキリスト教の合唱音楽といった、言い換えれば‘‘言葉を持った

音楽”に親しんできたコダーイであったが、音楽そのものでないとはいえ、音

楽と隣接した領域を選択し、博士論文が言語の研究ではあるものの題材に民謡

を取りあげていることで、彼の中では並行していた2つの勉学が、結局は1つ

のものへと融合していったということが如実に示されている。

 1906年10月にコダーイの《夏の夕べNy虹ieste》が王立音楽院でのデ

ィプロマ授与式の演奏会で演奏され、その結果として外国留学のためのささや

41

Page 44: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

がな奨学金を受け取ることとなった。そしてコダーイは両親の意に反してでは

あるが、音楽家の道を歩むことになった。

 奨学金を受け、12月にベルリンヘ向けて出発し、次いで翌年4月にはパリ

ヘ移った。この6ヶ月はコダーイの生涯を通じて唯一の外国生活であったが、

その間の最も印象深い経験は、この時期の多くの音楽家がそうであったように、

ドビュッシHの音楽との出会いであった。ハンガリーの伝統音楽の中で重要視

される5音音階がドビュッシーの旋律体系においても一定の役割を果たしてい

ることに驚きを示している。ハンガリ㎞に帰国し、さらに度々の民謡収集旅行

から戻ったあとに、王立音楽院の教授に任命された。

 彼は博士論文でも民謡を取り上げて、ドビュッシーの音楽の申にもハンガリ

ーの伝統音楽との共通点を見出しているのだが、子供の頃に親しんだ伝統音楽

を深く理解するようになったのはいつ頃のことであろうか。

それについては、ナジソソバトのギムナジウムで学んだ頃に“楽譜”の形で残

された民謡集に触れる機会があった、と本人が述懐している。1896年のハ

ンガリー建国1000牢記念博覧会で、民謡を本格的に収集した初期の民俗学

者として知られるヴィカール・べ一ラのコレクションに接し、1903年には

ヴィカール本人からヴィカールが収集した蝋管録音から採譜・研究することも

許可されている。こうして先人の成果を事細かく調べ予備知識を身につけてか

らの1905年夏、すなわち音楽院卒業直後に幼少時代を過ごしたガラーンタ

に自ら収集旅行に出かけたのである。驚くべきは、公式にコダーイの民謡収集

は3歳の188δ年から始まったことになっている。聴き覚えた曲を楽譜に書

き付けるという作業を年端のいかない頃から行っていたということである。彼

は聴き馴染んだ民謡を、普通ならただ聞き流すところを、聴いて記録するとい

う、かなりの能力を要求される作業を幼い頃から習慣的に行っており、こうし

た経験が20代前半までに相当な情報量を蓄積させたということになるだろう。

42

Page 45: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

 年齢では1歳年上のバルトークがハンガリーの伝統音楽についての教えを乞

いにまずコダーイのところに出向いたという出来事の背景には、バルトークも

一目置くほど広く深い知識をコダーイが持っていたことにある。そうして二人

は民謡収集を通じて緊密な関係に深まっていった。バルトークは自叙伝風の記

録にコダーイについて次のように記している。(1918)「彼はその明解な洞

察力を健全な批評眼によって、音楽のいかなる部門にも大変に貴重な助言と有

用な忠告の両方を与えることができる」。そしてコダーイは自身のラジオ番組

《バルトークの思い出Bart6kem16ke戯e》(1955,11,3)のなかで、彼

らの共同研究の基礎とその始まりについて次のように述べている。「民衆の間か

ら新たに生まれた教養あるハンガリーの未来が私たちの前に浮かび上がってき

た。我々はその実現に向けての生涯をささげる決心をした」。2人の初めての共

同企画は《ハンガリー民謡Magyamるpda1ok》(1906)の出版であり、1コダ

ーイによってまとめられた序文には、彼らの計画が述べられている。そして2

人は第1次世界大戦勃発によ’り収集旅行に終止符が打たれるまで研究を続けた。

 1907年に母校である王立音楽院の作曲の教師となったが、自らの作曲と

研究活動のほかに、後進の指導という責務が加わった。この頃からコダーイは

作繭家としても、音楽研究者としても、もっとも影響力のある音楽家として内

外で知られるようになっていった。外国での仕事が頻繁になっていく最中でも、

コダーイの関心はやはりハンガリーで行うべき仕事に向けられた。彼は教育活

動の範囲を広げていき、1925年以降は若い世代に対する音楽の訓練に特別

な注意を向けるようになった。この目的のためにソルブエージュ練習曲を書き、

合唱曲を作曲した。このため彼の作品の大部分は合唱繭なのである。他の20

世紀の作菌家で、彼ほどこのジャンルについて精通し、情熱を注いでいる者は

いないといっても過言ではない。もとは素朴な民謡をモチーフであっても、コ

ダーイは無限の多様性を持つ声を用いることで、複雑な表現を持った音楽作品

へと変貌させていった。

43

Page 46: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

 その流れの申で、学校教育における音楽はどうあるべきか、また学校教育を

終えた人々が社会生活の申でどのように音楽と関わっていけるのか、そもそも

ハンガリー人のための音楽教育とはどういうものなのか、といった課題と向き

合いながら研究に取り組んでいった。このときに生かされたのが伝統音楽の研

究と、その中でも彼の場合は「人の声の音楽」に向き合ったことにあった。人

間の声の美しさと歌うことの魅力は尽きぬ泉であり、その魅力をあらゆる合唱

音楽の形態に注ぎ込んでいる。中でも中心的な位置を占めるのは、子供のため

のものである。そのため音楽を器楽で演奏するのではなく、自分の声で性格に

表現出来ることを目指し、その声で歌う母語の良さをもっともよく伝える民謡

やわらべ歌を教材に取り入れるという、当時としては画期的な考えを打ち出し

た。これがrコダーイ・メソッド」である。これにより主にハンガリーの伝統

音楽を用いた膨大な数の教材や合唱曲が生まれ、この教育法を普及されるため

にコダーイは亡くなるまでの40年以上、ハンガリー全国を精力酌に訪れた。

こうして浸透し、定着した子供のための音楽教育法rコダーイ・メソッド」は

ハンガリーだけに留まらず、世界的に注目されるようになったのである。

 「コダーイ・メソッド」とは音楽家としての特殊な能力以前に、子供たちの

一般的な音楽能力を作り上げることに主眼を置き、そのやり方としては徹底し

て自分の声で音楽を表現するところに特徴がある。同時に自国の文化や伝統、

母国語に深く根ざしたもので、’教師たちは音楽人として以前に、ハンガリー人

として祖先から受け継がれてきたものをいかに理解しているかを求められるも

のである。そのため、授業の中心は歌唱活動であり、音楽の授業が「唱歌 餉ek」

と呼ばれた。日本の音楽の授業ではピアノ伴奏ありきであるが、ハンガリ㎞の

r唱歌」の授業ではピアノはおろか、まったく楽器を使用しないのが普通であ

る。無伴奏(ア・カペラ)であることが大前提なのだ。正確な音程は先生がそ

の都度、音叉でとり、後は声だけで授業は進められる。

 教材はというと、ハンガリー人らしい音楽性が自然な形でそなわるように、

母語の歌を用いる。これは子供が成長の段階とともに自然に母語を身につけて

44

Page 47: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20憧経ハンガリー音楽の発展

ゆき、同時に母語を伴った音楽をも学ぶことが出来る。そして歌は帽定ドj

ではなく「移動ド」を用いる。これは今歌っている音の絶対的な高さではなく、

音階の申の意図を言う方法ということだ。嘔定ド」は音のたかさそのものを言

うということから、器楽に向いた楽譜の読み方で、「移動ド」は歌う人の声の音

域によって歯を移調することの多い声楽において、有益な読み方である。

この「移動ド」とかかわるが、楽譜を目で見て実際に歌えるようにするソルブ

エージの授業では、5線譜ではなく、線のないところに書かれた音符の下に「ド

レミ…  」が入っている教材も使われる。

り一撮φ〕  旧一新1叩}一票1

          顧           …

董卿ゾ岬則卿リ〃:lr2

擢新〃幌撮旧烈五

搦捌η別ノ卿i”l1

暑菱典期竃4,浮蔵濠烈着~一リ

枳紹刻表~到暇興矧髪1リ

 ハンガリ㎞の音楽の授業は暇唱」が中心ではあるが、学年が上がるに従い、

「鑑賞」も指導内容に含まれる。「鐘賞」という課題は元々コダーイ・メソッド

には含まれていなかったが、1961年から正式採用され、上級学年から取り

入れられることとなった。鑑賞繭にはコダーイ、バルトークをはじめ時代をさ

かのぼり、ハイドンやリストなど、ハンガリーとゆかりの深い作曲家の作品が

かなりの数敢り上げられている。これは自国の音楽史を窮しむことに着目して

いる。音楽史では、中世の吟遊詩人やトルコ支配時代の音楽生活、19世紀の

劇場と音楽、民族主義の作曲家(ヴェルブンコシュ)、そしてコタ}イやバルト

45

Page 48: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

一クの活動が取り上げられている。勿論、モーツァルトやべ一トーベン、シュ

ーベルトが活躍したオーストリアはハンガリーと2重帝国を形成していた時代

もあり、これらの音楽家も広い意味ではハンガリーと共通する文化圏内の音楽

で、ハンガリー人は自国の文化の延長線上という解釈なのかもしれない。以上

のようにハンガリーと関わりをもっていた作曲家たちは、ただ大作曲家として

取り上げるよりは、はるかに愛着を感じて聴くことが出来、子供たちはそのこ

とを机上の空論的ではなく、直接歌や鑑賞を通じて肌で感じているのではない

かと推測する。

 日本でのコダーイの知名度は決して高いとは言えない。と冒頭でも述べたこ

とから、ハンガリーでのコダーイの人気の高さは意外に感じるかもしれない。

しかし「コダーイの音楽はバルトークのように複雑で暗くないから安心して聴

いていられる」と一 「う印象を持っているという人が多い。例えば、バルトーク

のオペラ〈青ひげ公の城>が上演されると外国人の聴衆の割合が高くなること

に対し、コダーイの《ハーリ・ヤーノシュ》なら圧倒的にハンガリー人が多い

らしい。どちらのオペラもハンガリー語で書かれているわけだから言語の問題

ではないであろう。コダーイは民謡やわらべ歌の旋律やハンガリーの舞曲を用

いた作品が多く、コダーイ・メソッドからも分かるように、学校でこの種の音

楽を長年習ってきた人々にとって自然に入り込めるということが想像出来る。

 さてこのハンガリーで人気の高い《ハーリ・ヤーノシュ》(1926年)

はオペラと呼ばれているが正確にはジングシュピール(音楽付きの芝居)で、

この作品を絶賛したバルトークの薦めにより後に、管弦楽組曲としても演奏さ

れるようになる。

「ハーリ・ヤーノシュ」とはハンガリー人の名前であり、伝説上の人物として

は国内では知らない人がいないというほど有名なのである。あらすじは、初老

の農民ハーリが軽騎兵であった若い頃。ウィーンに攻めて来たナポレオン軍と

46

Page 49: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

戦い最後には敵を撃退したといホラ語しである。この物語の背景に長く他国の

支配に著しんだハンガリー民俗の怒りや悲哀が含まれており、コダーイはそん

な勢力には屈しない農民の浸しさをユーモアも交え、表現している。

コダーイは自作曲の中に、ハンガリー各地の割合知られた民謡ばかりではなく、

ユダヤ人やルテニア人のようなマイノリティ、また兵士の間で集めたごく一部

の間で所用されるような歌まで幅広く、素材として用いた。そして《ハーリ・

ヤーノシュ》も例外ではなく、そのような素材が使われている。

正確に言えば、「素材として」というよりも、ほとんどそのままの形で歌詞さえ

も変えず使用しており、数多くの登場人物にそういう原型に近い民謡と歌詞が

織り込まれそれが矛盾なく理解出来るように組み立てられているという扱い方

の巧みさには驚かされる。

元となった民謡V劉舳を此1醐胆

Ai‘ 一σ棚 ㎞・oo・凶・凶雌揮 榊㎝ω一風

〔3r層3課門3rづ=r

一遡拙  富箇・㎞叔,前・態・虚血便綱一弛

              ⑤

8喝, 劃・bt,ぬ胸田租一肌 o皿崩燃伽篤一血6t、

楽譜①H師

ク詠魂舳舳      一k邑一ユ。 ・ 曲一㎜k,

6価 ・ 刷r地f  。 加r

    .     二一

(由抑   帆・邸①一1

厘‘艶跳, i’艶ik榊・㎏, ^〇三一㎞,

^  s£  .

風・舳,  一助躰・k呪・ 5㈱  蜥・9成研 ㎜一

  ^

Page 50: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

楽譜①は《ハーリ・ヤーノシュ》の中でとりわけ美しい旋律として知られ、管

弦楽曲版の中にも第3歯「歌」として登場するおなじみの曲である。ハーリと

愛するエルジュの2重奏として嶢1の冒険」に登場するこの歌は、バルトー

クが1906年に着い女性から収集したもので、ぽぽ原型のままであるが、作

晶中ではオーケストラに含まれるツィンバロムが日]象的な響きを奏でている。

元となった民謡Md絶①r聴㎞to 凶.

1.衙凶・読羽腕,D一㎜細・t榊,

Kも両1・梱

㎜a地曲1㎜田08秋6s,酬佃一触.          凶.

ki帽皿k6㈱一,S枇6能皿G一, 雌6o o独赫 騨・d重竈 ‘ 1:d,

楽譜②虹δ棚拓p㏄0㎜b説001・・)

H卸 刃

Ti珊由言11一職, Dll一曲t{1。批川 此roo 一皿。血、一皿ゐ’ d附砧。砂 8’挑f・曲r脇r‘刷㎜軌

亙和解   f”   地。‘3.

      (      Φ

 「第3の冒険」の最後にはハンガリー人に大変よく知られた歴史的音楽が登

場する。楽譜②

48

Page 51: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展

 ハーリがナポレオンの兵士たちを踊りに巻き込むこの音楽は、コダーイが1

911年に収集した歌に基づいているのだが、この歌自体はハンガリーで19

世紀半ばまで行われていたヴェルブンコシュの歌で、民謡としても人々の間で

歌い継がれてきた。

 2つの例からも分かるように、コダーイは素材曲のもつキャラクターや雰囲

気を充分に吟味し、それがより際立つように構成し曲に反映させている。この

ような手法により、単なる一民謡だったものがオペラとして再生し、その親し

み深さがハンガリー人に愛される由縁ではないか。

 このようにしてコダーイは様々な分野を手段とし、ハンガリーの伝統に向き

合おうとした。そして彼が研究を重ねることにより、人々が今まで特に意識し

ていないものの申にも伝統という観点から貴重で大切なものがあるということ

を示したのである。無意識を意識に転ずる、伝統を受け継ぐとはまさにそうい

うことであり、コダーイは音楽そして音楽教育によってその姿勢を人々に教え

たのだと言える。

49

Page 52: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、籟ダーイ以後のハンガリー音楽

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー

音業

第1節 21世紀にかけて活躍した作曲家

 19世紀から20世紀初頭にかけて、それまで大衆音楽が主だったハンガリ

ーの音楽界に変化が訪れた。それがリスト、バルトーク、コダーイであった。

現在のハンガリーで音楽関係の学校(リスト音楽院、バルトーク音楽高校)や

コンクール、賞など、特別に位の高いとされるものにはたいていこの3人のい

ずれかの名前が冠されている。ハンガリーの音楽界をリードし、ハンガリーの

作曲家を代表する存在である。そしてここでは、彼らが培った音楽の土壌から

次の世代に、どのような才能が生まれ、また発展させていったかを記す。

 ファルカシュ・フェレンツF蛆k舶・晦蝸ユ。

(1905~2000年)

ハンガリーの南西に位置するナジカニジャで生まれる。この街はアドリア海沿

岸からアルプス山脈、またはウィーン、ブダペストヘと向かう通商路の申聞地

点で、数世紀にわたり交差路として大変栄えてきた町である。

1922年~27年 リスト音楽院でヴェネイ・レオとシクローシュ・アルベ

ルトに師事。

29年~31年 イタリア、ローマの聖チェチーリア音楽院でオットリーノ・

レスピーギについて学ぶ。

32年~36年映画音楽作曲家としてウィーンとコペンハーゲンに移住。

50

Page 53: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

36年ハンガリーに帰国し、ブダペスト、セーケシュフェヘールヴアール(ハ

ンガリーの最初の大都市)で教師兼指揮者となる。

41年~44年ニコロジュヴアール(ルーアニアのトランシルヴァニアの首都

的な存在の街)の音楽院の教授となる。

46~48年セーケシュフェヘールヴエールの音楽学校長を務める。

49~75年 リスト音楽院の作曲科の教授を務める。

受賞

1933年 リスト賞

1934年フェレンツ・ヨージェフ賞

1965年ハンガリー人民共和国功労芸術家、称号

1970年名誉芸術家、称号

1979年theGot倣edv㎝H1erder閉ze(ヘルダー賞)*2

1984年the“Cava1ierede1rOrdinede11aRepubb1icaIta1ia蝸”(カヴァリエレ賞)

 ファルカシュ・フェレンツはハンガリー(隣国のルーマニア等)ではバルト

ークやコダーイに匹敵するほど名の知れた、そして人気のある作曲家の一人で

ある。没後10年であった2010年には、ハンガリー国内で数々のファルカ

シュ作品の演奏会が開催された。

 彼は音楽教育にも力を注いでいたのだが、ハンガリーでは音楽を専門で学ぶ

高校や大学以前に音楽小学校が存在し、ブダペストだけでなく、ハンガリ㎞国

内に次の4つの音楽小学校がある。

51

Page 54: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

A nagykan1zsal Farkas Feren(Zene-6s Aranymetsz6s M6v6szeti lskola

(ナジカニジャ ファルカシュ・フェレンツ芸術音楽アカデミー)

Farkas1=erencMuv6szeti1s1〈o1aSさrospatakFarkas FerencM口v6szeti lskola

(フェルカシュ・フェレンツ芸術小学校)

DunakesziFarkas1=erenc Zeneisko1a Eger

(エゲル ファルカシュ・フェレンツ音楽小学校)

1=arkas l=erenc Zeneisk〇一a Budapest

(ブダペスト ファルカシュ・フェレンツ音楽小学校)

 コダーイの教育はr歌でのアプローチ」であったが、ここではr楽器からの

アプローチ」で、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのような基本的な楽器以外に

管楽器も学ぶ。

 同世代の音楽家の大部分が作曲をコダーイに習い、概してバルトークとコダ

ーイの影響下にあるのに対・しファルカシュは、ローマのレスピーギに師事し、

より幅広い視野を得ることが出来た作曲家である。彼はある程度までレスピ㎞

ギ自身の師であるリムスキー=コルサこコブの音楽上の系譜を継ぐといえる。こ

のリムスキー=コルサコフからの間接的な影響は、彼の別の弟子であるストラ

ヴィンスキーからの直接の影響と結びついて、ファルカシュの卓越した器楽書

法と管弦楽における色彩感の豊かさに如実に反映されている。またローマは彼

に過去の文化に対する興味をも起こさせた。その地で初めてよどみない表現と

優雅で均等のとれた構成に触れ、次第にそれらを吸収していった。ハンガリ㎞

へ戻ってからは民謡収集に関与したが、それによってまた別の音楽の伝統を知

52

Page 55: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、二!ダーイ以後のハンガリー音楽

ることとなった。

 さらに、教師としての実践的な経験、及び劇場音楽や映画音楽に携わったこ

とも、ファノレカシュにとって極めて有益なことであった。作品には、オペラ、

オペレッタ、バレエ、ジングシュピール、パストラル(日ヨ国歌劇)、人形劇音

楽、ミュージカル、舞踏オラトリオがある。また数多くの器楽曲、声楽曲、管

弦楽作品を作曲したが、これらは宗教曲、非宗教曲の双方を含んでいる。彼の

インスピレーションの源泉は多岐にわたっており、ジェズアルド(ルネサンス

期の作曲家で大胆な半音階技法の作曲家として今なお名高い)、ハンガリーの

古い民謡バラッド(バラード)、ストラヴィンスキー、十二ニ音音楽の全てが、

彼の創作様式に影響を与えている。しかし最終的には、統一のとれた個性的に

して民族的かつ、国際的な彼独自の語法を作り上げるに至った。そのような様々

なジャンルにより書いた作品数は700にものぼる。ファルカシュの特徴とし

ては、管弦楽菌が多い。

 代表曲に、《鵡GIMAGYARTANCOK五7世紀の古いハンガリー舞曲》(1

943年)《BIHA㎜ROMANTANCOKルーマニアンフォークダンス》 (19

50)《Gyumo1cskos虹 フルーツバスケット》(1980)《CONCERTINO脇㎡虹a

6s v㎝6szenek肌aハープと弦楽器とためのコンチェルト》 (1937)がある。

その申でも《R直GIMAGYARTANCOK17世紀の古いハンガリー舞曲》は様々

な楽器の編曲があり、特に頻繁に演奏される曲である。

 ファルカシュは真の実験家であったが、その実験は彼の想像力や技術的能力、

美意識に支えられていたので、一貫性を失うことはなかった。彼は極端な改革

者ではなく、統合の新しい可能性の探究を思考しているのである。そのことが、

ハンガリー人の愛する作曲家である由縁であろう。

53

Page 56: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

【譜例】ファルカシュ《17世紀の古いハンガリー舞曲》より

第條幸

H醐tO

               ん幽榊”^〃’ゐ舳

        ANT〔CHB DANZE UNGHER毘SI

         OLD HUNGARIAN DANCES          R倉GI MAGYAR T五NCOK

                (1987)

                  I

A11①8mm凶剛0    . . ・  へ 一 ・  ・      (、  ’  一

F柵鮎S Fe:e皿。

  (.1905)

’ ( ( ・

’3

昂漉

)〃

\J 、ソ ヴ

54

Page 57: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、目ダーイ以後のハンガリー音楽

伽紳

3

ヴ ツ7

μ

( 一

サ.‘ ’

● ‘

)●

.    一・ サ●

・ ・

‘ ‘

55

Page 58: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリ㎞音楽

 リゲティ・ジュルジュ・シャーンドル Ligeti Gy6㎎y S餉dor

(1923~2006年)

トランシルヴァニアの中南部出身

コダーイ・ゾルターン、ファルカシュ・フェレンツに師事。

ハンガリーのユダヤ人の家に生まれ、生後まもなく一家はコロジュヴアール(ル

ーマニア北酉部の都市)に移りそこで学校時代を過ごす。

1941~43年、コロジュヴアール音楽院でファルカシュに作曲を学ぶ。

第二次世界対戦が終わり、リスト音楽院で作曲の勉強を再開。

49年、リスト音楽院を卒業しルーマニアの民俗音楽に実地調査に携わる。

50~56年、リスト音楽院の和声、対位法、楽繭分析の教授に任命。

56年、ハンガリーからウィーンに移住。

61年、ストックホルム音楽アカデミーで作曲の客員教授を定期的に務める。

69年、ドイツ学術交流会の1年間の奨学金を得て、ウィーンから西ベルリン

に移る。

72年、カリフォルニアのスタンフォード大学の客員講師およびレジデンス作

曲家を務める。

73年、ハンブルク音楽大学の作曲の教授に任命。

受賞

1975年 ドイツ功労賞、ハンブルク市バッハ賞

56

Page 59: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、ロダーイ以後のハンガリー音楽

1956年にハンガリーを離れるまで、ハンガリーとルーマニアで小曲を幾つ

か出版したが、その多くは民謡のかなり単純な編曲や農民の音楽を基本にした

作品であった。その後ウィーンに移り、西欧前衛音楽の指導的な人物と接触を

持って、作風は変化していくこととなる。

 リゲティの創作活動は次の3つに区分できる。1、若い頃の作品 2.19

44~56年にハンガリーを出るまでに生み出された広範囲にわたる作品 3、

西欧やアメリカで書かれた作品、である。若い頃の作品のうち、現存する最も

早い時期の自筆譜として38年のものがあり、大部分はピアノの小品、歌曲、

ピアノを伴う室内楽である。このうち、《短いピアノ三重奏》(1941~4

2)は初めて公開の場で演奏された作品である。同じ年に、ムソルグスキーに

やや似た儀式の歌曲《キネット》 (1941)が出版されたが、これは彼の作

品の初出版となった。

 1944年から48年にかけて、彼は独自の様式を展開し始めたが、48年

の抑圧された政変によって冒険心に富んだ芸術家には種々の困難がもたらされ

た。職業作曲家としての地位を維持するためには、単純な民謡を主に合唱のた

めに編曲しなければならなかった。それでも、彼の急進的な考えのために音楽

院での職が危うくなったが、コダーイの助力と権威が功を奏し、直接的な迫害

からは免れた。

 1953年のスターリンの死後、最も厳しかった文化上の規制は緩められ、

《アバリシリオン》や《アトモスフェール》の様式への試みが、この時期以降

のスケッチや未完成のスコアのなかに見られるようになる。

 50年代前半に完成した作品の中で最も特徴あるものとして《夜 直jszaka》、

および《朝 Regge1》、バルトーク的な《第1弦楽四重奏》、《11曲のピア

ノ小品》がある。56年以降の作品とは全く異なり、全て自由な調性語法が用

いられている。

57

Page 60: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

 ここまででリゲティは半音階的複合体の技法を導入・発展させ、それを最終

的な形にまで進めた。それは、明確な特徴としての旋律、和声、リズムを排除

してしまうという実験的な曲を多く書いた。

 初期の作品はバルトークの影響を感じさせたが、1956年西側に亡命後は、

電子音楽の実験、トータル・セリエリズムに対する独特の距離感を持った独自

の音楽作りが特徴的。1970年以降は音の過度の繰り返しやいくつものリズ

ムの同時並行進行などにその特徴を見出した。最も有名な作品はスタンリー・

キューブリック監督作である『2001年宇宙の旅』に使用されたオーケスト

ラのための作品である。

【譜例】リゲティ《永遠の光》より

8

一州

h3r

     !舳●^口付。商      戸4.ム      ’・}三此伽~

缶祭r練^之㌔継1    一・一.、    中1

ギ1 11幽   1     ・  阯“,〃拙)

  雌続鮒七ふ   ,西1。、、。1、、

  ;1H蒋締ζ

づニト・71→資肋瑚  十  榊㌦蝉一  旧チド!。;  {・‘・:一“”り  :

           (ト・・“”            },一・“}           ’調川■

3国2    望宕)   ■舳叩{}=  [^3-r   デ■凶匁㎞一ヒ■一~‘・31

[5,F}5一   :『  …,・,

1雛饗艦鎧雛       12舳㎜’一}}       ; 紅舳{灼       .  }P『岬一.‘       ・     1‘ ‘■       ・F-5意許無細κ・’で舳

蛾鈴ぷ亭灘

識       ●       ●       1       I       ●   ‘‘阯        1   ・1“岨□■  ミF-3}

ψ剛ρ1”{    ;^口κ箏り・  ;

ユ舳c 1

58

Page 61: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、:コダーイ以後のハンガリー音楽

【譜例】 リゲティ《ヴォルーミナ》より

③■‘・‘‘一}ト1■‘ o『’I二・,‘一・一i’一一一一一・一・.一一‘一一一^一一一・■一一‘一一一’・一一一一■

        1一一肌‘        高ω一

〇舳.”。H。一一一〃印

Right

比nd

‘・■・‘m・“・一・・“・■・●1) ▲▼{ 出㎞・凹舳、1

㎞】錺

小1.I二1出!1

一__e』‘岬}肘’叱.2__一一一一一一一一一一一‘一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一“‘“・州1t■一一 〃I

Left

H帥d

 ↓

 o”o“静‘一“

’ユ■

独d㌫.漱

● “、

}^.〃・

Nt.}

■i @i i 〔5●}’■‘ or“’・)一一一■一一一・一i.一■一.一i i i一一一一一一’‘一一一i一‘‘・一一’.

P能a1

59

Page 62: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3箪 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

 クルターグ・ジュルジュ K岨拍8Gy6㎎y(1926年~)

ルーマニア出身(1948年ハンガリー市民権獲得)

ヴェレシュ・シャーンドル、ファルカシュ・フェレンツに師事。

1946年にハンガリーに移り、リスト音楽院に入学。

57年、パリ音楽院でミヨーとメシアンによる作曲科の授業に出席。

71年、奨学金を得てベルリンで学ぶ。

58~63年、バルトーク音楽高等学校に指導者として勤務。

60~68年、ハンガリー国営フィルハーモニアでも後進指導で、優れた若い

ハンガリーの演奏家を育てる。

67年、母校であるリスト音楽院に招かれピアノ科教師となり、後に室内楽科

教授に就任。

86年、音楽院を退職するが93年まではいくつかのクラスで教える。

93~95年、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団のレジデンス作曲家を務め

る。

94年、《石碑。p.33》クラウディオ・アバド指揮で初演。

2006年、ブダペストでそれまでの代表作による80歳記念演奏会が開催さ

れる。

2011年現在、フランスのボルドー近郊、クブサックに在住。

受賞

1954.1956.1969年エルケル賞

1973年コシュート賞

1985年バルトーク賞

60

Page 63: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

 クルターグはバルトーク、ウエーベルンの影響を受けているが、初期作晶か

ら継続的な影響を受けているのは、バルトークのピアノ作品である。リスト音

楽院在学中にバルトークの作品を研究したが、パリ在住中にさらに視野を広げ

た。そして彼の作品が初めて出版されるようになったのはその頃からである。

初期の作品で主なものは《コレアイ・カンタータKoreai kan箇胞》とヴィオラ

協奏曲であり、これらはバルトークやコダーイの流れを負うところが大きく見

受けられる。

 次にクルターグの。p,1は、新しい方向性を明白に示している。この方向転換

をもたらしたのはウェーベルンの音楽、シュトックハウゼンの《グルッペン

Gruppen》、リゲティとの関わりなどである。

 出版された彼の作品は極めて均質で、各作品は小規模構成から成り、その各

部はヴェーベルンを想起させる。一ヴェーベルンの音楽特徴は、完全無欠な技法

によりコントロールされた表現の豊かさにある。クルターグもその特徴を分か

ち持っている(複雑な旋律線、オクターブの移調、自由な活用、飛躍する韻律)。

 またクルターグの作品は、補足音程や他の非音列的な十二音進行を使用して

いる。十二音風の主題は時にバルトークに、あるいはシェーンベルク、ベルク、

ヴェーベルンらの自由な無調性の作品に近い。リズムにおいても、バルトーク

やハンガリー語の会話、有節構造の農民の歌を参考に使用している。そしてク

ルターグの作品には頻繁にツィンバロムが使われるが、これはハンガリーとの

より深い絆を示すものである。

 初期に発表された全ての作品は、純粋に器楽のためのものであったが、この

作品はハンガリー文学や歴史に対する興味を反映しており、歌詞は16世紀の

説法から採っている。これに続いて2曲の規模の大きな声楽繭を書いた。

これにより自己のスタイルを確立させていった。

61

Page 64: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

*1、コシュート賞とは文化や芸術面で著しい功績を残した者に与えられる賞

で、日本でいえば文化勲章に値する。

*2、ヘルダー賞とはヨーロッパ諸国の科学者と芸術家に貢献したものに送ら

れる国際的な賞である。

62

Page 65: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第2節 自作曲《CS畑OAS for Flute》の概要

 ここまでハンガリー音楽を研究してきたことをふまえ、ハンガリー音楽の要

素をなぞり、筆者の専攻楽器であるフルートのための曲を創作した。

編成はフルートとピアノである。(邦題 フルートのためのチャールダーシュ)

以下、楽曲構成の概要である。

A.1~8小節

【ピアノ前奏】

A耐311他ふ72

Anaante 」=72 4分の2拍子

B,9~10小節 【フルートカデンツ】 Rubato

C.11~16/j、節

4分の4拍子

【テーマ1】 虹dante皿ユen0-noss〇 一:63

.(●

・ ●

ρ

● ●

● ■

…●

■ ■

63

Page 66: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

D.17~21ノ』・節 【テーマ1・フルート変奏a】

3

週.22~26ノ』、負清 【テーマ1・フルート変奏b】

F.27~28/j、負百 【ブリッジ部】

G.29~32小節 【テーマ1・ピアノ】

κ ●

(■

3 3

 333Eγt『●

64

Page 67: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

H,33~40川、節

I.41~48/j、食清

       41

     亙

       4一

【推移部】

【テーマ21

工49~56ノ』、負百

Moa跳a切」・・72 4分の2拍子

       (   一  ・・  ・    〆

【テーマ2・フルート変奏a】

K57~64/j、負藏 雌務部】

/. \●

仰…

65

Page 68: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

L.65~72列、食費

           第3章 バルトーク、口ダーイ以後のハンガリー音楽

【テーマ2・フルート変奏b/ピアノテーマ2】

M.73~86/j、負繭 【序奏】

:N二87~90/j、質葺 【テーマ31 A11egro mo1to J2138 4分の4拍子

磐’ρ ●

磐ザ

ガ. ’■

● ■

■ ●

O.91~98/j・節

      9i

    亙

      91

【ブリッジ部】

66

Page 69: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

P.99~102/』、節

Q.103~108小節

     103

         第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

【テーマ3 再現部】

 【ブリッジ部・ピアノ】

R109~116小節.【推移部】

      回

     1。。““““㌫㌫、㌫   〃.

     I09 !

S.117~132小節  【テーマ4】 Aωan偽piumo船。 」=100

変拍子

   固加曲。佗

   11。一…    .

 凧

     榊   117

                 67

Page 70: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、ニコダーイ以後のハンガリー音楽

T.133~140小節 【テーマ4・フルート変奏/ピアノテーマ4】

U.141{’144列、節 【テーマ4縮小~転調】

141

V.145~160小節【フルートカデンツ】 Rubat0

145画Cα伽    ヤ

68

Page 71: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

W.161~180小節 一一ダ】 Presto 」:ユ42 4分の4拍子

 全体の繭構成は、大きく5つに分けられる。

①1~40小節まで「A」(テーマ1)ハ短調

②4工~86小節までr中間部到(テーマ2)変ホ長調

③87~116小節まで「B」(テーマ3)ハ短調

④117~160小節まで「中間部b」(テーマ4)ハ長調

⑤161~180小節まで「コーダ」ハ短調

タイトルからも解釈出来るように、チャールダーシュの形式で創作した。(チャ

ールダーシュについては第1章第2節に記載)

それにのっとり、「A」がRass㎜、「B」を趾iskaに区分け出来る。

69

Page 72: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

第3節 《CS畑MS for F1ute》のハンガリー音楽的要素に

        ついて

  第2節では曲の概要についてまとめたが、第3節ではハンガリー音楽の要

素を詳細し示していく。この曲ではジプシー音階、ハンガリーリズム、バルト

ークやコダーイが採取したハンガリーに受け継がれる農民の民謡から、ハンガ

リー語により自然派生する変拍子などを多く使用した。

以下、楽譜により提示する。

①ジプシ 音階(ハンガリアンスケール)

}]〉

● この音階はインドに起源をもち、14、一15世紀のジプシーにより、ハン

  ガリーに広がったとされる。

○ コードに対応させるのではなくフレーズづくりに使用。

ハエ

 ジフ㌃一部管「

ニニかり’→…1回胞・一一棚

R鮒洲凧

       Hづ、

70

Page 73: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー昔楽

◎ゲヂシ・音階

刃.

瞬依琶

研1

抑飾 揖桃

   ((

    ジ1ブ7翻嘗一

  / 榊舗一

71

Page 74: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

づ!一つ.

”〆雅郁彫

72

Page 75: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

②ハンガリーリズム

第2章第1節のバルトークのところでも提示したリズム形以外に、もっともよ

く使われるリズムが以下のものである。

    “岬皿釦報1o,一!90                      市7卜1け伸彦ぴ鍔南     、I,i一生。 邊、I、、蛙 胆㎞.、占。.、、      }バ’叶η                 U

    魎職ω帥ω・η       戸へ.   41      (ρ’  応C;■ へ量\  用      ψ   引

箏1

・・口

倣1

【へ

v

(73

Page 76: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

^二かり

r榊

→.

固舳榊舳・一・1・・

ザ伽榊 鵜_□馳抑嘗.

’’’ x’・・、・‘.・一

74

Page 77: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルト】ク、コダーイ以後のハンガリ’音楽

  軸洋仰・ブ’蹄馳   帥榊暖脇卿t粥・

〃.

75

Page 78: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

⑧変拍子

演奏上で拍子が変化することは不自然な感じがするが、ハンガリー民謡からの

流れでは、人の心や感情そして天候などの動きを変化する拍子で現しているこ

とが多く、むしろ不安定な変拍子こそが自然な流れであるとも言える。その不

安定さとハンガリーリズムを持って表現してみた。

圃,“、し←一バク帆弘剛執着刈

バーψ←・フミラ0コμ㍑り

76

Page 79: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

団加d8晩

m一州

」一八抑州一於㌧■H7

)ρ!’べ

っ.

〃.

リ㌧

,、業鋒助1『

77

Page 80: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

④棋微1

ここではコダーイ・ゾルターンの《ハーリ・ヤーノシュ》の第5歯Inte㎜ezz

(間奏繭)から一部模倣した。コダーイの第5曲は、古いハンガリーの芸術音

楽を再現し、ユ8~19世紀の荘重なヴユルブンコシュを甦らせるかのような

音楽となっている。             M舖tem㈱{oso,胴acon仙㏄oJ.i20              02

              (!       胸go洲                 汽    ’ ・  {    ・ 一

              (

      ・舳嶋  。 ♂ ・ ・

Ti仰如i

Ci1血balo

Vio亙皿i I

Vio述埴II

γio1o

Vio1o皿。o1u

CO!1t正目b蛯豊Si

。、、、。t、、、。。κ為。轍J、、、。

(!

(  ’

78

Page 81: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、コダーイ以後のハンガリー音楽

a,リズムを模倣

b,ハ短調からハ長調に転調、そしてカデンツヘと移る。

朽’’プソ

1.5塵

rテペ・(轡戦.で診柚

●一

 書  σ

  κ〔

     3

㎞         n里

L字云誉禺。舳11〈一一■

79

Page 82: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

第3章 バルトーク、ロダーイ以後のハンガリー音楽

⑤図㎞ダ

テーマ3であるFriska(フリシュカ)の部分に早急さを出すために、テンポを

Preatoに、及ぴフルートの持つ細やかなテクニックである16分音符の並び、

音の跳躍を経てテーマ3を提示。

      唖_  趣意!6分粋垂パ

    161   〃    一6一                             ’      ,箏1

 r跳躍164     ・

づ.

rテペ3圃_

づ一目・

づ.

80

Page 83: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

おわりに

おわりに

研究のまとめ

 本研究は「ハンガリー音楽文化の源流を知り、それによるハンガリー音楽の

要素はいかなるものか」、「ハンガリー的要素により創作曲を試みる」というも

のであった。

 これまでの筆者は演奏家として提示された楽譜により、作曲家の創作の意図

を探り、音に紡いでいくという作業であったが、本研究では、ハンガリー人の

ルーツから、激動の歴史を辿って来た「マジャル民族」の文化のあらましを紐

解き、文化と民族の発展が音楽にどう影響してきたのかを起点とし、研究をは

じめた。

 第1章では、「ハンガリーの歴史」また「ハンガリー音楽の独自性」を明らか

にした。現ハンガリーは伸欧ヨーロッパ」に位置する共和国だが、その祖先

は東からやってきた「マジャル民族」と呼ばれる民族であった。戦争を繰り返

し、領土を占領され、また占領し、勝利、敗北するという大事を経て、19世

紀にオーストリア=ハンガリー二重帝国時代までに独自のジャンルともいえる

rヴェルブンコシュ」やrマジャル・ノク」rチャールダーシュ」という音楽を

生み出し、その音楽が19世紀西欧の作曲家たちをイシスパイアーさせた。

 またジプシー楽団が演奏する「ヴェルブンコシュ」などはパターン化された

ものも多く、作曲家が意図したものというより演奏家自身の自由な奏法に委ね

られているという曖昧なものだった。

 第2章では、バルトークとコダーイが、19世紀までのハンガリー音楽とみ

なされていたものを再検討し、「真のハンガリー音楽とはいかなるものか」を、

研究した。彼らはハンガリー農民の歌う伝統的な民謡を、各地を巡り採取する

という活動から、独自のスタイルを確立させ創作へと導いた。またバルトーク

81

Page 84: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

おわりに

は19世紀にリストにより「ハンガリー音楽=ジプシー音楽」とされていた概

念を払拭させた。

 第3章では、バルトークやコダーイ以後もハンガリーでは優れた音楽家を多

数輩出しており、その申でも特に有名で人気のあるファルカシュ・フエレンツ、

リゲティ・ジュルジュ、クルターグ・ジュルジュという3人の作曲家にスポッ

トをあてた。

 そして最大の研究課題であった自作曲《CS胴DAS for Hute(フルートのため

のチャールダーシュ)》の制作は、これまでの研究を元に19世紀に頻繁に使用

されていたジプシー音階や、バルトーク、コダーイ、ファルカシュなどが自身

の曲の中でも日常的に使ったハンガリーの伝統的な民謡のリズムパターンを用

い、チャ}ルダーシュ形式で独創的に仕上げた。

 第2章第1節でバルトークは自身の著書である『バルトーク音楽論集』の中

で、リストの《ハンガリー狂詩曲》やブラームスの《ハンガリー舞曲》を通俗

的な音楽と、やや辛辣な言葉で批判しているが、実際には21世紀である今日

まで多く演奏され、愛されてきた楽曲であることは代え難い事実であり、評価

するに値すると言える。こう述べる由縁は、筆者自身が実際に繭を作り、その

苦労の多さに騨易させられながらも、一つのテーマを掲げそれに沿った曲を作

り上げたからである。

 どんな平易な曲であろうと、偉大な作曲家の後世まで存続する曲はやはり価

値あるものである。自らが作曲を学び創作活動を行い、改めて実感、そして痛

感した。作曲は素晴らしい。自分の頭にある音楽を形割るという作業は何物に

も勝るエキサイティング作業であった。講のものでもない、自分だけの宝を手

に入れた気分である。そしてさらに自作曲を自身が演奏出来ることは愉悦この

上ない。この心境こそまさに、“感慨無量’’というのであろう。

演奏家が楽器の練習を怠るとみるみる腕が鈍ってゆくと言うが(筆者自身も

82

Page 85: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

おわりに

経験済み)作曲も同じであることに気づいた。これを機に、筆を休めず創作活

動に逆進してゆきたいと思う。そして今回あまり触れることの出来なかった和

声学からのアプローチや、様々な形式を深く研究し、次なる作品への目標とし

たい。

 最後に、今回の修士論文は筆者にとって初めての試みであった。そのため稚

拙な箇所や杜撰な部分があるかもしれない。このことも深く内省し、次への機

会に備えて参りたい所存である。

83

Page 86: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

主要参考文献、楽譜、及び資料

        主要参考文献 楽譜、及び資料

【辞典 事典】

ニューグローブ世界音楽大辞典(日本語版 初版) 講談杜

ハンガリ 語事典1985東京大学書林

【著書】

ヤーノシュ・サーヴァイ 南塚信吾 秋山晋悪訳『ハンガリー』1999 白水柱

横井雅子 『ハンガリー音楽の魅力 リスト・バルトーク・コダーイ』2006

東洋替店

関口義人 『ジプシー・ミュージックの真実 ロマ・フィールドレポート』2005

青土杜

ファライ・カタリン セー二・エルジューベト 共著 羽仁協子 谷本一之 中

川弘一郎 共訳 『コダーイ・システムとは何か ハンガリー音楽教育の理論

と実践』 1975全音楽譜出版社

岩井正浩 『ハンガリー音楽教育と日本ファライ・カタリンとの対話より』

1991音楽之友社

伊東信宏 『バルトーク』 1997中公新書

宮下誠 『20世紀音楽 クラシックの運命』 2006光文杜新書

                 84

Page 87: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

主要参考文献、楽譜、及び資料

ジョン・ルカ㎞チ 早稲目ヨみか訳

的肖像』 1991 白水柱

『ブダペストの世紀末 都市の文化の歴史

沼野充義 『中欧 ポーランド・チエコ・スロヴァキア・ハンガリー』1996

新潮杜

早稲閨みか rブダペスト都市物語』 2001 河出書房新杜

セーケイ・エーリア

1992 音楽之友社

羽仁協予・大熊進子 共訳 『バルトーク物語』

WenayThompson『THEGR蝸ATCompo船蝸』 2001

LOR瓦NZ BOOKS

三枝成彰 『大作曲家たちの履歴書』 1997 中央公論杜

西原論 『クラシックでわかる西洋史』 2007

アステルパブリッシング

ソボールツィ・ベンツエ

『ハンガリー音楽小吏』

著 谷本一之 訳

昭和44年音楽之友社

高橋浩子 中村孝義

1996 東風替籍

本間潜子 網干毅 共著 『西洋音楽の歴史』

バルトーク・べ一ラ

あごら業書

岩城肇 編訳 『バルトーク音楽論集』 1988

85

Page 88: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

主要参考文献、楽譜、及び資料

【楽譜】

フランツ・リスト 《ハンガリー狂詩曲集》全音楽譜出版社

ヨハネス・ブラームス 《ハンガリー舞曲集》全音楽譜出版社

リスト・フェレンツ《愛の夢第3番》DEPRO

コダーイ・ゾルターン 《ハーリ・ヤーノシュ》スコア P亘ILHARMON1A

バルトーク・ベラ 《ハンガリ 農民組曲(フルート版)》Univ舳a1E砒i㎝

ファルカシュ・フュレンツ 《レーキ・マジャ㎞ル・ターンヅオク》

EDITIO MUSICABUDAP皿ST

ファルカシュ・フェレンツ 《ルーマニアンフォークダンス》

EDmIO MlISICA BUDAPEST

【C1D】

ロビー・ラカトシュ 『ラカトシュ名演集』2002

ユニヴァーサル レコード

フランツ・リスト 『ハンガリー狂詩強集』 2005

ユニヴァーサル・レコード

ヨハネス・ブラームス 『ハンガリー舞曲集』 2000

ユニヴァーサル・レコード

86

Page 89: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

主要参考文献、楽譜、及び資料

バルトーク・ベラ 『管弦楽作晶集1(ハンガリ

ュニヴァーサル・レコード

バルト】ク・ベラ 『ピアノ作品集』

コロンビア・ミュージック

2004

バルトーク・ベラ『管弦楽のための協奏曲』

農民の歌)』 2005

2006

コダーイ・ゾルターン 『管弦楽集(ハーリ・ヤーノシュ)』

ユニヴァーサル・レコード

2007

上松明代 『レーキ・マジャール・ターンヅオク/ハンガリアンフルート作晶

集』 2008赤渋楽譜出版

ファルカシュ・フェレンツ

TOCCATA CLASSICS

『co㎜P1etewinaQuintets』2006

ファルカシュ・フェレンツ 『lMUSICWIT亘皿ARP』

亘UNGAROTON RECORDS

【ウェブサイト】

F班kas・FerencO脆。最Website (2011年7月時点)

2010

Farkas・Ferenc Zeneisko1a Bud-apest (2011年9月時点)

htt’〃www.farkas竈erenc・zene1sko1a.hu/

87

Page 90: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

謝辞

  本研究を進めるにあたり、主任指導教員の草野次郎教授にはご親切なご指

導とお励ましをいただき、心より感謝の意をここに表したい。

 大学院入学当初から「創作曲をもって修士論文を完成させる」という目標を

掲げていた筆者であったが、音楽大学時代は和声が苦手であったため、本当に

仕上げることが出来るのか不安であった。しかし草野教授は1学年時から丁寧

に、そして根気強く、作曲技法を指導して下さり、無事《CS畑眺S for Flute》

を書き上げることが出来た。また巻末資料に添付した音源の、フルートは筆者

が演奏したものであるが、ピアノは須崎多恵さんが弾いて下さり、大変お世話

になった。

 筆者にとっては初めての論文作成であったが、学ぶことが非常に多く、こう

して完成した今、振り返ると大変充実した年月であった。そして一回り成長出

来たと自負している。それも一重に形ながら支えてくれた家族のお陰である。

これからも支えて下さった全ての人に感謝しながらさらに遼進して行きたい。

2012月1月

大網明代

88

Page 91: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

r砺” 00m.妙∠ゆ0.㎝M4∬σ

ρ0〃ソ

Am曲mte一=72

→プ 3

α〆カ汐

11^I^1…”■U〕● ( ●

ρ

11

(● ‘

● ・/!7\ ● ●

■ ■

11囚M…」…

b(

(3

3

15

厄● ● ● ●

●●

15

一1一

Page 92: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

ハ江

18

(・’ G度\トザ

18(

18

21 国〃

一I●

3

21

c.3/;.

・・’r\

33 3

・・ @/つ∩一一 _ 幕\ 一〃

3 3 3づ

24

3 3 333

3

 3〃

27

(Ω

( (3 3 3 3 3 3 3 327

κ ● 、

33

 33か3rか庁

一2一

Page 93: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

31

31

へ・ ∩ ガ3・

3

 3

34(ρ

6 6

6 6

36  /1〃.

」3」 3 ノレ336

刑、

39

ん 。aカ汐

39 6 6 (

一3一

Page 94: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

回Modemt〇一。72

41

(■ 〆(■一 i一一へ(

ψ41

ψ

48/’’‘一

A・ /つへ一、\■ ( 一■

48

■● ● ● ●

● ●

・・

Pr\「\r\固54

例ρ

‘〕

59

’ 、

59

( ρい

一4一

Page 95: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

64

、’〃

.・ ソ\

64^例ρ

69 κκ「\κβ

撒\;㌧6

69

、 へ ●

3

74

’  1

33

74

79

・ ・   3凡

79 _‘一=3・ ’・ ・     3

)一5一

Page 96: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

回All・gmm・1・・一・1・・

。。/て\ ]    一

U暑銅●

r(●

84き刎ρ ガ

( 暑

5

ガ.・’・●

5 ● ●

’ ‘

88 ’( 銅【’‘( ■            I

88

● ●         ● .膏.. .  .            一

@●E ●●

● ●

● ●

●●

銅【’‘(

91●

■ ・

● ■

●        ●●

● ●●     ● ・

・  .  ・  ・

… ●   ●     ●

凡研

91●

●●

■ ●

● ●

● ・

● ‘

● ●

●●

● ●

94 ■ ●

● ●

● ■ ・  ・  …●      ●

■●

● ● ● ・    ● ‘

●     ●

94

) )プ

● ● ● ●

一6一

Page 97: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

97● 砺.

〃.

97●

( ( (● ●

・ ●

 )   )A=ノノ )● ●

〃.

100 ●

( へ■ ■

100へ へ

一 一

■ ● ■

● ● ● ■ ●

● ‘ ●

● ●●

103

づガ

●●

106 ●

106

へ● ●

(● ■

● ●

へ●

● ●

● ● ■

一7一

Page 98: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

109 享\皐\享\、㌫ふ㌫、ふ;\心ふ109 プ

● ● ・

● ● . ・

● ● ● ●

・ ‘ ・ ・・ ● ● ■ ● ■ ● ・

享\皐\享\、㌫ふ㌫、ふ;\心心

香A\?\㌃\ ?\、\.’

112● ●        ● ●

、● ● ● ●

㌫㌫● ●

心 心へ114 ・ . ’

(『

〃a力汐

114

一 一 一 (

‘ (

. 一 ’

㌫㌫’乃α力Φ

    (

11’●

●     ■● ■

 m117

ρ r ・ c.

● ●

ロコA皿da11te

ll。一…

一8一

Page 99: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

121

ハ.

■▲ ■

● ・ ● ・

● ・

121

125

125ガ

129

へ へ 、 ●

・●

● ● ●

● ●

129

リ・

132‘r   ’  ’〃

132 ψガ

づガ m

一9一

Page 100: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

135. ’   . /一「一亙

づ135mρ

  ザ  ψ.・ @   ∩\ρ

刎ρ ガ

138 ρ_へ〃

138(づ

141一

‘ ● 一●

●● ● ●

● ■ ●     ●     ● ● ・

141

ρ

141

1。。囮Cα伽・

  か〃  .

1491\廿 κ・.

153κ・.

〃    ..    3

157 刀.5

一10一

Page 101: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

刃.

C.d・Φ 囮P。。。t。」・1・・

● ●

161

〃ンプ ●

一 一 一●

一●

■●

161 ●

一 一 一

〃.

● ●

164●

●■

164一 、

4κ〆〆 κ〆 4κκ

刀.

167●

・●

一 一 一 _

167一 一 一

戸 届 β ■ 二 一             ■。 ■                一 一  ■

齧レ一 一一

1・・’一….・・4 イ 4 κイ

κイκ●

170 ■ 』’ ■

一●

一ガ

一         ’

一■’ 、      ・

一 一一

イκイκ

一11一

Page 102: ハンガリー音楽の軌跡repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/4012/1/...はじめに 筆者のハンガリーとの関わりは1999年夏から始まった。それまで大学で

『一一@ 市173  ,>

肩凡η

173 ガ. 一一 一 一 >

一 一一一 一一一 一 >

一>

 かかか廿

刀.

}川4/奏 >>> (■

177》 〉㌫ (

} )

、 一  ■f

廿吾■

\こ」’一一{}一

一12一