テープレコーダーの技術系統化調査...

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君塚 雅憲 Historical Development of Magnetic Recording and Tape Recorder テープレコーダーの技術系統化調査 Masanori Kimizuka 3 ■ 要旨 音の記録の歴史は、1877 年のトーマス・エジソンによる、円筒式蓄音機「フォノグラフ」の発明で始まり、 1888 年には米国のオバリン・スミスが、蓄音機とは原理の異なる磁気記録の構想を発表した。10 年後の 1898 年にデンマークのヴァルデマール・ポールセンが世界初の磁気録音機である、ワイヤレコーダー「テレグラフォ ン」を完成させた。ワイヤレコーダーは大きく普及することはなかったが、磁気録音の研究は世界各国で続けら れ、1920 年代に鋼線の代わりに、細かい磁性体を塗ったテープを記録媒体として使う磁気録音機が発明された。 これを原型として 1930 年代のドイツで近代的テープレコーダーにつながる「マグネトフォン」が作られた。第 二次大戦後、マグネトフォンの技術は米国によって詳しく調査された結果、本格的なテープレコーダーが完成 し、放送局で録音放送用に使われるようになった。テープレコーダーは従来の円盤式録音機に比べて、録音に適 した特長を持っていたため短期間で受け入れられた。程なく民生用テープレコーダーも多く作られ普及が始まる が、日本では東京通信工業がテープレコーダーの開発に早くから取り組み、独力で磁気テープと録音機を開発し、 1950 年に日本初のテープレコーダーを発売した。 1960 年代になると、カーステレオの増大が一つのきっかけとなってカートリッジ式テープレコーダーの提案 が相次ぎ、コンパクト・カセットが誕生した。日本メーカーはコンパクト・カセット式テープレコーダーの性能 向上と小型軽量化に、技術面、商品面で多大な貢献を果たし、世界のテープレコーダー市場を席巻するまでに なった。1979 年には、コンパクト・カセットの普及を背景に「ウォークマン」が登場し、音楽リスニングのス タイルを大きく変える大ヒット商品となった。 本報告書では、音の記録技術の誕生から初期のテープレコーダーまでの歴史を振り返り、1960 年台以降のコ ンパクト・カセットを中心とした技術と商品の系統化を試みた。「ウォークマン」については、小型化のための 技術開発と商品コンセプトについて述べ、またテープレコーダーの最終発展型であり、デジタル・オーディオの 先導役となった DAT(Digital Audio Tape recorder)の開発についても概要をまとめた。 日本の音響メーカーは、戦後、比較的早くからテープレコーダーの製造、販売を始めていたが、1970 年ころ から部品メーカーの技術力が向上し、精密な機械部品や高性能な電子デバイスが手に入りやすくなった。製品設 計と部品技術がお互いの進化を促す好循環が、製品の競争力を非常に強くし、コンパクトカセット式テープレ コーダーで大きな成功を収め、さらに世界中のオーディオ機器と音楽の楽しみ方を大きく変えるウォークマンを 生み出し、世界のオーディオ市場で確固たる地位を築いた。昨今の音響機器は小型のメモリータイプのデバイス で、音楽ソースは圧縮音源が主流になっているが、現状にとどまることなく、より良い音を、より心地よく簡単 に楽しめるような、画期的な製品やサービスが日本の業界から生まれることを期待したい。

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  • 君塚 雅憲Historical Development of Magnetic Recording and Tape Recorder

    テープレコーダーの技術系統化調査Masanori Kimizuka

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    ■ 要旨音の記録の歴史は、1877 年のトーマス・エジソンによる、円筒式蓄音機「フォノグラフ」の発明で始まり、

    1888 年には米国のオバリン・スミスが、蓄音機とは原理の異なる磁気記録の構想を発表した。10年後の 1898年にデンマークのヴァルデマール・ポールセンが世界初の磁気録音機である、ワイヤレコーダー「テレグラフォン」を完成させた。ワイヤレコーダーは大きく普及することはなかったが、磁気録音の研究は世界各国で続けられ、1920 年代に鋼線の代わりに、細かい磁性体を塗ったテープを記録媒体として使う磁気録音機が発明された。これを原型として 1930 年代のドイツで近代的テープレコーダーにつながる「マグネトフォン」が作られた。第二次大戦後、マグネトフォンの技術は米国によって詳しく調査された結果、本格的なテープレコーダーが完成し、放送局で録音放送用に使われるようになった。テープレコーダーは従来の円盤式録音機に比べて、録音に適した特長を持っていたため短期間で受け入れられた。程なく民生用テープレコーダーも多く作られ普及が始まるが、日本では東京通信工業がテープレコーダーの開発に早くから取り組み、独力で磁気テープと録音機を開発し、1950 年に日本初のテープレコーダーを発売した。1960 年代になると、カーステレオの増大が一つのきっかけとなってカートリッジ式テープレコーダーの提案

    が相次ぎ、コンパクト・カセットが誕生した。日本メーカーはコンパクト・カセット式テープレコーダーの性能向上と小型軽量化に、技術面、商品面で多大な貢献を果たし、世界のテープレコーダー市場を席巻するまでになった。1979 年には、コンパクト・カセットの普及を背景に「ウォークマン」が登場し、音楽リスニングのスタイルを大きく変える大ヒット商品となった。本報告書では、音の記録技術の誕生から初期のテープレコーダーまでの歴史を振り返り、1960 年台以降のコンパクト・カセットを中心とした技術と商品の系統化を試みた。「ウォークマン」については、小型化のための技術開発と商品コンセプトについて述べ、またテープレコーダーの最終発展型であり、デジタル・オーディオの先導役となったDAT(Digital Audio Tape recorder)の開発についても概要をまとめた。日本の音響メーカーは、戦後、比較的早くからテープレコーダーの製造、販売を始めていたが、1970 年ころから部品メーカーの技術力が向上し、精密な機械部品や高性能な電子デバイスが手に入りやすくなった。製品設計と部品技術がお互いの進化を促す好循環が、製品の競争力を非常に強くし、コンパクトカセット式テープレコーダーで大きな成功を収め、さらに世界中のオーディオ機器と音楽の楽しみ方を大きく変えるウォークマンを生み出し、世界のオーディオ市場で確固たる地位を築いた。昨今の音響機器は小型のメモリータイプのデバイスで、音楽ソースは圧縮音源が主流になっているが、現状にとどまることなく、より良い音を、より心地よく簡単に楽しめるような、画期的な製品やサービスが日本の業界から生まれることを期待したい。

  • ■ AbstractThe history of sound recording started with the “Phonograph,” the machine invented by Thomas Edison in the

    USA in 1877. Following that invention, Oberlin Smith, an American engineer, announced his idea for magnetic recording in 1888. Ten years later, Valdemar Poulsen, a Danish telephone engineer, invented the world's fi rst magnetic recorder, called the “Telegraphone,” in 1898. The Telegraphone used thin metal wire as the recording material. Though wire recorders like the Telegraphone did not become popular, research on magnetic recording continued all over the world, and a new type of recorder that used tape coated with magnetic powder instead of metal wire as the recording material was invented in the 1920's. The real archetype of the modern tape recorder, the “Magnetophone,” which was developed in Germany in the mid-1930's, was based on this recorder. After World War Ⅱ , the USA conducted extensive research on the technology of the requisitioned

    Magnetophone and subsequently developed a modern professional tape recorder. Since the functionality of this tape recorder was superior to that of the conventional disc recorder, several broadcast stations immediately introduced new machines to their radio broadcasting operations. The tape recorder was soon introduced to the consumer market also, which led to a very rapid increase in the number of machines produced. In Japan, Tokyo Tsushin Kogyo, which eventually changed its name to Sony, started investigating magnetic recording technology after the end of the war and soon developed their original magnetic tape and recorder. In 1950 they released the fi rst Japanese tape recorder.In the 1960's several cartridge-type tape recorders were developed to meet the requirements of car-stereo

    devices, and finally, the compact cassette system was introduced. Japanese manufacturers contributed to improving the basic recording performance of compact cassette recorders and to expanding the variety of available products, especially small-sized tape recorders. As a result, they attained a large market share in the worldwide tape recorder market. In 1979 the “Walkman,” a portable compact cassette player, was introduced to the market, and in a very short period it became very popular all over the world. The product concept of the Walkman was well accepted, and it changed the style of audio listening dramatically.In this report I briefl y describe the history of sound recording, particularly the progress and relation of magnetic

    recording technologies in the compact cassette system. I also describe the product concept and downsizing technologies of the Walkman. In the last section, I explain the development of digital audio tape (DAT), an advanced tape recording system that led to the rise of digital audio technology.Japanese audio manufacturers joined the tape recorder market relatively soon after the end of World War

    Ⅱ . Around 1970 the technical capabilities of device manufacturers increased rapidly, and many superior devices such as precision mechanical components and high-performance electrical devices became available on the domestic market. The synergy effect between product design and device technologies improved the competitiveness of the fi nal products, and Japanese audio manufacturers achieved success in the compact-cassette tape recorder market. They changed the style of listening and the audio product itself with their introduction of the stereo-headphone “Walkman” in 1979. They ultimately succeeded in getting a huge market share of the worldwide audio market. Many people have recently been enjoying listening to music supplied in a digitally compressed format with

    small portable devices and headphones. However, it is hoped that the Japanese audio industry will develop a revolutionary new product or service for a more comfortable listening experience with even better sound.

    ■ Profi le

    君塚 雅憲 Masanori Kimizuka国立科学博物館産業技術史資料情報センター主任調査員

    昭和48年  3月 大阪大学工学部機械工学科卒業昭和48年  4月 ソニー株式会社入社        音響機器、ストレージ機器の開発 ・設計に従事平成18年  2月 株式会社スタート ・ラボ 代表取締役平成23年 12月 同社退社        ソニー株式会社退社現  在    東京芸術大学 非常勤講師        日本オーディオ協会 理事

    1. はじめに …………………………………………………1852. 音の記録 …………………………………………………1873. 磁気録音の発明 ………………………………………1894. 戦後のテープレコーダー ……………………………1975. 国産テープレコーダーの発展 ………………………2066. カートリッジ式テープレコーダーの登場 ………2157. コンパクト ・カセット式テープレコーダーの構成と性能 …2248. コンパクト ・カセットにおける磁気テープ ……2279. コンパクト ・カセット用磁気ヘッドの進歩 ……22910. コンパクト ・カセットでの3ヘッド方式開発 …23411. ノイズリダクション・システム …………………23812. 駆動モーターの進歩 ………………………………24413. ヘッドホン・ステレオへの道程 …………………25114. デジタル ・オーディオ ・テープレコーダー(DAT)の開発 …25815. まとめ …………………………………………………269テープレコーダーの系統図 ……………………………271年表 …………………………………………………………272テープレコーダー 登録候補一覧 ……………………273

    ■ Contents

  • 185テープレコーダーの技術系統化調査

    人類は数万年前から岩肌にいろいろな絵を描き残してきた。神への儀式として描かれたとされる、有名なアルタミラ洞窟に残された生き生きとした動物たちは、当時の人々が残した静止画記録そのものであった。絵と同じように音を残すことも太古からの人々の夢であったが、物語や歌などを口伝として伝える以外に音を残す手段はなかった。やがて文字が発明され、音声の記録は「文字による言葉の記録」という革新的方法が担うようになる。言葉の記録より音そのものに意味がある音楽については、記号を使うことによって記録することが考え出され、いくつもの文明で独自の記号や文字が工夫され使われた。しかし、これらの「楽譜」はあくまで間接的な音楽の記録であり、音そのものの記録は長い間、夢のままであった。19 世紀の中ごろになって、音声が波として伝わるとの知見を基に、変化する音の波形を時間軸に沿って記録する機械が仏のレオン・スコットによって考え出された。レオン・スコットの機械は音の波形の記録はできたものの、記録された波形を元の音として再現することはできなかった。約 20 年後の 1877 年になって、米国のトーマス・エジソンが、錫箔を貼った真鍮の円筒を使い、この円筒上に記録した音の波形を振動として取り出し、元の音を再生する機械、すなわち蓄音機「フォノグラフ」を発明した。人類史上初めて音を記録し、再生する機械が誕生した瞬間であった。蓄音機はその後円盤式という優れた改良型が生まれ、録音機としてだけでなく、レコードという形で家庭での音楽再生装置としての進歩を続けていくことになった。円盤式録音機は、ラジオ放送の普及に伴って音声の記録・再生装置として重要な機材となり、第二次世界大戦が終了するころまでには、多くの放送局で使われるようになっていた。円盤式レコードも音質改善や長時間化、ステレオ化へと進化を続けるが、音の記録の原理は、音の波形をそのまま媒体に刻む機械式記録方式であった。同じく 19 世紀には電気通信技術が急速に発達し、電信の実用化に続いて 1876 年には米国のグラハム・ベルによって音声そのものを伝える電話が発明された。電話で使われる電気に変換された音声を、磁気の変化として記録することを考えたのが米国のオバリン・スミスであり、世界で初めて磁気記録の構想を論文として発表した。この構想に刺激を受けた技術者の中で、デンマークのヴァルデマール・ポールセンが

    1898 年に鋼線を使ったワイアーレコーダー「テレグラフォン」を作り、これが世界初の実用的な磁気録音機となった。第二次大戦が始まる少し前に、ドイツにおいて鋼線をテープに置き換えることによって扱いやすくした磁気録音機が提案され、テープレコーダーの原型が誕生した。戦争の影響で磁気録音に関する各国の技術交流は途絶えたが、ドイツではテープレコーダーの研究と改良が続けられ、戦争が終わるまでには、交流バイアスやステレオ記録など先進的な技術を搭載したテープレコーダーを完成させていた。戦後、磁気録音関連のドイツの技術について連合国による詳細な調査が行われ、米国でのテープレコーダーの開発に幅広く活用されることとなった。このとき米国でテープレコーダーの開発に名乗りを上げたのは、創設間もない零細なアンペックス社であったが、瞬くうちに業界をリードする企業となり、テープレコーダーの発展と技術的進歩に大きな貢献を果たすことになった。欧州では少し遅れて、やはり小企業であったスイスのスチューダー社がテープレコーダーの開発者として活躍を始め、業務用から高級民生機まで優れた機種を開発し、欧州における盟主の位置を占めた。日本では戦後間もなく設立された東京通信工業(後のソニー)が磁気録音の可能性を信じて研究を続け、何もなかった戦後の日本で国産初のテープレコーダーを 1950 年に完成させた。戦後、優れた資質を秘めたテープレコーダー技術が公のものとなり、日米欧で同じようにベンチャー企業がテープレコーダーに挑戦し、ものにしていった構図は興味深いものがある。テープレコーダーの普及は業務用から始まったが、すぐに一般用途向けの機種も開発され、家庭への普及も比較的早くから始まり、米国ではレコードよりも早くステレオ化されたミュージックテープが発売されるなど、エンターテインメント用のオーディオ機器としても愛用されるようになった。またカーステレオへの応用を契機として、取り扱いの容易なカートリッジ式テープレコーダーが注目されるようになってきた。1960 年代の前半、複数のカートリッジ方式が提案される中で、オランダのフィリップス社が提案したコンパクト・カセットが、特許権の無償許諾という方針が奏功して実質的な世界標準として定着することになった。このころ日本企業はAV機器の開発・設計について自信を深めつつあった。使用する電子部

    1 はじめに

  • 186 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August

    品、機械部品を供給する部品メーカーの技術力も向上し、高品質で先進的な部品を次々と開発し、いち早く設計に取り入れることも積極的に行われた。また、コンパクト・カセット式テープレコーダーのように、標準化された規格の中で最高の性能・機能を発揮させようとする技術開発は、細かく丁寧でかつ粘り強い仕事が要求される面があり、日本企業の体質に合致していたと思われる点も見逃せない。こうしてコンパクト・カセット式テープレコーダーの分野は日本がリードするようになる。同時に他のオーディオ機器も世界的に高い評価を得て、1970~1980 年代に日本のオーディオ産業は全盛期を迎える。1979 年にはコンパクト・カセットの普及を背景として、ヘッドホン・ステレオ「ウォークマン」が登場した。家庭内で聞くことが常識だったオーディオを屋外に連れ出し、いつでも、どこでも良い音をパーソナルに楽しむ…という全く新し

    いオーディオのコンセプトを具現化して見せ、世界を席巻する大ヒット商品になるとともに、音楽リスニングのあり方を根本的に変えるという革命を起こしたのであった。

    本報告書では、2章~ 5章で音の記録の歴史から、磁気録音の発明、初期のオープンリール式テープレコーダーの進化について触れた後、6章~12 章でコンパクト・カセットを中心に、テープ、ヘッド、ノイズリダクション、モーターなど要素技術の進歩について述べた。13 章ではコンパクト・カセット機器の発展とヘッドホン・ステレオ「ウォークマン」の誕生と進化について記述した。14 章はコンパクト・ディスクに代表される、デジタル・オーディオ時代の先導役を果たしたデジタル・オーディオ・テープレコーダー(DAT)の開発について記述した。

  • 187テープレコーダーの技術系統化調査

    人類の文明が発達するに従って文字が発明され、さまざまな事象の記録と伝達が可能になった。大量の知識を残し、広範にまた長期間にわたって伝えることができる文字の発達は文明のさらなる進歩と拡大を促したが、有史以来、人類にとって文字による記述が(絵による記録も含むが)記録の唯一の手段でもあった。音声や音楽、すなわち音をそのまま記録・保存し、再生することは人類の古くからの夢であったが、なかなか実現させることはできなかった。19 世紀になって、大きく進歩した近代的な科学・技術の知見を基に、この夢を現実のものにするべく試行錯誤が始まり、20世紀に到達する前に大きな成果を生むことになった。音は空気中を伝わる波であり、時間とともに変化する粗密波である。従って音を記録するには時間軸に沿ってその変化を記録することが必要になる。空気の粗密を振動として捉えることができれば記録が可能になるであろうという考えの下、1857 年、フランスの印刷技師レオン・スコット(Édouard-Léon Scott)が音の波形の記録に成功する。石こうのホーンで音をとらえて振動板に伝え、その振動板に付けた豚の剛毛で、すすを付けたシリンダーに音の波形を記録するという方法であった。シリンダーは回転させるに従って軸方向に移動するようになっており、音の波形が円筒の上に連続した 1本の線として記録されるというわけである。この機械は「フォノトグラフ(Phonautograph)」と名付けられ、音の記録の実験装置として何台も製作されたようである(図 2.1)。またシリンダーに直接すすを塗る形式から、あらかじめすすを塗った紙をシリンダーに巻き付けて記録紙として保存できるようにする、という改良も加えられた。このフォノトグラフは音の記録はできるものの、記録された波形から元の音を再現する手段がなく、再生は不可能であった。しかしこの機械が多くの科学者や技術者を刺激し、音をとらえて再生する機械の発明に夢中にさせることになった。

    2.1 レオン・スコットによる音の記録

    フォノトグラフの発明から 20 年後の 1877 年、米国の発明家トーマス・エジソン(Thomas Edison)は、フォノトグラフと似た円筒式のシリンダーを使った装置で音をそのまま記録し、再生することに成功する。シリンダーは真鍮製で外周に錫箔が巻き付けられており、ハンドルの付いた軸に取り付けられている。シリンダーの両側には針の付いた振動板を装備した円筒状の管が設けられており、それぞれが記録用、再生用の集音器と拡声器になっている。音を記録するには集音器の針をシリンダーに押し当て、ハンドルを回しながら声を吹き込むと、音が針を通してシリンダー上の錫箔に波形として記録される。再生するときはこの記録された溝を再生用の振動板に付いた針でトレースしていくと、記録された波形に従って振動板が震えて音となる、という非常に単純かつ明快な機構であった。エジソンは直ちに特許を申請することを決意し、同時にこの機械を「フォノグラフ(Phonograph)」と命名した(図 2.2、図 2.3)。レオン・スコットのフォノトグラフが発想の原点になっていることはうかがえるものの、錫箔という記録用の材料や振動板、針の構成などさまざまな創意工夫と実験の積み重ねが込められており、このフォノグラフの実現によって、ついに世界で初めて録音という夢が現実のものとなったのである。「話す機械」の発明はまたたくうちに世界中で大きな評判となり、フォノグラフという名前も広く知られるようになっていった。発明の翌年 1878 年には早くも日本で文学雑誌の記事上で「蘇言機」と訳されて紹介されており、翌 1879 年には東大教師の英国人ジェームス・ユーイング(James Ewing)によって公開実験が行われた。このとき実験に参加した東京日日新聞社の福地源一郎社長によって「蓄音機」という呼び方が生まれ、その後日本ではこの名前が定着した。

    図 2.1 レオン・スコットの「フォノトグラフ」1)

    2.2 蓄音機の発明

    2 音の記録

  • 188 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August

    電話機の発明で有名なグラハム・ベルが創設した研究所(後のベル研究所)でも蓄音機に深い興味をいだき、その改良研究を目指していたが、このころ研究所に雇われた研究者にエミール・ベルリナー(Emil Berliner)という人物がいた。彼は 19 歳のときドイツから米国に渡った技術者で、蓄音機の改良研究にも取り組み、エジソンの円筒式蓄音機に大きな感銘と刺激を受けると同時に、その問題点も把握していた。エジソン式ではシリンダーの中心に向かって垂直方向に音の波形を刻んで記録するが、これでは音の大小により刻まれる溝の深さが変化するので、音をひずませる原因になるのではないかと考え、水平方向に波形を刻むことを考え付いた。さらに円筒型のシリンダーではなく、円盤型の記録媒体を使うことを思いついた。こうしてエジソンの蓄音機から 10 年後の 1887 年に円盤式蓄音機とレコード盤が誕生することになった。この機械は「グラモフォン(Gramophone)」(図 2.4)と

    図 2.2 フォノグラフのパテント文 2)

    図 2.3 エジソンの「フォノグラフ」3)

    2.3 円盤型蓄音機の登場

    名づけられ、音の記録機としての歴史に大きな足跡をしるした。ベルリナーは単なる蓄音機の発明にとどまらず、記録した円盤の複製を作り、いわゆるレコードとして大量に生産・販売するビジネスモデルの基本を考え出した。記録された原盤から刻まれた溝を忠実に写し取った鋳型を作り、その鋳型を使って大量に複製を作るという、近代的なレコード製作の原型であり、その後のレコード産業・音楽産業の歴史を大きく開いていくことになった。この複製作りの工程にとって、円盤式は円筒式よりもはるかに適しており、両方式のフォーマット論争を決着する切り札の一つとなったのも事実である。円盤型レコードは長時間化、高音質化、ステレオ化、など技術的改良による進化を続け、20 世紀後半まで再生音楽の中心的存在として愛用されてきたが、円盤に刻まれた機械的な溝を針でなぞって音にする、という原理はベルリナーの蓄音機と基本的に同じであった。録音過程においても、初期には声(または音)そのもので振動板を動かして波形を記録するという方式から、マイクロホンを使った電気録音方式へと進歩し音質的には非常に改善されていったものの、再生同様、やはり原理的にはベルリナーの蓄音機と同じであった。

    引用1) 森芳久 他:「音響技術史」 東京藝術大学出版会、2011 年 3 月、p.16

    2) 森芳久 他:「音響技術史」 東京藝術大学出版会、2011 年 3 月、p.20

    3) 森芳久 他:「音響技術史」 東京藝術大学出版会、2011 年 3 月、p.18

    4) 森芳久 他:「音響技術史」 東京藝術大学出版会、2011 年 3 月、p.27

    図 2.4 ベルリナーの「グラモフォン」4)

  • 189テープレコーダーの技術系統化調査

    エジソンによって音の記録という人類の夢は現実のものとなり、円筒型蓄音機はベルリナーによる円盤型蓄音機へと進化を遂げる。蓄音機の発明は単なる音の記録にとどまらず、複製されたレコードによる家庭での音楽聴取という新たなエンターテインメントを産業として生み出す契機ともなっていった。これら蓄音機はいずれも機械的に音の波形を媒体に記録し、やはり機械的にその波形を振動として取り出す、というのが基本的な原理であった。1888 年ごろ、米国の機械技師オバリン・スミス(Obelin Smith)は、電話の音声の記録装置を考えていたが、蓄音機とは全く違う原理で音を記録する構想を発表した。スミスはフォノグラフに強い刺激を受け、機械的記録とは全く異なる、世界初の磁気録音方式の構想を固めたが、これを一般に公開することによってより多くの英知を集められると考え、特許で囲い込むことをせず「The Electrical World」誌に自分のアイデアを発表した。以下にオバリン・スミスが発表した磁気録音の着想をあげておく。『…次に提案する装置は、純電気的な蓄音機であり、そのまま録音機として考慮すべきを満足させうる唯一のものである。図 3.1 はその基本回路図で、(a)はその録音部、(b)は再生部を示す。図中のD、E、B、C等は両部ともに同じものが使用できる。同図(a)において、通常の電話機Aに音声または

    3.1 オバリン・スミスの業績他の音を加える。できれば炭素型の送話器で、その回路の中に電池Fをもったものがよい。そうすれば適度な強さの電流を流せるからである。ただし、ベル社の電話機ならば電池なしで役立つだろう。いずれの場合でも電話機には音の振動に対応した波長と強さの電流が発生する。その電流がコイルBに流れ、硬化されたいかなる鋼鉄片も、このコイルに入った時点で永久磁石となる。このコイルBを通過する鋼鉄Cはコード状のもので、リールDから繰り出され、リールEに巻き取られる。リールEは手動、時計仕掛けまたは他の方法で回転させる。Jは張力バネまたはブレーキで、それをリールDに押し付けてコードCを強く張らせる。電話機Aからの波動電流がコイルを流れ、そのコイルをコードCが通過すると、コードはあたかも強弱の短い磁石が交互に並んだものとなる。これらの磁石の実際の長さはコードの走行する速さに比例するが、それらの間の相対的な長さは音波の相対的強さに比例する。コードCとして有望な構造は、綿、絹、その他の縫糸で、その繊維のなかに硬化した鋼鉄の粉末または非常に細い鋼線を短くカットした細片を紡ぎ込んだものであろう。もちろんこれらの細片は完全な磁石となる。…その他のコードとしては、硬化した鋼線がすぐに思いつくが、それを多数の短い磁石に分割した状態にすることはほとんど可能性がない。…もし意図に則した鋼線をつくりえたとすれば、明らかにもっとシンプルな形体であることを指摘しておく。…』

    3 磁気録音の発明

    (a)                        (b)図 3.1 オバリン・スミスによるワイヤレコーダーの構想

    「The Electrical World」誌 1888 年 9月 8日号のスミスの記事の一部(「オーディオ 50年史」1986 年、日本オーディオ協会発行、より転載)

  • 190 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August

    オバリン・スミスの構想の発表は、磁気録音の技術開発史上まさに画期的なものであり、この文献に刺激された多くの技術者が磁気録音機の開発に取り組むことになった。スミスの発表から 10 年後の 1898 年、デンマークの電話技術者であったヴァルデマール・ポールセン(Valdemar Poulsen)が鋼鉄線を記録媒体に用いた、世界初の磁気録音機を発明した。図 3.2 に示したこの機械はエジソンの蓄音機によく似た構造をしているが、シリンダーの外周には錫箔やろうではなく鋼線(ワイヤ)が巻き付けられており、この鋼線に接する形で電磁石が装備されている。シリンダーを回転させるとこの電磁石が鋼線をなぞっていき、蓄音機における針の役目を果たして、ワイヤを連続的に磁化することで記録を行う。再生は磁化されたワイヤを同じ電磁石でなぞり、磁化によってコイルに誘起される電流として記録内容を読み出すという構造である。この機械はポールセンによって「テレグラフォン(Telegraphone)」と名付けられたが、電話の技術者であったポールセンは電話の音声の録音用(いわゆる留守電)としての用途を念頭に置いていたようである。ポールセンはデンマークを初め、米、英、仏など主要国でテレグラフォンの特許を取得し、テレグラフォンの大々的な売り込みに乗り出す。1900 年のパリ万博にも出品し好評を得るなど、テレグラフォンの前途は有望に思われたが、製品の完成度は十分ではなく故障が多い、期待されたほどの音質がなかなか得られないなどの課題が顕在化し、ビジネスとしては失速する。円盤型録音機の拡大と性能の向上、レコード産業の隆盛など蓄音機の勢いに押されて、磁気録音方式のワイヤレコーダーは大衆の間ではいつしか忘れられていった。このような環境下でも、ポールセンと助手たちは磁気録音の性能向上に努力し、直流バイアス方式を発明するなど、後につながる成果を残したのである。

    3.2 ワイヤレコーダーの発明

    図 3.2 ポールセンの「テレグラフォン」1)

    テレグラフォンのビジネスは順調に離陸することはなかったが、このような中でポールセンと助手のペデルセンはテレグラフォンの改良に努め、1907 年には直流バイアス方式の特許を米国で取得する。直流バイアス技術は録音感度向上やひずみの減少など、録音品質の向上に大きな効果を発揮し、その後交流バイアスが発明され実用化されるまでの 30 年間ほど、ワイヤレコーダーなど磁気録音機で必須の技術として使われた。磁性体に外部から磁界を加え、徐々に強くしていくと磁性体内部の磁束も増えていくが、ある程度大きくなるとそれ以上増えなくなる。このときの磁束を最大磁束密度(Bm)と呼ぶ。この状態で外部の磁界を 0にすると磁束密度は 0にはならず、磁束が残る。これは磁性体が磁石になった(磁化した)ことを意味しており、このときの磁束密度を残留磁束密度(Br)といって、これ以上強い永久磁石にはなれない。この磁化の方向をN極とすれば逆方向に磁界を加えた場合が S極となり、磁界の強さに対して対称的な曲線となる。この様子を図 3.4 に示す。この曲線を磁化曲線あるいはヒステリシス・カーブと呼ぶ。全く磁気を帯びていない磁性体を磁化するときは、図の 0~a、0~c に沿って磁化されるが、この曲線を初期磁化曲線と呼ぶ。磁気録音機の場合、横軸がヘッ

    図 3.3 ポールセンによるテレグラフォンの特許 2)

    3.3 直流バイアスの発明

  • 191テープレコーダーの技術系統化調査

    ドによって磁性体(ワイヤ、後には磁気テープ)に加えられる記録磁界であり、縦軸が記録された磁化の強さを表すわけである。ヘッドが発生する磁界は記録する信号の強さ、すなわちヘッドに流す記録電流に比例するが、初期磁化曲線は直線ではないため、記録する音に比例して磁界を加えても磁化された結果はひずんだ波形となる。このような記録を無バイアス記録と呼ぶが、図 3.5 にその様子を示した。磁化曲線の直線でない部分を使うことが、大きなひずみを発生させる原因であるから、記録電流にあらかじめ直流電流を与えて、初期磁化曲線の直線に近い部分を使えば、ひずみを減らして良い音質が得られる、というのが直流バイアス記録である。図 3.6 に示した磁化曲線の直線部のa部を使うと図 3.7 のようにひずみを減らすことができるが、磁化曲線全体を見るとループ外側の b部の方が直線部が長いので b部を使う方が都合が良い。まず飽和磁界を与え、磁性体をBr の状態にした後、磁束密度を減らす方向にバイアスをかけてこれに記録電流を重畳すると、図 3.8 のように b部を使った直流バイアス記録ができる。ポールセンとペデルセンによって発明された方式はこちらの方式で、長い直線部が利用できるので良好な記録特性が得られた。

    図 3.4 磁化曲線 3)

    図 3.5 無バイアス記録によるひずみ 4)

    ポールセンはワイヤレコーダーの普及を目指して米国にも販売会社を作るなど、普及への努力を続け、テレグラフォンそのものの改良も続けたが、使い勝手、性能面など技術的な完成度、価格競争力等々で十分な優位性を出すことができず、大きく展開し始めていた円盤式蓄音機の発達に押されて大衆向けの録音機としては成功しなかった。しかし 1920 年代後半ころに

    図 3.6 磁化曲線の直線部 5)

    図 3.7 直流バイアス記録 6)

    図 3.8 直流バイアス記録 その 2 7)

    3.4 ワイヤレコーダーの進歩

  • 192 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August

    なって、放送用や軍事通信用などの領域で磁気録音機への関心が高まり、欧米を中心に研究が進んだ。これは円盤式に比べて長時間の連続録音が可能という特長が、このような分野での要求に合致したものと思われる。欧州では媒体を鋼線から鋼の薄板に変えた鋼帯式の大型録音機が放送局で使われるなど、一部のエリアでの実用化も進んだ。図 3.9 に 1920 年ころの改良型テレグラフォンを示す。ワイヤを巻き取るリールはモーターで駆動され、記録済みのワイヤを巻き戻すときは左右のリールを入れ替えて行うなど、テープレコーダーの原型ともいえる機構になっている。図 3.10 は英国のマルコーニ・スティーレ鋼帯式録音機でBBCで放送用に使用された。重さ 1トンという大型の装置で、鋼帯は幅 3 mm、厚さ 80 μm、長さ3,000m、で 30 分の録音ができた。日本にも 1937 年に 1台輸入され、NHK東京で外国語放送に使用されたそうである。

    3.5.1 サウンド・ペーパーマシン鋼線録音機(ワイヤレコーダー)や鋼帯録音機は記

    録媒体が固い金属で、細いワイヤは巻きが乱れると元

    図 3.9 1920 年ころのテレグラフォン 8)

    図3.10 マルコーニ・スティーレ鋼帯式録音機(1937年)9)

    3.5 テープレコーダーの発明

    に戻すのが非常に困難だったり、切断すると溶接してつながねばならないなど、取り扱いは決して簡単なものではなかった。このような欠点を克服し、より使いやすい磁気録音機を作るために、より適した素材による記録媒体を使ってはどうか、と考えられたのは想像に難くない。柔らかい素材のテープに磁性体の粉末を塗って使うアイデアは、ドイツのナザヴィシュヴィリー(A. Nasavischwily)や米国のジョセフ・オニール(Joseph A O'Neill)によって 1920 年代に提案はされていたが、実際の機械として作るところまでは至っていなかった。1928 年、ドイツの技術者フリッツ・フロイメル(Fritz Pfl eumer)は、紙テープに酸化鉄を塗布した「磁気録音テープ」と世界初のテープレコーダーを製作、「サウンド・ペーパーマシン」と名づけた。この機械はテープレコーダーとしての基本的な要素は備えており、世界初のテープレコーダーと位置づけることはできるものの、肝心の性能は芳しいものではなく、音質的にも満足できるものではなかった。磁性体を塗布した磁気テープは表面の平滑性に欠け、磁性体の塗布強度もあまり高くなかったので、記録・再生時にヘッドとの接触により磁性粉が盛大にまき散らされる、という状態であった。このためサンドペーパー・マシンと陰口もたたかれたという。

    3.5.2 マグネトフォンの誕生1930 年に特許を取得したフロイメルは、この世界初といえるテープレコーダーをドイツの大手電気メーカー各社に持ち込み売り込みを図ったが、技術としての潜在力はともかく、性能そのものがあまり芳しいものではなかったので関心を示すところはなかった。しかし 1932 年にAEG社(Allgemeine Elektricitats Gesellschaft)の会長が興味を示し、フロイメルの特

    図 3.11  フリッツ・フロイメルと「サウンド・ペーパーマシン」10)

  • 193テープレコーダーの技術系統化調査

    許を買い取ることになった。AEGでは早速磁気録音の研究所を立ち上げ、このサウンド・ペーパーマシンと磁気テープの改良に乗り出した。AEG社は電気メーカーであり、磁気テープの改良には化学の専門家が必要と判断し、I. G. ファーベン社に助力を求めた。その結果、磁気テープに関しては I. G. ファーベングループのルドヴィックスハーヘン工場(後のBASF)が協力することになった。AEGは I. G. ファーベンによるテープの開発と並行して、精力的に磁気録音機の研究・開発を続け、1934年に近代的なテープレコーダーのさきがけともいえる「マグネトフォン(Magnetofon)」を完成させた(図3.12)。AEGはこの年のラジオ展において発表する予定だったが、展示会の直前になって駆動系や増幅器など複数の不具合が見つかり出展を断念した。AEGは駆動機構などにさらなる改善を加え、機構部、アンプ部、スピーカー部をそれぞれ筐体に収め、システムとしてまとめた「マグネトフォンK1型」を 1935 年のベルリンのドイツ・ラジオ展に出品した。世界で初めて実用的なテープレコーダーと磁気テープが一般の人々の前に姿を現し、デモは大成功であった。マグネトフォンは良質の磁気テープを専門メーカーによって同時に開発するという方針に加え、安定したテープ駆動系の開発、テープに無理な力をかけて痛めることのないリングヘッドの開発など、近代的なテープレコーダーの要件をほとんど備えていたといえる機械であった。

    3.5.3 マグネトフォンの活躍AEGは K1 型マグネトフォンに続き、コンソール型や可搬型など多様な機種を開発し、ラジオ放送のモニター用、軍や警察での尋問記録用などで使われるようになる。円盤式録音機が主流であった放送局でも、第二次世界大戦が始まる 1939 年ころにはドイツ国内

    図 3.12 最初のマグネトフォン(1934 年ころ)11)

    のほとんどの放送局にマグネトフォンが設置されるまでになった。1942 年には交流バイアスの採用で、円盤式録音機に対して劣っていた音質が大きく改善され、当時としては非常に高音質な録音放送が欧州全域に流された。連合国側にとってその音質の高さは生放送としか考えられず、ひっきりなしに続く放送をどうやって流しているかは謎であった(図 3.13 参照)。こうしてマグネトフォンはドイツ国内において新規の高音質録音機として活躍するが、この時期、放送、音声記録など軍事用途と密接な関係がある分野で有用な機械ということもあって、国際的な技術的交流は完全に途絶えていた。当時の欧米各国では録音機の主流は円盤式録音機であり、鋼線・鋼帯式磁気録音機もあるにはあったが、真に実用的な録音機と呼べる機械ではなく、録音機という範疇において、マグネトフォンの技術は明らかに優位性を持っていたといえる。1945年に連合国の勝利で第二次世界大戦は終結し、マグネトフォンの技術蓄積は連合国によって調査・分析され、戦後の米国による高性能テープレコーダーの開発につながっていった。

    3.6.1 米国での研究1920 年ころ米国の海軍研究所では、磁気録音機を使って電信の送信時間を短縮する研究が続けられていた。通常に録音したものを高速で再生して送信し、受信側は高速で記録することで通信時間の短縮を図ったもののようだが、高速記録の困難さから実用には至らなかったものの、その研究過程で偶然に交流バイアス

    図 3.13 マグネトフォン(1943 年)12)

    3.6 交流バイアスの発見

  • 194 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August

    が発見された。1921 年同研究所のウェンデル・カールソン(Wendell Carlson)とグレン・カーペンター(Glenn Carpenter)が磁気記録の実験を行っていたとき、たまたま記録アンプが発振を起こし、これが高周波バイアスとして作用したことから、交流バイアスの効果を見つけることになった。この発明は 1927 年に米国で特許として成立しており、磁気録音の性能改善に顕著な効果が期待できるはずであったが、雑音低減に主眼が置かれ録音音質の改善に利用されることがなかったため忘れられてしまった。1930 年代の後半ころ、ベル研究所では鋼帯、鋼線

    録音機の性能改善を目指して、交流バイアスの研究が続けられていた。同研究所は 1937 年にエンドレス・ループ式の「ミロフォン」を開発したが、これを改造してステレオ化した機械を 1939 年ニューヨークでの世界博覧会でデモしたときに、この交流バイアス法を使用した。この研究成果はベル研究所のディーン・ウールドリッジ(Dean E. Wooldridge)によって 1939 年に特許出願され、1941 年に米国特許に登録されている。この特許はその後、イリノイ工科大学・アーマー研究所のマービン・カムラス(Marvin Camras)に譲渡され、大きく改良された後有名なカムラス特許として磁気録音の世界で大きな力を発揮する。1941 年にはアーマー研究所により海軍向けのワイヤレコーダーに採用されるなど動きは速かったが、録音機全体としては鋼線式という性能・機能の限界はあった。

    3.6.2 ドイツでの研究マグネトフォンという形で、近代的なテープレコー

    ダーをいち早く作り上げたドイツに限らず、鋼線式、鋼帯式も含めた全ての磁気録音機は、1930 年ころにはポールセンの発明による直流バイアス法がもっぱら使われていた。1938 年、K4(S)型マグネトフォンを放送用とし

    て採用を決定したドイツの放送局では、研究所でマグネトフォンの質を改善すべく、所長フォン・ブラウンミール(Von Braunmuhl)はヴァルター・ヴェーバー(Walter Weber)にその改善を担当させた。 翌 1939年、ヴェーバーは回路の実験中に、突然、高音質の録音・再生ができることを発見した。周波数特性、雑音、ひずみなど音質にかかわる諸特性が著しく改善されていたのである。その原因は録音回路の異状発振にあったことが分かり、結局、偶然に交流バイアス法で記録していたのであるが、彼はその解明に時を費やし、翌 1940 年、交流バイアス法を確立し、同年 7月

    ドイツ特許を申請した。交流バイアス法の採用によりマグネトフォンの性能は飛躍的な向上を見ることができ、直流バイアスに比べて非常に高い録音・再生音質を得ることができた。 AEGは公開実験を行うなど、交流バイアス法の導入の準備を進め、1942 年に放送用マグネトフォンに交流バイアス法が採用されることになった。こうして当時としては極めて高音質の録音放送が、終戦の直前までヨーロッパ全土に送られることになった。

    3.6.3 日本における研究日本で磁気録音の研究が始まるのは昭和の初期ころからである。当時、潜水艦の音響探査などに役立つと考えられていた音声遅延装置を研究していた東北大学工学部の永井健三博士が、エンドレスの鋼線に磁気録音する案を遅延装置に応用することを考え付き、磁気記録の研究が始まった。この研究はワイヤレコーダーの研究へと発展し、磁気録音を利用した秘話通信の案など、応用研究も進んだ。永井は鋼線の材質について同大金属材料研究所の協力を得て磁気録音に適した材料を研究し、金属材料研究所は仙台金(鉄 40:ニッケル 40:銅 20 の合金)と呼ばれる録音特性に優れた磁性材料を開発した。また 1936 年には「録音放送」の実験をNHK仙台放送局と行い、その反響を受けて安立電気の協力を得て、金華山沖での捕鯨の様子を実況録音するという実験にも成功している。このとき使われたのは鋼線式の試作録音機であったが、円盤式録音機では不可能な揺れる船上での録音に成功した。かなり長時間の録音であり、十数分の放送用に短く編集しなければならず、細いワイヤの切断、接続作業はかなり困難であったものの、生放送が当然の時代に録音放送を実現したわけである。しかしその音質は背景雑音が大きく、録音放送を今後の放送に通常的に使うのは不適切と判断された。この結果を受け、永井の研究室では雑音低減に向けての研究に本格的に取り組むことになった。同じころ、磁気録音の実用化を目指して、永井の研究室から安立電気に入社していた五十嵐悌二も、同じような研究をやっていた。五十嵐は実験中、偶然に交流消去を発見し背景雑音が大幅に減ることを確認する。録音音質は良くならなかったものの、これ自体は直流消去という従来の過程を必要とせず、雑音低減効果もあったので特許として成立した。これが呼び水となって、重畳する交流の周波数や強度をさまざまに選んで最適化を図る、という実験を繰り返し、交流バイアス法を完成させることになった。永井も五十嵐より

  • 195テープレコーダーの技術系統化調査

    もやや早く、ほぼ同様な成果を得ていたが、安立電気はもともと永井の技術指導を受けていたという関係もあって、安立電気と永井の連名で交流バイアス特許が出願され、1940 年に成立した。表 3.1 に交流バイアスに関する各国での特許出願・登録状況を一覧にして示した。

    3.6.4 交流バイアス法交流バイアス法とは、記録信号により高い周波数の信号(バイアス信号)を重畳して記録する方法で、直流バイアス法よりも大きな磁気録音特性の改善が実現でき、近代的テープレコーダーでは性能向上に欠かせない手法として、すべてのアナログテープレコーダーで使われるようになった技術である。重畳するバイアス信号は周波数が高いほど性能向上は望めるが、ヘッドの飽和を考慮して一般的に 30kHz~200kHz くらいの周波数が選ばれる。交流バイアス記録を行う場合ヘッドに流れる記録電

    流は、図 3.14 に示したように記録したい入力信号(a)に、交流バイアス信号(b)を重畳した(c)のような波形になる。この信号がヘッドに加えられ、テープがヘッドギャップ前を通過して記録が行われるわけだが、入力信号(ここでは音声電流)に高周波のバイアス電流が重畳されると、図 3.15(B)のような記録電

    流がヘッドに流れ交番磁界が発生する。この前を通過するテープ上のある一点に着目すると、図 3.16 に示したように磁界が変化して、最終的にある磁化(図3.16 の例では S極)が記録される。この磁化の強さは入力信号に比例するので、ひずみの少ない記録が可能になる。この様子をB-H 曲線上で表したのが図 3.17であり、ヘッドギャップからテープが受ける磁界の変化を描いている。交流バイアス記録ではテープを一度飽和状態まで磁化するので、初期磁化曲線とは無関係に記録ができる。また、入力信号が 0のときはテープの磁化が 0になり、交流消去されたことになるわけである。

    図 3.14 交流バイアス記録波形 14)

    表 3.1 交流バイアス特許 13)

    出願年 月 日 特許年 月 日 国 特許番号 発明/論文の名称 発明者 受理 備考

    1902 06 12 1907 12 10 アメリカ 879,083 Telephone Valdemar PaulsenPeder O. Pedersen

    111,305 直流バイアス特許

    1921 03 26 1927 08 30 アメリカ 1,640,861 Radio Telegraphone System Wendel C. CarlsonOllen W. Carpenter

    456,020 交流バイアス特許

    1936 06 05 日本 論文電気通信学会誌No.180

    磁気録音方式における雑音に関する研究

    永井健三、佐々木四郎遠藤十之助

    交流消去

    1936 10 12 1937 02 03 日本 119,071 抹消装置ヲ要セサル磁気録音装置

    五十嵐悌二、宇都木三郎特許権者:安立電気㈱

    交流消去と交流バイアスを兼ねた特許

    1938 02 05 日本 論文電気通信学会誌No.7

    磁気録音における交流吹消法に関する実験的考察

    永井健三、佐々木四郎遠藤十之助

    交流消去

    1938 03 14 1940 06 21 日本 136,997 交流ヲ「バイアス」トセル磁気録音方式

    五十嵐悌二、石川 誠永井健三特許権者:安立電気㈱

    交流バイアス特許

    1939 07 29 1941 03 18 アメリカ 2,235,132 Magnetic Telegraphone Dean E. Wooldridge(assignor: Bell Telephone Lab.)

    287,192 交流バイアス特許

    1940

    1941

    07

    10

    28

    02

    1943

    1943

    11 04 ドイツ

    アメリカ

    743,411 Verfahen zur magnetischenSchaaaufzeichungMethod of Magnetic Sound Recording

    Hans J. von BraunmühlWalter Weber

    413,380

    交流バイアス特許

    同特許を米国に申請

    1941 12 22 1944 06 13 アメリカ 2,351,004 Method and Means of Magnetic recording

    Marvin Camras(assignor:ArmourResearch Foundation)

    423,928 交流バイアス特許

  • 196 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August

    3.6.1~3.6.3 項で各国での研究の経緯を述べたが、いずれの場合も実験中に記録増幅器の予期しない発振が好結果をもたらす、という偶然が共通しているのは興味深い。また記録媒体の残留磁化を消す消去法の検討が、結果的に記録特性の改善に結び付いた、ということもあった。交流バイアス法は、直流バイアス法に比

    図 3.15 テープの磁化過程 15)

    図 3.16 テープ上のある点の残留磁化 16)

    図 3.17 交流バイアスの暫減磁界 17)

    べると直感的にとらえにくい現象と考えられるが、偶然がうまく作用して実用化され、テープレコーダーの記録品質の向上に非常に大きく貢献する重要技術となったのである。

    引用1) 森芳久 他:「音響技術史」 東京藝術大学出版会、2011 年 3 月、p.73

    2) 森芳久 他:「音響技術史」 東京藝術大学出版会、2011 年 3 月、p.73

    3) 「テープレコーダーの基礎」 ソニー㈱ 技術教育センター、1985 年 5 月、p.34

    4) 「テープレコーダーの基礎」 ソニー㈱ 技術教育センター、1985 年 5 月、p.34

    5) 「テープレコーダーの基礎」 ソニー㈱ 技術教育センター、1985 年 5 月、p.35

    6) 「テープレコーダーの基礎」 ソニー㈱ 技術教育センター、1985 年 5 月、p.36

    7) 「テープレコーダーの基礎」 ソニー㈱ 技術教育センター、1985 年 5 月、p.36

    8) 阿部美春:「テープ録音機物語 その 1」 JAS Journal 2004, Vol.44, No.7

    9) 阿部美春:「テープ録音機物語 その 1」 JAS Journal 2004, Vol.44, No.7

    10) 阿部美春:「テープ録音機物語 その 2」 JAS Journal 2004, Vol.44, No.8 & 9

    11) 阿部美春:「テープ録音機物語 その 2」 JAS Journal 2004, Vol.44, No.8 & 9

    12) 阿部美春:「テープ録音機物語 その 1」 JAS Journal 2004, Vol.44, No.7

    13) 阿部美春:「テープ録音機物語 その 33」 JAS Journal 2008, Vol.48, No.5 & 6

    14) 「テープレコーダーの基礎」 ソニー㈱ 技術教育センター、1985 年 5 月、p.37

    15) 「テープレコーダーの基礎」 ソニー㈱ 技術教育センター、1985 年 5 月、p.37

    16) 「テープレコーダーの基礎」 ソニー㈱ 技術教育センター、1985 年 5 月、p.37

    17) 「テープレコーダーの基礎」 ソニー㈱ 技術教育センター、1985 年 5 月、p.38

  • 197テープレコーダーの技術系統化調査

    4.1.1 AMPEXの誕生ドイツ降伏の 2カ月後(1945 年 7 月)ドイツの通信技術等を調査していた米国陸軍通信隊のジョン・マリン(John Mullin)が、フランクフルト郊外のラジオ放送局でマグネトフォンに接し、その性能に強く魅了された。その年の終わりまでに数十本のテープと数台のマグネトフォンを入手し、早速それらを米国に送り詳細な分析を開始した。マリンは自宅のあるサンフランシスコで友人の協力を得て、直流バイアスを交流バイアスに改造(入手したマグネトフォンは旧型のK4型で直流バイアスが採用されていた)、さらに電子回路の新規設計など接収したマグネトフォンの復元・改良を実行し、音楽のテスト録音を始めた(図 4.1)。1946 年 5 月 16 日にはサンフランシスコでの IEEE分科会でデモを行い大きな反響を得た。

    このデモに関心を示したアンペックス(AMPEX)社は設立間もない零細企業であったが、テープ録音機の将来性を信じ、独自モデルの開発に着手する。全く新しい製品の開発プロジェクトであり方向性や目標が定めにくい状況ではあったが、マリンの助言に従ってまず再生ヘッドの開発を進めることにした。駆動系の開発ができるまでは、手持ちのマグネトフォンを提供するなど、マリンも積極的に協力し、開発された再生ヘッドはマグネトフォンの性能を凌ぐ結果を得るまでになった。引き続き録音、消去ヘッドの開発も順調に進み、ついに 1948 年 AMPEX200 型を完成させた(図 4.2)。当時、人気のラジオ番組「ビング・ク

    4.1 米国

    図 4.1 マリンが改造したマグネトフォン 1)

    ロスビー・ショー」では、全国放送化が進むに従って録音放送が主になっていたため、記録音質の維持が大きな課題となっていた。録音放送の高音質化にマグネトフォンの使用を検討していたビング・クロスビー・ショーのスタッフは、AMPEX200 型のデモに強い関心を示し、放送局への導入に協力する旨を伝えてきた。アンペックスは設立されたばかりで、放送局への販売チャンネルなどは持っていなかったが、ビング・クロスビー・エンタープライズ社が販売を行う契約が成立し、早速ABC放送に納入され米国のラジオ放送で実際の運用が開始される。放送局での運用で 200 型が認められたアンペックスは、1949 年にはさらなる改良を施した 300 型を投入し、業務用テープレコーダーの分野で確固たる地位を確立する。音質の良さと取り扱いや編集の容易さは、従来の円盤型録音機に比べて画期的ともいえるもので、レコードスタジオ、映画音響録音などへとテープレコーダーの活躍の場は一気に広がっていった。

    テープに関してはアンペックスによる 200 型の開発時に、従来の円盤式録音機の録音盤メーカー「オーディオ・デバイス」社と「3M」社が媒体開発への情報提供と協力をアンペックスに要請した。マグネトフォンによって円盤式録音機に代わる磁気録音機、すなわちテープレコーダーの大きな可能性が見えてきていたので、新しい製品として磁気テープへの関心は強くなったものと思われる。3M社は録音用機材には門外漢ではあったが、化学工業において優れた開発力を

    図 4.2 AMPEX200 型 2)

    4 戦後のテープレコーダー

  • 198 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August

    持っており、有名な「スコッチ録音テープ」を開発して磁気テープ事業に本格参入する。その優れた技術力は、当時としては非常に安定した性能の磁気テープ生産を実現し、戦後しばらくの間、全世界のテープレコーダーの基準ともいえる評価を得て標準テープの役割を果たした、有名な「スコッチ 111 番」テープを誕生させた(図 4.3)。

    4.1.2 アンペックスに対抗したマグネコーダーアンペックスがテープレコーダーの開発に取り組ん

    でいたころ、米国内ではいくつかの企業がテープレコーダーという新しい録音機の開発を始めていた。マリンによるマグネトフォンのデモに刺激されて始めた会社もあるが、マグネトフォンとは全く別に開発を進めていったところもあった。1946 年シカゴで設立されたマグネコード社は、最初の製品としてワイヤレコーダーSD-1 型を導入し、それに続く新製品の開発も進めていたが、販売サイドからの強い提言に従い、鋼線式の開発を中止してテープレコーダーの開発に方針転換した。1948 年 5 月には最初の試作機がNABショーに出品され、大きな評判を獲得する。この機械は PT-6 型(図 4.4)と呼ばれ、アンペックス 200 型の価格($3,825)に対し大幅に安く($499.5)、また大型コンソールタイプの 200 型に比べて、小型の筐体はユーザーの関心を強くひきつけた。アンペックス 200型は録音モニターができる 3ヘッド構成で、業務用として十分な機能を備えていたが、PT-6 型は消去および録音・再生兼用の 2ヘッド構成であり、業務用としてはいささか不安もあった。録音機という基本的機能は果たせるので、その後の家庭用テープレコーダーでは価格重視ということもあって 2ヘッドが標準的な構成になるが、本格業務用としての要求に応え、マグネコーダーは 1950 年には 3ヘッド化された。1949 年、ハワイの日系放送局によって、ラジオの

    人気番組であった「のど自慢素人音楽会」を録音する

    図 4.3 スコッチ 111番 磁気テープ 3)

    ため、スコッチ 111 番テープと一緒にマグネコーダーがNHKに持ち込まれた。また、同年 8月、ロサンゼルスで行われた全米水上選手権の中継録音に使われたマグネコーダーPT-6 型数台がNHKの技術陣によって日本に持ち帰られ、本格的にラジオ放送でのテープ録音機の運用が始まった。さらに 1951 年からは戦後始まった民間放送局でもこの PT-6 型が使われるようになった。このように、マグネコーダーは日本に最初に持ち込まれ、実用に供されたテープレコーダーであり、国産テープレコーダーの開発に大きな刺激を与えた機械でもあった。

    4.1.3 規格の統一1947~1950 年ころ、米国では放送業務用から始まって、家庭用も視野に入れたテープレコーダーを製造・販売する企業がいくつも出てきた。戦前から円盤録音機を作っていた業務用機器の老舗だけでなく、新たな市場に魅力を感じて新規に参入してくるところもあった。複数のメーカーが独自の規格でテープレコーダーを作っていては、録音されたテープの互換性が取れなくなるので使用領域が限られ、せっかくの新技術の発展が阻害される。テープレコーダーが本格的に放送用途に使われるようになるにつれ、この問題が深刻化することは明らかであった。米国には戦前からラジオ放送が盛んでNAB(National Association of Broadcasters)*という民間放送連盟が存在した。NABは録音機の放送用としての運用を考慮して、すでに 1941 年、円盤式録音機を対象とした録音再生規格委員会を発足しており、この延長として 1949 年には磁気録音を含む必要な用語・寸法・特性等が制定された。NAB規格はその後の民生用を含むテープレコーダーの規格として世界的にデファクト・スタンダードとして使用され各国規格に反映されるようになる。これによってオープンリール時代の最低限の互換性が確保されることになった。

    * NAB は National Association of Broadcasters の略で、アメリカの民間放送連盟である。設立は 1923 年

    図 4.4 マグネコーダーPT-6 型(1948 年)4)

  • 199テープレコーダーの技術系統化調査

    であるからほぼ 90 年になる。1年に 1回米国でコンベンションが開かれ、同時に世界最大といわれる放送関係機器の展示会も開かれる(最近はラスベガスが多い)。NABの組織の中に録音再生規格委員会があり、第二次大戦後、いち早く放送用のテープ録音機、円盤録音機などの規格が定められ、RMA(後のRTMA、現 EIA)と並びテープ録音機関係の規格としては日本でも古くから知られている。

    4.2.1 マグネトフォンの復活第二次世界大戦の敗戦により、マグネトフォンを生み出し先進技術を誇ったドイツの磁気録音機は戦後大きく出遅れることになった。磁気録音テープという高度な化学工業製品も、戦前のドイツで大手化学品メーカーにて製品化され、放送局での録音放送に多用されるまでに成長していたが、磁気録音テープの製造がドイツで再開されたのはアグファが 1949 年、BASFが1950 年になってからである。マグネトフォンは終戦から 9年たった 1954 年にようやくAEGの系列化にあったテレフンケンから、装いを新たにしたセミプロ用のテープ録音機M5型(図4.5)が発売され、1958 年にはホーム用のマグネトフォンも市販されるようになった。AEG自身も 1952 年にホーム用にレコードプレーヤーと兼用のテープ録音機KL-15D を発売している。こうしてマグネトフォンは戦後数年を経て復活することになったが、テープレコーダーに関する技術はかなりの部分が公知のものになり、鋼線録音機などを作っていた欧州の録音機メーカーが新たにテープレコーダーを開発、市場に導入するようになっていった。1948 年には英国のEMI が AEGのマグネトフォンを手本にプロ用のBTR/1 型を作り、翌 1949 年にはスイスのスチューダー(Studer)社がセミプロ級のダイナボックス (Dynavox) を作るなど、業務用機器として欧州でのテープレコーダーは進化していった。

    4.2.2 スチューダーの活躍スチューダー社は 1948 年ウィリー・スチューダー

    (Willi Studer)によってスイス、チューリッヒに設立された小さな電子機器メーカーであった。設立後しばらくして米国からテープレコーダーを輸入することになり、これがテープレコーダーの自主開発に向かわせるきっかけとなった。まずは米国からの輸入品を欧州仕様に改造することから始め、1949 年にスチューダー社の第 1号テープレコーダーとなるダイナボック

    4.2 欧州

    スを完成した。会社の規模は小さく、満足な人員や測定器もなく、性能的にはあまり芳しいものではなかったが、テープレコーダー自体が珍しい新製品であり、ビジネスとしてはそれなりの成果を得たようである。この経験を生かしてさらなる改良設計を行い、1951年にはブランド名をルボックス(Revox)に変えたT26 型を発売する。ダイナボックスもこのT26 型も、一般用(非常に高価格ではあったが)のテープレコーダーとして開発、販売されたものであるが、スチューダー社はT26 をベースに業務用の録音機として 27 型を開発した。この機械は音楽イベントで試用されて好評を博し、1952 年には Studer 27 型として本格的な生産に入った(図 4.6)。Studer 27 型の成功によってスチューダー社は業務用録音機メーカーとしての評判を確立、米国のアンペックスと並んで戦後の業務用高級録音機市場をけん引していくことになる。Revoxブランドは一般用高級テープレコーダーとして優れた製品を次々と生み出し、1955 年のA36 型から始まる 36 シリーズは、ステレオ化も達成して 1967 年まで続いた。1967 年ころ当時最も高性能な一般用テープレコーダーと評されたA77 型(図 4.7)は、その高音質が音楽愛好家やオーディオマニアから高い評価を受け、非常に高価な機械であったにもかかわらず、世界中で数十万台を売り上げるヒットモデルとなった。

    図 4.5 マグネトフォン M5型(1954 年)5)

  • 200 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August

    4.2.3 可搬型テープレコーダー 「ナグラ」の登場テープレコーダーは磁気録音を行う機械であり、蓄

    音機に比べて電気系の比重が高いように思われがちだが、デジタル録音機以前のテープレコーダーで性能を決める大きな要素は、テープ駆動系と正確で安定した走行を担う機械系であった。高い工作精度や組み立て制度が要求される精密機械製品であり、時計工業が発達していた中部欧州地域にはその下地があったと考えられる。スチューダー社はスイスで設立されたが、同じスイスのローザンヌで、戦後の欧州を代表するもう一つの非常にユニークな録音機、ナグラが誕生する。ステファン・クデルスキー(Stefan Kudelski)はポーランドのワルシャワに生まれたが、第二次世界大戦の影響で故郷を離れ、ハンガリー、フランスを経てスイスに落ち着いた。1951 年、ローザンヌで高音質を目指した、小型・軽量の可搬型テープレコーダーを作り、この機械にポーランド語で記録するという意味

    図 4.6 Studer 27 型(1952 年)6)

    図 4.7 Revox A77 型 7)

    のNAGRAという名を付けた。最初のNagra Ⅰ型は1952 年に地元のラジオ局が購入し、さらに他国のラジオ局からの発注もあったが、Nagra Ⅰ型は試作機のレベルを超えておらず不具合も多かったので、大幅に設計を見直したⅡ型(図 4.8)を完成させ、1953 年末にはこのⅡ型の生産が始まった。ナグラは電池駆動できるポータブルタイプにもかかわらず、機械加工技術を駆使した非常に精密なテープ走行系を備えており、テープレコーダーの活躍範囲を広げるのに十分な性能を備えていた。1959 年にNagra Ⅲ型が登場するが、この機械は映画撮影用シネカメラとの同期など、システム的運用ができる機能を備えるようになり、世界中の映画スタジオ、放送局で多用される業務用ポータブルの名機としてテープレコーダー界に重要な地位を占め続けた。業務用機器としてのメンテナンス性が考慮された設計、精密な加工が施された美しい主要機械部品、独特で切れ味のある操作感など、精密機械としての魅力にあふれ、多くのテープレコーダー設計者に目標とされるような存在でもあった。映画撮影との同期機能のために多くの周辺機器がシステムとしてそろえられ、映画撮影現場での録音用のメーン機材として長らく君臨したが、デジタル録音機器とデジタル音声処理がアナログ機器を急速に置き換えていくにつれ、この分野でのナグラも役目を終えていった。

    4.3.1 業務用テープレコーダーの国産化戦前、放送への応用を目指した磁気録音機の国産化については、1930 年代終わりごろから安立電気や日本電気で鋼線式録音機の開発、製造が進められたが、音質面、操作面などで未熟なところが多く、放送用として十分使用に耐えるものはできなかった。戦争中も

    図 4.8 Nagra Ⅱ型(1953 年)8)

    4.3 日本における開発

  • 201テープレコーダーの技術系統化調査

    開発は続けられていたようで、戦後の 1948 年には日本電気(NEC)が鋼線式録音機を発表したが、価格も高く普及には至らなかった(図 4.9)。

    4.1.2 で述べたが、1949 年に米国製のマグネコーダーによって、テープレコーダーが日本の放送業務で実際に使われることとなり、使われた PT-6 型がNHKによって日本に持ち込まれた。このモデルを参考として、NHKの協力を得ながらテープレコーダーの国産化に着手したのが東京通信工業(東通工、後のソニー)と日本電気音響(電音、後のDENON)であり、いよいよ日本製テープレコーダーの開発が始まる。電音は戦前、坪田耕一が国産録音機の開発を目指して興した電気音響研究所がそのルーツであり、円盤型録音機をNHKに収めるなど、戦前から戦後にかけて放送用録音機器の国産メーカーとしての実績を持っていた。一方、東京通信工業は 1946 年に井深大が興した新興企業であり、測定器などいくつかの電気技術応用製品の開発・販売を進めながら、画期的な新製品への模索を強めていた。親交の程度は不明だが坪田、井深両氏は早稲田大学理工学部の同期である。両社は短期間で試作機(図 4.10、図 4.11)を作り、早速NHKで評価が行われた。評価の結果を反映する形で正式な要求がまとまり、試作機はあらためてNHK仕様として再設計され、NHKにおける最初の業務用国産テープレコーダーPT-11 型(図 4.12)、PT-12型(図 4.13)として 1951 年に導入され、各地の放送局で使われることになった。テープトランスポート部とアンプ部は別筐体となっており、「携帯型」として扱われたようである。試作機の写真からも推測できるが、円盤録音機という機器を通して放送用機器分野で経験が豊富だった電音は、マグネコーダーPT-6 型を忠実に再現する手法で、業務用途としての信頼性と性能確保を重視する方向であったのに対し、東通工は基本原理は踏襲するものの何とか独自技術の方向性を試

    図 4.9 NEC MR-1 型 鋼線式録音機(1948 年)9)

    したい、というスタンスの違いがあったように見受けられる。

    図 4.10 東通工 試作 1号機 10)

    図 4.11 電音 試作 1号機 11)

    図 4.12 PT-11 型 東通工製 12)

    図 4.13 PT-12 型 電音製 13)

  • 202 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August

    4.3.2 東通工による国産1号機の誕生東京通信工業では早くから磁気録音機への関心が高

    く、鋼線式録音機なども検討していたが、NHKを通してテープレコーダーの実物に接し、有望な新規商品としての可能性を確信して開発に多くの力を注ぐことになる。参考資料が非常に乏しい中で、短期間で設計と試作を繰り返すなど、技術陣主導の新興企業としての機動性を発揮した。同時に磁気録音の原理に関する考察や技術検討も行われていたようで、必須と考えた「高周波バイアス特許」を安立電気から取得するなど、独自の技術開発による製品の優位性を保つ準備も抜かりなく進めていた。磁気録音として最初に取り組んだ鋼線式を捨て、磁気録音機の開発をテープレコーダーに絞った東通工は、苦労しながらも独自の開発を推進していった。最初の試作は前項のNHK向け試作機であったが、業務用途に向けた製品開発が技術蓄積に大きな役割を果たしたことは間違いない。戦後間もないころで部品や材料は乏しく、技術の蓄積や情報もほとんどないといえる状況で、全く新規の製品開発は大変な苦労を伴ったことと思うが、ついに 1950 年に国産初のテープレコーダー「G型」(図 4.16)が東通工から発売される。価格¥160,000 という高額商品であった。同時にテープも開発・発売されたが、まだまだ紙ベースの初歩的なものであり、平滑性など録音再生性能に直接影響する物理特性は未熟なものであった(図4.17)。東通工でテープレコーダーを作るに当たっての大き

    な障害は、適切な部品がないということであった。特に駆動用のモーターは定速で回ることが必須であり、かつ(音響装置としては当然であるが)静粛で、ある程度トルクの出せるものとなると、扇風機など一般電気製品のものでは要求を満たすのは難しく、電音が円盤録音機用に開発していたヒステリシス・シンクロナスモーターを使わせてもらうことになった。また動力伝達部のアイドラーなどに使われるゴム材料も良いものがなく非常に苦労する。この後、東通工ではゴムを使ったベルトやアイドラー類の特性改善を目指してさまざまなノウハウを蓄積し、その後のソニー製テープレコーダーの性能向上に結び付けて、商品の優位性確保に大いに役立てていった。 もう一つの大きな課題は磁気テープの開発であっ

    た。参考になる資料等は皆無で、磁性を持つ粉をベース材に塗れば録音用のテープになるということは理解できるものの、ベース材や粉の材料ともに、全く手探りの開発であった。とにかく磁性を示せばよいというので、棒状のOPマグネットを乳鉢ですって粉にし、

    適当な紙に飯粒を練って作った糊を使って塗ってみた。この試作テープを試したが、ノイズばかりで音にはならない。いろいろと実験した結果、すりつぶした磁石の粉では磁性が強すぎ、音を記録するにはもっと弱い磁石を使うべきとの結論になった。このOPマグネットの粉を磁性体として使うのは、後のメタルテープと同じことであるが、当時の技術レベルでは高い抗磁力の磁性体を磁化できるヘッドができなかったということであろうか。東通工の開発陣はいろいろと文献をあさり、シュウ酸第二鉄という物質を焼いて酸化させると酸化第二鉄になる、ということを見つけた。物不足のときではあったがシュウ酸第二鉄の試薬を何とか手に入れ、早速フライパンで煎ってみた。黄色いシュウ酸第二鉄が徐々に茶色から黒になっていくが、色合いを見ながら適当なところで加熱を止めるとうまく酸化第二鉄の粉が得られた。できた粉を塗る方法も、スプレーガンから始めてみたが、無駄になる量が多く仕上がりも悪かったので、試行錯誤を繰り返し、はけで塗るという方法で何とか試作品を作り上げた。78 回転レコードのターンテーブルを二つ並べた原始的な実験装置で録音実験を繰り返し、磁性体の改良を続ける一方、ベース材料の選択もさまざまな検討を行ったが、当時の日本では磁気テープに適するような紙やプラスチックは存在しなかった。紙の専門家に頼むしかないということになり、本州製紙に協力を求めたところ、新しい製品の開発に大いに興味を示してもらい、紙のテープ用ベース材の確保にめどを付けることができた(図 4.14、図 4.15)。こうして磁気テープと本体の開発が進み、1950 年に日本初のテープレコーダー「G型」の発売にこぎ着けたのであった。

    図 4.14 磁気テープ試作用道具類(レプリカ)

  • 203テープレコーダーの技術系統化調査

    4.3.3 テープレコーダー1号機の販売東通工は「テープコーダー」という登録商標を取ってG型の販売を始めたが、顧客に面白い機械ということで関心は示してもらえるものの、価格も高く大型で使いにくい、明確な用途が分からない、など一般家庭用機器としてはなかなか受け入れられなかった。当面の実際のユーザーは公的機関等が中心で、裁判所での記録用などに使われたが、これは想定していたことでもありG型の Gは Government の頭文字である。当初、画期的な製品として一般家庭にも普及するものと自信を持って販売を始めたが、興味は持ってもらえるものの、購買にはなかなか結び付かない。良いものなら作れば売れる、という楽観的な方針を見直し、テープレコーダーの啓発・宣伝への注力を重視し、トップ自らテープレコーダーの使い方やそのメリットを分かりやすく記した解説書を作って、セールス活動を強化した(図 4.18)。同時に低価格化と使いやすさを目指した新製品開発を並行して進めてもいた。こう

    図 4.15 試作テープ(1949 年)

    図 4.16 国産初のテープレコーダー東通工G型テープコーダー(1950 年)14)

    図 4.17 初期の東通工製「ソニ・テープ」(1950 年)15)

    して技術、特許戦略、マーケティングという普及への武器を軸にして、東通工はテープレコーダーのトップメーカーへの基礎を築いていったのである。

    4.3.4 東通工と交流バイアス特許3.6 で述べたように、交流バイアスは 1920 年代に磁気録音の研究過程で偶然発見されたが、世界各地で磁気録音の性能改善に向けた研究が本格化したのは1930 年代後半であった。ちょうど第二次世界大戦が始まるころと重なり、また録音機技術は放送や音声記録など軍事関連用途への応用と関係が深かったこともあり、各国の技術交流は戦後まで途絶えた状態になってしまった。ドイツの敗戦後、当時最も進歩していたと思われるマグネトフォンが戦勝国によって詳しく調査され、技術移転が急速に進んだ結果、近代的で優れたテープレコーダーが開発・実用化されることになり、高い録音再生性能を発揮するために、交流バイアスが必須の技術と認識されることになったのである。戦後、国内でテープレコーダー開発を始めた東通工は、独自に磁気テープを作れることと並んで、交流バイアス法の使用がテープレコーダーの商品化に必須と考え、関係する特許について詳しく調査した。日本における交流バイアスの特許は、東北大学の永井健三とその弟子で安立電気で研究を進めていた五十嵐悌二の研究成果として成立しており、権利は安立電気が持っていた(図 4.19)。安立電気と交渉の結果、1949 年 10月に交流バイアス特許を譲り受けることになったが、当時の東通工にとっては非常に高額な投資であったので、日本電気と共同で購入することになった。この永井特許は 1940 年に日本特許として成立し米国にも出願されていたが、戦争によって手続きは未完となってしまい、その間に米国のカムラス特許が日本以外の各国で交流バイアス法の特許として成立していた。

    図 4.18 東通工のテープレコーダー解説書類

  • 204 国立科学博物館技術の系統化調査報告 Vol.17 2012.August

    4.3.5 交流バイアス特許をめぐる争い1950 年の G型発売以来、日本国内でのテープレ

    コーダー市場が急速に立ち上がることになるが、この交流バイアス特許が他社の市場参入を防ぐ上で大きな武器になり、東通工はテープレコーダーの販売において高い市場占有率を確保することができた。このころ、米国系のバルコム貿易が米国製テープレコーダーの輸入販売を本格的に始めた。東通工と日本電気は交流バイアス特許の侵害を訴え、再三、特許料の支払い、もしくは販売の中止などを求めた警告を発したが、バルコム側は無視を続けたため 1952 年 9 月に東京地裁に提訴した。バルコム側はGHQも巻き込むなど大きな事案になったが、最終的には東通工側が勝訴した。ただし係争途中から米国での特許権者であるアーマー研究所が前面に出てきたため、東通工は輸出への影響を考え、アーマー研との技術援助契約の締結などを含めて和解へと進むことになった。東通工は国内メーカーに対しても特許許諾について

    強硬な姿勢を保っていたが、赤井電機が 1954 年、バイアス回路にちょっとした工夫を盛り込んだ「新交流バイアス方式」という技術を搭載したテープレコーダーキットを発売した(図 4.20)。東通工はすぐに特許侵害の抗議をするが、赤井電機は「永井特許に抵触せず」として拒否した。告訴にまで至るが、東通工は業界内での孤立やその他の諸事情を考慮し、結果として和解に�