ヨーロッパオスマン帝国の解体と - サントリーはじめに...

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西調調西調西調稿稿1 Nobuyoshi Fujinami 1978 年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科 博士課程修了。博士(学術)。東京外国語大学アジ ア・アフリカ言語文化研究所研究機関研究員を経 て現職。専攻は近代オスマン史。著書に『オスマ ン帝国と立憲政』(名古屋大学出版会)、論文に「国 民主権と人民主義」(『日本中東学会年報』第25 1 号)、「オスマンとローマ」(『史学雑誌』第122 編第6 号)など。 Special Feature 060 061 オスマン 帝 国 の 解 体とヨーロッパ Special Feature 特集◎第一次大戦100年

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Page 1: ヨーロッパオスマン帝国の解体と - サントリーはじめに 第一次世界大戦は何よりもまずヨーロッパの大戦だっ た。ハプスブルクのバルカン進出がロシアに阻まれると、

はじめに

第一次世界大戦は何よりもまずヨーロッパの大戦だっ

た。ハプスブルクのバルカン進出がロシアに阻まれると、

それが列強諸国の二極化の中、遂に開戦に至ったのが、

一九一四年七月危機の様相だった。それまでは、西欧列

強相互の利害や勢力の均衡を行なうべく、その内部の矛

大戦前の国際秩序、即ち「ヨーロッパの協調」も、これ

を契機に崩壊する。

だが、「ヨーロッパ」という広域秩序自体は、今なおそ

の命脈を保っている。これは必ずしも自明の問題ではな

い。「ヨーロッパ」概念の定着以来、久しくその対蹠物と

して表象されたもう一つの広域秩序、即ちオスマン帝権

の領域は、大戦を最後として、今に至るまでほぼ完全な

分裂状態にあるからである。これと前後して解体した清、

ロシア、ハプスブルク、ドイツの各帝国の内、前二者の

領域の主要部分は今なお主権国家として統合されてい

る。そして後二者の領域は、今や欧州連合の下位区分と

して、改めて「ヨーロッパ」の一翼を担っている。では

なぜオスマン領のみがほぼ完全に解体し、「中国」や「ヨ

ーロッパ」は存続しているのか。この問いは、各地域に

おける国民統合の成功の度合いによって説明されること

が多い。だがそれは同義反復の嫌いが否めない。問題は、

ではなぜオスマン帝国の統合のみが「失敗」するような

環境が存在したのかという点にこそある。それを人種や

宗教によって説明する本質論の不毛さは言うまでもな

い。この問いは、当時オスマン帝国が置かれていた国際

秩序、即ち「ヨーロッパの協調」に基づく西欧列強の覇

権という構造自体が孕んでいた問題性から説明されるべ

き論点である。それは翻って、「ヨーロッパ」なるものの

内実を問う作業ともなるだろう。

「ヨーロッパ」史の画期たる第一次大戦は、その際の好

適の分析対象となる。ところが、世上一般に流布する大

戦論のほとんどは、「ヨーロッパの協調」の内部で、西欧

列強を主体に据える視座から、その崩壊の経緯とその遺

産とを語るに留まっている。だが、大戦までなぜ「ヨー

ロッパの協調」が存続し得たのかを理解するための鍵が、

一般にはその「外部」と目されるオスマン帝国にあった

ように、「ヨーロッパ」がなぜ大戦後も存続し得ているの

かも、オスマン史の視座からこそ、より良く理解できる

のではないだろうか。

本稿では、以上の点を念頭に置きながら、第一次大戦

の今日的意義について、オスマン史の視座から論じるこ

ととしたい。なお、オスマン領内外の政治構造が大戦を

経て如何に変容したかについてのより具体的な議論は別

稿で展開している)

1(

。こちらも併せて参照されたい。

オスマン帝国の解体と

ヨーロッパ

    

Nobuyoshi Fujinami

1978年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所研究機関研究員を経て現職。専攻は近代オスマン史。著書に『オスマン帝国と立憲政』(名古屋大学出版会)、論文に「国民主権と人民主義」(『日本中東学会年報』第25巻第1号)、「オスマンとローマ」(『史学雑誌』第122編第6号)など。

特集◎第一次大戦一〇〇年

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盾の転嫁先として、遠くはアジアやアフリカでの植民地

獲得競争、近くはオスマン領の解体という場があった。

だが既に世界分割もほぼ完了し、一九一二年のバルカン

戦争の結果、オスマン帝国が「ヨーロッパ」から駆逐さ

れた後の一九一四年には、「ヨーロッパ」の矛盾は、もは

やその内部での直截な軍事的衝突によってしか解決され

得なかった。大戦が「第三次バルカン戦争」として始ま

ったことは、以上の経緯を如実に示している。そして、

藤波伸嘉

(津田塾大学国際関係学科准教授)

060061 オスマン帝国の解体とヨーロッパ S p e c i a l F e a t u r e 特集◎第一次大戦 100 年

Page 2: ヨーロッパオスマン帝国の解体と - サントリーはじめに 第一次世界大戦は何よりもまずヨーロッパの大戦だっ た。ハプスブルクのバルカン進出がロシアに阻まれると、

重層する普遍性

オスマン朝は、新ローマ即ちコンスタンティノープル

を自らの都として、アレクサンドロスやカエサルの系譜

を継ぎ、イスラーム時代の世界帝権の担い手を自負する

政体だった。他方でオスマン朝は、中央ユーラシアの西

端で、ポスト・モンゴルの諸王権と対峙すべく、イスラ

ーム的モンゴルの正統性を身に纏うための努力を重ねて

もいた。即ち、チベット仏教と満洲=モンゴル王権、そ

して中華の帝権の重層を体現した清朝と同様に、オスマ

ン朝は、ローマ帝権とイスラーム、そしてテュルク=モ

ンゴル王権の重層を体現する存在だった。ビザンツ滅亡

後、こうしたオスマンの現世支配を神意と見做し、それ

に従うことで既得権の確保を図ったのが正教会だった)

2(

ところが、「蛮族」の地、西欧では、オスマン朝による

コンスタンティノープル征服は、帝権の遷移を確証する

ものと認識された。中世から既に、東方教会から孤立し

たカトリック教会や皇帝を自称するフランク諸王侯の

下、西欧人は、新ローマに所在する帝権を「ローマ」と

は見做さず、これを「ギリシア」―後には「ビザンツ」

│と呼び、自らこそが真の「ローマ」だと考えるよう

になっていた。「トルコ」の寇こ

うりやく略から「ギリシア」文芸を

保護したという自意識がこれに加わると、西欧人は、今や

自らこそ「ギリシア・ローマ」の唯一の継承者だと考え

るようになる。その後、西欧人は、カトリック教会の分裂

に伴う宗教戦争を経験しつつも、「寛容」で「理性的」な「ヨ

ーロッパ」という自画像を創り出した。それと対比され

るのが、「狂信的」で「停滞」したオスマン朝であった)

3(

言うまでもなくこれは西欧人の勝手な認識に過ぎな

い。正教ではなくカトリックこそ「ギリシア・ローマ」

の真の継承者だと考えるのはご都合主義に他ならない

し)4(

、人文主義や啓蒙主義を通じた西欧人の古典古代の再

発見は、アリストテレスを「第一の師」とするイスラー

ム哲学を介して実現したものだった。そのイスラーム哲

学をより直接的に受け継ぎ、ギリシア古典を自前の知的

財産とするオスマン文人は、近世地中海世界の知的活性

化の中、独自の形で古典古代の遺産の再解釈に取り組ん

でいた)

5(

。しかもそれは、ポスト・モンゴルのイスラーム

諸地域、特にイランやインド、中央アジアというペルシ

ア語文化圏との紐帯に支えられ、ユーラシア規模の知的

交流をもたらしてもいた)

6(

。即ちオスマン朝は、モンゴル

というもう一つの普遍性との境界で、近世イスラームの

文脈において「ギリシア・ローマ」を継承する存在だった。

ところが、オスマン領を迂回した中国やインドへの航

路の模索の果てに、南北アメリカ及びアフリカに進出し、

その各地で現地人の殲滅や搾取を通じて富を蓄積した西

欧列強は、一八世紀末以降、それを元手にオスマン領の

侵食に乗り出した。それは、富の源泉である中国やイン

ドへの道を確保するという実利的な目的も有したが、そ

れと同等か、それ以上に重要だったのが、「トルコ支配」

の下にあるキリスト教徒や「ギリシア・ローマ」の故地

を「解放」するという大義名分だった。一八二〇年代の

ギリシア独立戦争が「文明と野蛮」の戦争と表象された

のはその好例だが、こうした発想を正当化したのが、国

際法だった。

国際法の時代

帝国主義が席巻する一九世紀は、同時に万国公法、即

ち国際法の時代でもあった。だがその国際法なるものは、

露骨に西欧中心主義的な内容を有していた。例えば、人

類を「文明」「野蛮」「未開」に分け、「文明」は欧米諸国に

しかないとし、その根拠の一つとして西方キリスト教の

優位性を縷々説く国際法学者ロリマーは、次の如く言い

放つ。

人種としてのトルコ人は恐らく政治的発展に適し

ておらず、故に彼らが立憲政体を導入することも不

可能である。だが仮にそうではなかったとして、ま

た仮に、実際には不誠実なものだった一八五六年及

び一八七六年に発布されたトルコ憲法が誠実なもの

だったとして、いやそれどころか、それがせめて施

行されるだけでもしていたとして、それでもなお、

国際関係におけるトルコの位置が向上することはあ

り得なかっただろう。そのようなことがあった場合

でも、コーランが、それを持つ国と持たない国との

間に屹立し、トルコが主張するところの輿論に基づ

く立憲政は、コーランと矛盾することになる。(中略)

イスラーム諸国を文明諸国の一員として正式に政治

062063 オスマン帝国の解体とヨーロッパ S p e c i a l F e a t u r e 特集◎第一次大戦 100 年

Page 3: ヨーロッパオスマン帝国の解体と - サントリーはじめに 第一次世界大戦は何よりもまずヨーロッパの大戦だっ た。ハプスブルクのバルカン進出がロシアに阻まれると、

的に承認するのは時間の問題に過ぎないなどと言う

人がいれば、その人はナンセンスを口にしているの

である)

7(

同時代の中国や日本も、在地の自生的な文明規範と万

国公法との調和に苦闘したが、ことオスマン帝国に関す

る限り、当の国際法に内在する宗派主義的偏見の下、そ

れは一層困難な課題となる。だが、この「文明諸国」の

公法とは元来、神聖ローマ帝権の弱体化の中、カトリッ

ク世界内部の王侯相互の有職故実が集成されたものに過

ぎなかった。世上一般の国際法史は、宗教戦争後の西欧

内部の勢力均衡を、「寛容」の境地から革新された「万民

の法」の成果として特筆するが、そうした史観自体、オ

スマン帝国の存在を忘却することで初めて成立可能なも

のだった。

一四世紀以来、イタリア諸都市にとって喫緊の課題は

急成長するオスマン朝への対応であり、故に各都市が対

オスマン交渉に努めていた。オスマン帝国の存在はハプ

スブルクの政策決定過程における最大の要素の一つだっ

たし、そのハプスブルクと対峙するフランス王権にとっ

ても、オスマン朝との友好は死活問題だった。そして、

オスマン領に隣接するハンガリーやポーランドやロシア

にとって、対オスマン交渉が有した意義は贅言するまで

もない。またこの間、西欧とオスマン領は経済的にも緊

密に結び付いていた。故にオスマン側も西欧諸国との交

渉を絶やしたことはない。確かに、その際の用語法に、「イ

スラームの家」と「戦争の家」との二分法を基調とする、

いわゆる「イスラーム的世界観」が貫徹したのは疑えな

い。だがそれは、その普遍性を自賛する西欧人のいわゆ

る国際法が、実際にはキリスト教の優位を前提した「奉

教之公法」に他ならず、「文明諸国」としてのキリスト教

世界と、「野蛮」「未開」のその他の地域という二分法に基

づくものだったことと対を成す事象である。

しかし、こうした対オスマン交渉は「野蛮」な異教徒

と余儀なく結んだ関係に過ぎず、「ギリシア・ローマ」以

来の「文明諸国」内部の交渉術の発展史上は無視して差

し支えのない些事だと見做す立場においてこそ、前述の

如き、世上一般の西欧中心主義的な国際関係史が立ち上

がる)

8(

。そしてそれは、世界各地に重層した種々の普遍性

が、西欧カトリックという局地的文脈の中で成立した「主

権国家」なる擬制を通じて、「文明国基準」の中に一元化

されていく試みを、あたかも「進歩」であるかの如くに

見做す思考法が浸透することも伴った。

しかし、こうした世界観に基づく西欧主導の国際秩序

に否応なく取り込まれた後、自存自衛のため、その中で

最低限の発言権を得るためにも、オスマン帝国にとって、

自らが主権的で領域的な国民国家であると示すのは急務

となる。その課題に際してオスマン人は、西欧学知を踏

まえつつもそれを逆用することで、自前の在地秩序像を

改めて構築し、もって自らの「文明性」を誇示しようと

試みた。

「我らが東方」

一九世紀を通じ、ムスリム・非ムスリムを問わず少な

からぬ在地の知識人が、現存するオスマン帝国の枠組み

を積極的に評価していた。それは何も彼らがオスマン王

家による支配に満足し、それを護ろうとする忠良な臣民

だったからではない。そうではなく、西欧列強の侵出に

反発する彼らは、それに抗して自前の在地秩序を護るべ

く、いわば一種の「より少ない悪」として、現存するオ

スマン秩序に一定の支持を与えていたからである。その

背景には、オスマン帝国が、必ずしも互いに排他的では

ない多元的な利益確保の道筋を、在地の諸政治勢力に対

してそれなりに保障していたという現実があった。タン

ズィマート改革後のオスマン国制は、州議会、行政評議

会、市参事会、国家評議会、そして帝国議会などを通じ、

多民族多宗教の利益が表出され討議される場を保障して

いた。

こうした制度的枠組みに勝るとも劣らず重要なのが、

あるべき政体の代替可能性についての想像力の投影先と

して、現存するオスマン領が一種の触媒として機能して

いたことである。つまり、時々の政権への態度に関わら

ず、更にはオスマン朝自体の存続への支持の有無にすら

関わらず、何らかの形で再編されたより「正しい」在地

秩序を構想するに当たり、現存するオスマン領の広がり

は、在地の知識人に、一定の認識枠組みを提供していた。

例えば、オスマン臣民たる近代ギリシア人は、現行の

「ギリシア史」の枠組みでは、「母国」ギリシア王国による

「解放」を待つのみの、「未解放の同胞」と見做されがちで

064065 オスマン帝国の解体とヨーロッパ S p e c i a l F e a t u r e 特集◎第一次大戦 100 年

Page 4: ヨーロッパオスマン帝国の解体と - サントリーはじめに 第一次世界大戦は何よりもまずヨーロッパの大戦だっ た。ハプスブルクのバルカン進出がロシアに阻まれると、

ある。だが実際は、彼らの多くが、西方教会に抗し、ま

たロシアによる正教会支配を防ぐべく、コンスタンティ

ノープルを核とした新体制樹立を夢見ていた。この構想

において、現存するオスマン領の広がりは、分割される

べきものとしてではなく、維持されるべきものとして現

れる。その文脈で、オスマン・ギリシア二重帝国論、あ

るいは、オスマン領内でのギリシア人の経済的文化的発

展を通じた帝国のギリシア化、いわゆる「ヘレノ=オス

マン主義」が広く支持を集めていた。その延長線上に、

より「世俗的」な多民族の統合論たる「東方連邦」論も打

ち出される。一部のアラブ人が構想したトルコ・アラブ

二重帝国論も、イスラームの担い手と目される両民族の

指導の下、域内の多民族的統合を志向する点で、同工異

曲のものだった。

重要なのは、これらの在地秩序構想が、必ずしも他民

族の排除を目指すものではなかったことである。これら

の多くは多民族多宗教の統合を謳っている。勿論、実際

にはその際も、論者自身が属する民族なり宗派なりが主

導権を握ることは暗黙の前提となっていた。だが、例え

ばオスマン・ギリシア二重帝国論者がアラブ人の放逐を

考えていた訳でもなければ、トルコ・アラブ二重帝国論

者がキリスト教徒の絶滅を考えていた訳でもない。そし

て、これらの秩序構想が視野に入れる地理的範囲は概ね、

明示的にか黙示的にかを問わず、ほぼ現存のオスマン領

と重なっていた。更に言えば、一般には単なる排外的な

民族主義と見做されがちな思想ですら、実は必ずしもそ

の信奉者の全てが、一民族一国家を自明の目標とした訳

ではなかった。寧ろそれは、現在はオスマン朝が支配し

ている領域を如何に「正しく」再編するかをめぐる思想

群の中で、│王朝的、宗教的、立憲主義的、社会主義

的などの様々な変種がある内の│その民族主義的な一

変種として位置付けられる。例えば、一般に排外的で膨

張主義的な民族主義の典型とも目されるギリシア王国の

「メガリ・イデア」も、実は、正教会のエキュメニズム、

即ち普遍主義的なキリスト者の糾合の思想を利用して、

ギリシア人の主導権の下に、現存のオスマン領をより「正

しく」再編しようとする契機を孕むものであった。だか

らこそ、オスマン帝国の枠組みを尊重して、ムスリムと

の共生を図る形でのメガリ・イデアの再解釈が行なわれ

ることも可能となる。同様に、世紀転換期にオスマン領

内外の各地で展開されたいわゆるイスラーム改革論議

も、少なくとも主観的には、より「正しい」カリフの下

でのより「正しい」イスラームの実践の下に、現在はオ

スマン朝が支配する領域を再編しようとした試みに他な

らなかった。従って、それは必ずしも在地の非ムスリム

の排斥を目標とするものではなかったし、現にオスマン

朝が進めている近代化改革を一律に否定するものでもな

かった)

9(

民族と宗派の別を問わない全臣民の法の前の平等を標

榜した、タンズィマート以来の「オスマン国民」論も、

こうした文脈においてみれば、必ずしも現実的基盤を欠

いた、「上から」の無謀な公定ナショナリズムの試みとの

みは受け取られない。寧ろ、一九世紀後半に現実に機能

していたのは、スルタン=カリフが展開する汎イスラー

ム主義と、世界総主教の鼓吹するエキュメニズムとが、

現存するオスマン国制の枠内で互いに補完し合う、家父

長的かつ宗教的な国民統合の体制だった。一九〇八年の

青年トルコ革命は、この体制の専制性や非立憲性を排撃

して実現したが、それが多民族多宗教的なオスマン国民

の統合を目指すものだった点では何ら変わりがない。変

わったのはその統合原理であって、以後は、立憲主義的

統合の試みが広範な支持を得る)

10(

要するに、一九世紀を通じて在地の知識人が共有した

のは、現存のオスマン朝を是認するにせよそれに代わる

新政体を構想するにせよ、現在はオスマン朝が担ってい

る広域的な統合の機能を何らかの形で「正しく」再編し、

それによって西欧列強に対抗し得る在地の自生的秩序を

存続せしめようとする志向だった。勿論、これらの構想

が、しばしば自らを「東方」と名乗ったところに、仮想

図1:「五十年後のトルコ」。帝都の未来予想図、あるいはムスリム女性はイスタンブルを飛ぶ夢を見るか。(出典:Kalem, No.17, 1908年12月24日)

066067 オスマン帝国の解体とヨーロッパ S p e c i a l F e a t u r e 特集◎第一次大戦 100 年

Page 5: ヨーロッパオスマン帝国の解体と - サントリーはじめに 第一次世界大戦は何よりもまずヨーロッパの大戦だっ た。ハプスブルクのバルカン進出がロシアに阻まれると、

敵としての西欧近代の陰は色濃い。その意味で、これら

の営為が、往々にして、「東と西」という凡庸な問題設定

に絡め取られるものだったのは否めない。だがそれでも

なお、これらは、在地の諸民族が、オスマン王家への忠

誠の有無といった次元を超えて、正に自らの利益や価値

観を保持するために、宗教横断的に共有し得た問題系だ

った)

11(

。それを決定的に損なったのが、第一次大戦であった。

帝国の解体

大戦が「ヨーロッパの協調」を損なった、「ヨーロッパ」

の地盤沈下をもたらしたと言う時、そこで想定されるの

は、英独仏といった個別の主権国家の興亡以上に、一つ

のメタ秩序としての「ヨーロッパ」の「没落」をめぐる問

題系である。同様のことはオスマン領にも当てはまる。

大戦による帝国の解体は、それまでオスマン朝が担って

きた、在地秩序の代替可能性をめぐる想像力や、それが

投影されるべき現実の領土的枠組みを消滅させ、その結

果、オスマン旧領がかつて一体として有していたメタ秩

序としての生命力は、決定的に損なわれることになった。

一九世紀を通じて、オスマン帝国の解体は、必ずしも

一気呵成に行なわれた訳ではない。寧ろ、「ヨーロッパ

の協調」を実現するための取引材料として、いつでも切

り売り可能な「分銅」としてオスマン領を用いるために

は、あくまで西欧列強相互の対立が一定の閾値を超えた

際にのみ、徐々にそれを解体することが必要とされた。

そしてそれはまた、オスマン帝国を完全に「ヨーロッパ

の協調」の外部に追いやるのではなく、あくまでその内

部で、西欧列強の統制下で、その解体が行なわれること

も必要とした。こうした必要を満たすべく創出されたの

が、「東方問題」なる枠組みであった。その結果、オスマ

ン帝国のみならず、そこから分離独立する諸地域の命運

もまた、西欧列強の目先の利益に振り回され続けること

になる。

例えば、一八五三年勃発のクリミア戦争では、ロシア

に対して英仏がオスマン帝国を支援し、その結果、戦後

には、オスマン帝国を「ヨーロッパの協調」に迎え入れ、

その領土的一体性を保持することが約された。しかし一

八七七年勃発の露土戦争でこれは反故にされ、セルビア、

図2:1878年ベルリン条約後のオスマン帝国領

チュニス

トリポリ

東部三県ブカレスト

イスタンブル

アンカラ

アレッポ

メディナ

メッカ

バグダード

カルス

アルダハンバトゥーム

クレタ

リビア

ギリシアキプロス

スーダン

モンテネグロ

セルビア

ボスニア=ヘルツェゴビナ

ルーマニアブルガリア

エルサレム

ソフィア

チュニジア

クウェート

バハレーン

イェニパザル県

東ルメリ州

テッサリア

エジプト

カイロ

セルビア ルーマニア モンテネグロ

イェニパザル県 ボスニア=ヘルツェゴビナ

ブルガリア

東ルメリ州

キプロス

東部三県

テッサリア

チュニジア

エジプト

バハレーン

クレタ

クウェート

スーダン

1878年までオスマン宗主権下

1878年から1908年までハプスブルクに統治権移管

1878年から1909年までオスマン宗主権下

1878年から1909年までオスマン主権下の特権州

1878年イギリスに統治権移管

1878年ロシア併合

1881年ギリシア併合

1881年フランス占領

オスマン主権下の副王領、1882年イギリス占領

1892年イギリス保護領

1898年英仏露伊による保護領化、1913年ギリシア併合

1899年イギリス保護領

1899年オスマン主権下のエジプト・イギリス共同管理領

1912年よりオスマン主権下の特権州リビア

068069 オスマン帝国の解体とヨーロッパ S p e c i a l F e a t u r e 特集◎第一次大戦 100 年

Page 6: ヨーロッパオスマン帝国の解体と - サントリーはじめに 第一次世界大戦は何よりもまずヨーロッパの大戦だっ た。ハプスブルクのバルカン進出がロシアに阻まれると、

ルーマニア、モンテネグロの独立、ブルガリアの事実上

の独立、ボスニアやキプロスの占領が定められる。言う

までもなく、この間に「トルコ支配」がより「野蛮」にな

った訳ではない。名目は何とでもなるのであって、西欧

列強の勢力均衡の論理こそが、「東方」の命運を左右した。

この際、大宰相府の実効支配から離れた地域の全てが、

一律にオスマン領から明確に分離された訳ではない。オ

スマン当局なり意見を異にする他の列強なりの抵抗を減

らして「ヨーロッパの協調」を円滑に実現すべく、また

それを見越して当のオスマン側が行なった交渉の成果も

あって、ある程度の「名」をオスマン側に残しつつ、「実」

の次元で帝国の解体を推進する手法がしばしば採用され

た。そこで創出されたのが、「宗主権」概念である。オス

マン帝権から離脱するキリスト教国については、一般に、

独立の前にオスマン「宗主権」下に置くという手続きが

取られた。この一手間によって、「分銅」としてのオスマ

ン領の耐用年数は延長される。これに対しムスリム地域

については、オスマン君主のカリフの地位への配慮や、

各地域の支配の効率化の狙いもあって、あくまでオスマ

ン「主権」下、宗教的紐帯のみならず世俗の政治的紐帯

も少なくとも名目上は維持した上で、西欧列強は単に、

統治権や保護権を確保したり軍事占領を行なったりする

のみだという体裁がしばしば採用された。エジプト、チ

ュニジア、ボスニアなどがその好例だったが、他方でこ

の体制は、メタ秩序としてのオスマン領の一体性に、一

定の法的根拠を与えてもいた。

しかしこの体制は、一九一二年のバルカン戦争の結果、

オスマン帝国が「ヨーロッパ」から駆逐されたことで臨

界に達した。それこそが大戦勃発の要因である。その後、

オスマン帝国が大戦に敗れると、「東方問題」の「分銅」

としての役割を既に喪失したその領土はほぼ完全に解体

され、同時に、その「宗主権」も一律に剝奪されること

になる)

12(

。時空間の民族化

大戦後、オスマン旧領の諸民族が自らの来歴を歴史的

に位置付ける際の枠組みには、否応ない変化がもたらさ

れた。今や、想定されるあるべき「正しい」時空間の範

疇は、現存の諸国体制の枠組みに強く規定される。とり

わけアラブ地域においてこの体制は、「宗主権」に代え新

たに考案された「委任統治」なる手法の下、英仏の分割

統治下に置かれることで実現した。この体制においては、

オスマン時代を知る名望家層が、英仏権力との癒着の下

に在地の支配権を掌握したが、英仏支配の下請人として

の彼らがその際に試みたのも、オスマンの過去から切り

離された、自律的な時空間認識の立ち上げだった。その

結果として生み出されたのが、現有領土の枠内で、起源

をバビロニア人やフェニキア人やファラオに遡らせた上

で、以後の推移を単線的に辿る歴史叙述である。実は、

この種の思想の主唱者の多くが、オスマン近代に生まれ、

かつてはしばしば、西欧列強に抗する「東方」の広域的

な在地秩序像を自ら構想した人々だった。だが今や、英

仏と癒着する彼らにとって、オスマン時代は暗黒の「ト

ルコ支配」になり、それこそが、本来はより「文明的」な

筈のアラブ・ムスリムに現在の惨状をもたらした主犯だ

と目されるようになる。

戦間期以降に生まれ、この種の民族史の枠組みを所与

とする次世代にとって、打倒されるべきは英仏と癒着す

る名望家層であり、故に、彼らが固執する既得権益を生

み出している在地の諸国体制の枠組み自体が指弾の対象

となる。そのための正統性を提供すべく、対抗理念とし

て持ち出されるのが、アラブ民族主義やアラブ社会主義、

そしてイスラーム主義であった。だが、前代に築かれた

反トルコ的な世界観は往々にして保存されるため、現代

のアラブ・ムスリムは、アッバース朝までの黄金時代が、

暗黒の「トルコ支配」を挟んで、近現代の反植民地闘争

図3:「共和国の地図」、帝国の白鳥の歌。(出典:Kelebek, No.27, 1923年11月11日)

070071 オスマン帝国の解体とヨーロッパ S p e c i a l F e a t u r e 特集◎第一次大戦 100 年

Page 7: ヨーロッパオスマン帝国の解体と - サントリーはじめに 第一次世界大戦は何よりもまずヨーロッパの大戦だっ た。ハプスブルクのバルカン進出がロシアに阻まれると、

もそも、西欧が「ギリシア・ローマ」の後継者を自負す

るためには、オスマン朝やイスラームのみならず、ビザ

ンツや正教会の「ローマ性」もまた、否定されなければ

ならなかった。故に西洋学知において、「最悪の国家」ビ

ザンツは、正教会と並び、「停滞」の象徴と目される。だ

がそれでもなお、正教がキリスト教であることは否定し

難いが故に、かつてビザンツやオスマンが覆った正教圏

は、「ヨーロッパ」に組み込まれつつも、その周縁として

の「東欧」や「バルカン」という名辞をあてがわれ、以後

その内部での民族的細分化が進んでいく。

こうして、数百年にわたるオスマン時代は、アラブで

もトルコでもギリシアでも、各々の民族史の文脈で、そ

れぞれに否定されるべき対象となった。同様の点は空間

認識についても言える。「イスラーム世界」なる名称の政

治性が指摘されて久しいが、同様に、「中東」や「トルコ」

もまた、直截に政治的な背景を持つ名称である。かつて

は一体だった「神護の領域」、即ちオスマン領を指す地

理的名辞として、一八世紀までは内外で「ローマ」の語

が用いられていたが、一九世紀にこれは「ヨーロッパ・

トルコ」と「アジア・トルコ」とに分割され、更に二〇世

に直結するというような、単線的な史観を抱きがちであ

る)13(

。トルコの場合はどうだったか。かつてオスマン帝権が

担った重層する普遍性は、一九世紀を通じ、西欧列強の

手で順次剝奪されていく。「ギリシア・ローマ」の遺産の

専有を僭称することで自らの覇権を正当化した西欧近代

にとり、オスマンの「ローマ性」は到底認められるもの

ではなかった。故に、オスマン帝国はまずもって、「ヨ

ーロッパ」と対立する、「イスラーム」の国家と見做され

た。次いで、アラブに対する植民地支配が視野に入るに

つれ、アラブに対するオスマン支配の正統性も否定され

る必要が生じ、その結果、オスマン帝国は、「正しい」イ

スラームを簒奪した「トルコ」国家と見做される。こう

した措置は西欧学知によって絶えず正当化が施された

が、近代化の課題の中、否応なくそれを取り入れざるを

得ないオスマン・トルコ知識人も、この種の発想を次第

に内面化していく。帝国の解体が民族自決により正当化

される中、それに抗して独立を勝ち取ったトルコ共和国

は従って、今や民族としての「トルコ」を自らの正統性

の基軸に置き、オスマン朝こそ、本来は優れていたトル

紀にオスマン帝国が滅亡すると、以後この地域を一体と

して呼ぶ名称も失われ、今や前者が「バルカン」、後者

が「中東」と名指されることになる。つまり、オスマン

朝が体現した重層する普遍性が順次、剝奪解体されてい

くに従って、オスマン領は文明論的にも空間的にも、「ロ

ーマ」から「トルコ」へと矮小化され、更にそれが、「ヨ

ーロッパ」と「イスラーム世界」との間で分断されたのだ

った)

16(

。普遍宗教の復興か、対抗文明の興隆か?

西欧からの他称として生み出された、「バルカン」と「中

東」という二つの地域は、オスマン帝国解体後も、一貫

して西欧中心主義的な国際秩序の「弱い環」として機能

する。両地域は等しく、戦間期には枢軸国と連合国との

対立の、冷戦期には東西対立の前線となったが、とりわ

け後者には、第二次大戦後、その過程で表面化した「ヨ

ーロッパ」の古くからの矛盾、即ち反ユダヤ主義の転嫁

先として、異質な国家が埋め込まれた。冷戦の終結後も、

「中東」ないし「イスラーム世界」は、超大国の世界支配

コ人を「後れた」イスラームの軛く

びき

の下に置き、その発展

を損なった主犯だと見做すようになる)

14(

同様のことはギリシアにも当てはまる。一九二二年の

対トルコ戦争の敗北、即ち「破局」によってメガリ・イ

デアの夢に終止符が打たれ、オスマン領に広く居住して

いた正教徒が住民交換の結果としてその姿を消すと、こ

れ以降ギリシアでは、現有領土の枠内での「ギリシア史」

叙述が主流となる。その結果、暗黒の「トルコ支配」を

挟んで、古典古代、中世ビザンツ、そして近現代ギリシ

アを単線的に結ぶ時空間認識が定着した。それは、オス

マン時代を通じて拡大した当のギリシア世界の経済的文

化的な広がり自体の忘却に繋がって、現存のギリシア領

の外部の事象は、「ディアスポラ」の歴史として、「ギリ

シア史」とは別枠に括り出されていく。

これは正教会の一体性も損なった。正教会が掲げた前

出のエキュメニズムも、実際は、オスマン朝の現世支配

の下での帝国の一体性に依拠していたのであり、故に世

界総主教座は、自らの管区の分割に直結するオスマン領

の縮小には抵抗し続けた。だがこれは、西欧列強の使し

嗾そう

を受けた民族国家の分立により順次促進されていく)

15(

。そ

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Page 8: ヨーロッパオスマン帝国の解体と - サントリーはじめに 第一次世界大戦は何よりもまずヨーロッパの大戦だっ た。ハプスブルクのバルカン進出がロシアに阻まれると、

の中で蓄積する矛盾の転嫁先として機能し続けている。

このように考えてみれば、近年、正教とイスラームと

いう二つの普遍宗教の「復興」が見られるのは、冷戦終

結を受け、超大国の世界支配に抗する地域大国の台頭の

文脈で、西欧近代によって疎外され続けてきた両者が、

復権を図っている動きなのだとも見做せよう。だが、こ

の両者の現在の関係は、かつてのオスマン帝権の下での

両宗教の関係とは異なっている。かつてこの二つの普遍

宗教を一つの国制の中に包含して、それを実現する在地

秩序の代替可能性をめぐる想像力の投影先でもあったオ

スマン帝国が解体し、その種の想像力が枯渇した後は、

在地における両宗教の信徒の関係も、宗教横断的な統合

にではなく、宗派主義的分裂の固定という方向に押しや

られているかの如くに見受けられる。しかも、そこでし

ばしば前景化するのは、西欧近代とは異質な、対抗文明

としてのイスラームや正教の像である。だが、「文明の

衝突」論を裏書きするかのようなこの種の発想自体、こ

の両者の「ローマ性」を否定する西欧近代像が定着した

後に、それとの対峙のために生み出された外在的なもの

である。

一八世紀まで、イスラームも正教も、ギリシア古典の

正統な後継者を自負し、対抗文明ならぬ古典古代以来の

文明の本流にあると考える存在だった。しかし、西欧に

よる「ギリシア・ローマ」の専有が世界大で自明の前提

とされ、それに基づく文明像が各地に押し付けられる中、

しかもそれに在地秩序の次元で抵抗したオスマン帝国が

解体した後、「ヨーロッパ」やそれを継ぐアメリカ合衆国

による世界支配への抵抗の核として、イスラームや正教

は、対抗文明として措定されることを余儀なくされた)

17(

それでもなお、ロシアという、世界政治上の復権が著し

い主権国家を持つ正教とは異なり、利害の拡散する数多

くの国家に分割されているイスラームについては、今な

お対抗文明像が独り歩きしがちである。

おわりに

第一次大戦後、戦間期から冷戦期を経て現在に至るま

で、オスマン旧領が、時々の支配的な国際秩序の矛盾の

転嫁先として機能させられているのは偶然ではない。「ヨ

ーロッパ」が人類史の精華としての「ギリシア・ローマ」

の後継者であり、第一次大戦によるその「没落」後、ア

メリカ合衆国が文明の本流を受け継いだという史観は、

イスラームや正教もまた「ギリシア・ローマ」の後継者

であるという事実を無視ないし等閑視することで成り立

つ。それを基礎に築き上げられた西欧学知を取り入れざ

るを得ない中、近代化されたイスラームや正教の盟主を

自負しながら、自生的な在地秩序を保持しつつ、西欧列

強主導の国際秩序の中で主権国家として存続するという

難題に取り組んでいたのが、一九世紀のオスマン人だっ

た。だが、「ギリシア・ローマ」の専有を通じた西欧列強

の覇権は、そのようなオスマン帝国の広域秩序としての

存続を許さなかった。

だからこそ、第一次世界大戦を経たオスマン帝国の解

体は、単に一主権国家としてのオスマン帝国や支配王朝

としてのオスマン王家がなくなったという以上の、文明

論的ないし認識論的な転換をこの地域にもたらした。「ヨ

ーロッパ」が、その表面的な「没落」の後も広域秩序とし

ての命脈を保っているのに対し、オスマン旧領のメタ秩

序としての一体性が失われて久しいのは、このような史

観がアメリカ支配の下で今なお保存されているからであ

り、「中東」に矛盾を転嫁することによって成り立つとい

う国際秩序の構造が、一九世紀も二一世紀の今も変わっ

ていないからでもある。

オスマン史の視座から見た第一次大戦の今日的意義と

は、こうした点に見出せるのではないだろうか。大戦を

めぐる視線が今なお「ヨーロッパの協調」の内部に局限

されがちであるならば、その背後に潜むのは、世界史上

に「ヨーロッパ」を│そしてその揺籃と目される「ギリ

シア・ローマ」を│特権化する西欧中心主義に他なら

ない。もしそこからの解放が必要とされるのであれば、

そのためにオスマン史研究が貢献できるところは、決し

て少なくないように思われる。

(1)

藤波伸嘉「オスマン帝国と『長い』第一次世界大戦」池田嘉

郎編『第一次世界大戦と帝国の遺産』山川出版社、二〇一

四年。

(2)

岡本隆司「導論│世界史と宗主権」同編『宗主権の世界史

│東西アジアの近代と翻訳概念』名古屋大学出版会、近

刊。

(3)

新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ│〈トルコの脅威〉とは

何だったのか』講談社、二〇〇二年。

[注]

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(4)

久松英二『ギリシア正教│東方の智』講談社、二〇一二年。

(5) G

o�fried Hagen,

“�e O

rder of Know

ledge, the Know

ledge of O

rder: Intellectual Life,

” in Suraiya N. Faroqhi &

Kate

Fleet (eds.), The Cam

bridge History of Turkey, Volum

e 2: The O

ttoman Em

pire as a World Pow

er, 1453–1603, Cam

bridge U

niversity Press, 2013; B. Harun K

üçük,

“Natural Philosophy and Politics in the Eighteenth C

entury: Esad of Ioannina and G

reek Aristotelianism

at the Ottom

an Court,

” Osm

anlı Araştırm

aları, vol. 41, 2013.

(6)

森本一夫編『ペルシア語が結んだ世界

│もうひとつのユ

ーラシア史』北海道大学出版会、二〇〇九年。

(7) Jam

es Lorimer, Th

e Institutes of the Law of Nations: A Treatise

of the Jural Relations of Separate Political Com

munities, vol.1,

William

Blackwood and Sons, 1883, p. 123.

(8) Suraiya Faroqhi, Th

e Ottom

an Empire and the W

orld Around It, I. B. Tauris, 2006.

(9)

藤波伸嘉「帝国のメディア│専制、革命、立憲政」橋本伸

也・秋葉淳編『近代・イスラームの比較教育社会史│学

校・メディア・帝国』昭和堂、近刊。

(10)

藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政

│青年トルコ革命にお

ける政治、宗教、共同体』名古屋大学出版会、二〇一一年。

(11)

藤波伸嘉「ギリシア東方の歴史地理

│オスマン正教徒の

小アジア・カフカース表象」『史苑』第七四巻第二号、二〇

一四年。

(12)

藤波伸嘉「主権と宗主権のあいだ│近代オスマンの国制

と外交」岡本編『宗主権の世界史』名古屋大学出版会、近刊。

(13) K

arl K. Barbir,

“Memory, H

eritage, and History: �

e O�om

an Legacy in the A

rab World,

” in L. Carl Brow

n (ed.), Imperial

Legacy: the Ottom

an Imprint on the Balkans and the M

iddle East, C

olumbia U

niversity Press, 1996.

(14)

永田雄三「トルコにおける『公定歴史学』の成立

│『トル

コ史テーゼ』分析の一視角」寺内威太郎・永田雄三・矢島

国雄・李成市『植民地主義と歴史学

│そのまなざしが残

したもの』刀水書房、二〇〇四年。

(15)

藤波伸嘉「宗主権と正教会

│世界総主教座の近代とオス

マン・ギリシア人の歴史叙述」岡本編『宗主権の世界史』名

古屋大学出版会、近刊。

(16)

藤波伸嘉「オスマンとローマ│近代バルカン史学史再

考」『史学雑誌』第一二二編第六号、二〇一三年。

(17)

新井政美編著『イスラムと近代化

│共和国トルコの苦

闘』講談社、二〇一三年。

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