アダム・スミス「民兵論」の射程をめぐって ―社会...

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防衛大学校紀要(人文科学分冊) 110輯(27.3)別刷 アダム・スミス「民兵論」の射程をめぐって ―社会を防衛する「義勇の精神」涵養の視座として―

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防衛大学校紀要(人文科学分冊) 第110輯(27.3)別刷

大 島 幸 治

アダム・スミス「民兵論」の射程をめぐって

―社会を防衛する「義勇の精神」涵養の視座として―

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アダム・スミス「民兵論」の射程をめぐって

…社会を防衛する「義勇の精神」涵養の視座として…

大島幸治

序論:問題の所在

 アダム・スミスが軍事問題についても言及していたことは、つとに知られて

いる。それは「国防は富裕よりもはるかに重要である」(Ⅳ.ii.30邦訳p.320)とい

う『国富論』(以下WN)の言葉によって研究者の注意を引いた。しかし重厚な

日本のスミス研究の中でも、実際にはほとんど扱われてこなかったテーマでも

ある。これは軍事問題に関わることを忌避する日本特有の研究土壌に起因する

ものと思われる。

 スミスは、WN第5篇で国家の経費について論じた際、国防→司法→公共事

業の順番で取り上げた。政府の果たすべき役割として富裕をもたらす社会基盤

の整備と教育といった公共事業の推進の重要性を見据えながら、他国からの不

当な侵略から国土と国民の生命・財産を守る国防がまず優先され、次に国内に

おいて他人の不当な侵害から個人の生命・財産を守る司法が公共事業に優先さ

れるとした。このように国防→司法→公共事業の序列において、国防と司法は

国家だけがその任を果たすことができるものであって、個人や企業、市場経済

が引き受けられない機能であるとの認識を示したのである1)。

 しかしスミスの国防の議論はなかなか屈折したところがあって、数少ない先

行研究においてもいろいろ解釈されてきた。1970年代に水田洋氏の先駆的研

究があるが、そこでは時代的背景もあってか疎外論との関連性が強く見てとれ

る。水田論文は、スミスが「人々が戦士であるとともに国士でもある未開野蛮

の社会にくらべて、文明社会では下層階級の愚昧化が不可避であるということ

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から、その匡正策として民衆教育を提案し、政府は教育を奨励または強制しな

ければならない…武勇の維持を教育の一環として、知的能力の維持と並行」 2)

させたとする認識をまず示す。そこでは、民兵制度による軍事訓練や武勇の精

神の教育というスミスの国防論は、分業がもたらす人間の愚昧化・矮小化・一部

の能力のみの肥大化がもたらす「疎外」からの回復論であると解釈されていた。

分業によって富裕化が進んだ文明社会人は、その分業によって愚昧で臆病な「部

分人」となるが、「全人」を表す武勇によって人間の全体性を回復するという

のがその骨子である。水田氏が「防衛の観点からではなく…」と説明に加えて

いる点に、その問題意識が鮮明に示されていた。

 しかし『剰余価値学説史』を下敷きにして、スミスをマルクスに至る途中経

過のように解釈していた状況は、1980年代のWealth & Virtue3)によって転換

点を迎えた。スミスをスコットランド啓蒙思想の運動の中に位置づけるように

なったからである。スミスの論理に内在しながら、他方で同時代の議論の文脈

を周到な書誌的研究に基づく事実の発掘によって復元し、その上でスミスにとっ

て自然法学が主かシヴィック・ヒューマニズムが主かといった問題提起をおこ

なった。これによりSmith→Ricardo→Marxの価値論の発展史といった構図が

完全に過去のものとなった。さらに90年代半ばのイアン・ロス『アダム・ス

ミス伝』 4)以来、スミスの初期の業績、「エディンバラ公開講義」、その中に含

まれていた言語論、方法論(天文学史、古代物理学史、古代論理学史・形而上学

史)、外部感覚論が持つ意義について注目を集めるようになった。スミスがギ

リシア、ローマの共和主義思想家たちの文献に精通し、そのレトリックから法

思想、国制の問題にも鋭い問題意識を見せていた点が強く認識されるようになっ

ている。

 こうした流れにあって、スミスの民兵論は、スミス以前のハリントン、同時

代のファーガスン、ケイムズ、カーライルの民兵論と比較対照した篠原氏の一

連の論考によって研究が深まった 5)。イングランド常備軍への不信感という歴

史的経緯はあったにせよ、スミス同時代人の間では、近代の発達した軍事技術

は、素人では容易に扱えないという共通認識があった。問題は、文明社会で目

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の前の利益追求に負われ、公共性も国土防衛の義勇の精神も失った市民にどの

ような制度、機構において軍事訓練を施していくか、少なくとも武器の使用に

慣れさせるかということであった。民兵か常備軍かの単純な優劣論のどちらに

立つかではなく、彼らの議論の背景にある社会思想自体を検討する方向に向かっ

ていった。

 今世紀に入ってからの研究においては、『道徳感情論』 (以下TMS)のスミス

とWNのスミスとの分離・対立といった、いわゆる「アダム・スミス問題」は影を

ひそめ、スミスは、『修辞学文学講義』 (以下LRBL)に反映される古典研究と

言語研究から始めて道徳哲学者として一貫した人間観・社会観・歴史観を持ち、

その上でその体系の異なる断面、方法的に意識されたレトリックの転換として

TMS、WNを出版し、法学を準備していたという認識(本稿もその認識に立つ)

も示されるようになってきた6)。

 ニコラス・フィリップスンの新たな伝記7)が示すように、人文学的なアプロー

チ、同時代への内在的な研究という傾向がさらに深まった。スミスの知的営為

に内在していたさまざまな問題意識の持つ可能性、あるいはエディンバラ、グ

ラスゴウの啓蒙とは異なるイングランド啓蒙やアバディーン啓蒙といった視点

も提起されて、18世紀啓蒙思想全体の持つ可能性を問うようになってきている。

しかし近年の研究においても「自由主義者」スミス象に引っ張られて、スミス

体系における国家の役割、公共性の議論を過小評価したい傾向は大きく見られ

る8)。

 だからこそスミスの国防問題への言及についても、スミス自身の記述に内在

して再検討することは意義あるものと考えられる。本稿では、基本的にWNの

みから議論されてきたスミスの国防論、民兵論について、その人間観・社会観・

歴史観が「エディンバラ公開講義」(≒LRBL)、『法学講義』(以下LJ)のそれ

と連続・一貫していることを検証しようと試みる。これは、非歴史的なモデル

でmorality(社会の良俗であり道徳性)の構造を論究したTMSが、まさにそのこ

とによって歴史記述の形で公共性を議論に組み込んでいるLRBL、LJ、WNと

外見上、異なっているという認識に立ったものである。

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 なおスミスの国防論の再検討は、現代的な意味を持つことも指摘しておきた

い。スミスは、自由で独立した近代的個人によって形成される社会をとらえて

いたが、人間本性の諸原理を問い、それが社会の公序良俗を形成し、歴史の進

歩へとつながっていく動態を見ていた。スミスの「個人」は、好き勝手を追求

するだけの利己的な個人ではなく、人間の類的本質である「同感」の作用によっ

て相互に結びつき関心を持ち、文明社会という公的世界を生きる個人である。

そこでは自由と公共が相互に不可欠な両輪であって、国民と国家とは上下関係

ではなく、一体化された運命共同体をなしていた。スミスは、個人を超える公

共性の問題にアプローチしようと古典的共和主義や自然法学のレトリックから

(自然神学からも)語り、解明しようとしていた人物なのである。

 一般には、スミスはグローバル化の理論的支柱である経済自由主義の始祖と

位置づけられることが多い人物である。世界がその原則に向かって進歩すべき

とする普遍的・絶対的、それであるが故に静態的な性格を持つ理念に比して、

スミスの議論は、内在してみるときわめて動態論的かつ現実主義的な側面を持っ

ていたことを示そうと本稿では試みる。それによって、スミスの国防論、民兵

論の射程を探りたい。

第1節 LRBLにおける軍事問題への言及

 学者としてのスミスのキャリアは、主に言語をめぐる「エディンバラ公開講

義」で始まった。その内容は、後年のグラスゴウ大学における『修辞学文学講

義』 (LRBL)に流用されているといわれるが、古代ギリシア・ローマの弁論家

が直面した歴史的状況、政治史、法制史、軍事史といった共和主義的国家論の

視点が豊富に盛り込まれている。また、つねに率直で飾らない人間性をもって

平明で明晰な言葉により公衆に語りかけ、学問的知識や最新の「科学知」を伝

達し啓蒙するという演示型・討議型弁論の究明に重点がおかれた。それは、具

体的なレベルにおける人間の社会的感情交通に彼の基本的な視点があることを

示している。

 スミスは、そのラテン語、ギリシア語の読解力を駆使して、ギリシア、ロー

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マの政治家たちの弁論や著作を縦横無尽に引用し、その博覧ぶりを示した。同

時に、その議論は修辞学にとどまらず、政治史や発達した商業社会を維持する

ための手段である軍事的な問題にも及んでいる。スミスは、「すべてのラテン

史家の中で、疑いもなくリウィウスが最高」 9)であると評価し、その流れで時

代の異なるマキャヴェッリやグイッチャルディーニにも言及する。LRBLは学

生筆記ノートであるため、参照するべき文献をいちいち引用してはいないから

明確ではないが、リウィウスのローマ史論を検討したマキャヴェッリの『ディ

スコルシ』に対応すると思われる記述がある。

   「マキャヴェッリ…は、一般に当時受け入れられていた政策と対立する、

常備軍を維持することの不得策やその他同じ種類の彼が定めた一定の原理を

証明することを、主な目的としていたように思われる。…マキャヴェッリは、

近代のすべての歴史家の中でただ一人、歴史の主要な目的であること、すな

わちどちらの党派にも属さないで諸事件を語り、それらをその原因に結びつ

けることに、満足していた。」(第20講 邦訳pp.199-200)

ここでスミスは、常備軍をどう評価するかという問題、また民兵的組織を支え

る市民一人ひとりの義勇の精神に注目している。この第20講では、タキトゥ

スの『年代記』の記述を中心に議論を進め、マリヴォーや小クレピヨンが描く

フランスの君主制とそれを類比するが、戦闘の詳細な記述とその背後にあった

党派の謀略をどのように描くかという「歴史記述の修辞」という形で述べてい

た。だからマキャヴェッリの常備軍批判論が出てくる必然性は実は薄いにもか

かわらず、あえて言及していることには意味があるはずである。

 マキャヴェッリが常備軍の維持を論じた背景を確認しておこう。彼は、フィ

レンツェ共和国政府第二書記局員としてイタリアの状況に危機感を覚え、侵略

に対抗するためにはまず軍隊の近代化が必要だと論じ、傭兵を廃して民兵によ

る歩兵長槍部隊を中心とした市民軍を建設すべきだと主張した10)。彼の構想す

る近代軍は古代ローマの軍制と最新のスイス歩兵方陣の長所を採用したもので

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あった11)が、実際に編成した共和国軍隊は規律も訓練もない状況でしかなかっ

た。共和国政府主席のピエーロ・ソデリーニの主張によってフランス王ルイ

12世側に立ったフィレンツェは、1512年、フランス軍敗走で孤立した中、戦

わずに崩壊。ソデリーニは失脚、共和政体は崩れ、メディチ家の復権を見る。

マキャヴェッリ自身の政治生命も終わり、投獄されるに至るのである。

 国土防衛の義勇の精神を持たない傭兵は、城塞や土塁の防御を破壊する新式

野砲の一斉射撃の前にパニックに陥って潰走した。マキャヴェッリが近代化し

た市民軍の意義を説くのはそこにあったのである。

 スミスが「マキャヴェッリ…は、一般に当時受け入れられていた政策と対立

…(して:引用者)…常備軍を維持することの不得策…を証明することを主な目

的としていたように思われる」と述べた(先の20講からの引用)のには、このよ

うな軍事技術への専門的理解がある。そこから『ディスコルシ』や『戦争の技

術』についても読んでいた可能性が高いと考えられるのである。というのも『君

主論』では、第12章において自己の軍備で武装した共和政体を傭兵軍と比較

した記述が見られるものの、書記局員時代に身につけた軍事技術の知識を直接

的に展開した民兵論が見当たらないからである。これは事実上の君主であるメ

ディチ家(しかも自分を牢獄から解放してくれた…)に対する配慮と慎重な物言

いが全編を通して満ちているためであろう。これに対し『ディスコルシ』にお

けるマキャヴェッリは、民主制に傾斜しすぎたアテナイの共和政体が貴族制と

君主制によって適切に抑制されるべきという視点を明確にし、指導者の判断力

・指導力と徳性によって法律や制度が形式主義的な解釈・運用に堕落しないこと、

国民大衆の徳性涵養が決定的に大事であることを論じていた。共和国の危機を

このように見据える視点を、初期段階のスミスが共有していたことはきわめて

重要であると考えねばならない。

 マキャヴェッリにしてもスミスにしても、現状の微妙な問題を正面から論じ

る政治的な愚を冒さず、(ギリシア、)ローマの古典世界を例にとって側面から

照射するという方法を採ったのも当然である。スミスの場合、征服王朝である

というイングランド特有の歴史を踏まえ、「国民から奪い抑圧する王権」とい

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う主権の問題が、名誉革命体制によって国民国家としてのそれに塗り替えられ

ていた。さらに合邦による経済発展と不平等拡大による「富と徳性」問題という

スコットランド特有の流れにも直面していた。分業によって富裕が促進された

文明社会という現実において、自由で独立した個人によって形成される社会が

いかに公序良俗を形成し発展していくかを歴史の運動論理として人間本性の諸

原理から解き明かしていくという課題をスミスは持っていた。スミスは、人間

の自由という思想を、文明社会における諸個人の公的な生活のあり方や公共性

と対立するものとしてではなく、その自由を支える基盤として位置づけるとい

う知的作業として、古典的共和主義のレトリックにおいて語ろうとしているの

である。スミスは、スコットランドの国防問題への関心喚起を目指したポーカー・

クラブの発起人会員となるが、彼の軍事問題への関心は初期からのものだった

と言えるだろう12)。

 ともあれLRBL段階のスミスは、富裕な文明国は常に近隣の野蛮な国民によっ

て征服の危険にさらされるというのが歴史の示す事実だという基本的認識を持っ

ていた。文明国の富裕は近隣諸国の侵略を誘発する一方、目先の富裕の追求に

かまけて国土防衛の意識も軍事的技術の習得も強い意志も持たない民衆は侵略

軍に対抗できない。国土防衛を傭兵で代替しても、彼らは郷土防衛の義勇心を

持たないため、強力な王政の下でコストがかかる重火器を備えた近代化した軍

隊の突進力、攻撃力の前には敵ではない。成熟しないまま編成された共和制の

市民的軍隊ならなおさらである。この事実を見据えていたのである。

 マキャヴェッリの「傭兵集団による常備軍」の批判、裏返しの民兵問題に関

わる記述は、LRBL第25講に見られる。スミスは、商業によって富裕になった

民衆が貴族や指導者に自分たちの欲求や激情をぶつけ、指導者側はその感情に

迎合するしかない状況があることを指摘する。他方で、安易に支払いを受ける

ことで民衆は怠惰不活発となり、富裕な文明国を襲撃しようと狙う近隣勢力に

対抗して戦地に赴こうとする国土防衛の勇気や気概も失っている事実を冷静に

見据えている。敵国からの戦利品で利益を得ることがもはやモチベーションに

ならないからである。彼は、討議型弁論の典型例としてデモステネスのフィリッ

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ポス演説を取り上げる中で、アテナイの政情を説明する。この部分に、スミス

の古典的共和主義パラダイムが明確に表れている。

 「これらの弁論が作成された当時の、アテナイの政情がどうであったかを、

簡単に考察することが必要である。アテナイの統治はそれよりもはるか前に、まっ

たく民主的になっていた。貴族と国民の中の要人たちで構成されたアレオパゴ

スの会議は完全に廃止され、民衆の激情に対するこの大きな抑止者は除去され

た。…いうことをきかない大衆をさえぎる障壁は何も残っていなかった。…ペ

リクレスの助言によって兵士たちがはじめて公共から支払いを受けたプラタイ

アイの戦闘が民主的統治のきっかけであったし、それに続いておこった商業は、

その変化を促進した。商業は、民衆の最低部分が自分たちで財産を作る機会を

与え、それを手段にして力を得る機会を与えた。…後になると、民衆を戦争に

駆り立てるのに…困難を感じた。商業と奢侈が国事の状態を完全に変えた。そ

れは最低階層に、貴族と対等になるように上昇する機会を与え、貴族には、もっ

ともつまらぬ市民の状態に自分たちの身を落とす安易な道を与えたのである。

…かれらは自分たちの権利のない富を民衆に与えるのに、敵からの戦利品によ

るよりも、市民仲間からの収奪による方が容易であることを知ったのである。

彼らが最初にしたことは、戦争における支払いを民衆に保証することであった。

…彼らは法廷に出勤するのを嫌うようになった。…彼らは何の利益ももたらさ

ない業務のために自分の仕事を離れるのを非常に嫌がるのが常であった。そこ

でペリクレスは、公共の支持を得るために、法廷に出勤したすべての裁判官に

一日あたり2オーポリ、約3ペンスを与えるようにした。…このときから人々

はまったく怠惰になり活動的でなくなった。…徴兵の投票はめったに行なわれ

なかったし、…アテナイの人々は、ギリシアでもっとも活動的な民衆から、い

まやもっとも怠惰不活発な民衆になった。…戦争は彼らに、自分たちの財産の

進展を何も約束しないのだから、それに従事するように説得されることはでき

なかったのである。」(LRBL pp.149-151 邦訳pp.257-261)

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 長い引用となったが、スミスの記述で注目するべきは、これが古典的共和主

義のパラダイム…すなわち商業社会の富裕の拡大がすべての社会階層の徳性、

公共のために自らを犠牲にしようという義勇の精神、義侠心を失わせ、怠惰不

活発、腐敗堕落を促進する…という枠内で議論されている点である。この近代

批判の鋭い視点からすれば、スミスは単純に進歩、文明開化と民主化を見てい

る啓蒙思想家ではない。

 スミスは、歴史の自然的な過程である推測的歴史として遊牧生活から農業社

会、商業社会と文明化していくプロセスを描いた。そこでは、利己心と奢侈の

追求とも結び付く商業社会の活動の活発化、ダイナミックな変革へのモチベー

ション、富の蓄積と共に洗練されていく作法や趣味、法の下で保証された人権

が洞察されていた。しかし他方で、商業社会がもたらす道徳的頽廃と腐敗、自

由を危機に陥れるという傾向も鋭く見据えている。スミスは、『エディンバラ

評論』第2号(1756年)への寄稿においてルソーとマンデヴィルに言及し、こう

した利己心と公共性という問題への洞察を示したが、その洞察は50年代前半

のスミスの議論から一貫していた。その上で、政治権力を委ねられるべき社会

層、政治家および立法者に求められるべき政治的資質・徳性の問題を、1750年

代末の成果であるTMSにおいて明らかにしようと試みるのである。

 スミスは、LRBL段階において、激情に駆られ煽動されやすい一般民衆が商

業社会の進展で力を持ってくると、民主的な政体においては彼等の意に沿うよ

うに政治的指導者が迎合的な施策を選択するため、社会の道徳的頽廃が進む点

に注目していた。スミスは、民衆に対しての信頼や過度な共感を持たず、自ら

の社会的人間の徳性形成論理については、自然法思想・自然権思想を母体とす

るロックの延長線で冷徹に自然主義的に分析したのであった。

 このようなスミスを、単純な意味での「民主主義」でとらえることは出来な

い。ロザリンド・ミチスン編の『スコットランド史』において、B.P.レンマン

は「スミスとヒュームは、声高には言わなかったものの、国民の政治参加の自

由を認めていなかった…認めていたのは、法の下の平等と一番安いものを買う

自由のみであった」と批判している13)。スミスは、ミチスンが考えるような民

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主主義者ではない。スミスの最初期の「公開講義」、あるいはそれを下敷きとし

て流用したとされるLRBLにおいて古典的共和主義のパラダイムを示しており、

それが最後のTMS第6版においても一貫していると解釈できることの持つ意味

については、もっと検討されるべきであろう。

第2節 LJBとWNにおける民兵問題

 よく知られているように、WNにおける「民兵はよく訓練された常備軍に劣る」

という記述は、アレクザンダー・カーライルによって痛烈に批判された。しか

しスミス自身、1780年10月26日付のホルト宛書簡で「私の本を最後まで読ま

ずに誤解している」と反論し、近代文明社会の国防においては常備軍を主体と

しながら民兵制度によって補完するという点ではアダム・ファーガスンやカー

ライルとスミスの間で意見の相違はなかったことを示した14)。

 スミスと同時代の民兵論の詳細については先行研究に譲るしかないが、ここ

では『法学講義』段階のスミスの議論の力点を探るために簡単に確認しておき

たい。17世紀のスコットランドの愛国主義者・初期啓蒙主義者、アンドルー・

フレッチャーが国王の軍事的支配から独立する手段として民兵を位置づけたの

と異なり、元従軍牧師、ファーガスンは貴族とジェントリが主導するブリテン

的社会秩序を前提としながら、名誉心と恥辱への意識を軍事的勇敢さと再結合

させることを目指していた。ファーガスンは、「恐怖の原理」に立脚した軍事

訓練、規律の徹底よりも、ジェントリ階層に最新の武器に親しむよう義務づけ、

扱いに習熟させ、指揮官・将校として育成しようとする。地域自由土地保有者

を下士官とし、年収100ポンド以下の自由民を兵士とする、資産評価ベースに

よる軍隊の編成を構想していた15)。

 ファーガスンは、商工業の発展によって社会の富裕化と文明化が促進される

ことを認めつつ、過度に商工業に傾斜することは社会の指導層をも利己的な利

潤追求の精神によって毒すると述べる。これによって社会全体の道徳的頽廃、

国土防衛の意識、意欲の低下を招くと危惧していた。彼も、商業・製造業の発

展それ自体は否定するものではなく、むしろ労働者の長期職場離脱による経済

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停滞を懸念し、軍事的制度から除外することを提案していた。つまり常備軍制

度による商工業者、労働者の職場離脱で生じる経済的損害より、これを一年の

うちの短い期間、民兵として訓練に動員する政策の方が製造業への悪影響が少

ないと論じていたのであった。

 スミスの民兵論への言及は、初期の「エディンバラ公開講義」(≒LRBL)では、

前述のように古典的共和主義のパラダイムの枠内で議論されていた。商業社会

の富裕の拡大が全社会階層の徳性、公共のために自己犠牲を厭わない義勇の精

神、義侠心を失わせ、怠惰不活発、腐敗堕落を促進するというのである。この

認識では、ファーガスン、カーライル、ケイムズとも共通していた。

 1763年10―12月の法学講義(グラスゴウ版『法学講義』で学生筆記ノートB

とされているもの:以下LJBと略称)第2部「軍備」においてスミスは、「軍規

律military discipline」をまず取り上げ、古代における名誉原理を次のように

論じていた。

   「ローマのエクイテスすなわち騎士は、もとは軍隊の中の騎兵であったし、

奴隷または税金を払わない人々は、けっして戦争には加わらなかった。同じ

ようにして、われわれの先祖の中では、騎士義務と呼ばれるものを保持して

いる人々だけが、国家の防衛に使用され、古代の農奴はけっして国民兵力の

一部分とはみなされなかった。…このように国家が名誉を重んじる人々によっ

て防衛され、彼らがその義務を名誉の原理によって行なうのが常であった時

には、規律の必要はなかった」(LJ p.542 邦訳p.409―410)

 これが「名誉の原理」である。ところが「貪欲の原理」として、かつては軽

蔑されていた商業、手工業、製造業が発達してくると、人々がこれによって社

会的地位を高められることを知る。すると業務を中断して戦争にでるより日常

のビジネスに携わっていた方がいいと考えるようになる。また為政者たちも商

工業の改良・発達が社会に富裕をもたらすことを配慮して動員を控えるように

なる。そのため国防は低い身分の者の領域になっていったとスミスは指摘する。

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軍務を「名誉の原理」が機能しない最低階層が担うようになると、傭兵の将軍、

将校を敵以上に恐れるよう導く厳重な処罰、軍法が必要となった。そうした軍

隊の勇気の淵源は、名誉の原理でも祖国愛でも、将校への尊敬でもなく、服従

を拒むことが出来なくなるほどの将校への恐怖なのである。これが常備軍

standing armies導入へ移行していくプロセスであるとする。

 LJBにおけるスミスは、公共の職務を持つ地域ジェントリが指揮する地主主

導型の民兵組織が、国王権力の支持に使われて国民の自由を犠牲にすることは

ないとする。もちろん傭兵隊長のために動くことも考えられないので、民兵組

織が国内・国外の常備軍に対する最良の安全保障になるという基本的な視点を

有していた。

   「国民の公共の職務を持つ田舎の郷士によって指揮される民兵A militia

commanded by landed gentlemen in possession of public offices of the na-

tionが、ある人物のためにその国民の諸自由を犠牲にするということは、ど

う考えてもけっしてありえない。そのような民兵は、うたがいもなく、他国

民の常備軍に対する最良の安全保障である」(LJ p.543 邦訳p.413)

 スミスは、「ある人物のために for any person whatever」という語句を用い

ているが、その内実は不明である。当時の政治論争のテーマであった、17世

紀末の民兵論に見られる常備軍=専制の兆候というとらえ方に即して、民兵組

織が国王権力の支持基盤にはならないとする視点とも考えられる。あるいは独

裁的な権力執行者クロムウェルをイメージして、その新型軍new armyに対抗

して議会が召集しようとした民兵という位置づけとも考えられる。ジャコバイ

トの反乱以来、イングランド政府によって国土防衛の軍事的主体性を封じられ

ていたスコットランドが、国内外の常備軍に対抗するための民兵組織、さらに

は民衆の激情によって押し上げられた独裁的権力とその軍事力に対抗する(…

それは多分に地元の指導的選良の観点に近いが…)安全保障としての民兵組織

というものであると考えた方がいいだろう。スミスの記述は、給与を支払う国

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王側に忠誠心を持つ国民から集められた常備軍、あるいは政府と契約を結んで

一定数の軍隊を率いて闘う傭兵隊長(…この場合はクロムウェル的な人物)率い

る常備軍という2類型を示し、地域主導型の民兵が確立されれば常備軍による

国民の自由侵害の危険性を防ぐことが出来ると考えていることを示している。

 このようにLJBは、マキャヴェッリを一行だけ引用しながらリウィウスを論

じたLRBLの記述を踏襲し、同時に地域地主主導型の民兵というスコットラン

ドの歴史状況に即した具体的なモデルを内容とする記述になっている。LJBは、

防衛上は常備軍、教育上は民兵が望ましいとしたWNにおける議論と民兵組織

の意義を称揚したLRBLとの媒介項であると同時に、スミスの古典的共和主義

のパラダイムがここでも一貫していることを示す材料となっている。

 WNの民兵論は、国家の収入と経費を論じた第5篇第1章冒頭の「防衛費」節

および「青少年教育のための施設の経費」において展開される。つまり政府支

出という財政学的視点にフィールドが移動しているのである。

公立学校や学寮、大学を論じた後、青年を公民として教化するということに議

論の焦点が当てられている。「軍規律」から論じ始めたLJBの記述に比べると、

青年の教化という形は、教育問題であると同時に富裕で文化的な文明社会を諸

外国から防衛する費用の問題として論じられる。つまりWNはまず「主権者ま

たは国家の経費」の枠内で民兵問題を提示している点が特徴をなすのである。

結論を先取りすれば、国土防衛上は、経費や効率の点から常備軍が望ましく、

青少年を公民として教化するという視点からは、民兵組織が望ましいという、

スミスの軍事論に内在していた二重視点を明確化したものと考えられる。

 まず費用の視点である。

  「主権者the sovereignの第一の義務、すなわち他の独立した社会の暴力と侵

略から守るという義務は、軍事力という手段によってのみ遂行できる。しか

し平時にこの軍事力を備えておく費用も、戦時にそれを使用する費用も、文

明の改良のさまざまな段階にある社会の状態において、非常にさまざまであ

る」(WN V.i.a.1 p.689 邦訳第3巻p.343)

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 スミスは、狩猟・遊牧民族の段階では、戦場における略奪の機会が給与とな

るので、平時においても放浪生活に慣れている彼らを戦場に動員するのに主権

者は費用負担がないとする。農耕民について、スミスが荘園領主から土地を与

えられた独立自営農民husbandman概念(…その下に農業労働者も抱えること

がある…)で一貫して論じている点は、WN翻訳者、水田氏も注目するところ

である。農耕民は遊牧民ほどには訓練が行き届いていない兵士であるが、種蒔

きを終えてから収穫期までの短期間なら、農作業現場から離脱させて戦場に動

員しても、残る女子供、老人でもある程度は仕事を代行できるので主権者もし

くは共同社会にとって経費はかからないとしている。

 ところが、それより進歩した社会状態では、製造業の進歩と戦争技術の進歩

の二つによって、従軍者が自分で費用を賄うことが不可能になると指摘する。

製造業と技術の進歩によって戦争技術が発展し、戦闘は一時的な小競合いに終

わらず長期化する。すると戦争で公共のために働く人々を、日常業務から長期

離脱させるのが困難になり、公共がその間の扶養、すなわち給与の支払いをし

なければならなくなってくる。すると一般市民、大領主やその直接の家臣たち

ですら一定期間を超えると従軍義務を軍役免除貢納金で代替し、その貨幣によっ

て軍役に就く者を扶養する給与に充てるようになっていく。これによって国土

防衛の義勇の精神が衰退し、近隣の野蛮な国家による侵略を招くことになる。

これをLRBL段階でスミス自身、注目していた。

 国王は、貢納金によって傭兵隊長の指揮下にある軍隊を雇って常備軍を形成

することになるが、こうした常備軍は郷土への愛・忠誠心や国土防衛の意気込

みといったものを持たず、敵による打撃で容易に潰走する傾向をもつ。だから

国民の側にも義勇の精神を涵養する教育が施されなければならないというのが

LRBL、LJ段階までの視点であり、この部分ではスミスもファーガスン、カー

ライル、ケイムズをさほど超えるものではなかった。

 「古代ギリシアのさまざまな共和国のすべてで、軍事教練を受けることは、

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国がすべての自由市民に課した教育の必修部分であった」(WN V.i.a.12 p.696

邦訳第3巻 p.352. 同様の言及はV.i.f.39-45にもある)

 しかし、この問題意識をスミスは教育費の議論と直結させる。

 WN段階のスミスは、軍事問題を経費視点で論じることによって、それ以前

と比べて2つの重要な論点を提出するようになる。その1つは、分業による産

業の発展によって技術進歩がもたらされるが、機械技術の発達が戦争技術の発

達と連動しているという視点である。この視点に立てば、一方でそのような戦

争技術は専門家でないと扱えないことになり、特定の職業として独立せざるを

えないことになる。他方で、発達した商業社会、産業社会といった文明国の軍

隊は、遊牧段階などの野蛮な段階にある社会の軍隊より強いことになる。

  「戦争の技術というものは、あらゆる技術の中で、たしかにもっとも高級な

ものであるから、改良が進むにつれて、必然的に、それらの中でもっとも複

雑なものとなる。機械技術の状態は、戦争の技術が必然的に関連する他のい

くつかの技術の状態と共に、ある特定の時代に戦争技術が到達し得る完成の

程度を決定する。しかしそれをこの程度の完成に到達させるためには、それ

が市民の特定の階級の唯一または主要な仕事になることが必要となり、そし

て分業は、戦争の技術の改良のために、他のすべての技術の改良のためと同

様に必要である」(WN V.i.a.14 p.697 邦訳第3巻p.353)

 このように18世紀のスミスですら、技術改良によって実際の武器使用に要

する技能の高度化のため、素人が容易には戦闘員として役に立たないことを認

識している。つまり政府が国民を軍事に挑発するということは、長期にわたる

周到な用意がなければ不可能な難事なのである。その意味で、ここには民兵と

常備軍との優劣論が入り込む余地はない。

 その上で、「兵士という職業を、他のすべての職業と切り離され区別された

特定の職業となしうるのは国家の知恵だけであるBut it is the wisdom of the

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state only which can render the trade of a soldier a particular trade sepa-

rate and distinct from all others.」(V.i.a.14 p.697邦訳p.354)と述べ、職業軍

人をstate概念およびtrade概念との関係で論じている点に注目したい。すなわ

ち近代国家に特有の職業という視点である。ここでスミスは、古典的共和主義

の伝統における国家概念、ラテン語のres publica「公の事柄」に相当するrepub-

licもしくはcommonwealthではなくstateを用いている。16-17世紀のイングラ

ンドの語法ではcommonwealthは、公共の利益が私的利益に優先し、法の支配

が行なわれている君主国を意味していた。都市国家的なものであるpolisや、

この時代のcivic概念に直結しすぎるcivitasではなく、また国王を想起させる

the sovereignや、国王だけでなくクロムウェルも連想させる for any person

whatever (前述LJBの記述)につながるものとしてでもない。新しい中立的

な語法の「国家」で時論的なニュアンスを込めて用いる意図があったのかもしれ

ない。方法として推定的歴史を語りながら同時に時論的な視点を持ちつづけて

いる修辞学者スミスの言葉感覚を考慮すれば、stateの語法についてさらに究

明していく必要があるだろう。

 ともあれ、農業と製造業の改良に伴う富の蓄積が近隣国の侵略を誘発するの

で富裕な国民はすべての国民の中でもっとも攻撃されやすい存在なのである。

だから国家が公共の防衛のために何か新しい方策を採らなければ、商業・産業

がもたらす利益に目を奪われて好戦的でなくなった国民の生命・財産を防衛で

きない…という問題意識をスミスは持つ。そこで彼は、国家が採るべき方策と

して次の2つを挙げる。

  「このような事情においては、国家が公共の防衛のために一応の用意をする

ことが出来る方法は、二つしかないように思われる。それは第一に、きわめ

て厳しい行政によって、国民の利害関心や気風や性向の大勢を無視して、軍

事訓練の実行を強制し、軍事適齢期の市民全体またはその一定数を、彼らが

たまたま他のどのような職業または専門職を営んでいようとそれにある程度

兵士の職業を加えさせることだろう。あるいは、第二に、軍事訓練の継続的

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な実施のために、一定数の市民を扶養し雇用することによって、兵士という

職業を他のすべての職業から切り離され区別された特定の職業とすることが

できよう」(WN V.i.a.16-18 p.698 邦訳第3巻p.355)

 つまり徴兵制による一般市民の一定期間の軍事訓練への服務と、(外国人傭

兵ではなく)国家が給与を支給して常時、軍務に就いて軍事訓練を実施しその

技量を練磨している国内の職業軍人による常備軍の育成である。「イングラン

ドでもスイスでも、また私の信じるところでは近代ヨーロッパの他のどの国で

も…」(V.i.a.20)、民兵は平時において特定の部隊に配属され本職の常勤将校の

下で訓練を受けている…という記述によって職業軍人と民兵の補完関係を確認

する。火器の発明以来、剣や槍、弓を用いるための身体の頑強さや敏捷さより、

規律、秩序、命令への即座の服従こそが戦闘の帰趨を決すると述べる。銃砲の

騒音、硝煙に包まれ、大砲の射程内に入るや否や死の危険に身がさらされてい

る恐怖によって兵はパニックに陥って規律、秩序、命令への服従を保持できな

くなるからである。そこでスミスは、「民兵はどのやり方で規律を教えられ、

訓練されても、よく規律を教えられ訓練された常備軍よりも、常に、大きく劣っ

ている」という評価を下すのである。一般市民としての性格をどれだけ保持し

ているかで軍事力の大小が決まるとスミスは述べるが、それは日常性を離れた

危機的状況においてもパニックに陥らないという精神の強さ(…それが愛国心・

義勇の精神に支えられるものであっても…)の有無にとどまらない。むしろ優

劣論の形による、兵士個人の技量云々を超えた軍事の専門性の認識なのである。

  「文明国民が自国の防衛について民兵に依存している時には、たまたまその

近隣にいる野蛮な国民によって征服される危機に常にさらされている。アジ

アの文明諸国がすべてタタール人によってしばしば征服されたことは、野蛮

国民の民兵の文明国民の民兵に対する自然の優越を十分証明している。規律

の行き届いた常備軍はどの民兵にもまさっている。そのような軍隊が、富裕

で文明化した国民によって、もっともよく維持されるようにそのような軍隊

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だけが、国民を野蛮な隣国の侵略から守ることが出来る。したがってどの国

の文明も、常備軍によってしか永続できないし、かなりの期間の保持さえで

きない」(WN V.i.a.39 p.705 邦訳第3巻p.369)

 WNにおけるスミスの軍事論の特徴は、最新鋭の銃砲といった火器を保有す

る経済力がある文明国の軍隊の方が、攻撃性のみを保持する野蛮な社会の軍隊

よりも、はるかに攻撃力が高いことを指摘している点にある。

  「近代の戦争では、火器に要する大きな経費が、その経費を最もよく賄える

国民を、したがって豊かで文明化した国民を、貧しくて野蛮な国民にたいし

て、明らかに有利にする。古代においては、豊かで文明化した国民は、貧し

くて野蛮な国民にたいして自らを防衛するのは困難だということを知った。

近代では、貧しくて野蛮な国民は、豊かで文明的な国民にたいして自らを防

衛するのは困難だということを知る。火器の発明は、一見したところではき

わめて有害なもののように見えるけれども、文明の永続にとっても拡大にとっ

ても、確実に有利なものである」(WN V.i.a.44 p.708 邦訳第3巻p.373)

 LRBLでは、古代ギリシアやローマを素材として取り上げ、火器の発明以前

の戦闘を想定していたので、商業・産業の発展により豊かで文明化した国民が

国土防衛の義勇の精神を失うと侵略を招きやすいという危険性のみが強調され

ていた。しかし、近代兵器がもつ攻撃力・破壊力、重砲をも含めた軍隊の機動

性の大きさを前提するとき、国民全員が時に個々に戦闘員として活動する遊牧

民の攻撃力など、もはや問題ではなくなっている。その意味で、常備軍か民兵

かの優劣の判断はもはや存在しない。製造業の高度な発展に伴う技術発展から

生み出されてくる最新鋭の兵器やそれに基づいた戦術を駆使するには、きわめ

て高度な専門知識と絶えざる教育と訓練が必要とされる。これは、質の高い将

校が統率し国家が扶養する常備軍でなければ実現できようもない。もはや条件

によってさまざまな国と契約し雇われる傭兵隊長の出番はなく、組織的体系的

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に教育を受けた軍事専門家を擁する常備軍でなければ近代的軍隊はありえない

のである。

 この点では、LRBLやLJ以来、語ってきた義勇の精神を保持した民兵の持つ

意義のニュアンスから転換したように見える。しかし、スミスが教育論で繰り

返し強調しているのは、豊かで文明的な市民生活を維持し、諸外国の侵略から

国土を防衛するには、やはりノブレス・オブリージュに支えられた名誉心、義

勇と自己犠牲の精神が不断に更新されなければならないということであった。

その意味で一貫していることは明確である。ただし、それは、商業と製造業で

富裕になり文明化した社会では日常のビジネスがもたらす利益ばかりに目を奪

われて人間が頽廃するという認識にとどまらない。また分業によって社会の富

裕は増大するが、貧富の格差が拡大し、人間の能力の一部に特化した奇形的な

ものになるという認識にもとどまらない。ここでのスミスの力点は、文明社会

における近代的な個人の自由の原理を越えた、公共性をそれ自体として考察す

るというところにある。

 WN第5篇第1章第3節公共事業と公共施設の経費についての第2項「青少年の

ための施設の経費について」でスミスは次のように述べる。

  「改良が進むにつれて、軍事訓練の実習は、政府が適切な対策をとってそれ

を支持しない限り、しだいに衰退し、それとともに国民大衆の武勇の精神も

衰退することは、近代ヨーロッパの実例が十分に証明している。しかしどの

社会の安全保障も、多かれ少なかれ、国民大衆の武勇の精神に常に依存せざ

るをえない。…すべての市民が兵士の精神を持っているところでは…ふつう

常備軍について危惧されている、…自由にたいする危険をかならず大幅に減

少させるだろう。その精神は、…もし不幸にして軍隊が国の基本構造に反抗

するように仕向けられることでもあれば、その活動を阻止するだろう」(WN

V.i.f.59 p.786 邦訳4巻p.57)

 つまり個人の利益を追求する近代的な「自由」の原理を越えた公共性の追求、

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自己犠牲として義勇の精神がないところでは、商業と製造業の発展がもたらし

た豊かで文明的な社会の市民的自由や権利を国王に忠誠を誓う軍隊が蹂躙する

のに対抗できない…ということなのである。スミスは、外国の軍隊の侵略と国

内の軍隊による市民的自由の蹂躙の両方を視野においている。彼は、次のよう

にも言う。

  「臆病者、すなわち自分を守ることも、復讐することもできない者は、明ら

かに人間の性格のもっとも基本的な部分の1つを欠いている。そういう人は、

精神が不完全であり歪んでいる…国民の武勇の精神が社会の防衛にとって何

の役にもたたないとしても、臆病さの中にかならず含まれている種類の精神

的な不完全さ、ゆがみ、みじめさが国民大衆に広がるのを防止することは、

やはり政府のもっとも真剣な配慮に値するだろう」 (WN V.i.f.60 p.787 邦

訳4巻p.58)

 スミスは、続く部分で文明社会では下層民の愚昧化が不可避であると論じ、

だから政府は民衆教育を提案し、奨励、あるいは強制しなければならないとす

る。臆病と愚昧化が並列されるが、スミスは、その両方の矯正策として軍事訓

練を挙げているわけではない。スミスの民兵論は、たんなる防衛の観点を超え

て、スミスの一貫した人間観、社会観、歴史観に基づく公共性の追求視点を孕

んでおり、それが教育の問題として位置づけられている点でファーガスン他の

同時代の民兵論と大きく性質を異にしているのである。

 「国富論草稿」においてスミスは、分業を促す原理として、あるものを別のも

のと取引し交換する人間の「交換性向」を挙げた。それは言語を交換すること

によって相手の同感を得ようとする「説得性向」によって取得されるとしてい

た。人間は生まれてから死ぬまで、生存のために他人からの世話を必要とする。

人は、愛情・友情・尊敬・感謝から必要なサービスを自分の家族や親しい人から

受けるが、それ以外の見知らぬ人からも、愛情に基づいてはいないが同感と正

義に基づいた形で財・サービスの交換を行なうと論じていた。近代に出現した

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公的世界、つまり社会において、人はその一員として自己の実存を構築するの

である。そして商業社会における市場に参入するということは、TMSで論じた

道徳性、人から強奪せず、奴隷のようにも扱わない、公正な観察者の同感を得

られる範囲内の約束事を守る互恵的な関係に入るということである。TMSでは、

「即座に直接にわれわれを促して報償を与えさせる感情は感謝であり、きわめ

て即座に直接にわれわれを促して処罰させる感情は憤慨resentmentである」

(Ⅱ .i.1.2邦訳上巻p.177)とスミスは述べた。このようにスミスは、われわれ

が他人の幸福や悲惨に対し関心をも持つように作られた存在であることを示し、

受難者の困苦に対してわれわれが感じる憤慨の感情が同胞感情を活気づけると

論じた。

  「自然Natureは処罰の効用についてのあらゆる省察に先んじて、このように

人間の心に、神聖かつ必然的な復讐の法の即座の本能的な明確な是認をもっ

とも強くもっとも消し難い文字で刻印しておいたのである」(Ⅱ .i.2.5邦訳上

巻p.186)

 そこでは、人を傷つけ強奪し奴隷のように扱う人間に憤慨し処罰しようと行

動する人間を、留保をつけながらも是認し、逆にここで言う「臆病者」、すな

わち進んで他人の奴隷になるような人間を精神が不完全で歪んでいるものとし

て忌避していく人間観が一貫している。スミスが、WNにおいて防衛上では常

備軍、教育上では民兵が望ましいと述べた背景には、LRBL、LJと続く民兵問

題への関心があり、市民的自由と権利を守るためのノブレス・オブリージュと

しての義勇の精神を求め、臆病を忌避する論理、すなわち古典的共和主義の枠

組みが一貫しているのである。それは、他国からの侵略と支配から独立を守る

「国家の自由」の議論ではなく、また国家を「個人の自由」を守るための単なる

装置と位置づける議論でもない。人間として個人としての自由に立って、そう

した諸個人が密接に交通しあって成立している公的空間という「公共」は自己

犠牲してでも守る義勇の精神に支えられているのだとする。つまり民兵論の形

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を借りた「公共性」の議論なのである。自分のしたいことをするのが文明社会

の近代的な自由なのではなく、人間として、するべきことを主体的にするのが

自由なのである。

第3節 TMS第6版における愛国心問題の陰翳

 経済学体系と国家認識という形でWN第5篇の研究を深めた山﨑怜氏は、

LJ―WNの記述の連続性を比較対照しながら丹念に追って、とくに前者では租

税の根拠も納税倫理も「同感」理論によって基礎づけられていることを析出した

16)。本節では、スミスがTMS第6版において、義勇の精神=公共性を基礎づけ

る愛国心に奥行きある考察をしている点について述べておきたい。

 TMS初版-第5版においてスミスは、人間が普遍的仁愛universal benevo-

lenceを持つことはできず、自分の幸福より全人類の幸福を優先させることは

神の業務であって人間の業務ではないとした(TMS VI, ii.3.6)。その上で慣行

的同感habitual sympathyによって自分の幸福、家族、友人・知人…と同心円

状に序列を持って外側に広がっていく幸福を願う気持=愛着affectionを想定した。

スミスは、人間に配慮するよう割り当てられているのは、人間の能力の脆弱さ

と理解の狭さに適した自身の幸福、家族、友人、祖国の幸福についてであり、

普遍的な仁愛に属する崇高な部門について考えても、身近な幸福を軽視するこ

との口実にはならないとする。だから彼は、愛国心について次のように述べる。

  「われわれがその中で生まれ、教育され、そしてその保護の下でわれわれが

生活を続けている国家あるいは主権は、通常の場合には、われわれの善悪の

行動がそれの幸福または悲惨に大きな影響を与えうる最大の社会である。し

たがって国家は、自然によって、非常に強くわれわれに委ねられている。わ

れわれ自身だけではなく、われわれのもっとも強い愛着の対象、すなわち、

われわれの子供たち、親たち、親族たち、友人たち、恩人たち、われわれが

自然に最も愛し敬う人々は、同じ国家の中に含まれるのが普通である。彼ら

の繁栄と安全は、ある程度、国家の繁栄と安全に依存する。したがって、国

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家は自然によってすべての利己的な意向によってだけでなく、すべての私的

な仁愛的意向によっても、われわれにとって愛すべきものとされるのである。

このようにしてわれわれが国家と結びつくため、国家の繁栄と栄光は、われ

われ自身に、ある種の名誉をもたらすように思われる」 (TMS VI.ii.2.2邦訳

下巻pp.130-131)

 このように祖国への愛は、愛着の同心円のごく近いところが含まれるがゆえ

に生まれ、一体化された運命共同体としての関係にあるため、国家の繁栄と栄

光が自分にとっての名誉をもたらすとされる。ここでの慣行的同感は直接的な

ものではないから、自分の生命を社会の安全のために犠牲にする愛国者patri-

otについてappearやseemをつけて距離をおいた形で記述している。この点を

とらえてスミスの愛国心の記述を過度に抑制的否定的に解釈するべきではない。

公正中立な観察者の同感に至るスミスの議論においては、煽動を背景に持つ民

衆の熱狂は否定的に評価するということだからである。同次元同一平面上の人

間相互の交通から社会の良俗が形成される「自然の論理」を考察したTMSは、

徹底して非歴史的モデルを採ったためこうした留保をつける。しかし、それは

古典古代世界の歴史的文脈において義勇と公共性を論じてきた延長線上のもの

である。つまりスミスの記述は、愛国心の形による公共性の発露を否定してい

るのではなく、煽動されやすく激情に駆られやすい民衆の熱狂に対して公正中

立な観察者が「同感」できるか否かに視点を集中させているのである。

 続けて愛国心が近隣国民への偏見、猜疑心を引き起こす危険性を指摘してい

た。ここで言う「愛国心」は熱狂者のそれである。この部分では、愛着の同心

円的広がりにおいて外部とぶつかろうとする遠心力(=祖国愛)のためどこまで

求心力(=自己や愛する近親者)を犠牲にするかが問題であって、遠心力自体を

否定しているわけではない。むしろ外部に対する憎悪という形での遠心力を求

心力の必要条件とすることは、公正な観察者の同感を得られないとしているの

です。

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  「われわれは、自国民に対す近隣国民の繁栄と勢力拡大を、悪意に満ちた嫉

妬と羨望をもって眺めたいという気持ちになる。隣り合った諸国民は、彼ら

の紛争を解決する共通の支配者を持たないので、継続的な相互の恐怖と猜疑

心の中に生きている。各国の主権者は、彼の隣人たちからほとんど正義を期

待しないので、自分が彼等から期待するのと同じだけわずかな正義をもって

隣人を取り扱おうとする。国際法…の尊重は、実際のところ、たんなる偽装

と公言にすぎないことが多い。…国民的偏見というくだらない原理は、しば

しば、祖国への愛という高貴な原理の上に築かれているのである」 (TMS

VI.ii.2.3邦訳下巻pp.132-133)

 国と国との間に公正な観察者視点がないから、こうした問題が生じるわけで

ある。まして価値観・宗教観・公共精神も異なる国との間で「同感」が成立する

ことはきわめて困難である。だから国際法を制定しても、それを遵守する国際

的秩序の形成と維持は容易ではない。公正中立な観察者の役割を果たす機関は、

歴史的にも現代においても実際には存在しないからである。政府は不合理なナ

ショナリズムを煽って国民的偏見を拡大したりせず、諸国民間の実際的な交流

と貿易の拡大を積み重ねて相互信頼を醸成していくしかないのであろう。WN

では、諸国民間での商業、貿易によって経済的な相互依存が高まり、国民的偏

見を緩和し、自然な連合と友情が生まれるという現実的かつ漸進的な過程を見

ていた。スミスの場合、そこに他人を傷つけ奴隷のように扱わず、臆病である

ことから進んで他人の奴隷のようになることもない、という人間のあり方が前

提されている。

 アダム・スミスは、現実が理想からほど遠いということも、改革には時間と

痛みを伴うことも理解していた人物である。俗に言われるような夜警国家論的

な急進的な規制緩和主義者などではない。またスミスは、「不正を抑制して公

安を維持するだけの権力だけでなく、善良な規律を樹立し、あらゆる種類の悪

徳と不適宜性をくじくことによって公共社会の繁栄を促進する権力をも信託さ

れている…」為政者は「同胞市民の間での相互の侵害を禁止するのみならず、

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一定の程度まで相互の援助を命令する諸規定を定めてよい」 (TMS II.ii.1.8邦

訳上巻p.212)…と述べる。このようにスミスは、交換的正義と分配的正義のバ

ランスをとって、その適宜性を判断していく「立法者の科学」を構想していた人

物であった。

 しかし、スミスは単純に富裕者や有力者が、有徳な人間であるとお気楽に前

提していたわけではなく、むしろ逆に、富裕な商業社会ではすべての社会階層

においてその徳性、政治的資質の腐敗が起こるという古典的共和主義の枠組み

で一貫して見ていた。これはLRBL以来の軍事問題に関する記述で確認してき

たとおりである。このように見てくると、愛国心と国民的偏見の回避を両面で

考えているスミスの軍事論の射程を読み取るには、彼のWN出版(1776年)の後、

TMS第6版(1790年)で追加された第1部第3篇第3章「道徳の腐敗」の議論、およ

び第4部第1篇にある欺瞞理論17)を一貫したものと見る視点が必要だろう。

 スミスは、TMS第1部第3篇第3章の「非社会的な諸情念について」で、憤慨

resentment感情について詳論し、「人類は他人に対してなされた侵害を非常に

強く感じる感覚を持つ」「これらの情念は人間本性の必要な部分とみなされて

いる」として、「意気地なく静かに座って、侮辱に甘んじ、それに抵抗または

復讐しようと企てることのない人物は軽蔑すべき」とまで述べていた。スミス

は、他人の受けた非道に対する「無関心と感受性のなさ」を非難する。他方で、

だからこそ憤慨の適宜性については疑わなければならず、冷静で中立的な観察

者の同感を得られるか「力をつくして考察しなければならない」としていた。

他者の不当な侵害に対する憤慨は、抑制され緩和されれば寛容で高貴でさえあ

る(I.ii.3.2-8邦訳上巻pp.88-99)として、一定の冷静な距離感を保っていた。ス

ミスは、牢獄と立派な宮殿とどちらが正しい愛国の精神に導かれているかとい

う分析までしているが、有用性の点で牢獄を認めつつ、そこに監禁された哀れ

な人々を想像することの不快さ、宮殿への想像は快適でありながらも公共にとっ

て不都合である点も指摘している。

 悲嘆への同感と歓喜への同感の二つを見据え、小さな歓喜と大きな悲哀に対

して、人間はもっとも同感したい気持になる、そして悲哀に対してより同胞感

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情を抱くとスミスは述べる。そして歓喜への同感を人間本性とする一哲学者18)

に対して、スミスは悲哀に対する同感を普遍的なものとし、歓喜への同感を人

間の野心の起源だと反論する。想像力が描きがちな地位ある人々の欺瞞的なイ

メージは、われわれの欲望の対象なので、それに対して特殊な同感を感じてし

まうからである。

  「富裕な人々および有力な人々のすべての情念についていくという、人類の

この性向の上に、諸身分の区別と社会の秩序とが築かれるのである。われわ

れより上の人々に対する、われわれのへつらいは、彼らの好意によって得ら

れる諸恩恵benefitへの、なにか密かな期待から生じるよりも、彼らの境遇

の有利さに対するわれわれの感嘆から生じることのほうがしばしばである」

(TMS I.iii.2.3邦訳上巻pp.134-135)

 利益が得られるからへつらうわけではない。上位者の生活のイメージに憧れ

るので、下位者は能動的主体的にへつらうのである。だから地位ある人の優雅

で奥ゆかしく見える様子、態度、振る舞いを見ると、低い地位の人々は容易に

その権威に服従してしまう。豪華な服装、邸宅といった「この安い価格で公共

の感嘆を獲得することができる」とスミスは批判的な目を向けていた。富裕者

と有力者の情念についていくという性向が人間にはあり、地位ある人は下層の

人々を同胞感情を持って見ない…ことが身分の区別と社会秩序を維持するとス

ミスは言う。このような人間像は、公共空間で同一次元同一平面上にある、人

間として個人として自由で独立した個人というスミスが描く自由人像と大きく

隔たる。

 スミスの記述はきわめて冷徹で、「君主国においてさえ、一般に最高の職務

を手にするのは、生活上の中流および下流の身分で教育され、自分自身の勤勉

と能力によって頭角をあらわしてきた人々」であるとする。そして彼は、そう

した人物が上流の人からの嫉妬心と復讐心に苦しめられながら台頭してくる過

程を描写する。上流の人々は、最初は成り上がり者を軽蔑し、次に嫉妬し、実

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権を握った彼らに情けない卑しさを持って服従することになる…というメカニ

ズムのようなものを描いていた(I.iii.2.5邦訳上巻p.143-144)。

 低い身分の人がなりあがろうとすれば、「自分の専門職において優越した知

識を、そしてそれを行使するにあたって優越した勤勉を獲得し…労働において

忍耐強く、危険において決善、困苦において不動でなければならない」とスミ

スは熱のこもった調子で語る。仕事の困難さ、重要さ、そしてすぐれた判断と

仮借ない努力によって公共の目にとまるようにしなければならないと述べたの

である。

 初版から5版まで、この「歓喜への同感」論が階級区分=社会秩序の維持を

基礎づけるものとして語られた。しかし6版で加えられた「道徳の頽廃」論を

視野に入れて見るとスミスが階級区分の維持についてきわめて辛辣な目を向け

ていたことが明白になる。

 一方で富裕者や有力者の情念を想像してへつらい、それと同じ権力と財産を

獲得しようとし、他方では知識と勤勉、努力によって中流・下流身分から成り

上がって行政の枢要な地位を占める…という人物は、その努力の点で称賛でき

ようが、いい人だとは描かれていない。また台頭してくる者を軽蔑し、嫉妬し、

最後には卑屈に服従する上位者の姿も辛辣な筆致で描かれている。ここでは、

「歓喜への同感」論(=社会秩序維持の論理)が、「道徳の頽廃」論になっている。

まさに日常生活でよく見かける原罪的な、その意味で人間的な姿である。

 彼らにそうするなと上から命じても何の効果もなければ、反省もないだろう。

しかし、相手が同じ人間だというだけで利害に無関係であっても悲哀や歓喜に

同感するという、人間が「自然の構造」として持つ性向によって、いずれもが

いい人だと描かれていないのに、「見えない手に導かれて、…それを意図する

ことなく、それを知ることなしに、社会の利益を推し進める」のがスミスの論

理であった。それによって階級区分=社会秩序が維持されている…という欺瞞

論につながる「自然の構造」が持つダイナミズムがとらえられているのである。

その意味でスミスが描く階級区分の形成、社会秩序の維持は、単に身分制度を

固定して考える硬直的な構造分析、静態論ではなく、激しい人間ドラマを内包

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した動態論であった。

 スミスの道徳哲学に見られる動態論的性格は、1つの価値観を普遍的絶対的

なものとしてグローバル化していく議論の静態論的特性と重なるものではない

のである。

* アダム・スミスからの引用は、すべてグラスゴウ大学版を用い、その都度、注釈を参

照する煩瑣を避けて本文中にTMSとWNについてはパラグラフ番号とページを示した。LRBLおよびLJについては学生筆記ノートであるためグラスゴウ大学版のページのみ

示した。邦訳はそれぞれ水田洋訳岩波文庫版の対応ページを示したが、訳文は必ずし

もそのままではない。

* 本稿は、2013年10月に実践女子短期大学に提出した論文「アダム・スミスの民兵論と

共和主義」(『Jissen English Communication』誌第44号、2014年3月刊、所収)とス

ミス「民兵論」というテーマと引用したスミスの文言の点で大きく重複する部分を持つが、

その後の研究会での討論を踏まえて現代の問題への射程に焦点を移動し全面的に書き

直したものである。

1) この点に明確な認識を示したものとして坂本達哉:2014 『社会思想の歴史』名古屋

大学出版会第6章、また法学講義とWNの記述を対比的に検討した山﨑怜:1999『経

済学体系後国家認識』(岡山商科大学学術研究叢書2)第2章がある。とくに山﨑(1999)は、国家論の固有領域ともいえる「法学」は徹頭徹尾、歴史的手法を採り、「法」の目

的たる「正義」の実現過程を法と統治の歴史的内容において描出したとして(p.3-5)、徹底して非歴史的であろうとする「道徳哲学」と対比した。同書は、法学の中から生

まれた治政論としての経済学の歴史性を指摘し、道徳哲学の「正義」論が語義転換し

て自然価格、各所得の自然率、自然的進歩、自然的自由といった表現に衣替えして

国家論において経費論という税制範疇の姿をとったとする多層的・立体的なスミスの

方法をとらえようとしている。筆者は、拙著(2008) 『アダム・スミスの道徳哲学と

言語論』においてスミス初期の言語論とTMS同感論との連続性を論証しようと試みた。2) 水田洋「アダム・スミスとファーガスン」『経済系』第110集、1976年(高島善哉他編

『アダム・スミスと現代』同文館、1977年の第3章として収録)。同書p.104。3) I. Hont and M. Ignatieff eds.,1983: Wealth & Virtue, The Shaping of Political

Economy in the Scottish Enlightenment, Cambridge UP.4) Ross, Ian Simpson: 1995, The Life of Adam Smith, Clarendon Press, Oxford.(篠

原久・只腰親和・松原慶子共訳『アダム・スミス伝』シュプリンガー・フェアラーク、

2000年)5) 篠原久:(1978)「アダム・スミスにおける常備軍と武勇の精神」『経済学論究』第31

巻4号、―(1979)「スコットランド民兵論とアダム・スミス」『経済学論究』第33巻第4号(『アダム・スミスと常識哲学』有斐閣、1986年の第5章として収録)、―(2011)

「スコットランド啓蒙における『徳性の涵養』と『精神の解剖』」 (佐々木武・田中秀

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夫編著『啓蒙と社会 文明観の変容』京都大学出版会、所収)。これに対してファー

ガスン研究者である天羽康夫:(2006)「スコットランド啓蒙における民兵論の展開」

(田中秀夫・山脇直司編『共和主義の思想空間』名古屋大学出版会、2006年第9章)は、

スミスの側に立つことなく、それぞれの議論に内在して、その問題意識を析出して

いる。とくにファーガスンの商業社会に対する鋭い批判意識を明確に描き出している。6) スミスの道徳哲学は、同感理論を中心に据えた同時代同次元の人間相互の非歴史的

モデルであるが、最初期の「エディンバラ講義」≒LRBLでの古典古代の文章家の歴

史状況への言及においてさえ、自由と公共性の関係を視野に入れて論じていた。前

掲坂本(2014)は、本稿と同様な視点でスミスにおける一貫性を論じている。7) Phillipson, Nicholas: Adam Smith, An Enlightened Life, Yale UP., 2010.(永井大輔

訳『アダム・スミスとその時代』白水社、2014年)8) Christopher J. Berry, Maria Pia Paganelli and Craig Smith eds., The Oxford

Handbook of Adam Smith, Clarendon: Oxford University Press, 2013.所収のD. C. Rasmussen 「アダム・スミスとルソー:啓蒙と反啓蒙」は、スミスを反啓蒙の思想

家ルソーの商業社会批判を初めて徹底的に検討した啓蒙思想家と位置づける。スミ

スは、お気楽に自由放任の資本主義を称揚したわけでもなく、利己主義という基盤

に立つ経済発展を目指す所有の自由主義者でもないとする。商業社会は必然的に不

平等を生み出し、分業の拡大は人々を意志薄弱・無知にするため人間の尊厳を傷つ

けるとする点でルソーに賛同していたと論じるのである。しかしスミスの文明社会

批判の視点に注目しても、分業の発展による人間精神の堕落を懸念しすぎる(too worries)ため武勇の精神を政府が鼓舞する必要までも論じたのだとして、国防とい

う国家の役割の重要性をあまり評価していない。9) LRBL, p.108. 水田洋・松原慶子訳『修辞学・文学講義』名古屋大学出版会(2004年)の

第19講義p.189。10) マキャヴェッリ時代の少し前の政治情勢を確認しておく。メディチ家の大ローレツォ

が1492年に亡くなるとヴェネチア共和国・ミラノ公国・フィレンツェ共和国・教皇領・

ナポリ王国の5大勢力のパワーバランスが崩れ、1494年9月、イタリア北部中部の諸

都市はナポリ王国の支配権を要求するフランス国王シャルル8世の侵攻に直面した。

フランスの機動力を備えた新式野砲と重装騎兵の軍隊を前に、時代遅れの旧式砲を

備えるだけの中世城塞の防衛力に頼る北イタリアの商人都市は、破壊を免れるのな

らむしろ敵に占領され、適当な賠償金を支払って退去願おうとしていた。市民も軍

隊に入ることを嫌って厭戦気分が蔓延していた。教皇アレクサンドル6世と、皇帝

マクシミリアン1世、スペイン王フェルディナンド、ヴェネチア共和国、ルドヴィー

コ・イル・モーロが神聖同盟を結んで対抗姿勢を示したことにより、10月にはシャル

ル8世はフランスに帰還した。しかしイタリアが外国勢力を交えた抗争の場となっ

たのを契機にフィレンツェ市民はメディチ家を追い出し、共和政府となったのである。

1498年にフィレンツェ共和政庁第二書記局員となった若きマキャヴェッリは、14年にわたり軍事関連の各地情勢研究調査に従事し膨大な量の報告書を作成したのである。

11) この時代の軍事技術については、金子常規『兵器と戦術の世界史』原書房、1979年(中公文庫版2013年)参照。

12) 18世紀イギリスは、植民地争奪をめぐったフランスとの7年戦争(1756―1763年)の際、

新大陸や東インド方面への軍事力投入から来る国土防衛力の補填策として1756年に

イングランドのみに民兵制度を認める「民兵法」を成立させた。1745年のジャコバ

イトの反乱以降、スコットランド人の武装蜂起を警戒してイングランド政府はスコッ

トランド人が武装することを禁止していたのに対し、1759年にFrançois Thurot率

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いる私設の略奪船団が現れたのを契機に、スコットランドの無防備状態解消のため

国民軍の創設を求める機運が高まった。1760年のスコットランド国民軍創設の議案

が議会下院で否決されたことを受け、スコットランドでは同等の権利獲得、祖国の

適切な防衛力強化を求める国民的な感情の高まりを見た。この風潮の中、1762年に

エディンバラ・ポーカー・クラブが設立され、スミスもその創立メンバーに名を連

ねた。このクラブは、スコットランド国民軍創設に向け、スコットランド上層部お

よび世論を掻きたてる(porker「火掻き棒」)ことを目的としていた。13) Rosalind Mitchison ed.: Why Scottish History Matters, 2nd edition, The Saltire So-

ciety, Edinburgh, 1997.(富田理恵・家入葉子訳『スコットランド史 その意義と可

能性』未来社、1998年。第5章、邦訳p.151.14) Robertson, John, The Scottish Enlightenment and the Militia Issue, Hon Donald

Publishers LTD., Edinburgh, 1985. は常備軍を王政による専制の前兆とみなす17世紀末の民兵論争から、18世紀半ばの常備軍と民兵の補完関係を重視する論調への転

換を分析している。本稿におけるスミスと同時代の民兵論争の理解は、このロバー

トスンの論考に大きく依拠している。前述のポーカー・クラブの主要メンバーであっ

たカーライルとファーガスン、スミスの関係についてはジョン・レーの古典的研究

があるが(Rae, John, Life of Adam Smith, Macmillan & Co., London, 1895.大内兵

衛他訳『アダム・スミス伝』岩波書店、1972年 . pp.164-171参照)、篠原久氏はカー

ライルが引用して批判しているのはWN, V.i.a.27および38であるとしている。当該

のスミスの書簡はグラスゴウ版pp.249-253所収Letter 208参照。15) この時代の民兵論としては、アダム・ファーガスン、アレクザンダー・カーライル、

ケイムズ卿によるものがある。Adam Ferguson, Reflections Previous to the Estab-lishment of a Militia, London, 1756. (Alexander Carlyle匿名本), The Question Re-lating to a Scots Militia Considered. In a Letter to the Lords and Gentlemen who have concerted to the Form of a Law for that Establishment. By a Freeholder, Ed-inburgh, 1760. (Lord Kames), Military Branch of Government, in Sketches of the History of Man, vol. 2, Edinburgh, 1774. ファーガスンは、分業論との関連で

スミスといろいろ論じられることが多いが、従軍牧師として各地を転戦した経験を

持つ彼は、常備軍と民兵の優劣論ではなく、商工業の発達が人々の関心を極端に富

の獲得に向けさせ、武勇を発揮して国家を守りその富を守るということから離反さ

せている点を批判した。交易と製造業の発展で豊かに、法の下で安全になって、貪

欲・利己的に富を求めて道徳的に粗野となっていくとファーガスンは言う。貴族とジェ

ントリに名誉心、義勇の精神の高揚を訴え、地位と財産を保有する者たちに代理を

認めず武装の義務を求める。そして強制的な兵役と軍事訓練の経験を課して、むし

ろ商工業階層にこそジェントリたちと同様の高邁高潔な義勇の精神を求めようとす

るのである。スミスにも大きな影響を与えたケイムズの軍事論は、17世紀のジェー

ムズ・ハリントン、アンドリュー・フレッチャーの議論を踏まえ、勤労精神と武勇の

精神を両輪として産業を阻害することなしに国土防衛を達成しうるような軍事上の

計画を追求した。これは一定年限の強制的な徴兵制の施行を構想している点で独自

のものである。(Harrington, James, 1656, Oceana, リプリント版Pocock(ed.), The Political Works of James Harrington, Cambridge, 1977.ある。なおフレッチャーに

ついては村松茂美:1989 「アンドリュー・フレッチャーとその民兵論」『熊本商大

論集』第36号第1号。―2013 『ブリテン問題とヨーロッパ連邦 フレッチャーと初

期啓蒙』京都大学出版会、第1章を参照した。 Andrew Fletcher, A Discourse con-cerning Militias and Standing Armies; with relation to the Past and Present Gov-

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ernments of Europe and England in particular, London, 1697.)。16) 前掲山﨑怜(1999)『経済学体系後国家認識』とくに第1章p.35-36参照。17) 効用を得ることより、規則性や調和を求めて技術の適合性の追求に走り人間の勤労

意欲を高め行動に駆り立てるとする欺瞞論について、スミス自身がその独創性を誇

示していた(TMS.IV.1.3)。欺瞞論の意義については田中正司(1993)『アダム・スミ

スの自然神学』(御茶の水書房)、同(1997)『アダム・スミスの倫理学』(御茶の水書房)、および拙著前掲書(2008)参照。

18) グラスゴウ版編者ラフィルはこれをジョゼフ・バトラーの『説教集』第5説教『同

情について』第2パラグラフに対応すると推定している。スミスは、ピューリタン

の典型として描かれることの多いバトラーよりも厳しく自己を律する形で議論して

いる。TMSをはじめスミスの記述にはスコットランド長老教会関連のレトリックが多々

見られる。こうしたスミスの宗教性については、前掲田中(1993)が問題提起し、筆

者もその影響を強く受けている。拙著(2008)および拙稿(2012)「アダム・スミスの

神学に関する記述をめぐって」『Jissen English Communication』No.11(通巻42号pp.1~47)、および(2014)「アダム・スミスの神学的記述をめぐって」(定例研究会

報告)『日本ピューリタニズム学会NEWSLETTER No.16、pp.1~2参照。しかし通

説的にはMontes, Leonidas: Newtonianism and Adam Smith, and Kennedy, Cev-in: Adam Smith and Religion, in The Oxford Handbook of Adam Smith, Christo-pher J. Berry, Maria Pia Paganelli and Craig Smith eds., Clarendon: Oxford U.P., 2013.が示すようにスミスを懐疑論もしくは不可知論に位置づけることが現在でも多

い。スミスの神学的記述、とくにカトリック批判はそのキリスト教批判の隠れ蓑だ

とされるが、それには異論があるのが筆者の立場である。