イオルとアイヌ語地名 貝澤 美和子 ·...

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「イオルとアイヌ語地名」貝澤美和子 31 イオルとアイヌ語地名 9 月 5 日(月)18:00~19:30 札幌会場 講師 貝澤 美和子 アイヌ文化活動アドバイザー 皆さん、こんにちは。はじめまして。イラン カラテ。 クレヘ アナ ネ かいざわみわこ ネ。タ ント ビラトリ ワ ケ ウヌカワ ク・エヤイコプンテ ワ。 平取から来ました貝澤美和子と申します。き ょう皆様にお会いできて、とてもうれしく思っ ております。 私は、去年、9 ヶ月ですけれども、社団法人 北海道ウタリ協会平取支部の仕事をする機会 がありました。北海道と、イオル構想と北海道 遺産の保存と継承という企画の中の仕事でし たので、たまたまアイヌ語地名とかイオルとい うことに触れる機会があり、その際に勉強した ことをもとにつくったパワーポイントがあり ますので、まずそれを見ていただいて、その後、 お話をさせていただきたいと思います。 最近、イオルという言葉をよく耳にしますが、何となく 漠然としていて、いまいちイメージがつかめません。これ を機会に考えてみましょう。 私たちの住む平取町を流れる沙流川は、ユカ では「シ ムカ」と呼ばれていました。「シ」は「本当に」、「シは「あたり」、「ム」は「詰まる」、「カ」は「させる」とい う意味で、雨が降るとすぐに土砂が流出して河口に土砂が たまり、河口が動いていたので、アイヌは「川が詰まる」 と表現したのでしょう。 平取町は、その沙流川の流れに沿って開けた町で、古く からアイヌが住んでいて、今では北海道でというより、世 界中でアイヌが一番多く住んでいるところです。これは、 沙流川の河口近くで、昔は「サルプト」(葦原の河口)とい っていましたが、今は富川となったところで、二風谷から 車で 20 分ぐらい河口へ下ります(図 1) イオルという言葉も地域によっていろいろな言い方をし ますが、沙流川流域ではイウォといいます。しかし、分 かりやすいように、最近、全道的にイオルと統一されまし た。 このイオルというのは、動物を獲ったり山菜を採る場所 のことで、いわば、アイヌ民族にとって生活の場のことで す。かつてアイヌたちがこの北海道を「アコモシ」(私 たちの大地)といって暮らしていたころは、この北海道中 がアイヌのイオルでした。狩猟採集で生活のほとんどを支 えていたアイヌたちは、仲間とのコミュニケーションのた めに、とても丁寧に地名をつけました。普段、私たちがよ くなじんでいる地名も、その意味を知ってみると、つくづ く先人たちの知恵に驚きと尊敬を感じます。そして、この アイヌ語地名こそが、北海道がアイヌのイオルだったこと の証しでもあります。 私たちの沙流川流域も、ほとんどの山や川は、どこそこ のコタンのイオルと決められていて、よそのコタンのイオ ルに侵入することはかたく禁じられていました。 図 2 は、泉靖一氏が古老に聞いて調査したもので、1952 年に発表した「沙流アイヌの地縁集団における IWOR」とい う論文中にあるものを見やすくしたものです。長い間厳し く守られてきたアイヌ間の決まりごとのおかげで、イオル と同時に北海道の大自然も守られてきました。その後、そ ういうことを知らない人たちが大勢増えてきて、北海道は 無主の地、つまり持ち主のいない土地とされ、いつの間に かアイヌの手を離れ、そのイオルも忘れられたかに思えま した。しかし、今、そのイオルを再生しようという気持ち を持ったアイヌの人たちが増えてきました。 図1 ① ピタ ② ピラカ ③ スムンコッ ④ サ ⑤ ニナ ⑥ ピラウトゥ ⑦ ニ タイ ⑧ ピパウ ⑨ カンカン ⑩ ペナコリ ⑪ シケ ⑫ ニオイ ⑬ ヌ キペッ ⑭ ポロサル ⑮ オサツナイ ⑯ オウコツナイ 図2 北海道になる前の沙流川流域コタンのイオル

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Page 1: イオルとアイヌ語地名 貝澤 美和子 · 「イオルとアイヌ語地名」貝澤美和子 33 沙流川を少しさかのぼると、「ニオイ」(荷負)という、

「イオルとアイヌ語地名」貝澤美和子

31

イオルとアイヌ語地名

9月 5日(月)18:00~19:30 札幌会場

講師 貝澤 美和子 アイヌ文化活動アドバイザー

皆さん、こんにちは。はじめまして。イラン

カラプテ。

クレヘ アナクネ かいざわみわこ ネ。タ

ント ビラトリ ワ ケク。

ウヌカラ ワ ク・エヤイコプンテク ワ。

平取から来ました貝澤美和子と申します。き

ょう皆様にお会いできて、とてもうれしく思っ

ております。

私は、去年、9 ヶ月ですけれども、社団法人

北海道ウタリ協会平取支部の仕事をする機会

がありました。北海道と、イオル構想と北海道

遺産の保存と継承という企画の中の仕事でし

たので、たまたまアイヌ語地名とかイオルとい

うことに触れる機会があり、その際に勉強した

ことをもとにつくったパワーポイントがあり

ますので、まずそれを見ていただいて、その後、

お話をさせていただきたいと思います。

最近、イオルという言葉をよく耳にしますが、何となく

漠然としていて、いまいちイメージがつかめません。これ

を機会に考えてみましょう。

私たちの住む平取町を流れる沙流川は、ユカラでは「シ

シリムカ」と呼ばれていました。「シ」は「本当に」、「シリ」

は「あたり」、「ム」は「詰まる」、「カ」は「させる」とい

う意味で、雨が降るとすぐに土砂が流出して河口に土砂が

たまり、河口が動いていたので、アイヌは「川が詰まる」

と表現したのでしょう。

平取町は、その沙流川の流れに沿って開けた町で、古く

からアイヌが住んでいて、今では北海道でというより、世

界中でアイヌが一番多く住んでいるところです。これは、

沙流川の河口近くで、昔は「サルプト」(葦原の河口)とい

っていましたが、今は富川となったところで、二風谷から

車で 20分ぐらい河口へ下ります(図 1)。

イオルという言葉も地域によっていろいろな言い方をし

ますが、沙流川流域ではイウォロといいます。しかし、分

かりやすいように、最近、全道的にイオルと統一されまし

た。

このイオルというのは、動物を獲ったり山菜を採る場所

のことで、いわば、アイヌ民族にとって生活の場のことで

す。かつてアイヌたちがこの北海道を「アコロモシリ」(私

たちの大地)といって暮らしていたころは、この北海道中

がアイヌのイオルでした。狩猟採集で生活のほとんどを支

えていたアイヌたちは、仲間とのコミュニケーションのた

めに、とても丁寧に地名をつけました。普段、私たちがよ

くなじんでいる地名も、その意味を知ってみると、つくづ

く先人たちの知恵に驚きと尊敬を感じます。そして、この

アイヌ語地名こそが、北海道がアイヌのイオルだったこと

の証しでもあります。

私たちの沙流川流域も、ほとんどの山や川は、どこそこ

のコタンのイオルと決められていて、よそのコタンのイオ

ルに侵入することはかたく禁じられていました。

図 2は、泉靖一氏が古老に聞いて調査したもので、1952

年に発表した「沙流アイヌの地縁集団における IWOR」とい

う論文中にあるものを見やすくしたものです。長い間厳し

く守られてきたアイヌ間の決まりごとのおかげで、イオル

と同時に北海道の大自然も守られてきました。その後、そ

ういうことを知らない人たちが大勢増えてきて、北海道は

無主の地、つまり持ち主のいない土地とされ、いつの間に

かアイヌの手を離れ、そのイオルも忘れられたかに思えま

した。しかし、今、そのイオルを再生しようという気持ち

を持ったアイヌの人たちが増えてきました。 図1

① ピタルパ

② ピラカ

③ スムンコッ

④ サラパ

⑤ ニナ

⑥ ピラウトゥル

⑦ ニプタイ

⑧ ピパウシ

⑨ カンカン

⑩ ペナコリ

⑪ シケレペ

⑫ ニオイ

⑬ ヌプキペッ

⑭ ポロサル

⑮ オサツナイ

⑯ オウコツナイ

図2

北海道になる前の沙流川流域コタンのイオル

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「イオルとアイヌ語地名」貝澤美和子

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アイヌ語地名は、地名がつけられ

た当時の自然の要素がもとになっ

ている場合がほとんどだと思いま

す。地形の特徴をとらえたり、植生

や狩猟の場であることを表現した

りして、その地名は当時の生活に密

接していました。そのほかにも歴史

に残るような大きな出来事も地名

として残して語り継がれました。

まず、平取町の地名の調査の手が

かりとして、平取町の旧地番台帳に

注目してみましょう。旧地番という

のは、明治以後、昭和 48 年までつ

けられていた地番で、その字名は、

ほとんどがアイヌ語地名のまま残

っていました。台帳を眺めていても

さっぱり頭の中は整理されないの

で、まず、一軒一軒の家や畑の旧地

番を台帳から新番地の 5千分の 1の

地図に落とします。この方法ですと、

平取町は98枚の地図になりました。

それから、もっと見やすくするため

に 2万 5千分の 1の地図に写します

(図 3・4)。とても時間のかかる仕事

で、これですべてが分かるわけでは

なく、山の中や沢などは、また別の

方法で調べる必要がありますが、と

りあえず、こうすることでアイヌ語

地名がとても身近に感じられるよ

うに思います。そして、地名の由来

を考えたり探したりするために現

場に立つと、そこでは必ず昔の人た

ちの生活の営みを体中で感じるこ

とができます。

「ピラウトゥル」(平取)という地

名は、その地形をよく表していて、

沙流川左岸の「ペンケピラウトゥル

ナイ」(上流の平取川)と、「パンケ

ピラウトゥルナイ」(下流の平取川)

からきています。ピラ(崖)・ウトゥル(~の間)という意

味で、崖に囲まれた地形だったのでしょう。昔は「ピラウ

トゥル」のコタンは、今の平取本町の対岸のペンケとパン

ケの「ピラウトゥルナイ」のところにあったそうです。

平取町の一番下流の沙流川右岸を「スムンコツ」といい

ます。「スムンコツ」というのは、「西にある窪み」という

説と、「時期になるとマスがたくさんとれるので、その油を

とったところ」などの説があり、解釈も人によって違って

います。ここの西側に「ユックチカウシ」という地名の崖

があります。「ユックチカウシ」というのは、「シカが断崖

をこぼれ落ちるところ」という意味です。この断崖は、山

の木の葉が落ちるころになると、遠くからでも簡単に見つ

けることができます。昔、シカをとるときに、みんなでこ

の崖の上にシカを追い詰めて、そこからシカを追い落とし

ました。いくらシカといえども、この断崖から落とされた

ら、足を折るか死ぬかしかなかったのでしょう、ここら辺

一帯が、当時は沙流川流域では、一番猟の豊かなイオルだ

ったそうです(図 5)。

その対岸の高台一帯を川向といいますが、今は知る人も

少ないのですが、そこに「スルクウンピピ」という地名が

残っています(図 6)。これは、矢毒のスルク…トリカブト

がある石原という意味で、ここにスルクのいいのがあって、

きっとみんな採りにきたのでしょう。毒性の強いスルクは、

よそのコタンからもとりにきたそうです。そのときはもち

ろん、そのイオルのコタンコロクルである村おさの許可が

必要でした。

図3

荷負地区

図4

明治時代に平地を中心に付けられた旧番地を現在の5000分の1の航空

地図に落とします。

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「イオルとアイヌ語地名」貝澤美和子

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沙流川を少しさかのぼると、「ニオイ」(荷負)という、

沙流川が支流の糠平川に分かれているところがあります。

「ニオイ」というのは、「薪がたくさんあるところ」という

意味ですが、両方の川の流木が集まったのでしょう。この

近くに「トゥレプンナイ」という沢があります。トゥレプ

は「オオウバユリ」、ウンは「~のある」、ナイは「沢」と

いう意味で、この沢づたいに、アイヌにとって重要な食べ

物であり、薬でもあったトゥレプがたくさんとれました。

昔は、家族中で二、三日かけてトゥレプを採り、その球根

からデンプンを取って乾燥させて保存しました。デンプン

を取ったかすは、その場で発酵させて再度デンプン質を取

り、ほとんど無駄なく利用しました。戦中戦後の食糧難の

ときは、アイヌだけでなく、アイヌに食べ方を教えてもら

った隣近所のシサム(和人)もみんなトウレプを採りに山

へ行ったそうです。

さらにさかのぼると、沙流川右岸に「ポロケシ」という

ところがありますが、昔、「ポロサラ」という大きなコタン

のケシ…末端のほうにあったという意味です。1859 年、幕

府の蝦夷山川地理取調御用を命じられ、「ポロサラコタン」

を訪れた松浦武四郎は、この付近では一番大きくて豊かな、

整然としたコタンだと、その日誌に記しています。

その左岸に、「ロクンテゥエトゥ」という一際目立つ崖が

あります。ロクンテゥは「帆船」、エトゥは「~の先」とい

う意味で、昔、大津波のときに帆船が寄り上がり、そのま

ま岩になったという伝説から、この地名がつけられたそう

です。そう思ってみると、そのことが現実となって迫って

くるような「ロクンテゥエトゥ」の言い伝えの場所です(図

7)。

その大昔の津波の言い伝えは、ほかの場所にも地名とし

て残っています。

平取より 2~3キロメートル下流に、「ニナ」(荷菜)とい

うところがあります。「ニナ」は魚の「ヒラメ」という意味

で、津波が来て水が引いた後、木の枝に大きなヒラメが引

っかかっていたそうです。この「ニナ」という地名にちな

んで、この地域のアイヌは、明治政府になったときに、平

目(ヒラメ)という姓をつけられました。冗談みたいな話

ですが、うちの親戚にも平目さんがいます。

さて、現代生活の中でイオルを再生するにはどうしたら

いいのでしょう。なかなか具体的なイオルのイメージがわ

いてきません。そこで、とりあえず、私たちのイオル候補

地に出かけてみることにしました。場所は、平取本町の川

向にある「ペンケピラウトゥルナイ」という沢から入り、

途中、山越えして「パンケピラウトゥルナイ」へ出るとい

うコースです(図 8)。ここは平取町有林で、国道 237 号線

の平取橋から入っていきますが、あまり通る人もいないら

しく、道路も整備されていません。沙流川を平取橋から 500

メートルくらい下り、「ペンケピラウトゥルナイ」の河口に

着くと、イオル構想の可能性を無限に秘めた「ペンケピラ

ウトゥルナイ」が私たちを待っていてくれました。

先人たちは何事であれ山に入るときも、必ず「エプンキ

ネ ワ エンコレ ヤン」(お守りください)と願って、カ

ムイノミ(神への祈り)をしました。朝、家を出るときに

スルクウンピピ

図6

図7

図5

ポロサラコタン跡(現幌毛志新興牧場)

ロクンテゥエトゥ

二風谷ダム

二風谷

小平

平取橋 平取本町

タイケシ(タイケシ川)森の終わりにある沢

ルオマナイ(ルオマナイ川)道入る沢

オクマウシ(オクマウシ川)乾し棹ある所

ピンニ(ピンニ川)ヤチダモ

ウェンナイ(ウエンナイ川)悪い沢

ピラチミナイ(カネハチ川)崖を分ける沢

ペンケオユウンペ(ペンケオユンベ川)

上の温泉ある所

パンケオユンウペ(パンケオユンベ川)下の〃

オパウシナイ(オバウシナイ川)ガス多き川

ヤメ(ヤミノ沢)栗を食う

パンケピラウトゥルナイ

(パンケ平取川)下の崖の間の川

ペンケピラウトゥルナイ

(ペンケ平取川)上の〃

ユーランペッ(ユウラップ川)

源に温泉ある川

アッペッ(アベツ川)

オヒョウニレの多い川

ニプタイ(二風谷川)森林

シケレペ(シケレベ川)キハダの木の多い沢

オサツ(オサツ川)川尻の乾いた沢

マカウシ(マカウシの沢)開いた所

カンカン(看看川)腸のように曲がった沢

図8

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「イオルとアイヌ語地名」貝澤美和子

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はイレスカムイ(火の神)に祈り、山ではナイコロカムイ

(沢の神)に祈ります。たとえ言葉は足りなくても、心か

ら祈ることが大切だと、エカシ(おじいさん)は教えてく

れました。

ピラウトゥルコタンのイオルだったこの沢に、よそのコ

タンから来た私たちは、昔だと簡単には入れなかったのだ

ろうなぁなどと考えながら、沢づたいに登っていくと、突

然、だれかが走り出したので、行く先を見ると、一匹のカ

ムイチェプ(サケ)が上っていました。腹を川底の砂利で

こすりながら、こんなに浅い川を必至に上っている様子に、

心がわくわくして、昔の人はこういうところにラウォマプ

(梁、うけ)をかけたのかなと想像しながら、しばらくの

間、カムイチェプの歓迎を受けました。

100 メートルも上ると、いきなり沢の間に 3 ヘクタール

ぐらいの平原が広がりました。この平原は外からは全く見

えないので、とても意外でした。樹木は伐採されていまし

たが、昔からこの地形は変わっていないように思います。

後ろを振り返ると、こんもりとした出っ張りが目隠しにな

っていました。それはまさにチャシ(砦)ではありません

か。昔、ここら辺にコタンがあったといわれていますが、

きっと本当のことでしょう。

沢づたいに上っていくと、次第に森は深くなります。こ

れはユクル(鹿道)です(図 9)。あちこちにあります。お

そらく昔もこのように、ここにユクルがたくさんあったの

でしょう。そういえば、ここは門別への近道のアイヌル(人

道、人の道)もあったと、近所のエカシから聞いたことが

あります。また、ここには、樹齢 200年になるでしょうか、

直径 1メートルぐらいあるチキサニ(ハルニレ)や、トペ

ニ(イタヤカエデ)がありました。トペニはチキサニに負

けない太さです。このトペニは、甘い樹液がいっぱい取れ

るので、甘いものが少なかった昔は、毎年春になると、こ

の樹液を飲むのが子供たちの何よりもの楽しみでした。さ

らに、平取町の町木のランコ(カツラ)もありました。ラ

ンコは女の神様で、山の安全はランコの神様が見守ってく

れるそうです。

途中から沢を離れて山越えをしてペンケに向かいます。

少し登ると、足元にニセウ(ドングリ)が落ちていて、沢

の中を歩いていてもニセウはなかったので、ペロ(ナラの

木)は山の中腹より上にあることを学習しました。ミズナ

ラよりもコナラのほうが多いのが、この山の特徴です。

やがて下りになると、足元を深い笹が覆います。さらに

下ると、ヤムニ(栗の木)が目立つようになりました。あ

たりを見回すと、直径 1メートルくらいの大木や若木もあ

り、栗だらけです。ここは昔からヤムニタイ(栗林)で、4

キロメートルくらい離れた平取本町の子供たちも、ここま

で栗を取りに来たそうです(図 10)。ここの下流の一本隣

に、ヤメという沢がありますが、もともとは、ヤム「栗」・

エ「食べる」で、ヤメとなります。コタンの人たちにとっ

て、栗は大変大切な食料だったのでしょう。野生の栗は二

風谷あたりが北限だと聞いたことがありますが、上流の貫

気別のフチ(おばあさん)は、貫気別付近には昔はこんな

に栗はなかったといっていました。こんな近くに、こんな

にたくさんあるのにと不思議な気持ちがしました。その後、

一気に沢までおりてきます。パンケの沢はペンケより水量

が多くて、たまりには雑魚が泳いでおり、川岸のブドウや

コクワは実りを迎えています。

パンケから沙流川本流へ出ました。ここからペンケまで

は川岸を上ります。ここら辺の川の右岸は崩れやすい砂岩

でできており、とても歩きづらいので、仲間の一人が、「こ

れはチプ(舟)で上った方が楽だなぁ」といい出して、チ

プを組み込んだイオル構想に話が広がっていきました。

このように、現場に立って考えると、次々とアイデアが

浮かんできます。ちょっと外に出て、近くの山や川に行っ図9

ユク

ル(シカ道)があります。かつて門別への

近道アイヌル(人の道)もありました。

図 10

ヤムニタイ(栗林)

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「イオルとアイヌ語地名」貝澤美和子

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てみませんか。なるべく今あるものを変えないで、足りな

いものを補うというふうにイオルを考えてみたら、イオル

構想がより現実味を帯びてくると思います。

沙流川沿いの国有林と町有林を全部イオルというのも悪

くないと思いませんか。その気で歩いてみると、そのまま

でイオルというところが平取町にはたくさんあると思いま

す。そして、そのイオルを再生することで、私たちは長い

間、この大地に刻まれたアイヌ文化の歴史を学ぶことがで

きるでしょう。アイヌ文化伝承を含めたイオル再生構想は、

私たちみずから計画を立て実践することが必要です。過去

においては、イオルを含めたアイヌの生活文化の変化は、

必ずしも望んだものではなかったように思います。その急

激な変化とともに失われていくものに、先人たちは幾たび

か涙したことでしょう。ここに住んでいる私たちは、沙流

川流域の豊かな恵みを生かし、先人から伝わるアイヌ文化

を後世に伝えていくことが求められています。今、まさに

そのときです。

これで終わります。イヤイライケレ。

〔質問〕 今のツアーにはどのくらいの時間がかかりまし

たか。

〔貝澤〕 休みながら、ゆっくり歩いて 4~5時間です。本

当に平取本町からすぐのところにあるのです。平

取にいらした方なら分かると思いますが、平取本

町対岸のちょっと目立たないところです。

それでは、また私のほうから一方的にしゃべらせていた

だきたいと思います。

まず最初から、濁りやすい沙流川…「シシリムカ」とい

う名のとおり、濁りやすい川だということを聞いておりま

す。実際、雨が降るとすぐ濁るし、また、その濁りがなか

なかさめない。さめないのは川のせいだけでなくて、最近、

ダムができたせいもあると思うのですが、両岸の土質が砂

岩なので、とても崩れやすいそうです。そして、上流に貫

気別というところがあります。ちょうど荷負のところから

二股に分かれて、沙流川本流に糠平川が合流しており、そ

の糠平川をずっと上っていくと、今度は貫気別川が合流し

ているのですけれども、その貫気別というのは、「ヌプキペ

ッ」という地名から来ています。これは「濁る川」という

意味です(図 2)。

そこのアイヌたちは、開拓使によって姓名をつけられる

ときに、「濁り川」なので、「黒川」とつけられており、黒

川さんがいっぱいいらっしゃいます。そこで、私も、濁る

川なのかなと単純に思ったのですけれども、他に、なぜ濁

るのだろう、どうしてほかのところには「ヌプキペッ」と

ついていないのに、この川だけ「濁る川」なのだろうかと

疑問を持った方がいらっしゃいます。その方のお話をちょ

っと聞いたことがあるのですけれども、ずっと調べていく

と、本当に濁る川の土質というところまでいきついのだそ

うです。それはそういう時代のところの地層が出ていて、

雨が降ると、どうしてもそこの地層が崩れて、土が川に流

れ込んでいつも濁るので貫気別という地名になったと聞い

ております。やはり、そういうところに疑問を持つという

ことが大事だなということをそのときに痛感しました。

それから、北海道の地名ですが、これは萱野茂さんから

聞いた話ですけれども、4万個ぐらいアイヌ語地名がある

そうです。そして、200 メートル置きに地名がつけられて

いると聞きました。そのことは本当だと思います。私が住

んでいるところは「シケレペ」といいます。これはシコロ

(キハダ)の実のことをシケレペといいます。このシケレ

ペはアイヌにとってはとても大事な実で、香辛料に使った

り、薬に使ったりしました。このシケレペが大事で、その

木が群生していたので、地名をつけたのだと思います。

その、「シケレベツ」の 200 メートル隣にちょっと高くな

っている崖がありますが、「土の崖」という意味で「トイピ

ラ」といいます。それでその反対側、上流に 200メートル

ぐらい行くと、今度は「ヌペサンケ」という地名があるの

です。この「ヌペサンケ」というのは、野原の先といいま

すか、何か土砂崩れとかで野原がせり出すことらしいので

すね。そこもやはり出っ張りになっています。地形上では

そうですが、この「ヌペ」を涙と解釈する人もいます。

実は、そこに住んだらいいことがないという伝説がある

のです。そして、実際、そこはなかなか人が長く住まない

のですね。住んでいる人もいつの間にかいなくなったり、

子孫が絶えたりとかで、あまり住むのにはいい場所ではな

いそうです。やはり昔の人がいうのは本当のことだなと思

います。結構何か、最近では交通事故とかも多いところで

す。そういうこともあるのかなという気がします。

それで、「ユックチカウシ」という地名がこの中に出てき

ましたが(図 5)、これは「スムンコッ」ということで、多

分この中には御存じの方やご覧になった方もいらっしゃる

と思います。ここの近くに住んでいた、今は御老人ですけ

れども、その方が 60年ぐらい前の話ですが、「ユックチカ

ウシ」のすぐ近くの畑で仕事をしていたときに、もの凄い

大爆音とともに「ユックチカウシ」が崩れたそうです。実

際、その目でご覧になったという話を聞きました。そうい

ういわれのあるところで、その近くの森の一帯をサントと

いいますが、そこがとてもいいイオルだったと聞いており

ます。

それで、「スルクウンピピ」という地名が出てきましたが、

スルクは、場所によってその質がかなり違うと聞きました。

すごく毒性の強いスルクがあると、やはり効き目がいいの

で、よその土地の人がそのスルクを欲しがるそうです。そ

れで、やはり採りに来るのですが、もちろんこれはイオル

の掟でとても厳しく戒められているので、そこのコタンコ

ロクルに許可を得なければいけないし、もし獲物をとった

ら、何パーセントか置いていかねばならないということも

あったそうです。でも、そのかわりに、そのスルクで人身

事故―たとえば、お父さんが死んだとしますと、そのスル

クの生えているところのコタンコロクルは、その家族にまで

責任を持たなければいけないというほど、イオルの掟は厳

しかったそうです。実際、そういうこともあったと聞いて

おります。

それから、「トゥレプンナイ」のことが出てきましたが、

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「イオルとアイヌ語地名」貝澤美和子

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実は、私は「トゥレプンナイ」は地図上では分かっていた

ので、この間、実際に行ってみたのですが、現場が分から

ないのですね。それで、それを知っている人に聞いて連れ

ていってもらいましたが、実際は、それほどトゥレプはあ

りませんでした。ちょっと古い人にお聞きしましたら、昔、

上流のほうにトゥレプがたくさんあって、おばあさんたち

に連れられて、そのトゥレプを採りに行ったそうです。ト

ゥレプ採りというのは、それほど家族にとっては大事な仕

事で、家族総出で時間をかけて行ったそうです。そういう

経験を持つ年配の方が今もまだいます。

そしてトゥレプは、最近伺った話では、戦中戦後に配給

されたのがトウモロコシの粉と米の糠だけで、米ではなく

て糠が配給されたそうです。それで、そのトウモロコシの

粉と米の糠は、そのまま食べてもちっともおいしくないの

で、トゥレプからとったデンプンをまぜるとおいしく食べ

れたそうです。アイヌの人たちがやっていると、その隣に

住んでいるシサムの人たちもやはり習って、一緒にトゥレ

プ採りに、本当にみんな行ったそうです。それで、近所の

山のトゥレプが、一時、なくなったそうです。

古くから伝わるアイヌのトゥレプのデンプンのとり方は、

生のトゥレプを突いて、それからデンプンを沈殿させると

いう方法なのですが、この方法ですと、手間暇がかかるの

と、効率的にロスがあるのですね。それで、あるとき、私

の主人の叔母が…ひょっとしたら彼女がやり始めたことで

はないかなと思うのですけれども…トゥレプの根を蒸して、

それをざるで漉したところ、残るのは繊維だけでかなり効

率がよく、すぐできてしまったのですね。さらに、それを

団子にしたりするということを考え出して、またそれが大

流行して部落の人たちがみんなそれをやったという話しを

聞いたことがあります。戦後の食糧難のときに、そういう

食べ方をしたということですが、本当にトゥレプ、トゥレ

プと聞くのは最近のことで、30年前、私がお嫁に来たころ

は、トゥレプなんてだれも採っていませんでした。本当に

聞いたこともなかったぐらいで、アイヌの中でも採る人は

少なかったですね。一時、本当に必要なときに採った結果、

山からトゥレプの姿が消えてしまったので、採れなかった

のかも知れません。

最近、見直されてきたけれど、ただ残念なことに、最近

は人ではなくてシカがすごいのですね。シカがトゥレプの

根ではなくて、雄株の花と下のところの中間を食べるので

す。クマも食べるらしいので、最初はクマかなと思われま

したが、ことごとく花が食いちぎられているのですね。こ

とごとく中間がないのです。そんなにクマが近くにいるわ

けないのにおかしいなと思ったら、シカが食べていました。

雌株のほうは食べずに、雄株の花の中間だけを食べるので、

ひょっとしたら何年か後にはトゥレプはなくなるのではな

いかと心配しています。

次に、大津波が来たという伝説から、ロクンテゥエトゥ

やニナ(荷菜)という地名が残っているとお話ししました

が、平取から車でだいたい 20分ぐらい上流―河口からは、

40 キロか 50 キロメートルぐらいは上流に上ると思います

が、そこにフレナイ(振内)という場所があります。赤い

川という意味で、鉄分質を含んだ赤い水が流れているので

この名前がついているのですが、そこに二つの小さい三角

の山があり、それぞれポロモウタプ、ポンモウタプといい

ます。それは、大きいエイ、小さいエイのことですね。ウ

ッタプというのは、カスベといったほうが分かるかもしれ

ませんが、海にいる魚のエイのことです。どうしてそんな

ところにカスベがあるのかといいますと、大津波のときに、

ウッタプが残ったということで、それでエイという名前が

ついたそうです。

これはまたちょっと下って、先ほどの荷負から糠平川を

遡上して、貫気別のほうをずっと行くと、旭地区を通って

静内町に抜ける山道があるのです。河口から 60 キロも 70

キロメートルも行くと思いますが、そんな奥に、やはりそ

の津波のときに残ったという帆船が岩となって残ったとい

う場所があるそうです。地名は分かりません。最近聞いた

話なので、まだ現場には行っておりませんので、今度、ぜ

ひ写真を撮ってきたいと思っています。

このように、沙流川流域はあちこちに津波に関係する場

所があって、本当に津波が来たのかなと、私はすごく不思

議になったのですね。でも、もし来ているものであったら、

何か地質学的、あるいは考古学的に証拠がないものかなと

思って、考古学を研究されている方とかにお聞きしたので

すけれども、ないそうです。ただ、その津波のときの水が

川をさかのぼる様子が、伝説として伝えられているだけで

す。

それで、びっくりしたことには、私の主人のおじいちゃ

んが、主人の姉にその話をして聞かせたそうです。おじい

ちゃんは字が読めないので、昔からの語り伝えを口頭で自

分の孫に伝えたと思うのですが、沙流川に海水が上ってい

くときのすさまじかった様子を主人の姉に語って聞かせて

いるそうで、「あぁ、これが伝承か」と思いました。現在、

こうした物語の伝承が途絶えてしまっており、とても悲し

いことですが、一つでもこうして残っていたというのはと

ても嬉しいことだと思っています。

このイオルということに関して身近に考え、私がいいた

かったのは、こういうことを考えることによって、もうそ

こで学習ができる、経験ができる。今、もしイオルを再生

するという考えであるならば、やはり学習のできる場、体

験のできる場という発想になると思うのですね。維持して

いくためにはそういうことが必要だと思います。ただ自然

にほったらかすというふうにしても、なかなかそれは維持

できないで、いつ侵害されるか分からないので、やはり守

っていくためには、そこで何か私たちが得るものがある必

要があるのではないかなと思います。それで、いかに壊さ

ないで、それを私たちの学びの場に変えていくことができ

るかということがテーマになると思います。その身近な例

として一つ考えてみたわけです。