栃木県 宇都宮市tochigikanko.web.fc2.com/niko-dochu/chizu-pdf/k-66.pdf原坪自治会原屋台...

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原坪自治会原屋台 うらない地蔵 松本バス停の信号 上小池の一里塚 新渡神社 馬力神 杉並木の店 松本 上小池 山口 山口 水田 雑木林 日光市に入る 栃木県 日光市 栃木県 宇都宮市 上小池 桜中心の並木 だが、江戸時 代は松並木で あった。 ゲートボール場 うらない地蔵 大谷石でできた石仏のため風化が激 しい、享保15年(173 0)の銘がある阿 弥陀像。この石仏に願をかけ3個のま んじゅう型の石のいずれかを持ち上げ て、軽く感じれば願いが叶うといわれ ている。 接号井 宇都宮市の水道は、大正5年にはじまり ました。その時は、水を今市市から引い てきたので、途中に水の力を調整する場 所が必要になったのです。それが、接合 井です。今では使われていませんが、大 変貴重な建物です。他にも3ヶ所あり、 一部現在も利用されています。 第四接合井 新渡神社(にわたりじんじゃ) この神社の御神体は石の不動尊で、 境内には、大杉・稲荷の2社がある。 近くに一里塚があることから、江戸時 代の旅人はこの境内でも疲れをいやし た。 66 栃木県宇都宮市 栃木県日光市 徳次郎宿~大沢宿 歩行距離3149m4 0分 ) http://nikko-kaido.jp/ [email protected] 歩く地図でたどる日光街道 上徳次郎 ~ 大沢宿 杉林 ERTRGEN ここから男体山 がよく見える 日光東照宮の誕生 元和2年(1616)4月17日、徳川家康は駿 府城で75歳の生涯を終え、遺骸はその日の 夜久能山へ移された。家康の葬送は、小雨 の降る中粛然と執り行われた。 天海僧正主導により山王一実神道に則っ て神(東照大権現)として祀られることに なった家康は、なぜ一周忌に日光山へ遷座 されたのか。東照社勧請の直接の契機は、 死の直前に家康が自ら述べた遺言によるも のであるが、日光が選ばれた理由として、 従来からいくつかの説があげられている。 1.日光山は関東において古くから開かれ た山岳信仰の霊場であった。 2.徳川家康が崇拝し、また徳川家の祖先 でもある源頼朝が日光山を篤く信仰してい た。 3.家康が信任する天海が日光山の貫主で あった。 4.日光山は関東と東北の境である下野に 位置し、東北の押さえとしても意義をもっ ていた。 5.戦略的には日光山は西国から遠く、戦 術的にも要塞の地である。 6.日光山は江戸のほぼ真北に位置し、宇 宙を主宰する神の宮殿としてふさわしい最 良の地である。 ことを示し、この他にも日光がふさわしい 地であったことを類推する条件は多いとす る。家康の日光山への改葬は、藤原氏の始 祖である大織冠藤原鎌足の先例を踏襲した ものとする記述が見える。 慶長18年(1613)、家康は天海を日光山 の貫主に任じた。おそらくこの時点で家康 は聖地日光山を江戸幕府にとって重要な宗 教上の地にしようと決意したのではないか と思われる。 coffee time 寛永大造替 寛永11年(1634)7月、3代将軍家光は36万7 千人余の軍勢を従えて、御代替(みよがわり) の上洛を行った。それは父秀忠に代わって名実 ともに天下を掌握するのは自分であることを朝 廷や西国の人々に広く示すことが目的であっ た。 家光は京の全戸に総額銀5千貫を下賜し、院 御料(いんのごりょう)7千石を新たに献じ た。また、大阪・堺・奈良の地子銭(じしせん 都市域において屋敷地に賦課される地代)を 免除してその威光を示した。さらにこれまで制 限を加えていた後水尾院の院政を承認すること で、自らの朝廷政策が先代とは異なることを明 示し、幕府と朝廷の融和をはかった。 上洛を終えて同8月20日に江戸に還った家光 は 、同 9月日 光 東照 宮に 参 拝し 、寛 永 13年 (1636)に迎える家康の第21回御神忌にむけ て、大規模な造替(ぞうたい つくり直し)を 開始した。偉大なる祖父を東照大権現として深 く尊崇する家光にとって、この大造替はかねて の念願であった。造替の工事は、総奉行秋元泰 朝(あきもとやすとも)、奉行庄田安照(しょ うだやすてる)嶋三安(しまみつやす)、津田 正重(つだまさしげ)、下曽根信由(しもそね のぶよし)のもとで、総設計と施工を寛永9年 (163 2)に成立した幕府作事方の大棟梁甲良宗 廣(こうらむねひろ)が請け負った。 この普請には江戸城大修築のように全国の大 名が多数動員されることはなく、宇都宮城主奥 平忠昌と那須衆・岩城衆に人足が課せられた (全体で1 036人、延べ日数3 249日)。造替に直 接かかわった大工・手伝いの人夫の数は延べ 168万5千3 23人、箔押しの手間の数は2万3 007 人、日用(運搬その他の人夫)の数は2百83万 365人、合計4千5百3万8千695人にのぼった。 この造替にかかった費用は莫大な額で、決算 書として作成された「日光東照宮造営帳」によ れば、金56万8千両、銀百貫目、米千石であ る。これらはすべて幕府財政から総奉行秋元泰 朝を通じて支払われた。 ここに家光の祖父家康に対する篤い思い崇敬 心と、泰平の世に生まれた将軍として大造替に かける強い意志が感じられる。 coffee time 第21回御神忌法会(ごしんきほうえ) 祖父家康の第21回御神忌の祭祀を執行す るため、家光は寛永13年(1636)4月13日 に江戸城を出発し、日光へ向かった。初日 は岩槻に、翌14日は古河に、15日は宇都宮 に、16日は今市に宿泊した。 17日の早朝、今市を出発して日光に到着 し、辰刻(午前8時)より桟敷で東照社祭 礼(延年舞えんねんのまい・神輿みこし渡 御・獅子田楽など)を見学したあと、本坊 御殿に還り束帯に改めて、豪華壮麗に建て 替えられた日光東照社に参詣し、神前に太 刀・馬・幣帛(へいはく 神前に供えるも ののうち、神饌しんせん以外の総称)を献 じた。寛永大造替で将軍が着座する空間を 創出した家光は、新造の拝殿に着座した。 翌18日は勅会(ちょくえ 天皇の御願に より、その発する勅を法源とし、勅使が参 向して執行される祭礼)として御経供養 (東照大権現に奉納された明正天皇宸筆に よる禁裏御贈経、および仙洞=後水尾上皇 ・国母=東福門院の贈経を真読し、供養す る法会)、法華曼荼羅供(ほっけまんだら く)が行われ、家光は内陣に参り太刀を献 じて奉幣し、神酒を頂戴して一度退いた。 その後天海大僧正の先導により家光は再び 内陣に入り、自ら「東照社縁起」上巻を奉 納した。 coffee time 大沢地区の地名 日光連山から流れ出る大谷川・ 田川・赤堀川によって今市扇状地 が形成された。 水の流れのいくつかは伏流水とな り、いくつかは台地を浸食し凸凹 を形成した。 大沢は今市扇状地の扇端部に位置 する。 日光の山々に降った雨水はこの地 のいたるところで豊富な湧水とな って湧き出し、沢をつくり細い小 川をつくった。 その成り立ちによって地名が付け られた。 谷地は「沢」や「瀬」 は、大沢、薄井沢、荊沢、土沢が ある。 山林にかこまれたような大地は 「室」で、大室、根室(古くは根 本)。 山地への入口は「口」で山口 (日光山への入口という特別なも の)。 浸食地には「刳(く)る」・ 「崩ゆ」から「倉」へと変化し て、猪倉(猪は「井」であり川を さす)。 川の挟まれたところを「島」で 木和田島(檗きはだ樹が多く残っ ていたとも) coffee time 社参における行列と警護 行列の目的自体は武威を示すと同時に、 将軍を守護する警備体制にあるといってよ い。社参の行列とは別に、各所にも警備体 制が敷かれている。日光山や道中の宿場を 警護する場合、社参より数日前に江戸を立 ち、先着して現地に入り体制を整える必要 がある。このように社参の背景にはさまざ まな警護の体制があるが、ここでは一例と して、天保の社参において家慶の警護を行 う百人組(鉄砲百人組)の配置・進行の計 画を描いた一連の絵図が筑波大学付属図書 館に残されているので、そのこら警護の様 子を概観してみたい。 百人組とは平時には江戸城の大手三門の 警護を主業務とした組織である。構成は甲 賀・根来・大久保・青山の四組から成り、 各組に一名ずつの組頭と20~25名の与力、 百名の同心が付属していた。百人組は日光 社参においても警護役を勤めており、この ときの組頭はいずれも知行高五千石から七 千石の旗本である諏訪頼保(すわよりや す)・斎藤利伊(さいとうとしこれ)・土 岐朝昌(ときともまさ)・花房正理(はな ぶさまさはる)の四名である。この四組が 交代で道中の警護にあたっている。日光御 参詣行列書によれば、社参が実施される前 月の3月2日には江戸城内で百人組を含む警 護の者が行進の予行演習である足並み稽古 を行っている。この稽古は竹橋門内で行わ れ、将軍家慶も上覧している。さらに同月 十八日にも規模を拡大して行われている。 この稽古がどの程度前から開始されるのか は不明だが、二月四日時点で目付松前広隆 ら三名に日光参詣の足並み行列を指揮すべ き旨が命じられていることから、二ヶ月前 には準備が進められていると考えられる。 社参が始まると百人組のうち二組は社参 の行列に加わり、他の二組が道中の警護に あたっている。道中の待機場所、通行する 導線などが書き込まれており、人員の配置 については記号で示してある。社参が無事 終了すると、警護の者たちはそれぞれに解 散場所が決められていた。 このように日光社参は単に行列のみの通 行ではなく厳重な警備体制の下で行われて いたのである。 coffee time 水洋かん 湯波と並んで水羊羹は日光の特産品 の一つとなっている。歴史はいがいと 古く、昔は日光の各店舗も冬しか製造 していなかった。近年になって冷蔵技 術の発達で、よりみずみずしい美味し さを通年味わえるようになった。日光 水羊羹の決め手は水にある。日光連山 の清らかな水をたっぷり使って造られ た水羊羹はそのさっぱりとした美味し さを楽しめる。 ヒメマス ヒメマスはサケ科の淡水魚で、中禅 寺湖では全国1の出荷を誇ります。赤 身で口の中でとろける食感が人気で 「バター焼き」、「刺身」などの料理 が特に人気です。そもそも奥日光とい えば釣り(フライ/ルアーフィッシン グ)の発祥といわれています。日光は 日本における釣りの聖地で、ヒメマ ス、ホンマス、ブラウンマス、ニジマ ス、レイクトラウト、カワマス、ワカ サギなどの釣りを楽しめ、多くの魚が 生息しています。 coffee time 杉並木のことを知りたいときは 歴史民俗資料館へ 日光杉並木に関する資料の展 示を中心にしているので、別名 「杉並木資料館」と呼ばれてい る。館内では杉並木の研究に一 生涯を捧げた、故鈴木丙馬博士 の研究資料や、郷土の生んだ交 通史研究の第一人者として知ら れた故大島延次郎博士収集によ る交通史資料や著作などが展示 され、とくに「日光道中図絵」 を見ながら、昔の今市宿と現在 の町の姿をみくらべてみるのも 興味がありる。 今市民俗歴史資料館 日光市中央町29番地1 (JR今市駅から徒歩5分、今市 図書館横) 休館は月曜日・祝日・年末年 入場無料。開館時間:9: 00~ 18: 00 TEL0288- 22-6 217 coffee time 今市線香の歴史 今市の線香業は、越後国(新潟県)三島 郡片貝村出身の安達七(天保1 2年~明治 33年)によって開始された。その創業は文 久元年(1861)年と伝えられている。安達 工場は明治3 0年頃が最盛期で、建物1 2棟、 職人5 0名に達したという。明治33年に工場 を閉鎖するが、長年にわたり養成されたこ れら熟練の職人達が随所に就業するに及ん で、今市の線香業は新たな発展を迎える。 今市で生産される線香には、杉線香と匂 線香がある。杉線香と匂線香のあいだに は、生産量の面での大差はないが、出荷額 に占める杉線香の割合は、全体の20%弱に すぎない。これら今市産の線香は、東京を 中心に出荷されるが、関東・東北地方が主 要な流通区域である。 coffee time 日本橋から31里の一里塚。西の塚は直 径約3m、高さ約1.8m。東の塚は開田の ため破壊され痕跡がない。江戸時代には 松が植えられていた。民家の前のこんも りとした所で案内板もない。 31 上小池一里塚 295 山口 日光名物湯波 日光のゆばの歴史は勝道上人が日光山を開いたと きにさかのぼるという。当時の日光山には数百の坊 が建ち並び、一万余人の僧や修験者たちがあつまっ ていた。修験者たちの食事は精進が要求されてお り、寒冷な日光では冬の間、魚介類は手に入らず淡 泊源は大豆に頼るほかはなかった。修験者たちは山 岳原野を旅するにあたり軽量で保存がきき、栄養に すぐれた食品として黄粉、ゆばを利用したという。 その後、鎌倉時代に精進料理が流行しはじめ、公 家や武士、町人にも徐々に広がっていった。 日光では社寺の保護を受け、御用湯波所としてつ くられていた。一般の人が食べられるようになった のは、德川家康が日光に祀られてからで、東照宮へ の参詣をきっかけに食事にゆばがだされるようにな ったようである。 一般の人に販売が許可されたの は、明示になってからだといわれている。 日光ではお正月のおせち料理の一品としてなくて はならないものである。 ゆばは豆乳を煮たとき表 面にできる薄い膜を引き上げたもので、乾燥する前 のものが生ゆばで乾燥させたものを干しゆばとい う。ゆばを漢字で書くと、京ゆばは「湯葉」、日光 ゆばは「湯波」と書く。京ゆばは一枚仕上げ、日光 ゆばは二枚仕上げである。 ゆばは大豆の良質のタ ンパク質と脂肪を多く含みカルシウム、鉄分も含ま れている。また、レシチンも含まれ、動脈硬化症な ど成人病予防にも効果があるといわれている。十数 軒あつた日光のゆば屋も現在では下鉢石町にある 「ふじや」「海老屋」の二軒だけとなっている。 coffee time エドヒガン 原坪の屋台蔵のあ る自治会館を西へ 3 00m入った共同墓 地の中に樹齢55 0年 の石那田のエドヒガ ンがある。市指定の 天然記念物。 上小池町 石那田町 19大沢宿 「往古は板橋将監が領地なり」「むかしは大沢村と唱へ しを、元和3年(1617)日光御鎮座の後、街道ひらけしに より宿駅の数にいりて大沢宿とあらため唱ふ」(日光道中 略記) 大沢宿は、江戸から19番目の宿場。建久年間 (119 0~98)、源頼朝が狩りに訪れ、広大な荒れ地だった のを見て4人の従者に開拓移住させたのが始まりで、頼朝 のご恩にちなみ恩沢と称され後に大沢(おおたく)とな り、大沢になったという。 幕末期の日光・奥州・甲州道中宿村大概帳では、町並み の長さが4町4間(約44 0m)、宿内惣家数43軒(旅籠41軒、 本陣・脇本陣・問屋場各1軒)宿内人別278人(男125人、 女153人)、駄賃・賃銭 荷物一駄・乗掛荷人共117文、軽 尻馬1疋75文、人足1人58文でした。度重なる大火のため、 昔の宿場の面影はないが、付近には日光杉並木街道や将軍 日光社参の際に使われた大沢御殿跡、江戸の姿をとどめる 一里塚などが残っている。 1 2 3 4

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  • 原坪自治会原屋台

    うらない地蔵

    松本バス停の信号

    上小池の一里塚

    新渡神社

    馬力神杉並木の店

    松本

    阿部農園

    二本柿総合建築社

    上小池町公民館

    上小池

    山口

    ニッコー

    シーダー

    杉並木の店

    上吉原建具

    小堀硝子

    カナメ産業

    山口

    そば処栗山

    つぶれた

    ビーナス

    つぶれた

    テントの

    丸脇産業

    松本

    青少年スポーツ

    センター入口

    山口

    宇都宮市

    日光市

    宇都宮市

    日光市

    歓迎ようこそ

    杉並木の街今市市へ

    看板

    斉藤建築

    古民芸よろずや

    トリコロール

    エドヒガン

    杉桜

    原坪自治会

    原屋台倉庫

    原石那田

    水田

    つぶれた

    オリンピア

    テニス倶楽部

    雑木林

    上小池の一里塚

    新渡神社

    うらない地蔵

    日光市に入る

    栃木県

    日光市

    栃木県

    宇都宮市

    こだわりそば

    上小池

    小さな祠

    馬力神

    第四接号井

    桜中心の並木だが、江戸時代は松並木であった。

    ゲートボール場

    ②うらない地蔵大谷石でできた石仏のため風化が激しい、享保15年(1730)の銘がある阿弥陀像。この石仏に願をかけ3個のまんじゅう型の石のいずれかを持ち上げて、軽く感じれば願いが叶うといわれている。

    ④接号井宇都宮市の水道は、大正5年にはじまりました。その時は、水を今市市から引いてきたので、途中に水の力を調整する場所が必要になったのです。それが、接合井です。今では使われていませんが、大変貴重な建物です。他にも3ヶ所あり、一部現在も利用されています。

    第四接合井

    ③新渡神社(にわたりじんじゃ)この神社の御神体は石の不動尊で、境内には、大杉・稲荷の2社がある。近くに一里塚があることから、江戸時代の旅人はこの境内でも疲れをいやした。

    66栃木県宇都宮市 栃木県日光市

    徳次郎宿~大沢宿

    ( 歩行距離 3149m 40分 )

    http://nikko-kaido.jp/[email protected]

    歩く地図でたどる日光街道

    上徳次郎 ~ 大沢宿

    美容室たかはし

    クリーン工業

    上小池

    薗田モータース

    ナーラック

    赤羽建築

    ホームガイア

    石下商店

    高木物産

    阿久津工業

    杉林

    ERTRG

    EN

    ここから男体山がよく見える

    日光東照宮の誕生元和2年(1616)4月17日、徳川家康は駿府城で75歳の生涯を終え、遺骸はその日の夜久能山へ移された。家康の葬送は、小雨の降る中粛然と執り行われた。天海僧正主導により山王一実神道に則って神(東照大権現)として祀られることになった家康は、なぜ一周忌に日光山へ遷座されたのか。東照社勧請の直接の契機は、死の直前に家康が自ら述べた遺言によるものであるが、日光が選ばれた理由として、従来からいくつかの説があげられている。1.日光山は関東において古くから開かれた山岳信仰の霊場であった。2.徳川家康が崇拝し、また徳川家の祖先でもある源頼朝が日光山を篤く信仰していた。3.家康が信任する天海が日光山の貫主であった。4.日光山は関東と東北の境である下野に位置し、東北の押さえとしても意義をもっていた。5.戦略的には日光山は西国から遠く、戦術的にも要塞の地である。6.日光山は江戸のほぼ真北に位置し、宇宙を主宰する神の宮殿としてふさわしい最良の地である。ことを示し、この他にも日光がふさわしい地であったことを類推する条件は多いとする。家康の日光山への改葬は、藤原氏の始祖である大織冠藤原鎌足の先例を踏襲したものとする記述が見える。慶長18年(1613)、家康は天海を日光山の貫主に任じた。おそらくこの時点で家康は聖地日光山を江戸幕府にとって重要な宗教上の地にしようと決意したのではないかと思われる。

    coffeetime

    寛永大造替寛永11年(1634)7月、3代将軍家光は36万7千人余の軍勢を従えて、御代替(みよがわり)の上洛を行った。それは父秀忠に代わって名実ともに天下を掌握するのは自分であることを朝廷や西国の人々に広く示すことが目的であった。家光は京の全戸に総額銀5千貫を下賜し、院御料(いんのごりょう)7千石を新たに献じた。また、大阪・堺・奈良の地子銭(じしせん都市域において屋敷地に賦課される地代)を免除してその威光を示した。さらにこれまで制限を加えていた後水尾院の院政を承認することで、自らの朝廷政策が先代とは異なることを明示し、幕府と朝廷の融和をはかった。上洛を終えて同8月20日に江戸に還った家光は、同9月日光東照宮に参拝し、寛永13年(1636)に迎える家康の第21回御神忌にむけて、大規模な造替(ぞうたい つくり直し)を開始した。偉大なる祖父を東照大権現として深く尊崇する家光にとって、この大造替はかねての念願であった。造替の工事は、総奉行秋元泰朝(あきもとやすとも)、奉行庄田安照(しょうだやすてる)嶋三安(しまみつやす)、津田正重(つだまさしげ)、下曽根信由(しもそねのぶよし)のもとで、総設計と施工を寛永9年(1632)に成立した幕府作事方の大棟梁甲良宗廣(こうらむねひろ)が請け負った。この普請には江戸城大修築のように全国の大名が多数動員されることはなく、宇都宮城主奥平忠昌と那須衆・岩城衆に人足が課せられた(全体で1036人、延べ日数3249日)。造替に直接かかわった大工・手伝いの人夫の数は延べ168万5千323人、箔押しの手間の数は2万3007人、日用(運搬その他の人夫)の数は2百83万365人、合計4千5百3万8千695人にのぼった。この造替にかかった費用は莫大な額で、決算書として作成された「日光東照宮造営帳」によれば、金56万8千両、銀百貫目、米千石である。これらはすべて幕府財政から総奉行秋元泰朝を通じて支払われた。ここに家光の祖父家康に対する篤い思い崇敬心と、泰平の世に生まれた将軍として大造替にかける強い意志が感じられる。

    coffeetime

    第21回御神忌法会(ごしんきほうえ)祖父家康の第21回御神忌の祭祀を執行するため、家光は寛永13年(1636)4月13日に江戸城を出発し、日光へ向かった。初日は岩槻に、翌14日は古河に、15日は宇都宮に、16日は今市に宿泊した。17日の早朝、今市を出発して日光に到着し、辰刻(午前8時)より桟敷で東照社祭礼(延年舞えんねんのまい・神輿みこし渡御・獅子田楽など)を見学したあと、本坊御殿に還り束帯に改めて、豪華壮麗に建て替えられた日光東照社に参詣し、神前に太刀・馬・幣帛(へいはく 神前に供えるもののうち、神饌しんせん以外の総称)を献じた。寛永大造替で将軍が着座する空間を創出した家光は、新造の拝殿に着座した。翌18日は勅会(ちょくえ 天皇の御願により、その発する勅を法源とし、勅使が参向して執行される祭礼)として御経供養(東照大権現に奉納された明正天皇宸筆による禁裏御贈経、および仙洞=後水尾上皇・国母=東福門院の贈経を真読し、供養する法会)、法華曼荼羅供(ほっけまんだらく)が行われ、家光は内陣に参り太刀を献じて奉幣し、神酒を頂戴して一度退いた。その後天海大僧正の先導により家光は再び内陣に入り、自ら「東照社縁起」上巻を奉納した。

    coffeetime

    大沢地区の地名日光連山から流れ出る大谷川・田川・赤堀川によって今市扇状地が形成された。水の流れのいくつかは伏流水となり、いくつかは台地を浸食し凸凹を形成した。大沢は今市扇状地の扇端部に位置する。日光の山々に降った雨水はこの地のいたるところで豊富な湧水となって湧き出し、沢をつくり細い小川をつくった。その成り立ちによって地名が付けられた。 谷地は「沢」や「瀬」は、大沢、薄井沢、荊沢、土沢がある。山林にかこまれたような大地は「室」で、大室、根室(古くは根本)。山地への入口は「口」で山口(日光山への入口という特別なもの)。浸食地には「刳(く)る」・「崩ゆ」から「倉」へと変化して、猪倉(猪は「井」であり川をさす)。川の挟まれたところを「島」で木和田島(檗きはだ樹が多く残っていたとも)

    coffeetime

    土田クリーニング

    ラーメン工房若草

    社参における行列と警護行列の目的自体は武威を示すと同時に、将軍を守護する警備体制にあるといってよい。社参の行列とは別に、各所にも警備体制が敷かれている。日光山や道中の宿場を警護する場合、社参より数日前に江戸を立ち、先着して現地に入り体制を整える必要がある。このように社参の背景にはさまざまな警護の体制があるが、ここでは一例として、天保の社参において家慶の警護を行う百人組(鉄砲百人組)の配置・進行の計画を描いた一連の絵図が筑波大学付属図書館に残されているので、そのこら警護の様子を概観してみたい。百人組とは平時には江戸城の大手三門の警護を主業務とした組織である。構成は甲賀・根来・大久保・青山の四組から成り、各組に一名ずつの組頭と20~25名の与力、百名の同心が付属していた。百人組は日光社参においても警護役を勤めており、このときの組頭はいずれも知行高五千石から七千石の旗本である諏訪頼保(すわよりやす)・斎藤利伊(さいとうとしこれ)・土岐朝昌(ときともまさ)・花房正理(はなぶさまさはる)の四名である。この四組が交代で道中の警護にあたっている。日光御参詣行列書によれば、社参が実施される前月の3月2日には江戸城内で百人組を含む警護の者が行進の予行演習である足並み稽古を行っている。この稽古は竹橋門内で行われ、将軍家慶も上覧している。さらに同月十八日にも規模を拡大して行われている。この稽古がどの程度前から開始されるのかは不明だが、二月四日時点で目付松前広隆ら三名に日光参詣の足並み行列を指揮すべき旨が命じられていることから、二ヶ月前には準備が進められていると考えられる。社参が始まると百人組のうち二組は社参の行列に加わり、他の二組が道中の警護にあたっている。道中の待機場所、通行する導線などが書き込まれており、人員の配置については記号で示してある。社参が無事終了すると、警護の者たちはそれぞれに解散場所が決められていた。このように日光社参は単に行列のみの通行ではなく厳重な警備体制の下で行われていたのである。

    coffeetime

    水洋かん湯波と並んで水羊羹は日光の特産品の一つとなっている。歴史はいがいと古く、昔は日光の各店舗も冬しか製造していなかった。近年になって冷蔵技術の発達で、よりみずみずしい美味しさを通年味わえるようになった。日光水羊羹の決め手は水にある。日光連山の清らかな水をたっぷり使って造られた水羊羹はそのさっぱりとした美味しさを楽しめる。

    ヒメマスヒメマスはサケ科の淡水魚で、中禅寺湖では全国1の出荷を誇ります。赤身で口の中でとろける食感が人気で「バター焼き」、「刺身」などの料理が特に人気です。そもそも奥日光といえば釣り(フライ/ルアーフィッシング)の発祥といわれています。日光は日本における釣りの聖地で、ヒメマス、ホンマス、ブラウンマス、ニジマス、レイクトラウト、カワマス、ワカサギなどの釣りを楽しめ、多くの魚が生息しています。

    coffeetime

    杉並木のことを知りたいときは歴史民俗資料館へ

    日光杉並木に関する資料の展示を中心にしているので、別名「杉並木資料館」と呼ばれている。館内では杉並木の研究に一生涯を捧げた、故鈴木丙馬博士の研究資料や、郷土の生んだ交通史研究の第一人者として知られた故大島延次郎博士収集による交通史資料や著作などが展示され、とくに「日光道中図絵」を見ながら、昔の今市宿と現在の町の姿をみくらべてみるのも興味がありる。

    今市民俗歴史資料館日光市中央町29番地1(JR今市駅から徒歩5分、今市図書館横)休館は月曜日・祝日・年末年始入場無料。開館時間:9:00~18:00TEL 0288-22-6217

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    今市線香の歴史今市の線香業は、越後国(新潟県)三島郡片貝村出身の安達繁七(天保12年~明治33年)によって開始された。その創業は文久元年(1861)年と伝えられている。安達工場は明治30年頃が最盛期で、建物12棟、職人50名に達したという。明治33年に工場を閉鎖するが、長年にわたり養成されたこれら熟練の職人達が随所に就業するに及んで、今市の線香業は新たな発展を迎える。今市で生産される線香には、杉線香と匂線香がある。杉線香と匂線香のあいだには、生産量の面での大差はないが、出荷額に占める杉線香の割合は、全体の20%弱にすぎない。これら今市産の線香は、東京を中心に出荷されるが、関東・東北地方が主要な流通区域である。

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    日本橋から31里の一里塚。西の塚は直径約3m、高さ約1.8m。東の塚は開田のため破壊され痕跡がない。江戸時代には松が植えられていた。民家の前のこんもりとした所で案内板もない。

    31 上小池一里塚

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    山口

    日光名物湯波日光のゆばの歴史は勝道上人が日光山を開いたときにさかのぼるという。当時の日光山には数百の坊が建ち並び、一万余人の僧や修験者たちがあつまっていた。修験者たちの食事は精進が要求されており、寒冷な日光では冬の間、魚介類は手に入らず淡泊源は大豆に頼るほかはなかった。修験者たちは山岳原野を旅するにあたり軽量で保存がきき、栄養にすぐれた食品として黄粉、ゆばを利用したという。その後、鎌倉時代に精進料理が流行しはじめ、公家や武士、町人にも徐々に広がっていった。日光では社寺の保護を受け、御用湯波所としてつくられていた。一般の人が食べられるようになったのは、德川家康が日光に祀られてからで、東照宮への参詣をきっかけに食事にゆばがだされるようになったようである。 一般の人に販売が許可されたのは、明示になってからだといわれている。日光ではお正月のおせち料理の一品としてなくてはならないものである。 ゆばは豆乳を煮たとき表面にできる薄い膜を引き上げたもので、乾燥する前のものが生ゆばで乾燥させたものを干しゆばという。ゆばを漢字で書くと、京ゆばは「湯葉」、日光ゆばは「湯波」と書く。京ゆばは一枚仕上げ、日光ゆばは二枚仕上げである。 ゆばは大豆の良質のタンパク質と脂肪を多く含みカルシウム、鉄分も含まれている。また、レシチンも含まれ、動脈硬化症など成人病予防にも効果があるといわれている。十数軒あつた日光のゆば屋も現在では下鉢石町にある「ふじや」「海老屋」の二軒だけとなっている。

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    ①エドヒガン原坪の屋台蔵のある自治会館を西へ300m入った共同墓地の中に樹齢550年の石那田のエドヒガンがある。市指定の天然記念物。

    上小池町

    石那田町

    沼尾板金工業

    19 大沢宿「往古は板橋将監が領地なり」「むかしは大沢村と唱へしを、元和3年(1617)日光御鎮座の後、街道ひらけしにより宿駅の数にいりて大沢宿とあらため唱ふ」(日光道中略記) 大沢宿は、江戸から19番目の宿場。建久年間(1190~98)、源頼朝が狩りに訪れ、広大な荒れ地だったのを見て4人の従者に開拓移住させたのが始まりで、頼朝のご恩にちなみ恩沢と称され後に大沢(おおたく)となり、大沢になったという。幕末期の日光・奥州・甲州道中宿村大概帳では、町並みの長さが4町4間(約440m)、宿内惣家数43軒(旅籠41軒、本陣・脇本陣・問屋場各1軒)宿内人別278人(男125人、女153人)、駄賃・賃銭 荷物一駄・乗掛荷人共117文、軽尻馬1疋75文、人足1人58文でした。度重なる大火のため、昔の宿場の面影はないが、付近には日光杉並木街道や将軍日光社参の際に使われた大沢御殿跡、江戸の姿をとどめる一里塚などが残っている。

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