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追手門学院大学人間学部紀要 1995,創刊号, 45-58 ハンナ・アーレントの政治哲学(6) -ローザ・ルクセンブルクの再評価を通してー 志水紀代子 Hannah Arendt's PoliticalPhilosophy(6) -Through Rosa Luχemburg's Revaluation - Kiyoko Shimizu キーワード:担造された女性革命家・パーリアとしてのユダヤ人・第三世界のフェミ ニズム・北京女性会議・NGOフォーラムの課題 Key words : fabricated feminine revolutionist, Jew as Pariah, Feminism in the Third World, Subjects of Forum on Women Beijing '95 【はじめに】 『女たちのローザ・ルクセンブルクーフェミニズムと社会主義』(田村雲供・生田あい共編: 社会評論社)が出版されたのは1994年9月のことであった。この本は, 1991年11月にローザ・ ルクセンブルクの生誕120年を記念して,「ローザ・ルクセンブルクと現代世界一今,女だちか ら世界の変革を」というテーマで開催された「ローザ・ルクセンブルク東京国際シンポジウム」 の成果として刊行されたものである。このシンポジウムの意図は,よびかけ文の次の一節に要 約されている。 東欧に続くソ連の激変は,ロシア革命に始まる世界の『社会主義の一時代』の終わりと その危機を示しています。それはある意味で男たちの『これまでの社会主義と文化』の崩 壊であり,女たちがその責めをひとり男たちに委ね,傍観する事は出来ず,世界を救う可 能性を秘めて,人間として己れの人生を考え,社会の変革を求めて動きだしてゆく時代の 45-

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追手門学院大学人間学部紀要

1995,創刊号, 45-58

ハンナ・アーレントの政治哲学(6)

  -ローザ・ルクセンブルクの再評価を通してー

志水紀代子

 Hannah Arendt's PoliticalPhilosophy(6)

-Through Rosa Luχemburg's Revaluation -

Kiyoko Shimizu

キーワード:担造された女性革命家・パーリアとしてのユダヤ人・第三世界のフェミ

ニズム・北京女性会議・NGOフォーラムの課題

Key words : fabricated feminine revolutionist,Jew as Pariah, Feminism in the

Third World, Subjects of Forum on Women Beijing '95

【はじめに】

  『女たちのローザ・ルクセンブルクーフェミニズムと社会主義』(田村雲供・生田あい共編:

社会評論社)が出版されたのは1994年9月のことであった。この本は, 1991年11月にローザ・

ルクセンブルクの生誕120年を記念して,「ローザ・ルクセンブルクと現代世界一今,女だちか

ら世界の変革を」というテーマで開催された「ローザ・ルクセンブルク東京国際シンポジウム」

の成果として刊行されたものである。このシンポジウムの意図は,よびかけ文の次の一節に要

約されている。

 東欧に続くソ連の激変は,ロシア革命に始まる世界の『社会主義の一時代』の終わりと

その危機を示しています。それはある意味で男たちの『これまでの社会主義と文化』の崩

壊であり,女たちがその責めをひとり男たちに委ね,傍観する事は出来ず,世界を救う可

能性を秘めて,人間として己れの人生を考え,社会の変革を求めて動きだしてゆく時代の

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              追大人間学部紀要 創刊号

始まりといえないでしょうか。(中略)私たちの解放への希望とその模索のために,とおい

日,透徹した眼と,気高く,しなやかな魂をもって,真っ直ぐに生ききったローザと出会

い,これを機会に,私たちの『今』を問うてみようではありませんシム。

 ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg 1871-1919)はポーランド生まれの女性革命家

で,ロシアにレーニンらが武力によって革命政権を樹立した時期に,ドイツに,より理想的な

真の社会主義革命政権の樹立を志し,現実の社会主義政権下で(その黙許の下に)捕えられ,

銃殺されて運河に投げ込まれるという非業の最期を遂げている。その思想の過激さゆえにか「赤

いローザ」,「血のローザ」と呼ばれ,冷徹な革命家として作り上げられてきた虚像を,近年フ

ェミニストの手でとらえ直していく作業が世界的に進められてきている。 1985年にはドイツの

女性映画監督マルガレーテ・フォン・トロッタによって,映画「ローザリレクセンブルク」力l

制作され,その実像が次第に明らかにされるようになって,世界的に大きな反響を呼んだ。

 1991年に「赤い帝国・ソ連」力J,70年に及ぶその歴史の幕を閉じて解体して,思想としての

社会主義そのものが問い直される中で,東京にドイツ・オランダ・ロシア・韓国・中国・オー

ストリア・スイス・ギリシヤ等からの参加者を迎えたシンポジウムを開催した後,寄せられた

アンケートに応えて,パネリストにさらに執筆者を加えて刊行されたのが先の『:女たちのロー

ザ・ルクセンブルク』であった。これは,共編者の他に,富山妙子,水田珠枝,足立真理子,

寺崎あき子,大越愛子,江原由美子,大沢真理,フリッガ・ハウク,コルネリア・ハウザーと

いう鈴々たる執箪者をそろえて出版された,本邦初のフェミニストによるローザ・ルクセンブ

ルク論である。このような本格的な論文集が日本で著わされたことは意義深い。

 上記のよびかけ文に述べられているように,彼女たちは, 90年代のフェミニズムの方向を,

ローザと出会うことにおいて問おうとするのであるが,編者の田村が,序論でハンナ・アーレ

ントの名を挙げているのは,決して偶然ではない。アーレントがローザに注目し,その考え方

においても非常に近いことは,アーレント研究者のマーガレット・カノヅアンも紹介していミム

が,アーレントはその著『暗い時代の人々』の中のローザ・ルクセンブルクの項で,彼女の人

物像やその著作が,いかに握造されてきたかについて強い口調で述べ,そして最後に次のよう

に結んでいる。

おそまきながら,彼女の人と業績を認識する希望が依然存在していると信じたいし,同

様に彼女が最後には西欧諸匡|の政治学者の教育に彼女の役割を見出すであろうことを希

望したい。ネトル氏(*伝記作家一引用者)が正当にも述べているように,「彼女の思想

は,それがどこであれ,政治思想の歴史が真剣に教えられているところに存在する」か

   3)らである。

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志水:ハンナ・アーレントの政治哲学(6)

 アーレントが亡くなった1975年は,奇しくも第一回目の世界女性会議がメキシコシティで開

催された年であった。彼女が1966年にパルチザン・レビューに掲載しかこの[ローザリレクセ

ンブルク]の一文で期待したことは,以後世界のフェミニストたちによって確かに受け継がれ,

担われてきたと言えるだろう。彼女がローザについて述べているいくつかの論点は,実は極め

て今日的なものであり,その当時,彼女の主張が同じパルタイの同志たちによって何故葬り去

られ,歪曲されていったのかということは,人類史上ノ|生差別が存在してきたこれまでの歴史

の中で,今目でも世界の女性を苦しめ,数知れない女性がそのことと闘い続けていることをあ

ざやかに浮き彫りさせている。

 今回北京で開催された第4回世界女性会議・NGOフォーラムの基本姿勢とも繋げて,ローブ

の姿勢を,彼女が「女性である」ことにおいて注目しつつ,彼女が受けてきた「いくつかの誤

解」について解明しているアーレントの政治姿勢と重ねて論じてみたい。あわせて,上記した

 『女たちのローザ・ルクセンブルク』の中のフェミニストたちの主張にも触れてみたいと思っ

ている。(以下ローザ・ルクセンブルクを通称のローザと呼び,ハンナ・アーレントに関しては

アーレントと通称することをお断りしておきたい。)

【ローザの過激さとは】

 ところで,一体「ローザの過激さ」とはどういうことだったのだろうか。これに類するロー

ザにまつわる神話・伝説を覆し,その真実の姿に近づくために,アーレントは,伝記作家J・

P・ネトルの描いた『ローザ・ルクセンブルク』をもとにしながら,伝記を書く側の姿勢と,

書かれる人物(素材)との関わりについて,執筆する側の価値観や姿勢がどのように書かれた

伝記の記述に影響するかについて,先ず述べている。

 それを扱う伝記作家が,いかなる動機で,何を目的として特定人物の生涯を扱うかによって,

素材となる人物が大きく左右されることに,ことさら彼女はこだわっているのである。このよ

うな彼女の姿勢は,まさに彼女の政治姿勢の原点となるものであるが,特にネトルが男性の視

点に立って見ていることを見逃していない。

 イギリス式の決定的な伝記が,偉大な政治家の生涯を扱う古典的なジャンルとなって史料編

修にとってもっとも賞賛に値するジャンルに属するものとしながら,「ローザ・ルクセンブルク

の生涯という,最もむつかしい素材を,大政治家や他の世間的に知られた人々の生涯にだけ適

しているように思われるジャンルの適切な主題として選んだことは, J・P・ネトルの天皇の

            5)しからしむるところである」とアーレントはその見識を評価している。

 しかしながらアーレントによれば,ロープ・ルクセンブルクは,「生前,死,死後のどの時期

一 一 47-

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追大人間学部紀要 創刊号

においても, (彼女に)許されなかったものはまさに成功一彼女自身が属していた革命家の世界

における成功さえーであった」というのである。「公式な承認という点からみるかぎりすべてが

失敗に終わった彼女の努力は,はたして今世紀における革命の惨めな失敗と何らかの関連を持

ちうるであろうか。彼女の生涯と作業というプリズムを通してみるとき,はたして歴史は異な

って見えるであろうか。」とアーレントは問いかける。

 アーレントは,「ローザ・ルクセンブルクの死は,ドイツにおける二つの時代の分岐点となり,

ドイツの左翼勢力にとって戻りえない地点となった]ことを明らかにする。彼女とカール・リ

ープクネヒト(Karl Liebknecht) の殺害者は,公的には非合法の義勇軍(Freikorps)の一員

であり,この不正規軍の組織はやがてヒトラーの突撃隊にもっとも有望な殺人者を供給するに

                                          7)至っていることにも言及している。しかも二人の殺害は「戒厳令に伴う処刑」であったのである。

 彼女は,この初期の犯罪が政府によって援助され,教唆されていたために,「極左勢力の卓越

した指導者-フーゴ・ハーゼ(Hugo Haase),グスタフ・ランダウアー(Gustav Landauer),

レオ・ヨギヒエス(Leo Jogiches),オイゲン・レヴィネ(Eugene Levふe)-を殺害すること

に始まった極右勢力による暗殺は,やがて急速に中道派や中道右派にまでーヴァルター・ラー

テナウ(Walther Rathenau)やマティアス・エルツベルガー(Matthias Erzberger)にまで

及んだ一(最後の二人は殺害された時,閣僚であった)ことを述べ, (第一次大戦後のドイツに

                       7)おける死の舞踏」の始まりとなったことを指摘する。

 一体何故,当時の左翼政権は,彼女の主張を,そして,非合法な集団として「スパルタクス

団」を抹殺したのだろうか。アーレントはそれを,「パーリアとしてのユダヤ人」であったロー

ザ・ルクセンブルクの革命的精神が終焉させられた過程として跡付ける。

 アーレントは,伝記作家ネトルが,ユダヤ系ポーランド人の「同輩集団」に注目し,そこか

ら生じたポーランドの社会民主党に,ローザ・ルクセンブルクが,生涯密かな関わりを持ち続

けていたことを発見した功績をあげるが,彼が注意深く「ユダヤ人問題」(Jewish question)を

避けることによって,かえってそこにレマーリアとしてのユダヤ人」(the Jew as Pariah)の

特殊性を見落としてしまっていることを指摘している。こうした関係性は,これまでまったく

無視されてきた史料であるが, 20世紀の革命ではなく,革命的精神(強調一筆者)にとって,非

常に重要な意味を持つ。アーレントが注目しているのは,ローザ・ルクセンブルクが,東部の

中産階級家庭出自の同化ユダヤ人(assimilated Jews)として,その文化的背景はドイツ的で

あり,政治的形成はロシア的であり,公私両面での倫理基準はまったく独自のものを形成して

いた「パーリア」であったことなのである。「パーリアとしてのユダヤ人」は,ユダヤ人,非ユ

ダヤ人を問わず,あらゆる社会層の外側に位置していたため,いかなる因習的な偏見にもとら

われずに,見事な孤立の中で,独自の作法を発展させた。彼女のこのような「特殊ユダヤ的な

資質」(peculiary Jewish quality)は,こうした彼女の家庭環境の中で育まれたものであり,

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志水:ハンナ・アーレントの政治哲学(6)

後に彼女が入り込んだドイツやロシアの党(パルタイ)の同志の世界にはそぐわないものであ

ったのである。このことによって傲l曼な自負心として嫌悪されたり,反民族主義的だとして彼

女が非難されることになっだのは「悲しむべき不条理」(lamentably absurd)であった。アー

レントは,ニーチェだけが,かれらユダヤ人の置かれた位置と機能が,彼らを「よきヨーロッ

パ人」(good Europians)になるべく運命づけたことを指摘したことを述べている。だが,実際

にはこの点においても,ただその中の知識人だけがこのように考えていたのであって,これら

の中産階級のユダヤ人の多くは,決して事実上コスモポリタンでも国際的でもなく,他のどの

グループにも区分けできない,「社ISをもたない者」であった。また「祖国」(fatherland)とは

 「国土」(land)であったこの時代にあって,ポーランド語,ロシア語,ドイツ語,フランス語

を流暢に話すローブ・ルクセンブルクは,言語障害の重大性や「労働者階級の祖国は社会主義

運動である」(The fatherland of the working class is the Socialist movement)というスロ

ーガンが,労働者階級にとって惨めな誤りであることの理由が理解できず,従って原理的にど

こが誤っているかについても,耳を貸そうとしなかった。また民族問題の重要性について彼女

が見落としていた問題は,事実彼女の評価として厳しく問われたことでもあった。

 もう一つ,ネトルが見落としたこととして,アーレントが指摘するのは,彼女が「女である

ことを意識していた」(self-consciously a woman)という点である。このことは,彼女につい

ての男性側からの偏見において,挫造されたローザ像を形成する主要因になってきたからであ

る。

 ローザ・ルクセンブルクは,彼女の世代の政治的信条を持ったあらゆる女性が,不可抗

力的にひきつけられていた婦人解放運動を,彼女が嫌悪していたということには重要な意

味がある。選挙権の平等を見ても,彼女は「わずかな差が生まれるだけだ」と答えたかも

知れない。彼女はアウトサイダーであったが,それはただ彼女が嫌悪した国の中で,しか

もやがては軽侮せざるをえなくなった党派の中で,ポーランド系ユダヤ人としてあり続け

たからというだけではなく,彼女が女性だったからでもある。

この箇所のアーレントの解釈には,彼女自身がハインリッヒ・ブリュツヒャー(Heinlich Blu-

cher 1890-1970)との出会いを通して体験したことが,独自の個性的な解釈として提示された

ものとみられるところがある。彼女たちの関係に,ヨギヒエスとローザ・ルクセンブルクのそ

れを重ねて理解しているのである。後年彼女の『人間の条件』が「女性学」の基本的な枠組み

として捉えられた時にも,彼女は決してウーマン・リブ運動には参加しなかった。ここで「女

性」という時,アーレントは,自身が考える主体として自立しており,一人の女性として,共

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                追大人間学部紀要 創刊号

通の世界について語り合える伴侶を求める素直な気持ちを,ローザリレクセンブルクに投影し

ていたとみるのが自然であろう。ここでアーレントは,さらに次のようにも述べている。

 ローザ・ルクセンブルクの政治理念のどれだけのものが,ヨギヒエスに由来するかを知

ることは不可能であろう。結婚している人々の場合,配偶者の思想を別々に語ることが必

ずしも容易でないことと同様である。

 この点に関してアーレントは,まさに同性の立場で,内面から彼女のヨギヒエスヘの愛に触

れ,それが彼女を育んだ時代と環境に典型的なものであったこと,決して複数の恋人を同時に

持ったりはできなかったにのことがローザのこれまでのスキャンダラスなイメージを作り上

げる原因になった)ことをあきらかにしてみせる。しかしながら,二人の愛は,ネトルが言う

ように「社会主義における偉大で悲劇的な愛の物語」の一つではあっても,かれらの悲劇的な

結末は,[盲目的で自滅的な嫉妬]等ではなく,「戦争と多年の獄中生活,そして挫折の運命に

あったドイツ革命とその血塗られた結末であった」ことにおいて理解されるべきなのである。

【ローザ・ルクセンブルクの本当の誤り】

 アーレントは,次にローザ・ルクセンブルクの,より一層問題であった本当の誤りの事例に

ついて述べている。

 一つは,彼女がチューリッヒで書いたポーランドの工業発展に関する第一級の論文で博士号

を取り,この論文がSPDの公式の指導部に利用されて,彼女はドイツの党(SPD)におけるポ

ーランド問題の専門家になり,また党のための宣伝家になって,<ポーランド人を「ドイツ化

する」ことによって絶滅し,「ポーランド社会主義を含むすべてのポーランド人を喜んで贈り物

にしよう」としている人々と不安な同盟を結ぶことになった>のである。<たしかに(公式に

                           : 3)是認されるという栄光は,ローブには誤った栄光であった>。

 もう一つの事例はより深刻で,重大であった。これは彼女が指導的役割を果たした有名な修

正主義論争において,結果的に党執行部と欺隔的な和合をしてしまったことである。

   この有名な論争はエドゥアルト・ベルンシュタイン(Eduard Bernstein)によって惹起

   され, *(原註)革命に対して改革を選択したものとして歴史に残されている。しかし

   このスローガンは二つの理由から誤解に導くものである。まずそれはSPD 力i世紀の転

   換期においてなお革命を志向していたかのような印象を与えるが,そのことは事実に反

   する。さらにベルンシュタインが言わなければならなかったことの多くに含まれる客観

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志水:ハンナ・アーレントの政治哲学(6)

的な正当性を隠蔽してしまう。マルクスの経済理論に対する彼の批判は,彼自身主張し

かようにまさに十分「現実に即していた」のである。彼は,「社会的富の飛躍的増大は,

大資本家の数の減少を伴わず,あらゆる規模の資本家の数の増大を伴う」こと,「富裕階

級の範囲がますます狭まり,貧困階級の窮乏化かますます進むとする」予言は実現され

なかったこと,「現代のプロレタリアは貧困ではあるが,しかし貧民ではない」こと,さ

らに「プロレタリアは祖国を持たない」というマルクスのスローガンは誤りであること,

などを指摘していた。普通選挙権はプロレタリアに政治的権利を,労働組合は社会にお

ける位置を,そして新しい帝国主義的発展は自国の外交政策への明確な利害関心を付与

していたのである。

  このような「歓迎されざる真実」に対するドイツの党の反応は鈍く,大体においてその論理

的基盤を批判的に再検討することへの根深いためらいがあった上に,ベルンシュタインによる

現状分析に,党の利害が脅かされている現実が重なったのである。それは「匡i家内国家」とし

てのSPDの地位に関わる問題だったのである。<党は事実上巨大な,よく組織された官僚機構

                              鳳凰a-iゆ例岬琴-肖呼峰争萌輛φ榊冒冒冒-r胴-s遍aawIusassIsalassぺぼ遍-s--s■als遍--一遍--鳳凰ゝ

と化していたのであり,それは社会の外側に位置し,現状の維持に多大の関心を寄せていた>

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のである。(強調一筆者)

この「国家内国家」(state within a state)の中での生活は,社会の他の部分との摩擦

を一般に避け,いかなる結果も伴わない道徳的優越感を味わうことで,極めて快適なも

のであった。この賤民社会は事実上ドイツ社会全体の縮図であり,「ミニチュア版」にす

ぎなかったため,深刻な疎外という代価を支払う必要もなかった。 ドイツ社会主義運動

が迷い込んだこうした袋小路は,二つの対立する視点から正確に分析されることができ

た。すなわちその一つが資本主義社会内での労働者階級の解放を達成された事実として

認識し,誰もがどのような形においても考えていない革命についての談義を止めるよう

に要求したベルンシュタインの視点であり,いま一つは,ブルジョワ社会から「疎外さ

れていた」ばかりでなく,実際に世界を変革することを望んでいた人々の視点であった。

             "sr一触M納φ凧aas■wsw冒冒ww栖呼g岬swa■ss9冒ns冶M÷仙赫々aaasa■a-ss冒fs幽伸¥岬gau-srMs¥gs--aw-一佃φ争甲sus■■s冒向触M

                                    (強調一筆者)

この後者の立場にローザリレクセンブルクがいたことは言うまでもない。彼女の他には,プレ

ハーノフ(Plekhanov),バルビュス(Parvus)等がいた。彼らは東方からベルンシュタインに

対する攻撃を指導していた革命主義者であり,ドイツ社会民主党(SPD)の最も卓越した理論

家カール・カウッキーもこれらの人々を支持していたのである。しかしこの件に関する真の問

題は,理論的なものでも,経済的なものでもなかった。「ことの実相は,ベルンシュタインも力

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追大人間学部紀要 創刊号

ウッキーも革命を嫌悪することで共通していた」のである。つまり,ベルンシュタインが脚注

において「中産階級はードイツもその例外ではないーその大部分において経済的にだけではな

く道徳的にも依然としてかなり健全である](強調-・ヽアーレンOとする考え方だったのである。

  東ヨーロッパからの来客たちは理論的必然として革命を「信じていた」だけではなく,そ

 のためになにかをやろうと望んでいた唯一の人々だったのである。

 しかしながら,このような立場に立ちつつ,ローザ・ルクセンブルクは,ベルンシュタイン

の批判に対して「来るべき社会の発展に関するマルクス主義の予測全体を,それが危機の理論

に基づいているかぎり」疑問としてきたことにおいて,彼と共有する立場もあった。ローブ・

ルクセンブルクが誠実であればあるだけ,また真剣に革命を考えれば考えるだけ,彼女は現実

が誰に,どのように動かされていっているのかを見抜けなかった。「彼女の革命への関わりは。

                                        φφ呼F申申¥¥呼≠≠f申fgφaaasssgJassuⅧ瞳auss罰sw明

主として道徳的な問題であり,それ故にこそ公的生活と公民の任務に,あるいは世界の運命に

s■■www-■冒冒曙・S冶加蛎MWe倫吻--一陣肖伸呼呼呼φ肖肖岬呼呼陣-S餉晰吻陣肖彝呼--SW-かM彝吻か哨fφw軸¶暦Mm9胴s胴-w一遍遍---■■-aaw瞳丿國uaassSゆ今¥ゆゆ+¥¥峠や十今今りり+や〒〒りφ〒++φφり¥加φφψ加¥aJaJgsaawJu

                     17)

対して情熱的に従事し続けたのである。」(強調一箪者)

-wwwSi-wwwφφ〃〃甲甲Wφ-----J---〃----J--〃㎜----JJ---JJ-----

【ローザの孤立の本質】

 彼女のヨーロッパの政治への関わり方が,労働者階級の直接的利益の外側にあり,従って,

「マルクス主義者の限界を完全に越えていた」ことについて,アーレントは,彼女がドイツと

ロシアの党に対して「共和制のプログラム」をとるよう再三主張したことを例として挙げてい

る。彼女のこのプログラムに対してレーニンは,執筆者が誰か不明のままで,<「共和制のプロ

グラム」を宣言することは「実際上一誤った革命のプログラムによって一革命を宣言すること

を意味する」>と否定したのである。実際には一年後,ロシア革命がいかなるプログラムも持た

ずに勃発して,その最初の成果が皮肉にも君主性の廃止と共和制の樹立であった。同様のこと

がドイツ,オーストリアでも起こっているが,このような現実の事態は,ロシア,ポーランド

あるいはドイツの同志が彼女のプログラムに対して正当な評価を下すためのなんらの保証にも

ならず,彼らは彼女に対する攻撃を止めなかったのである。彼女はまたあらゆる環境のもとで,

個人的のみならず,公的にも自由が絶対的に必要であることを強調していたことにおいても,

パルタイの同志だちから孤立していた。

 さらに彼女はドイツの党の同志に裏切られる事態に遭遇する。彼女は修正主義論争において,

ドイツの党(SPD)きっての理論家であるカウッキーが,先のベルンシュタインの分析を受け

入れるのに逡巡したことを知って,彼が本気で革命を志向しているのだと誤解したのである。

 1905年に第一次ロシア革命が勃発した時,彼女は偽の身分証明書をもってワルシャワに急行

し,そこで数か月の極めて辛い,しかし「生涯で最も幸福な時」を過ごす体験をもっだ。その

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            志水:ハンナ・アーレントの政治哲学(6)

後ドイツに戻って,彼女が実際に体験して学んだ「革命」についてドイツの同志と討論しよう

とした時,彼らドイツの社会主義者たちは,彼女が実際に体験したその上うな事柄は野蛮な僻

地でしか起こりえないと信じて疑わなかったのである。意志疎通をはがれないこのようなショ

ックから彼女が終生回復しなかったことをアーレントは書き記している。

 さらにローザが真の革命から学んだことは,ネトルが「政治理論に対する彼女のもっとも重

要な貢献」と呼んでいるように,革命から発して政治的行動の本質に至るまでのプロセスに深

い洞察を行なったことであった。アーレントは次のように要約している。

  彼女が革命的労働者評議会(のちのソヴィエト)から学んだ主要な点は,

  ①「よい組織は行動に先行するものではなく,行動の所産である」こと,

  ②「革命的行動のための組織は,水の中でしか泳ぐことを学びえないように革命自体の中

   で学ばれうるものであり,また学ばれなければならない」こと,

  ③革命は誰によって「創りだされる」ものでもなく,「自然発生的に」勃発するものである

   こと,

  ④「行動への圧力」は,つねに「下から」くるものであること

以上であった。そして革命とは,「社会民主党(当時なお唯一の革命党であった)がそれを破産

させないかぎり,偉大で強力なもの」なのであった。

 しかしながら1914年に勃発したロシア革命の成功の鍵となっだのは,彼女が1905年の革命の

序曲の段階ではまったく見逃していた二つの側面的なことであった。つまり

  ①何よりも先ず,この革命が,工業化されていない後進国であるだけではなく,大衆的支

   持を伴った強力な社会主義運動がまるで存在していない領域に勃発したという驚くべき

   事実

  ②この革命が日露戦争におけるロシアの敗北の結果であったという,否定しえない事実

 の二点であった。

【レーニンとの分岐点】

 レーニンにとっては,上記の二点は決して忘れることのできない事実であり,かれはここか

ら革命の成功について,次の二つの結論を引き出している。

  第一は, (革命を起こすのに)巨大な組織は必要としないということ,すなわちひとたび旧

  体制の権威が一掃されてしまうなら,何をなすべきかを知っているリーダーに率いられた,

  小さいが緊密に組織された集団で,権力を握るには十分なのである。巨大な革命組織はむ

  しろ邪魔者にすぎい。

  第二に,革命は「創り出される」ものではなく,個々人の能力を超えた環境と事件の結果

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追大人間学部紀要 創刊号

であり,従って戦争が歓迎される。

 この第二の結論が,第一次大戦中のローザ・ルクセンブルクとレーニンとの論争の源で

あり, 1918年のロシア革命におけるレーニンの戦術に対して,ローザリレクセンブルクが

厳しく加えた批判点であった。

彼女は終始無条件に,戦争がいかなる偶然の結果を伴うとしてもそこに恐るべき災厄以外

のものをみることを拒んだからである。(中略)組織の問題について見れば,彼女は人民全

体が何らの役割も何らの発言権も持たないような勝利を信じていなかった。実際彼女は,

如何なる代償を払っても権力を保持するなどということをほとんど信じていなかったた

め,「革命の失敗よりも醜悪な革命のほうをはるかに恐れていた」。このことは実際,ボル

シェヴィキと「彼女の間の大きな相違」だったのである。

アーレントはいよいよ最後に,次のように言う。

ところで,事態は彼女の正しさを証明してきたのではなかろうか。ソヴィエト連邦の歴史

は,「歪められた革命」の恐るべき危険に関する一つの長い実例ではなかろうか。彼女の予

見した「道徳的頑廃」-もちろん彼女はレーニンの後継者の公然たる犯罪を予見してはい

ないがーは,「優勢な武力に対抗し,歴史的状況に歯向かってなされた真正な闘争における

……しゝかなる.またあらゆる政治的敗北|がおそらくはなしえた以十の害悪を.彼女が理

解しかような革命の大義に及ぼしてきたのではなかろうか。レーニンが用いた手段は|ま

ったく誤っていたこと」,救済への唯一の道は,「出来るかぎり無制限で広範な民主主義と

世論をという公的生活それ事態による教育」であったということ,さらにテロルがあらゆ

る人を「混乱」させ,あらゆるものを破壊したことなどはすべて真実だったのではなかろ

うめ丸

【ローザリレクセンブルクの今日性】

 アーレントがいみじくもここで述べていることは, 1995年の今日,十分な説得力をもっ

て我々に共感されるものである。冒頭に挙げた『女たちのローザ・ルクセンブル久!で,

彼女のこのメッセージはその思想とともに今日のフェミニストたちにしっかり受けとめら

れていることを明らかにしたが,さらに,今年の北京女性会議で, 189力国の48000人の女

性達が持ち寄り,討議し,連帯していくことを決議した中身こそは,ローブ・ルクセンブ

ルクが真に目指した[革命]そのものであった。ローザ・ルクセンブルクの死後,彼女の

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志水:ハンナ・アーレントの政治哲学(6)

影響力を抹殺しようとする数々の策が,革命政府の公の手でこうじられたことをアーレン

トは付記しているが,その上うな政権は,今や存在しない。このことを, 1975年に逝った

アーレント自身は知るよしもない。しかしながら,彼女はすでに生前にこのことを見通し

ていたと考えられる。

 寸こ記の『女だものローザリレクセンブルク』の中で,足立真理子氏は,ローザの代表的

著作である『資本蓄積論』が,「第三匪界」のフェミニストたちの側から再評価され,その

ことがきっかけとなって,もともと先進資本主義諸国の女性たちの自己解放の運動として

生まれたフェミニズムがその限界を自覚させられ,そこで初めてローザ・ルクセンブルク

との出会いがあったことを明らかにしている。「この時はじめて,フェミニズムはいわば自

らの出生を記ず先進国中心主義"あるいぱヨーロッパ中心主義”への内在的批判への

糸|………|をつかんだ」というのである。ここで彼女が緻密に展開していることは,アーレント

                          23)がまさしく先の論文で取り上げている重要なテーマである。それこそローザ・ルクセンブ

ルクが決定的にレーニンおよび彼の亜流の革命家と決別して,孤立せざるをえなかった点

に関オつることであり,孤立無援の状況の中で決して妥協できない原点であった。

 資本主義の蓄程t過程は,たんに資本主義的生産を支配する固有の法則の結果である剰余

価値の生産からのみ成立するのではなく,周縁に位置する非資本主義の領域(植民地や女

性労働)が存在し,これらを収奪することによってはじめて可能になるのであり,現実の

状況に照らし合わせて彼女は,マルクスの理論の誤りを指摘したのである。だが,このよ

うな誠実な姿勢は,男性中心主義のパルタイの中では一切評価されなかった。支配され,

搾取されてきた者の痛みを分け合う立場に立つ彼女によって,初めてこの批判が可能であ

った。アーレントがこの同じ立場に立つことはいうまでもない。今日レーニンを批判して

ローザが明らかにしたこの理論こそが,それまで支配してこなかった者(女性)の立場か

ら,支配する立場(男性)の象徴主義を根底から問い直しか60年代末の第二波フェミニス

トたちをローザ・ルクセンブルクにつないだ回線となっだのは明らかであろう。しかもそ

れが,厳しい状況の中で闘う第三世界の女性たちによってしっかりと受け継がれ,彼女だ

ちから第一世界のフェミニストたちに連帯のエールが送られたことは,アーレントがすで

に予期していたことをも越えることだといいうるだろう。

 今回北京で開催された第4回世界女性会議の主要テーマとして,貧困とともに取り上げ

られたのが,「紛争下における性暴力」であった。特に旧日本軍による「従軍慰安婦」問題

は,女性の人権侵害として,世界の女性から厳しく糾弾された。日本のNGOの女性がアジ

アのNGOの女性と一しょにワークショップを開催し,筆者も自ら携えていった声明文を

報告する機会をもっだが,今後厳しく日本の近代化の独自性について,日本資本主義の本

質について,また天皇制を頂点とする家族主義国家イデオロギーについて,自らの文化基

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盤を堀り起こしつつ論じていかねばならないだろう。真の女性解放にむけて,世界的視野

の中で,その普遍的な課題に取り組むと同時に,われわれは足元の,自国の特殊性一性差

別を温存する日本の文化風土そのものーの問い直しを提起していかねばならない。これま

での[公認]のマルクス主義が「ローザの欠点」としてきた彼女の思想の核心を,今2]世

紀に向けての“生への讃歌としての社会主義≒こ対する先駆的な視点として読み替えたい。

 画家の富山妙子氏が,光復節50周年の今夏,ソウルでの個展をはじめ,光州ビエンナー

レにも招待されたことの意義は大きかった。「戦争と女の視座」について問い続けてきた彼

女の真意が,韓国の人々に受けとめられ,日韓の大きな橋渡しをしていることを,筆者は

この目で直かに確めることができたのである。(しかしながら何故か目本の報道関係筋はこ

のことについて故意に無視している気配があった。)富山氏は先の『T女たちのローザ・ルク

センブルク』で,ローザと反戦画家ケーテ・コールヴィッツが共有する普遍的な反戦思想

を指摘しているが,彼女のこの普遍性を共有していくことこそが,われわれの原点に必要

ではなかろうか。また従軍慰安婦問題に対する韓国女性の問題意識の深さ,またその格調

の高さについては,『世界』'95年11月号に掲載された(やはり基金の提案は受け入れられな

                   24)い』を一読すれば,充分納得されるだろう。この件についてはいずれ別稿において詳述し

たいと思っている。

 最後に北京会議のNGOフォーラムのフーグショップ“From VIENNA To BEIJING:

The Global Campain For Women's Human Rights" で,世界の女性に報告した声明文

 (「従軍慰安婦問題の真の解決を」一日本近代を問うフェミニズムの会一発表原稿は英文)

の要約(日本語)を記しておきたい。これは箪者とともにこのワークショップに参加した

 「高齢社会をよくする女性の会」の会員である村岡洋子氏(京都短期大学)が,帰I罰後,

金沢で行なわれた会の全国大会で報告して下さった原稿の一部であることをお断わりして

おきたい。

  「我々日本のフェミニストは,第二次世界大戦で行なわれた,戦争による女性の虐待行

為についても,さらに,それをきちんと見据えて解決する努力を怠った事についても,責

任を感じている。いま元「従軍慰安婦」の方々の告発によって,この問題に直面して,そ

の本質を明らかにし,国家の犯罪を認め,個々の被害者に対する国の謝罪と補償を要求す

る。そのことによって,戦争に明け暮れた今世紀の終焉にあたり,共存と尊厳の世紀の到

来をねがっている。]

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                       註

1)『女たちのローザ・ルクセンブルクーフェミニズムと社会主義』(田村雲供・生Elあい共編:社

  会評論社 1994年)あとがき

2)rハンナ・アーレントの政治思想』〔マーガレット・カノヴァン著,寺島俊穂訳:末来社 1981

  年

  The political Thought of Hannah A}-endt ; London Methaen &C0.LTD 1974

3)ハンナ・アーレント著「ローザリレクセンブルク」(『暗い時代の人々』(阿部斉訳)

                                          73ページ

  (Hannah Arendt : Men in Dark Times-・Rosa Luxemburg : 1871-1919 The New York

  Review of Books ,1966 Harvest/HBJ Book p.55-56

4 )J. P. Nettl : Rosa Luxembia'g, 2 Vols.,Oxford University Press,1966.

5)ハンナ・アーレント著「ローザ・ルクセンブルク」(『暗い時代の人々』(阿部斉訳)

                                        47-48ページ

  (Hannah Arendt : Men in Dark Times一Rosa Luxembin'g:1871-1919 The New York

  Review of Books ,1966 Harvest/HBJ Book p.34

6)    同上■. 48ページ

       ibid.p.34

7 )    同上 49ページ

       ibid.p.35

8)このことについては,寺島俊穂・藤原隆裕宜訳『パーリアとしてのユダヤ人』(末来社1989年)

  に収められている,アーレントの40年代の7編のユダヤ人問題を軸にナチズムの解明に向か

  って書かれた論文・エッセイ集に詳しい。

  Edited and with an Introduction by Ron H. Feldman, The Jew as Pariah : Jewish Identity

  and Politicsin the Modern Age, New York : Grove Press, Inc., 1978

9)ハンナ・アーレント著「ローザ・ルクセンブルク」(『暗い時代の人々』(阿部斉訳)

                                        57-58ページ

  (Hannah Arendt : Men in Dark Times一Rosa Luxemburg : 1871-1919 The New York

  Review of Books ,1966 Harvest/HBJ Book p.42

10)    同上 60ページ

       ibid.p.44

11)    同上 63ページ

       ibid.p.46

12)    同上 61ページ

       ibid.p.45

13)    同上 65ページ

       ibicl.p.48

14)    同上 65~66ページ

       ibicl.p.48-49

15)    同上 66~67ページ

       ibid.p.49-50

16)    同上 67ページ

       ibicl.p.5O

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追大人間学部紀要 創刊号

17)    同上 68ページ

       ibid.p.5O

18)    同上 70ページ

       ibid.p.52

19)    同上 70ページ

       ibid.p.53

20)    同上 70~71ページ

       ibid.p.53

21)    同上 71ページ

       ibid.p.53-54

22)足立真理子「ローザ・ルクセンブルク再考一一資本蓄積・≪女性労働≫・国際的一性分業」『女

  たちのローザ・ルクセンブルクーフェミニズムと社会主義J (社会評論社 1994年)

                                       5卜………70ページ

23)ハンナ・アーレント著「ローザリレクセンブルク」『暗い時代の人々』(阿部斉訳)

                                       53-55ページ

  (Hannah Arendt : Menレin Dark Times一一Rosa Luxemburg : 1871-1919 The New York

  Review of Books ,1966 p.39-40

24)r世界』(岩波書店 1995年11月号)                   !30-138ページ

                                  1995年9月28日 受理

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