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4書

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11

えの中から、自然科学的分析による食と住まいの復元に絞って、論をまとめる

こととした。その結果、一つの視点にとどまらない「縄文の食と住まい」に関

する一書を提示することができたと考えている。その目的が達せられているか

は、読者諸賢の判断に任せたい。ご高覧ご叱正をお願いする次第である。

小林謙一

目 次

はじめに

I 食の多様性と文化の盛衰……・…....・H ・....・H ・-…・…・羽生淳子

ーー縄文から学ぶ一一

111

E 民族事例からみる多様な住居の様相………………武藤康弘 27

一一平地式住居の実態一一

E 資源利用からみた縄文文化と続縄文文化…………高瀬克範 51

町 鍋のスス・コゲからみた

縄文・弥生時代の囲炉裏構造……・・…H ・H ・-……小林正史 79

V 炭素同位体分析による

居住期間・住居の寿命と生業…・…一………・…小林謙一 131

総括 縄文時代の食と住まいの復元・…....・H ・-……・・…一小林謙一 167

おわりに 187

執筆者紹介 189

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食の多様性と文化の盛衰一一縄文から学ぶ一一

I

羽生淳子

この章では、現在と未来の環境問題を考える上で、縄文時代をはじめとする

どのように役立つかを考える。研先史時代における狩猟採集民文化の研究が、

とくに歴史生態究の理論的な枠組は、英米考古学における人類学的な考古学、

学の視点である。

考古学というと、昔の人たちの暮らしゃ文化を復元する学問だと思う方も多

いかもしれない。 しかし、私たち考古学者の研究目的は、それだけではない。

遺跡から発掘された動物や植物遺体などさまざまな考古学資料は、何百年・何

千年という長い期間にわたって、人々の暮らしゃ文化がなぜ変化したのか、そ

といった疑問に答える手がかりを与えてくれ

このような研究は、生物多様性や食の多様性の減少・自然破壊・

気候温暖化など、現代におけるさまざまな環境問題を考えるための糸口ともな

り得る。

式ノ10

・フ司

4:12751

手足H一一白色畏酋葉町呼泊上ノ

の結果として何が起こったのか、

る。そして、

1.学史的・社会的背景

1960-1980年代前半までの北アメリカでは、科学と しての考古学を標携す

る、いわゆる「プロセス考古学Jの理論的な枠組のもとで、環境に対して人間

という研究がつぎつぎと発表されたの集団と個人がいかに適応したか、

(Trigger 2006) (プロセス考古学以前の文化史的研究が過去の文化の「復元」

を目指したのに対し、プロセス考古学とは、機能主義的な観点から文化変化の

メカニズムの「説明Jに重点をおく学派である)。これらの研究は、大きく分

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2

二l資源と景観l二l人吋図 1 人間と環境の相互関係

けると、人間集団の環境適応を研究する文化生態学と、ダーウインの進化論に

もとづいて人間行動を個人の生物学的適応の観点から説明する進化生態学とlこ

大別されるo その後、社会理念や個人の能動性などを重視するポスト・プロセ

イ考古学がさかんになった1980年代半ばから 1990年代にかけては、環境に重

尽をおく考古学研究は、 一時下火となった。 しかし、 2∞0年代以降、持続可

能性(サステナピリテイ)の議論などとともに、いわゆる「環境考古学Jが

新しい形で注目を浴びている。環境考古学とは、過去の文化・社会や個人の行

動・食生活などを研究する際に、環境と人間との相互作用を重視する視点で、あ

る (図 1)。

近年における環境考古学の焦点のーっと して、気候変動への関心があげられ

る。新聞やテレビなどのメディアでは、最近、人間活動の影響による気候の潟

暖化が大きな問題として取りあげられている。しかし、大規模な気候変動自ぷ

は、過去にも存在した。そして、考古学者の多くは、文化の盛衰を説明するに

あたり、気候変動と文化の諸要素との因果関係に関心を向けている。

このような研究を行うためには、過去の気候変動と強い相関関係がある動植

物相の変化を調べる古環境学的研究ゃ、人間による動植物利用の解析を行う動

物考古学・植物考古学の成果が重要である。さらに、動植物考古学の成果は

過去の人々の食生活の復元にも役立つ。また、人骨や猷骨の安定同位体分析に

もとづいて、各個体がどれだけ海産物を食べていたのか、といったこともわか

るようになってきた。脂肪酸分析を含む食物残誼の化学分析も、ここ数年、と

くにイギリスを中心として活発に行われている。

,環境考古学の復権に大きく貢献したのが、「歴史生態学」と呼ばれる分野の

台頭である (Balee1998・2006.Crumley 1994・2∞7)。歴史生態学では、その

I 食の多様性と文化の盛衰 3

名の通り、社会科学としての歴史と、生物学としての生態学という、学問的基

盤が異なるこつの分野から統合的なアプローチを試みる。

歴史生態学の特徴としては、第一に、人間の行動が環境に与える影響を重視

する点があげられる。この中には、栽培ではないが、人聞がクリなどの植生を

管理するといった、いわゆる環境管理も含まれるc 上記のように、プロセス考

古学がさかんだ‘った 1980年代前半までは、自然と人間を対比し、自然環境に

人聞がいかに適応するかが議論の焦点となっていた。これに対し、歴史生態学

的な研究では、これまで自然環境と同一視されがちであった生物圏 (biosphere)

は、実は人間活動によって間断なく影響された結果として作られた人為的な生

態システムであると考える。たとえば、南アメリカにおけるアマゾンの森林

は、一般に「原生林jと称されることが多いが、実際には人間と環境との絶え

間ない相互作用の結果として作り出されたと考えられるa

第三に、歴史生態学では、過去の経済・社会システムが、世界各地に固有の

歴史の軌跡を作り出した過程を考察する。いままでに、たくさんの研究者が、

日本の縄文時代 (約 14∞0-2500年前)が新石器時代にあたるのかどうかを議

論してきた。この理由は、縄文時代は、狩猟採集生活を主たる生業(食料獲得

活動)としていたと考えられるにもかかわらず、土器や磨製石器の製作、定住

的な居住形態など、ヨーロッパや近東では新石器時代と呼ばれる時代と共通す

る特徴を持つためである。新石器革命が完新世 (Holocene)前半までに世界

各地で起こったと考える伝統的な歴史観から見ると、縄文時代の事例は例外と

考えがちである。しかし、最近の世界の考古学の成果から見ると、先史時代に

は、従来の新石器時代の概念に当てはまらない、いわゆる 「複雑な狩猟採集民

(コンプレックス・ハンター・ギヤザラーズ)Jが、世界のさまざまな地域に存

在したことがわかってきている。つまり、人間の歴史の軌跡は、世界各地で一

様だ、ったのではなく、昔の研究者が考えていた以上に、地域的な多様性が高い

ものだ‘ったのである。このような地域性に注目しながら、世界中で、さまざま

な文化がどのように変化していったかという歴史的多様性を考察するのが歴史

生態学である。

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4

宝冒』ーもf-aHza"喧唱'""Jdun--d,箇n昌苫圃

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歴史生態学では、第三に、文化の短期から長期にいたる変化を研究する。具

体的には、文化の短期的な変化だけでなく、数十年単位で生じる周期的な変

化、そして数百年から数千年にわたる長期的な変化 (longueduree)のメカニ

スムを解明しようとする。このような視点は、フランスの歴史学におけるア

ナール学派 (AnnalesSchool)の影響を強く受けている。短期から長期にわた

るさまざまな時間変化の研究が可能な考古学は、歴史生態学的なアプローチと

親和性が高い。さらに、文化の長期的変化への関心は、個々人の視点から見た

文化景観研究への関心ともつながっていく。

まとめると、歴史生態学とは、世界各地における歴史の多様性を重視しなが

ら、さまざまな時間のスケールにもとづいて、人間と環境との相互関係を調べ

る学問である。環境が人間を変えるだけではなく、人間が何かを行ったことに

よって環境も変わるというのが、ウィリアム・バレー (B剖白 1998・2∞6)ら

の主張する歴史生態学の基本的な考え方である。

このような視点に立ち、文化変化のメカニズム (条件・原因・結果)を考え

る場合、鍵になる概念として、まず、第一に持続可能性をあげたい。「持続可

能性」あるいは「持続可能Jは、最近、テレビなどで、よく耳にする言葉であ

る。たとえば、現代の環境問題を論じる時、たくさんの研究者が、「持続可能

な社会の構築が大事だ」というような言い方をしている。しかし、社会の持続

可能性を論じる場合、いったいどのくらいの期間の持続を考えているのだろう

か。テレビや新聞のシミュレーシヨンで、今後の持続可能性が論じられる場

合、そのターゲツトは、多くの場合は 2050年、長くても 2100年までである。

つまり、これらの例で論じられている「持続可能」な社会では、これから数十

年先、あるいはせいぜい百年先までしか視野に入っていないのである。

しかし、私たちの子供や孫、さらにその孫の世代までを考えて議論をする場

合、当然のことながら、 2100年まででは足りない。つまり、持続可能性とは、

本来、百年よりもずっと長い時閥単位で論じられるべき問題なのである。この

ように考えた時、考古学は、何百年、何千年、何万年、という単位で、文化や

社会の盛衰を考えることが可能な数少ない学問領域の一つである。

考古学のことはひとまず横において、ま

ずは、現代の環境問題について考えてみよ

う。現代は、グローパリゼーション、ある

いはグローパル化(世界化、国際化、地球

規模化)の時代と言われている。グローパ

ル化時代の大きな特徴としては、交通や情

報伝達手段の発達によって、限られた地域

で大量生産された食料や製品が世界中に流

通することがあげられる。このような大規

模で均質化された集約的な生産システムで

は、大量の生産量は確保できるが、その生

産品は多様性を欠く ε さらに、生産時にお

ける環境への配慮も、必ずしも十分ではな

I 食の多様性と文化の盛衰 5

図2 来日本大震災後のパン売り場(鎌倉市内の生協応鋪 ・t在者保影)

いことが多い。

大規模な生産システムは、大規模な流通・消費システムと直結している。大

規模な生産・流通・消費システム(経済システム)は、気候変動 ・地震などの

天災や政治・社会情勢の変化などによって、多大な被害を蒙る場合がある。多

くの人の記憶にも新しい、 2011年3月の東日本大震災では、流通網等が壊滅

的なダメージを受け、被災地だけでなく、日本各地の消費者が大規模経済と長

距離輸送に依存した食料・物資供給の欠点を痛感した。筆者は、東日本大震災

当時、神奈川県逗子市葉山の総合研究大学院大学に訪問研究者として滞在して

おり、その後数日の聞に、自宅近辺の生協で、パンや米を含む食料が売り場か

らなくなっていくのを目のあたりにした(図 2)。これは、大規模流通の問題

を端的にあらわした事例である。

このような大規模な生産 ・流通・消費活動の弊害は、現代社会に特有の現象

だろうか。歴史を振り返ると、食料生産の大規模化に伴う作物の多様性の減少

と、それに伴うシステムの脆弱性の増加は、過去における数多くの飢鐙の事例

からうかがい知ることができる。たとえば、江戸時代における飢僅の多発も、

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7 食の多様性と文化の盛衰6

しばしば重要な変と祭記・宗教(図 3下)が、学では、技術革新(図 3右上)

数として論じられる。技術革新には、新しい狩猟具や農具の発明と導入、食料

とくに、上記の社会

ひいては国家の形成と強い相

関関係を持つ可能性が議論されている。

これらの経済・社会システムの諸変数と、環境との相互作用を示したのが、

多様 性、

人・物・情報の移動

加工・貯蔵方法の改良などがあげられる。狩猟採集から農耕への生業の転換を

新しい食料獲得方法の導入と考えれば、農耕への移行自体も技術革新の一例で

ある。文化変化の主要因としての祭杷や宗教の重要性は、

階層化およびそれに伴う社会・政治組織の変化、

技術革新

p

ピ図3左上である。環境の変化には、地球規模の気候変動や、それに大きな影響

を受ける地域規模の資源や景観の変化が含まれる。環境の変化が、経済・社会図3 文化変化の原因・条件・結果(総合地球環境学研究所 20日 ・36頁より改変}

システムと人間行動に影響を与えると同時に、個人および集団としての人間の

諸活動が環境に大きな影響を与え得ることは、上記の歴史生態学の項で説明し米作りの比重の増加とその背後にある年貢の重さを抜きにしては説明できな

た通りである。い。さらに、考古学・人類学・社会学などさまざまな事例からも、生産活動の

集約化と大規模化は、短期的には多くの人口を養うことを可能にする一方、集

食・生業の多様性とシステムの弾力性(レジリエンス)2. さまざまな問題が生じる例が約化が進みすぎた場合、その長期的な持続には、

この節では、とくに食と生業の多様性の幅について考上記の諸変数のうち、

議論されている。その最たるものが、いわゆる 「文明崩壊Jと呼ばれる現象で

(たとえばTainter2∞6)。

図3は、文化の長期的な変化のメカニズムを考える際に、考古学者が重要と

ある

筆者がこれまでの研究でも述べてきた通り(羽生 2∞1)、食と生業の多える

様性は、定住度と不可分の関係にある。食と生業の多様性が高い社会において考える変数を示している。この図では、文化の変化に大きな影響を与える変数

は、個々の集団がさまざまな生業活動をして、いろいろなものを食べている。として、食の多様性と、それを左右する生業活動の多様性を図の中央にあげて

いる。生業の多様性の喪失は、生業の特化 (specialization) と言いかえること

もできる。ここでいう生業とは、食物を手に入れる方法と定義しておく の

と呼ぼう (cf.Savelle このような人々を、 「ジェネラリスト (generalist)J

1985)。ジェネラリストという言葉は、「一般j、あるいは 「さまざまな、いろ

狩猟採

集民考古学の分野では、ルイス・ピンフォード (Binford1980)により、ジエ

という単語に由来するいろな」という意味のジェネラル (general)北アメリカの生態学的な狩猟採集民研究の分野では、食と生業の多様性の幅

が、人の移動(定住度)と物の移動(交易)、およびそれに伴う情報の移動

(図 3上)、人口(図 3左下)、社会的不平等に端を発する社会階層化と、それ

写真目福島県楢葉町弁出上ノ風遭嗣川市HUF

ヨ世ネラリスト型の狩猟採集民は、採食者を意味する「フォーレジャー (foragers)J

と命名されている。などの諸変数と、高い相関を持つことが知に伴う社会・政治組織(図 3右下)

図4に、民族誌事例にもとづいた、ジエネラリスト型(フォーレジャー型)

の狩猟採集民の生業と集落システムのモデルを示す。ジエネラリスト型の狩猟とくに初期農耕民の時代から国家成立期以降の考古

られている。

これらの変数に加えて、

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食の多様性と文化の盛衰 9

採集民は、居住地のまわりにあるいろいろな種類の食べ物を採って暮らす。そ

して、居住地近くの食べ物をすべて採りつくしたら、次の地点に移動する。イ

どこにいてもおいしい物が手軽メージとしては、資源の豊かな南の島などで、

に手に入るため、食料を獲得するために遠出をしなくても済む社会である。

このようなジェネラリスト型の狩猟採集民が食べ物を採りに行く範囲(図中

とはどのくらいだろうか。民のテリトリー、ないしフォーレジング・ゾーン)

族誌事例を調べてみると、居住地から片道2時間以下の距離であることが多

い。徒歩で2時間といえば、平坦な道の場合には、約lOkmである。ただし、

カヌーなどの舟を使う場合には、当然この距離はもっと長くなる。ジ、エネラリ

スト型の狩猟採集民は、居住地の近くにある食べ物を主食料とするので、まわ

りの食べ物を採りつくしたら、次の場所に居住地を移動する。これができるの

は、いつでもどこへ行っても食べ物を得ることができる環境である場合に限ら

れる。専門用語を使うと、資源の時空間分布が均質な地域と言いかえることが

できる。このような環境下では、ーか所に定住するよりも、資源のある場所に

居住地を移動し続けるほうが効率的なので、結果として、居住地の移動頻度が

増える。この図では、一年に 9回の移動を行っている。このような生業・集落

システムでは、食べ物の大規模な貯蔵は行わない。

ジ.ェネラリスト型の社会は、一人当たりの労働力の投下が少なくても食べて

このタイプに、「キリギリス」型というあだ名をいける社会である。筆者は、

8

つけている。あくせくと働かなくても暮らしてゆける社会である。このような

写真H扇島県省襲町件史上ノ奪還困 ジェネラリスト型ないしフォーレジャー型の集団は、たいていの場合、集団の

季節的移動-

大きさが小さく、経済のシステムと社会構造が単純で、広い地域を移動して回

る。季節的集落

ジェネラリスト型の生業・集落システムは、資源の過剰搾取にいたる前に次

の居住地に移動することから、環境に対する負担が少ないシステムと言える。

テリトリー

食料の獲得場所x ?山m

また、食の多様性が高いため、一つの種類の食料が不作でも、~iJの種類の食料ジェネラリスト型の生業・集落システム (羽生ゆ93より改変)図4

このようなシステムの安定性は高い。ジェネ

ラリスト型の狩猟採集民では、動物の狩猟を生業の中心とすることが多い。

に依存すればよい。結果として、

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このようなジ‘ェネラリスト型に対して、限られた種類、とくに植物質の食料

を大量に収穫して貯蔵する「スペシャリスト(特化)J型の狩猟採集民も存在

する。コンプレックス・ハンター・ギヤザラーズ(複雑な狩猟採集民)と呼ば

れるグループである (Priceand Brown 1985)。このような集団は、 一生懸命

働いて食料を貯蔵するので、筆者は「アリJ型とあだ名をつけている。 ドング

リやクリなどの木の実を主食としていたと,思われる縄文時代前期以降の縄文人

や、サケ・マスを主食とした北米の北西海岸の先住民族などが、このスペシャ

リスト型ないし 「アリ」型の狩猟採集民の典型的な事例としてあげられる

ピンフォード (Binford1980) は、このタイプを、(食物の)収集者を意味

する 「コレクター (collectors)Jと呼んでいる。図 5に、ピンフォードによっ

て示されたコレクター型(スペシャリスト型)の狩猟採集システムの一例を模

式図として示す。

スペシャリスト型とジ、エネラリスト型のいちばんの違いは何だろうかd スペ

シャリスト型の集団の特徴は、居住地のまわりで食料を獲得するだけでなく、

資源獲得のための専業集団を遠くまで派遣して、大量の食料を獲得することで

ある たとえばサケがたくさん獲れる漁場があれば、その地点にサケ漁の得意

な人たちを派遣する。スペシャリスト型の集団では、遠くにまで遠征隊を送っ

て、たくさんの食べ物を村に持ち帰り、持ち帰った食べ物を貯蔵する。貯蔵食

があれば、まわりに食べ物がなくても、ーか所に、より長期間滞在することが

できる。結果として、スペシャリスト型の生業・集落システムは、ジェネラリ

スト型に比べて、より定住的である。

スペシャリスト型の生業システムが有効なのは、食べ物がとれる場所が限ら

れてし・る場合、そして収穫量の季節的な変動が大きい場合であるu 専門用語を

使えば、スペシャリスト型の狩猟採集民の生業・集落システムは、資源の時間

的・空間的分布が不均質な地域に特徴的なシステムと言える。

図4と図 5の比較から明らかな通り、スペシャリストはジ‘ェネラリストと比

べて、より多様な活動を行うことから、その生業・集落システムの構造もより

複雑である この差異は、考古学的な痕跡にも反映される。ジェネラリスト型

I 食の多様性と文化の盛衰 11

-砂季節的移劃

...... 資源獲得隊のルート

合*1 冬 の 輔2 初夏の集落

3 夏の散在集落

多話 テリトリー

ロ フィールドキャンプ10km

)( 食料の獲得場所。見張り犠

A 貯蔵所

河川

図5 スペシャリスト型の生業・集務システム l羽生 1993より改変}

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13 食の多様性と文化の盛衰12

ト型と比べると相対的に低いロケーションと、の狩猟採集民が残す遺跡の主なものは、居住地(図 4の女)

ジ‘ェネラリストとスペシャリストの違いは、資源の時空間的上記のように、の二種類である。これに対し、スペシャと呼ばれる生業活動の場(図4のx)

ジェネラリな分布の差と強い相関関係がある。それと同時に、人類の歴史は、リスト型の狩猟採集民の活動痕跡としては、居住地とロケーションに加えて、

ストからスペシャリストへの移行の歴史でもある。人聞が食べ物の対象とするなども加わ遠征隊のフィールド ・キャンプ(図 5の口)、貯蔵所(図 5のム)

資源は、時代と共に変化した。世界各地で、収穫や加工の手間はかかるが単位ンエネフこのタイプの狩猟採集民は、るのさらに、民族誌事例から見る限り、

面積当たりの収穫量が高く、長期間の貯蔵が可能な特定の食料への移行が起こリスト型より複雑な社会構造を伴うことが多い。スペシャリスト型の典型であ

り、それとともに食料の流通・消費の規模も拡大したこのる、北米北西海岸やカリフォルニアの狩猟採集民における社会階層化は、

しかし、数多くの人口が限られた種類の食べ物の大量収穫に依存すると、そ典型的な例である

システムが撲滅的な打撃を受ける可能性が高の食べ物が取れなくなった場合、どちらかのタイプにはっきりと分かれもちろん、実際の民族例の大部分は、

システムとしてい,つまり、スペシャリスト型の生業戦略は、そのままでは、という形でしか分類できない。言いかよりどちらに近いか、るわけではなく、

(弾力性)が低いシステム、すなわち脆弱性が高いシステムとのレジリエンスジェネラリストとスペシャリストは、二つの異なる型ではなく、単純えれば、

考古学者として、人類の歴史をジェネラリストとスペシャリいうことになるから複雑へと向かう連続体と解釈できる。図5のスペシャリストの例では、冬

ストという視点から見直してみると、生業の集約化による人口増加とシステムそしと初夏<*2)について、比較的大きな居住地が示されている(女1)

の脆弱化、それに続くシステムの破綻と人口減少が、世界各地で何度も起こっどちらの居住地についても、点線で示された速隅地への資源獲得グループて、

たように見える Rこの例は、冬から初夏にかけては、典型したがって、の派遣が示されている。

この集団は、的なスペシャリスト型の生業・集落システムと言える。ただし、

3. 縄文時代の事例(女 3)。これらの夏キャンプ夏には、いくつもの小キャンプに分散している

については、資源獲得グループの遠征はーか所 (図5上部の左端)を除いて記

ここでは、「生業の専業化と食の多様性の喪上記のような考察にもとづき、この集団は、全体としてはスペシャリスト型に分類録されていないL つまり、

システムのレジリエンスの低下につながるjという作業仮説を設定し、失は、されるが、夏の居住地分散期については、季節的にジェネラリスト型に近い特

縄文時代の考古資料による仮説の検証を試みる。具体的には、北日本における微を示 していると 言える

写内HH福島県回開業町井出上ノ原週凶

縄文時代中期文化の盛衰について、生業の集約化に伴う人口増大とシステムのジェネラリストとスペシャリストのモデルの基本の考え方は、狩猟採集民だ

脆弱化という観点から考察する。けでなく農耕民や非農耕専業者にも適用することができる。たとえば、播種か

縄文時代の人口について、考古学者の多くは、遺跡数と遺跡規模の増減から収穫までの周期が短く養分が不良な土でも育ちやすい雑穀類を主食とする集

ら、人口は早期・前期には安定的に増加し、中期に最大となったが、後・晩期団は、農耕民としてはジ、ェネラリスト的な要素を多く持つ場合がある。

と考えている。たとえば、小山修三(1984)は、各県から出版には減少した、ジェネラリスト型の経済システムは、労力投下の割に見返りが大きいまた、

された遺跡地図のデータにもとづいて、縄文時代の早期から晩期における人口

この図に示された推定値の絶対数を推定した。図 6に小山の推定値を示す。

しかし、単位

面積あたりの食べ物の収穫量は限られているため、人口密度は、スペシャリス

システム、すなわち個人にとっては効率の良いシステムである

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L4 I 食の多機性と文化の盛衰 15

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図6 小山修三(1984)による縄文時代早期~晩期の人口推定値=・抽

は、いくつかの仮定にもとづいているので、仮定が変われば人口推定値の絶対

数は変わるかもしれないが、相対的な増減のパターンについては大きな変化は

ないものと考える。とくに、東北・関東・中部地方においては、集落遺跡の

数・遺跡規模のどちらについても、縄文中期が最大であることが知られてい

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図7 三内丸山遺跡から得られた放射性炭素年代と気候変動

(Habu and Hall 2013より改変)

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縄文時代中期の人口推定数が高い原因について、多くの研究者は、木の実や

根茎類などの植物性食料への依存を指摘してきたョその根拠として、中期の遺

跡からは、植物質食料の採集や加工具と思われる石器がたくさん出土すること

があげられる。根茎類の採集用具としては、いわゆる「打製石斧J(斧という

名前はついているが、おそらくは土掘具)、木の実などの加工具としては磨石

(すりいし:食べ物をすりつぶす道具)が使われた可能性が高い。

縄文時代中期末における遺跡数と遺跡規模の減少については、たくさんの研

究者が、約 4200年前の気候寒冷化を原因と考える説を発表している しか

し、先に述べた食・生業の多様性と人口のモデルにもとづいて考えるならば、

生業の専業化が進んで、特定の植物性食料に対して過度に依存した結果、生業

システムが脆弱化した可能性も考慮すべきである。

縄文中期文化の盛衰を考えるための好例として、青森県青森市の三内丸山遺

跡があげられる。この遺跡は、たくさんの住居跡や大型掘立柱建物跡の存在な

どで有名であるe

三内丸山遺跡の居住期間は、土器の特徴から、円筒下層 a-d式期、円筒上

層 a-e式期、榎林式期、最花式期、大木 10式期という 12段階に分けられて

いる。遺跡が居住された期間は、縄文前期中頃 (約 59∞年前)から中期の終

わり頃(約 4300年前)まで、およそ 1600年にわたったと推定されている。

図7に、遺跡から得られた放射性炭素年代と気候変動のデータを示す 一番

下の折れ線グラフは、氷床コアに反映された気温の変化を示す 「寒冷化?J

と書いてある部分が、約 4200年前に起こったとされる気候の寒冷化と対応す

るデータである。中段のグラフで、様で示しであるのが、三内丸山遺跡から得

られたそれぞれの放射性炭素年代を較正した値の中央値である。このように、

遺跡の居住期間を気候変動のデータとともに固化すると、居住の終わりと寒冷

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17 食の多様性と文化の盛衰16

回 一・一円筒下層・

50

40 -7て-

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N4PNNtペf'.,,_5I"T.~... ,..

1.円筒下層a式期

50

ほとんどなし

円筒下層

b

大木叩

最花

石鍬

U! 林

円筒上層

e

円筒上層

d

土偶数多

円筒上庖

C

円筒上層

b

円筒上庖

a

住居の数

円筒下庖白

磨石・石匙・石鎌

円筒下層

d

円筒下庖

C

石器組成の主体 l石匙

土偶数

;I! 3.円筒上層b.c.d式期80 70 一司,一円筒上層b

60 ~~ート一円筒上層C

SO ----.. -円悶上層d

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三重工E盟主且旦

ニ主ニ笠並ー&ー大木10

三内丸山遺跡の変遷(羽生 2011より改変)

しかし、実際には、現時

図B

化のタイミングは、ほほ一致しているように見える。

点では遺跡、の居住の終わった時期と気候が寒冷化した時期を特定できる絶対年

代の測定値がまだ少ないので、両者の先後関係を特定することはできない。

三内丸山遺跡における住居社数、石器組成、土偶数の時間的変化の図8に、

5.最花式期民

70

回 一一一一一一ー ー+ー量花

so -一一一一

::7ー スー¥〆¥;~ ---¥/ ¥ o~』ー_/ \.............._~

N 会,ytdtd》tp攻、

この図から明らかなように、 三内丸山遺跡、では、その居住期間中特徴を示す

さまざまな時間的変化が認められる J 約 1600年といえば、古墳時代から

現代までと同じだけの時間の長さであるから、変化があったのも当然である

三内丸山遺跡からは、縄文時代の住居祉が600軒以上発掘されているが、そ

のうち、型式のわかる土器が伴っている住居祉(つまり、居住時期の推定が可

これらの居住時期の推定能な住居力1:)は約半分である。図下段の棒グラフに、

が可能な住居祉について、その細分型式期ごとの軒数を示す。住居社数が一番

多いのは、縄文時代中期中ごろの円筒上層 d式期~巴式期である。細分型式期

ごとの住居指数の変化をおおまかな人口変化の指標と考えた場合には、人口

三内丸山遺跡における石器組成の変化(羽生 2002より改変)図9は、前期では円筒下層 d式期でピークを迎えたのち、中期前半にいったん減

少し、その後円筒上層 d-e式期にかけて上昇した後、急激に減少し、中期末

には居住の終末期を迎えたと推定される。

ここで興味深いのは、住居社数の変化と石器組成変化との対応関係である

(図 9)。三内丸山遺跡の居住開始期である円筒下層 a式期には、石匙と呼ばれ

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18

る、取っ手付きの石のナイフの割合が最も高い l これは、狩事it.漁携の獲物の

解体道具と考えられる。さらに、出現頻度が2番目に高い石錐、 3番目の石鍛

のいずれも、動物の捕獲・加工に関連の深い道具であるc しかし、これに続く

円筒下層 b式期から中期初めの上層 a式期には、磨石 (すりいし)と呼ばれ

る植物質食料加工用具の出現頻度が増加する そして、中期前半~中頃(円筒

上層 b-d式期)には、磨石が、単独で石器組成の半分以上を占めるようにな

る。

生業の道具である石器組成の幅が、生業の多様性の指標であると仮定すれ

ば、図 8のデータは、生業の多様性が減少し、植物性食料への依存度が高まっ

た、とする解釈が可能である ところが、その直後の円筒上層 e式期~榎林期

には、それまで多量にあった磨石のほとんどが姿を消し、石器組成の主体が石

鍛になる。石畿の出現率が高い一極性の石器組成は、榎林期に続く最花式期に

は磨石側に多少の揺り戻しを見せるものの、遺跡の居住終末期である大木 10

式期まで続く 。

ここで興味深いのは、石器組成において磨石が急減し、石畿が培加するタイ

ミングである。磨石の急減は円筒上層 e式期に起こったのに対し、住居壮から

みた集落規模が急激に縮小するのは、これよりー細分型式期あとの榎林期であ

る(図 8参照)。この集落規模の減少と同時に、円筒上層 e式期までは数多く

出土していた土偶と呼ばれる祭杷具も姿を消す。つまり、順番としては、石器

組成に反映される生業の変化が最初に起こり、そのあとに住居壮数の減少に反

映される集落規模の縮小と、土偶に象徴される祭記の衰退が起こったというこ

とになる

このようなデータにもとづいて、筆者は、磨石を植物質食料の加工用具と考

えるならば、三内丸山遺跡の居住者たちは、植物質食料への依存度を高めた結

果、短期的には大規模な人口を養うことが可能になったが、過度の組物質食料

への依存が食・生業の多様性喪失と生業システムの脆弱化につながり、長期的

にはシステムの崩撲を招いたのではないかという解釈を提唱した(羽生

2015)。このような解釈は、本節の冒頭に示した「生業の専業化と食の多様性

I 食の多様性と文化の盛衰 19

の喪失は、システムのレジリエンスの低下につながる」という仮説と一致す

る。このような立場に立つ場合、気候寒冷化は、システム崩壊のきっかけと

なったかもしれないが、必ずしもその原因とは言えない。

上記の仮説をさらに検証するためには、動・植物考古学を含めたさまざまな

分析が有効である。花粉、植物珪酸体、珪藻、寄生虫などのミクロな動・植物

遺体の分析が、気候変動や植生の復元に役立つ。獣の骨、魚、の骨、植物の種

子、炭化材などのマクロな動・植物遺存体の分析は、食と生業の多様性の変化

を知るための基礎資料となる。さらに、こうした動植物考古学のデータは、人

間行動が環境に与えた影響を評価する際の手がかりにもなる。

幸いにも、 三内丸山遺跡に関しては、これまでに、豊富な植物考古学の研究

成果が報告されている。辻誠一郎 (1996)は、主に花粉分析の結果から、三内

丸山遺跡では、遺跡に人の居住が始まるまではコナラ属を中心とする落葉広葉

樹が主体の森林植生だ‘ったことを指摘している しかし、円筒下層 a式期に居

住が始まると、台地上の落葉広葉樹林は縮小し、谷筋ではオニグルミ、台地上

および斜面ではクリが局所的に増加した内さらに辻は、円筒下層 b式期以降、

遺跡の規模が拡大するにつれ、台地上の落葉広葉樹林は後退してクリが優先す

る植生に変化し、遺跡の居住期間を通じてクリ林が存続したこと、ただし遺跡、

居住の末期には、とくに谷底でトチノキが増加することを主張したq その後、

辻 (2011)は、辻・辻・南木 (2∞6)、吉川ほか (2∞6)、Noshiroand Suzuki

(2006)などの結果を引用し、三内丸山遺跡では、クリだけの単相林が人為的

に形成されて、遺跡の開始直後から円筒上層 e式期まで維持されたあとに、榎

林式期以降にはクリ林が衰退し、これにかわって谷筋のトチノキ林が急速に拡

大したとする考えを示した。大集落としての三内丸山集落の生業基盤はクリ林

の管理栽培にあったとするこの解釈は、三内丸山遺跡の景観復元(辻 2002な

ど)にも反映されている。

ここで気になるのは、三内丸山遺跡における磨石の主な用途がクリの加工で

あったか否かである。三内丸山遺跡において、磨石が増加し始めるのは円筒下

層b式期であり、これは、クリ花粉が増加する時期と一致する。しかし、ド

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ングリやトチノミと違い、アク抜きをしなくても食べられるクリについては、

必ずしも磨石で加工する必要はないのさらに、辻らが主張するように、クリの

単相林が円筒下層 b式期から円筒上層 e式期まで続いたと考える場合には、

なぜ磨石の出現頻度が円筒上層 a式期から円筒上層b式期にかけてさらに上

昇したのかを説明できない。したがって、磨石の多寡は、クリの食料としての

重要性を直接反映している指標とは考えにくい (羽生 2015)。

筆者は、近年、 主内丸山遺跡においてこれまでに発表されている花粉データ

の再検討を行った(羽生 2015)。古川ほか (2∞6)や吉川 (2011)、安田

(1995)、Kitagawaand Yasuda (2004・2008)、羽生・佐藤 (2008)などから明

らかな通り、三内丸山遺跡の堆積層のうち、縄文時代前期後半の円筒上層 b-

d式期については、花粉の保存状態が良く、分析結果でも実際にクリ花粉の割

合が高い。 しかし、中期の堆積層については保存状態が悪く、 信頼できる

AMS年代が乏しいため、クリの食料としての重要性を裏付けるデータは現時

点では前期後半ほどはっきりしていない。さらに、隣接する三内丸山 (9)遺

跡などでは、中期前半からトチノキの優勢が報告されている。これらの所見か

ら考えるならば、食料としてのクリの重要性は、前期後半の円筒下層 b-d式

期頃にピークを迎えていた可能性もある。

食の多様性の変化を考える資料を得るために、近年注目されている分析方法

としては、デンプン粒分析 (西田 2007、渋谷 2008・2010・2014、上保・中津

2012)、出土人骨の炭素・窒素の安定同位体分析 (たとえば、米田 2010)、土

器の内面に残された食物残i査の化学分析(たとえば、 Craiget al. 2013)など

があけられる。とくに、磨石の用途については、デンプン粒分析の結果が注目

される。たとえば、渋谷 (2008)では、 三内丸山出土遺跡出土の磨石に残され

たデンプン粒についての分析が試みられている。この論考では、具体的な種や

属の同定には至っていないものの、サトイモ、ヤマノイモ、ハシバミのデンプ

ンとは形態的に一致しないとの結果が報告されている。

今後、早急に必要な作業としては、第一に、気候変動データとその年代の整

備があげられる。海底や湖泊コアの花粉分析はもちろんのこと、海底コアのア

I 食の多様性と文化の盛衰 21

ルケノン分析にもとづいた海水面温度変化の検討も有効である(たとえば

Kawahata et al. 2009)。

第二に、遺跡分布データの再検討も重要である。青森県内で発掘された遺跡、

の特徴を調べたところ、三内丸山遺跡と同時期の円筒下層 a式から大木 10式

期の土器を出土している遺跡の数が約 600あった。このうち、住居祉が伴って

いる遺跡は約 70である。時期的には、三内丸山遺跡同様に、前期円筒下層 d

式期と中期円筒上層 d'e式期に住居社数の二つのピークが見られる。これら

のデータが実際の人口数の増減を反映するか否かについては、各土器型式期の

時間幅のより精密な推定を、新たに得られた放射性炭素年代にもとづいて検討

する必要がある。

遺跡分布のデータの検討は、各遺跡の機能の時間的変化と生業・集落システ

ム時間的変化を考える際にも必要不可欠である。同時期の遺跡分布について、

関根 (2014)は、市川 (2012)らの資料にもとづき、遺跡数から見た場合に

は、縄文時代中期末には大集落の数は減少するものの、遺跡、総数はむしろ増加

するという結果を発表している。このような研究にもとづくならば、中期末の

人口は、それまでの大集落への集中型から、より小規模な集落に分散した可能

性を考慮する必要がある。

小山修三 (Koyama1978、小山 1984)によって行われた人口推定では、縄

文時代の各時期内における遺跡規模の拡大・縮小の可能性は考慮していないの

で、この地域に閲しては、今後、関根が示したような新しい情報を加味した新

たな人口推定シミュレーシヨンが必要とされる。その際、最新の年代測定結果

を用いて、少なくとも縄文時代早・前・中・後・晩期の各時期の長さを推定し

なおす作業が必須である。

なお、筆者は、以前の論考(羽生 2002、Habu2004)において、三内丸山

遺跡における住居の大きさの変化に注目した分析を行ったことがある。その結

果によれば、縄文時代前期後半の円筒下層 a-上層 a式までは、大型・中型・

小型の住居がバランスよく分布している典型的な縄文集落の特徴を示すのに対

し、中期中頃の円筒上層 d'e式期の住居は、直径が2-3メートルのきわめ

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22

て小規模な住居の割合が著しく高くなる 同様の傾向は、羽生 (2002) より早

く、岡田 (1998)が指摘しており、その説明として、岡田はこの時代の人々が

核家族化した可能性をあげている もし、この時点で家族構成に大きな変化か

あったとしたならば、その背後にある生業形態や社会組織、労働関係にも大き

な変化があったと考えるべきである 、筆者は、別の可能性として、円筒上層

d'e式期における小規模な住居祉の優勢は、三内丸山遺跡における季節的居

住者の増加、ないし、遺跡の機能が一年の限られた時期に多くの人が集まる祭

杷・交易センターのようなものに変化した可能性も積極的に検討すべきだと考

えている。いずれの可能性を検討する際にも、三内丸山遺跡における考古資料

だけでなく、近隣遺跡との比較、および近隣地域における遺跡分布とその変化

の中で、三内丸山遺跡の機能と性格を今後さらに検討する作業が必要である。

4. まとめ

以上をまとめると、 宅内丸山遺跡をはじめとする北日本における縄文中期の

資料は、文化の長期変化のメカニズムの解明に役立つとともに、文化の長期持

続性の研究に関する考古学の貢献を考える上でも有意義である。

さらに、本章で示した、過度の植物質食料への依存と食の多様性の喪失が一

時的には人口増大を可能にしたものの、その結果としてシステムの不安定さが

増し最終的にはシステムの崩壊につながったのではないか、という仮説は、考

古学という学問分野を超えて、大きな意味を持つ。似たような例は、近・現代

にも見られるわけで、小規模で多様な社会が、大規模で均質な社会に統合され

るにしたがって、社会の長期的持続性の減少、環境負荷の増大という傾向が生

じている場合が数多くある ω この意味で、動物・植物考古学や環境考古学を含

めた縄文時代の考古学は、過去の事例の分析から、食と生業の多;様性、文化の

脆弱性、持続可能性など、現代の環境問題を考える際に鍵となる概念を扱える

研究分野なのである

I 食の多様性と文化の盛衰 23

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