issno38鼻 - oo7.jpsuganuma-hideo.o.oo7.jp/aigo/index.files/main.files/paper1990.pdf · 最 も 有...
TRANSCRIPT
ISSNO38鼻
剛
ノ
「九九〇年
三月
一 十六目
発行
第 47ロ万
目 次
鶴 文
『大美聯邦志略』の翻 刻
本願寺の内衆下間氏 と手能
杉 井 六 郎(王)
籠 谷 真智予(44)一 真宗文化史的観点から一
明末清初闘僧東渡孜
草堂寺閣端太子令 旨碑の訳注
研究ノー ト
古代 日本における高麗 の残燥
林 田 芳 雄(61)
杉 山 正 明(87)
渤海 ・背奈王氏を通 して一
唐 玄 宗 「御 製 蜘 書 」 碑文 の刻 字
拉評 ・紹介
菅 澤 庸 子(107)
山田信夫著 『北アジア遊牧民族史研究』
竹 中 愛 語(115)
乾 ゆか り(123)
彙 紐 (エ27)
1990
京 都 女 子 大 学 史 学 会
史 学
唐玄宗 「御製御書」碑文の刻字
唐玄
宗
「御製御
書」
碑文
の刻字
竹
申
愛
語
ギ
カ
ヒテが
ン
モンゴ
ル人民共和国に現在も建
っている突厭
の閾特動碑文
の漢文面
には、唐
①
ピD〆
・
玄宗
の
「御製
御
書」
の銘文が
刻
され
て
いる。本
碑文
は、復
興突豚第
三代
・落
伽
貞
ガ
γ②
可汗
(じロ出ぴq餌-Oo冨")
の弟
・閾
特勤
(目監-↓藷
『)
が
亡くな
った時、故人
の功
績
を賛
え
るため
に立
石され
た。立
石年
は開
元
二十
(七
三二)
年
で、碑文
には漢
文
と
突原文が
刻
さ
れて
いる。
そ
のう
ち、問題
の玄宗
「御
製御
書」
漢文
は西面
に
刻さ
れ、突
豚文
は残
る北面
・東
面
・南
面
・北東角
・南
東角
・南
酉角
、さ
ら
に西
面
の
「御製御
書」
と
いう文字
の下
に刻
され
て
いる。
一方
、中国
に現在
も
の
こ
って
いる玄宗
の
「御製
御書」
と
言われる碑文
の中
で
最
も有
名なも
の
は、陳
西省
の西安碑林
の石台孝
経と
山東
省
の泰山山壁
に刻され
ている紀
太山
銘
であ
る。両碑刻
は、玄
宗
「御製御
書」
の代褒的作
品とし
て
これ
③
まで書道家など
によ
ってしばしば
言及されてきた。特
に石台孝経は、玄宗自身
④
が実際
に筆を取
って全文を書
いたのかどうか疑問視
されてきた。
翻
って、閾特動碑文は
これまでのところ突蕨文を研究対象にすることが多く
漢文面の方
にはあまり注意が払われ
ていないのが実状
であ
る。そのためか、言
及されること
の多
か
った中国内地
の石台孝経
・紀太山銘
の刻字と悶特勤碑文漢
文面
の刻字とを、同
じ玄宗
の
「御製御書」と
いう視点から相互比較
してみるこ
と
はなか
ったようである。ただ
一人、清
の盛星が闘特勤碑文漢文面を述べる際
⑤
に石台孝
経
に言
及
し
ては
いるも
の
の、
やはり両者
の文
字
に
ついて相互比較
す
る
こと
はな
か
った。
筆
者
は古代
突蕨碑
文
研究を志す
う
ち、
闘特
勤碑文
漢文面
の刻字が
、申国
本土
にの
こる有
名な
石台
孝
経
・紀太
山銘
の刻字
に著
しく似
かよ
っていること
に気付
いた。そ
こで本
稿
では、
この三
つの碑文
の文字
の比較
だけ
に焦点
を絞
り、極
め
て基礎
的な
デ
ー
タのみを呈示す
る。
この作
業
によ
って、今
後
、中
国本
土
にの
こ
る複数
の玄宗
「御製
御
書」碑文
を検
討す
る上
で新
し
いデ
ー
タを提
供す
ること
に
な
り、或
いは逆
に、中
国本土
の玄宗
「御
製
御書」碑文
と
の比較
によ
って開特動
碑文研究
にも別
の新しい視点を与えることになれば幸
いである。
なお、碑文
の文字
の呈示
に際
し
て
は、
闘特勤碑文漢文面を瞼
、石台孝経を
粉、紀太山銘をか
で示す。
使用
す
る
刻字の写真は、
以下の拓劇
・拓影
に基づ
く
く
く。
閉特勤碑文漢文面
門京都大学文学部東洋史研究室所蔵
の闘特動碑文漢文面
の拓本
石台孝経
噂神
田喜
一郎
・西川寧監修
『唐
玄宗
石台孝経
幽
・㈲
・㈲』
二玄社、
一九八
一1
【九八八年。
紀太山銘
"中田勇次郎編
『中国書道全集』第四巻
唐蛮
・五代、平凡社、
一九八七年。
観峰
コレクシ日ソ図録
第
二号
『唐代の碑刻』
文字文化研究
所、昭和六三年。
賎①
玄宗が悶特勤碑文
の漢文面を撰文
・書写
し
た
こと
は
『旧唐書』
『新唐
書』
『冊府元亀』
に見える。
㈲
『旧唐書』巻
一九
四
・突蕨伝
「〔開元〕
二十年開特勤死詔金吾将軍張宏逸都官郎中呂
向
齋
璽
書
入署弔祭井為立碑上自為立碑上自為碑文
(開
元二十
(七三
二)
年、囲特動が死んだ。金吾将
軍の張去逸と都官郎中
の呂向
に詔
して、天子の印を押した詔書
を持
って突豚
に行き故人の霊を弔
いまつり、ならび
に故人
のために碑を立てさせた。玄宗自らが
碑文を
つく
った。)」
㈲
『新唐書』巻
二
一五
・.突蕨螢
「〔開元〕十九年蘭特勒死使金吾将軍張虫逸都官郎中呂向
奉
璽
詔弔祭帝為刻辞干碑
(開元十九
(七三
一)
年
、
閾特勒が死ん
だ。金吾将軍
の張去逸と都官郎中
の呂向
に天子
の印を押した詔
書を持
って故人
の豊を弔
いま
つらせた。玄宗
は故入のために銘
文を碑文
に刻した。)」
◎
『冊府元亀』巻九七五
・外臣部
・褒異
二
「〔開元十九年〕四月辛巳突原可汗弟閾特勒卒帝降書弔
之
日…
…是年十
一月詔金吾将
軍張去逸都官郎中呂向費璽書
入戎弔井為
恥
窓史
立
碑文帝自
為碑文
(開
元十九年
四月辛
巳、突厭可汗
の弟闘特勒
が
亡く
な
った
ので、玄宗
は詔書
を
下して
これを弔
って言
った。
……
こ
の年
十
一月、金吾将
軍
の張
去
逸と都官郎中
の呂向
に詔
し
て、天
子
の印
を押
した詔書
を持
って突願
に行き故人
を弔
い、
な
らび
に故
人
のため
に碑文
を立
てさ
せた。玄宗自
らが碑文
を
っく
った。)」傍
線は筆者
②
ビ
ルゲ
・カ
ガ
ソは、
砒伽可汗
(『旧唐書
』
『新
唐書』
など)
と裏
記さ
れ
る
こともあ
るが
、
闘特
勘碑文漢文
面
で
は
「碁
伽可汗」
と
刻され
て
いる
の
で、本
稿
でも
蕗
伽
可汗
とす
る。
③
例
えば、藤
原楚
水
『訳注語石
困』省
心書房
、
一九
七
五年。
『中国書道
全集
』第
四巻
唐
皿
・五代、
『唐
代
の碑
刻』など。
④
石
台孝経
の玄宗
書写
を疑問視す
るも
のは以
下
のと
おり。
㈲伏見沖
敬
「761
79
唐
石台孝
経
唐
玄宗書」「西安碑林』講
談社、
昭和
四
「年
、巻末
の解
説
の
一五頁
中
段。
「この孝
経
の本
文と注
は、古
く
から玄宗
の
「御書」
と
いわれ
て
いるが
、実
際
に皇帝自身
が筆
をと
って全文書
いたかどう
か、疑
問
であ
る。
李
斉古
の上表
にも
「義
展馨詞。
書題御翰」
とあ
る
が
、
これ
は、本
文が皇帝
の著
作
であり、題
字が皇太
子
の筆
であ
ると
いう
のであろう。最後
の批答
は玄宗
の震翰
であ
ろうが
、
こ
れと
本文
と
は用籏
の特徴
が
ちが
う
よう
に思う。西川博
士も
異筆
説
であ
ることをう
かが
った。」
㈲
西林昭
二
「唐
玄宗
石台孝経」
『唐
玄宗
石台孝経
唄』
=
一八頁
。
「と
ころで、先
入
の著録
では、本
文
も注も玄宗
の自書と
し
て疑
いを
はさ
まな
い。
しかし
、伏
見沖
敬先生
は、実際
に皇帝自身が
箪
を
と
って書
いたかどう
か、疑問
であ
るとされ、李斉古
の上裏
にも
「義
展容
詞。書題
御翰」
とあ
って、本
文が皇帝
の著作
で、
題
字が皇
太子
の筆
であ
ると
いう意
であ
ろうとみて、批答と用筆
の特微が
ちが
う点
を指摘され
、な
お酉川博
士も異筆
説をと
って
お
られ
ると附
言
されて
いる。
私
には当否
を知
りが
た
い。ただ
、
王世貞
は
「紀太山銘、唐
開元帝
の製
および手霞なり。あ
い債
え
て燕許そ
の辞
を修
し、韓
史
そ
の筆
を潤す
とす。故
をも
って文
は
⑤
頗
る雅馴
にして狸弱ならず
、隷法
は小
しく東京
を変
ず
と
いえど
161
も
、最
も穰勤
たり
て、古意
を饒
にす
。
云
々」と
い
って、太
山銘
は、韓
択木
・史惟則が玄宗
の手書
を潤
色し
た、
と
いう伝
承を是
と
し
ているから、
これと同様
のことが
この碑
にも
行
なわれ
たと
考
えられなく
はな
い。史惟則
の大智
禅師
碑、あ
る
いは梁昇
卿
の
御
史台精
舎碑
銘
は、結構用筆
と
も
こと
によく似
て
いる。も
とよ
り玄宗
の隷書
をよく
した
こと
は償
じ
てよか
ろうが
、楊貴
妃
を得
た悦
楽
の日々
に、
こう
した大作
を、終始
貫注
し
て書
き
え
たろう
かと
の疑
いも
生じ、あ
る
いは御
注
もだれ
か
の瀾色
を経
ていると
考
え
ること
もできようqL
◎塚
田康
信
「石台孝
経碑
の研究」
『福
岡教
育大
学紀要』
(第
五分
冊
芸
術
・保
健体
育
・家政
・技術科
編)
二四号、
昭和
四九年
、
四〇
頁
。
「孝経
の経
文と注文
は、古く
から玄宗
の御書
と
い
わ
れ
て
い
る
が
、実際
には本文
の
一部
や批
答
などと他
の部分と
の間
に用筆
の
相違
があ
って、皇帝自身が全文
を書
いたかどう
か、と
いう
こと
については、問題
が残され
て
いる。」
㈹長
尾秀則
「玄宗
コ石台孝
経」成立
考ー
建
碑
の理由を中
心と
し
てー
」
『漢文
学会
々報
』第
三
二輯、昭和
六
一年
、
三七頁。
「「石台孝
経」
の成立
には、
玄宗
自筆
か他筆
か
の疑義
があ
り、
序
・本文
・注
・批
答
に
ついて
の細密
な調
査
など、今後
の検討が
必要
であ
る
こと。」
盛旦
『意園文略
』巻
一・閥特
勤碑践
「猶近古字体
唆整与
石台孝
経
同真
明皇書
(閉特
勤碑
文漢文面
は、近
い
昔
の字体
のよう
に美
しく整
って
いて、石台孝
経
と同
じであ
る。
ま
こと
に唐
玄宗
の書
であ
る。)」
(付
記
)
①
石台孝
経
・第
四面
の批答
は行
書体
で書写され
て
いるので、比較
の対
象
で
はな
い。
②
紀太
山銘は適当な拓本
・拓影
を利用
できな
か
った
の
で、刻字
の行数
は分
らなか
った。従
って、表
り紀太
山銘
の刻字行
数
は省略す
る。
唐玄宗 「御製御書ユ碑文の刻字
刻 字 覧
刻 字 閲 石 刻 字 閾 石 刻 字 腸 石 刻 字 面~
石~④ 一4~④ 一6
(1)先 U ② 一8 (28)生 7 ② 一13 (55)則 2 ③ 一5 (82)文 3
(2)是 1 ② 一16 (29)此 7 ③ 一10 (56)別 1 ① 一8 (83)而 6
(3)於 3 ① 一3 (30)也 7 ③ 一2 (57)祖 6 ① 一13 (84)身 6~
① 一2
(4)其 1 ③ 一4 〔31)発 1D ① 一8 (58>子 9 ① 一2 (85)旧 2一
① 一4
(5)可 9 ① 一1 〔32)揮 10 ① 一8 〔59)敦 11 ③ 一12 (86)禄 6~
② 一4
(6)天 1 ① 一14 (33)令 5 ③ 一14 (60)長 12 ① 一15 (87)曾 6
一② 一14
(7)人 1 ② 一5 (34)今 5 ① 一7 (6D保 12 ① 一16 (88)愛 7 ② 一3
(8)聞 5 ① 一1 (35)作 4 ② 一13 (62)何 7 ① 一11 (89)教 3
一② 一8
(9)朕 4 ① 一1 (36)能 7 ② 一4 (63)且 9 ① 一7 (90)虞 4
一① 一6
(1D)高 12 ① 一15 (37)七 3 ④ 一2 〔64)略 7 ① 一1 (91)次 5
一
① 一6
(11)無 4 ③ 一14 (38)載 4 ① 一8 (65)為 4 ② 一15 (92)芙 2
『④ 一7
(12)垂 12 ① 一8 (39>道 11 ① 一5 (66)義 9 ① 一5 (93)遠 5 ① 一4
(13)不 7 ③ 一15 (4D)選 10 ④ 一3 (67)親 11 ① 一13 (94>友 7
一③ 一15
(14)以 7 ① 一1 (41)行 6 ① 一12 (68)斯 6 ① 一3 (95)八 3 ② 一1G
(15)宗 3 ③ 一18 (42)頼 5 ① 一14 (69)敗 5 ① 一2 (96)成 7 ① 一5
(16)故 7 ② 一12 (43>王 11 ② 一1 (70)猶 9 ③ 一6 (97)堂 6 ③ 一8一 注
(17)之 2 ② 一1 (44)君 5 ① 一12 (71)景 8 ① 一3 (98)首 2 ⑧7一 注
(18)地 6 ③ 一 工7 (45)然 7 ② 一4 (72)者 1 ① 一4 (99)蒼 1 ③ 一12一注
(19)有 8 ③ 一15 (46)終 3 ② 一6 (73)大 1 ① 一3 ㈲)賢 7 ⑨ 一5一 注
(20)徳 6 ③ 一10 (47)受 8 ① 一11 (74)特 5 ① 一7 (10D情 10 ⑧5一 注
(21)上 6 ③ 一17 (娼〉 爾 4 ② 一10 (75)殊 11 ① 一8 (1吻 克 1⊥ ひ1一 注
(22>父 9 ① 一12 (49)国 11 ① 一2 (76)相 1 ① 一5 ⑳3)栄 3 @13一 注
(23)同 1 ② 一3 (50)弟 9 ③ 一9 (77)甘 2 ④ 一4 (1贋)変 3 ④ 一6一 注
(24)干 11 ① 一3 (51)用 工D ① 一8 (78)順 11 ② 一14 α⑤ 使 4 ① 一14一注
(25)太 3 / (52)孝 5 ② 一15 (79)北 7 ④ 一1 (lo5)施 6 ひ8一 注
(26)修 4 //1岡 兄 9 ③ 一12 (80)中 2 ④ 一3 (1㎝)合 1 G》3一 注
(27)尽 8 ① 一13 (54>仁 6 ① 一1 (81)下 6 ③ 一6 (1偲)光 1D G>12一 注
匝](1)r(24}1阪 特 動 碑 文 漢 文 面,石 台 孝 経,紀 太 山 銘 の 比 較 。
〔25)即(26)=閾 特 動 碑 文 漢 文 面,紀 太 山銘 の 比 較 。
(27)一 α偲)=騙 特 勤 碑 文 漢 文 面,石 台 孝 経(た だ し,〔97>~(㈱ は石 台 孝 経 の 注 か ら引 用)の 比 較。
囮 閾特 勤 碑 文 漢 文 面 の刻 字 は,行 数 で 示 す。 〔例 〕(1)先11行 目 噂11。
圃 石 台 孝 経 の 刻 字 は,第1面 を①,第2面 を②,第3面 を ③,第4面 を④ と して,各 面 の行 数 と と も に示 す・
〔例}(2>是 第2面 の16行 目→ ② 一16,(97)堂 第3面 の8行 目の注 → ⑧8一 注 。
三17
醤顔
翻画畠扇
〈石 〉
置醇(5)
E〈 太 〉、ξ
囹岡
置肉く石〉
史
ω
〈太〉層 「
閲.
囹輝鵬 翫 ・ ②
罧 く太〉 て
爵零③〈太〉
置騨
窓
昌:画
置肉財曲閣 ㈲ ㈹
㈹
1
躍麺
㈲
■
1
困困国四
(13)
困く閾〉
(太>G4)
囲〈閥 〉
繭〉
>
太
石
く
く
團困
騒:碑(太)(11)
r甜
瞳閣,紫㌦)
Lr「
砥
騒鱒118
唐玄宗 「御製御書」碑文 の刻字
〔251
図 囲〈太 〉 (闘 〉
(26)
圏 圏く太 〉 〈闘〉
(27>
図
.、ラ石く
國 團(石 〉 〈聞 〉
.四
、同
ラ
伏
㈲
短
佑
園困
罎面
、圃
.
船
粉
く
く
圏國
(19)
自
面蜀
験画鍾聴
匹
(石)
(37)
個 〉
(38>
国 国く厩〉く石)
〔39}
国國(石 〉
)
>
0
闘
@
く
囲 国〈石 〉(臨 〉
〔33)
囹1困く石〉 欄 〉
(34)
囲 彊(石 〉 (闘 〉
〔35)
国 囲く石 〉
囲(石 〉
(閉 〉
(36}
囲く闘〉
〈石)
(29)
(闘〉
燭
肉
囲
鋤
暉
困
隅119
史 窓
(49)
回圖〈石〉
囲 囲く石 〉
〈閥 〉
(50>
)
>
-
鵬
6
〈
囲囲(石 〉(闘 〉
(52♪
圏 国(石〉 〈闘〉
(45)
困困(石 〉(閥 〉
(46)
〈石 〉 〉
)
閥
47
〈
(
困 國〈石 〉 〉
)
閾
48
〈
(
國同
〈石〉
(41)
〈鵬 〉
〔42,
国 閣〈石 〉 〈閥 〉
(43)
目 国〈石 〉 〈閣〉
(磁1
国閣、困
.、嗣
.
国
.固
、(63)
凹囲(石 〉 欄 〉
(64)
薗團(石 〉(闘 〉
〈石 〉
(57)
〉
)
閥
58
(
(
團 国〈石 〉 〈閥〉
(59)
國 國く石 〉 〉
)
既
6D
〈
(
国翻(石 〉 〈闘 〉
〔53)
四 閣(石 〉 〈開 〉
(54)
圏1躍〈闘〉く石)
(55)
図 図〉閥
の
(
5
國 園(石 〉 〈閾 〉
120
唐玄宗 「御製御書」碑文 の刻字
困く石 〉
(73>
(閥 〉
(74)
圖 圖(石 〉 〈闘)
〔75)
困 困〈石 〉 〉
)
閾
76
〈
(
国 睡〈石 〉 〈閥〉
(69)
困国(石 〉(閾 〉
(70)
圏 瞬(石〉 〉
)
硯
π
(
(
困 圃〈石〉 脚
吻
く
(
〈石) (閥 〉
圏囚(66)
国図く石〉 個 〉
〔67)
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