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蔦の教会 2017年 11月 26日(4) 辿 調 ¨ 66 66 殿 38 39 殿 4‐ 調 殿 17 殿 殿 66 68

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蔦の教会2017年 11月 26日 (4)

ユダヤ民族は何故デ

ィアスポラ

(離散状況)とな

ったのか

約1800年間も国を持てずに

世界に離散せざるを得なかった

ユダ

ヤ民族の歴史を、再び詳しく辿

って

みたい。

その(5)

ゼーロータイ

(熱心

党)の反乱

ローマはユダヤを直接支配下に置

き、徴税組織を整備するためと

ユダ

ヤ人の財産を査定する目的でAD6

年に人口調査を実施した。ルカの福

音書

(2

¨1)にも記されているこ

とで、イエス様の父ヨセフと母マリ

アも住民登録するために、ガリラヤ

の町ナザレからヨセフの出身地ベツ

レヘムに旅立

った。民衆は最初憤慨

したけれども、大祭司ヨオアザルに

説得されて課税反対運動を差し控え、

おとなしく財産査定に応じた。しか

しガ

マラの町出身ガリラヤ人ユダと、

パリサイ派のザドクが抵抗運動を起

こし反乱扇動を始めた。彼らの主張

によると、唯

一の神のみを支配者と

するユダヤ人が、

ローマ皇帝に納税

することは許されないことであり、

さらに武力によってロー

マ人を聖地

から追い払うことがメシアの到来を

早める道であると彼らは信じていた。

この反乱を主導したのがゼーロータ

イとよばれる熱心党であ

った。

熱心党運動のイデオロギーはパリ

サイ派の中から生じた過激な行動理

論であ

ったが、熱心党内部ではユダ

を中心としたガリラヤ派と、ザドク

を頭にした

エルサレム派に分裂して

いた。特に尖鋭な暗殺集団

「ガリラ

ヤの短剣党

(シカリオイ)」とは激

烈な内ゲバを演じた内部抗争もあり、

各派閥間の関係も複雑であ

った。ガ

リラヤ派は対ローマ抵抗運動を、下

層階級を基盤とした社会革命を目指

「終末論」であるのに対して、 エ

ルサレム派は社会問題よりも、 一定

の祭司家による大祭司職の独占を廃

止することにとどまった。

AD66年の大反乱は、BC2世紀

のマカバイの反乱と違う点は、 ユダ

ヤ人共同体が統

一した指導体制を確

立できなかったことであ

った。次々

と着任した7人のローマ人総督は、

全員私腹をこやすために法を踏みに

じり、

ユダヤ人の宗教的誇りを傷

け、反抗するものは容赦なく弾圧す

ることに終始した。これに対して民

衆の支持を受けた熱心党のゲリラ活

動が激化したため、社会の秩序と治

安は急速に失われ、 ユダヤは無政府

状態に陥

った。

その(6)

第1次

ユダヤ戦争

熱心党の反乱前、最後の総督フロ

ルスが着任するまでは、大祭司やパ

リサイ派の指導者やアグリッパ2世

など、穏健派の有力者たちが民衆を

なだめて、 ローマ帝国に対する決定

的反乱を回避してきた。しかしAD

66年に

エルサレム神殿の宝庫から

フロルスが金を盗んだことに端を発

して起こった争乱を、穏健派はもは

や制止することが出来なかった。

ロー

マ皇帝カリグラは自ら神を名

乗り、帝国全体で皇帝礼拝に参加す

るよう強要したとき、 ユダヤ人たち

は当然ながらこれに従おうとはせず、

ユダヤ人に厳しい抑圧が加えられる

ことにな

った。AD38年アレキサン

ドリアでは、 ユダヤ人が強制的に皇

帝礼拝をさせられ、いくつかのシナ

ゴークには力ずくで皇帝像が建てら

れ、他のシナゴークには火が放たれ

た。そして残虐な

ユダヤ人迫害が開

始された。AD39年になるとユダヤ

人たちは、異教徒の住民たちがヤム

ニアに建てた皇帝の祭壇を破壊して

しま

った。ン」れに対しカリグラ帝は、

エルサレムの神殿に皇帝像を建てる

ことを命じた。驚愕したユダヤ人た

ちは、シリア総督ペトロニウスに嘆

願し、アグリツパ王と皇帝に命令の

撤回を陳情したが、はかばかしい結

果は得られなかった。

AD

4‐年にカリグラ帝が暗殺さ

れたので、 エルサレム教団は恐るベ

き破局を回避することが出来た。し

かしヘロデ

・アグリッパ王の死後、

ローマ人と

ユダヤ人の間の緊張はま

すます深刻な度を深めていった。

ロー

マ総督たちの、 ユダヤ信仰に対

する無理解、強硬策、干渉は、ゼー

ロータイ

(熱心党)に同調する人々

を増大させ、逆にゼーロータイの復

讐、騒乱、暴力行為は、 ローマ側の

報復処置を誘発することにな

った。

国内の腐敗、経済的破綻、仮借な

い搾取に加え、カイサリヤでユダヤ

人とシリア人の間に、公民権問題を

めぐる紛争が起こり、 ローマ皇帝の

法廷裁判でユダヤ人側が破れ、人々

の憤まんはいよいよもって高ま

って

いつた。公然たる反乱

への最後の

きつかけは、総督フロルスが神殿の

宝庫から

17タラントの金をうばい

ったことであ

った。

エレアザル

ベン

・ハナニヤに率いられた反乱軍

は、神殿地区を占領し、大祭司も暗

殺され、邸やアグリッパ官殿やアン

トニア砦などに火を放

った。さらに

マサダと

ヘロデイオン要塞も手中に

収め、いまや国内の至る所で反乱の

火の手があが

った。

AD66年ネ

ロ帝は将軍フラヴィ

ウス・ヴ

エスパシアヌスに重装備3

軍団と補助部隊も加えてガリラヤに

進軍させ、手中に収めた。AD68年

に皇帝ネ

ロが死亡し、 ローマ軍は攻

撃を中断、一応の膠着状態に入った。

反乱軍はこの間、支配権をめぐ

つて

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(5)蔦の教会2017年 11月 26日

権力闘争を繰り広げていた。ゲリラ

隊の指揮者シモン

・バル

・ギオラと

ゼーロータイ指導者ギスカラのヨハ

ネであ

った。

AD70年春、皇帝の息子ティトウ

スは5軍団を率いてエルサレムを包

囲し、激しい戦闘の末、神殿は猛火

のなかに焼け落ちた。反乱軍は

ヘロ

デイオン、 マケロス、 マサダの3要

塞に立てこもり抵抗したが、 マサダ

要塞を最後に陥落。マサダ要塞では、

ただ2人の婦人と5人の小さな子供

のみが隠れて生き延び、他の兵士は

全員自害して果てた。AD73年の春

のことであ

った。

その(7)

第2次

ユダヤ戦争

エルサレム教団は神殿の破壊に

よつて、正統な礼拝の場を失

ったが、

許容された宗教の形で生き続け、神

殿の代わりにシナゴークが、犠牲(い

けにえ)の代わりに聖典の朗読

。解

・祈り

。慈善行為などが宗教生活

の中心とな

った。律法学者が祭司に

代わる宗教的権威とな

った。古い祭

司貴族からのサドカイ派はもはや何

の意味も持たない存在となり、パリ

サイ派の律法学者が

ユダヤ教におけ

る指導者とな

った。 ローマ軍に投降

した律法学者ヨハナン

・ベン

・ザカ

イはロー

マの許可を得て、ヤブネに

学校を作

つた。ヤブネには新たに議

(サンヘドリン)も建てられ、政

治的機能はま

ったく持たないもので、

ユダヤ教内部の問題について判決を

下すことは許されていた。

ロー

マ皇帝

ハドリアヌスは、神殿

の代わりに、 ユピテル

・カピトリヌ

スの聖所を建立することを計画し、

割礼を禁止した。これが原因でAD

l32年に判乱が起こり、シモン

ベン

・コスバの指導の下に優勢とな

り、 エルサレムを征服し、 ユダヤ全

土を征圧することに成功した。判乱

軍は堅固な城塞に引き籠り、或いは

秘密の隠れ家に潜んでゲリラ戦法で

ローマ軍を苦しめたっADl35年

に将軍ユリ

ュウス・セヴ

ェルスは正

面切っての野戦は避け、町の中に叛

乱軍を閉じ込め兵糧攻めにした。要

所を

一つ一つ詰めて、最後に残

った

要害の地ベタル砦も陥落した。この

坂乱を通じてユダヤ全土は荒れ果て

た。 ハドリアヌス帝はエルサレムを

ローマ式都市

コロニア

・アエリア

カピトリナという名の完全な異邦人

の町とした。後の聖墳墓教会の場所

にはヴイーナスの神殿が建立され、

ユダヤ人たちは彼らのかつての聖都

への立入を厳禁された。また過去の

ユダヤ人国家の最後の記憶を拭い去

るために、属州ユダヤはフィリろアィア

あいにくの雨でしたが、特別な雨対応の

セツテイングで新登場のバルーンアート

も交えにぎやかに行われました。雨中での

奮闘、おつかれさまでした。

と改称させられたcこれはかつての

イスラエルの宿敵ペリシテ人に由来

し、今日の

「パレスチナ」という地

名となり、イスラエル、 ユダヤは完

全に消滅してしまった。こうしてュ

ダヤ民族は国土を失い、約1800

年間も世界にデイアスポラ

(離散状

態)されてしま

った。

マサダ要塞遺跡