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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 血液映像論 : 「本能」と「ガタカ」の間(Blood image : between "Honnou" and "GATTACA") 著者 Author(s) 田畑, 暁生 掲載誌・巻号・ページ Citation 神戸大学発達科学部研究紀要,8(1):193-205 刊行日 Issue date 2000-09 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81000399 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000399 PDF issue: 2020-02-22

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

血液映像論 : 「本能」と「ガタカ」の間(Blood image : between"Honnou" and "GATTACA")

著者Author(s) 田畑, 暁生

掲載誌・巻号・ページCitat ion 神戸大学発達科学部研究紀要,8(1):193-205

刊行日Issue date 2000-09

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81000399

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000399

PDF issue: 2020-02-22

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神戸大学発達科学部研究紀要

第8巻第1号 2000

血液映像論 :「本能」と 「ガタカ」の問

田畑 暁生*

BloodImage:Between一一Honnou''and"GATTACA'-

AkeoTabata

「情報はもはや現代社会の生命-血液(life-blood)であり、誰もそれなしでは

生 きてゆけない。情報の流動性は血流の同義語 とな り、われわれ全てを

(メタフォリカルな)吸血鬼へと変えたように見える」サラ ・ケンバー

SarahKember一一VirtualAnxiety:Photography,newtechnologiesand

subujectivity"ManchsterUniv.Press,pp.134-5.

「血が必要なんだ !人間の血が !そうしなくっちゃ、この空っぽの世界は蒼ざ

めて枯れ果ててしまうんだ。僕たちはあの男の生きのいい血を搾 り取って、死

にかけている宇宙、死にかけている空、死にかけている森、死にかけている大

地に輸血してやらなくちゃいけないんだ」

三島由紀夫 『午後の曳航』第二部第六章

「もし血液を天然資源と考えるなら、まちがいなく世界で最も高価な液体の部

類に入る。例えば原油は今、1バレルあたり約 13ドルで売買されている。

同じ量の血液は原油に相当する全血で2万 ドル以上する」

ダグラス ・スター 『血液の物語』pp.12-13.

「血はまったく特製のジュースだ」(BlutisteinganzbesondersSaft)

ゲーテ 『ファウス ト』、メフィス トテレスの発言

はじめに

1999年の日本の歌謡界は、宇多田ヒカルに明けて椎名林檎で暮れたと言っても、強ち間違いではあ

るまい。似たりよったりに見える音楽プロモーション・ビデオが多いなか、看護婦の扮装 (コスプレ

?)をした彼女が輸血血液に囲まれて歌う椎名の 「本能」のビデオ映像には私も衝撃を受けた。学生

たちも同様だったのか、驚いたことに、「視覚映像表現論」の授業で、「好きな映像作品」をレポー ト

課題として出してみたところ4人もが、このビデオを挙げていたのである。

同時に私は、どこかで似た映像を見た、という印象を持った。すぐに分かった。映画の 「ガタカ」

である。ガタカにおいても、血は主役といってよい役割を果しており、副主人公は自分の血を取 り、

*神戸大学発達科学部造形表現論講座

-193-

(2230.0.葦喜BB;呂 霊宝)

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神戸大学発達科学部研究紀要 第8巻第 1号

主人公に与えるのである。

この二つの映像作品における血液の扱いを導きの糸として、血液映像の担っている意味の構造を明

らかにすることが、この論文の大要である。

1.「本能」 :生の普遍性 を象徴する血液映像

「本能」は椎名林檎のプロモーション ・ビデオ 『性的ヒーリング 其の壱』に収められた一曲である。

カット割 りの大要は、表 1に示 した。大別すれば、看護婦姿の彼女が輸血血液に囲まれて歌うシーン、

ガラスを割るシーン、下着姿の女性を愛撫するシーンに分けられよう。血液映像が出てくるのは、番

号で言うと、6、7、8、10、11、12、13、28、29、30、35、37、39、41、42である。

場面 時間

1 00〝 横座 りをしていた看護婦姿の林檎が、ゆっくりと立ち上がる

2 06 林檎、右手の拳を突き出して、ガラス板を割る

3 10 拡声器のマイクを持って歌う林檎

4 16 白い床面で割れるガラス

5 20 3と同じ

6 25 輸血用容器の中で泡立つ血液 (途中からスロー)

7 30 マイクで歌う林檎、後ろには医者の恰好をしたギタリス ト

(カメラは上から、左-右へ動 く)

8 40 7と同じ (カメラは上から、右-左へ動 く)

9 50 遠 くにぼんや りと立っている林檎

10 54 7と同じ (カメラは上から、右-左へ動 く)

11 1-04 7と同じ (カメラは上から、右-左へ動 く)

12 16 遠 くから走ってくる林檎

13 18 7と同じ

14 19 12の続 き、遠 くから走ってくる林檎

15 20 輸血容器に入った血液を眺める林檎

16 24 14の続 き、走ってきた林檎がガラス板を蹴って割る

17 35 白い床面で割れるガラス (4と同じ)

18 36 16の続 き

19 38 ソロで歌う林檎 7と比べて壁面がややクリーム色っぽい

20 56 医者の格好をしたギタリス ト (フェイドイン)

21 57 「本能」(非常口灯 と同じような形だが、色は赤い)

22 58 ベッドに横たわる白衣の女性の上から、

看護婦の姿をした林檎がおおいかぶさる

23 2■04 横たわる女性の足のみを爪先から膝へ

24 05 ハイヒールで座っている女性の足のみを爪先から膝へ

25 06 黒い下着姿の女性の上から覆いかぶさる林檎

26 07 黒い下着姿の女性を林檎が諌める

27 08 26と同じシーンの別アングルからのアップ

28 13 7と同じ

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血液映像論 :「本能」と 「ガタカ」の間

29 26 7と同じ

30 29 7と同じ

31 34 26の続き 舌を話す林檎

32 39 31と同じシーンだが、枕の側から撮影

33 42 白衣姿の女性 (?)の足を愛撫する林檎

34 43 32の続き

35 45 輸血容器の中で沸き立つ血液

36 47 肘でガラス板を割る林檎

37 3-03 7と同じ カメラ上から右-左

38 13 19と同じ

39 16 7と同じ

40 23 19と同じ

41 24 7と同じ

42 30 ソロで歌う林檎 右手の拳でガラス板を割る林檎

青い手術着を来た6人はどの人々がガラスを片づけている

林檎、もう一度ガラス板を蹴って割る

表 :「本能」における場面構成

色数を思い切って抑えてあることも、血液のインパクトを増す結果を導いている。血液および口紅

の赤、バックと白衣の白、そして、途中出てくる女性の下着の黒、これ以外の色は、ほとんど出現し

ないといってよい。変な中間色が多用されていたら、画面は混濁していたに違いない。

しかしよく見ると、ここで表現されている血液の色も、そして粘性も、写実的とは言いがたい。実

際の血液の色は (健康状態等にもよるが)、もっと色が濃い。また、泡立つ血液の映像が出てくるが、

泡の具合から観察すると、ほとんど粘性が感じられず、ただの色水並みである。これは、あまりに写

実的に血液を措 くと (本物を使うことだって決して難しくはない)、毒々しくなりすぎることを恐れ

たのかもしれない。

では、この血液は何を象徴しているのか。

言うまでもなく、曲のタイトルである 「本能」である、というのが、最も妥当な解答であろう。21

番目のシーンで、非常口灯 (通常緑色である)の形をした赤い 「本能」灯がともっているのも、それ

を裏付けている。

「どうして歴史の上に言葉が生まれたのか/太陽、酸素、海、風、もう十分だった筈でしょう」と

いう歌詞は、言葉以前の世界、言葉によって生まれた様々な差異がなく、人間が 「本能のままに生き

ていた世界」(それが後世による担道の可能性ももちろん多いが)を称揚 している、と読み取れる。

言語の本質は差異であるとする、ソシュール (派)の言語理論を思い起こしてもよい。いわば人間の、

性を中心とした生の普遍性 ・共通性が、血を通して象徴されている。「誰にでも赤い血が流れている」

とする、各種の差別に反対する論拠を思い起こしてもよい。

文学的な領域で、同様に血を使っている例としてすぐに思い浮かぶのは、与謝野晶子 『みだれ髪』

である。俵万智の現代語訳とともにいくつか上げておこう。

「血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど 春を行 く入神おとしめな」

(釈)「血を燃やす一夜の夢を蔑むな 恋とは神の意思なのだから」

「膜脂色は誰にかたらむ血のゆらぎ 春のおもひのさかりの命」

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神戸大学発達科学部研究紀要 第8巻第 1号

(訳)「牌脂色に渦巻く我が血、我が思い 受けとめられる男おらぬか」

「やは肌のあつき血汐にふれも兄で さびしからずや道を説く君」

(釈)「燃える肌を抱くこともなく人生を 語り続けて寂しくないの」「痩せにたれかひなもる血ぞ猶わかき 罪を泣く子と神よ見ますな」

(訳)「痩せたのは罪の意識のせいじゃない 恋そのもののためです神よ」

「ひとつ血の胸くれなゐの春のいのち ひれふすかをり神もとめよる」

(釈)「我が胸に燃えいる春のくれないの いのちの香り君に与えん」「歌は斯くよ血ぞゆらぎLと語る友に 笑まひを見せしさびしき思」

(訳)「「歌読んで血が燃えたわ」と言う友に ちょっと寂しく笑ってみせる」

「いさめますか道ときますかさとしますか 宿世のよそに血を召しませな」(釈)「諌めますか道説きますか諭しますか 世の中なんていいから抱いて」「もろかりしはかなかりLと春のうた 焚くにこの子の血ぞあまり若き」

(釈)「脆かった惨かったとこの恋を 過去にはできぬ今生きている」

「かたちの子春の子血の子ほのほの子 いまを自在の麹 (はね)なからずや」

(訳)「美しく若くひたすら燃えやすく 自在という名の羽を持つ我」「誰に似むのおもひ間はれし春ひねもす やは肌もゆる血のけに泣きぬ」

(訳)「「誰のような恋がしたい?」と問われてもわけもわからず燃えている肌」

いくつかの歌、特に最も有名な 「やわ肌の ・- 」の歌において、俵万智の訳では、血の字が消え、

「燃える」「恋」「抱いて」「生きている」といった言葉の中に置き換えられているのも、血の持つ生

命感をより直接的に表現したものに違いない (注1)。

2.「ガタカ」 :生の差異性を象徴する血液映像

「ガタカ」の方は、長編の劇映画なので、筋の解説が必要であろう。

タイトルの 「ガタカ」は、遺伝子DNAの四つの塩基配列GTCAを組み合わせたもので、主人公

の勤める宇宙開発企業の名前である。遺伝子による管理が徹底した未来社会を描いている。「ガタカ」

社では、オフィスへの入場ゲートで、細い針で指を差し、そこから血を採取してDNAをコンピュー

タで瞬時に解析し、怪しい人物が入らないようにしている。実は主人公ビンセント (イーサン・ホー

ク)はまさに怪しい人物、というのは、この会社では、遺伝子が優秀でないと入社資格はなく、主人

公はその未来社会においては珍しい 「遺伝子操作をせずに生まれた人間」で、いくつも遺伝的欠陥

(病気になりやすい遺伝因子)を持っているからだ。しかし、宇宙への夢やみがたかった主人公は、

素晴らしい遺伝子をもち水泳界のスーパースターだったのに交通事故 (実は、自分から車の前に飛び

出したこと後で告白する)で身体障害者となった男ジェローム (ジュード・ロウ)に、年収の二割を

渡す契約をして、彼になりすます。そのために、毎朝モローが予め抜いて保存しておいた血液を指サッ

クと指の間に注入して、この厳しい 「血液検査」をパスし続けるのである。「履歴書は偽っても、細

胞は嘘をつかない」「どんなに努力しても、血液検査が立ちはだかる」「写真など誰も見やしない」と

いったセリフが随所に語られる。

この未来社会においては、人工受精 ・遺伝子操作をして、子どもに遺伝病の可能性 (近眼、若ハゲ

やアルコール依存なども含め)がなく、少しでも優秀に生まれるように取り計らうのが 「親の義務」

となっているのだ。主人公の弟も、人工受精+遺伝子操作によって生まれている。主人公の回想シー

ンの中で、常に弟の方が知力 ・体力ともに上回っていたことが明かされる。しかしある時、弟と主人

公とが、どちらが遠くまで泳いでいけるかを競った時に、初めて主人公が弟を逆転し、弟が主人公に

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血液映像論 :「本能」と 「ガタカ」の間

助けを求め、主人公が弟を支えて岸まで連れて帰る。砂浜には赤い三角の旗が二本、はためいている。

この二本の旗は、おそらく兄弟二人を、象徴的に表現しているに違いない。

主人公に危機が訪れるのは、主人公の真正性 (本物かどうか)に疑いを抱いていた上司が、社内で

惨殺されてからである。刑事が社内に入り込み、さらに厳しい検査が行われる (注2)。

最後には疑いが晴れ、ビンセントはモローとして宇宙飛行 (土星の衛星のタイタンへ)に出発し、

モロー自身は血液サンプルを残して自殺する、という結末には、「生まれ」よりも、「努力」を重視し、

操作によって生まれた子どもよりも自然な愛情によって生まれた子どもの方が幸せだとする、アメリ

カの思想がそのまま現れている。竹内洋や大村英昭の言い方を借 りれば、(競争を)「煽る」考え方と

言えよう。

ガタカの物語自体には、ご都合主義的な矛盾が満ちている。例えば、オフィスは塵一つないように

細かく管理されているはずなのに、上司を殺した犯人はなかなかつかまらない。また主人公はモロー

になりすますために、遺伝子操作こそ受けないが、身長を伸ばすという外科的操作は受け入れる。

このガタカにおける血液は、遺伝子記号を担うメディアとしての役割を持たされているが、本当の

ことを言えば、遺伝子を解析するためなら、血液でなくても、例えば唾液でもよいし、毛髪でもよい。

しかし血液を使ったのは、映像的に見て血液が最も分かりやすく、インパクトもあるためだろう。つ

まりここでの血液は、人間の差異性の強調である。モローは素晴らしい遺伝子を持ち、ヴィンセント

は遺伝疾患を抱える。この差異性の象徴が、まさに血液なのである (注3)。

遺伝的なつながりを血で表すのは、もはや比輪とも感じられないくらいに当たり前に浸透している。

例えば次のようなレトリック。「一族の顔立ちというものは同じ血の色がぱっぱっとゆらめく炎のよ

うにあちこちにあらわれる」大庭みな子 『暗く鳥の』。「父の肉体に宿っているのと同じ血球が、美佐

子の体内で、嵐に襲われた林のように、ざわめいているのに違いない」石坂洋次郎 『山のかなたに』。

こうした例は、枚挙にいとまない。血縁とはまさに、自分の縁者を、他人と区別する差異性、差別性

の記号である。

ところで、人間の全遺伝子を解析するというヒト・ゲノム ・計画は、もはや終了間近である。もち

ろん、遺伝子が全部分かったからといって、人間の運命が全て決められる訳ではないが、遺伝子によっ

て病気のない受精卵を選択することなどは、もはや現実となっている。遺伝子解析と優生学の問題に

ついて、および、血液型による差別については、別の論文を用意するつもりなので、詳しくは論じな

いが、ここでも簡単に触れておこう。

血液型と優生学とのつながりについて、シュナイダーによると、「(血液型が発見され、メンデルの

遺伝法則に従うことが分かった1930年代)当時の人類学者たちは、こうした研究成果を横目で呪みな

がら、先を争って世界中の人々から血液標本を集めていた。彼らは 「血液型」分析に基づく新時代の

「人種」鑑別測定法が見つかった、と素朴に信じていたのである。

フランスにおいては (スイカ一 ・ドゥ・プロゾルと同様)公衆衛生医あがりの 「優生学」者であっ

たルネ ・マルシャルが、1920年代を通じて、移民問題がらみの衛生政策の方面で、専門家として大き

な影響力をふるっていた。彼は30年代の初めに当時最新の学問だった 「血液型人類学」なるものを聞

き知るに及び、それを入国移住希望者のふるい分けに応用しようと思いついた。1934年に著した 『フ

ランス人種』のなかで、マルシャルはその 「人種ふるい分けの原理」を披露しているが、それは 「0

型とA型は残す。B型は消してしまう。そしてAB型は心理テス トで合格点が出れば、残せばいい」

という単純きわまる代物である。これは、要するに、ユダヤ人と東欧からの移入民を排撃せよ、と言っ

ているに等しかった。なぜなら 「血液型人類学」の知見によれば、特に 「B型」人間の含有率が高かっ

たのが、これらの 「人種」集団だったからである。マルシャルの著作物は、当時のフランスの右翼 ・

人種差別主義者たちに好んで取り上げられた。30年代の右翼勢力は 「フランス人のためのフランス」

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神戸大学発達科学部研究紀要 第8巻第1号

(つまり異邦人はフランスから出ていけ)というスローガンを好んで排外主義を煽ったが、マルシャ

ルの 「血液型人類学」風の議論を、その絶好の 「科学的根拠」として利用した」 (注4)

血液型と性格とを結びつけるという発想は、日本から出ている。その本格的な 「研究」は、古川竹

二という人物を源流とするが、古川以前にも少なくとも三回、血液型が性格と関連するのではないか

との原初的な指摘がなされているという (大村[1998])。第一は、1916年、原来復と小林栄という二

人の医師の書いた 「血液ノ類属的構造二就テ」であり、兄弟内で血液型の違いにより性格が違ってい

る例や、血液型と体格との関係について言及している。第二は、軍医の平野林と矢島登美太が1925年

に書いた 「人血凝集反応二就テ」であり、野砲兵第一連体の将兵754人について血液型と階級、身体

状況、疾病関係、懲罰などを調査 したものである。第三は、やはり軍医の中村慶蔵が1927年に発表し

た 「血液種族 卜兵卒ノ個性二就テ」であり、1037人の兵士を対象にして、性格、成績、懲罰、食物の

時好、既往症などと血液型との関係を調べたものである。

現代日本においても、俗流の血液型性格判断が広まっているのは周知の通りである。その理由とし

ては、何人かの論者が指摘するように、それが四分類であって複雑過ぎないこと、身分や学歴のよう

に 「クリティカル」でないこと、などが挙げられよう。また、特に若い男女の話の種になるのは、血

が性的な相性関係をごく自然に連想させるという理由も大きいのではないだろうか。

社会心理学者の多くが、血液型性格診断に批判的 (池田[1993]、松井[1991]、大村[1990]、佐藤+

波速[1991]など)であり、例えば池田謙一は著書 『社会のイメージの心理学』の中で、かなり厳しく

血液型性格診断を批判している。特に、血液型でプロジェクトチームを作った会社を朝日新聞が報道

したことに村し、そのような報道自体が 「偏見を隠微な形で助長している」(p.39)とする。池田はさ

らに、偏見が社会的現実を形勢する過程として、 1)社会的ステレオタイプ形成、2)自己成就予言、

3)ステレオタイプの社会的機能、の三つを挙げる。1)は、血液型についてのステレオタイプがか

なり広まってしまっていること、2)は、血液型性格診断にしたがって自己の性格が変わってゆくこ

と、3)には、血液型によって人との接し方を変える 「行動調整機能」や話題を楽しむ 「娯楽機能」、

対人関係の理解やコミュにケ-シヨンの道具としての 「関係促進機能」が所属する。こうした過程を

経て、何の根拠もない血液型性格診断が、一種の 「社会的現実」となってしまったいうのが、池田の

主張である。

血液型が、人の気質 (生得的な性格)に影響を与える可能性は、論理的にはないとは言えない。だ

が、血液型はよく知られているABOの他にも多数あり(注5)、かつ、他の複雑な環境要因等を考え

れば、人間を大きく四つに分類して特徴があると考えるのが、やはり無理があるのだろう。しかもそ

れが偏見や差別を助長するとしたら、有害論が唱えられて当然である0

3.血液映像における 「生」と 「死」

血液の出てくる映画 ・映像は、枚挙にいとまない。多くのスプラッター映画やミステリー映画にお

いて、スクリーン上を血液が飛び散る。こうした映像と比べて、「本能」や 「ガタカ」の映像はどう

違い、その新しさはどこにあるのか。

前節では、「本能」と 「ガタカ」の血液映像を、それぞれ 「普遍性」と 「差異性」に分けて、その

違いを強調したが、共通点もある。実は 「本能」においても 「ガタカ」においても、血液は 「生」の

位置づけを与えられているのだ。それに対して、スプラッター映画やミステリー映画の場合には、ほ

とんどの場合、血液は 「死」の象徴である。人間が突き刺され、殴られ、切断されなどして、血が噴

出し、死にいたる (もしくは、死にいたったことが、過去形で語られる)。

スプラッター映画の場合には、血 (や恐怖や痛み)を描 くことが主題であり、その意味では、血は

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血液映像論 :「本能」と 「ガタカ」の間

誰のものでもかまわない。したがって、「本能」と同じ、「普遍性」の側に位置づけることが可能であ

る。それに対 して、ミステリー映画の場合には、現場の血液は少なからぬ場合において、犯人を告発

する証拠の一端をなす。とすれば、ミステリー映画の血液映像は、「死」かつ 「差異性」の側に位置

づけることができよう。別の言い方をすれば、犯人当ての興味がある場合がミステリー映画であるの

に対し、犯人や被害者が実は誰でも構わないのがスプラッター映画である、との定義も可能だろう。

タランティーノの映画 『フェティッシュ』は 「クビ、切って、快楽」などという恐ろしいコピーを

従え、首をちょん切る殺人鬼 (若い男)と、殺人現場フェチとも言うべき若い女性が登場する。主人

公は後者であろう。殺人現場みたさに彼女が応募する仕事が、殺人現場専門の清掃という仕事 (本当

にそんな仕事があるのかどうか分からない)である。現場のケガレを拭き取るため、彼らは洗剤とモッ

プで秩序立って仕事をする (そうしないと上司に怒られる)0

血液が証拠となって犯人が割 り出される、ということは実際の事件としても少なからずあるだろう

が、ミステリーでは頻繁に使われるパターンの一つである。現場に残された犯人の血痕。犯人が浴び

た被害者の返 り血。被害者が瀕死の際に血で書き残したダイイングメッセージ。こういった事柄が証

拠となって、犯人を追い詰めてゆく。いわば、血が犯罪を告発するメッセージを放つというわけだ。

例えば、野村芳太郎監督 (松本清張原作)の 『砂の器』。犯人は血染めの衣服を、細かく千切って列

車の窓から共犯者にばらまかせる。しかし、刑事の執念は、もう何年も前に蒔かれたその細かな布切

れを、 トンネルから数片回収させるのである。かくも 「雄弁」な血液であってみれば、マクベス夫人

が必死になって血を洗い流そうとする強迫観念に駆られるのも無理はない。

となると、スプラッター映画一般における血液映像は、その血が誰のものでも構わないという点で、

「死」かつ 「普遍性」の象限に配置し、ミステリー映画一般における血液映像は、それが他ならぬ犯

人を告発する道具となるという点で 「死」かつ 「差異性」の象限に位置づけることができる。とする

と、前節 ・前々節と合わせて、血液映像を、生と死の軸、そしてそれと垂直な、「普遍性」と 「差異

性」の軸で、四つに分けることができよう。

これで一つの図式としては一応 「完成」したのだが、この中に座 りの悪い一群の映像群があること

に気付かざるを得ない。いわゆる 「吸血鬼映像」における血液である。

「本能」 「ガタカ」

(沸き立つ血液) (差別する血液)

一般的な 一般的な

スプラッター映画 ミステリー映画

(飛び散る血液) (告発する血液)

図 :血液映像の象徴のマ トリックス

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神戸大学発達科学部研究紀要 第8巻第 1号

4.吸血鬼と血液映像 :血の両義性と侵犯

吸血鬼物語の起源は、東欧 ・スラヴ地方というのが定説である (栗原[1995])が、同様の話はロシ

ア、ヨーロッパ全体、アラブ、インドまでにも及び (種村[1983])、その研究文献も少なからず積み

上がっているが、ここでは広く論じている余裕はない。また、人類学者のワシュテルがボリビアをフィー

ルド・ワークした際にも、現地語でカリシリと呼ばれる一種の吸血鬼伝説を紹介している (ワシュテ

ル[1997])から、ユーラシア以外にも同様の話は広がっていた。こうした話が土台であったためか、

プラム ・ス トーカーの書いた 『吸血鬼 ドラキュラ』(1897)は、広汎な読者を獲得しただけでなく、そ

れをもとにさまざまな映画 ・テレビ・アニメーションなどを生んだのである。

吸血鬼の措かれ方にも様々な差異がある (例えば、黒人の吸血鬼を描いた 『ブラキュラ』といった

作品がある)が、共通項としては、その中の血液は、生と死との両義性を担わざるを得ない。吸血鬼

に血を吸われると、自分は死に、そして不死者として、血を吸う物として復活する。そうなると、血

はまさに栄養源である。ここではいったい、血は生の象徴なのか、死の象徴なのか。どちらかとは言

い切れない。

人間同士が輸血をするようになったのは19世紀からであり (詳しくはスター[1999])、それが安全

になったのは前述の血液型の発見 (20世紀初頭)からのことだが、この 「血の受け渡し」は、それを

贈与で行うべきか売買で行うべきか (注6)など議論の的となってきた。宗教団体の中には、「エホバの

証人」のように、未だに他人の血を体内に入れるのを拒否するものがある (注7)。昭和天皇の臨終の

際には、下血で失われた血を補うために大量の輸血がなされたが、それに対して金井廉は次のように

詠った 「私は血の一滴だってやりませんよ/誰が/人殺しの/日和見の/おべっかつかいの/ずるが

しこくって/人の風上にもおけない 「人間」に/だいじな血をやるものですか」(『天皇への献血を乞

われた人の、それをことわる口上書』)。

だが、「血の両義性」を最も強烈に考えさせる大事件となったのが、いわゆる薬害エイズ事件であ

ろう。血友病患者にとって、生き長らえるために他人の血液から製造した血液製剤は必要 (坐)だが、

その中に死に到るウイルスが潜んでいたのである。利益重視の医学界 ・薬学界の対応のまずさもあり、

被害を最小限で食い止めることもできなかった (横井[1998])。

この、血液 (および他の体液)で感染するエイズという病は、単なる病気としてではなく、意味や

記号を担ったものとして、人々に様々な観念を呼び起こした。スーザン・ソンタグは 『ェイズとその

隠喰』で次のように述べている。「癌恐怖はわれわれに、環境を汚染することの怖さを教えてくれた

のに対して、今は、人間を汚染するのではないかという、エイズ不安が必ず広めてしまう怖さがある。

聖餐式のカップが怖い、外科手術が怖い、と。生、つまり、血、精液、そのものが汚染の運び手なの

だから。これらの液体は致死の力を秘めている。避けるにしくはない。人々は万一に備えて自分自身

の血を貯えるようになった。われわれの社会で利他的な行動のモデルとされていた匿名の献血が、誰

のものとも分からぬ血をもらうのが不安になってきたために、揺らぎ出した。エイズはセックスに関

するアメリカの道徳主義を再強化するという不幸な効果を持つだけでなく、さらに、自己利益中心の

文化を (普通 「個人主義」として称えられるものの実体の多くはこれである)強めることになる。自

己利益の追求が、素朴な医学的気配りとして、さらに後押 しされるのだ」(p.238)

アメリカの研究者ポーラ・トレイクラーが様々なメディアや文献から抽出したエイズに関する空想

や神話の数は38種類にものぼる (「エイズ ・ホモフォビア、生医学の言説一意味作用の生み出した疫

病」『カルテュラル ・スタディーズ』1987年)。その中から幾つかの例を抜き出してみるならば、「治

療法のない、必ず死にいたる伝染病で、全人類を絶滅させかねないもの。メディアの作りだしたもの

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で、楽しみながら利益をあげるためにマイナーな病気をおおげさに吹聴したもの。一般の人々の生活

や性行動に大々的に踏み込むことを正当化しようとする国の側が作りあげたもの。おそらくサンフラ

ンシスコ起源のゲイの病気。独身に死を言いわたすもの。第三世界を破壊しようとする帝国主義者の

陰謀。同性愛者を殺そうとするファシス トの陰謀。資本主義者を殺そうとするソヴイエ トの陰謀。道

徳的葬廃の結果で、ボーイ ・スカウトを潰そうとする力。20世紀のデカダンス。世紀末のデカダン

ス、ポス トモダンのデカダンスの完壁な象徴。世の終わりが近いことの徴。われわれの弱さに対する

神の罰。われわれの強さをためす神の試練。1960年代の代償。肛門セックスの代償。前例のない、まっ

たく新しい形の病気。性病の一種」 (注8) 今後の医療の進歩で、臓器移植がさらに進んでゆくだろ

うが、実は輸血も臓器移植の一種と言えないこともない。人々が輸血にどのような意味付けを行って

ゆくのかは、実は臓器移植に対してどのような意味付けが今後行われてゆくのかを占う、一つの材料

と言い得るのである。

おわりに

人間の血の大きな特徴として、その鮮やかな赤い色がある。自ら献血車に乗り、採血を担当した医

師であった田崎秀の作る短歌には、その赤色を切り取った歌が多く見られる。彼の残した歌集 『献血

車』からいくつか挙げてみると、

「血餅のくれなゐの層あざやかに 沈ませて並ぶ小試験管」

「濃度ことなる硫酸銅液のそれぞれに 滴下さるる血の沈下の速度」

「B型は自A型は黄のラベル 製品化されし保存血の瓶」

「0塑血液に二種ありて H (ハイ)は緑いろ L (ロー)は青いろのラベルに分つ」

「保存血の緊急輸送にサイレンを 鳴らしつつ車いでゆくところ」

第一首では、それぞれの試験管の中で並ぶ血餅の赤い色がストレートに詠まれている。それに対し

て、第二首では、硫酸銅溶液の青緑色 (色は直接は歌の中に出てこない)と、血の赤という、補色の

関係にある二つの色が鮮やかに対比されている。さらに第三首では、そこにラベルとして、白と黄色

が加わる。そして第四首では、何を基準にハイ (高)とロー (低)に分けているのか分からぬが、緑

色のラベルと青色のラベルが加わる。第五首は前四首の静誼な状況とは違った場面の歌で、ここでは、

保存血の赤と、サイレンの音ともにに連想される救急車の赤い光とが、存分に共鳴しているように思

われる。

現実社会で鮮やかな赤色 (赤信号を想起されたい)が注意を喚起するように、血液映像は目を惹く。

文化人類学の知見によれば、色名称として、白と黒の次に生み出されるのが 「赤」という言葉であり、

これはあらゆる文化に共通している。

血に由来する、赤色に関する特別視は古代からのもので、例えば水上[1997]は、古代の中国人にお

ける 「赤色信仰」の始源は、血の神秘から来ていると述べている。「中国の古代人の 「丹」つまり未、

赤、紅などの、いわゆる 「あかい」色との繋がりは、きわめて古くから深い。その最も始源となった

ものは、「血」の神秘からである。狩猟時代の野獣狩り、部族間の闘争の際の死などの経験から、血

は姓名に結びつくことを知った。そこに 「血」に対する神秘感、恐怖感などによる、タブー ・マナの

観念が生起したのである」(p.256)古代ギ1)シァで医学の阻と言われるヒポクラテス (前460?-前375?)は、血液、粘液、黒胆汁、黄

胆汁の四つの液体が体内でバランスを取ることが健康状態 (エウクラジー)であり、このバランスが

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崩れると病気 (ディスクラジー)になる、との説を唱えた。 もちろん現在ではヒポクラテスの説は否

定されているが、これもよく見れば、赤、白、黒、黄色 という鮮やかな原色で、人間の健康状態を分

か りやす く示 したものと考えることもできる (注9)0

血が赤いから赤が目立つ色なのか、赤が目立つ色だから血が赤 く進化 したのか、筆者にはその解答

はないが、おそらく今後 も、さまざまな意味を担った血液映像が、映像世界の中で表現されてゆ くに

違いない。

以上、血液映像の担 う意味について整理 してきた。映像の中には他にも、血液と比べて劣 らないほ

ど人目を惹 く象徴が溢れている。こうした作業が どこまで有効かは分からぬが、人を興奮 させる映像

にはそれなりの理由があるということは、示せたのではないかと考える。他の象徴の意味内容につい

ても、考察を進めたい。

注釈

(注 1)ここでわたしたちはもう少なくとももう一本、流れる血が人間の生を象徴した名作映画があるのに

気がつく。ヴイム ・ヴェンダース監督の 『ベルリン 天使の詩』である。天使となって、モノクロームの世

界に生きている主人公が、人間に戻れた時、世界に色がつく。怪我をして、手のひらからわずかな血を流す。

その血の赤こそが、人間の生の象徴として措かれているのである。

(注2)偽物であることがバレるかどうかで観客をハラハラさせる手法は、しばしば利用されている。『影

武者』(黒沢明監督)もそうであるし、最近では、高額の宝くじに当たってショック死した老人の賞金をネ

コパパしようと、村全体で偽物をでっちあげる 『ウェイクアップ ・ネッド』。映像的には、本物と偽物を同

じ俳優が演じる場合と、別の俳優が演じる場合で、効果も違ってくる。同じ俳優が演じている場合には、そ

の俳優がきちんと二人を演じ分けられるかどうかという興味が、観客の側に生じてくるからである。

(注3)血液による健康管理の究極の例として、南仏のツールーズにあるモ トローラの研究所では、体内に

埋め込んだセンサーによって、二十四時間血液をチェックする製品の研究開発が始まっている。

(注4)ウイリアム ・H ・シュナイダー 「フランスにおける優生学運動」マーク ・B・アダムズ (編著)

『比較 「優生学」史』現代書館、pp.197-8.

(注5)血液型は大きく、赤血球型、白血球型、血清型、酵素型に分けられる0

赤血球型は、ABO式を初めとして、MNSs式、P式、Se式、Rh式、ルイス(Lewis)式、ケル(Kell)

式、キッド(Kidd)式、ダッフイ(Duffy)式、ルセラン(Lutheran)式、デイエゴ(Diego)式などがある。

白血球型は、白血球と血小板に共通して存在するもので、HLA(HumanLeucocyteAntigen)型とも呼ば

れ、組織の適合性抗原として重要な意味を持っている。A、B、C、D、DR式があるが、「単一の複合シ

ステムに属し、五つの遺伝子座の対立遺伝子 (ヒト第六染色体短腕上の主要組織適合性抗原複合領域にある)

によって決定されることが明らかになっている」(松本、1990,pp.36-37)0

血清型は、スミシーズ教授の電気泳動法がきっかけとなって発見され、Hp (ハプトグロビン)式、Tf

(トランスフェリン)式、Gc式、Gm式、Km式、Pi式、Bf式、C2式、C3式、C4式、C6式、

C7式、FXIIIA式、FXIIIB式、α2HS式、PLG式などが発見されている。

さらに、血球が浸透圧によって壊れると酵素蛋白質が溶出するが、その際の酵素についても遺伝型が明ら

かにされ、AcP式、PGM式、ADA式、PGD式、EsD式、S-GPT式、S-GOT式、PHI式、

UMPK式、GLO式、FUC式、CDA式などがある。

R.B.キヤツテルは、オース トラリアに住む白人323名を被験者として、ABO式の他、MNSs式、

Rh式、P式、ケル式、ダフイー式、コルトン式の七種類の血液型、赤血球中の酵素五種類、血清タンパク

五種類について、それぞれの型と性格 (キヤツテルの十六性格因子質問紙法)との相関を調べた結果、AB

O型よりもP式血液型との性格との相関が最も強く出た、という (『マンカインド・クオータリー』21巻、

1980年)0P式血液型は通常、表現型はpl型とp2型とに分かれる。P2型の方が 「心配性である」(危険度0.1

%以下)、「情緒不安定である」「物おじする」「自己統御能力が低い」「緊張しやすい」(危険度 1%以下)0

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だがこの実験結果にも批判は多い。

(注6)リチャード・ティトマスは1970年代に、血液の流通制度を調べ、売血中心のアメリカと、ボランタ

リーな献血中心のイギリスを比較し、イギリスの制度のほうが望ましいという結論を出した。アメリカでは、

自分の病気を隠してでも血で金銭を儲けようとする人が出るが、イギリスではお金は貰えないため、そのよ

うな人は少なく、病原菌はアメリカの方で多く発見された。このティトマスの研究にも、疑問の声はある。

(注7)交通事故に遭った男の子が、エホバの証人の信者であったために、両親が輸血を拒否して死亡する

事件が話題となった。これについては大泉[1988]。

(注8)この部分は前掲したソンタグの著作の、富山太佳夫氏による 「訳者あとがき」からの孫引きである。

(注9)さらに時代が下り、ベルガモン (トルコ西端)生まれの古代ローマの医師ガレノス(129?-199?)は、

四種の体液と四つの気質を対応させた 「四気質説」を唱えた。それによると、黒胆汁質は憂馨で非社交的、

感受性が強く、粘液質は冷静で忍耐強い。胆汁質は短絡的で反応性が強く活発、多血質は楽天的で鏡舌、剃

郡的な生活を送りやすいという。そう言えば日本語でも、「血の気が多い」といった言い方をする。ガレノ

ス自身は人体解剖も行ったことがなかったが、彼の説は14世紀頃までヨーロッパの正統の医学として位置づ

けられ、その体液説の誤りが打倒されるには17世紀 ・ハーヴェイの血液循環論まで得たねばならなかった。

参考文献

マーク・B・アダムズ (編著)『比較 「優生学」史』現代書館、pp.197-8.

横谷泰朗編 『レトリカ』白水社、1994年。

池田謙一 『社会のイメージの心理学』サイエンス社、1993年。

アンジェラ・カーター (富士川義之訳)『血染めの部屋』筑摩書房、1992年。

金井贋 『天皇への献血を乞われた人の、それをことわる口上書』青磁社、1990年。

フリードリヒ・キットラー (原克ほか訳)『ドラキュラの遺産』産業図書、1998年。

栗原成郎 『吸血鬼伝説』河出書房新社、1995年。

松井豊 「血液型による性格の相違に関する統計的検討」東京都立立川短期大学紀要、24、pp.51-54,1991年。

松倉哲也 『「愛の献血」が売られている』三一書房、1983年。

松本秀雄 『血液型は語る』裳華房、1990年。

水上静夫 『漢字文化の源流を探る』大修館書店、1997年。

フランコ・モレッティ (北代美和子ほか訳)『ドラキュラ・ホームズ ・ジョイス』新評論、1992年。

中村明 『比喰表現辞典』角川書店、1995年。

大泉実成 『説得 :エホバの証人と輸血拒否事件』現代書館、1988年。

大村政男 『血液型と性格』福村出版、1990年。

岡本彰祐 『血液の謎と子どもの成長』築地書館、1987年。

横井よしこ 『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』中公文庫、1998年。

佐藤達哉 ・波速芳之 「現代の血液型性格判断ブームとその心理学的研究」『心理学評論』35号、pp.235-269,

1991年。

ダグラス ・スター (山下篤子訳)『血液の物語』河出書房新社、1999年。

R.シュタイナー (高橋巌訳)『血はまったく特製のジュースだ』イザラ書房、1983年。

スーザン・ソンタグ (富山太佳夫訳)『隠愉としての痛い エイズとその隠喰』みすず書房、1992年。

竹内久美子 『小さな悪魔の背中の窪み :血液型 ・病気 ・恋愛の真実』新潮社、1994年。

種村季弘 『吸血鬼幻想』河出書房新社、1983年。

丹治愛 『ドラキュラの世紀末』東京大学出版会、1997年。

俵万智 『チョコレート語訳 みだれ髪 1・2』河出書房新社、1998年。

田崎秀 『献血車』短歌出版社、1996年。

RichardMorisTitmuss"TheGiftRelationship"Allen&Unwin,London,1971.

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ナタン・ワシュテル (斎藤晃訳)『神々と吸血鬼』岩波書店、1997年。

フイルモグラフィー

「本能」 『椎名林檎 性的ヒーリング 其ノー』所収

出演 椎名林檎 演出 木村豊 撮影 内田将二 照明 多々良隆弘

編集 大江康弘 プロデューサー 柳沢康弘

『ガタカ』監督、脚本 :アンドリュー ・ニコル

撮影監督 :スワヴオミル ・イジャック

美術 :ヤン・ロルフス

音楽 :マイケル ・ナイマン

編集 :リサ ・ゼノ ・チャーキン

1997年、コロンビア映画製作

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し ノ

「本能」より

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「ガタカ」より

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