literary lapses ―弱きものへのまなざし 足 田...

16
29 Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 和 人 はじめに Literary Lapses 1910 年に出版された、カナダ作家 Stephen Leacock 1869 1944)にとっての出世作である。彼は大学で政治経済学者 1 として教壇に立 ちながら、その合間にユーモア作品を書きためていた。この短編集はその中か ら選んだ40 の作品で構成されている。最初この作品集は、旅行者のための娯 楽に丁度よいということで、3 千部ほどがモントリオール市内の駅の売店で売 られていた。その中の一部が偶然旅行中だったイギリスの編集者 John Lane 手に渡り、Mark Twain が世を去ったその年に、彼は新たなユーモア作家とし て世界中に紹介されたのである。ここから Leacock のユーモア作家としての 経歴が始まる。 イギリスで生まれ、6 歳の時に家族とともにオンタリオ州に移住した Leacock は、イギリスのユーモアの伝統を受け継ぎながら、国境を接するアメ リカのユーモアからも多くを学んだ 2 。しかし、彼はそのどちらにもない独特 のユーモア作品を多く世に出している。それは、他国のユーモアを採用したと いうよりも、カナダという国の特殊性、独自性から発したものである。 その意味において、生き生きとしたカナダの田舎町と人々を描いた Sunshine Sketches of a Little Town に繋がるユーモア作品への出発点として、そしてその 後の彼の人生の原点としても、Literary Lapses は多くの重要な点を示してい る。中でも、Leacock の町や人々を見る「まなざし」は、彼のユーモア全体を 理解するために欠くことのできない手がかりになる。彼は風景と人々をどのよ うに「まなざし」ていたのか。また、彼が描いた人物たちはどのように「まな ざされ」ていたのだろうか。そして、その両者の間にはど のような関係が存 在していたのか。この小論では、Leacock の語りを「まなざし」という観点か ら考え、その本質を探ってゆくことで、彼がユーモアの中に求めていた価値を 見出していこうとするものである。

Upload: others

Post on 04-Jul-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

29

Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

足 田 和 人

はじめに

 Literary Lapsesは 1910年に出版された、カナダ作家 Stephen Leacock(1869

―1944)にとっての出世作である。彼は大学で政治経済学者1として教壇に立

ちながら、その合間にユーモア作品を書きためていた。この短編集はその中か

ら選んだ40の作品で構成されている。最初この作品集は、旅行者のための娯

楽に丁度よいということで、3千部ほどがモントリオール市内の駅の売店で売

られていた。その中の一部が偶然旅行中だったイギリスの編集者 John Lane の

手に渡り、Mark Twain が世を去ったその年に、彼は新たなユーモア作家とし

て世界中に紹介されたのである。ここから Leacock のユーモア作家としての

経歴が始まる。

 イギリスで生まれ、6 歳の時に家族とともにオンタリオ州に移住した

Leacockは、イギリスのユーモアの伝統を受け継ぎながら、国境を接するアメ

リカのユーモアからも多くを学んだ2。しかし、彼はそのどちらにもない独特

のユーモア作品を多く世に出している。それは、他国のユーモアを採用したと

いうよりも、カナダという国の特殊性、独自性から発したものである。

 その意味において、生き生きとしたカナダの田舎町と人々を描いた Sunshine

Sketches of a Little Townに繋がるユーモア作品への出発点として、そしてその

後の彼の人生の原点としても、Literary Lapsesは多くの重要な点を示してい

る。中でも、Leacockの町や人々を見る「まなざし」は、彼のユーモア全体を

理解するために欠くことのできない手がかりになる。彼は風景と人々をどのよ

うに「まなざし」ていたのか。また、彼が描いた人物たちはどのように「まな

ざされ」ていたのだろうか。そして、その両者の間にはど のような関係が存

在していたのか。この小論では、Leacockの語りを「まなざし」という観点か

ら考え、その本質を探ってゆくことで、彼がユーモアの中に求めていた価値を

見出していこうとするものである。

Page 2: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

30

 われわれが「まなざし」という語を用いるとき、それは明らかに「視線」、

「目線」、「目つき」などとは異なったニュアンスを含めている。その違いを簡

単に言ってしまうと、単に目が何物かを見ているのではなく、何かの意図や情

緒を含めてその対象物を見ているということである 3。

  「母の視線」と「母のまなざし」とでは明らかに異なった内容を伝えてい

る。「悪人の目つき」と言うことはできても、「悪人のまなざし」は成立しにく

いだろう。これらの例からも明らかなように、「まなざし」の中には、ある種

の安心感や親密感が含まれている。加えて、まなざす者とまなざされる者の関

係は安定したものであり、まなざす主体は何らかの愛情を、その視線に込めて

いると言っていい。

 Literary Lapsesのユーモア短編の数々を読み進めていく時、読者はこの「ま

なざし」の存在をしばしば感じる。例えば、“A Study in Still Life ―The Country

Hotel”4の中の一部分を見てみよう。

 Attached to the Bar is a pneumatic beer-pump, by means of which the

Bar-tender can flood the Bar with beer. Afterwards he wipes up the beer with a

rag. By this means he polishes the Bar. Some of the beer that is pumped up

spills into glasses and has to be sold.

 Behind the Bar-tender is a mechanism called a cash-register, which, on being

struck a powerful blow, rings a bell, sticks up a card marked NO SALE, and

opens a till from which the Bar-tender distributes money. (106)

 極普通のありふれたバーを描写しているだけである。登場する人物はバーテ

ンダーのみであり、彼もバーの中の風景の一つとして参加しているに過ぎな

い。しかし、Leacock の細部にわたる観察とその描写から、ビールポンプから

ビールが注がれ、代金を払うまでの情景と動作が喚起されるのである。バーに

通い慣れている人間に対して、ビールポンプやレジスターを説明する必要はな

いはずである。しかし、常連ならば見慣れている風景を「こぼれたビールでカ

ウンターを磨いている」と表現するLeacock独特の軽いユーモアに、読者は彼

のまなざしを感じる。それは、彼のバーという空間に対する愛着であり、そこ

に集う人々への親近感なのだ。バーの客として、この情景に参加している読者

Page 3: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

31

は、自分と同じカウンターでビールを飲みながら、バーでくつろいでいる

Leacockのまなざしを受けているのである。

 Leacockの代表作であるSunshine Sketchesにおいても、作品の冒頭でMariposa

という田舎町の細部にわたる風景を、ユーモアを交えた同様な手法で描くこと

によって、読者をそこから始まる物語世界へと誘っている。最初、Mariposaと

いう町を外から概観している彼のまなざしは、次第に町の中に入っていく。し

かしこのまなざしは物語の登場人物から発するものではない。まるで、まなざ

しだけが空中を浮遊しているように町の中心部に進んで行く。“On the Main

Street itself are a number of buildings of extraordinary importance, ― Smith’s Hotel

and the Continental and the Mariposa House, and the two banks (the Commercial and

the Exchange), to say nothing of McCarthy’s Block (elected in1878), and Glover’s

Hardware Store with the Oddfellows’ Hall above it.” (14) このように、Smith's Ho-

tel以外は物語の内容とは全く関係のない固有名詞を羅列している。これらは

“A Study in Still Life”のビールポンプやレジスターと同じ役割を果たしてい

る。Leacockはどこかで見たことのあるような固有名詞を提示することによっ

て、読者の記憶の中からそれぞれに見たり経験したりした時間や空間を思い起

こさせているのである。そしてそれらを共有した上で、語り手と読者は物語と

いう共同作業を行なっていくのである。

 この手法は、Literary Lapsesの中でくり返し使用される。“Men Who Have

Shaved Me”では、床屋の情景を描いている。“He [a barber] gets him pinned in

the chair, with his head well back, covers the customer's face with soap, and then

placing his knee on his chest and holding his hand firmly across the customer’s mouth,

to prevent all utterance and to force him to swallow the soap”(50)男性読者は、床

屋で髭をそられる状況を経験しているだろう。ストーリーを伝えたいのなら

ば、物語中で髭剃りの順番をあえて描写する必要はないのである。しかし、

Leacockはその行程をくどいほど順序通りに説明する。ただし、語り手はそこ

で起こっている情景をほんの少しだけ離れた場所から観察している。状況に全

く影響をあたえることのない立ち位置から、ほんの少しだけわれわれが気づか

なかった、小さな風景とわずかな現実を拾いあげながら、床屋が髭を剃る姿を

語り出すのである。目に入っているのに気づかないもの、知っているふりをし

ながら無知な自分たちを、Leacockの語りがあぶり出してくれる。このような

手続きによって、ユーモアの中に登場する人物達に立体感と躍動感が与えられ

るのである。

Page 4: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

32

 次に、Leacockがまなざしを向ける登場人物(それはユーモアを読む読者自

身でもある)について考えてみたい。ここでは、招待してくれた家の主人のお

愛想を文字通り受け取ってしまい、その家を出ることができない客人の話

“The Awful Fate of Melpomenus Jones”と、自分が読んでいる本を説明したが

る友人の話“Getting the Thread of It”の2作を中心に考えてみたい。

 このふたつのスケッチに共通しているのは、語りの冒頭5である。前者では

“Some people ―not you nor I, because we are so awfully self-possessed ―but some

people, find great difficulty in saying good-bye when making a call or spending the

evening.”(18)とあるように、読者と語り手を見かけ上 ‘some people’から除

外しているが、これはLeacock独特のユーモア技法である。語り手と読者は明

らかに ‘some people’に含まれている。 ‘some people’と 「私」と「あなた」を

別の次元に置いてしまえば、この話の面白さは消えてしまい、ユーモア作品と

しての意味を全く失ってしまう。来客として暇を告げることの難しさは、古今

東西共通の事項である。もし、自分だけは違うと考えている人間がいたとした

ら、その人にはこのユーモアを読む資格はない。たとえ読んだとしても、この

話をユーモアとして捉えることはできないだろう。

 一方後者の、“Have you ever had a man try to explain to you what happened in a

book as far as he has read? It is a most instructive thing.”(54)と読者に向けられた

疑問文は、たとえ現実にそのような体験はなかったとしても、なんとなく知っ

ている人間として明らかにその話に参加しようとするだろう。別の言い方をす

れば、“Have you ever”という問いに対して、心の中で“Yes”と答えている

ことが、このユーモアのスタートになっているのである。そして次の瞬間、

‘most instructive thing’という逆説が語られると、この後の話を読まずにいるこ

とは不可能になる。つまりLeacockの語りによって、始めからそう仕組まれて

いるのである。

 このようにLeacockの語りの操作はいつも読者をスケッチの中に引きこもう

としている。そして、その語りの後ろ側には、Leacockのまなざしが存在して

いる。通常、小説を読む作業は、作家が書いた文字を読み進めることである。

文字の示す意味を拾い上げ、文章を解釈する。そして意識の中に背景を立ち上

げ、異なった人物を登場させ、ストーリーを組み立てていくものだ。一方、作

家はそのような読者の興味を失わせず、読む作業を持続させ、イメージを受け

渡し、自ら作成した物語世界の中を連れまわす。つまり一般的な作品の場合、

作者から読者への物語の一方的な受け渡しにすぎない。しかし、Leacockの作

Page 5: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

33

品においては事情が異なる。Leacockが重要視しているのは、イメージの伝達

ではなく、イメージを読者に喚起させることなのである。

 Aldous HuxleyはThe Art of Seeing 6の中で、次のように言っている。“Negative

emotions impair vision, partly through direct action upon the nervous, glandular and

circulatory systems, partly by lowering the efficiency of the mind.”(86)この一文

はそのまま小説のイメージについても適用することができる。小説空間を読者

に換起させるために重要なことのひとつは、イメージに対する親近感なのであ

る。作家が構成する文章の力で読者を取り込む方法を取らず、逆に読者の過去

の記憶に入り込むことで、ある種の既視感を与えているのである。Huxleyはさ

らに“perception and therefore vision depend upon memory and, to a lesser degree,

imagination”(90)と続けている。つまり、見るという行為は、その視覚的イ

メージを喚起する者の心理的状況が密接に関わっているのである。彼の語りの

冒頭にこれまで見てきたような特色があるのは、読者の心理状態をLeacockの

まなざしに委ねる準備をさせるためである。言いかえれば、登場人物とともに

Leacock のまなざしを受ける一人として、読者が小説空間に飛び込んでいく最

初の段階なのである。

 Leacockが提示する視覚的内容は、文章力や描写力に富むものではない。今

までの例を見ても立体的な描写というよりも平面的であり、躍動感に溢れると

いうよりも静物画の様相をみせている。ただ、その描写の所々に配置された

ユーモアは、読者の緊張をほぐし、語り手の提示する視覚的イメージを受け入

れやすくしているという以上に、読者自らが積極的にそのイメージを求め、想

像力を膨らませているのである。Leacockの語りは特権的な筆者によるもので

はなく、読者に対してもイメージの共同作成者として関与を求めているのであ

る。

 Maurice Merleau-Pontyは『眼と精神』において、セザンヌの「自然は内にあ

る」という言葉と、彼の絵画を取り上げてイメージの重要性を説いている。

「眼は世界を見る、そして世界が画像となるためには世界に何が欠けているか

を見、また画像が真の画像となるためにはそこに何が欠けているかを見、そし

てパレットの上に画像が待ちうけている色を見る。」(262-3)という言葉は、

Leacockの創作姿勢に繋がるものである。素描としての絵画は、Leacockが描

く一場面と基本的に同質なのだ。素描は決して「眼にみえるもの」の複写では

ない。Merleau-Pontyは人間の「感ずる」能力から生じる「外なるものの内在」

と「内なるものの外在」の両立を、眼という肉体に見出しているのである。視

Page 6: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

34

覚が共同の世界への通り道となり、ここを媒介としてお互いのもつ世界の質感

を共有するのである 7。

 Leacockのまなざしが読者を引きつけ、読者がつくるイメージが物語の要素

となっているのは、情報としての画像を交換することではなく、Merleau-Ponty

が言う存在の「組成(きめ)」8としてのイメージを共有することなのである。

それを可能にしているのは、「欠けている」ものを掘り起こし、あたらしい色

を塗る仕事、つまり彼が語る場面の中に、読者に向けたユーモアを加える作業

である。彼の柔らかいユーモアは、情景や状況に奥行きを与え、語り手と読者

が「場所」を共有することを可能にする。

 まなざしの対象が事物である場合と、その対象が人間である場合とでは大き

な違いが生じる。当然のことであるが、事物が視線を返すことはない。しかし、

人間はまなざされていることを意識し、まなざし返すことができる存在なので

あり、社会生活において重要なコミュニケーションのひとつになっている9。し

たがって、向けられたまなざしは、それを受けた者にとって存在を覚醒させる

刺激になるのである。

 Leacockの小品を読む者は、彼のまなざしを受けていることを認識してい

る。しかし、読者がまなざしを帰そうとしても、そこには彼の姿はない。なぜ

なら、物語の中での語り手 Leacockは姿を見せず、物語の背後にいるのであ

る。

“My Financial Career”は一人称の語り手が、自分の給料を初めて銀行に預

けようとするユーモア作品である。“When I go into a bank I get rattled. The clerks

rattle me; the wickets rattle me; the sight of the money rattles me; everything rattles

me.”(7) という冒頭を見るとわかるように、語り手自身がすでに何者かに

よって強烈なまなざしを受けている。そして、わずか56ドルだけを預けたい

主人公は、銀行の雰囲気と銀行員の事務的な態度に動揺し、結局預けたはずの

お金すべてを引き出し、銀行を出てしまうのである。

 このスケッチにおけるまなざしの構造は、やや複雑である。一人称の語りで

あるから、ある人間ひとりの個人的経験を語っているに過ぎない。しかし、や

はりここにも「私」以外のまなざしが存在しなくてはユーモアが成立しないの

である。このスケッチにおいて笑いの対象になる人物の行動は、馬鹿げていた

Page 7: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

35

り、愚かだったりするのではない。銀行の外ではごく普通に生活している一般

市民としての「私」自身がユーモアの対象となるためには、その姿を見守る人

間的なもう一つのまなざしが必要となるからである。このスケッチには、まな

ざされる対象としての「私」と、まなざす存在としての「私」が同時に描か

れていることになる。

 銀行に金銭を預けるという、極めて単純な作業が上手くいかない矛盾した状

況に関して、R. E. Watters は“Throughout the sketch the humour sparkles from

the changing facets of the young man’s ‘identity’, how others see him and how he sees

himself, the incongruities between appearance and reality.”(27)と述べている。こ

こで用いられている ‘incongruity’という語は Leacock自身も Humor and Hu-

manity の中で示している 10ように、彼が目指すユーモアについて非常に重要

な概念である。周りからまなざされている客体としての自己と、周りをまなざ

している主体的な自己が、銀行という場所でぶれを起こしてしまった。少し離

れた場所から、その状況をまなざしている作家 Leacockは、そこで起こってい

る不調和からユーモアを取り出し、その瞬間を一つのスケッチにまとめている

のである。

“Borrowing a Match”においても、語り手の困惑は同様なものになってい

る。通りで見知らぬ人に煙草の火を借りるという単純なことが、なかなか上手

く行かないのである。ここでも、“You might think that borrowing a match upon

the street is a simple thing.”(98)という始まりの文で示されている単純さが彼

のユーモアの素になる。ここで強調されているのは、まなざしの圧迫感ではな

く、まなざしの交差点になるはずの ‘a simple thing’ におけるタイミングのず

れである。ねじれの位置になってしまった、交わらないまなざしなのである。

“‘Here you are!’”(99)と差し出されたはずのマッチに、“It was a toothpick.”

(100) という落ちがつく瞬間、それまで見えていなかった不調和がさらけださ

れる。ここでも、その一瞬を拾い上げているのは、状況を冷静に見ているもう

ひとつのまなざしなのである。

 これまで述べたように、作品中のとまどいは語り手のものであると同時に

読者のものでもある。Leacockの短編は、語り手と読者が空間を共有してい

る。銀行内で戸惑いを覚えている人物は、読者自身ともいうことができる。

実際に、初めて銀行を訪れた時の違和感を忘れられない読者も多いことだろ

うし、愛煙家の読者なら、マッチの火を借りるときの困惑を何度か経験して

いることだろう。だとすると、これらのとまどいはどのように笑いに変わる

Page 8: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

36

のだろうか。

 Leacockのユーモアについて「まなざすこと」、「まなざされること」、「読む

こと」の三つの要素から考えるとき、Roland Barthesが『明るい部屋』の中で

提示した「撮ること、撮られること、眺めること」(16)、つまり「写真」との

アナロジーに気づくのである。一枚の写真はストーリーを語らない。撮影者は

カメラという目から事物や人物をまなざし、形に残すだけで、ストーリーを紡

ぐのは写真を眺める人である。このように考えると、笑いの中のとまどいの本

質が見えてくる。その正体は自分自身だったのである。

 彼のまなざしから描かれるイメージは瞬間であり、断面である。ところがそ

れらは未来でも現在でもない、確実に過去のイメージである。人間にとって記

憶というのは、イメージの断片である。テレビ、映画が普及している現在にお

いても、われわれの過去の記憶は繋がった映像としてではなく、動かない画像

であることが多い。動いているように思えても、一片のイメージがその前後に

膨張しているだけに過ぎないのではないか。特に、複数の人間で同一の記憶を

確かめ合う時、彼らが一致して語り合えるのは、動かない複数のイメージにつ

いてである。それが、唯一与えられた過去へのヒントなのである。まなざすも

のとまなざされるものが共有できるのは、明らかに過ぎ去った形象としての風

景であり、かつてそれぞれが遭遇した(であろう)イメージ化された経験であ

る。

 Barthesが「『写真』は自分自身が他者として出現すること、自己同一性の意

識がよじれた形で分裂することを意味するからである。」(21)と言う時、それ

はLeacockの言う‘incongruity’があらわになった自己である。自分の写真を見

る時のあの、何とも言えない居心地の悪さと、Leacockのユーモアにあるとま

どいとは同質のものだった。物語内部に深く立ち入らないLeacockの語り口は

人間そのものを描くのではなく、文字通り外界をスケッチするために採用され

た手法なのだ。写真は一個の主体を一枚の奇妙なオブジェに変える。人物の内

面描写をあえてしないLeacockのまなざしは、カメラのレンズのように客体と

しての人間達を見つめていることであり、彼自身も実はその中のひとりでしか

ないということを知っているのである。

 オブジェとしての写真が、「今ここにある過去」の像であるように、スケッ

チとしてのユーモアも「今ここにある過去」の一場面である。銀行もマッチの

火も過去という共通項で括られることで、語り手から読み手に手渡される。

人々が動くことのない写真を飽きずに何度も見るように、読者は Leacockの

Page 9: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

37

ユーモアを読むたびに、小さな笑いを繰り返す。そしてふと我に返ると、笑っ

ている自分も、何者かからのまなざしを受けていることに気がつく。「写真に 、、、、、、、、、、、、は、私の目をまともに見すえる能力がある」(136-7)とBarthesが言うように、

語り自体が読者をまともに見すえているからである。つまり、Leacockのユー

モアにおいて、読者はまなざされる存在として参加しているのだ。

 カナダという国は、歴史的にはヨーロッパの流れを汲みながら、近代化はア

メリカ合衆国をお手本にしてきた。広大な大地と大いなる自然を抱きながら、

国家としてのアイデンティティをどこに求めてよいのか手探りの状態が続いて

いた。伝統を切り取られ、明日はどこへ行くのかわからないという、いわば旅

をすることを強要されている国であった。ことによるとその状況は現在でも変

わっていないかもしれない。そして、周りの国がカナダを見ていたかどうかは

別にして、二つの文化に挟みこまれているこの国の人々は、常に外部からまな

ざされていることを意識していたのである。

 そんな中でLeacock自身も、ユーモア作品を書き続けることで、自己のあり

かたを模索していたに違いない。この点について、Beverly Rasporichは ver-

nacularなアメリカン・ユーモアと、控えめを良しとするカナダの特質から彼

の立場を捉えている11。また、Donald A. Cameronはヴィクトリア朝の基準と、

その時代との微妙なずれを Leacockの中に見出している 12。いずれの見方で

も、導き出されるのは、極端に走らない彼の態度と、物事から離れて観察する

客観的な視点である。

 Leacockの写真的といえるユーモアスケッチと、このような歴史的文化的な

状況を併せて考えてみると、On Photographyで述べている Suzan Sontagの言

葉が二重写しになってくる。

 Photographs will offer indisputable evidence that the trip was made, that the

program was carried out, that fun was had.... Most tourists feel compelled to

put the camera between themselves and whatever is remarkable that they

encounter. Unsure of other responses, they take a picture. This gives shape to

experience: stop, take a photograph, and move on.(9-10)

観光地において撮影される写真の役目は、過去の保存である。自己と対象の間

の関係を把握することなしに請求する、「私はその時そこにいた」という証明

である。しかしその証明書には何の権威も根拠も存在しない。それは単なる過

Page 10: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

38

去の残骸なのである。であるにも関わらず、観光客は写真を撮り続ける。普段

働いてばかりいるドイツ人、日本人、アメリカ人は休日に遊んでいるのが不安

で写真を撮りつづけると、Sontag は皮肉交じりに語っている。一方、Watters

が“In our precarious and complicated circumstances, and given our national charac-

ter, Canadians must either cry with frustration or laugh with Leacock.”(31) と語っ

ているように、カナダ人は Leacockのユーモアに否応なく引きつけられる。

 観光地の写真を見てわれわれの心に浮かぶのは、自分の後ろにある景色で

も、カメラを持っている撮影者でもない。その時に聞いたシャッター音であ

る。写真はこの音によって産み落とされ、撮影者、カメラ、被写体に一体感を

与える。同時に、その時凍結された過去から、今見ている写真への通路13とな

る。撮影者が指に感じるあの感触、それを通じたカメラの物質性、さらに今を

一生懸命固めようとする肉体の三者の企てが成就した瞬間である。その過去を

求めて、聞えない音を媒介にしイメージを呼び起こすのである。

 Literary Lapses のユーモアのシャッター音、当然それは「笑い」である。概

念の笑いではなく、音としての笑いである。Leacockのスケッチから笑いが生

じた瞬間、すでにシャッターは降ろされている。スケッチの中にいる人物は、

それぞれの読者である。読者の意識はすでに感光している。見たことのある事

物や風景の中に自分がいて、あの時あった経験が呼び起こされる(実際にあっ

たかどうかは重要なことではない)。かつてそこに存在していた自分と、かつ

てあった風景が呼び起こされ心のイメージは定着するのである。

 このシャッター音はまさに Barthes の言う写真のプンクトゥム(punctum)14

である。プンクトゥムとは、ラテン語で「刺し傷、鋭くとがった道具によって

つけられた標識(しるし)」を意味する言葉であるという。プンクトゥムは写

真の中における細部である。これは、Leacockが得意とする、物語には関係の

ない細部の描写と関連している。その細部はある種の爆発力をもって写真全体

をも征服する。なぜなら、その細部は写真やスケッチの中で固定しつづけるこ

とはなく、その企てに参加するものの精神をも揺さぶるからである 15。

 このプンクトゥム的広がりが、Leacockのスケッチを幅の広いものにしてい

る。まなざすこと、まなざされることの間に起こる、笑いとしてのプンクトゥ

ムが共感的二者関係を形づくり、自らの過去を示す姿見として読者を引き込ん

でいくのである。不安定な存在の中に隠れていた、「たしかあったはずの過

去」を証明するものとして、彼のユーモアは威力を発揮するのである。

Page 11: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

39

 Leacockのユーモアは過去にそそがれるまなざしである。写真が過去を対象

にしているように、彼にとってのユーモアは過去の中にある。しかし彼のユー

モアは写真を超えている。写真にはフレームという境界があるが、彼のまなざ

しにはそれがない。過去を見るわれわれの意識が額縁で仕切られていないのと

同じ理屈である。

 Leacockは Humor and Humanityの中でこう言っている。“The surface is the

best thing to see. A lark sees more of the surface of the earth than the earthworm. For

a broad view of anything we ought to need a ‘superficial’ man.”(4) 思考や理論よ

りも、目に入ったまま受け入れることの大切さを説いている。虹の美しさを知

るために、分散した光に対する理論的な説明をしようとする愚かさを戒めてい

るのである。‘superficial’というのは彼独特のユーモアであるが、この世界の

表面にあらわれている真実を見るべきだと主張しているのだ。

 現在は過去という絵の具の重ね塗りである。しかし、以前の色が消えてし

まったからといって、色を着けていたという行為そのものが消滅してしまった

わけではない。一つのアトリエでお互いが描いていた絵を、お互いが認めあっ

ていた時があれば、人間と人間のつながりの中に、かつて描いた風景は確実に

残っているのである。

 もしその逆に、次に新しく塗る絵の具だけが、われわれの人生だったらどう

であろうか。Leacockはサタイアという形で未来を捉え、来る社会に対して多

くの警告を行なっている。“Greater Canada: an appeal”では、Tory主義の立場

から、カナダの発展の可能性を説き 16、“Literature and Education in America”

では実利だけに目を向ける教育を批判し17、作家としてもArcadian Adventures

of the Idle Richにおいて“if you were to mount to the roof of the Mausoleum Club

itself on Plutoria Avenue you could almost see the slums form there. But why should

you?”(8)というように、富裕階級の視線を採用し、逆説的に経済至上主義批

判をしている。しかし、Leacockは未来に対してユーモアの広がりを与えるこ

とはできなかった。彼のまなざしは柔らかく暖かい過去にのみ向かっている。

 Literary Lapsesでユーモアに用いられている題材は、普通の人が生活の中の

断片として、記憶の片隅に残しているような状況に溢れている。“On Collecting

Things”で語られる、長続きしない切手やコインの収集かもしれない。“A

Model Dialogue”にあるような、素人のカードマジックのどたばたかもしれな

Page 12: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

40

い。“Boarding House Geometry”では、学生時代の思い出を数式化しながら当

時を懐かしがっているのかもしれない。バーのビールポンプのように、ふとし

た時に思い出す事物かもしれない。それらのエピソードは小さな悲劇かも知れ

ないし、ちょっとしたとまどいや勘違いかもしれない。しかし、共同体で生き

る人々にとっては、それらすべてはささやかな喜びであり、忘れることのない

小さな幸せだったのである。Literary Lapsesにはこのように、市井の暖かな

人々の、生き生きとした人生の一場面で溢れている。

 社会の都市化、産業化が押し寄せる以前、牧歌的な風景の中でゆったりとし

た時を過ごしていた時代があった。それは、カナダだけに限らない。人間達が

共同体の価値観を共有し、お互いのことを知り、認め合い助け合いながら生活

していた記憶は、世界中の多くの人々が心の奥に残しているはずである。だか

らわれわれは、一枚の古い写真を見せあうように、Leacockのユーモアを読み

あう。ある時は、カメラを持った撮影者として、またある時は、自分自身の姿

を凝固させるべく背中を緊張させていた被写体として、すべての人が「その時

の今」に参加していた。子供達がたわいもないものを、宝物として自分たちの

隠れ処に仕舞い込むように、その時そのものに戻ることは永遠に叶わないが、

さまざまな「あの時」のインデックスとして、Leacockはユーモア・スケッチ

の中に納めておいたのである 18。

 Leacockにとってユーモアの源泉はまなざすことであった。イギリス的な考

え方とアメリカ的価値観の境界線で、彼が選んだ場所はCharles Dickensの描く

人物や風景が醸し出すペーソスと、Mark Twainが Huckleberry Finnの中で採

用した事物をありのままにみる見方であった19。別の言い方をすると、イギリス

の過去へのまなざしと、アメリカの現在を見るまなざしを融合させたのである。

LeacockはHumor and Humanity の最終章で次のように述べている。“Humor

in its highest reach touches the sublime: humor in its highest reach mingles with pa-

thos: it voices sorrow for our human lot and reconciliation with it. Life, for many

people, is not satisfactorily explained: but at least as it passes into retrospect it matters

less.”(211) 

 このような考え方は、On Photographyの中での Sontagの言及と一致してい

る。“Photography is an elegiac art, a twilight art. Most subjects photographed are,

just by virtue of being photographed, touched with pathos. An ugly or grotesque sub-

ject may be moving because it has been dignified by the attention of the photographer.”

(15)

Page 13: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

41

つまり過去に確実に存在していた一場面に対して、今ここでまなざしを向ける

作業場を読者に与えているのである。過去にあったものとは、すなわち人生で

あり、Leacockのユーモアはその過去と、今ここにあるまぎれもない「私」と

いう存在を繋ぐ役割を果たしている。

 人生の表層としての過去は、まなざす者によって凝固する。しかし、ユーモ

アや写真によって平面化された風景は、解凍不能な対象ではない。人生の矛盾

や苦悩は、Leacockのユーモアが起こす笑いというシャッター音によって昇華

される。そして、共有された人生の経験や風景は人々の意識に長く残るのであ

る。それは、語り手と読者の人生の交流であり、主体と客体の交換作業でもあ

る。まなざしは、ユーモアによって循環し、お互いの人生をまなざし合う。か

つてあった町や村の広場は、形をかえて遠く離れた人間達の意識の中に再現さ

れる。Leacockは、人間の中からユーモアを発掘し、ユーモアの中から人生を

見い出した。それは、個別の人間としてでなく、お互いをまなざし合う人間と

人間の関係を、ユーモアというヒューマニズムでスケッチしたものなのであ

る。

おわりに

 LeacockはHow to Writeで若者達に向かって、次のように説いている。“We

repeat then, Do we, or let us say, do authors, get ideas to write about by looking for

them, or by looking in some other direction? There is no doubt that many things in life

come to us by this latter process, at back rounds, so to speak. Happiness is one of

them.”(11)つまり、ユーモアはわれわれの日常の中に存在していて、狩猟家

のように広い視野でそれを捕らえるべきであるということである。そんなどこ

にでも起こっているはずの現象に、多くの本質が隠されているかも知れない。

動物も外界を見ることはできるが、まなざすことができるのは人間だけであ

る。まなざしの中には、そこに存在している人間達のひとりひとりをかけがえ

のない存在として認め、起こっているひとつひとつの出来事を二度とない貴重

な瞬間として大切にする意図がある。

 Leacockのそのようなまなざしはユーモア・スケッチという形に姿を変え

た。そして、笑いと共に読者もまなざしの共有者となることができた。いつの

まにかLeacockのまなざしは、読者のまなざしと重なり合う。このことをRalph

Curryは伝記の中でこう表現している。“The mark of Stephen Leacock’s humor

Page 14: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

42

was his sympathy for man. Leacock found much of his fun in the little man beset by

advertising, fads, convention, sex, science, cussedness, machinery ― social and in-

dustrial ― and many other impersonal tyrannies. And in every case he aligned himself

on the side of humanity.”(83)

 ひとりひとりは、小さく弱い存在である。まなざしから、ひとり取り残され

てしまった時、人間は彼自身の人生に対して満足できる説明を加えることは不

可能になる。われわれの人生はあまりにも多くの矛盾を抱えているからであ

る。しかし、その現実が過去となり、ユーモアを携えた回想の中で生きかえる

とき、人生の ‘incongruity’ はまた違った色で光を取り戻してくれる。Leacock

は‘pathos’ という新たな色を加え、まなざしのシャッターを押す。なぜなら、

それは過去となって生きている現実だからである。

 カナダ作家 Timothy Findleyは最大級の親しみを込めて、Leacockをこう語

る。“God bless Stephen Leacock. I write that from the heart. With his stories and his

books, his people and his insights, he has left a legacy for everyone who reads and―I

must add―for everyone who writes. It well may be, indeed that Stephen Butler Leacock

is the grandfather of us all.”(9) Leacockの大いなるまなざしは彼が残した多く

のユーモア作品の中で、今でも生きているのである。

[注]1 Stephen Leacockはその他、歴史、教育、社会批評など様々な分野で活躍した。2 My Discovery of England によると、Leacockはイギリスにおける講演で、“Mr. Leacock’s

humour is British by heredity; but he has caught something of the spirit of American humourby force of association. (vii)”と聴衆に紹介された。

3 『日本国語大辞典 第二版』(小学館)によると、「【眼差・目指】対象に向けた目の様子。また、目の表情。めつき。視線。」とあり、「まなこざし」ともいう。そのもととなっている「まなこ」は「【眼】《目(ま)の子の意》ひとみ。黒目(くろめ)」とあり「眼球、視野、眼力、物事の中心」などの意味を含む。『角川古語大辞典』(角川書店)でも、ほぼ同様の説明がなされている。

4 この短編は、Sunshine Sketchesの重要な舞台となるSmith’s Hotelに関する習作ともいえる。

5 “I don’t know whether you know Mariposa. If not, it is of no consequence, for if you knowCanada at all, you are probably well acquainted with a dozen town just like it.”(13)というSunshine Sketchesの冒頭にも共通性がある。

6 Huxley自ら角膜を患い、その後の治療と経験の実際が述べてられいる書であるが、「見ること」について示唆に富んだ内容が含まれている。

7 『見えるものと見えざるもの』においても、Merleau-Pontyは次のような表現をしている。「見られる身体と見る身体、触られる身体と触れる身体との間に、重なり合いもしくは踏み越しがあり、したがって、われわれが諸物のうちに移行するのと同様に、諸物もわれわれのうちに移行する(201)」

Page 15: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

43

8 ‘texture’(仏語)の訳語である。9 『まなざしの心理学』の中では、乳児は生後4週間目くらいから、眼をそらしてから、また見つめ返すといった視線行動が始まると紹介されている(154-5)。

10 Humor may be defined as the kindly contemplation of the incongruities of life, and the artisticexpression thereof.(3)

11 Two aspects of Leacock’s North American humour, his penchant for literary burlesque andhis verbal nonsense, are particularly interesting because, juxtaposed, they illustrate hischaracteristic pattern of sympathy and withdrawal from the republican comic muse ― thetension between democratic revolt and the Upper Canadian restraint that was his Canadianvoice and that underlies his humour.(79)

12 He was nearly a generation older, that is, than the generation of T. S. Eliot which beganpublishing about the same time: too old to be a thorough-going modern, too young not to berestive in the postures of the Victorian. The result is a stress one sees throughout his works, anawareness that the world he knew and understood was passing, an inability really to approveof or to enjoy the new one(4-5)

13 Barthesは「へその緒のようなもの」と言っている。14 これに対する言葉はストゥディウム(studium)であり、「あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。」(38)としている。

15 この点についてBarthesは、「写真」と「俳句」との共通性にも言及している。16 Find for us something other than mere colonial stagnation, something sounder than independence,

nobler than annexation, greater in purpose than Little Canada. Find us a way.(11)17 Education is synonymous with ability to understand the stock-exchange page of the morning

paper, and culture means a silk hat and the habit of sleeping in pyjamas.(17)18 Claude T. Bissell は“What I think accounts for the quality of this book [Arcadian Adventures],

potentially so bitter an attack upon the status quo, actually so genial a recollection of an erathat was passing away is the nature of Leacock's social convictions. Here again, as in Leacock'streatment of national traits, it is a matter of recognizing variety, of avoiding absolutes andembracing relativism.”(17) とし、良き時代としての過去の意味を認めている。一方、Gerald Lynchの“For Leacock, great humour literally revives what is worthwhile from thepast and makes it live again for the present world of men.”(175)という教訓的な考えにはやや無理がある。

19 Leacockは1932年にはTwainの伝記を、1933年にはDickensの伝記を出版しているが、“Now what I am saying here is that in my opinion when we came to that high form of humor

in which the pathos of life in general is the basis―the incongruous contrast between the eagerfret of our life and its final nothingness―American humor reaches to it more easily and moreoften than British. The point is one which can only be a matter of taste and judgment. There isno role, no objective criterion.”(220)Humor and Humanity で論じているように、事物に対する直接的な視線を重視するアメリカン・ユーモアに対する評価がやや高かった。

Works CitedBissell, Claude T.“Haliburton, Leacock and the American Humourous Tradition.”CanadianLiterature No.39. winter 1969.Cameron Donald A.“Stephen Leacock: The Boy behind the Arras.”The Journal of CommonwealthLiterature No.3 July 1967.Curry, Ralph. Stephen Leacock: Humorist and Humanist. New York: Doubleday, 1959.

Page 16: Literary Lapses ―弱きものへのまなざし 足 田 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17677/reb039-03-ashida.p… · Literary Lapses ―弱きものへのまなざし

44

Findley, Timothy.“Riding Off in All Directions: A Few Wild Words in Search of Stephen Leacock.”Stephen Leacock: a reappraisal. ed. David Staines. Ottawa: U of Ottawa P, 1986. 5-9.Huxley Aldous. The Art of Seeing. London: Chatto & Windus, 1943.Leacock, Stephen. Arcadian Adventures with the Idle Rich. McClelland and Stewart, 1989.――― .“Greater Canada: an appeal”Social Criticism: The Unsolved Riddle of Social Justiceand Other Essays. Ed. Alan Bowker. Toronto: U of Toront P, 1973. 3-11.――― . How to Write. New York: Dodd, Mead, 1943.――― . Humor and Humanity New York: Henry Holt, 1938.――― . Literary Lapses. Toronto: McClelland and Stewart, 1959.――― .“Literature and Education in America.”Social Criticism. 13-26.――― . My Discovery of England. New York: Doodd, Mead, 1922.――― . Sunshine Sketches of a Little Town. Toronto: McClelland and Stewart, 1989.Lynch, Gerald. Stephen Leacock: Humour and Humanity. Kingston: McGill-Queen’s UP, 1988.Rasporich, Beverly.“Stephen Leacock, Humorist.”reappraisal. 69-82.Sontag, Suzan. On Photography. New York: Delta, 1973.Watters, R. E.“A Special Tang: Stephen Leacock’s Canadian Humour.”Canadian Literature, 5(1960): 21-32.福井康之『まなざしの心理学 視線と人間関係』東京、創元社、1984.メルロ・ポンティ『眼と精神』滝浦静雄他訳 東京、みすず書房、1966.―――『見えるものと見えざるもの』中島盛夫監訳 東京、法政大学出版局、1944.ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳 東京、みすず書房、1985.