newsletter newsletter vol.19 page 2 パネルディスカッションに参加して 川合...

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早稲田大学理工科機 械学科は明治41年 (1908年) 2月に専門学 校令による大学として 新設され、同年4月か ら機械学科予科授業が 開始された。5年後の大正2年(1913年) 11 月29日に機友会が創立され、発会式が執 り行われた。したがって、今年は機友会 創立90周年に当たる。 この間において、大正9年 (1920年) 2月6 日に早稲田大学が新大学令による大学と して認可されて大学となり、理工科が理 工学部に改称された。昭和時代に入って 軍国主義の傾向は日1日と強まり、その結 果として昭和20年(1945年)8月15日の終戦 を迎えた。早稲田大学では同年9月8日か ら授業が再開されたが、同年11月18日の 連合軍通達により、12月31日をもって航 空機および気球に関する学科、学科目、 研究所等、および関係する授業、研究、 調査、実験が廃止された。さらに、昭和 24年(1949年)4月1日から新制大学に切り替 わり、昭和14年4月1日に発足した専門部 工科(関連学科は、機械科と運輸機械科 (旧航空機科))が制度上なくなった。昭 和26年10月31日をもって専門部は廃止さ れ、昭和28年4月から、機友会の会則が変 更され、専門部工科機械科、運輸機械科 (旧航空機科)の卒業生も機友会会員に加 わった。 昭和38年(1963年)4月、機械工学科は本 部キャンパスから現在の大久保キャンパ スに移転した。理工学部全体が移り終わ ったのは昭和42年である。これは、理工 系学部の卒業生の数の大幅増が社会から 求められ、早稲田大学がそのモデル校と しての役割を担ったからである。この前 後から、学生運動の嵐が吹き荒れ、理工 学部長室が学生に占拠される事態も発生 した。社会は高度成長期に入り、平成に なって、情報化時代の到来とともに機械 工学科に期待される内容も大きく変わっ てきた。 機友会の変遷も時代の変化を反映して いるが、全体を貫いて変わらないのは機 友会と校友の強い絆である。機友会は創 立当初は仮にME会と名付けられたが、 大正3年(1914年)10月10日の年会で早稲 田機友会と名称を変更した。機友会の会 報、あるいは機関紙が2度の断絶を経て 現在まで略年度毎に発行されてきた。機 友会の会報は創立以来終戦間際の昭和19 年(1944年)まで発行され、戦後途絶えてい たが、昭和25年(1950年)10月10日に早稲田 機友会ニュースの形で復活した。昭和27 年(1952年)10月に機友会誌が8年ぶりに発 行された。昭和33年(1958年)には理工 学部創設50周年記念号が出されている。 その後、学生運動などで途切れていたが、 平成に入ってから機友会再建が図られ、 校友と学生の機関紙としてのWME NewsLetterが平成6年(1994年)から毎年2 回発行されている。 以下に、機友会創立当時から学生運動 で機友会活動が途絶えるまでの機友会の 歴史を、機友会誌などの記事を通じて振 り返ってみよう。 我が国における大学の機械工学科創立 起源をみると、早稲田大学(1908年)は、 東京帝国大学(1877年)と京都帝国大学 (1897年)に続いて3番目である。九州帝 国大学(1911年)、東北帝国大学(1919 年)がこれに続く。当時の記事には、エ ンジニアとしての強い自負の念と使命感 があふれていた。機械工学科には材料試 験や熱機関の実験室および実習工場は創 立当時から設けられていたが、水力関係 の実験室はなかった。大正9年(1920年) 11月に機友会内に機械工学科後援会が組 織され、会員から資金を集め、大学当局 とも折衝して大正15年(1926年)10月に 水力実験室の第1期工事が完成し、続いて 第2期、第3期工事を経て充実された。早 稲田機友会第24号に、当時の総長高田早 苗博士から後援会に送られた感謝状とと もに、水力実験室を詳しく紹介している。 当時は学会活動も現在のようには活発で はなかったが、この頃の機友会誌は論文 発表の場でもあった。機械工学科卒業生 として初めて工学博士の学位を取得した 伊原貞敏教授の学位論文の全文が機友会 誌第26号(昭和5年8月)に特集を組んで 紹介されたこともある。戦前の機友会誌 には、教員や一般校友の機械学会誌や論 文集に掲載されたものが殆ど機友会誌上 にも発表された。戦後の混乱期は学会活 動が十分に出来ない時代でもあったが、 機友会が主体となって学術講演会を開催 し、その発表論文が機友会誌に掲載され た。機械学会における発表と、機友会の 発表が同等と見なされたということを聞 いたが、戦前か戦後かの時期等について は明確ではない。 平成に入ってから関係各位の尽力によ り、機友会が再組織された。大久保キャ ンパスに移転してから学生と校友の数は 急増したが、これに対応して機友会の新 しい組織造りと役割を模索しなければな らなくなった。学会活動も誠に華やかに なり、機友会が論文発表の場として機能 する時代ではなくなった。いままでの機 友会の歴史に残された先輩達の足跡に恥 じないように、校友と学生、さらに社会 の要望に添う形で、新しい機友会がこれ からも益々発展していくことを祈りたい。 (機械工学科 名誉教授) Waseda Mechanical Engineering Newsletter W.M.E Newsletter Vol.19 page 1 田島清 

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Page 1: Newsletter Newsletter Vol.19 page 2 パネルディスカッションに参加して 川合 潤子(修士1年) 就職活動の準備が始まろうとしていた11月下旬に、毎年行

早稲田大学理工科機

械学科は明治4 1年

(1908年) 2月に専門学

校令による大学として

新設され、同年4月か

ら機械学科予科授業が

開始された。5年後の大正2年(1913年) 11

月29日に機友会が創立され、発会式が執

り行われた。したがって、今年は機友会

創立90周年に当たる。

この間において、大正9年(1920年) 2月6

日に早稲田大学が新大学令による大学と

して認可されて大学となり、理工科が理

工学部に改称された。昭和時代に入って

軍国主義の傾向は日1日と強まり、その結

果として昭和20年(1945年)8月15日の終戦

を迎えた。早稲田大学では同年9月8日か

ら授業が再開されたが、同年11月18日の

連合軍通達により、12月31日をもって航

空機および気球に関する学科、学科目、

研究所等、および関係する授業、研究、

調査、実験が廃止された。さらに、昭和

24年(1949年)4月1日から新制大学に切り替

わり、昭和14年4月1日に発足した専門部

工科(関連学科は、機械科と運輸機械科

(旧航空機科))が制度上なくなった。昭

和26年10月31日をもって専門部は廃止さ

れ、昭和28年4月から、機友会の会則が変

更され、専門部工科機械科、運輸機械科

(旧航空機科)の卒業生も機友会会員に加

わった。

昭和38年(1963年)4月、機械工学科は本

部キャンパスから現在の大久保キャンパ

スに移転した。理工学部全体が移り終わ

ったのは昭和42年である。これは、理工

系学部の卒業生の数の大幅増が社会から

求められ、早稲田大学がそのモデル校と

しての役割を担ったからである。この前

後から、学生運動の嵐が吹き荒れ、理工

学部長室が学生に占拠される事態も発生

した。社会は高度成長期に入り、平成に

なって、情報化時代の到来とともに機械

工学科に期待される内容も大きく変わっ

てきた。

機友会の変遷も時代の変化を反映して

いるが、全体を貫いて変わらないのは機

友会と校友の強い絆である。機友会は創

立当初は仮にME会と名付けられたが、

大正3年(1914年)10月10日の年会で早稲

田機友会と名称を変更した。機友会の会

報、あるいは機関紙が2度の断絶を経て

現在まで略年度毎に発行されてきた。機

友会の会報は創立以来終戦間際の昭和19

年(1944年)まで発行され、戦後途絶えてい

たが、昭和25年(1950年)10月10日に早稲田

機友会ニュースの形で復活した。昭和27

年(1952年)10月に機友会誌が8年ぶりに発

行された。昭和33年(1958年)には理工

学部創設50周年記念号が出されている。

その後、学生運動などで途切れていたが、

平成に入ってから機友会再建が図られ、

校友と学生の機関紙としてのWME

NewsLetterが平成6年(1994年)から毎年2

回発行されている。

以下に、機友会創立当時から学生運動

で機友会活動が途絶えるまでの機友会の

歴史を、機友会誌などの記事を通じて振

り返ってみよう。

我が国における大学の機械工学科創立

起源をみると、早稲田大学(1908年)は、

東京帝国大学(1877年)と京都帝国大学

(1897年)に続いて3番目である。九州帝

国大学(1911年)、東北帝国大学(1919

年)がこれに続く。当時の記事には、エ

ンジニアとしての強い自負の念と使命感

があふれていた。機械工学科には材料試

験や熱機関の実験室および実習工場は創

立当時から設けられていたが、水力関係

の実験室はなかった。大正9年(1920年)

11月に機友会内に機械工学科後援会が組

織され、会員から資金を集め、大学当局

とも折衝して大正15年(1926年)10月に

水力実験室の第1期工事が完成し、続いて

第2期、第3期工事を経て充実された。早

稲田機友会第24号に、当時の総長高田早

苗博士から後援会に送られた感謝状とと

もに、水力実験室を詳しく紹介している。

当時は学会活動も現在のようには活発で

はなかったが、この頃の機友会誌は論文

発表の場でもあった。機械工学科卒業生

として初めて工学博士の学位を取得した

伊原貞敏教授の学位論文の全文が機友会

誌第26号(昭和5年8月)に特集を組んで

紹介されたこともある。戦前の機友会誌

には、教員や一般校友の機械学会誌や論

文集に掲載されたものが殆ど機友会誌上

にも発表された。戦後の混乱期は学会活

動が十分に出来ない時代でもあったが、

機友会が主体となって学術講演会を開催

し、その発表論文が機友会誌に掲載され

た。機械学会における発表と、機友会の

発表が同等と見なされたということを聞

いたが、戦前か戦後かの時期等について

は明確ではない。

平成に入ってから関係各位の尽力によ

り、機友会が再組織された。大久保キャ

ンパスに移転してから学生と校友の数は

急増したが、これに対応して機友会の新

しい組織造りと役割を模索しなければな

らなくなった。学会活動も誠に華やかに

なり、機友会が論文発表の場として機能

する時代ではなくなった。いままでの機

友会の歴史に残された先輩達の足跡に恥

じないように、校友と学生、さらに社会

の要望に添う形で、新しい機友会がこれ

からも益々発展していくことを祈りたい。

(機械工学科 名誉教授)

Waseda Mechanical EngineeringNewsletter

W.M.E Newsletter Vol.19page 1

田島清 

Page 2: Newsletter Newsletter Vol.19 page 2 パネルディスカッションに参加して 川合 潤子(修士1年) 就職活動の準備が始まろうとしていた11月下旬に、毎年行

W.M.E Newsletter Vol.19 page 2

パネルディスカッションに参加して 

川合 潤子(修士1年)

就職活動の準備が始まろうとしていた11月下旬に、毎年行われる「これからの社会に求められる人材について」をテーマにした企業によるパネルディスカッションが行われました。私はこのパネルディスカッションから、今後の社会に求められる人材において必要な要素は以下の能力、目標、意欲の3つであるということを学びました。

「能力」とは、研究生活で得た体力、精神力、基礎知識及び専門知識などが上げられましたが、エンジニアになるならば、まず工学における基礎知識、特に機械工学科の出身であれば3力と呼ばれる材料力学、流体力学、熱力学の基礎知識は必ず備えてなければならないということでした。また、その他に特に強く指摘されていたのが、英語力です。これは企業側が、常に変動する社会の中、本質を見極め、世界観を持った上で社会の動きに対する先見性及び対処までを考えることができる人材を育て、20年、30年後の社会を動かしていく“ヤングマネージャー”を作る意向を示していることから、エンジニアに対し文法などの机上の英語ではなく、世界を相手にNegotiateやディベートできるような英語力が必要とされているということでした。社会に出て必要とされてから学ぶのではなく、今からそれらの能力を伸ばすことで、将来自分自身がどれだけ社会に貢献できるかということを考えるきっかけになるのではないだろうかと感じました。2つ目に上げられた要素は「目標」でした。夢、情熱を持ち10年先のことを考えながら目標を設定する人材の必要性が指摘されました。上記にある先見性ということにも共通する点ですが、先を見据え目標を立て、自分から働きかけ、動ける行動力を持つ学生は必ずどの企業でも成功するとのことでした。研究室でまわりのムードに流されず、自分はどういった目的で実験や解析を行い、どこが目標であるかを明確に持

つということは、当たり前のことではありますが、それを持続させることは非常に難しいことであると私は思います。最後に3つ目の必要とされる要素ですが、「意欲」、つまり

「この企業に入って、こういうことがしたい」という意欲でした。「これがしたい」という意志を持ち、目標を設定し、その目標を達成する意欲を強く持つ学生が必要とされているとのことでした。この要素が必要とされている理由として、近年の企業側が採用方針を大きく変えたことにあると思われます。バブル期には、本学機械工学科の9割以上の学生が希望する企業に就職することができましたが、「大量採用」の時代は終わり、今は各部門がどのプロジェクトを遂行する人材が必要か吟味し、これについてやりたい!と強く主張する学生を採用するjob matchingの時代に変わってきているようです。私はこのディスカッションの中で特に衝撃を受けた言葉は、

「就職であり、就社ではない。」という言葉です。就職活動をするにあたり、「自分には何ができ、こういうことがしたい。」という意志を持ち、邁進することの重要性を認識しました。このディスカッションをきっかけに自己分析を行い、「どの企業で何をしたいのか」を明確に持ち、就職活動に臨みたいと思います。 (梅津研究室)

パネル

ディスカッション

パネリスト 写真右から鉄道整備(株)代表取締役社長 笹子 稔氏、日産自動車(株)常務取締役 菅 裕保氏、日立プリンティングソリユーションス(゙株)総務部長代 石井 利裕氏、三菱重工業(株)人事部人材開発課採用担当課長 大串 和之氏、機械工学科 主任教授 大聖 泰弘氏司会 機械工学科教授太田 英輔氏、機械工学科教授高西 淳夫氏

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WM Eから学

部・学科の最近の

動向について、何

か書くようにとの

命をうけた。日頃

色 と々お世話にな

っていながら、機

友会の再生時には微力をもってお手伝

いすることができたものの、その後疎

遠になっているお詫びも含め、最近の

動きについて書かせていただく。

このような題名にさせていただいた

のも、00年9月16日から02年9月15日ま

での二年間、理工学部の教務担当教

務主任を仰せつかり、その任を離れた

からである (機械工学科の教員から

は、宇佐美元学部長以降、山本教授、

山川教授、さらに副主任には梅津教授

が当たられている。)いわゆる学部スタ

ッフは、学部長中心に4名が担当し、

主任会や教授会を円滑に運営するた

め、各学科主任との議論を重ねつつ、

学部の将来を検討する一方、学科で

は片付かない理工学部学生の世話も

行う。つまり、学部の小使いさんある

いは、円滑運営の潤滑剤と言えよう。

ただし、ほとんど研究室を省みること

のできない(つらーい)日々が続く。した

っがて、現在はなにか“ほっとした”気

分である。

前学部長 尾島教授(建築学科)よ

り就任要請を受けたのが2000年の8月

も末のことと記憶している。あまりにも

時機を失した要請にいささか疑問もあ

ったが、頼まれると断るすべを知らな

い小生を指名されたものと思い、お受

けすることとした。ただし、これは、つ

かまったあとから伺った話ではある

が、どうも何人かの先生から就任を断

られた経緯があったようである。

このようなこともあったが、幾つかの

大きな課題に解決の糸口だけはつけ

られたものと考えている。その中の重

要なテーマを紹介して任を終えたい。

最初に、入試オフィスおよびリエゾ

ンオフィスの立ち上げを行い、専任の

教授に室長として就任いただいた。入

試オフィスは、前任の学部長室からの

引継ぎによるものであるが、過去の入

試データの分析と、将来にわたる入試

戦略を立てることを目標として、学部長

室入試担当経験者がこの任に当たる

こととなった。

またリエゾンオフィスは、学部教職

員、学生、OBの連携をより堅固にする

ためのあらゆる活動を視野に入れ、今

まで不十分であった、理工学部の動向

をいち早く広報する機能を設けること

を目標とした部署である(ホームぺー

ジに一度アクセスしていただきたい。

理工学部のぺージから入れます)。

大きな課題の第一は、宇佐美元学

部長室から引継いだ入試改革である。

たぶん反省するべき点も多々あると思

うが、近年の悪意に満ち溢れた週刊

誌によるネガティブキャンぺーンに見る

ように、停滞気味にあった入学試験改

革の実行を行った。用意された幾つ

かの選択肢から、入試オフィスの助言

も得て、AO入試を2001年から実行に

移した。

この入試は、創成入試と名づけられ、

長時間の面接を主に複数の教員が受

験生と対峙して行い、受験生の入学へ

の意欲、学科における適応能力、創成

力等を吟味し、結論を出す方式であ

る。学科により実技試験を課すなど、

さまざまな工夫された面接方式が取ら

れている。2003年度入試は、政経学

部と同時に11月行われ、70名(機械工

学科は9名)を越える合格者を迎える。

成果は、本方式の合格者が学部卒業

を果たすときに報告ができるものと考

えるが、昨年度の合格者に関して、

積極性の面で優れているとの評価を

得ている。また、2003年度一般入試か

ら、科目に生物を導入して(応用化学

と電気・情報生命学科)次に述べる新

学科の教育体制に備えることとなっ

た。

第二は、学部・学科の再編問題であ

る。 この問題は、本部教務部の方針

である生命 、生物学系の教員の理工

学部への集結、と情報学部(仮称)の

理工学部からの独立要望、がきっかけ

となった。 特に後者は、その後の理

工学部再編議論のトリガーとなり、現

在に至っている。 理工学部は大久保

移転から、実社会の要請に応じなが

ら臨機応変にその学科構成を変えて

きてはいるが 、大学院生の増加に伴

って全学部で1万人を超える学生を収

容する、早稲田大学で最大の学部と

なっている。

もちろん、この学部を構成する教職

員数も他学部を凌駕している。 この

ような状況で、意思決定の迅速さに欠

ける面が、世の中の流れに乗り遅れ

る大きな要因となってきたことは事実

である。そこで、この提案を機に全

学部で理工学部を複数の学部に再編

し、学部改革を急ごうという議論をス

タートさせた。

前者は一見すると異質のものとお考

えであろうが、その後の情報系学科の

再編に繋がっている。 情報のキーワ

ードを持つ学科は、ご承知のように3学

科存在した。電気、通信、情報である。

受験生や付属高校生からは、各学科

の情報に関する特徴が見えず、混乱を

与えていた。当初は、情報学部の独立

という提案であったが、その後人間科

学部から転籍された、4名の生命科学

系教員に加わっていただき、電気・情

報生命工学科とコンピュータ・ネットワ

ーク工学科へ再編することとし、募集

定員数ともに210名で2003年スタートす

ることで合意、2002年8月に文部科学

省の認可を得た。

学部再編では、125周年である2007

年に理工学部を複数の学部に再編す

ることを教授会で了承いただいた。決

定に至るまでには紆余曲折があった

が、勉強会や拡大主任会、さらには

W.M.E Newsletter Vol.19page 3

勝田 正文 

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W.M.E Newsletter Vol.19 page 4

2002年3月の全学科・領域、事務系、

技術系のシンポジウムを経て、多数決

での決定に至った。この課題は現学

部長室(足立学部長 数理学科教授)

で引き継ぎ、具体的な案を再編実行

委員会において検討いただいている。

このような中で、わが機械工学科で

は、山川前主任教授を中心に学科再

編の議論が進んだ。現在、最終の段

階、カリキュラムの仕上げに入ってい

るが、グループAとB(仮称)「既存の

機械工学体系を磨き上げ、さらに高

度なものにしようとする」Aと「新しい

教育手法(共創 学生参加 PBL)を取り

入れ、中堅の技術者を輩出しようとす

る」Bで議論を進めている。目標は、

学部再編の前年あたりを考ている。

最後に、理工学部100周年(2008年)

とその構想である。教育学部の理学

系、特に生物系の教員は、早くから理

工学部への合流を希望されていた。

残念ながら諸般の事情によって、我々

の学部長室での実現はかなわなかっ

たが、今後検討されるこの問題を実現

させるためにも63号館(テニスコート)

と、生物系実験室の確保は重要であ

る。100周年に向けての切り札になろ

う。さらに大きな計画としては、早稲田

コリドール構想(建築学科、土木工学

科)がある。これは、高田馬場から本

部西早稲田をつなぐミニ学生街開発構

想で、その中核を理工、戸山、学習院、

本部を担う。地下鉄13 号線の駅舎が

理工学部に乗り入れる頃に実現すれ

ば、この上もない100周年記念事業と

なろう。 (ただし、現在は構想のみ)

とにもかくにも2年間を曲がりなりに

も過すことができた。ご支援いただい

た学科の先生方と、なにより研究室の

助手をはじめとする学生・OB諸氏に

お礼申し上げる。

(機械工学科教授)

早稲田大学WABOT-HOUSE研究所*1は,2001年11月16日に締結された岐阜県と早稲田大学との協定*2に基づき,本学プロジェクト研究所*3の一つとして2001年12月1日に設立されました。設立と同時に,岐阜県各務原市テクノプラザ*4内にサテライトラボが設置され,2002年4月1日より5年間の計画で研究プロジ

ェクト(2002年度は18研究テーマ)が動き始めました。最終的な研究成果物としては,数十種類におよぶロボットおよびロボット・コミュニティ,3棟の建築物*5(A棟:人間のための未来の家,B棟:人間とロボットが共存するための家,C棟:ロボットのための家),ロボット・ミュージアムが予定されています。また,形のない成果物として,大学所有のロボット関連シーズ技術を実用化(ニーズ化)するための共創的コーディネーション技術の確立をも目指しています。岐阜県は,テクノプラザを中心とする地域をロボット研究およびロボット産業の世界的拠点にしたいと考えており,早稲田大学はその構想実現のためのパートナーとして選ばれたのです。菅野重樹所長(機械工学科教授),尾島俊雄副所長(建築学科

教授),三輪敬之副所長(機械工学科教授),橋本周司副所長(応用物理学科教授),小松尚久副所長(電子・情報通信学科教授)をはじめとする研究スタッフは,機械工学科,応用物理学科,電気電子情報工学科,建築学科,電子・情報通信学科,芸術学校に所属する研究者から構成されており,筆者を含めて4名の若手研究者が現地スタッフとしてテクノプラザに常駐しています。このように,従来の主なロボット研究分野に加えて建築分野や情報通信分野を,さらに芸術分野をも含めた組織となっていることが,他の研究機関には類を見ない本研究所の大きな特徴と言えます。漫画家の故手塚治虫氏は2003年4月7日を鉄腕アトムの誕生

日と設定しました。また,故加藤一郎教授は「21世紀はマイ・ロボットの時代」という言葉を残されました*6。 AIBO

のようなロボットが既に家庭に入ってきている現在,さらに高度なロボットと共存する時代の住宅について,問題点とその対処法をあらかじめ考えておく必要があります。そのような時代にはロボット産業が必須でしょう。一方,ロボットが家庭に入ることによって,家族の絆が壊れてしまうことも懸念されます。したがって,ロボットの研究開発は技術的課題のみではなく社会的課題をも真剣に考えなければならない新たな局面を迎えつつあるのです。メカニズムとその制御技術に加えて人工知能や高速情報通

信技術など,ロボット要素技術も現在では多岐にわたっており,高度な知能をもつロボットが将来誕生するかもしれません。しかし,人間並みの能力をもったロボットが開発されると人間は本当に今より幸せになれるのでしょうか。早稲田大学は人間型ロボット(ヒューマノイド)の研究で世界をリードしてきましたが,早稲田大学WABOT-HOUSE研究所はこれまでに蓄積されてきたロボット技術の上に建築技術,情報通信技術さらに芸術的な深みを加え,将来の社会を先取りした研究に積極的に挑戦することによって,人間の真の幸せが望まれる時代の到来に向けたロボット技術を追究していきます。

(紙面の都合上,詳細は下記ホームページをご参照下さい)*1 http://www.wabot-house.org/

*2 http://www.sci.waseda.ac.jp/koho/1116.html

*3 http://www.waseda.ac.jp/kikou/

*4 http://www.pref.gifu.jp/s11338/vr/

*5 http://www.ojima.arch.waseda.ac.jp/~wabot/

*6 http://www.humanoid.waseda.ac.jp/booklet/katobook-j.html

(早稲田大学WABOT-HOUSE研究所 客員研究助手)[増本連絡先]E-mail:[email protected](機械工学科山川研究室)

学部学科の動向

増本 憲泰(平成11年博)

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W.M.E Newsletter Vol.18page 5

2002年7月に、21世紀の地球規模での環境問題に対応した先導的な研究開発を展開する新しい機関として、『環境総合研究セン

ター』が設立され、初代所長には、機械工学科の永田勝也教授が就任した。本センターは、学内・学外各所との

緊密な連携を図りつつ、本庄キャンパスを中心とした「本庄地方拠点都市地域」において、産・官(公)・民(地域)・学が一体となった、実践的な教育・研究活動の展開を指向している。特に、環境問題は学際領域での対応

が求められており、理工学分野だけでなく人文・社会科学分野等の幅広い学問領域を統合した「学問領域統合型アプローチ」による体制の構築が必須である。本センターでは、環境問題の解決に

向けたアプローチ方法として、①統制対象に向けて環境負荷の低減を主眼としてアプローチする「環境制御」、②環境の定常的な体系化・維持メカニズムの構築を主眼としてアプローチする「環境経営」、③環境との共生を企図した新しい環境のあり方を創出することを主眼としてアプローチする「環境創造」、という三つを掲げている。

これらのアプローチを基本として、各々が密接な連携関係の下で活動できる体制として、『研究クラスター』という研究ユニットを設けている(図1参照)。『研究クラスター』は、それぞれに目標を持つ研究プロジェクトを同時並行で進め、それらを実社会システム内に定着することを最終目標として、全体として統合した学際領域的研究体制である。現在、具体的には、表1に示す研究活動が展開されており、機械工学科の教員も積極的に参画している。2003年度以降は、より活発な研究活動を予定している。今後の展開として、2003年夏に、「イ

ンキュベーション・オン・キャンパス本庄早稲田」という研究活動の中心となる施設が完成し、本庄キャンパスにおける本格的な活動がスタートする。さらに、2004年春には、上越・長野新幹線新駅が完成して交通アクセスが向上すると共に、ゼミ・講義室を中心とした「産・学・公・地域連携促進センター」も本格的稼動を開始する予定となっている。これらハード面での整備と並行して、本センターを母体とした環境系大学院の設置が近い将来に予定されており、既設の学部や研究科と連携関係を持ちながら、本庄キャンパスにおける教育・研究活動の展開を予定している。環境系大学院では、企業・官公庁・地方自治体・NPOなどの社会人や留学生も積極的に受け入れ、実践的かつ即効的に社会に通用する人材の育成を目指す。今後の社会システムは、環境への取

り組み無くしては存続することが困難な状況になってきている。その意味でも、本センターを中心とした本庄キャンパスでの活動には、是非とも注目していただきたい。本センターの詳細は、http://www.waseda.ac.jp/weri/を参照いただきたい。(環境総合研究センター客員助教授)

<研究クラスター・研究プロジェクト・主体者の構造>

産業機器の環境配慮型

生産・運用システム

先進コミュニティ

交通システム

自動車リユース・リビルト

部品普及システム

次世代自動車研究所

★最終目標を共有するクラスターは研究所組織に位置付け

★プロジェクトを統合してクラスターを構築

【学】【公(官)】

【民(地域)】【産】

※早稲田大学を中心に他大学や研究所を含む

※国、地方自治体、国立研究所を含む

※本庄地方を中心に、地域住民やNPO・国際機関を含む

※企業の他。社団法人・コンサル・企業研究所等を含む

★4つの主体から参画

先進コミュニティ交通システム

研究所( 5 ~10 年で完結) =研究クラスター( 3~ 年で完結) =研究プロジェクト( ~ただし、単独プロジェクトの場合は ~ 年で完結

<研究クラスター・研究プロジェクト・主体者の構造>

産業機器の環境配慮型生産・運用システム

先進コミュニティ交通システム

自動車リユース・リビルト部品普及システム

次世代自動車研究所

★最終目標を共有するクラスターは研究所組織に位置付け

★プロジェクトを統合してクラスターを構築

【学】【公(官)】

【民(地域)】【産】

※早稲田大学を中心に他大学や研究所を含む

※国、地方自治体、国立研究所を含む

※本庄地方を中心に、地域住民やNPO・国際機関を含む

※企業の他。社団法人・コンサル・企業研究所等を含む

★4つの主体から参画

先進コミュニティ交通システム

5 3 5年で完結)1 3

納富 信(平成10年博)

表1 展開中の研究活動

研究プロジェクト・研究クラスター名 リーダー

産業機械の環境配慮型生産・運用システム 永田勝也 教授(理工機械)

畜産廃棄物の再資源化システム 河合素直 教授(理工機械)

資源循環圏域可視化研究 寄本勝美 教授(政経)

先進コミュニティ交通システム 大聖泰弘 教授(理工機械)

本庄市元小山川浄化プロジェクト 河合素直 教授(理工機械)

精密農法プロジェクト 河合素直 教授(理工機械)

自動車リユース・リビルト部品普及システム 永田勝也 教授(理工機械)

CDMによる森林の炭素吸収量評価手法の開発 森川 靖  教授(人科)

図1 研究クラスターの構造

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W.M.E Newsletter Vol.19 page 6

まず研究室の経緯から述べさせていただきます。昭和40年(1965年)理工学部は、大学創立80周年を機に,現在の大久保校舎に

移転し,機械工学科は学生定員が大幅に増加されました。その機械工学科の中に故佐藤常三先

生が中心になって産業数学コース(学部),産業数学部門(大学院)が設定されました。その趣旨は,産業界で技術ばかりでなく経済現象までも視野に入れて数理を生かせる人材を養成するコースということで,複素関数論,微分方程式,解析力学,連続体力学に加え,非線形振動論,不規則振動論,確率統計,最適化理論,オペレーションズ・リサーチ,ゲームの理論,線形計画法など当時の数理計画系の科目が数多く設置されました。筆者はそのコースを昭和51年(1976

年)に引き継ぐこととなりましたが,学部,大学院と流体工学の出身なので,数学や連続体力学などの科目を担当することとなり,それ以外は他大学,学外の研究機関に勤務された先生方にご協力いただくことになりました。このような経緯から,筆者は現在,学部で「工業数学」,「力学」関係の科目を担当させていただき,大学院で「レオロジー」や「流体関連振動」を担当させていただいております。他の科目群は時代に合わせて整理統

合され,それと共に学部の産業数学コースも流体工学グループに統合されて現在は大学院の産業数学部門のみが残っています。今後,大学院の部門も学科再編,学部再編の中で見直しが行われる予定です。つぎに現在の主な研究テーマを紹介

させていただきます。(1) 「水撃および気液二相流の過渡現象に関する研究」:水を送る配管装置において,水撃現象(Water Hammer)は,管路の振動や機器の破壊を招くことがあり,この現象の予測は配管システムの設計・開発および安全維持に必要不可欠となっています。特に圧力低下時に水の気化現象(水柱分離)が発生す

ると,この現象は二相流となるので,精度の高いモデルが必要とされ,その確立を目指しています。また,洪水対策用の人工河川や下水道などでは,管内に一時的に空気が閉じ込められ,その過渡現象が問題となっています。この現象について企業との共同研究により,従来のモデルを改良してその有効性を縮尺模型により検証しています。このモデルを実スケールに拡大し適用するため差分式の数値不安定の問題や過渡現象の相似則を明らかにすることを目標としています。(2) 「高速ウォータージェットの研究」:比較的簡単な装置で,高速な液体噴流を発生させるため,7気圧程度の空気圧によりピストンを加速し,その衝突圧により出口径2-10mmのノズルから流速500-1000m/sの単発型超音速水噴流を実現しています。このような非定常性の強い液体流れについて,ノズル内の流れ,大気中での噴流挙動,金属材料への穿孔作用を調べ,流れ特性の解明と共に実用化への道を探っています。一方,幅広い応用範囲を有する定常な高速水噴流について,大気中,水中における流動特性を調べ 単発型超音速水噴流による金属の穿孔種々の材料に対する加工能力との関係を追求しています。この他,立型ポンプの設計に必要な

「駆動軸のふれまわり運動の研究」や市街地道路の交通流の改善を目的とした「交通流の計測システムとシミュレーションモデルの開発」にも取り組んでいます。最後に研究室の教育方針を述べさせ

ていただきます。はじめにも述べましたように30年前の出発点の産業数学コースでは理論解析を主体とした研究テーマがゼミナールや卒業研究,修士論文で展開されていました。私が引きついでからは,研究室の教

育は理論と実験の補完を重視するように心がけています。具体的には3年生で週1回の「ゼミナール」を通して,流体工学の基礎である,質量,運動量,エネルギーの保存則と構成方程式,初期条件,境界条件の意味を復習します。英語の専門用語に慣れるためテキストは英語とし,輪講形式で議論をします。

一方,「エンジニアリング・プラクティス」では具体例を通じて基礎の理解を深めるため,差分法により簡単な流れの数値計算を実行してもらいます。流れの数値計算の基礎と共に,コンピューターのプログラム言語,計算結果のグラフ化,ワープロによる報告書作成など,大学院修士1年のアドバイスのもとで課題遂行のための必要最低限のスキルを身につけてもらいます。これらの学習成果は年末に皆の前で

発表させますが,3年生の段階では自ら準備し,課題に取り組むことが意外に不慣れで,多くを期待すると消化不良を起します。4年生の卒業論文では,原則として1テーマ2~3名のグループとし,専門知識ばかりでなく,実験や計算を通じて共同作業の重要性を学んでもらいます。さらに大学院では,テーマの理論面の強化と共に,卒業論文の面倒を見ることにより,課題遂行のためのリーダーシップを身につけてもらうようにしています。本研究室のテーマで流体工学上問題

となっていることは,非定常管摩擦,キャビテ―ション,気液二相流の計算モデルの適切性と数値不安定,相間の物質・運動量・エネルギーの移動,超音波と衝撃波,流れの3次元性と乱流,差分法におけるクーラン数の壁などいずれも一筋縄で解決できるものではありません。これらの問題を1つ1つ解明し,学

術面で貢献するためには,流体の専門知識はもとより,数学,物理学の素養,専門基礎,コンピューターのスキルと英語力,そして何よりも気力と体力が要求されます。これらの知識と技術を2~4年間でマスターすることは容易ではありませんが,最近は大学院の修士レベルでも国際会議での発表が珍しくなくなって来ています。なお研究室の卒業生は,本年3月現在

で学部,大学院合わせて376名に達し,様々な分野で活躍しています。

(機械工学科教授)

山本 勝弘

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W.M.E Newsletter Vol.19page 7

渡部 陽(昭和26年卒)私は池谷武雄先生には昭和30年に初めてボス

トンでお会いして以来約50年になりますが、毎年肉筆の絵が描かれた年賀状や、折に触れてスケッチのコピー等を送っていただきました。先生は昭和35年に「欧米画信」というスケッチ画集を刊行されましたが、母校の旧制沼津中学校の同級生

であった芹沢光治氏は序文に次のように書いています。「水力発電に関する学者である同君が、国際会議の旅行の途上、世界各地でこのような見事なスケッチと印象記を物にしたのは、ただ驚くばかりだが、これは偉大な技術家精神の賜物であろうか、岳麓の風光明媚な風土が幼い日に養った詩心のたまものであろうか。」芹沢氏の言われたことは、私が先生のお宅をその後訪問して初

めて分かりました。先ず先生は毎年描かれたスケッチなどの絵の中から年末年始にかけてその年を代表する絵を選び、大型の集印帖に清書し直して画集にしておられました。これは昭和26年から始め100歳になられた時は46冊に達していたそうです。先生の画集の絵が素人離れしているのは単なるスケッチではなく、高い技能をもってデザインされているからです。先生のお宅で拝見しましたが、毎日の新聞から自分の気に入ったカット絵、挿絵などを切り抜いて何冊ものスクラップブックに保存して構図やデザインの研究をしておら

れました。また先生はWMEニュースレターに、「機械科の授業では複雑な機械の絵を教師は黒板に描き、学生はノートに写さねばならなかった」と書いておられますが、これも絵の訓練で、芹沢氏が賞賛した技術屋精神の生まれた所以であると思います。先生が人から送られた葉書や書簡に絵の描かれているものは全て大切に保存しておられたことにも感服しました。昨年1月末に寒中見舞いを頂き、「104歳になった、母校の沼津中学の100周年記念に出席し乾杯の大役を果たすことができた」と書かれておりました。大隈会館で開催される稲画会には毎年油絵を出品され、104歳の昨年まで続けられたそうです。先生は機友会には特別な思い入れを持たれ、1997年、98年のW

MEニュースレターに寄稿され、特に1979年から1982にかけて11回にわたり、「機械工学科創成記」を九機会有志代表として執筆されました。大正9年に機械工学科を卒業された6氏による座談会を池谷先生がまとめられたもので、貴重な資料が掲示され、我が機械科への愛情と後輩への励ましの気持ちが伝わってきます。なお、最近ご遺族から、芹沢氏と池谷先生による絵画展が沼津

市我入道の芹沢光治文学館で「企画展=親展」と題して4月25日まで開催されているとのお知らせを受けました。 心よりご冥福をお祈り申しあげます。合掌

((財)素形材センター技術顧問)

鈴木 悟郎 (昭和30年院)平成15年1月9日の午後池谷先生がお亡くなり

になったとの悲報を池谷先生と親交のあった同期の渡部 陽氏より戴いた時、惜しい方がお亡くなりになったとの思いで胸が一杯になりました。池谷 武雄先生は長年東京電機大学に奉職さ

れその間電機学園高等学校校長,東京電機大学教授、機械工学科長、理事、工学部第二部長、顧問等の要職を歴任され東京電機大学名誉教授として学園主催の会合にご出席下さっていました。ご専門は水力学、水力機械関係で幾多の業績を残されましたが、主に日本機械学会でご活躍されました。1956年にはASME75周年式典に日本機械学会の代表として参列されました。日本機械学会功労賞を授与され、日本機械学会名誉員であります。また勲四等旭日小綬章に叙せられています。池谷 武雄先生は東京電機大学第一部機械工学科を昭和36年4月に創設されましたが、私は発足時より半年後に機械工学科に採用して戴きました。引き読き昭和37年4月には第二部機械工学科を設立されました。その後池谷先生が中心となって大学院工学研究科機械工学専攻修士課程の設立の申請をしました時には校地面積不足のため却下されました。現在では設立条件を満たして博士課程まで設立されております。創設時に池谷先生の右腕となって働いたのが同じく早稲田大学

機械工学科出身の故人となられた川口毅先生であります。この早稲田大学機械工学科出身の人脈は現在も東京電機大学機械工学

科のなかで生き生きとしております。発足時の方も入れますと故菊地五郎(教授、自動車工学)故橋本三郎(教授、機械工作)故川口毅(教授、水力学)、現存では鈴木悟郎(名誉教授、材料力学)三船博史(教授、制御工学)高村淑彦(教授、熱工学)伊藤明俊(教授、ロボット工学) 等です。現在早稲田大学機械工学科の勝田正文教授も一時東京電機大学機械工学科に在籍しておられました。創設者の池谷武雄先生のご尽力によるものと深く感謝しております。池谷先生は水力学、水力機械の権威であり水車、各種ポンプ、

水力タービン、流量測定などについて多数の研究発表をされています。池谷先生の講義はご専門の水力学、水力機械ですが、機械工学

科の学生には機械全体についての常識が不可欠であるというお考えのもと“機械一般”として講義をされていました。このような内容の講義は深いご造詣とご見識がないとできませんが、学生には大変評判がよかった様です。また池谷先生は学生にたいして深い愛情を持っておられました。池谷武雄先生の特色は多芸多才なことだと思います。弁舌さわ

やかで、興味深い随筆をおかきになったり、漢詩をおつくりになったりされました。、特に水彩画が見事でした。池谷先生のお話によると写真よりも克明に頭に焼き付けられているとのことでした。このようにして書き溜めた絵日記の画集をたびたび拝見させていただきました。先生のご長寿の秘訣もこのような活力に溢れたご趣味にあったと思います。池谷 武雄先生のご冥福を心からお祈り申しあげます。

(東京電機大学  名誉教授)

機友会会員として数々の功績を残され、お元気な頃は

毎年機友会総会に出席され、昔日の思い出を語つてい

ただいた池谷武雄先生が本年1月、105歳の天寿を全

とうされました。ここに慎んでご冥福をお祈り申し上げ、

特に、先生とご縁の深かったお二方にその追悼の辞を

寄せていただきました。

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W.M.E Newsletter Vol.19 page 8

1986年に熱工学・永田研究室を卒業し、パイロット訓練生として日本航空に入社した。飛行機の運航に関しては全くの素人であったが、訓練の後ボ

ーイング747型機のSecond Officer (航空機関士の業務を行う)、副操縦士、ボーイング767型機の副操縦士を経験し、2000年にボーイング767型機の機長になった。その後、運航業務と並行して地上業務にも携わる様になった。昨年末までの2年程AIDSの解析を行った。AIDSとはAircraft Integrated Data System

の略称で、(最近はこの名称が嫌われてかACMS等と変更されている。)航空機事故の時話題になるFlight Recorderとは別の、日常運航をモニターするData Recorderのことであり、多くのパラメーターを記録している。記録媒体は頑丈なビデオテープの様な物であり、新しいSystemでは光磁気ディスク(MO)を使用している。学生時代はエコランカー(燃費競技車両)を取り扱い、データを取り込

む装置を作るのに苦労したが、今度はユーザーの立場となり、多くのデータが所得でき、解析に専念出来るのはありがたいことであった。日常運航において好ましくない事例が起こ

るとAIDSにDataが自動的に記録される。Dataは地上のコンピュータにより解析され、数日後、本人にFeedbackされると共に、担当乗員(担当時は私)が当人にインタビューを行い、当該事例について解析・考察を行いレポート形式にして全乗員(該当機種のみ)に配布する。この事により情報を共有し、安全運航の維持、品質の向上に役立てるというシステムである。誰がその事例を行ったかは本人と私以外は誰も知らない。代表的な好ましくない事例としては、ハー

ドランディング、Overspeedがある。ハードランディングについては、皆様もお

客様の立場で操縦が上手い、下手と意見がお有りかもしれないが、発生率としてはボーイング767型機の場合数千回の着陸に1件程度であり、普通乗客として経験する事は先ず無いと思われる。Overspeedに関しては、自

動車が一般公道を走行する際の速度制限に相当するものは、高高度を巡航する際には規定が無く、飛行機の性能から速すぎても遅すぎてもバフェットが発生する為、運用限界として制限を受けている。参考までにボーイング767型機に関してはMach0.86(音速の86%)である。昨年4月成田空港の新滑走路オープンに伴

い、中国路線に乗務する機会が増加した。中国から日本への便は貨物の搭載量が多いために(旅客便ではお客様の下に貨物を搭載するコンパートメントが有る。)最大着陸重量近くで着陸することも多く、中国の急速な進歩を実感している。逆に困る事は、中国では視程が悪い事が多く、着陸直前まで地表面が見えないことはしばしば経験する。時々着陸出来ずに日本に帰ってくる便も有る。視程が悪いのは公害対策が十分ではなく、燃料に石炭を使用しているのも原因の一つではないかと勝手に想像している。ボーイング747型機に乗務していた頃、発展途上国によく飛行した。滞在中、街中で大学の熱機関室と同じ匂いがしていた。道端のあちこちでガソリンをポリ容器に入れて売っているのが原因であった。安い物価には理由があるように感じている。

(日本航空ボーイング767型機機長)

遠藤明彦(昭和61年院)

機友会の事務局から山川研の紹介記事を執筆するようにとのご依頼にあたり、昔話でもかまいませんというお言葉にしたがってつたない筆を執ることにしました。ということで山川先生と最適設計を軸に私の思い出話をつづらせていただくことにして、「今は昔」と参りましょう。私が山川研の配属になったのは25年前の昭

和53年(1978年)です。山川先生は前年に助教授に就任されて研究室を構えられたばかりでまさに新進気鋭、研究活動や教務のみならず学内や学会の雑多な事務なども次から次へと精力的にこなされる活躍ぶりには驚かされました。研究室として独立していましたけれども山川先生の指導教授でおられる奥村先生の研究室と共同で活動していました。奥村先生は材料力学の教科書でご存知と思いますが、構造振動の分野で伝達マトリックス法の先駆的な研究をなされた権威で物腰から研究に向かわれる姿勢までとてもエレガントでした。日ごろの研究はもとより工場見学やスポーツ祭のボートレース、ソフトボール大会など奥村研の同級生といつも一緒でした。若くエネルギッシュな山川先生と経験の深くエレガントな奥村先生のお二人に広い見地から指導いただけたこと、また両研究室の2倍の知己に恵まれたことは望外の幸運ではなかったかと思っています。

山川研では構造物の振動とそれに着目した最適設計を研究テーマとしています。当時、山川先生は最適化手法と振動解析を組み合わせ振動の低減化をはかる最適設計の研究をされていて、私も同期2人とともにはり構造物の外力に対する振動を最小化する課題を卒論テーマにいただきました。そのころは大型計算機をバッチ処理で使うしか数値計算の手段は無く、プログラムを手でコーディングしては穿孔機で一行づつパンチカードに打ち込んで入力していました。パンチカードとは一枚に80バイトのデータをカードに穴をあけて記録するものでもはや見かけませんけれども、今でも使われる一行80バイトの書式はそのなごりでしょう。これをリーダにかけると早くても1~2時間後にラインプリンタに結果が出力されてきます。一字でもパンチが間違えればこの待ち時間が無駄になりまたやり直しという悠長な時代でした。このところ最適設計は工業分野で設計効率化の追い風に乗ってたいへん流行していますが、卒論を学会発表したときには最適解は自明のもので最適設計の意義はどこにあるのかという批判的な質問を受ける有様でした。大型計算機というのもかさだけでパソコンから大きく見劣りする代物で実用的な問題には至らなかったがためでしょうが、その後計算機が飛躍的に向上していくに

したがって最適設計も高度化、実用化が進み私たちのようにメーカーに身を置く者にとってたいへん便利なツールに発展を遂げています。山川研ではこの間も人工知能や遺伝的アルゴリズムなど次 に々新しい研究成果を送り出して最適設計の発展に大きく貢献している様子を頼もしく見てきましたが、山川先生が草創期から研究に取り組まれ、いつくしむように発展させてこられた結果が今日の隆盛につながったのではないかと感じ入っています。最適設計は有効な設計ツールとして定着しま

したが、最適な状態は評価する視点によって様 で々ただ一つではありません。多様な要求を完全に満足させるまで最適設計の進化はまだまだ続くことと思います。最適設計と山川研究室の発展を祈念して私の昔話を終わらせたいと思います。(東芝電力システム社電力・産業システム技術開発センター主査)

写真 東芝京浜稲門会にて山川研同窓の山口強(右S58年修)、馬場三

知夫(中S57年修)両氏とともに

一文字 正幸(昭和57年院)

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機械工学科を卒業してから医用工学・福祉工学の道に進んでしばらくとなります。現在は、東京医科歯科大学生体材料工学研究所に、助手として

奉職しています。現在進行中の研究は、高齢者を対象として自宅で健康状態や生活活動をモニタリングし健康管理に役立てようという研究(「在宅健康モニタリングシステムの開発」などと呼んでいます)、身体内部の熱的状態や精神活動に関連する発汗活動を汗腺ひとつひとつのレベルで観測するシステムの開発(「単一汗腺を対象とした発汗計測法の開発」)、サーモグラフィーカメラを用いた新しい皮膚表面血流計測法の開発、痴呆性徘徊老人支援および対応のための『ひと』に優しい技術の開発、などがあり、充実した日々を過ごさせていただいています。私は学部時代には工学と社会との関連に

ついて貧困な認識しかなく、それこそ小学校の社会科で習ったような「日本は加工貿易立国を行う国なので工学は資源に付加価値を付け加える学問」というくらいに考え

ていたように思えます。土屋教授の研究室に所属して医用工学という分野に出会い、産業以外に医学という領域にも工学を応用できることを学びました。当時、自分の中にあった産業-工学という二項系を恩師土屋先生や梅津先生に破壊されたのも衝撃ではありましたが、今では自身が福祉領域にも工学技術をもって貢献しようと非才ながらも努力しているのですから、なんとも面白いものではあります。福祉分野を勉強して思うのは、「ひと」

一人一人の違いです。同じシステムを使っていただいても、受け入れていただける方とそうでない方がいるという現実があります。その差こそが個性ではありますが、工学的なアプローチでは、その差を無視しがちになることも多く、失敗も数限りなくあります。ひとによって感性が違うからだ、と言ってしまえば簡単ではありますが、感性の差を克服するためのアプローチが必要なのではないかと常々考えさせられます。感性の差を克服するためには、一方で巨大メディアが行うような「単一の感性の押し付け」といったアプローチもあり、そのための方法も研究されてはいるようです。し

かし、そうではない方法が模索されるべきであると考えずにはいられません。感性というと、我々の世代の卒業生には井口先生・三輪先生のお名前を思い起こさずにはいられません。今になって当時のノートなどを見返してみると、両先生はバブル経済絶頂期のさなかにあっても感性に対する工学的アプローチが必要となる時代を見越していらっしゃったように思えます。学部時代の自らの不勉強が恨めしいところでもあり、両先生の慧眼に畏まるところでもあります。私にとっての機械工学は、産業-工学と

いう二項系から始まって、そこに医学が加わり、そして福祉が加わり、今では感性に挑戦せねばならぬところまで拡大してきました。社会が高齢化・少子化によって急速に変化し、それに工学が対処しなければならなかったということはできるでしょう。しかし、私は工学自体と数多の工学者自身に社会の変化に対応するだけのポテンシャルがあったと考えます。輸入した資源に付加価値を加えるための工学に発して、「ひと」の人生に付加価値を加えるための工学を目指していきたいと考えているのです。(東京医科歯科大学生体材料工学研究所助手)

小川充洋(平成6年院)

W.M.E Newsletter Vol.19page 9

はじめに、湘南工科大学について簡単に紹介します。湘南工科大学は平成2年に相模工業大学から改称し、現在の名称となりました。昭和38年の開学ですから本年で40周年ということになります。場所は、東海道線辻堂駅から「サーファー通り」を南下して徒歩約15分、辻堂海岸からは北に約500m、海岸に出

れば東に江ノ島、西には富士山が望めるという風光明媚な場所にあります。平成15年4月からの学科構成は、機械工学科が2学科に分離して機

械システム工学科、機械デザイン工学科になり、ほか電気電子メディア工学科、情報工学科、マテリアル工学科、システムコミュニケーション工学科と6科体制となります。学生数は約2800人、大学院は、機械、電気、材料の3専攻科があります。私は16年前に機械工学科に就職しましたが、平成13年4月に新設されたシステムコミュニケーション工学科に移籍しました。この学科は、情報技術、異文化コミュニケーション、そしてシステム工学を融合させたユニークな学科です。現在2年次生までしか在籍していないのですが、行っている教育内容を簡単にご紹介していきたいと思います。システムコミュニケーション工学科は、目的をもたずに大学に入学

してきた学生に、入学後目的意識を持たせよう、という主旨で設立されました。そこで情報技術を中心にして、文化系の領域から理系の領

域まで、幅広い科目が設置されています。現在9名いる教員のうち2名は外国籍で、英語教育や異文化コミュニケーション関係の科目を担当しています。私は制御を含めたシステム工学部門の担当です。本学科で特にユニークだと思われるのは、チームプロジェクトラーニングという実習科目です。これは、1年次後期から3年次終了時までの2年半にわたり、あるプロジェクトをネタにして授業科目で教え込めない内容を、実習を通して勉強してもらおう、という科目です。各教員は約10名の学生の面倒を2年半行います。プロジェクトを行う実習スペースは、ほとんど壁のないオープンスペースで、お互いにどのようなプロジェクトを行っているのか見えるようにしてあり、興味が出れば、学生は自分の所属しているプロジェクトだけでなく他のプロジェクトに参加することもできます。これまでチームプロジェクトラーニングを1年半行ってきました。

私のプロジェクトは何か自立型の動く物を作ろうというのが主題です。私も学生同様、初めは何をしてよいのか迷いました。素材レベルから始めようと思いましたが、実際は無理でした。あちこち探して、それらしい組み立てキットを探して、やっとここ半年、学生が興味を持ってくれるものを見つけました。私は、ほとんど学生を放任しておきました。従って進みは亀の足より遅いという感じでしたが、最後は自分達なりに考えて動作プログラムも考えていたようです。とは言え、まだまだ相当低いレベルであり満足の行かない状態です。しかし、自主性が少し出てきたような気もします。とにかく事態は少し良い方向に向かっているようです。教育とは時間と手間のかかる非効率的な作業であると実感するこのごろです。(湘南工科大学 システムコミュニケーション工学科 助教授)

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W.M.E Newsletter Vol.19 page 10

早稲田大学には10年以上通ったが、そのほとんど

は学生として過ごした。助手の1年間はあっという

間であった。日本工業大学(日工大)に通って6年

になるが、こちらは、教員という立場であり、大学

というものが、また違った見え方になっているよう

に思う。

大学ごとにカラーがあるのか。大学生の時によく考えた。サークル

に入って他大学の学生とも交流した。しかし、世の中で言われている

ほどでもないというのが、当時の私の印象だった。日本のどこの街に

行っても同じような車が道路の左側を走って、同じような信号で止ま

り、街並みもなんとなく同じように見えるのと似ているのだろうか。

しかしながら、大学の特徴を述べよと言われたとき、ここ日工大は

他の大学との違いを探すのが簡単である。端的に書けば、「工業高校

生が進学するために工業高校が作った大学」。こういう大学は他には

ない。工業高校生は、多くの普通高校生とは違った勉強をしているの

で、一般の大学入試で普通高校生と同列に評価を受けるのではかなり

不利になってしまう。しかし、工業高校生にも大学進学の希望はあり、

入学してきた学生を普通高校出身生と比べると、早い時期から進路に

ついて考えて専門的な勉強を始めているので、大学での専門科目の学

習は速やかで、実験などもより積極的に行うものが多い。

前身の東京工科学校は明治41年に開校し、現在は駒場に東京工業高

等高校としてまもなく創立100年になる。日工大は昭和42年(私が生

まれた頃)に開学し、現在は、機械工学科をはじめとする工学部5学

科に5000人の学生が在籍している。大学のキャンパスは一つ。北千住

から東武線の快速に乗ると25分の東武動物公園駅から歩いて15分。春

日部を過ぎると急に田園風景が広がり、ちょっと田舎に来た気分であ

るが、東京からそれほど離れず、通勤ラッシュもないというのはかな

り良いことのように思う。キャンパスも美しい。大学が出来る前は湿

地だったそうであるが、開学当時から植樹を進め、当時からの建物は

ちょうど建て替えが終わったところである。このような地の利にある

からなのか、全国の工業高校から推薦入学で進学してくる学生が多い

からだと私は考えているが、学生達はとてものびのびとしている。そ

して、たくさん授業をとってまじめに授業に出席する。勤め始めた当

時、授業時間帯のキャンパスが閑散としているのに驚いた。食事もち

ゃんと昼休みに取る、考えてみれば当たり前のことだが。

工業高校出身者のためのカリキュラムはどのようなものか。低学年

から機械の専門科目を勉強するということと、ものに触れることを大

切にする、すなわち、実験実習科目の重視。早稲田で私自身が学んだ

カリキュラムに近いと感じた。つまりは、普通高校出身者にとっても

すばらしいカリキュラムなのではないかと私は考えている。

最近は、工業高校の統合や総合的な勉強をするような変化がみられ

る。日工大も柔軟に対応しつつある。また、沿線の普通高校からの入

学者も増えてきている。ものづくりに興味を持つ普通高校生も多いの

ではないかと思う。是非、日工大で学習し、社会に出て活躍してほし

いと願っている。(日本工業大学工学部機械工学科専任講師)

丹澤祥晃(平成8年博)

ホームカミングデーに参加して

古賀 亮介(昭和33年卒)

まさしく45年の時を経て「心の故郷」母校のミニ講義を拝聴したく前日上京し、朝8時半には戸山キャンパス38号

館に到着しておりました。「わせだの歴史を語る」の講師は教育学部佐藤能丸先生で受講者の中には先生より年配の人が多く隔世の感を強くしました。早稲田はいかにして成立したか、早稲田の

通史、「早稲田の歴史」は"伝統"形成の歴史、「大学文化史」など興味深く拝聴しました。式典では奥島総長による祝辞、招待者を代

表して卒業後45年目の佐藤安弘氏(麒麟麦酒(株)代表取締役会長)の挨拶につづき応援部による歓迎プログラムが披露され和やかな雰囲気につつまれていきました。その後名誉博士学位贈呈、石橋湛山記念大賞贈呈、最後に校歌斉唱して終了しました。式典後は、卒業年次毎に会場が設けられて

いて、33年卒は西早稲田キャンパス10号館109教室。旧友との再会を喜び合うなか、数十年の時が一気にタイムスリップ、さらに校内

は「稲門祭」で湧きかえり祭の雰囲気に浸ることができました。機友会懇談会では、28年卒、33年卒、43年卒、53年卒の人達が同席しました。毎年33年卒のクラス会でお会いする田島先

生をはじめ先生方と会話がはずみましたが、奥村先生、斉藤先生、林先生、それに1995年当時の機友会の学内理事で、梅津先生、大聖先生、武藤先生、勝田先生、川田先生方とはお会いできず残念でした。先生方が機友会の現状、「生命理工学専攻」

設立の背景など熱心に説明され、「生命」関連分野の研究者が学部、学科の枠を越えて情報交換、共同研究、グループ化し、ことに21世紀の社会ニーズを先取りした新しい研究として「理」と「工」の融合をはかり、更に東京女子医大と連携を図り「医」を複合することで、シナジー効果が期待でき、将来より発展した「ユニークな研究成果」が期待できるものと思われます。その他、財団法人本庄国際リサーチパーク

研究推進機構などの説明が続き、「WABOT-HOUSE研究所」が岐阜県にあるとのこと、それも我が家とは車で30分程の所と知り是非訪

れたいと思いました。参加者の近況報告の中で、松浦研究室の

卒業生から、アモルファス合金が世に出る10年程前に当研究室で開発できていたとの報告があり驚きました。機友会懇談会終了後、稲門グリークラブの

歌を聴き校歌斉唱で散会しました。青春時代を送った学び舎を後にした頃は早や夕暮となり、運営に関わられた方々に感謝しつつ帰途につきました。めまぐるしく移り行く時代に即した母校のま

すますの発展を祈ります。(1995年度 機友会 理事)

本年度ホームカミングデーは10月20日(日)開催、これに合わせて機友会の懇親会が西早稲田キャンパ

スにおいて開催された。この席で大学・理工学部・機械工学科の現況について勝田教授が紹介され、

wabot housについて増富客員研究助手が、本庄環境総合研究センターについて納富研究センタ

ー客員助教授がそれぞれ概要を紹介された。該当年次S33卒の前機友会理事の古賀 亮介氏が

「ホームカミングデーに参加して」と題して次ぎのような原稿を寄せられた。集合写真は氏のクラスである。

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機友会HP開設の大きな理由には会

員間の情報交換は勿論ではありますが、

他面、企業より就職情報の掲載を頂き学

生の就職活動を援助する狙いと、その掲

載料を基に学生への奨学補助としての

「奨学制度」の運用を図って行くことが発

端でありました。

最近の状況としては

1.遅れておりました、会員名簿の掲載

が漸く行われました。

参照

2.本年度より企業の就職情報掲載に

加えて、企業先輩から送るメッセージとし

新規「先輩からのメッセージ」というショー

トページを新たに設けました。

このページは学生諸君にとって、企業

人事担当からの一般的情報とは異なり

身近な、そして、頼りになる情報として利

用してもらえることと考えて設置しました。

会員各位には役目柄、ご来校の折、ご

賛同いただきたく存じます。

3.本年度企業就職情報掲載状況は

氾濫するこの種の情報に押され、昨年よ

り更に少なく学生支援の影響が懸念さ

れます。OB会員に置かれましては、「先

輩からのメッセージ」というショートページの

掲載でも結構です。在籍企業内におい

てお力添えをお願いします。

遅れておりました会員名簿の掲載が漸

く掲載されました。ご一覧下さい。その

際、個人情報保護の点から、転記・転

用は厳守となっております。あわせてお願

いします。

機友会会員名簿

このホームページ掲載の名簿は、1999

年発行の名簿データを基に2002年5月、

全会員の動静を「はがき」でお伺いして更

新したものです。個人情報のホームペー

ジ掲載については、諸種議論もあり、動

向お伺いの「はがき」にも、各位の情報の

掲載可否について注意を払ったつもりで

す。

特に掲載不可の表記のないものは、

掲載ご了解いただいたとする旨、調査用

紙にも記載し、項目毎に各位のご意志の

確認をいたしました。

ご返信のないものについても、同様の

趣旨を明記した上で、1999年のデータを

基に掲載させていただきました。

なお、外部からの会員情報についてのお

問い合せは、該当者にご連絡して判断

いただくこととしています。事務局から直

接のご返事はいたしません。

1.機友会ホームページ活用のお願い

前回もお願いいたしましたが、ホームペ

ージが活発でありません。会員各位に知

らせたい情報、クラス会開催通知など直

接掲載されなくても、[email protected]

net.ne.jpに原稿を送付ください。事務局

で掲載します。

2.会費納入のお願い

機友会会費の納入がよくありません、

会員各位の納入年度は封筒宛名ラベ

ルに記載してあります。機友会では未納

年度の遡及はいたしません、なお、

振替納入以外には

りそな銀行 新宿支店

普通口座 No 1375963

東京三菱銀行 新宿支店

普通口座 No 2460079

が゙あります。この場合、同姓同名の方が

居られます、3桁の数字であります

を必ず記載して下さい。この

他、銀行・郵便局からの自動引落方法

もあります。申出下さい、用紙を送ります。

3.住所・勤務先等変更の折にはご連

絡ください。当方からの調査は思うように

まいりません。事務局(Fax03-3205-9727)

までご一報下さい。

4.別掲の如く、本年10月19日(日)大学

隣接の「リーガロイヤルホテル東京」にて

機友会90周年祝賀会・式典を開催しま

す。会員お誘い合わせの上、お越し下

さい。節目の年に相応しい盛大な催しに

なりますようご協力ください。

5.機友会運営、HP運営、WMEニュー

スレター編集、その他企画関係全般に

亘りご意見をお待ちしております。

W.M.E Newsletter Vol.19page 11

2002年度機友会特別賞並びに奨励賞が去る1月14日の理事会いおいて、下記のように決まりました。今回の奨励賞は、昨年同様の機械工学科2年基礎製図A「CAD-Y立体模型」の優秀作品に加え、あらたに卒業論文関係の成果として太田研「前方スウィープ翼を有する高負荷軸流圧縮機の製作」の受賞が決まりました。特別賞は昨年に引き続きエコラン関係でした。ここに概要を報告します。詳しい内容は次号に受賞者より発表紹介します。

代表 草鹿研究室 機械工学科3年 西之宮 賢成果:第22回 本田宗一郎杯 ホンダエコノパワー燃費競技全国大会 グループ「大学・短大・高専・専門学校クラス」において準優勝(燃費:1231.991km/l)

参加メンバー:澤野 敦志、松平 直之、小菅 晋作、隠塚 大介、筑後 隼人成 果:四国EV(Electric Vehicle)ラリーにおける全レグ完走&優勝m四国EV駅“電”における四国一週走行達成、日本EVフェステバル、1時間耐久ディスタンスチャレンジに於ける優勝

指導教授 大田 英輔

メンバー 坂本 大智、田杭 隆一、杉浦 秀幸、高野 祐司、福重 達也

担当教員 山口 富士夫、富岡 淳、丹羽三樹弥、西川 進

事務局

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機友会90周年を記念して機械工学科・機友会の歴史を

振返り、未来に語り継ぐ冊子の編集に執りかかっており

ます。この中で会員各位からメッセージを頂いて文集の

中に取り込みたいと思います。

内容は、学生時代のこと、心に残る先生たちの言葉、

卒業後の技術者生活と学業の思い出、技術者として、社

会の歴史の節目に立ち会った思い出、これからの大学へ

のメッセージ、後輩に送るメッセージなどなど、あまり型

にはまらず、皆様の自由な思いを文章に載せお寄せくだ

さい。 また、文章だけでなく資料や古き良き時代の写

真がありましたら一緒に掲載したいと考えております。

W.M.E Newsletter Vol.19 page 12

2002年9月以降に下記の会員のご逝去が判明しました。ここにご報告いたしますとともに、謹んでご冥福をお祈りいたします。

卒年 氏名 逝去年月大9 旧理工 池谷 武雄 2003.1昭4 旧理工 佐藤  主昭10⦆旧理工 笠羽 高道 2002.8昭12⦆旧理工 斉藤 礼雄 2003.2昭13 旧理工 高橋 賢司 2002.9昭15 旧理工 大矢 正五 2002.8

昭17 旧理工 菅原 重二 2002.6昭19 旧理工 東城 一朗 2002.8昭20 旧理工 大畔 達夫 2002.8昭21 旧理工 相田 武久 1999.11昭21 旧理工 植村 卓哉 2001.3昭21 旧理工 佐々木宗良 2002.8昭21 旧理工 長谷川和音 1998.2昭21 旧理工 横尾 亮二 2001.6昭22 旧理工 三瓶 俊雄 2002.8昭26 旧理工 今澤 瑛一 2001.2昭27⦆一理 柴田  実 2003.1昭32 一理 池田 秀夫 2003.2昭24 専機 下田 光宏 2002.6昭24 専運 塩谷 和久 2002.10

WME ニュースレター Vol.19

発行元早稲田機友会編集委員会事務局

〒169-8555 東京都新宿区大久保3-4-1

早稲田大学理工学部内55号館S棟2階

電話03-3203-4141(大代表)内線73-5252

TEL/FAX03-3205-9727

Email [email protected]

浅井/土金が月、火、木、金の10:00~17:00の間執務。不在

の折には上記FAX、または、梅津研究室(電話03-5286-3256)

へご連絡下さい。

印刷所エヌ・ケイ・インターナショナル株式会社

〒102-0072 東京都千代田区飯田橋2-7-4 オオムラビル

WMEニュースレター編集後記機械工学科 富岡 淳

WMEニュースレター第19号をお届けします.機友会が発足して,今年で90年になります.90周年を記念して,記念式典・祝賀会が10月19日(日)に開催される予定です.是非,参加していただき,祝賀会を盛り上げていただければ幸いです.この

日に,クラス会や研究室OB会などを企画して頂ければ,相乗効果で出席率が増えますので,是非ご検討願います.祝賀会では,「記念誌」を配布する予定です.現在,編集作業中ですので,ご期待下さい.なお,「記念誌」では,皆様からのメッセージを募集しております.色々 な世代からのメッセージを,お待ちしております.

機友会懇親ゴルフ大会は平成14

年11月13日(水)川崎生田緑地ゴル

フ場で開催されました。参加者も9組

33名と、企画委員を始め関係者のご

努力により第10回記念大会に匹敵

するほどの大きな大会になり、大会当

日も11月と云うのに暖かく、日中は上

着を脱ぐ程の絶好のコンディションで

楽しくプレーが出来ました。

競技開始前のクラブハウス・ベラ

ンダでの恒例の競技内容説明と記

念撮影の際に、企画委員からの提案

で高齢にも拘わらず、毎回ご参加さ

れている、土橋正道氏宮武正次氏

(昭19年卒) 林名誉会長(昭25年

卒)のご三方に功労賞としてタイガー

ウッズも愛用している早稲田カラーの

キャップを贈呈させていただきました。

今後はこのキャップを特別賞に設定

し多くの方に受賞してもらい、機友会

のシンボルとして大会には全員が早

稲田カラーのキャップでプレーするこ

とでより楽しい大会になるのではない

かと期待しています。

さてプレーの方ですが、川崎国際

生田緑地ゴルフ場は大会の数日前

から乗用カートの導入がされ高齢者

にも優しいコースとなりました。小生

もこの大会の最年少に近いのです

が、アップダウンのきついコースでカー

トの有り難さをしみじみ感じながらプ

レーをしました。このカートの導入を知

って、敬遠されていたOBの方々の参

加が増えることと思われます。

今大会の優勝者は長年ゴルフ大

会の世話役をされている石岡貞雄氏

(昭32年卒)で、準優勝は前回幹事

の鈴木俊夫氏(昭37年卒)でした。石

岡氏はグロス91ストロークとグロスで

も4位に入る立派な成績で優勝され

ました。

プレー後の懇親会では林名誉会

長より参加者が増えたことと、カート

導入により体力的負担が少なくなり、

今後参加者の増大が期待できる旨

の挨拶をいただきました。事実参加

者の半数以上の方がスコアーを伸ば

されており、負傷者もなく終了しました

ことは乗用カートの効果と思われます。

また今回は安田賢次氏(昭37年

卒)がデジカメとパソコンを駆使され、

すばらしい写真パネルを作成していた

だきました。これもまた機友会親睦

第12回幹事 古庄 進(昭和42年卒)

ゴルフ大会のオリジナルの一つに加

わることを期待します。

今回の大会は最年少では昭45年

卒が参加され、より巾広い年代層に

広がりつつありますが、37年卒8名・

38年卒7名と同期の層も厚くなってき

ています。皆様も同期を誘い合い体

に優しくなった川崎国際生田緑地ゴ

ルフ場で早稲田機友会の輪を広げ

て行つていただきたいと思います。