「私を変えた先生との出会い」 エピソード集 · エピソード集 ......

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平成27年度 やる気、元気!自ら学び続ける教職員のキャリア形成推進事業 「私を変えた先生との出会い」 エピソード集 宮崎県教育委員会

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Page 1: 「私を変えた先生との出会い」 エピソード集 · エピソード集 ... な支えとなっております。折々に報告がてら先生宅へお邪魔しておりますが、年に1度は

平成27年度

やる気、元気!自ら学び続ける教職員のキャリア形成推進事業

「私を変えた先生との出会い」

エピソード集

宮崎県教育委員会

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私を変えた先生との出会い

私がK先生と出会ったのは、昭和48年4月の中学校入学時です。

小学校時代の私は、いじめられっ子で男子にも女子にも馬鹿にされ、自分に自信もなく

学校に行くのさえ辛い日々でした。ただ、体力にはやや自信があったことから、中学校に

入ったらいじめからの脱出も視野に入れて運動部に入部しようと思っていました。

野球部を考えていたのですが、部員が多くいじめもあると聞いていたのでためらってい

ました。ある日、クラスの後部席に座っていた小学校時代からの友人が、バレーボール部

に入部しようとしているのを聞き、一緒に部活動見学に行き、少ない人数での厳しい練習

を見て、また近所の先輩もいたことから入部を決意しました。体育教官室にいたK先生か

ら入部の動機を聞かれ「体を鍛えたい。」と言ったことを覚えています。根底には精神面

も鍛えたかったのだと今になって思います。

そこから、いじめっ子も近づかない鬼監督とのバレー漬けの日々が続きます。それでも

ここで逃げたら自分がだめになりそうな気がして何とか継続することができました。当時

の宿直室を利用した春合宿では、夜のミーティングで「いつかお前達が酒が飲めるように

なったらまたこうして語り合おう。」と厳しい練習の後での、先生の人柄に温かいものを

感じました。

その後、バレーは社会人になってからも継続し、多くの出会いと仕事をする上での大き

な支えとなっております。折々に報告がてら先生宅へお邪魔しておりますが、年に1度は

本音で語り合える恩師がいるありがたさ、元気がもらえるひとときです。

私が、43歳で出場した日本スポーツマスターズ福島大会でのこと、当時住んでおられ

た埼玉からはるばる奥様と応援に来てくださいました。目がやや不自由な体から出てくる

懐かしい大きな応援にコートの中で涙が出そうでした。そのとき気づいたのが、自分はバ

レーと出会ったのではなく、先生と出会うためにバレーがあったのだということです。

54歳になった今でも、この全国大会に出場できるスキルとエネルギーは、先生との出

会いがあったからこその賜と感謝と共に生きております。

阿久井 宏

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私を変えた先生との出会い

~中学校の時の部活動の顧問 Y先生 の御教示~

県南のH中に進学し柔道部に入部した。顧問のY先生は20歳代にしては動作がオラン

ウータンのように独特で、運動神経のよさはほとんど感じられなかった。御本人は柔道の

自護体の動きとでも錯覚されていたようだ。元気が良く、毎日、白帯の柔道着を着て先輩

と試合をされ、滑稽なほどあっけなく投げられていらした。ある時などは、寝技から逃れ

る方法が順を追って書かれた指導書を片手に、教示してあるとおり「まず、片手を90度

に曲げて・・・。」と言われたものの少しも曲げられず、「この本はおかしい?」と、真顔

で言われた時は、これまた可笑しくてたまらなかった。なにせ、抑えている相手は筋肉質

の3年生で、一見して非力なY先生が寝技から抜けられる道理はなかったからである。

3年に進級した時、最後の中体連を前に格上のN中と練習試合を行った。その試合の合

間に、なんと先生は黒帯の相手校の監督さんの前で、基本中の基本である前受身を連続し

て何回も畳の周りを精一杯の掛け声を上げて回られたのである。

柔道とは異なるが、十よりひとつ少ない部活の監督になる夢の実現のために学校事務職

員を志望した。今年を以って退職となる年に懐かしく思い起こす。あの時、Y先生はなぜ

先輩に力を抜いてくれとおっしゃらなかったのだろう。なぜ恥も外聞もなく黒帯の先生の

面前で、それしかできない前受身だけを何回もされたのだろうと。

「名選手は、必ずしも名指導者ではない。」と言われる。私が感動を覚えた逸話に、東京

六大学野球にその人ありと賞賛される明治大学の島岡吉郎元監督は応援団出身である。教

え子の星野仙一氏は、覇権を取れなかった真夜中に島岡監督がホームベースにパンツ一枚

で頭を擦りつけ「子どもたちは頑張ったが自分の力不足で勝たせてあげられなかった。野

球の神様すみません。」と号泣された一途な姿に師弟愛の真髄を感じたと語っておられた。

私もその後の人生で何人もの私淑する師との邂逅があったが、その原点は坊主頭の少年

の日に邂逅した純真無垢そのままの白帯Y先生にあったのだろう。饒舌かつ卓越な技量で

なくとも、朴訥ではあるが真摯な情熱と気合いこそが人の心に響き、それはまた自己を錬

磨していく人生の要諦であると思うのである。

安藤 博文

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私を変えた先生との出会い

77歳になる父は、今、認知症で私が娘であることが分からない。父との思い出は数え

きれない。その父が10歳の私に山上憶良の歌「銀(しろかね)も 金(くがね)も玉(た

ま)も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」を暗唱させた。

私は、何をさせても長続きしない、ぼんやりとした目立たない子どもだった。だから、

教室で手を挙げて発表などすることがなかった。何か友だちに言われやしないかとびくび

くしていたように思う。

そんな私に大事件が起こる。授業中、T先生が

「優子さん、山上憶良の歌を詠んでください。」

と言われ、みんなの前で発表したのだ。きっと、小さな声を震わせながら、うつむいてい

たことだろう。

他の人には、たいしたことない小さな出来事が、私には大事件だった。恥ずかしかった

けれど、みんなが知らない山上憶良の歌を発表したのは誇らしかった。目立たない私を見

ていてくれたT先生と、歌を教えてくれた父に感謝した。

この出来事が小さな自信となり、少しずつ発表するようになった。相変わらず、長続き

しない、ぼんやりとした子であったが、「みんなの前で万葉集の歌を詠んだ。」という事実

がいつまでも私を支えてくれた。

何をやっても長続きしない、気の小さい10歳の私は、それから、多くの人と出会い、

教職について30年になる。

「銀も 金も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」

万葉集の歌を胸に、あの時のT先生のようになりたくて教室に立っている。

岩屋 優子

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私を変えた先生との出会い

「3年間ついてきてくれてありがとう。」

この言葉は恩師が私に中学校の卒業式でかけてくれた言葉である。私は、中学生で恩師

に出会った。その先生は、私の所属する陸上部の顧問である。

毎日のきつい練習、もう無理だと思うほどのメニューも、その先生の下で、仲間と一緒

にこなしてきた。しかし、私が教わったのは陸上だけではない。陸上を通し、仲間がいる

大切さ、仲間と支え合っていく日々のかけがえのなさ、人としての在り方、感謝する気持

ち、自分自身とチームに誇りをもつこと、数えきれないほどのことを教えてくれた。

中学1年の頃、先輩方のリレーのメンバーに私が入り、大会に出たことがあった。周り

はみんな速い先輩方ばかりで、ここで私がミスをしたらどうしようという緊張とプレッシ

ャーに負けてしまい、いつもの走りができなかった・・・。レース後、自分の甘さから出

してしまった悪いタイム・・・。その悔しさで涙が止まらなかった・・・。

しかし、先輩方仲間が「走ってくれてありがとう!!」と。

先生には「おまえが走ってくれたからバトンがつなげた。よくやった。」とまで言って

もらえた。そのとき、本当にこのチームでよかったと、この先生とこのメンバーと陸上の

時間を刻めて幸せだと改めて感じた。

先生の口癖であった「信は力なり」この言葉と共に成長してきた。先生に育ててもらっ

た3年間があるからこそ、今の私がいる。

常に自分のことは後回しで、自分の時間のほとんどを私たちにかけていた先生。

3年間、本当に怖かった先生だったが、その何十倍もの愛情をずっと感じていた。自分

を強く育ててくれた恩師に感謝の心を忘れずに、中学校時代の汗や涙を糧に自分の夢に向

かって進んでいきたい。そして、このような恩師に近づけるような大人になりたい。

どんな苦境がきても「信は力なり」を心の御守りとして・・・。

江藤 早蘭

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私を変えた先生との出会い

~私を支える忘れられない言葉「一生後悔するぞ」~

その先生の愛称は、「文ちゃん」。

いつもは、そんな愛称では呼ぶことのできない柔道部の顧問「文ちゃん」は、体育大学

を卒業し、私が高3の4月に新規採用で来られた練習に厳しい先生でした。特に3年生に

なってから限界を超えるほどの練習をしたこの部活動こそ、今でも人生の思い出です。

そんな練習の続く5月の県高校総体を1ヶ月後に控えたころ、同じ柔道部の3年の友人

から自分に囁かれた言葉がありました。「おい、抜けだそうか。」その言葉に、ついつい体

が動いていました。ともに3年生の主カメンバーであった二人は、「つらさからとにかく

ちょっとだけでも逃れよう。」今思い起こせば、正に魔が差してしまったのでした。時間

が経つにつれて「もう引き返せない。」心中穏やかでなかったことを今でも思い出します。

翌日学校に向かう足取りも重く、がんばっているみんなのことを忘れて、軽薄な考えで

いたことは今考えても恥ずかしい思い出です。その日の下校ホームルーム後に、教室の外

に「文ちゃん」は待っておられました。すでに退部しようと決めた自分は、逃げるように

帰宅しました。「文ちゃん」は翌日も来られ、私は「はっきりと退部を申し出よう。」と意

を決して「文ちゃん」と対面しました。大目玉だなと思いながら、意外にも優しい笑顔で

「文ちゃん」は「おい、どうすっとか。やめるのか。」しかし答えられない自分がそこに

おりました。空白の時間が流れ、その後の「文ちゃん」は真剣な眼差しで、「いいぞ、辞

めたければ辞めても。でも、今辞めたらお前は、一生後悔するぞ。」この言葉は今も自分

を支える一生忘れられない言葉となっています。結果的にこの言葉で背中を押していただ

きました。後日談として、抜け出した二人は、「文ちゃん」をはじめ、柔道部の皆にはど

うにか快く受け入れられ、復活できたのでした。その後の練習といえば、総体前とあって

以前にも増して厳しい練習であり、特に復活したその日の「文ちゃん」と組み合っての練

習は、今まで以上に厳しくもあり、それでもとてもすがすがしかったことを今でも忘れま

せん。そのお陰で部活動も最後までやり抜き、自分への自信にも繋がりました。

生徒を決して切り捨てず失敗を大きな懐で受け止め、諦めかけた心にもう一度火をとも

してくださった「文ちゃん」の姿から、私は教師の道に進むことに決めたのでした。

昨年61才という若さで亡くなられた「文ちゃん」、あなたのように子どもたちの心に

火をともす教育を貫いていきます。お誓い申し上げます。

恵利 修二

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私を変えた先生との出会い

「この子は大丈夫です。川上君、心配しないでいいから教室で待っていてくださいね。」

担任のN先生は、私が部屋に入るとすぐにこう言われて何も聞かずに教室に帰されました。

小学校4年のある日、先生のお金がなくなり、児童全員が残されて一人一人呼び出され、

男の先生たちに取り調べを受けました。当時、私は兄が先生方からよく注意を受け、気ま

ずい思いをしていたのですが、このときの優しい言葉が強い自信となっていったのを覚え

ています。「先生は僕を信頼している」と。

子どもたちの自主性を重んじる教育を実践されたN先生は宿題を出されなかった。「宿

題を出すとそれだけしかしない怠けん坊になります。勉強は自分の好きなことを好きなだ

けやってください。帰りに先生が見てあげます。」と言われ、放課後は先生の机を取り囲

んで自分がやってきた勉強を誇らしげに見せ合う毎日が続きました。こうしていつの間に

か、自分から進んで勉強する態度が身に付いていきました。5年に進級したときは、新し

い担任の先生にみんなで「先生、宿題は出さないでください。自分たちでやってきますか

ら。」とお願いをしました。その先生は「ああいいですよ。N先生が受け持たれたクラス

なら大丈夫だ。」と許してくださったのです。

その後、英語教師となった自分は、生徒たちにいつもN先生のことを話して聞かせまし

た。指示待ち人間にならないように、自分の好きなことを伸ばしていく生き方をしていこ

うと。英語ノートを自主的に提出していくように指導したところ、1年間に書いたノート

の冊数が年々増えていき、一人で200冊書き上げた生徒がいて、大変驚きながら生徒の

すばらしい自主性に気付かされました。

40才を過ぎた頃、N先生に手紙を出したところ、当時のことを覚えておられ、懐かし

がってくださいました。教師として、同じ道を歩むことの喜びを感じながら、折に触れて

は恩師のことを思い浮かべて、40余年の教職生活を全うできたことを深く感謝していま

す。

川上 俊明

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私を変えた先生との出会い

「千鶴さーん。書道部入らんね。」「千鶴さん、書道部入らんね。」「…入らんね。」

40回も手紙を出し続けて成就する愛が、現在世間を賑わせている。かく言う私も、授

業で作品を持っていく度に先生から1年間「書道部に入らんね」と言われ続け、高1の冬、

熱意に押され(暗示にかかり?)、私は退部と入部を決意した。私の運命が変わった。

「おーい、千鶴さーん。え~そうね、居るとね。」

それなのに、先生はいつも部活中、私の存在を確認しただけで戸を閉めた。私にだけ手

本を書いてくださらず、褒め言葉もなかった。先生は、作品を見ながら「クネクネしない。」

「おもしろくない。」「下品。」「色がない。」「立体感。」など抽象的な言葉のみで私を指導

した。 当時、全国でも珍しい古典を課されていた私は、他の部員が専用の字典や先生の

手本で練習、創作する姿を見て、心底羨んだ。朱墨で添削されたかった。先生の視線や表

情から反応を伺い、手探りで何通りも創作した。ニヤリとして別の話題を始める時が先生

流の「褒め」だと気づいた。現在、私の作品はよく「構成や空間、バランスや線が独特」

と評される。芸術において「独特」は最高の褒め言葉だ。先生の「自分で考えさせる」高

度な指導のお陰と心から感謝している。教師となった今、先生の偉大さを痛感する。「教

えずして教える」「個性を伸ばす」ことがどれほど難しいか。教えすぎる私の理想である。

また、先生は「同じ」を私に禁じた。県1位、全国大会後、別の古典が課された。大学

入試に向け練習に励むものの、焦りのあまり「以前の作風に戻りたい。」と訴えた。先生

は「同じことしてもダメよ。」の一言で私の退路を断った。合格後はやはり「この作風で

二度と書くな。」と封印された。「過去の栄光が何になる」と。

別の大師匠のもとに月1回東京の稽古に通って10年以上経つ。その間に先生は亡くな

ったが「明日は一つでも違う私を見せる。」先生の作った「私だけの私」があるから、変

わり続けることは怖くない。

黒木 千鶴

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私を変えた先生との出会い

私を変えた先生との出会いは、中学2年生の時で、先生は2年間、私のクラスの担任を

しました。その当時の私は、将来こんなに先生に感謝する日が来ることを全く想像してお

らず、クラス替えをして新しいクラスになったことに不安と期待を抱いていました。

それから間もなく部活帰りに教室に忘れ物を取りに行くと、欠席が多いクラスメイトに

授業をしている先生の姿を見て、生徒想いの先生だなと思うようになりました。

その当時、私は嫌なことがあるとすぐに逃げる性格でした。そのような時、私が欠席中

に林間学校の班決めが行われ、苦手な人達と同じ班になってしまいました。とても嫌だっ

た私は学校でも家でも泣いていました。そんな私を先生は決して放っておいたりしません

でした。そして「相手のことを、もっとよく知りなさい。そして人の指示を待つのではな

く、自分から行動しなさい。」と先生は言いました。

それからの私は、自分の性格を見つめ直し、人との関わりを増やすために積極的に委員

会活動に参加しました。そうすると、自然と友達も多くなり、親友と呼べる存在もできま

した。

中学3年生の9月、卒業後に宮崎に引っ越すことになり、宮崎の高校に進学することが

決まった時、一番相談に乗ってくれました。たくさんの不安を吐露した私に先生は「今の

坂本さんなら、どんな困難も乗り越えられる。大丈夫。」と言って背中を押してくれまし

た。

今、私はずっと憧れていた生徒会に入り、多忙ですが充実した高校生活を送っています。

もし中学生の時に先生に出会っていなかったら、こんなに充実した日を送ることは出来な

かったでしょう。

これからは先生の言葉を胸に、残りの高校生活や進学先、就職先でも充実した日を過ご

せるように努力していきたいです。

坂本 日向子

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私を変えた先生との出会い

私にはとても大切な先生がいます。その先生は校長先生です。

当時小3の私にとって、校長先生は雲の上の存在でした。ですが、国語教師だった先生

にどうしても作文を見ていただきたくて、緊張しながら、校長室の戸を叩きました。先生

は、お忙しい時間の合間をぬって、私の作文を添削してくれました。良かった点はほめて

いただき、こうしたらもっと良くなるなど、一生懸命に指導してくださいました。

先生のご指導は、三年間続きました。その間、「子供」ではなく、「一人の人間」として

向き合ってくださることが、背伸びをしたがっていた私にはとてもうれしいことでした。

先生は私が小5の時にご退職されました。

ご退職後も作文の事などで相談をすると、お手紙という形で相談に乗ってくれたりと、

親身になって私に関わってくださいました。さらに、中学校受験前には、先生からお守り

をいただきました。先生が私の為にわざわざ用意してくれたと知り、涙を流して喜びまし

た。お守りの御利益もあって、私は受験した中学は全て合格できました。ただ本命の学校

でやっていけるか不安で、どこに行くか迷いました。

その時先生が、「どの学校を選んでもそこで精一杯の努力をすればいい。失敗してもそ

れがまた成長につながり、力になりますよ。」と書かれた手紙をくださいました。私は、

先生から頂いた手紙に勇気付けられ、頑張れば夢は叶う事を目標に、本命の学校に入学し

ました。先生とは今でも時々、手紙の交換をしています。

勉強の仕方に悩んだ時は、先生に手紙を書くことで、自分の中の悩みを整理します。さ

らに先生からのアドバイスがとても励みになります。「失敗してもいい。それが成長。」

先生から頂いた言葉を胸に、今後とも様々なことに努力していき、そしていずれ何らか

の形で恩返しが出来たらと考えています。「先生、ありがとうございます。」

篠﨑 夏鈴

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私を変えた先生との出会い

小学校1年生の時。父が病気で手術を受けることになりました。難しい病気の手術で1

か月以上の入院です。もちろん、母は、病院に寝泊まりし、父を看病することに。幼い私

と小6の兄を抱えたところでの父の病気。

その時の担任の先生が我が家の状況を見て、「お父さんが、入院されている間、私たち

夫婦で(私の面倒を)見ましょうか。」と言ってくださいました。すでに、親戚の家で面

倒をみてもらうことになっていたので、担任の先生の家にお世話になることはなかったの

ですが、小さいながらも、そこまで言ってくださる先生の優しさ、子どもを思う気持ちは

私の心に強く残りました。

また、その担任の先生は、学級でできるようになったことがあると、毎回みんなに、握

手をしてくださいました。今でも思い出すのは、大きく分厚い先生の手。先生のあったか

い握手がほしくて、発表も、給食を全部食べることも、かけっこも、あの握手を求めて頑

張った自分がいました。

先生の心の温かさ。

その先生のようになりたい。大きな手で、温かな心で子どもたちに教える教師になりた

い。現在、小学校の教師をしています。教師になりたいと思ったのは、その先生と、上に

記したエピソードからです。

先生との思い出は鮮明に残っています。でも、まだまだ、その先生の広く温かな心には

程遠いですが、先生のような教師になりたい、と今も思っています。その思いはこれから

も変わることはないでしょう。

新垣 美弥子

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私を変えた先生との出会い

「これは多分、オオイヌノフグリ…。」「よく知っているね~。じゃこれは。」「カラスノ

エンドウ…。」「勉君は、植物の名前をよく知っているね~。今日から植物博士と呼ぼう。」

小学校1年生の理科の授業で、野山の探索に出かけた時のことである。今から約30年

前のことであるが、このときの恥ずかしさとうれしさは、まだ鮮明に覚えている。

私が幼稚園生の頃、はじめて買ってもらった本が「植物図鑑」だった。母の話によると、

図鑑を買ってもらったことがうれしくて、いつも図鑑を眺めていたそうである。家では、

図鑑を見るだけであったが、心の底では「自分は知っている。」ということを誰かに知っ

てほしかったのではないかと思う。理科の授業で野外に出たときに、その思いが溢れて出

てきて、ついに図鑑の知識を披露したのだろう。先生は、私のつぶやき(恐らく表情)を

聞き逃さず、クラスのみんなに「博士」という形で紹介してくれた。みんな口々に「すご

いね。」と言ってくれ、私は大満足だった。それからは、クラスで「植物博士」として、

みんなからの注目を浴びることとなった。私自身も「博士号」取り消しにならないよう、

図鑑を必死になって読んでみたり、母と一緒に栽培してみたりするなど、さらに植物のこ

とが好きになってしまった。

植物好きが高じ、4年生からのクラブ活動では「園芸クラブ」、5年生の委員会では「栽

培委員会」、大学では理科の教員養成課程に入学し、「植物生理学」を研究することとなっ

た。今思えば、その時の担任の先生の「植物博士と呼ぼう」という一言が、私をここまで

導いてくださったのではないかと思う。私は現在、理科の教師をしている。私は、この先

生のようにだれかを導くことができる教師となっているだろうか。答えはまだ分からない。

しかし、この先生のように、何気なく言った子どものつぶやきを聞き逃さず、生かし、子

どもの可能性を引き出す、そんな教師になりたいと私は思う。

関谷 勉

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私を変えた先生との出会い

「練習の時は、自分が一番下手だと思え!本番の時は自分が一番と思え!」

この言葉は、中学の時のバスケ部の顧問の先生の言葉です。先生が口癖のように言って

いたのではなく、私たちバスケ部、一人一人が持っていたバスケノートに書かれていたも

のです。

バスケノートの表紙には、「絆」や「コートの中に生活あり!コートの外に勝負あり!」

など先生らしい私たちのチームらしい言葉が並べてあって、私たちはそれに試合でわかっ

た点や自分のマイナスポイントを自分なりにまとめ、先生がチェックして、コメントを書

く、というのを繰り返していました。先生のコメントは的確で自信をもたせてくれて、や

る気を倍にするような言葉で溢れていました。そんな先生だから、いつも常に笑顔で、私

たちに正面でぶつかって来てくれる、尊敬できる先生でした。先生はバスケ経験者ではな

く、学生時代からバレーをしていて、バレーではすごく有名な先生と聞きました。

でも、バスケは初心者で最初は失礼だけど、指導できるのかなあと思っていました。し

かし、先生はみんなと成長する姿勢を忘れず、審判の練習をしたり、外部コーチにバスケ

の事を習ったり、常に全力で、その姿を見て私たちは、先生をもっと大好きになりました。

先生は私たちが部活を引退してから、結婚して子供を授かりました。私たちは、先生の

結婚式に行ってサプライズをしました。すごく幸せそうな先生を見て私たちもとてもうれ

しかったです。

でも先生は、学校に来れなくなってしまいました。先生はすごく珍しい病気にかかった

のです。私は病気のことを聞いて、いつも元気だった先生は居なくなったのかなと先生に

会うのが少し怖かったです。

だけどバスケのお別れ会のとき、先生は力を振り絞って、私たちに会いに来ました。顔

色が悪くて、真っ青だったけど、それでも前と変わらない笑顔でいてくれたことが、私は

とてもうれしくて、先生は強い女性だと思いました。私も先生のように、強く、やさしく、

明るい女性でありたいです。

「O先生、ありがとう。」

園田 碧海

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私を変えた先生との出会い

中学1年のときの私の掃除場所はトイレでした。その日は、水をまいていい日だったの

で普通に水をまいて掃除を終わらせました。掃除が終わり教室に戻って帰りの会をしてい

ると私の掃除担当の先生が来て「放課後残りなさい。」と言われました。私以外にもトイ

レ掃除は2人いて、全員で放課後その先生の所に行きました。するとトイレに連れて行か

れて、水をまいた後ぞうきんでふかなかったことについてすごく怒られました。その後、

先生は自分でぞうきんを持ってきて手袋も何もしないまま、ひざをつけて床をふきだしま

した。少し床をふくと次は便器の周りをぞうきんでふき始めました。私達は便器をふく時

などはゴム手袋をしていたのでいきなりの行動に少し驚いていました。

先生がずっとふいていたので「代わります。」と言いましたが、「いい。」と言われたの

で、自分で自分のぞうきんを持ってきて、3人で泣きながら便器や床を一から掃除をやり

直しました。先生が行動をしてくれたことで掃除の大切さがすごく分かりました。私がこ

のとき思ったことは、掃除は相手が使いやすい環境を作るだけではなく、自分を磨くこと

にもなるということでした。

この日から私は毎日毎日トイレがキレイになるように、一生懸命トイレ掃除をがんばり

ました。学年が一つ上がり、中学2年生になったときもトイレ掃除を自ら選び頑張りまし

た。この話は、私の掃除に対する意識を変えた出来事だと思います。

中村 巴香

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私を変えた先生との出会い

ぼくは、今年3月に日向ひまわり支援学校高等部を卒業しました。高等部

では色々なことを勉強しました。その中でも、高等部3年の担任のH先生か

ら教えてもらったことは、今でもぼくの生きる力になっています。

3年生になった頃、ぼくとお母さんとの二人の生活が始まりました。その

ことを知ったH先生は、「仕事で疲れて帰ってくるお母さんに少しでも協力

できるよう、史典さんができることを一緒に考えてみましょう。」と、アドバ

イスしてくれました。先生はお母さんからも「どんな事ができるようになっ

て欲しいですか。」と聞いていて、洗濯物たたみや茶碗洗いをすることにな

りました。それまでも、時々はお母さんの手伝いをしていましたが、言われ

てから嫌々やることが多かったです。でも、H先生は手伝いを宿題として出

してくれて、頑張ったらほめてくれました。先生のお陰で、ぼくは少しずつ

進んで手伝いをするようになりました。

家庭科の授業の中では、ご飯の炊き方や簡単なおかずの作り方を教えても

らいました。「将来、絶対に必要な力になります。」と先生は言っていました。

この勉強のお陰で、ぼくは自分でご飯を炊くことが出来るようになりました。

今では毎日ご飯を炊いてお母さんの帰りを待っています。帰ってきたお母さ

んに「ご飯炊けてるよ」とぼくが言うと、お母さんは笑顔になります。

こうしてH先生と一緒に勉強した事は今も続けています。ぼくにとっても、

お母さんにとっても、「生活の中で役立つ力」と、「自分への自信」をつけて

くれたH先生にはとても感謝しています。

那須 史典

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私を変えた先生との出会い

私の人生を支えてくれているその先生は、小学校1年生のときの担任の先生です。私が

3年生になるときには定年退職をされたのですが、そのときから今までずっと30年ほど

私の人生に関わってくださいました。

私は生まれてすぐに母を亡くしたので、先生と出会ったときにも母はおらず、父と祖父

母と過ごしていました。兄弟姉妹もいない私を先生はいつも気にかけてくださいました。

私の祖母とあまり変わらないぐらいの年齢ですが、本当に心のある温かい先生です。

家庭訪問のときに私に言われた一言が今でも忘れられません。「あなたはお母さんがい

ないけれど、お父さんとおじいちゃんとおばあちゃん3人から、ほかの子供よりたくさん

の人からの愛情を受けて大きくなったのよ。」と。

いつもお母さんがいなくて、ほかの子とは違う劣等感のような気持ちを抱いていた私に

は、その言葉が大きな光となったのです。先生とは今でもずっと交流があり、結婚したと

きも子供が産まれたときもお母さんのような、おばあちゃんのような優しい心で喜んでく

ださいました。宅急便でお菓子や果物、野菜などを今でも達筆な手紙を一言添えて送って

くださいます。私の生涯を支えてくれるほどの大きな存在です。これからもずっと元気で

いてくださることを願っています。

私には3人の子供がいますが、子供たちにもその先生のことを伝えてきました。これか

らまだしばらく先生方との関わりがありますが、自分の子供たちにも人生を支えてくださ

るような先生と出会って欲しいと心から願っているところです。これからもたくさんの素

晴らしい先生と出会えますように・・・。

根木 智子

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私を変えた先生との出会い

私が出会ったのは、小学校6年生の9月。2回目の引っ越しを機に2度目の転校をした

時のことでした。私が以前いた学校は友人関係がとても悪く、差別やいじめが当たり前と

いっても過言ではないぐらい荒れていました。転校したばかりの私には自分の身を守るの

に精一杯で、ただ黙って見ているだけでした。そんな毎日が1年続きました。

私の中でいじめや差別があることは「普通」になっていきました。そんな時に、また引

っ越しが決まりました。2回目の引っ越しがおわり、夏休みが明けた9月1日。ついに初

登校の日がきました。校長室に座っていて担任の先生を待っていました。男性の先生でし

た。その先生に連れられて教室に入りました。自己紹介が終わった後、先生から言われま

した。「このクラスの目標はいじめのないクラスなんだよ。いじめを先生は絶対に許さな

い。」と。私は曖昧にうなずいて席に座りました。すると、その瞬間、クラスのみんなが

口々に話しかけてくれました。「どこから来たの?」「名前は○○って言うんだ。仲良くし

ようね。」など…。ビックリした私は口をあけたままでした。みんなすごくにこにこして

いて、くったくのない笑顔を私に向けていました。

すると先生が「今日は琴音さんと帰る方向が一緒の人は行ってあげてね」と言いました。

何人ぐらいだったでしょうか。10人以上はいたと思います。これが当たり前とでも言い

たそうな先生、みんなの顔に「ああ、私の感覚はおかしいんだな。」と思わされました。

先生の言葉どおり、いじめなんてこれっぽっちもありませんでした。

そんな中、ある事件が起こりました。その時は発表会をむかえていて、なかなか劇が完

成せず、みんなの気持ちがバラバラでイライラしていました。思いやりのない言葉が飛び

交う中、先生の怒声が響きました。「こんな劇やめてしまえ。思いやりももてないくせに

できるわけないやろ!?」シーンとなった中、先生が私に問いかけました。「琴音さん、前

の学校の方が良かったでしょう?」と。私は泣きながら首を振りました。試行錯誤した結

果、無事に完成し発表することができました。今の私があるのは、この先生のおかげだと

思っています。感覚がおかしくなっていた私を戻してくれたこと。友達の大切さを教えて

くれたこと。思いやりをもちながら人間関係を築いていくこと。そして何よりも「いじめ」

についての考え方を変えることができたこと。この先生は生きていく上で大切なことをた

くさん教えてくれました。この私の恩師は一生忘れられないと思います。

東原 琴音

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私を変えた先生との出会い

私を大きく変えた先生は、中学校の部活動の顧問の先生です。

先生は元アメフトの選手で、スポーツにおいてのメンタルは誰もが尊敬をします。私は

バスケ部所属でしたが、先生は元アメフトだったのでバスケの知識はゼロでした。ですが、

プレー面に関しては何も口出しをしませんが、練習に対する意欲や生活面などを徹底的に

たたき込まれました。

合宿でイヤと言うほど走らされて、吐きながらも、キツくて泣きながらも、走りきった

のを覚えています。そのおかげでかなりの体力がつきました。そして市大会で2位、県大

会で3位と好成績を収めることができました。

高校2年生になりましたが、あのときの苦しくて辛い部活があったから今の強い自分が

あると思います。特に部活動をしていた時の先生の言葉は忘れられません。それは「部活

する以前に一人の人であれ」という言葉です。何事にも感謝や敬意、社会性をもって物事

を進めることです。部活においては周りの人に感謝して練習に励むだとか、親が働いて頑

張っているから飯が食えるだとか、決してそれが当たり前だとは限らないということも先

生から学びました。

僕にとっての中学時代の部活は、人生の土台ともいえるほど学んだことが多々ありまし

た。これからの辛い出来事や挑戦する時、社会人になったときに通用できるくらいの心を

育てて頂いた先生に感謝しています。

前田 開勝

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私を変えた先生との出会い

私は、小学校3年生の思い出文集にこう書きました。「Y先生、先生を動物に例えると、

カンガルーです。なぜかというと、先生は私達がちゃんと育つように厳しくしています。

カンガルーも赤ちゃんが自分でポケットに入るように、手伝わないで自分で入らせます。

でもその後は先生もカンガルーも優しいので似ているのです。」

私が3年生の時に出会ったY先生は、大人になった今でも思い出す、いつまでも心に残

る先生です。「あっち向いてホイをする虫だよ。」と面白おかしく紹介してくださったオオ

スカシバの蛹や校庭を散策中に現れたヘビを捕まえ、私達に触らせてくださったことは、

大人になった今でも鮮明に覚えています。どんなことでも自分で見て触れて知ることが大

切だと教えてくださる先生の一挙一動が面白く、クラスの皆が先生にくぎ付けになりまし

た。

また、先生は、どんなに小さなことでも良いことは認めてくださり、やる気をもたせて

くださいました。先生と出会うまで引っ込み思案で人前に出る自信がもてなかった私です

が、そんな私を励まし、よい所を見付けてはクラスの皆や両親に伝えてくださいました。

先生から頂いた「チャレンジ」という言葉が一歩、また一歩と踏み出す勇気をくれ、チャ

レンジする事の楽しさを知り、学校生活を楽しむことができました。そして、幼いながら

も、それまでとは違う自分の中の変化を確かに感じることができたのです。

また、昼休み時間になると、竹トンボを小刀で作ってくださることもありました。頂い

た時は嬉しくて家族に自慢したことも懐かしい思い出です。今でも我が家にある竹とんぼ

を手に取って見ると心がほころび、何年たっても変わらず「チャレンジしよう。」と私を

励ましてくれています。

先生と出会った小学校3年生の時から「学校の先生になりたい。」そう思い続け、今、

私はその夢を叶えることができました。もちろん、この夢には続きがあります。これから

出会う子ども達にもY先生のように、ありったけの愛情と情熱を注ぐこと、そして、子ど

も達のどんなに小さなよさも見つけ、伸ばしていける教師になることが、Y先生への最大

の恩返しだと思うのです。

私を変えてくださった先生との出会いに、心から感謝します。

松濱 愛

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私を変えた先生との出会い

私は、小学1年生まで野菜が大嫌いでした。ジャガイモやニンジンなど食べることが出

来る野菜もありましたが、ほとんどの野菜を食べようとは思いませんでした。自分では覚

えていませんがよく「キャベツとか草みたい。」なんて言っていたそうです。私の野菜嫌

いは凄まじく、サンドイッチにキュウリが入っているものならばすかさず抜き、ブロッコ

リーがあれば母のお皿にそっと置く。そんな私が小学校に入学し、もちろん一番ドキドキ

したのは給食でした。姉から「給食は好き嫌いして残したらダメなんだよ。」と言われて

いたからです。

そして、偶然にも私の担任の先生はナス先生と言う野菜の名前の先生でした。給食の時

間になると、ナス先生は私の所にやってきて「今日は一つ野菜を食べましょう。」と言い

ました。私が小さな野菜を探しているとキャベツの芯を指しそれを食べなさいと言いまし

た。泣きながら野菜を詰め込み食べると「頑張ったね。」と言いました。毎日、給食時間

に泣く私。そんな姿を応援する先生。食べると褒めてくれる。こんなやりとりを毎日して

いました。そんなある日、遂に私は給食を残さず食べることができたのです。すると、ナ

ス先生が「みなさん、今日給食を宮川さんが残さず食べました。拍手をしましょう。」と

クラスのみんなで祝ってくれました。それが嬉しくて毎日毎日残さず食べました。おかわ

りもするようになりました。野菜の美味しさを知ることができました。給食の時間が楽し

いと思うようになりました。そして、私の学校では給食感謝の会があり調理員さんにお礼

を言うのですが、ナス先生が「代表は、宮川さんでもう残しませんって言いましょうか。」

とニコニコしながらおっしゃったことを覚えています。ナス先生は、毎日不安でドキドキ

していた給食時間をワクワクに変えてくれた私の大切な先生です。

宮川 麻美

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私を変えた先生との出会い

私は現在宮崎県の高校で教員をしています。宮崎での教員生活をスタートさせて5年、

これまでの経験のなかで1度だけ3年生を受け持ち、卒業生を送り出したことがあります。

卒業式を目前に控えたとき、私はどうしても会っておきたい先生がいました。小学校5年

生、6年生のときに担任をしていただいた先生です。延岡市内の小学校で教頭先生をされ

ているのを知っていて、自分が卒業生を送り出すまえに、自分のことを送り出してくれた

先生に会いたくなったのです。小学校を卒業して18年ぶりになります。

小学校に電話をかけたとき、電話をとってくださったのがまさにその先生でした。18

年ぶりに聞くその声は変わらず、すぐに分かりました。突然の電話で驚かれていましたが

「えっ?あのもっちゃん?」とすぐに当時のあだ名を思い出してもらい、会ってもらう約

束をしました。

約束の日、私は当時の卒業アルバムを持参したのですが、先生はその卒業アルバムに写

っている写真とまったく同じ服装で出迎えてくれました。当時のことを思い出し、わざわ

ざその服装を準備してくださったそうです。自分が先生と同じ教員になったこと、もうす

ぐ卒業生を送り出すことを報告し、周りの友人の近況、そして当時の思い出話をしました。

先生は当時のことを良く覚えていて、勉強をよく頑張っていたこと、割合のテストの出

来がこれまで先生がもたれたクラスの中で1番優秀だったこと、給食に出されたオレンジ

の皮で遊んだこと、いろいろな話をしました。

「私は厳しかったがね~」先生はそうおっしゃっていましたが、私にとっては昔も今も

変わらない厳しくても優しい先生でした。

これから10年、20年と宮崎で教員をしていくつもりです。一人一人との出会いを大

切にしながら、いつか自分の元にも社会に出て活躍している卒業生が訪ねて来てくれる日

を夢見て、これから先も頑張っていきたいと思っています。

持原 弘和

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私を変えた先生との出会い

私が今まで出会った中で私の人生を変えた先生は、私が中学2年生のときの担任で、体

育の先生でした。その先生はとても明るくて優しく、時に厳しい先生でした。私の所属し

ていた部活動の顧問だったので、私が部活動のことで悩んでいた時、よく相談にのってく

れました。そして、わからない教科があったら教えてくれてとても優しかったです。私は

部活動で主将を務めていて、部員をまとめたり、指示を出したりしていました。しかし、

自分でまとめきることができず、部員がばらばらになってしまった時期がありました。そ

のとき、私はとても悩み、部活動をやめてしまおうとも思っていました。先生は諦めず、

私の話を聞いてくれたり、アドバイスをくれたりしました。そして、先生は「何事も最後

まで諦めちゃいけないよ!自分がやりたいことをすればいいんだから!失敗したって大丈

夫だよ!そのときは先生が助けるから!」と言いました。私はその言葉にとても元気がで

ました。

先生のおかげで部員ともうまくやっていけるようになりました。先生は私が3年になる

前にほかの中学校に転勤しました。転勤する前に先生から「一生懸命頑張れば必ず誰かが

その頑張りを見ているからその努力を続けてください。何事も挑戦して失敗もしていい。

色々なことをたくさん経験してください。」と言われました。先生の言葉を聞き、私はと

にかく何事も挑戦し、諦めないようになりました。失敗もたくさんあるけれど、それ以上

に自分のためになることがたくさんありました。今の自分がいるのは先生のおかげです。

私は先生に一生感謝します。本当にいい先生でした。

本村 明日香

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私を変えた先生との出会い

私は昭和31年、周囲に田んぼが広がる県内の片田舎に生まれました。家は農家でその

暮らしぶりは決して豊かとはいえませんでした。そんな状況でしたが当時、両親は自分た

ちが満足な教育も受けてなかったとして、子供には高校までは進めたいと考えていたよう

です。あの時代としては教育に関して理解があった両親だったと今でも心から感謝してい

ます。そんな中、自分としても早く技術を身につけて一人立ちしたいという思いから、工

業高校に進めたらいいなと思っていましたし、両親も賛同してくれていました。

4人兄弟の末っ子だった自分は、小さい頃から兄や姉の教科書や雑誌等を読むことが好

きで、それが原因かは分かりませんが学校の成績は良い方でした。

中学校に入り3年生になった時、担任となったのがK先生でした。先生は非常に厳格な

方で、その指導は厳しく、大半の生徒からは敬遠されている存在でした。しかしこの先生

が素晴らしかったのは、良いことに関しては徹底して「ほめる」先生だったということで

す。どちらかというとほめられることが多かったのか、この先生の言われることにはなぜ

か心が素直になる自分がいたように思います。

そして進学の話になったとき、自分の希望は工業高校と先生に告げました。機械をいじ

ることが好きで自動車の修理工になりたいと思っていたのです。先生は「そうか。君がそ

う思うのならそれでいいが、機械関係を学べるのは工業高校だけではないよ。」と言われ

ました。最初意味が分からずぽかんとしてたら、「君はぜひ高校の普通科に行って、大学

の工学部に進みなさい。」と言われましたが、自分としては高校にという思いもあり、何

より両親の反応が気になっていたので返事はしませんでした。

すると数日後、先生が我が家に来られたのです。何時間ほどだったかはっきりとは覚え

ていませんが相当長時間両親と話されていたような気がします。そして両親から呼ばれて

「普通科に行くか?」と言われました。もちろん快諾しました。

それから高校を卒業し大学に進学、運良く公務員試験に合格し行政の職を歩むこととな

りました。あの時、K先生の行動がなかったら自分は今頃どうなっていただろうと思うと

きがあります。今の伴侶と巡り会うことも無く、全く違う環境でまたそれなりの幸せを求

めて暮らしていたでしょう。

定年まであと2年を切った今、これまでの人生を思うと、あの時、的確な判断と情熱で

自分の進む道をまさに羅針盤のように指し示してくれたK先生、また決して豊かとは言え

ない中で、大学まで自分を支えてくれた今は亡き両親、伴侶、子供達、職場の方々、素晴

らしい人達に巡り会いそして支えてもらったことに対して心より感謝したいと思います。

最近は親の価値観も多様化する中で、先生という職業はますます大変さを増しているよ

うです。モンスターペアレントという言葉も聞かれる状況の中、そのご苦労に対し深く敬

意を表したいと思います。先生は生徒にとって一生をも左右する偉大な存在であります。

ほとんどの親は先生の頑張りを理解し、しっかりと見てくれていますよ。どうか子供達の

幸せのために大変でしょうが頑張っていただきたいとエールを送ります。

吉田 勝己