新泉地紀行 その百 八十四 北海道ウトロ温泉 · ♨ ♨新泉地紀行 ......

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Copyright MOL Logistics (Japan) Co., Ltd. All right reserved MLG CARGO DIGEST 11 その百八十四 北海道ウトロ温泉 湯老人・佐藤 哲治 ウトロ温泉/“ホテル季風クラブ知床”、0152-24-3541、〒099-4355 斜里(しゃり)郡斜里町ウトロ東 318 1) 正門、左端に五寸釘の寅吉さん 次に網走監獄に収監された二人の犯罪者について語ろう。一人は西川寅吉(にしかわとらきち)で通称五寸釘の寅吉とし て有名である。現在の三重県生まれで安政元(1854)年-昭和 16(1941)年。もう一人が白鳥由栄(しらとりよしえ)である。白 鳥は青森県出身で明治 40(1907)年-昭和 54(1979)年。この二人はいわゆる日本の脱獄魔で、西川は明治の白鳥は昭和の脱 獄王とも言われる。西川は生涯 6-7 回?、白鳥は 4 回脱獄している。 寅吉は年老いてから網走監獄に収監されたので、脱獄することは最早なかった。それどころか、模範囚として正門前の 掃除などを担当したらしい。ここに掲載した博物館網走監獄正門の写真で、左側の箒を持つ老人が寅吉である。寅吉の姿 が小さくはっきりしない写真で申し訳ない。五寸釘の寅吉という異名がついたのは、警察?に追われて逃げる際板切れに打 ち付けた五寸釘を誤って踏み抜いたがそのまま 10KM.以上も走って逃げたという逸話による。釘を足から引き抜いたのか、 止血したのか、などの細部ははっきりしない。このこと自体が 100%真実かどうか明確でないし、まあ寅吉伝説の一つであ ろう。彼は被差別部落の出身で当時の水平社とも少し関係があった。高齢を理由に出所した寅吉は様々な興行師のもとで 日本を回り、彼の数奇な人生を語って人気を博したという。晩年は故郷三重で生活を営み、平穏に生涯を終えた。網走で は、脱獄犯五寸釘の寅吉せんべいや脱獄ポテトチップスが土産品として販売されている。湯老人はどちらも食べたことがないの で論評を控えたい。 2) 舎房と見張り所 ひきぬくことができたのだ、と言った。ついで、視察窓の調査にとりかかった。視察窓には鉄枠がはめられ、それが上下 左右に計十本のネジで扉にかたくとりつけられていた。房内にはネジとともにはずされた鉄棒がおかれていたが、ネジにも 腐食がみられた。刑事はネジの錆をなめ、「これも味噌汁だ」と、言った。… 注:佐久間は脱獄防止のため独房内でも特製の手錠をはめられていた。 網走監獄と言えば、囚人労働の話を避けて通れない。明治初期北辺 の脅威であったロシアに備えるべく、明治政府にとって北海道の開拓は 一大緊急事であった。開拓促進には道路の整備が欠かせないが、新政 府発足間もない頃とて財政に余裕がない。そこで考え出されたのが費 用のいらない囚人を酷使する道路の建設工事であった。北見峠/網走 間の中央道路建設(開削)工事に 1,000 人を超す囚人が送り込まれ、 200人以上もの死者を出したのは明治 20(1887)年代のことである。網 走監獄誕生の歴史や悲惨な囚人労働の実態などは、最初に訪れる旧網 走監獄庁舎内に詳しい説明が展示されている。真面目に学習するとこ こだけでかなりの時間を要するが、湯老人を始め大方の人はあっさり ここを通過する。 一方白鳥が網走監獄を脱獄したのは、太平洋戦争の戦局が急速に悪化 した昭和 19(1944)年 8 月のことである。青森、秋田に続く 3 回目の脱獄 であった。尚、戦後間もない昭和 22 年 3 月の札幌での脱獄が白鳥の 4 回目、即ち最後の脱獄となる。白鳥を佐久間という名前に変えて、吉村 昭が「破獄」という小説(昭和 58(1983)年第一刷発行、岩波書店)を発表し た。そのごく一部を転記する。 …刑事は再びナットの錆をなめ、腐食の原因を断定的な口調で説明した。 佐久間は、毎日の食事の折に味噌汁を少し飲みのこしては湯飲み茶椀に 入れ、それを看守の眼をぬすんでは手錠のナットにたらすことをくりかえし た。味噌汁にふくまれた塩分がナットを酸化させ、やがて腐食してゆるみ、

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♨♨ 新新泉泉地地紀紀行行 ♨♨ その百八十四 北海道ウトロ温泉

湯老人・佐藤 哲治

ウトロ温泉/“ホテル季風クラブ知床”、0152-24-3541、〒099-4355斜里(しゃり)郡斜里町ウトロ東 318

1) 正門、左端に五寸釘の寅吉さん

次に網走監獄に収監された二人の犯罪者について語ろう。一人は西川寅吉(にしかわとらきち)で通称五寸釘の寅吉とし

て有名である。現在の三重県生まれで安政元(1854)年-昭和 16(1941)年。もう一人が白鳥由栄(しらとりよしえ)である。白

鳥は青森県出身で明治 40(1907)年-昭和 54(1979)年。この二人はいわゆる日本の脱獄魔で、西川は明治の白鳥は昭和の脱

獄王とも言われる。西川は生涯 6-7回?、白鳥は 4回脱獄している。

寅吉は年老いてから網走監獄に収監されたので、脱獄することは最早なかった。それどころか、模範囚として正門前の

掃除などを担当したらしい。ここに掲載した博物館網走監獄正門の写真で、左側の箒を持つ老人が寅吉である。寅吉の姿

が小さくはっきりしない写真で申し訳ない。五寸釘の寅吉という異名がついたのは、警察?に追われて逃げる際板切れに打

ち付けた五寸釘を誤って踏み抜いたがそのまま 10KM.以上も走って逃げたという逸話による。釘を足から引き抜いたのか、

止血したのか、などの細部ははっきりしない。このこと自体が 100%真実かどうか明確でないし、まあ寅吉伝説の一つであ

ろう。彼は被差別部落の出身で当時の水平社とも少し関係があった。高齢を理由に出所した寅吉は様々な興行師のもとで

日本を回り、彼の数奇な人生を語って人気を博したという。晩年は故郷三重で生活を営み、平穏に生涯を終えた。網走で

は、脱獄犯五寸釘の寅吉せんべいや脱獄ポテトチップスが土産品として販売されている。湯老人はどちらも食べたことがないの

で論評を控えたい。

2) 舎房と見張り所

ひきぬくことができたのだ、と言った。ついで、視察窓の調査にとりかかった。視察窓には鉄枠がはめられ、それが上下

左右に計十本のネジで扉にかたくとりつけられていた。房内にはネジとともにはずされた鉄棒がおかれていたが、ネジにも

腐食がみられた。刑事はネジの錆をなめ、「これも味噌汁だ」と、言った。…

注:佐久間は脱獄防止のため独房内でも特製の手錠をはめられていた。

網走監獄と言えば、囚人労働の話を避けて通れない。明治初期北辺

の脅威であったロシアに備えるべく、明治政府にとって北海道の開拓は

一大緊急事であった。開拓促進には道路の整備が欠かせないが、新政

府発足間もない頃とて財政に余裕がない。そこで考え出されたのが費

用のいらない囚人を酷使する道路の建設工事であった。北見峠/網走

間の中央道路建設(開削)工事に 1,000 人を超す囚人が送り込まれ、

200人以上もの死者を出したのは明治 20(1887)年代のことである。網

走監獄誕生の歴史や悲惨な囚人労働の実態などは、最初に訪れる旧網

走監獄庁舎内に詳しい説明が展示されている。真面目に学習するとこ

こだけでかなりの時間を要するが、湯老人を始め大方の人はあっさり

ここを通過する。

一方白鳥が網走監獄を脱獄したのは、太平洋戦争の戦局が急速に悪化

した昭和 19(1944)年 8月のことである。青森、秋田に続く 3回目の脱獄

であった。尚、戦後間もない昭和 22 年 3 月の札幌での脱獄が白鳥の 4

回目、即ち最後の脱獄となる。白鳥を佐久間という名前に変えて、吉村

昭が「破獄」という小説(昭和 58(1983)年第一刷発行、岩波書店)を発表し

た。そのごく一部を転記する。

…刑事は再びナットの錆をなめ、腐食の原因を断定的な口調で説明した。

佐久間は、毎日の食事の折に味噌汁を少し飲みのこしては湯飲み茶椀に

入れ、それを看守の眼をぬすんでは手錠のナットにたらすことをくりかえし

た。味噌汁にふくまれた塩分がナットを酸化させ、やがて腐食してゆるみ、

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3) 舎房内の見張り所から撮影

4) 舎房内

石井輝男監督作品の「網走番外地」シリーズが 10 本、他の監督作品の「新網走番外地」シリーズが 8 本。昭和 40、41(1966)年の 2

年間に公開された石井監督の 7 作品が全て邦画興行収入の年間ベストテンに入る人気ぶりであった。しかし、博物館網走監獄

に「網走番外地」に関する展示は一切ない(と思う?それとも湯老人が見落としたのか?)。無論この映画のポスターなどどこにも

見かけない?。ただ一つだけ映画「網走番外地」に関係するものがある。それは博物館入口脇にある石碑である。写真を見れ

ば一目瞭然だが、その碑文を記載する。

5) 石井輝男の石碑

上のオホーツク流氷館に行きましたか、屋上からの展望は息を飲むほどの絶景ですよ、と湯老人。これから網走駅に戻り電車に

乗るので残念ながら時間がない、と奥さんは答える。網走駅でご夫婦はバスを降りる。会釈してお互いの旅の無事と健闘を

祈る。湯老人は終点の網走バスターミナルまで行き町中で昼飯を食べるつもり。仲のよさそうなご夫婦で羨ましい。愚妻と湯老

人はとてもあんな風にはいかない。我が家は正に両雄?並び立たず、である。

バスターミナルは港に通ずる大きな通りに面している。この道をまっすぐ行けば道の駅や冬観光のハイライト・流氷砕氷船「おーろ

ら」の乗場もある。ただバスターミナルあたりの大通りには食堂が見当たらない。大通りを渡り、一歩内側に入った車の少ない通

りを歩く。何となく寂しい雰囲気だがこの通りが網走メインの商店街か。相当に太った男性が熱心に食堂のショーケースを眺めてい

る。後ろから覗きこむとハンバーグなどボリュームたっぷりの肉料理サンプルのオンパレード。これ以上の腹出っ張りを許せない湯老人

にはちょっと不適当だ。更に暫く歩くとラーメン富新という店がある。外観がこぎれいなのでのれんをくぐった。

味噌汁を根気よくかけることで手錠のナットと視察窓のネジを錆させ

て手錠と視察窓の鉄棒を外し、頭が漸く通るほどの狭い視察窓は両

肩の関節を脱臼させてくぐり抜けたのである。白鳥が脱獄した博物

館網走監獄の第二十四房にある説明版には、「扉にはめられた視察孔

の鉄格子を根気よく揺すり続け、ねじを緩めていたのである。」とだ

け書かれており、味噌汁については言及がない。

寅吉、白鳥に共通しているのはその並外れた体力と運動能力であ

ろう。その人間離れした運動能力の高さは、この二人がオリンピックに出

たとすればそれなりの成績をあげたのではと空想したくなるほどで

ある。だがそれ以上に、目的を遂行するための強い心、即ち気力に

圧倒される。脱獄の実行にあたっては、計画のち密さや周囲を欺く

冷静さ、なまなかのことでは挫けない根気と粘り強さなど、素晴ら

しいものがある。この二人がもしまともな世界で生きたとするなら

ば、ひとかどの人物になっていたのではと思う。

網走監獄関連でもう一つ外したらバチがあたる?のは、やはりあの

映画、「網走番外地」(昭和 40(1965)年公開の東映映画)であろうか。

ご存じ若き日(30 代半ば)の健さんの人気を不動のものにしたシリーズ

の第一作である。そんな人気シリーズも最初は期待値が低く、「網走番

外地」は二本立ての添え物と見なされ、低予算白黒映画として制作さ

れる。しかし、第一作が大ヒットしたので次作からカラー映画に昇格した。

…映画監督・石井輝男の作品「網走番外地」のシリーズは、網走刑務所を

舞台に作られた。石井監督の墓は、網走市内塩見墓園にある。…

平成 18(2006)年石井輝男の遺志に基づいて塩見墓園に墓が作ら

れ、遺骨が納めれた。「安らかに 石井輝男」と刻まれた碑文は高倉

健による。

やれ疲れたとバス停で汗を拭っているとリタイア組とおぼしきご夫婦

がやってきた。旦那はカメラを手にどこかへ消えてしまったので奥さ

んと話をする。どちらから来られたかとの湯老人の問いに、横浜を

出て宝塚に暮らして早何十年、と奥さんは感慨に耽る風情。

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6) ラーメン富新

札幌で暮らし孫がいる。札幌に行って白い恋人の製造工場見学に行った時、たまたま中国人?の団体と一緒になった。団体

客の行状のひどいこと、信じられないと眉をひそめる。旦那の死後、アイちゃんには互いに憎からず思う男性ができた。アイ

ちゃんは彼の告白をじっと待っていた。外見は女丈夫でも中身は大和なでしこである。しかし、その男性の根性のないこ

と、彼は何等話を切り出さず、その後病いを得て今は施設で寝たきりという。その内、客が二人入ってきた。アイちゃんは

忙しく手を動かしながら「ゆっくりしていきなさいよ」と言ってくれる。だが爺いがたったビール 1 本で管を巻くのはみっと

もない。ふらふらと富新を後にする。網走も他の地方小都市と同様人が減っているようだ。裏通りへ行くと閉鎖された店

舗が目につく。商店街の人通りもまばらだ。しかし、人情はまだまだ捨てたものではない。ほんのちょっぴり素顔の網走

に触れたような気がする湯老人であった。

7) ウトロの海岸

8) ゴジラ岩

当地随一の規模を誇る“知床グランドホテル北こぶし”などの大きな所を当然敬遠し、湯老人は小さな“季風クラブ知床”とい

う旅館を予約した。知床峠に向かう国道沿いにある“季風クラブ知床”までウトロ B.T.から歩くと 20 分かかるが、宿で送迎し

てくれるから安心である。何せウトロの町にはタクシーが 1台しかないので、車以外の観光客は宿の送迎をお願いするしかないの

である。

“季風クラブ知床”は国道の向こうにオホーツク海を望む、絶好のロケーションに位置する木造 2階建ての宿である。部屋からの眺め

富新はカウンターだけの小さな店で 10人程度座れば満席である。カウンター

の後ろに当主アイちゃんが仁王さんの如く控えている。仁王は言い過

ぎだが、アイちゃんは目鼻立ちのくっきりした実に立派な体格の女丈

夫である。網走監獄見学で歩き回り、大分喉が渇いたのでビールを飲

もうと思った。しかし、店には大瓶ビールしか置いていない。ここは

北辺の港町・網走だ、中瓶ビールなどという生っちょろいものは置いて

いない、酒飲みなら大瓶ビールでガンガンいけ!、ということか。この年

になって真っ昼間から大瓶はちょっと、と湯老人は躊躇する。しか

し、アルコール依存症の湯老人、やがて喉の渇きに耐えかね結局 600円の

大瓶ビールを注文。ついでに味噌ラーメンを頼む。時刻が早く他に客がい

ないのでアイちゃんと話が弾む。アイちゃんは既に 77 歳、旦那は 63 歳

という年齢で早死したそうだ。子供二人を立派に育て上げ、一人は

知床の地名はアイヌ語に由来する。シレトク、大地の行き詰まり(地の果

て?)、という意味だそうだ。斜里から乗車した斜里バスが運行する定

期観光バスのガイドが真っ先に教えてくれた。ウトロはアイヌ語のウトゥルチク

シ、その間を我々が通る所、という意味である。ウトロの地図を見ると

海岸にオロンコ岩・三角岩など数多くの大きな岩がある。太古アイヌ人はこ

れらの岩の間を通ってウトロの地に入ったのであろう。海沿いに断崖絶

壁が続く険しい陸地を避け、彼等は舟でウトロに至ったのであろう。中

にはゴジラ岩という名のユニークな岩もある。写真をご覧頂けば名前通り

であることをご理解できると思う。三方を山に囲まれ、前面にオホーツ

ク海が広がる狭い土地の中にウトロの町はある。

知床半島に沿って千島火山帯が走っているため当地には数多くの

温泉が湧き出している。知床観光の拠点ウトロにはウトロ温泉があり、温

泉を引く大小様々なホテル・旅館・民宿などの宿泊施設が点在してい

る。世界自然遺産に指定されたことや昨今の外国人観光客の大量流

入で、夏場(7-9月?)の知床は多分大混雑であろう。そう考えた湯老

人はハイシーズンを迎える前の 6月中旬に知床入りしたのである。この時

期であればまだ人が少なく、宿泊料金も閑散期の安い値段で泊まれ

る。ハイシーズンになったら宿泊料金の高い安いどころか、団体客優先で

一人旅の湯老人など弾き出されてしまうのではなかろうか。

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は確かによいのだが、国道沿いの電線がちょっとうるさく感じられるのは残念である。部屋数は洋室 5室、和室 10室の全

15 室で全て禁煙室。洋室は 6 畳相当とやや狭い。和室は 8 畳で窓際に板敷きがあって椅子・テーブルが置かれ、一人であれば

十分過ぎる広さである。

9) “ホテル季風クラブ知床”

観光客に対応するため中国人のスタッフを雇っているようだ。我々の他に中国人客などがかなりいたようだが、そちらは別の

広間で食事していた。朝食も同じ食堂で頂いたが、これがまたおいしい。本格的なサラダに自家製ドレッシングが 2 種類、自家

製いくらの醤油漬け、味噌汁のふのりは宿のスタッフが手摘み天日干しした乾燥ふのり、味噌は宿で仕込む手造り味噌、これ

でまずいはずがない。北海道の豪快・新鮮料理(別の表現では荒っぽい?とも言う)と一線を画す料理である。

10) 海が目の前

11) こじんまりとした内湯

当館には男女別内湯と貸切露天風呂が二つある。貸切露天風呂を盛んに宣伝しているが、風呂は小さいし周囲を

目隠しの板塀で囲まれて展望が利かないので入浴の妙味はほとんどない。その代り、新設されたらしい石造りの

内湯は清潔で気持よい入浴ができる。湯そのものも中々よい。客を呼ぶための手段として無理矢理露天風呂を作

らなればならない宿は大変である。いい加減付け足しのような露天風呂を有難がることは止めにしたらと思うが。

“季風クラブ知床”は食事に力を入れているようだ。女

性好みの繊細で洒落た料理が提供される。夕食のメインは揚

げゆうゆと銘打ったオイルフォンデユである。自分で揚げた熱々

の具材をふのり塩で食べる。具材はじゃがいも・ホワイトチー

ズ・茄子・うどの芽・ほたて貝柱・知床地鶏の大葉巻き・南

瓜・しいたけの 8 種類。造りはたこ・甘海老・サーモンルイベ・つ

ぶ貝の 4種盛り。焼物はホタテの浜焼き。他に自家製鮭の切

り込みや鮭の白子のゆず味噌かけなどの珍味。ホタテ稚貝の

味噌汁や道産白米のゆめぴりかもうまい。海の見えるテー

ブル席の小さな食堂には日本人の母子(男)連れと湯老人

だけで、母親は食事中オホーツクに落ちる夕陽を立ち上がって

見たり、料理をほめたりと大変忙しい。中国人の女性スタ

ッフが給仕してくれたが、湯老人の日本酒の注文を忘れて

催促するまで酒がこなかったのはご愛嬌である。中国人

“季風クラブ知床”は家族で切り盛りするこじんまりしたペンション風ホテルで

ある。しかし、こんな小さな所にも外国人客が増えている。湯老人が泊

まった日も、個人旅行と思われる中国人客が多く、日本人客の肩身が狭

い。宿では夏場臨時に人を雇わねばやっていけないのではなかろうか。

ところで北海道の夏は混雑して諸事料金が高くなる上に驚くほど涼し

い訳でもない。まあ高い所に行けば涼しいだろうが、それなら軽井沢あ

たりに行くのも同じことである。そんな理由で湯老人は春・秋・冬の北海

道旅行をおすすめする。湯老人をウトロ B.T.まで送ってくれた宿の娘さん

(だと思う)が語った。「夏場の外国人客は色々な国から来るが、冬場は

中国人客が圧倒的に多い。彼等は流氷クルーズを大変喜ぶし、雪景色を非

常に好む。」。今後も日本の観光地に外国人客があふれる現象から逃れ

ることは難しいようだ。

宿泊日:2017年 6月 14日(水) 宿泊料:16,782円(缶ビール小 1本・ビール

中瓶 1本・酒 300ML.1本含。)

温 泉:泉質はナトリウム塩化物-炭酸水素塩泉で源泉温度は 55.3度。無臭で

薄い緑黄色?を呈する。効能は筋肉痛・五十肩・神経痛・関節痛・皮

膚病・創傷・やけど・慢性消化器病・痔疾・運動麻痺・婦人病・冷え

性など。当館の風呂は基本掛け流しで、循環・濾過はない。殺菌

は?。但し、冬場はパイプで引き湯する時湯温の下がることがあ

り、その場合加熱する。

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話を戻して 14 日(水)の朝、斜里 B.T.から定期観光バスで知床観光に向かう。明日の朝は小型船に乗って海上から知床岬

を眺める予定だ。小さなバス待合室には中国人と思われる若い男性と女性が既にバスを待っている。二人はどうやら単独行

の模様。湯老人も窓口で知床浪漫ふれあい号 A コースと B コースのチケットを購入する。Aが 1,800円、Bが 3,200円、合計 5,000円

と高額で湯老人の懐を直撃する。バスがターミナルに入ってきても乗客は 3 人だけでどうなることかと心配したが、釧網本線の

電車が着いたのかバスを目指して乗客がやってきた。

中年の女性バスガイドが開口一番、「今日はうれしい!」とおっしゃる。何事かと湯老人は思わず耳をそばだてる。斜里バス

の定期観光バスは 4 月下旬のゴールデンウィークから運行を開始する。しかし 7 月(夏)前は乗客が少なく、最悪一人しか乗らない

日もある。乗客一人でもバスを運行しなければならないのがバス会社の辛い所。ところが本日は 11人もの客が乗車したので

喜んでいるという訳だ。一人の場合はガイドも話し方が難しかろうが、客もガイドの説明にどう反応したらよいか困ると

思う。11人の内訳は、単独行の中国人男女、シンガポールから来た若い男女 4人(二つのカップル?)に中年の日本人女性ガイド、後

は湯老人など日本人組。半数以上は外国人である。中でも単独行の男女は B コースも湯老人と一緒に回ることになる。

12) オシンコシンの滝

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[email protected] ・・ 発発行行者者のの許許可可ななくく転転送送・・転転載載さされれるるここととははごご遠遠慮慮願願いいまますす。。

泉地紀行のバックナンバーは弊社HPでご覧いただけます

https://www.mol-logistics-group.com/digest/spring/in

dex.html

定期観光バス A コースの料金 1,800円は同じルートを走る

路線バスより 300円高いだけである。なぜ 300円高い

のか。定期観光バスは途中オシンコシンの滝で 15 分程度の

下車見学時間があるためである。オシンコシンとはオシンとコシ

ンという人名ではない。アイヌ語でオシュンクウシ、エゾマツの

群生する所、という意味の言葉からオシンコシンという

名前がついた。写真を掲載しておくが、水量豊富で

中々迫力のある滝である。日本の滝 100 選の一つで

ある。

長くなったのでこの辺で本編は終わりにして、次

回は知床の残りの部分から始めたい。