『朱子語類』巻第一百二十五「老氏tosho/file/pdf/kb/17/1707.pdf山田...

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熊本県立大学文学部紀要 第17巻 2011 100 [ ] ( ) 稿[ ] ( )( 16 69 2010 稿) ( ) ( 3 2010 稿) 稿稿27 10 11 1 2 3 4 5 6 (73)

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Page 1: 『朱子語類』巻第一百二十五「老氏tosho/file/pdf/kb/17/1707.pdf山田 俊:『朱子語類』巻第一百二十五「老氏[莊子附]」訳注(三) 97 (海島の五斗米道を指導して反乱してはいない」て反乱したために海島と称したもの。寇謙之が

熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   2011100

『朱子語類』巻第一百二十五「老氏[

莊子附]

」訳注(

三)

山 

田  

本稿は、「『朱子語類』巻第一百二十五「老氏[

莊子

附]

」訳注(

一)(

『熊本県立大学文学部紀要』第16巻(通

巻69号)所収、20

10

年。以下「第一稿」と略す)

、「同(

二)(

『熊本県立大学文学研究科論集』第3号所収、20

10

年。

以下「第二稿」と略す)

に続く第三稿である。本訳注

の執筆方針、常用する参考文献等に就いては各稿を参

照されたい。

【27】

儒教自開闢以來、二帝三王述天理、順人心、治世教民、

厚(校1)典庸禮之道(1)。後世聖賢遂著書立言(2)、以示後世。

及世之衰亂、方外之士(3)

厭一世之紛拏、畏一身之禍

害、躭(校2)

空寂以求全身於亂世而已。及老子倡(校3)

端、而列禦寇(校4)、莊周、楊朱之徒和之。孟子嘗闢之

以爲無父無君(4)、比之禽獸。然其言易入、其教易行(5)。

當漢之初、時君世主皆信其説、而民亦化之。雖以蕭何、

曹參、汲黯、太史談輩(6)

亦皆主之、以爲眞足以先於

六經(7)、治世者不可以莫之尚也。及後漢以來、米賊張陵、

海島寇(校5)

謙之(8)

之徒、遂爲盗賊(9)。曹操以兵取陽

平、陵之孫魯即納降欵(校6)(10)、可見其虚繆不足稽

矣。﹇僴(11)﹈

(校1)「厚」、朝鮮整版は「惇」に作る。 (校2)「躭」、

朝鮮整版、楠本本、正中書局本は「耽」に作る。

(校

3)「倡」、朝鮮整版、楠本本、和刻本、正中書局本は「唱」

に作る。

(校4)「寇」、朝鮮整版、楠本本、正中書局

本、和刻本は「冠」に作る。 (校5)「寇」、朝鮮整版、

楠本本、和刻本は「冠」に作る。

(校6)「欵」、朝鮮

整版、楠本本は「款」に作る。

(73)

Page 2: 『朱子語類』巻第一百二十五「老氏tosho/file/pdf/kb/17/1707.pdf山田 俊:『朱子語類』巻第一百二十五「老氏[莊子附]」訳注(三) 97 (海島の五斗米道を指導して反乱してはいない」て反乱したために海島と称したもの。寇謙之が

山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 99

徒が反逆者となった。曹操は兵を率いて(三張の根拠

地の)陽平を占領したので、張陵の孫・張魯は曹操に

降伏した。(老荘、楊朱、張道陵、寇謙之等が)全く

出鱈目で考慮に価しないことは明らかである。(沈僴)

〔注〕

(

1)

「二帝三王〜厚典庸禮之道」:類似の文が『語

類』には「至於二帝三王述天理、順人心、治世教

民、厚典庸禮之大法、一切不復有行之者」(『語

類』巻一百二十六p

.3009

)と見られる。「二帝」

は「唐堯・虞舜」、「三王」は「夏禹・殷湯王・

周文王」と思われる。「述天理、順人心」は『語

類』に「蓋事之初、在我亦有所勉強、在人亦有所

難堪。久之當事理、順人心、這裏方易」(『語

類』巻七十六p

.1953

)と「當事理、順人心」とも

見られる。朝鮮整版の「惇典庸禮」に就いては、

朱熹『孟子章句集注』「滕文公章句下」が「孔子

懼、作春秋。春秋、天子之事也…」の箇所に引く

胡安国注が「仲尼作春秋以寓王法。惇典、庸禮、

命徳、討罪、其大要皆天子之事也」(p

.272

)と

述べている。元・詹道傳『孟子纂箋』は「厚典」

とする胡氏注を引きつつ、「冝改作惇字」とする

※本條は酒井忠夫「朱子と道教」(

『朱子学大系第一

巻 

朱子学入門』所収。明徳出版社、1

974

年)

に概訳

が見られる(p

.413)

〔訳〕

儒教とは、その開闢以来、(

堯・舜の)

二帝、(

禹・

湯・文王)の三王が天理を述べ、人心に順い、世を治

め民を教え、聖典を充実させ、礼を恒常的なものにし

た道なのである。時代が下って、聖人・賢者が言説に

書き表し、後世に示したのだ。世が衰乱するに及んで、

方外の士は世が争乱するのを嫌い、その身に禍害が及

ぶのを畏れ、空寂の思想に耽ることで乱世に於いてそ

の身を全うすることを求めた。老子がその端を発する

と、列禦寇、荘周、楊朱の徒がこれに付和した。孟子

はかつてこの「父なし君なし」の思想を退け、禽獣に

も等しいものとした。しかし、彼らの言葉は参入しや

すく、その教えは行い易かった。漢初にあっては、当

時の君主はみなその説を信じ、人民もまたこれになび

いた。蕭何、曹参、汲黯、司馬談でさえも皆この説を

重んじ、正に六経よりも優先するに足るとし、世を治

める者が尊重しなければならないものであると考えた

のだ。後漢以降になると、米賊張道陵や海島寇謙之の

(74)

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熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201198

卒、謚懿侯。子窋代侯。百姓歌之曰、蕭何爲法、

顜若畫一。曹參代之、守而勿失。載其清淨、民

以寧一。…太史公曰、曹相國參攻城野戰之功所以

能多若此者、以與淮陰侯倶。及信已滅、而列侯

成功、唯獨參擅其名。參爲漢相國、清靜極言合

道。然百姓離秦之酷後、參與休息無爲、故天下倶

稱其美矣」(『史記』巻五十四「曹相國世家第

二十四」p

.2031

)と、蕭何と曹參は共に「清淨の

政」を行ったとされている。「汲黯」に就いては

「黯學黄老之言、治官理民、好清靜、擇丞史而任

之」(『史記』巻一百二十「汲鄭列傳第六十」

p.3

105

)と有る。太史談に就いては、「太史公學

天官於唐都、受易於楊何、習道論於黄子。太史公

仕於建元元封之間、愍學者之不達其意而師悖、乃

論六家之要指曰、…」(『史記』巻一百三十「太

史公自序第七十」p

.3288

)と有り、「六家要旨」

で道家を高く評価している。尚、金谷治『秦漢思

想史研究』「第二章 

漢初の道家思潮」「第三章

 

秦漢儒生の活動(上)」(日本学術振興会、昭

和35年)等を参照。

(

7)「先於六經」:『漢書』の班固の次の批判に基づ

(

巻六)

(

2)

「立言」:『語類』には多く見られるが、「聖

人」の行いとしては、「不須説子夏是大儒小儒、

且要求箇自家使處。聖人爲萬世立言、豈專爲子夏

設」(『語類』巻三十二p

805

)等見られる。

(

3)

「方外之士」:「方外」の語は「釋氏所謂敬以直

内、只是空豁豁地、更無一物、却不會方外。聖人

所謂敬以直内、則湛然虚明、萬里具足、方能義

以方外」(『語類』巻一百二十六p

.3015

)等『語

類』には多数見られるものの、「方外之士」の

用例は本例のみ。「方外」の語は『莊子』「大宗

師」に「孔子曰、彼游方之外者也、而丘游方之内

者也」(p

.65

)と見られる。尚、『二程遺書』に

「問、方外之士有人來看、他能先知者、有諸」

(『二程集』巻十八、p

.194

)と有る。

(

4)

「無父無君」:『孟子』「滕文公篇下」。第一稿

【7】條注(1)参照。

(

5)

「其言易入、其教易行」:「吾言甚易知、甚易

行。天下莫能知、莫能行」(

『老子』七十章)

(

6)

「蕭何〜」:「曹參」に就いては第一稿【7】條

注(4)を参照。又「參爲漢相國、出入三年。

(75)

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山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 97

て反乱したために海島と称したもの。寇謙之が

海島の五斗米道を指導して反乱してはいない」

(p.4

13

)としている。この点について、宮川尚

志は晋代の宗教反乱を論じて、「単に海島とかま

たは海に入ると言えばこの地(=郁州)を指すこ

とが多かったと思われる」(『中國宗教史研究

 

第一』同朋舎、1

983

年。p

.219

)と指摘してい

る。尚、三張と海浜地区との関わりに就いては、

陳寅恪「天師道與濱海地域の關係」(陳寅恪文集

之二『金明館叢稿初編』所収。上海古籍出版社、

1980

年)を参照。

(

9)

「盗賊」:ここでは「正道に悖る者」程度の意味

であろう。『語類』には、「問、破斧詩傳何以謂

被堅執鋭皆聖人之徒。曰、不是聖人之徒、便是

盜賊之徒」(『語類』巻八十一p

.2114

)等、「聖

人」と「盗賊」を対比する例が見られる。

(

10)

「納降欵」:「降伏する」の意。『宋史』に「劉

繼元表納降款、太宗陳儀衞城北臺以受之」(『宋

史』卷四百六十六「宦者一」p

.13606

)等と有

る。曹操の事跡に就いては、『三國志』巻一「武

帝紀第一」(p

.45

)、『同』巻八「一公孫陶四張

く。「贊曰、…又其是非頗繆於聖人、論大道則先

黄老而後六經、序遊侠則退處士而進姦雄、述貨殖

則崇勢利而羞其賤貧、此其所蔽也」(

『漢書』巻

六十二「司馬遷傳第三十二」p

.2737)

(

8)

「張陵・寇謙之」:「張陵」は後漢末の人。蜀

の鶴鳴山で仙道を学び、天師道を開いた。信徒

に米肉等を献納させたことから、批判的に「米

賊」と呼ばれた(『三國志』巻八「魏書」「一公

孫陶四張傳第八」p

.263)

。「寇謙之」は北魏の道

士。修道の結果、太上老君の降臨に遭い、道教を

清整し新天師道を起こしたとされる(

『魏書』卷

一百一十四「釋老志」p

.3049)

。張陵に就いて朱

熹は「某問、道家之説、云出於老子。今世道士又

却不然。今之傳、莫是張角術、曰、是張陵、見三

國志。他今用印、乃陽平治都功印。張魯起兵之

所、又有祭酒、有都講祭酒。魯以女妻馬超、使爲

之。其設醮用五斗米、所謂米賊是也」(『語類』

巻一百二十六、p

.3033

)と、当時の道士の立場は

老子に基づくものではなく張陵に依るものと述べ

ている。「海島」に就いては、酒井忠夫論文は

「五斗米道が晋代に、江南の海浜地域で行われ

(76)

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熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201196

質問「老子の『道可道』章は、或る者は『常無』、『常有』

で句読し、『欲』字を下句に続けようとしていますが、

どうでしょうか」。朱子「先儒にも又この様に句点す

る者がいるが、適切ではない」。質問「『三十の輻が、

中央の一つの轂こ

しきに集まり、その何も無い所にこそ、車

輪としての働きが有るのだ』に就いて、『無』とは車

の座る場所のことでしょうか」。朱子「恐らくはそう

ではない。もし座る場所を『無』としたならば、前半

はもともと『輻轂』に就いて述べていて、後半の『戸牖』

『埏埴』と一貫した事例であるはずだからだ(これら

にも『無』が該当されなければならず、座る場所では

説明がつかない)。私は以前これを考えたことが有る

が、『無』は轂の中の空処のことであり、空っぽであ

るから、軸を受けて絶え間なく動くことが出来るのだ。

ちょうど、傘の柄の上の木管で、多くの骨が集まる所

の、何と呼ぶのかは分からないものの様だ。管の中が

空っぽであるから、傘の柄を受けることが出来て、開

け閉めして上下することが出来るのだ。車の轂もちょ

うどこの様なものだ。荘子が『枢と

ぼそであってこそ環の中

心に於いて窮まりない変転に対応出来る』と言ってい

るのも、又これと同じ意味だ」。(沈僴)

傳第八」(p

.264

)を参照。

(

11)

「僴」:沈僴。第一稿【4】條注(

10)

を参照。

老子書

道可道章第一

【28】

問、「老子『道可道』章(1)、或欲以『常無』『常有』

爲句讀、而『欲』字屬(校1)

下句者、如何」。曰、「先儒

亦有如此做句者、不妥帖(2)(校2)」。問、「『三十輻共一轂、

當其無、有車之用(3)』。無、是車之坐處否」。曰、「恐

不然。若以坐處爲無、則上文自是就輻轂而言、與下文

戸牖埏埴是一例語。某嘗思之、無是轂中空處。惟其中

空、故能受軸而運轉不窮。猶傘柄上木管子、衆骨所會

者、不知名何。縁管子中空、又可受傘柄、而闢(校3)

闔(4)

下上。車之轂亦猶是也。莊子所謂『樞始得其環中、以

應無窮』(5)、亦此意」。﹇僴﹈

(校1)「屬」、楠本本、和刻本、正中書局本は「属」

に作る。 (校2)「帖」、朝鮮整版、楠本本、和刻本、

正中書局本は「貼」に作る。 (校3)「闢」、朝鮮整版、

楠本本、正中書局本は「開」に作る。

〔訳〕

(77)

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山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 95

一無窮也。故曰莫若以明」(『莊子』「齊物論」

p.1

4

)。

谷神不死章第六

【29】

正淳問「谷神不死、是爲玄牝(1)」。曰、「谷虚。谷

中有神、受聲所以能響、受物所以生物」。 ﹇

(2)﹈

※ 

楠本本はこの條無し。

〔訳〕

正淳が「谷神は死に絶えることはなく、これを玄牝

と呼ぶ」に就いて質問した。朱子「『谷』とは空っぽで、

谷中に不思議な働きがあって、声を受けるから響くこ

とが出来、物を受けるから物を生み出すことが出来る

のだ」。(黄

〔注〕

(

1)

「谷神不死〜」:「谷神不死、是謂玄牝。玄牝之

門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤」(『老

子』第六章)。

(2)

」:黄

。第一稿【5】條注(

9)

を参照。

【30】

〔注〕

(

1)

「道可道」:『老子』第一章。第二稿【20】條注

(7)を参照。

(

2)「妥帖」:「妥当である、信用出来る」の意。

『語類』には「思而不學則殆。雖用心思量、不

曾就事上習熟、畢竟生硬、不會妥帖」(『語類』

巻二十四p

.585

)等と見られる。朝鮮整版等の

「妥貼」としては「便見得不妥貼」(『語類』

巻一百一十三p

.2749

)と有り、何れも否定的形式

で用いられている。『近代漢語大詞典』は「妥

貼」で「穏妥、可靠」(p.1

899

)とする。尚、こ

の『老子』の句点を巡る問題については、第二稿

【20】條を参照。

(

3)

「三十輻共一轂〜」:「三十輻共一轂、當其無、

有車之用。埏埴以爲器、當其無、有器之用。鑿戸

牖以爲室、當其無、有室之用。故有之以爲利、無

之以爲用」(『老子』第十一章)。

(

4)

「闢闔」:「開き閉じる」の意。転じて造化の働

きも意味する。第一稿【5】條注(

2)

を参照。

(

5)

「樞始得其環中〜」:「彼是莫得其偶、謂之道

樞。樞始得其環中、以應無窮。是亦一無窮、非亦

(78)

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熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201194

の物でも受け入れないことが有れば、『からっぽで尽

き果てる』ことになってしまう。たった一つの物でも

応じないものが有れば、『動いても出てくることが出

来ない』ことになってしまう」。質問「『玄牝』は、或

る者は『玄とは衆妙の門で、牝は万物の祖である』と

言っています」。朱子「その様に説くべきではない。『牝』

は単に木に穴が開いていて、横木を入れる様なもの

で、受け入れることが出来るものということだ。現在、

門かんぬきを『牡』と謂い、鐶かんぬきあなを『牝』と言う様なものだ。

鏁かんぬきあな管が『牝』であり、鏁かんぬき鬚が『牡』なのだ。『雌雄』

を『牝牡』と言うことから分かるであろう。『玄』は、

至妙(が出てくるそ)の『牝あ

』を言うのであって、あ

の様な意味での『牝』ではないのだ」。質問「老子の

言葉には、取るべき点が有る様ですが」。朱子「老子

は多くの発言をしている、取るべきものが無いなどと

いうことがありえようか。仏教の場合でも取るべき点

は多いのだ。ただ到達点も入り口も全部間違っている

のだ」。(林夔孫)

〔注〕

(1)「虚而不屈〜」:「天地之間、其猶槖籥乎。虚而

不屈、動而愈出」(『老子』第五章)。

問「谷神」。曰、「谷只是虚而能受、神謂無所不應。

它又云、『虚而不屈、動而愈出(1)』。有一物之不受、

則虚而屈矣。有一物之不應、是動而不能出矣」。問、「『玄

牝』、或云、玄是衆妙之門、牝是萬物之祖(2)」。曰、「不

是恁地説。牝只是木孔承笋、能受底物事。如今門

之牡、鐶則謂牝(校1)。鏁管便(校2)

是牝、鏁鬚便(校2)

牡(校3) (3)。雌雄謂之牝牡、可見。玄者、謂是至妙底牝(校4)、

不是那一樣底牝」。問、「老子之言、似有可取處」。曰、「它

做許多言語、如何無可取。如佛氏亦儘有可取、但歸宿

門戸(4)

都錯了」。﹇夔孫(5) ﹈

(校1)「謂牝」、朝鮮整版、正中書局本は「謂之牝」

に作る。 (校2)「便」、朝鮮整版は「

」に作る。 (校

3)「牡」、和刻本は「牝」に作る。 (校4)「牝」、和

刻本は「牡」に作る。

※ 

楠本本はこの條無し。

〔訳〕

「谷神」についての質問。朱子「『谷』は単に空っぽ

で物を受け入れることが出来るものということで、

『神』とは無限に応じるということだ。『老子』は又『か

らっぽでありながら尽き果てることなく、動けば動く

程、ますます出てくる』とも言っている。たった一つ

(79)

Page 8: 『朱子語類』巻第一百二十五「老氏tosho/file/pdf/kb/17/1707.pdf山田 俊:『朱子語類』巻第一百二十五「老氏[莊子附]」訳注(三) 97 (海島の五斗米道を指導して反乱してはいない」て反乱したために海島と称したもの。寇謙之が

山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 93(

4)

「歸宿」:「最終的に辿り着くべき境地、最終的

に落ち着くべき地点」の意。『語類』には「惟篤

志、又切問近思、便有歸宿處、這心便不汎濫走

作、只在這坎窠裏不放了、仁便在其中」(『語

類』巻四十九p

.1204

)等と多く見られる。『近代

漢語大詞典』は「結局、最終着落」(p

.691

)と

する。尚、「歸宿」の語は夙に『荀子』「非十二

子」に「則倜然無所歸宿」として見られ(新編諸

子集成『荀子』「非十二子」、中華書局、1

992

年。p

.93

)、「収拾がつかない、統一が無い」の

意味で用いられている。「門戸」:「個々の学問

の入口」の意。『語類』には「問、孔子教人就事

上做工夫、孟子教人就心上做工夫。何故不同。

曰、聖賢教人、立箇門戸、各自不同」(『語類』

巻十九p

.429

)等と見られる。

(

5)

「夔孫」:林夔孫。第一稿【16】條注(

2)

を参

照。

【31】

問「谷神不死」。曰、「谷之虚也、聲達焉、則響應之、

乃神化(1)

之自然也。『是謂玄牝』。玄、妙也。牝、是

(

2)

「或云〜」:例えば、司馬光『道徳經』注には

「玄者言其微妙、牝者萬物之母」(司馬光『道徳

眞經論』1

/3b/10

)と見られる。

(

3)「今門

謂之牡〜」:『禮記』「所擧於晋國管庫

之士七十有餘家」(

『禮記』「檀弓下」p

.513

下)

鄭玄注に「管、鍵也」(p

.514

上)

と有り、賈公彦疏

に「案月令注、管、籥、搏鍵器、鍵謂鎖之入内

者、俗謂之鎖須管、謂夾取鍵、今謂之鑰匙、則

是管鍵爲別物。而云管鍵者、對則細別、散則大

同、爲鍵而有、故云管鍵」(p

.516

上)と有り、

又、「月令」の「坏、城郭、戒門閭、脩鍵閉、愼

管籥」(『禮記』「月令」p

.856

下)の鄭玄注に

「鍵牡、閉牝也。管、籥、搏鍵器也」(p

.856

下)

有り、賈公彦疏に「鍵牡閉牝者、凡鏁器入者謂

之牡、受者謂之牝」(p

.857

上)と見られる。又

『漢書』にも「成帝元延元年止月、長安章城門、

門牡自亡、函谷關次門牡亦自亡」(

『漢書』巻

二十七中之上「五行志第七中之上」p

.1401)

と有

り、晋灼注は「西出南頭第一門也。牡是出籥者」

(p.1

402)

と、顔師古注は「牡所以下閉者也。亦以

鐵爲之、非出籥也」(p

.1402

)と述べる。

(80)

Page 9: 『朱子語類』巻第一百二十五「老氏tosho/file/pdf/kb/17/1707.pdf山田 俊:『朱子語類』巻第一百二十五「老氏[莊子附]」訳注(三) 97 (海島の五斗米道を指導して反乱してはいない」て反乱したために海島と称したもの。寇謙之が

熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201192p.2

25

)。『語類』には「仁屬春、屬木。且看春

間天地發生、藹然和氣、如草木萌芽、初間僅一針

許、少間漸漸生長、以至枝葉花實、變化萬状、便

可見他生生之意」(『語類』巻十七p

.383

)等と

見られる。

(

3)

「人傑」:萬人傑。第二稿【22】條注(

4)

を参

照。

【32】

玄(校1)牝蓋言萬物之感而應之不窮、又言受而不先(校2)。

如言「聖人執左契而不責於人(1)」、契有左右、左所以

銜(校3)

右。言左契、受之義也。﹇方子﹈

(校1)「玄」、楠本本、和刻本、正中書局本は「元」

に作る。

(校2)「又言受而不先」、朝鮮整版、正中書

局本は細注とする。 (校3)「銜」、朝鮮整版、和刻本、

正中書局本は「

」に作る。

※ 

楠本本は【33】條の直後に配されている。

〔訳〕

「玄牝」とは、思うに、万物の感応が無限であること

を言い、又、(物からの働きかけを)受けるのであって、

先に働きかけるのではないことを言っている。「聖人

有所受而能生物者也。至妙之理、有生生之意焉、程子

所(校1)

取老氏之説也(2)」。﹇人傑(3)﹈

(校1)「所」、朝鮮整版、楠本本、正中書局本、和刻

本は「所以」に作る。

※ 

楠本本は【34】條の直前に配されている。

〔訳〕

「谷神は死に絶えることはない」への問い。朱子「谷

は空っぽであり、そこに声が達すると響が応じる、こ

れが不可思議な働きである自然というものだ。『これ

を玄牝と呼ぶ』の『玄』とは、妙ということだ。『牝』

とは、物を受け止め、物を生み出すことが出来るとい

うことだ。至妙の理には、生生の意が有る。程子は老

子の説を採用しているのだ」(万人傑)

〔注〕

(

1)

「神化」:「不可思議な変化、働き」の意。『語

類』には、「或問一故神。曰、一是一箇道理、却

有兩端、用處不同。譬如陰陽、陰中有陽、陽中有

陰。陽極生陰、陰極生陽、所以神化無窮」(『語

類』巻九十八p

.2511

)等と見られる。

(

2)

「生生之意〜」:「老子亦曰、三生萬物、此是

生生之謂易、理自然如此」(『二程集』巻十八

(81)

Page 10: 『朱子語類』巻第一百二十五「老氏tosho/file/pdf/kb/17/1707.pdf山田 俊:『朱子語類』巻第一百二十五「老氏[莊子附]」訳注(三) 97 (海島の五斗米道を指導して反乱してはいない」て反乱したために海島と称したもの。寇謙之が

山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 91

濶(校13)

(2)、較高遠(3)、然却較虚、走(4)

了老子意

思(校14)。若在老子當時看來、也不甚喜他如此説」。莊

仲問、「『道可道』如何解」。曰(校2)、「道而可道、則非

常道。名而可名、則非常名」。又問「玄」之義。曰(校2)、「玄、

只是深遠而至於黒窣窣地處(5)、那便(校10)

是衆妙所在」。

又問「寵辱若驚、貴大患若身(6)」。曰(校2)、「從(校15)

前理會此章(校16)

不得」。﹇義剛(7)

(校1)「沈」、楠本本は「周」に作る。 (校2)「曰」、

楠本本は「先生曰」に作る。

(校3)「箇」、楠本本は

「个」に作る。 (校4)「徼」、和刻本は「竅」に作る。

(校5)「徼」、楠本本は「竅」に作る。 (校6)「説」、

楠本本は「是説」に作る。 (校7)「那」、楠本本は

「那个」に作る。 (校8)「老子」、楠本本は「那老子」

に作る。 (校9)「莊子」、楠本本は「莊子模樣」に

作る。 (校10)「便」、朝鮮整版は「

」に作る。 

(校11)「曰」、楠本本は「云」に作る。 (校12)「學」、

楠本本は「文字却」に作る。「文字」は「斈」の誤り

と思われる。 (校13)「濶」、楠本本は「

」に作り、

朝鮮整版、正中書局本、和刻本は「闊」に作る。 (校

14)「意思」、楠本本は「意」に作る。 (校15)「從」、

楠本本は「向」に作る。 (校16)「此章」、楠本本は「曉

は割符の左半分を握って、人に取り立てることはしな

いのだ」等は、割符には左右が有って、左が右を噛む

のだ。「左契」と言うのは、受けるという意味である。

(李方子)

〔注〕

(

1)

「聖人執左契〜」:「是以聖人執左契、而不責於

人」(『老子』第七十九章)。

(

2)

「方子」:李方子。第一稿【13】條注(

3)

を参

照。

【33】

沈(校1)

莊仲問、「『谷神不死、是謂玄牝』、如何」。曰(校2)、

「谷神是那箇(校3)

虚而應物底物事」。又問、「『常有欲以

觀其徼(校4)』、徼(校4)

之義如何」。曰(校2)、「徼(校5)

是那

邊徼(校5)、如邊界相似、説(校6)

那(校7)

應接處。向來人

皆作『常無』『常有』點、不若只作『常有欲』『無欲』點」。

義剛問、「原壤(1)

看來也是學老子(校8)」。曰(校2)、「他

也不似老子、老子却不恁地」。莊仲曰、「却似莊子(校9)」。

曰(校2)、「是。便(校10)

是夫子時已有這樣人了」。莊仲

曰(校11)、「莊子雖以老子爲宗、然老子之學(校12)

尚要

出來應世、莊子却不如此」。曰(校2)、「莊子説得較開

(82)

Page 11: 『朱子語類』巻第一百二十五「老氏tosho/file/pdf/kb/17/1707.pdf山田 俊:『朱子語類』巻第一百二十五「老氏[莊子附]」訳注(三) 97 (海島の五斗米道を指導して反乱してはいない」て反乱したために海島と称したもの。寇謙之が

熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201190

老子の当時から見るならば、荘子があの様に説くのを

あるいは好まなかったであろう」。荘仲の質問「『道可

道』とはどの様に解すのでしょう」。朱子「道であっ

て道とすべきは常道ではない。名であって名とすべき

は常名ではない」。また「玄」の意味に就いて尋ねた。

朱子「『玄』は、単に深遠で真っ黒の場所を意味する

だけだ。そこは衆妙が存在する所なのだ」。又「寵愛

を受けるか屈辱を受けるか、人々はびくびくとしてい

る、(これら)大きな心配事の原因を我が身と同じよ

うに大事にしているからだ」に就いて尋ねた。朱子「以

前からこの章の内容を理解することが出来ない」。(黄

義剛)

〔注〕

(

1)

「原壤」:『論語』に「原壤夷俟。子曰、幼而不

孫弟、長而無述焉、老而不死。是爲賊。以杖叩其

脛」(『論語』「憲問」P

.1043

)と見られ、『禮

記』「壇弓」の「孔子之故人曰原壤、其母死、

夫子助之沐椁。原壤登木曰、久矣予之不托於音

也。歌曰、貍首之班然、執女手之卷然。夫子爲弗

聞也者而過之。從者曰、子未可以已乎。夫子曰、

丘聞之、親者毋失其爲親也、故者毋失其爲故也」

這一章」に作る。

※楠本本は【28】條の直後に配されている。

〔訳〕

沈僩の質問「『谷神は死に絶えることはなく、それ

を玄牝と呼ぶ』とはどういうことですか」。朱子「『谷

神』とは空っぽで物に応じるもののことだ」。又質問

「『いつでも欲があれば、その徼を見るのだ』の、『徼』

とはどの様な意味でしょうか」。朱子「『徼』は『辺徼』

のことで、境界線の様なもので、人が事物に対応する

場のことを言っているのだ。今まで人々は皆『常無』、

『常有』で句点としていたが、『常有欲』、『常無欲』で

句点とする方がよい」。義剛の質問「原壤は見たとこ

ろ老子を学んでいた様ですが」。朱子「彼の説は老子

には似ていないだろう。老子はあの様ではない」。荘

仲「むしろ荘子に似ています」。朱子「そうだ。即ち、

孔子の時に既にあの様な人がいたのだ」。荘仲「荘子

は老子を根本とはしているものの、しかし、老子の学

はやはり積極的に世に応じようとしていますが、荘子

はその様ではありません」。朱子「荘子の説は拘りが

無く高尚ではあるが、しかし内容に乏しく、老子(本来)

の考え方を(違うものに)変えてしまったのだ。もし、

(83)

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山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 89

髙之弊」(

『語類』巻一百二十一p

.2937)

等と見ら

れる。尚、否定的「高」に就いては第二稿【22】

條注(

3)

「好高」を参照。

(

4)

「走」:「本来の状態を失う、変質させる」の

意。『語類』には「前輩云、讀書不可不敬。敬

便精專、不走了這心」(

『語類』巻十p

.168))

と有る。『近代漢語大詞典』は「錯失、変易」

(p.2

468

)とする。『語類』に多く見られる「走

作」と類似の使用と見られる。『三浦語類』は

「走作」を「範囲を軼出(

はみ出る)

するを謂う」

とし(p

96)

、『朱子語類訳注巻十〜十一』は「横

道にそれること」(p

.135)

と解説する。

(

5)

「黒窣窣地處」:「真っ黒」の意。『語類』には

「若上面著布衣、裏面著布襖、便是内外黒窣窣

地」(『語類』巻六十四p

.1598

)等見られる。

『朱子語類訳注巻十〜十一』(P

.66)

を参照。

(

6)

「寵辱若驚〜」:「寵辱若驚、貴大患若身。何謂

寵辱若驚。寵爲下、得之若驚、失之若驚。是謂寵

辱若驚。何謂貴大患若身。吾所以有大患者、爲吾

有身、及吾無身、吾有何患」(『老子』第十三

章)。

(『禮記』「壇弓下」p

.512

上)という記述は、

『莊子』「大宗師」に見られる子桑戸の死去に

際しての孟子反と子琴張の様子を髣髴させ、朱

熹は「原壤、孔子之故人。母死而歌、蓋老氏之

流、自放於禮法之外者」(『論語集注』「憲問」

p.1

60

)と注を付している。

(

2)

「開濶」:「広々として伸びやかである、こだわ

りが無い」の意。『語類』には「開闊中又着細

密、寛緩中又着謹嚴」(『語類』巻八p

.144

)、

「曾點開闊、漆雕開深穩」(『語類』巻二十八

p.7

17

)等多く見られる。「開濶」は「細密」

「深

」に対する概念で、それ自体に否定的意味

は無いものの、それだけに偏ることには注意が払

われている。尚、『近代漢語大詞典』は「暢豁、

開朗」とする(p

.1020)

(

3)

「高遠」:「高尚である」の意。『語類』には

「聖人之道有髙遠處、有平實處」(

『語類』巻八

p.1

29)

等多数見られるが、ここでは、「高尚に過

ぎる」という否定的意味合いを含むものであろ

う。同様の用例として「張洽因先生言近來學者多

務髙遠、不自近處著工夫。因言、近來學者誠有好

(84)

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熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201188(

3)

「一、二」:『易』「繋辭傳上」の「天一地二」

(p.5

51)

及び『尚書』「洪範」の「五行、一曰水、

二曰火、三曰木、四曰金、五曰土」(

『十三經注

疏分段標點』本『尚書』「洪範」p

.446

下。新文

豊出版公司、二〇〇一年)

等に基づくが、第十章

注釈に「天一、地二」の観念を持ち込む発想は、

北宋・徽宗注に「天一生水、於物爲精。地二生

火、於物爲神。精神生於道、形本生於精。守而忽

失、與神爲一、則精與神合而不離」(『宋徽宗

御解道徳眞經』1

/18a/

5

)と、「一・水・精」と

「二・火・神」の一体化として見られる。『語

類』には「天一自是生水、地二自是生火」(『語

類』巻一p

.9

)と見られる(『朱子語類訳注巻一

〜三』p

.67

)。

【35】

「專氣致柔」(1)、只看他這箇(校1)

樣工夫、專、非

守之謂也(2)、只是專一無間斷。致柔、是到那柔之極處。

纔有一毫(校2)發露、便(校3)是剛、這氣便(校3)粗了(3)。﹇僴﹈

(校1)「箇」、楠本本は「个」に作る。 (校2)「毫」、

正中書局本は「豪」に作る。 (校3)「便」、朝鮮整

(

7)

「義剛」:黄義剛。第一稿【16】條注(

2)

を参

照。

【34】

張以道(1)

問「載營魄」與「抱一能無離乎」之義(2)。

曰(校1)、「魄是一、魂是二。一是水、二是火。二(校2)抱一、

火守水(3)。魂載魄、動守靜也」。﹇義剛﹈

(校1)「魄與抱一能無離乎之義。曰」、楠本本は無し。

 (校2)「二」、正中書局本は「一」に作る。

〔訳〕

張以道が「營魄を載の

せ」と「一を抱いてそこから離

れることが無いでいられるか」の意味を質問した。朱

子「魄は一で、魂は二だ。一は水で、二は火だ。二は

一を抱き、火は水を守る。魂が魄を載せ、動が静を守

るのだ」。(黄義剛)

〔注〕

(

1)

「張以道」:詳細不明。『文集』巻八十四には、

「跋張以道家藏東坡枯木怪石」(慶元五年己未

(1199

年))が収められている。

(

2)

「抱一能無離乎」:『老子』第十章。第一稿

【4】條注(4)を参照。

(85)

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山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 87

不是守字、却是專字。便只是專在此、全不放出、

氣便細。若放些子出、便粗了也」(『語類』巻三

p.4

1

)と見られる。

【36】

「老子之學只要退歩柔伏、不與你爭(1)。才有一毫(校1)

主張計較思慮之心(2)、這氣便(校2)

粗(校3)

了。故曰『致

虚極、守靜篤』(3)、又曰『專氣致柔、能如嬰兒(校4)乎』(4)。

又曰『知其雄(校5)、守其雌、爲天下谿。知其白、守其

黒、爲天下谷』(5)。所謂谿、所謂谷、只是低(校6)

下處。

讓你在高處、他只要在卑下處、全不與你爭。他這工夫

極離(校7)。常見畫本老子便(校2)

是這般氣象、笑嘻嘻地、

便(校2)是箇(校8)退歩占便(校2)宜(校9)(6)底人。雖未必肖他、

然亦是它氣象也。只是他放出無状來、便(校2)不可當(7)。

如曰『以正治國、以奇用兵、以無事取天下』(8)、他取

天下便(校2)是用此道。如子房之術、全是如此。嶢關之戰、

秦將以利、與之連和了、即囘(校10)

兵殺之(9)。項

羽(校11)

約和、已講解了、即勸高祖追之。漢家始終治

天下全是得此術、至武帝盡發出來(10)。便(校2)

即當子

房閑(校12)

時不做聲氣(11)、莫教他説一語、更(校13)

可當。少年也任侠殺人(12)、後來因黄石公(13)

教得來

版は「

」に作る。

〔訳〕

「気を集中し柔軟にし」に就いて、老子がどの様な工

夫しているのかを見るならば、「専」とは、守るとい

う意味ではなく、専一として中断することが無いこと

だ。「致柔」とは、柔の極地に至る意味である。もし

僅かでも(意識や心の働きが外に)発露することが有

るならば、それは「剛」となってしまい、その気は粗

いものとなってしまうのだ。(沈僴)

〔注〕

(

1)

「專氣致柔」:『老子』第十章。第一稿【4】條

注(4)を参照。

(

2)

「專、非守之謂也」:朱熹の批判に相当する第十

章に関する先行注としては、河上公注「專守精氣

使不亂、則形體能應之而柔順」(道教典籍選刊

『老子道徳經河上公章句』、中華書局、1

993

年、

p.3

4

)、北宋・陸佃「蓋内守者、氣之所以致專」

(彭耜『道徳眞經集註』3

/11b/7

)、北宋・曹道

沖「能專守一氣、通於無間」(同3

/12a/

3

)等が

有る。

(

3)

本條とほぼ同文が『語類』に「又曰、專氣致柔、

(86)

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熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201186

は(慎重さが欠け)大雑把となってしまう。だから『ど

こまでも虚を極め、静けさを深く守る』と言い、又『気

を集中し柔軟にし、赤子の様になることが出来ようか』

と言い、又『雄の(剛強さを)知りながら、雌(の柔

軟さ)を守るならば、天下の(人々の集まる)谿とな

るであろう。明らかさを知りつつ、暗さを守り続ける

ならば、天下の(人々の集まる)谷となるであろう』

と言っているのだ。『谿』とか『谷』とは、低い場所

の意味だ。人には高い場所に居させ、自分は低い場所

に居て、全く人と争わないことを望むのだ。老子のこ

の様な方法は極めて風変わりだ。老子の肖像画を見る

たびに、この様な雰囲気が漂っていて、それは、にこ

にことしていて、一歩退いて、自分の都合の好いこと

のみをするという様な人である。それは必ずしも老子

という人物の姿には似てはいないが、しかし、彼の雰

囲気がそこには有る。しかし、老子が『無』の状態か

ら離れて出てくると、もう誰もかなわない。例えば、『正

しいやり方で国を治め、奇策によって戦争を行い、何

事もしないで天下を取る』と言っているのは、老子が

天下を取るのにこの方法を用いるということだ。張子

房の術などは全くこの様なものである。嶢関の戦いで、

較細、只是都使人不疑他、此其所以乖也。莊子比老子

便(校2)

不同。莊子又轉調(14)

了精神、發出來粗(校3)。列

子比莊子又較細膩(15)」。問「御風之説、亦寓言否(16)」。

曰、「然」。﹇僴﹈

(校1)「毫」、楠本本、正中書局本は「豪」に作る。

 (校2)「便」、朝鮮整版は「

」に作る。 (校3)

「粗」、楠本本、正中書局本、和刻本は「麄」に作り、

朝鮮整版は「麤」に作る。 (校4)「兒」、楠本本は「児」

に作る。 (校5)「雄」、和刻本は「椎」に作る。 

(校6)「低」、正中書局本は「祗」に作る。 (校7)

「離」、朝鮮整版、楠本本、和刻本、正中書局本は「難」

に作る。 (校8)「箇」、楠本本は「个」に作る。 

(校9)「宜」、楠本本は「冝」に作る。 (校10)「囘」、

朝鮮整版、楠本本、正中書局本は「回」に作る。 (校

11)「項羽」、楠本本は「與項羽」に作る。 (校12)「閑」、

朝鮮整版は「間」に作る。 (校13)「更」、朝鮮整版

は「

」に作る。

〔訳〕

「老子の学は退いて柔軟な態度をとり、人と争わない

ようにしようとするものだ。もし僅かでも主張したり、

目論んだり、あれこれと考える心が有れば、その気性

(87)

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山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 85

退歩。少間叫哮跳躑者自然而屈、而我之柔伏應自

有餘。老子心最毒、其所以不與人爭者、乃所以深

爭之也。其設心措意都是如此。閑時他只是如此柔

伏、遇著那剛強底人、它便是如此待你。張子房亦

是如此。如云、惟天下之至柔、馳騁天下之至堅。

又云、以無爲取天下、這裏便是它無状處。據此、

便是它柔之發用功效處」(

『語類』巻一百三十七

p.3

266)

と見られ、又、「老子之術、自有退後

一著。事也不攙前去做、説也不曾説將出、但任

你做得狼狽了、自家徐出以應之」(『語類』巻

一百二十p

.2913

)とも見られる。尚「不爭」の語

は『老子』には「上善若水、水善利萬物而不爭、

處衆人之所惡、故幾於道」(『老子』第八章)、

「夫唯不爭、故天下莫能與之爭」(同第二十二

章)等々多数見られる。

(

2)

「主張計較思慮之心」:「主張」、「先入観に基

づいて主張する」の意。『語類』には「今人只

憑一己私意、瞥見些子説話、便立箇主張、硬要

去説、便要聖賢從我言語路頭去、如何會有益」

(『語類』巻八p

.140

)等と多数見られる。『近

代漢語大詞典』は「主意、打算」(p

.2425)

とす

秦将を利益で誘い、秦と和解したのに、直ちに兵を帰

して秦を殺した。項羽との和約は、一旦和解したのに、

直ちに高祖にそれを追撃させた。漢王朝は終始天下を

治めるのに全てこの術を用い、武帝に至ってそれが大

いに発揮されたのだ。即ち、何事も無い時は張子房は

なりを潜め、一語も話さないので、これはどうしよう

もない。少年の時は任お

とこだて侠から人を殺そうとしたことが

有ったが、後に黄石公の指導によってやや周到となり、

人々から疑われない様になったのだ。これが彼の賢い

理由なのだ。荘子は老子と比べると異なっていて、荘

子も精

こころのはたらき神を通常とはひっくり返しているのだが、外

へ向けて働きかけると大雑把となってしまう。列子は

荘子と比べるとやや細こ

まごま々

としている」。「御風の説は寓

言ですか?」。朱子「その通りだ」。(沈僴)

〔注〕

(

1)

本條と後出【40】條とに共通する内容が、『語

類』に「老子之意正不如此、只是要柔伏退歩耳。

觀他這一章盡説柔底意思。云、載營魄、抱一、能

無離乎。專氣致柔、能如嬰児乎。天門開闔、能爲

雌乎。老子一書意思都是如此。它只要退歩不與你

爭。如一箇人叫哮跳躑、我這裏只是不做聲、只管

(88)

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熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201184(

5)

「知其雄〜」:「知其雄、守其雌、爲天下谿。爲

天下谿、常徳不離、復歸於嬰兒」(『老子』第

二十八章)。

(

6)

「占便宜」:第一稿【3】條注(2)、【5】條

注(5)を参照。

(

7)

「不可當」:「抵抗する」の意。本巻には三例見

られ、その他「杜詩初年甚精細、晩年横逆不可

當、只意到處便押一箇韻」(『語類』卷一百四十

p.3

326

)と見られる。「當」は『近代漢語大詞

典』は「抵擋、抗御」(p

.393

)とする。

(

8)

「以正治國〜」:『老子』第五十七章。第一稿

【8】條注(7)を参照。

(

9)

「嶢關之戰〜」:第一稿【7】條注(7)を参

照。

(

10)

「武帝盡發出來」:武帝が神仙・方術をとくに好

んだことを指すか。『史記』巻二十八「封禅書第

六」、巻十二「孝武本紀第十二」等を参照。

(

11)

「不做聲氣」:『語類』には「郷原」に就いて

「郷原却是不做聲、不做氣、陰沈做罪過底人」

(『語類』巻四十二p

.1092

)と見られる。

(

12)「少年也任侠殺人」:『漢書』が記す、黄石老人

る。「計較」、「計算高くあれこれと考える」の

意で、『語類』には「君子喩於義、小人喩於利。

君子只知得箇當做與不當做、當做處便是合當如

此。小人則只計較利害、如此則利、如此則害」

(『語類』巻二十七p

.701

)等と見られる。『近

代漢語大詞典』は「爭多論少、斤斤算計」(p.8

51)

とする。「思慮」、「あれこれと考える」の意

で、『語類』には「無魂、則魄不能以自存。今

人多思慮役役、魂都與魄相離了」(『語類』巻

三p.4

1

)、「若常存得此心、應事接物、雖不中不

遠。思慮紛擾於中、都是不能存此心」(『語類』

巻六p

.114

)等と見られ、「思慮」の結果「魂

魄」が分離したり「存心」が不可能となるなど、

否定的意味合いの例が見られる。尚、『語類』に

は「人之能思慮計畫者、魂之爲也。能記憶辯別

者、魄之爲也」(『語類』巻三p

.43

)と、「思慮

計畫」を「魂」の所為とする記述が見られる。

(

3)

「致虚極〜」:『老子』第十六章。第一稿【8】

條注(5)を参照。

(

4)

「專氣致柔〜」:『老子』第十章。第一稿【4】

條注(4)を参照。

(89)

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山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 83

得箇私意了、只是有粗細」(『語類』巻二十九

p.7

54

)等と多く見られ、「粗」に対する概念

である。『近代漢語大詞典』は「周詳、細致」

(p.1

989)

とする。

(

16)

「御風之説」:「夫列子御風而行、泠然善也。旬

有五日而後反。彼於致福者、未數數然也。此雖

免乎行、猶有所待者也」(『莊子』「逍遥遊」

p.4

)。

古之爲善士章第十五

【37】

甘叔懷(1)説、「先生舊常(校1)(2)謂老子也見得此箇(校2)

道理、只是怕與事物交渉、故其言有曰、『豫兮若冬渉川、

猶兮若畏四隣、儼若容(校3)』(3)」。廣因以質於先生。曰、

「老子説話大抵如此、只是欲得退歩占姦(4)、不要與事

物接。如『治人事天莫若嗇』(5)、迫之而後動、不得已

而後起(校4)(6)、皆是這樣意思。故爲其學者多流於術數、

如申、韓之徒(校5)

皆是也(7)。其後(校6)

兵家亦祖其説、

如陰符經之類是也(8)。他説(校7)『以正治國、以奇用兵、

以無事取天下』(9)、據他所謂無事者、乃是大奇

(

10)

耳、

故後來如宋齊丘遂欲以無事竊人之國

(

11)

。如今道家者

と出会う前の張子房が「秦皇帝東游、至博狼中、

良與客狙撃秦皇帝、誤中副車」(『漢書』巻四十

「張陳王周傳第十」p

.2023

)と、博狼沙に於いて

始皇帝を狙撃しようとしたことを指すか。

(

13)

「黄石公」:張子房と黄石老人に就いては『漢

書』巻四十「張陳王周傳第十」(p

.2024

以下)を

参照。又、張子房が黄老思想を学んでいたことに

就いては、『語類』に「子房今日説了脱空、明日

更無愧色、畢竟只是黄老之學。及後疑戮功臣時、

更尋討他不著」(『語類』巻一百三十五p

.3221

と有り、「黄石公」との関わりに就いては「子房

全是黄老、皆自黄石一編中來。…曰、又有黄石公

素書、然大率是這樣説話」(同p

.3222

)と有る。

張子房が人から疑われない様に務めたというの

は、例えば、高祖旗揚げの時からの家臣である蕭

何が高祖に疑われ続けたのと対照的である。金谷

治『秦漢思想史研究』を参照。第一稿【7】條注

(

7)

も参照。

(

14)

「轉調」:第二稿【25】條注(

1)

を参照。

(

15)

「細膩」:「細やか、緻密」の意。『語類』に

は「顏子底儘細膩、子路底只是較粗。然都是去

(90)

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熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201182

輩がすべてそうなのだ。その後、兵家も又老子の説を

宗旨とし、『陰符經』の類がそうだ。老子は『正しい

やり方で国を治め、奇策によって戦争を行い、何事も

しないで天下を取る』と説いているが、老子が言う『無

事』に依るならば、それは大いなる奇策に他ならない。

だから、後に宋斉丘などが『無事』で人の国を盗もう

としたのだ。現在の『道家者流』は、むしろ老子の意

図を全く理解していないのである」。(輔広)

〔注〕

(

1)

「甘叔懷」:詳細不明。『郡齋讀書志』に「碧崖

詩集五卷。右閤皂山羽士甘夢叔叔懷之詩也。叔懷

嘗登晦菴、誠齋之門。楊長孺爲之序」と有り、閤

皂山の「羽士」で、朱熹の下で学んだことが有る

とされている。『語類』には朱熹と甘叔懷の問答

が記録されており(巻六十五p

.1610

)、『文集』

巻九には「詩送碧崖甘叔懷游廬阜兼簡白鹿山長呉

兄唐卿及諸耆舊三首」が有り、『文集』巻八十四

「書河圖洛書後」(慶元三年丁巳(1

197

年))

には「閣皂甘君叔懷欲刻二圖山中、賢者未必深

考、又當大啓爭端、聊書以

之」と有り、同巻に

は「跋周益公楊誠齋送甘叔懷詩文卷後」(慶元五

流、又却都不理會得他意思」。﹇廣

(

12)

(校1)「常」、楠本本は「嘗」に作る。 (校2)「箇」、

楠本本は「个」に作る。 (校3)「容」、和刻本は「客」

に作る。 (校4)「起」、楠本本は「已」に作る。 (校

5)「徒」、正中書局本は「徙」に作る。 (校6)「其後」、

楠本本は「其後則」に作る。 (校7)「他説」、楠本

本は「正如他説」に作る。

〔訳〕

甘叔懐「先生は以前より、老子も道理を理解してい

たが、ただ、物事と関わるのを恐れていた、だから、

その言葉には『おずおずと冬の川を渡る様に慎重で、

ぐずぐずと四方を恐れているかの様に注意深く、き

りっとして、立ち居振る舞いがととのっているかの様

だ』等が有るのだとおっしゃっていました」。輔広が

そこで先生に質問した。朱子は「老子の話は大体この

様なもので、ひたすら世間から退いて悪巧みをし、物

事と接しようとしないのだ。『人を治め天に仕えるに

は嗇つ

つしみ深いのが一番だ』などは、迫られてから後に動

き、やむを得なくなってから立ち上がるもので、まさ

しく、この様な意味なのだ。だから、それを学ぶ者の

多くは縦横家や法家に流れたので、申不害、韓非子の

(91)

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山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 81

有國之母、可以長久。是謂深根固柢、長生久視

之道」(『老子』第五十九章)。本巻【46】〜

【48】條参照。

(

6)

「迫之而後動、不得已而後起」:『莊子』に「故

曰、聖人之生也天行、其死也物化。靜而與陰同

德、動而與陽同波。不爲福先、不爲禍始。感而後

應、迫而後動、不得已而後起」(『莊子』「刻

意」p

.133

)と見られる。

(

7)

「申韓之徒〜」:「申子之學本於黄老而主刑名。

著書二篇、號曰申子。韓非者、韓之諸公子也。喜

刑名法術之學、而其歸本於黄老」(

『史記』「老

子韓非列傳第三」p

.2146

)。尚、【40】條を参

照。

(

8)

「陰符經」:『陰符經』に就いては、本巻【62】

〜【67】條を参照。尚、黄老の学・刑名と『陰符

經』とを関連付ける姿勢は、張南軒にも「今

一二黄老之學流入於刑名。蓋其翕張取與之意、竊

弄造化之機。故其流爲刑名。若陰符經之説、已可

見刻薄之意露矣」と見られる(

『南軒集』巻十九

「答呉晦叔」)

(

9)「以正治國〜」:『老子』第五十七章。第一稿

年)が収められている。

(

2)

「舊常」:「もとの形、以前の通常の状態」の

意。『語類』には「舊常」の二文字で熟した用例

が数例見られる。

(

3)

「豫兮若冬渉川〜」:「豫焉若冬渉川、猶兮若畏

四鄰、儼兮其若容、渙兮若冰之將釋、敦兮其若

樸、曠兮其若谷、混兮其若濁」(『老子』第十五

章)。尚、『語類』には「曵輪濡尾、是只爭些子

時候、是欲到與未到之間。不是不欲濟、是要濟而

未敢輕濟。如曹操臨敵、意思安閑、如不欲戰。老

子所謂猶若冬渉川之象。渉則必竟渉、只是畏那寒

了、未敢便渉」(『語類』巻七十三p

.1873

)と見

られる。

(

4)

「占姦」:「悪だくみをする」の意。『語類』

には「佛氏只是占便宜、討閑靜處去。老莊只

是占姦、要他自身平穩」(『語類』巻一百十三

p.2

742

)と、老荘を批判する表現として見られ

る。

(

5)

「治人事天莫若嗇」:「治人事天莫若嗇。夫唯

嗇、是謂早服。早服、謂之重積徳。重積徳則無

不克。無不克則莫知其極。莫知其極、可以有國。

(92)

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熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201180

めに拷問に遭っていたという話は、こうした両者

の関係に基づくものであろう。又、『資治通鑑綱

目』九五八年十一月の「唐放其太傅宋齊丘于九華

山」の趙師淵の注には「初、齊丘多樹朋黨、躁進

之士爭附之。樞密使陳覺、副使李徴古恃其勢、

尤驕慢。…鍾謨素以徳明之死怨齊丘、言於唐主

曰、齊丘乘國之危、遽謀簒竊、陳覺、徴古爲之羽

翼、理不可容」と有る。一方、『語類』には「張

子房亦是如此。如云、推天下之至柔、馳騁天下

之至堅、又云、以無爲取天下、這裏便是它無状

處」(

『語類』巻一百三十七p

.3266)

と、「無爲」

によって「天下」を取ったのは張子房であるとい

う記述も見られる。ちなみに、宋齊丘と道教の関

りに就いては、内丹書『化書』の作者は宋齊丘と

当初されていたが(張耒「書宋齊丘化書」。『張

右士文集』巻四十七)、南宋以降は、本来は譚峭

の著述であったものを宋齊丘が盗用したと言われ

る様になる(南宋・志磐『佛祖統紀』、大正藏4

9

冊、p

.392c

、p.4

60a

等)。尚、『四庫全書』等に

は宋齊丘の撰とされている『玉管照神局』が収め

られている。

【8】條注(7)を参照。

(

10)

「大奇」:「大いなる奇策」の意。『語類』に

は、「舊見某人作馬政策云、觀戰、奇也。觀戰

勝、又奇也。觀騎戰勝、又大奇也。這雖是粗、中

間却有好意思」(『語類』巻一百三十九p

.3321

と見られる。

(

11)

「宋齊丘〜」:『老子』第五十七章を踏まえた朱

熹の「以無事竊人之國」という発言が具体的に宋

齊丘のどの行為を指しているのかは不明ではあ

るが、例えば、陸游『南唐書』に依れば、南唐

の烈祖が宋齊丘の文才を気に入り、「烈祖爲築小

亭池中、以橋度、至則徹之、獨與齊丘議事、率至

夜分」(『南唐書』「列傳」第一巻)と、二人の

みで談義をするまでに至り、更には「然齊丘資

躁彊、或議不合、則拂衣逕起、烈祖謝之而已」

(同)と完全に主導権を宋齊丘に握られていたこ

とが窺える。又、釋文瑩『湘山野録』巻下が記録

する、上元県の民が暴死し冥府で先主・烈祖に

会ったところ、「吾爲宋齊丘所誤、殺和州降者千

人、以冤訴囚此」(

『全宋筆記 

第一編 

六』所

収。大象出版社、2

003

年。P

.51)

と、宋斉丘のた

(93)

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山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 79

焉而命之、動在其中矣」(『周易』「繋辭下」

p.5

56

)、「永元十五年、從駕南巡、還爲洛陽

令。以平正居身、得寛猛之宜」(『後漢書』巻

七十六「王渙傳」p

.2468

)。

(

3)

「徳明」:廖徳明、字は子晦、南剣州順昌県

の人。『師事』(p

.17

)、『學案』巻六十九

(p.2

260

)。

上徳不徳章第三十八

【39】

郭徳元(1)

問、「老子云『夫禮、忠信之薄而亂之首(2)』、

孔子又却問禮於他(3)、不知何故」。曰、「他曉得禮之

曲折(4)、只是他説這是箇(校1)

無緊要底物事、不將爲事。

某初間疑有兩箇(校1)

老耼(校2)(5)、横渠亦意其如此(6)。

今看來(校3)

不是如此。他曾爲柱下史、故禮自是理會得、

所以與孔子説得如此好。只是他又説這箇(校1)

物事不用

得亦可、一似聖人用禮時反若多事、所以如此説。禮運

中『謀用是作、而兵由此起』(7)

等語、便(校4)

自有這

箇(校1)

意思」。﹇文蔚(8)﹈

(校1)「箇」、楠本本は「个」に作る。 (校2)「耼」、

朝鮮整版、楠本本、和刻本、正中書局本は「

」に作る。

(

12)

「廣」:輔廣。第一稿【1】條注(

5)

参照。

將欲噏之章第三十六

【38】

問老氏柔能勝剛、弱能勝強之説(1)。曰、「它便(校1)

揀便(校1)

宜(校2)

底先占了。若這下、則剛柔寛猛(2)

有用時」。﹇徳明(3)

(校1)「便」、朝鮮整版は「

」に作る。 (校2)「宜」、

楠本本、正中書局本は「冝」に作る。

〔訳〕

老子の「柔らかいことが硬いことに勝ち、弱いこと

が強いことに勝つ」に関する質問。朱子「これは、自

分の都合のよい点だけを選んで、先に独り占めすると

いうものだ。この様であれば、剛・柔・寛・猛のどれ

でもそれぞれに用いる時が有るのだ」。(徳明)

〔注〕

(

1)

「柔能勝剛、弱能勝強」:『老子』には「柔弱勝

剛強」(『老子』第三十六章)、「弱之勝強、

柔之勝剛、天下莫不知、莫能行」(『老子』第

七十八章)と見られる。

(

2)

「剛柔寛猛」:「剛柔相推、變在其中矣。繋辭

(94)

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熊 本 県 立 大 学 文 学 部 紀 要   第17巻   201178(

1)

「郭徳元」:郭友仁、字は徳元、山陽の人。『師

事』(p

.90)

、『補遺』 (6

9.1

90a)

(

2)

「夫禮、忠信之薄而亂之首」:「故失道而後徳、

失徳而後仁、失仁而後義、失義而後禮。夫禮者、

忠信之薄而亂之首。前識者、道之華而愚之始」

(『老子』第三十八章)。

(

3)

「孔子又却問禮於他」:『史記』に「老子者、

楚苦縣厲郷曲仁里人也、姓李氏、名耳、字耼、

周守藏室之史也。孔子適周、將問禮於老子。老

子曰、子所言者、其人與骨皆已朽矣、獨其言在

耳」(『史記』巻六十三「老子韓非列傳第三」

p.2

139

)と見られる。

(

4)

「曲折」:「詳しい事柄」の意。礼に関わるも

のとしては、『語類』に「且如禮儀三百、威儀

三千、是許多事、要理會做甚

。如曾子問一篇問

禮之曲折如此、便是理會得川流處、方見得敦化處

耳」(『語類』巻二十七p

.678

)等と見られる。

(

5)

「兩箇老耼」:『語類』には「又曰、孔子問老耼

之禮、而老耼所言殊無謂。恐老耼與老子非一人、

但不可考耳」(『語類』巻一百二十六p

.3009

)と

有る。

 (校3)「看來」、楠本本は「看得來」に作る。 (校

4)「便」、朝鮮整版は「

」に作る。

[

訳]郭徳元の質問「老子は『そもそも礼儀というものは

忠信が薄くなって出来たもので、それは争乱の始まり

なのだ』と言っていますが、それなのに孔子が礼に就

いて老子に質問したのは何故でしょうか」。朱子「老

子は礼の細かい点をよく理解していたが、ただ、彼は

それを大して重要ではない物と言い、実行しなかった

のだ。私は最初二人の老耼がいたのではと疑い、張横

渠も又たその様に考えていた。今はそうではないと思

う。老子はかつて周国の書庫の記録官であったので、

礼に就いては自ずと理解していたのだ。だから、孔子

とこの様に素晴らしい話が出来たのだ。ただ、彼は同

時に礼というものは用いなくても構わないと言い、聖

人が礼を用いる時はむしろ事柄が煩瑣になるようだと

考えていた様で、だからこの様に述べたのだ。『禮記』

「禮運」中に『そこで、計謀が用いられ、戦争がこれ

によって生じるのである』等の語が有るが、即ち、こ

れがこの意味なのだ」。(陳文蔚)

〔注〕

(95)

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山田 俊 : 『朱子語類』 巻第一百二十五 「老氏 [ 莊子附 ]」 訳注 ( 三 ) 77(

6)

「横渠」:「孔子適周、誠有訪樂於萇弘、問禮於

。老

未必是今老子、觀老子薄禮、恐非其

人、然不害爲兩老子、猶左丘明別有作傳者也」

(『張載集』中華書局、1

985

年。P

.276

)。

(

7)

「謀用是作〜」:「故謀用是作、而兵由此起。

禹、湯、文、武、成王、周公、由此其選也」

(『禮記』「禮運」p

.1029

下)。

(

8)

「文蔚」:陳文蔚。字は才卿、信州鉛山県の

人。『師事』(p

.95

)、『學案』巻六十九

(p.2

320

)。

(96)