「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学storyboard...

14
114 897 「高貴な未開人」の比較文学 太平洋のポストコロニアル表象におけるパラオの王子リー・ブー須 藤 直 人 はじめに 太平洋諸島パラオの作家シータ・モレイ Cita Morei の詩「パラオよ、勇気を出して・・・」“Belau Be Brave...(1992)と、パラオがモデルと考えられるミクロネシア島嶼国家を舞台とした、池澤夏 樹の小説『マシアス・ギリの失脚』 (1993)は、いずれも「パラオ人リー・ブー Lee Boo」を登場さ せている 1) 。1784 年ロンドンを訪れ、数ヵ月後に当地で病死した、大酋長の息子リー・ブーは、ヨー ロッパにおいて代表的な「高貴な未開人 noble savage」として描かれてきた。リー・ブーを初めに 紹介したのは、ジョージ・キート George Keate の『パラオ記』An Account of the Pelew Islands(1788)である 2) 。航海物が人気を博 した当時、最もよく読まれた太平洋・「南洋」を扱った書であった。 『パラオ記』に記されたリー・ブーの物語は、以来、演劇・小説・ 詩等、様々な形式で書き継がれてきた。20 世紀末のほぼ同じ時期、 ともに「ポストコロニアル」という意識の下に書かれた、パラオの 英語詩と日本の小説において、リー・ブーが再び用いられることと なった。その後、独立(1994 年)を経て、パラオの中心コロールに リー・ブーの像が建てられている(図 1) 以下では、『パラオ記』以降受け継がれてきたリー・ブー伝説の、 20 世紀末の太平洋世界における在り方に注目する。太平洋世界に おけるポストコロニアル文学のネットワークの中でモレイ・池澤両 テクストに織り込まれたリー・ブー表象を通して、ポストコロニア ル時代の太平洋表象において、ヨーロッパの「高貴な未開人」のイ メージがどのように変容したか、どのような役割を果たしているか について考察する。 太平洋芸術祭・ポストコロニアル文学とパラオ 1992 年クック諸島ラロトンガで開催された第 6 回太平洋芸術祭において、太平洋諸島の作家達に よる英語作品のアンソロジー Te Rau Maire(「シダの葉」を意味する)が編纂された。1972 年以来四 年に一度オセアニアのいずれかの国で開催される太平洋芸術祭では、主に伝統的な歌とダンスが演 じられるが、それ以外にも様々なジャンルが含まれる。第 6 回芸術祭では英語による詩や短編が集 められ、そこには、ミクロネシアのパラオからの作品も一作品のみ掲載された。それはパラオの代 図 1(筆者撮影)

Upload: others

Post on 09-Aug-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

「高貴な未開人」の比較文学

114

897

「高貴な未開人」の比較文学―太平洋のポストコロニアル表象におけるパラオの王子リー・ブー―

須 藤 直 人

はじめに

太平洋諸島パラオの作家シータ・モレイ Cita Moreiの詩「パラオよ、勇気を出して・・・」“Belau

Be Brave...”(1992)と、パラオがモデルと考えられるミクロネシア島嶼国家を舞台とした、池澤夏樹の小説『マシアス・ギリの失脚』(1993)は、いずれも「パラオ人リー・ブー Lee Boo」を登場させている 1)。1784 年ロンドンを訪れ、数ヵ月後に当地で病死した、大酋長の息子リー・ブーは、ヨーロッパにおいて代表的な「高貴な未開人 noble savage」として描かれてきた。リー・ブーを初めに紹介したのは、ジョージ・キート George Keateの『パラオ記』An

Account of the Pelew Islands(1788)である 2)。航海物が人気を博した当時、最もよく読まれた太平洋・「南洋」を扱った書であった。『パラオ記』に記されたリー・ブーの物語は、以来、演劇・小説・詩等、様々な形式で書き継がれてきた。20 世紀末のほぼ同じ時期、ともに「ポストコロニアル」という意識の下に書かれた、パラオの英語詩と日本の小説において、リー・ブーが再び用いられることとなった。その後、独立(1994 年)を経て、パラオの中心コロールにリー・ブーの像が建てられている(図 1)。以下では、『パラオ記』以降受け継がれてきたリー・ブー伝説の、20 世紀末の太平洋世界における在り方に注目する。太平洋世界におけるポストコロニアル文学のネットワークの中でモレイ・池澤両テクストに織り込まれたリー・ブー表象を通して、ポストコロニアル時代の太平洋表象において、ヨーロッパの「高貴な未開人」のイメージがどのように変容したか、どのような役割を果たしているかについて考察する。

太平洋芸術祭・ポストコロニアル文学とパラオ

1992 年クック諸島ラロトンガで開催された第 6回太平洋芸術祭において、太平洋諸島の作家達による英語作品のアンソロジー Te Rau Maire(「シダの葉」を意味する)が編纂された。1972 年以来四年に一度オセアニアのいずれかの国で開催される太平洋芸術祭では、主に伝統的な歌とダンスが演じられるが、それ以外にも様々なジャンルが含まれる。第 6回芸術祭では英語による詩や短編が集められ、そこには、ミクロネシアのパラオからの作品も一作品のみ掲載された。それはパラオの代

図 1(筆者撮影)

Page 2: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

115

896

表的な女性運動家・反核運動家・教師・作家であるシータ・モレイ作「パラオよ、勇気を出して・・・」と題された詩である。後に述べるように、この詩はパラオの、そして太平洋世界の、女性・反核・文学という視点から、それらを相互に関連させて解釈することが可能である。モレイが「パラオよ、勇気を」と訴えるのは、アメリカがパラオを軍事戦略拠点とし、米軍駐留をパラオは認め、その見返りとしてアメリカから財政援助を得るという、自由連合盟約(コンパクト)の承認へと向かう動きに対してである。アメリカ、パラオ両政府が 1982 年に合意したコンパクトに対して、パラオの住民投票は翌 1983 年から 1990 年までの 7回に渡り全てこれを否決した。だが冷戦構造の変化に伴い、アメリカにとってのパラオの軍事戦略拠点としての重要性が見直される中、1992 年の住民投票で、パラオ憲法がもつ非核条項をアメリカとの自由連合協定においては凍結することを決定し、コンパクト承認の可決条件緩和のための憲法改正が実現した。モレイの詩が発表された翌年の 1993 年、8回目の住民投票でコンパクトは承認され、1994 年コンパクトによる自由連合盟約国としてパラオの独立が達成される。ミクロネシア系作家の文学作品は相対的な数の点では少ないものの、他の太平洋諸島域や英語圏の旧植民地の文学と比較した場合、その特色として、日本との歴史・文化的関係からの影響を指摘することができる。太平洋諸島における、いわゆる現地作家による文学作品の創作(主として英語による)は、フィジーのサウスパシフィック大学やパプア・ニューギニア大学を拠点として、主にポリネシア、メラネシアで行われてきた 3)。モレイの詩が収められたアンソロジー Te Rau Maireにおいても、ミクロネシア作家の作品の数は少ないが、同作刊行前年の 1991 年にはグアム大学で文芸誌Storyboardが刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するものとなるよう、努力がなされている(Talley 5)。そして、日本とミクロネシアの歴史的、経済的、文化的な相関関係が、ミクロネシアの創作活動に直接・間接的に関与していることは、Storyboardや Te

Rau Maireの作品にも表れている(Martin 7-8; Sudo 171-193)。パラオの文化的アイデンティティは日本のコロニアリズムと結びつき、同時にミクロネシアにおけるポストコロニアル文学のシンボルとも結びついている。ミクロネシア文芸誌の名前となったストーリーボードとは、パラオの口承説話の一場面を描いた、パラオを代表する手工芸品(板彫り)を指している(Keown 132)。元々こうした説話・伝説はパラオの伝統的集会所バイの正面や内部の梁に絵物語として描かれていた。そこからヒントを得て、日本の委任統治時代に彫刻家・土方久功が公学校でパラオの児童に板彫りを教えたといわれる。パラオの村落単位で建てられたバイが、日本統治下においてパラオのシンボルとなり、バイの数が激減する中、そこに刻まれた絵物語が「伝統文化」として見出され、「板彫り」という形でミニチュア化され、複製・再生産された。やがてアメリカ信託統治時代を経て、ストーリーボード(イタボリ)が「ツーリスト・アート」として制作されるようになる(Yamashita 184; 山下 137)。ミクロネシアが北マリアナ、パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャルという単位で自治さらには独立の地位を得 4)、「ポストコロニアル」という政治・文化的意識を共有しながら、人と文化の移動の中で、「ストーリーボード」が、アメリカ植民地グアムを中心としたミクロネシア文学活動のシンボルとなった。ミクロネシアのポストコロニアル文学(英語)はこのように、(旧)統治国との歴史・文化的関係を積極的に利用して成立している。

Page 3: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

「高貴な未開人」の比較文学

116

895

キート『パラオ記』と「高貴な未開人」リー・ブー

注目したいのは、太平洋諸島作家達のアンソロジー Te Rau Maireにおいてパラオを代表する唯一の作品、上述の通りミクロネシアのコロニアル/ポストコロニアル文化の象徴と深く関連したパラオからの作品であるモレイの詩の中で、用いられている “Leeboo” という名である。

Belau be brave . . .

thy nobleman’s creed is in the grave,

decaying by greed,

their loyal deeds once engraved,

at Ulong in Wilson’s log,

are gone, lost in history books,

dusty, buried in Leeboo’s grave.(2)

パラオよ、勇気を出して・・・汝が貴人の抱きし信念は今や死滅し、欲望のために朽ち果て、かつてウーロンにてウィルソンが日誌に記したパラオ人の国への忠誠はもう見られず、歴史書の中に忘れ去られ、埃を被って、リーブーの墓に埋もれている。[引用者訳]

1783 年イギリス東インド会社の商船アンテロープ Antelope号がパラオ諸島近海で難破した際、船長ヘンリー・ウィルソン Henry Wilson一行はコロール島最高酋長アッバ・チューレ Abba Thulle

の保護を受けた。約六ヶ月間の滞在の後、その第二子リー・ブー Lee Booは彼らの帰国に伴って 1784年ロンドンを訪れるが、半年経たぬうちに天然痘にかかって客死した 5)。存在したとされる、ウィルソンの日誌等に基づくアンテロープ号の座礁、ウィルソン一行のパラオでの生活やパラオ人の様子、及びリー・ブーのロンドン生活を記した、ジョージ・キートの『パラオ記』は 1788 年の出版以降版を重ね、翻訳もなされた 6)。『アルプス山脈』The Alps等の著作があるキートは、その名を『パラオ記』の作者として知られるようになり、『パラオ記』は当時最も読まれた太平洋に関する書であった(Dapp 125)。ロンドン郊外のロザハイズにある聖メアリ教会にはリー・ブーの墓碑が残され、詩・演劇・小説等、様々なリー・ブー物語が描かれたが、それらの中のリー・ブーはキートのリー・ブーをほぼ踏襲している 7)。リー・ブーの死は、1791 年ジョン・マクルーア John McClure船長によって『パラオ記』と共にアッバ・チューレに伝えられた。『パラオ記』は 1966 年にパラオ語に翻訳されている。『パラオ記』や『パラオ記』から派生したいくつかのリー・ブー物語 8)がイギリスをはじめヨーロッパで広く好まれた背景には、まず18世紀後半当時の航海文学の人気があった。七年戦争後、様々な交渉・干渉の維持・拡大を求めて、ヨーロッパ諸国、とりわけイギリス・フランスが「東方」「南洋」に船を送った。ブーガンヴィルの航海記(1772 年)、ホークスワースによるクック航海記(1773

Page 4: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

117

894

年)が出版されると、以後「南洋」の航海記や文学作品が市場に多く出回るようになる。「南洋」のパラオを舞台とし、ウィルソン船長の不運な難破を描いたキートの書は、当時人気のあった書物の典型であったということができる。Dappによれば、人々の関心を引くことに長けていたキートは、アンテロープ号遭難のエピソードの顛末を、記録や聞き取りから得た事実に基づいて正確に巧みに描き、自らは経験のない「南洋」を人々が面白がるように創り出すことができた(126)。さらに、キートが記したパラオ人、とりわけリー・ブーが、ルソーと、ルソーの描いた「高貴な未開人」を想起させ、理想化された「自然児」のイメージを掻き立てた。この理想化は、自然の景観や子ども、農民、「未開人」に何らかの神秘を見出す、ロマン主義運動の一環として理解することができ、Fairchildによると、「高貴な未開人」の成立には、啓蒙主義時代の探検における観察、古代中世の伝統、文人・哲学者による演繹の三要素が必要であった(2)。“noble savage” は、ドライデンが戯曲『グラナダ征服』The Conquest of Granada(1672)の中で用いた語だが、ルソーはそれまでに類を見ないほど徹底して人間のもつ「原始」「自然」を宗教的倫理より上位に置き、最初の偉大なロマン主義思想家といえる存在になった(Lansdown 68)。キート自身は、ルソーのように「未開」を理想と見ていたわけではないが、にもかかわらず、『パラオ記』のパラオ人はルソー主義者達の支持を得るような描かれ方をしている(Dapp 129)。アッバ・チューレ王はいつもウィルソンらイギリス人の心情を慮り、洗練された細やかさをもち、分別を備えている。リー・ブーは異文化の中にあって堂々とし、穏やかで、貧者や老人に対する同情心に溢れ、従順であり、知性と感受性を持ち合わせている。以下は『パラオ記』からの引用である。

Whilst at Canton, several gentlemen, who had been at Madagascar, and other places, where

the throwing of the spear is practiced, and who themselves were in some degree skilled in

the art, having expressed a wish to see Lee Boo perform this exercise; they assembled at

the hall of the factory for that purpose. ... they fixed this point to be a gauze cage which

hung up in the hall, and which had a bird painted in the middle; Lee Boo took up his spear

with great apparent indifference, and, levelling at the little bird, struck it through the

head, astonishing all his competitors, ....(Keate 222-223)

広東滞在中、数人の紳士たちがリー・ブーの槍投げが見たいと言い出した。彼らはマダガスカルなどにいたときに、現地民の槍投げを見ていて、自分たちも多少腕に覚えがあったのだ。そこで一同工場の娯楽室に集まった。・・・娯楽室に吊るされていた金網の鳥籠を的に決めた。その真ん中はペンキで塗った一羽の鳥になっていた。リー・ブーは全く悠然として何食わぬ顔で槍を取り、小鳥を目掛けて投げ、その頭部を射抜き、一同を唖然とさせた。[引用者訳]

Lee Boo’s temper was very mild and compassionate, discovering, in various instances, that

he had brought from his father’s territories that spirit of philanthropy, which we have seen

reigned there; yet he at all times governed it by discretion and judgment. – If he saw the

young asking relief, he would rebuke them with what little English he was master of,

telling them, it was a shame to beg when they were able to work; but the intreaties of old

age he could never withstand saying, must give poor old man – old man no able to work.

Page 5: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

「高貴な未開人」の比較文学

118

893

(Keate 262)

リー・ブーの気性は非常に穏やかで情深い。彼の父親が統治するパラオで、我々は人々の中に博愛精神が根付いているのを見ており、リー・ブーの博愛精神はパラオから持ってきたものだということが、色々な場面でわかった。といっても、彼の博愛精神にはいつも分別と判断が働いていた。「若者」が物乞いなどすると、リー・ブーは、働くことのできる者が物乞いとは恥ずかしいことだ、と不自由な英語で叱りつけた。一方、「老人」の場合は、「哀れなお年寄りには与えねばならない、働くことができないお年寄りには」と言わずにはおれなかった。[引用者訳]

『パラオ記』に描かれたリー・ブーが「高貴な未開人」として強く印象づけられた背景には、リー・ブーとしばしば対比されるタヒチ人オマイ Omaiの存在があった。クックが連れてきたオマイのロンドンでの評判は芳しくなく、彼はタヒチに帰ることになる。性的な醜聞が流れ、教育に無関心で、実用品には目もくれずに嗜好品や武具ばかり持ち帰ったというオマイに対し、キートによれば、リー・ブーは知的好奇心が強く、向学心をもっていた。キートは、評判がよくロンドンで亡くなったリー・ブーを、当時同じく話題となったオマイとは対照的なイメージの「高貴な未開人」として描き、ウィルソン船長から得た素材をロマンティシズムをもって書き換えたと考えられ、そこにはルソーの少なからぬ影響があった(Dapp 136; Thomas 34-35)。リー・ブーの「高貴な未開人」のイメージは、ウィルソンたちが置かれた状況にその要因を求めることもできよう。ウィルソンたちはパラオで大酋長の手厚い恩恵を受けた。それは彼らが生き残るために必要であり、他方、パラオ(コロール)側も好奇心を満たすため、生活向上のため、村落間の問題を有利に解決するためということもあって、イギリス人との友好を望んだ。イギリス人も帰国のための船が完成するまでは、恩恵を失わないようにその要求に応じる必要があった(Thomas 33,

36)。リー・ブーの物語は、リー・ブー自身やパラオ人が語ったものではない。『パラオ記』が記すパラオ人は、パラオ人とイギリス人との間のやり取りについてウィルソン船長が記録した事柄や船員が語った内容に基づき、パラオ人とイギリス人との間のやり取りには両者の側にマレー語を使用することができる人物が通訳として介在していた。リー・ブーの「高貴な未開人」のイメージは、このようにパラオ側とイギリス側の間にいくつかの記録や人物が第三項として介在することによって成立している。

20 世紀末のリー・ブー

したがって、パラオ人作家シータ・モレイや池澤夏樹が描いたリー・ブーもまた、そのように欧米経由で成立したリー・ブーのイメージに、必然的に基づいている。20 世紀末に、モレイや池澤が自らの作品の素材にリー・ブーを採り入れるまでに、19 世紀のリー・ブー物語を 20 世紀と繋いだE・M・フォースター、及び初めてかつ唯一の単独のリー・ブー研究書である Lee Boo of Belau: A

Prince in London(1987)の存在がある。フォースターが書簡文の体裁で書いたエッセイ「マダン・ブランカードへの手紙」“A Letter to Madan Blanchard”(1931)は、リー・ブーの名を 20 世紀にま

Page 6: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

119

892

で生きながらえさせた(Peacock 205)。注目されてきたリー・ブーではなく、リー・ブーと入れ替わる形でパラオに残ることを選んだ、アンテロープ号の船員マダン・ブランカードに焦点を当て、逆説的に『パラオ記』に由来するリー・ブーの英雄的なイメージを転覆することを試みている。著者は『パラオ記』を引用しながら、リー・ブーの死を悲劇的な死として鸚鵡返しに語ったあと、我に返ったように述べている。

I almost shed a tear, but not quite; he was rather too harmless a blackamoor̶such a

puppet, he always did as he was bid, and people like that don’t seem quite real.(317)

自分は泣きそうになったが、ふと思いとどまった。この黒んぼ、ちょっと無邪気すぎはしないか。言われたことはいつもその通りにするし、まるで人形だ。本物の人間とはあまり思えない。[引用者訳]

フォースターに見られる、「南洋」を舞台とするロマンスを批判的に書き換えようとする態度は、19世紀末以来英文学において、自ら体験した「南島」を描いたスティーヴンソン、コンラッド、モームらの短編に共通して見ることができる(Sudo 98-125)。「南島」を用いて反西洋近代を書き綴った短編作品の系譜の中に「マダン・ブランカードへの手紙」を位置づけることができ、フォースターはそのような近代批判のターゲットの一つに、『パラオ記』における「高貴な未開人」としてのリー・ブー表象を選んだ。

Peacockの書 Lee Boo of Belauには、『パラオ記』を中心としてその他の関連資料を網羅しながら、それらの間隙を推測で埋めている箇所がかなり見られる。丁寧な詳細な巻末注が付けられているので研究には適しているが、反面、細かな典拠の明示がなされておらず、推測の根拠は必ずしも明らかではない。Peacockは、ロンドンでの生活においてのリー・ブーの心中を推し量って記しており、このことはリー・ブーの「高貴な未開人」「自然児」というルソー的な美化・理想化されたイメージを補足する効果をもっている。20 世紀後半までの高貴な未開人リー・ブーのイメージ、リー・ブー伝説が、ポストコロニアル的テクストに受け継がれるのに、Peacockの書が果たした役割は大きく、実際、池澤『マシアス・ギリの失脚』の末尾に書かれた参考文献リストの中に、Lee Boo of Belauが記されている。

E・M・フォースターが「人形」のようだといった『パラオ記』のリー・ブーを、Peacock同様にその心中を想像する態度で、池澤はキートが書いた槍投げのエピソードを書き換えている。

二百歳の亡霊が二十歳の若者に戻っている。彼がこんな話をする気分になるのは珍しいから、大統領はなるべく彼がいい気分で喋れるように黙って聞いていた。 「槍の妙技もあったな」とリー・ボーは気持ちよさそうに回想に浸って言った。「広東に行った時にね、何人かの男たちが木で作ってペンキを塗った鳥を的に槍投げの練習をしていた。マダガスカルに行って、そこで槍を習ったというんでさ、自分たちでは上手なつもりなんだよ。でも一つも当たらない。見ていたら、やってみないかって言われた。からかおうという魂胆が見え透いていた。で、ぼくはその槍を手に取って、かたちだけ狙いを定めて、投げた。こういうことって自分で言うといやみだけど、鳥の頭をぶちぬいたよ。すべての分野でヨーロッパ人に

Page 7: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

「高貴な未開人」の比較文学

120

891

負けるわけじゃないと思って、気持ちがよかった」(346)

池澤夏樹はミクロネシアの島々を頻繁に訪れるようになって以来およそ二十年後に、ミクロネシアの架空国家ナビダード共和国を舞台とする長編小説『マシアス・ギリの失脚』を完成させた。ガルシア・マルケスの所謂「マジック・リアリズム」の表現を範とし、言語の位相、語りの視点、物語構成、登場人物の性格といった多様なレヴェルでポリフォニックな構造を組み入れながら、「外から見た日本」「日本批判」を描いた(池澤・新井 153)。共同体原理によって個人の原理を、民話によって小説を、周縁から中央を相対化し、ユーモアを用いてヘゲモニックな「南洋言説」を書き換えた。そうした書き換えのための装置の一つとして、作中の登場人物「リー・ボー」がある。亡霊と重ねて「リー・ボー」としたというこの人物のモデルは、リー・ブーである(池澤・新井 201)。ミクロネシアの「南島」の伝統的共同体原理に基づく「リアリティ」表現の一環として亡霊リー・ボー(リー・ブー)が描かれ、作中における近代的個人の象徴という役割を負った大統領マシアス・ギリと対峙し、戯れている。現在、パラオの中心コロール島にはリー・ブー像が立っており、その横に伝統的集会所バイが並び立ち、バイの正面にアンテロープ号の座礁、コロール村とマルキョク村の戦いへのイギリス人の参加、ウィルソン一行とリー・ブーの出立、マカオでの槍投げといった、一連のエピソードの絵物語が描かれている(図 2)。『パラオ記』に見られる肖像画を象った、台の上に立って人々を見下ろす、等身大の白いリー・ブー像とバイがほぼ同じ高さで並立していることや、バイに刻まれた、『パラオ記』中のリー・ブー物語は、リー・ブーのイメージと伝説の明瞭な視覚化であり、外来(西洋産)のものと土着のものとの同等の並存を表現しアピールしているように見える。ところが、リー・ブー像自体は等身大である一方、バイは小さく作られていることから、この同等に見える並存は、実は伝統をミニチュア化することによって成り立っていることがわかる。このような、圧倒的な西洋化の影響下にありながら、完全に同化吸収・感化されずに生き残った伝統の表象というものは、ミクロネシア及び日本におけるポストコロニアル文学の動向と一致している。すなわち、1980 年代から 1990 年代にかけて、欧米・日本の植民地主義や戦争の犠牲者としてミクロネシアを表象する文学から、植民地支配の影響を大きく被りながらも生き残った、伝統文化の生命力と女性現地民のしたたかさを称える文学への変化が見られた(Sudo 171-193)。この変化、文化的な脱植民地化への志向は、シータ・モレイの詩において端的に表れている。

Why do people rave? why do I feel rage?

We were never wanderers; we’ve been Adventurers.

We were never drifters; We are Navigators.

図 2(筆者撮影)

Page 8: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

121

890

We were never beggars, We are Providers.

We were never without a Home.

We never lived without Hope.

Disasters, diseases and deaths,

come and gone; we were not alone,

Family and friends bound us as one.

We survived.(4)

皆が色めき立つのは何故か。何故私は怒りを覚えるのか。

私たちはあてもなく彷徨ってきたのではない。ずっと冒険をしてきたのだ。私たちは流されてきたのではなく、きちんと舵取りをしてきたのだ。私たちは物乞いをして養われてきたのではなく、自ら養ってきたのだ。私たちは決して寄る辺のない浮浪者ではなかった。私たちは希望をもたずに生きてきたのではなかった。

災害や病気や死が去ってはまた訪れた。だが私たちは皆一人ではなかった。私たちには皆家族や友人たちがいて、ひとつに結びついていた。私たちは生き残ってきたのだ。[引用者訳]

リー・ブー像及びリー・ブー物語が描かれたバイは、パラオが西洋植民地主義によって圧倒され、西洋社会の理想をそのまま受け入れて自らの理想とし、それによって独立を果たした植民地化・脱植民地化の歴史を象徴しているということができる。それらはパラオの唯一の大学である、アメリカ式二年制大学パラオ・コミュニティ・カレッジ(PCC)の入口前に立っている。像はリー・ブー協会 Lee Boo

Societyによって1999年に作られた。同協会からのリー・ブー奨学金 Lee Boo Scholarshipは PCCの学生に支給される。啓蒙主義思想家の服装をしたリー・ブーは、PCCの学生たちの、そしてパラオ社会ひいてはミクロネシアの教育においての理想・目標として視覚的及び理念的に位置づけられている(Kupferman 75-76)。リー・ブー像記念碑の碑文(図 3)には、ロンドンで触れた「普遍的な知識と科学的な発見」“universal knowledge and scientific 図 3(筆者撮影)

Page 9: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

「高貴な未開人」の比較文学

122

889

discoveries” をパラオに戻って伝えるという、「パラオの最初の真の学者」“Palau’s first true

scholar” リー・ブーの計画は叶わなかったが、彼の精神をパラオ人の心に永遠に根付かせられるよう、記念碑を建てたとある。月のイメージを象った国旗と、その下に記されたパラオ語の標題 “Osiik

a Llomes” ―「日の光を探し求めよ」あるいは「知性を求めよ」という意味になる―からは、「日の光/知性」を志向し続ける「月の国家パラオ/未開のパラオ人」、そうした国家・国民のシンボル・代表としてのリー・ブー像/リー・ブーという構図を読み取ることができる。志向すべき普遍的知識・真の学問・科学は西洋にあって、パラオにはないという解釈が可能であろう(Kupferman 80-86)。だが同時にこのリー・ブー像とバイは、グローバル化されたリー・ブー、ローカル化された啓蒙主義思想家、ミニチュア化された伝統的集会所バイ、及び伝統的絵物語に加工された近代書籍『パラオ記』のリー・ブー物語がせめぎ合う、異種混淆的ナショナル・アイコンである。このことに加え、Neroによれば、Lee Booとはパラオ人の名前ではなく、ヤップ人の名前であり(17)、そうすると、人間として学生として理想的なパラオ人というリー・ブーの代表国民のイメージはゆらぎ、異種混淆的な場のイメージがいっそう強くなる。このような解釈は、リー・ブー像及びバイと、シータ・モレイの詩「パラオよ勇気を・・・」、さらに池澤の『マシアス・ギリの失脚』とを結びつける。

Beachcombers, traders and foreigners

came and claimed . . .

They exclaimed, “what beautiful real-estate,

best they be barriers for our disasters,

maybe, forward bases for carriers . . .”

For goodness sake, is not Bikini enough?

Mururoa, Hiroshima? Nagasaki?

Is Three Mile Islands still without life?

Belau be brave, our lives at stake.

Never sell your seas, your soul

For everlasting food stamps.

Belau be brave . . .

your dignity, your pride

will take in its stride

with your sons and daughters yet to come.

We must survive.(4)

ビーチコウマー、商人、外国人、色んな連中が外からやってきては、パラオについて色んなことを言ってきた・・・今回もこんなことを声高に言っている。「何て美しい土地、我々にとって最高の障壁になるはずだ、

Page 10: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

123

888

航空母艦の前線基地によさそうだ・・・」

全くあきれるよ、ビキニじゃまだ足りないのかね。ムルロア、広島、長崎は?スリーマイル島にはまだ誰も住めないままなのに。

パラオ、勇気を出して。私たちの生命が危ない。おまえの海、おまえの魂を売ってはいけない。永久食料切符なんかと引き換えにして。

パラオ、勇気を出して・・・威厳、誇りを失わなければ乗り越えていける次世代の息子たちや娘たちとともに。私たちは生き残らねばならない。[引用者訳]

モレイの詩では、先の引用箇所に見られたように、『パラオ記』の中の理想化されたリー・ブーこそが、今パラオ人が立ち返るべき原点として措定されている。モレイは、専らパラオもしくは太平洋諸島の外部の人間や、外部から来た人間によって語られてきたパラオを、内側から書き返す。核兵器・放射能の被害に遭ったマーシャル諸島ビキニ環礁、フランス領ポリネシアのムルロア環礁、広島・長崎、スリーマイル島の人々への共感が表現されることによって、太平洋世界における異種混淆的ネットワークの表象が形成されている。モレイの訴えはパラオの独立に反することになるが、コンパクトを受諾することで得られる政治的独立によっては達成されない、むしろ独立国家となることで阻害されてしまう、ネイションへの忠誠、平和の維持を喫緊の課題と見る。モレイは後に「1994年のコンパクト合意は、顔を殴られたような衝撃でした。軍と戦ってきた女性たちは悲しみに暮れました。母親に背く者がいるとは私たちには信じられません。でも実際にそれがパラオで起きたことなのです」と述べている(“Planting the Mustard Seed” 75)。パラオの海=魂=母=ネイションへの忠誠を貫く精神は、一方でイギリス人キートが書いた『パラオ記』の近代的な個人リー・ブーへと繋がり、他方で個としてでなくネイションとして生き残って行く共同体を基盤とする考え方と結びつく。このようにモレイの詩に見られる、政治的独立・経済的援助よりは伝統的精神文化を重んじる、政治・経済と精神文化とを対立させる構造、個を基盤とする近代システムと伝統的な共同体原理とを対立させる構造は、池澤夏樹『マシアス・ギリの失脚』と共振し合う地場を形成している。ただし、リー・ブー(池澤のテクストではリー・ボー)は池澤のテクストでは近代的個よりは、共同体の側に近い存在である。独裁者マシアス・ギリ大統領が遂に権力の座を追われ失脚したとき、亡霊リー・ボーに問いかける。

「全部が一つの意思に由来するものだったのか?」「一つの意思。どうかな。この世界では、個人はきみが思っているほど個人ではないよ。ここは

Page 11: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

「高貴な未開人」の比較文学

124

887

日本ではないから。生きた者、死んだ者、たくさんの人間の考えや欲望や思いが重なりあって、時には一つの意思のようにふるまうこともある」(546)

二人の会話は、共同体の力―共同体から抜け落ちた個の死の孤独、共同体が与える死の安心感―を伝える。ここではキートが『パラオ記』に記したリー・ブー夭折の悲劇は書き換えられ、個人の死は消滅を意味せず、共同体の一員として残り続けることである。

「死ぬというの、どういう気持ちだ?」と大統領はたずねた。「そう悪いものじゃない。あなたにその時が来たら、そんなに脅えなくてもいいよと言ってあげられる。ぼくは死というのはこちら側へ身を移すだけのことだと最初から知っていたから、どこで死のうと、その時にいくつだろうと、それを理由に動転することはなかったね。・・・あの頃、ぼくは本当に無知だった」「しかし、同時代のパラオ人としては最も広くものを知った一人だろう」と大統領はたずねた。「そうかな。西洋的な考えではそうなるかもしれない。しかし、父はウィルソン船長なんかよりずっと広くものを知っていたと思う。七年もたってから、マックルアという若い立身出身主義の船長がパンサー号でパラオに行って父にぼくの死を伝えたが、父はまったく動じなかった。ぼくがかわいくないとか、そういうことではなくて、父をはじめ、島の人々は死の無意味を知っていたからさ」(357-358)

リー・ブー記念碑は先述の通り、普遍的な知は外部からしかもたらされないと謳っている。だが、そうではなくて、真理はパラオにも存在するということを、この亡霊は独裁者ギリに語ることができる。リー・ブー像やモレイのリー・ブーと同じく、池澤のリー・ブーもまた、特別なパラオ人であることは間違いなく、その意味でロマンティシズムと無縁ではない。同時に池澤のリー・ブーは、ロマンティシズムが作り出してきた、外部のヘゲモニックな中心にとって都合のよすぎる幻想に対して、もはや失われつつある共同体の力の表現を通して批判を行うことができる。池澤リー・ブーは、モレイやリー・ブー像が引き継いだ『パラオ記』の中の「近代」の洗礼を受けた「高貴な未開人」リー・ブーとは異なり、テクストにおいて個になりきる以前の、共同体の構成要素という役割を負っている。

おわりに

池澤夏樹の長編小説『マシアス・ギリの失脚』は、外から見た日本、周縁からの日本批判を、近代以前の民話の世界や共同体の原理と、小説の語りや近代的個の原理との対立構造の中で表現した。そこで「リー・ボー」の名で亡霊として登場するリー・ブーは、帝国主義のヘゲモニーに服しながらも感化されない、「南島世界」の共同体側の構成要素である。イギリス人ジョージ・キートによる初めてのパラオに関する書以来受け継がれてきたリー・ブーの「高貴な未開人」のイメージを、池澤は、E・M・フォースターのように短編で批判するのではなく、長編の中で書き換えた。こうしてミクロネシアの側に立って池澤が描いたリー・ブー及びそのテクストは、一方で現代の

Page 12: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

125

886

太平洋世界におけるポストコロニアルの言説地場の中に位置づけることができ、ミクロネシアの異種混淆的な文化表象のネットワークに連なる。他方、非核憲法とコンパクト承認による独立の間で揺れ続けたパラオ側のリー・ブー表象との相違もまた存在する。コンパクト承認を批判するシータ・モレイの詩は、圧倒的な帝国主義・グローバル化・アメリカの影響の中で、個ではなく共同体として生き残っていくパラオ人の姿を女性の視点から描いている。そこでナショナリズムの規範として持ち出されるリー・ブーは、独立後コロールに建立された白いリー・ブー像と同様、キートの流れを汲む、ロンドンで教育を受けた「高貴な未開人」としてのリー・ブーである。これら日本・パラオの両テクストはいずれも、「大きな物語」「帝国」に包摂されながらも、完全

に同化しきらずにかろうじて生き残っている「小さな物語」「南島」を描き出し、そこでヨーロッパ流の「高貴な未開人」の伝統を利用した。同じ反帝国主義・脱植民地化の文脈の中にあって、「高貴な未開人」の伝統は、池澤においては書き換えるべき帝国主義的伝統と捉えられ、テクストにおいて反転させられて南島の精神文化の一部へと変換されている。それに対し、モレイにおいては、それはすでに自文化の伝統として捉えられており、守るべき南島の精神文化の象徴の地位を与えられている。

注1)現地名ではベラウ Belauだが、“Palau” の表記も用いられる。後に述べるように、実際は「リー・ブー」はパラオの人名ではなく、近隣のヤップの人名(「花輪の冠」を意味する)である(Nero 17)。「リー・ブー」のローマ字表記には他に Lebuu等が見られるが、ここでは最もよく用いられる表記 Lee Booを使用する。2)正式なタイトルは、『太平洋西部に位置するペリュー[パラオ]諸島に関する記述―1783 年 8 月名誉ある東インド会社の小型船アンテロープ号に乗って難破した、ヘンリー・ウィルソン船長及びその航海士達の日誌や彼らとのやりとりによって作成された』An Account of the Pelew Islands, Situated in the

Western Part of the Pacific Ocean; Composed from the Journals and Communications of Captain

Henry Wilson, and Some of his Officers, who, in August 1783, were there Shipwrecked, in the Antelope,

a Packet Belonging to the Honourable East India Company.

3)政治的支配が終わった後も支配・被支配の関係が表象やイメージの形で残り続ける「文化的植民地支配」の問題や、それに対する被植民者側からの表象を研究対象とする「ポストコロニアル文学研究」において、太平洋諸島域は最も研究が少ない地域である。とはいえ、これまでに Subramani; Sharrad; Najita; Lyons;

Keownといった研究の蓄積が存在する。4)グアムを除くマリアナ諸島は北マリアナ諸島連邦として 1975 年合衆国自治領となった。1986 年アメリカとの自由連合協定により、ミクロネシア連邦・マーシャル諸島共和国がそれぞれ事実上の独立を達成した。パラオ共和国は 1981 年自治政府発足、1994 年独立。5)『パラオ記』によれば、アッバ・チューレの願いでウィルソンがリー・ブーを連れて帰ることになった。別れに際して物品や人の交換をすることは、ミクロネシアの人々の慣行であった(Hezel 72)。

6)1803 年に第 5版が刊行されている。フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、スウェーデン語、ロシア語、オランダ語に翻訳された。7)リー・ブーを用いた作品については、Fairchild; Dapp; Peacockを参照。8)『パラオ記』出版直後に海賊版 The Shipwreck of the Antelope, East India Packet . . . with interesting

Particulars of Lee Boo, By one of the Unfortunate Officers(1788)が出版された。『リー・ブー王子の興味深い感動の経歴』The Interesting and Affecting History of Prince Lee Boo(Anonymous, 1810)はパラオ語にも翻訳された。

Page 13: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

「高貴な未開人」の比較文学

126

885

引用文献

(日本語)池澤夏樹『マシアス・ギリの失脚』新潮社、1993 年―・新井敏記『沖にむかって泳ぐ―池澤夏樹ロング・インタヴュー』文藝春秋、1994 年山下晋司『観光人類学の挑戦―「新しい地球」の生き方』講談社、2009 年

(英語)Dapp, Kathryn Gilbert. “George Keate, Esq., Eighteenth Century English Gentleman.” Ph.D.

dissertation. University of Pennsylvania, Philadelphia, 1939.Fairchild, Hoxie Neale. The Noble Savage: A Study in Romantic Naturalism. New York: Columbia

University Press, 1928.Forster, E. M. Two Cheers for Democracy. San Diego and New York: Harcourt Brace, 1951.Hezel, Francis X. The First Taint of Civilization: A History of the Caroline and Marshall Islands in Pre-

Colonial Days, 1521-1885. Honolulu: University of Hawai‘i Press, 1983.Keate, George. An Account of the Pelew Islands. Ed. Karen L. Nero and Nicholas Thomas. London and

New York: Leicester University Press, 2002.Keown, Michelle. Pacific Islands Writing: The Postcolonial Literatures of Aotearoa/New Zealand and

Oceania. Oxford: Oxford University Press, 2007.Kupferman, David W. Disassembling and Decolonizing School in the Pacific: A Genealogy from

Micronesia. New York: Springer, 2013.Lansdown, Richard. Strangers in the South Seas: The Idea of the Pacific in Western Thought. Honolulu:

University of Hawai‘i Press, 2006.Lyons, Paul. American Pacifism: Oceania in the U.S. Imagination. London and New York: Routledge,

2006.Martin, James E. Editor’s Comments. Storyboard: A Journal of Pacific Imagery 3(1994): 7-8.Morei, Cita. “Belau Be Brave....” Te Rau Maire: Poems and Stories of the Pacific. Ed. Marjorie

Tuainekore Crocombe, Ron Crocombe, Kauraka Kauraka, and Makiuti Tongia. Rarotonga, Cook

Islands: Tauranga Vananga(Ministry of Cultural Development), 1992. 4.--. “Planting the Mustard Seed of World Peace.” Pacific Women Speak Out: For Independence and

Denuclearisation. Ed. Zohl dé Ishtar. Christchurch, New Zealand, 1998. 75-77.Najita, Susan Y. Decolonizing Cultures in the Pacific: Reading History and Trauma in Contemporary

Fiction. New York and London: Routledge, 2006.Nero, Karen L. “Keate’s Account of the Pelew Islands: A View of Koror and Palau.” Introduction. An

Account of the Pelew Islands. By George Keate. Ed. Karen L. Nero and Nicholas Thomas. London and

New York: Leicester University Press, 2002. 7-25.Peacock, Daniel. J. Lee Boo of Belau: A Prince in London. Honolulu: University of Hawai‘i Press, 1987.Sharrad, Paul. Albert Wendt and Pacific Literature: Circling the Void. Manchester and New York:

Manchester University Press, 2003.Subramani. South Pacific Literature: From Myth to Fabulation. Suva: Institute of Pacific Studies, 1992

[1985].Sudo, Naoto. Nanyo-Orientalism: Japanese Representations of the Pacific. Amherst, New York: Cambria

Press, 2010.Talley, Jeannine E. Editor’s Comments. Storyboard: A Journal of Pacific Imagery 4(1996): 5-6.Thomas, Nicholas. “‘The Pelew Islands’ in British Culture.” Introduction. An Account of the Pelew

Islands. By George Keate. Ed. Karen L. Nero and Nicholas Thomas. London and New York: Leicester

University Press, 2002. 29-39.

Page 14: 「高貴な未開人」の比較文学 - 立命館大学Storyboard が刊行され始め、ミクロネシアでの創作活動がポリネシア、メラネシアに匹敵するもの

127

884

Yamashita, Shinji. “The Japanese Encounter with the South: Japanese Tourists in Palau.” Japanese

Tourism and Travel Culture. Ed. Sylvie Guichard-Anguis and Okpyo Moon. London and New York:

Routledge, 2009. 172-192.

(本学文学部教授)