日本におけるウイスキー産業発展の経緯human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/... ·...

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〔資料] 弘前大学経済研究第 34 132-144 2011 12 26 日本におけるウイスキー産業発展の経緯 一産業基盤を形成した1950 年代から1960 年代を中心に- 久保俊彦 1. はじめに 若者を中心に近年「ハイボール」が人気を集 めている 。1980 年代中盤から長く低迷していた わが国におけるウイスキーの生産も,乙こ数年 ようやく回復の兆しを見せつつあり,それと機 をーにするように, 2000 年以降日本のウイス キーは世界のウイスキーコンペティションで多 くの賞を受け,その品質は世界的に高く評価さ れている。日本のウイスキー(ジ、ャパニーズウ イスキー)はいまやス コッチウイスキー (スコッ トランド),アイリッシュウイスキー(アイル ランド),アメリカンウイスキー(アメリカ カナデ、ィアンウイスキー (カナダ)に続く,世 界の主要なウイスキーの一つに数えられるよう になった。 わが国において初めて本格的なウイスキーが 誕生したのは, 1929 年である 。寿屋(現サント リーホールデ、イングズ(側)が1923 年に京都郊外 の山崎(大阪府三島郡島本町)に蒸留所を建設, 蒸留を開始し,貯蔵を経た原酒を,国産第一号 ウイスキー 『サントリウイスキー白札』 として 上市したのが,およそ90 年前のことである 。先 に挙げた世界の主なウイスキーが,その土地の 風土が生み出した地酒(スコッチ,アイリッ シュ),あるいはその地域からの移民によ って 作られたもの(アメリカン,カナディアン)で あり,最も歴史の浅いアメリカンウイスキーで 132 さえ誕生から 200 年以上が経っていることを考 えるとそれ以外の地域においてウイスキーが 産業 レベルで成立するための基盤に大きな差が あったととは明らかである 。 それにもかかわらず,日本のウイスキー産業 が世界的な評価を得る製品を生み出し,産業レ ベルとして世界でも有数な座を占めるに至った のはなぜか。これを歴史的に社会的な背景も踏 まえて明らかにしていきたい。ウイスキーを製 造することと産業として成立することは異なる 。 ウイスキー製造者は世界中に数多く存在する が,それらのごく 一部しか産業 レベルとしては 成立していないからである 。 日本におけるウイスキーの歴史を論じた研究 としては,谷光 ( 1996 )によるものが挙げられ る。谷光は ,ウイスキー製造業が日本に移植で きた原因を,主に社史や経営者の自伝等から, (1 )国民の好奇心の強さ, ( 2 )その技術を受け入 れられる技術土壌の存在, 3 )その技術を使っ て新しい商品を作り出す企業家の存在, 4 )国 民の聞に物づくりを軽視する思想のない ことに あるとした。 I )乙の中で,谷光が考察 したの は物づくりの視点から「ウイスキー製造業が日 本に移植できた原因」であり,今回の著者の主 題である「我が国のウイスキー事業が産業レベ ルとして成立 した理由」を明らかにしたもので はない。なお,日本のウイスキーの成立と発展 1 )谷光 (1996)pp.186-190

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Page 1: 日本におけるウイスキー産業発展の経緯human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/... · ウイスキー製造者は世界中に数多く存在する が,それらのごく一部しか産業レベルとしては

〔資料] 弘前大学経済研究第34号 132-144頁 2011年12月26日

日本におけるウイスキー産業発展の経緯一産業基盤を形成した1950年代から1960年代を中心に-

久保俊彦

1. はじめに

若者を中心に近年「ハイボール」が人気を集

めている。1980年代中盤から長く低迷していた

わが国におけるウイスキーの生産も,乙こ数年

ようやく回復の兆しを見せつつあり,それと機

をーにするように, 2000年以降日本のウイス

キーは世界のウイスキーコンペティションで多

くの賞を受け,その品質は世界的に高く評価さ

れている。日本のウイスキー (ジ、ャパニーズウ

イスキー)はいまやスコッチウイスキー(スコッ

トランド),アイリッシュウイスキー (アイル

ラン ド),アメリカンウイスキー (アメ リカ),

カナデ、ィアンウイスキー (カナダ)に続く,世

界の主要なウイスキーの一つに数えられるよう

になった。

わが国において初めて本格的なウイスキーが

誕生したのは, 1929年である。寿屋(現サント

リーホールデ、イングズ(側)が1923年に京都郊外

の山崎 (大阪府三島郡島本町)に蒸留所を建設,

蒸留を開始し,貯蔵を経た原酒を,国産第一号

ウイスキー 『サントリウイスキー白札』として

上市したのが,およそ90年前のことである。先

に挙げた世界の主なウイスキーが,その土地の

風土が生み出した地酒(スコッチ,アイリッ

シュ),あるいはその地域からの移民によって

作られたもの(アメリカン,カナディアン)で

あり,最も歴史の浅いアメリカンウイスキーで

132

さえ誕生から200年以上が経っていることを考

えるとそれ以外の地域においてウイスキーが

産業レベルで成立するための基盤に大きな差が

あったととは明らかである。

それにもかかわらず,日本のウイスキー産業

が世界的な評価を得る製品を生み出し,産業レ

ベルとして世界でも有数な座を占めるに至った

のはなぜか。これを歴史的に社会的な背景も踏

まえて明らかにしていきたい。ウイスキーを製

造することと産業として成立することは異なる。

ウイスキー製造者は世界中に数多く存在する

が,それらのごく一部しか産業レベルとしては

成立していないからである。

日本におけるウイスキーの歴史を論じた研究

としては,谷光 (1996)によるものが挙げられ

る。谷光は,ウイスキー製造業が日本に移植で

きた原因を,主に社史や経営者の自伝等から,

(1)国民の好奇心の強さ, (2)その技術を受け入

れられる技術土壌の存在, (3)その技術を使っ

て新しい商品を作り出す企業家の存在, (4)国

民の聞に物づくりを軽視する思想のないことに

あるとした。I)乙の中で,谷光が考察したの

は物づくりの視点から「ウイスキー製造業が日

本に移植できた原因」であり,今回の著者の主

題である 「我が国のウイスキー事業が産業レベ

ルとして成立した理由」を明らかにしたもので

はない。なお,日本のウイスキーの成立と発展

1 )谷光 (1996)pp.186-190

Page 2: 日本におけるウイスキー産業発展の経緯human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/... · ウイスキー製造者は世界中に数多く存在する が,それらのごく一部しか産業レベルとしては

日本におけるウイスキー産業発展の経緯

を製造者の視点を通じて, 三鍋(2000)は以下

の点から論じている。すなわち,「100年にも満

たない日本のウイスキーの歴史の中でなぜとこ

まで消費量が伸びたかjについて「ウイスキー

の持つ文化性産業を興しそれに携わる者が飲

む酒としての象徴性」と 「ウイスキーの味覚函,

生理的な機能としての覚醒機能」が 「第二次世

界大戦後の復興と高度経済成長を担った会社員

たちが飲む酒として最適であったと考えられ

る」との仮説を提示している。2)しかしこの

仮説を証明するその後の研究は見出せない。

その他の関連する研究としては,石川(1983).

生島 (1999・2009),四宮(2003)などのウイ

スキー事業経営者を企業家として考察したも

の,また,ウイスキー事業者の取り組みを時系

列的に整理した川文 (1982).杉森 (1996),松

尾 (2004)ら,事業者の経営戦II洛をマーケティ

ングの観点、から分析した堀(1969),大沼(1977).

田中 (1987),山本 (1987),片山 (1991),柳

川 (1993),更には事業者の経営方針や製品を

批判的に論評した平沢(1977・1986),穂積(1983)

等が,文献または資料としては存在する。3)

しかしいずれの論文 ・文献 ・資料も著者の

今回のテーマである 「なぜ産業レベルとして世

界的に有数の存在となり得たのか,いかにして

世界的評価を受ける製品を生産するに至ったの

か」を明らかにするものではなかった。従っ

て,ウイスキーが日本において産業として成立

した理由を,社会的 ・文化的背景, 事業者の取

り組み,税制を含む国策の切り口から総合的か

っ実証的に分析 ・検討し明らかにする試み

は,これまで行われてこなかったと推測され

る。そこで本研究ノートでは,あえて「自固に

(文化的にも)存在しなかった産業が,いかな

る条件の下に誕生 ・発展し 自国で成功するだ

けでなく,世界市場に通用する製品を生み出す

2)三鍋 (2000)pp64-65

3)後段の参考文献一覧

133

ほどの産業レベルに達するために何がポイン ト

となるのか」という論点から, 産業発展論に示

唆を与えるべく.研究テーマの解明に取り組

む。

本テーマを解明するため,本研究では以下の

切り口からアブローチを行う。

①日本におけるウイスキー産業発展の歴史的経

緯 ・事実関係を社会的 (経済的).文化的背

景を踏まえ, 実証的に確認する。

②確認した歴史的経緯 ・事実関係を通してウ

イスキー (製造 ・販売)事業者の経営思想,

企画宣伝戦Ill各,品質向上や生産効率化の取り

組みがどのように行われ,それらが事業拡大

にどのようにつながっていったかを分析する。

③国の政策 (税制面)が産業の発展にいカ、なる

影響を与えたかについて検証する。

尚,著者の研究は.我が固におけるウイスキー

事業の繁明期である1880年代から現代に至るま

での全ての期聞を対象とするものであるが.現

在研究途上にあり,完結していないことから

今回はその一部の期聞について報告するもので

ある。

また本テーマの解明は,この研究全体を通

じた総合的な分析 ・検討によることから.この

資料が取り扱う範囲での考察は.限定的になら

ざるえないことを記しておく。

2.本資料が1950年代から60年代を

対象とする理由

この資料では日本のウイスキー産業が戦後の

混乱期を脱しその後の発展の基盤を形成した

1950年から1960年代末までの20年聞に絞り,産

業発展の歴史的経緯を検討する。

第2次|立界大戦後の数年間は社会的混乱が続

き,生産面においては原材料の調達が思うよう

進まない一方,販売面では統制価格等により価

格設定の自由が奪われ,企業活動は著しい不自

由を強いられていた。こうした戦後の混乱期か

Page 3: 日本におけるウイスキー産業発展の経緯human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/... · ウイスキー製造者は世界中に数多く存在する が,それらのごく一部しか産業レベルとしては

③酒類需要が多極化し,ウイスキー需要が長期

に低迷する中での試行錯誤(販売戦略の見直

し・製品の多種化)及び事業の多角化・国内

他酒類事業者との提携期 (1980年代中頃から

1990年代末頃)

④消費者の曙好変化と国内経済の低成長を背景

とする高品質製品の安定的生産及び国際市場

に対する本格的な販売戦略の展開期 (1990年

代末以降今日まで)

ジ、ャパニーズウイスキーが国際的な評価を得

て,世界の主要なウイスキーとしての存在を確

実なものするのは,④の結果であるが,④は①

~③の流れから生じたものであり,この一連の

経緯と事実関係を分析することは,テーマの本

質的な解明に有効であると考える。

そζで,本資料では①における a 社会的 ・

文化的背景,b 事業者の取り組みp c 国の

政策,の3点の切り口から日本のウイスキー産

業発展の歴史的経緯と事実関係を確認すること

により,著者の研究テーマである「日本のウイ

スキー産業が世界的な評価を得る製品を生み出

し,産業レベルとして世界でも有数な座を占め

るに至った理由」の解明の一助とする。

ら脱し生産活動が様々な制約から解放され,

企業が自律的性を取り戻すのは1950年以降と考

えられている。この頃になると,様々な生産に

関する指数が戦前の水準を回復してくるからで

ある。

清酒を除く主な酒類の生産量も終戦の1945年

前後を最低水準として, 1948年頃以降上昇に転

じ, 1950年頃には戦前の水準を回復している。

(図表 1)

図表 1・酒類 (ビール ・洋酒・焼酎)の

1935年~1952年酒造年度製成高調 (単位石)

由一合計

四一ビーlレ

四一洋酒

ー四焼酎

800COCO

700COCO

600COOO

5000000

3000000

200000(〕

4000000

1000000

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mmJR

祉制

hnmmH

μ州ω問。」【

μ倒的問。判

第2次世界大戦後60年間の酒類全体

およびウイスキー課税移出量の推移

3.

(出典。日本和洋酒缶詰新聞 (1974)『大日本洋酒缶

詰沿革史j 日本和洋酒缶詰新聞, P97「大正以来

の酒類製成高調」を基に筆者が作成)

20年閣のウイスキー産業発展の経緯を考察す

るにあたり,わが国においてウイスキーが戦後

から今日まで,酒類の中でどのように飲まれて

きたかをみておくとととする。

1950年前後から現在に至るまでの60年聞の酒

類全体の課税移出数量4)の推移 (図表 2)を

みると,ビール,清酒,焼酎が大きな割合を占

めていることがわかる。ウイスキーはこの図に

現れないほどの量であり,ピーク時 (1983年)

企業が自主的な活動を本格的に再開した1950

年以降,現在に至るまでのウイスキー産業発展

の経緯は,生産 ・消費量の推移と事業者の取り

組みの観点からから大きく次の4つの段階に分

けることができる。

①ウイスキーを飲む文化の浸透 ・拡大に伴う,

単一 (少種ブランド)製品の大量消費及びそ

のための生産体制の整備期(1950年~1960年

4)課税移出数量とは税額決定の基礎となるべき酒類の

数量で,製造場から卸売 ・小売り業者に引き渡される時点で決定するもの

4a

つdT

,4

代)

②高度経済成長ドでの爆発的な需要増に対応す

る供給体制の拡充及び需要の二極化(高級化

と汎用化)に対応する製品品質の確保・向上

期(1970年~1980年代中頃)

Page 4: 日本におけるウイスキー産業発展の経緯human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/... · ウイスキー製造者は世界中に数多く存在する が,それらのごく一部しか産業レベルとしては

を迎える。その後はピーク直後の一時的な回復

を|徐き, I首加に転じることなく, 20年以上にわ

たりほぼ一貫して減少を続け, 2007年にはピー

ク時の 6分の lにまで落ち込む。2008年以降は

この減少傾向に歯止めがかかり.最近の3年聞

は回復基調にあるものの,その量は1960年代中

頃と同じ水準である。

なお,この傾向は課税額を見ても同様である。

ただし諜税額のピーク(1983年)とボトム(2007

年)年度の対比は15対 1である。

日本におけるウイスキー産業発展の経緯

においてさえ,その量はビールの l割にも満た

ないことが読み取れる。

図表 2:主な酒類の課税移出数量の推移

(1948年度-2008年度)(単位千kl)

一一清酒

一一焼酎

ーービーJレ

一一ウイスキー類

ーースピリ ッツ

一ーーリキューJレ

ーー雑酒・発泡

ーー合計

4000 ・一

12000

10000

8000

6000

2000

。 廿内庁庁門打

倒量当世幽脳性百恒生当組組制倒幽凶幽幽

持持崎営母宮古器量号詰吉宮古聖堂~ ~ ~日 g ;g ;;i; 町田町~ ~ ~:;; t詰8gi gi g: g: g g g ...... ,..... ............ ,...-’- ...-...-..-..-............ .--N N N

図表4 課税移出量の推移

(1949年~2009年度)(単位KL)

ウイスキー課税移出量(kl)

ーーウイスキー課税

移出量 (kl)

州問時

gDN

悩時寸

DDN

州四砕mmm

M四時忍四戸

川聞社団由回F

刷出叶マ∞由F

凶持mhmF

H

間特定合

酬明持

gmF

副社忍田F

M聞社閉山田F

H四社呂田F

H聞社寺竺

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

5

0

5

0

5

0

5

4

3

3

2

2

1

1

(出!J.l!:国税庁「活動報告 -発表 -統計」を基に筆

者が作成)

しかし純粋アルコール量(ウイスキーのア

ルコール度はビールの 7倍.日本酒の 3倍,焼

酎の1.5倍である)に換算した上での数量や以

下の図表3に示すように課税額全体に占めるウ

イスキーの酒税額で比較するとウイスキーの酒

類における存在の大きさは明確である。(出典 国税庁「活動報告 ・発表 ・統計J.「洋酒品目

別移出数量調査票J.『国税庁年報統計書jを基に筆

者が作成)酒税総額とウイスキー酒税額の推移

(1949年~2009年度)

図表3

1950年代から 1960年代の

ウイスキー産業発展の経緯

4.

日本における戦後から今日までのウイスキー

産業発展の歴史的経緯の中で 「ウイスキーを飲

む文化の浸透 ・拡大に伴う, 単一(少種ブラン

ド)製品の大量消費およびそのための生産体制

の整備期」と位置づけた1950年代から1960年代

末までの20年聞は,課税移出量,額共に大きく

増加する産業成長期で、ある。1970年度の課税移

出量は1950年度の18倍, 課税移出額(雑酒比較)

は1951年度の12倍以上の規模に増加する。

しかしながら,この20年聞をウイスキーの種

類別かつ時系列的に詳しく見ていくと,以下の

ー一一 酒類全体

(額 百万円)

曲目白ー ウイスキー

(額百万円)

2500000

随時的OON

M四叶田町田F

倒叶

52

州四時

gg

M聞社

kg

M

四社Dhg

随時gmF

刷日一件曲目白F

州四時田空白F

nu

2000000

1500000

1000000

500000

135

同上書を基に筆者が作成)

以下の図表4からわかるようにウイスキーの

課税移出量は1950年中頃から伸び始め, 1960年

半ばから1970年にかけて急激に増加する。その

後も高率での増加を続け. 1980年中灘にピーク

(出典

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種類別ウイスキー移出量の推移(1951-1970)(単位KL)

一一特級

ーー 1級

ーーー 2級

ーー・ウイスキー計

140000

60000 '

40000

100000

向上蓄を基に筆者が作成)(出典

特級ウイスキーが顕著な伸びを示す一方,

2級ウイスキーの伸びが止まる時期

図表 6:ウイスキ一種類別課税移出量の増減率

(1951-1970年度)

課税移出量増減率の推移

/へ\八~100%~炉会話持参φ~ベヤ::

制叫gh由

F

制四社町田空

随時国由白戸

川間特色白F

M四時国申告

刷出叫判的申告

世崎忍

2

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gg

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N曲目F

H

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制聞社田町田F

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川四叫明広告

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川岡弘明白師団F

H聞叫耳目白F

州聞社町田町F

H

問時

gmF

州問叶呂田F

ウイスキー計

no

つdv,4

1950年一1954年

1950年の朝鮮動乱を境に日本の経済は戦後の

混乱期から脱したと言われる。1945年8月の終

戦後も社会的な混乱はしばらく収束せず,その

ための統制的な政策が続いていた。産業活動も

向上書を基に筆者が作成)

--特級 - 1級 ー-2級

4-1

(出典

グラフの通りその増加は一定ではないことが分

かる。

そこでこの20年間の移出量の推移を増加率の

変化(図表 6)に着目することにより,以下の

5つの時期に分け,社会的・文化的背景,事業

者の取り組み, 国の政策,の観点から詳しく分

析していくこととする。

1950年一1954年

2級ウイスキーの伸びがウイスキー全体の

伸びと同傾向を示す時期

1955年一1960年

2級ウイスキーが噌加の主体であるが,特

級 ・1級ウイスキーが増加を開始する時期

3. 1961年一1964年

特級.1級ウイスキーは増加するが,ウイ

スキー全体の増加率は伸び悩む時期

4 1965年一1967年

すべてのウイスキーが増加する。とりわけ

1級ウイスキーの伸びが著しい時期

1968年一1970年

2

5

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日本におけるウイスキー産業発展の経緯

大きな制約を受けていた。1946年3月の物価統

制令, 8月発足の物価庁による公定価格管理に

続き, 1948年3月には酒類配給公団が発足し,

酒類事業者は戦時中から継続する統制行政下で

の活動を余儀なくされる。しかし,朝鮮動乱に

よる経済活動の活発化は多くの産業に生産体制

を回復させ,それまでの制約的な枠組みから脱

する原動力を日本経済に与える。1949年頃から

序々に解除されつつあった規制 ・制約は,朝鮮

動乱を契機に大きく緩和・縮小が進み,日本経

済は市場競争原理のもとでの自由な経済活動を

復活させていく 。産業界は終戦から 5年の歳月

を経てようやく 自由な活動を開始できる状況と

なる。酒類産業も1949年7月酒類配給公団の解

散, 1950年4月 「雑酒」の公定価格廃止,1952

年6月麦類統制撤廃と制約が縮小されるにつ

れ,生産 ・販売面における自由度を高め.新た

な事業運営を展開できる環境を迎える。

1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発

効して主権が回復すると朝鮮特需の効果も手

伝って,産業界は生産面において急速に立ち

直っていく。国民の生活水準もようやく人間並

みのものに回復してくる。終戦直後の粕取り (焼

酎),パクダンといった粗悪な酒類が横行した

状況は,1946年末からのヤミ酒価格の急騰を最

後に終わり,その後は身元の明確な (税金を払

う事業者の製造する)酒類に消費者の志向が向

い始める。1947年以降まず清酒が次いでビール

の課税移出量が急速に増加する。1949年12月に

原料の甘藷が統制からはずれた焼酎も当初は同

様な伸びを示すものの,急激な増産による市場

の大乱戦 (値崩れ ・値引き)から半年後には自

主規制を余儀なくされ,更に 「酎甲類の法的出

荷規制」が1952年6月より開始されたことを契

機に移出量を減少させていく 。合成清酒は終戦

直後に移出量を急激に増加させたが,1951年を

ピークにその後は清酒の移出量が増加するにつ

れ,減少していく 。焼酎と合成清酒に代り P 着

実に増えていくのがウイスキー類である。

137

図表7:酒類の課税移出数量の推移

(1948年ー 1965年)(単位kl)

2500

2000

1500

1000

500

。引や母子 φιφφφφφφ喰喰 .~ :車中中令中中

,ct"'~°'"'"° ~°'"'')) ,o,<J''~°'"'"' ,0;"'</j ,0;"'"° ,0;"''1) ,o,cJ'

(出t111 向上書を基に筆者が作成)

一一清酒

一一合成清酒

一一焼酎

一ー田ビーjレ

“ーーウイスキー類

1946年4月から道明寺工場で 『トリスウイス

キー』( 3級)の復活製造販売を早々に開始して

いた寿屋は。前年の空襲で被災した大阪工場で

の蒸留作業の再開や泉大津工場の開設を着 と々

進め, 1950年3月には トリスの増産体制に入る。

寿屋はこれより先,酒類が自由販売(1949年

7月)となった3ヶ月後には早くも大々的な宣

伝を打ち, 『トリス』の販売強化を開始する。「安

くてうまい」をキャッチフレーズとした商品広

告は,まだきちんと品質管理された酒類ばかり

とは言えない時代において,広告が創出する

メーカーへの信頼感を消費者に生み, 売り上げ、

を伸ばす。加えてアメリカ文化に対する憧れは,

洋酒に対する消費者の関心を高め. 3級を中心

とするウイスキー需要は次第に強まっていく。

1950年4月に雑酒(洋酒)の価格統制が撤廃

されると寿屋に続き,大日本果汁 (現ニッカウ

ヰスキー(株)),大黒葡萄酒(現メルシャン(株)),

東京醸造各社も生産体制を整え.次々と 3級ウ

イスキー(1953年酒税法改正以降2級)を発売

する。更に1952年6月に麦類の統制が撤廃され,

原料入手の制約がなくなると, 12月に大黒葡萄

酒は塩尻工場でモルトウイスキーの生産を開始

する。8月に大日本果汁から社名変更したニッ

カウヰスキー側、)(以後ニッカ)は11月に瓶詰め

工場を麻布に完成させ,ようやく量産体制を整

えるo こうした大手の事業者だけでなく,中小

Page 7: 日本におけるウイスキー産業発展の経緯human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/... · ウイスキー製造者は世界中に数多く存在する が,それらのごく一部しか産業レベルとしては

3級ウイスキー生産への着手が遅れたニッカ

は,その後も経営者の強い主張から原油率の上

限5%程和にこだわり,商品価格を高く設定し

たため,売り上げが伸びず,1954年には倒産寸

前の状況に追い込まれる。その結果,アサヒビー

ルと住友銀行の経営参画(株式の51%の取得)

を余儀なくされる。また,モルトウイスキーを

主な商品と していた東京醸造は酒税の支払いが

出来ず,国税局による差し押さえを受け,事業

を継続するととが出来なくなる。品質より廉価

であるウイスキーが求められ,そうした商品を

作る事業者だけが生き残っていく。こうした事

業者聞の競争が激化する中で,数量的な伸びを

示したウイスキーは日本社会に浸透し,洋酒の

中で果実酒と共に中心的な存在を占めるように

なる。

1950年代初めからの洋酒ブームのなかで. 当

初は果実酒が,その後はウイスキー類が量的な

拡大の先導役者E果たしていることは図表9に示

されている。1953年の酒税法改正により,ウイ

スキーは「雑酒jに区分され,税率が引き下げ

られる。

1948年以降1970年までの20年間の酒類の課税

移出量と額の変化をみると(図表10).一貫して

増加傾向にある。しかしこの期間のウイスキー

課税移出額の酒類課税移出総額に占める割合は

既に図表3で確認した通り,まだ大きくない。

の焼酎 ・清酒製造者も 3級ウイスキー市場に進

出することでウイスキー市場の競争は激化する。

この時期は価格の安い3級ウイスキーがウイス

キー産業の主体であり,ウイスキー市場をけん

引する。当時, 3級ウイスキーの価格は, l級

ウイスキーの 1/3ほどであり,まだ所得が上

がらない国民の消費は価格の安い 3級ウイス

キーに集中する。5)3級ウイスキーが人気を博

した背景には1950年ごろから疏行を始めたスタ

ンドパーや1952年に誕生した 『トリスパーjの

存在もある。会社の帰りに軽く一杯飲む。おつ

まみは塩豆。シングル I杯30円。カウンターだ

けで,女性はいなし、。勘定は小遣いの範囲内。

乙の新しい飲み方は,経済の勃興期に入り,努力

が報われると信じて働くサラリーマンの活力源

として,会社帰りのささやかな憩いのひと時と

して大いに流行る。ここで飲まれたのは3級ウ

イスキーのハイボールである。乙うした世相が

1953年頃からの洋酒ブームそれに引き続く第

一次ウイスキーブームを引き起こす。この結果,

原酒率 5%未満以下(当時の酒税法が許容した

原酒を全く含まないイミテーションウイスキー

を含む)の3級ウイスキーが1954年にはウイス

キー市場の90%を占める状況となる。(図表8)

図表8:ウイスキーの種類別課税移出数量の推移

(1948年一1960年)(単位kl)

図表 9:洋酒の課税移出数量の推移

(1948年一1960年)(単位kl)

一一ウイスキー類

一一果実酒

ーースピリ γツ

ーーリキュール

ーー洋酒

随時DUE

州問叶

2271ノ

刷四川付白山田こ威

川四川宮山田二市

川聞社由民ニ付

制叶山田町二

随時守的合

一に

倒川吉田F

一基

州立NgFご印

刷間川町長ニ

主よ

制聞社白山田F

一一肌

制時寺町二

0

0

0十

0

0

0

0

0

0

0

一一特級

ーー1級

一一2級

ーーウイスキー計

幽叫明口回目F

H

問崎町出合

同四時田山田F

M

四叫明白空

随時忠告

制問叶包含

「制叶呂田

F

制叶門的自F

H間叶N回目F

阿国叶呂田F

随時口的mF

阿国持団寸mF

50000

45000

40000

35000

30000

25000

20000

15000

10000

5000 。

138

向上書を基に筆者が作成)

5) 1952年のウイスキーの小売価格は l級 (角胤720mil1250円.2級 (ホワイト720ml)780円 3級 (トリス640ml)380円。

(出典

Page 8: 日本におけるウイスキー産業発展の経緯human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/... · ウイスキー製造者は世界中に数多く存在する が,それらのごく一部しか産業レベルとしては

パーを作り,こうしたパーは最盛期を迎える。

他方, 三種の神器と言われたテレビ,冷蔵庫,

洗濯機が急速に普及に連れて, 家庭でも冷やし

たビールや冷蔵庫の氷を使ったウイスキーオン

ザロックが楽しめるようになり,酒を飲む機会

は仕事以外の場でも増えてくる。いずれの場面

でも飲まれたのは主に2級ウイスキー (1953年

4月の改正酒税法施行により,ウイスキーの種

別は l級から3級に替え,特級 ・l級 ・2級の

3区分となる)である。(図表 8)

当時の 2級(酒税法改正前の 3級)ウイスキー

は中性スピリッツに最大 5%の原酒 (モルトウ

イスキー)を混和して作られており, 2級ウイ

スキーの生産能力はモルト原酒と共に中性スピ

リッツをいかに製造又は調達できるかに拠って

いた。中性スピリッツの原料は高価で肢術的に

も難しい穀類ではなく ,廉価で入手し易い芋や

海外の廃糖蜜を利用することが多かった。中性

スピリッツの製造は大手のウイスキー事業者と

中小のウイスキー事業者では生産効率に大きな

違いがあり, 加えて良質なモルト原酒の確保も

ままならないことから, 中小事業者は思うよう

には事業規模を拡大する事ができずにいた。一

方,大手の事業者は1955年以降次々に生産体制

を整えていく 。寿屋は事業を中止した東京醸造

の藤沢工場を買収し,ブレンド -瓶詰め能力を

向上させるとともに大阪工場と臼杵工場にスー

パーアロスパス蒸留器を設置し生産効率を高

める。1958年には山崎蒸留所の蒸留器増設.製

麦 ・製樽機能の付加により生産能力を高める。

ニッカは1959年の西宮に引き続き, 翌1960年

に弘前に瓶詰工場を完成させ,北海道工場の拡

張を行う。大黒葡萄酒は軽井沢に新設した留所

で1956年からモルトウイスキーの蒸留を開始す

る。大手の事業者はとう した蒸留器の増設 ・改

良連続蒸留器の新設,瓶詰施設の拡大 ・新設

を進め,品質 ・生産性が一段と向上させること

で製品のレベルアップとコストダウンを図って

いた。こうした大手事業者の取り組みが進むー

日本におけるウイスキー産業発展の経緯

図表10:酒類全体の移出量と課税額の推移

(1948年一1970年)

(出典

1955年一1960年

1955年は 「もはや戦後ではないjと経済白書

が述べたように,国民の暮らし向きが大きく向

上していく時期の始めである。1955年からの神

武景気により国民所得は一段と上昇しそれに

連れ個人消費も増加していく 。更に1958年か

らの岩戸景気により大衆消費は益々活発化す

る。人々の暮ら しが豊かになるに従って,酒類

の消費量も同様に伸びていく。(図表11)

6000000

1日日0000

州問叫明口h由F

州問持田曲目F

随時忠告

随時

gmF

州四時

32

阿世叶DDE

M問叫有田町田-

州四時田町田F

H間

田F

M田

N山田F

制持口山田F

H

世叶田守合

4-2

向上蓄を基に筆者が作成)

5000000

4000000

3000000

2000000

図表11 国民所得・個人消費額と

ウイスキー移出量・額の推移 (1951年一1960年)

一一ウイスキ (畳kl)

ー一国民所得 (億円)

一一個人消費 (億円)

ー目ーウイスキー(額・百万円)

40000

20000

ooaoo

BOOCO

60000

40000

20000

。制制個性耳組制組凶凶随時社 幹』 叶社 社叶』サ 』叶叶;;; ~GJ:i;:g~:o~:ll5l σ) m mσ3σ3σ3σ3σ'"' σ、

oJ 9υ

’J晶

同上書を基に筆者が作成)

東京,大阪を中心に トリスパーが続々と誕生

する中で1956年に寿屋は 『洋酒チェーンパー』

を組織する。ニッカやオーシャンもチェーン

山間

心U叫

Page 9: 日本におけるウイスキー産業発展の経緯human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/... · ウイスキー製造者は世界中に数多く存在する が,それらのごく一部しか産業レベルとしては

方,中小事業者は事業体制を抜本的に整えるこ

とが出来ず両者の差は広がっていく。1960年

以前は100社を超えていた中小のウイスキー事

業者はこうした状況の中でs 次第にウイスキー

事業から撤退し,業界の寡占化6)が進んでいく。

4-3 1961年一1964年

1960年10月に公定価格が廃止され,基準販売

価格制度が始まる。また,洋酒大手4社は市場

調整を行い,出荷規制に踏み切る。そのため,

この時期は20年間のなかで,上昇率が最も低い

時期となる。国民所得や個人消費が引き続き上

昇する中,ウイスキー全体では課税移出量 ・額

ともに大きな伸びはみられない。(図表12)

図表12 国民所得・個人消費額とウイスキー移出量・額の推移 (1961年一1965年)

300000

250000

200000 一一国民所得(億円)

150000 -一個人消費(億円)

100000 由一ウイスキ (量kl)

50000

ーーウイスキー(額百万円)

///// (出品\! 向上蓄を基に筆者が作成)

これは毎年度10%から30%の高い率で伸びて

いた 2級ウイスキーが,この4年間で 9%程度

の伸びにとどまったためでる。しかしこの期

間にあっても特級は127%,I級は155%の高い

伸びを示している。これは所得が増えた消費者

が購入するウイスキーのレベルを上げ、たことに

他ならず,その後の高価格ウイスキーへ需要が

シフ トする兆しが.この頃から現れているもの

と考えられる。

6)サン トリーとニッカの 2社が種類別ウイスキーに

占めるシェアー(1963年度)は特級92%.l級97%.2級85%である。

-140

1961年に貿易自由化が事業者聞に意識される

始めると,各社は1962年の酒税法改定により酒

酒率が高められた 2級ウイスキーのレベルアッ

プとともに特級ウイスキーの品質確保に力を入

れる。最低3年と決められていた特級ウイス

キーの貯蔵年数は1953年に撤廃され, 1962年の

酒税法改正で特級ウイスキーの原酒率は30%か

ら20%に引き下げられたものの, 1960年前後か

らの特級ウイスキーの需要の伸びに応じた,モ

ルト原油の確保は特級市場で大きなシェアーを

保持している寿屋の大きな課題となっていた。

1961年時点で10年以上熟成した国産モル ト原酒

はその当時の圏内モルト原酒全体量の1%に

も満たないと推定されることから,輸入ウイス

キーに対抗できる製品を生産するためには. 熟

成モルト原酒の確保が何よりも必要とされた。

この原酒確保の対応により,日本のウイスキー

に1970年以降, 一つのタイプが形成されること

になるが.ここでは触れない。

一方,ニッカは1962年,イギリスのブレア・

キャンベル ・マクリーン社に発注したカフェス

チルを西宮工場に設置する。このカフェスチル

使って.それまで日本で、は作っていなかったグ

レーンウイスキーの製造を1964年から開始し

それにモルトウイスキーを加えたウイスキーの

商品化を目指すことに踏み切る。日本ではグ

レーンウイスキーを使わない独自のウイスキー

が(モルトウイスキー誕生後も)ウイスキーと

して受け入れられ,定着していた。そうした中

で,穀類を主原料とするスコッチウイスキーと

同じタイプのウイスキーの生産を開始したこと

は日本のウイスキー造りが,大きな転換期を迎

えたこと意味する。

4 -4 1965年一1967年

との3年聞は全ての種別でウイスキーの移出

量が大幅に増加する。所得倍増計画が当初の計

画以上の速度で進み, 1965年からの 「いざなぎ

景気jによる好況期が継続するなかで,ウイス

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日本におけるウイスキー産業発展の経緯

キーは1955年からの 6年間でI曽加した課税移出

数量の1.5倍以上の数量を1965年からの 3年間

で移出する,急激な勢いで伸びていく。1950年

代中盤以降から継続的な増加を続けてきた移出

量に加え,1960年代の後半からは,課税額が移

出量と同様な増加傾向を示すようになっている

ことは,図表13に明確に示されている。1967年

にはサン トリーの酒税額納付が200億、円を超す

ほどにウイスキーの消費は伸びる。

図表13・ウイスキーの移出量と課税額の推移

(1962年一1970年)

140000

120COO

100000

80000

60000

40000

20000

。φ φ 母子 や φ 母子 φ φ φ 中中’争中中令中中中

'°'I) "会今少や必や"'°' やややややややふやや

(出典 同上蓄を基に筆者が作成)

-ー・ウイスキー

(量)

ーー ウイスキー(額・百万円)

乙の要因は国民所得の増加に伴い.国民の購

買意欲がより高い価格の商品に向けられたこと

と,それに応じた事業者の事業戦II硲の展開にあ

る。

経済状況が好転し, 生活が安定してくると日

本人の意識に「消費は美徳Jという新しい価値

観が生まれ,「価格の高いものは品質が良いJ

との観念の下,より高級なもの,高品質なもの

へと人々の関心は高まっていく 。

図表14をみると国民所得と個人消費の伸びと

ともにウイスキーの課税移出量は順調に増加し

ているものの, 1966年前後からその伸び率は穏

やかになっている。一方.1960年前後から急激

に国民所得と個人消費が増加する中で,ウイス

キ一課税移出額は1965年前後から,はっきりと

した増加傾向を示していることがわかる。この

ことは相対的に価格の高いウイスキーが飲まれ

るようになっていることを表している。

図表14・国民所得・個人消費額と

ウイスキー移出量 ・額の推移(1945年一1969年)

700000

600000

500COO

400COO

300日00

200000

100000

。 十子折守押守干T苧 門 汁Y寸TT"門寸""

(出典

回 世星 組幽幽樹幽生耳回世器時時時社社社特

F 寸ト口町 曲 目

0¥ 0¥ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

向上書を基に筆者が作成)

一一ー国民所得 (億円)

ー一ー個人消賢 (億円)

ーー・ウイスキー (ak1J

ー一回ウイスキー

(額・百万円)

1964年に基準販売価格制度が廃止され,さま

ざまな販売戦略が取り得る環境が整うと当時の

二大事業者であるサン トリーとニッカは家庭用

ウイスキーの販売競争を繰り広げる。所謂「500

円戦争J,「1000円戦争」 である。1964年の 『/\

イニッカ』に続いて,ニッカはグレーンウイス

キーとモル トウイスキーをブレンドした 『ブ

ラックニッカ』をモルトウイスキー混和率の

20%未満ぎりぎりまで落とし, 1965年に l級(そ

れまで特級)として発売する。これまでの日本

のウイスキーが実現できなかったソフ トな味わ

いが好評を博し,大いに売り上げを伸ばす。カ

フェグレーンを使用したニッカの l級ウイス

キーは,l級ウイスキー全体の移出量に大きな

変化を起こす。すなわち,1966年から1969年ま

で3年聞にわたり, 1級ウイスキーは,この聞

に毎年2割以上の増加を続ける特級ウイスキー

の移出量を上回るほどの移出量を記録するので

ある。サントリーは,これに対抗して新製品を

市場に送り込む。サン トリーとニッカは 1. 2

級ウイスキー市場で激しいシェアー争いを展開

し,それが更なる需要拡大と製品品質向上につ

ながっていく 。

- 141ー

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生産面においては,サン トリーは1966年に臼

杵工場に新たな蒸留器を設置するとともに山崎

工場貯蔵庫の増設や千歳工場を竣工させる。ま

た,1967年からスコッ トランドに醸造 ・蒸留の

研究のため社員の派遣を開始する。ニッカは

1965年に鳥栖に, 1967年に柏に瓶詰工場を完成

させるとともに,北海道工場(余市)に続く蒸

留所を仙台(宮城峡)に建設に着手する。三楽

オーシャンは1966年に関西工場を,1969年には

川崎工場にカフェ式連続スチルを導入する。

とうした事業者による品質向上の取り組みと

販売競争は,ウイスキーの販売数量を大きく伸

ばすとともにより高価格の製品の企画と販売

の拡大につながった。

1967年から1968年にかけてのウイスキー移出

量全体の伸びは大きくはなかったが,それまで

順調に増えていた 2級が初めて前年比で減少す

る一方,特級と l級は大幅な伸びを見せる。移

出量全体に占める割合では 2級が多い状況に大

きな変化はないものの,やがて特級が2級を数

量で逆転する大きな涜れの発端は,ここから始

まっていると考えられる。7)

4 -5 1968年一1970年

1968年に酒税法改定が実施される。全ての種

別で原酒率が高められるとともに, 2級ウイス

キーの最低原酒率は 7%以上と定められ原酒

を含まないものは,わが国ではじめてウイス

キーとして認められなくなった。との改定によ

り2級ウイスキーはこれ以降,大きな伸びを示

すことはなくなる。

他方, 1965年以降にニッカのグレーンウイス

キーをブレン ドした 1級ウイスキー開発から始

まった品質向上は,その後の特級ウイスキーの

品質にも影響を与え, 1968年以降の特級ウイス

キー新商品の開発と販売拡大につながる。1970

7) 1974年度に特級 (89130kl)は2級 (803llkl)を課

税移出岳で上回る。

142

年には特級ウイスキーの伸びが顕著となり,前

年比144%の著しい伸びを記録する。

この頃からサン トリーは 『二本箸作戦』を展

開する。これは,更なる販路の拡大を狙って,

和食とともに食中酒として楽しむウイスキーを

提唱するとともに,欧米に比べアルコール耐性

が弱い日本人に着目して,飲みやすい水割ウイ

スキーを広めようとするものである。サント

リーのこうした需要の創出・底上げは,単なる

ウイスキーを飲む機会の創造に留まらず,ス

コッチに代表される輸入ウイスキーにはない,

日本人のl者好に合った独自のウイスキーを日本

に浸透・定着させ,1970年代以降の貿易自由化

後もジ、ャパニーズ、ウイスキーに対する確固たる

支持層の形成に寄与する。

1968年の酒税法改定ではこれまでの従量税に

加え,従価税が導入される。これにより輸入ウ

イスキーには高い関税がかけられる。酒税法改

定は同じ特級レベルの国産ウイスキーと輸入ウ

イスキーの聞に大きな価格差が生じさせること

で,輸入ウイスキーの参入を抑制する機能を果

たす。この結果,貿易自由化後も圏内市場が輸

入既製品により乱される影響は最ノト限に抑えら

れ,ほとんどの圏内需要は引き続き,国内事業

者が享受できる体制が継続される。このことは

消費者が輸入ウイスキーを廉価に購買する機会

を一時的に制限することになったものの,日本

のウイスキー産業の育成と事業の基盤強化には

大いに有効な政策で、あった。

こうした事業者の取り組みと政策により,特

級ウイスキーを主体とする国産ウイスキーの課

税移出量および額は1970年以降,ともに高率な

伸びを示しながら,日本におけるウイスキー生

産はその黄金期に向けて進んでいく 。

5.まとめ

1950年代から1960年代のウイスキー産業発展

の経緯と事実関係に対するこれまでの考察を通

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臼本におけるウイスキー産業発展の経緯

手のサントリーの製品品質にも影響を与え,

両社の技術面 ・営業面での競合はジ、ヤパニー

ズウイスキーの品質向上を加速させた。

④1953年, 1958年, 1968年の酒税法改定では,

ウイスキーの種類別に細かい規制等が施さ

れ,国税収入を確保しながら,国産ウイスキー

の品質確保と日本のウイスキー産業育成が図

られた。また,従価税の導入は貿易自由化に

よる影響から圏内ウイスキー産業を保護する

じて以下を確認した。

①戦後,神武・岩戸 ・いざなぎの3回の好景期

と国民所得倍増計画等の政策実施により,国

民所得は増加し,個人消費が拡大する中で,

蒸留酒としては焼酎に代わって,ウイスキー

が飲まれるようになる。更に生活水準の向上

に伴い,ウイスキーの等級はより高級なもの

に移行していった。

②こうした過程を通じて,サントリーは消費者

が求めるものを的確にとらえ,日本人の晴好

に合った,売れるウイスキーっくりに徹する。

また積極的な販売戦略の展開により,大き

な収益を上げるこ とに成功する。この成功に

より我が固においてウイスキーを長期にわ

たって継続的かつ安定的に生産可能な事業基

盤が形成された。

③グレーン・ウイスキーの生産にニッカが踏み

切り,乙れを混和したウイスキーを製品化し

たことは。それまで中性スピリッツをブレン

ドしたウイスキーしか存在しなかった日本の

ウイスキー界に大きな影響を与え,その後ほ

とんと、すべての国産ウイスキーがグレーンと

モルトだけで製造されている状況を生み出す

契機となった。また,ニッカのスコッチタイ

プウイスキー製造への強いこだわりは競合相

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スキー製品を売ることに留まらず,社会へ働

きかけ,新たな世相や涜行を生み出した。こ

うした活動によりウイスキーに対するほのか

な憧れ・良いイメージを,巧みに増幅し,広

めることで,ウイスキーを飲む習慣を日本に

定着させた。

これらのことから,日本のウイスキー産業は

この20年聞に当時の経済状況を背景にウイス

キーを継続的に生産する基本的な事業基盤を急

速に整えるとともに,世界標準の品質を持つ製

品を生み出すための取り組みを開始すること

で\世界の主要なウイスキーとなるための基礎

的な段階を終え,次の段階に進む準備を完了し

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イスキーの経営戦略的意味」

『白鴎女子短大論集J(白鴎大学)第18(1)号, pp.57-

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