「桐壷」巻の準拠・典拠についての諸注 ... ·...

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「 桐壷」巻の 1 源氏物語の準拠・ 典拠について 作品との対話や対決を通して独自の物語世界を構築した はじめに のだといってよい。準拠や典拠の確認は源氏物語の 豊穣 1 7 な世界を深く掘り起こし、その物語の方法の特色を理解 源氏物語が先行のさまざまな作品や典籍の引用により する上で欠かせない。そう 織りなされた作品であることは改めて 言うまで もないが、 積み重ねとなって今日に その重要な} 環である準拠や典拠に関わる表現につ いて 釈史と研究史の蓄積を整理し、源 は古注釈の精細に指摘してきたところで あっ た。そうし 的研究において何がどこまで明らかに た準拠や典拠を持つ表現は源氏物語の大きな特色である うな研究の展開が見られるか、その目安のた とともに、それらは同時に物語の構造に関わる点でも重 示すことを目的とする。 要な意味を持っていた。史実や伝承に準拠し、漢籍や仏 とはいえ古注釈書の指摘は多岐にわたり、準拠や典拠 典に典拠を持った物語は、準拠や典拠を単なる断章取義 として 扱うべきか否か判断に 迷うところもいくつ かある の文飾とする域を越えて、深く歴史を問い、典拠とした が、その点は厳密ではない。また準拠、典拠の認定につ

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Page 1: 「桐壷」巻の準拠・典拠についての諸注 ... · 「桐壷」巻の準拠・典拠についての諸注集成と注解. 源氏1物語の準拠・典拠についての研究(一)

「桐壷」巻

の準拠

・典拠

についての諸注集成と注解

1

源氏物語

の準拠

・典拠

ついての研究

(一)一

作品との対話や対決を通して独自の物語世界を構築した

のだといってよい。準拠や典拠の確認は源氏物語

の豊穣

17

な世界を深く掘り起こし、その物語の方法の特色を理解

源氏物語が先行のさまざまな作品や典籍

の引用により

する上

で欠かせな

い。

そうした研究が古注釈以来膨大な

織りなされた作品であることは改めて言うまでもないが、

積み重ねとな

って今日に至

っている。本稿はそうした注

その重要な

}環である準拠や典拠に関わる表現

について

釈史と研究史

の蓄積を整理し、源氏物語

の注釈と作品論

は古注釈の精細に指摘してきたと

ころであ

った。そうし

的研究

において何がどこまで明らかにな

ったか、どのよ

た準拠や典拠を持

つ表現は源氏物語の大きな特色

である

うな研究

の展開が見られるか、その目安

のための指標を

とともに、それらは同時に物語の構造に関わる点でも重

示す

ことを目的とする。

要な意味を持

っていた。史実や伝承に準拠し、漢籍や仏

とはいえ古注釈書

の指摘は多岐にわたり、準拠や典拠

典に典拠を持

った物語は、準拠や典拠を単なる断章取義

とし

て扱うべきか否か判断

に迷うところもいく

つかある

の文飾とする域を越えて、深く歴史を問い、典拠とした

が、その点は厳密

ではない。また準拠、

典拠

の認定につ

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いては、作者がそれと意識して引用したものとして扱う

所収

角川書店

立場もあるが、ここでは作者

の意識

のいかんはそれとし

【花】……伊井春樹編

『花鳥余情』源氏物語古注集

て、古注釈書の指摘した事例は原則としてそのまま網羅

桜楓社

した。但し本稿

で調査した古注釈書は代表的なものに限

【細】……伊井春樹編

『細流抄』源氏物語古注集成

られ

ている。その範囲で準拠

・典拠の主な事項はほぼ網

、」桜楓社

羅されていると思われるのであり、その整理を当面の課

【孟】……野村精

↓編

『孟津抄』源氏物語古注集成

題と

した。本文の解釈から作品論にわたる主要な問題、

桜楓社

ならびに研究史にわた

って若干の注解や解説を付したが、

【萬】……『高水

一露』源氏物語古注集成

桜楓社

これは今後の補正を期したい。

.

【眠】…ゲー中野幸

一編

『眠江入楚』

源氏物語古註釈

義刊

武蔵野書院

.

源氏物語本文

の見出し語は新編日本古典文学全集

18

本稿では

「桐壺」巻の準拠と典拠について、古注

本により通し番号を付して、頁数と行数を

(

)に

釈書の指摘の中から代表的な指摘を列挙して解釈の

記した。論文等に触れる場合は、そのつど明記した。

異同が分かるように整理した。また巻末に作品論と

注釈の引用は必ずしも全文を引用することなく、

研究史にわたる若干の項目について私見を注解、解

本文を要約した場合がある。▼は要約文であること

説として略述した。古注釈書は次の諸書を用い、書

を示す。

名は

【紫】のように略号で示した。略号は以下

の通

一項目についての諸注の引用は初出の注をはじ

りである。

あに掲げることを原則としたが、その通りにな

って

【紫】……『紫明抄』玉上琢彌編

『紫明抄河海抄』

いない場合もある。先行の注に対す

る加筆注はその

所収

角川書店

.

.

.

部分のみを掲げた。

【河】……『河海抄』玉上琢彌編

『紫明抄河海抄』

前記注釈書の本文の引用に際し

て、句読点や

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を付すなどしている。

どう扱うのか、また源光が桓武の曾孫であり、左遷

のこともない点に

ついて批判を受ける。光源氏の言

1

いつれの御崎

にか

(一七

.一)

葉に、「文王の子武王の弟」とある

ことから、源高

【紫】

[物語の時代準拠]

明が醍醐帝の御子であり朱雀院の弟

である点、また

「例にひき申

へきみかといつれそや」と問答形式

左遷されている点が、光源氏

(桐壺

帝の御子であり

で、物語に設定されている時代の準拠

について意見

朱雀院の弟)と似ていること、桐壺巻に

「宇多のみ

が交わされる。醍醐帝の御代

(延喜)を例とする意

かどの御いましめ」

とあること、

さら

に絵合巻

見に対し、醍醐の御子である朱雀院に皇子がおらず、

「延喜の御手つから事

の心かかせ給

へるに」

とある

村上の帝に皇統が移

っていることを理由にその意見

こと、そして明石入道が

「なにがし延喜のみかどの

を否定し、源氏が嵯峨天皇の御子にも多いことを指

てよりひき

った

へ侍事三代になんなりぬる」と話

摘した上で、桓武天皇の御代を例とする意見が返さ

す箇所が明石巻にあることから、結論は、延喜の聖

19

れる。

代を例としていることに疑いなしとする。

桓武天.晶

仁明天皇縣

天.王

【卵叢

はむとておほあきた亀

河原院

醍醐天.羅

皇-審

酬塾

.

の例

。・

桐士聖天.玉垂

.上」

春溜

.

【鑓

属籔

「いつれの御時にかおほみやす

しかし、桓武

の御代を例とする場合、平城天皇を

所と聞えける御

つほね」

と.かける

にもと

つけり。

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「い

つれの御時」とさす事は、肝要は醍醐

の御時を

へるかことしと云々。醍醐朱雀村上三代に准ずる欺。

さしていふ也。高明公左遷の事を以て、須磨の事を

きり

つほの御門は延喜、朱雀は天慶、冷泉は天暦、

は書也。総して此物語のならひ人ひとりの事をさし

光源氏は西宮左大臣、如此相当して、それとさして

つあて書とはなけれとも、皆故事来歴なき事をはか

いはさるやうに著たり。「いつれの御時

にか」

とい

かさる也。おも

ては作物語にて、荘子か寓言により

ふにこもりたる詞、

つづまやかにし

てむねひろしと

又しるす所

の虚誕なき事は司馬遷が史記の筆法

によ

也。

れり。好色

の人をいましめんかため、おほくは好色

【萬】

(眠)

漢風の事を載也。盛者必衰のことはり、則出離解脱

桐壺の御門の御代の事なれとも、昔の事のやうに

の縁も、此物語のほかにはある

へからさる也α

いへるは、紫式部か在世の比、女房

にも才学

の人お

凡日本の国史は三代実録、光孝天皇仁和三年八月

ほけれは、自然の越度をのかれんか為に、世上をは

まてしるして、其後国史見えさる欺。此物語は、醍

はかりてかくのことくかける也。

20

醐天皇よりしるす心、彼国史につかんの心とみえた

【眠】

弄此発端の詞甚深

にしてあまたの理を含め

り。彼孔子の春秋も哀公まてしるせり。.魯哀公は、

り。先作者をあらはさすして聞

つた

へたる事をかき

周敬王の時代にあたれり。其後左丘明月元王貞定王

たる物

にみせたり。其始末猶末々の巻にみえたり。

の時代まてしるして、孝王夷烈王以下の事をはしる

作者あらはれされは傍人の難をもお

はす。殊に其此

さす。然に、司馬温公か通鑑をしるす事は、夷烈王

女房

にも紫式部にあらそふほとの才有人おほしとそ。

廿三年よりしるせり。左伝につくへき心あるなり。・

いふ物は罪なくきく物はも

っていましむるにたれり

此物語、宇多御代をしるささるもよく相かな

へる

と云々。.

也。

箋伊勢集はその身のいやしき

ことをかくす。紫式

【孟】

此発端の詞妙也。「い

つれの御時にか」とい

部は時代をかくす。詞はおなしく

て其心各別也。是

ふに心あり。伊勢物語に

「むかし男ありけり」とい

作者の粉骨也。たと

へは風の詩

に漢皇

のことをもて

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唐をそしるかことし。

是日武帝起更衣、子夫侍尚衣、軒中得幸、上環坐、

2

女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に

(一七

罐甚、賜平場生金千斤、主因奏子夫奉送入宮、子

一)

.

夫上車

【紫】

(河)(眠)

[女御

・更衣の揺蕩等、和漢の

立后事後漢書

例]

周礼云、王者立后

女御事

鄭玄注礼記日、后之言後、言在夫之後也

雄略天皇七年求稚-媛為女御

・「

三夫人夫人坐論婦礼

後漢書云、以備内職焉、后正位官閲同躰、天王八

鄭玄注周礼云、夫人如三公、従容論礼

一女御序工」王之熟寝御調進御於王也、比八+

一之士、

九媛、掌教四徳

周礼日、女御叙於之熟寝、以歳時献功

九媛比九卿、周礼日、九媛掌婦学之法、以教九卿

更衣事

也、四徳謂婦徳婦容婦功也

21

仁明天皇御宇、承和三年、正五位上紀朝臣乙魚授

廿七代婦、主知喪祭賓客

従四位下、為更衣

.

帰服也、明其能服事於人也、比廿

七大夫、周礼、

漢書、孝章云、更衣者便殿也、閾中有寝便殿、寝

代婦掌祭礼賓客

喪紀之事、祭之

日陳

女宮之具

者陸上正殿、便殿寝側之別殿更衣也、註云、時於軒

内着之物、掌弔臨卿大夫之喪也

中侍、常権主衣裳

【河】↓

【紫】の

「立后事」「三夫人」

「九媛」

「廿

史記外戚世家云、衛皇后、字子夫、生微 、蓋其

七代婦」を略す。

家号日衛氏、出平場候邑、子夫為平場主調者、,武

延喜御時、后妃あまたの中に、更衣周子の御腹に

帝初即位数歳無子、平場主求諸良家子女十余人、

高明の御子、源氏姓を給たまひし也

醍醐天皇後

'飾置家、武帝祓覇上還、因過平場主、主見所侍美

官事

▼太政大臣藤原基経の娘、

「皇太后宮藤原

人、上弗説、既飲、謳者進、上望見独説衛子夫、

朝臣穏子」以下二十七人の女御

・更衣等を列挙。

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(以下略)

たとへは

つねの上らうの御かたなと

いふ位なるへし。

桐壺帝後宮

「薄雲女院」以下八人の女御

・更衣

更衣は給女の惣名なり。御門の御服めしかふるとき

等を列挙。(以下略)

っかひ給人なるにより更衣といふ也。

}条禅閤御

女御事

【紫】の注を引いた後に、「皇代記日、

説には、女御は后よりも

つきの人な

り。又更衣とは

桓武天皇女御従三位橘三井子従四位下人鹿女」を加

衣をかふと書り。御息所とおなしき位なり。女御よ

筆。

りは

つきの人也。衣をかふとかけるゆへは、御門后

更衣事

【紫】の漢書を引

いた後

に以下を加筆。

の御かた

へわたらせ給とき、ま

つ此更衣の局

へ成給

案之更衣は便殿也。主上御衣など着シかへ給所也。

て、

つねの御服をぬぎすてて、きよき御服をあす也。

故号更衣歎。又寝側

の別殿なる故に更衣ヲ御息所

又、あさか

へらせ給ふ時も此局にてめしか

へて、か

とも称する欺。休息

の儀也。水原抄には更衣のち

へり給となり。されは此局にてやすませ給によりて、

に御息所とみえたり。猶昇進儀欺云々。

只何も同

みやす所とは申也。更衣御息所の差

別は、更衣は女

22

事也。女御みやす所とかける古本もあり。

官の名也。御息所は局の名也。おなし事をいひか

史記日、是日武帝起更衣。子夫侍尚衣軒申得幸。

たる也。たたし女御も春宮をまうけ総てのちはみや

上還坐罐甚平陽主金千斤主因奏。子夫奉送入宮。

す所とも申也。

子夫上車。尚主也。於主衣車中得幸也

【眠】

漢書注目、時於軒中侍帝、権主衣装。

女御

【紫】を引いた後に以下を加筆。

案之車中にして后妃衣ヲ脱て庶女ノ服ヲ着シテ幸

私、大唐の女御といふは元士の位

てことのほかさ

する故

に号更衣歎。本朝更衣は四位の相当也。

かりたる事也。日本の女御は又事外賞翫ぞ。后

の次

上卿要抄云、更衣事尚侍宣下諸司聴着禁色云々。

にする也。いかなる親王摂家大臣

の女も、直に后

【萬】

河海には種々の義を云り。

但、

これを

りや

成給ふことはなし。先女御入内と

て参り給ふ也。さ

くす。先

一位より四位まてを女御には用よしいへり。

て、可燃人はやかて后にたつ也。是を中宮といふ。

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又其外女御にて有

へき品の人も皇子なと生れ総て春

とかける本もありと云々。又弘安源

氏論議

にみやす

宮なとにたち給

へは、

いかやうの人の女も后にた

所は御やすみ所也。更衣と云も天子の衣をぬきかふ

也。漢朝とは心かちかふそ。(1中略1)

る所なれはおなしく御休息所也。

国事を二にいひた

女御入内有勅別当如当代親王、上卿奉勅給弁、々仰

る也云々。仮名

にも

「みやすん所

」とかけり。よむ

史令書宣旨。天慶九年以左少弁在躬為女御藤一子別

時も

「みやすみ所」といふ心有

へし以上私註之。栄花

当。私日本

にはかくのことく別当なとをなされ

てこ

物語

計七、「みやす所更衣などにみな中将少将のむ

とのほか賞翫也。さて女御

の数おほくなる事は、文

すあ受領のもみなまいりけるを、

此ちかき代にはお

徳天皇よりと云々称名院説

ほろけの人はまいり給はぬ物

にならひたるにいとあ

更衣

【河】を略説した後に以下を加筆。

さましき也」云々。

清涼殿記日、更衣其員十二人以下、必不満真数、

延喜御代后宮

箋女御五人、更衣

十九人、中宮以

尚侍宣下諸司聴着禁色。私此心は其数十二人とあれ

下都合廿七人也。河に委

シ。私云此内為子内親王は

23

とも必その数ほとなけれともくるしからぬと也。女

光孝ノ皇女也。薄雲女院相似欺。

官も其役々の定たるは数がたらでは不叶。更衣はさ

桐壺帝后妃実名露顕之分

女御

三人承香殿四宮母

やうの官にてはなきと也。内侍

のかみの諸司に宣下

麗景殿花故里姉

一人は宮母

更衣二人桐壺-後涼殿

太后

して、更衣に禁色をゆるさるる也。是を内侍宣と云

弘徽殿

女院薄雲

也。

私此物語に書のする所七人也。かくのことく后

さて更衣御息所同事欺、各別欺といふに色

々の義

下あまたの宮女也。

前にいふか

ことく后

は天子と

あり。され共同事とみえたり。水原にははしめは更

位を同じくし、三夫人以下三公九卿以下に比してを

衣とかき

て後

に御息所とあり。猶昇進

の儀欺云々。

くは天地の間のことは、陰陽相対して和合せされは

不用之。又皇子誕生の後、御息所云々。称説或抄

ならぬ也。

これか女は位を内に正くし、男は位を外

ロハ何も同車也。「いつれの御時にか女御

みやす所」

に正しくする也。それを淫乱のかたに用るから、天

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も治

ぬ也

る時

は、

やす

いふ

「ま

てや

る道

る媒

る也

て、

の性

り。

3

り我

ひあ

へる

(一

4

つし

(一七

・七

)

・四

)

-

【河

(孟

)

(眠

)

【花

(孟

)

(萬

)

(眠

)

日、

生女

恐其

武。

一段

の中

に三

てり

日本紀第

一先代旧事本紀

「我

はと

り給

へる」

は、

の女

此四字ヲ、、、イチッヵリシマシニキト点セリ

の女

「おな

と」

は、

弱敵日冠順和名

つほ

の更

の女

の種

き心

云々。

へり

「そ

り下

の更

(な

と)

の事

心歎

のし

いふ

へし

わか

【眠

【河

を引

いた後

に加

筆。

24

て、

つぼ

の更

の品

たと

又令

軍防

即雛

未満

宿

は儒

の三

の道

にも

つけ

り。

は木

に其

はな

るす

へし

つれ

によ

へり

【孟

(眠

)

.

.

へる

は狼

こと

やか

も、

はく

は、

一注

は、

の名

やす

は局

の名

こと

やと

の思

ひか

へた

る也

の女

も御

5

いな

(一七

.

一)

いふ

り上

の性

る心

り。

【河

(紫

)「.(孟)

(眠

)

は物

んし

うな

へし。

部ノ右

二郡部也卜注ス

る人

これ

へし。

の王子

て、

使

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也第+朕筐

史記の筆謙

のおもき詞と見えたり。

未容君王得見面已被楊妃遥側目楽府

「上陽人」・

【眠】

(【細】とほぼ同文を載せた後に加筆)

京師長吏為是側目

「長恨寄伝」陳鴻

是史記のをもき筆謙

の詞也。書

に載たる筆法にて

6

唐土にもかかる事

の起

こりにこそ

(一七

・一二)

紺か事をあしく云所を筆謙といふそ。筆にて其人を

【紫】

唐の玄宗皇帝、楊玄談かむすめ楊貴妃をお

罪したる也。此桐壺更衣はあしき事

を申おこなはる

ほしめして世のま

つりごとを楊国忠楊貴妃かせうと也

る事はなけれとも、御寵愛の甚しきから万機の政も

にまかせてしろしめさす、安禄山といふ人いくさを

たゆみ、自然に悪事もあれは、も

ろこしにもかかる

おこして、陳玄礼といふもの楊国忠ならひに楊貴妃

ためしあれは、さやうにやあらんと天下

にもてなや

をころし

つ此例をいふ歎

,

むなる

へし。

【河】

(孟)

7

楊貴妃の例も

(}八

・二)

股紺は旭己ヲ愛し、周の幽王は褒姐を寵して天下

【花】

(孟)(萬)

25

を乱る。唐玄宗の楊貴妃にいたるまでも其例おほし。

桐壺の御門の更衣におくれ給

へる事を唐の玄宗の

【細】

(萬)(眠)

楊貴妃

にはなれ総てなけき給

へる

にたと

へて、長恨

花鳥

には、「もろこしにも」といふより以上、貴

寄の詞をかりて

}巻の始終をかき侍れば、そのこと

妃の事

のやうにしるさる。不可然欺。二段にみるへ

をいはんとて

「楊貴妃

のためしも

ひきいてつへく」

き也。是は股紺か姐己を愛し、周幽王の褒姐を寵せ

とま

ついひ出せり。作者の意趣すくれてきこえ侍り。

しょり、世

のみたれたる事を引て云也。さて楊貴妃

【孟】

此詞まで

一度に先達ともよ

みきたれるを、

のためしと書くは、此巻は長恨寄にて書故也。彼褒

宗祇

「もろこしにも」といふ

一段

によむ也』「楊貴

姐は、峰火

の事

にて世

のみたれ出来也。姐己はさせ

妃のためしも」といふてこそきこゆれと云々。

る悪事みえさるか。但、史記に

「旭己之言是徒」と

【萬】

花鳥には

「もろこし」とあるより

「楊貴妃」

かけり。何事も旭己か云ままに紺か悪事を行心也。

までを二

つに見給とみえたり。但当流には、二段に

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見ると心得べし。

9

母北の方

(一八

.五)

【眠】

是よりは又楊貴妃

のことを

ひき

ていふ也。

【河】

(萬)(眠)

[北の方の意味]

此巻、長恨寄の心をとりてかけり。其発端也。尤奇

後漢書日、陽以博旋為徳、陰以不専為徳。男南女

特也。前の

「もろこしにもかかる事の」といへると

北向住む

へき謂也。陰陽につかさと

る敬歎。傍貴賎

は別段とみるへし。花鳥にはひと

つの心に註せらる

土ハに妻室を北方と号する也。后妃を椒房と称するも

る欺。唐玄宗もはしめは明皇也。後に貴妃ゆ

へ政乱

北むきに住たまふ故也云々。

れし也。此みかともかくのことし。但延喜

のみかと

10

玉の男御子さ

(一八

.一一)

には如此事なし。

これ

つくり物語也。

【河】

(眠)

8

父の大納言は亡くなりて

(一八

・五)

毛詩日、生劉

一束其人如玉

又云有女如王徳如玉

【河】

(眠)

[大納言

・権大納言の濫膓、また唐名、

箋云徳如王者取其堅而潔白也

員数

について]

河陽花作県

宿浦玉為人李太白

26

・天武天皇元年改御史大夫蘇我果安巨勢比登臣紀大

玉人ト云

褒美ノ詞也

人臣已上三人始任大納言

.

あか玉の光はありと人はいへときみかよそひした

天長五年三月八日夏野始任権大納言

.ふとくありけり豊玉妃寄

目本紀

異朝上古少師少傅少保是云三狐又云一二少。

三公之、

あかたまとは子也。子を玉にたと

へたる也。日本

弐也助也副也。故云亜相。漢以来為御史大夫者時転

紀云、豊玉姫そのみこきらきらしきことをききて、

丞相依之有亜相之号。而御史之職相当今之弾正。其

あはれとて又か

へりてやしなはむと思

へとも、よか

義参差欺。称徳天皇御宇暫改大納言為御史大夫。是

,らしとおほして、玉依姫をやりてやしなはせ給ふと

故大納言唐名称御史大夫不叶旧式者也。令云正員四

きに、豊玉姫のみこと玉依姫

によせてよみ給

へる寄

人従三位相当、寛平為正二人権

一人、其後権官加増。

也。

高倉院御宇初為十人

11

めづらかなる児の御容貌なり

(一八

.=二)

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【河】

(孟

・神功皇后の事のみ)(眠)

成務天皇三年正月、.孝元天皇後式緒心命子以武内

メツラシキモノ

老子徳経日、法

物滋彰盗賊多有。注日法好也、

宿祢改立大臣

珠好之物滋生彰着。則農事廃飢寒並至故盗賊多有也

仲夏朝又以大伴武持号大連大臣大連相並知政事。

(1略1)

皇極天皇四年乙巳始置左右大臣止大連。

神功皇后三韓をたいらけ給はんとせし時に、松浦

孝徳天皇大化元年六月、以阿倍倉橋丸為左大臣以

河にて御裳をは

つりてつりはりをおろして魚を

つら

蘇我山田石川麿為右大臣以大織冠中臣鎌子連為内臣

せ給に、鮎鈎

にか\りけるを御らんじて、め

つらと

太政大臣左右大臣謂之三公。異朝三公皆則閾官也。

.おほせられけるによりはしまる詞也。松浦とは、梅

為師傅保職棟梁干諸官塩梅干帝道

者也師以道而教謂之

豆濯をあやまれり。「め

つらの川」ど寄

にもよあり。

師傅以義而紀謂之傅保能守道謂之保。

秦漢

以来有相国左右

長今東南水扶紀抄、或云驚新漢語抄

丞相之号、已知庶政異千古之三公也。三台者象天之

つらしき人を見んとやしかもせぬわかしたひもの

三台星也。三椀者周世外朝植三椀、三公班列其下。

27

とけわたるらん古今

椀者懐也、懐遠人之義也。我朝天孫天降袷時、天児

伊勢物語云、此御かとはかほかたちよくおはしまし

屋根命中臣氏祖天太王命斎部氏祖、奉

天照太神勅為左

右之扶翼如今之左右相欺。神武天皇東征之後、天下

12

右大臣の女御

の御腹にて、寄せ重く

(一八

・一四)

一統二神之孫天種子命天宮命又為左右、上古無大臣

【河】

(眠)

[大臣

の濫膓]

号。喚執政人称食国政申大夫以上親房卿記

諸徳天皇二年三月、中食国政大夫出雲色命為大臣

13

大殿籠りすぐして

(一九

・八)

見旧事本紀、是大臣始歎

【眠】

(花孟萬

・長恨歌の詩句のみ)

崇神天皇廿三年秋八月丙申朔丁巳、大臣大新河命

昼同輩夜専夜長恨嵜伝

春宵苦短

日高起長恨嵜

即改大臣号日大連同

りなくま

っはさせ給ふさまをここにいひ述る也。場

景行天皇御宇、初以武内宿祢為棟梁臣

妃に模してかけり。

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14

人よりさきに参りたまひて

(一九

・一三)

祖のわかかりし時より

つきまはりていささかもはな

【眠】

弘徽殿の事を云也。高祖の后、呂后

に比し

れぬ人也。所珠とは韓信をも高祖の留守の間に斬そ。

てかくそ。

彰越をも蜀

へ,う

つさるる道にて達て

つれて帰て又謀

史記第九呂后本紀云、呂太后高祖微時妃也。生孝恵

反したといふて殺されたそ。或説此御かたとは更衣

市女魯元公主。

呂后ノ父

ハ臨洒候。呂公論呂宣王。

の事と云々。是は弘徽殿の物えんしを御門も心くる

呂后は高祖のわかき時よりの妃也。

しくおぼしめすと也。いさめは制

の字也。「たらち

此弘徽殿も人よりさきに参り給也。高祖戚夫人を寵

ねの親のいさめしうたたね」とい

へるも制する心也。

して其腹の趙王如意を位に

つけたく思ひ給しを、呂

又諌ノ字にても有

へし。こしらへをしふる心也。

后の張良なとにいひ合

て四皓をよひ出してつみに意

義抄云、高祖に八人の子あり。

一、長男斉王肥母

帝を位に

つけ給ひし事も相似たる欺。

曹姫

一、恵帝母呂后

一、趙王如意母戚姫

一、代

王恒母薄夫人

一、梁王恢

一、潅

腸王友

一、准

28

弘 太牟

騨砿物 慧

る継

、躰

.雀院母弘徽殿

六条院母桐壺更衣

四宮母承香殿女御

箋弘徽殿は女宮二所也。呂后は魯元公主

一人也。此

泉院母薄雲女院

蛍兵部卿宮

帥宮

八宮

式部卿宮

物語のならひ、その面影ありて其

ノ実なし。後これ

是も四人御母をしるさす。是史記

の面影也。桐壺

にならへ。

みかどを高祖に准し、弘徽殿太后を呂后

の面かげに

15

この御方の御諌めをのみぞ

(一九

・一四)

比する心あり。

【眠】

箋呂后為人剛毅佐高祖定天下、取諌大臣多、

(頭注)

「この御かたの御いさめ、是

ハ弘徽殿ノ事也。

呂后兄二人皆為将。抄云、呂后の性が強くして女の

.

此女御の事をは

一宮

の御母なる故

に黙止かたくおほ

やうにもなく毒々しき人と也。然ともさりとては高

ずと御門の御心

ヲ云也」

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16

疵を求めたまふ人は多く

(二〇

・一)

【眠】

説云、河海は

「さかなきこととも」

とある

・【河】

(紫)(孟)(萬)、(眠)

本につきて註せる歎。当時不用之。花鳥ノ義可燃欺。

所好則鐙皮出其毛羽所悪則洗垢

求其瘡痕家語。

但心は回し云々。然而箋猶村上花山

の御時

の義を

好生毛羽悪生疵楽府大行路。

す。可用欺。.又或抄云、雪月抄に此事打まかせては

なをき木にまかれる枝もある物を毛をふききすをい

けからはしき物なとをぬりをきたりける欺と云。猶

ふかわりなき後援、高津御子述懐寄

不審にて人に尋られしかは、い

つぞや内裏

にて此物

吹毛求疵漢書文也

語の御談義有りけるに、「桐壺更衣

のおほえすくれ

17

あやしきわざをし

つつ

(二〇

・七)

たるによりて、うちはしわた殿にあやしきわさをし

【河】

(紫

・「花山院の御時」の例なし)(孟)(眠)

けるは、さる本文のあるか」と御

尋有けるに、或人

村上御時、宣権殿女御芳子小一条左大臣師サ女藤壺

申けるは、「後漢書皇后記上

二云ク、後漢極帯

ノ最

候はせ給

テトキメキ結けるを、中宮安子九条右大臣師輔

愛ノ郡皇后を余の后たち嫉妬

のあまり挟巫轟道とい

29

女弘徽殿のうへの御局におはしましけるか、

つねに

ふとみえたり。もし此心か」と奏

しけれは、「さも

不快事ともありけるよし世継にあり。彼例をいふ欺。

・いばれたり」と云御沙汰ありし由

伝承云々。

挟巫塁

古人注

花山院御時も女御姫子開院大将朝光女の継母大

道とは、かんなきやうの者にましわさを道にかま

納言延光旧室権中納言敦忠女さかなく

てかやう

の事とも

をかせてふみこえさせなとしける欺。

ありけりと世継にみえたり。

挟ノ字

ヲハ字義

ニハかまふと釈

せり。かくありて

【花】

(萬)(眠)

郵皇后

つみにはかなくなれりと云々。此更衣もうせ

村上

の御時、宣耀殿の女御、藤

つほの中宮と御物

て後、母北方命婦にあひて人

のそねみふかくよこさ

ねたみのありしに、その御かたかたの人ここかしこ

まなるやうにて

つみにかく成ぬるとなけく。又先帝

のみちに不浄をまきちらし侍る事をいへり。さて御

の后宮藤っほの母

「春宮の女御弘徽殿也の御心いとさか

おくりむか

へのもきぬのすそた

へがたしとはいへり。

なくてきり

つほの更衣のあらはにはかなくもてなさ

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れしためしもゆゆしくて」とおち給

へは、呪咀した

【河】

(孟)(萬)(眠)

る心歎。郡白王后に同しとあり。私云、此義正説猶可

皇子三歳着袴例

勘之。

冷泉院天暦四年七月廿三日東宮時

円融院応和元年八月+

18

上局に賜はす適その恨みましてやらむ方なし

(二

六日親王時

・一三)

.

花山院天禄元年+二月士二日東宮時

一条院天元五年+二

【眠】

箋弘徽殿藤壷

の外

にう

へっほねを給

ふ事な

月七日親王暗

し。桐壺更衣にう

へっほね給事非例也。かくのこと

天暦御時内裏

ニテ為平親王はかまき侍けるに拾遺八

く御門の御政のちかひたるに事末に更衣のうせたる

ももしきにちとせの事はおほかれとけふのきみに

にみえたり。さてう

へっほねとはまうのほり給ふ

はめ

つらしきかな参議小野好古

時、かりそめの休息なとのたあに給はる也。末々の

20

蟹草の宣旨など

(二二

・六)

更衣なとにう

へっほね給ふ事はなき也。中宮后のま

【河】

(孟)(萬)(眠)

.

30

うのほり袷時は清涼殿の御座のかたはらの二の間を

清寧天皇三年春億計雄計八王、青蓋車迎宮中

うへっほねに給定れる事也。さて桐壺更衣はもとの

仁明天皇女御藤沢子紀伊守贈左大臣船艦女依病退出之

ままにて後涼殿をう

へ局に給はる也。

つねに御前に

時波穂萱草、卒逝之後以少納言被贈

三位云々

のみさふらひ給

へはここにのみ御休息なる

へし。更

史記崔豹日黄帝与童尤戦於琢鹿、有

五色雲、金枝玉

衣寵愛甚しき故に余の更衣たち色々はしたなめわ

葉止干市上、有花亜之像、因而作花蓋墨螢。周礼皇

らはす故に、又かくのごとく猶うらみの有

へき事出

后玉轄螢

車且競

有翼羽蓋。鄭玄

日后居宮中従容

来る也。世間のならひ如此事よくよく思ふ

へし。そ

乗也、軽輸入競以行。司馬法日、夏后氏謂螢日余車、

のうらみましてといへる尤妙也。

股日胡奴草、周日輔車、又日夏后

人廿人而螢、股十

19

この皇子三

つになりたまふ年、御袴着のこと

(二

八螢、周十五而螢、ホ雅徒御而馬

螢者也、観音元玩

一・一)

反、周礼成車但朝、鄭玄日為経輪

人輯、之説文引車

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也。後漢書日挽車而去、挽引也卓茂伝

いふは中重の門のほかなり。閨門と

いふは中重の門

螢車は石はしのたかき門よりのほる。中重を出入ノ

をいふなり。

ため也。中重の蟹草ともいふ也。牛車は牛のよる所

【眠】

或抄云隅雪月抄

にてくるま

はこしのやうに

まで乗なり。牛車を聴て上東門を出入する也。

てちいさき輪をかけてなかえは輿

のやうにみしかき

職員令日、輿輩、往日挙行日輿、輪行日量也

也。又此更衣かきりなるにまか

つる時螢ゆるされけ

贈官位事

るは、円融院の母后もやまひのうち

にゆるされ結け

大宝元年始

(之)干時大納言正広三伴御持宿祢也、

れは、ちかき例を思ひて式部かき

けるにや。いみし

女房贈位例在前

きよし侍従三位公世卿申されけりとあり。私此事追

【花】

(萬)(眠)

而可勘。

延喜雑式云凡乗蟹草出入内裏者妃限曹司、夫人及

21

今日はじむべき祈ども

(二三

・六)

内親王限温明殿後涼殿後、命婦三位限兵衛陣、但嬢

【眠】

(河)

[修法の浩蕩]

31

女御及孫王大臣嫡妻乗琶限兵衛陣。西宮云親王大臣

文徳実録云、扶桑略記云、延暦廿

四年春最澄法師

中老宿人有此恩、女親王女御尚侍毎出入、蔵人経奏

入唐以後、円澄法師依詔於紫農殿修五仏頂法、即預

聞、仰閨門吉上難戦雑式毎度仰

得度、'日本国修法濫膓也。

今案温明殿後涼殿はみな中の

(門内)の殿也。

22

皇子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど

(二四

温明殿は内侍所おはします殿也。東

の宣揚門の中に

三)

あり。後涼殿はにしの陰明門の内にあり。此巻

の詞

【紫】

(河)(眠)

にこうらうてんにもとよりさふらひ給更衣

のさうし

昌子内親王朱雀院姫宮御母王女御

撰子文彦太子女、母

をほかにう

つさせ総て上

つほねに給はすとみえたり。

左大臣時平女三歳にして母にをくれ給。

延喜式に夫人及内親王は後涼殿のうしろをかきると

23

かかるほどにさぶらひたまふ例なきことなれば

いへる。物語のこころにあひかな

へり。又兵衛陣と

(二四

・四)

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【河】

(紫)

おいとは七日のふくなりを給ふをいふな

り。但七歳以下

無服務暇事

の人

の親の喪にあひて服暇の事は、律令格式等の文

暇寧令云、無服之蕩生三月至七歳、本

(服)三月給

にみえさる事也。所詮いまの世においては、七歳以

暇三日、

~月服二日、七日服

一日、義解云、謂未成

の人は

}かうに服もいとまもあ

るへからさること

人死日膓、謂其五月以上服親、無々服之膓、故日本

にさたまれり。しかるに源氏の君三歳にて更衣に喪

服三月、案之生三月至七歳、本服三月已下可有之、

して宮中を退出あるは物かたりの面にては猶服暇あ

其於五月以上服親無々服之膓故随彼本服宣布暇限 

へきにきこえ侍り。服なきにいたりては神事たり

法曹至要抄

といふともははかる

へきにあらぬを、例人ににるへ

人生七歳以前は無服之瘍也。源氏三歳にて遭母喪専

からさるによりて退出あるかのよし河海にのせられ

服暇ある

へからさる歎。しかれともまさしき神事の

たるは、ひと

へに今案の義勢なり。又本服三月の義

時は、例人に似

へからさる歎。価退出歎。但本服三

も無服の瘍

の事也。

ここの証文にはならさる事也。

32

月の義もある歎。

これにつきて秘訣あり。別にしるす

へし。

【花】

(孟)(眠)

【細】

此段河誤也。花説可燃。七

歳以前

の人服忌

河海抄の説、その理分明ならす。先無服の瘍とい

の事醍醐

の御作法をたてらるる事、両度あらたまれ

ふは、令義解云、謂未成人死日膓云々。未成人とは

り。是ははしめ七歳以前の人も服

のいみあるへしと

七歳以下の人をいふ。七歳以下の人の死せる時に、

ありし時

の分にてかける也。

其親類たる人のかれかためにいとまはかりを給はり

【萬】

此御子退出の事、河海花鳥

にくはし。河海

て、服をきぬを無服の膓といへり。そのいとまは本

の説は相違

のよし花鳥に見えたり。なをりゃくす。

服三月には三日の暇伯叔父姑兄弟姉妹三月の服也、

一月

去なから延喜

の御代のさためには、七歳已前無服の

の服には二日のいとま母かたのおちおは父かはりのおとと

膓と物忌令

に見えたり。しからは源氏の君をは、延

か一月の本服なり、七日の服には

一日の暇父かたのいとこ

の御子高明公に准ずれは、服の養いまたさたまら

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さる以前によりて、退出させ申さるるにやと心得

文武天皇四年三月己未

日道昭和

尚遷化七+二本朝

きなり。七歳以前は無服の膓とさだまりて後は、禁

火葬自此時始

中もははかるへからさるにや。花鳥弄花にはなを秘

26

三位の位贈りたまふ

(二五

・五)

説ありといへり。

【眠】

河贈三位例、清和外祖母葬

山城国愛宕墓、

24

愛宕といふ所に、いといかめしう

(二四

・一三)

贈従三位。和秘抄に正三位といへるはあやまれり。

【紫】

贈正

一位源氏清和天皇外祖母在山城国愛宕

河海首書云、宣命かきとて心事を委細にかき述

て死

墓見延喜式事

人にむかひてつふさによみきかす

る也云々。

【河】

(孟)(萬)(眠)

〈論文〉伊井春樹

「桐壺帝の廃朝」『むらさき」二

一輯。

桓武天皇平安城に遷都の時、此地を諸人

の葬所に

高田信敬

「桐壺外伝」『むらさき」二四輯。

定らる見延暦遷都記

27

女御とだに言はせずなりぬるが

(二五

・六)

に弥皇寺といふ寺あり。弘法大師の聖跡としてい

【河】

(紫)(眠)

33

まに東寺

一長者管領也云々。

侍臣女猶女御の例あり。其上大中納言之女立后ノ

大師遺告書云、字宕當

例たにもあれは、女御とたにといふ歎。たには猶不

右寺建立大師是吾祖師故慶俊僧都也以下略之

足ノ心か。中古まては女御も多四位五位也。近代者

【花】

(萬)(眠)

叙従三位後

に女御宣下あり。

鳥辺野を云也。

大中納言女立后例

【細】

(萬)(眠)

藤原高子故中納言長良女二条后

清和天皇后

陽成院

今の六道是也。昔ノ葬所也。

母后

元慶元年正月立后

25

灰になりたまはむを見たてま

つりて、今は亡き人

皇后宮賊子故大納言済時女

三条院

(二五

・一)

.

贈皇后超子法興院入道関白女

父子時中納言

冷泉院女

【河】

(孟)(萬)(眠)

[火葬の濫膓]

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公卿女為女御例

つゆけき秋もしらるる

秘あはれ深き詞也。物語か

女御藤原元善子光孝天皇女御中納言山蔭女

女御橘羨

きさまいふはかりなきとあり。或抄、村上御時中宮

子宇多院女御参議広相女

安子応和四年四月十九日かくれさせ給

へる比、女御

女御藤原和香子醍醐天皇女御右大将定国女

女御藤原

御息所

の御とのみたえてしほたれくらさせ給。その

姫子同女御参議菅根女

の秋前栽

に露のをきたるを風の吹なひかしたるを

女御藤原姫子花山院女御

御覧して、秋風になひく草葉のつゆよりもきえにし

侍臣女為女御例

人を何にたと

へん拾遺哀傷

天暦御製。桐壺更衣も夏の

女御従三位橘三井子種武女御従四位下人鹿女

女御藤

比うせ総

て秋

の御思ひの切なる御ありさま、

「宮城

原沢子仁明女御紀伊守総織女

の霧吹むすふ」なと詠し給。「御

への

つほせん

女御藤原娘子円融院女御堀河関白栄通女子時父宮内卿

さいのさかりなと御覧すやうにて」とかける、勇思

女御贈皇后宮藤原超子冷泉院女御安和元年+二月七日為

ひよそ

へらるるにやと云々。

34

女御子時父法興院関白蔵人

30

靱負命婦といふを

つかはす

(二六

・一二)

28

御方々の御宿直なども絶えてしたまはず

(二六

【河】

(眠)

三)

大同三年七月廿日以衛門府併衛士府、又以靱負名

【河】

(孟)(眠)

,

号同左右靱負府者

栄花物語云、「宮うせたまひてのち、何事もおほ

衛門府

ユヶヒ

、、、ヵイモリ見職員令

しめされすゆゆしきまてにみえさせ給。

このほとは

職員令云内外命婦注目謂婦人帯五位以上為内命婦、

女御みやす所の御とのみたえたり」

五位以上要目外命婦也、又後宮職員令日其外命婦准

【眠】

三千寵愛在

「身長恨嵜

夫位次、故周礼日内命婦謂九嬢世婦女御也、外命婦

29

見たてま

つる人さへ露けき秋なり

(二六

・五)

謂卿大夫之妻也

【眠】

河人はいさことそともなきなかめにそ我は

ゆけいの命婦は左右衛門佐也。命婦

は五位、女蔵人

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は六位也。靱負蔵人もあり。婦人

の五位以上を帯す

32

やもめ住みなれど

(二七

・五)

るを内命婦といふ。五位以上

の者の妻を外命婦とい

【紫】

大般若経云、善現当知、如有女人、端厳巨

ふ。令文也。漢家又大概

これにおなし。但内命婦は

富、若無強夫、所摂護者、易為悪人之所凌辱。

九嬢世婦をいふとあれば本朝

にはいささかかはる

【河】

(孟)(萬)(眠)

し。

礼記日、少而無父者謂之狐老、而無子者謂之独老、

礼記喪大記注日、世婦為内命婦、卿大夫之妻為外命

而無妻者謂之螺老、而無男者謂之寡、此四者天民之

婦。

窮也。

毛詩注目、公侯夫人織◇艇卿之内子大帯、大夫命婦

戸令日鰹老孤独、注目謂六十

一以上而無妻為鰹也、

成祭、服士妻朝服、庶士以下各衣其夫葛箪注。

五十已上而無夫為寡也、十六以下而無父為孤也、六

続目本紀日、延暦二年春正月戊寅朔是日勅内親王及

一已上而無子為独也

此更衣の母儀も其年齢歎。

内外命婦、服色有限不得層老。

伊勢物語云、むかしおとこやもめにてみて

35

分庭皆命婦

対院即儲皇白氏文集

なかからぬ命

のうちにわするるはいかにみしか

東三条院女御におはしましける時、層円融院

つねにわ

き心なるらん

たり結けるをきき侍てゆけいの命婦かもとにっかは

【眠】

私云、年齢によらす夫なきを

いへるな

しける

東三条院入道前摂政太政大臣

し。

又年齢もちかふへからす。

春霞たなひきわたるおりにこそかかる山

へもか

33

げにえたふまじく泣いたまふ

(二七

・一二)

ひはありけれ

【河】

(紫)(孟)

31

はかなく聞こえ出つる言の葉も

(二七

・一)

一眉猶巨耐双眼定傷人遊仙窟

(眠)

「私不

【眠】

曹匪殊艶尤態独能致是蓋才・智明恵善巧使妄

及引此事欺」とする。

長恨歌伝

是は楊貴妃の事をいへり。「こと

の葉」

34

寿さのいと

つらう

(二九

・七)

は寄なとをもいふへき歎。

【河】

(紫)(孟)(眠)

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荘子日寿則者多辱

は村上の中宮安子円融冷泉二代の国母也。第二女は

【眠】

箋上東門院の御事を

ひかれたり。

八十七ま

重明親王の北方、中宮

へ参り給次にかいまみあり。

ておはしませしか、

一条院后

にて後

一条、後朱雀二

中宮媒として宮中にめし入て密通の事ありて連続せ

代の国母にておはせしかともいつれをもさきにたて

しむ。其後中宮井に重明親王うせ給

て後、

つみにめ

させ給

へりとみゆ。

して尚侍と申て貞観殿にさふらひ給。その寵

の甚し

35

ももしきに行きかひはべらむことは

(二九

・八)

「きこと昼夜をわかす。世人歎ていはく、聖主賢主当

【河】

(孟)(眠)

代にをいて万邦これを称す。しかるに登子

の尚侍、

百官の座を敷ゆ

へに禁中を百敷といふ也。或百城

朝に入て万機これか為に廃すと云々。

此末

々皆此義

文選二金城百維といへり。若此事歎。錐

八高

}尺広

をふくみてこれをかく所あり。

三丈云々。

38

鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる

築地の

一葦也。それを百はかり

つつけたる也。

涙かな

(三二

・四)

36

36

よこさまなるやうにて

(==

・二)

【眠】

(一略1)或抄御説にわかな

くこゑは鈴虫の

【河】

(孟)(幌)

声のかきりを尽しても及ひかたしと也。又盛時花濃

経文

二九横死あり。其中

「八者横為毒薬厭究咀

恨別鳥驚心

引之。私此長き夜

にも猶なき

つく

之所中書」ト云リ。薬師経

さぬ我涙にはすす虫の声のかきりを

つくしたりとも

37

人の心をまげたることは

(一一=

・二)

をよふましきと也。

【萬】

(孟)(眠)

39

御装束

一領

(三二

・一一)

聖主の御心

つかひ殊勝也。さてこそ延喜にはひし

【眠】

(河)(孟)(萬)

奉りたれとなり。たたしをんなことにいたりては、

女のきぬ

「領也。長恨寄伝

「香衣

「対」とあり。

みたれ給

へとも、是又其例かすを知らさる物也。

桐壷更衣のさうそく也。

【眠】

箋九条右丞相師輔公

の息女七人の内、嫡女

40

御髪上の調度めく物

(三二

・一二)

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【河】

(萬)(眠)

[髪上げの濫膓]

にて

むかしは女御更衣以下常に髪をあけらるる本義也。

もみち葉

の色にわかれすふる物

は物おもふ秋の

傍髪あけの調度ともを広蓋

二人タル也。鋏銀子なと

なみたなりけり

也。

【花】

(萬)(眠)

天武天皇十

一年六月丁卯男女始結髪。

長恨寄

の歌、紅葉はの色にわかれすの

一首は御か

続目本紀日大宝二年十二月乙丑令天下婦女自非神戸

との御手にか、せ給

へると伊勢か集

にのせ侍れば、

斎宮々人及老堰皆髪髪。

亭子院の御製にてあるへきにや。

いま

一首の正すた

41

御前の壷前栽

いとおもしろき盛りなるを

(三三

れあくるもしらすといへるは、伊勢

かよめる也。貫

六)

之か寄はいまたみいたし侍らす。た

つぬ

へし。長恨

【河】

(孟)(眠)

.

寄の絵は、亭子院の御時か\せ給

へるよしみえ侍れ

壷前栽。清涼殿東庭井同西庭朝餉井台盤所前二被栽

と、その絵とてすゑの代につたはりたることも侍ら

37

前栽。延喜元年左右衛門栽草架

ず。しかるを通憲法師法名信西暦書唐暦楊妃外伝な

中宮かくれさせ給て秋御前の前栽の露を御らんし

といふ書をかんか

へてあたらしく絵

にかきしをそ、

て拾遺

いまの代には長恨嵜の絵とは申侍れ。これは平治

秋風になひく草葉の露よりもきえにし人をなに

乱のある

へき事をか、みて後白川院

に御心を

つけ申

にたと

へん天暦御製

さんために悪くわたて侍るとそ。あ

のことく安禄山

42

長恨歌の御絵、亭子院の描かせたまひて、伊勢、

かやうなる信頼かふるまひためしすくなかりける事

貫之に詠ませたま

へる

(三三

.一〇)

也。、其絵は平治元年十

一月十五日に宝蓮花院に施入

【河】

(紫)(孟)(萬)(眠)

し侍ると

て、信西

一紙をかきそ

へてをきたるよし旧

伊勢集云、長恨寄のゑの倒屏風亭子院にか

、せ給

記にのせ侍るなり。

てところところの名をよませ結けるに御かとの御手

【萬】

是は玄宗の楊貴妃にをくれ給

ひしも、今桐

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壺の御門の更衣にをくれ給御心にひとしければ、明

は世をうみなかにたれかとはまし、月も日もなぬか

けくれ長恨歌のゑを御覧する也。亭子院と申は寛平

のよるの契をはきえしほとにもまたそわすれぬ、木

法皇の御事也。延喜の父御門也。「か\せ給

て」と

にもおひすはねもならへすなにかしもなみちへたて\

は、御ゑの事

にはあらす。紅葉はの御うたを御手

君を

\くらん、

案之

にい

つれも伊勢が寄勿論也。

からか\せ総

てさていせ貫之にも冨よませられたる

「紅葉\の色にわかれす」の寄を亭子院の御嵜なと㌧

との義也ともいへり。河海花鳥の説御岳をか

\せ給

いへるはあやまれり。「みかとの御

ふてにて」

とは

によれり。(1略1)貫之冨はいまたかんか

へす。

玄宗皇帝の心

にかはりてよあるとい

へる也。こ\に

をよそ此物語にのせたる事は証拠たるへき欺。もろ

載る所の三首なからみなその心をよめり。これはき

こしの一とは唐の詩をも碍といふ也。

さいになりてとは楊貴妃の心にかはりてと云也。寄

【細】

(眠)

の心みなそのよしみえたり。此義古来無其沙汰。今

花鳥にしるせり。貫之寄事不見云々。然とも凡此

案之所為也。但恐は此義尤相叶

へり。何以寛平御製

38

物語に善事則証拠成

へし。栄花物語伊周公左遷

の所

井后宮御詠伊勢之家集書加之乎。是彼集

一覧之次見

にも昔の長恨冨の物語にもかやうなる事

にやとかな

出了。尤秘蔵也。干時慶長二年正月十四日於灯下記

しくおぼしめさる、事限りなしと云々。

之了已上私註之。(1略1)

【眠】

・伊勢集愚本云長恨冨の御屏風亭子院にか\

箋此次の物語云、凡日本の乱は鳥

羽の上皇御心

せ給ふてところところよませ給ふけるに、みかとの

相違より出来始たり。今に至るまての乱も此源の乱

御手にて、紅葉

\に色みえわかてふるものは物思ふ

より起れり。崇徳院御位にて微弱におはしまし、を、

秋のなみたなりけり、か

へりきて君おもほゆるはち

美福門院

ヲ御寵愛のあまりに其御腹

の近衛院を立申

す葉に涙の玉のをきみてそみる、正すたれあくるも

されんとて敢なく崇徳院を退け申さる。

一旦はさも

しらすねしものを夢

にもみしと思ひかけきや、これ

こそあらめ、終

には崇徳第

一の皇子重明親王立給

はきさいになりて、しる

へする雲の舟たになかりせ

きを、又引たか

へ後白川を立申さる。是に依て御憤

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深かりしを宇治左府申す

\め

て主上

、皇の御国あら

おほす」とはかけるなり。

そひ出来しより、其末々いきとをり散せすして如此

44

たつねゆくまぼろしもがな

(三五

・三)

の世

に及ふ也。併女専

一旦の愛着より万代の乱

【萬】

(河)(眠)

ヘリ。能深可患所也云々。

御門の御寄

「まほろし」とは方士か事、幻術士か

43

亡き人の住み処を尋ね出

でたりけんしるし

の銀

名也。「玉のありか」とは更衣

の魂

のあり所を

いへ

(三五

・一)

り。心は楊貴妃

のあり所をは、まほろしか尋出てた

【河】

(紫)(孟)(眠)

しかにあひてかたみの物をとりて来れるに、玄宗の

指碧衣女、取金銀鋸合、各折其半、授使者日、為

こ\ろをなくさめし也。此御門も命婦を母君のもと

我謝太上皇、謹献是物尋其好也長恨寄伝

(方士楊貴妃を

へっかはしてかたみと御らんするは、あひにたれど

尋て金のかんざしのなかばを持て来し事也)

も更衣に命婦かあふ事

のなけれは、御心をもなぐさ

【花】

(細)(孟)(萬)(眠)

め給はぬによりて、なき人

のすみか尋いて奉りけん

39

臨叩道士幻術をもて蓬莱山にいたりて楊貴妃にあ

しるしのかむさしのやうならましか

はとまほろしを

ひて玄宗

の心さしを

つた

へし時、楊貴妃其かたみの

うらやましうおほしめす御心を御製

にあらはし給也。

物を使者

にさ

つけし時、金銀かんさし也錨合はさみ也こ

45

筆限りありければいとにほひすくなし

(三五

・五)

の二

つの物をおのおの半引折て給ひしょし、長恨寄

【眠】

私勘、鶴林玉露日、総花者不尽其香、給人

にのせ侍り。ゆけひ命婦は御門の御使にて更衣の母

者不尽其情。又絵雪者不能絵真精、

絵月者不能絵其

のもと

へむかひし時、かのかたみに御くしあけの調

明、絵花者不能絵其聲、絵泉者不能

絵其声、給人者

度めく物をたてま

つり給ふ。かんさし、はさみなど

不能絵真情

てうとの具なれど、玄宗の使はまさしく楊貴妃にあ

46

大波芙蓉、未央柳も

(三五

・六)

へり。命婦はさもなきによりて

「なき人のすみかた

【眠】

(紫)(河)(孟)(萬)

つねいてたりけんしるしのかんさしならましかはと

私勘

帰来池苑皆依旧

大液芙蓉未央柳

芙蓉如

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面柳如眉

対此如何涙不堕長恨嵜

其状如鳥

一翼

一目、其色青赤、処南方崇吉金門之山

又伊勢集云、みかとの御手にて、か

へりきて君おも

結胸国東不比不飛見山海経、ホ雅

ほゆる蓮葉

に涙

の玉とをきみてそみる

.

孫氏瑞応図日、王者有孝徳明至、山海経云見則大水

47

花鳥

の色

にも音

にもよそふべき方ぞなき

(三五

いきての世しにての\ちの後の世も

はねをかはせる

八)

鳥と成なん

天暦御製

【河】

(孟)(眠)

御返し

女御芳子宣耀殿

花鳥

の色をもねをもいた

つらに物うかる身はすく

あきちきることの葉たにもかはらすはわれもかはせ

はかりなり後援雅正

る枝となりなん

春は桜鶯、夏は橘郭公、是等を花鳥と云也定家卿説。

連理は仁木也。漢武帝元狩元年に生だり。其外不可

案之、菅家御作に花鳥の鳥のかたに鶴を令作絵如何。

勝計

48

翼をならべ、枝をかはさむと

(三五

・九)

49

の御局にも

(三五

.一三)

40

【紫】

(河)(孟)(萬)(眠)

【眠】

(1略1)箋日、上局は藤壷弘徽殿ノニ局

在天願作比翼鳥

在地願為連理枝長恨寄

限ルト見タリ。花族人給此局欺。然桐壺更衣、以後

【河】

(眠)(孟

・萬は天暦御集贈答歌のみを記す)

涼殿給上局之儀、太以非例也。可付眼

ホ雅疏日、南方有比翼鳥焉、不比不飛、其名謂之

50

いとおし立ちかどかどしきところ

(三六

.一)

鵬、似見青赤也。木連理者仁木也見習中興書、或異本

【眠】

箋此段草子の地欺。をしたちは雅意

に任せ

同校、或枝劣出上更環合也

たる心歎。呂后紀日、為人剛毅佐高祖定天下。

孝経援神契云、徳至草木則木連理

徽殿をは呂后に比してかける事おほし。

孫氏瑞応図云、王者徳化治八方、合為

一家、則草木

51

、事にもあらず思し消ちて

(三六

.二)

連理已上符瑞図

【眠】

箋聞此段作者

の批判也。な

んの更衣

の莞去

符瑞図云、比翼鳥者日兼々見ホ雅。

一名攣々見山海経。

とてさやうに遊なとすましき事か

はと思ひ給也。弘

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徽殿の性をかきあらはせり。呂太后に似たそ。同草

体相類歎

子地か評して書也。けにも主上の御歎もかきりかあ

秘此詞殊勝也。前

の夕月と書月は、入かたの空とか

る事也。

廃朝三ケ日とも五ケ日ともありて、音奏

きて月も入ぬといふ妙也。月落長安半夜鐘にもおと

警踵を止やらるる事も月限ある事なれは、まして月

らすや。同前に夕月夜のおかしき程

に出したてさせ

日へたてなは物

の音合

てあそひ給はん事、更に替あ

給とありて、更衣の里にて物語なと

のうちに月は入

るましき事なれとも、主上の御歎は私事とはいひな

かたの空きようすみわたれると著

て御所にか

へり参

から見しらぬやうならんは頗無骨の義也。是も人の

りて程ふるうちに、月も入ぬとた

一くちかきすて

教訓也。可付眼く

。廃朝は依事之浅深、或五ケ日

だるは、月落長安半夜鐘とい

へるにおとるましくや。

或三ケ日也。止苦薬警躍、禁中無物音、垂清涼殿御

いふはかりもなきこと葉とそ。箋聞こ、か物語の奇

策雛及数日以吉日被上御簾

禁秘抄。

特也。月落1よりもまさるへしと也

。私月落-是は

更衣莞非可及廃朝、況経数日乎。於理者不違、錐然

三蔵法師の渡天の路の苦労をいひ尽して落句に如此

41

時之儀

二随

フモ亦道也以上萎

みたる所か妙也。此詞も色々の哀傷

をいひ尽して月

私云、廃朝

ハ天子

一人政

二臨ミ給はす。傍五ケ日三

も入ぬと今眼前の景気をいへる処を題すと云也。

ケ日例あり。廃務

ハ上

一人

ヨリ下百官

マテ政ヲセス。

53

思しめしやりつつ灯火を挑げ尽くして

(三六

・七)

一日ヲ以テ限りトス。又苦薬

ハ物ノ音ヲナラス事

【眠】

(紫)(河)(孟)(萬)

ヲハ奏するといふ也。警躍はさきををふ事。出る

河夕殿螢飛思消熱

秋灯挑尽未龍

眼長恨冨

秘いか

時は馨し入時は鐸すといふそ。

てすむらん浅ちふの宿おほしやり

つ、の詞

つ、き、

52

月も入りぬ

(三六

・四)

夕殿螢飛思消熱

秋灯挑尽未龍眼と

いひ

つ\けたる

【眠】

(細)(孟)(萬)

よりも猶あはれふか\るへし。私月も入ぬといひて、

弄此詞殊勝也云々。終夜の事さまさま過ぬる時剋

灯をか\け尽しておきをはしますと

いへる、おもし

みるかことし。五天到目頭慮白

月落長安半夜鐘文

うし。又夕殿螢飛一此詩も夕の空に螢の飛比より灯

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をか

\けっくすまてよのふけたるさま同心欺。

妃の寵の事也。更衣の在世をおほしあすに、昔は寵

54

明くるも知らでと思し出つるにも、

なほ朝政は

によりてあさま

つりことし給はす。今は御なけきゆ

(三六

・一〇)

へにおこたらせ給。

の字殊勝也。

【紫】

(河)(花)(孟)(萬)(眠)

55

朝餉のけしきばかり

(三六

・=

一)

春宵苦短日高起

従此君王不早朝長恨寄

【河】

(眠)

【河】

(花)(孟)(萬)(眠)

朝餉間二間也於此所朝夕供之

玉すたれあくるもしらてねし物を夢にもみしと思

二平敷二枚北上東北

二立網屏風、

夜御殿ノ方

二副

かけきや詠長恨嵜伊勢

障子御屏風

ノ内外

二案御調度、二階

唐国筥硯筥、螺

【花】

(萬)

鋸厨子二脚、冠筥二唾筥手拭筥几帳

一大床子二脚被

春宵苦短日高起と長恨歌にかき、正すたれあくる

置之、春冬

ハ円火櫃

アリ和絵也陪膳

上脇女房典侍或聴

もしらてと伊勢かよめるも、唐の玄宗の楊貴妃を寵

色人候朝餉歯間端中腰内侍或小上騰障

子外

二候し

て取

42

し給し時の事也。いまの桐壺の御門は、更衣にはな

伝、下腹得選以下次第

二伝之、朝餉

にハ女房啓上髪、

れをはしまして、御なけきのあまりに、万機のまつ

三位以上

ハ銀子許也、女房不候之時

ハ公卿或四位侍

りことをもうちすて給ふやうなれは、君王不早朝事

臣為陪膳例也、昔

ハ禁野交野(等)鳥御鷹飼舎人付御

はおなしさまなれは、なをあさま

つりことはおこた

厨子所進之建暦御記

り給ぬ

へかめりとかけり。かやうのかきさま心詞す

56

大床子の御膳などは、いとはるかに

(三六

.=二)

くれておほえ侍るなり。

【河】

(眠)

【眠】

(細)(萬)

.

大床子の御膳、上古は朝夕に供之、近代

一度也。

秘長恨冨には貴妃か寵によりて也。

こ\は更衣

昔は主上若御正シク食御之、近来不然。左波を取

御なけきゆへにおこたらせ給也。猶の字殊勝也。同

御箸を立らる。陪膳其御箸を取て又立御箸ヲ折テ出。

あくるもしらては伊勢か冨也。春宵苦1とい

へる貴

無出御時ハ女房鳴扇三音、其時陪膳人撒之

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陪膳蔵人頭以下四位侍臣役四位五位六位随候有陪臆

せぬ所也。

番傍陪膳より上首も役送常事也。上古は公卿陪膳も

58

の朝廷の例までひき出

で、

ささめき嘆きけり

有之欺。又女房陪膳也見寛平御遺誠

(三七

・五)

【眠】

秘大床子の御膳は殿上人

の陪膳

にて朝夕両

【河】

(細)(孟)(萬)(眠)

度参る也。此物語にかける所は醍醐の御宇

の比なれ

楊貴妃うせて後、玄宗位をさり給

し事也。

これも

は、いつれもうるはしく是をきこしめしける時分な

さやうにやおはしまさんすらむとな

けきける也。

れは、御らんしもいれさるを心くるしくみたてま

【眠】

秘河海、楊貴妃うせて後、

玄宗位をさり給

る也。中比より朝餉は三度参るを

一度

に参らせて陪

し事也といへり。今案玄宗の位をさり給

へるは貴妃

膳の女房さはをとりてはしをたて、末を折かけて出

か歎にはあらさる欺。作様に心を

つけすは無念也。

すはかり也。いつれも儀式はかりの事

になりて内々

難燃大底は此説相違物語の作者も心

をやりてかく書

小供御とて御乳母なとの奉る分にてうるはしくは三

きなせるにも侍らんかし。「さ、めきなけきけり」、

43

度常の御所にて参る也。順徳院の御抄

にも此由を載

こ、まてにて更衣の御歎の事をは先かきはてたる也。

られたる也。又朝餉は女房の陪膳大床子のは殿上人

或抄后に別て位なと去給し例、唐におほしと云々。

の陪膳也。いつれをも御覧しいれさる也。

秘天宝十五年正月安裸山す

てに大熱皇帝と称して年

57

さるべき契りこそはおはしましけめ

(三七

・一)

号を聖武と改て世をみたりしかは、

六月

に玄宗出奔

【眠】

是は桐壺御門と更衣との宿因をいふ也。さ

し給。馬鬼に至て諸将士卒ことごとく飢

つかれてす~

しも桐御門をは延喜

に比してかき奉れば聖主の御事

ます。こ\にして天下禍乱の基は貴妃

の兄楊国忠に

なるに、此事ゆ

へには政もちかふやうなるはた

、事

ありとて諸卒忽に国忠か馬を遮り

て首を刎、韓国夫

にはあらすといへる也。さて女事に政のちかふたる

人をもころし

つ。剰貴妃を課せられん事を奏し

つみ

事は、村上天皇

へ登子尚侍まいられてから万機のす

に高力士に命して総殺。士卒の大将

たりし玄礼とい

たれたる事を下にふくめり。是其人ひとりの事を模

ふ物等をめしてみせしむ。玄礼等かふとをぬき

つみ

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を謝して軍士みな万歳をよはふ。国忠か妻子おなし

【眠】

(細)(萬)

く號国夫人も漆念敗といふ所にてころされぬ。にけ

弄朱雀院

の御事也。此時まて坊にておはしけるは

のひぬるをそこを

つかさとる醇景仙といふものころ

辞して前坊と申

へし。榊巻に六条御息所の詞にて見

つ。かくて玄宗鳥兜をたちて猶蜀に幸せんことを

えたり。此時分現存と見ゆ。延喜皇

太子文彦早世し

はかり給に国のもろもろの民、太子をと、めて東の

ましましき。此物語の先坊にす

へき

にや。又三条院

方逆徒をう

つへきはかりごとをなすに太子猶帝にし

御子小

一条院は春宮を辞して太上天皇になり給。此

たがひ奉るへきよしをの給

へとも、諸将しみて建寧

物語以後の事也といへとも如此例ある事を註也。秘

・王侯李輔国なと馬のく

つはみをとりてつみにと、め

朱雀院東宮

に立給也。醍醐

の御代

には東宮文彦太子

奉りしかは、此よしを玄宗に奏せしかば、天也との

保明莞之後、其子慶頼王立坊又早世、其後朱雀院立

給て、すなわち後軍二千人、飛龍という厩馬等をを

坊也。此朱雀院

に模欺。

くり

つかはされ、位を

つたへ申さる\よしありしか

44

御位の事を鉢・け絵筆

・かりといへ

醍醐天皇最

子-

慶頼王

ども諸臣のす

\めによりて、

つみに霊武といふ所に

て太子位につき給。これを南宗皇帝といふ。玄宗を

(1略1)惣して桐壺御門を延喜に比す。延喜

はたとうとみて上皇天帝と申といへり。事おほしと

には東宮三人あり。保明太子

一番

にたち給。廿

一歳

いへとも大綱をしるしてその心をうへし。

にて莞す。論号文彦太子と申也。古今、春日山の寄

59

明くる年の春、坊定まりたまふにも

(三七

・一〇)

賀の末の詞書にあり。其子慶頼親王をた

つ。又御邪

【河】

(眠)

[皇太子の濫膓]

気によりて早世。傍承平の御門、朱雀院をたて、延

天孫生而明達意確如 年十有五立為皇太子旧事本

喜のあとを縦結也。さる程に此東宮も承平の朱雀院

に模して見えたり。先坊をは文彦太子に似せたり。

神武天皇四十二年立神津名河耳尊為皇太子

つれも坊

のたちろきありし也。

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60

いとひき越さまほしう

(三七

・一〇)

ふなり。博士読云、御注孝経序五字

尚復云此許

【眠】

源氏を東宮にたてはやと桐壺御門

のおほし

コマテ

次尚復読五字如先

皇太子

親王等の書はし

めす也。是は漢

ノ高祖の第

一の子呂后腹の恵帝をさ

めにいさ\かかはる事ともあるなり。

しをきて寵愛

の戚夫人腹の趙王如意を東宮になした

【眠】

[読書始の式次第と斉世親

(宇多皇子)の

く思はれたるにたとふる也。其時張良かはかりごと

例]

にて商山

の四皓をよび出して恵帝

へつけたるを高祖

箋西宮云皇太子着座総角

王卿着

座沓持書巻副笏

のみて、羽翼巳成といふてとりか

へられさりし事に

侍臣両三出候

博士尚復着座学士殿上成業六位

たとへたり。

農書

尚復唱文長

博士読御注孝

経序五字

尚復云

61

御後見すべき人もなく

(三七

・一一)

此許詞云己々末天

次尚復読五字如先

博士等立王卿

【眠】

或抄索書日、設変致権所以解結

子房用之

入御着饗禄給禄大掛大臣加御衣

博士赤掛尚復赤

嘗致四皓而立恵帝。私意帝は四皓かうしろみをして

被告拝

親王入学講堂西南

一間東

西而着

寛平八年

45

位を得。此巻の春宮朱雀は右大臣外戚とし

て坊にた

十月廿三日斉世親王宇多皇子入学

当日早朝召文章

ち給

へり。源氏君趙王如意はうしろみ方のなくて位

博士紀長谷雄、御自持親王名簿賜之、長谷雄拝舞、

をえ給はさる也。

親王参堂皇孫座次着進士下諸生上也

62

つになりたま

へば読書始

(三八

・一〇)

江次第云豫定其書井博士尚復、近

代雛可御詰七経ロハ

【河】

(孟)(萬)(眠)

以紀伝道儒博学、被聴昇殿之輩多

為侍読之人已上箋

皇子七歳御書始例

63

いみじき武士、仇敵

(三九

・一)

村上天皇親王時

承平二年二月廿二日。

一条院

寛和

【河】

(孟)(眠)

[「もののふ」

の起源]

二年十二月八日

天物部等廿五部人同帯兵侯天降

供奉旧事本紀

【花】

(孟)(萬)(眠)

部氏の遠祖天津麻良、神代に兵を取

て天孫天降給し

御書始には御注孝経或は貞観政要をよみはしめ給

時、御前を奉る。傍其子孫諸の物部

を領じて武勇の

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道を掌トル。其後勇者をは物

のふと云習せる也。古

案之、如遺誠者蕃客に直に対し絡

ましきよしを載ら

今序

「たけき物のふの心をもなくさむるは歌也」

\といへとも、宮中にめす事を

は不被誠歎。而い

64

琴笛の音にも雲居をひびかし

(三九

・七)

まの詞本文に違する歎。若又此外

に有別勅制欺如何。

【河】

(紫)(孟)(眠)

.

情思之此文指召覧す

へき敏なくは轍不可召宮中とい

箏柱付

蒼顔篇云頗耕反

俗云象乃古度

形似慧而短

ふ心を合歓。作者料簡取意不依文歎。

有十三絃柱高二寸

風俗通日本案声也或日蒙活造

【花】

(孟)(萬)(眠)

横笛律苦楽図云音敵和名与古不江

本出差也

漢張憲

寛平の御誠に必可召見者とかき給

へる。必の字

使西域昔伝

一曲、風俗通日武帝時丘仲所造或黄帝時

心はめされてはかなふましき時の事也。

これにてう

伶倫造之

雲ゐをひ\かすは徹天の楽の心也

ちまかせてはめさるましきよしはきこえ侍るなり。

【眠】

箋右大臣源光諸道兼備之例也。

67

この皇子を鴻腫館に遣はしたり

(三九

・=二)

65

そのころ、高麗人

の参れる

(三九

・一〇)

【河】

(紫)(眠)

46

【河】

(孟)(眠)

職員令日、玄蕃寮蕃客辞見謀饗送迎及在京夷狭監

応神天皇廿八年高麗王道使朝貢

当館舎事謂鴻腫館也

【眠】

箋高麗人渤海客也。渤客とも蕃客

トモ云。

鴻腫館は玄審察にあり。傍此寮頭

を鴻臆卿と号す。

昔は三韓もみな来朝したる也。仁徳天皇

の時の王仁

玄は遠也。蕃は藩也。遠藩より来朝の客に接する所

なとかことし。

なり。古来於此所勃客饅する詩句多之。

66

宮の内

に召さむことは宇多

の帝の御誠あれば

(三

漢朝鴻脇寺又以此儀也。此館延暦遷都之始、東西の

・=

)

大宮

二被置之。而弘仁

二以東鴻臆館為東寺賜弘法大

【河】

(紫)(眠)

師不空一二蔵鴻腫卿大興善寺ヲ立此例歎或又大師三蔵ノ再来ト云勇

寛平遺誠日、外蕃人必罰召見者簾中見之不可直対

有寄乎

以西鴻臆館為西寺賜修因僧

都、

其後七条朱

耳李環朕已失之慎之

二鴻臆館ヲ立て置三韓館舎於其中

云々。

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漢書日鴻臆寺用礼大行人中大夫掌大賓之礼及大客之

【眠】

私勘磯原抄云、官中事大弁

所執行也。伍為

儀、小行人下大夫掌郡国賓客之札箱、以待四方之使

重職以下略之

無文才人不居之乎。

者至秦日興客、漢書百官表日典答案官、掌諸候帰誼

秘う

つほの物語にも相人に右大弁の子としてあ

へる

蛮夷獄中二千石、景帝更名目大行令、武帝改日大鴻

事あり。さやうのおもかけをおも

へる敏

腕、王奔改口典薬、故広漠官解譜云鴻声腫伝也、所

69

相人おどろきて、あまたたび傾きあやしぶ

(三九

以傳声賛導九賓

一四)

【花】

(孟)(萬)(眠)

【河】

(紫)(孟)(眠)

職員令の玄審察をは訓に法師まらうとのつかさと

三代実録日仁明天皇嘉祥二年渤海國入観、大使王

よめり。玄は僧、蕃は客なり。僧尼といふ物もむか

父雑望見光孝天皇干時親王在諸親

王中拝起之儀、請

し百済国より来朝せしゅへに蕃客とおなしく此寮に

所親日此公子有至貴之相、其登天位必 

つかさとる也。又鴻腫

の腫は腹前日腫、鴻のなく時

史記日卑相賢者魯人也、以読書術

為吏至大鴻腫、有

47

声をいたす所也。故

に鴻腫は声を伝るといふ心也。

相工相之当至丞相、有男四人使相

之、至第二子其名

異国人来朝の時は通事といふ

つかさありて両国の心

玄成、相工日此子貴当封侯

さしを

つたふる故也。

.

又日老父相呂后日夫人天下貴人、

令相両子、見孝恵

68

右大弁

の子のやうに思はせて

(三九

・一四)

日夫人所以貴者乃此男、相魯元亦

皆貴。

【河】

(眠)

大鏡勘文云古老伝云、延喜御時異国相者参来、天皇

右大弁

元明天皇和銅五年十

}月辛巳加左右弁官史

御干簾中、聞御声云、此人為国主歎、多上少下声也、

生各六人、通前十六員。

叶国躰云々。天皇恥給不出御、

次先坊保明太子

左大

尚書者管轄之任、権衡之職也。上象七星七弁也故也。

臣時平

右大臣菅家

列座、依勅令相云第

一人先坊容貌

漢朝尚書郎親近之官也。価口合鶏舌香、手提蘭故云

過国第二人時平賢慮過国策

三人菅家才能過国、各不

握蘭之職也。

叶此国不可久欺、貞信公為浅膓公卿遙離列侯給、相

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者遮申云彼傑人才能心操容貌叶国定久奉公欺者。

生此神人如我相法太子在家当為転輪聖王主四天下若

案之古賢皆載此注頗有疑胎保明太子本名崇篤者延喜

不楽居家当為自然仏度脱万性 

三年誕生、同四年二月立太子ニォ、同廿三年三月十

71

博士にて

(四〇

・五)

日莞廿一、聖廟者昌泰四年正月廿五日遷太宰権帥給、

【河】

(眠)

然者前坊誕生以前御遠行也、列座之条頗以参差伝記

博士

漢書日明於古今温故知新謂之博士

之誤飲、相者参来条者実事欺。

聖徳太子習内経於高麗僧彗慈、学外典於博士覚苛並

或記日西宮左大臣行幸供奉し結けるを、伴別当廉平

悉達 旧事本紀

といふ相人みて

「容貌人にすくれ給

へり。いまたか、

天平二年始置文章博士

るいみしき人をみす」とほめ申けるか、うしろをみ

職員令日博士

一人掌教授経業課試学生

神亀五年七

「背に苦相あり。おそらくは赴請所給

へし」とい

月廿

一日勅置律学博士二人

大同

三年二月四日格置

ひけり。

紀伝博士

承和元年三月八日格停紀伝博士加文章博

48

高麗人の詞にも光源氏を

「いさ、かみたれうれふる

一員

事やあらん」といへり。相似たる欺。玄成西宮和漢

72.文など作りかはして

(四〇

・六)

躍跡

一同欺。

【眠】

箋作文也。鴻腫館

にて蕃客

と作文

の例おほ

70

国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相

し。文粋

ニアリ。延喜八年夏、後江相公朝綱此所に

(三九

・五)

て蕃客を送る時の詩に云、「前途程

遠馳思於雁山之

【孟】

(萬)(眠)

暮雲

後会期遙箔綾於鴻腫之聴路」云々。或抄云、

弄浄梵王太子の誕生の時、阿私多仙人奉相之語暮相

此時蕃客涙をなかして感して後数年を

へて日本の人

似也。

に問て云、朝綱は三公の位に至る

や。答云、いまた

瑞王経云、王語夫人国有道人年百余蔵書旧多識可相

し。渤海の人の云、

日本国は賢才を用る国にあらす

子乎、夫人日善乃令相之阿夷既相尋目玉言敢賀大王

と云事をしりぬと云々。

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73

皇子もいとあはれなる句を作りたま

へるを

(四〇

内より出給ひて、此右衛門督馬頭

の物みよりさしい

八)

てたり

つるこそむけに出家

の相近くなりにてみえ

【眠】

源氏君、詩を作り給也。或抄云、

つほの

れ。いくつそとの給ひけれは、頭中

将能信十九にご

物語

に云、「式部大輔左大弁かけて清原

のおほきみ

そ成給らめと申けれは、さてはことしそし給らむと

りけり。みこはらにおとこ

一人いできにけり。心

ありけるに、かくと聞てこそさればよとの給けれ。

のさとき事かきりなし。七歳になる年父こまうとに

相人ならねとよき人は物を見給なり

と云々。されは

ふ時此子父にもまさりてこま人と歌を

つくりかは

必相人ならねと

こ覧しうる所ある

へし。又古事談に、

しけり。十二歳

にてかうふりし

つ。このとしかけか

先坊時平菅家を相し奉りし時、貞信公を何も日本に

たちけうらにさえのかしこき事さらにたとふへきか

相応したる臣下

にて、国に久しく奉公あらんと申た

たなし」と云々。源氏君も七歳にてふみ始なとし、

るを、寛平法皇きこしめして、三人

の事をは見及は

こま人

に達て句を

つくり給

へる事十二歳にて元服し

す。貞信公

にをきては必向後よかる

へきのよし御覧

49

ふ事かたかた思ひよそふる欺。

しうる所也云々。価第

一の姫宮を朱

雀院

の西対

にて

74

帝、かしこき御心に、倭相を仰せて

(四〇

・一四)

嫁嬰の儀ありと云々。貞信公は其時参議

の大弁也。

【花】

(孟)(眠)

寛平法皇おなし東対

におはしますと

云々。

これ又天

藤原仲直か光孝天皇を相したてま

つり、廉平か高

の人を相し給し事也。其う

へ子を

みる事父にしか

明公を相せしはみなやまと相なり。

ずとい

へり。愚案は桐壺御門のやまと相を源氏君に

【眠】

(1略1)大鏡云、いまの右衛門督そ、とく

おほせて、かねておぼしめしよりた

るに、相人の申

より此君右馬頭顕信也、御堂関白ノ六男をは出家の相

こそ

たるもたかはぬときこえたり。如何。相をおほする

おはすれとの給て、中宮の権大夫殿のうへに御せう

は課の字也。ト籏元亀にもな

にの課

とあり。以上愚

そこきこえ給けれと、さる相ある人をはいかてとて

後に此大夫殿をはとりたてま

つり給

へる也。正月

75

無品親王

の外戚の寄せなきにては漂はさじ

(四

一・

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一)

新式一巻

勘解由使勘判例

新定酒式

一罪法事三部

【蝦】

或抄云、惟高惟仁清和天皇は外戚

のちかひに

律+二巻

令+巻柏兼政理方也

類聚検非違使宣旨勘糺事

て清和位につき給。さやうの事差別ある例也。私職

一諾雑事

類聚国史二百巻

始従日本紀至子仁和之雑事無有

原抄云、親王元服之時叙品、当代后腹親王者三品、

遺漏

これらみな臣下のかならす学

ふへき物とも也。

自余者四品云々。

77

源氏になしたてま

つるべく思しおき

てたり

(四

一・

76

いよいよ道々の才を

(四

}.四)

七)

【河】

(眠)

【紫】

貞観七年

授蜀正格斉州都督

太宗謂侍臣

札記日報伎以事上者祝史射御医ト及百工注目言伎謂

父母之情豊不欲常相見邪

但家国事殊須出作藩屏

此七也

且令其早有定分

絶観観之心概観者希望也

【孟】

(萬)(眠)

【河】

(花)(眠)

天下をたすくへき人は、博学ならてはあしかる

弘仁五年遂下明詔男女部属光人初賜源朝臣姓、其

50

きよし見えたり。無学行政如無燈夜行と人不学不知

名男皆用

一字、其爵女同叙従四位弘仁源氏本系序

源順

道ともいへり。

信北辺大臣、母広井氏

弘広幡大納言、母上毛野氏

【眠】

[臣下の学ぶべきもの]

東三条右大臣、母飯高氏

寛四条大納言、母安倍氏

明横河宰

箋西宮云凡奉公之輩可設備文書

一礼儀事+

一部

相、母同党大臣

貞姫正四位下、母布施氏

潔姫忠仁公室、

江都集礼百廿六巻

沿革礼十巻已上暦書

内裏式三巻

母当麻氏

全姫尚侍、母同潔姫

善姫母百済氏

式暦

儀式+巻

年中行事

外記庁例

弁官記

弘仁五年五月八日賜源姓是源氏始也。皇子珊六人賜

位例

除目例

外記内記等文書目録

一政理事+部

源氏姓皇女十七人。

群書治要五+巻

貞観政要+巻已上暦書但君臣之聞事尺、此書

源氏本系上云

嵯峨御後弘仁

諸司式延喜式五+巻

三代格各三+巻

今案式有+二巻

寛平元年十二月廿三日初定

(七代源氏年爵次第弘仁・

天長格抄

官奏報申文例等

宣旨目録

交替式三巻但

承和・元慶・仁和・天安・貞観・寛平是也)

(弘仁源氏隔二

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年預爵権大納言兼行右近衛大将民部卿中宮大夫菅原

言聖択不敢不奏謹以申不許之

朝臣云々宣奉勅

天暦六年正月初加延喜御後)

【花】

(孟)(萬)(眠)

代々源氏大臣外除之

左大臣信

左大臣常

左大臣融

醍醐の御子高明親王は、元服以前

源氏の姓をたま

以上弘仁

右大臣多

右大臣光以上承和

右大臣能有天

ふ。六条院は其例也。

左大臣高明

左大臣兼明延喜

此外貞観元慶仁

78

先帝の四の宮

(四

一・一二)

和寛平源氏無大臣価不注也

【紫】

後漢書云、周礼日、王者立后鄭玄註日、后之言

日本後紀日弘仁五年五月甲寅詔日朕当揖譲纂践天位、

後、言在夫之後也、故以女謂後達

徳塊睦迩、化謝箪遠、徒歳序、屡換男女梢衆未識子

【河】

(孟)(萬)(眠)

道還為人父辱素封邑空費府庫朕傷干懐思除親王之号

此先帝相当光孝天皇欺。典侍詞

にも

「三代宮

つか

賜朝臣之姓編為同籍従事於公出身之初

一叙六位唯前

へ」とあり。光孝宇多醍醐

(たる

へき)歎。醍醐帝

号親王不可更

(改)同母後産猶復

一例其余如可開者

女御和子号承香殿女御為子内親王は仁和皇女也。此等

51

朕殊裁下夫賢愚異智頭育同恩朕非忍絶廃体余分折枝

例欺。

葉固以天地惟長皇王遙興豊競康楽於

一朝忌彫弊於万

【眠】

(孟)(萬)

代普告内外令知此意

弄此先希いか、。花鳥

二朱雀院ノ行幸

ハ宇多御門

乙卯云々是日公卿奏状奉今月八日詔書儒歳序屡換男

.

二比

スヘキ欺云々。箋河云光孝相当欺。花

ニハ宇多

女梢衆未識子道還為人父辱累封邑空費府庫思除親王

欺。私云箋

二光孝

二合点

アリ。然ら

ば桐壺御門の必

之号賜朝臣之姓編為同籍従事於公出身初

一叙位六位

さきの御門とは見るへからず。ロハ大

やうに先帝と見

者陛下則誓承基窮神開化然猶垂顧彫弊降除正号抑愚

るへきなるへし。

育長久斯誓計天下未有臣等見之 唯我国家聖緒

一統

79

三代の宮仕に

(四二

・三)

初無五運君臣之位自然各定若除親王之号叙庶人之位

【細】

(孟)(萬)(眠)

託封邑之費卑枝葉之曹恐後世之有識謂前時之不穏狂

河海光孝宇多醍醐かと有。然而さして三代にてな

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くともロバ久しくといはんため欺。

臣高明を光源氏と書之。

80

后の宮の姫宮こそ

(四二

・四)

【眠】

箋此外重光少将

ヲ光少将と

云。是等

ヲふく

【眠】

私此詞先帝はおはしまさて母后宮

はかりお

めり。

はするとみえたり。然は光孝

に准し奉る義可燃歎。

84

藤壷ならびたまひて御おぼえもと

りどりなれば、

紅葉賀を寛平に准せは御賀の比猶おはします

へし。

かかやく日の宮と聞こゆ

(四四

一一)

又其巻の末にとしの始の参座し給にも内春宮

一院と

【河】

(紫)(花)(孟)(萬)(眠)

あり。いかさま此先帝藤壷入内の時

二現存

二八おは

'

中宮彰子御堂女上東門院+二歳入内のまいらせ給しお

しまさす。侃光孝ノ准拠尤可然欺。

りこそか

、やく藤壷と世の人中けれ栄花物語

81

母后、あな恐ろしや

(四二

・七)

皇女入内事

昌子内親王朱雀院御女

【河】

(孟)、(眠)

.

85

十.二にて御元服したまふ

(四四

・一四)

左伝云、帝嫡妃日皇后、帝母日皇太后宮、帝祖母

【紫】

52

日太皇太后

醍醐

延長七年二月十六日、当代源氏二人元服、垂

82

源氏の君は、御あたり去りたまはぬを

(四三

・七)

母屋壁代、擬昼御座、其所立椅子、御座孫庇第二間、

【眠】

或抄御説、高明公童にて七歳

の時源氏

の姓

有引左右大臣座、其南第

一間並円座二枚、為冠者座

をたまふゆえ源氏君と申し其例也云々。

並西南又円座前置く円座又其下並理髪具皆盛折敷、先両大臣

83

世の人光る君と聞こゆ

(四四

・一)

被召着各着円座、引入従遠若本座、次冠者二人立座

【河】

(紫)(孟)(萬)(眠)

退下、於侍所改衣装、此間両大臣給禄、於庭前拝舞

亭子院第四皇子敦慶親王二品式部卿母同延喜帝延喜八年

不着沓、従仙華門退出、於射場着沓擬禄、次冠者

二月廿八日莞号玉光宮好色無双之美人也。式部卿是忠

人入仙華門、於庭中拝舞、退出、参仁和寺、帰参

親王仁和御後始賜源姓号光源中納言

源光仁明天皇源氏

震儀御侍所椅子、親王左右大臣已下近臣等同候、有

号西三条延喜元年任右大臣

日野系図と

いふ物に左大

盃酒御遊、両源氏候此座候四位親王之次依仰也、奥方壁下

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也、深更大臣以下給禄、両源氏宅各調屯食廿具、令

灘南子日歳星而周天天道

一備故国君十二而冠而嬰十

分諸障所畢

五而生子重国副不従古制也

朱雀

屯食事、天慶三年親王元服日、内蔵寮十具、

人生十二を

一周といふ。此歳冠和す

る和漢例也。

穀蔵院十具、已上検校太政大臣仰之調之、衛門府五

86

南殿にてありし儀式

(四五

・一)

具、督儲之、左馬寮五具、御監仰儲之

【河】

紫震殿謂之南殿

御帳同清涼殿、無几帳、立

南殿版位東其東香典殿日五辛櫃十合件等物、有宣旨

御椅子、北二立賢聖、御帳間戸

二書師子狛犬、又御

自長楽門出入上卿仰弁官、分給所所、史二人匂其事、

帳外南面母屋庇南格子

ハ常

ハ被下之由見建暦御記

仰検非違使、分給弁官三、太政大臣二、左右近三具、

【萬】

南殿とは紫寝殿を申也。其

の皇子は清涼

左右兵衛二、左右衛門二、蔵人二、内記所

一、薬段

段にて有法也。

御書所内堅所校倉殿作物所各一、内侍四采女

一内教

【眠】

天皇御元服も索痕殿南殿也。

一糸所

一御厘殿

87

所どころの饗など、内蔵寮、穀倉院

(四五

・二)

53

【河】

(眠)

[元服について和漢の例]

【眠】

箋北山抄云所

々饗膳事

臆女房

礼記日天子之子十二而冠

殿上

蔵人所

両亮諸大夫二百膳

穀倉院屯食

春秋公羊伝嚢公年十二而冠依八代記即小昊亦十二而

五+具盛+五具

大夫+具

臆別納各甘貝

以上応和例

冠則知天子諸候幼即位者皆十二而冠 

云々。同内蔵寮

一町近衛南堀川西

元明天皇和銅元七

左伝日歳星十二歳

一周天天道大備故自夏股天子皆十

月丁酉内蔵寮始置史生四員

仁明天皇天長十年八月

二而冠

丙戌勅穀倉院西南角地東北各廿丈南北各四十丈宜為

宋書志天子諸候近十二遠十四十五必冠 

内蔵寮染作之処。私云内蔵寮は諸国

の綾絹綿などを

小昊顎項夏股帝王周文王魯嚢公告十二而冠云々

納をかれて御服を

つかさとり裁縫す

る所也。

箋穀倉

寛弘七年七月十七日甲午今上親王元服

一条院+二

院二条南朱雀西、納畿内諸国銅銭

・無主位織田

・及

長保五年二月廿日庚辰左大臣男元服宇治関白+二

没官田

・太宰稲等諸庄物、勤年中饗。有公卿及四位

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五位別当預蔵人等。私此所

には五畿内諸国の銅銭、

【眠】

箋於清涼殿元服親王

一世源

氏等也、天子東

無主の位織田、没官田なとの稲なとを納めらる。官

営紫農殿也、但延喜御門太子之時寛平九年七月三日

位に

つけてある事也。年中の饗膳かたを

つかさとる

於清涼殿簾前加元服、大夫時平権大夫菅家加冠左中

也。

将定国理髪即日受禅。

88

おはします殿の東

の廟

(四五

・六)

89

椅子立

てて

(四五

・六)

【河】

(眠)

[東庇の説明]

【花】

(萬)(眠)

清涼殿東庇也建暦御記二みえたり

今案親王の元服の時は昼御座を徹して大床子二脚

清涼殿五ケ間也。北第

一間母屋為御路次御腋問獅子

をたてて出御あり。源氏の元服には殿上の御椅子を

狛犬帳前南北、第三間床子三脚、第四間奥有御厨子有

つさるるなり。

いまも小朝拝なと

の時は六位蔵人

置物御厨子二脚、第五間四季御屏風石灰壇、弘廟板九枚、

二人、殿上

の御椅子をかきてこれをた

つる事あり。

二立荒海障子南手長足長、北面障子宇治網代布陣

西宮抄

のことくは御装束同親王儀とあれは、なを大

54

子墨絵也、二間与上御局之際

二南

二見明池障子、北

床子所にた

つへきにや。其下に天皇御侍椅子とあり。

二嵯峨野小鷹狩、南切妻

二布鳴板号見参板、向上戸

殿上

の御椅子はもとのままにてありとみえたり。

被立年中行事障子、見建暦御記

【眠】

延長七年二月+六日、清涼殿にて当代の源氏二人元服の

【花】

(眠)

[元服の式次第]

事、李部王記式部重明親王記、奥入にのす。略之。或抄西宮左大

西宮抄

一世源氏元服御装束同親王儀但源氏座在孫庇西面

臣口回明小倉の中書王兼明、二人源氏にて一度に元服。此みこたち

北上前置円座其下置理髪具入柳筥

引入着座召源氏着着座

何事もすくれ給へとも、更衣腹にてよせなき故源氏に成給。いつ

召蔵人置理髪具理髪被召着円座入巾子候便所

引入着

れも延喜の皇子也。かやうの事をおりはへてかける歎云々。

座引入退

冠者下於下侍改善黄衣拝舞入自仙花門

引入禄

箋南殿にての儀は椅子を用る也。清涼殿にては椅

拝舞天皇御侍椅子王卿已下候有御遊盃酒源氏候四位上王卿給

子を用る事なし。凡椅子は南殿に

ての儀也。椅子と

禄本家分屯食廿具諸陣

兀子は両様也。冠者加冠理髪をのを

の平又の椅子也。

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但上卿の座は毯代をしかす。案之に、此段句ぎりに

元服南殿

ニテありしにおとさせ給

はずとあり。

心あるへし。おはしますてんの東のひさし東むきに

大蔵省

[本朝との比較]

椅子たててとよみきりて、是は主上

の御椅子也。冠

周礼地官吏部之属歎、本朝別置当省不叶異朝之准拠

者の御座引入の大臣の御座おまへに有ト引はなして

者欺、此省掌諸国租税諸公事之時成切下文令支配一

よむときは常の平座ときこえたり。然れば椅子の先

国々者也

例を尋ぬるに及はす以上箋

蔵人所

[濫膓等]

90

申の刻にて源氏参りたまふ

(四五

・七)

嵯峨天皇御宇、弘仁年中始置之、模異朝侍中内侍等

【眠】

箋成明親王

元慶三年

二月十五日中時、綾

`

戦勲、彼侍中尤為重任内侍者富者之任也、本朝弘仁

綺殿の東の庇にて御前にをいて元服をくはふ。此時

以往少納言及侍従為近習宣伝之職、而弘仁初置当所

剋ほとの事も心をつけてみるへし。先例なき事はか\

以公卿第

一為別当左大臣流例也、四位侍臣中撰其人為

ぬそ。

頭上古五位頭有例、五位中又撰補三人

、六位中又撰補

55

91

大蔵卿くら人仕うまつる

(四五

・九)

四人近代五人、謂之職事、又為要籍駈仕六位中撰良

【河】

(眠)

家子令候殿上謂之非蔵人

雄略天皇之世始有大蔵卿之号。即以秦公酒為大蔵

【花】

(眠)

官頭云々。

一説云、大蔵卿

ハ理髪蔵人

ハ役送両人名

諸説ありといへとも下の詞にいときよらなる御く

欺。又云、理髪役

ハ蔵人頭也。而故障之時大蔵卿勤

しをそくほと~あれは理髪の人を

いふときこえたり。

之歎。又云、蔵人頭兼大蔵卿欺。蔵人

の大蔵卿とも

しからは大蔵省の蔵人は、蔵人頭の大蔵卿といふご、

大蔵卿の蔵人ともいふ欺。代々理髪蔵人頭例也。又

うなり。

云、大蔵卿蔵人所共

三兀服の所役を勤欺。但親王元

92

上は、御息所の見ましかば

(四五

・}○)

二大蔵省禄を儲事無先規歎。然而是

ハ准東宮御元

【眠】

秘まこと懐旧の御心さそとあはれなる御事

服儀欺。詞にもかきりあることに事をそ

へ春宮の御

箋元服之時后宮候簾中例

延暦七年正月甲子皇

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后御前殿

延喜御記日承和五年日記女御尚侍ノ料

き也。あさきとよめは、緑

の色ときこゆ。権記の心

障子二脚ヲ立ツ。又屏風ヲ以テ座ノ後

二施ト云々。

也。所詮この物語はきり

つほの御

門を延喜

の帝にな

93

かうぶりしたまひて、御休所に

(四五

・一二)

すらへ侍れば、長和以前

の事也。

西宮抄

【世源氏元

【花】

(眠)

服の所にも黄衣とあり。かたかた黄抱之説を用

へき

御やすみ所は冠者の休所也。康保二年八月御記云、

なり。

下侍東第

一間施立屏風、其中敷土鋪

二枚菌

一枚並用

95

下りて拝したてま

つり

(四五

・一四)

本家為親王換衣所

【眠】

箋親王は仙花門より入て東庭にて拝舞

あり。

今案

]世源氏元服にも下侍をもて休所とす。西宮抄

太子は笏、御衣等を給て堂上

にて拝舞あり弄一註

にみえたり。

96

添臥にもと

(四六

・八)

94

御衣奉りか

へて

(四五

・=二)

,

【河】

(紫)(孟)(眠)

【花】

(眠)

.横陳

往日在身傍横臥也

遊仙窟

56

又御衣たてま

つりかふとは、元服の後、装束わら

延喜十二年十月廿二日保明親王

元服夜故左大臣時

はの時にかはる

へきなり。童体の時は赤色の闘腋の

平女参、俗調副臥乎李部王記

寛和二年七月十八日三

抱を着す。殿上童にも赤色なり。元服の後は縫腋の

条院干時親王

御元服同

日皇太子法

興院大相国女尚

黄抱をたてま

つる

へし。但延喜縫殿寮式云、無位浅

侍淳子為副臥見大鏡

黄也、これによりて長和二年三月廿三日行成卿記云、

光源氏通執政臣女事

新冠両正着黄衣其浅黄也世称之黄衣

権記の意は、

九条右大臣の女にはしめ

てつかはしける

新古今

纏縫殿式の浅黄をみとりの色と会釈して世称之黄衣

とし月は我か身にそへてすきぬれと思ふ心

のゆかす

といふ詞をのこし侍り。しかありしょりこのかた無

もあるかな

西宮左大臣

品親王の服或緑抱を用る時あり。縫殿式の浅黄に二

【眠】

箋元服当夜嫁嬰例

村上第

四皇子為平親王

の心あり。あさき黄とよむ時は令文

の黄衣と相違な

御竈甚

侃高明公女元服夜被進之

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97

さぶらひにまかでたまひて

(四六

・一〇)

儀に回しといへるは猶大床子の御座たるへし。天皇

【河】

(眠)

の侍の椅子におはしませは元服の儀はて、主上殿上

侍殿上事也

親王元服時下侍二倍休所例也。殿上六間

に出御ありて御椅子につき給て御遊

の事有べきにや。

也。神仙門東三関西三間也。上戸有小蔀主上殿上を

是は物語の心に相違す

へし以上花。

御覧ずる処也。椅子有覆懸樟

奏杖和琴盤三脚囲碁

私さふらひにまかて給

ておほみきま

いるとあれは、

弾碁局簡在袋

朱辛櫃火櫃夏秋撤之等アリ。

又横敷

殿上にて御遊盃酒はありとみえたり。末にまいり給

二在硯瓦硯。春冬

ハ有垂幕小板敷ノ西

二有樟間小庭

へきめしあれはといふは、此時御殿

へめされて禄天

二時簡膳棚あり。又近代横敷坤角柱

二付蘇芳鋼テ召

盃なと又給はり給

へるなる

へし。前

に限ある事に事

小舎人之時蔵人引之二条院御時以後事也建暦御記

をそへといへるは如此事歎、如何。

【花】

(孟)(眠)

98

大御酒などまみるほど

(四六

・一〇)

(1略1)

源氏元服の時、主上さふらひ所の御椅

【河】

(眠)

[みきの語源など]

57

子につき総て御遊盃酒なとありと西宮抄にみえたり。

旧事本紀云干時吾田鹿葦津姫以ト

定田号狭名田以

其時冠者は親王の座の次

に着する也。此物語のおも

其田稲醸天甜酒嘗之 。本朝事記云天皇品院之代於

ては内侍せんしうけ治りつたへておと\まいり給ふ

吉野之白梼上作横臼而於其横臼醸大御酒献大御酒之

へきよしあり。其下の詞に御さか

っきのついてに御

時撃口鼓為皮。

歌なとよませ給

へるよしみえたり。しからは盃酒の

或神酒

諸神の祭に皆酒を供する故也。神字をみ

事も御殿にてあるへきにや。

とよむ也神子。酒ヲキトヨム也。

【眠】

(花)

又云三季冬造て春熟し夏欲する故

二季ト云也。

(1略1)

又花鳥

一本云、西宮

にいへることく、

文選にも冬醸接夏て成て千句の兼ね清と云ト見たり。

御遊盃酒は殿上にて有て引入大臣をは更に御前

へめ

又云三寸酒ヲ飲者去風邪三寸侃号之寸字をきとよむ

されて御盃を給はるなるへし。追案に御装束親王の

なり。忌寸馬

四寸五寸といふ也。万葉云、十寸と

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かきてすき鶴寸をた

つきなととよめり。

.

かと覚えたり。さてけしきばみ絵事とは左大臣の源

又云三木

杜康造酒豪求

杜康が妻男

の外

へゆきけ

氏を智にとる

へき事をほのめかしたる様二諸抄

にし

る間

二男の日々の飯を薗木の三またにそなへをきけ

るせり。然とも三光院此義を用られす。源氏の座列

るか雨露

二潤テ酒となりける也。これを樹伯二祭る。

いはれなき次第なるを左大臣の気色ばみたる也云々。

此事吉野の

(白)かちの古事に相似タリ。和漢の起

近年用此説也。

一同也。

.

(頭注)

「西宮

一世源氏元服ノ次第

二八源氏候四位上

99

親王たちの御座の末に源氏着きたまへり。大臣気

之由載之」

色はみきこえたまふこと

(四六

・二

)

御前より、内侍、宣旨をうけたま

はり伝

へて

(四

【孟】

此程のことく親王のなみに着給。元服して

・一四)

よりは臣下の列なれば末に着給

へきを源氏の分別な

【河】

(孟)(眠)

くしてまします程に、大臣の申たく思

つれともと云

内侍宣事蔵人奉勅宣下事也見西宮記

侍中者内侍

58

をけしきばむと云也。

これをむごにとる

へきとてけ

也見後漢書金口碑伝

不付太政官付蔵人奏をは内奏と

しきはむと此間先達とのよめるはあやまり也。何事

いふ也。

に智君にとるへき心にてある

へきそと称名院入道右

【眠】

箋西宮にいはく内侍

つま戸

のもとにを

いて

府の今案のよし被講也。

引入をめす。女蔵人禄を給ふ。長階

をくたりて沓を

【眠】

秘引入大臣の家

へともなひ申

へきよしの事

はかすして庭前にて拝舞云々

也。箋花鳥には御遊盃酒の時冠者

の源氏は親王の座

大臣参りたまふべき

(四六

.一四)

の次に着ト云々つ又李部王記延長七年当代の源氏二

【眠】

(1略1)

秘引入大臣も殿

上の盃酌

の座

人元服ノ時盃酒御遊の間、両源氏四位の親王の次に

おはしますを御前の

一献

にめした

てらるるよし也。

つく。仰

によ

って也云々。源氏無位

の人なれば親王

内侍宣旨うけたまはるといへるを蔵人方の宣旨をば

の次に着

へきいはれなき故に別勅にて如此とかける

内侍宣とい

へは只蔵人なとしてめしたるかといふや

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うに河海にしるされたる歎。此所はたた女房

の中

長階

舞踏手の無足の踏也

内侍たる人う

への仰をうけたまはりて殿上人なとし

北山記云、再拝次左右左立、次左右

左居、揖後立拝

てった

へめす儀にてやとみえたり。然は此掌侍は誰

次小指

とも系図はなし。

今案先立小指、次再拝次置笏於左立左右左次居左右

白き大桂に御衣

一領例のことなり

(四七

・一)

左次取笏居揖次立再拝次小揖退出、已上内院之儀也、

【紫】

糊膏大小。宮

一の人用之。

又あるしとおほ

他所只再拝退出

一説前中後揖有無依官也

しき人もちみる也。きぬのうへにうはきおめらかした

【花】

(孟)(眠)

るうへはをり物なかへ、うらはひとへもんのみへなり、

きぬの

長橋といふは、御殿より南殿

へかよふ廊也。大内

いうにしたかひたるにほひなり。きぬには二寸はか

の時は此所にきさはしありて東庭におるるみちあり。

りおとるへし。うはきのうへにうちき、

いうかさね

引入の大臣なとも此階よりくたり

て御前のた

つみの

はこれもうはきのことし。寸法のおとりたる也。小

かたにて御前

へむきて舞踏し侍る

へし。

59

袖のながさなるへし。

蔵人所の腐すゑて

(四七

・八)

【河】

(孟)(萬)(眠)

【河】

(眠)

白大掛

一領

親王元服加冠禄白大掛天皇御元服御

左馬寮御駕蔵人所

ハ校倉殿北面也。御鷹飼御随身

一領也

ハ蔵人所の被官也。常儀

には親王元

二馬を引

二不

}説樹有大小着衣上云々

うはきの上にうちきを着也。いろ

及若布遊宴之興者可引之由新儀式

二見えたり。鷹事

かさねはきぬにしたかふなかさ小袖とひとし。中へうらあり

有行幸巻、凡上古如此の禄

二馬鹿定事也。臨時客尊

【眠】

箋西宮加冠の人

の禄白大掛

一かさね御衣

者以下可然引出物

二必送之者也。或説云、親王元服

かさね也。延喜九年二月内侍取之大臣加白橡御衣

時賜鷹避道例也。有西宮記云々。上

卿要抄云、御鷹

長橋より下りて舞踏したまふ

(四七

・八)

飼事蔵人奉勅仰検非違使馬寮等以所下文仰禁野云々

【河】

(紫)(眠)

【花】

(孟)(萬)(眠)

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左のつかさの御馬とは左馬寮

の御馬也。蔵人所の

出自侍所、候御簾下、御覧了出之所衆出納等牽犬、

鷹といふは鷹飼は蔵人所

の所掌也。近衛随身さなら

入自他花門、脆御前、令覧了各牽出其後召犬飼等、

ぬ人も御鷹飼に補せらる。むかし出羽陸奥国より鷹

覧之各牽犬、蔵人頭蒙勅、令班給鷹鷹犬、第

一御鷹

を貢せしも蔵人所より奏する也。但親王源氏の元服

犬等被奉青宮、次賜近江供御所、次御鷹飼次第相取

にむま鷹を引出物にする事はわたくしの家

にては其

之出西陣下、行此事、須奉宮之後給御鷹飼等、然後

例あり。禁中の儀にてはたしかならされともいさ\

給供御所御鷹飼者也。不知先例欺随御薦次第給犬也

かも面かけある事はあひよりもあをくかきなせるは

右鷹飼為蔵人所之所掌証也。出羽

よりたてま

つる

此物語の作様なり。

鷹を御覧せ給ふ時は、殿上の侍臣腎にす

へて覧之、

国史云、陽成天皇元慶七年七月五日己巳勅弘仁十

犬をは所衆出納等これを引て東庭

にひさま

っきて

年以来主鷹司鷹飼光人犬辮牙食料毎月充彼司。其中

覧する也。源満仲も村上御門の御時の鷹飼の

 な

割鷹飼十人犬十牙、充蔵人所。貞観二年以後無置官

り。

60

人、料事停止。今鷹飼十人犬十牙料永以食充蔵人所

吏部王記云、承平四年十二月廿七日允明源氏於中務

村上天皇御記天徳五年正月十七日召陸奥所造鷹犬於

卿親王家加冠云々。引入纏頭女装束贈馬鷹理髪女装。

侍所覧之助信中之

朝忠朝臣令中之故御答武仲通喪

同記承平七年二月十六日与中務卿君詣東八条院因

 

之間、以源教権為御鷹飼。以件例左近府生公用遭喪

行明親王今日加元服先日被招之故也右近少将良峯朝

之間以源撰被補御鷹飼。価使令補撰々此故済男也

臣義方理親王髪左大臣加冠云々、其左大臣女装加紅

同御記云、康保二年七月廿

一日仰蔵人頭延光朝臣云

細長賜鷹馬

一義方女装加重装束

 

以左馬助満仲右近府生多公高兄右近将監公用譲

右近

同記天慶五年十

一月廿二日盛明源氏加元服右大将実

番長播磨貞理又右馬属陳平譲等置為御鷹飼

頼卿加冠纏頭大将には加馬鷹各

小右記云、天元元年四月廿五日昨日従出羽国鷹八聯

右元服引入の禄に馬鷹を給ふ例也。但此等例は、

犬八牙、令籠物忌、今日御覧侍臣等不整束帯、腎鷹

禁中之儀にあらす。私家の例也。

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同記承平五年十二月二日左衛門督男元服云々。纏頭

【眠】

私引入大臣の禄に馬鹿なと

はなきと也。

王公及理髪者二親王

ニハ各層

一疋理髪

二八加鷹

きりある事

に事をそ

へと前の詞にいへるはこれらの

小右記天元二年二月廿日八宮御元服傍参小

一条院理

類なる

へし。

髪頭中将正清引入左大臣雅信引入禄井馬

一疋理髪鷹

御階

のもとに、親王たち、上達部

つらねて

(四七

一聯在之

九)

右理髪の人の禄に鷹を給ふ例也。

【眠】

(孟)(萬)

李部王記天慶四年八月廿四日晩景詣為明源氏五条宅、

清涼殿の階下なる

へし。親王公卿まて也。

つらね

其寝南廟東頭西向引入座土敷二枚加菌即催左衛門督就

ては列して也。秘親王以下の禄を給也。弄問云、引

引入座、膓行六七巡纏頭引入女装

一襲加小掛

一重、

入大臣の外の人々禄を給る事も例ある歎。

}答源氏

引出物馬

一疋理髪纏頭了。余退帰道賜馬

一疋鷹

一聯。

君の元服に禄を給事は春宮の御元服の時の儀を表す

右元服の時見訪王卿の引出物鷹を給ふ例也。

る也。其例諸卿ことごとく禄をたまふ也。私

これも

61

今案野行幸之時は四位以下の鷹飼は狩衣

に帽子をき

事をそ

へたる義とみるへし。

る。正月大饗の日は随身鷹飼の装束を着す。綿帽子

.その日の御前の折櫃物、籠物

(四七

・一一)

括染狩襖鷹を腎にす

へ、枝に付たる維を持

て野より

【河】

(孟)(萬)(眠)

すくにまいれるよしを表するなり。

いまの物語のこ

西宮記云木物枝物共菓子也籠をく

みて薄様をしき

とくは、加冠の禄の鷹たれ人これをすへ又いかやう

て五菓を入て木枝或松に付なり。大臣以下取之後

の装束を着す

へきそや。此事たしかなる所見なし。

は膳部

に総て調せらる。元服の時

の人のささけたる

但鷹飼のためにあらされは、野装束を着す

へきにあ

者也。

らす。蔵人所の御鷹飼随身なとの常

の装束

にて鷹を

掌中暦日五菓柑橘栗柿梨

腎にして引入の大臣の随身

にわたす

へきにや。しか

【花】

(孟)(萬)(眠)

らは、ゆかけをさして鞭を持

へきにや。

献物は惣名なり。元服の人のた

てま

つる物也。そ

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の中に籠に入たるをは籠物といふ。又折櫃に盛たる

大臣座、其南第

 間置円座二枚為

冠者置西面又円座前

もあり。親王元服の時は籠物あり。王卿以下

これを

又置円座又其下置理髪具皆盛柳筥先両大臣被召着円座、引

とりて庭中に列立す。第

一の大臣

一人座にととまり

入詑遠若本座、次冠者二人立座退下於侍所、改衣裳。

て、なにその物そとた

つぬれは、上首の人奏云、其

此間両大臣給禄於庭前拝舞不着沓、

於仙花門退出於

の奉る御貰と申ておのおの物の名を奏す。その時大

射場着沓撤禄。次冠者二人仙華門於庭中拝舞退出、

臣仰て云、かしはてにたま

へ、すなはち膳部内膳司

参仁和寺帰参、先是農儀御侍所椅子、親王左右大臣

等す

\みいててうけとる也。

一世の源氏の元服には

以下近臣等同候、有盃酒御遊、両源氏候此座候四位

献物なきにや。但此物かたりの詞にかきりある事に

親王之次依仰也奥方壁下也

深更大臣以下給禄、両源氏

ことをくわ

へさせ給ふとみえたれば、

一世源氏の元

宅各調屯食廿旦ハ令分諸陣所々。

服なれとも親王の時の例をもて献物なと右大弁うけ

天慶三年親王元服日屯食事、内蔵寮十具穀倉院十具

給はりて用意せるにや。

注也以上検校太政大臣仰之調之、衛門府五旦ハ督仰儲之、左馬

62

右大弁なむうけたまはりて

(四七

・一一)

寮五具御監仰之儲之、列立南殿版位東

、其東春興殿西

【眠】

箋右大弁勲仕例

天慶

三年

二月十五日源清

立辛櫃十合、件等物有宣旨自長楽門出入上卿仰弁官

平右大弁

勧盃

分給所々、夫二人勾当其事仰検非違使令分給、弁官

屯食、禄の唐櫃

(四七

・一二)

三太政官二左右近衛三左右兵衛二蔵人所二内記所

【河】

(萬)(眠)

薬殿

一書所

一内堅所

一校書殿

一作物所

一内侍所四或

禄辛櫃内蔵寮禄也春宮御元服二在之、親王元服

ニハ

采女

一内教坊

一糸所

】御厘殿

無之歎、但是も結構之義欺

【花】

(萬)(眠)

屯食事

屯食は元服の人

の本家より諸陣

の役者にこれをわ

延長七年二月十六日当代源氏二人元服垂母屋壁代撤

かち給ふ物也。西宮抄

に其子細みえたり。親王元服

昼御座、其所立椅子為御座、孫庇第二間有引入左右

の時は諸官

の長官たる人各下知し

て謁せしむ。これ

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源氏の元服にかはる所也。禄辛櫃は親王以下の元服

もしろき所を御心

の行かきり

つくりみかかせ給

へは

にはこれを立ず。東宮の御元服の時の事也。さて下

今案法興院は二条京極

にあり。もと

は二条院と号せ

の詞に春宮の御元服にかすまさりていかめしくあり

るを正暦二年

に法興院とは名をか

へられたるなり。

けるよしをのせ侍り。

源氏

の御さとの二条院はこれになす

らふへきにや。

宮の御腹は蔵人の少将にて

(四八

・一〇)

m

の心広く

(五〇

.四)

【河】

(孟)(眠)

【河】

(孟)(萬)(眠)

蔵人少将事

楼額題鵡鵠池心浴風凪

白氏文集

光孝天皇仁和四年十

一月始被補之干時正五位下左近

苔生石面韓衣短

荷出池心小蓋疎

物部安興

少将源湛正五位下左近少将藤原敏行也

ちりぬともかけをやとめむ藤の花池

の心そあるかひ

執政臣息補例

もなき

躬恒集

清慎公実頼

貞信公一男、母宇多院皇女源順子

光る君といふ名は

(五〇

.七)

63

延喜十九年正月廿八日任右近衛権少将、延長四年正

【眠】

(細)(萬)

月七日叙正五位下二月廿五日補蔵人廿七

秘光源氏の名

の事をここにてかきあらはせり。西

謙徳公伊サ右大臣師輔一男、天暦二年正月計口任左近少

三条右大臣源光は無双の才人也。

将去七日叙従五位上二月十九日補蔵人

その名をおもひよそ

へてかけるにやと云々。

此内清慎公例相叶歎。父左大臣母宇多院皇女、醍醐

〈論文〉

河添房江

『源氏物語表現史』皿

「光の喩の表現

御宇五位蔵人等也

史」(翰林書房、

一九九八年)

m

里の殿は、修理職、内匠寮に

(五〇

・二)

【花】

(孟)(萬)(眠)

栄花物語

かく

て大殿十五の宮盛明親王のすませ

給し二条院をいみしく

っくらせ総てもとより世にお

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【注解

.解説】

その仕組みの深さは

『河海抄』

「延喜

の御時と

1

「いつれの御時にか」に

ついて

いはむとておぼめきたる也」とい

って、延喜準拠説

物語の冒頭のこの

一句について、【河】

「延喜

をも

って答えたこと

で充足

できるような域を超

えた

の御時といはむとておほめきたる也」といい、【細】

水準にあ

ったと思われる。「いつれ

の御時

にか」

「此物語は、醍醐天皇よりしるす心、彼国史に

延喜準拠説で読み解いた

『紫明抄』『河海抄』

の着

かんの心とみえたり」といい、【眠】は

「紫式部は

眼は秀抜であ

ったが、それだけで終わらない物語

時代をかくす一是作者の粉骨也。たとへは風の詩

方法の深みを探ることが必要

であ

ろうと思う。

「い

漢皇のことをもて唐をそしるかことし」という。.こ

づれの御時にか」は桐壺帝の御代がどのような時代

れは

「いつれの御時にか」という

一句が読者に対し

なのか、桐壷帝はどのような天皇なのか、どの天皇

て深い問いかけとな

っていたこと、、あるいは謎かけ

に比定

できるのかという問であるが、それは桐壺帝

とな

っていたことをよく示している。この

一句をど

の皇統をどのように理解したらよ

いのかという問題

64

のように解すべきか、右はその答えの

}例である。

を孕んでいた。光孝天皇

に始まる新

しい皇統の歴史

読者はこの

一句に対して、その帝の時代はどのよ

を桐壺帝は受け止めており、物語は新しく成立した

うな時代

であ

ったのか、その帝はどのような天皇

皇統の理想を語ろうと七ていたのだと思われる。

ったのかという問いを喚起されたのであり、延喜

〈論文〉

清水好子

「源氏物語論」(塙書房、昭和四

一)、

準拠説や講論の意図を読むのはそれに対する答

えで

「源氏物語の文体と方法」(東京大学出版会、一九八○)。

った。源氏物語は冒頭からこうした問いかけの方

篠原昭二

『源氏物語の論理』「桐壺の巻の基盤について」

あ・いは謎かけの奉

んでいたのだとい・

藷猷鐘

餉転

調驚

てよ

であ

ろう

これ

は読

が物

に参

おける式部

卿任官

の論理」『国語と国文学』

平成

二年九

つ読

ことを仕

んだ物

の方

であ

月。

いう

こと

であ

.

ー4

「人

に参

て」、

15

「こ

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の御諌めをのみぞ」、50

「いとおし立ちかどかどし

重なるのである。立坊をめぐ

っても弘徽殿の才略は、

きところ」、51

「事にもあらず思し消ち」、60

「いと

わが子息帝の立坊を成し遂げた呂后

の才略に通うと、

ひき越さまほしう」、61

「御後見す

べき人もなく」

【眠】は注する。従

ってよい。

これらの項目に

ついて

『眠江入楚』が早くから弘

〈論文〉

清水好子

「人物像の変形」『源氏物語の文体と

徽殿女御を呂后に比定した読みを示七ていたことは

方法』(東京大学出版会、

一九八0)、深澤三千男

「源語と

注目・れ・.賢本巻で藤壷が戚夫人の故事を引用す

網嚢

癩羅

四七)、小学館

るが、桐壺巻の時点から桐壺帝-高祖、弘徽殿-呂

相壺巻の

「長恨歌」引用については論じ尽くされ

后、藤壷-戚夫人、東宮朱雀-恵帝、光源氏一如意

た感があり、事新しく付け加えるほどのことはない

という見立ての構造が潜在したと考えてよい。

が、大きくまとめると

「長恨歌」は①調諭、②純愛、

特に14

「15

.50

.51における弘徽殿女御の造型に

③長恨の主題として引用されたと見られる。

関して、【眠】が呂后の投影を読みとるのは慧眼で

「謁諭」とは6

「唐土にもかかる事の起こりにご

65

あり従

ってよい。桐壺帝は弘徽殿の

「御諌めをのみ

、そ」について、【細】が

「史記の筆謙

のおもき詞と

そなほわづらはしう、心苦しう」思

っていたという

見たり」と注したところを

【眠】がそのまま踏襲す

ように、弘徽殿は帝に対して単に感情的

に反発し

るが(それをはじめとして7

「楊貴妃の例」

につい

恨み言をいうのではなく、後宮の秩序や慣例を挙げ

ては

.【眠】が

「唐玄宗もはしめは明皇也。後に貴妃

ていわば理路整然と道理を説いたのであろう。帝に

へ政乱れし也。・此みかともかくのことし」と述べ、

諌言する弘徽殿にはそうした押しの強さと才略があ

18

「上局に賜はす」

について同じく

【眠】が

「更衣

たのである。彼女の

「いとおし立ちかどかどしきと

寵愛甚しき故に余

の更衣たち色々はしたなめわ

っら

ころ」とは、そうした押しの強さと才略であ

ったに

はす故に、又かくのことく猶うらみ

の有

へき事出来

ほかならない。それは呂后の

「人となり剛毅にして

「る也。世間のならひ如此事よくよく

思ふ

へし」、

42

高祖を佐け天下を定めたり」という人物像に確かに

「長恨歌

の御絵云々」

の箇所で

「併女事

一旦

の愛着

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より万代の乱

二及

ヘリ。能深可患所也」と評したよ

.

十四章

「源氏物語と中国文学」(岩波書店、二〇〇〇年)。

に、それらの引用に調諭の意図を読み取

ったので

78

「先帝の四の宮」、79

「三代の宮仕に」、80

「后

ある。その謁諭

の主題は

「長恨歌」に内在したと考

の宮の姫宮こそ」に注される

「先帝」について

てよい。次に

「純愛」の主題としては他の

「長恨

先帝をどのように考え位置づける

べきかは難問で

歌」引用は大方がそれに当たるといってもよいが、

ある。先帝には兵部卿宮と藤壷という皇后腹の皇子

13

「大殿籠りすぐして」に

「春宵苦短旦口回起」を引

皇女がいる。なぜ兵部卿宮が立坊できなか

ったのか

き、28

「御方々の御宿直なども絶えてしたまはず」

という問題をはじめとして、先帝の皇統をどのよう

コ二千寵愛在

一身」を引くのをはじめ、31から58

に考えるのがよいか、

「院との関係を含めてさまざ

での

「長恨歌」引用はほとんどが

「純愛」の主題

まな想定が検討されている。先帝一

一院一桐壺帝と

と見てよい。

いう直系

の皇統譜、先帝を

【院

の兄弟とする系譜が

とはいえ、それらすべてを

一義的に

「純愛」

の主

可能

であるが、私は先帝を陽成で断絶した皇統

に当

66

として限定するわけにもいかないと思う。

「長恨

てて、

一院一桐壺帝を光孝-宇多1

醍醐という新し

」の最後の主題は文字通り愛した女を失

った悲し

く成立した皇統

に準拠するものと考える。『紫明抄』

であり、その深く大きい

「恨み」は長しえに消え

『河海抄』によ

って確立された源氏

物語

の延喜天暦

いということであ

った。桐壺帝が

「たつねゆくま

準拠説はむしろ光孝に始まる新しい皇統の歴史を物

ぼろしもがな」と絶唱したところに

「長恨」の主題

語の時代として設定したと捉え直す

ことで、源氏物

は集約されている。桐壺巻の帝と更衣との愛と死別

の歴史認識

に新たな照射が可能になると思われる。

の物語は

「長恨歌」の総体を主題論的に引用するも

く論文〉

日向

『源氏物語の準拠と話型』第

}章、第二章

のであ

ったと思われる。

(至文堂

.平成十

一年)。

〈論文〉

松浦友久

「「長恨歌」の主題について」『白居易

85

「十二にて御元服したまふ」以下、鵬

「屯食、

研究』創刊号、二〇〇〇年四月。藤井貞和

『源氏物語論』

禄の唐櫃」に

ついて光源氏の元服に

ついて諸注が明

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らかにしたことは、それが

}世源氏の元服の通例を

の格式に則る元服をなしえたことは、光源氏を臣下

越えて親王の元服または東宮の元服の格式に則るも

の枠から超脱させ王権讃を開いていく方法として理

のであ

ったということである。『河海抄』

「但親

解しなければならない。

王元服二大蔵省禄を儲事無先規欺。然而是

ハ准東宮

〈論文〉

河添房江

『源氏物語表現史』W

「光源氏の王権

御元服儀歎。詞

にもかぎりあることに事をそへ春宮

諌」(翰林書房、

一九九八年)。

の御元服南殿

ニテありしにおとさせ給はすとありL

付記

本稿の作成に当たっては・湯浅幸代氏が諸注集成を

といい、『花鳥余情』は

「一世

の源氏の元服には献

担当し・それを基にして日向が加除補訂をし注解

・解説を付

物なきにや。但此物かたりの詞にかきりある事にこ

した。湯浅氏の労に感謝申し上げる。

とをくはへさせ給ふとみえたれは、

一世源氏の元服

なお本稿は日本学術振興会平成十二年度科学研究費補助金

なれとも墾

の時の例をもて献物な・右奔

・け給

棚蛎

嘩拠と典拠についての注解

はりて用意せるにや」と述

べた。

67

これは異例なことであるが、それが物語が光源氏

に与えた待遇であ

った。

これをどのように解するか、

さまざまな解釈があり得るが、単

に桐壺帝の光源氏

への偏愛のゆえであるとか、立坊させ得なか

った代

償として破格の待遇をしたというだけでなく、光源

氏の帝王の相を実体化していく物語の方法

であると

ともに、物語の論理として理解するべきだろうと思

う。帝王の相を持

つ臣下という光源氏

の両義的な存

在形式を実体化していくために、物語は周到巧妙な

表現を画策している。源氏でありながら親王や東宮