「プラハの春」の東独波及と ポーランドからチェコ...

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「プラハの春」の東独波及と ポーランドからチェコへの連帯クーリエ -ヘルシンキ宣言からベルリンの壁開放へ(1)- 青木 國彦 はじめに 1. 三角地帯の連帯クーリエ 2.「プラハの春」とハーベマン、ビアマン 3.「プラハの春」とバーロ 4. 東独国民の「プラハの春」 『カオスとロゴス』第 26 号(2004 12 月) ロゴス社 2005 2 25 日発行

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「プラハの春」の東独波及と ポーランドからチェコへの連帯クーリエ

-ヘルシンキ宣言からベルリンの壁開放へ(1)-

青 木 國 彦

はじめに 1. 三角地帯の連帯クーリエ 2.「プラハの春」とハーベマン、ビアマン 3.「プラハの春」とバーロ 4. 東独国民の「プラハの春」

『カオスとロゴス』第 26号(2004年 12月) ロゴス社 2005年 2月 25日発行

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『カオスとロゴス』第 26号(2004年 12月) 2005年 2月 25日発行

「プラハの春」の東独波及と

ポーランドからチェコへの連帯クーリエ

-ヘルシンキ宣言からベルリンの壁開放へ (1)-

青 木 國 彦

はじめに

1. 三角地帯の連帯クーリエ

2.「プラハの春」とハーベマン、ビアマン

3.「プラハの春」とバーロ

4. 東独国民の「プラハの春」

はじめに1)

全欧安保協力会議(CSCE)最終文書「ヘルシンキ宣言」(1975 年)2)により戦後国

境を確保できたというブレジネフ(当時ソ連書記長)の有頂天はポーランド危機

(1980-81年)により吹き飛んだ。1980年 8月から苦悩の日々を過ごしたソ連政治局は

ついに81年12月10日激論の末に、対東欧政策の大転換(ブレジネフ・ドクトリン放棄)

を決めた。それは「連帯」の政権奪取をも容認するものであり、それが後にゴルバチョフ

の対東欧政策として表面化した。転換の主導者は政治局員スースロフと政治局員兼KGB

長官アンドロポフであった。それをもたらしたのは、ポーランド自主管理労組「連帯」と

いう労働者階級の挑戦の重みと広がりであり、この労働運動と「ヘルシンキ宣言」をバッ

クにした知識人の運動との同盟であり、ソ連東欧全体の経済的困難の増大であった。ソ連

の東欧政策転換は決して主権や民主主義の理念によるものではなく、損得計算によるソ連

の国益追求形態の転換であったし、対東欧同盟関係(コメコンおよびワルシャワ条約)の

即時廃棄や東欧駐留ソ連軍の引上げを意味するものではなかったが、冷戦の終わりの始ま

りとなった3)。

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連関略図

ブレジネフ・ドクトリン放棄 CSCEウィーン会議ヘルシンキ宣言 ハンガリー国境開放

教会 連帯政権

憲章77人権・平和運動 ベルリンの壁開放

「連帯」 東欧連続革命

ゴルバチョフ ソ連解体

ベルンシュタイン ヤコブレフ マルクス主義解体

経済困難・経済危機

(⇔政治的正当性危機)

他方:

「資本主義は蛮行と粗野の社会にはならなかった。ベルンシュタインは19世紀末にすでにこの状況に注目し…20世紀は…(その)ことを示して見せた」(ヤコブレフ)

プラハの春

(出所)青木[2004b]

同時に、その頃からソ連の公式イデオロギーの解体も始まり、最初は社会民主主義

化、特にベルンシュタイン化、次いで全体的解体に至った4)。

ポーランドの「連帯」は 81年 12月 13日に戒厳令によって弾圧されたが、地下活

動を続け、83年 7月戒厳令が解除された。逮捕されていた「連帯」活動家が 84年 7

月には恩赦され、困難な対米交渉の末にポーランドのIMF再加盟が実現した5)直後の

86年 9月に政治犯全員が釈放され、89年春「円卓会議」が始まり、夏にはマゾビエ

ツキ非共産政権の成立となった。ポーランドだけではなくソ連東欧各地で「ヘルシン

キ宣言」や「連帯」、教会などに鼓舞・支援され、反体制運動が活発化していた。それ

らはチェコスロバキア(以下チェコと略記)の「人間の顔をした社会主義」への改革、

つまり「プラハの春」(68年 1-8月)が与えた衝撃にも由来した。

東欧連続革命への「連帯」の寄与は計り知れないが、非共産化への最終幕を直接に

あけたのはベルリンの壁開放(89年 11月 9日)であった。ベルリンの壁が開いて 3

週間も経たない 11月 28日、時の西独首相コール(H. Kohl)は 3段階のドイツ再

統一への 10項目プランを発表した。その中で「コールは“CSCEプロセスこそ、今

後ともこうした全ヨーロッパ的な建物の核心である”と言明して、当面その 10項目

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計画にドイツ社会民主党議員の支持を取付けた」6)とされる。つまり、それはドイツ

巨大化ショックを和らげるための全欧への配慮であったと言う。しかし現実に、CSCE

プロセスの存在は、両独再統一のみならず冷戦克服=欧州分断克服への重要基盤の 1

つとなった。

「プラハの春」からベルリンの壁開放にいたるプロセス上の主要な出来事の連関を

連関略図(前頁)として作成した。このうち本稿では、「ヘルシンキ宣言からベルリン

の壁開放へ」というシリーズの(1)として、「プラハの春」の活動家たちが組織し、い

わゆるビロード革命の基盤を形成したチェコ「憲章 77」へのポーランド「連帯」から

の連帯、および、ベルリンの壁開放にいたる東独国民の反体制運動(人権・平和運動)

とエクソダスの 1つの起点となった「プラハの春」の東独波及およびそれへの東独当

局の波及対策を取り上げたい。

1. 三角地帯の連帯クーリエ

私は、ツィッタウ(Zittau)という、くすんだ灰色(当時)の町を 82年 3月 29日、

3 ヵ月半前に戒厳令を発令したポーランド首相兼第一書記ヤルゼルスキ(W.

Jaruzelski)が東独に来る日に、東ベルリンから訪れた。この町とその近辺は、ポー

ランド・チェコ・東独 3ヵ国の国境が交わる、ヤルタ体制の象徴の 1つであることか

ら、三角地帯(ドイツ語でドライ・レンダー・エックまたは単にドライ・エック)と

呼ばれていた。

用件は、その地の大学の政治経済学教授で、再生産表式の研究もしていた Tに、「レー

ニン表式は価値表式ではなく物量表式だ」云々という話をすることだった。彼は、ベルリ

ン経済大学紀要に掲載された拙稿を見ながら、生真面目に聞いてくれ、一晩考え翌朝了解

してくれた。マルクスの再生産表式は生まれた当時、つまり明治維新の頃としては先進的

であり、その後多大の影響も与えたが、当時すでに骨董品であった。私も 70年代半ばに

は Tの論文や当時話題となったシチェピノフの「100年間のレーニン表式」、わが国での

諸論文に関連してその研究をしたことがあった。この大学では初対面でもいろいろな人と

屈託のない話ができた。ベルリンから遠い国境の町で、心ならずもベルリンから落ちぶれ

てきた人たちもいる。首都から遠いと随分雰囲気が違う。中国でも、改革開放初期に私営

を中心としたモデルとして名を馳せた「温州モデル」(今や「温州人モデル」とも言う)

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の有力蓄積源は、対台湾密貿易であったが、北京から遠く交通不便な温州では北京の

「鞭は長いけれど、ここまでは届かない」(鞭長莫及)という格言が生きていた[青木

1987]。

T が案内してくれた近郊農村の風景もすばらしかったし、Fachwerk と言う木骨作

りの旧家も多く残っていた。これまたくすんだ、私以外には客のいないホテルの従業

員との話も面白かった。この町はたしか教育学者ペスタロッチ(J. H. Pestalozzi)に

もゆかりがあった。東独の外貨稼ぎ手でもあったクリスマス用木工品の産地であるエ

ルツ山地(チェコとの国境地帯)に近い。ベルリンでの私のランニング仲間の 1人は

この山地から出稼ぎ中の若者だった。この木工品は、その起源が日本の東北地方のこ

けしの起源に似ている点でも親近感があった。この町の、幅跳びで越えられそうなほ

ど小さなナイセ川の対岸は、元は同じ町の一部だが、今はポーランド領である。その

戒厳令下の暗い町影を見ながら大学労組委員長でもある T と、「連帯」や労組の独立

性について話した。

それから 22年、2004年 4月 30日ツィッタウのナイセ川沿いの公園に、約 1万人が

集まり、花火を上げたり、コールの演説を聞いたり、歌ったりして、翌日のEU東方拡

大発効を祝った[ドイツ各紙]。ここから放送のNHK-BSの登場人物はポーランド人も

チェコ人もドイツ語を話していた。それはEU東方拡大の実態の 1つだった。その際地

元民が「これからはパスポートが要らない」と言ったが、共産圏時代もこの 3国住民は

パスポートなしに行き来していた。この国境のうちチェコへの検問所では、私の荷物(労

働経済学関係の東独の博士論文のカーボンコピー)について私が国境守備隊の中尉とや

りあっている傍らを、村人が身分証明書をかざすだけで自転車に乗って行き来していた

[このことや東独の国外旅行制限については青木 1991、23-24・183-5頁参照]。

Kenny[2002]によれば、この町に近い、エルベ川の上流、チェコ・ポーランド国

境のクルコノシェ山地(ズデーテン山地)の奥深くを、雪がない時期には月 2回、ポ

ーランドからチェコの反体制派を支援する地下の連帯クーリエが縦走していた。南東

のタトラ山地を越えることもあった。

反体制派間の連帯クーリエは、ブロツワフ(ポーランド)の元「学生連帯委員会」・

「独立学生連合」メンバーのヤシンスキ(M. Jasinski)によって 83年に設立され

た「ポーランド・チェコ連帯」が組織したもので、「憲章 77」などチェコ内の反体

制派に毎回 20~35kg の地下文献・資料を運んだ。彼らは、ウイーンで亡命者が購

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入したコピー機、オフセット印刷機など、さらに 89 年になると、ラップトップ・パ

ソコンも運んだ。警備兵に見つかれば、まずチェコ人協力者を逃した。彼らには数年

間の懲役が待ち、ポーランド人にはせいぜい罰金か数日間の拘留だったからである。

こうして、亡命者からの手紙とラジオ自由ヨーロッパの電波以外には世界から隔絶さ

れていたチェコ反体制派の孤立が打破された。

彼らはウクライナ反体制派への通路も開いた。これは、「連帯」の最初の全国大

会(81年9月5~10日)が出した東欧連携アピールへの草の根からの呼応であった。

Jaruzelski[1992、邦訳 221-2頁]によると、このアピールは「社会主義の敵」が

東側諸国全体に挑戦状を突きつけたとソ連東欧諸国では受け取られた。このアピー

ルについてブレジネフは、大会直後の 9月 11日にポーランド第一書記カニアとの電

話会談で、「連帯は諸隣国に破壊的見解を押しつけ、その内政に干渉しようとしてい

る。…連帯の大会で採択された“東欧人民へのアピール”には多くの言葉があるが、

それらはすべて同じことだ。決議の作成者たちは社会主義諸国における騒乱を扇動

し色々の裏切り者グループを奮起させたいのだ」と罵った[Kramer, 1999,

Doc.No.18,p.142]。

87年 1月、チェコ秘密警察はブルノ(チェコ)の「ポーランド・チェコ連帯」協力

者を逮捕した。殺人罪を名目にした捜索が、彼のアパートから「憲章 77」10 周年記

念のちらしなどを発見した。「憲章 77」の仲間は彼を守る会を作り釈放を要求した。

彼にとって最大の励ましは、獄中で受け取った、「憲章 77」と「ポーランド・チェコ

連帯」のロゴを潜ませた偽の料金別納印を押した手紙であったと言う。ポーランドの

地下印刷所は資金集めの手段として、コレクター向けに郵便切手を作っていた。彼に

は長期の刑が予想されたが、同年 5月、思いがけず、証拠不十分で釈放された。この

間には、彼のためにブロツワフで WiP(ビープと読み、自由と平和の意味で、85 年

クラコウの学生を中心に結成され急拡大したポーランド反体制組織)と「ポーランド・

チェコ連帯」が小さくはあってもデモを行い、東独の「平和と人権のためのイニシア

チブ」も抗議の手紙を送った[Kenny, 2002, p.59/pp.106-8]。

戒厳令期を別にして東独国民はポーランドとチェコという東と南の隣国にはか

なり自由に行くことができ、情報はたくさん入っていた。東独では上映されなか

ったポーランド映画「大理石の男」(ワイダ監督)をポーランドでポーランド人の

解説を得ながら見た東独人も少なくなかった。私も危機の最中のワルシャワで見

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た。

「ヘルシンキ宣言」と「憲章 77 宣言」への呼応の運動は、ポーランドの「連帯」

の活動、経済的不満、東独に充満した国外旅行の不自由への不満、西側の働きかけ(政

府からも草の根からも、しかもしばしば巨額資金付き)などと絡んでいたが、各国の

教会の動きも重要であった。私は当時ポーランド北部の小さな町でもブラチスラバ(ス

ロバキア)でも町中みんなかと思われるほどこぞって参加するカトリック教会のミサ

を体験したが、信仰心のない私にはその熱気が不思議だった。誰もが真剣に祈ってい

ると見えた。ただしポーランド人の友人の若い弟(大学生)は、なぜミサに出るのか

という私の質問に、そんなことは考えたことがない、両親も皆も行くからだ、という

答えだった。

「プラハの春」の経済スタッフの一人で、当時西独フランクフルト大学にいたコスタ

(J. Ksota)の紹介で、私は 82 年にプラハの科学アカデミー付属経済研究所に某を訪

ねた。その時代だからか、私の質問が適切ではなかったか、通り一遍の会話だった。そ

こでの私の一番の記憶はエレベーターにある。現代の、1つの箱がロープで上下するも

のではなく、数珠繋ぎの多数の箱が常時動いていて、人は箱に飛び乗り飛び降りるとい

う、エスカレーターのようなエレベーターで、日本では見たことがなかった。チェコが

いかに早く産業革命を経過したかの証しだと思った。シコダ社は、遅れて産業革命をし

た日本の三菱重工のようなものだった。その国の経済が西欧後進国以下になってしまい、

人々の不満の土台となっていたことは青木[2003]に記したとおりである。

当時、東独の有力政治経済学者 Sは、経済改革について、チェコが中庸にあり(彼

から見て、改革の遅れたソ連と急進的すぎるハンガリーの中間の意味)、見習いたいと

言っていた。東独について「忍び足の経済改革か」と言われた頃である。彼の妻は西

独出身だが、結婚直後に突然壁ができ、若くして東側に閉じ込められてしまった。実

家から西独マルクをもらう彼女からも、西ベルリンでの買い物を頼まれたことがある。

夫は、旧東独経済学者としては稀な例として、変革後オーストリアに教授職を得たし、

子供たちも優秀でよい職を得ているから、いまや彼女は東ベルリン郊外のアパートで

満ち足りた暮らしを送っている。最近は近辺にモダンな店が増えている(2 年前久し

ぶりに訪れた私はまるで浦島の気分だった)し、どんな外国にでも旅行に行けること

がうれしい。

これら 3 国間では反体制派だけではなく、言うまでもなく、当局も同盟してお

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り(ワルシャワ条約とコメコン)、上記のツィッタウ近くの小さな国境検問所からチ

ェコに出ようとした時には私の荷物のエックス線透視を東独とチェコの係官がいっし

ょに見ていた(私も加わって)。

その時私は東独通貨をかなり持っており、いつものように国境の東独国立銀行支店

に預託しようとした。そうすれば、再入国時に引き出すことができた。ところが小さ

な検問所のせいか支店がなく、預託できない。上記の中尉は、持ち出していい、と何

のためらいもなく言った。当時東独通貨は国外への持ち出しも国外からの持ち込みも

禁止だったにもかかわらずであり、実に丁重ながら職務熱心なこの中尉にとって、そ

んなもの(多分みんなが持ち出し持ち込みをしているもの)よりも、博士論文の体裁

を取った何か疑わしい荷物のほうが重大だったのだろう。それは東ベルリンのある大

学図書館では誰でも見ることのできるものだったのだが。

ちなみに、東独通貨は完全に国内通貨であったが、公式レートでは 1西独マルク=

1 東独マルクであった。しかしそれは長年、西独の両替屋や東独内ヤミ屋などにおい

て 4分の 1から 5分の 1くらいの評価で取引されていた(下表)。これも体制間経済

格差の象徴であったが、表のように東独マルクの低落傾向が83年から顕著になった。

この表はベルリンの壁崩壊の経済的背景を暗示している。この表には出ていないが、

87年には一時的な暴落現象もあった[その事情は青木 1988に詳しい]。

東独

規模にお

を示して

駐留の連

し、両独

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表 1西独マルクあたりの東独マルク(各年末、89年は 10月末)

1976年 1977 1978 1979 1980 1981 1982

3.83 4.38 4.48 5.09 4.29 4.33 4.77

1983年 1984 1985 1986 1987 1988 1989

5.15 5.03 5.22 6.17 7.69 7.78 9.21

(出所)1985年までは WCY[1985]による。以後はBBkM

1990年 7月号掲載の売りと買いの平均から算出。

通貨のヤミ取引は西ベルリンを中心に東独国営企業も加わってきわめて大

こなわれ、ヤミの形も含めて東独が西側経済といかに深く関わっているか

いた。東西の外交官や出入りがかなり自由なポーランド人、東西ベルリン

合国軍人なども大口取引人だった。89年 10月末が最安となり、以後上昇

通貨同盟発足直前は 1西独マルク=2.85東独マルクであった。

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但し、ヤミレートは「実勢」を示すと多くの人が考えがちだが、ヤミにはヤミの論

理があって、ヤミに関係する部分の需給実勢の反映でしかない。80年代初めに実勢を

推測する一助に、私は、ハンガリーの銀行店頭での東西マルク比に着目した。それは

80年 9月 2.64:1、81年 5月 2.74:1であったが、89年末には 4.6:1になった。こ

れによっても東独の経済的困難増加が示されていた。のちに(機密発覚後に)分かっ

たところでは、これは、実は、東独当局が設定していた秘密貿易レートとほぼ一致し

ていた[青木 1992、24頁]。

2. 「プラハの春」とハーベマン、ビアマン

青木[2003]で取り上げたように、「ヘルシンキ宣言」を根拠に人権要求をした「憲

章 77宣言」の原点は、「プラハの春」であった。そこで、まず、東独における「プラ

ハの春」への支持と東独を含むワルシャワ条約 5カ国軍のチェコ侵攻(68年 8月 21

日開始)への反対の動きを見ておこう。

当時社会主義に関心のあった人は、東独における「プラハの春」支持と言えば、ハ

ーベマン(R. Havemann, 1910-82)とバーロ(R. Bahro、1935-97)を思い浮かべる

だろう7)。

ハーベマンは、ソ連で言えばサハロフ(A. D. Sakharov, 1921-89)に当たるが、サ

ハロフは物理学者、彼は光化学者であった。彼は東独時代には体制改革派ないし反体

制派の象徴であったが、かつてはヒトラー政権下の地下活動家であった。

彼はベルリンでの学生時代に女友達の影響で、ヒトラーが政権を握る前年 32年にドイ

ツ共産党に入り、すぐに「コミンテルン防衛隊」に入れられた8)。卒業後カイザー・ヴィ

ルヘルム物理化学研究所(西ベルリン、現マックス・プランク研究所)ほかとともに陸軍

兵器局でも働き(それゆえ徴兵免除)、その後ベルリン大学(東独期にベルリン・フンボ

ルト大学と改称)薬理研究所助手となり教授資格も取得した。その間抵抗組織「新出発」

や「ヨーロッパ同盟」で反ナチ活動をし、43年9月ゲシュタポに逮捕され、12月に死刑

判決を受けたが、執行延期で生き延びた9)。死刑が執行されなかったのは陸軍兵器局が彼

の研究を必要としたからだが、彼を必要とする研究計画は同局軍医大佐とベルリン大学薬

理研究所長・物理化学研究所長の3人が彼の救援のために立案したものであった。研究機

材名目で持ち込まれた機材により獄中研究室は抵抗運動の秘密情報ステーションとなった

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[Havemann, 1978, 第Ⅱ・Ⅲ章;Müller-Enbergs, 2000, S.320;篠原、1968、239

頁]。

「ヨーロッパ同盟」のメンバーであったリトアニア人ブローザー(W. Broser)

は、ヒトラーのソ連侵攻開始が 41年 6月 22日に決まったという情報をナチ将軍

から入手し6月初めにソ連大使館に通報したが、フルシチョフ秘密報告によれば、

スターリンはその情報を信用しなかった[Havemann, 1978, 第Ⅲ章;Havemann,

1972, S.54f.& S.73ff.、訳 71・93-100頁]。シュタジ(東独国家保安省)はハーベ

マンの死刑延期に疑惑を持ち調査したが、何も出てこなかった[Vollnhals, 1998,

Dok.5]。こうした反ナチ闘士の経歴ゆえに東独当局も彼に一定の遠慮をした(後

述)。

戦後彼は、ナチによって追われた上記の物理化学研究所の所長となり、すぐ西ベル

リン占領の米軍に降格されて部長となったが、50 年 SED(ドイツ社会主義統一党の

略、東独において共産党相当)機関紙『ノイエス・ドイチュラント』に米国水爆製造

計画への抗議論文[Havemann, 1978 に再録]を寄稿したため、そこを解雇された

[Havemann, 1972, S.96ff.、訳 118-120頁])。

50年西ベルリンから東ベルリンに移住しSEDに入党した。当時(資料により 49年

または 50年)から人民議会議員であり(63年まで)、フンボルト大学で物理化学研究

所長ほかの要職を務め、59年には東独国家賞を受賞し、科学アカデミー準会員であっ

た10)。弁証法についてのフンボルト大学での講義およびそれが西ベルリンのラジオ局

から放送されたことなどのため 64年党除名11)・大学解雇、66年科学アカデミー解雇

となった。47年・66年に離婚、73年再々婚した[Müller-Enbergs, 2000, S.320;篠

原、1968、239頁;Hoffmann, 1991, S.287]。64年にアカデミー正会員に推薦され

たが、直後に起きた講義事件のため実現しなかった[Havemann, 1972, S.105、訳 127

頁]。除名や解雇の理由とされた弁証法講義[Havemann, 1964]は大変面白いもので、

千人以上が聴きに来た。彼が「目を開く」ことになり教条的弁証法批判にいたった転

機はソ連共産党第 20回党大会であった[Havemann, 1978、第 4章]。篠原[1968]

には講義の様子や事件のあらまし、篠原による同時代インタビューの記録がある。

Hoffmann[1991, S.151]には講義の写真がある。Havemann[1978]には当時の科

学アカデミー側の秘密報告と彼の反論も収録されている。

「プラハの春」と侵攻の頃の彼の考え方をHavemann[1972]によって見ておきたい

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(ここでは本書の引用はページのみ記す)。彼は「プラハの春」を「民主的な社会主

義の広範な展開への第 1歩」と位置づけた。すなわち、「スターリン主義的社会構造

が破壊され、報道と言論の自由が形成された。議会が権限を持った。再び真の討論

がなされ、必ず全員一致の票決という妙な慣行がなくなった」12)。ここで彼は、盟

友ビアマン13)の歌「プラハにはパリ・コンミューンがある」の一節を引用した上で、

「ビアマンは当時、我々みんなと同様に希望にあふれ、時期尚早でプロイセンの軍

靴に押しつぶされたパリ・コンミューンという失われた革命がプラハにおける変革

によりその最終的勝利を得たと考えた」と言う。なんと彼らは「プラハの春」にパ

リ・コミューン(1871年)の再現を見たが、今回もまた軍靴に踏みつぶされた。そ

こで彼は、独裁(絶対主義)と社会主義の結合こそ「最も不幸な結合」であるとの

バクーニン(M. A. Bakunin、1814-76)のちょうど 100年前(1868年)の警告、

プルードン(P. J. Proudhon、1809-65)ゆずりの警告を持ち出した[S.128f.、訳

153頁(訳文変更あり--以下同様)]。

「プラハの春の意義を…パリ・コンミューンの意義と比べたのはハーベマンとビ

アマンが最初だったと思う」と元国際学連委員長でチェコテレビ総支配人や党中央

委員、議会外交委員長などとして「プラハの春」の担い手の 1人であったペリカン

(J. Pelikan、1923-、69年亡命)は言う。彼がかつて度々職務上接触した東独関係

者はハーベマンやビアマンの若者への影響力を恐れていたと言う[Jäckel, 1980,

S.47&S.49]。

ハーベマンにとって「肝心なことは〔ソ連共産党〕第 20 回党大会が我々すべてに

訴えた社会主義的民主主義、意見の形成と表明の自由、自由な科学的論争」であり、

社会主義的民主主義の実現とは、「国家の死滅」にむけた「スターリン主義的な構造の

ラディカルな克服」によって「労働者が真の所有者としての全権を持ち、企業利潤が

いかに使用されるべきか…〔等々〕を自ら決め」ることであった[S.160f.&S.125、

訳 190・150-1頁]。つまり自主管理社会主義と言論の自由であった。

このような彼の目標の実現のために「あのプラハの春が…決定的な転換」であ

った。というのは、「自由と社会主義が両立可能であるだけではなく、社会主義な

しに自由はあり得ず自由なしに社会主義はあり得ないことを我々は証明しなけれ

ばならない」〔なんともロマンチック〕が、「プラハの春」は、4つの「基本的自由」

(言論の自由、情報入手・伝達の自由、居住地・職場・職業選択の自由、結社の

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自由)のうち前 3者を「実際に実現」したからである[S.207ff.、訳 238-40頁]。だ

から彼は侵攻を激しく批判した。

「チェコスロバキアにおける発展を喜びと満ちあふれる楽観的な希望を持って観

察していた多くの東独市民14)は1968年8月21日朝ワルシャワ条約5ヵ国軍の不意の

チェコ侵入を知り、“この憲法の諸原則に従って”〔東独憲法 20条 1項と 27条 1項に

言う良心と信仰、言論の自由を指す〕大きな怒りを感じた。“この憲法の諸原則に従っ

て”彼らは集まり、自分の意見を率直に言った。…彼らの憤りは世界の多くの共産党

と共通であり、それらの共産党の憤りの鋭さは彼らを上回っていることを知った」。「ベ

ルリンその他の多くの東独の都市で侵攻に公然と抗議した」人々の「殆どは若い人々」

であった[S.211&213、訳 242・244頁]。つまり若者を中心とした抗議行動は東独憲

法上の権利であり共産主義的なものだったと彼は言う。彼は、資本主義の変化に着目

し言論や良心の自由を要求しつつも、あくまで社会主義体制内の改革を求めた改革派

共産主義者であった。「憲章 77宣言」の場合は署名者のうち改革派共産主義者は約半

分にすぎなかった[青木 2003、57頁]。

チェコ侵攻に対してどのような抗議行動があったかについてハーベマンは、東ベル

リンの知人(息子 2人を含む)による手書きやタイプ印字のちらし、車や部屋の窓へ

の手書きポスター貼り、ビアマンの上記の詩のコピー配布、「ドプチェク」〔A. Dubcek、

1921-92、「プラハの春」当時の党第一書記〕や「スボボダ」〔L. Svoboda、1895-1979、

当時のチェコ大統領〕の名の落書きを挙げる。当事者はすべて逮捕されたと言う。本

書には、上記落書きにより自由剥奪 18ヵ月の判決となった息子 Fの裁判の模様や東

独刑法解説もある[S.214f.&232ff.、訳 246・265-73頁]。侵攻後も、ハーベマンは「社

会主義諸国家…は未来への接続をまだ最終的に失ったわけではない」と信じ続けた。

「ソ連共産党第20回党大会と1968年プラハの春という2つの偉大な歴史的出来事に

よって、この確信が私の中で改めて強められた」と言う[S.247f.、訳 282頁]。

元反ナチ闘士ゆえに従来「捜査手続きを見合わせてきた」[後述の政治局文書]東

独当局が、76年 11月 15日彼に逮捕状を出した。理由は「1965年以来、特に 1975

年以来の」西独メディアとの協力による反東独活動であった[Vollnhals, 1998, Dok.8

やHoffmann, 1991, Dok.4-13&14に令状の内容や写真がある]。

翌日、東独を揺るがすビアマン追放事件が起こった。直後 22日発行の西独誌『シ

ュピーゲル』は、ビアマンを追放した東独当局への「ビアマンは東独市民」とい

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うハーベマンの抗議アピールを載せた[Vollnhals, 1998, Dok.10に抜粋]。直接には

この記事を根拠に彼は 11月 26日即決裁判手続きで居住制限令(ベルリンの壁建設直

後の 61年 8月制定)による自宅軟禁となった[Vollnhals, 1998, Dok.12-14に判決文

がある](78年 5月解除)。

当時人気の高かったビアマンを西独に追放する計画はすでに76年5月31日のシュ

タジ第Ⅸ局の報告書に存在した。それは、西独にいる母親訪問を彼に許可し、西独滞

在中の許可目的(家族訪問)以外の行動〔予想されるメディアのインタビューなど〕

を理由に帰国を拒否するというものであった。この報告書は、ハーベマンにはこの手

は使えない、年金年令の東独人は西独旅行が可能だが、彼はそれさえ利用しないから

だと記した[Vollnhals, 1998, Dok.5]。そういうところへ、76年 10月 10日ビアマン

が、西独金属産業労組招待による西独コンサートツアー(11月 10-30日)許可申請を

文化相に提出してきたので、これが利用された。彼の前年の西独ツアー申請は拒否さ

れたのに、今回許可されたのはそういう策謀からであった。11月 13日ケルンでの最

初のコンサートのあと、16日政治局が最終的に、東独への敵対的態度を理由に追放(国

籍剥奪)を決め(財産没収はせず)、同日東独通信社ADNがその旨発表した[Vollnhals,

1998, S.35f.]。

この謀略的なやり方には西独世論や仏・伊共産党などの国際的抗議のみならず、「東

独内で初めて公然とした〔ビアマン〕連帯運動が生じた。東独の多くの人々の間で、当

然の恐怖心を勇気が上回った」[Hoffmann, 1991, S.218]。翌17日にはクリスタ・ヴォ

ルフ(Ch. Wolf、1929-、日本でも多数の訳書がある女性作家)やハイム15)など東独の

「12 人の著名な作家・芸術家がビアマン追放への抗議声明を発表し、すぐに 100 人以

上の作家・芸術家・知識人が声明に加わった。地方でもはっきりした抗議の動きが見ら

れ」、署名運動やスローガン落書きなどがなされた。ハーベマンも 18日ホーネッカー宛

に抗議の手紙を送った(上記『シュピーゲル』に掲載)が、対抗してシュタジは彼の電

話を遮断した。しかし西独テレビARDがケルンでのビアマン・コンサートを 19日夜に

録画放映したために、東独市民は自らビアマンのコンサートの内容を知ることができた。

ハーベマンの若い協力者などには逮捕など強い弾圧が加えられたが、著名な声明参加者

の刑事訴追はなかった。11月23日の政治局会議では特にARDの放映に怒りが向けられ、

それは「ヘルシンキ宣言」違反の内政干渉にあたるという見当違いの決定をし、翌月ARD

東独特派員は退去させられた[Vollnhals, 1998, S.39f.]。

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ビアマン追放の前にシュタジは、出国しないと公言しているハーベマン16)を脅しに

より出国(亡命)させようとした。75年 6月 17日シュタジ第Ⅸ局は、オーストリア

のテレビ局が彼へのインタビューを 6 月 11 日に放映した機会に、彼の国外追放策を

提案した[Vollnhals, 1998, Dok.1]17)。すなわち、「ハーベマンの東独からの国外追

放をめざして」、国籍法 13条による国籍除籍申請を出させるために、まず「反国家扇

動罪(刑法 106条)で仮逮捕を行う。法律で許される 24時間以内の尋問の中で彼に

彼の行動の違法性や予想される自由刑について知らせ、国籍除籍申請の可能性を与え

る」という提案であった。この文書の末尾には「彼がそのような申請を拒否しても、

ハーベマンは東独から追放されるべきである」とあった。これを受け 1 週間後の 24

日党政治局は、「彼がナチ時代に拘留されたがゆえに、従来は捜査手続きを見合わせて

きた」18)が、反国家活動が継続されると「彼への刑法上の措置が取られざるを得ない

ことを彼に通知」し、さらに、「ハーベマンがこの警告を理解しない場合は…国籍法

13条による東独からの追放に取り組む…」ことを決めた[Vollnhals, Dok.3]。だが、

26日の検事局との「話し合い」でもハーベマンは反論して譲らず(反論の内容は検事

総長からホーネッカー宛の報告[Vollnhals, 1998, Dok.4]にある)、「成果がないまま

であった」[Vollnhals, 1998, Dok.7、シュタジ第Ⅸ局報告]。彼はあくまで出国を拒否

した。

上記の国籍法13条をソ連風に改正して国籍剥奪を容易にするという案もあったが、

東独は「“ヘルシンキ宣言”以来そんな恥をさらそうとはしなかった」[Vollnhals, 1998,

S.34]。

東独に限らず独裁国はしばしば、国内での影響力を断ち国際的威信を低下させるた

め、反体制派有力者を国外に追放する。自らの意志ではなく帰国拒否の形で追放され

たビアマンは、80年ハーベマンに宛てた詩の中で「私はこっち〔西独〕でほとんど死

んでいる」と言い、ハーベマンに「とどまれ!」と忠告した[Jäckel, 1980, S.10]19)。

ハーベマンと違って刑務所に収監されたバーロは当局の出国の勧めに応じたが、

のちに後悔した(後述)。「プラハの春」の指導者の 1人ムリナーシ(Z. Mlynar、

1930-)は、自宅軟禁状態や 50 歳を前にして肉体労働しかなくなる状況に耐えら

れず、「人生は 1回しかない」ゆえに「政治的殉教者」となることをあきらめ、「憲

章 77 宣言」を出したあと当局の勧めに応じ 77 年 6 月ウィーンに出国した

[Gorbachev, 2002, p.46]。非難されるべきはむろん彼ではなくチェコ当局であ

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るが、影響力低下という当局のねらいは達成された。他方、出国をあくまで拒否し

たハベル(V. Havel、1936-、劇作家で「憲章 77」創立メンバー)は、79年に国家反

逆罪で逮捕、83年重病による刑期中断で釈放、その後も逮捕があったが、運動を続け

た。チェコ変革に際して 89年 12月 29日連邦議会は満場一致で彼を大統領に選出し

た。

「プラハの春」から 10年余、79年 9月 1日付でハーベマンはスペイン共産党機関

紙などに「東独建国 30周年に寄せる 10のテーゼ」を発表した。大幅に要約すると:

東独では「生産手段の私的所有の廃止により資本主義の物質的基礎が除去され、社会

主義生産諸関係の発展のための決定的な基礎が形成され」、国際的承認を得て国連や

CSCE ヘルシンキ会議にも参加できたが、「民主的コントロールの下にない中央党機

関の独裁」が国民の自由を大きく制限し、「国家安定に資すべき自由の制限が実際には

国家の不安定増大の主要原因」となり、国家と市民の相互不信は再び壁構築前のよう

な市民の大脱出となりうる、「プラハの春」の実践とユーロコミュニズムは「自由な社

会主義」の可能性を示し、「現実社会主義」は雇用確保・価格安定・教育と文化の水準

の向上・保健医療などに「重要な成果」を挙げた〔実はこれらの成果には自由喪失や

計画経済機能不全、教育と文化の画一性、医療の質の低さやヤミ診療費などのコスト

がかかっていた〕、従って「ユーロコミュニズムの同志たちが夢見る社会主義の建設を

我々がここ〔東独〕で始めるなら、…東独は他の社会主義諸国と共同でヨーロッパの

偉大な社会主義的転換のパイオニアとなりうる」、そのためには「コントロールなき党

機関の支配の廃止による民主化」が必要である、〔現代資本主義の諸矛盾を列挙し〕資

本主義は最終段階にあり社会主義が我々の唯一かつ最後の望みである、「我々がいまこ

こ〔東独〕で始めなければならない」ことは、①表現の自由の制限の廃止、②それを

制限する現行法(特に刑法 106・219・220 条)が有罪とした者の釈放と名誉回復、

③検閲廃止と著作権ビューローの解体、④独立報道機関の設立、⑤西側への旅行の年

令制限廃止、⑥本テーゼの SED機関紙掲載、である[Jäckel, 1980, Anhang]。彼自

身の社会主義・共産主義の願望はさておいて、今なすべきことを自由化に絞っている。

ほかに「現実社会主義」と「現存社会主義」の問題なども論じている。

ここには東独では「社会主義の…基礎が形成された」とあるが、Havemann[1978,

S.85&S.91f、訳 122・132頁]は現存体制を「社会主義的な生産関係ではなく 1つ

の国家独占体制」とした。但しその際同時に、「私的所有が廃止されている…のだか

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ら、東独のような国は歴史的に西側よりもはるか先に進んでいる。資本主義の生産諸

関係が完全に解体されているので、〔本当の〕社会主義への移行は比較的容易にできる」

と言うのだから、表現にぶれはあるが、基本的考えは同じなのだろう。

自由な社会主義のため身体を張った彼の奮闘は尊敬に値するが、イデオロギー(共

産主義)的予断があったために、彼は当時東独でも東欧でも生じていた重大な現象を

見過ごした。それは、一旦は除去された私的所有による経営(私営)とそこでの雇用

の復活であり、政策上と国民生活上のそれらの重要性である。80年代後半には資本市

場の復活にまで到った。ソ連のように私営禁圧を続けるとそれは広範なヤミ経済と強

力なマフィア経済として復活した。この現実は、ハーベマンが私有廃止の先に描いた

夢のあまりのはかなさを示した。

この年ハーベマンは外為法違反で訴追され 1 万東独マルクの罰金を課され、翌 80

年ポーランド自主管理労組「連帯」への連帯や非官製の平和・環境運動に参加した20)が、

82年 4月 9日死去した[Hoffmann, 1991, S.287]。だから、その後上記 6項目要求

の趣旨が広範な東独国民の公然たる要求となったことも、ちょうど 10 年後にその実

現が社会主義の民主化ではなく廃止となりユーロコミュニズムが雲散霧消したことも、

チェコ人はドプチェク(改革派共産主義者)に一応の敬意は払いつつハベル(反共産

主義者)をリーダーとしたことも彼は知らない。

3. 「プラハの春」とバーロ

Bahro[1977]は、「憲章 77宣言」が出た年に、東独から秘密裏に持ち出されて西

独の労組系出版社から出版された。訳者まえがきによると、大部かつ難解であるにも

かかわらず十数万部も売り上げ、ドイッチャー賞を受賞した。それまで無名の東独知

識人の衝撃的な西独・西欧デビューであった。バーロによる「現存社会主義」の批判

的研究にとっても「プラハの春」とそれをつぶした侵攻が重要な契機であったことは、

訳者まえがきや本人の序文に詳しい。

彼も、マルクスに則った真の共産主義を希求するという、当時東独に少なからず

いたマルクス原理主義的なインテリの一人であり(その一部は私の知人を含めて

89-90年の東独円卓会議に登場した)、「現存社会主義」の主要問題を政治局独裁と

旧来分業の存在に見、その克服方向として、「プラハの春」に希望を見出しユー

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ゴ自主管理に幻想を抱きつつ、「代案」(オータナティブ:原書タイトル)を設計

した。

一党独裁ではなく政治局独裁を断罪したことに彼の特徴の 1つがある。彼にとって

政治局は悪だが、党は必要かつ改革可能であり、彼は、改革されるべき党にすべてを

託した。「工業化された非資本主義諸国」、つまり当時存在した社会主義における改革

の成否は「ただひたすら党の改革に成功するかどうかにかかっている。…1968年すで

にその革新過程の最初からチェコ共産党はいかに多くの希望を集めたことか」、「新し

い共産主義者同盟は社会的(sozial)変革過程についてのその構想の影響力によって

社会を指導するだろう」[Bahro, 1990, S.444/S.446、邦訳Ⅱ137・8頁(訳文変更あ

り--以下同様)]と言うように、彼は、共産党の改革と改革された党の指導にすべてを

託した。いかにも上からの改革ないし知的エリートによる文化革命の路線だったが、

実際に彼自身も「1989/90あとがき」において、「政治的に考えれば、それ〔Bahro, 1977〕

は上からのペレストロイカの理論である」と述べた[Bahro, 1990, S.548]。このよう

な代案は、非党員から見れば、笑止千万であった。

ハーベマンはバーロについて「非常に多くの点で完全に一致する」としつつも、

厳しく批判した。「大衆〔バーロの言う旧来分業の下位にいる非知識層〕の“主体

性のなさ”21)という彼の概念は適切とは思わない」、むしろ「主体性のなさは大衆

ではなく我々〔知識人とか専門家〕にある」。また、「民主的コントロールがない

ために」多くのルイセンコ〔T. D. Lysenko、1898-1976、独自の遺伝理論により

ソ連生物学界の指導者となったが、65年失脚〕的な「ペテン師」が産業や経済の

指導的地位〔バーロ的に言えば旧来分業の上位にいる知識層〕にいることをバー

ロは見ていないと批判した[Havemann, 1978, S.94ff.、訳 135-9頁(訳文変更あ

り--以下同様)]。

バーロの議論は体制批判とはいえ、全体主義党打倒を言うものではなく、あくま

でマルクス主義的弁証法と党の指導性容認の枠内での異論であり、しかも真の共産

主義は「遠い将来の楽しみ(Musik)」なのではなく、「そのための諸条件はすでに

成熟段階に入っている」[Bahro, 1990, S.541f.、邦訳Ⅱ227-8頁]とまで言うほど

に弁証法的予断に満ちた、空想的な共産主義者であった22)。この点では、ソ連共産

党と異なりとっくに共産主義建設を目標視界からはずしていた東独の党よりも強

く幻想の虜であった。その後登場するポーランドの「連帯」でさえ自主管理幻想

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の虜であったように、東欧反体制派の多くは反資本主義あるいは資本主義恐怖症であ

った。

バーロの改革設計は、本人も「多分私はすでに思弁にあまりに深入りした」[同前、

S.542、邦訳Ⅱ227 頁]と認めるように、非常に空想思弁的であるとともに、ユーゴ

のカルデリ(E. Kardelj)の設計図を想起させた。

彼が旧来分業に焦点の 1つをあてたのは、マルクスを研究すれば自然なことであっ

た。私もマルクス構想を、所有革命によって共産主義の低い段階を達成し、旧来分業

克服=労働転換システム達成(私は随分前にこれを分業革命と名付けた)によって共

産主義の高い段階に到るものと理解した23)。それは社会主義経済研究に入ってすぐの

ことであり、当初私は、どちらかと言えば、マルクスによって現実を裁断しようとし

ていた。しかしその後の東独在住と東欧(のちに中国、さらにソ連)の調査から、ど

の社会主義国でも私営経済(私営非合法下では巨大なヤミ経済として)が復活再生す

ることに目を奪われた。その実態調査と理論的検討がマルクス構想批判の契機の 1つ

となった。バーロは現実への落胆からマルクス的空想世界に向かった。分業革命構想

は社会改良の 1つの要点として現代でも活用可能と思うが、社会主義・共産主義構想

とは切り離さなければならない。

バーロはフンボルト大学哲学科出身で、新聞編集などをしたあと、Bahro[1977]

執筆(73-76 年)当時はベルリン・ゴム・コンビナートの労働組織部長であり、大学

卒や専門学校卒の幹部の投入効率に関する博士論文も執筆するという産業テクノクラ

ートとなっていた(博士論文は関連学歴不足で不合格)。彼は、Bahro[1977]抜粋

を 77 年 8 月『シュピーゲル』誌に載せたあと逮捕され、「情報収集活動」の罪で 78

年 6月懲役 8年の有罪判決を受け、有名なバウツェン刑務所に入った。しかしデンマ

ークやスウェーデンでペンクラブ会員に選ばれ、国際人権連盟西ベルリン支部からオ

ッシーツキー賞を授与されるなど、国際的支援のもと、79年東独建国 30周年恩赦で

西独出国を条件に釈放された。その後は西独緑の党と行動をともにした。89年東独に

戻り、90年からフンボルト大学教授となった[Müller-Enbergs, 2000, S.37]。

バーロは、Bahro[1990]収録の「1989/90年あとがき」(邦訳にはない)にお

いても、「彼ら〔政治局官僚〕の責任の真の大きさを知りたい者は、プラハの春が

何だったのかを思い起こすがよい。人間の顔をした社会主義のために革新運動の

先頭にいたチェコ共産党は国民から愛された。彼らはその自己中心的な愚かさと虚

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栄心と臆病ゆえにこの機会をぶち壊した。…本書は 1968年 8月 21日早朝の私の怒

りの爆発からソ連でのゴルバチョフの登場への途上で生まれた」[Bahro, 1990,

S.547]と言う。だが、バーロの言う改革派共産党への国民の愛は、冷戦期共産圏の

枠内での選択であって、自由な選択の結果ではなかった。89年にチェコ国民が求め

たリーダーは、ドプチェクではなくハベルだった。つまり、改革派共産主義者はノ

ボトニー(A. Novotny、1904-75、53-68 年 1月党第一書記)的な共産主義者より

は愛されたにすぎず、もっと愛されたのは長年人権のために闘い続けた反共産主義

者であった。バーロは「プラハの春」の子として体制内改革派であったが、その議

論は極端に左翼的であったので、ドプチェクにも、ましてやハベルにもなりえなか

った。

Bahro[1977]は共産主義への「ある種の信念から書かれた」と「あとがき」にあ

り、89-90年にも彼はまだ共産主義幻想の虜だった。だから、89年 11月東独帰還に

当り彼が掲げたスローガンも「共産主義とエコロジー」であったし、「最後の 5年〔85

~89 年〕を取り逃したこと」、つまりゴルバチョフ改革に連動して東独を改革できな

かったことを悔やんだ。その 5年について彼は「私がその最終部分に即して“共産主

義的オータナティブの戦略”と名付けた道を自律的に実現する可能性が、東独ではソ

連の場合よりも大きかっただろう」とまで言う。まさに幻想の虜であった。そんなこ

とはあり得なかった。その 5年の間に民主化・自由化すれば、壁を開放しなければな

らない。壁を開放すれば、東独の存在余地はなかった。それはあまりに明白だと思わ

れたので、壁が開いた時に日本の新聞の求めに、私は「両独再統一に向けた大きな一

歩」「東独がなぜ東独であらねばならないのか疑問に思う市民が増える」とコメントし

た[日本経済新聞 89年 11月 10日]。他方、Bahro[1977]の訳者の一人永井清彦は

「壁の撤去という今回の動きはドイツ再統一への一歩でなく、良い隣人同士の関係へ

の一歩と見るのが正しい」云々と長々と述べた[朝日新聞同日]。これは私には空虚で

能天気な議論と思われたが、現に空論だった24)。

このようなBahro[1977]に大きな価値はないが、この著作の西欧への劇的デビュ

ーの背後に相当多くの東独知識人ネットワークが関与していたという事実は重要であ

る。

Bahro[1990]収録の「1989/90年あとがき」によると、Bahro[1977]は東独で

はフンボルト大学生物学科図書室勤務の女性の協力で、そこの地下室のコピー機によ

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り 70部作られ、配布された。

私が東独に住んだ 80~82 年当時も東独のコピー事情は悪く、町中にコピーショッ

プはなかったし、大学でも自分でコピーすることはできなかった。私は当時滞在中の

ベルリン経済大学図書室で見つけた対西側輸出禁止の『計画化規則』を同図書室のコ

ピー係に依頼するのをためらった。拒否される可能性が高いと思った(それに、自分

ではコピーさせてもらえないのでコピーの労力込みだが、えらく高い値段だった)の

で、堂々と(隠し持つと犯罪視されるので、車の後部座席に放り出したカバンに普通

に入れて)西ベルリンに持ち出し、はるかに安い値段で、しかし自力でコピーし、西

ベルリンからすぐに日本に送り(コピーを東に持ち帰って検問所でばれるとまずいこ

とになると考えた)、東に戻った。『計画化規則』の多くは輸出可能だったが、一部は

西側には輸出禁止だった。そこで、西側研究者にとって東独が輸出禁止にした『計画

化規則』の入手は垂涎の的であり、私は西ベルリンの研究者との間で、お互いにどれ

を持っているかを話し相互に不足を交換したこともある。フンボルト大学の某教授が

農業関係の政治局部外秘文書を貸してくれた時は、さすがにこれを西に持ち出してコ

ピーというわけにいかず(万一の時にその教授がひどい目にあうから)、日本から用意

していた一眼レフで、デジカメと違ってうまく取れたかどうか確認できないから緊張

しながら、接写した。その中身は今後の政策策定の詳細なタイムテーブルであり、特

段の機密ではなかったが、政治局の作業方式がよく分った。壁が開いた時に東ベルリ

ンですぐに目に見えて増えたのはコピー屋と街娼だった。

「あとがき」には、内容推敲やコピー版配布、原稿の国外持ち出しなどに協力し

た人たちの名も多く挙げられている。原稿を壁を越えて持ち出したのはベルリン音

楽大学教授ゴールドシュミット25)であり、それを西独出版社に持ち込んだのは

「Fritz Behrens」だったとある。あのベーレンス(1909-80)だろう。つまり 50

年代に国家計画委員会副議長・科学アカデミー付属経済研究所所長で 57年に修正主

義として断罪され、61 年自己批判後、64 年祖国功労賞を受けたが、その後改革可

能性への疑義表明のため 67年早期引退となった。彼は 60年代に東欧の先陣を切っ

た東独経済改革「新経済制度」の「決定的な先駆者」とされる[Müller-Enbergs,

2000, S.56]。彼も民主化の必要の主張者だった。ハイネ賞作家ブラウン(V.

Braun)も協力した。裁判では、のちにSED後継のPDS(民主社会党)党首とな

った弁護士ギジ(G. Gisi)が弁護にあたった。バーロは「あとがき」で「ギジは、

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ごく限られた活動の余地をすべて完璧に活用してくれた」と感謝した。

バーロは誠実な人ではあったようである。この「あとがき」で彼は、長年の党員と

して彼自身にも一党独裁への共同責任があること、59年に農業生産協同組合に入ろう

としない党員農民を批判する記事をある地方紙に書いたこと、65 年に学生向け新聞

『フォーラム』(彼は 65-66年同紙副編集長[Kuhrt, 1999, S.800])で詩人クーネル

ト26)を攻撃したこと、79年に出国を拒否することもありえたこと、ゴルバチョフ改革

の重要性に確信を抱いた 87 年初めにも「私は精力的かつ世間に聞えるように〔東独

の〕ドアを叩かず、〔東独での〕騒動を増幅させるようにしなかった」ことを恥じ、「“あ

まりに遅れて来る者は実生活によって罰せられる”という〔ゴルバチョフの〕言葉は

私にもあてはまった」と言う。

しかし彼は、「社会革新のために活性化できる人間のゆうに半分は確実に SEDに属

している」とも言うのだから、彼の認識は現実離れし、党外の国民から遊離していた。

彼が政治局独裁に焦点を当てたのは党の中にも彼ら改革勢力がいると言いたいからだ

ろうが、現実にはその党のイデオロギーと政策と活動の全体が問われたのである。東

独に限らず全ての旧共産圏の 89 年以後のプロセスが示したのは、たとえ改革派であ

っても(元)共産主義者に必要な移行をリードする資格がないということであった。

それはその思想と活動自体に起因していた。

4. 東独国民の「プラハの春」

東独内の「プラハの春」支持と侵攻反対はどの程度の規模であっただろうか。これに

ついて Eisenfeld[2003]がシュタジその他の東独当局(官製労組を含む)の元機密資

料を調査している。以下の(1)~(13)は、その記述から私がまとめた諸数字と結末である。

アイゼンフェルトは、彼自身が当時東独ハレ(作曲家ヘンデルの生地、ハンザ同盟都市)

のプーシキン・ハウスにおける公式行事で問題提起したことをはじめ、多くのエピソー

ドも記しているが、本稿では、(13)を別にして、数量に現れたものだけを紹介する:

(1) 東独国民の情報源はラジオ・プラハ(チェコ)のドイツ語放送や西側メディ

アのほか、チェコ現地への旅行であった。この時期に東独からチェコへの旅行者は

急増した:1967年前半に比べて 46%増。68年 7月だけで週当り 8~9万人に達し

た〔これは、当時の人口比(日本 1億、東独 1700万)で考えると、日本の約 50万

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人に相当した。なおペリカンは侵攻時点に休暇で東独にいた多くのチェコ人から、「彼

らへの普通の東独市民の態度がすばらしかった。東独市民は彼らに食べ物や花束をわ

たし、ドプチェクと“人間の顔をした社会主義”への共感を表明した」と聞いた[Jäckel,

1980, S.49]〕。

(2) フンボルト大学やドレスデン工科大学、ハレ・ルター大学をはじめ、ライプチ

ッヒ、ローシュトック、グライフスバルト、イルメナウ、カールマルクスシュタット

などの諸大学における教授や学生の改革支持表明。

(3) 68年前半シュタジが登録したものだけで、チェコの改革支持ないし東独体制批

判について 1749件もの未解明事件があった。

(4)カールマルクスシュタット県の報告では侵攻開始直後の 8月 23日、15の郡27)で

「ドプチェク万歳」「チェコに連帯する」「チェコから手を引け」「イワンはチェコから

出て行け」などの落書きがあった。

(5)内務省によると、直接侵攻に絡む「犯罪」(落書き、手製のビラ撒き)の全国件数

は侵攻後 8日間で 1742件であった。シュタジによると 9月中頃に合計 2129件の「敵

対行動」があった。地域別ではベルリンが 27%、ドレスデン・ライプチッヒ・カールマ

ルクスシュタットなどザクセンが 30%を占めた。多くの都市で抗議デモ組織化の試みも

あった。フライベルクではチェコ青年の抵抗闘争への連帯の署名活動がなされた。企業

内では殆どなかったが、例外的にストやサボタージュをめざした行動もあった。

(6)当局が 8月 21日から行なった軍事介入支持署名運動への拒否者は「殆どの企業

や施設」に存在した。東ベルリンのケーブル工場「オーバーシュプレー」ではそのた

めの催しを約 3000人がボイコットした。ゲルリッツの車両工場では従業員の約 50%

が侵攻に反対した。地方の 280人規模のある工場では党の支持集会に 28人しか参加

しなかった。官製労組 FDGBの 9月 6日時点の分析は「公的プロパガンダ(が)…

多くの点で多かれ少なかれ信用されていない」と述べた。〔私の面識のある人も署名拒

否によりフンボルト大学を追われていた。80年にこの事実を知った時非常な衝撃を受

けた記憶がある。〕

(7) 当時東独は 68年 4月 6日に国民投票を行なって新憲法を採択したが、24万人

が投票せず、投票結果でも 43万票のノーまたは無効票が出た。

(8)当局は東独とチェコの間の郵便を検閲し、カールマルクスシュタット県では

7月 19日~8月 15日に 10390通のチェコ宛送信をチェックしたが、大部分は改

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革と無関係で、改革に関説したものは賛否拮抗であった〔これは侵攻前であることに

注意〕。しかしチェコからの来信 10000通の大部分は改革を歓迎していた。69年 1月

シュタジは検閲の全国結果について「重要な事実と意見」を知ることができたものが

約 6.5万通あったとした。

(9)68 年 10 月の総検事局報告によると、1189 名が刑法上の訴追をされた。シュタ

ジの取調所だけで同年 11月末までに 506人が拘留され、その 3分の 2が 25才以下で

あった。有罪の場合シュタジ集計では 3ヵ月から 3年の判決であったが、4年の事例

もある。20才以下の有罪者の半分以上に 68年 12月に恩赦があった。

(10)侵攻反対でシュタジの取り調べを受けた人の社会構成は、労働者 60%、職業教

育生 15%、学生・生徒それぞれ 8%、知識人 2.5%、芸術家 2.2%、軍・警察等関係者

1.9%であった。国防軍からは 8名(うち 1名は将校)が有罪となった。

(11)SED内では、約 180万党員のうち「不明確な考え、動揺した態度、反党行動」

が問題とされた者は3400人であったが、うち2000人以上は話し合いだけで咎めなし、

522 人が党内処分を受け、280 人が除名ないし除籍となった。3400 人のうち 12.5%

はハレ県の党員、ライプチッヒ県 11.1%、ゲラ県 10.4%、ドレスデン県・ポツダム県

それぞれ 9%で、東ベルリンは 2.2%の比重しかなかった。半分が 30才以下であった。

階層別では労働者 40%、農業協同組合員 13%、軍・警察等 12%、工業企業ホワイト

カラー11%、知識人 13%、芸術家 1%弱であった。

〔これらの数字についてEisenfeld[2003]は「たったこれだけ」と言うが、上記

の人口比で考えると、党組織率が同じなら、3400人とは日本で 2万人であり、除名・

除籍の 280人は約 1650人に当る。ホーネッカー時代よりも弾圧が厳しかったと言わ

れるウルプリヒト時代に、独裁党の内部からさえもこれだけの反旗が出たということ

は、水面下に相当の動揺があったと見なすべきだろう。ソ連で当時ゴルバチョフがそ

うしたように、思いや教訓を内に秘めた者が多かったのではないだろうか。〕

(12)「芸術家、作家、ジャーナリスト、大学・学校の教員」についてシュタジは

68 年 9 月 5 日までに得られた情報から「(当局に)拒絶的ないし敵対的な反応は

ほんの僅かの個別事例にすぎない」と総括した。チェコ改革への連帯を公的にも

表明した著名人はハーベマンやビアマン、ハイム、クンツェ28)くらいであり(ク

ーネルトは党内で「軍事介入は理解できない」旨表明)、集団としての例外はゼンフ

テンベルクの「鉱山労働者劇場」従業員とドレスデン工科大学の科学者であり、そ

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れぞれ半数近くが介入同意を拒否した。

〔Eisenfeld[2003]は、クリスタ・ヴォルフを、私的会話では介入反対を語った

が、公の場ではチェコ情勢への SED の憂慮を共有するかのような印象を与えたと非

難し、また多くの著名人が「回りくどい公的声明」で当局に同意したと批判する。そ

のような批判はもっともではあるが、同時に面従腹背やあいまいな支持表明、私的反

対表明も内なる不同意や疑念の広がりを示した。〕

(13)チェコでの改革を支持した党員は失望し、多くの知識人・芸術家が弾圧を恐れ

て日和見主義と降伏儀式を選ぶか、西に出るかした。「プラハの春」の改革の精神はプ

ロテスタント教会の保護下にのみ残った〔他にハーベマンのグループやバーロを支え

たネットワークなど〕。その精神が表面化したのはようやくペレストロイカの時期であ

った。「プラハの春」に共感し、公然とではなくとも介入に反対した非政治的市民の多

数は自分の殻に閉じこもり、「ヘルシンキ宣言」による「CSCE(全欧安保協力会議)

プロセスの開始とともに」移住申請や逃亡運動に加わった。

このように、改革支持・侵攻反対表明が多数を占めたわけではないし、運動が長く

持続したわけでもない。「数千人の個人や小グループが起した行動は公然と目に見える

騒動を引き起こし得たわけではなかった。すでに 9月半ばにはシュタジは“安定した

政治的・イデオロギー的状況”であり、“敵対者は東独とワルシャワ条約 5 ヵ国の措

置への政治的反対行動を拡大する広範な不穏さや騒動、事件を(起す)ことができな

かった”と語った」[Eisenfeld, 2003, S.799]。しかし多くの人々の心に長く影を落と

しただろうことが読み取れる。

【引用文献】 ・青木國彦[1987]「中国の温州モデル:シュピーゲルのルポルタージュ」『経済体制研究』(東北大学経済体制研究会)5号。 ・―[1988]「東ドイツマルクのヤミレートの暴落(紹介)」『経済体制研究』(東北大学経済体制研究会)6号。 ・―[1991]『壁を開いたのは誰か』化学工業日報社、1991。 ・―[1992]『体制転換』有斐閣、1992。 ・―[2003]「共産党宣言からヘルシンキ宣言へ」、『カオスとロゴス』24号。 ・―[2004]「唯物史観のアポステリオリな省察」、『比較経済体制研究』11号。 ・―[2004a]「ポーランド危機と冷戦の終わりの始まり」、東北大学『研究年報経済学』66-2。

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・―[2004b]「ポーランド危機とソ連の東欧政策転換」、比較経済体制学会秋季研究報告会(2004年 11月 27日)報告。 ・―[2005]「ベルンシュタインとポパー・市井」、『東北経済学会誌 2004年度』(近刊)。 ・Bahro, R.[1977][1990]Die Alternative, Bund-Verlag. バーロ(永井清彦/他訳)『社会主義の新たな展望』(Ⅰ・Ⅱ)岩波書店、1980年。原書 1990年版は 1979年版を復元し、「1989-90年あとがき」を付している。このあとがきは邦訳にはない。 ・Baumgartner, G. / D.Hebig (Hrsg.)[1996]Biographisches Handbuch der SBZ / DDR 1945-1990, K.G.Saur. ・BBkM:Monatsbericht der Deutschen Bundesbank. ・Boughton, J. M.[2001]Silent Revolution: The International Monetary Fund 1979-1989, IMF. ・Eisenfeld, B.[2003] “Hoffnung, Widerstand, Resignation”, in: Detschland Archiv 5/2003. ・Havemann, R.[1964]Dialektik ohne Dogma?, Rowohlt. ハーヴェマン(篠原正瑛訳)『ドグマなき弁証法?』弘文堂新社、1967。 ・―[1970, 1972]Fragen, Antworten, Fragen, R.Piper. 引用は 1972 年のRowohlt版による。ハーヴェマン(永井清彦訳)『二つの時代の証言』河出書房新社、1971。 ・―[1978]Ein deutscher Kommunist, Rowohlt. ハーベマン(篠原正瑛訳)『私は亡命しない:東ドイツ・コミュニストの発言』朝日新聞社、1980。 ・―[1980]Morgen, Piper. ・Gorbachev, M./ Z. Mlynar (translated by G. Shriver)[2002]Conversations with Gorbachev: on perestroika, the Prague Spring, and the crossroads of socialism, Columbia U. Pr.. ・Hoffmann, D. (Hrsg.)[1991]Robert Havemann: Dokumente eines Leben, Ch. Links. ・Jäckel, H.(Hrsg.)[1980]Ein Marxist in der DDR, Piper. ・Jaruzelski, W. [1992] Les chaines et le refuge: memoires, Lattes.ヤルゼルスキ(工藤幸雄他訳)『ポーランドを生きる』河出書房新社、1994。 ・Kenney, P.[2002]A Carnival of Revolution, Princeton Univ. Pr. ・Kramer, M. [1999] "Soviet Deliberations During the Polish Crisis 1980-1981", CWIHP Special Working Paper No.1. ・Kuhrt, E.(Hrsg.)[1999]Opposition in der DDR von den 70er Jahren bis zum Zusammenbruch der SED-Herrschaft, Leske+Budrich. ・Maser, W.[1990]Helmut Kohl: der deutsche Kanzler: Biographie (2., Aufl.),

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Ullstein. 邦訳:ヴェルナー・マーザー(小林正文訳)『統一ドイツコール首相』読売新聞社、1991年。 ・篠原正瑛[1968]『現代ドイツ』弘文堂新社。

・Müller-Enbergs, H. / J. Wielgohs / D. Hoffmann (Hrsg.)[2000]Wer war wer in

der DDR?, Ch. Links. ・小笠原裕[1987]『現代帝国主義論:ソ連とマルクス主義』学文社。

・ツィプコ、アレクサンドル[1994](望月恒子訳)『コミュニズムとの訣別』サイ

マル出版会。訳書が最初の出版[訳者あとがき]。

・Vollnhals, C[1998].Der Fall Havemann. Ch. Links.

・WCY:World Currency Yearbook.

・ヤコブレフ、アレクサンドル[1992](井上幸義訳)『マルクス主義の崩壊』サイ

マル出版会(訳書は 1994)。

【注】 1) 本稿は青木[2003]と同[2004a]の続編にあたる。〔 〕内は青木による補足ないし注釈である。 2) 本稿との関わりにおける「ヘルシンキ宣言」については青木[2003]参照。

3) 青木[2004a]参照。本誌掲載の青木[2003、62-63頁]におけるポーランド危機関係の記述には誤りがあった。お詫び申し上げるとともに、青木[2004a]の参照をお願いしたい。

4) ヤコブレフ[1992]やツィプコ[1994]参照。ヤコブレフのマルクス主義批判の多くはベルンシュタインに負っている(1カ所しか引用していないが)。なお、ベルンシュタインによるマルクス検討の内容とポパー・市井三郎との関係

については青木[2004、2005]参照。 5) ポーランドのIMF加盟交渉についてはBoughton, J. M.[2001, Chap.19]参照。 6) Maser[1990]S.313、邦訳 413頁。邦訳は 3つの付属資料のうち 2つを省略しているが、その 1つたる 10項目プランは付されている。

7) ドイツでは彼らについてのウェブサイトが多数ある。ハーベマンの名を冠した学校もある。

8) シュタジ(東独国家保安省の略称で、公安警察・対外スパイ・防諜組織)の調査(76年 5月 31日文書)ではこの入党の証拠は得られなかったと言う[Vollnhalls, 1998, Dok.5]。

9) ちなみに、ホーネッカー(E. Honecker、1912-94。71-89年 10月東独党書記長)も反ナチ非合法活動で 35年逮捕され懲役 10年となり敗戦直前に脱走した

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闘士である[Müller-Enbergs, 2000, S.373]。 10) この間 53年 6月にはいわゆるベルリン暴動が発生した。これについてハーベマンは、労働者の抗議を弾圧せず受け止めていたならば「自主的な政策」を

打ち出し「全独に途方もなく大きな影響を及ぼしただろうが、そうではなかっ

たために、…万事が裏目に出た」と言う[Havemann, 1978, S.76f.、訳 111-2頁]

11) Havemann[1978]邦訳あとがきによると、除名の直接の根拠は、この講義についての、64年 3月 11日付西独紙Hanburger Echo掲載のインタビューである。インタビューの中で彼は、講義内容はソ連の哲学者ケドロフと「完全な

意見の一致」をみたものだと言う[Havemann, 1978, 邦訳 176頁、原書にはない]。

12) のちに彼は「スターリン主義」という用語を「党機関独裁の誤解を招く慣用語」とした[Jäckel, 1980, S.197]。

13) Wolf Biermann、1936-。西独ハンブルク生まれだが、53年に東独へ移住。フンボルト大学で経済学や哲学等を学んだり、ベルリーナー・アンサンブルの

見習いもしたことがある。数々の賞を得た有名シンガーソングライター。76年西独公演中に東独当局が帰国を拒否した[Müller-Enbergs, 2000, S.79]。東独から追放された後も東独での人気は高く、私も東ベルリンの友人宅でそのレコ

ードを聴かされた。同じビアマンでもWolfgangはコンビナート・カールツァイスイェーナ支配人だった。

14) この部分をHavemann[1970]の訳者は「東ドイツ国民の多くは」と訳している。この訳では東独国民の多数派の意見であるかのようになるが、原文は

「多くの東独国民」であって、それが多数派だという表現ではない。ではどの

くらいの数の東独国民が怒りを感じたかは分らないが、表立った行動の数は、

後述のように、シュタジが克明に記録した。 15) S. Heym、1913-。作家、54年ハインリッヒ・マン賞、60年代後半以降作品批判を受けたり罰金を科されたりしつつ、東独で出版できないものは西独で出

版。94年 PDSから連邦議会に。98年統一ドイツペンクラブ名誉会長[Müller-Enbergs, 2000, S.355]。

16) 彼は europäische ideenという西ベルリン誌 73年 1号で「なぜ東独に留まるのか」「共産主義者なのに、なぜ資本主義の利益に奉仕している西側出版社か

ら出版するのか」という質問に答えた[Jäckel, 1980付録に再録]。ここで彼は、「私は…東独で生活するからこそ非常に有効なやり方で活動できる」、「私の出

版の大部分は西側のためではなく東独と社会主義諸国のためであ〔り〕…多く

の出版物が東独に持ち込まれることを期待している」等々と述べた。

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17) Hoffmann[1991, S.251f., Dok. 4-9]では同じ文書が 16日付となっている。 18) 彼はナチ被迫害者として「名誉年金」(恩給)を受けてもいた[Havemann,

1972, S.185、訳 218頁]。 19) この詩のビアマン自筆の写真が隣のページにあるが、それに比べると引用直後の部分に誤植がある。 20) Havemann[1980]は環境視点のポスト産業社会論である。

21) 「主体性のなさ」の原語は Subalternitätで、それをHavemann[1978]邦訳は「従属性」、Bahro[1977]邦訳は「下っ端根性」と訳した。この概念についてはBahro[1977、第 6章など]参照。

22) マルクスが特定の過去から弁証法的に将来を確定予測することへの批判はベルンシュタインに詳しい[青木 2004、2005参照]が、やはりベルンシュタインに基づきながらそのような方法こそが空想的社会主義・共産主義だとしたの

は小笠原[1987]である。 23) これはあくまで『資本論』で展開された構想、すなわち高い生産力発展に支えられたそれであって、中国文化大革命期に登場した分業廃止論は空論であり、

また毛沢東や党に独裁という固定的分業を許す欺瞞的なものであった。後期マ

ルクスの分業革命論については青木[1992、第 2部第 2章]参照(この部分は71年拙稿に基づく)。

24) T私の場合もホーネッカー辞任時の新聞コメントは間違いだった((納得づくとしたが、責任追及下の解任だった)から、自省しなければならない。

25) H. Goldschmidt、1910-86。スイス出身だが、49年東独に移住し、SED入党。死後の 88年東独の「諸国民友好勲章」が授与された[Müller-Enbergs, 2000, S.262]。

26) G. Kunert、1929-。62年ハインリッヒ・マン賞。ビアマン追放に抗議し 77年 SED離党、79年西独へ出国。85年ハイネ賞(デュッセルドルフ)[Müller-Enbergs, 2000, S.489]。

27) 旧東独には 1都 14県あった。県の下に郡があり、その数は都市郡 38(市および東ベルリン 11区)、農村郡 189であった。

28) R. Kunze、1933-。詩人・作家。1961-62年チェコ滞在。夫人はチェコ人医師。68年ワルシャワ条約軍侵攻に抗議して SEDを離党。77年西独に出国[Baumgartner, 1996、S.450 / Müller-Enbergs, 2000, S.490f.]。

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