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  • 「バンパイヤ」第1回

    週刊少年サンデー

    1966年6月12日号

    スマホでもファンマガが読めます毎月 1日更新します

  • 4

    第98回 / 松谷孝征さん

     

    本連載も最終回。今回は、手塚プロダクシ

    ン代

    表取締役社長の松谷孝征さんにお話を伺

    た。手

    塚先生との思い出については、これまでも『手塚治

    虫 

    壁を越える言葉』(かんき出版刊)をはじめと

    する著書や、さまざま取材の場で語

    てこられたが、

    本項ではそれを踏まえて、改めて手塚先生との思

    い出と、フ

    ンへの想いを伺

    た。

    ―まずは幼少時の手塚体験から伺います。

    松谷

    ぱり『鉄腕アトム』ですね。私が小学校

    に入

    たのは昭和26年、『アトム大使』が始ま

    年です。その後3年生ぐらいの時から、うちと三軒

    並んで同級生が住んでいたので、それぞれ月刊誌〈少

    年〉、〈冒険王〉、〈少年画報〉等を分担して買

    ては、

    それを交換して読んでいたんです。私には兄や姉が

    いたので、幼少時は、彼らが読んでいたものも一緒

    に読んでいました。その頃は手塚作品というよりも、

    山川惣治さんの「少年ケニヤ」のような絵物語を好

    んで読んでいましたね。ですから、手塚治虫という

    名前を意識したのは、ず

    とあとの話です。我々の

    時代は、小学校を卒業すると漫画雑誌は読まなく

    なりましたから。その後、漫画週刊誌が次々に創刊

    されて、大学生の頃、再び〈少年マガジン〉や〈少

    年サンデ

    〉などの漫画を読むようにな

    たんです。

    アルバイト先の駅ビルのなかに、中華菓子屋があ

    て、そこの親父が漫画好きだ

    たんですよ。発売日

    になると、駅の何番ホ

    ムの売店が一番最初に売る

    から、あそこで買

    て来てくれと頼まれて、買いに

    たりしましたね。でも、その当時は、手塚作品

    よりは、ちばてつや先生の「ハリス旋風」などを熱

    心に読んでいました。

    ―では、手塚作品を意識的に読むようにな

    たの

    は?

    松谷

    私が実業之日本社に入

    て〈漫画サンデ

    の編集部に配属されてからですよ。私はもともとグ

    ラビアと活字部分の担当だ

    たんですが、漫画をも

    と増やそうということから、次第にそうい

    た頁

    がなくな

    て、漫画を担当するようにな

    たんです。

    当初は谷岡やすじさんや小島功さんを担当していた

    んですね。ところが、あれは昭和47年(72年)だ

    たかな。暮れと新年の2週連続で2頁、2

    5頁の前後

    編で5ペ

    ジの読み切り、そして、さらに同時期に

    出す増刊号で5

    0頁の読み切り短編を手塚治虫に依

    頼しようという話が出て、それを私が担当すること

    にな

    たんです。漫画部の連中は、それまでに手塚

    番で連載を担当していましたから、その偉大さを判

    ているんですが、私はというと、会議の席で、「今

    さら手塚治虫はないんじ

    ないの?」と言

    て反対

    したくらいですから、それだけ手塚治虫のことを知

    らなか

    た。

    ―担当された2作品というのが、『レボリ

    ン』(〈漫画サンデ

    〉1973年1月6日号+13日

    号、1月20日号掲載)と『ペ

    タ・キュルテンの記

    録』(〈同〉1973年1月10日号)ですね。その時が、

    手塚先生との初対面ですか。

    松谷

    それ以前にも富士見台でちら

    と見かけたり

    はしましたけど、親しく話すようなことはなか

    ですから、ち

    んと挨拶して話すようにな

    たのは、

    それがき

    かけですね。10月頃から原稿をもらうま

    で2

    月以上ず

    と泊まり込んだんです。

    ―最初に交わされた言葉は覚えていら

    います

    か。

    松谷

    いやいや、覚えてないですよ。せいぜい「よ

    ろしく」くらいだ

    たんじ

    ないかな。

    ―原稿を依頼するにあた

    ての打ち合わせはどん

    な感じでしたか。

    松谷

    打ち合わせはほとんどないですね。手塚の場

    合は、だいたい打ち合わせはしないんですよ、ほか

    の編集者の場合も、せいぜい頁数と締め切りの確認

    くらいで、基本的にはお任せです。『レボリ

    ン』の時も、2週で前後編5頁、そして増刊号読み

    切り5

    0頁と伝えただけです。すると、手塚は「いい

    ですよ」

    て、それだけです。

    ―では、原稿が上が

    てくるまで内容がわからない

    んですね。

    松谷

    いや、先にネ

    ムをもらうので、完成前にお

    およその内容はわかりますけどね。

    ―完成した原稿を受け取

    た時はどんな印象でし

    たか。

    松谷

    さすがに、し

    かりした作品だな、と思いま

    したよ。でも、同時に、読者受けするかなとも思い

    ました。暗い話だし。ただ、原稿を受け取るまでの

    月半、事務所に寝泊まりしながら、当時出てい

    た手塚の単行本を片

    端から読み返したんです。そ

    れこそ「鉄腕アトム」から「ジ

    ングル大帝」や「火

    の鳥」なんかを。それを読んで驚いたんですよ。こ

    れはすごいな、と。子どもの頃に読んでいた印象と

    全然違

    たんです。27歳にな

    てはじめて、手塚治

    てすごいなと実感しました。

    ―『レボリ

    ン』と『ペ

    ・キ

    ルテン

    の記録』を受け取

    た翌年(1973年)には、手

    塚プロにマネ

    として入られました。その経

    緯を教えて下さい。

    松谷原稿を待

    ていた2

    月半の間、手塚のもとへ、

    虫プロの組合員が来たり、虫プロ商事の社長が資金

    繰りの話し等しているのを目の当たりにしていたの

    で、なんだかゴタゴタしているなとは感じていたん

    です。原稿をもら

    て2

    月くらいでし

    うか。突然、

    先生のマネ

    から電話がかか

    てきて、「松谷

    さん、うちでマネ

    てくれないかな」と

    言われたんですよ。「先生も(実業之日本社に)挨

    拶に行くと言

    ている」と。当時、先生には2人の

    マネ

    がいたんですけど、私が寝泊まりして

    いた頃には二人は外に別会社を作

    て、そ

    ちに専

    念していたんです。ですから、私が詰めていた頃も、

    いきなりお金を渡されて、「これでアシスタントに夜

    食の手配してや

    てよ」と頼まれたりして、実質的

    にマネ

    の代理というか、真似ごとをや

    いたので、そこを見込まれたようなんです。あいつは、

    月半、全然家に帰らなくても大丈夫だ

    (笑)。

    ―しかし、実業之日本社を辞めて手塚先生のマネ

    になるというからには、それなりの覚悟が

    必要だ

    たのではないですか。

    松谷

    全然。卒業後も就職せずに、学生時代の仲

    間と作

    た劇団で公演をしたり、アルバイトを転々

    としたりしていましたから。それこそ新聞配達から

    始ま

    て、工場やなんか、いろいろや

    てたんです

    よ。初めて正社員として入

    たのは、百科事典の販

    売をする会社で、そこには一年くらいいたのかな。

    そのあと、実業之日本社に編集者として入

    て、そ

    こには、二年半いました。歓送会で「生まれて初め

    て二年半同じ会社で勤めました」と挨拶をしたのを

    覚えています。私は飽き性だから、すぐに飽きち

    うんですね。〈漫画サンデ

    〉では、当初グラビア

    担当だ

    たのが、途中から漫画担当にな

    たでし

    う。それ以降、漫画家と一緒に飲むのはいいんだけど、

    結局、何回か行くと飽きち

    て。谷岡やすじさん

    くらいかな、その後もよく一緒に飲んだのは。でも、

    そのうち訪ねて行けば原稿をもらえるし、それすら

    飽きてきち

    て(笑)。手塚プロから声がかか

    のは、そんな頃だ

    たんです。実際、後日、編集部

    に手塚が来てくれましたしね。そういえば『レボリ

  • 5

     

    手塚のそばにいると何か面白そうだなと感じたの

    と、給料を含め、提示された待遇も良か

    たんです。

    私が入

    た頃に、ち

    うどアニメ『ふしぎなメルモ』

    の制作が終わ

    たんです。だから、手塚も「今はガ

    タガタしていますけど、僕はもうアニメはやめます

    から。アニメをやらなければ、(漫画)原稿だけな

    ので、安心して下さい」

    て言われたんです。実際、

    その後5年間は辛抱してアニメはやらなか

    たです

    からね、『100万年地球の旅 

    バンダ

    ク』(78

    年)まで。も

    ともそんな状況ではなか

    たですか

    らね。

    ―虫プロダクシ

    ン、虫プロ商事二社の状況を考え

    ると当時の手塚プロの状況も、いわば沈みゆく船

    に乗るようなリスクもあ

    たわけですよね。

    松谷

    その頃には、私自身が手塚治虫の偉大さを判

    ていましたし、手塚治虫は絶対にこのままじ

    わらないと信じていたので、そこはあまり心配しま

    せんでした。それに当時はまだ社長がいましたしね。

    私は原稿のスケジ

    ル管理をやれば良か

    ただけ

    なので。でも、当時の手塚はその後に比べると、大

    した量は描いていないですよ。まだ、『ブラ

    ク・ジ

    ク』も始ま

    ていないし、せいぜい絵本や学年

    誌で『チ

    ポくんこんにちは』とか、週刊誌で『ミ

    クロイドS』を描いていた程度でしたから。も

    も、私が入

    た年の8月に虫プロ商事が潰れて、11

    月頃、虫プロダクシ

    ンが潰れたので、そのあたりで、

    債権者集会なんかの対応があ

    て、大変でしたけど。

    ただ、親父には「せ

    かく出版社に入

    たのに、お

    前何をや

    ているんだ」と言われました。私は「いや、

    手塚治虫

    ていう人はほかとは違うんだ」

    て話す

    んだけど、判

    てもらえないんですよね。そこで漫

    画の単行本を送

    ても仕方ないから、新聞や雑誌に

    た記事を送るようにしたんです。それから1年

    半か2年経

    た頃かな。私が受けたインタビ

    事を見た親父が、「お前な、先生のことを

    とか

    言うんじ

    ない。先生

    と呼ぶか、あるいは身内

    と思うなら

    手塚

    と呼びなさい」

    て。いつの間

    にか、手塚治虫が相当すごい人間だ

    てことを認識

    したんですね。おそらく周囲からも聞いたんでし

    う。き

    と、飽きたらすぐ辞めると思

    ていたんで

    うけど、それがず

    と続いているんですからね。

    ―ある意味で親孝行にな

    たわけですね。その後の

    状況はいかがでしたか。

    松谷

    私が入社した頃は、〈少年チ

    ンピオン〉2

    代目編集長の壁村(耐三)さんがし

    う手

    塚を訪ねて来ていて、「うちで描いてくれ」

    て言

    ていました。で、色々整理がついたタイミングで

    1973年11月から『ブラ

    ク・ジ

    ク』の連載

    が始まるんです。当時、「手塚治虫が劇画に負けた」

    みたいな記事が週刊誌に載

    たんですよ。その時の

    手塚は「ふざけるんじ

    ない!」と、反論したりし

    ていましたけど、要は会社のごたごたで描けなか

    たから本数が減

    ていただけで、実際のところ手塚

    はもう描きたくてし

    うがなか

    た。そこで描いた

    のが『ブラ

    ク・ジ

    ク』で、それが当た

    たわ

    けです。

    ―「ブラ

    ク・ジ

    ク」の内容についても事前に

    綿密な打ち合わせや相談はなか

    たのですか。

    ―結果的に長期連載、そして代表作のひとつにな

    りました。

    ―翌年1974年7月には、『三つ目がとおる』の

    連載が始ま

    ています。

    松谷

    私が手塚から唯一褒められたのがそれですよ。

    「あなた、マガジンの連載取

    てきたんですか」

    驚かれて。「いやいや、向こう(講談社)から打診

    があ

    たんです」

    て言

    たんですけど、「へ

    てび

    くりしていました。マガジンとは例の『W3』

    ―松谷さんが潤滑油的な役割を担われたんですね。

    ところで、執筆時の手塚先生の様子を教えて頂け

    ますか。

    松谷

    とにかく、ず

    と描いていましたね。疲れて

    睡魔に襲われても、1分寝ては起きて、また描いて

    という感じでした。私がマネ

    を担当するよ

    うにな

    て1年経つか経たないかの頃「松谷氏、1

    分ごとに声をかけて起こして下さい」と言われて、

    そうしていた時期があ

    たんです。富士見台の仕事

    場は、仕事机の裏側に三畳くらいの畳敷きのスペ

    スがあ

    て、そこで、1

    5分寝て、起きたら寝転が

    たまま腹ばいにな

    て、カリカリとペンを走らせて

    いたんですよ。だけど、や

    ぱり徹夜が続くと効率

    が上がらないんです。ですから、ある時期からは、

    編集者らと相談して、せめて3時間は寝かせてあげ

    ようということにな

    たんです。実際、3時間眠

    たあとのスピ

    ドがすごいんです。1時間に5、6ペ

    ジ上が

    てくるんですよね。そうや

    て、手塚が

    数時間眠

    ていると、僕はその間に新宿や六本木に

    出て、編集者と会

    たり出来るじ

    ないですか。何

    しろ富士見台は夜12時を過ぎると開いている店が全

    然なか

    たですから。

    ―手塚先生は漫画執筆以外にも漫画家の絵本の会

    やアニメ関連のイベントなど課外活動にも精力的

    でしたね。

    松谷

    例えば漫画家協会

    てあるでし

    う。あれが

    きちんと法人格にな

    た際には、とても喜んでいま

    した。実は、生前の手塚にはいくつかの使命があ

    たんです。まずは「子どもたちにいい漫画を提供し

    たい」、次いで「戦争の悲惨さと生命の大切さを人々

    に知らせたい」、そして、「漫画を文化として皆に認

    めさせたい」ということです。だから、漫画家協会

    が組織としてまとま

    て、世の中に漫画文化を啓蒙

    することで、戦争をなくす一助になればと考えてい

    たんです。また、海外作家との交流にも積極的でし

    た。手塚は、お互いが相手を理解していないから戦

    争が起きるんだ、という考えで、だからこそ、漫画

    やアニメを通じて互いの理解を深めることに熱心だ

    たんです。現地に足を運ぶことで、国による慣習

    の違いや、政治的背景が判りますから。だから、中

    国にもよく足を運びました。

    ―手塚作品の今後について思うことがあれば伺え

    ますか。

    松谷

    いろいろ難しい局面に来ているのは確かです

    ね。例えば、今は電子書籍なんかで配信されること

    が増えていると思うんですが、手塚はあくまでも紙

    媒体のために描いたんですよね。ち

    んと左右見開

    きを念頭に、ペ

    ジをめく

    た時にどう見えるかな

    んてことを考えて。それが電子書籍だと崩れること

    もあるでし

    う。それこそひとコマごとに表示され

    るスタイルの見せ方もあるじ

    ないですか。ああい

    うのは、手塚が生きていたら怒るでし

    うね。そう

    いえば、昭和50年代に、漫画が文庫本で出版される

    ようにな

    たでし

    う。

    ―では、最後にフ

    ンに対してメ

    ジをお願い

    します。

    松谷

    ないない。手塚と壁村さん、私の3人でいる

    時に、手塚から「医者が主人公というのはどうです

    か?」という話が出たんですけど、壁村さんはその

    まま受け入れましたからね。だ

    て、壁村さんはと

    にかく手塚に描かせたいんだから。後日、壁村さん

    と話した際には、少年漫画の雑誌で医者が主人公の

    漫画なんて…と思

    たそうだけど、あの時は描かせ

    たい一心だ

    たと言

    ていましたね。私だ

    て、同じ

    感想でしたよ。でも、『ブラ

    クジ

    ク』は、手塚

    にと

    ては、自分が描きたい「生と死」に一番近い

    設定の作品だから描きやすか

    たんだと思います。

    の一件以来、付き合いがなか

    たですから。当時の〈少

    年マガジン〉編集部の宮原(照夫)さんと私は外で

    飲む機会が多くて、私がマネ

    にな

    たこと

    で、宮原さんも手塚のところに来やすか

    たんでし

    う。も

    とも、ブラ

    ク・ジ

    クの人気が一番の

    かけですね。

    ン』のなかで劇団が出てくるんですが、そ

    の名前を考えていた時に、「あなた、劇団や

    ていた

    んでし

    。何かいい名前ない?」

    て、劇団名を相

    談されたことを思い出しました(笑)。

    松谷

    当時、手塚はこの作品は5回で終わるんだ

    と話していたんです。これは、ブラ

    ク・ジ

    が、母親を殺された敵討ちをする復讐劇だと。勿論、

    編集者からも4、5回の連載といわれていましたか

    ら。ところが、3回くらいで少し人気が出ち

    ものだから、いつの間にかその復讐劇

    ていう設定

    が消えち

    たんですね。で、その後も連載

    てこ

    とにな

    たんです。

    ―小学館文庫とか奇想天外文庫などですね

    松谷

    あの時、各社から文庫化の依頼があ

    て、そ

    れに対して手塚は怒

    ていましたからね。手塚は、

    掲載誌の紙面を意識して描いているので、「冗談じ

    ない。こんな小さいサイズで読むために描いてい

    るんじ

    ない」

    て。カケアミも潰れち

    うし。だ

    けど、私の立場としては、無下に断れないから、手

    塚に相談したんです。そしたら、それこそナンセン

    ス漫画であれば、「あれは描き込みも少ないし、あ

    れならいいですよ」

    て言われて、あのあたりから

    文庫を出すようになりました。今は紙も印刷技術

    も格段に上が

    たから、問題ないですが、当時は抵

    抗がありましたね。

    松谷

    もし、可能なら、身近な人に手塚作品を勧め

    て下さいとお願いしたいです。私自身が勧めるとす

    れば、やはり読みやすい『ライオンブ

    クス』や『タ

    イガ

    クス』などの短編シリ

    ズ、具体的には、

    あそこに収録されている『安達が原』や『百物語』。『鉄

    腕アトム』の「ブラ

    ク・ル

    クスの巻」、あのエピ

    ドも好きで忘れられないですね。それと、やは

    り『ジ

    ングル大帝』、『火の鳥』はぜひ今の子ども

    にも読んでもらいたいです。今回フ

    ンマガは休刊

    ということになりますが、フ

    ンの皆さんがいたか

    らこそ、手塚はいろんな作品を描けたわけですし、

    ンには感謝しかないですね。生前、手塚はフ

    ンを大切にしていました。そして、今後もぜひ近所

    のお子さんたちに手塚作品を紹介していただければ

    嬉しいです。

  • 6

    「なぜ、日本のマンガはこれだけ大発展したのか?それは手塚治虫がいたからだ」というフレー

    ズは誰もが知っています。しかし手塚治虫の60年の人生は、出発点から闘いの連続でした。

    赤本時代からすでに手塚マンガは、無理解な教育界から睨まれ、吊し上げられ、「焚書」ま

    でされました。昭和 20~30 年代のことです。

    「マンガを読むとアホになる」と言われつつも、次のマンガ世代が注目されはじめると、世間は「手塚

    治虫はもう古い、手塚時代は終わった」と嗤いあざけるようになりました。これが昭和40年代ですね。

    虫プロが TVで『鉄腕アトム』を発表すると「絵が動かない」「電気紙芝居」と悪口を言われ、ア

    ニメ界からは「ほとんど全否定」されました。しかし現在、日本の TVアニメが「世界最高峰」

    と謳われるまでになったのは、その出発点に「無理にでも毎週三十分」放映を続けた「虫プロア

    ニメ」があったからです。

    再起不能、と言われた手塚治虫が『ブラック・ジャック』で返り咲いた頃から、世間は「悪口

    のタネがなくなった」かのように手塚批判をしなくなりました。

    ほどなく手塚治虫は、21世紀を見ることなく 60年の生涯を閉じます。手塚治虫が褒め称えら

    れるようになったのは、実にこの頃から、と言っていいでしょう。せいぜい「晩年に至り、よう

    やく」ですね。それから 30年、手塚治虫は教科書にも載る「偉人」になりました。

    なぜ、日本のマンガはこれだけ大発展したのか、というと、それは「手塚治虫が、あらゆる非

    難、悪口に耐え、はね返し、すべてに勝ち抜いてきたから」です。

    手塚先生、有難う御座います。40年にも渡り手塚ファンを支え続けてきた「手塚ファンマガ

    ジン」に心からの尊敬と感謝を申しあげます。

    「手塚ファンマガジン」休刊の知らせを聞き

    残念です。

    おそらく、手塚ファンの高齢化なども影響し

    ているのかな、と思いますが、最近編集に関

    わった角川文庫の『火の鳥』の売れ行きなど

    を見ると、じわじわと若いファンも生まれて

    いるのではないかと思われます。

    彼らの受け皿として、WEBマガジンか何か

    で存続できるといいなと期待しています。

    青天の霹靂と言う言葉がある。「手塚ファンマガジン」編集部の和田編集長から

    思いもよらないお手紙を頂いた。書状には「本年 9 月 30 日発行号で休刊の運

    びとなりました」とあった。ファンマガジンが343号で終わるとは驚かざる

    を得なかった。種々の事情があってのことだろう。

    手塚治虫先生生誕 90 年で、多くの復刊手塚漫画が書店の棚を賑わせている。

    この時期だけに休刊は残念だった。

    私は昭和 22(1947)年 1 月に発売された『新宝島』を級友から借りて、

    手塚漫画の虜となった。以降、幾星霜と手塚漫画を読み続けて来たオールドファ

    ンの一人だ。ファンマガジンの編集長さんも(私が知ってから)和久千賀さん、

    田崎陽大さん、和田 収さんと代替わりされたが、三人の編集長さんともお付き

    合いをして頂いた。

    和田編集長になって、マガジンもリニューアルされ、大判でカラー化(一部)も

    された。本誌の執筆メンバーも二階堂さん、野口さん、竹内さんと、いずれも

    手塚漫画研究のオーソリティで、毎号の連載を読むのが楽しみだった。

    マガジン自体の休刊はオールドファンの一人として寂しいが、手塚漫画は多く

    の読者によって読み続けられることだろう。手塚先生が創造された『火の鳥』

    のように…。

    末筆だが、三代にわたってマガジンの編集を

    担当された和久、田崎、和田ご三人に「ご苦

    労様でした」と心からお礼を申し上げるとと

    もに出版元の手塚プロダクションにも感謝の

    念を捧げたい。

    長く続いたファンマガが遂に休刊との事、

    大変名残惜しいです。

    在任中のファンマガ編集にまつわる思い出

    は色々とありますが、一時期発行がフラフ

    ラと不定期気味だった時に、手塚プロの

    古徳出版局長や故・森晴路さんに喝を入

    れられて月刊化に踏み切った事や、故・

    福元一義さんの連載が、FC発としては

    初めて書籍化された事(『手塚先生、締

    め切り過ぎてます!』集英社新書)、また

    アンソロジストの濱田髙志さんが連載陣

    に加わり、「音楽」という新しい切り口か

    ら手塚研究ができた事、そして手塚アニ

    メに参加された著名な作曲家の方々に取

    材ができた事などは、特に印象に残って

    います。和田さんをはじめ、現編集スタッ

    フの皆様、お疲れ様でした。

    和田さん、長い間お疲れ様でした。

    投稿されている方のお名前の中に、見覚えのある名

    前を見つけ、とても暖かい気持ちになりました。

    手塚ファンマガジンがなくなってしまうとのお知ら

    せを聞き、編集に携わっていた頃のことを思い出し

    て胸がいっぱいです。

    ファンクラブを通じて、たくさんの方と交流が持て

    たこと。取材を通じて、ものづくりに携わる方たち

    の熱意を痛感したこと。困った時、手塚プロダク

    ションの皆が助けてくれたこと。そしてなんと言っ

    ても、手塚先生と同じ時代を生きられたこと。全て、

    人生の宝です。

    1979 年から長年にわたって親しまれてきた「手塚ファンマガジン」が、9 月 30 日

    343 号をもって終了するそうで…淋しい限りですね。担当された方々本当にご苦労

    様でした、そして有り難うございました。今年 6 月毎年恒例の、朝日新聞社主催の

    「手塚賞」の授賞式に出席した。先生、生誕 90 年とか、先生が生きておられたら

    90 歳と言う事なのだ。ぼくは今年 11 月で 80 になる、ぼくが昭和 33 年先生のも

    とに弟子入りした時は、先生はまだ結婚されていなかった。

    あれから時間はずーっとずーっと経ったはずなのに、改めて思い出すとついこの間

    の出来事の様な気がしてならない。本当に濃厚な時間だった…。

    「手塚ファンマガジン」が終了しても、この世の中にマンガやアニメが無くならない

    限り、手塚先生はずーーっと語り継がれてゆき、ファンも残って行く事でしょう。

            それにしても「手塚ファンマガジン」終了は、淋しい話だなあ…。

                     令和元年 7 月 7 日 七夕の日に

    拡大版

    最終号に向けてゆかりの方々からお

    言葉をいただきました。

    ここにご紹介させていただきます。

    ありがとうございました。

     渡辺 泰オールドファンの一人

    荻原(和久)千賀(元・発行人)

    中野晴行 篠田ひでお 手塚先生の弟子・杉並の自宅にて

    みなもと太郎田崎陽大(元・ 発行人)

    、、

    、 、

    、、

    、 、

    、、、

  • 7

    復刻の思い出手塚作品の復刻をやっている時に森資料室長に、川村

    さんの企画は先生が存命ならNGです、と幾度か言わ

    れた 『新寶島』や「創作ノート」の時だ。手塚作品を

    深く理解し、研究するために必須の物なので、今で

    は先生も許してくださっていると思っている。でも、

    昨年パリの「アトム」1ページの落札価格が 3500

    万円のニュースを聞いた現在では、その鑑定団的価

    値を考えると怖くて扱えないかもしれない。

    良い時期に復刻の仕事をさせてもらったと思う。

    蠇蠇と、誰がいっ

    たのか忘れましたが、でも本当に

    そう思います。ピラミッドだって、ひと

    つづつ積まれた石からきているのです。

    ただ長くつづいただけじゃないかと、

    鼻で笑う人もいるでしょうが、そん

    なことをいうなら自分でやってみろ。

    手塚先生は巨大なクリエーターでし

    た。だがその巨木が、今なお根をは

    り枝をのばすことができるは、営々

    と光をおくり水を与えるみなさん

    がいたからです。世の中は手塚先

    生が不安視していた方向へ、ゆっ

    くりと傾斜してゆきそうです。

    マンガの奔放な楽しみを享受

    できなくなる、そんな時代に

    ならないよう、お互いに力を

    尽くしてゆきたいものです。

    手塚先生とほぼおなじ世代

    のぼくは、息詰まる暗い世

    相を肌で感じとってきまし

    たが、若いみなさんには

    遠く消え去る谺(こだま)

    かも知れません。でも、

    たとえ時は流れ去って

    も、手塚マンガの魅力

    は読み継がれてゆく

        のだと、ぼくは信じ

    ています。

    一大決心の末、貯金箱を壊して FCに入会したのは 1979 年のこと。

    私は小学五年生でした。以来、判型や発行ペースを変えつつも継続し

    た会報が休刊するのは、実に寂しいことです。今年 51 歳になった私

    にとって、同誌は人生で最も長い定期購読誌でした。2002 年の「ア

    ニメ音楽家名鑑」から「私の中の手塚治虫」まで、断続的に連載させ

    て頂き、多くの方の貴重なお話を伺えたのは財産です。これも手塚先生

    が繋げてくれたご縁と感謝しています。

    ありがとうございました。

    日本にまだテレビアニメがなかった時代、ディズニーの短編や長編アニメを観てファンに

    なってしまった私は、ひたすらディズニーアニメを追っていました。それは手塚先生の趣

    味とも重なっていたんだ…ということで、ディズニーに関係した話を少し…

    幸運にもディズニーのスタッフと直接手紙を通して交流できるきっかけを作って下さった

    のは、人形アニメで有名な川本喜八郎さんでした。

    私は外国語が全くダメなくせに、フランス・アヌシーで開催されるアニメフェステイバルに

    参加した時のこと、周りには有名なアニメ作家が沢山いるのに話も出来ない私に、「話をした

    い人がいたら通訳しますよ」といって下さったのは川本さんでした。

    これは渡りに船!とばかりにそれではディズニーの人がいたら…とお願いしたら捜して連れ

    てきた下さったのはアシファの会長さんでした。

    私はびっくりでしたがアメリカの人なら、私の好きなナイン・オールドマンの消息位ならわか

    るかな、と聞いてもらったら…なんと長編作品を専門に監督していたW・ライザーマン氏が交通

    事故で亡くなったという悲報でした。彼はスピードを出して運転するので事故を起こしてしまっ

    たのだろう、とても悲しいことです。でも、帰国したらあなたのことをナイン・オールドマンに

    伝えておきますよ、ということで別れたのですが、これは儀礼的な言葉で、まあすぐ忘れてしま

    うだろうと思っていたのに、なんとその年の暮れにO・ジョンストン氏から手紙が来てビックリ

    仰天! その後、F・トーマス氏からも来てすっかり舞い上がってしまいました。    

    そうしてアシファの会長さんからはウォード・キンボール氏の住所も教えていただいたので、おか

    だえみこさんやら友人だったアメリカ人のミュージシャンやらを総動員して文通が始まり、キン

    ボール氏が北京へ観光に行く途中で東京に寄るということも分かり、手塚先生も雑誌の仕事を置い

    て駆けつけて来られました。

    その翌年の暮、手塚先生に誘われてロサンゼルスに遊びに行き、憧れのディズニー・スタジオを見学、

    「白雪姫」「ピノキオ」「ファンタジア」など名作を撮影したマルチプレーンカメラに感激!

    翌日、手塚先生も私も大ファンのウォード・キンボール氏宅を訪問しました。庭にはリアルサイズの鉄道

    線路が敷いてあって車庫には本物の蒸気機関車、客車などがあり、機関車への給水塔や駅舎まで完備した

    立派な鉄道です。彼は休日に蒸気機関車を運転して楽しんでいたそうで、ウォルト・ディズニーもよく遊

    びに来ていたそうですから、ディズニーランドの外周を走っている鉄道の原型がここにあるといっていい

    でしょうね。また実物の消防自動車のコレクションが3台、汽車のおもちゃを展示した建物が二棟、また手

    塚先生が興味を示したのは彼が描いた沢山のマンガのスクラップ。漫画家でもある彼は有名なキャラクター

    をいろいろ創作しています。ダンボのカラスたち、

    シンデレラの猫のルシファー、不思議の国のアリス

    のチェシャ猫、しかし一番有名なのはピノキオの

    〝良心〟として全編で活躍するジミニー・クリケッ

    トでしょうね。夕食時間になったので近所のメキ

    シカン・レストランに行った時、手塚先生が「私

    は昔『ピノキオ』の漫画を描いたことのあるので、

    貴方が創ったジミニー・クリケットは今でも描け

    ますよ」と卓上にあった紙ナプキンにマジックで

    サラサラと見事に描いたのを見て、ビックリした

    キンボール氏「明日、スタジオに来て下さい、貴

    方に仕事があります!」と云ったので手塚先生は

    じめ一同爆笑したのは楽しい思い出です。

    まずは、長い間本当にお疲れさまでした。私事からで恐縮ですが、自分が手塚プロの

    アシスタントを卒業したのが 1977 年。その二年後にファンマガジンは創刊しました。

    そして私は二年前に漫画家引退宣言をして、今回また二年後にファンマガジンが終了。

    なにかとても運命的なものを感じます。(自分だけですが…笑)勿論ファンマガジンは

    『火の鳥』同様に永遠に続いて欲しかったと今でも思っています。生前、手塚先生はと

    てもファンを大切にしていました。それは自分がアシスタント時代に身近に

    三浦みつる

    手塚先生ならば、ファン(お客様)も皆

    神様です。神様と神様をつなぐ架け橋が、

    まさにファンマガジンでした。おそらく

    今後はWEB がその架け橋になることで

    しょう。そしてまた新たなファンが増え

     続けていくことを願っています。

     最後にあらためてファンマガジンへ

           「ありがとう!」と

                一言伝えたい。

    いて、何度も実感しました。先生の魂はそのままファンマガジ

    ンへと受け継がれました。漫画の神様が

    濱田髙志

    (元小学館クリエイティブ)

    川村寛

    (元アシスタント/元漫画家)

    鈴木 伸一手塚先生とディズニーでの思い出

       

    ています。撮影:鈴木伸一撮影:鈴木伸一

    辻 真先「継 続 は 力 な り」

    ▶1978年12月 アメリカ

         ウォード・キンボール邸に行って

  • 8

    最終回に寄せて

    第69回

    竹内オサム文

      

    今回が最後となります。これまでさまざまな手塚マンガ

    を取り上げて、その特徴について書いてきました。最後、

    私と手塚マンガの関わりについて少し書くことにして、連

    載を終えたいと思います。

     

    私は60代の後半。手塚マンガの第二世代の読者です。第

    一世代は1940年代後半(昭和20年代)の赤本マンガを

    読んで感激した人たち。手塚先生は、『新宝島』『来るべき

    世界』『メトロポリス』など、数多くの赤本マンガ単行本

    を大阪で出版しました。その読者たちということになりま

    す。

     

    いまでは70代半ばから80代にかけての高齢の方。有名人

    で言えば、宮崎駿、さいとう・たかを、藤子不二雄(Fさ

    んとAさんの二人)、小松左京、赤塚不二夫さんたちが該

    当します。戦後すぐの貧しい文化状況のなかで、突出した

    ストーリー展開のおもしろさや、テーマの重厚さ、表現の

    奇抜さに魅了された世代でした。

     

    そのあと手塚先生は雑誌の世界に発表の場を移します。

    そして、『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』『リボンの騎士』

    などを執筆。もちろん第一世代の人たちも、そうしたマン

    ガを読み継いでいきました。でもなかには、赤本マンガ単

    の読者とは、いったいどんな世代なのでしょう。第二世代

    のあとの第三世代とは。おそらく、『ブラック・ジャック』

    や『三つ目がとおる』を、1970年代に読み興味を魅か

    れた子どもたちということになるはずです。第二世代と少

    し年齢が空く。その理由は、手塚先生が大人マンガにシフ

    トしていった時期が、あいだにはさまるためです。

     

    もちろん、それ以降も(1989年の逝去のあとも)手

    塚マンガを読み始めた若い人がいるので、第○世代という

    言い方は、ずっと名づけることが可能かもしれません。し

    かし、マスとして同じような手塚体験をしてきたのは、第

    一、第二、第三世代に限られるのではないかと思います。

     

    当然、世代ごとに好みのマンガが異なる。評価する部分

    に違いが生じる。それは仕方のないことです。しかしなが

    ら、時代がかかえもつ感性の違いを越えて、手塚マンガが

    愛読されていることは、あらためてスゴイことだと思うの

    です。

     

    ただし、ある不安も。かつて児童文学の世界では、明治

    期に巌谷小波という巨人が現れて、昔ばなしを児童文学に

    グレードアップする仕事をしました。当時は大人気。しか

    し、現在ではあまり小波は話題になりません。手塚治虫と

    いう巨人も、同じ運命をたどるのか。あるいは手塚先生だ

    けは別格で、何十年、あるいは百年後にも、巨匠として人々

    の記憶に残っているのでしょうか。ほんとうのことはわか

    りません。分野が大衆ものだけに、危惧する気持ちが大き

    いのです。

     

    この連載の読者、とりわけ10代や20代の若い方々へ。手

    塚マンガが今後どう評価されていくのか、注意深く見守っ

    てくださること

    をお願いいたし

    ます。そして、

    手塚マンガのお

    もしろさを、で

    きるだけ次の世

    代に伝えてくだ

    さい。私がこの

    連載で行ってき

    たように…

    行本時代とは作風がちがう、妥協してマンガを描いている、

    そのため雑誌連載のマンガはあまり評価しない。第一世代

    のファンには、そんな人が少なからずいるのです。

     

    私は雑誌連載で手塚マンガに出会った、第二世代の読者

    のお尻の方にいます。ただし『鉄腕アトム』は連載当初か

    ら読んでいたわけではない。『ジャングル大帝』も後の単

    行本で読みました。『リボンの騎士』などは少女マンガと

    いうこともありますが、ずっとあとになって読んだ、そん

    な読者です。でも、かなりの手塚マンガにふれて興奮、大

    きくなったらマンガ家になろうと決意したものでした。

     

    で、もっとも印象に残っているマンガは何かと言えば、

    月並みですがやはり『鉄腕アトム』。未来社会でのかわい

    いロボットの活躍に、心奪われたわけです。『鉄腕アトム』

    は「少年」という月刊雑誌に載っていて、発売日より1日

    早く売ってくれる本屋さんまで歩いていって、兄といっ

    しょに「少年」を買う、それが何よりの楽しみでした。

     

    この第二世代は、ちょうど団塊の世代に合致します。戦

    後の1940年代後半に生れた人たち。47年、48年、49年

    あたりに誕生した世代は、数の上ではとても多い。

     

    そのため、子どもを相手にした商売にとって、よいお得

    意さんなのでした。戦後に出されたマンガ雑誌の多くが、

    この世代に向けて出版されてきたのです。だって、数が多

    いと売れ行きもいいはずですから。

     

    日本のストーリーマンガを中心としたマンガ文化は、こ

    うした読者が支えていたのです。マンガが大好きで、マン

    ガの善し悪しをよく理解している。専門的な見方ができる。

    そのため、この世代のコアな一部の読者を、一時期「マン

    ガ青年」と呼んだこともありました。

     

    自分のことをいいますと、マンガ家を目指して、同人活

    動に没頭。高校を卒業したら、上京してマンガ家になろう

    と真剣に考えていたものです。

     

    事情は複雑ですが、結局上京せずに大阪に居残り。そし

    て、大学を卒業する時期になり、卒論を書く必要が起こり

    ます。『鉄腕アトム』をテーマにとりあげ、手塚先生にイ

    ンタビューを試みたのでした。ここらあたりの思い出は、

    書き出すときりがなくなりますが、とにかく青春時代は、

    マンガ、マンガ、一色でした。

     

    さて、そういったマンガ青年たちにつづく、手塚マンガ

  • 9

     

    いつもイラストを載せていただきありがとうございます。「シ

    ルクハット物語」のイラストを描きましたのでお送りいたします。

    手塚ファンマガジンが毎月送られて来るのでとても楽しみにして

    おりますが、341号を読んで大ショックを受けました。まちが

    いなく会員全員が同じ気持ちだと思います。手塚ファンマガジン

    が休刊になってしまうとは考えたこともありませんでした。とて

    も残念で、これから何を楽しみに生きていけば良いのかという思

    いです。私は手塚ファンマガジンが、これからもずっと400号、

    500号と続くものと信じておりました。しかしよく考えてみる

    と、私は0号からの会員で、40年も続いたことは凄い事だと思い

    ます。色々な思い出があります。和田おさむさん頑張ってくださ

    い。今までイラストを載せていただきありがとうございました。

     

    最後に手塚治虫ファンクラブがどうなってしまうのかとても心

    配です。私は死ぬまで手塚治虫先生の大ファンであります。

     

    それでは、編集部の皆様、40年間の手塚ファンマガジンの発行

    ありがとうございました。

    『40年間ありがとうございました』26

    0014

    石川雅啓 26-0014 石川雅啓26-0014 石川雅啓

    『とにかく手塚先生ありがとう!』

    13-0571 秋永将輝手塚ファンマガジンに参加できた時間は、私にとって大きな大きな宝物です。心より感謝の気持ちと愛を込めて。

    04-0030 佐々木康弘チョコラ

    「私を生んでくれてありがとう」

    15-0801 松本芳子ファンクラブに関わった皆々様

    感謝です!!ありがとうございました。これからもずっとファンです♡

    15-0827 ひろし 22-0680 三浦綾花

    12-0670 菊地直人元の姿、命光一へと戻って、コミカライズ版を

    描いて頂いた事を感謝!

  •             

    22 ―

    0680 

    三浦

    綾花

     

    この度、手塚治虫ファンマガジンが休刊になるとのこ

    とでご挨拶に投稿させて頂きました。

     

    9年前に初めて訪れた手塚治虫記念館でファンクラブ

    の案内を頂いたことが入会のきっかけでした。当時私は

    中学生で周りに手塚ファンも少なかったので、ファンク

    ラブは貴重な情報源であり、自分の大好きな世界に浸れ

    る場所でもありました。40年もの刊行を続けられたとい

    うことは率直に凄いことだと思います。休刊になってし

    まうのは残念ですが、ここまで手塚治虫ファンの環を広

    げて下さった代々の編集者の方、関係者の方々、そして

    会員の方々に感謝です。

     

    投稿をはじめとして皆様には大変お世話になりました。

    またどこかでお会いできますことを願っています!今ま

    でありがとうございました。

    P.Sずっと昔から頭に浮かんではいたけれど心の中に留め

    ていた川柳を、この際なので成仏させて下さい…

    (笑)

    ○ 

    ジュジュちゃんに 

    服着せたげて 

    四谷さん

       (低俗天使より)

      ファンマガジン休刊に寄せて

                

    27 ―

    0846 

    田浦誠治

     

    思えばファンクラブに入会したのは、手塚先生が逝去

    された1989年であった。初めて手元に届いたファン

    マガジンは181号。表紙は「新ジャングル大帝」のレ

    オとライヤであった。思ったよりサイズが小さく、ペー

    ジが薄いな、との印象だった。しかしその後、「手塚治

    虫 

    夢ワールド」のレポートや手塚治虫記念館レポート、

    度々の会員アンケート祭りなど、思い出深い号が続出し、

    毎月(入会して暫くは毎月ではなく、忘れた頃の発刊だ

    ったが…

    苦笑)ポストを覗くのが楽しみだったものだ。

    なにより一番の感謝は、ファンマガジンを通して、小田

    実風に言うならば「人生の伴走者」と出会った事である。

    最後は「ファウスト」や「アドルフ」にちなんで、こう

    〆よう。

    ダンケシェーン、ファンマガジン!

      「手塚ファンマガジン休刊」    

                 

    15 ―

    0827 

    ひろし

     

    令和元(2019)年8月某日、月に一度の楽しみ「手

    塚ファンマガジン」がポストに入っていました。ファン

    マガジン341号を読んでいくと、ファンルームで「手

    塚ファンマガジン休刊のお知らせ」の記事が書いてあっ

    て悲しかったです。

     

    私が手塚ファンになったのは平成16(2004)年、

    NHKで『火の鳥』のアニメが放映されてからです。そ

    の後給料が出ると手塚先生のマンガや手塚アニメのDV

    Dを買っていきました。その頃好きになった作品は『三

    つ目がとおる』です。『三つ目がとおる』は、作品も好

    きですが、和登さんの方がもっと好きです。和登さんは、

    いつも写楽のことを庇い、時には叱咤激励し、常に優し

    く接していたからです。

     

    ここ最近、各方面で起きているコミュニケーションの

    欠如からくる泥仕合、権力者が弱者に圧力をかけ、潰し

    ていくという悲しく見苦しいニュースが、連日のように

    報道されています。和登さんのような人がいたらこのよ

    うな事になっていなかったかもしれません。

     

    やがて「手塚治虫ファンクラブ」に入会し、イラスト

    など投稿し、手塚先生が執筆したエッセイなどを読んで

    手塚作品の事が好きになっていきました。

     

    ファン大会の時に、ファンの方と話したりしたのいも

    楽しい想い出です。森口博子さんのバラード曲「あなた

    といた時間」じゃないですが、「手塚ファンマガジン」に

    イラストを投稿している時が楽しかったです。

     

    その後イラストでは和登さんの他に、トッペイ、千里

    万里子、「アトムザビギニング」の各キャラのイラストも

    描いたりするのが楽しかったです。

     

    最後になりましたが、手塚プロ並びに手塚ファンクラ

    ブの皆さん、今までありがとうございました。またイラ

    ストなどを投稿できる機関、パソコン、スマホを持って

    いない人たちも利用できる機関があったら嬉しいのです

    が・・・。

    「手塚ファンマガジンは、これから先も不滅です」

      

      

    今年もファン大会実行委員会(武田聖二朗さん代表)

    による「ファン大会」は企画されていますし(案内が同

    封されています)、田浦紀子さんによる、手塚先生ゆかり

    の地をめぐりながら作品の背景を知ることができるサイ

    トもリニューアルされました。

    「虫マップ―

    手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―

    」 

    http://mushimap.com/

                 

    13 ―

    0571 

    秋永将輝

    突然の休刊、大変驚きました

    和田さんには、メールでのやり取りを通じまして、

    大変お世話になりました

    本当にありがとうございました

    また手塚ファンマガジンでのお忙しい毎日、

    本当にお疲れ様でした

    今後とも、お身体に気をつけて、

    すてきな毎日をお過ごしくださいね

    手塚ファンマガジンに参加できた時間は、

    私にとって大きな大きな宝物です

    心より感謝の気持ちと愛を込めて

      手塚先生、兎に角、有難う!! 

                 

    25 ―

    0292 

    時雨蟬丸

     

    手塚先生の諸作品は

    差別

    偏見

    を根底に扱ってき

    ました。『0マン』『バンパイヤ』『アドルフに告ぐ』『ブッ

    ダ』『シュマリ』『鉄腕アトム』『どろろ』...etc

    ...。

     

    多様性(相互理解)が求められ乍ら、国家レベルでも

    個人間でも不寛容さの蔓延する現状こそ、手塚漫画が、

    もっともクローズ・アップされるべきではないでしょう

    か。数々の名作を残してくれて、手塚先生、ありがとう!!

                

    11 ―

    0002 

    戸田 

     

    さびしいです。

     

    和田さんありがとうございました。すごい人、二階堂

    黎人さん。毎月脳がはじけました。さようなら。和田さ

    んに幸あれ。僕は会員番号が0002です。0001の

    方ってどんな人なのかなあ・・・。

        

  • 「ザ・テレビジョン」( 角川書店 ) に掲載されていた、当時のテレビや世相を風刺した 1コマ漫画。掲載期間:1982年 10月 1日号 ~ 1984年 11月 30 日号1985年 12月 6日号 ~ 1986年 10月 24 日号

                

    40 ―

    0205 

    坂本泰孝

     

    僕は昭和30年代から手塚治虫先生の漫画とアニメで育

    ちました。手塚先生の作品は楽しく、元気と勇気、感動、

    希望を沢山いただきました。手塚先生には本当に感謝で

    いっぱいです。和田さん毎月楽しいファンマガジンあり

    がとうございました。休刊は残念ですが、いつの日かファ

    ンマガジン復活願っています。

    手塚ファンマガジン万歳\(^_^)

    長い間ありがとうございました。

                

    12―

    0562 

    富田尚志

    ○ 

    サイン会 

    優しい笑顔 

    大きな手

                

    14 ―

    0239 

    出井博殻

     

    ※サイン会での手塚先生の笑顔と握手していただいた時の先生

     

    の大きくやわらかくて、そしてふっくりとした手の温もりが忘

     

    れられません。

    ○ 

    ケン一の 

    ふしぎ旅行記 

    素敵だよ!

                

    14 ―

    1990 

    大多康弘

    ○ 

    ゾグの声 

    加瀬康之は 

    同期生

                

    12 ―

    0670 

    菊地直人

     

    ※2009年10 月10日、日本公開のATOMに同じ声優科で学

     

    んだ、加瀬康之君がゾグの声として出演

    ○ 

    ピノコちゃん 

    どこまでこだわる 

    18ちゃい

                

    41 ―

    0055 

    首藤美代子

    ○ 

    さようなら 

    会報終了 

    寂しいな

                

    14 ―

    1375 

    田中 

    343号。いよいよ最終号となりました。かれこれ40年、

    沢山の人たちが、たすきをつないできました。何より読

    者の方々があってこその「手塚ファンマガジン」でした。

    感謝の言葉しかありません。関わって下さったすべての

    方々に御礼申し上げます。最後に、読者の皆様ありがと

    うございました。またいつか。

    【和田】

    1986.10.17

    1986.10.24

    1986.10.10

    ね 面接官のセンセ あたし テレビフレームだと見違えるでしょ

    キミッ・・・こ・・・これはグにもつかないロクでもないと読ませるイヤミなにかね!

    知的水準の高い国

    266号からサイズが大きくなりカラー化されたのは嬉

    しく、特に最近は毎号表紙での珍しい数々の原稿の掲載

    も嬉しい企画でした。投稿を何回も載せていただきまし

    たが、いつかは川柳やイラストにも挑戦したい、と秘か

    に燃えて(笑)いたので、残念無念。ファンクラブ自体

    は存続するのですか?いつの日にかの復刊を期待しつつ、

    手塚ファンとして作品を読み返し、語り続けます。とこ

    ろで野口文雄氏、お体の具合はいかがですか?連載記事

    「キネマシアター」が未完で終了するのは惜しいですが、

    回復されたら是非とも書き足して単行本にして欲しい。

    では「手塚ファンマガジン」の昭和・平成・令和を通し

    ての活躍に御礼を申し上げ、ひとまずはお疲れ様…

    でも本当に寂しい!

    「マルスのイラスト投稿をかれこれ 10 年近くやりました。毎月 1枚ずつ、とても楽しかったです。休刊は残念ですが、ありがとうございました」

                

    14 ―

    1596 

    齋藤一昭

     

    ファンマガジンが休刊とは…

    茫然です。手塚作品が

    から産まれただけに、手塚作品に関する情報もファン

    マガジンの様に

    で読む事にこだわっていたかったの

    ですが…

    。なかなかファン大会に足が運べず、せめてファ

    ンマガジンへ投稿し手塚作品や先生への思いを誌上で

    語ったり、他会員の様々な思いや関係者の方々による先

    生の思い出等を読む事が毎月の楽しみでありました。

  • VOL.

    343手塚ファンMagazine 

    通巻343

    号 2019

    年9月30日発行

    発行:〒169 -8575 東

    京都新宿区高田馬場4 -32 -11 手

    塚治虫ファンクラブ TEL:

    03 -5386 -7155  編集人:和田おさむ  後援:(株)手塚プロダクション https://tezukaosam

    u.net/印刷・発送:コンテンツワークス(株) 〒150-0001 東

    京都渋谷区神宮前3丁目42番地2号 VORT外苑前Ⅲ 6F TEL:

    0120 -298 -956(平日10:00~

    17:00) ※祝休日を除く月曜から金曜まで

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