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Title ルーマンにおけるコミュニケーションと行為 : 社会 的システムの二つの要素概念と基礎的自己言及 Author(s) 遠藤, 竜馬 Citation 年報人間科学. 13 P.1-P.17 Issue Date 1992 Text Version publisher URL https://doi.org/10.18910/11676 DOI 10.18910/11676 rights Note Osaka University Knowledge Archive : OUKA Osaka University Knowledge Archive : OUKA https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/ Osaka University

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Title ルーマンにおけるコミュニケーションと行為 : 社会的システムの二つの要素概念と基礎的自己言及

Author(s) 遠藤, 竜馬

Citation 年報人間科学. 13 P.1-P.17

Issue Date 1992

Text Version publisher

URL https://doi.org/10.18910/11676

DOI 10.18910/11676

rights

Note

Osaka University Knowledge Archive : OUKAOsaka University Knowledge Archive : OUKA

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/

Osaka University

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マンに

コミ

ニケ

ョンと

行為

社会的システムの二つの要素概念と基礎的自己言及-

遠藤

竜馬

はじめに

ここでは、ルーマンによる問題提起、「社会的システムの要素は

(↓

何か」という問いを端緒として考察を開始しよう。

《要素》

(田Φヨ①鞋/原基)とは、「システムを成り立たせている

最小単位

(いΦ氤け①言げ①ε」を意味

するシステム理論的概念である。

その背後には、「ひと

つのマクロな統

一体を成り立たせている、そ

れ以上は分解不可能なミクロな最小単位が存在する」という暗黙の

仮定があると思われるが、それはルーマンの社会的システム理論に

おいても有効である。つまり冒頭

の問いは、「社会的

システムが、

それから成り立

っているような最

小単位

への問い」(ωb虧O)をいい

かえたものに他ならない。

ルーマンは、この問いをさらに次のように限定する。すなわち、

社会的

システムの

「最小要素は

コミ

ュニケー

ョンか行為か

(内oヨヨ§涛畧050α奠出譽αぼ昌σq9。『いΦ§

9Φ目①彗)」(ω.HObo)と問

うのである。そしてこれに対してルーマンは、

一見奇妙にも思われ

る答え方を行

っている。「社会的システムは何から成り立

っている

のかどいう問いに対し、我

々は

二重の解答

(uo署包畧暑

o答)を与

える」(ω●認O)と彼はいう。つ.まり彼は、社会的システムはコミ

ニケーションから成り立

つと同時に、行為からも成り立

っていると

述べているのである。

この主張は入念な検討を要するといってよい。まず何より不審な

印象を与えるのは、「二重の解答」という表現であろう。もちろん

そこには、論理的な混乱を回避し、

コミュニケーション概念と行為

概念とを不可分なものとして統合することを必然とするような、独

ル ーマンにおけ るコミュニケーシ ョン と行為

1

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自のロジ

ックと理論的戦略が存在

するはずであるゆ

また我々は、.要素概念そのものをめぐる問題についても考察を行

う必要があるだろう。その第

一の観点は、諸要素の単なる集合体と

《システム》との問の距離に関連

している。常識的に考えても、シ

ステムという統

一体が、多数の要素の単なる

「集合体」以上の何も

のかであることは自明である。「コミ

ュニケーシ

ョン

(や行為)が

ひとつのシステムを成す」という表現には、それらの要素の間に、

何らかの

「つながり」や

「有機性」が存在するという示唆が含まれ

ている。したが

って問題は、そうした直観的にも自明なつながりを

社会的システムを成り立たせている諸要素がいかにして獲得してい

るのかということにある。ある

いは、こうした事態の理論的描写は

いかなるかたちでも

って実現されるのだろうか。

二に、要素概念が

「それ以上分解不可能な」

(ω』b◎㎝)単位とし

て定義されていることについても、

一定の注意が必要であろう。と

いうのも、

コミュニケーションにせよ行為にせよ、現実的にはきわ

めて複雑な現象であるという

ことを、我

々はすでに知

っているから

だ。コミュニケーションや行為は、少なくともそれらに関与する

「人

間」を必要とするし、またそれらが他にも様

々な

「コンポーネ

ンツ」

をも

っていることは明らかであろう。そうした事実と、要素

の単位

性という要求とはいかに両立され

るのか。

以上の問題を考察するにあた

って、本稿ではルーマンの示す

《基

礎的自己言及》

(げ①の鋤一Φω⑦一げのけ『ΦhΦ『Φ5N)という概念に注目する。彼

によれば、これは自己言及の三

つの異なる形式ー

他の二つの形式

につ

いては必要に応じてふれる予定であるー

のひと

つである

(o。・OOO)。しかし、本稿のテーマとの関連で重要なのは、ールーマン

理論における要素概念の特性を最も端的に体現しているのが、この

形式の自己言及であると思われるという点である。

一九七〇年代後半から八○年代にかけてのルーマソ理論の「転換」

が、自己言及概念の導入を核心としていることは、なるほど誰もが.

認めるところであろう。しかし、社会的システムが自己言及的であ

るということの含意が広範に理解されているとはいいがたいし、そ

れどころか、、自己言及にもいく

つかの異なる形式があるということ

さえ十分には知られてはいないというのが現状である。ともすれば

実質を欠いたキーワードのみが独り歩きしがちな状況のなかで、本

稿のアプ

ローチが若干なりとも成果を上げていれば幸いである。

、要素/関係性と基礎的自己言及

ここでは、コミュニケーションや行為という特殊化された要素概

念個別の問題をひとまず保留し、ルーマンが要素概念をめぐ

って展

開している、より抽象的な水準の議論を概観しょう。

諸要素の間の

「つながり」を表現し、要素の単なる集合体とシス

テムとの相違を問題にする上で必ず取り上げなければならない観点

として、ルーマンは

《関係性》

(図①冨二〇旨)あるいは

《関係づけ》

(国Φ一9什一〇巳o疂ロσq)という概念を用意している。そして彼の主張に

したがえば、要素の単なる集合体とシステムとを区別するメルク

2

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マールは、この関係性の

「選択」に存するといえるだろう。あるシ

ステムにおいて関係づけられるべき要素

の数が増大するとき、数学

的に可能な関係性の数もまた急速に増大する。しかし、実在するシ

ステムは、「要素間の様

々な

(複数の!)関係性」(ω◎禽"括弧内原文)

ではあり得ない。それは可能な関係性の集合のなかから自身のあり

方を

一意的に選択しなければならない。そして、こうした数量的表

現を

「質的表現」に還元することをルーマンは提唱する。つまり「諸

要素は、相互に関係可能であるため、その

「質」を何らかの選択に

って獲得しなければならないのである。このことをルーマソは、

要素の

「クォリフィケーション」とも呼んでいる

(ω卜μh)。

一方、こうした要素と関係性の問題は、時系列的な形式でも

って

再定式化される必要がある。という

のも、社会的システムは、多数

の所与の要素を同時に関係づける

ことによ

って形成されるわけでは

ないからだ。

コミュニケーショソにせよ行為にせよ、社会的システ

ム理論において要素とみなされるものは、ある瞬聞において生起す

ると同時に消滅する

「出来事

(国器お巳ωと

としての特性を与えら

れている。このような時間化された

(8日它邑

芭o腎Φ)要素から成

るシステムは、時間軸上に展開する

「プ

ロセス」という形態で現れ

る。そうしたシステムの存続は

、さらなる出来事

要素の

「接続

(b昌ωOげ一d尸ゆ)」ないし

「連結

(<①美暮嘗暮σq)」、あるいは

「再生産

(寄

嘆o費.窪

o口)」によ

ってのみ可能である。それゆえ関係づけの

問題は、そうした再生産の瞬間における要素のクォリフィケーショ

.ソの問題

へと置換される。より平易にいいかえれば、新たな要素の

接続に際して、・他の要素との関係性

への配慮からへ当の要素のあり

方を規定することが求められるということであるゆ

ここで我々は、ひと

つの疑問を禁じ得ない。何らかの選択が必要

であることは認められるとしても、いったい

「誰」によ

って、また

いかにしてそれはなされるのか。否、

一般的な発想からすれば、そ

れを行う

「主体」は、コミュニケーションの場合であれ行為の場合

であれ、それらに関与する人間ないし人間意識であるということに

なるだろう。しかし、ルー

マンはそうした考え方を否定する。それ

に対して彼が導入するのが、《自己言及》のパラダイムである。そ

して、なかでも要素と関係性をめぐる問題

への直接的な解答とな

ているのが、先にふれた基礎的自己言及の概念なのである。

基礎的自己言及という事態についてルーマンは、「プロセスが、

当のプ

ロセスの他の要素との連関に含み入れられることによ

って自

己を指し示すような要素

(出来事)から成り立たなければならない

こと」(ψHり㊤…括弧内原文)という定義を与えている。これについて

若干の考察を加えておこう。

ルー

マンは、スペンサー

.ブラウンの論理学を援用しつつ、《言

及》

(園O{Φ『Φ口N)

とは

「区

(d馨

Φ蕁

o『Φ乙二昌σq)と指

(ゆoNoざぎ莓

σq)というエレメントから成るオペレーシ月ン」(ω.$O)

であると述べ・ている。この

「オペレーション」という概念の意味す

るところは現時点では何ら明らかではないが、それについては後に

ふれるとして、ここではひとまず、オペレーションとは何らかの.「作

用」であると解釈しておこう。つまり言及とは、他との区別におい

ルーマソにおけるコミュニケー シ ョソ と行為

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て何ものかを指示しているような作用である。

.一方、「自己言及もまた、厳密な意味において言及である」と彼

はいう

(oD.80)。ここでは正確を期すため、少々難渋ではあるがルー

マンによる自己言及概念

への説明

をそのまま引用しておこう。

「この概念領域の特殊性は、言及のオペレーションが、それに

って指示されるもののなかに閉鎖されているという点に存す

る。それは、それ自身が属する何ものかを指示する。注意

"トー

トロジーが問題なのではない。言及のオペレーションは、何らか

、、の自己なるものをオペレーシ

ョンとして指示するのではない。そ

れは常にひとつの区別によ

って導かれ

つつ、それが自己と同

一視

する何ものかを指示するのである。」(の.Φ8)

では、基礎的自己言及において基底に存する区別は何か。ルーマ

ンによれば、それは

「要素と関係性との区別」である。そして、こ

こで

「自己

(ω①一び馨)」とみなされているのは当の要素に他ならな

い。以上のことから先の基礎的自己言及の定義を解釈し直すならば、

次のようにいえるだろう。すなわち、要素とはひと

つの言及のオペ

レーションー1作用であり、それは

「他の要素との連関」H関係性と

の区別において、自身を

「要素として」指示している回帰的な言及

作用なのである。

それを前提とするとき我々は、要素とその関係性とは同時発生的

であると考えなければならない。要素はモザイクのように付け加え

られるのではなく、はじめから関係性のなかで創発する。いいかえ

れば、ある要素

の単位性は、その要素が含まれるシステム

(プ

ロセ

ス)のみにとっての単位性なのである

(ω酷

)。

しかし、この要素そのものが自己言及を行

っているという帰結は

にわかに理解しがたいものである。さらにこの主張は、要素そのも

のが関係性

への配慮から自分自身をクォリフィケ…トしているとい

うことを意味している。果たして、そのようなことが本当に可能な

のだろうか。

こうした事態を描写可能にするのが、ルーマンの

《意味》概念で

ある。なかでも、意味的な

「指示

(<o『≦oδ§oq)」をめぐるルー

ンの概念規定は、基礎的自己言及との関連においてきわめて重要で

ある。ルーマソによれば、意味という現象は、異なる体験や行為の

可能性

への

「指示の過剩」という形式において現れる

(ω●Φ。。)。た

しかに、ある瞬間において何ものかを把握するということは、他の

何かを把握するのではないという点においてひとつの選択である。

しかし、それは他の可能性の完全な

「排除」ということではない。

「指示は現実性の立脚点として自ら顕在化する

(ρ犀什蛋餌一一の一①『O昌)が、

それは現実的なものだけではなく、可能なものや否定的なものを含

み入れている」(①びα●)。こうした、あらゆる意味的な指示に

付帯する他の可能性

への暗示ないし間接的指示を、ルーマンは

「地

平」のメタファ…、あるいは

「冗長性

(図Φαロ巳きN)」(ω.逡)の概

念によ

っても表現している。

さらにルーマンは、意味的な指示のこうした地平保有性ないし冗

長性を、「指示構造

(<Φ蕁

Φ凶ω毒

oqωω霞鼻ε『)」(ω●逡)という概念に

って再定式化する。この概念について我

々は、多数の意味の間に

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錯綜するネ

ット化の形式をイメージすることができるだろう。こう

した指示構造を通じて、各々の意味は非任意な特定の関係性でも

て他の意味を指示している、というわけである。

かくてルー

マンは次

のように述べる。「各

々の意味志向

(ω一守

巳茸Φ馨ご昌)は…その指示構造において、さらなる体験と行為の多

くの可能性の下でのひとつの可能性として自分自身を受け入.れ.てい

るかぎりにおいて自己言及的である。.意味は、.そのつど異なる意味

への指示によ

ってのみ顕在的なリアリティを獲得するのであり、ゆ

えに

一時点における自足性はない」(ω.Oα)。ここで指摘されている

事態が、先にふれた基礎的自己言及そのものであることに我

々は注

目しよう。すなわち、ある瞬間において顕在的な意味が、他の意味

への指示にともな

って自身を

「指

示し返す

(N霞口o閃く奠≦臨ωΦ昌/逆

指示)」ことによ

ってのみ意味をもつという、意味的な指示の回帰

的な作用様式をルーマンは指摘しているのである。つまり、意味は

意味だけをその支えとし、他の意味との関係性によ

ってのみ自らを

可能としている。そして、こうした各々の指示作用を、ルーマンは

「意味要素

(Qっ一§包ΦヨΦ暮)」(ω.㊤。。)とも表現するのである。

ところで、ルーマン理論において、心的システムとともに社会的

シ、ステムに

「意味システム」としての位置づけが与えられているこ

と、そして両のシズテム類型が、意識とコミ

ュニケーションという

基礎的プロセスの区別に基づいていることは周知の事実であろう。

もちろん、社会的システム理論にとつて、意識ではなくコミュニケー

ョンの分析が決定的に重要であることはいうまでもない。次節で

は、ルーマソのコミュニケーション概念において、要素の基礎的自

己言及がいかに理論化されているかを見てみよう。

一一、

コミ

一一ケ

(一)

々はま

コミ

ニケ

ョンプ

ロセ

スに

「要素

が何

を明

にし

い。

ンに

コミ

ュニケ

ソと

「情

・(H5{O「HP9什一〇口)/

o旨

口αq)/

(ノ丶Φ吋ωけ①びΦ口)

いう

の選

(ω旨

爵Φωo)」

であ

(Qり』OG◎)。

「総

いう

調

(ωμ⑩①)。

つま

ンは

コミ

ニケ

ョソ

の単

の完

つの

「要

(O一Φ5PΦ5什四「Φ)

コミ

ュニケ

ョン」

いし

「単位

コミュニケーシ

ョン

..(田づNΦ貯o匿日信巳臣ユo昌)」の成立を、

三つの選択の

「コーディネーション」または

「カップリング」によ

って定義しているのである。

そこで、以下に各

々の段階を細分化して分析してみよう。コミ

.ニケーシ

ョンを可能にするためには、少なくとも二つの

「情報処理

プロセッサ」あるいは

「イ

ンフラストラクチ

ュア」が必要であると

ルT

マソは述べている

(ω・HりH)。いうまでもなく、これらは伝達/

理解という両の選択に係わる心的システム、いわば

「伝達者」と

「受

容者」を指している。ルー

マンによれば、彼らもまたすでに

一種の

自己言及的システムであり、閉鎖的な意識プロ.セスという基礎の上

(2)

で意味を操作する能力をも

つとされる。

ルーマソにおけるコ ミュニケー シ ョン と行為

一b

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次に我

々は、ルーマソによる情報概念

の位置づけに注意しよう。

彼は情報理論における負エント

ロピーとしての情報定義を援用し

つ、他ならぬ清報それ自体がも

つ固有の選択性こそが、コミュニケー

ションを生起させるモメ

ントであると述べている

(ωμ㊤α)。伝達さ

れるものH情報は、「単に選択されるだけではなく、それ自体すで

に選択であり、それゆえ伝達される」(ω

。H逡)のである。

かくて情報の選択性によ

って伝達者の選択的注意が活性化され、

伝達が生じる。この作用において情報と伝達は、「コード化」とい

う形式において操作的に統合される。コード化の操作は、このとき

用いられる二次的形式

(例えば身体的動作や言語)が何であれ、「利

用と排除」という原理に基づいている。つまり、世界内の無数の出

来事の総体のなかで、

コー下化された出来事は情報として利用され

るー

すなわち

「コミ

ュニケ

ーシ

ョン的

出来事」

として分出

(》昜象蹄興Φ口臨①謹昌αq)し、

一方

でコード化されない出来事はノイ

ズとして排除されるのである

(oD・H㊤刈)。こうした単なる情報的

(非

コミ

ュニケーション的)出来事

の知覚と

コミュニケーションとの区

別は、後にふれるようにきわめ

て重要なモメソトであるが、その際

のメルクマールとなるのが、情報と伝達との差異である。この差異

が観察されるとき、我々はその出来事をコミ

ュニケーショソとみな

すのである

(ωμ⑩◎Q)。

さて、伝達それ自体は、さらなる

「選択の提起」ないし

「刺激」

にすぎない

(ω.Hり艀)。そして情報/伝達の差異が、受容者の選択的

注意をともな

って観察されるとき

、理解は生起する。理解でも

って

コミ

ュニケーシ

ョンの単位性は完結し、ひと

つの要素的

コミ

ュニ

ケーションが成立するのである

(ω.H⑩O)。ところでこの単位は、ど

のような働きをも

つ単位なのだろうか。

ルーマソにしたがえば、要素的

コミ

ュニヶーシ

引ンは、前節で述

べたような意味的な指示作用の

一種に他ならない。「コミ

ュニケー

ションは、自分自身がはじめて構成するそのつどの顕在的な指示地

平から何ものかを把握し、その他のも、のを等閑視する」。そして、

この

「何ものか」とは情報に他ならない。「コミュニケーシ

ョンに

「おいて顕在化される選択は…それが選び出すものを、すでに選択と

して、すなわち情報として構成する」(ω.一㊤艀)。いわば要素的

コミ

ュニケーショソは、ある情報

への指示を顕在化する、ひとまとまり

「意味要素」として作用する。

コミュニケーショソは

「意味現象

(ω言昌σqΦωo冨げΦロ)」(ωμOH)そのものなのである。

では、かかゐ要素的

コミ

ュニケーシ

ョソにおかて、基礎的自己言

及はどのようにして生じるのだろうか。いいかえれば、各

々の要素

コミュニケーションは、いかにして他との関係性を獲得し、ひい

てはプ

ロセ

スとなるこ上ができるのか。

これについてルーマンは、「理解」

の重要性を指摘する。「理解が

コミ

ュニケーション成立のための不可避なモメントであること」は、

「コミ

ュニケーションが自己言及的プロセスとしてのみ可能である

という

ことを帰結する」(ω.HりQQ)と彼はいう。ここで示されている

のは、あらゆる

コミ

ュニケーシ

ョンは、理解

への関心、あるいは理

解と無理解

(誤解)との差異を焦点として行われるということであ

6

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る。.この差異

への関心が欠けているとき、およそコミ

ュニケーショ

ンは生起しないし、少なくとも持続することはない。コミュニケー

ションの経過においては、「常に何らかの理解テストが並行しなけ

ればならず、それゆえ常に注意の

一部が理解

コントロールのために

流用される」のであり、こうした理解テスト

(oo口貯日9鉱oロ)は、

コミュニケーションの

「本質的モメント」であるとルーマンは述べ

ている

(ω.ドOQoh)。

その際、「接続

コミ

ュニケーシ

ョンがどんなに意外なかたちで生

じようと、それは先行するコミ

ュニケーションへの理解に基づいて

いることを

(伝達者が)示し、また

(受容者が)観察するために利

用される」(ωμΦ。。"括弧内引用者)とルーマソは主張する。このこと

は、伝達者の意識的情報処理にと

って次のことを意味している。す

なわち彼は、すでに理解している情報を参照することによ

って、自

身の理解程度をパートナーが逆推論することを容易に

(困難に)し

たり、自身の伝達の理解可能性を高め

(低め)たりといったコント

ロールを行うことができる。また、先行

コミュニケーションの理解

を通じてパートナーの誤解が観察された場合には、必要に応じて先

コミ

ュニケ

ンに

つい

の再

コミ

ュニケ

L

ョソー

ンは

の第

の形

「プ

ロセ

ス的

(寉

oNΦω鈴

巴ΦωΦまω胃Φ時臼

Φ自

)」

いし

「再帰

(図Φ⇔Φ×三

薮け)」

ぞ 

して定式化しているー

などの修正措置をとることもできる。しか

しいずれにせよ、次のことは確実である。つまり彼が理解

コントロー

ルに集中するほど、彼はいっそう強く

コソテグストに依存しなけれ

ばならないのである。このことは、彼のパートナーにと

っても同様

である。かくて、「各

々の単位

コミ

ュニケーシ

ョンは…さらなるコ

ュニケーションの接続連関の理解可能性と理解

コソトロールのな

かで回帰的に確保されている」(ω・H㊤O)とルーマンはいう。

ここで指摘されているのはか

コミュニケーショソは、(意識的な

意味プロセスに現れる他の非

コミ

ュニケーショソ的な情報ではな

く)

コミュ・ニケーションのみを指示し、またコミ

ュニケーションの

みと関係づけられているという事実であるっいいかえれば、要素的

コミュニケーショソの指示構造は、コミ

ュニケーションのみを相互

に連結しているのであ

って、そのネットを非

コミ

ュニケーションへ

と延長することはないのである。ちなみに両者の区別は、先に述べ

たように情報と伝達との差異を利用することによ

って可能となる。

ルーマンは次のように述べている。・「(意識と

コミュニケーション

との)選別は、単独の出来事については不可能である。というのも、

単独の出来事において意識と

コミュニケーショソは相互に排除し合

・わず、おそらくは多かれ少なかれ重な

っているからだ。それらの選

別は意味的な自己言及の活動に存する。すなわち、・顕在的な意味が、

他のいずれの意味に自身を関係づけるかということに存するのであ

る」(ω.にN…括弧内引用者)。理解というモメントに集中するかぎり、

ある

コミュニケーショソ的出来事の意味は、他のコミュニケーシ

ンとの関係性への配慮において獲得される他はない。さ尅なくば相

互理解は不可能である。かくて、「こうした再生産の形式

(の相違)

が心的構造と社会的構造とを分化させ」(ω'虞一"括弧内引用者)、

.要素

ルー マンにおけるコ ミュニケーシ ョソ と行為

7

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コミ

一、一ケ

ョンは

の指

示構

(社

の)

こと

によ

って回

を遂

。・コミ

ニケ

ョン

の基

いう

事態

々は

とま

のよ

こと

でき

ろう

に、

の要素

コミ

ュニケ

ンの相

み、

コミ

ュニケ

ョソプ

ロセ

スは

って

ると

いう

こと

.直

《閉

(○Φωo話oωωo昌げΦε

いう

いる

ので

(ω・HOOh)。

三、

コミ

ュニケーシ

ンの基礎的自

己言及

(二)

ここでは、要素的

コミ

ュニケーシ

ョンのクォリフィケーションの

「メカニズム」について、さらに検討を加えてみたい。というのも、

「指示構造を媒介した要素の回帰

的自己指示」という発想は、確か

に意味というもののジェネシスを語る上では適切かもしれないが、

まさにその瞬間において、他ではなくその情報がいかに選び出され

るのかということの説明としては不十分であると思われるからであ

る。そ

の際に加えて考慮するべきは、コミュニケLションの閉鎖性と

《開放性》(O哺Φ昌げ色什)とのコンパティビリティの問題である。主

題ないし意味内容としてであ

っても、自己言及的に閉鎖した

コミ・ユ

ニケーションが環境内の事象を把握可能であるという発想は、

一見

矛盾しているようにも思われる。しかし、日々我々が世界について

コミ

ュニケーションを行

っていることは否定できない事実である。

「自己言及的閉鎖性がいかに開放性を創出し得るのか」(ω●bo窃)と

ルーマン渉問うとき、意図されているのはこうした事情であると思

われる。

のと

ころ、

コミ

ュニケーシ

ョンは常

に環境

からの

「刺激

(諺昌。・8ゆ)」(ω.Oり)にさらされているとい

ってよい。意識における

々な揺動は直ちにコミュニケーションに反映されるし、.また物理

ー化学的リアリティにおける揺動も、人間の知覚を媒介して何らか

の影響を及ぼすだろう。しかし、それが意味の相互依存の内部でい

かなる

「意味をも

つ」かということは、また別問題である。このよ

うに考えるとき、ここまで

一貫して問われてきた要素のクォリフィ

ケーションの問題は、そうした外部からの影響にいかに意味を付与

するか、つまりいかにしてコミ

ュニケーションの内部に

「持ち込む」

かという問題と結び

つくことになる。

この問題の解決にあた

って、ルーマンは

《構造》概念にきわめて

重要な役割を与えている。それゆえ、我

々はこの概念をより詳細に

把握する必要がある。ルーマソは、コミェニケーションの指示構造、

すなわち要素的

コミュニケーショソを相互に連結する構造を、「世

?V

界構造

(耄Φ一冖ωけ吋q犀けρ「)」とも呼んでいる。しかし現実問題として、

意味的な

コミュニケーショソにと

って、構造に相当するものは何だ

ろうか。それは本当に

「存在」するのだろうか?

ルーマンは、意

味理論のコンテクストをふまえるとき、構造概念は

《期待》

(国雫

≦錠9ロσq)概念と結び

つけられなければならないと主張する。すな

8

Page 10: Osaka University Knowledge Archive : OUKA...自 の ロ ジ ッ ク と 理 論 的 戦 略 が 存 在 す る は ず で あ る ゆ ま た 我 々 は 、.要 素 概 念 そ

わち

「社会的構造は期待構造に他ならず」(oり・QQ㊤刈)、「その他に構造

形成の可能性はない」(QQ.ω㊤Q。)のである。

期待構造の概念は、、出来事H要素概念に対する

「相補的概念」で

あるとルーマンはいう

(ω・ω㊤b。団)。先にも述べたように、時間化され

たシステムの要素は、生起すると同時に消え去る出来事である。そ

れは瞬間における顕在性としてしかあり得ない。

一方、期待構造は

「現在的未来と現在的過去とを統合するような現在の時間地平にお

いて時間を通して把握する」(QD●◎Q㊤㊤)とされる。いわば期待は、要

素と要素、出来事と出来事の間の

「空白」を架橋する。それゆえ、

のつど使

用されている期待構

の布置は、「システム状態」

(ω・ドObo)に相当するといえる。と

いうのも、要素11出来事は、いか

なる意味においても

「状態」とはいえないからだ。

コミュニケーションの指示構造

は、その現実態においては期待構

造として現れる。「期待概念は、意味対象や意味主題の指示構造が

より濃密化された形式においてのみ使用され得ることを示してい

る」(ω・HトO)とルーマンは述べる。各

々の要素的

コミュニケーショ

ンを結

つけ

ている

のは

、こ

うした

「期待

ット

(国『乏母

-

且ロσqω器氤)」(①びα.)なのであり、

この定式化によ

って、意味理論の

コンテクストにおける指示地平ー冗長性i構造-期待といった

一連

概念が関連づけられることになる。

では、かかる期待構造の機能は何か。ルーマソによれば、それは

「差異」

の経験を可能にすること

にある

(の●①o)。期待は、未来

出来事

への構えを、期待の成就/

幻滅というバイナリー形式におい

て開放的に保持しー

このことは、とりわけ言語的

コード化に起因

するあらゆる言明の二重化

(反対意味の不可分さ)によ

って保証さ

れるのだが1

来るべき出来事をそれらのいずれかとして把握する

ことを可能にする。ただし、成就/幻滅という差異は、必ずしも

への選好に結びついているわけではない。重要なのは、当の出来

事にともなう

「意外性

(qぴΦ霞9ω畠篝σq)」

(ω・。。OO)である。結果が

いずれであるにせよ、それは二者択

一的な未規定性

・開放性に対し、

ひと

つの規定

・可能性排除をもたらすことになる。それは

「ービ

トの情報」(ω.①。。)として現れるのだ。

.ここで

「情報」というタームが登場したことは、単なる偶然では

ない。この概念は、情報/伝達/理解という

コミュニケーショソ的

総合を構成するひとつの選択として扱われてきた情報概念と全く同

一のものである。つまり、要素的

コミュニケーショソのクォリフィ

ケーションとは、・期待構造の選択性に導かれつつ、ひと

つの情報が

顕在化することに他ならないのである。とはいえ、構造の機能は未

来の出来事

への

「予見」ではないし、ましてや

「決定」などではな

い。それはあくまで

「可能性を境界づけ、先行ソーティングを行う」

(ω.HObQ)だけである。その意味で、構造は

「可能性遊域の制限」

(ω'ωΦ刈)として作用するのだ。

一方、情報そのものがも

つ選択性は、いかなる作用をもたらすの

だろうかゆルーマンにょる情報の定義は、「システム状態を選択す

る出来事」(ωμObコ)というものである。コミ

ュニケーション的出来

事は直ちに消失するが、情報は失われない。それはシステム状態の

ルーマソにおけるコミュニケー シ ョソと行為

9

Page 11: Osaka University Knowledge Archive : OUKA...自 の ロ ジ ッ ク と 理 論 的 戦 略 が 存 在 す る は ず で あ る ゆ ま た 我 々 は 、.要 素 概 念 そ

の変

「構

ェク

ト」

をす

に引

こし

いる

いう

ステ

は構

って構

に反

、と

であ

のよ

、構

スト

ック

のな

かか

て選

であ

こと

ンは

、「スト

(ω℃08げ①蕁

)」

「コー

(p葺

9

①昌)」

(ω・O㊤)

いう

によ

(5)

っても表現している。かくて要素

11出来事の消失とともに期待可能

性もまた再創出され、さらなる要素的コミ

ュニケーションの接続が

   

促されることになる。

ところで、情報概念の以上のような把握は、コミ

ュニケーション

の自己言及的閉鎖性と世界開放性との両義性を体現しているといえ

る。情報は、構造によ

って可能となり、かつ意味的に把握されると

いう点において、確かにシステム内的なものである。コミュニケー

ショソの外部に、何かそれ自体として情報なるものが存在するわけ

ではない。にもかかわらず、その選択性は環境に帰属される。「情

報はシステム自身が投企し、レリヴ

ァントに維持する可能性領域か

らの選択として現れるのだが、それはシステムではなく環境の遂行

する選択として現れるー

すなわち体験される

(Φ二Φぴ什)のである」

(ωμO艀)。

こうした環境

への意味の割り当

(Nまa≧昌σq).を、ルーマンは

自己言及的システムの

「脱パ

ラド

クス化」の戦略と見る。「環境と

の関連は、内的に相互依存中断要因

(ぎ8a8Φ巳魯N巷8『びおoげ興)

として組み込まれる」(ω●①㎝)と彼は

いう。しかし、それは決して

環境からの刺激が意味に直結して

いるということではない。構造の

助けでも

って、「システムは…外的な事象との直面において何が生

じるかということを、内的な原因のみによ

って確定することなく

、環境の因果圧力に対して距離を保

つことを可能にする」(ω.$)。

ここで指摘されているのは、伝達/理解可能性の内的な制約性であ

るといってよい。いかなるコミ

ュニケーショソ的出来事が生起しよ

うと、それがどのような

「意味をもつ」か

(つまり情報として何が

顕在化し得るか)は、構造を媒介して他の要素的

コミ

ュニケーショ

ンとの関係性に拘束されているのである。こうしてコミュニケーシ

ョンは、あくまで自己言及的に閉鎖しつつ、にもかかわらず決定を

環境に委ねるー

すなわち開放することを可能にする。いいかえれ

ば、閉鎖的

コミ

ュニケーシ

ョンは体験を通じて環境の複雑性を把握

(7)

するのである。

さて、

コミ

ュニケーションの基礎的自己言及についての考察を締

めくくるにあた

って、我々はルーマンの

《生産》(℃8含霹δ口)概

念の定義に注目しておこう。彼によれば、生産とは

「ある作用を働

かせるのに必要な原因のうちの全てではなく若干が、システムによ

コントロ…ルの下に置かれること」(6。・お"強調原文)であるとさ

れる。ゆえに、環境からの刺激を情報として意味ネ

ットの内部

へと

持ち込むかぎりにおい.て、要素的

コミュニケーションの接続は、再

「生産」であるといえる。それは決して単なる

「反復」ではなく、

変化を強制されている。こうした

「システムの変化のない維持では

なく、システムの維持と変化を両立するような要素のレベルにおけ

る前進」(ω・刈㊤)を、ルーマンは

《オペレーション》と呼ぶ。

10

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誤解してはならないのは、メタレベルにある何らかの

一貫した作

用によ

って、要素的

コミュニケー

ショソが次々と生産されるのでは

ないということだ。すでに確認したように、個々の要素そのものが

自己言及的なオペレーショソに他ならないということが、基礎的自

己言及という概念の含意である。基礎的自己言及のオペレーシ

ョソ

ー1要素は、いわば自ら1生産する

(餌暮oら90臨ω∀。かくて、コミ

ニケーションプ

ロセスの自己推進

、顕在性と可能性との絶えさるフ

ォーメーシ

ョンの更新としての意

味の自己運動は、「至高のオ1ト

ポイエシス」(ω●HO昌)であるとルーマンは主張するのである。

四、行為の基礎的自己言及と社会的システム

さて、以上の考察でも

って、

コミ

ュニケーシ

ョンの基礎的自己言

及という事態の概要は明らかにな

ったと思われる。次いで我

々は、

行為のケースにおける基礎的自己言及を検討するとともに、冒頭で

ふれた

「二重の解答」、つまり

コミュニケーシ

ョソ概念とは別に行

為概念を社会的システムの要素として導入することの必然性を考察

してゆくことになる。

そこには行為概念の導入を要求するような

「問題」が存在しなけ

ればならな

いが、ルー

マソ理論においてそれに相当するのが、《ダ

ブルコンティンジェソシー》の問題に他ならない。ルーマンがこの

概念をパーソソズの行為システム理論から継承していることは周知

の事実であるが、それを彼は

「意味の構成と絶えざるプロセシソグ

を扱う、より

一般的な理論水準

へと拡張し」(ωμ盟)ようとする。

この概念によ

って示されているのは、自我と他我、すなわち意味的

な情報処理能力をもつ複数の自己言及的システム

(根底

においては

心理的システム)が、「相互に見通せず見積もり不可能」-

これ

ンは

「視

の分

(U守興

αqo震

)」

「二

ブラックボ

ックス」という比喩によ

っても表現しているがL

であ

るにもかかわらず、自身の行動

(<Φ吋ゲ9一けΦ口)の意味的な規定を、

他方

の行動規定を前提として遂行しようとするような状況である

(ω・呂o)。こうした事態をルーマンは、「自己指示と他者指示の並行

(O蚕o巨9乱)」あるいは

「並行的

(巨什冨珪窪αo)自己言及」とも表

現している

(ω・ΦO刈)。

ごく短絡的にとらえるならば、ダブル

コソティソジェンシーによ

って生じるものは、あらゆる行動の円環的な決定不可能性である他

はないようにも思われる。しかしル亅マソは、「ダブル

コンティン

ジェソシーの問題は、行為の可能性の条件に属する」のであり、「行

為システムの要素、すなわち行為は、このシステムの内部でのみ、

またダブル

コンティソジェソシーの問題の解決によ

ってのみ構成さ

れ得る」と主張する

(ωμお)。我

々はこの解決.のステップを追

うて

みなければならない。

ルーマソによれば、ダブルコンティンジェンシーとは単なる決定

不可能性以上のものである。なぜなら、それは確かに未規定性をも

たらすのだが、そうした未規定性は何らかの差異とともに生じるの

であり、そして差異は必ず何らかの

「同

一性

(冠oづ葺9,け)」に基づ

ルー マン におけるコミ ュニケー シ ョソ と行為11

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いているからである。例えば、ある

コソセンサスの形成が問題とな

るとき、参与者はともに、

コンセ

ンサス/デ

ィッセンスという差異

を問題化するような視座に立たなければならない。両者が同

一の視

座を共有するからこそ、両者

の視座の相違もまた目に見えるものと

なるのである。つまりダブルコソティンジェンシーは、「自我が他

我を:」《視座の非同亠性》でも

って、しかし同時に

《この経験の両

者における同

一性》でも

って経験する」ことによ

って、「視座の収

(屏o口く奠σqδ冨昌)」を可能にす

(ω.嵩b。)。それはひとつの

「メタ

視座」(超視座、諸視座についての視座Yの創発、そして新たな水

準におけるリアリティの創発に他ならない。

もちろん、この

「収斂」は直ち

に否定可能である。その意味で、

一性はその

「否定態

(冥①σq9賦く肆9、什)」との差異を常にともな

って

いる。いわば自己指示と他者指示の差異は、「同

一性と差異との差

(8)

へと転換されるのだ。その否定可能性を完全に消し去ることは

決してできない。ただ確かなのは、収斂の否定は、収斂によ

って可

能となることの放棄を意味しているということである。先の例に関

していえば、

コンセンサス/デ

ィッセソスという区別

への収斂を放

棄しないこと、すなわち

「この否定態の否定」(ω.ミb。)を行うかぎ

りにおいて、両者はこれを主題化することができるのである。この

問題については、システムの

「再生産」との関連において後に再び

ふれることにしよう。

さて、この

「視座の収斂」に依拠して行動規定を遂行することに

こそ、行動の円環的決定不可能性から脱出するチャンスは存する。

つまり自我と他我は、ダブルコンティソジ

ェンシー的に収斂した視

座に立ち、そこから彼らの行動を規定するのである。そしてこのと

き、彼らの行動は

《行為》となる。「ダブルコソティンジ

ェンシー

の問題は、参与システムのあらゆる行動に、それがいかに有機的

物理的に条件づけられていようと、ある付加的性質を与えるー

.なわち行動は、ダブルコンティソジェソシーに派生する未規定性を

縮減するのである。こうした局面の下で、行動は自身を行為として

クオリフィケートすることになる」(ω・H①o◎)。

行為のクォリフィケーションー1意味規定は、決して単

一の行為に

・おいては行われない。行動の決定不可能性は、多数の行為の相互依

存的な決定可能性へと

「飛躍」するのである。.ここでルーマンは、

前述の

《基礎的自己言及》の概念を行為に対しても適用する。我々

は、この概念が示している事態-

他の要素

への指示にともなう自

への逆指示による要素の自己指示-

を今

一度想起しょう。行為・

の意味は、常に他の行為との関係性を指示していなければならず、

またそれゆえに規定可能なのである。「ここで問題とされ、指示し

返される

《自己》は、行為に他ならず」、「基礎的自己言及は行為を

はじめて構成する意味規定プ

ロセスに…いつもすでに組み込まれて

いる」(ω●H◎obO)とルーマンはいう。行為の構成と、それが要素とし

て関係性のネットに組み込まれるような諸行為のシステム、すなわ

《社会的システム》の創発とは不可分である。我

々は社会的シス

テムというものを、まず何よりも要素11行為の基礎的自己言及とし

て把握することができるだろう。

12

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行為

の意味規定は、「偶然

(Nロ富ε

」とそれら

「条件づけ

(閑o昌ロ譲o巳o巨昌oq)」を利用する。「ダブルコンティンジェンシーと

いう固有の問題

への反応によ

って社会的シス.テムが心理的

・化学的

ポ有機的リアリティから離陸し、固有の要素や境界を形成するやい

なや、こうしたシステムに対して偶然の可能性が生起する」.(ω.嵩O)

とルーマンはいう。その背景には、ダブルコンティンジェンシー.に

よる視座

の収斂は

「規定

への関心」を想定し、「条件的レディネス

の状態

(ω冨8

0h.8ロ象江oロ9。一お巴

ぎΦωω)」を生み出すという主張が

ある

(ωμ刈bo)。このときシステムは、「任意の規定

に対して高度に

感受的」

(ω・H◎Q腿)であり、規定に利用可能なものは何であれ収斂の

へと吸収するような状態

へと励起されているのである。かくて視

座の収斂は、「偶然を組み込み、それによ

って成長し」(ωμQ◎膳)、構

造形成

へと至る。つまりダブ

ルコンティンジェソシーの経験は、「シ

ステムにおける条件づけ機能のために偶然を構成

・開拓」し、「偶

然を構造構築の蓋然性へと転換」するのである

(ω●H『O)。まさにそ

の意味で、それは

「システム構築

の加速要因」(QDμ◎o吟)、すなわち

「触媒」(ψ嵩OYとして作用する。

こうして視座の収斂は、行為の構成を可能にするような

「縮減視

座」ないし

「秩序観点」(ωμ。。り)、すなわち社会的システムへと成

長する。逆にいえば、各

々の行為は、ひと

つの視座11社会的システ

への準拠

(図無奠o蕊/言及)

を顕在化するのである。

一方、行

為は瞬間的な

「出来事」としての性質をも

つ時間化された要素であ

(ω.ωcoり)。それは生起するやいなや、直ちに消失する。もし再び

行為が生じないならば、それは当のシステムの存立が

「否定」.され

たということを意味する。社会的システムにと

って、実在するとい

うことは、.行為貼要素の絶えざる

「再生産」1

それは当のシステ

への準拠の否定態の否定を意味するー

に他ならないのである

.

(ω.のO。。)。

以下に我々は、このオペレーションの作動様式をもう少し明細化

しておこう。第」一に、行為の基礎的自己言及と意味規定が、

コミュ

ニケーショソによ

って意味的にプ

ロセシソグされなければならない

ことはいうまでもない。「社会的システムにおいて…要素

の分解の

ための手段として利用可能なのはコミ

ュニケーショソだけである」

(Q。.b。鱒O)。つまり

コミ

ュニケーションは、「システムがそれから成り

つような要素を生産する、社会的システムの基礎的プ

ロセス」

(ωμ露)である。

こうした

コミュニケーション的な行為の把握、あるいは行為の「主

題化」において、行為と体験

(環境からの情報)とは同

一の意味空

、間

へと共在させられ、相互に結びつけられることになる。もちろん、

社会的システムにと

って関係づけに寄与する単位はあくまで行為で

あり、その水準を下回ることはできない。とはいえ、・「行為によ

て体験を排除することはできない」、(ω。Hbo心)のであり、行為の意味

は、それにとってレリヴァントな体験との関連において規定されな

ければならない。こうした情報処理を、ルーマンは

「帰属プ

ロセス

(N霞Φ95彗

σqω崗oNo騎)」と呼ぶ。行為の帰属は、文化史的

・状況特

殊的に構造化されている何らかの

「図式」や

「ゼマンティク」1

ルーマンにおけ るコミュニケー シ ョン と行為13

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す 

例えば

「動機」や

「利害関心」といった

に基づいて行われる。

この帰属プロセスと

「シソボル的

一般化」を経て、行為の単位性は

はじめて獲得され、その基礎的自己言及もまた可能どなる。これに

ついてルー

マソは、パーソンズ

《単位行為》の概念をふまえつつ、

「行為は、

一連の構成要因の単位性をシソボル的に

一般化するよう

な同

一性付与によ

ってのみ可能

である」(ωμωα)と述べている。つ

まり行為とは、多数の体験との関連から

「すでに複雑に構成され」

(ω躯O)、同時に

塊の意味」

(ωμω。。)へと縮減されたメタレベル

の単位なのである。

行為と体験との結合は、先にふれた

「偶然」の組み込みとも関連

がある。第

一に、体験は決してシステムの

コントロールの下には置

かれないがゆえに偶然的であり

、逆にだからこそ

「行為の再生産の

ために十分な無秩序を利用可能にする」(ω・H勺O)。

つまり体験は、、

行為

の再生産

「環境原因」(ω・蔭O)となり得るのであり、またこ

うした

「外的共規定

(⑦×8諺o竃ま

o。。二∋B§

αq)」(ω・ωりG。)を受け入

れているかぎりにおいて、行為

の構成は再

「生産」-であるー

ここ

では、「原因の総体を

《支配》することの放棄」(ω●お)という生産

概念の含意を想起しようー

いえる。第

二に、行為の意味規定に

おける偶然の組み込みと構造形成は、システムの体験領域の選択を

意味している。システムの環境接触や境界作用の特殊化は、その結

お 

果に他ならない。

もうひとつ、

コミ

ュニケーシ

ョンと行為との関連において見逃せ

ないのは、両者の

「重なり」とも

いうべき事態、すなわち・「コミ

ニケーショソ的行為」(ω.b。O。。)あるいは

「伝達行為」の問題である。

社会的システムのオペレーショソがコ、ミ

ュニケーションプロセスを

媒体としていることは先に確認した通りであるが、さらにルーマン

は、「コミュニケーションのシステムは…伝達そのものを行為とし

て把握しなければならない」(ω』N『)と述べている。つまりここで

言及されているのは、社会的システムの存立に寄与する

コミ

ュニ

ケーション経過そのものをh

コミュニケーショソにおいて主題化す

ることの必要性であり、その際、

コミュニケ…ションは行為という

形式に変換されるという主張なのである。その理由について、ルー

マンはかなり煩雑な議論を行

っているが、端的にいうならば、コミ

ュニケーションがその

「対称性」と

「可逆性」のゆえに

「現実態に

いてきわめて複雑」

(ω・boQQ卜o)か

「直接的には観察

不可能」

(ω・b。b。O)であるのを、行為としての理解にともなう

「非対称化」と

「時点化

(国

蒡ε畳ω§

巷αq)」の助けでも

って単純化し、オペレー

ョンの接続可能性に

ついての

「認識可能な輪郭を獲得する」

(ωbωGQ)というのがその要旨である。

もちろん、主題化される全ての行為が伝達としての性格を帯びて

いるわけではないし

(非

コミュニケーション的な

「単独行為」の存

在)、また全てのコミュニケーション的現象が行為として把握され

るわけではない

(例えば相互作用システムの場合には、ほぼ全ての

発話が行為として操作されなければならないのに対し、社会の下位

システムではそうでもない、、といった具合に)。しかし、いずれに

せよ確かなのは内コミュニケーションを行為へと

「縮減」すること

14

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によ

って、.社会的システムは自らのコントロール、いわば

「自己操

(ωΦまω諾8器ご口αq)」の能力を獲得し、ひいては

「コミ

ュニケー

ショソの方向づけられた前進を自ら可能にする」(ω.b。ω㊤).という

とである。「その意味において行為は、システムの瞬間瞬間におけ

る自己再生産

の不可欠なコ.ンポーネ

ントとなる」(ω.b。b。刈)。.

さて、以上の考察でも

って、社会的システムの要素をめぐる

「二

重の解答」の含意はすでに明らかにされたとしてよいだろう。ルー

マソは次のように述べるρ「特殊なリアリティとしての社会的なる

ものを構成する原基的

(色o日Φ暮贄/要素的)なプロセスは、コミ

ュニケーションプ

ロセスである。しかしこのプロセスは、自身の操

縦を可能にするべく、行為

へと縮減ないし分解されるのだ」(ωμり◎。)。

社会的システムはコミ

ュニケーシ

ョソのオペレーショソが作動する

かぎりにおいて存立するのであり

、その意味において、それは各々

の要素的

コミ

ュニケーションから

「成り立

っている」といえる。し

かし社会的システムにと

って、関係づけのためにそれ以上分解不可

能な最小単位は、あくまで行為という縮減形式である。それゆえ行

為は、社会的システムの狭義の要素とみなされてよい。

一さらにルーマンは、「両者は、固有の複雑性の縮減として把握さ

れるべき関係を形成している」(ωμゆω)とも述べているρ、彼はこの

「複雑性の縮減」というタームに

ついて、「複雑な連関をも

つ関係

性構成体

(国o巨

δ磊σqoh9、σqo)が

、二次的な連関によ

って、より少

ない関係性でも

って再構築される場合」(ω.トΦ)という定義を与え

ている。我々は、ここでいう

一次的連関に相当するものが

コミ

ュニ

ケーショソの基礎的自己言及であり、二次的連関に相当するものが

行為のそれであると考えることができるだろう。そしてルー

マンは、

複雑性概念を

「選択強制」として把握することによ

って、こうした

縮減を必然的なものとみなす

(ω.ミ)。いいかえれば、社会的シス

テムの

・「最小ケース

(蜜凶巳ヨ9含

ε」は

コミュニケーショソの基礎

的自己言及で・あるが、それは十分な関係性制限を欠いた

「要素の様

々な関係性の単なる集合」にすぎず、「システム」、としては不完全

であ

(QD●虧α)。

つも

の基

己言

によ

って

「社

ム」

へと

れ縮

(11)

関係性を制限されたかたちで現れるのである。

同時にこの縮減は、システムと環境との

「複雑性落差」、あるい

は環境に対する

「複雑性の劣勢

(口彗Φ二Φoq①9

Φε

」に対応してい

る。というのも、コミュニケLションはも

っぱら体験において環境

からの情報流入にさらされているからだ。現在

のルーマン理論にと

って、環境は常にシステム自身よりもはるかに複雑であり、システ

ムは環境複雑性に、対応した

「必須多様度」を全く欠

いているという

ことは普遍的な仮説であるが、このこどは、ゴ複雑性落差の安定化な

いし

「複雑性劣勢の補償

(国o目℃o昌ω9岳§)」という新たなレベルの

(12)

るゆ

さら

、縮

秩序

化作

、情

ンシ

ャルと

な複

つと

ンは

(ω・b。ω①)。

ルー

マソは

コミ

ュニケ

ソを

「シ

ステ

の自

(ω●b。ωO).と

てと

「コミ

ュニケ

の最

ルーマン に挙け るコミュニケーシ ョン と行為15

Page 17: Osaka University Knowledge Archive : OUKA...自 の ロ ジ ッ ク と 理 論 的 戦 略 が 存 在 す る は ず で あ る ゆ ま た 我 々 は 、.要 素 概 念 そ

も重要な作用は、偶然や干渉

(ω8歪口αq)、あらゆる種類の

《ノイ

ズ》に対するシステムの感受化

にある」(ωbGQ刈)と述べている。社

会的システムの形成は、より多く

のコミュニケーシ

ョンを走らせ、

より多くの差異を可視化し、自身をさらなる情報獲得

へと駆り立て

るのだ。かくてシステムと環境と

の関係は、

一種の相互亢進とみな

される。「複雑性落差に定数はな

い」(ω恥QQ)のである。またこのこ

とは、境界作用の特殊化との連

携によ

って、「環境

への依存性と非

依存性の同時的上昇」(Qo』αO)を可能にするのである。

結語、基礎的自己言及から

《反省》

ここでは最後に自己言及の第三の形式についてふれておこう。

行為の基礎的自己言及は、その行為が関係づけられる行為連関と、

関係づけに寄与しない他

の行為連関や、行為ではない全ての環境要

因との区別ができるとき、はじめて可能となる。つまりそれは、当

の行為を要素とする社会的システムと、他の社会的システムを含む

環境との分離を前提としている。それゆえ行為の主題化は、システ

 お 

を環

るよ

レー

ョンの遂

ると

いえ

こう

レー

ョンを

ルー

マソは

《反

(則亀

Φ邑o昌)

(ω.①OH)。

「シ

別」

いか

オペ

レー

ョソは

、.環

の区

いて自

「シ

ム」

て指

る。

の意

で、

反省

た自

己言

一形

であ

こと

いな

い。

、自

「シ

ム言

(準

)」

一致

のは

いる

であ

《自

(ωoぎω号

8

げ艶o巨き

伽q)

《自

(ωΦぎω什げ①のo年

Φま篝

αq)

よ.って

によ

「区別

のに

つい

の情報

の獲

に活

され

、言

る」

(ω●㎝㊤刈)と

つま

が自

の再

に関

る諸

々の情

たら

にお

「社

にお

の行

の絶

えざ

る創

の遂

(Qo.Nbo⑩)で

える

。ま

「自

のゼ

ク的

、そ

(ω.OHQQ)と

いう

い、

社会的システムが自身を

「システム/環境差異」1

いわば諸行為

の連鎖と様

々な環境要因との対比1

として表象することを、彼は

自己描写と呼ぶのである

(ωω一b。。。9

そして以上のことをふまえ、社会的システムの要素をめぐる

「二

の解答」を、ルーマンは次のようにも再定式化している。すなわ

ち、コミ

ュニケーションと行為との区別は、社会的システムの

「構

成」と

「観察」という水準の差異に対応しているというのだ。それ

によれば、「コミ

ュニケーションは自己構成の要素的単位であり、

行為は自己観察と自己記述の要素的単位である」(ωb癖μ)。両者は

不可分かつ不可欠であり、それらの共働によ

って、そして異なる三

つの形式の自己言及の共働によ

って、社会的システムのオ…トポイ

エシスは可能となるのである。

16

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注(1)

この問題提起

とその展開に

ついては、的爲ミ鳶

魯恥紺§魯

ωg鐸惹

彎ロ"

HOQ。♪

ω・HΦH・b。禽

(内琶

卜)を参

照。本稿

における考察は

、ルー

マソの

主著

と目される本書に

一貫

して依拠す

ること

によ

って行われる。以後

に必要

のないかぎり、本書

への参

照は頁数だけを

示す

こと

にす

る。

(2)

心的システムの自己言及に

ついては

、ω.。。鋒・ω①刈を参照。

(3)ω・H⑩P

①O尸

さらに

ω6HO・爭①を参

照。

(4)

ルー

マソは、世界構造

と社会的

システムの行為

(要素)を整序する

構造

とを区別するとともに、む

しろ後者

に記述上

の重点を置

いている

が、我

々がこの節

で取

り上げ

ているのは前者

であ

る。しか

し、要素

再生産

と構造との関連

という問題

図式は両

のケースに共通

であり

、ま

た後

者の構造概念

が世界構造

にも適

用可能

であ

ることを

ルー

マン自身

も認めて

いるため、本稿

では必要

に応じ

て横断的な記述を行

っている。

oっ●ωo。b⊃を参

照。

(5)

その意味

で、構造は

システムの

「固有

の過去」

(ωω"①O)ないし

「意

の歴史

(ωμOα)

を反映

して

いる。

それは

「進化

の成果」

であ

ると同時

に、常

に変化

にさら

されている。

(6)

こう

したサイ

クルを、

ルー

マンは

「分解

(諺鼠δω篝

oq)と要

の再

生産

との相互依存

」とも呼ん

でいる。ω雨◎。を参照。

(7)厳密に

いえば、体験

には

コミ

ュニケーシ

ョソや行為

ついての体験

(いわば

システムの自己複雑性

の把握)

も含まれ

ているから、「コミ

ュニケーシ

ョンは体験

を通じ

て世界

(システム+環境)

の複雑性を把

するのであり、その大部分

は環境

の複雑性

であ

る」と

いう方が正確

かもしれない。

(8)

これ

ルー

マンは、自己言

及的

システム理論

「主導

差異

(い①凶学

α臣興ΦロN)」とみなす。ω.b。Ohを参照。

(9)

見かけ上、行為

の原因は様

々な要

(諸

々のシステム、とりわけ個

行為老

)に求められるが

、,それは何ら十分な因果的説明を提供す

るも

のではな

い。社会的システム理論において重要

なのは、体験

の選

択性が環境に帰属されるのに対し、行

為の選択性

がそれを要素

とする

社会的シ

ステムに帰属

されると

いう

点である。ω.b。b。。。貸

さらに

ω・Hb。蔭

を参照。

(10)環境を行為の

コンテクストとして表

象する

ことに基づ

くシステム/

環境関係

の特殊化に

ついては、ωb①⑩歯o。α(國呂

●α)

に詳し

い。

(11)「条件づけ」と複

雑性

(の縮減)

との関連

ついては、ωトや刈

を参

照。また彼は、社会的システムの形

成は

「コミ

ュニケーシ

ョソの条件

づけ」であるとも述べて

いる。ωbω①を参照。

(12)ω.ミい

さらに

ωbお・b。αb。を参

照。

(13)社会的

システムは、自身

の要素行為

ついて固有

「類型

メルク

マ!

ル」な

いし

「類型論

(目薹

涛)」

を用

いることによ

ってその統

一性を

獲得し、ひ

いては自身

を他の社

会的

システムから区別す

る。

つまり再

生産は決

して反復

ではな

いが

、「要素

《類似性》

という最小限

の基

準を要求

する」

(ω●①O刈)

のであ

る。

一方

、あ

らゆる

コミ

ュニケ

ーシ

ョンから成り立

つ包括

的な社会

的システムである社

会の場合、その統

一性表現のために

「行為」

という

メタレベルの単位

を用いる必要

はな

い。社会は端的

コミ

ュニケーシ

ョンを要素

とし、

コミ

ュニケーシ

ンと非

コミ

ュニケーシ

ョン的環境

という区別ほ境界

によ

って自ず

と分

出するのである。

この問題

ついては、Qo'α㎝メ

さら

它●い島

ヨ雪P

b臘

§

ミミ㎎織ミ

Q讒ミ融ミミ5ωβげ美ロヨ罰

HΦG。c。"ω●㎝Ohhなどを参

照せ

ルーマ ンにおけ るコミュニケーシ ョン と行為17