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公益社団法人日本都市計画学会 都市計画報告集 No.12, 2013 8 Reports of the City Planning Institute of Japan, No.12, August, 2013 * 正会員 神戸大学大学院 工学研究科 准教授(Associate Professor, Graduate School of Engineering, Kobe University**非会員 株式会社ティーハウス建築設計事務所 研究員(Research Fellow, Architects Teehouse Co.,Ltd.被災地における喪失した街空間の記述に関する試論 -岩手県大槌町 町方地区・復元模型ワークショップを通して得られた証言を基に- A Study about the Description of Town Space Lost in the Disaster Area - Based on Memories from the Restoration Model Workshop in Machikata District, Otsuchicho, Iwate 槻橋 *・平尾 盛史** Osamu TSUKIHASHI *Morifumi HIRAO** The Great East Japan Earthquake and the massive tsunami with it were occurred on March 11, 2011. We made the 1/500 restoration model which reproduced the town space before the earthquake and tsunami disaster of Machikata district, Otsuchicho. And we held the workshop of resident’s participation with this model and collected their words. In this report, we integrated the memories of hometown from 810 participants and tried to reconstruct the life scape of this area from them. Keywords: The Great East Japan Earthquake, Town space, Restoration Model, Workshop, Memory 東北地方太平洋沖地震、街空間、復元模型、ワークショップ、記憶 1.はじめに 2011 3 11 日に発生した東北地方太平洋沖地震によって、 東日本における多くの街や集落は甚大なる被害を受けた。特に、 太平洋沿岸部では、地震とともに発生した津波による被害が大き く、連日各種メディアで報道されたように、津波によって建物や 車は押し流され、その街の原型をとどめていない地域も少なくな い。しかし、今回の震災による街の破壊は、それら建物や道など の物的環境のみに留まらない。これほど短期間の内に街空間の大 部分を一度に喪失することは、そこで暮らしていた人々にとって、 生活の断絶を意味しており、またその中で培われてきた地域の伝 統・文化の保全と、後世への継承においても、大きな影を落とし かねない。加えて、震災より 2 年と半年あまりが経過した現在、 人々の頭の中にあるかつての街の情景と、そこでの生活に関する 記憶の風化が進んでいる。 筆者らは発災直後より、大きな被害を受けた東日本沿岸部に位 置する街や集落の被災前の空間を、縮尺 1/500 の模型によって復 元し、現地市民との着彩対話型のワークショップ( 以下、WS) を行うことによって、被災地の空間理解を深めるとともに、「こ こで釣りをして遊んだ」「江戸時代からあった道」などの、個人 個人の街の記憶を模型の上に位置情報とともに記録する方法を 開発し、岩手・宮城・福島の各被災地を対象として、被災前の街 の記憶を復元する WS を継続的に行ってきた (1、2) 本稿では、津波により甚大な被害を受けた岩手県大槌町町方地 区を対象に、着彩対話型 WS を通して得られた地域の人々の 証言を整理、分析し、特に同地区中心部に位置する「御社地公園」 と周辺部における、人々の営みの様相についての記述を試みる。 またこの試みを通して、復元模型を用いて場所の記憶を再生する 同手法の可能性について検討を行う。 2. 既往研究 既存の街や集落の中の空間構造、情景の記述に関する先行研究 としては、その集落圏内において使用されている「生活地名」の 分析を通して、土地・空間に対する居住者集団に共通した意識を 考察し、集落空間全体の構造の抽出を試みる山崎寿一、重村力ら による研究がある (3) 。現地住民によって使用される言葉を収集、 統合し、その土地の空間を読み取るという点において本稿と重な る部分があるが、同研究が対象集落には半普遍的「構造」がある と仮定し、構造それ自体の抽出を試みているのに対し、本研究は 構造ではなく、むしろその構造を形作り、あるいは影響を与える 主体である人々の営みの様相の、直接的な記述を試みている点に 違いがある。 また、林、重川らによる「災害エスノグラフィー」の研究では、 阪神淡路大震災発生時と発生後の現場の様子を人々の証言から 明らかにすることが試みられている (4) 。これは一般の人々- 消防 隊員や市職員など各立場からの体験談を収集し、多面的な災害像 を描出するものであるが、同研究が災害時のプロセスにおける暗 黙知を発掘し、今後の災害に役立つ知見の共有を目的としている のに対し、本稿では被災地現地における喪失した空間を対象とし て、その空間内で行われていた生活の像を、どのように記録・継 写真1 大槌町でのワークショップの様子 - 86 -

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公益社団法人日本都市計画学会 都市計画報告集 No.12, 2013 年 8 月 Reports of the City Planning Institute of Japan, No.12, August, 2013

* 正会員 神戸大学大学院 工学研究科 准教授(Associate Professor, Graduate School of Engineering, Kobe University) **非会員 株式会社ティーハウス建築設計事務所 研究員(Research Fellow, Architects Teehouse Co.,Ltd.)

被災地における喪失した街空間の記述に関する試論

-岩手県大槌町 町方地区・復元模型ワークショップを通して得られた証言を基に-

A Study about the Description of Town Space Lost in the Disaster Area - Based on Memories from the Restoration Model Workshop in Machikata District, Otsuchicho, Iwate

槻橋 修*・平尾 盛史**

Osamu TSUKIHASHI *・Morifumi HIRAO**

The Great East Japan Earthquake and the massive tsunami with it were occurred on March 11, 2011. We made the 1/500 restoration model which reproduced the town space before the earthquake and tsunami disaster of Machikata district, Otsuchicho. And we held the workshop of resident’s participation with this model and collected their words. In this report, we integrated the memories of hometown from 810 participants and tried to reconstruct the life scape of this area from them. Keywords: The Great East Japan Earthquake, Town space, Restoration Model, Workshop, Memory

東北地方太平洋沖地震、街空間、復元模型、ワークショップ、記憶

1.はじめに

2011年 3月 11日に発生した東北地方太平洋沖地震によって、

東日本における多くの街や集落は甚大なる被害を受けた。特に、

太平洋沿岸部では、地震とともに発生した津波による被害が大き

く、連日各種メディアで報道されたように、津波によって建物や

車は押し流され、その街の原型をとどめていない地域も少なくな

い。しかし、今回の震災による街の破壊は、それら建物や道など

の物的環境のみに留まらない。これほど短期間の内に街空間の大

部分を一度に喪失することは、そこで暮らしていた人々にとって、

生活の断絶を意味しており、またその中で培われてきた地域の伝

統・文化の保全と、後世への継承においても、大きな影を落とし

かねない。加えて、震災より2年と半年あまりが経過した現在、人々の頭の中にあるかつての街の情景と、そこでの生活に関する

記憶の風化が進んでいる。

筆者らは発災直後より、大きな被害を受けた東日本沿岸部に位

置する街や集落の被災前の空間を、縮尺1/500の模型によって復

元し、現地市民との着彩—対話型のワークショップ(以下、WS)を行うことによって、被災地の空間理解を深めるとともに、「こ

こで釣りをして遊んだ」「江戸時代からあった道」などの、個人

個人の街の記憶を模型の上に位置情報とともに記録する方法を

開発し、岩手・宮城・福島の各被災地を対象として、被災前の街

の記憶を復元するWSを継続的に行ってきた(1、2)。

本稿では、津波により甚大な被害を受けた岩手県大槌町町方地

区を対象に、着彩—対話型 WS を通して得られた地域の人々の

証言を整理、分析し、特に同地区中心部に位置する「御社地公園」

と周辺部における、人々の営みの様相についての記述を試みる。

またこの試みを通して、復元模型を用いて場所の記憶を再生する

同手法の可能性について検討を行う。

2. 既往研究

既存の街や集落の中の空間構造、情景の記述に関する先行研究

としては、その集落圏内において使用されている「生活地名」の

分析を通して、土地・空間に対する居住者集団に共通した意識を

考察し、集落空間全体の構造の抽出を試みる山崎寿一、重村力ら

による研究がある(3)。現地住民によって使用される言葉を収集、

統合し、その土地の空間を読み取るという点において本稿と重な

る部分があるが、同研究が対象集落には半普遍的「構造」がある

と仮定し、構造それ自体の抽出を試みているのに対し、本研究は

構造ではなく、むしろその構造を形作り、あるいは影響を与える

主体である人々の営みの様相の、直接的な記述を試みている点に

違いがある。 また、林、重川らによる「災害エスノグラフィー」の研究では、

阪神淡路大震災発生時と発生後の現場の様子を人々の証言から

明らかにすることが試みられている(4)。これは一般の人 -々消防隊員や市職員など各立場からの体験談を収集し、多面的な災害像

を描出するものであるが、同研究が災害時のプロセスにおける暗

黙知を発掘し、今後の災害に役立つ知見の共有を目的としている

のに対し、本稿では被災地現地における喪失した空間を対象とし

て、その空間内で行われていた生活の像を、どのように記録・継

写真1 大槌町でのワークショップの様子

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承し、あるいは現地の復興過程や復興の担い手となる地域の人々

に共有を計っていくかを目的としている。

加えて、岩手県大槌町の震災復興を対象とするものとしては、

関幸子によってまとめられた調査研究が上げられる(5)。同研究

は大槌町における今後の復興事業に関する考察に主眼があり、震

災以前の大槌町全体概要についての記述も見られるが、統計デー

タやその他の文献を基とした、同地区の産業構造や歴史、地勢な

どの記述にとどまり、震災以前の具体的な街の暮らしの様子を伝

えるものではない。

3. 大槌町町方地区について

本稿の調査対象地域となる岩手県大槌町は、太平洋に面する三

陸海岸に位置し、四方を山と海に囲まれた自然豊かな地勢を持つ。

また大槌湾に面する大槌漁港を中心とした漁業を軸として、古く

から発展してきた港町である。町方地区は、城山を挟む形で並行

して流れる大槌川と小鎚川によって形成される河口部周辺の沖

積平野部にあり、ここに住宅街と役場、学校、病院、商店街とい

った街の中心機能が集中していた。また、同地区内のいたるとこ

ろにある「湧水」は飲み水や生活用水として利用され、町方地区

おける人々の暮らしの特徴となっていた。 震災では特に津波による被害が大きく、町方地区のほとんどが

津波に飲み込まれた。3,878棟の家屋が全半壊し、また上記のよ

うな街の中心機能となる施設も、そのほとんどが大きな被害を受

けたが、特に役場などの地域の行政を司る施設が喪失し、行政機

能が麻痺したことが、同地域の復旧復興を遅らせる大きな原因と

なった。現在は河口部に14.5mの巨大な防潮堤と水門を建設し、

平野部を広範囲に嵩上げすることで集約的に中心機能を再建す

る方向で復興計画が進められている。また震災から2年と半年が

過ぎ、住居や建物の基礎撤去が進んできたことで、かつての街並

みの面影が失われつつある。

4. 復元模型の制作

復元模型は、被災地のかつての場所の記憶を効果的に促し、ま

た想起された人々の記憶を直接的に記録するための媒体となる。

制作は航空写真や住宅地図などを参考に、あらかじめ研究室で行

われた。

模型の縮尺に関しては、人々から以前の街における記憶を効果

的に誘起する条件として、模型を一見して街全体の構造と情景が

直感的にイメージされるものが望ましいと考える。そのため、1

つ1つの家屋を識別可能な程度にボリュームや屋根の形状等の

作り込みを行うことが可能で、かつ出入り口や窓といった詳細ま

で再現することはできないが、家屋の規模感や隣地との関係など

を表現することが可能である1/500という縮尺に基づいて模型の制作を行った。

また制作範囲については、大槌町町方地区全体を含む1.5km四方の地域を対象地域として設定し、同範囲を500M四方の九つの

ブロックに分け、模型の制作を行った。

写真4 縮尺1/500大槌町復元模型(3m×3m)

_ 実寸1.5km×1.5km

図1 記憶のアーカイブの機能・構築フロー

図2 模型制作範囲 写真3 被災直後の大槌町

写真2 震災以前の大槌町

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図5 アンケート回答結果

5. 着彩-対話型ワークショップの開催

平成25年5月13日から19日までの7日間、大槌町において

復元模型WS「記憶の街WS in 大槌町」を開催した(6)。WS

は、神戸にて制作した復元模型を設置し、模型を囲みながら

住民によって語られた、震災前の街についての証言の記録を行っ

た。「あなたの家はどこですか?」「思い出の場所を教えてくださ

い」といった単純な質問からはじまり、語り手の語る内容を記録

する。証言者は事前に選定せず、また質問項目なども予め設けず

に、WS会場に展示した模型の周りで、制作したスタッフとの対話によって発言を促していく。模型上の建物の位置などに誤りが

あれば、指摘を受けてその場で修正し、また模型制作時に参照し

た地図や航空写真からでは読み取れない樹木や鳥居、時計塔など

の、景観上重要な要素があれば模型上に随時追加していく。WS

期間中、白い模型に着彩を行っていくのだが、その際、来場者に

も着彩作業への参加を促し、その過程を通してより詳しく地域の

思い出や被災時のことについてヒヤリングを行う。対面式のイン

タビューではなく、制作過程を共有する形式によって、より多く

の話を聞き出すことが期待できる。上記に説明するような模型を

囲んでの対話型のヒヤリング形式は、一対一のインタビュー形式

に比べ、厳密に客観的なヒヤリング結果を導く方法ではないが、

模型上で場所を指し示したり、街路を覗き込んで記憶の中の街の

イメージと重ねる等、街の空間における様々な発話をより多く引

き出す上で有効であると考えられる。 語られた内容のうち、建物の名称や、「子どものとき山で遊ん

だ」などの比較的短い記憶などは、専用の「旗」に記載し、その

場で模型上に直接立てていく。一人が立てる「旗」に限度は設け

ておらず、一人でいくつもの「旗」を立てる来場者もいる。また、

「旗」を立てるプロセスは、復元模型を自らの空間体験や記憶の

場所とすり合わせる過程であるとも言える。

復元模型と来場者の認識の擦り合わせが進むにつれ、「旗」を

立てる証言の発話に加えて、様々な街の思い出や震災以降の心境

が語られる様になる。発話の内容に統一性はなく、特定の質問に

対する回答としての客観的な評価には適していないが、同一の復

元模型上で各々の都市空間の認知を較正した上での発話として、

都市の空間的記憶を評価する上での分析対象として意義がある

と考え、「つぶやきシート」と呼ばれる専用のシートに書き取る。 来場者は 7日間で計 810名を数え、来場者がすべて町方地区

の人である訳ではないが、被災前の町方地区人口4,483人の18%

にあたる多数の来場者であった。各日の来場者数、つぶやき証言

者数、聞き手となった会場スタッフ数を表1に示す。展示された

模型を見るだけで帰ってしまう人も相当数いたため来場者の構

成については正確にカウントすることが困難であったが、参考値

として「つぶやき」の証言者数の年代別構成、男女比を図3に示

す。高齢化が進んでいる地域でもあるため、50~80代で全体の6割を占めていたが、男女比はわずかに女性が多い程度で拮抗して

いた。縮尺1/500、3M四方の復元模型上に立てられた「旗」の

総数は 2171本で、また来場者のうち、241人から語られた「つぶやき」証言は611件であった。またWSが終了した後、後日

写真5 模型と旗 写真6 「つぶやき」シート

図3 「つぶやき」証言者・属性

表1 復元模型WS in 大槌町 開催概要

写真7 WS後の復元模型

図4 アンケート回答者の属性

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に行われた大槌町中央公民館でのWS成果の展示会では、3日間

で計901名という多数の来場者を数えた。また同会場にて復元模型に関するアンケートを行ったところ、模型の見方について「街

全体をみる少し遠目から」(49名回答中20名)、「旗に書かれている文字が見える場所から」(49名回答中 15名)と多く、町民にと

っても「鳥の目」の俯瞰と「歩く人の目」といった異なる視点か

ら街並みを眺めることに対して多くの反応が得られた。 次章以降はWSを通して得られた「旗」「つぶやき」について、

その内容と傾向についてそれぞれ概覧する。

6.復元模型WSで得られた「語り」の記録(旗、つぶやき)

6-1.「旗」 WS 参加者がワークショップ中に行う行為は<模型訂正指示>

<「旗」立て><「つぶやき」の証言><着彩>の4つであるが、

<「旗」立て>を行う人数が最も多い。

「旗」は「つぶやき」よりも1つあたりの記入面積が小さく、

記入可能な文字数は限られているが、旗1本1本に記録される内

容は「つぶやき」と同様、模型の観察と学生との対話の中で各参

加者によって内発的に語られた記憶であり、記述内容は実に様 々

である。これらの内容を整理分類するにあたり、WS の時点で旗

に記録する記憶は便宜上5つに分類し、それぞれ「青・黄・紫・

緑・赤」の5色の旗に書き込む。分類は表2に示す通りである。

合計2171本の「旗」の各色の構成をみると、「青—名称」の旗

が1551本で全体の約7割を占めている。「青—名称」の分布のみ

を抽出したものが図8であるが、町方地区を埋め尽くす様に建物

1つ1つに旗が立てられている。町方地区7町の震災以前の世帯

数が1520 世帯であることを考え合わせても、3m四方の復元模

型上が記憶の「旗」でほぼ埋め尽くされている様子が伺える。

また、「青—名称」の「旗」に記載された内容について構成比

を示した図5と内容の細分類を示した表3を見ると「○○さんの

家」などの個人住宅の名称が2/3近くを占めていることがわかる。

数として大きな格差のある「青—名称」の旗を除く4色、計620

本の旗の分布を示したのが図6である。全域にわたって分布がみ

られるが、特にJR大槌駅から中心市街地であった御社地公園に

いたる地区に最も集中している。また市街地の外縁部にあたる大

槌川にかかる大槌大橋付近には川の両岸に沿って旗が集中して

いるのが見てとれる。また普段人が立ち入らない山間部は、当然

ながら5色とも比較的少数である。

表2 「旗」の分類, 記載内容例, 本数

図7 「旗 _青」内訳

図6 「旗 _黄・紫・緑・赤」プロット図

図8 「旗 _青」プロット図

表4 「旗」の分類, 記載内容例, 本数 表3 「旗 _青」内訳詳細

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図10 「つぶやき」群B プロット図

図9 場所言及による「つぶやき」の分類

6-2.「つぶやき」 「つぶやき」に記録される内容は、より体系的であるとともに、

「旗」とは異なり街空間と直接的な繋がりのない記憶も含まれる。

街の成立ちや歴史などに関する証言もあれば、「なつかしいねぇ」

といった模型を見て感じた単純な感想、また復興事業に対する不

満、亡くなった家族への思いなど、そこに記録される内容は「旗」

以上に様々である。これらの「つぶやき」を内容ごとに整理し、

特に「つぶやき」内に言及される場所の有無、場所の性質によっ

て、最終的に地点や領域として空間上に場所を特定できない「つ

ぶやき」群Aと,場所の特定が可能な「つぶやき」群Bとに分類

した。群 Aと群 Bの「つぶやき」数はそれぞれ 139:387(不明85)の割合となった。

また、群B387件の「つぶやき」は、街の空間上に位置づけ可

能な「つぶやき」であり、これらを地点として一カ所特定できる

場所と、「のこぎり町」や「この近辺」といった領域を表すもの

の2つに区別し、地図上にマッピングを行ったのが図10である。

7.「御社地公園」及び周辺部における生活情景の記述

御社地公園と公園を囲む6ブロック、及びその外周にプロットされた「旗」「つぶやき群 B」の証言を元に、同範囲の街空間に

おける震災以前の人々の生活の様子を記述する。本来であれば、

町方地区全体を対象とし、WS を通して得られた全証言内容(「旗」2171本、「つぶやき」611証言)を網羅することが最も望

ましいが、本稿では同手法の1つの試みとして、町方地区の中心

部に位置し、「旗」と「つぶやき群 B」のプロットの集中が見られる御社地公園及び周辺部に記述範囲を限定した。

また選定範囲にプロットされた「旗」と「つぶやき」の内、① 震災に関する内容のもの、②個人情報を含むもの、③町方地区全

体に関する内容のもの、のいずれかに該当する証言は省いた。最

終的に得られた「旗」112本と「つぶやき」22個のプロットは図

11、12に、それぞれの内容は表4、5に示す。

最終的に作成された文章が図13である。実際の記述は以下の

ルールに沿って行った。大きな流れとしては「証言群の分割とグ

ループ化」、次に「各グループの連結」である。①まず、中心部

と周辺部、あるいは東側と西側、という風に記述対象範囲を更に

分割し、分割された各範囲内にプロットされている証言を、それ

ぞれ大グループとして括る。②次に各大グループ内で、A「分割された範囲全体に関する内容」と、B「分割された範囲の一部(1

つの商店など)に関する内容」の2種類に分ける。 ③さらに B

グループに属する証言は、「商店に関するもの」「人々の行動に関

するもの」「風景に関するもの」など、各証言内で言及されてい

る内容毎で分け、いくつかの小グループを作る。(本稿の対象範

囲である「御社地公園周辺」を実際に記述するに当たっては、ま

ず「御社地公園」と「公園周辺部」を2大グループとして分け、

さらに「公園周辺部」においては方角によって同範囲を分割し、

それぞれの中で小グループ化を行った。)

④以上のプロセスで分割された各グループを連結し、1つの文

章としてまとめる。この際、記述は大グループ内でそれぞれ A→Bの順番で行う。また本来それぞれに完結した証言を、一繋の

文章とする上で、各証言内容の意味が変わらない範囲で、語尾な

どにおいて一部変更を行い、また連結された証言全体を文章とし

て意味の通るものとするために、最低限の加筆を行った。

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図11 御社地公園周辺「旗」プロット図(112本)

図12 御社地公園周辺「つぶやき群B」プロット図(22個)

表4 御社地公園周辺「旗」内容一覧(112本)

表5 御社地公園周辺「つぶやき」内容一覧 (22個)

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8.まとめと課題

本稿では、大槌町町方地区を対象として市民参加型 WS を行

い、その中で記録された、震災以前の街空間における証言内容の

整理・分類を行った。その中から「御社地公園周辺」の範囲にプ

ロットされた「旗」と「つぶやき群B」を抽出し、これら証言内

容を一つの文章として統合することで、同範囲の街空間と、そこ

で営まれていた生活の様相の記述を試みた。

本稿で用いた復元模型を活用した同手法の可能性と課題につ

いては、以下の2つの段階に分けて述べる必要がある。

<復元模型を用いた着彩-対話型WSの有効性> ここで言う有効性とはつまり、震災により喪失した街空間の記

憶をWS参加者から引き出すその効果を指す。WS内で行ったア

ンケート調査結果では、「Q3:模型のどの部分で記憶を想起したか(複数回答可)」の質問に対し、「家のカタチ」33%、「屋根の

色」20%、「旗に書かれている言葉」24%、「山や海・川や木」16%、

など、着彩された模型が持つ地図などでは表現しえない要素から、

人々が街の記憶を想起している様子がうかがえる。またそれら語

られた記憶は、各建物、道といった場所の名称のみにとどまらず、

街の歴史や文化、催しの情景、個人個人の体験など、その内容は

多岐に渡るものであった。しかし同手法単独での結果分析だけで

はその有効性を語る上で不十分であり、地図(2D)、あるいは

VR(ヴァーチャルリアリティ)などといった、その他の手法による結果と比較分析することで初めて、厳密に検討することがで

きるものと思われる。

<WSを通して得られた記憶の統合について>

本稿では、特定範囲にプロットされた「旗」と「つぶやき群B」

の証言群を分割、調整し、最終的に1つの文章という形の統合を

試みた。最終的に作成された図13の文章を一読すれば、対象地

<御社地公園> 御社地公園では、朝市、フリーマーケット、人形劇、踊り、など様々 な催しが行われ、日常的に賑わう場所であった[152]。公園では、朝からお年寄りや、近所の人が集まって立ち話をしている姿、あるいは子どもたちが自転車に乗って遊ぶ様子などが見られ、文字通り子どもから大人までが利用する場所であった(169・174・176・200)。加えて告白スポットでもあったそうで、ここは地域の人々 にとってとても親しみ深い場所であったと言える(175)。また公園の中心には鮭の噴水の立つ池があって、ここにみな、鯉や金魚などを放していた(170・173)[126・147]。池の周りでは、魚に餌をあげたり、釣りをしたり、ざるでカジカを捕ったりする人などが見られた[126・128・147]。 その他にも公園には様々 なものがあった。津波の記念碑や、病気を治してくれる杜、人柱の石碑、などである(100・165・167・171)。この中の人柱の石碑は、御社地公園にはかつて人が生きたまま埋められた、という伝説を伝えるものであった[134]。また、この公園は随分昔からここにあって、1902年には菊池祖晴という和尚が住んでいたそうだ[138]。また昭和21年には火災も経験している[145]。 毎年7月にはここで夏祭りが開かれた。みなそれぞれ浴衣を着て、池の周りで御社地音頭を踊っていた(177)[128・142・153]。また 10 月にも天満宮商店街合同でのお祭りが開催されていた(098)。 <公園周辺部> 御社地公園の周りを一周する道は、タイル張りで塗装されていた[143]。この道の向こうには、佐々 木クリーニング屋、魚屋、立ち食いそば屋、喫茶花屋敷、陶芸家のアトリエ、東梅神社、天満宮など、様々 な建物が建ち並び、これら建物に加え、松の木やケヤキの木などの植栽、銅像などが、公園をぐるりと囲んでいた(090・097・099・101・106・166・168・178)[129]。喫茶花屋敷はオシャレな喫茶店として有名で、TV で取り上げられたこともあり、またこれと隣接する陶芸家のアトリエでは、ここの主人が陶芸をする一方、奥さんは織物をしていたそうだ(102・103・104・105)。 公園からみて北西の方向にはふれあいセンターがあるが、同施設は以前、公民館であった(091・092)。ここは地域の人々 にほとんど毎日のように利用され、予約を取るのが難しいくらいであった[152]。また、ある2人はここで開かれた成人式の二次会で出会い、一緒になったとのことであ

る[149]。そのさらに奥には赤武酒造場がある(089)。また正反対の方角、南東に目をやると、大槌保育園が見える(189・191・198)。明治時代、この土地にはふ化場があったが、昭和に津波が襲い、移転された後、保育園となった(188・192)。同敷地内の北側には御社地公園まで水をひく湧水があるが、60 年前ここから水を汲んでいた、という人もいるほど、古くからの湧水である(187・193・195)。御社地公園周辺には他にも湧水、井戸がいくつもあり、湧き出る水は飲み水として、あるいは食器を洗う水として利用されていた(196・231・418)。また金魚の水槽などを洗う人もいたが、ある井戸では「犬を洗ってはいけません」という看板が立てられていた(194)[127]。大槌の豆腐と酒が美味しいのはこれら湧水のおかげである[146]。保育園の南側には屋根のある屋外スペースがあって、ここでは朝市が開かれていた(190)。その奥に建つ建物は町立図書館である(229)。毎日図書館に通い、パソコンを利用する人もいた[144]。図書館のさらに南に通る道路は昔からの道で、大槌と小鎚を分ける境界線となっている(400・414)。この道路はバイパスができるまでとてもうるさかった(234)。 公園から東へ1つブロックを抜けると、末広町商店街(かつては向川原商店街)に出る(059・397)。賑わいのある商店街であり、夜には夜市が開かれ、通りにはたくさんの夜店が出ていた(062・063)[151・154]。また、この通りは江戸時代からあった道だそうだ(399)。 この商店街に軒を連ねる商店を含め、御社地公園周辺にはたくさんのお店が揃っている。例えば飲食に関わるお店に限っても、三田邸食堂、このさん食堂、三四郎(鰻屋)、鳳蘭ラーメン、千勝(食事市)、和岡喫茶芳苑、よろず屋(お茶屋)珈琲屋、ひびまた屋、秋篠宮がお忍びでお越しになったこともある寿司たつ、食堂ながいや(そば屋)、夢宇民、そして七幅さん(焼鳥)、飲み屋などの食事所、これらに加えて、かまど屋やほっかほっか亭といった弁当屋さん、など、実に豊富である(071・077・078・116・117・155・181・183・184・186・210・227・404・408・420・423)。また、この中のほっかほっか亭は、からあげ弁当と刺身弁当などに定評のある弁当屋であるが、なぜか震災の一週間前は予約がいっぱい入ったそうだ(179・180・185)[309]。飲食関係のお店以外にも、ムーミン(パーマ屋)、かつて上野商店だったパーマ屋、阿部床屋、中村床屋、などの髪を整えるお店から、内金崎自転車、神田鋸工具店、阿部鉄鋼、小松花屋、岩崎化粧店、銀少女化粧品店、横田靴店、たしろ電気といった日用品を取り扱うお店、そしてお米屋さん、牛乳屋さん、MAIYA大槌大町(スーパー)、みずかみ商店、元松崎商店、越長商店、などの食料品店があり、その他、金崎書店、呉服店ササヤ、小嶋きもの店などの服飾店、タクシー屋に新聞屋、タイル屋の荒屋、鳩岡釣具店、加えてホテル寿などの宿泊施設、針灸治療院といった医療施設、など、実に様々 な種類のお店、施設が揃っていた(069・074・075・079・080・082・107・110・182・209・213・218・223・224・226・228・402・403・405・409・410・411・412・415・419・563)[131]。MAIYA 大槌大町は近所の車のない人々 によく利用され、みずかみ商店には自転車で頻繁に通う人の姿も見られた(108・111)[125]。またみずかみ商店は沼地に建っており、建物の周りにある水汲みポンプで水を抜いていた[135]。針灸治療院には実家にまたがる全長18mもの、一続きの自慢の大屋根がかかり、広さは300㎡(敷地97坪、二階53坪)、10人いる孫が全員泊まれる広さがあった(220)[131・139]。この界隈では地域のソフトボール大会などの打ち上げや、その他イベントが行われ、子どもは道で石を飛び越えて遊んだりしていた(060・406・407)。駐車場もいくつかあって、この内の幼稚園の東側にある駐車場はかつて郵便局であった(197・207・222)。また他にも公園の北側にある天満宮の横には虎舞の倉庫があった(154・156)。 祭となると、道には出店が並び、神輿が練り歩き、新町手踊りが行われ、幼稚園でも踊りが行われ、地域全体が舞台となった(061・067・398・413・952)。

御社地公園周辺: 旗 _112 / つぶやき _22

図13 「旗」「つぶやき」証言内容統合による「御社地公園周辺」における街空間の様相の記述

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公益社団法人日本都市計画学会 都市計画報告集 No.12, 2013 年 8 月 Reports of the City Planning Institute of Japan, No.12, August, 2013

域に立地する商店や施設の種類、加えてそれら各場所の性質や

人々の行動と交流の様子が確認され、これを通して同地区におけ

る人々の暮らしの一端を伺い知ることができると言えよう。

しかし、ここで問われるべきは、統合される前と統合された後

で、その証言群から読み取れる内容にどのような違いが生じるか、

ということである。これについては読み手における心情への影響

の度合い、あるいは「伝わりやすさ」という指標を別にすると、

複数の個別の記憶が重なり合うことによって、そこから新たな事

実の描出が起こる、という効果について指摘することができる。

例を上げると、「御社地は朝からお年寄りが集まり(以下略)」(つ

ぶやき_152)と、「子どもが遊んでいた」(旗_174)という2つの

個別の証言が組み合わさることで、「御社地公園では幅広い年齢

層の人々が利用していた」という、2証言どちらにおいても直接

的には語られていない新たな事実を読み手は確認することがで

きる。このように、抽出した証言群の中で個別の記憶が互いに関

連し合うことで、新たな街の一面を顕在化することが可能となる

のである。 しかし、WSで得られた証言は、各個々人の中の震災以前の街

空間における記憶の「断片」であり、これらを組み合わせること

で作成された文章が、体系的に、あるいは十分に対象範囲を記述

しているかどうかについては、アンケートなどによって住民たち

からの意見を得て、その結果から評価する必要がある。

また上記のような手法の有効性の実証に加えて、今後 WS で得られた街の記憶と、そこから描き出された地域の生活の姿を地

域内外でどのように共有し、今後の復興と街の再建の中で活用し

ていくかについて、現地の人々と連携を図りつつ、検討を行うこ

とも重要な課題であると考える。

謝辞

本研究の基となった市民参加型WS「記憶の街ワークショップ in大槌町」は、大槌町教育委員会(共催)、大槌町(後援)、また一般社団法人おらが大槌夢広場復興館、カリタスジャパン大槌ベー

ス、エールサポートセンターの多大なる協力と、NHK盛岡放送局の取材によるシリーズ「ふるさとの記憶」にて成果が公開され

ることにより実現したことを記し、この場をお借りして御礼申し

上げる。

補注

(1) 参考文献1)参照 (2) 「記憶の街ワークショップ」(着彩-対話型ワークショップ)は、

2011年6月に「南気仙沼駅周辺」の白い復元模型を気仙沼市役所のロビーに展示した日から、それを見た市民の要望に応

える形ではじまり、以降回を重ねる毎に、方法の改善を進め

てきた。プロジェクト全体としては「失われた街」模型復元

プロジェクトとして22大学、25の研究室が模型制作やワーク

ショップに参加しており、2013年8月現在で被災地内外にお

いて展覧会を13カ所で開催した2013年8月現在、「失われた街」模型復元プロジェクトおよび派生した復興支援活動が復

元模型と共に約40回新聞記事として掲載され、テレビの報道番組にて14回放送されている。主なものとして、日本経済新

聞全国版文化面「忘れないためのアート」(2012年1月21日),

NHKスペシャル「シリーズ東日本大震災 ふるさとの記憶をつなぐ」(2013年4月26日初回放送)など。

(3) 参考文献2)参照

(4) 参考文献3)参照 (5) 参考文献4)参照

(6) 「記憶の街ワークショップ in 大槌」開催期間:2013.5.13〜 19/開催場所:城山公民館・マスト2F/主催:「失われた街」 模型復元プロジェクト実行委員会/共催:大槌町教育委員会 /後援:大槌町/企画制作:神戸大学 槻橋修研究室・近藤研 究室/協力:一般社団法人おらが大槌夢広場復興館・カリタ ス大槌ベースキャンプ 参考文献

1) 槻橋修(2012),「東日本大震災で被災した地域コミュニティの再生とまちづくり」, 日本災害復興論文集No.2

2) 山崎寿一,重村力(1993),「生活地名からみた中久保集落の空間

意識の構成」, 日本建築学会計画論文報告集,第451号

3) 林春男,重川希志依,田中聡(2009),「防災の決め手「災害エス

ノグラフィー」阪神・淡路大震災秘められた証言」,NHK出版

4) 関幸子(2013),「岩手県大槌町の震災復興の現状と課題」,東洋大学PPP研究センター紀要,No.3

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