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153 台湾「南方協力」仏領インドシナ ―黄麻栽培中心湯山英子 Taiwanese Cooperation with Japan and French Territorial Indo-China: Focusing on Jute Production Eiko Yuyama During the time of the mid-1930s to 1945, Taiwanese personnel were transferred by the Japanese Government to French Indo-China in order to manage the cultivation of jute. By focusing on the pro- duction of jute, this paper aims to investigate the true nature and significance of this transfer of Taiwan- ese personnel to French Indo-China. We had first to re-examine the plans made for jute cultivation by the Central Government of Japan, the Taiwanese Central Government and those private enterprises involved in the project, and then to see what steps they took to transfer Taiwanese personnel to French Indo-China to carry out the work. Our research revealed that while the initial investigation into the prospects for jute cultivation had been a col- laborative effort between the Taiwanese Government-General, private enterprise and the world of Tai- wanese agriculture, and that while Taiwanese technology was the primary factor in the investigation of the prospect for jute cultivation, the training of Taiwanese agricultural engineers had in the first place been entrusted to Japanese industrial organisations as part of the scheme. When we focus on one specific feature of the Second World War, namely the production of jute, from the standpoint of Taiwanese collaboration with Imperial Japan, we are able to understand more clearly the significance of Imperial Japans multi-purpose advance into French territorial Indo-China. はじめに 本稿1930 年代半ばから 1945 までの期間焦点をあて,台湾仏領インドシナ進出および 「南方協力」実態黄麻調査人員派遣両面かららかにすることを目的とする 1 これまでの研究では,日本対台湾,日本対仏領インドシナ(以下,仏印)という一方向的対日関係分析 主流であり,台湾からの仏印進出,台湾拓殖株式会社をはじめとする印度支那産業株式会社 1938 年設立,台湾拓殖株式会社全額出資),国策会社としての成立・展開過程研究中心 となっている 2 。一方,台湾史研究においても同様台湾拓殖進出先, あるいは対岸中国地域「南 2 疋田康行編著『「南方共栄圏」―戦時日本東南アジア支配』多賀出版,1995 年。疋田康行「戦前・戦時期日本インドシ 経済侵略について」阿曽村邦昭編著『ベトナム国家民族』上巻,古今書院,2013 年。 アジア太平洋討究』No. 31 March 2018北海道大学大学院経済学研究院 地域経済経営ネットワーク研究センター研究員 Researcher, Center for Regional Economic and Business Networks, Faculty of Economics and Business, Hokkaido University

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Page 1: Taiwanese Cooperation with Japan and French Territorial Indo-China: Focusing on Jute … · Focusing on Jute Production Eiko Yuyama During the time of the mid-1930s to 1945, Taiwanese

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台湾の「南方協力」と仏領インドシナ

台湾の「南方協力」と仏領インドシナ

―黄麻栽培を中心に

湯 山 英 子†

Taiwanese Cooperation with Japan and French Territorial Indo-China: Focusing on Jute Production

Eiko Yuyama

During the time of the mid-1930s to 1945, Taiwanese personnel were transferred by the Japanese Government to French Indo-China in order to manage the cultivation of jute. By focusing on the pro-duction of jute, this paper aims to investigate the true nature and significance of this transfer of Taiwan-ese personnel to French Indo-China.

We had first to re-examine the plans made for jute cultivation by the Central Government of Japan, the Taiwanese Central Government and those private enterprises involved in the project, and then to see what steps they took to transfer Taiwanese personnel to French Indo-China to carry out the work. Our research revealed that while the initial investigation into the prospects for jute cultivation had been a col-laborative effort between the Taiwanese Government-General, private enterprise and the world of Tai-wanese agriculture, and that while Taiwanese technology was the primary factor in the investigation of the prospect for jute cultivation, the training of Taiwanese agricultural engineers had in the first place been entrusted to Japanese industrial organisations as part of the scheme.

When we focus on one specific feature of the Second World War, namely the production of jute, from the standpoint of Taiwanese collaboration with Imperial Japan, we are able to understand more clearly the significance of Imperial Japan’s multi-purpose advance into French territorial Indo-China.

はじめに

本稿は,1930年代半ばから 1945年までの期間に焦点をあて,台湾の仏領インドシナ進出および

「南方協力」の実態を黄麻調査と人員派遣の両面から明らかにすることを目的とする 1。これまでの日

本の研究では,日本対台湾,日本対仏領インドシナ(以下,仏印)という一方向的な対日関係の分析

が主流であり,台湾からの仏印進出は,台湾拓殖株式会社をはじめとする印度支那産業株式会社

(1938年設立,台湾拓殖株式会社全額出資)が担い,国策会社としての成立・展開過程が研究の中心

となっている 2。一方,台湾史研究においても同様に台湾拓殖の進出先,あるいは対岸の中国地域「南

1 南方の具体的な地域としては,1930年代以降は中国南部と東南アジアを意味するが,ここでは東南アジア,とくに仏領インドシナへの経済進出に焦点をあてる。

2 疋田康行編著『「南方共栄圏」―戦時日本の東南アジア支配』多賀出版,1995年。疋田康行「戦前・戦時期日本の対インドシナ経済侵略について」阿曽村邦昭編著『ベトナム国家と民族』上巻,古今書院,2013年。

『アジア太平洋討究』No. 31 (March 2018)

† 北海道大学大学院経済学研究院 地域経済経営ネットワーク研究センター研究員 Researcher, Center for Regional Economic and Business Networks, Faculty of Economics and Business, Hokkaido University

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湯 山 英 子

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支」や海南島などが研究の中心になっており 3,仏印をはじめとする各地域別の検討が等閑になってい

る。しかし,近年の農業分野の研究では,台湾農業技術の「南方移植」に関する検討がなされるよう

になってきた 4。

台湾拓殖が東南アジア諸地域への投資額から言っても重要な役割を担ったことは事実ではあるが,

台湾拓殖を取り巻く企業や商店など,そこに関わる人々がどう反応・行動したのか,また進出先での

他機関との摩擦など,さまざまな側面を有していたはずだが,農林分野に関しては,これまで見過ご

されてきた部分である。但し,仏印の鉱物資源においては,現地で日本の中央政府と台湾拓殖,現地

商人および各進出企業との統制が思うように取れないといったことは指摘されている 5。仏印の農林分

野においても日本軍および中央政府,国策会社が主導していたであろうが,果たして足並みを揃えて

台湾の「南方協力」がなされたのであろうか。

日本の台湾領有以降,台湾は日本の東南アジア進出拠点として位置づけられてきたが,1930年代

半ば以降になると,拠点としての役割が薄らいでいた時期でもあり,中央政府と台湾総督府,関わる

民間企業の思惑や利害関係が錯綜していた。それゆえ,この時期の帝国「日本」といっても一様では

なく,中央政府から,および台湾側からの両方を視野に入れた検討が必要であろう 6。

本稿では 1930年代後半から段階的に実施されてきた台湾の仏印調査を,農林分野での調査内容と

人員派遣の両面から検討する。ここでは,黄麻栽培を取り上げ,事前調査とともに実際の進出,その

後の栽培指導,続く黄麻工場設立までの過程を一事例として考察したい。黄麻(ジュート)は日本が

仏印を資源獲得地域とみなしてから,重点作物として米,綿花栽培とともに国策会社,民間会社など

が関与した作物である。

また,本稿で扱う台湾の「南方協力」とは,1941年 6月 24日の閣議決定「南方政策に於ける台湾

の地位に関する件」7において,台湾総督府は中央政府の指示に従い関係官庁との綿密な連絡調整の下

で積極的に「協力」を行うという,中央政府の主導が明確にされたことを指す。仏印に関しては,そ

の「南方協力」が時期によってどのように変化したのか,現地でどう中央政府との調整が図られたの

か,またはされなかったのかが課題として残っている。黄麻栽培において,その一側面を示したい。

次に,仏印の黄麻栽培に関する先行研究と課題について触れておこう。

3 周婉窈「從「南支南洋」調查到南方共榮圈―以臺灣拓殖株式會社在法屬中南半島的開發為例」『臺灣拓殖株式會社檔案論文集』國史館臺灣文獻館,2008年。鍾淑敏「臺灣總督府與南進―以臺拓在海南島為中心」『臺灣拓殖株式會社檔案論文集』國史館臺灣文獻館,2008年。

4 張靜宜「台灣總督府農業試驗所之研究―以「戰爭協力」爲中心」『人文集刊』第 5期(2007年 7月)。洪紹洋「帝國擴張與產業南進―試論二戰期間臺灣的角色」『日本帝國與殖民地 人流與跨境』中央研究院臺灣史研究所,2014年 10月。

5 仏印のボーキサイトと燐鉱石が代表例である(安達宏昭『戦前期日本と東南アジア―資源獲得の視点から』吉川弘文館,2002年,199‒205頁。疋田,前掲論文,2013年)。

6 河原林直人「一九三九年・「帝国」の辺境から―近代日本史における「植民地利害」の一考察」『日本史研究』第 600号(2012年 8月)。「熱帯産業調査会開催過程に観る台湾の南進構想と現実―諸官庁の錯綜する利害と認識」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』第 47巻第 4号(2011年 3月)。また,該当時期の調査機関については,台湾総督府調査課が活力を失い,代って満鉄東亜経済調査局やシンクタンク的な調査機関が発足し南方調査に力を入れるようになった(後藤乾一『原口竹次郎の生涯―南方調査の先駆』早稲田大学出版部,1987年,137‒139頁)。

7 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023596700,「南方政策ニ於ケル台湾ノ地位ニ関スル件」(1941年 6月 24日),公文別録内閣(企画院上申書類)昭和十五年~昭和十八年,第二巻,昭和十六年(国立公文書館)。

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台湾の「南方協力」と仏領インドシナ

1. 黄麻栽培に関する先行研究と台湾農業分野においては,前述したように張靜宜や洪紹洋によって台湾農業技術の「南方移植」に関す

る研究が進められ,仏印への関与が少しずつ解明されてきている。なかでも洪紹洋は,帝国の拡張と

して仏印の亜麻栽培を分析し,亜麻栽培は終戦によって未完に終わったものの,植民地台湾で培った

技術をさらに仏印で応用しようとしたことを明らかにした 8。

一方,日本の研究では,吉沢南が仏印での黄麻栽培を取りあげた。吉沢は,この黄麻栽培が日本に

よる強制栽培であったことを当時従事した人々の証言によって明らかにしており,その功績は大き

い 9。吉沢は,台湾から多くの指導員が動員され,それが現地での強制栽培の一端を担わされたと述べ

ている。また,古田元夫は,ベトナム北部のフンイエン省フゥオントン村(現:フゥオンチュウ村)

に設立された大南公司経営のジュート工場(以下,黄麻袋工場は黄麻工場に統一して表記)と現地農

民の黄麻栽培による「1945年の飢餓促進要因」との関連性を現地住民の証言から明らかにした 10。

それらの課題としては,栽培に至るまでの段階的な検討がなされていないという点にある。そもそ

も,なぜ台湾から技術と人員が動員されることになったのか,黄麻栽培がなぜ仏印に課せられたので

あろうか,その背景をみていこう。

本稿で対象とする 1930年代の台湾の状況は,黄麻製品の製造 11が推進されたものの依然,製品お

よび原料は輸入に頼る状態であり,各国の経済ブロックの影響を受けて「非常時貿易戦に直面」して

いると糖業の専門家である田中重雄は『台湾時報』で訴えていた。台湾にとって黄麻を原料とする包

装袋が重要物資と位置づけられ,その背景には,台湾で生産される米や砂糖の包装袋としての需要が

大きいことによる。1920年代から 1930年代にかけて,包装袋(ガンニー袋)の需要が伸びた要因を

分析した平井健介の研究がある。平井は,1934年以降稲作から黄麻栽培への作付転換を奨励する動

きが見られたものの,原料の黄麻も製品も輸入に依存していたと指摘している 12。当時の危機感を田

中重雄が次のように述べている。

黄麻製品の利用は実に大衆的で,本邦のみならず世界的に重要視せられている。その製品中で

最も需要の多いものではガンニー袋とシアンクロースで(中略)。本邦,満洲等を合わせるとガ

ンニー袋の需要は約 5千 5百万枚,シアンクロースは 1千万ヤードに達している。黄麻製品は追

年本邦人の手によって製造供給するようになったが,尚その半数は輸入に俟つの状態である。

(中略)之の原料は本邦並びに満洲の生産は微々たるもので,殆ど印度及び支那に仰いで居り,

年額 6, 7百万円に及んでいる。(中略)各国の経済ブロックの尖鋭化は益々濃厚になってくる。

殊に日印通商問題は悪化する 13。

8 洪,前掲論文,16頁。 9 吉沢南『私たちの中のアジアの戦争―仏領インドシナの「日本人」』朝日新聞社,1986年。10 古田元夫「ジュート工場のあった村の 1945年飢餓―ベトナム北部フンイエン省フゥオントン村」『東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻紀要』第 1号(1997年 3月)。

11 黄麻製品はガンニーとヘッシアンに分けられ,包装用麻袋はガンニー袋となる。黄麻袋工場,ジュート工場,精麻工場など資料によってはいろいろな表記があるが,本稿では精麻も含め包装用袋を製造する「黄麻工場」に統一して使用する。

12 平井健介「包装袋貿易から見た日本植民地期台湾の対アジア関係の変容」『アジア経済』第 51巻第 9号(2010年 9月),22頁。13 田中重雄「台湾に黄麻栽培を提唱す―非常時貿易戦に直面し」『台湾時報』第 166号(1933年 9月。田中重雄は,『明日の台湾糖業』(1939年)『砂糖の話』(1954年)などの著書がある。シアンクロースは,ヘッシアンクロスのこと。

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台湾では,1930年代になると黄麻の生産量が少しずつ増えていった。1933年までの微増状態から

1934年には作付面積,収穫量が大幅に増加した。1933年から 2年後の 1935年には作付と収量は 2

倍以上も増えた 14。増加の要因としては,台湾総督府が増産計画を実施したことによる 15。そして,

1935年台南市に台南製麻株式会社が民間資本によって設立され,黄麻袋の島内自給を目指すことに

なった。これまでの台湾の製麻業界は,台湾製麻株式会社が主力であり,主に日本からの資本(主要

株主:安田善三郎・安田保善社総長,取締役社長:山下秀実・帝国繊維社長)によって 1907年に設

立された 16。一方,台南製麻は上海東亜製麻(日綿,日清紡出資)が主要株主となり,取締役として

上海の山田五郎が就任するといった,いわば中国大陸からの出資である 17。

そして,台湾ではこの 2社が麻袋製造の主力となった。そのほかにも,古くは葫蘆墩製麻会社 18な

どがあったが,1937年には主力 2社である台南製麻と台湾製麻が日本の製麻組合に加入した。組合

加盟企業は,小泉製麻株式会社(神戸市灘),大阪製麻株式会社(兵庫県尼崎),東洋麻絲紡績株式会

社(和歌山),満洲製麻株式会社(大連)の 4社に台湾の 2社が加わったことで,日本,満洲,台湾

といった日本帝国内での供給態勢を整えたことになる。この背景には,インドからの黄麻および麻袋

の輸入が激減し,日本,満洲,台湾において帝国内自給体制を整える必要があったからである。

しかし,前述したように台湾では原料の黄麻も製品も輸入に依存しており,1939年度の試算では,

包装用砂糖袋と米袋の必要量が 2,130万枚であり,台湾製麻が 600万枚,台南製麻が 600万枚製造し

ても 930万枚の不足が生じ,工場増設の必要があることが指摘されていた 19。それだけに台湾島内の

増産だけでなく,インド以外の黄麻および製品の供給元を確保することが課題となっており,仏印が

栽培に適した土地として注目されるようになった。但し,台湾製麻においては,1942年頃から黄麻

の入手が困難になったことから徐々に経営が悪化し,軍需工場としての事業転換に迫られ,帝国繊維

株式会社から社長が就任することになった。その間,1941年には亜麻事業に着手し,1943年には総

督府の亜麻増産計画に呼応する形で工場を建設した。最終的には 1944年 2月には帝国繊維と合併す

るに至った 20。

そこで,次に台湾の仏印黄麻調査からみていこう。

2. 台湾の仏印黄麻調査台湾における各機関の南方調査に関しては多くの研究蓄積がある 21。近年では,日本の「学知」に

14 原静『実験麻類栽培精義』養賢堂,1943年,330頁。15 「農業に関する総督府施設の概要」『台湾農会報』第 3巻 12月特別号(1941年 12月),183頁。16 『帝国製麻株式会社五十年史』帝国製麻株式会社,1959年,7‒8頁。17 『台南製麻株式会社設立目論見書事業予算書並に定款(昭和九年十一月一日)』『第一回事業報告書(自昭和十年三月二十三日至昭和十年五月三十一日)』『第十七回事業報告書(自昭和十七年十二月一日至昭和十八年五月三十一日)』。同書によるとハノイ出張所開設は 1943年 1月 10日,黄麻栽培開始(1942年 12月 8日大東亜大臣下命)となっている。

18 『臺灣寫眞帖』臺灣總督府官房文書課,1908年,39頁。19 山田酉蔵『民国 35年 10月豊原廠四十年の回顧(台湾製麻会社を語る)』帝国繊維株式会社台湾事業部,1946年,46‒47頁。20 山田,前掲書,29‒33頁。帝国製麻は,1941年に帝国繊維,1950年には帝国製麻と社名を変更している(『帝国製麻株式会社五十年史』帝国製麻株式会社,1959年)。また,帝国繊維は,1943年ハノイ出張所を開設し,亜麻の栽培を行った。さらに黄麻の試作を始めたようで,黄麻栽培協会に入会を要請したものの 1944年 9月分は不許可となっていた(「仏印に於ける黄麻と麻袋生産の現状」『台湾委員会パンフレット共栄圏彙報(5)』財団法人東亜経済懇談会台湾委員会,1944年 7月)。

21 中村孝志『日本の南方関与と台湾』天理教道友会,1988年。後藤乾一『原口竹次郎の生涯―南方調査の先駆』早稲田大学出版部,1987年。横井香織「日本植民地期台湾における『南洋』調査活動の展開」『現代台湾研究』第 17号(1999年 3月)。

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台湾の「南方協力」と仏領インドシナ

関する研究によって各研究機関の役割が明らかになってきた 22。しかし,いずれの研究も仏領インド

シナ調査の特徴までは言及しておらず,東南アジア各地域別の検討が必要であろう。筆者は,台湾に

おける仏印調査および進出の初期段階を検討し,台湾が 1900年代はじめから 1920年代にかけて継

続的に仏印調査を担っていたことを明らかにした 23。それが,どう変化したのかは課題として残って

おり,1930年代になると台湾の東南アジア調査がどのように進められていったのか,ここでは仏印

の黄麻調査から検討を加えたい。

1930年代後半以降になると,台湾では台湾山林会大会と熱帯林業大会・協議会(全国大会:1938

年 5月)が開催されるなど,台湾農林界の動きが活発化する 24。では,台湾がどこで存在感を示そう

としていたのだろうか。それは,1935年に台湾で開催された熱帯産業調査会に遡る。先行研究で繰

り返し強調されてきたように,1935年に熱帯産業調査会が開催された。これを契機に台湾拓殖が創

設され,その事業が東南アジアの諸地域に拡大していくことになる。

この熱帯産業調査会は,台湾島内の工業化を主目的にしていたことが先行研究で指摘されてい

る 25。繊維工業部門である黄麻については,第一特別委員会の答申案に含まれており,委員会で決議

された。次のような内容であった。

本島に於いては草棉,黄麻,苧麻,サイザル,萱等の各種繊維植物の生育良好なるのみならず

バガスの生産亦豊富なるを以て将来之が増産を奨励すると共に之等を原料とする各種工業を一層

盛ならしめ以て島内の需要を充足し更に南支南洋への輸出を図るを要す 26。

この段階においては,島内増産を進め工業化を図り,輸出を目指していたことになる。しかし,次

第に原料の黄麻が不足するようになる 27。そして,この熱帯産業調査会開催の直後に,台湾総督府は

黄麻調査をハノイ領事館宛てに依頼した。これが,台湾からの仏印黄麻調査の初動となる 28。

表 1の 1を見てみよう。仏印資源調査団(1941年 10月~1942年 6月)の派遣前から,台湾総督

府外事部では民間企業の技師を仏印に派遣し,調査結果を第一報(1941年 6月)として発表した。

続いて,1942年 2月と 5月に第二報と第三報が出されている。この第一報は,仏印資源調査団派遣

の前に実施され,一連の調査の基本となっていた。まさに,調査そのものは 1941年 6月 24日の閣

議決定前のことであり,中央政府主導というよりも台湾独自に実施した調査と推測できる。調査結果

は,北部が栽培に適した土地であること,3月~4月が播種時期であること,黄麻の土壌としてはト

ウモロコシに対しても適地であること,黄麻工業は未熟であり製品は輸入に依存しており,栽培して

22 末廣昭編著『「帝国」日本の学知―地域研究としてのアジア(第 6巻)』岩波書店,2006年。田中耕司編著『「帝国」日本の学知―実学としての科学技術(第 7巻)』岩波書店,2006年。

23 湯山英子「台湾の仏領インドシナ調査と事業経営―南亜公司と日仏製糖会社を中心に」『臺灣學研究』(國立臺灣圖書館)第20期(2016年 12月)。

24 「熱帯林業大会協議会々議録」『台湾の山林』第 148号(1938年 8月),129頁。25 久保文克『植民地企業経営史論―「準国策会社」の実証的研究』日本経済評論社,1997年,215頁。26 台湾総督府『熱帯産業調査会会議録(昭和十年十月)』,1935年,145‒150頁。27 台湾における黄麻の耕作面積と収量は,1941年になると極端に減少する(洪,前掲論文,15頁)。28 1936年 1月台湾総督府依頼黄麻調査(ハノイ総領事),JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B09041172100,各国ニ於ケル農産物関係雑件/麻ノ部 第三巻(E-4-3-1-5-9_003)(外務省外交史料館)。

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も販路がないことが指摘されていた。いわゆる黄麻市場が育成されておらず,この時点では,工場建

設に関しては専門家による追加調査が必要であると報告している 29。

第二報は,台南製麻の大島二郎が派遣され,栽培地と工場設置はベトナム北部のナムディンが適地

であると報告している。ナムディンの理由としては,紅河の支流に運河岸があること,米の大市場で

あり商業の中心地であること,さらに河川,国道,鉄道が敷設されており,ハイフォン港への連絡が

良好であることを挙げている。農民の取引については,黄麻を直接消費者に売る場合もあるが,大部

分は「生産者→集荷人→商人→貯蔵者→仲買人→行商人→加工者→消費者」の順になっており,他の

商品作物のように先物契約や前払いなどはなく現物売りを行っている。その理由として,黄麻の栽培

そのものが不安定で,貧農が多いこの地域では貯蔵倉庫の設備がないためと指摘している。提案とし

ては,指導機関,および民間による買収機関を設置し,前貸制度を利用し生産物を確保する必要性を

訴えていた。さらに現況のトウモロコシ栽培面積 9万 haのうち,2~3万 haを黄麻栽培に転換する

ことは,仏印当局の協力如何で難しいことではないと主張している。第三報になると,仏印の各栽培

地域を回り,北部では又一株式会社,南部では大南公司の試作状況が報告されている 30。

29 『(外事部調査第十三)仏領印度支那に於ける黄麻栽培に関する報告書(第一報)』台湾総督府,1941年 6月,29‒30頁。30 『仏領印度支那に於ける黄麻の生育状況視察報告書(仏印黄麻調査第三報)』台湾総督府外事部,1942年 5月,6, 15頁。

表 1. 仏印黄麻調査一覧(1941年~1944年)

発表・提出時期 現地調査 調査・発行主体 タイトル

1 1941年 6月 塩水港製糖(株)の福田辰治・平野彰を派遣,調査(依嘱)。1941年 4月 7日~40日間トンキン,コーチシナ,カンボジア

台湾総督府外事部 『(外事部調査第十三)仏領印度支那に於ける黄麻栽培に関する報告書(第一報)』

2 1941年 10月 上記 1とほぼ同内容 台湾総督府外事部 「仏領印度支那に於ける黄麻の栽培調査」『台湾農会報』第 3巻 10月号

3 1941年 12月(提出)

仏印資源調査団黄麻班,名前記載なし。調査時期:1941年 11月 23日~12月 5日

仏印資源調査団 「仏印黄麻調査概報」(極秘)(1941年 12月 9日)

4 1942年 2月 台南製麻株式会社の大島二郎を仏印に派遣,調査

台湾総督府外事部 『(外事部調査第二十九)仏領印度支那に於ける黄麻栽培並に黄麻製品工場設置に関する調査報告書(仏印黄麻調査第二報)』

5 1942年 5月 台湾総督府農業試験所嘱託鈴田巌を仏印に派遣

台湾総督府外事部 『仏領印度支那に於ける黄麻の生育状況視察報告書(仏印黄麻調査第三報)』

6 1942年 5月 市原豊吉(嘱託) 外務省南洋局 市原豊吉(嘱託)『黄麻対策ニ関スル研究』

7 1942年 9月 1941年,既に現地調査済み 台南製麻株式会社 『南方共栄圏に於ける黄麻栽培並に当社計画』

8 1943年 3月 仏印資源調査団農林四班(黄麻)岸武八,犬飼圓碩,岡本勇,阿度曉明,瀧山源三郎(通訳)調査時期:1942年 2月

仏印資源調査団(黄麻班)大東亜省南方事務局

『仏印資源調査団報告第二号(其一)農産資源』(1943年 3月発行)* 『仏印資源調査総括報告書』(1942年 7月)があるが,同内容かは未確認。

9 1944年 7月 「仏印河内よりの通信」とあり,現地からの報告と思われる

財団法人東亜経済懇談会台湾委員会

「仏印に於ける黄麻と麻袋生産の現状」『台湾委員会パンフレット共栄圏彙報(5)』

出所: 各報告書を元に筆者作成。3は,JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B09040768400,仏領印度支那資源調査団派遣関係一件/資源調査書 第二巻(E-4-0-0-13-1_002)(外務省外交史料館)。

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台湾の「南方協力」と仏領インドシナ

続いて,1942年 9月の台南製麻の報告書によると,具体的な工場建設の計画が示され,「製麻会社

は原料を買い入れて製品製造を行うだけでなく,種子の斡旋,栽培技術指導,前貸制のための金融,

自社直営農場で試験研究をする」ことが盛り込まれていた。仏印は,台南製麻の経営ノウハウを実践

できる場でもあったと言える。また,農民の不安の要因として収穫と納税時期の問題があった。毎年

6月が納税時期であり,通常であればトウモロコシの収穫後に換金し税に充当するが,黄麻の収穫時

期が 7, 8月であるため納税に間に合わなくなることが不安材料となる。しかし,これは前貸し制度で

解決可能であると述べている。栽培は,大規模プランテーションよりも農家の自家労力が適当であ

り,この時点では,現地農民に考慮した計画だった 31。

調査主体別にみてみると,官では台湾総督府,民では台南製麻が積極的に調査を行ったことが確認

できる。台湾総督府が台南製麻の専門家を仏印に派遣して調査を行うこともあり,官民両者が協力関

係にあったと言えるだろう。台南製麻にとっても,工場進出の商機と成り得た。

一方で台南製麻は,仏印だけではなくインドネシア,フィリピンの調査を実施したものの,実際の

進出は仏印だけである。仏印の工場設立計画書には,1万 ha程度の黄麻栽培を行い,年産能力 600

万枚程度の工場を設置し,漸次栽培面積の拡大,工場設備の拡張を意図し,資金は 500万円見当とし

ていた。この時点では,名義だけでもフランス側資本を入れた合弁事業とし,直営農場と工場を稼働

させたいと計画していた。会社側は農家に対して種子の補給と前貸金の運用などの助成手段を講じた

いと考えていた 32。こうした進出計画の背景には,1941年 11月 23日~12月 5日にかけて仏印資源調

査団が黄麻調査を開始した直後に「仏印黄麻調査概報」(1941年 12月 9日)として仏印黄麻会社設

立計画が提出されており 33,何としても台南製麻が食い込んでいきたかったと推測できる。そして,

台南製麻は 1942年には試験栽培を始め,1943年 1月には出張所をハノイに開設した。

仏印資源調査団報告には,長期的目標として日仏合弁の工場設立までが提案されているものの,差

し当たりの課題としては栽培と指導者派遣に関心が注がれた。最大の問題は,技術者と栽培指導者の

確保にあった。

また,仏印資源調査団のトウモロコシ班から,「黄麻生産増加には限度があり,政府の奨励があっ

たとしても,ある程度のトウモロコシ減産も止む得ない」といった意見もあった 34。もう一つ,仏印

資源調査団が入手していた事前調査資料のなかに,西口逸馬技師の現地調査報告書を元にした「仏印

ノ農作物ト其ノ改良」(1941年 9月)が含まれており,その記述には人的機構として日本人技手のほ

かに「傭」として「台湾人と安南人」を配置し,事業を遂行することが成否に関わると述べてい

る 35。これが,吉沢南の指摘する「日本人→台湾人→農民」36の構造に繋がるのであろうが,仏印資源

調査団の報告書には,この点は反映されていなかった。

31 『南方共栄圏に於ける黄麻栽培並に当社計画』台南製麻株式会社,1942年 9月。32 台南製麻株式会社,前掲書,26‒27頁。33 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B09040768400,仏領印度支那資源調査団派遣関係一件/資源調査書 第二巻(E-4-

0-0-13-1_002)(外務省外交史料館)。34 「仏印ニ於ケル玉蜀黍ニ関スル調査」,台湾大学所蔵,磯永吉文庫 5:2350109。35 「仏印ノ農作物ト其ノ改良」,台湾大学所蔵,磯永吉文庫 5:2350110。西口逸馬技師による実際の調査期間は,1941年 3月

28日~6月 3日までとなっていた。36 吉沢,前掲書,68頁。

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3. 仏印資源調査団の農林調査仏印資源調査団による農林調査は,1941年 10月から 1942年 6月まで「農林第一班(米,トウモ

ロコシ)」「農林第二班(ゴム)」「農林第三班(棉花)」「農林第四班(黄麻)」「農林第五班(林業)」「農

林第六班(皮革畜産)」の 6班に分かれて実施された。調査団全体では,総勢 150人を超える大がか

りのものとなった 37。

仏印資源調査団に関する先行研究には,田渕幸親,白石昌也,立川京一,安達宏昭などがあり,こ

れらの分析対象は,①調査団結成までのフランス側との政治的な交渉過程,②調査内容の評価,③調

査資源と実際の進出内容,この 3つに分けられる 38。その結果,鉱物資源については仏印側の資料に

依拠していたこと,鉱山資源供給地(および新規の大規模鉱山開発)として仏印は価値が低いことが

指摘されている 39。先行研究での共通した認識は「フランス側資料に依拠した調査だった」ことであ

るが,農業分野においては異なっており,独自の調査が盛り込まれていた。立川京一は,調査後の投

資について「鉱物とは対照的に農林資源はいづれも有望との結論が下されていた」ことを指摘してい

る 40。前述した黄麻調査の内容から見ても,台湾独自の調査が実施され,それが意見書にも反映され

ていた。そして,結果的に日本関連の仏印農林分野への投資が仏印投資額全体の 30%近くを占める

に至った 41。

それでは,この農林分野における仏印資源調査と実際の進出および「協力」はどういったものだっ

たのだろうか。ここでは,調査員数とメンバーから検討を加えたい。表 2は,農林分野における農林

調査員の所属を示したものである。これを見ると,台湾総督府の農業技師・技手,会社所属の専門家

などの台湾関係者が農林分野においては約 35%を占めていたことが確認できる。また,仏印資源調

査団結成以前に,台湾では領有した海南島の調査を段階的に実施した。そのメンバーである農林第 1

班の磯永吉,鈴木進一郎,農林 3班の三浦博亮,農林 6班の山根甚信らが両方の調査を担ったことに

なる 42。

また,もう一つの特徴として台湾からのメンバーのうち,北海道帝国大学卒業生(在台湾)が 1/3

を占めていた。名前を挙げると,農林第 1班(農業一般・米・トウモロコシ)の磯永吉(農業試験所

技師・所長,台北帝大教授/農学科 1911年卒),鈴木進一郎(台湾総督府技師/農学科第二部 1920

年卒),農林第 4班(黄麻)の犬飼圓碩(台湾総督府技師/農業経済学科 1927年卒),農林第 6班(皮

革畜産)の山根甚信(農業試験所技師/畜産科 1913年卒),荘保忠三郎(農業試験所技師/畜産科

第二部 1940年卒)らであり,植民地台湾と北海道帝国大学が人材面において強固に結びついている

37 「佛印資源調査団名簿(昭和十六年九月)」によると,団員数は 151人(九州大学附属図書館付設記録史料館産業経済資料部門所蔵『戦時資源資料』請求番号・232)。

38 田渕幸親「日本の対インドシナ「植民地」化プランとその実態」『東南アジア―歴史と文化』第 9号(1980年 2月)。白石昌也「第二次大戦期の日本の対インドシナ経済政策」『東南アジア―歴史と文化』第 15号(1986年 5月)。安達宏昭『戦前期日本と東南アジア』吉川弘文館,2002年。立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ―「日仏協力」の研究』彩流社,2000年。

39 立川,前掲書,197‒201頁。40 立川,前掲書,197頁。41 立川,前掲書,199頁。疋田『「南方共栄圏」』,792頁。42 葉碧苓『学術先鋒―台北帝国大学興日本南進政策の研究』2010年,217‒218頁。

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台湾の「南方協力」と仏領インドシナ

ことは繰り返し指摘されてきた通りで 43,仏印資源調査団の農林班メンバーにもそれが色濃く反映さ

れていた。

団員全体において,どういった基準で人選がなされたのかは,現資料では解明できていない。しか

し,台湾から多くの専門家や技術者が仏印資源調査団に参加し,その調査力で台湾のこれまでの農林

研究・技術の蓄積が発揮できたものと推察される。黄麻調査に関しては,台湾総督府と民間企業が協

力して事前調査を行っていたことがその後の調査の前提としてある。

4. 仏印への「南方協力」前述したように,1941年 6月 24日の閣議決定「南方政策に於ける台湾の地位に関する件」以降,

台湾においては中央政府が関与した「南方協力」が実施されていった。表 3の要員派遣実績仏印関係

分を見ていくと,①蔬菜栽培指導員の派遣,②黄麻関係技術員の派遣並びに種子の送付,③米穀検査

指導員の派遣,④安南語通訳・英語通訳の派遣,⑤労働者の供出,⑥運輸関係要員の派遣,⑦糖業関

係要員の派遣,⑧共栄会仏印支部設置,⑨博愛会診療班の派遣,⑩映画事業調査員の派遣,⑪米・

ジュート増産指導員の派遣,以上の実績が確認できる。農業技術者,運輸会社社員,労働者など多く

の人員が供出されたことは表 3の人員数からも明らかである。

また,仏印資源調査団の意見書には,1942年度にすでに実施した応急施策が記載され,(1)黄麻

種子 200石提出,(2)内地 4人,台湾人 50人の技術指導員の派遣,(3)バクニン省 800ヘクタール

に指導員を派遣し台湾産種子約 80石を播種栽培し,同種子約 120石を仏印側に分与した(仏印側は,

仏印種子を 1200ヘクタールの土地に栽培),(4)「日本種子」に依り生産した黄麻は精洗麻として日

43 岡部桂史「農業技術の移植と人的資源」須永徳武編著『植民地台湾の経済基盤と産業』日本経済評論社,2015年。山本美穂子「台湾に渡った北大農学部卒業生たち」『北海道大学文書館年報』第 6号(2011年 3月)。呉文星「札幌農学校と台湾近代農学の展開―台湾総督府農事試験場を中心として」中京大学社会科学研究所編『日本統治下台湾の支配と展開』社研叢書15, 2004年,479‒522頁。),呉文星「札幌農学校卒業生と台湾近代糖業研究の展開―台湾総督府糖業試験場を中心として(1903~1921)」松田利彦編『日本の朝鮮・台湾支配と植民地官僚』国際日本文化研究センター,2008年,89‒105頁。

表 2. 仏印資源調査団団員(農林 1~6班)

班 人員 内台湾関係者 台湾関係者(所属)

農林一班(米,トウモロコシ) 12 5 磯永吉(台府技師),鈴木進一郎(台府技師),衣斐三郎(大日本製糖),前田長太郎(台府技手),関牟田勇(台府雇)

農林二班(ゴム) 7 0  

農林三班(棉花) 7 3 三浦博亮(台府技師),青砥正次(台南州立農事試験所技手),松延繁(台府雇)

農林四班(黄麻) 6 2 犬飼圓碩(台湾総督府技師),岡本勇(塩水港製糖株式会社技師)

農林五班(林業) 8 3 関文彦(台府農業試験所技師),永山規矩雄(台府農林試験所嘱託),黄紹栗(台府雇)

農林六班(皮革畜産) 5 3 山根甚信(台府農業試験所技師),矢口斉(台湾南方協会技手),荘保忠三郎(台府農業試験所技師)

合計 45 16

出所: JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B09040772900,仏領印度支那資源調査団派遣関係一件/調査団報告 第二巻 (E-4-0-0-13-2_002)(外務省外交史料館)から作成。

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本に輸出し,仏印産穀類輸送の麻袋として利用すること,が記されていた 44。前述したように,人員

に関しては再三の派遣要求が出ており,それに対して台湾側は応えていたことが理解できよう。

前記① , ② , ⑪の農業関連技術者派遣については,台湾島内で盛んに農業実務などの教育が実施さ

れていた。表 4は,農業技術員の養成機関を整理したものである。これによると,台湾総督府拓士道

場,台湾総督熱地農業技術練成所,南方棉作技術員養成事業,拓南農業戦士訓練所の 4つの養成機関

の存在が確認できる。台湾総督府拓士道場については,「内地人」を対象にしており,1940年 1月に

開始していたことから,1942年 6月 24日の閣議決定前には機能していたことになる。しかし,蓋を

開けてみると当初予定の「内地」からの台湾農業移民養成というよりも,南方諸地域への希望者が多

かった(表 4参照)。

現資料では各機関がどうすみ分け,どう連携していたかはわからないが,台湾総督府拓士道場以外

は 1942年から順次,農業技術者養成に取り組んでいたことになる。次に実際に仏印に派遣された黄

麻(ジュート)栽培指導員について,どういった送り出し方法が採用されたのかをみていこう。

5. 黄麻指導員の派遣前掲表 3の派遣実績にあるように,1943年までに「技手・属 4人,技術者 50人の派遣済」となっ

ており,第一陣として 1942年 3月に日本人技術者の江副辰次(台南州技手),友寄栄次郎(台南州

物産検査員),有村増蔵(台南州郡技手),松本寿一郎(台南州雇)の 4人と台湾人指導員 50人(う

ち 2人が日本名)が仏印に送られた 45。派遣まで急を要していたようで,1942年 2月時点で台湾軍か

44 大東亜省仏印資源調査団『仏印資源調査団各班報告に対する意見書集』外務省,1942年 11月,56頁。45 外交史料館「外国旅券下付表一件」J-2-2-0, J13-7。

表 3. 「南方協力」要員派遣実績・仏領印度支那(1943年 8月まで)

協力項目 要請 実施実績(人員)

蔬菜指導員派遣 台湾軍経理部 農業技術員 5人 推薦・派遣した

黄麻関係技術員派遣・種子送付 仏印大使府 技手・属 4人,技術者 50人の派遣済紅皮種 50石,青皮種 200石送付済

米穀検査指導員の派遣 台湾軍経理部 技術員 3人派遣中

安南語通訳派遣 台湾軍司令部 本府関係職員 11人,民間銀行職員 7人派遣した(用務完了帰還)

英語通訳の派遣 台湾軍参謀長 島内学校職員 22人出発済み

労働者の供出 仏印派遣軍目的:軍施設設営

台湾労務奉公団組織(府嘱 1人,労働者 1000人供出した)

運輸関係要員の派遣 台湾派遣軍 台湾運輸会社社員 58人逐次派遣した

糖業関係要員の派遣 仏印派遣軍 塩水港製糖会社社員 3人派遣した

共栄会仏印支部設置 軍  チョロンに支部設置。啓発宣伝工作:巡回映写,印刷物頒布,日語普及

博愛会診療班の派遣 在仏印特派大使府(外務省を通じて)

診療班派遣(2人),医院開設(ハノイ,サイゴン:医師 2人)

映画事業調査員の派遣 満鉄映画株式会社神戸支社長・森久を本府嘱託として派遣。調査先を折衝中

米,ジュート増産指導員の派遣 台拓:ハノイ近傍に米,ジュート試作場を開設するための調査,本府技師 1人派遣した

出所:『南方協力要員提要』台湾総督府外事部,1943年 8月,111‒114頁から作成。

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台湾の「南方協力」と仏領インドシナ

ら増員要請が出ており,その内容は,「現地自活に必要なる本島人 64名(叺縄製作者)及黄麻増産の

爲技術者内地人 4名,本島人 50名(約 6ヶ月間)差出しを再三要求」「3月 22日高雄港から増産要

員が出発予定」46となっていたことから,現地では技術者不足が顕著であったことが理解できる。前

述した再三の派遣要請から,実際に旅券が発行されたのは同年の 3月に入ってからになる 47。

第二陣は 1942年 9月~10月の仏印資源調査団(仏印資源調査団附雇)としての継続派遣である。

第一陣としてすでに仏印に派遣されたメンバーのうち,江副辰次と有村増蔵の両技手,江本義雄と芳

田上池の指導員,台湾指導員の黄燦銖,郭龍都,黄全甲,陳王輝,豊田慶隆,張錦燦,廖遠足,黄炳

垣,陳昆崙,張藤旺,黄錦川の合計 11人が第二陣として「仏印資源調査団附雇」という形での継続

派遣となった。そのほかにも第一陣の郭開,甘祺珍,李逢源,曽海波,蘇阿環,楊金獅,王徳成らの

46 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01000146300,昭和 17年「陸亜密大日記」第 10号 1/3(防衛省防衛研究所)。47 外交史料館,前掲,「外国旅券下付表一件」。

表 4. 農業技術員の養成機関一覧名称 開始年 対象 訓練地(機関)

【台湾総督府拓士道場】*日本青年協会

1940年~ 1年間

内地人:100定員甲 種:満 21~35歳未満。台湾の官営農業移民として採用。乙 種:満 15~30歳未満。南支南洋進出⇒ 実際は(1942年 7月現在)内地 68,島内 19。大部分が南方諸地域を希望。

台中州北斗郡北斗街東北斗応募先: 内地,日本青年協会。 台湾,台湾総督府殖産局野農務課。経 費:全員寄宿舎。授業料,食費,その他経費は官給。

【台湾総督府熱地農業技術練成所】南方送出本島人農業技術員練成事業主管:総督府委託:各試験所場長

1942年~ 1年間

* 第 2予備金42万円。

南方農業に従事する原住民を直接指導すべき適切なる下級農業技術員(本島人農業者中南方進出適格者,南方送出)18~35歳未満。農業経験者。

【計画】9ヵ所府農業試験所 70(一般 50,畜産皮革 20)府嘉義農業試験所 40(一般 20,棉作 20)府鳳山熱帯園芸試験支所 50(果樹及蔬菜園芸 40,農産加工 10),台北州立農事試験場 40(一般 25,蔬菜 15),新竹州立農事試験場 40(一般),台中州立農事試験場 55(一般 40,棉作 15),台南州立農事試験場 40(一般,主に黄麻作),高雄州立農事試験場 40(一般,主に苧麻作),府棉作指導所 120(棉作),合計 495。

南方棉作技術員養成事業の受託(日本棉花協会)

1942年 6月~ 6ヵ月間80定員

南方送出棉作技術者養成。 6月 27日入所式(合宿所建設中,7月 20竣工),研修期間 105日。83人(鐘ヶ淵紡績会社外 40,台湾拓殖会社外 39, 14会社及日本綿花栽培協会 3,拓士道場 1)18~45歳。

【拓南農業戦士訓練所】拓務省南方農林技術員練成事業の一部練成受託

1942年 8月~ 第一:高雄州潮州郡潮街様子脚,第二:台中州立実践農業学校,第三:員林実践農業学校,第四:新榮愛国青年研修所,第五:虎尾農業専修学校,第六:北門専修農業学校,第七:東石専修農業学校。

出所: 「南方農業開発に対する台湾総督府の協力施設概要」『台湾農會報』第 4巻 11月号,1942年 11月,2‒8頁。「南方送出本島人農業技術員の鍛錬計画」『台湾農會報』第 4巻 8月号,1942年 8月,98, 99頁。「南方棉作技術員養成講習会経過」『台湾農會報』第 4巻 10月号,1942年 10月,95‒100頁。加藤邦彦『一祖同仁の果て』勁草書房,1979年,251頁。これらを参考に筆者作成。

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7人もまた継続して農業指導員となった 48。

前者 11人がなぜ「仏印資源調査団附雇」とされたかは,不明であるが,あえて推測するならば,

現地では黄麻をはじめとする農業技術者が継続して必要であり,旅券発行を迅速に行いたかったもの

と考えられる。また,中央政府から台湾総督府に課せられた仏印資源調査団費用の問題があり,第二

陣の継続技術者および指導員を仏印資源調査団の台湾総督府経費で賄いたかったとも推測できるが,

現資料では経費の分担まではわからない 49。

次に,どういった派遣ルートを使って現地で農業指導にあたったのか,実際に派遣された人員から

検討を加えてみたい。

【事例 1】:廖遠足(1922年生)第一陣・第二陣

陳文添が実施した聞き取り調査によると,廖遠足は「拓南塾(台南)」50で技術研修を受けたことに

なっており,その後台南州農業指導員試験に合格(1941年 11月)した。1942年 1月,江副技師(台

南州農会)と共に仏印で黄麻栽培(6カ月間)に従事した。廖遠足の口述によると,1942年 1月か

ら 6ヵ月間の派遣は,台湾から 50名の指導員が 4班に分かれて仏印で黄麻栽培の指導を行い,同年

8月に契約が切れた 24人が帰台し,26人が残留したとある。これは,第一陣派遣と仏印資源調査団

に組み込まれた第二陣残留組みと符合する 51。渡航時期が記憶と若干異なっているものの,廖遠足は

残留組みとなり,台湾拓殖の子会社である印度支那産業に現地採用となった。現地での黄麻栽培にあ

たっては,台湾種,マドラス種を使用した 52。

【事例 2】:莊百泮/林文荘(1924年生)

吉沢南によると林文荘(本名:莊百泮)は,台湾総督府熱地農業技術錬成所を 1943年 3月に修了

し,1943年 5月 28日サイゴンに向かった(農業指導員 40人ほどが高雄から乗船と記憶)。6月 5日

ハノイ大使館に集合し,現地企業の大南公司に割当られた。そして,バクニン省イエンフォン県イエ

ンラン村で黄麻栽培指導に従事した。終戦でベトミンに逮捕され(1948年釈放),その後ベトナム人

女性と結婚した。日本には 1980年にインドシナ難民として家族とともに上陸し,定住した。バクニ

ン省では,大南公司(1942年バクニン事務所開設),台南製麻ほか 2社が省内を地域割していたと記

憶していた 53。

48 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B09040766500,仏領印度支那資源調査団派遣関係一件 第二巻(E-4-0-0-13_002)(外務省外交史料館)。芳田上池指導員については,1942年 3月の旅券下付では確認できていないが,1942年 9月~10月の任命では継続として扱っている。また,台湾指導員の何人かは派遣を取り消されたりしているものの,最終的には 11人プラス 7人が 1942年 9月以降も継続して仏印派遣となる。

49 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023597100,「仏印ニ於ケル現地機関ノ整備ニ関スル件」(1941年 7月 21日),公文別録内閣(企画院上申書類)昭和十五年~昭和十八年,第二巻,昭和十六年(国立公文書館)。

50 拓南農業戦士訓練所と思われる。51 外交史料館,前掲,「仏領印度支那資源調査団派遣関係一件 第二巻」。52 陳文添「ある台湾拓殖海外支店経験者の証言」台湾オーラルヒストリー研究会編『台湾口述歴史研究』第 4集,2011年 3月。53 吉沢,前掲書,122‒125頁(文中,林文荘)。そのほかに北野典夫『南船北馬―天草海外発展史(後編)』みくに社,1982年,

174頁にも記述がある。

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台湾の「南方協力」と仏領インドシナ

【事例 3】:嘉義農林学校卒業生 6人(南部仏印)54*括弧は嘉義農林学校での回生

① 謝添印(2回生)江商株式会社:ミモット(サイゴンの近く)に勤務。台湾で採用(大阪の江商勤

務経験有り)

②陳斗桂(15回生)台湾拓殖:クラチェ(カンボジア)に勤務

③ 張岳揚(17回生)江商株式会社:チャムカアンドン(カンボジア・コンポンチャム)に勤務。台

湾で採用

④郭孟協(19回生)江商株式会社

⑤沈天賜(20回生)三井物産

⑥官來平(20回生)三井物産

【事例 3-1】③張岳揚(1923年生)

嘉義農林学校(1940年卒:17回生)卒業後に台湾総督府米穀局に勤務した。その後,総督府を退

職し,江商株式会社(台湾)で南方行き要員として採用された。採用されたものの,乗船待機(約 1

年間)があり,実際に出発したのは 1945年 1月の船であり,サイゴンに到着してからコンポンチャ

ム近く(カンボジア)のフランス人経営のゴム園・チャムカアンドン(契約)にて綿花栽培を開始し

た。終戦を迎え,サイゴン市内の江商事務所で待機し,チョロンにあった台湾同郷会の支援を受けて

台湾に戻った 55。

【事例 4】:呉連義(1923年生)日本名「新井良雄」

嘉義農林学校(1943年卒:20回生)。1944年 5月に台湾拓殖の社員として仏印に赴任した。北部

タインホア省農業試験場で地元農民に綿花,黄麻の栽培を指導した。戦後,ベトナムに残留(日本の

引揚者対象とならない)56。呉連義の手記によると,1943年 1月に台湾拓殖に入社し,子会社の台湾綿

花株式会社の嘉義練綿工場農業系勤務となり,綿花作の研修を行ったとある。1944年 5月にハノイ

に到着し,台湾拓殖ハノイ支店タインホア農業試験場(所)の勤務となった 57。

これらの事例から,嘉義農林学校の卒業生が主要な役割を担っていたことが確認できる。そして,

謝添印と張岳揚は(上記【事例 3】①と③),台湾で採用されてから仏印に赴いた。仏印の農業分野は,

嘉義農林学校卒業生の吸収先でもあった。張岳揚の口述によると「兵隊で南方諸地域に行くよりも,

専門の農業指導で赴きたかった」という。限られた条件下での職業選択であったと言えよう。謝添印

もまた江商への就職は,南方派遣要員という条件付きだった。また,嘉義農林学校で学んだ農業技術

者の場合,黄麻栽培だけでなくカンボジアの綿花栽培にも携わっていた。張岳揚によると,「基本と

なる栽培方法は学校で習得していたため,両方の栽培が可能だった」と口述している 58。

54 筆者聞取り(2014年 10月 6日張岳揚氏),嘉義大学校史室黄氏・卒業年確認(2014年 10月 13日)。55 筆者聞取り(2014年 9月 23日,10月 6日の 2回,張岳揚氏)。56 新聞記事,水野孝昭(戦後 50年特集)「狭間の群像―ふたりの日本人」(朝日新聞 1994年 11月:全 6回)。57 呉連義『日本が私を捨てた-越南残留台湾人元日本軍属の望郷』私家版,2001年 10月。蔣為文「滞越台籍日本兵呉連義之案例研究」『台湾風物』(2010年)。

58 筆者聞取り(2014年 9月 23日,10月 6日の 2回,張岳揚氏)。

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しかし,一方では,莊百泮らの農業指導員は,現地で各社に割当られた。廖遠足のように第一陣の

期間満了後に継続し現地採用になったケースもある。人員配置には,台湾での採用組と現地割当組の

2通りがあった。次に,彼らが黄麻栽培指導に関わったそれぞれの企業から見てみよう。

6. 黄麻増産計画と企業仏印における黄麻増産計画は,大東亜省連絡委員会第一部会によって 1942年 11月 31日に決定し

た。甲乙地域の黄麻増産計画の割り当ては,甲地域がフィリピン 2社(三井農林株式会社,三菱商事

株式会社),北ボルネオ 4社(ボルネオ殖産株式会社,タワオ産業株式会社,日産農林株式会社,三

井農林株式会社),ビルマ 4社(株式会社千田商会,日綿実業株式会社,江商株式会社,小泉製麻株

式会社),スマトラ 2社(野村東印度殖産株式会社,東山農事株式会社),ジャワ 2社(南洋興発株式

会社,大阪製麻株式会社),ハルマヘラ 1社(江川農園),ニューギニア 1社(南洋興発株式会社)と

なっており,乙地域は仏印 12社である 59。台湾関連企業は仏印のみであり,日仏共同支配時期におい

ては甲地域のような接収企業があったわけでなく,従来の支配国による会社経営および諸技術を引き

継ぐ形ではなかった。ここが,甲地域と仏印が大きく異なっているところであろう。それゆえ,仏印

では台湾からの栽培技術力が必要だったと言える。

仏印では,担当企業者と特定蒐貨業者の 2つに分けられ,担当企業者は,栽培,収穫,製品化,輸

出までを指導・監督し,特定蒐貨業者は収集と出荷までを担った。担当企業者は,印度支那産業株式

会社,台南製麻株式会社,又一株式会社,大同貿易株式会社,三興株式会社,江商株式会社,大南公

司の 7社,特定蒐貨業者は,三井物産株式会社,三菱商事株式会社,東洋棉花株式会社,日綿実業株

式会社の 4社,この合計 11社の代表が統制機関として黄麻栽培協会を結成し,本部をハノイに設置

した 60。

この黄麻栽培協会は,種子の配給,契約栽培農家での収穫・買集を行い,日本へ黄麻を輸出する一

連の統制・管理を行うことになる。協会員の資格取得方法は,まず在仏印日本大使府の認定を得,仏

印政庁の了解後に大東亜省の認定と許可が下りて会員となるため,新規参入は厳しかったものの大丸

興業(のちに株式会社大丸に統合)が参入し 12社になっていた 61。吉沢南によると,担当企業者がよ

り農民に近い立場で指導・買集を行っていた,いわば実働隊であり,日本人と現地農民との間に入っ

て指導・買集するのが台湾人農業指導者だったと指摘している。

担当企業者と特定蒐貨業者の区別が厳密に行われていたかは,次の各企業の活動内容からみていこう。

(1)フランス側企業これまでの調査では,仏印ではもともと僅かに黄麻栽培が行われていた程度で,黄麻栽培および黄

麻製品製造が未熟であり,技術者が育っていたわけではなかったことが報告されている。現地で生産

59 『南方経済対策』大東亜省連絡委員会第一部会,1943年,63‒66, 307‒309頁。60 農村経済調査局の森徳久が「仏印に於ける黄麻協同組合建設問題」調査局資料第 12号(1942年 12月 5日)の誌面で組合結成を主張しているが,これが「仏印黄麻栽培協会」の設立にどう影響したのかは分からない。

61 大丸社史によると,後に「大東亜省仏印黄麻協会(本部は三井)」の一員に加えられたとある(大丸二百五十年史編集委員会編『大丸二百五拾年史』大丸株式会社,1967年,465頁)。当事者証言によると大丸も栽培会社の一つだった(吉沢,前掲書,65頁)。

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台湾の「南方協力」と仏領インドシナ

された黄麻は,大部分が粗麻及幼麻であり,ほとんどが地方消費に充当され,その主要なものは単糸

又は撚糸にしてシーグラスマット(敷物)やココ繊維絨毯經糸に使用される程度だった 62。東亜研究

所の報告では,「トンキンでは約 150ヘクタールを栽培,安南は北部の沖積土地域で,大部分が分益

小作形態の仏人経営から成り,面積は約 270ヘクタール。輸出はハイフォンから 100~200トン。

1920年は約 500トン,以後減退傾向」だったとある 63。仏印政庁の貿易統計によると,1935年の黄麻

輸出量は 247トンであり,製品の輸入量が 103トンで輸入元は中国と香港のみとなっていた 64。

日仏共同支配期に入ってからは,黄麻栽培の重要性と現地栽培が脚光を浴びてくることになるが,

一方で栽培技術と製造技術者の不足が顕在化することになる。森徳久によると,フランス植民地下で

は黄麻栽培には力を入れず,安価なインド産の輸入で賄っていたことから,技術者不足が指摘されて

いる 65。

それが,1940年代になると,黄麻輸出入業者や貿易商などが出資(資本金 10万ピアストル)して

Societe Indochinoise Du Juteを設立している 66。そして,1943年 7月 1日には仏印政庁が需給統制に

着手し,La Commereial Asiatique Namaisshが組織された 67。

(2)仏印黄麻栽培協会加盟企業黄麻栽培協会の 12社については,台湾拓殖の公文書からも確認できる 68。各社の動向を各企業の社

史,回想録などからみていこう。

東洋棉花は,1942年 11月 7日の大使館指令によって黄麻栽培に着手し,1944年 6月には軍用米

梱包用の麻袋製造工場をニンビンに設置して製造を開始している。規模は,手紡機 53台,手織機

150台を有していた 69。

三菱商事については,次のような回想録がある。

ハノイ北方フンエン省に約 700町歩の地を選び,日本から専門家として有賀諄幸氏を招き現地

人を使って,播種から収穫までを行った。有賀君を除いては農業には全く素人のわれわれが管理

するので支店の諸君も随分と骨が折れたと思うが,とに角第一回の収穫までこぎつけたことは運

がよかったと思う。当時収穫の手配が僅かでも遅れたら水害の為大被害を受けるところだった 70。

62 大東亜省南方事務局『仏印資源調査団報告第二号(其一)農産資源』1943年 3月,286‒287頁。63 「繊維類」『印度支那の農業経済(翻訳・下巻)』東亜研究所,1942年 7月,344頁。64 Gouvernement général de l’Indochine, Tableau du commerce extérieur de l’Indochine.Année 1935.(Impr. d‘Extrême-Orient,

Hanoi, 1936),pp. 41, 242. 1941年になると,トンキン地方の黄麻栽培面積が 2倍に増加する。1937年~1941年までのトンキン地方の黄麻生産については次の資料に詳しい。Gouvernement général de l’Indochine, Bulletin économique de l’Indo-chine 45e Année.(Direction des Services économiques, Indochina, Hanoi, 1942),pp. 183‒223.

65 森徳久「仏印に於ける黄麻協同組合建設問題」農村経済調査局(調査局資料第 12号)(1942年 12月 5日)。66 大東亜省南方事務局『仏印資源調査団報告第二号(其一)農産資源』1943年 3月,286‒287頁。のちに統制となり La

Commereial Asiatique Namaisshが組織されたが,それ以前は「フランス人が同社を経営し,300人の従業員,日産 1000枚となっていた」という報告もあり,それが仏印黄麻会社かは確認できていない(「仏印に於ける黄麻と麻袋生産の現状」『台湾委員会パンフレット共栄圏彙報(5)』財団法人東亜経済懇談会台湾委員会,1944年 7月)。

67 財団法人東亜経済懇談会台湾委員会,前掲書。68 「台湾拓殖株式会社文書昭和十一年至十八年」(台湾省文献委員会冊号:2564「雑書綴」)。69 東洋棉花株式会社東棉四十年史編纂委員会『東棉四十年史』東洋棉花,1960年,157頁。70 谷林正敏「ハノイ時代の想出」『ハノイ・ハイフォン回想』,110頁。

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有賀諄幸は,台北帝国大学で農学を専攻し,1942年 9月に卒業した。三菱商事ハノイ支店の黄麻

担当者には,有賀諄幸をはじめとして,陣瑤中,陳全海,邱阿三,粛清泉,呂登正の 6人がいた(1944

年 5月 1日現在)71。三菱商事は,仏印のほかにフィリピンでの黄麻栽培も手掛けており,仏印での割

当は,700町歩,収穫目標は 450トンだった。フンエン省にて播種を開始したのが,1943年 3月末

からだった 72。特定蒐荷業者として,収集と出荷までの役割だけでなく,技術者を採用して栽培も手

掛けたことになる。

三井物産は,南部と北部で黄麻栽培を受命しており,工場については 1944年 3月時点で麻袋工場

に 104,000円を投資していた 73。三井物産は,仏印における財閥系商社としては事業規模が最も大き

く,職員は南部と北部の両方で,日本人 321人,現地民 306人を有していた 74。ナムディン(南定)

駐在員にハイフォン事務所と兼務して小柳正男(1943年 4月)と栗林芳郎(1944年 4月)が配置さ

れていたことから,彼らが米の集荷と黄麻栽培あるいは黄麻工場を担当していたと推測できる 75。ま

た,南部では,嘉義農林学校卒業生の沈天賜と官來平(前記【事例 3】の⑤と⑥)が職員として実際

の栽培に関与していたと思われる。

大丸興業(のちに株式会社大丸に統合)は,1941年 1月にハノイ出張所を開設した。しかし,最

初から黄麻栽培を手掛けていたのではなく,1942年 2月には軍の酒保を開業し,喫茶室,食堂,宴

会場経営,軍払下げ物資および台北,広東からの物資販売を行い,1943年 2月に仏印政庁から会社

認可を受けた。仏印では石鹸,歯ブラシ,歯磨きなどの小工場を経営し,黄麻栽培(のちに麻袋製造

工場設立)に着手した。仏印黄麻栽培協会に加盟はしているが,前述したように当初は除外されてい

た。どういった経緯で加盟できたのかはわからないが,大丸の本格的な黄麻栽培は三菱商事同様

1943年度から始まった。

大丸の栽培内訳は,1943年度にバクニン省ジャラン地方 200 ha, 1944年度ニンビン省ジャカイン

郡 200 ha, 1945年度フンイエン省 400 haが割当られた。黄麻袋の製造工場は,1943年 10月から稼

働し,フンイエン省に工場 7棟,倉庫 2棟,織機 150台の規模で 80人の工員が従事した。大丸の場

合,誰が栽培指導をしたのかという疑問は残る 76。

大南公司は現地在住の松下光廣が 1922年に興した会社で,戦時期に事業を拡大している。その規

模は,1943年 12月時点ではベトナムのみならずカンボジア,タイ,シンガポール,ヤンゴン,海南

島に支店網を拡大していた。ベトナムでは建設事業と軍用食糧の確保が主な業務となっていた 77。大

南公司で黄麻栽培指導を担当した莊百泮の口述によると,1942年から大南公司と台南製麻など 4社

がバクニン省内を地域割して分担を決め,イエンフォン県に事務所を開設して栽培(試作)を始めて

71 前掲書,『ハノイ・ハイフォン回想』,171頁。72 『実業貿易録(三菱商事下)』ゆまに書房,2009年,898頁。仏印大使府から 1943年 1月に黄麻栽培の指令があり,1943年度分を 3月末から開始とある。

73 第 2-139表:三井関係会社に関わる事業南方受命事業(昭和 18年 5月 8日現在),753頁,第 2-141表:三井物産の南方主要投融資(昭和 19年 3月 31日現在),759頁(いずれも『三井事業史(本編第三巻下)』三井文庫,2001年)。

74 三井文庫,前掲書,第 2-140表「三井関係各社の南方在勤員数」(昭和 18年 6月初旬)),755頁。75 三井物産人事部『三井物産株式会社職員録』昭和 18年 4月 1日調,昭和 19年 4月 1日調(三井文庫資料,物産 51-2~

42)。76 大丸二百五十年史編集委員会,前掲書,465頁。77 武内房司「大南公司と戦時期ベトナムの民族運動―仏領インドシナに生まれたアジア主義企業」『東洋文化研究』第 19号(2017年 3月),386‒389頁。

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台湾の「南方協力」と仏領インドシナ

いた。大南公司の栽培地の一つにバクニン省イエンフォン県イエンラン村があり,台湾出身の莊百泮

は 1943年 6月から現地で栽培指導にあたった 78。

前述したように,1942年 5月には,すでに大南公司と台南製麻など 4社が試作および栽培を始め

ていたが,そこに又一も含まれていた。又一は,ナムディン近郊でインド種と台湾種を導入して試作

を行っていた 79。もう一社は台湾拓殖(印度支那産業)と思われるが,いずれにしても大南公司,台

南製麻,又一が 1942年はじめにはすでに試作栽培を始めていたことになる 80。試作段階においても台

湾種等を試み,技術については,台湾の技術力に依拠していたことは明らかであろう。栽培において

は,台湾拓殖(印度支那産業),大南公司,台南製麻,又一がリードし,続いて三菱,大丸などの企

業が続くようになる。これには,鉱業分野とは異なり,各社の調整がある程度機能していたと推測で

きる。

おわりに

本稿では,1930年代半ばから 1945年までの期間,台湾の「南方協力」および仏印進出の一側面を

示すことを目的に,台湾総督府と中央政府,民間企業などが段階的に行った仏印の黄麻に関する調査

内容を整理し,人員派遣までの過程を考察した。その結果,次の 3点を明らかにした。

一つは,黄麻については調査主体が台湾側にあったこと。台湾からの調査が先行し,台湾総督府と

民間企業,台湾農業界が協力して調査にあたったことが特徴としてあげられる。これは台湾の「南方

協力」が,台湾内で総督府と民間企業の利害が一致していたことを表している。調査に関しては,台

湾が先行し,中央政府が主導した仏印資源調査団においても,農業分野では台湾の調査・研究蓄積お

よび技術力に依拠していたといえる。二つ目に民間企業の役割である。台湾拓殖関連以外の企業進出

として,台南製麻が調査段階から関与し,実際の黄麻栽培,栽培指導を担い,最終的には黄麻工場経

営に至った。三つ目は,台湾からの農業技術・指導者の派遣である。台湾の農業分野での調査,技術

力は長年の蓄積があり,仏印への技術力供与の背景には,台湾に技術者養成機関が複数あって供給が

可能であった。但し,これも台湾の「南方協力」の一環であり,日本の業界団体からの委託を受けて

台湾内で養成されていたことによる。また,もう一つの技術者および指導員派遣チャンネルとして,

嘉義農林学校の存在がある。技術面では嘉義農林学校の卒業生が活用され,卒業生の吸収先でもあっ

た。1919年の開校以来,長年にわたって培った技術力という裏付けのもとに,仏印での農業指導が

可能であった。

また,仏印での黄麻栽培は,仏印資源調査団による調査前から試作が実施され,1942年 3月には

第一陣の技術者と台湾指導員が派遣されていた。そして,仏印資源調査団派遣とともに第二陣として

継続組が各社割当地域での指導にあたった。1943年には,12社が割当を受けて栽培に当たったが,

78 吉沢,前掲書,125頁。大南公司については,前掲,北野典夫『南船北馬―天草海外発展史(後編)』みくに社,1982年(北野典夫『天草海外発展史 (上・下)』葦書房,1985年)。牧久『安南王国の夢』ウエッジ,2012年。武内房司「大南公司と戦時期ベトナム民族運動―仏領インドシナに生れたアジア主義企業」『東洋文化研究』第 19号,2017年 3月。古田,前掲論文,などに詳しい。

79 Hungu-Yenから Nam-dinhに至る地帯を調査している(『仏領印度支那に於ける黄麻の生育状況視察報告書(仏印黄麻調査第三報)』台湾総督府外事部,1942年,6頁)。

80 大南公司がプノンペン下流の中州 Phu-xuanと Phu-myで試作した成績が報告されている(『仏領印度支那に於ける黄麻の生育状況視察報告書(仏印黄麻調査第三報)』台湾総督府外事部,1942年 5月)。

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そのなかに大丸が含まれていた。従来の研究では 11社とされているが,大丸興業(株式会社大丸に

統合)も参入している。そして,各社はのちに当初の計画にあった黄麻工場を操業することになる。

また,本研究は,吉沢南の論じた「黄麻栽培の強制性」に異を唱えるものではないが,一様ではな

い帝国「日本」の仏領インドシナ進出,さらには台湾の「南方協力」が,その背景にあったことが理

解できよう。そして,台湾の調査・技術力なくしては仏印での黄麻栽培は成り立たなかったことも事

実である。さらに,当時の台湾の置かれた立場からいくと,1940年代の日本の「南進」政策におい

て等閑にされた台湾の存在を中央政府に示す絶好の機会でもあったと考えられる。しかし,これにつ

いては十分な検討ができたとは言い難い。次の課題としたい。

謝辞

白石昌也先生の学外勉強会に参加してから 18年近くなります。2012年に白石先生から「戦時期も

しないのか」と投げかけられ,プロジェクトに参加させてもらえたことが,私のテーマ「戦間期仏領

インドシナにおける日本商」の研究を大きく前進させることに繋がりました。2015年にはハノイで

シンポジウムが開催され,ここでの白石先生のスピーチには心打たれるものがありました。長年,ベ

トナムと真摯に向き合ってきたからこその思いが詰まっていました。この場に立ち会えたことは,自

身の研究の到達点を明確にする機会にもなりました。直接の門下生ではありませんが,これまでの感

謝を申し上げます。

[付記]

本稿は,JSPS科研費(課題番号 25243007)による研究成果の一部である。