title 秦代遷陵縣志初稿 --里耶秦簡より見た秦の占領 …...第 七 十 五 卷 第...
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Title 秦代遷陵縣志初稿 --里耶秦簡より見た秦の占領支配と駐屯軍--
Author(s) 宮宅, 潔
Citation 東洋史研究 = THE TOYOSHI-KENKYU : The journal ofOriental Researches (2016), 75(1): 1-32
Issue Date 2016-06-30
URL https://doi.org/10.14989/242840
Right
Type Journal Article
Textversion publisher
Kyoto University
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第七十五卷
第一號
�成二十八年六�發行
秦代�陵縣志初稿
︱︱里耶秦鯵より見た秦の占領荏�と�屯軍︱︱
宮
宅
�
はじめに
一︑縣・�・亭の�置
二︑戶口の管理
三︑官僚組織とその供給源
四︑𠛬徒の活用
五︑兵士の數とその出身地
六︑兵士の任務と軍事組織
結びにかえて︱︱�陵縣の性格︱︱
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1
-
は
じ
め
に
秦による瓜一の後︑怨占領地は如何にして荏�されたのか︒從來この問題をめぐっては郡縣の設置・秦の法律の�用と
いった占領瓜治の行政面に目が集まり︑軍事力の活用についてはほとんど議論されてこなかった︒そもそも︑瓜一から
わずか十數年後に關外の
地があっけなく反亂軍の手に落ちたという事實は︑占領地に對する秦の﹁軍事�抑止力﹂の�
效性自體を疑わせる︒軍事面が等閑視された一因であろう︒
だが大櫛敦弘は︑むしろこの事實を手がかりに︑秦の瓜治戰略に�ろうとする[大櫛一九九四]︒大櫛が目するのは
﹁城壁墮壞﹂策︑すなわち占領地で都市の城壁を破壞し︑それにより離反を防ごうとした政策である︒いわば一種の非武
裝�によって怨占領地の軍事�脅威を抑える一方で︑關中周邊と邊境では防備を固め︑特に�者を首都防衞の��ライン
とし︑關外で�こった反亂にはまず現地の兵力で對應しつつ︑關中から中央軍を��して���な鎭壓を目指すことに
なった︑と大櫛は說�する︒傾聽に値する指摘である︒
ただし︑大櫛自身が言�するとおり︑あらゆる都市の城壁が破壞されたわけではない︒關中(1
)・邊境の防衞線に加えて︑
關外の各地にも秦軍の據點(2
)が殘されたはずである︒これらの據點がどこに位置し︑如何にして維持され︑その兵員はどこ
から り!まれたのか︒こうした問題を︑瓜一後のさらなる軍事"征
(對匈奴︑對嶺南)と關聯させつつ探ってゆくのが︑
今後の秦代軍事#硏究にとっての課題となろう︒
本稿はかかる問題%識の下︑怨出の里耶秦鯵を分析し︑秦による怨占領地荏�の具體宴を把握しようとするものである︒
周知のとおり︑湖南省龍山縣里耶鎭の里耶古城址一號井
(J1)やその城濠
(K11)から大量の鯵牘が發見され︑ここが
秦代洞庭郡�陵縣の治&であったことが�らかになった︒すでにこの#料を活用し︑�書制度や地方官府の'(について
論じた硏究が少なからず現れている︒だが︑�陵縣內にどれほどの數の人閒が暮らし︑それを縣の官署が如何に把握して
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いたのか︑などといった縣の槪
に焦點をすえた硏究は︑現在のところ高村武幸の論考[高村二〇一五]のみに限られる︒
小論はこの論考も參考にしつつ︑現時點で確言できる秦代�陵縣の-とその特.とを探り︑それを/じて︑上営した軍事
#硏究の課題に�るための足がかりを得ようとするものである︒﹁縣志﹂と呼ぶには0う範圍が狹く︑かつ大量の未發表
鯵が存在する以上︑あくまで﹁初稿﹂に1ぎないものの︑小論が今後の里耶秦鯵硏究に何らかのかたちで貢獻できるのを︑
あわせて2待したい︒
引用する里耶秦鯵のうち︽報吿︾︽里耶︾︽45︾&載の鯵については特に記なく鯵番號のみを擧げ︑それ以外はで
その出&を�記した︒︽里耶︾&載の鯵は︑基本�に︽校釋︾の釋�および綴合を6用し︑多くの鯵が綴合されている場
合は鯵番號に﹁+
﹂を附し︑以下を省略した︒紙幅の都合上︑鯵牘原�を引用する場合︑原鯵での改行は無視し︑すべて
7い!みで釋�を擧げた︒またその日本語譯に際しては︑各�書とその擔當書記
(﹁某手﹂)との關係が分かるよう︑譯出
の順序を入れ替えた部分がある︒
一︑縣・�・亭の�置
昭襄王二九年
(�二七八)︑秦は楚の都︑郢を陷落させると︑三〇年
(�二七七)には兵を巫・黔中に8め︑いったんは
﹁江南﹂の地を占領した︒だが9年には楚が反攻し︑﹁江旁十五邑﹂を奪い:す︒︽報吿︾は︑里耶古城の東北に位置する
麥茶戰國墓から秦人の墓が發見されていない點に着目し︑里耶地域はこのとき楚により奪;されたものとする︒
ただしその後︑楚の���な滅<に至るまで︑この地域が楚の荏�下にあり續けたか否かをめぐっては︑論者によって
見解が分かれる︒高村武幸は楚系�字で書かれた鯵の出土等に着目し︑この地には楚の縣=瓜治機'が設置され︑楚滅<
の直�までその荏�下にあった可能性(3
)を指摘する[高村二〇一五︑二六頁]︒一方で陳絜は︑始皇一九年
(�二二八)より
も�に長沙以西の楚領が秦に獻上され︑里耶地域もそれに>って秦の荏�下に入り︑戶口?査が實施されたとする[陳絜
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二〇〇九]︒
いずれにせよ︑つとに︽校釋︾が指摘するとおり︑秦による�陵縣の設置が始皇二五年
(�二二二)のことであったの
は︑里耶秦鯵が�言するところである︒二三年
(�二二四)に行われた對楚占領戰への大動員の後︑二五年には楚の﹁江
南﹂の地が�定されており︑これを承けてその年のうちに郡縣が設置されたのであろう︒すでに二五年二�には洞庭郡上
衍縣(4
)で@となった人閒がおり
(⑧1450)︑また二五年二�頃の時點での經歷を集計し﹁(�陵縣の)司空曹に直たるべし﹂
とされている蜀郡F中縣出身の令#も確Gできる
(⑧269)︒
�陵縣には都�・K陵�・貳春�という三つの�が置かれた︒都�はその名稱からして�陵縣治にL設されたとみてよ
かろう︒殘る二�のうち︑K陵�は�陵縣治と酉陽縣治のあいだ︑すなわち�陵縣の東方に&在した︒酉陽縣から始皇二
八年二�癸酉に發信された�陵縣宛の�書が︑三日後に﹁1K陵�
︱︱K陵�を/1
︱︱﹂している
(⑫1799)のが︑
その論據となる︒さらにK陵�から�陵縣までの遞 にも大體三~四日が必
であり︑從ってK陵�は二つの縣治のほぼ
中閒に位置したようである︒ここには﹁津﹂があり︑﹁N人﹂として輪番勤務している人員がいる
(⑧651)ので︑酉水沿
いの集落であったと考えられる︒ではそれは具體�に︑どこに&在したのであろうか︒
まず酉陽縣治の&在地とされるのが現在の古丈縣王村・河西周邊である[龍京沙二〇〇九]︒この比定は﹃太�寰宇記﹄
に﹁漢酉陽在今溪州大�界﹂(卷一二〇涪州)とあるのが論據になるものの︑確證には缺ける︒だが里耶秦鯵から推測され
る酉陽縣治の立地R境はこの比定を荏持する︒すなわち︑酉陽から澧水水系の閏縣へ發せられた�書
(⑨712)の存在は
酉陽縣が南北を結ぶ陸路の�點であったことを示し︑これは現在の古丈縣に酉水水系と澧水水系とを南北に結ぶ映柳鐵路
が走り︑兩水系をつなぐ陸路の/1點であることと符合する︒王村には白鶴灣古墓があり︑春秋2から�漢にかけての墓
葬群が發見されている[湖南省T物館等一九八六︑湘西自治州�物管理處・古丈縣�物管理&二〇〇四]︒
酉陽縣治が古丈縣王村・河西附Vに&在したとすれば︑酉陽と�陵のほぼ中閒地點にあるW址として︑保靖縣四方城が
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擧げられる︒四方城は現在の保靖縣城の東北にあり︑戰國墓・漢墓のほか︑戰國2の食糧庫や�漢の靑銅精鍊場W跡が發
見され[湘西土家族苗族自治州�物工作\一九八六︑湘西自治州�物管理處・保靖縣�物管理&二〇〇四]︑漢代の�陵
縣に比定される場&でもある︒K陵�の&在地として︑ひとまずこの附Vを想定しうる(5
)︒
一方︑貳春�については十分な手がかりがない︒﹁貳春津﹂の存在
(⑫849)や貳春�までNで軍糧(6
)を^け取りに來た記
錄
(⑧1510)があることは︑それが川沿いの集落にあったことを示す︒一方で酉陽縣↓K陵�↓�陵縣という郵書傳`經
路のなかには貳春�が現れないので︑酉陽−
�陵閒に�置された�ではなかった可能性が高い︒晏昌貴らも貳春�の&在
地を﹁�陵縣の西部a北一帶﹂とする[晏・郭二〇一五]︒貳春�から�陵縣への郵書遞 には五~六日を
することも
あり
(⑨14︑⑫849)︑里耶地域から酉水をさらに西北へとÇった︑現在の酉陽縣大溪鎭や龍山縣治方面にあった可能性が
想定される(7
)︒
貳春�に關して目されるのは︑この地の軍事�な重
性である︒始皇二六年の時點では︑この附Vに﹁司馬﹂が�屯
していたらしく︑﹁司馬﹂への指令を貳春�が取りbいでいる︒
廿六年二�癸丑朔丙子︑c亭叚校長壯敢言之︒c亭旁�盜可卅人︒壯卒少︑不足以7︑亭不可空︒謁�卒索(8
)︒敢言
之︒/二�辛巳︑�陵守丞敦狐敢吿尉︑吿�f︒以律
(正)
令從事︒尉下亭鄣︑署士@謹備︒貳�上司馬丞︒/亭手︒/卽令走涂行︒二�辛巳︑不j輿里戍以來︒/丞手︒壯手︒
(背)
(⑨1112)
二六年
(�二二一)二�癸丑朔丙子
(二四日)︑c亭の暫定校長である壯が申し上げます︒c亭のV傍には盜kが三
十人ほどおります︒私の卒は數が少なく︑7擊するには足らず︑亭を空にすることもできません︒卒を��して搜
索していただきたい︒以上申し上げます︒壯が書いた︒二�辛巳
(二九日)︑不jのmを持つ輿里の戍が持ってき
た︒丞が書いた︒/二�辛巳︑�陵縣守丞の敦狐が尉に申し傳え︑�嗇夫どのに吿げる︒規定どおりに職務を行わ
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れよ︒尉は亭鄣に指示を下し︑きちんと士@を�置につけるように︒貳春�は司馬の丞に申し上げよ︒/亭が書い
た︒/ただちにnい走りの涂に持ってゆかせた︒
また貳春�周邊には﹁貳春亭﹂(⑧1114+
⑧1150)も置かれており︑右の鯵に見える﹁c亭﹂と同樣に︑校長が卒をoい
てここに�在していたと考えられる︒
さらに﹁卒長﹂の�屯を示唆する鯵もある
(⑧657)︒この鯵には琅p郡守から發信された�書が記され︑琅p郡尉が治
&を卽墨に移したのに>い︑以後琅p郡尉に報吿すべき事柄は卽墨に報吿するよう指示している︒紀年を缺くものの︑干
荏と�陵縣守丞の名から︑始皇二七年か二八年の�書であることが分かる︒この指令が洞庭郡にも られ︑さらに郡守か
ら�下の縣に︑各縣內の軍@
(﹁軍@在縣界中者﹂)に周知させよとの指示を附して囘 された︒それを承けた�陵縣がさら
に下=へ った指示が︑bの�違である︒
八�甲戌︑�陵守丞膻之敢吿尉官f︒以律令從事︒傳別︻書︼貳春︑下卒長奢官︒/□手︒/丙子旦食︑走印行︒
(⑧657(部分))
八�甲戌︑�陵守丞の膻之が縣尉どのに申し傳える︒規定どおりに職務を行われよ︒別書を貳春に傳え︑卒長の奢官
に指示を下せ︒⁝
(後略)⁝
ここで�書は縣丞から縣尉に られ︑さらに貳春�を/じて卒長に下`されている(9
)︒貳春�のr地面積や戶數は他の二�
にまさり[高村二〇一五︑二九頁]︑當地の軍事�重
性とLせて考察されるべきものである︒
二︑戶口の管理
各�はいくつかの里から'成されていた︒その一覽を擧げておく[晏・郭二〇一五]︒
都�
:高里・陽里
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K陵�:成里
貳春�:南里・東成里・輿里
(?)
この他に渚里・南陽里等の里名が見えるが︑&屬は不�であり︑里の改廢も想定される︒
里は一般戶口の&屬單位として戶籍に記載された︒里耶出土の戶籍鯵としては城壕から出土した諸鯵
(K11出土鯵)が
知られ︑すでに硏究論�も多い(10
)︒J1出土鯵にも︑里名・﹁戶人﹂・身分・名︑あるいは戶fとの續柄・身分・名を記した
鯵が見られる︒そのすべてが兩行︑ないしはさらに幅の廣い鯵で︑形態においてもK11出土鯵と類似する(11
)︒
各�の戶數は﹁K陵廿七戶﹂(⑧157︑始皇三二年)﹁卅四年K陵�⁝見戶廿八戶﹂(⑧518)として斷片�に知られるのみ
である︒だが各�の租稅x擔額と戶ごとの�均x擔額を記した鯵
(⑧1519)を用いれば︑始皇三五年時點での各�の戶數
が推算できる[c俊峰二〇一四]︒
K陵�:22戶
(輿田9頃10畝︑租97石6斗↓稅田65畝1/15︑戶數21・9)
都�
:54戶
(輿田17頃51畝︑租241石↓稅田1頃60畝2/3︑戶數54・2)
貳春�:76戶
(輿田26頃34畝︑租339石3(斗)↓稅田2頃26畝1/5︑戶數76・2)
縣體の戶數は一五二戶であり︑⑧487+
⑧2004鯵に擧げられる二八~三三年の﹁見戶﹂︑一五五~一九一戶
(三三年
は一六三戶)と大きく齟齬しない︒
里耶秦鯵には五萬を超える﹁積戶﹂の數が現れ︑當初はこれを�陵縣の戶數と見るむきもあった[張春龍二〇〇九]︒
だが﹁積~﹂とはべ數を擧げる際に用いられる語であって︑實數ではない︒これに對して﹁見
(現)~﹂は實數を示
すものであり︑﹁見戶﹂とは特定の時點で︱︱おそらく年度末の上計に備えて(12
)
︱︱集計された戶數と考えられる︒從っ
て�陵縣の戶數はわずか一五〇~二〇〇戶ほどであったことになる︒
一般戶口の人�'成としては︑まず秦の占領に>う徙民が擧げられる︒潁川郡襄城縣から�陵縣陽里への移申と推
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測される�書斷片
(始皇三三年︑⑧1141+
⑧1477(13)
)や︑﹁もとは琅p郡魏其縣に本貫があった﹂とされる家族の記錄
(⑧
2098︑⑧2133)がそうした徙民の存在を示す︒加えて︑當然ながら占領以�からの居者もおり︑彼らは占領後の一時2︑
﹁荊
(楚)﹂であることが戶口記錄に�記された︒
「荊﹂字を冠するm號がK11出土の戶籍鯵に見られることは︑すでに多くの硏究者が目するところである︒これら戶
籍鯵の作成時2をめぐっては︑出土狀況の再檢討から�漢に比定する者
[劉瑞二〇一二]もいる︒だが張家山漢鯵﹁奏讞
書﹂では漢初の時點ですでに﹁楚﹂字が用いられているので︑秦代の鯵とするのが當であろう︒多くの論者も同樣の理
解を示すが︑陳絜は秦荏�2のなかでも特に︑ごく早2の鯵であるとf張する︒その論據はJ1出土鯵に﹁荊﹂字を冠し
たm號が見えない點にあり︑これに據って陳は︑K11の戶籍鯵は本格�な郡縣制が施行される�の︑占領直後に作成され
た記錄であるとする[陳絜二〇〇九︑二五~二六頁]︒當初は戶口の記錄に﹁楚﹂であることが記載されたものの︑秦に
よる荏�がするにつれ︑そうした記は滅したとの理解であろう︒
m號に附された﹁荊﹂は︑彼らが﹁秦﹂ではないことを%味するに1ぎない︒とはいえ﹁荊﹂とされた者の多くが︑楚
の荏�2に里耶地域へ入した者の子孫であり︑﹁楚人﹂と自Gしていた可能性が高い︒ただし︑それとは衣なる歸屬%
識を持つ者も一方には存在した︒
都�黔首毋濮人・楊人・臾人︒
〼
(⑨2307)
ここに見える﹁濮人﹂は﹁百濮﹂(﹃左傳﹄�公一六年)と稱される西南夷の一�で︑楚の南8以�から里耶周邊に居し
ていたとされる(14
)︒﹁楊人﹂とはおそらく﹁楊
(揚)越(15
)﹂のことであろう︒里耶秦鯵には﹁越人﹂の語もみえ
(⑫10B)︑﹁揚
越﹂と﹁越﹂とが區別されたことが知られる︒�後の﹁臾人﹂については手がかりに缺けるものの︑﹁臾=
﹂であれば︑
後漢から魏晉以影の#料に現れる西南夷︑﹁(16
)﹂人との關聯性が疑われる︒
いずれにせよ右の鯵は︑都�の﹁黔首﹂の中に︑樣々な族屬の人閒が含まれ得たことを示す︒それが戶籍に�記された
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のか否かは不�だが︑�陵縣の各�が﹁秦人﹂や﹁楚人﹂とは何らかの理由で區別される人々︱︱暫く﹁蠻夷﹂と呼ん
でおく︱︱をも管理し︑少なくとも蠻夷とその他の者との區別が官により把握されていたことが分かる︒
秦人・楚人と蠻夷が混在する�陵縣の狀況に︑より複雜な樣相を與えるのが︑非常に多くの人閒から'成される戶の存
在である︒
怨黔首戶百六︒男千卌六人︒小男子〼
(⑯950)
この鯵は釋�のみが論�
[張春龍二〇〇九]に引用されたもので︑その釋讀の當否を圖版により確かめられない︒釋�を
信賴するなら︑一戶が�均九・八人の成人男子により'成されていたことになる︒未成年男子
(﹁小男子﹂)や女性を加えれ
ば︑�均で二〇人を超えるであろう︒
この鯵の解釋をめぐって斷が難しいのは︑冒頭に擧げられた﹁怨黔首﹂の含%である︒﹁怨黔首﹂とは怨たに秦の臣
民となった者︑すなわち�陵縣の一般戶口體を指しているとも考え得る︒だがK11出土鯵に見える各戶の口數は四~六
人度であり︑一〇人を越えるような戶は二〇戶あまりのなかで一戶しか確Gできない︒こうした標準�な﹁五口之家﹂
が高い割合で�陵縣に存在したにも拘わらず︑一戶あたりの�均口數が二〇人超になるとしたら︑三〇人︑あるいはそれ
をはるかに上囘る規模の戶も少なからず存在したことになる︒各戶の口數にかくも大きなa差がありながら︑それらが�
に&屬する戶として︑戶を單位に.收される賦稅(17
)を同等に擔ったというのは︑いささか考えにくい︒私見としては︑一〇
六戶という數字が�陵縣體のものか否かは不�だが︑特別な家族・生活形態を持つ人閒集團の戶口報が︑何らかの機
會に集計された際︑すでに把握されている一般5戶と彼らとを區別すべく︑宜�に﹁怨黔首﹂の語が用いられたと考え
たい(18
)︒
それにしても︑一戶に�均一〇人ほどの成人男子が屬したとなると︑かなりの擴大家族を想定する必
がある(19
)︒これは
むしろ︑蠻夷の小君長がoいる集團を﹁戶﹂として登記したものと見るべきだろう[金秉駿二〇一五]︒いわば舊來の社
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會組織を維持したまま秦に歸した蠻夷が暫定�に﹁怨黔首﹂と呼ばれ︑その數が一般5戶とは別に集計されたのではな
いか︒そのうえで彼ら蠻夷には︑一般5戶が戶ごとにx擔する租賦とは別に︑﹁義賦﹂(⑧1199)や﹁羽賦﹂(⑧1735)が
課せられた(20
)と推測する︒
一方で︑�が把握する一般戶口にも蠻夷が含まれ得たことは︑上営したとおりである︒彼らは舊來の社會組織から離れ︑
酉水沿いの聚落に入者と共に雜居した人閒なのであろう(21
)︒︽報吿︾は麥茶戰國墓の分析から︑里耶古城を円(してこの
地に入した楚人の墓に混ざって︑﹁濮人﹂の墓が存在するとf張する︒蠻夷固�の社會組織から離した人閒は一般戶
口に數えられるが︑一方でその出自がなおも記錄されたのだろう(22
)︒
するに︑�陵縣が把握する戶數は一五〇~二〇〇戶度であり︑彼らの家族'成やr地が﹁見戶﹂のそれとして把握
され︑租や戶賦の.收對象となった︒そのなかには秦荏�2の徙民やそれ以�の入者︑あるいは蠻夷も含まれた︒だが
蠻夷のなかには舊來の秩序を維持したまま秦に歸順した者たちもおり︑彼らが﹁怨黔首﹂として別に管理された可能性が
ある︒さらに依然として歸順しない人閒集團も縣下に存在したであろう︒�陵縣の瓜治組織が管掌したのが︑かかる地域
社會であったことを忘れてはなるまい︒
三︑官僚組織とその供給源
�陵縣に�置された官@の定員は一〇三名(23
)であった︒
�陵@志
〼
〼
官嗇夫十人
今見二人
倉@三人
@員百三人
〼
〼
其二人缺
官佐五十三人
其二人缺
令#廿八人
〼
〼
三人繇n
其七人缺
今見一人
【其十︼人繇(徭)n
〼
〼
今見五人
廿二人繇n
凡見@五十一人
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10
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【今見︼十八人
〼
〼
校長六人
今見廿四人
〼
其四人缺
牢監一人
(⑦67+⑨631)
傍線部は︽45︾の釋�を寫眞に據り改め︑□は不�とする字を補ったところである︒︻
︼內では缺字を體例に據って
想定してある︒右の數字を一覽として擧げておく︒
定員數を合計すると一〇一名となり︑冒頭の﹁@員百三人﹂に二名不足する︒單なる計算ミスであるほかに︑令と丞が個
別の項目に擧げられていないとも考えられる︒
一見して氣づくのが︑�陵縣に&屬する官@の多さである︒尹灣漢鯵の東海郡@員
(TM6D2)が︱︱�漢末2ま
で影るものの︱︱比�の對象として直ちに想�されるが︑そのなかで百名を超える定員を持つ縣は︑海西縣と下邳縣と
いう二つの大縣のみである︒ただし︑この二縣は�下に一〇以上の�をえ︑治安維持のために五〇名�後の亭長が置か
れていた︒つまり@員數を押し上げているのは�官や亭@︑すなわち縣治の外に�置された官@の多さである︒そもそも
各縣の定員規模を左右するのは︑その人口數や領域面積を直接反映する�官と亭@の數であった︒東海郡下の縣の定員は
二二~一〇七名と大小樣々であるが︑各縣の定員から�官と亭@の數を引くと︑縣令が置かれた縣では二三~四一名︑縣
長の場合は一四~三二名という數字が得られ︑大小の差は格段に縮まる︒各縣治の中樞を荏える@の數にはさほど大きな
いがなく︑二〇~四〇名度であったといえる︒
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11
令
#
官嗇夫
校
長
官
佐
牢
監
倉
@
計
定
員
28
10
6
53
1
3
101
缺
員
10
(うち﹁徭n﹂10名)
5
(〃3名)
4
29
(〃22名)
0
2
50
現
員
18
5
2
24
1
1
51
-
これに對し︑�陵縣の�はかに三箇&で︑亭も二箇&を確Gできる(24
)に1ぎない︒�官として九名
(三�に�嗇夫・佐・
#各一名)︑さらに亭@
(校長)六名を差し引いても︑殘る定員は八八名にのぼり︑これは少なくとも東海郡下には見られ
ない規模である︒確かに定員の多くが缺けているもの︑現員五三名
(令丞を含む)を基準にしても︑その規模は東海郡下
の大縣に相當する︒こうした�官・亭@以外の人員の多さからは︑これらの官@が�陵縣の一圓�荏�のために領內に廣
く分散して�置されたのではなく︑官f¢の事業を維持すべく酉水沿いの據點に集中�に置かれたものであったという印
象が得られる︒
一口に﹁官f¢の事業﹂といっても︑その內容は多岐に渡り︑事業規模の大小も一槪には斷しにくい︒ひとまず�陵
縣の各部署が作成した帳の一覽
(﹁課志﹂﹁計錄﹂)を目安にすると︑兵士や𠛬徒を用いた食糧生產︑牧畜︑手工業の實施
が確Gできる︒中でも目を引くのが6鐵・製鐵事業や武器の製(であり︑この點は後�で改めて論じることとしたい︒
�陵縣下の官@�置についてもう一つ特筆されるのが︑百石以下の下=官@も含めて︑現時點で出身の�するあらゆ
る官@
(求盜や里典・郵人といった公務役者を除く(25)
)が他縣出身であるという事實である︒この點はすでに高村武幸が指摘
し︑官@の出身郡縣一覽も示されている[高村二〇一五︑三三頁]︒それによると︑官@の供給源となったのは秦による
荏�の歷#が長い漢中・巴蜀地域で︑それ以外の郡出身者も若干見える︒
怨占領地に&在する�陵縣で︑現地での官@?`が困難であったことは想宴に難くない︒人材の不足は︑﹁居@少︑不
足以給事︱︱勤務する官@が足らず︑十分に職務を果たせない︱︱﹂(⑧197)という嘆きや︑�守嗇夫が法に觸れなが
らも﹁時毋@
︱︱この時には官@がいなかった︱︱﹂という理由で¦縣に轉任している例
(⑧1445)からも窺える︒罪
を犯した︑あるいは病§な官@が﹁怨地@﹂として怨占領地に られることもあった[于振波二〇〇九]が︑里耶秦鯵に
も漢中郡から�陵縣に衣動したとされる﹁怨地@﹂が見えている
(⑧1516)︒
さらに少なからぬ官@にとって︑�陵縣での勤務は一時�なものであった︒これもまた高村の指摘があり[高村二〇一
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12
-
五︑三四頁]︑ここではそれを補いつつ︑
點のみを営べておく︒
�陵縣の#や佐には﹁冗﹂である者が目立つ︒﹁冗﹂とは公務役者の就勞形態を示す語で︑輪番勤務である﹁j﹂と
は衣なり︑長2にわたって就勞することを%味する[宮宅二〇一二]︒里耶秦鯵にみえる﹁冗佐﹂のなかには家族を本貫
に殘して赴任している者がおり
(⑧60+
)︑一定の任2を滿了したら︑歸�することがGめられていた(26
)︒また﹁均#﹂﹁均
佐﹂という職名も現れ︑﹁均﹂の%味するところは詳らかでないが︑彼らも單身で�陵縣に赴任し(27
)︑任2滿了後の歸�が
許されていた
(⑧197)︒�陵縣における官@不足を考える際には︑多くの官@が他郡から單身で赴任し︑一定2閒の後に
歸�する者(28
)がいたことを念頭に置くべきだろう︒
四︑𠛬徒の活用
�営したとおり︑官@の職務のなかで大きな比重を占めたのが︑𠛬徒や兵士の管理と彼らを動員した諸事業であった︒
これら二種類の勞働力のうち︑まず𠛬徒について槪觀する︒
里耶秦鯵からは︑𠛬徒のうち城旦舂やそれと同樣の勞役に就く者が司空により︑隸臣舂が倉により管理され︑そこから
𠛬徒の一部が各部署に貸與されたこと︑それぞれの部署で𠛬徒の勞働內容が每日細かく記錄され︑縣廷に﹁作徒﹂とし
て報吿されたこと等が知られ︑すでに專門の論�も發表されつつある︒ここでは𠛬徒管理の詳細には立ち入らず︑�陵縣
下に�置された𠛬徒の規模を示すにとどめたい︒まとまった內容を持つ鯵から知られる數字を列擧する︒
(1)⑨2294(三二年一〇�﹁司空守圂徒作﹂)
城旦司寇1人
鬼薪20人
城旦87人
仗城旦9人
隸臣繫城旦3人
隸臣居貲5人
計125人
(2)⑧145(年代不�
(司空の作徒))
舂・白粲など?x人
隸妾繫舂8人
隸臣
(妾のªか)居貲11人
^倉隸妾7人
(右︑小計﹁凡八十七人﹂)
小城旦
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13
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9人
小舂5人
計101人
(3)⑩1170
(29)
(三四年一二�﹁倉徒㝡
(�)﹂)
大隸臣33人
小隸臣17人
大隸妾96人?
(1箇�のべ人數﹁二千八百七十六﹂)
計146人
(4)⑦304(﹁廿八年�陵隸臣妾�黔首居貲贖責作官府課﹂)
隸臣舂151人
居貲38人
計189人
時代はやや�後するものの︑倉に隸臣舂など一四六名︑司空に城旦舂など二二六名
(1と2の合計)がおり︑�陵縣體
で三~四〇〇名の𠛬徒をえていたことが分かる︒右に(4)として擧げた⑦304鯵の�も引用しておく︒
廿八年�陵隸臣妾�黔首居貲贖責作官府課︒●泰凡百八十九人︒死<︒●o之︑六人六十三分人五而死<一人(30
)︒
已計︑廿七年餘隸臣妾百一十六人︒
廿八年怨●入卅五人︒
●凡百五十一人︒其廿八死<︒●黔首居貲贖責作官府卅八人︒其一人死︒(⑦304)
この鯵が示すとおり︑𠛬徒の損oは一年閒に六人中一人と高かったが︑それを補う供給があり︑一定の規模が維持され
ていた︒その職務內容は多岐にわたり︑これもまた別に論じられるべき問題だが︑⑨2294では一二五人の城旦舂のうち
二三人が︑⑧145では八七人の成人女性𠛬徒のうち二四人が︑⑩1170では九〇人を超える大隸妾のうち一七人が﹁付田
官﹂とされ︑田官での食糧生產が重
な職務であったことは疑いない︒
五︑兵士の數とその出身地
一方の兵士については︑まず左の鯵からその總數が知られる︒
〼冗募群戍卒百卌三人︒
尉守狐課︒
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〼廿六人︒●死一人︒
十一�己酉視事︑盡十二�辛未︒
〼六百廿六人而死者一人︒
(⑧132+
⑧334)
この鯵では﹁冗募群戍卒﹂をはじめとした兵種ごとの人數が擧げられ︑そのうえで總計と死<者の數が記されているらし
い︒下欄には﹁尉守狐の課﹂とあり︑兵員管理の責任者である﹁尉﹂の︑勤務¯價の材料となる記錄
(﹁課﹂)であったこ
とが分かる︒﹁尉課志﹂の一つとして現れる﹁卒死<課﹂(⑧482)に當たるものであろう︒
「死者﹂の�に擧げられる﹁六百廿六人﹂という數字が兵士の總數(31
)であろうが︑﹁六﹂の上で鯵が折れ︑千の位があるの
かどうか分からない(32
)︒だが總計が六二六人に止まったにせよ︑縣の常備軍としては相當に多い︒たとえば重VK樹が想定
する︑秦末における縣の常備軍は三〇〇人度だった[重V一九九九]︒時代は影るものの︑居漢鯵にも兵士の總數を
窺わせる材料がある︒それによると︑縣=の軍事組織である候官がえる戍卒は二五〇人�後と推算され(33
)︑その上=單位
である都尉府管°下では︑戍卒・田卒の總計として一五〇〇人(34
)という數字が見いだせる(35
)︒
ここであらためて諸々の人口數を整理するなら︑�陵縣の一般5戶は一戶五口として�大一〇〇〇人度で︑たとえ一
戶二〇口という數字を用いたとして高々四〇〇〇人である︒そこに一〇〇人の官@︑�び合計一〇〇〇人度の𠛬徒と兵
士が�置されていた︒この衣樣なほどの官@・兵士・𠛬徒の多さは︑改めて吟味されるべきである︒
「卒死<課﹂鯵に立ち:ると︑そこに兵種として﹁冗募群戍卒﹂が見える︒これが長2從軍の募兵であり︑それ以外に
﹁j戍︱︱一年で±代する一般の.集兵︱︱﹂﹁罰戍︱︱罪を犯して戍邊に就けられた者
︱︱﹂といった兵種があった
ことは︑すでに別稿[宮宅二〇一三]で営べた(36
)︒
さらに﹁�戍﹂と呼ばれる兵も現れる
(⑧899︑⑧1029)︒周知のとおり﹁�戍﹂は典籍#料にも見え︑陳涉らが�戍と
して.發されたのが︑その�もよく知られた例であろう(37
)︒﹃#記﹄秦始皇本紀・始皇三三年條では︑﹁逋<人・贅壻・賈
人﹂が嶺南"征に動員され﹁�を以て�りて戍らしむ﹂とあり︑租稅未³の´<者・商人など︑いわゆる﹁七科謫﹂を兵
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士として動員したのが﹁�戍﹂であったとされる(38
)︒
さらに﹁屯戍
(卒)﹂﹁乘城卒﹂と呼ばれる兵士もおり︑これらは兵士の總稱と思われる︒たとえば⑧140鯵では一時
歸�した﹁屯戍﹂がまだ歸任しないことが問題にされており︑この場合の﹁屯戍﹂は一年任2の﹁j戍﹂ではなく︑﹁冗
戍﹂であった可能性が高い︒
さて︑これら諸兵種のうち︑j戍はその出身地に�らかなaりがGめられ︑現在確Gし得るすべてのj戍が泗水郡城父
縣の出身である︒城父縣で.發された兵士が︑まとめて�陵縣に�置されたとおぼしい︒かつ年代の分かるものはすべて
始皇三三年以影に限定され
(⑧143︑⑧811︑⑧1517︑⑧1660+
⑧1827(39)︑
⑨757)︑泗水郡をはじめとした︑瓜一直�に占領
された舊楚領から︑占領後しばらく時閒を置いたのちにj戍の.發が行われたものと推察される︒また三三年は嶺南"征
が開始される年(40
)でもあり︑"征軍の組織・��の影µにより︑�陵縣に�屯する戍卒の供給方法に何らかの變�が生じた
可能性もあろう︒
一方︑その他の兵種についていうなら︑その出身地はbのとおりであった︒
冗戍?:南郡1
(⑧140(三一年))
罰戍
:蜀郡1
(⑧429)︑巴郡1
(⑧1094)︑漢中郡1
(⑧2246(三一年))︑南郡1
(⑧761(三三年))︑內#1
(⑧781
(三一年))︑泗水郡1
(⑧466(41)
)︑潁川郡1
(⑧2246(三一年))
�戍
:洞庭郡1
(⑧899(42)
)
屯戍
:南郡3
(⑧1545(43)
(三一年)︑⑧1574(三一年)︑⑨762(三一年))︑巴郡2
(⑧445(二八年?)︑⑧1574(三一年))
乘城卒:南郡2
(⑧1452(二六年)︑⑧1516(二六年))
これらのうち出身地についてまとまった報が得られるのが罰戍で︑いずれも關中︑あるいは本格�な六國占領戰の開始(44
)
以�に設置された關外の秦郡出身者である︒また︑⑨1~12鯵
(三三年)にも罰戍とおぼしい者たちが見え︑彼らの出身
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地である﹁陽陵﹂が潁川郡&屬の縣である(45
)としたら︑潁川出身者が突出して多いことになる︒嶽麓書院&藏鯵には罰戍の
�置についてbの規定が見える︒
綰許而令郡�罪罰當戍者︑泰原署四川郡︑東郡・參川・潁川署江胡郡︑南陽・河內署九江郡︒(嶽麓0706)
(王)綰が敕許をうて︑郡內の罪を犯して戍邊𠛬に相當する者を︑太原郡からは泗水郡に︑東郡・三川・潁川郡
からは江胡郡に︑南陽・河內郡からは九江郡に⁝�置させた︒
⁝泰原署四川郡︑東郡・參川・潁川署江胡郡︑南陽・河內署九江郡︑南郡・上黨・□邦·當戍東故徼者︑署衡山郡︒
(同0194+
0383(46)
)
⁝太原郡からは泗水郡に︑東郡・三川・潁川郡からは江胡郡に︑南陽・河內郡からは九江郡に︑南郡・上黨郡から
の者︑および□邦や·(47
)の︑かつての東部邊境で防備に就くべきであった者は衡山郡に�置させた︒
供給源となっているのはすべて關外の郡で︑かつ占領戰開始以�に設置されたものである(48
)︒一方︑供給先である泗水・九
江・衡山はいずれも始皇二三~二五年の對楚征戰で占領され︑中國東南方に置かれた郡である︒潁川郡の罰戍が投入さ
れた﹁江胡
(湖?)郡﹂は從來知られていなかった郡名だが︑陳洩はこれを會稽郡の�身と推測する[陳洩二〇一〇]︒こ
の地に加えて︑�陵縣が&屬する洞庭郡にも︑潁川郡から相當數の罰戍が供給されたことになる︒いずれにせよ︑舊六國
荏�領域の諸郡の閒には占領時2による區分があり︑より古い占領地域から瓜一直�に占領された地域へと︑罰戍を り
!む仕組みであったことが分かる︒
嶽麓書院&藏鯵﹁爲獄等狀四種﹂の案例①﹁癸・瑣相移謀¸案﹂では南郡州陵縣で﹁贖黥﹂と量𠛬された人閒が︑そ
れを﹁戍衡山郡各三歲﹂によって償おうとしている︒南郡の罰戍は衡山郡に�屬されるという︑右の規定の履行を裏づけ
る︒案例①は始皇二五年五~七�の日附を持ち︑怨たに占領された舊楚領への罰戍投入が占領直後から實施されたこと
が知られる︒�陵縣の罰戍たちも︑その年代が�するものは始皇三一~三三年で︑j戍が動員されるより以�には︑�
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陵縣における軍事力の中核であった可能性がある︒
六︑兵士の任務と軍事組織
先に言�した﹁尉課志﹂には﹁卒死<課﹂と竝んで﹁卒田課﹂が現れ︑兵士が農業生產において重
な役割を果たした
ことが分かる︒このほか︑兵士は樣々な雜用にnわれており︑﹁牢人﹂として監獄の管理に當たり
(⑧1401)︑郵書をºび
(⑨14)︑さらには@の給仕係も務めている(49
)︒﹁�陵戍卒多爲@僕︱︱�陵縣の戍卒は多くが@の下僕となっている︱︱﹂
(⑧106)とあるのは︑�時における兵士たちの︑僞らざる實であろう︒
もちろん戰闘や治安維持のために戍卒が動員されることもあった︒その數少ない例の一つが旣に引用した⑨1112鯵で︑
亭の校長が卒をoいて﹁盜﹂の鎭壓に當たろうとしていた︒また⑧439+
鯵では﹁將奔命校長の周﹂が︑﹁徒﹂の´<に
關する爰書を敦長・什長の證言を元に作成している︒群盜取閲等のために武官が兵士や𠛬徒
(﹁徒﹂﹁卒・徒﹂)を動員し︑
\伍を組んで出動している狀況
(二年律令140~143)で生じた´<事件かと推測される︒﹁什長﹂は里耶秦鯵にこの一例しか
見あたらず︑その下に置かれたであろう﹁伍長﹂は︑K11出土の戶籍鯵に見えるものの︑軍事組織內の﹁伍長﹂との關係
は不�である︒
一方︑﹁什長﹂を束ねた者であろう﹁敦長﹂は︑睡虎地秦鯵にも末端の部\長として見える
(秦律雜抄12等)︒里耶秦鯵
では罰戍が敦長を務めている事例があり(50
)︑從って彼らは官@ではなく︑戍卒のなかから�任者が4ばれたと考えられる︒
かの陳¼が﹁屯長﹂となった(51
)のも︑同樣の事であろう︒
これに對し︑﹁校長﹂は﹁�陵@志﹂に六名という定員が擧げられ︑官としての地位を持つ︒二年律令ではその秩祿が
百二十~百六十石とされる
(二年律令451~464︑471~472)︒⑨1112以外にも﹁某亭校長﹂として現れ
(封診式25︑奏讞書76)︑
亭に&屬する場合が目に附くものの︑⑧439+
鯵では﹁將奔命︱︱奔命(52
)をoいる︱︱﹂を冠し︑これは野戰軍の指揮官
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18
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であろう(53
)︒亭に�屯する校長は求盜をも�下にえ︑共に犯罪者の¾捕等に當たった
(封診式25︑奏讞書36~37︑75~76)︒
以上にあげた軍事・治安關係の職務は︑縣にあっては﹁尉﹂によって瓜括された︒たとえば求盜の任命も縣尉の權限に
屬す
(⑧2027)︒縣尉は軍政の責任者として︑縣令を頂點に戴く民政組織からいくぶん自立した地位を�しており︑自ら
の官衙を'え︑發弩嗇夫や尉#がそこでの事務に當たっていたらしい(54
)︒同格の機關の閒で�書を�り取りする際に用いら
れる﹁敢吿(55
)﹂が︑縣廷から縣尉に宛てた�書で用いられた
(⑧657︑⑨1112︑⑯5)のも︑縣の長官に必ずしも從屬しない︑
縣尉の地位を示している︒
戍卒の�備に際しても︑縣廷はその手續きに直接は關與しなかった︒
廿八年七�戊戌朔癸卯︑尉守竊敢之︒洞庭尉�巫・居貸・公卒・安成・徐︑署�陵︒今徐以壬寅事︒謁令倉貣食︑移
尉以展¿日︒敢言之︒七�癸卯︑�陵守丞膻之吿倉f︒以律令從事︒/À手︒卽徐□入□
(正)
癸卯胊忍・宜利・錡以來︒/敞Â︒
齮手
(背)
(⑧1563)
二十八年七�戊戌朔癸卯
(六日)︑尉心得(56
)の竊が申し上げます︒洞庭郡尉が巫縣の居貸
(居貲)で公卒の︑安成里の
徐を��し︑�陵縣をその部署としました︒いま徐は壬寅の日
(五日)に任務に就きました︒倉に命じて食糧を立
替荏給(57
)させ︑こちらには展¿(58
)の日附を知らせていただきたい︒以上申し上げます︒齮が書いた︒
癸卯に胊忍縣・宜利里の錡が持ってきた︒/敞が開封︒
七�癸卯︑�陵守丞の膻之が倉嗇夫どのに吿げる︒規定のとおり職務を行え︒Àが書いた︒ただちに徐は⁝︒
ここで戍卒の�置を決めるf體となっているのは洞庭郡尉であり︑�陵縣の尉がその指示を承けて實務にあたっている︒
尉からの依賴によって食糧荏給が始まったという事實は︑縣の令・丞が戍卒�置の實務に直接は關與していなかったこと
を示唆する︒このほか︑卒が取?を^ける場合︑その旨を郡守ではなく郡尉に報吿するよう求められている(59
)
(⑧657)の
も︑軍政系瓜が獨自の瓜屬關係を�したことを示す︒
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もちろん縣尉が縣令・丞の瓜治から完に獨立していたわけではない︒尉は縣廷からの指示をうけ︑また業務報吿や他
縣への照會依賴などを縣に對して行っており︑縣令が瓜括する�書行政の枠內に組み!まれていた︒ただし︑現�の#料
は縣の令丞と縣尉との瓜屬・分掌關係を究�するには不十分であり︑この點について具體例を擧げて檢證するのはÃえた
い︒さ
らに不�瞭なのは�陵縣內に居たことが確Gできるその他の武官︑すなわち司馬や卒長の地位である︒先営したとお
り︑兩者はいずれも貳春�附Vに�屯していたらしいが︑縣&屬の官であったかと思われる(60
)一方で︑卒長については﹁洞
庭卒長□在�陵﹂(⑫691)という鯵もあり︑洞庭郡&屬の武官が一時�に�陵縣內に�留していた可能性もある︒類似す
る例には﹁�陵邦候守臣敢吿�陵f﹂(⑨1874(61)
)としてみえる﹁邦候﹂があり︑これは�陵縣內に�屯する郡候(62
)から縣令
に宛てられた�書の一部であろう︒先に觸れた﹁軍@在縣界中者﹂とは︑まさにこれらの︑縣に屬さない卒長や郡候など
を指したと考えられる︒
するに︑縣內の軍政を瓜括したのは縣尉で︑兵員の數や�置は縣尉によって把握されていた︒實際に兵をoいたのは
その�下にあった校長で︑兵士は什伍に5成され︑それを束ねる者として敦長が置かれていた︒これらが經常�な防備軍
として�陵縣に�屯した一方で︑郡に直屬する指揮官が縣內に�留する場合もあった︒彼らがoいる軍勢は︑おそらく縣
尉の管°外にあったであろうから︑實際に�陵縣內に�屯していた兵員は︑縣尉管°下の六〇〇人度よりも︑さらに大
規模であったと考えるべきだろう︒
結びにかえて︱︱�陵縣の性格︱︱
秦代の�陵縣には︑把握されている一般戶口の數とは�らかに不Äり合いな規模の官@が置かれ︑さらに大量の𠛬徒と
兵員が�置されていた︒この現象を如何に理解すべきか︑�後に私見を営べておきたい︒
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まず念頭に置くべきは︑一五〇~二〇〇戶という數字が�陵縣下に居するすべての人口ではない可能性である︒これ
を遙かに上囘る數の人閒が︑秦の瓜治にすことなく縣內に居していたとすれば︑六〇〇人規模の�屯軍が�備された
のも不思議ではない︒いわば�陵縣は︑酉水を下って湘水水系へÅ入する勢力を食い止める︑防波堤の役割を果たすもの
であり︑ある%味で邊境の縣であったといえよう︒
ただしこうした機能を重視するあまり︑�陵縣を酉水上液の︑袋小路の突端と見なしてしまうと︑この地が持つその他
の性格を見´すことになりかねない︒�陵縣は巴郡と湘西とを結ぶ±/路上に位置する縣でもあった︒
光緖﹃龍山縣志﹄に據ると︑里耶地域は﹁湖南・四川の水陸の
·﹂であり(63
)︑四川からの物Fがここにºび!まれてい
た︒これが太古からの﹁
·﹂であった確證はないが︑一方で目されるのが﹃華陽國志﹄に見える︑bの傳承である︒
涪陵郡︑巴之南鄙︒從枳南入︑折丹涪水︑本與楚商於之地接︒秦將司馬錯由之︑取楚商於地爲黔中郡也︒(卷一巴志)
涪陵郡は巴の南邊である︒枳から南に折れて丹涪水に入ると︑もとは楚の商於の地と接していた︒秦の將軍司馬錯
はここを/り︑楚の商於の地を奪って黔中郡とした︒
任乃强は﹁巴涪水﹂と﹁丹涪水﹂を衣なる川とし(64
)︑﹁由之﹂を衍字としている[任乃强一九八七]︒だがいずれにせよ︑司
馬錯による黔中郡設置の際には︑巴南から四川・貴州・湖南の境界を越えて︑軍がÅ攻したことになろう︒巴郡から長江
を下り︑洞庭湖を經て湘水に入る水路が利用できなかったという事があるにせよ︑關中の秦本土から湖南へ�兵する際
の︑8軍路の一つになり得たことは念頭に置かれるべきである(65
)︒﹃三國志﹄吳書・鍾離牧傳に據ると︑魏は蜀を滅ぼした
後︑郭純を�わし︑涪陵の民をoいて�陵から酉陽へと8軍させている︒この時にもまた同じ經路がnわれたのであろう︒
�陵縣の�屯軍は︑この±/路を維持する役目もxっていたに いない︒
�後に︑F源供給地としての性格にも目しておきたい︒第三違でも若干觸れたが︑里耶秦鯵には﹁采鐵﹂﹁采金﹂に
關わる﹁課﹂が見え
(⑧454)︑この地で金・鐵が6取されたことが窺える︒ただしその規模は定かでなく︑現時點ではそ
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21
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の重
性を强?しうるほどの材料に缺ける︒だが同じく洞庭郡に屬すZ縣には﹁鐵官﹂があった
(⑨712)︒Z縣の&在は
不�であるものの︑この鐵官に�陵縣から𠛬徒が��されることもあり
(⑩673)︑�陵縣に¦接する縣であった可能性が
高い︒
これらのうち何れの
素が�も重
であったのかは分からない︒だが少なくとも秦の�陵縣が邊境の縣ないしは8軍路
上の縣として︑一つの軍事據點であったことは確かだろう︒その防衞が當地の�屯軍に課せられた役割であった︒今後︑
�屯する兵士の來源について#料が增加すれば︑秦による軍事據點の管理について︑その基本方針を見出しうる可能性が
2待される︒
�(1)
本稿で言う﹁關中﹂は︑函谷關・武關・江關等に圍まれ
た地域を指す︒秦本土である內#のほか︑巴蜀や上郡︑隴
西等もこれに含まれ︑邢義田の言う﹁廣義の關中﹂にVい
[邢義田一九八七︑一一〇頁]︒函谷關・武關とともに︑扜
(江)關・鄖關・臨晉關がË國の東西を區切る重
な防衞
線であったことは二年律令492より知られたが︑これは秦の
體制を繼承したものと考える︒
(2)
大櫛は具體例として滎陽・成皋一帶を擧げる[大櫛一九
九四︑六〇]︒
(3)
ただし︑楚系�字の鯵はJ1の上層から出土しており︑
秦滅<後に舊楚の官職名や楚系�字が復活したものとする
%見もある
(陳洩氏からの直接の敎示に據る)︒
(4)
「上衍﹂は﹃漢書﹄地理志に見えないが︑洞庭郡&屬の
縣であることは閒 いない
(⑧159)︒
(5)
四方城は里耶鎭からは五五キロメートル︑白鶴灣からは
三五キロメートルほどで︑やや酉陽縣寄りである︒ちょう
ど中閒地點ということであれば︑戰國~漢代のW跡が酉水
沿いに發見されている保靖縣拔茅鎭・昴洞鎭周邊も考えら
れる︒
(6)
この鯵では﹁﹁兵﹂を內#に輸 せねばならない﹂とし
た上で︑貳春の﹁□□□□五石一鈞七斤﹂をº搬すること
が提案されている︒º搬の對象が重量單位
(石鈞斤)で數
えられていることをふまえ︑︽校釋︾は﹁兵﹂とは軍糧で
あるとみる︒しかし穀物は/常容積單位
(石斗升)で計量
され︑重量單位がnわれるのは纖維・金屬・肉などに限ら
れる︒暫く︽校釋︾に從うものの︑武器の材料となる地金
― 22 ―
22
-
や穀物以外の軍需物Fであった可能性も殘る︒
(7)
里耶秦鯵には︑貳春�から發せられた�書が當日中に縣
廷までたどり着いている例も見える︒
廿九年九�壬辰朔辛亥︑貳春�守根敢言之︒牒書水火
敗<課一牒上︒敢言之︒(正)
九�辛亥旦︑#邛以來︒/感Â︒
邛手︒(背)
(⑧645)
二九年
(�二一八)九�壬辰朔辛亥
(二〇日)︑貳
春�守嗇夫の根が申し上げます︒﹁水火敗<課﹂一
牒を牒書して提出します︒以上申し上げます︒邛が
書いた︒九�辛亥旦に#の邛が持ってきた︒感が開
封︒
辛亥の日附を持つ�書がその日の﹁旦﹂に縣廷まで到`し
ており︑これに據るなら︑貳春�は縣廷の側Vにあり︑遞
に五~六日を
したのは何らかの荏障があった場合であ
ることになる︒高村が﹁縣廷からさほど離れていない﹂と
する&以である[高村二〇一五︑三一頁]︒だが︑�書作
成日のÒに着くというのは︑遞 に
した時閒が短すぎ︑
むしろ/常とは衣なる事を感じさせる︒
このとき提出された﹁水火敗<課﹂は︑同じ辛亥の日
のうちに�陵縣からさらに上=機關へと られている
(⑧1511)︒九�二十日という日附と考え合わせるなら︑
九�末日の會計年度の�わりを�にして︑さまざまな業
務報吿があわただしく上=機關
(この場合はおそらく洞
庭郡)へと られている狀況が想定される︒こうした年
度末の上計に際しては︑縣の長官自らが郡に計を持參
する場合すらあり[嚴rÓ一九六一︑二六一頁]︑@員の
少ない�にあっては︑�嗇夫自身が書記官を引き連れて
縣城に出張し︑城內の傳舍等で事務をこなすことがあっ
たのではないか︒右の鯵での遞 時閒の短さには︑こう
した事があったものと推測する︒
(8)
この四�字は︑里耶秦鯵牘校釋小組二〇一四
に據り原
釋を改めた︒
(9)
當該鯵の末尾は︑縣尉が�と卒長の雙方に�書を下した
ようにも讀めるが︑その解釋は6らなかった︒根據となる
のはbの鯵である︒
〼□�陵丞昌下鄕官曰︑各別軍@︒●不當令鄕官別書
軍@︑軍@�鄕官弗當聽︒⁝(後略)⁝(⑧198+
)
�陵丞の昌は始皇二九~三二年の閒にその任にあり︑この
時2には�官を/じて軍@へ�書を下`するのが禁じられ
たようである︒だがそれ以�には︑おそらく�から軍@に
取りbぐのが一般�であり︑⑧657も同樣であったと考え
るものである︒
(10)
邦�の硏究論�に鈴木二〇一二︑第一違がある︒なお︑
戶籍現物の形態・書式が不�確な現時點では︑戶籍に記載
されたであろう事項を列記した鯵を︑鈴木のように﹁戶籍
樣鯵﹂と呼んでおくのが愼重な立場なのであろうが︑本稿
では煩をÖけ︑ただ﹁戶籍鯵﹂と稱した︒
(11)
同樣の內容が一行書き用の﹁札﹂に書かれている例もあ
る︒だがそれらは基本�な戶籍報の他に︑附加�な記載
― 23 ―
23
-
やその痕跡を含み︑基本�な臺帳とは區別されるべきもの
である︒
(12)
⑧487+
⑧2004鯵は三四年八�一一日に作成されたも
のであり︑特定の年の﹁見戶﹂とは年度末時點での戶數で
あったと推測される︒⑧731にも﹁(貳?)春�戶計﹂と
ともに﹁八�﹂と記されている︒
(13)
綴合は何�祖二〇一三に據る︒
(14)
呂思勉は﹃左傳﹄昭公一九年の﹁楚子爲舟師以伐濮﹂を
引き︑﹁此言在�郢以後︑則此濮必在郢之南︒後來&闢黔
中郡︑疑亦濮族之地﹂と推測する[呂思勉一九三四]︒︽報
吿︾をはじめ︑多くの論者がこうした理解を共�する︒
(15)
『#記﹄楚世家に﹁楊粤﹂の語が見える︒
熊渠生子三人︒當周夷王之時︑王室Ú︑諸侯或不Ò︑
相伐︒熊渠甚得江漢閒民和︑乃興兵伐庸・楊粵︑至于
鄂︒
呂思勉は諸家の解に據り﹁自江陵以東︑Û於吳會︑皆爲
此族居地﹂とする[呂思勉一九三四]︒﹃#記﹄﹃漢書﹄では
秦が南方の﹁楊
(揚)越
(粵)﹂にÅ攻したことが営べら
れ︑それらのでたとえば顏師古は﹁本揚州之分︑故云揚
粵﹂との解說を加える
(﹃漢書﹄西南夷傳)︒ただし秦が攻
略した對象は﹁百越﹂と記されることもあり︑越恩正は廣
義の﹁揚越﹂は﹁百越﹂と同義で︑狹義では﹁揚州の越﹂
であるとする[越恩正一九八六]︒
(16)
「﹂は﹃三國志﹄﹃後漢書﹄﹃華陽國志﹄など︑魏晉以
影の#書に現れる呼稱である︒その實態をめぐっては諸說
あり︑�怨の成果である石碩二〇一一は︑それら諸說を
①彜族の先祖︑②白族の先祖︑③サカ族︑④各地の羌・
氐など樣々な民族をÝ括する呼稱︑に分類する︒そのうえ
で石は︑秦による移民の壓力を^けて︑南方に移した
﹁蜀人﹂が﹁﹂であるとの理解を示す︒これは﹃後漢書﹄
董卓傳の﹁兵卽蜀兵也︒漢代謂蜀爲﹂を强く%識し
たもので︑十分な說得力を持つ︒ただし︑石は﹁﹂が漢
晉の際に出現した語と見ており︑﹁臾
()人﹂が里耶秦
鯵に現れるのと齟齬する︒
なお﹁臾人﹂の語は長沙走馬樓�漢鯵
(鯵1)にも見え
るが︑胡�生はその直�に現れる﹁臾皇人﹂と同じで︑
﹁臾皇﹂は里名とする[胡�生二〇一二]︒#料の面�な
公開を待つこととしたい︒
(17)
戶ごとに課せられるx擔としては戶賦
(⑧518)と戶芻
(戶芻錢︑⑧1165)があった︒⑧518鯵からは︑戶賦とし
て戶ごとに繭六兩が課せられたことが分かる[鄔�玲二〇
一三]︒
(18)
「怨黔首﹂は律�にも見える語であり︑于振波は﹁秦人﹂
に對して﹁舊六國の民﹂を指すものとf張する[于振波二
〇〇九]︒これに對し本論は︑⑯950鯵に見える﹁怨黔首﹂
がこうした法�中の語とは性格を衣にし︑﹁�陵縣がす
でに把握している臣民﹂に對して﹁怨たに把握された臣
民﹂を暫定�にそう呼んだに1ぎないと考えるものである︒
(19)
佐竹靖彥は漢代各郡の家族規模を檢討し︑北方邊境や南
方少數民族居地區では規模が大きいことから︑中原とは
― 24 ―
24
-
衣質な族�結合の存在を推測する[佐竹一九八〇]︒とは
いえ︑それでも�大で一戶八口度であり︑二〇口超とい
う數字からするとかなり少ない︒
(20)
《校釋︾が指摘するとおり︑義賦・羽賦については﹃後
漢書﹄南蠻傳の記事が想�される︒
�秦惠王幷巴中︑以巴氏爲蠻夷君長︑世尙秦女︑其民
m比不j︑�罪得以m除︒其君長歲出賦二千一十六錢︑
三歲一出義賦千八百錢︒其民戶出幏布八丈二尺︑雞羽
三十鍭︒漢興︑南郡太守靳彊一依秦時故事︒
また張家山漢鯵﹁奏讞書﹂案例①では︑﹁蠻夷﹂は﹁賨
錢﹂を荏拂うことで徭賦
(あるいは實際の徭役)を免ぜら
れたことになっている︒c俊峰はこの點に着目し︑戶賦を
課される一般の戶口と﹁外族﹂とを區別する[c俊峰二〇
一四]︒一般戶口と﹁怨黔首﹂とを稅x擔の點で區別する
視點には贊同したいが︑徭賦の免除が戶賦の免除をも%味
したか否かは檢討の餘地が殘る︒
(21)
蠻夷がすべて等しなみに0われたのではなく︑舊來の瓜
屬關係や社會組織を維持しているか否かで︑處åが大きく
分かれるという觀點は︑渡邊英幸の論考[渡邊二〇一三]
や直接の示敎より得た︒
(22)
以上は﹁怨黔首﹂と﹁黔首﹂とを區別したうえでの推論
である︒一方で︑兩者はnい分けられてはおらず︑⑯950
鯵もまた一般5戶の戶口數の記錄であるとの見方もできよ
う︒その場合︑一つの�に五口の戶と三〇口を超える戶と
がL存したものの︑.稅に際しては何らかの區分に基づい
て衣なる課稅基準が�用された︑と考えざるを得ない︒と
もあれ⑯950鯵の圖版は未公開であり︑本論の見解を修
正せねばならない可能性もあること︑附記しておく︒
(23)
⑧
1137には﹁@凡百四名︑缺卅五人︒●今見五十人﹂
とあり︑定員數にも時代による若干の變�があった︒
(24)
亭@である﹁校長﹂は現員が二名で亭の數と合致するが︑
定員は六名であり︑他にも亭が存在していた可能性が殘る︒
貳春亭とc亭の他︑﹁陳亭﹂﹁成都亭﹂(⑧
38)﹁毋龍亭﹂
(⑧1496)が里耶秦鯵に見えるが︑これが�陵縣下に置か
れた亭か否かは確證がない︒
(25)
⑧2027鯵では尉が﹁小男子の說﹂を﹁.﹂して求盜に
している︒﹁說﹂は⑧1972鯵に﹁陽里小男子說辭〼﹂とし
てその名が見え︑これが同一人物だとすれば︑求盜は�陵
縣の民のなかから4ばれたことになる︒里典・郵人の4任
は⑧157鯵に見え︑成里の人が同里の里典および郵人の
候補に擧げられている︒
(26)
ただし︑任2滿了に>い︑他官に�置轉奄されたとおぼ
しい﹁冗佐﹂もいる
(⑧2106)︒
(27)
�里の家人から錢の仕 りを^けている﹁均佐﹂の存在
がこの點を傍證する︒
錢三百六十︒
卅二年九�甲戌朔丁酉︑少內殷・佐處︑
出稟家爲占︑入錢居縣︑^償署&︑均佐︑臨邛公卒奇
里召吾︑卅二年冬夏衣︒(⑫2301)
三六〇錢を荏給︒三二年九�甲戌朔丁酉
(二四日)︑
少內嗇夫の殷・佐の處が︑均佐で臨邛縣の公卒︑奇
― 25 ―
25
-
里出身の召吾に︑三二年の冬夏の衣
(¸入のため
の錢)を荏給︒家人が申吿し︑居する縣で錢を³
入し︑勤務場&で償;を^けた︒
帳ないしは割り符の記載であるため︑諸事項がランダム
に列擧されている︒﹁出稟﹂とその荏給對象者の個人報
との閒に揷入される﹁家爲占︑入錢居縣︑^償署&﹂は︑
家人が故�から三六〇錢を直接 金したのではなく︑まず
本貫のある﹁居縣﹂で官に³付し︑その縣からの指示を承
けて︑﹁署&﹂である�陵縣で當該の金額を本人に荏給す
る手筈であった旨︑記したものだろう︒@や卒に荏給さ
れ︑その未着がしばしば問題となっている﹁衣用
(錢)﹂
(⑧445︑⑧647)とは︑まさに右の鯵にみえる錢物であっ
たと推測される︒
(28)
任2滿了とともに歸�を4擇するのは�下層の官@にと
どまらず︑相應のキャリアを積んだ書記とおぼしい﹁令
#﹂のなかにも見える︒
〼令#㝡日備歸〼
(⑧1013)
ただし斷鯵であるゆえ︑﹁日﹂の�に句讀が入る可能性も
ある︒後考に俟ちたい︒
(29)
未公開鯵︒張春龍二〇一二が釋�と圖版を載せる︒
(30)
「泰凡百八十九人﹂と﹁死<﹂との閒には︑體例からし
て死<者の數が入るべきだが︑脫落している︒また一八九
人に對して二九人の死者が出たとすると︑その割合は6人
と15/29のはずだが︑鯵�は6人と5/63とする︒
(31)
高村は﹁六百廿六﹂という數字が兵士のべ人數である
可能性を指摘する[高村二〇一五︑三二頁]︒しかし上欄
第二行の﹁死一人﹂が同第三行に﹁死者一人﹂として擧
がっており︑その上に記された﹁六百廿六人﹂がべ數で
あるとは思われない︒
(32)
ただし︑千を超える軍勢が�屯していたとは考えにくい︒
⑧458鯵は﹁�陵庫﹂に收められた武器の一覽で︑﹁甲三
百卌九﹂﹁弩二百五十一﹂といった數字が擧げられる︒二
世元年の紀年を持つ⑨2045鯵にも﹁甲三百卌九﹂とあり︑
この一覽の年代を推測できる︒時2による變�は考慮され
るべきだが︑千人を超える軍\を荏えるための備蓄として
は︑いささか物足りない︒
(33)
居都尉府�下の甲渠候官には部で一一の﹁部﹂︑七
四~八〇の燧が&屬する[李振宏二〇〇三]︒各燧の卒は
二~四人で︑�均三人を八〇の燧に乘ずると二四〇という
數字が得られる︒また各部の卒數としては﹁廿二人﹂(第
三部︑24・2)︑﹁廿四人﹂(城北部︑E.P.T5:93)︑﹁廿七
人﹂(第十部︑E.P.T7:44)といった數字が見え︑一一部
×
二四人だと二六四人となる︒
(34)
居漢鯵に﹁居始元二年
(�八五)︑戍田卒千五百人﹂
(303・15︑513・17)とあるのが論據となる︒だが﹁千五
百﹂という切りの良い數字が果たして實數なのか︑若干の
懸念は殘る︒一方でî水金關鯵には總計で二二一一人にの
ぼる﹁居罷卒﹂が見え
(73EJT22:111)︑これらが居
都尉府から任2を�えて歸�する卒の記錄だとしたら︑都
尉府&屬の卒の總數は二千を超えることになる︒
― 26 ―
26
-
(35)
さらに時代は影るが︑里耶から直線ð離で百キロメート
ル餘の湖南省張家界市古人堤から出土した後漢鯵
(10號
鯵)にも兵員數とその內譯が記されており︑總數は三七三
人であった︒ただし︑古人堤は後漢の武陵郡閏縣の領域に
屬するものの︑縣治からは離れており︑魏斌はここが縣尉
の治&であった可能性を指摘する[魏斌二〇一四]︒
(36)
小林二〇一四も�陵縣に�屯した兵士の種類について整
理する︒Lせて參照されたい︒
(37)
二世元年七�︑發閭左�戍漁陽︑九百人屯大澤�︒陳
¼・吳廣皆b當行︑爲屯長︒(﹃#記﹄陳涉世家)
なお︑陳涉世家で﹁閭左﹂が�戍とされた%味について
は諸說あるが︑ここでは取り上げない︒
(38)
本�に擧げた兵種の他に︑陳洩は﹁廢戍﹂の存在を指摘
し︑官@が犯罪により罷免され︑戍卒にされた者とする
[陳洩二〇一五]︒これについては今後の#料の增加を待っ
てから論じたい︒
(39)
この鯵は下部を缺き︑﹁出貸j〼﹂とあるのみである︒
しかし類例
(⑧980等)からして﹁j戍﹂である可能性が
高いと斷した︒
(40)
嶺南"征の開始時2には諸說あるが︑鶴閒和幸は始皇三
三年とする[鶴閒二〇一三︑第五違]︒
(41)
「城父﹂縣の出身で︑﹁取賈人子爲妻︑戍四歲﹂とされる︒
出身縣からして︑j戍として役中に賈人の子を娶り︑罰
戍とされたという經雲が想定できる︒
(42)
「高里﹂出身であることが�するのみであり︑これが
�陵縣高里である確證には缺けるが︑暫定�に�陵縣出身
者であると見ておく︒
(43)
「孱陵﹂縣の出身︒﹃漢書﹄地理志では武陵郡の&屬だが︑
漢初には南郡に&屬したと考えられる[冨谷二〇〇六︑譯
5︑三四三頁]︒
(44)
ここでは始皇一八年
(�二二九)に二度目の﹁大興兵﹂
が實施され︑趙に對する占領戰が始まるのを﹁六國占領戰
の開始﹂の目安とした︒
(45)
「陽陵﹂の&在については︑洞庭郡管°下の縣とする說
や關中の地名とする說があるが︑晏昌貴らはその地名がÝ
山楚鯵に見えることを指摘し︑それが舊楚の領邑で︑さら
に溯るとíの邑だった﹁陽陵﹂(﹃左傳﹄襄公一〇年)であ
り︑現在の許昌市附Vに位置したものとする[晏・鍾二〇
〇六]︒
(46)
ここに引用した二鯵は未公表︒陳松長二〇〇九が釋�を
引用する︒
(47)
「□邦·﹂の%味するところは缺字もあって然としな
いが︑屬邦や·︑すなわち秦に臣屬する衣民族集團ないし
はそれを管°する單位かと推測される[工ñ一九九八︑八
六~九〇頁]︒ここから.發された兵士が東方の﹁故徼
(防壁の設けられていない境界
(⑧461))﹂に�置された
ことが知られるが︑この﹁東部の境界﹂が關中と關外を分
かつ防衞線なのか︑それとも占領戰開始以�の東部邊境を
指すのかも︑現時點では然としない︒
(48)
供給元の諸郡のうち︑河內郡はその設置時2が不�だが︑
― 27 ―
27
-
﹃#記﹄秦始皇本紀・始皇一八年條に﹁王翦將上地︑下井
陘︑端和將河內︑羌瘣伐趙︑端和圍邯鄲城︒﹂とあり︑こ
こで上地郡と竝んで現れることからして︑それ以�の置郡
であることは閒 いない︒
(49)
⑧811鯵に﹁@養である城父縣の士伍︑得﹂が現れ︑そ
の出身地からして得はj戍であったと推測される︒
(50)
⑧
1574+⑧
1787鯵では﹁敦長・簪褭・襄
(衍字?)・
壞
(褱)德縣・中里の悍﹂が屯戍への食糧荏給に當たって
いる︒︽校釋︾が指摘するとおり︑⑧781+
⑧1102鯵には
﹁罰戍・簪褭・壞德縣・中里の悍﹂が見え︑同一人物と考
えられる︒
(51)
陳¼・吳廣皆b當行︑爲屯長︒(﹃#記﹄陳涉世家)
(52)
「奔命﹂とは緊ô時に特別に動員される兵士のこと︒﹃漢
書﹄昭Ë紀には﹁應劭曰︑舊時郡國皆�材官騎士以赴ô
難︑今夷反︑常兵不足以討之︑故權4取精勇︒聞命奔走︑
故謂之奔命︒李斐曰︑�居發者二十以上至五十爲甲卒︑今
者五十以上六十以下爲奔命︒奔命︑言ô也﹂とある︒また
睡虎地﹁爲@之·﹂に引かれた﹁魏奔命律﹂からは﹁假門
õ旅︑贅壻後父﹂が奔命として動員されたことが知られる︒
(53)
「校長﹂を取り0った�Vの專論としては水閒二〇〇九
があり︑﹁校長﹂を亭の責任者の正式名稱としている︒こ
の結論自體に衣存はないが︑﹁校長﹂が亭以外の場&にも
置かれた點に︑より%をはらうべきではないか︒彭越が
擧兵した際︑遲參者のうち�も遲れてきた者を﹁校長﹂に
斬らせている
(﹃#記﹄彭越列傳)が︑これもまた野戰軍
內の役職と見てよかろう︒
(54)
⑧141鯵では﹁尉﹂の囘答を求める縣廷からの�書を承
けて︑﹁發弩守
(嗇夫)﹂が:信を っているが︑三〇年一
一�一七日附のこの:信は︑その日の﹁旦食﹂には縣廷に
屆いている︒尉は縣廷の外に官署を'えていたが︑それは
縣廷に¦接したこと︑および尉の職務を發弩嗇夫が代行す
る場合もあったことが知られる︒
(55)
里耶秦鯵では︑fとして縣から他縣に宛てた�書で﹁敢
吿﹂という呼びかけが用いられる
(⑧60+
︑⑧75+
︑な
ど)︒また數は少ないが︑郡同士
(⑧657)や縣の下=機
關同士
(�から司空あて︑⑧1515)というケースも見^
けられる︒確かに﹁敢﹂が附かない例も三例存在する
(⑧
69︑⑧
140︑⑧
2001)が︑一方で︑尉には﹁敢吿﹂︑他の
下=機關には﹁吿﹂﹁謂﹂を用い︑�らかなnい分けが見
られる事例もある︒居漢鯵では郡太守から都尉府に宛て
た�書で﹁敢吿部都尉卒人﹂(73EJT1:2など)という獨
特の言い囘しが用いられ︑里耶の語法と類似する︒
(56)
《校釋︾は⑧67+
⑧652鯵への釋において﹁尉守﹂を
﹁尉の屬@﹂と解釋するが︑そうすると尉の屬@が縣宛て
の�書で﹁敢吿之﹂と相手に呼びかけていることになり︑
ö褄が合わない︒里耶秦鯵に見える﹁尉守﹂は﹁守尉﹂と
同義︑すなわち﹁尉心得﹂と解釋し︑譯出した︒
(57)
/常︑﹁食糧を荏給する﹂の%で用いられるのは﹁出
(以)稟﹂だが︑ときおり﹁出貸﹂が現れ︑特にj戍と罰
戍
(�戍)への荏給である場合が目立つ︒bの睡虎地秦律︑
― 28 ―
28
-
宦者︑都官@︑都官人�事上爲將︑令縣貣
(貸)之︑輒移
其稟縣︑稟縣以減其稟︒已稟者︑移居縣責之︒倉︒(秦律
十八種44)
によると︑出張先で一時�に食糧の立替荏給を^けた場合︑そ
の荏給が﹁貸﹂と呼ばれたことが分かる︒
(58)
《校釋︾は﹁¿日を展す︱︱�陵に着任した日を記錄す
る︱︱﹂と解釋するが︑何�祖はbの綴合を指摘すると
同時に﹁展¿﹂で熟したとし︑﹁﹁¿﹂を記錄した日﹂と解
釋する[何�祖二〇一二]︒
■@貣當展¿︒
〼
(正)
十五分日二︑四斗者︑六錢︒
二斗︑九十分日五十一︒(背)(⑧498+
⑧2037)
この鯵は上部が黑く塗られ︑幅廣の鯵に獨特の書體で�字
が大書され︑見出し鯵の類とおぼしい︒﹁¿﹂の語義はな
お不�だが︑ここでも﹁貸﹂とともに現れることが目さ
れる︒一時�な立替荏給を行うとき︑その際の取り決めを
發效させる︑との謂かと疑われるが︑なお成案を持たない︒
(59)
⑧657鯵では琅p郡尉に報吿すべきこととして﹁卒可令
縣官�辟︑@卒衣用�卒�物故當辟.¾〼﹂が擧げられる︒
�%が然としないが︑﹁辟が�る﹂とは﹁取?を^ける﹂
の謂[鷹取二〇〇六]であろうと解釋した︒
(60)
睡虎地秦鯵に﹁縣司馬﹂が見え
(秦律雜抄9)︑縣&屬
の司馬が存在したことは閒 いないが︑一方で二年律令の
秩律には﹁郡司馬﹂が擧げられる
(二年律令468)︒里耶秦
鯵にみえる﹁司馬﹂が縣�下のものか︑郡司馬が一時�に
貳春�附Vに�屯していたのか︑定かでない︒また卒長は
二年律令では五百石の官として秩律に現れる
(二年律令
445)︒縣尉の秩祿が三百~四百石であるから︑五百石の卒
長が縣の&屬であったとは考えにくい︒しかし⑧657鯵
では縣發信の�書が縣尉を/じて卒長に﹁下﹂されており︑
尉よりも秩祿が低い︑縣=の卒長が存在した可能性が殘る︒
(61)
未發表鯵︒何�祖二〇一三が釋�を引用する︒
(62)
里耶秦鯵の﹁j名木牘﹂(⑧
461)には﹁郡邦尉」↓「郡
尉﹂︑﹁邦司馬」↓「郡司馬﹂という改稱事例が見え︑﹁邦候﹂
とは二年律令446に現れる六百石の﹁郡候﹂のことと考えら
れる︒六百石の郡候は縣の長官とほぼ同格であり︑⑨
1874で﹁敢吿﹂が用いられていることと符合する︒
(63)
里耶市︑縣西南二百四十里︑爲湖南・四川水陸
·︒河
北保靖縣里耶司︒(﹃龍山縣志﹄卷一)
(64)
任は巴涪水を現在の赤水に︑丹涪水を烏江水系の郁江に
比定する︒
(65)
巴から酉水水系に拔ける具體�な·は不�である︒
﹃水經﹄は酉水と江水
(現在の烏江)が一聯の水系で
あるかのように記営するが
(卷三六)︑楊守敬の駅が﹁今
毫無其迹也﹂と指摘するとおり︑酉水水系と烏江水系との
閒には川・湖の境界となる毛塤蓋などの山塊があり︑水路
が直接聯結することはない︒
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附記:本稿は日本學振興會科學硏究費補助金
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