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Title 秦檜の講和政策をめぐって Author(s) 衣川, 強 Citation 東方學報 (1973), 45: 245-294 Issue Date 1973-09-20 URL https://doi.org/10.14989/66501 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 秦檜の講和政策をめぐって 東方學報 (1973), 45: 245-294 ......秦槍の講和政策をめぐって 三、秦櫓の登場-南宋二、北宋における秦槍「はじめに

Title 秦檜の講和政策をめぐって

Author(s) 衣川, 強

Citation 東方學報 (1973), 45: 245-294

Issue Date 1973-09-20

URL https://doi.org/10.14989/66501

Right

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Kyoto University

Page 2: Title 秦檜の講和政策をめぐって 東方學報 (1973), 45: 245-294 ......秦槍の講和政策をめぐって 三、秦櫓の登場-南宋二、北宋における秦槍「はじめに

秦槍の講和政策をめぐ

って

はじめに

二、北宋における秦槍

三、秦櫓の登場-

南宋-

四㌧秦槍の再登場

五'講和派と反秦槍派

六、おわりに

秦槍は南宋初期の宰相である。愛国の英雄岳飛を謀殺したことで有名である。恥も外聞もかなぐりすてて異民族国家の

金と屈辱的な講和を締結したとも非難されている。いずれにせよ、岳飛が国民的英雄であるのに封して'秦槍は恥ずべき

責圃奴としていやしまれて来た。

いったい、秦槍に封する評債は'秦槍が金から蹄圃して以来、同時代の人々が色々批判したり、賛同したりしたことに

はじまるoLかLt同時代の人々には、それぞれに利害や損得がからみあ

っているので'それらを

1つ一つ取り上げてみ

てもきりのないことである。少し時代がさがると'有名な朱薫が登場する。秦槍が

五五年に死に'朱薫は

〇年

の生れ'

一〇〇年に死んだから'

少し時間がずれる。

南宋最大の学者のみならず、

中国史の上においても有数の大学

者'大思想家である朱薫が'秦槍をどう評債していたかは興味がある。

「秦槍は、昔は品行純正な人であ

った。

その時に

秦槍の講和政策をめぐって

二四五

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二四六

(1)

(2)

は'立寂な知りあいもいたが'晩年には'彼から離れて行き、すべてだめにな

った」。「秦槍は士大夫の小人である」とい

うのが朱薫の秦槍評であるOそして、秦槍といえば屈辱的、あるいは責園的講和と結びつけられるが'この秦槍の講和に

ついては、「秦槍は'和議を唱導して国を誤らせ、夷秋の力をたのんで天子を-らまLt

ついには'

人の守るべき道を踏

rl・1)

みにじ

って'親を忘れ'君をあとまわしにした。これは'秦槍の大罪である」。

と論じて'講和を非難している。

同時代

の人と言

ってもよいほど時間的な隔たりがな-'しかも'大義名分を論じることが

Tつの学問上の課題であ

って、熱心な

「1.I

主戦論者でもあ

った宋薫にと

っては'嘗然すぎるほどの論評であろう。そしてこの朱薫の秦槍許は'恐ら-南宋'あるい

はそれ以後の秦槍批判の基本とな

ったのではないかと思われる。それは'後世における宋薫の思想史上の位置と'その壁

間大系の賛展とをみても明らかである。

次の元の時代には'

「宋史」の編築方法をみても明らかなように'

朱子学的あるいは追撃的立場の影響が濃厚である。

「忠義の言葉が肺腺から流れ出し'まことにかの諸葛孔明の風格がある。しかし'

ついに秦槍の手によ

って死んだ。おも

うに、岳飛と秦槍は並び立つことができなか

った。岳飛が志を得ておれば金に封する仇うちができたLt末の恥を雪ぐこ

ともできた。

秦槍が志を得れば'岳飛の死があるだけだ」'

岳飛が殺されるとは

「なんという濡れぎぬ'なんという無葺

「T・-・)

の罪」と、宋史岳飛侍の論質で主張している。これだけなら'それほどひどい言葉ではない。ところが'秦槍は

「姦臣侍」

に入れられ'「二度'あわせて十九年間も宰相の位にお

って'天子をおどし'恵だ-みする心をいだき'講和をとなえて

国家を誤まりtかたきを忘れて人の行うべき道をこわした。常時の忠臣や良将の'ほとんど全部が根絶やしにされ、頑迷

-ヽJ

固随にして愚か'しかも破廉恥なやからが、秦槍の手先にな

った」と論難されている。元史の材料は'いうまでもな-栄

の時に準備されたが'こうした論評と配列は'元の時代の風潮の反映である。明代になると、秦槍の詐債はいよいよ暴落

Lt岳飛のそれはいよいよ高ま

って行

った。宋と同様に'漢民族国家であり'しかも異民族の塵迫を沸拭できない明にあ

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ってはう末の時代的雰圃気が十分にわかるLtすぐれた指揮官で'しかも主戦論を展開し、ために秦槍に殺された悲劇の

英雄ということで岳飛の株は天井知らずの高値を呼んだのであろう。明の牛は'正徳八年

(一五

二二)には'断江省杭州

の西湖のほとりにある岳王廟の前に'秦槍とその妻王氏'および万侯商の三人のひざまづいた銅像がつ-られ'寓暦年問

(7)

(l五七三-

1

六二〇)には'張俊の像を加えた。こうして'

一般の人々にも'岳飛が英雄で、秦槍が陰険な悪人である

という考えが浸透していったのである。

ところが'岳飛の墓前に秦槍像がつ-られる時より少し前'有名な儒学者邸港は'秦槍を許して

「南末の再建は'秦槍

(-)

の力による」ものであると言

っている。しかし'この邸港

の言葉が'わざわざ他の人の著作に引かれているということ

は'とりもなおきず邸港の意見が

一般論として通用しないことを物語るもので'特別な考え方をするある学者の意見とし

てとらえられたと理解すべきであろう。

∴r=・.I

清朝になっても、王夫之

(船山)は

「天にはびこる程の大悪人」と論じ'王士頑は

「秦槍が謬醜という誼をもら

ったの

/;;

は'天下常世の公議だ」と言

っている。やがて'清朝考詮撃の番展とともに'歴史の新しい研究もはじまり、秦槍の詐債

にも少し変化が出てきた。直接に秦槍を論じてはいないけれども'鏡大折は

「末と金とは仇敵であるから'筋道からは講

和すべきではない。しかし紹興年間の君臣は'懸命

に和議を押しとおしたので後世からそしりはずかしめられている。

(略)時勢をみれば

、これは誤算ではなかった。(略)だいたい道学の諸先生は和議ということを口にするのを恥じるも

固租E

のである

。」と言う。

また、趨翼は

「哲学的観念論

(義理の説)と現葺論

(時勢論)とは'

しばしば帝離するものである

から'全部が全部観念にとらわれてはいけないものがある。なんとなれば'観念というものは、それに現責を重ね合わせ

ることによって'最高の観念

(虞義理)になるのであるから。

(略)末が国として成り立つのは'終

'

和議によるので

あり、和議でなければ亡んでしまう。

(略)いたずらに、

和議を恥辱と考え、みだりにこれを非難するのは'まことに義

秦槍の講和政策をめぐ

って

二pg七

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二四八

理というものを知

ってはいるが'現賓の時勢を知らないものである。言

っていることは正しいけれども'その内容は責行

「i::

できないのである。」

と言

っている。

いずれも'秦槍を論評するものではないが'悪名高い秦槍の講和を堂々と耕護Lt

しかも'秦槍を攻撃する側をたしなめている。

鏡大師や趨翼の議論があ

ったけれども、やはりt

T般では秦槍が悪者であることにはかわりがなかった。ただ'歴史の

研究の分野では、もはや、感情的な秦槍

への非難が困難になってきたことは確賞である。民国時代になると'陳登原

・朱

僕両氏が時を同じ-してへ秦槍論を展開し'陳氏が鏡

・趨繭大家の流れを汲んで'秦槍に封して理解ある立場を主張した

(13)

(14)

のに封Lへ朱氏は'侍銃的な流れに沿

って、秦槍を姦臣と断定した。両氏とも'資料をいろいろ操作して研究されてい

-ヽ5」

る。このあとへ外山軍治氏

'

秦槍と岳飛という二人の相容れない人物をとりあげて'宋金双方の資料を駆使して'公平

に判断しようとされている。従来の評債より秦槍が持ち上がり'岳飛のそれがさが

ったのは'苫然である。

新中国になると'秦槍の詐債は大暴落をきたした。まず願友光氏は'講和論浜を

「投降蔽」と呼び、秦槍を

「責国威」

「川」

「大悪人」ときめつけ'岳飛が

「中国人民の秀れた侍統をそなえた民族の英雄である」と主張する。郡贋銘氏は'秦槍

一浜

『責図集圏』と呼び'「秦槍の和議は屈辱的であり'

『責固投降的』である」と言う。

そして'「岳飛ば、民族的な戦場

において、輝やかしい勃功を立て'しかも'人格崇高な歴史的人物である」とLt宋金戦争を「中国の人民を女真の野蟹な

侵略から守る防衛戦だ」としている。そして、岳飛が'この

「野蟹な侵略者を撃退し'自分の同胞と祖国を心から熱愛し

,t}

)

ていた」ことを主張しているので

沈起樟氏は

「岳飛が最も忠誠な人物であり'

秦檎

1浜は

『投降』『愛国』浜で'

秦槍は責国賊である」とする。さらに'この「宋金講和における『投降責国』浜の動きはまさに抗日戦争中の国民薫反動痕の

5]眼E

封日投降政策と同

1である」という。何竹洪氏は

「岳飛ば無限の忠誠心と'阻国への熱愛'人民と連帯し、人民の力量に

よって強い軍隊をつ-り、組国と人民を防衛した、民族の英雄である」という。また'秦槍

1浜は

「真因投降某国」だと

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,-i

する。このように'新中園においては'清朝の'少-ともそれまでの心情的解樺に比較すれば、相嘗公平な見方ができる

ようにな

ったと考えられる歴史研究の成果を'すべて覆えして'秦槍は重囲奴'岳飛ば民族的英雄という囲式を固定化し

てしま

った。いろいろな見方や考え方が'秦槍に封して展開されて釆たが、願友光氏以来の観鮎は全-固定化のそしりを

まぬがれないであろう。

本稿では'秦槍の立場を摺護したり'岳飛を批判する意因はもちろんない。強いて言えば'秦槍が東国奴であろうと'

そうでなかろうと、全-かかわりを持たない所で'

歴史が展開していたのではないか。

「責国投降集固」と言いながら'

何か代表者の秦槍ばかりが非難されているが'常時の官僚構造をもう少し分析してみることによって'こうした心情的歴

史理解が少しは克服できはしないか。

そして、

「責図集圏」とそれに封立する集圏の問題は、翠に'宋金抗争の場におい

てだけでな-'南宋全鰭の動きに非常に大きなかかわりを持

っているのではないか。このような考えに立

って、今

一度'

秦槍とその

一派について'官僚敢合と'官僚構造の方向から接近して検討してみたいと考えている。便宜的ではあるが'

いちおう秦槍の真面目ともいうべき封金和議がな

った時期までをとりあげ'(一)北宋時代における秦檎'(二)金より韓

国してから宰相になり'それを罷免されるまで'

つまり第

1回目の宰相時代と言

ってもよい時期、

(≡)第二回目の宰相

時代'ただし講和の締結まで、の三つの時期の秦槍の経歴を調べあげ'最後に'いわゆる秦槍浜と言われる集園と反秦槍

液とも言うべき集圏との内容の分析と'秦槍の用意周到な政界操作術の

一端に崩れて'嘗時の官僚機構の問題についても

接近してみたい。

秦槍の講和政策をめぐって

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二五

二、北宋における秦槍

はじめに、秦槍の経歴をしらべておきたい。宋史巻四七三に秦槍の列侍が載せてあるが、この列侍が'おそら-秦槍の

侍記の唯

一のまとまったものであろう。そこで、宋史秦槍侍を基礎に'主として政治家としての履歴をたどってみよう。

記述中'資料をあげてないものが数多-あるが'北末期に関しては'靖康要録、南末期については'建炎以来繋年要録'ま

た雨期にまたがって三朝北盟合編に依櫨している。日付が明記してあるものは、この三書の嘗該年月日の候に資料が書い

、7T;,

てある。まず北宋における秦槍である。秦槍は紹興二十五年

(11五五)十月丙辰の日に六十六歳で死んだ.これから逆

算すると'彼の誕生は哲宗元祐五年

(一〇九

〇)ということになる。江寧の人であ

ったと書いてあるから'本籍は江南東

路の江寧府'現在の江蘇省南京市である。

政和五年

(111五)'

二十六歳で'高等文官試験にかなり良い成績で合格し

3I酬Eた。この頃は'宋代の科挙制度や学校制度が'目まぐるし-変更された時代であ

った。

そして'

大観三年

(二

〇九)、

政和二年

(二

1)'五年

(二

1五)'八年

(二

一八)、

宣和三年

(1二

)の五回にわたって'

科挙の制度は麿

r!:,

止され'官僚の採用は'中央の太撃の最上級とも言うべき上舎生を試験して'合格者を任用するという方法が取られた。

したがって'秦槍は'この制度によって官界に登場したのである。

最初の職務は、京東東路の密州

(山東省諸城願)に置かれた州の学校の教授であ

った。仁宗の天聖年間

(1〇二三-

〇三

一)頃からはじま

った地方撃校の設立は'慶暦年問

(1〇四

1~

1〇四八)以来、全国の州や解にかなり普及し'紳

宗の配州寧年間

(1〇六八-

1〇七七)には'地方教育をほとんど

1手に引きうけるまでに損充された。もちろん'こうし

た学校制度の整備旗充は'王安石をはじめとする新法浜の重要な政策であ

った。そして'元豊元年

(一〇七八)には、各

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地の府や州の学校の教授五十三人が設定され'その中に密州の学校も入

っている。ただ、密州の場合、撃校の創設は景砧

年間

(l〇三四-三七)にまで遡れるので'ずいぶん早い時期に建てられていた。いわば侍統ある学校の

1つであ

った。

このあと学校制度は'新法案と膏法薫の政権交代の波をまともにかぶって改変常ならざる状態であ

ったが'新法浜の察京

の登場によ

って'大いに普及し、建中靖国元年

(二

〇一)以後'地方州麻にはことごと-学校を設置することになり、

I..{・.,

やがて、科拳を停止して'官僚の採用はすべて学校に由ることにした。ちょうどこの時に'秦槍が官界

へ入

ってきた。そ

して、地方の学校が'重要な位置を占めてきたこの時期に、秦槍は

「密州教授」に任命されたのである。宣和五年

(二

.:

,

二三)になると'こんどは詞草案茂科という特別の才能あるものを選抜する試験に合格

もともと'科挙という高等

・/7-;,

文官採用試験には、進士科のほかに明経科'明法科'九経科など多-の科目があ

った。これは'前の時代の唐代でも同じ

ことであ

った。末代になると進士科が科挙の主流を占め'科撃と言えば進士科のことを指す程にな

った。しかし'北末の

前牛で服唐代の侍続もそれなりに存績し、進士科以外の多-の科目を'

一括して諸科と呼んでいたのである。それが'北

宋の中期'紳宗の樵寧二年

(一〇六九)にな

って'科挙制の大改革が行われ'諸科を漸次廃止することにして'科拳は進

士科に統合することにな

ったのである。こうした科挙の流れに平行して'科挙制度の綱では掬い上げることのできない非

常特別な人物を選抜するために制科というものがあ

った。ただ'非常特別の大才を掬い上げるとは言え'中味は博識尉藻

の人を選ぶということであ

ったといわれている。いずれにせよ'この制科は名目が名目だけに'合格者は少なか

った。こ

の制科の

一つとして'徽宗大観四年

(二

一〇)に詞撃菜茂科が設けられた。嘗時、進士科は儒教の古典、経書の大義を

答えさせる経義を用いていたので'糞撃有文の士がまれであ

ったため'この科目を開設したと言われている。秦槍はこの

、.=3㌧

詞撃兼茂科に合格した。宣和五年の合格者は秦槍

1人であ

った。

このあと、国立中央大撃とも言うべき大学の撃正にな

った。大学はもとは国子藍と栴せられたものが、四代仁宗慶暦四

秦槍の講和政策をめぐって

二五

1

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二五二

年の時に境張されて大学が造られたのである。大草には'団子祭酒'国子司業、国子監丞'園子監主簿という国子監と呼

ばれた時代の名残りをも

った定員各

1人の官僚が置かれたが'これらは'運営面を捨富するもので'教育の任に苦るもの

rワ)

として'太撃博士

(十人)'太撃正

(五人)'大学録

(五人)以下があ

った。詞草案茂科を合格した秦槍は、教育措雷の大

草正に任命されたのである。

宣和七年正月

(一二

一五)'金は達を滅ぼした。

この年の十二月'金軍は大挙して宋に侵入した。

そして、翌靖康元年

(1二

一六)の正月三日には'滑州に居た何漢が逃げ出したのに乗じて、黄河を渡

って南進Lt七日には首都開封に到達

した。同時に'金では使者を派遣して'講和を提議した。正月八日'金の使者呉孝先が来たのがそれである。この日、太

、{3)

準正であ

った秦槍は'封金外交の要諦四第を奏上した。

一は'金国の要求は次々に出されて-るから'ただ燕山路だけを

割譲すればよい。二は'金国は隙あらば必ずあざむ-から'防衛健制をゆるめてはならない。三は'宋側では'

一時しの

ぎの策略を用いることを避けるため'文武百官を集めて根本方針を決定し'それを講和の文書に書いてうそいつわりのな

いことを示す。四は'不測の事態があるかも知れないから'金園の使者を宮城の中

へ入れたり'宮殿に上げたりしない。

このようなものであ

ったが'こ

の秦槍の議論は取り上げられなか

った。

3I覗E

正月十四日'後に南宋初代皇帝高宗にな

った康三越樺と張邦昌が'金軍の総司令官斡離不の幕営に人質として、また講

和の使者として趣いたとき、秦槍は職方員外邸に昇格して'張邦呂の事務を取りしきるための勾嘗公事に任命された。し

かし'秦槍は'この任務が'土地の割譲を第

1の目的としたもので、自分が先に表明した議論と矛盾Lt自分の考えにも

「30)

とるものであるという理由で'この任務を節返した。行政府たる蘭書省の兵部に属する職方員外邸に格上げにな

ったが'

勾嘗公事という仕事は酎過したのである。この頃へ金側の要求をのんで講和しようとする者と'拒絶して戦闘を績けよう

とする者との問で'盛んに議論が行われた。しかし'結局'優勢な金軍に首都を包囲されているという事葺が講和浜を有

.I I/

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力にLt北通の軍事接鮎を割譲Lt欽宗の兄弟の

一人が人質になり'膨大な財貨の提出に魔じようと言うことにな

ったの

である。

(31)

二月四日'秦槍は程璃らと共に割地使に任ぜられた。割譲の箕施を計るための任務である。二月七日'欽宗の弟粛王梶

小ヽ1:I

が'張邦昌らと共に金軍の斡離不の陣営に趣いた。この時'秦槍らも随行した。秦槍の任務は河間府の割譲であ

ったし'

程璃は中山府の、路允迫は大原府の割譲をそれぞれ搾嘗することにな

った。

31非苅

二月十日'金は粛王が人質となり'要求した三鎖を割譲するという詔を得たので、獲得した財貨の総額が要求した額に

満たなか

ったけれども'軍隊を引き上げた。このとき'粛王が人質にな

ったので'康王を蹄還させたが'粛王はそのまま

粒致され'嘗然のことではあるが'秦槍らも黄河を渡

って北方

へ向

った。

長編紀事本末五月丁丑の修に、

「初め'斡離不が中山府

・河問府まで蹄りついたところ'

この二府の兵や民は固く守

て降伏しようとしなか

った。粛王と張邦昌と割地使たちが、みずから城廓の下まで行

って説きさとすと'すぐさま矢や石

(.;=_I

が投んできた」と書かれている。割地俵とはこうした降伏に従わない軍や民間の人々に'割譲の賓を挙げるために'通知

説得してまわるのが仕事であ

ったらしい。そして'この記録の割地俵には嘗然'秦槍も入

っていたと考えられる。

四月十五日、斡離不は燕山府

(現在の北京)に締

った。宋史の秦槍侍には

「秦槍に命じて、躍部侍邸と言う首座の肩書

きで'

程璃と共に割地使にLt

粛王に従

って行かせた。

金の軍除は撤退し'

秦槍

・程璃らは燕まで行

って蹄還した」と

「gT・:

書かれている。粛王は二月十

一日'人質として連行されている。恐ら-秦槍らも同行したのであろう。そして'宋史秦槍

侍の

「燕まで行

った」という記事は、斡離不に絶

って'幽州燕山府まで行

ったことを指すのであろう。このあと'すぐ引

き返して国都

へ掃

ったらし-'五月十

一日に'火急の際に職方員外部にしてもら

ったが、国難の折、我が身の昇進など問

(36)

題外であるから'この昇格を取り消してほしいと言

っている。

つまり、秦槍は五月十

一日以前に蹄還していたのである。

秦槍の講和政策をめぐ

って

二五三

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二五四

蹄還した秦槍は'監察を任務とする御史蔓の長官

(御史中丞)の李回と'公文書の起草を職務とし'同時に大臣

への登

'!・=)

龍門である翰林院の最高官

(翰林学士承旨)の呉升との推薦で、殿中侍御史

(御史室での第三位)を拝命した。

中山

・河間

・太原の三鎮二十州五十六麻を割譲Lt欽宗の兄弟を人質とし、公私の財貨を洗い汝い差し出した上で'金

との講和が成り'金の軍除は引き上げた。金軍が退いて'目前の脅威がな-なり'しかも地方からの勤王軍が開封

へ集

て-ると'再び宋側は元気を取り戻し'主戦論者が起用された。割譲を約束した三鏡の将兵に固守することが命じられ'

rgJ)

1万ではもとは達の

1族で今は金に降

っている耶律余親なる者に'宋

への寝返りを進

こうした背信行馬はこれだけ

に限らず'しかも徽宗の時からたびたび行われ'そのほとんどを金側は知

っていた。耶律余親の

一件と'今

一人'善達の

梁王雅里なる者

へ'同様にして手紙を遮

った

1件とは'金をして再度'宋

への攻撃を決心させた.八月七日'金圃皇帝の

攻撃命令が斡離不と粘竿に下

った。九月三日には'二百六十日にも及ぶ大原攻防戦が終り、北方の最も重要な壕鮎大原府

が障落し'十月五日には'鎖州虞定府も階落し'二軍に分れて南進する金軍を防ぎ止めるものがな-な

った。十

一月二十

四日'金軍が宋の首都を取り囲んだ。

こうした状態の中で'太原と崖定が障落して、封金防禦の接粘がな-なると'再び宋側では'講和浜が優勢にな

った。

しかし'金側の態度は強硬で、やがて'首都の開城'徽宗欽宗以下ほとんどの皇族の連行という事態に至るのである。

さて'秦槍は'金軍が再度南下して末を攻撃しはじめた時'殿中侍御史であ

って'その後も二ケ月はどこの職務に就い

ていた。太原に次いで崖定府も階落し'いよいよ金軍が首都開封

への進撃をはじめた頃の十月十二日、秦槍は殿中侍御史

、.7))

から左司諌

へ進んだ。主戦派の李綱が追放され'虞定府が階落し'欽宗が哀痛の詔を下し'宋の朝廷が再び弱腰にな

った

時のことである。

十月も牛ばをすぎるころから'

宋の朝廷では'

おしよせて来る金軍にどのように封彪するかが'

幾度とな-

議論され

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た.十

1月八日に'百官を延和殿に集めて行われた合議では'秦槍は梅執躍'孫博、呂好問'洪窮'陳国材らと共に主戦論

を主張して'蒋宗声らの北遺三鎖を割譲するという講和論と封立した。主戦論を主張する者は三十六人'講和論の支持者

(S.I

は蒋宗声ら七十人であ

った。このほか、講和論には秋南仲'呉升らが賛成し'主戦論には除汝嘱、宋奔愈'何奥'曹輔'

陳過庭、漏滞、李若水らが-みした。結局'主戦論板の梅執程の意見が採用されたが、その内容は、積極的に攻勢をとる

(41)

のではな-金の進攻を受ければ'城廓に立てこもるというだけの策戦であ

った。ここでtとにか-講和に反封の立場をと

る側の意見が通

ったことによ

って'講和派の蒋宗デは離職し、

つづいて'金軍が破竹の進撃を見せると'主戦浜の何垂ら

が退けられた。こうした'主我浜と講和淑とがいれかわりたちかわり猪の目のように交代して行

ったが'こ

の状態の中で'

一月二十三日'孫博'曹輔ら主戦浜の連中が枢密院

へ登用されたときには、時を同じ-して'秦槍も榔史中丞に抜擢さ

固胴荊

れたのである。

その翌日二十四日'斡離不の軍隊が開封に到着し'少し遅れて閏十

一月二日には'粘竿の軍隊も到着した。そして

一方

では講和の使者が往復していたのに'他方では'首都の城壁をはさんで戦闘が繰り返され、二十五日にな

って城壁の

一角

(coLtdl)

を突破した金軍がなだれ込み'開封は陪落した。

欽宗は東華門に登

って'武器を輿えられたすべての者に'兵器を楼門の下

へすてることを命じた。首都防衛の軍隊は潰

威し'人々は戦闘意欲を喪失してしま

っていたから'武器を輿えられた者はたちまちそれを棄ててしま

った。夜になると

宮中に奉仕していた百官達も逃げ出し'宮廷には人

っ子

1人いな-な

ったが、親王の妃と梅執躍'秦槍'謝克家ら数人だ

(44)

けが欽宗のそばに居た。

この目'軍人蒋宣らの

一国が、欽宗を奉じて開封から逃げ出そうとした。秦槍は、逃げ出すことは末の朝廷を守ること

∴・-;_,

'金側との講和談判がどうなるかを見守るのが第

1であるとさとしているO

秦槍の講和政策をめぐ

って

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二五六

あ-る二十六日、何兵らが請命俵という名で斡離不、粘軍の陣営に行

って講和を話し合

った。午後には'御史中丞の秦

、;3,

槍'右司員外都の司馬朴らも'

つぎつぎに金軍

へ出向いて、ど気嫌伺いをした。二十七日の講和食談では'金の二人の賂

軍は土地の割譲を要求し'同時に退位している徽宗が都城から出て-ることを求めたが、欽宗がみずから出向-ことを承

諾した。三十日'欽宗は宮廷をあとに首都開封の外城にある南董門を出て'宋朝が天を祭る時に使う奔宵である南青城に

った。

宮城はもとより'

首都の城廓をも越えて外に出たことは、

そのまま金の捕虜にな

ったことを意味する。

まもな

-、欽宗は宮廷に掃

ったけれども、首都は金軍に征歴されており、十二月には'たびたび金からの要求をうけて、金銀財

賓を供出した。

靖康二年にな

っても'こうした事態は変らず'正月十日'欽宗は再び青城に赴いたがへ再び自己の宮廷に蘇ることはな

った。二月七日には'上皇

(徽宗)以下の皇族が音域に赴き'金の捕虜とな

った。

1万、金の方はすでに六日に使者を

って'欽宗をやめさせ'宋の皇室の

1族でない者を立てて皇帝にする意向を侍えてき'この意向を貫徹するため'あら

「∬し

ゆる皇室の

一族縁者の逮捕を開始した。

1万㌧宋の官僚達は'金の要求に従

って'誰を皇帝に推戴すべきかを議論し、二

月十三日には百官'軍人'民間人までをも集めて行ない'張邦昌を立てることを決めた。この時'秦槍ひとり、この決議

舶ヽ)

書に署名しなか

ったと言われる。翌々日の十五日'百官が集められて張邦昌を推戴する文書が作られたが'この時にも秦

槍は

「自分がおのやまさかりで殺されるのは問題外で'宋金南国の利害を言うのである。なんとか'欽宗のあとつぎを位

に立て、天下首安心させてもらいたい.これは、ただ宋のさいわいであるのみならず'金にと

ってものちのちまでの利益

3l弧E

である」と言

って、異姓の推戴に反封Ltあ-まで趨氏を立てて宋の国家を横けるよう主張した。このため'金では秦槍

;ヽ:..l

はじめ'異姓の推戴に反射した者を軍営に粒致し'あわせて家族までも連行した。

三月七日'張邦昌が即位し、国歌を大楚とした。三月十五日'金は拘留していた碍溜らを張邦昌の要請に従

って蹄還さ

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せたが'何重'孫博、張叔夜、秦槍'司馬朴ら五人は'張邦呂の推戴に反封したり、金に反抗する言動があ

ったかどで'

(;I

掃されなか

った。二十八日、開封占領の金軍が退き、徐々に本圃へ出零しはじめた。張邦昌が重ねて孫博'張叔夜'秦槍

[:・]:

の樺放を要求したが'聴き入れられず、翌二十九日、何巣'孫博、張叔夜'秦槍、司馬朴は

一家共々北方

へ連れて行かれ

、.5J

た。勿論'この金軍の撤退の際には'金銀財賛'書芸骨董などは言うに及ばず'あらゆる宮廷や官麿の調度、器械まで持

ち去られたのである。

金軍が去ると、張邦呂は帝位に不安を覚え、帝位の象徴である玉璽を康王横に返還Lt四月十日に退位した。五月

一日

には'金軍の捜索の網から漏れた康王横が南京

(宋州魔天府)で退位し、南宋時代がはじまるのである。そして秦槍の政

への再登場も'建炎四年

(11三〇)の十月の蹄固まで待たなければならなか

ったO

三、案槍の登場-

南宋

南京鷹天府で即位した高宗は'北から攻めて-る金の軍除だけに脅威を感じていたのではなか

った。末の領土の中でも'

次々と反乱分子や群盗が立ち上り'南宋の国家は北宋末の動揺をそのまま受け継いだのである。

靖康二年

(1二

一七)五月'南宋の高宗が即位Lt建炎元年と年故を改めた。九月になると金軍は黄河以北を完全にお

とし入れ'十月には高宗は揚子江に近い揚州

へ避難した。このあとも'金の歴迫は績き'建炎三年

(二

二九)正月には'

高宗が揚子江を渡

って鍍江府

へ、さらに銭塘江に臨む杭州へ逃げて行

った.三月には'苗倖'劉正彦が反乱Lt高宗は脅

迫されて退位したが'張渡や呂瞭浩がこの反乱を鎮定Lt四月に再び高宗が帝位に返り咲-という事件もあ

った.

金軍の撤退によ

って'四月に建康府

へ締

ってほみたものの'六月にまた冗求の率いる金の軍除が南進Lt高宗は八月に

秦槍の講和政策をめぐ

って

二五七

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二五八

は杭州

へ逃げた。しかも'今回の金軍の行動は'高宗を求めてあ-まで追撃する様子で'前回のように簡単に北

へ引き上

げることはなか

った。十月'高宗は鎮塘江をわた

って越州

へ逃げ、金軍が建康府を陥落させると、さらに両断路の東端の

明州に逃げ出した。この年の碁には'金軍が杭州をも陪落させてしまい'さらに高宗追及の行動を展開したのである。

建炎四年

(一二二〇)正月'金軍は明州を攻略Lt高宗は海上

へ逃がれて'繭新路の南端にある温州

へ落ちのびた。二

月になると'さしもの金軍も、高宗追及をあきらめ'各地を掠奪しながら北

へ引き返して行きへ高宗は四月にな

って'や

っと越州まで頗ることができた。金の方では、直接奮宋の領土を支配することをやめ'塊偏政権による統治を考え、この

年の九月に'末の降臣劉線を立てて皇帝位につかせ'山東

・河南方面に賓の園を

つ-りあげた。

(3.)

翌十月二日'突然へ秦槍が金から韓国し

秦槍は'金軍に粒致されてから'燕山府

つまり金側の中都大興府

(今の北

戻)につれて行かれた。ここに拘留されていたとき'末では高宗が即位したのであるが'故国の再興を聞いた徴宗は、粘

竿

(中国風には宗翰)に書翰を逸

って'宋と講和することが名分上も、葺質上も得策であることを説いた。この時へ秦槍

、fiJ)

に'しかるべ-添倒し'潤色させたのであるが'

この原稿を読んだ秦槍がむせび泣いたと侍えられている。この講和論の

r(5J

書翰が'秦槍の蹄国を可能にしたとも言われる。このあと'徽宗

・欽宗以下は金の首都で、

ハルビンに近い上京合寧府に

遮られ、さらに現在の長春と洛陽の中間の四卒市に近い韓州に遮られた。この時'金の太宗は'先の徽宗の講和嘆願書の

話を聞き、秦槍の節義ある態度を高-買い'捕虜の

一圏からはずして'達願に輿えて秘書にさせた。やがて達願が南宋攻

撃に出陣することにな

った時'秦槍は智恵を働かせて'妻や使用人までをも引き

つれて後軍Lt途中で脱走して韓国した

、r=.、

と言われる。ただ、秦槍の反封液は'達願との密約があ

ったから韓国できたと主張する。いずれにせよへ建炎四年十月二

日に秦槍は韓国した。湛水と運河の交叉鮎にある要地楚州が金軍に隔落してまもな-、近-にあ

って金の攻撃を受けてい

なか

った漣水軍

へたどり

ついたのである。

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このあと秦槍は漣水軍から海路をとり'越州に到着した。十

一月七日'苑宗声と李回の推薦をうけて'高宗に謁見した

秦槍は

「天下の卒安を願われるのなら

『南は南'北は北』で行かれるべきです」と具申し、併せて、達願に書翰を逢

って

/[T;_,

竜を通じることを進言した。

秦槍を引見した高宗は大いに喜び、翌日'

「秦槍の誠葺さと忠誠心は人の及ばないものであ

・r7,:)

る'朕は秦槍に脅えた喜びのあまり、寝

つけなか

った」と氾宗声に漏らしたほどであ

った。

宋側の封金政策は、北末の末から何らかわることな-'和戦どちらとも決定しなか

った。金が猛烈に南下して来て'宋

側にと

って風向きの悪いときには講和論者が任用され'

金軍が撤退して風向きがよ-なると'主戦論者が登用され

てい

た。しかも'官僚

1人

l人を取り上げてもう徹底した主戦論へあるいは講和論を主張する者は少-'風向き次第で'鼻息

が荒-な

ったり'おとなし-な

ったりしていたから'朝廷での議論も'その時次第でどうにでも整

って行

った。しかし'

秦槍は'この時の登場以来'

1貰して和平論'講和論を主張し靖けたのであるtと様々な史料に記録がある。

か-して'南宋政界に登場した秦槍は'謁見の翌日には、蒋宗声が天子の学術顧問官に任命して側近に置-ことを奏請

したけれども'高宗は

「そのようにする必要はない。しばら-ほ仕事の少ない職務に任ぜよ」ということで'穫部備蓄に

I.榊

任命された。まもな-秦槍は、この程部蘭書という優遇された職務を齢返して退職したいと申し出たが'これは認められ

/.?I,

なか

った。このあとしばら-'彼の沈獣が績-のである。その間'秦槍の活躍はほとんどみられず'金軍の襲来があるや

J[i.3,

も知れないから、探索活動は常々怠りな-せよとかへ天子の行なう重要な祭把で'先祖を肥る明堂の祭りをどう行なうか

5I馳爪

の議論に参加するとか'あまり政治にかかわるような言動はなか

ったようである。

I.=ー.

紹興元年

(1二二一)二月十四日'秦槍は副宰相とも言うべき参知政事を拝命した。嘗時の政府には'秦槍のあと押し

をしている龍宗声が宰相で'杢回が軍部の人事を掌握する枢密院の副大臣

(同知櫨密院事)であ

った。参知政事にな

った

秦槍は'相変らず特にこれという言動をせずへ共に捕虜となり異国で死んだ何奥

・陳過庭

・張叔夜らの節義を顧彰して'

秦槍の講和政策をめぐ

って

二五九

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rL・3)

遺族の任官や賜輿を請願している。

紹興元年も五月になると'秦槍は妻の父である王城を推挙し、

ついで兄に恩典を賜

ったりして'

一族

の保全をはじめ

(66)

(67)

た。そして'六月には、林待碑を推薦したのである。

一万㌧秦槍の推薦者であ

った満宗声は'前の年建炎四年の五月に'呂職浩が免職されたあとをついで宰相にな

った。蒋

宗声は'すでにふれたように'北宋末に北方の三鏡を金へ割譲して講和しようという議論を展開した人物であり、南宋の

この時期には、各地に蜂起する盗賊や坂乱分子を手なづけて'これを末の朝廷につかせて'それぞれの勢力を利用する方

針を打ち出していた。

これは'

宋の賓カでは'

これらいわゆる内憂を鏡歴することは不可能とみてと

ったのである。ま

た'盗賊や坂乱分子の勢力の及ばないところは'土地の豪族や有力者'あるいは軍隊の指揮官-ずれまでも利用して'地

方統治に利用した。こうした蒋宗声のやり方は'ありあまる官僚達の頭越しに官職が輿えられるものであるから、彼らの

反感を買うのは富然でありへしかも'泡宗声が推拳して手足として利用しようとした人物にも問題のある者が多か

ったら

し-、紹興元年二月から'いろいろな批判が出はじめた。と-に、七月にな

って'龍宗声と深いつきあいのあ

った晃公爵

が、殺人の罪に問われている犯人が晃公馬の妻に賄賂を遮

って死刑を免れ'官位の降等だけで済むように計り'この問題

が表面化した時に蒋宗声がこれをかばいだてした。結局'事実を究明した高宗が'晃公馬を追放

(放罷)したのである

「63.)

が、この事件が泊宗声の失脚の引き金になっ

これは七月十九日のことであり'二十七日には高宗が呂瞭浩を呼び寄せ

ているが'蒋宗声に代わらせようという意圏があ

ったためである。やがて、二十九日に'蒋宗声は宰相の地位を退-こと

にな

った。今

一つ'蒋宗声罷免の原因に

「崇観以来の鑑賞」の問題すなわち'北宋末徽宗の崇寧

・大斬年間以来、い

えれば微宗即位いF'ut察京らの人気取り政策によ

って行われた昇格人事の濫饗を整理する提案があ

った.

蒋宗声が、この提案をするや'かかわりのある官僚や軍人は大いに不安であり'朝廷でも収拾がつかな-なる形勢であ

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ったから'いちはや-、討論中止の詔が降

ったのである。しかし'蒋宗芦は断固連行の方針であり'高宗の意向と正面衝

突の破目に陪

ったので、やむな-離職願いを出し'これが許されて免職にな

った。この間、高宗の方では'前の宰相呂願

浩に至急鋸還の命令を出して'蒋宗声の免職に備えていたのである。

l方'この事件における秦槍は'頭初'蒋宗声の提議に賛成したけれども'高宗の強い反封の意向を見て'牛ばから蒋

r;;

宗声を追い出す方

へ奨身してしま

った。そして'蒋宗野が罷免されてtLばら-宰相が任命されなか

った時、秦槍は

「自

分には二つの方策があ

って、それは天下をあ

っと言わせるものである」と言

っていたが'

「現在、宰相がいないので'

(70)

(71)

れは葺行できない」とも言

って'中味を明かさなか

った。そして'八月

二十

三日'秦槍

は第二宰相に任命された。この

時、すでに呂噛浩に封する蹄還命令が出ておりへ

この年四月'呂暇浩が免職にな

った時、これを攻撃した人物達が'呂頃

I;I.J

浩の再登場を恐れて'秦槍を推薦したという話も備わ

っている。

こうして'宰相にな

った秦槍ではあ

ったが'ここで

一気に講和

へ走るようなことはしなか

った。それは'秦槍の陣管が

強固な組織ではなか

ったことが

一大原因であろう。さらに'秦槍が単指で宰相であ

ったのは、わずかに

一ケ月で、九月二

十日には'秦槍の最大の敵'呂顧浩が宰相に返り咲き'しかも秦槍より上位の第

一宰相に居すわ

ったことも見逃すことが

(cy'E>)

できないのである。呂顧浩は、就任して間もな-'自己の

一浪を形成することをはじめ'

一方では'副宰相の李回を追い

(74)

した。これに封抗して秦槍も'通子喜一、挑舜明'仇愈'洛良貴、楼招らを推挙してはみたが'果してどれ程の力にな

たかば疑問である。これについては後に再び論じるつもりである。

ついで'秦槍は学者として夙に高名な胡安国を推薦

・[L-:.ILt呂瞭浩は椎邦彦を推した。この頃、朝廷で大活躍をしていた者に、侍御史の沈輿求が居た。おそら-、秦呂双方共に

このロやかましい人物を自己の陣営に引き入れて強力な戦力としたか

ったのであろう。肌の合わない二人が共にその有能

.;-I,

ぶりを栴賛しているのである。

秦槍の講和政策をめぐって

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(77

)

(7)

(79)

(80)(81)

このあと'秦槍は'

程璃

・陳淵

・貌良臣

江瞬・張蒸らを推薦して自己の

一浪を形成して行

った。

1万'呂顧浩の方で

(1七〓二)

(一七五八)

は'張

・曇

凌景夏などを推した。しかし'ここまでの段階では秦槍寂が優勢であり'その結果として'紹興二年

「,Fl])

四月十八日に'呂暇浩を軍事面の絶責任者に'秦槍を内政全般の絶元締にして'国政を分捺させることにな

った。

これは

秦呂両液の激しい勢力寧いの

1つの結果であ

った。両液の角逐はすべての政治闘争に似て'記録や文書の枠外で行われた

のであるが'ただ'秦槍と呂願浩の国政分緒が決

ってから'高宗が次のような詔勅を出していることで'大髄の見富がつ

-のである。

カナ

スナワ

詔して日-。股'中興に宿探して'ここに年を累ぬ。人を任じて政を共にし、治数枚然たり。載ち致鯖を加えて、二相

を登庸す。蓋し'其れ謀断Lt事功を協演するを欲すればなり。侍批巻遇、鰭貌惟れ均し。凡そ

1時の啓擬薦間の士'

朕が抜擢任僕の問を願れば'其の才器に随いて'可を試するのみ'豊に二有らんや。

庸お慮んばかるに'進用の人'

イ々.

ヨ」ソヤ

才'徳に勝る可-んば、心射ち嫡奥にして、漕かに偏私を致し'浸-離間を成す。将に朋を分ち賞を植て'互相に傾揺

ツー

するを見んとす。なおこれを妨ずるに早に排ぜざるがどときなり。戒めざる可けんや。縫いで'自今'小大の臣'其れ各

アツ

オヨ

ソコナ

おの心を同じ-して国を髄Lt教-中和を伺べ。交修逮ばず'如し或いは朋比阿附して'以て吾が政治を害う者は、其

.ヽTL)

れ墓諌をして論列間奏せしめよ。朕'まさに典刑に置きて'以て其の意を誰さん。

秦槍と呂曙浩に封して'公平なあつかいをしており'推挙して来た人物も同じように任用しているが'薫浜を作

っては'

互いに攻撃し合

っているのほ'甚だ不本意である。あらゆる官僚は'心を

1にLtカをあわせて'政務にとり組めという

趣旨である。

今回の政事の結着は,

1魔秦槍側が中央に残

っ.て国政全般を切りまわすという勝利に終

った。呂顧浩が'前に

1度宰相

にな

っていて'しかも決してよい評判を得られなか

ったこと、秦槍が本雷に味方の戟力になるかどうかを問わず、胡安国

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、7.

らに代表される'いわゆる

「知名之士」を自分の陣営に引きこんだことが、この結果を招来したのである。呂曝浩は江准

刑新都督諸軍事'すなわち四川を除-南宋側の封金防衛線のすべてを監督する任務を輿えられて、臨安を離れて鏡江府に

纏司令部を置いた。しかし、娘司令官とな

った呂薗浩に、秦槍浜はさらに制肘を加えているが'呂顧浩は'元宰相の先勝

31鮎卯

非を再登場させることで形勢のまき返しを計

ってきた。これは秦槍浜が漁憩もしなか

った'いわば盲鮎であ

った。

富面の敵呂願浩を鏡江府

へ送り出した秦槍は'紹興二年五月二十七日'償政局を設置して'秦槍浜の政策の葺施を目論

(86)

んだ。北宋紳宗時代に'王安右が制置三司候例司を置いて新法の立案施行に取り組んだのと同類のやり方である。秦槍が

総括責任者にな

ったことはいうまでもないが'嘗時'副宰相であ

った饗汝文も責任者になり'ほかに黄叔敷

・胡世婿

・王

I.i:

居正

・呉表臣

・曾統

・桜煩

・張鰭

・章誼らが参加した。翠汝文は秦槍のあとおしで副宰相になり、ここでまた秦槍の参謀

本部とも言うべき修政局の責任者にな

ったのであるが'すぐさま秦槍と仲違いして'副宰相から追われることになる。ま

た王居正も秦槍に恨まれて地方

へ追い出された。さらに'反秦槍浜は修政局を廃止することで'秦槍

の失脚を目論んだ

I.:,7,

が'林待哨

・劉

一止め防戦でこれを

一蹴

がんらい'修政局は諸司百官に

「省費

・裕図

・強兵

・息民の策」すなわち

、=・,,

経費節減

・国庫増収

・軍事力増強

・生活安定の諸政策を上申させ'それを審議検討する役所である。したが

って、しばら

-は秦槍浜の巣窟であ

っても'長頼きするものではない。奉賀、七月の十六日には、黄亀年'劉菜の二人が修政局の官僚

31珊内

として乗り込んで来た。さらに'二十

一日には呂曝浩が鋲江府から鋳り'そのまま臨安に滞在して政治をとり行うことに

なり、二十三日には'朱勝非を推して同都督江准刑新語軍事に任命'

つまり呂顧浩の補佐役ということにした。呂顧浩の

31矧E

巻き返しである。

呂顧浩は'鎮江府より臨安

へ締る時'秦槍を打倒したいと考えながらへその方策がつかめなか

った。途中、卒江府

へ着

-と、知事の席盆が'「薫液を組んでいると言えばよろしい。

しかし'親玉が鎮閥

(要路又は宮廷)に居るから'こ

れを

秦槍の講和政策をめぐって

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二六四

先に追い出すべきです」と言

った。秦槍よりも先に胡安国を追放せよという意見である.そこで'呂願浩は大喜びLt早

(92)

(93)

速'朱勝非をつれて来て同都督諸軍事にして助けとした。朱勝非の任命に射して'胡安国

・江顔らがすぐさま攻撃した。

結局'

朱勝非は'

またもとどおり紹興府の知事に逆戻りしたが、

六日後に'

葺際には何の仕事もないが俸給だけ支給さ

れることにな

っている道教の寺院の管理者になり'皇帝の学問所のや-にんをも兼ねて'首都に留ることにな

った。呂頃

浩が'秦槍追い出しにはどうしても先勝非が必要であると考えたからにはかならない。この時'胡安国が節令の起草を拒

否することを濠思した呂頓浩は'責亀年に起草させた。やがて、二十

一日に'秦槍の再三にわたる懇請にもかかわらず胡

(=)

安国が罷免された。朱勝非の任命に反封したが'その意見が採用されなか

ったので、離職を願い出てそれが認可されたこ

とにな

っているが、呂嘩浩が席益の助言に従

ったことは言うまでもない。翌二十二日'呂顧浩は、黄亀年と劉葉を要路に

r95J

配置して'秦槍追放を現賓のものにせんとした。

一方'秦槍浜も'薫液の重鎮胡安国に去られては一一大事と'二十三日に

は'江蹄と呉表臣とが'先勝非を用いてはならないLへ胡安国を責めて追い出すのはも

ってのほかと申し立てたが'何の

粥ヽJ

致果もなく

かえ

って'同派の程柄が地方の知事に任命されてしま

った。あ-る二十四日には'江蹄と呉表臣が'二十五

日には、胡世滞

・劉

1止

・張轟

・林待聴

・榛栢らが'呂願浩のために政界からしめ出され'賓際の政治とは何のかかわり

もない道観の管理を塘嘗することにな

った。結局'呂願浩の巻き返しが成功し'秦槍

一人を除いて、秦槍に輿する者のすべ

I.9J

てが中央政界から姿を治したわけであ

o

そして'秦槍液は外濠を全-失

って、今や秦槍という本丸

一つを残すだけとな

31牌此

った。そして、秦槍は'二十七日に罷免されてしま

った。こうして'秦槍の初登場は'呂隙浩の策謀の前にあ

っけない幕

切れを迎えたのである。

では、秦槍の真面目である和平

・講和論はどうな

ったのであろうか。建炎四年十月に金の軍隊から逃げ掃

ってから、紹

興11年八月の罷免までの間、秦槍が金との関係について撃言したことは、現在見ることのできる史料について言えば、ほ

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とんど皆無と言

ってよい。しかるに、秦槍が蹄国後はじめて高宗に拝謁し、すぐに仕事の少ない鐙部侍書という役職を輿

えられたとき'し

始め朝廷'数

しぼ俵を遣わすと雑も'然れども但だ且つ守り且つ和す。而して専ら金人と解仇して和を議するは、蓋し

、粥、

槍より始まる。

という説明記事が付けられている。そして'秦槍が免職される直前の紹興二年八月十六日に'

准東宣撫使劉光世言う。通問使

・朝奉郎王倫'金国より還ると。始め朝廷、人を遣わして敵に使いせしむ。宇文虚中の

オオム

後より'率ね小臣或いは布衣を募りて'官を借して以て行かしむ。倫及び朱弁

・醜行可

・雀躍

・洪暗

・張郡

・孫悟らの

如きは'皆拘する所となる。既にして金の左副元帥宗維'雲中に在り。都鮎検鳥陵恩謀を遣わして館中に至り'具さに

(1-0)

兵を息め和を議するの意を言わしめ'倫をして南蹄せしむ。すべから-人を遣わして往きて議すべし。--略-

-

という事件がおこって'金側の講和の意志が末に侍えられて来たのである。しかし'宋側の講和論者である秦槍は'すで

にその勢力が風前の燈火の状態でへこの事件を十分に受けとめることはできなか

った。そして同じ月の二十七日'秦槍は

罷免されたのであるが'この時にも'

--略--

(秦)槍'左僕射呂嘆浩と語わず。噸浩既に朱勝非を引きて朝に還す。復た内より批して'日ごとに都堂に

赴いて事を議Lt知枢密院事の上に位せしめ'以て秦槍に逼らしむ。合たま'遠へ王倫の乗算を報ず。殿中侍御史黄亀

年'因りて'槍の専ら和議を主Lt国家の快復の遠国を阻止し、且つ薫を植て権を専らにす'漸長ずべからずtと劾す。

捨印ち上章して位を離す、上'未だ許さず.

1日'噸浩'参知政事樺邦彦と上前に留身して、復

た槍

の短を言う。

上'乃ち兵部侍邸菜直学士院黄宗山稜を召して入野せしめ'槍戯ずる所の二第を出きしむ.大略に河北の人を以て金に還

(1-1)

Lt中原の人は劉濠に還すtか-の如-するのみ。---略…

秦槍の講和政策をめぐ

って

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二六六

という補足説明がある。これらによれば'秦槍は、蹄国してから'事あるごとに和平

・講和論を論じまく

っていたことに

なる。しかし'史料にはそれを登見しえない。けれどもこれは'政治の裏舞垂で行われたことで'史料の埼外にあるとは

片づけられない。反秦槍

7色に塗りつぶされたこの時代に関する諸々の史料は'秦槍に有利なことは省略抹滑しても'不

利なことは決して書き落さないものと考えられる。従

って'もし秦槍が講和論を持ち出していれば'必ずや反野沢の手に

なる史料の中で非難されるのは富然の蹄胎である。なんとなれば'反秦槍浜は概して反講和浜であり'その中に多数の学

者知識人が含まれていて、彼らが現存する史料のほとんどを著わしているからである。では'なぜ秦槍が講和論を主張し

て朝廷を騒がせなか

ったのか。秦槍は時流をよ-見る茸際的な政治家である。朝廷における彼の立場と彼の真浜のカを考

えれば'講和論を持ち出しても勝てないと読んだ'と考えられるのである。これについては後に再度考えてみたい。

四㌧棄櫓

の再

秦槍は免職のあと'提草江州太平親'つまり江州の大卒観という道観の管理職を輿えられた。もちろん、これは責際上の

玩)

職務は何もない。そして'翌月の紹興三年九月二日には」修政局も麿止さ

橡定通り'呂障浩は朱勝非を秦槍の後釜

に据え、秦槍の息のかか

った人物の追放と'味方の復活に退進した。しかし呂聯浩も翌紹興三年九月には、素行が恵-、

政策は拙-、任用する人物は俗悪であるとされ'宰相としての人物ではないということで罷免されている。

この年十

1月十三日'金団から韓常習

・胡松年らが'金側の使者と

l緒に原因した。今まで何度も圃俵を派遣したが、

全-金側からの反底はなか

ったのにへここではじめて'金の使者が来たのである。しかも'二日後に高宗が出した詔勅に

見えるように'講和のための使者が来たのである。高宗は'早速'国境地帯の軍除に'金の塊偏政権である斉の領土

への

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攻撃を禁止した。紹興四年(二

三四)元旦'臨安府で金団の使者が拝謁した。こうして交渉が始ま

ったが'金側からは‖

賓国の停虜の返還'臼西北の住民で現在東南に居るものの返還'白揚子江を国境となすことtの三懐件を出して来たのに

封し、宋側からは、徽宗

・欽宗の返還と'河南

一帯の返還を求めたから議論は平行線をたど

った。金優は正月十六日に韓

国Lt末の使者もこれに随行して交渉の絶横が計られた。

一方'国境地帯

では相変らず小競り合いが清いていた。

三月

、四川方面軍管匠の絶司令呉紛らの活躍で'金の元就の大軍を打ち破り、金軍を四川から追い出すことに成功した。

この年九月末、金と葬の連合軍が湛水をわたって南進した。すぐ、遭鼎が宰相に任命され'この事態に封虞することに

った。主戦論者の趨鼎は'金軍進入の正面を守る将軍韓世忠に'張俊の率いる部隊を指し向けて庖援させ'さらに劉光

世の軍も出動に備えて移動させた。金軍は大挙南下して'濠州から源州を陥落させ、揚子江に臨む和州をも破

って'渡江

作我を考えていた。すでに源州をおとした時に'舟船を建造していたのである。しかし'金側の方では'太宗が病気にな

ったうえ'雨や雪のため補給路が通じに--、しかも宋側の軍隊も時には攻勢に出て金軍を打ち破ることもあ

ったりして'

金軍の志気は

1向にあがらなか

った。結局'十二月二十六日、全軍に退却を命じた。しかし'こうした問にも使節は往来

していた。

紹興五年

(1二二五)正月五日'宰相の超鼎は'金の准南侵攻の軍が退いたので、善後策を講じるため大いに天下の意

見を拒取すべLと進言Lt呂頃浩

・朱勝非はじめ秦槍にも諮問があ

ったOしかし、この時'秦槍がどんな意見を吐いたか

はわからない。そして'同じ正月に金側では太宗が死去Lt太祖の孫で十五歳の輿宗が即位した。そして、金図内部にも

政愛がおこり'新帝県宗の伯父にあたり'金軍を掌握していた粘竿はじめ'その

l浜らがうま-祭り上げられ'秦槍との

密約があ

ったと曝される捷憤らが貿権をにぎるようにな

った。

金軍が引上げて'再び准南を領有することにな

った末では'遁鼎が第

1宰相に'張汝が第二宰相に任命され、さらに'

秦槍の講和政策をめぐ

って

二六七

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二六八

金軍の准南侵攻の防禦にあた

った諸大将の論功行賞も行なわれた。この頃から'岳飛が大いに活躍していたのである。こ

闇E

の年の二月'秦槍は、資政殿学士という名巻ある肩書を復活してもらっ

さらに六月になるとう

一段昇格して親文殿撃

(1-4)

士になって'温州の知事という茸際上の職務を拝命した

'

まもな-紹興府の知事に改命された。しかし'秦槍は紹興府

(1-5)

へ赴かなかっ

八月四日には'紹興府知事として'久しぶりに高宗に拝謁Lt十二日には醒泉観使

(これも首府にある

道親の管理者)になり、さらに学問所の講讃官を拝し'併せて天子行幸中の首都の臨事責任者を拝命した。しかも'行政

(1-6)

府である蘭書省に赴いて政務をとる特例も認められた。これには、時の宰相張汝の推薦があ

ったと言われている

九月

日'高宗は'諸国を巡行して軍隊を視察するために'臨安府を出饗した。しかし'諮圃巡行とは言うものの'葺は大運河

に沿

って'杭州臨安府から蘇州卒江府

へ行

ったにすぎなか

った。けれども'穿国の劉濠は、高宗自ら乗り出して寮を攻撃

するものと思い'金へ魔按をたのむかたわら'欝園の軍隊に出撃準備をさせた。がんらい'斉という図は'粘竿とその股

肱の臣高慶育らのあと押しで成立したのであ

って'今や金圃内部の政変によ

って粘軍の賓力は大き-減退している。その

上'奔囲皇帝とな

った劉漁は'粘竿らには莫大なつけとどけを忘れなか

ったが'それ以外の諸将軍を蔑視するありさま

で'甚だ不人気であ

った。しかも'講両液の捷憶が茸権を振

っているのであるから'嘗然'

このたびの救援部隊

の要請

は金圃宮廷の議論で問題にされず'勝手にやれということにな

った。結局へ宋側が将軍同志の反目があ

って共同作戦はと

れなか

ったが'各個に奔国軍を破り、

l魔の勝利を収めた。この結果'金が潅水以北の中国経営のために考え出した偵偏

帝国の運命は決

ってしまい'金では暫国の廃止を決意したのである.

こうした情勢の変化の中で'秦槍は'呉表臣

・李訣

・胡程

・蓑復

一・絶命賠

・呉彦章を行宮留守司

(天子不在中の首府

(1-7)

(1-8)

管理のための官廉)に呼んで仕事を分轄さ

また鄭剛中を推挙しているが

'

来るべき秦槍時代を想見したためではなか

(1-9)

ろうか.十二月

1日'奔国との戟牢に勝利を収めた高宗は'秦槍を蘇州卒江府

へ呼び寄せた

.

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(110)

紹興七年

(一二二七)正月二十五日、秦槍は椙密使に任命され

枢密院は'民政拾富の中書省に封して'軍政を捨雷す

る機関であり'平時には上級武官の人事を掌握し、有時には参謀本部的な性格を帯びていた。さしづめ'幅密使は軍政長

官ということになる。これは'中書の長官

(宰相)及び副長官

(副宰相で参知政事と呼ばれる)と共に、いわば内閣を形

成するほど重要にして高い位の職務である。常時、第

1宰相には'超鼎'第二宰相には張渡がいたが'超鼎はすでに'前

年十二月九日に罷免され、張凌

一人が樺カをふるっていた。この張渡が秦槍の後押しをしたのである。張汝が秦槍を推し

た理由としては次のようなことが言われている。「靖康年間に、あ-まで趨氏の皇帝を立てることを主張して'死を畏れ

なか

った。これは能力度量のある人であるから'共に天下の事に苦ることのできる人物である」と張汝が思い'また'苫

(111)

時の徳ある人や貿者も秦槍を推していたので'張汝がこれを引き立てた、と

しかし'

1万では、また別な見方がある。

秦槍が温州の知事であ

った時'平々凡々としていてとりたてて言うべき政治上の成績がなか

った。張波が宰相になり、高

宗は卒江府

へ行幸して軍隊を視察したが'

張汝は秦槍がおもねりしたがい制しやすい人物であるというので、

推薦して

(.=)

職務を負え'行宮留守にしたtというものである

さらに'梅密使になってから'何か新しい政治をしたりすることはな

(113)

く'ひとえに張汝の意を奉じていたtとも言われている

秦槍が植密使になった同じ日に'金へ迭

った使者の何醇が締

って来て'徽宗の死去を知らせた。そこで王倫と高公給と

を立てて'遺憾引き取りの使者とした。このあと'高宗は巡幸の再開を考え二月二十七日、建康府

へ向

って出番し'三月

九日に建康府

へ到着した。

三月十三日、諸大将の中で'最も強力な軍国の指揮官岳飛が'准南の兵を動員して金を討ち'宋の故責を回復しようと

いう意見を出した。朝廷の雰囲気もこれに賛同するようであり、いよいよ北伐を計書ず

ることにな

ったが'張汝は反封で

あり'秦槍もまた、准南の兵士を統合することは岳飛軍国の増強になるとして疑惑を持ち'結局沙汰やみとなっ

この

秦槍の講和政策をめぐ

って

二六九

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二七〇

ため、岳飛ば四月にな

って指揮下の軍除を放り出して江州へ締

ってしま

った。この頃の軍大将同志の反目は激しいもので

って'危機に障

った軍の救出命令があ

っても'あれこれ口賓をつ-

って拒否することもあり'とりわけ張俊と岳飛の不

和は大愛なものであ

った。この事件にはこういう事情もあ

ったのであろう。そしてこの問題の結着は七月まで持ちこまれ

た。こうした'諸大将の反目'金

・葬に封する防衛問題など'張綾が政務に追われている間に、秦槍の朝廷における影像

は急速に接大したらし-'七月には秦槍と遠い姻戚関係にある張守が

「昔とはう

って襲

ったようで'必ず天下国家の深い

(115)

憂いのたねになろう」と批評し'張汝も同じ意見であ

ったと言われている

八月になると'張汝は離意の意向を固め、高

宗に申し出たところ'後釜には誰が良いか諮問された.張汝は

「秦槍は、この.ころ

1緒に政治を執

ってきて、はじめて、

(116)

その愚かさがわか

ってきた」と言い、

ついに趨鼎を任用することに決

ったと言われている。八月八日、呂祉の軍国の副司

令部渡が薮乱をおこして賓に投降Ltこれが直接のき

っかけとな

って'張汝に封する弾劾がはじまり'九月十三日'張渡

は離職した。そして'十七日には趨鼎が宰相職に就任したのである。高宗は'趨鼎に封して

「再び宰相に任じた今'現在

(117)

の閣僚をどう虞置するかは'意のままにせよ」と言

ったところ、趨鼎は

「秦槍は現在のまま残す」ことを申し出た

月十八日'金は'塊儲国家の啓を廃止した。秦槍は高宗に射し

「金図にもいろいろな事があ

って'情勢は変化するにちがい

(118)

ありません。陛下が徳をつみ重ねておられれば'宋の中興の時もおのずからや

って来ましょう」と言

っている。講和論を

暗示したともとれる琴言である。十二月二十六日、金国から王倫と高公給が掃

ってきた。彼らの報告によると、劉線を廃

し奔園を解鰭したあと'資力者の捲魔は

「道を妨げるものがな-な

って'講和をなすのはやさし-な

った、南未によろし

-侍えよ」と言

ったという。高宗の方でも'徴宗皇帝の遺骸と皇太后と欽宗さえ返還して-れたら'その他は全-問題で

はないという意向を示し'講和前夜のような状態とな

っていた。

紹興八年

(1二二八)正月になると、金でも講和論が討議されるようにな

った。しかし、宋側では'趨鼎を中心とし

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(120)

て'ほとんどの官僚達は講和に反封であっ

しかもへ暫図が磨止されたこの機合を逃がしては、宋を回復すると言う国

家の至上命令を賓現することは永久に不可能であるから'これを逃がすべきではないというありさまであ

った。秦槍は'

王倫を今

1度金

へ逢

って講和を成したいと考え'これに反封の幸次暦を地方

へ出したのである。しかし、講和反封浜や主

爾E

戟液は次々に議論を展開し

こうしたなかで、高宗は建康府から杭州臨安府に締り'いごここを南末の首都としたので

(・i3)

ある。そして、三月七日に秦槍は算二宰相に任命された.朝廷にいる者は皆、よろこびあ

ったと言われてい

。闇E

超鼎が上位にいるものの'

宰相に就任した秦槍は'

まず終始秦槍のために重力した王次翁を中央

へ抜擢

四月に

闇E

は'王倫が金団

へ行

って'捷憶に合

っている。五月になると秦槍は何錆を薦め

また'王倫が金の使者を伴

って韓国し

たが'金側では講和の締結を決定した上での使者の坂道であ

った。しかし'宋側には講和に反封する者が多-、秦槍も大

(1-5)

いに説得に努めてい

六月二十三日'金団の講和使節が高宗に拝謁した。このことは'ますます末の朝廷における講和反封の議論を沸騰させ

たO

要するに金国は信組出来ないというのが反封浜の議論の大筋であ

った.七月十四日、王倫は列び金団

へ派遣された。

九月になると'秦槍浜は趨鼎を中心とする講和反封蔽

(その中には'主戦浜と主守蔽、すなわち戟勝によ

って中原を回復

しようとする

1派と、現状維持は認めるけれども講和締結には反封する

一派との二派があ

った)に積極的な攻撃を開始し

闇E

まず'粛振が'趨鼎寂の重鎮で今や副宰相である劉大中を弾劾した。ところが趨鼎涙は'班に宰相を罷めている張汝

1液の残存勢力の追い出しに目を奪われ'秦槍浜との魔戦には立遅れてしま

った。ただ'呂本中が趨鼎の昇進尉令を書い

た時に、秦槍に封して厭味をほのめかした程度で、かえ

って秦槍の個人的恨みを買

ってしま

った。やがて十月四日になる

と'劉大中が副宰相を罷免されて地方

へ追われてしまい'とうとう同じ十月の二十

7日には趨鼎も宰相の地位から追われ

(1)

(E3)

こうして、秦槍が宋朝政治の主役になり上

ったのである。

つまり、膝を屈げてでも講和を寅現しようという秦槍

'

秦槍の講和政策をめぐって

二七

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二七二

そのような講和には絶封反封の超鼎に勝

ったのである。

すぐさま秦槍液の動きはいっそう活瀞にな

った。

宰相就任の翌

日'孫近

・李光が抜擢されたが'これには勾龍如淵の力があり、孫近は十

一月二日には副宰相に昇進して行

った。このあ

(1-9)

と'秦槍寂は'呂本中.・劉大中

・張戒

・張九成

・王庶らを地方

へ退けて行っ

趨鼎が罷免されたすぐあと'

十月二十四日に'

金の講和使節が、

先に宋から派遣した王倫と共にや

って来た。

一月

十四日'ひと足先に掃

ってきた王倫が拝謁Lt十七日には講和談判の特命大使である園信計議俵に任命された。十二月三

日には褐槽が特命副使

(圃信計議副使)に任ぜられ'王倫とともに'金側との交渉に富ることにな

った。ところが'ここで

郡内

もう

一つの問題がおこった。それは、金の使節が

「詔諭江南使」と名乗

っていたことで'

これがため'反射板の議論は

層盛んにな

った。しかし'金側の講和傭件

(一㌧黄河の新河、

つまり黄河

・酒水

・准水を結ぶ線を国境とし'以南の地は

へ還す'二、宋帝は金帝に射し臣樫をとる'三'銀二十五常雨'絹二十寓匹を毎歳末から金

へお-る)をしたためた国

書を持

って'金の使節が十二月二十五日に臨安府に到着した。ここでは金の使節は'高宗自身が北面して臣鐙をとり'こ

の図書を受けることを要求したが'高宗が徽宗の喪中であるという理由をつ-

って'秦槍が代理とな

って受けとるように

(1-1)

胡麻化してしまい'二十八日に'-講和候約すなわち金の国書が宮廷に入

って'宋金の講和が締結されたのである

この講和は今までの宋金講和が'宋金封等であ

ったり'伯父と姪の関係にな

ったりしたのに封Lt金が君、宋が臣とい

う宋にと

っては屈辱的な傑件であ

った上'北宋の後年から'いわゆる宋撃とか道草とか呼ばれる新しい学問がおこり'こ

れに影響された大義名分とか正統とかの問題もあり'簡単にすんなり講和の締結が成功したわけではない。すでに'前の

年紹興七年十二月に'王倫と高公給が金から韓国Lt金側が講和に傾斜してきたことを知らされてから'宋では天下をあ

げて講和か、戦争か'はたまた専守による現状維持かなど'多-の議論が行われていた。とりわけ'富時の首相趨鼎が講

和反封であり'欝二宰相の秦槍が徹底した講和論者であ

ったLtさらに'高宗が時勢によ

って講和論

へ走

ったり'主戦論

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を取り入れたりで、その態度がは

っきりしない有様であ

ったから'講和をめぐる議論は大いに沸騰したのであ

った。後に

述べるように'講和反封の議論を主張したものには'程伊川

(暁)

の学問の流れを汲む趨鼎を筆頭に新しい学問髄系に従

った人が多-'講和論の側には南末の極-初期に宰相にな

った江伯透に撃問を受けた秦槍ら'科挙合格の方便としての学

問以外に興味のなさそうな人物が多か

ったようである。講和反封論者の中で最も有名なものは胡鮭である。胡鐙が紹興八

年十

一月二十五日に奉

った文書は'秦槍

・孫近

・王倫の三人を斬るべきであるという激烈な反封論であ

った。

こうして、宋金南国の問に成立した講和は宋金両国の様々な内情の反映であ

った。金では捷憶を中心として'その上に

った宗磐

(蒲虞虎)の力を背景としており'宋側では'秦槍らの策謀による講和反封浜の追い出しと'事葺の胡麻化し

によ

って成立したものである。と-に金側では宗磐ら太宗の諸子が'太祖の孫亘が即位したことに反沓していた感情が大

き-反映しているのである。こうした反映であ

ったため'この講和はすぐに崩壊することになる。

つまり金団の内部情勢

の変化である。太宗の諸子の力を糾合した形で権力の座に座

った宗磐は'まもな-太祖の諸子の総反撃を-らい'紹興九

年七月'叛乱謀議ということで逮捕されて殺された。捷願も捕えられ'

一ケ月後に殺されてしま

った。末との講和を主張

し葺現した金側の立役者が居な-な

ってしま

ったのである。富然'元就を中心とする金の大観の諸子達は'講和候約の順

守を要求し、さらに軍隊を投入して宋を攻撃した。宋軍も活躍し'岳飛や劉錆

・韓世忠

・張俊

・楊折中

・劉光世らの諸大

将が各地で勝利を収めたという記録が宋側に残

っている。しかし'秦槍は戟事の縫横を避けて'これらの将軍達に引き上

(,.i)

げを命じ'軍隊を撤退させることにした

金の軍隊は過去の南進のように連載連勝とはいかず'しかも'順昌

・拓皐で宋軍に破られて敗退したこともあり'各地

の戦闘も思うように行かず'紹興十

一年三月へとうとう撤退して行

ったのである。こうした情勢は再び講和談判の機合を

つ-り出して-るのである。秦槍は勝利を誇り得意の絶頂にある将軍達を排除しなければならなか

った。

秦槍の講和政策をめぐ

って

二七三

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二七四

四月に韓世忠

・張俊を枢密使に、岳飛を椙密副使に除任した。ひき

つづいてその他の軍大将も論功行賞という名目で第

(e:)

(湖)

一線の指揮権を奪

ってしま

ったO六月には'秦槍が首相の座に昇格して講和交渉に遥遷し

'

l月に講和が成立し

回の候件はtr潅水中流を国境とし'目末は金に臣節をとり、日銀二十五寓南、喬二十五寓疋を歳幣とする、というもの

で、破談にはな

ったが'前の修件とほぼ同じであ

ったo

l方へ徹底的に講和に反封Lt秦槍に反摸していた将軍岳飛は'

紹興十

一年の十二月に獄中で毒殺されたのであ

った。

五'講和派と反秦樽沢

か-して複雑怪奇な政争の中心となり'幾多の迂飴曲折を経て成立した宋金両国間の講和であ

った。もちろん'講和か

主戦かは国連を左右する重大な問題であ

ったからtか-も踏綜した曲折があ

った、という見解も成り立とう。しかし'講

和浜と主戦浜との人物を封照してみると、それほど簡単な解梓では納得できないところがあるようである。今

一度'秦槍

を中心とする

T寂と'それに封立抗軍する

1液との、人物の問題をとりあげて考えたい。問題を単純化するために、秦槍

・反秦槍浜という分類で考えて行きたい。なお'すでに述べて来たところでも明らかなように'南宋初期の秦槍をめぐ

る政治の動きを探る場合'どうしても李心侍の建炎以来繋年要録を資料の中心に据え'これを補うに'宋史の本紀や秦槍

樽をはじめとする諸人の列侍を以てしなければならない。以下の論述も同様である。

北宋末期における秦槍は、自己の派閥を形成して政界をのし歩-という程の地位も葺力もまだ持

っていなか

ったから、

この時期は嘗面の問題には該雷しない。ただ彼が'金軍の進撃を目前にして'低い官でありながら強硬な国防論、いうま

でもな-そのなかには主戦論も含まれているが'これを強-主張し'金に封する領土の割譲に断固として反封したこと'

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金軍が首都開封府になだれ込んだ時、ほとんどの皇族

・官僚

・育吏

・宵宮らが逃げ出し'宮廷にはほんの数人の人間だけ

が欽宗と共に残

っていたが'この中に秦槍が入

っていたこと'金が張邦昌を皇帝に立て'宋の宮廷で百官を集めてその決

議書を作らせたが'秦槍がそれに署名することを拒否したこと'しかも'あ-まで未の皇室である趨氏を皇帝にすべきだ

と主張したこと、などの

一連の秦槍の行馬は'金から韓国したあとの彼の立場を非常に有利にしたことは充分に注意しな

ければならない。

秦槍の南宋における第

7回の登場は'韓国した直後の建炎四年

(二

〇)十

一月から'呂顧浩らに宰相の地位を追わ

れた紹興二年

(二

三二)八月までの約

1年九ケ月の問である。この期問に秦槍が推薦して昇格

・昇進した人物は第

一表

の通りである。人物の配列は時間的順序にしたが

ってある。王安道から王銭までは、秦槍の金からの蹄団に関係したり

1

族縁者であるから'それほど問題にはならないが'林待碍以下は政治家としての秦槍の活動と直接的な関係をも

ってい

る。また'秦槍寂に展すると考えられていた人物は第二表にまとめてある。第

1・二表とも'宋から元にいたる時代の儒

第一義 秦槍が推挙 した人

000000

0

0

00亀山撃案 (25)

蒋呂諸儒学案補選 (補19)

武夷撃案 (34)

安定草案補遺 (補 1)

王 安 遺

構 由 義

丁 頑

劉 靖

陳 亮 臣

王 城

林 符 脂

檀 子 重

挑 舜 明

仇 愈

藤 良 貴

様 栢

胡 安 国

程 璃

陳 淵 駄堂草案 (38)

貌 良 臣 ○江 騎 士劉諸儒学案補遺(補6)

張 薫 亀山撃案補遺 (補25)

重 昂 ○

秦槍の講和政策をめぐ

って

学者'つまり常時の哲学者思想家を網羅した宋元草案と'それの

敏けたる所を補うためにつ-られた宋元撃案補遺との中に名をつ

らねている人物は'その旨注記してある。これによれば'第

一・

二表とも'多-の人物が、嘗時の哲学者

・思想家の分野に属して

いたことがわかるのである。そして'第

一表では'林待碑以下の

人物を問題にするとすれば'二つの表では'共に過半数の人物が

・)

所謂聾者であ

ったわけであり'この事責ははなはだ重要であ

北宋中期の紳宗時代、王安石が登場して新法を施行したことは

二七五

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夢二表 秦 槍 浜 と 目 さ れ る 人

騎 士劉諸儲草案補遺 (補 6) 少細 く江緯〉家撃

臣 周許諾儒学案 (32) 周許 〈周行己 ・許景衡)撃侶

璃 安定草案補遺 (補 1) 練塘 く洪興租〉講友

渚 ○

止 陳邸諸儒学案補遺 (補35) 劉氏 く劉扶)家畢

桑 亀山草案補遺 (補25) 呉固 く張根)家撃

聴 ○

宿 泊呂諸贋草案補選 (補19) 植民 く樺邦彦)門人

武勇草案 (34) 朱斯 く朱長文 ・断裁之)門人

〇〇〇

淵 駄堂撃案 (38) 程楊 く程顧 ・楊時)門人

恩 氾許諾儒草案補遺 (補45) □□□□鎖 ○険 ○柄 ○

元城 く劉安世〉門人

横塘 (許景衡)門人

光 元城聾案 (20)

豹 周許渚儒撃案 (32)

二七六

有名である。王安石は、かたわら儒学の経義に新解樺を試み'

これが王氏の新義として世間に流布した。しかも'薪義が科挙

の試験問題に採用されることにもな

って、新義を修得して官僚

にな

った者も多か

った。元結年間の奮法薫時代を経て'徽宗が

立つと、察京らが王安石の新法を踏襲Lt新義を重視した。や

がて南宋になると'北末の滅亡は察京らの政治が原因であり'

それは新法が誤

っていたことを澄明するとともに、王氏の新義

の猶断的解棒がその根底にあ

ったtということにな

ってしま

た。そして'南末では王安石の学問を徹底的に否定して行

った

のである。これとは反封に'周敦嘆に起源する程顛

・程頓兄弟

の学問は、とりわけ弟の程喋のそれは伊川の撃としてようや-

盛んにな

ってきた。南宋初めには、この伊川の学問を攻撃する

こともおこなわれたが'結局は、新法が否定され奮法が行われ

た南末では'伊川の撃がますます隆盛になり'しかも'趨鼎の

ように伊川の学問の系統を受けて宰相にまで昇進するものもあらわれた。また'北宋未から南宋初期にかけて'断固とし

て封金主戦論を主張した楊時も'程氏の学問の正統を侍えていると言われている。しかも、程氏の撃問では'孔子が作り

あげたといわれる

「春秋」という古典的歴史書を研究していたので'いわば歴史研究の成果の

一つとして'大義名分

・正

・中華思想などが大き-取りあげられるようにな

った。そのうえ'この程氏の学問が'哲学界

・思想界で大いに幅をき

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かせるようにな

ってきたから、学問をやる人の多-が程氏の撃問を修得するようになり'富然の結果として'金国との問

に封等ないしは

一段低い立場に立

って末が講和することは、かれらにと

って全-論外のことであ

った。

1万'宋元草案と宋元撃案補遺とは'学問の内容や師弟関係、草間鰭系の侍承などにしたが

って'多-の学派の名柄を

立て'それぞれに嘗時の学者を配列したものである。もちろん'清朝考讃撃の方法論をうけて'王安石の学問なども

一巻

を費やして書かれているけれども'ほとんどはいわゆる宋撃とか道草とか呼ばれるものに巌している学派である。この書

物に特例的な学派はともか-として'普通に書き込まれている学派に属する人が'第

一・二表の中で多-兄いだせること

は、秦槍の周蓮には膏法薫系の人で'しかも学者が多か

ったということであり'それらの学者のほとんどが'程氏の学問

と何らかのかかわりがあ

ったのである。すでに'第二節でも若干ふれたけれども、宋史とか建炎以来繋年要録とかの資料

には'秦槍がこの時期に講和論を述べ立てたという記録は全-見富らないのに'秦槍が金から締

って来た時と'紹興二年

に宰相を罷免された時とだけに、いかにも終始封金講和を主張したように書いてある。これは'宋史にしても'建炎以来

繋年要録にしても'はたまた昔時の野史雅史や随筆雑記にしても'すべて右に述べたような哲学者

・思想家としての聾者

の手になるもの、あるいは'それらの人によ

って書きとめられたものをあとにな

ってまとめたものであるがためのことで

ある。茸際'秦槍浜

・反秦槍浜'あるいは主戦浜

・講和浜という二つの封立する薫浜があれば'双方どちらかの立場に立

脚した書物や記録がなければ正確な判断はできないものである。ところが、ここで問題にしている事柄については、全-

反秦槍淑もし-は主戦浜の側に立つ資料しかない。したが

って、この時期に'秦槍が講和論を主張したという記録は故意

に事葺を曲げて書いたとしか考えられない。何となれば'い-ら秦槍が悪者で東国奴であろうと'自己の派閥にこれほど

多-聾者が居ることを知

っておれば'講和論を主張することは'とりもなおさず自己の蔽閥の崩壊を意味するということ

くらいの単純な因果関係は理解できたに相違ないからである。

とりわけ'

悪者呼ばわりされる者には'

えてして才長け

秦槍の講和政策をめぐって

二七七

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第三表 壷 諌 表 -

諌 序 言桓史中丞い寺御史 順 中質t監 察 御 史

韓瑛

韓瑛

黄亀年

韓墳

韓瑛 ・紅顔

胡性格 ・劉-止

宴寅亮 ・劉一止

婁寅売

葺亀年 ・婁寅亮一

胡世婿一

貫亀年

黄亀年-

劉-止

硬変 ・林叔豹 ・明嚢

劉一止-

手記

李頚 ・唐爆 ・林叔豹 ・明嚢-

張綱 ・李謁 ・劉大中・李球

張廷毒

張延毒-

1贈

n一

割方

1

2

34

56

/

//

//

4

パ伽川畑

月〃

月相月

佃伽

興2

/

二七八

すぎて誤解され、その集積によ

て前代未聞の意者に仕立てあげら

れる者がある。恐ら-'秦槍はど

の人物には'講和を主張すること

の危険は十分承知していたであろ

うLt宋金両国の内部事情をみて

も時期侍早ということも重々知

ていたにちがいなかろう。南宋に

おける秦槍の第

一回の登場では、

むしろ宰相にな

ったという葺続を

つ-るために'有名な学者などを

引き寄せて世論工作をした、と解

することも可能である。

一回の秦槍の登場に関して、

1つ注意すべきことは、そのた

めに秦槍が宰相を罷免させられた

のであるが'秦槍もし-は秦槍浜

の賓カが決して強大なものではな

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ったことである。政治をとる者にと

って'あなどりがたく無税することのできないものは'御史墓と諌官である。とも

に監察と批判とを職務とLtしかも世論の代表者の如き地位を占めている。宰相といえども'この垂諌

(勧史垂と諌官)

を無視して政治を行なうことは不可能であ

った。第三表は'建炎三年七月から紹興二年十月までの'各種の童諌の職務に

誰が就任していたかを表わしたものである。そして'第

一・二表の秦槍が推薦した人物と秦槍涯と言われている人物を考

えてみたい。この表によれば、いわゆる秦槍浜の亘諌における勢力は'それほど強いものではな-'どの月をと

っても'

反秦槍浜もし-ほ秦槍派に属さない人物の方が多か

ったことがわかる。この通りにも、第

一回の登場における秦槍の糞力

がうかがえるのであり、

こんな情勢で講和論を打ちあげることは自殺行馬にはかならないことが理解できようLt

同時

に'封金講和という秦槍の真骨頂を蚤捧しないうちに免職にな

ったのは'嘗然というべきである。

秦槍の第二回の登場は'紹興七年正月に椙密使に就任した時にはじまると考えてよい。ただ'箕際には'紹興八年正月

に第二宰相にな

った時から'蔽閥の頭目としての活躍がはじまるのである。そして'本稿では'紹興十

1年十

一月の金と

の講和が締結された時までを、便宜的に第二回の登場期間として考える。この時期における秦槍液は'とりもなおさず講

和浜であり、講和反封液はすなわち反秦槍蔽であると考えられる。この分類にしたが

って'まず第四表に秦槍が推薦した

人物をならべてみた。この表では、建炎以来繋年要録に記載されている時間的順序にしたが

って人物を記し'孫近以下鄭

仲熊までは、宋史秦槍侍によ

って補足してある。繋年要録の部分は、時間の経過に従

って'宋元撃案

・宋元草案補遺に記

載されるような聾者が少な-な

って行き、宋史の部分は'わずかに二人だけがいわゆる聾者であ

ったことがわかる。何

・江勃

・鄭仲熊の三人は、紹興年間に

「専門之撃」として聾者を弾歴した時の秦槍側の人物であるから'宋元撃案補遺

に載せられているとはいえ'これはいわゆる学者の分類には入れられないものである。秦槍が'第

1回の登場のとき'世

論工作のためもあ

って'学者を多-引き寄せたが、結局、秦槍派の強力な戦力にならず'しかも、講和論など主張しよう

秦槍の講和政策をめぐって

二七九

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第四表 秦 槍 が 推 挙 し た 人

翁 景迂撃秦補選 (補22) 侍御 く王伯厚)先緒

鋳 ○

振 周許諾儒学案 (32) 横膿 く許景衡)門人別附

謹 元城草案補遺 (補20) 元城 く劉安世)門人

趨張詰鰐草案補遺 (補44) 忠簡 く趨鼎)同調

元城畢案 (20) 元城門人

葵 龍川草案補遺 (補56) 龍川 く陳禿)師承

宿 泊呂諸儒学案補遺 (補19)

士劉諸儒学案補遺 (補6) 梁氏 〈究佐 ・梁間)家学

○嘉

守 ○苛 ○則 ○

倶 士劉諸憐草案補遺 (補6) 少卿 く江緯)門人

剛 亀山草案 (25) 亀山 く楊時)門人

皮 ○械 ○点 ○

中 亀山撃案補遺 (補25) 播氏 く播良能)講友

防 ○

〇〇

〇〇番許諾儒草案補選 (捕45) 程氏 く程達〉家拳

蒋許諾儲撃案補遺 (補45) □□□□

紹興撃禁 (補96) 攻専門之聾者

招興撃禁 (補96) 攻専門之聾者

〇〇〇〇

〇〇〇

〇紹興撃禁 (補96) 茨専門之聾者

ものなら'即刻潰滅してしまうような蔽閥Lかつ-り出せなか

ったこと

への反省が'このような表にあらわれていると考

えられよう。

いよいよ秦槍が封金講和に遥進するようになると'秦槍の講和政策に賛同した人物は第五表のように少数

になる。た

だ、第五表も建炎以来繋年要録によ

って、その時間的経過に従いながら人物をならべてあるから'たとえば第四表の最初

に見える王次象のように'終始秦槍につき徹

った人物が、繋年要録に資料が記載されてないため、第五表に出てこないと

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いうようなこともあることを注意しなければならない。さて'第五表では、ただ三人だけが'いわゆる聾者であ

って'他

はすべて'聾者であり政治家であるものに封する意味で'茸務家的な政治家であ

ったと言えよう。同時に'ほとんどの秦

槍板の人物は'氏素性のは

っきりしない怪しげな人物であ

ったともいい切ることが可能である。最後にみえる張俊は,翠

人上りの人物であることも異例である。この表によ

っても'常時流行していた学問の内容がわかるように思われるし、学

者にと

って'漢人の国家が夷秋の国と'しかも

一段低い立場で講和することが堪えられない屈辱であ

ったということが推

測できるようである。また'たとえ後世の歴史家が'秦槍の講和は'富時の南末の苦情からやむをえないものであ

ったと

第五表 秦櫓の和議に賛同した人

孫 近 ○王 倫 ○向 子 謹 元城草案補遺 (補20)

蒋 同 趨張詰儒学案補遺 (補44)勾龍如淵 〇滴 織 ○

冥 賂 ○施 廷 臣 ○沈 該 漠上撃案 (37) 漠上 く朱露)同調

李 誼 ○章 誼 ○張 俊 ○

秦槍の講和政策をめぐ

って

論じてみても、常時のいわゆる聾者にと

っては'我慢のならないものであ

ったこと

がわかるのである。

逆に'秦槍の封金講和に反封した人物は'第六表にまとめた通り'富時の静々た

る人物を含めて'′柏富な数にのぼ

っている。しかもその大多数が'先に述べた宋元

草案

・宋元撃案補遺に名を連ねている聾者である。そしてこの二つの書籍に名を見

出せない人物には'岳飛

・韓世忠のような将軍達も含まれているから、まずほとん

どの反講和浜

・反秦槍液の人物は'いわゆる宋撃とか道草とかいわれる昔時の学問

と何らかの関係をも

っていた者であると考えてよかろう。なお'第六表は'講和に

反封した人物を'宋元撃案

・同補遺に記載された巻数順にならべたもので'建炎以

来繋年要録によ

ってはいるが、時間的な順序で配列したものではない。

王安石が新法を施行した時'

「小人」を任用して手足の如-使

っているという非

難があ

ったが'秦槍も同様に面倒な理論家よりも'氏素性がは

っきりしないとも言

二八山

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第六表 講 和 反 封 涯

李氏 く李撰)家撃

常民 く常安民〉家撃

人人

人人人人人

人人憲華人

門門人撃人草詩人人入門門門門門人門門胡家門調調調人

〉〉門家門家〉門門門〉〉〉〉〉門〉〉

・〉〉同同同門

世世〉〉〉〉能〉〉〉衡国国図彦〉成成之圃漁〉

安安時襲時頼良酢頃顧景安安安徒時九九勉安伯俊

劉劉楊李楊張播蕗程程許胡胡胡羅場張張劉胡郡張

くくくくくくくくくくくくくくくくくくくくく/\

城城山公山園氏山川川購東夷夷葦山浦博

元元亀衛亀呉滞薦伊伊横武武武橡亀横横劉胡武夷子文

磨陵草案 (4)士劉諸儒草案補遺 (補6)満呂諮儒学案 (19)箔呂諸儒撃案補遺 (19)元城草案 (20)元城草案 (20)亀山草案 (25)亀山草案 (25)亀山草案 (25)亀山撃案補遺 (補 25)亀山草案補遺 (補 25)鷹山草案 (26)和靖草案 (27)劉李諸儒草案 (30)周許諾儒草案 (32)

武夷草案 (34)武夷草案 し34)武夷草案 (34)橡章草案 (39)横痛撃案 (40)桟橋撃案 (40)横浦草案 (40)劉胡諸儒草案 (43)

劉胡諸儒学案 (4 3 )

趨張諸儒学案 (44)趨張諸簡草案補遺 (補4 4) 紫厳逓張諸儒草案補遺 (補44) 忠簡く趨鼎)趨張諸儒草案補遺 (補44) 忠簡く超鼎)稔張詰儲草案 (44) 天授く詫定)

紫巌く張俊)同調紫撒く呂本中)講友呂張く呂本中 ・張九成 )門人爽瞬く鄭肢)講友水心く菓適)門人陳昂 之租父象山く陸九淵〉撃侶百源く召Ii薙)績侍温和読者

〝ノソ

′′

′′

′′

//

′′

〟蘇氏く解繊)績停

趨張詰濡撃案補遺 (補44)蒋許諾儒撃案 (45)

玉山草案 (46)玉山撃案補遺 (補 46)水心草案 (55)象山草案 (58)張統語儒撃案 (78)

招興禁草案 (96)〝

′′

′′

/′

蘇氏萄軍略補選 (99)

~ヽ?

・./

遜窮同情偉理樗綱貴素中開惇復振言圭鐘松成夏遺恨憲鼎闘征中段節折辰窒英浩成庶賓擁鍛明確中皮方答符鷹賊仲行

夫釧滑燥仲道飛患絢賂

爾汝

徽如

九景光徳

時戯

零時南

南之

李梁常模孫胡愉李清張鄭曾ヂ牽蘭醇蒋胡朱張凌奨方胡趨張貌劉張金許江林陳李張王方張廉常趨濁毛嬬査蘇辛張林王達韓解楊周王岳韓張胡

えるようなtLかLt秦槍

の政策に全面的な協力を惜しまない人物を引き寄せて'講和に遠進したのである。既成

の政治

家や議論倒れの聾者を使

って、世間の大勢にさからう講和を推進することは大変厄介

であるが'新進の者は洗脳もし易け

れば、上から命令するのも気楽

であると考えたのかも知れない。とりわけ'程氏の学問を尊んだ人物には'講和と聞いた

だけで'単純に過敏に反施してしまうものが多-'

1万

では'先にふれた胡飴のように'なんとな-時の政治に反封する

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第七蓑 墓 諌 表 二

秦槍の講和政策をめぐ

って

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二八四

ような意見を持ち、それを文書にしたためてみるというような人物も撃者の中には多か

った。やはり'も

っと責務的な人

物'少-とも現賓離れした茎理茎論にふけることのない人物を顧優しなければ'封金講和はいうまでもな-'自己の地位

や薫浜の安全はありえないということを'欝

一回の登場の際における苦い経験から'秦槍は十二分に理解していたに相違

ない。さらに、茎諌にも充分な配慮が必要なことも'先の経験の教訓であ

った。第二回の秦槍の登場における童諌は第七

表のように'時の流れにしたが

って'

つまり秦槍の資力の伸長につれて、いわゆる秦槍

1浜の人物がすべての職務を占接

してい

ったのである。たとえば招興十

1年、講和綿飴の直前の時期には、全-秦槍浜以外の人物は、この墓諌表には見嘗

らないことでも'秦槍の周到な準備憾制の

一端が理解できるの.である。

かぐして'第二回の登場における秦槍は'前回の轍を十分克服し、理論倒れの層屠連中を排除Lt垂譲のすべてに自分

の息のかか

った人物を配置し、何の気兼ねもな-思い切

った手を打てるようにした。そして'も

っとも講和を妨害する恐

れのある'強固な意志も現状に封する理解もな-'常に戟事と平和の間を右往左往していた高宗を'再三思慮を求めた上

で、講和に意志を決定させるという策略を用いておさえ込んだ。口うるさい聾者や思想家連中は'主要な職務から追放し

てしまい'政策連行にかかわりをもつ役職は'秦槍

一液で猪占することに成功した。こうな

っては'講和に封する宋側の

準備はすべて整

ったのでありへ交渉相手の金団の内部事情を度外視すれば'講和の成立は坂道を

1気に降るも同然のこと

にな

ったのである。六

'お

秦槍が東国集園の頭目であ

ったかどうか。このことを明らかにすることが本稿の目的ではないことは'最初に述べたと

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おりである。けれども'簡単に述べた秦槍の倖記をみてみると'秦槍が東国奴であ

ったとは'単純に結論できないようで

ある。北宋末期の国をあげての混乱の中で'

一貫して末の皇室の保全を主張し、領土の割譲に断固として反封したことは'

反封浜の連中でも評償しないわけにはゆかなか

った。これらの行動は'忠君愛国の表現もし-は行動形態の

1つとして承

認されていたのである。

南未に入

って'秦槍が講和論

へ傾斜し変身して行

ったことは'すでに超巽らが述べているように'南末の糞力を理解す

れば富然の結論となりへ講和へ直進して行

った秦槍は'現薫を把捉する能力を備えた秀れた政治家として評慣されるべき

であることになる。

それでは'講和の責現のために'高名であり'秀れた人物であ

ったと言われる'いわゆる学者政治家を追い出したこと

はどうであろうか。先の趨翼をはじめとして'秦槍に理解ある態度を示した人達が'講和論とその苦行を評債しながら、

こうした学者政治家らのいわゆる

「君子」を追放して

「小人」を任用したということで秦槍を非難している。しかし'末

代の官僚社食が'科挙に合格した相嘗な知識人によ

って構成されていたことと、官僚達が単なる政治上の意見の同異によ

ってだけではな-、それぞれのより低次元の利害得失によ

って薬液を構成していたことに注意しなければならない。しか

も'年々増加してい-科拳の合格者に-らべ'彼らの就職口の数はほとんど固定して動かないのであるから'厳しい就職

難が生まれてき、これも薫浜を醸成する

一つの原因にな

った。そしてへ薬液問の争いは'直接自分達の地位や横力に結び

つくのであるから'いっそうはげし-な

って行

った。三

・四節で簡単な南宋初期の政治の動きをみたのであるが'ここに

おいても、こうした薫蔽間の争いの性格が理解できるのである。さらに言えば'北宗の王安石が新法を施行した時にも、

同じような現象がおこっているのであるから'秦槍時代の真浜の問題も'その延長線上の

一つであ

ったと言えるであろう。

政局捨富者に反封する立場の官僚達は'純粋に政治上の問題についての反封液だけではな-なり'その中に複雑な人間閲

秦槍の講和政策をめぐって

二八五

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二八六

係が入

って来るようになる。やがて封立する薫沢に加える攻撃や非難は'自然に心情的なものが中心にな

ってきて、それ

が政局据富者に封して行われたものであればt

lノ種の反横力行動として'むしろその方が官僚達の問で'そして時には

1

般の人々の間でも'もてはやされるようになる。その結果'秦槍などは稀代の悪者にな

ってしま

ったのではあるまいか。

こういう状態の中で'さらに宋代的な特徴の

一つとして'言論を職務とする官僚の問題がある。諌官

・御史童系統の官

僚は'時の政治をはじめとして、あらゆる問題について皇帝に封して意見を述べることが職務であ

った。皇帝がかれらの

意見を採用すれば'宰相であれ誰であれ'たちまちその地位から追い出されてしまうのであり'どんな苦心のすえ施行さ

れた政策でも'

一朝にして廃止の運命におちいるのである。皇帝が確固たる信念と政治姿勢とをも

っていれば問題はな

い。しかし'本稿でとりあげた高宗のような皇帝の場合'

つまり場嘗りの政治的展望しかも

っていない人物が皇帝である

場合は'政局の塘富者はどうしても周囲から皇帝に入る雑音を制禦ないし滑去する必要が生じる。高宗の即位以来'数多

くの宰相が任命され'彼らが自己の政治上の見解にしたがって政策を苦行してい-ことが全-不可能なほど短い期間で、

宰相の地位を追われて行

った。いうまでもな-'高宗が政局に封する不動の見識と展望を敏き、しかも情勢の変化につれ

て入るいろいろな雑音に動かされて、つぎつぎ無原則に宰相をとり換えたためにはかならない。秦槍に限らず、誰が政局

を婚嘗したところで'国家の大問題を解決するために'

1つの結論を出し賓行しようとすれば'こうした雑音を防止する

手段を考えるのは嘗然のことであろう。その際'雑音の

一大根源である諌官や御史室を中心に'主要な地位から、封立す

る政策を主張したり、反封のための反封の議論をするような連中を追い出すのも、また至極嘗然のことであろう。とりわ

け'議論倒れの学者政治家は、秦槍のような立場にある人物から嫌われるのもこ

れまた嘗然のことで'秦槍に追われた人

々が学問的にどんなにすぐれた人間であ

ったとしても'

一人秦槍だけが悪者呼ばわりされるのは'それもかなり心情的に

非難攻撃されているのは'とるに足らない問題ではなかろうか。そして'反秦槍側の人々が'追放された轡憶を晴らすよ

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うにして書いたのではないかと考えられる数多い資料をそのまま信じ込んでなされる論評は'も

っと問題にならないので

はないであろうか。

攻に秦槍液の人物についてふれておきたい。秦槍が大多数の反封浜に違

って講和を遂行するため'統禦しやすい人物を

自己の周達に集め'これを主要な地位に配置したことは、いわゆる

「小人」を任用したとして'王安石と同じような非難

をうけている。けれども'すでに述べたように'自己の政策を連行しようとすれば'しかも時の大勢に逆

ってまでも敢え

て苦行せんとすれば'誰であろうと同じような手段に訴えるものであろう。したが

ってへ君子か小人かの議論は的外れ以

外の何ものでもない。

ところで'五節に述べたように'秦槍が推薦したり'あるいは秦槍浜の人間であると言われたりしている人物の中で'

秦槍が講和締結に乗り出すと、講和反封派すなわち反秦槍に轄身した人物が何人かいる。播良貴

・榎招

・張責

・胡世賂

粛振

。梁汝嘉

・鄭剛中らがそうで'胡世婿を除けば'すべて宋元撃案

・宋元草案補遺に名を連ねる学者

・思想家である。

このほか'陳淵と摩剛は'積極的に講和反封の意志表示はしなか

ったが'講和論には必ずしも賛成しない態度を取り'秦

槍に追い出された。そして'この二人も先の人達と同じ学者

・思想家に属する。こうした'少数の例でも'この頃の学問

がいかに秦槍のやり方と封立していたものかが想像できるようである0

秦槍をめぐる人間関係について、もう

一つ考えなければならないのは'秦槍が永嘉郡

(温州)出身の人を多-任用した

ことである。「秦槍は温州永嘉郡の人を起用して自分の薫派

へ入れた。呉表臣と林待滑とは秦槍浜の重鎮と呼ばれ、大官

にな

って国政を左右した。温州永嘉郡の人であ

って'耳と目と口と鼻とがそなわ

ってさえいれば'みな要路に登用され、

さらに相互に推薦しあ

って昇格していった。その勢いたるや大変盛んで'人々は毎日毎月昇進してゆき'とどまるところ

(1-6)

がなか

った」という記銀があ

秦槍は紹興五年六月に温州の知事に任命された。ちょうど最初の宰相位から追われ'再

秦槍の講和政策をめぐって

二八七

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二八八

任されるまでの間のときである。このおよそ

1年のあいだに'温州の人物の中で'自分の政策を遂行するときに戦力とし

て使えそうな人間を見つけておいたのか'あるいは温州人そのものが秦槍の饗想と同じような考え方をする人々で、温州

が風土的にそうした人物を輩出する土地であ

ったのかtのどちらかであ

ったと考えられる。しかし'これはさらに考えな

ければならない。いずれにしても'議論倒れの聾者政治家より'学問とは探いつながりがな-ても責務家肌の人物が多か

った秦槍の周囲に、いま

1つ温州永嘉郡出身の人間が多か

ったことは興味ある事柄である.北宋時代の前牛に'華北中原

一帯の北人と'宋の建国以後に末に統合された蓉商店を中心とする南人との間にはげしい巽東の争いがあ

ったが、それは

革に地理的な北と南との差ではな-'人物の能力や気質'考え方などにも大きい差異があ

ったといわれている。あるいは

秦槍時代の温州の人々と'反秦槍涯の人物たちの間にも'北宋の時と同じような違いが存在していたのかも知れない。

本稿では'秦槍の封金講和の推進の過程で'秦槍に賛成する連中とこれに反封する

一派とが'それぞれ特徴ある性格t

と-に常時の哲学

・思想上の草間とのかかわりの問題がその裏にあ

ったことを述べてきた。もちろん、政治に関する問題

は複雑怪奇で'

しばしば資料の枠を越えたところに核心がある場合が多-'

本稿のように簡単な事賓調べの結果の結論

が'甚だ不十分なものであることは'あらためて言うまでもない。しかし、ここで取り上げたいわゆる学者政治家、敢え

ていうなら宋撃とか道草とかの影響をまともに受けた政治家の集圏と'そうでない政治家集園との関係を詳細に解明する

ことは'南宋史全磯の理解にかかわる問題ではないかと考えられる。南宋では秦槍につづいて'韓梶胃

・史摘遠

・貢似道

ら患名高い宰相が多数いて、すべて、現在我々が見ることのできる資料の中で激しい非難をうけている。人物評債の問題

はさておくとしても'かれらの行

った政治政策のす

べてが'資料の額面通り、問題にならない愚かな行馬であ

ったのかど

うか'再検討の必要を感じるのである。南溝史'あるいは南宋政治史に限定してもよいが'その理解はここで述べたよう

な聾者政治家集園の問題を無視しては成り立たないのではないかと思われ'そのための

lつの試みとして'数多-の歓粘

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があることを知りつつ'本稿をまとめてみた。

(1九七三㌧四、

7五)

注(

1

)

朱子語類巻

一三

一。

秦槍嘗作好人0時亦多有好相識。晩年都不興他。

1切壊了.-略-

(2)

朱子語類巻

一三

1。

秦老是士太夫之小人。-略-・

(3)

朱子語類巻

一三

一。

奏老侶和議以誤国。挟虜勢以遜君。終使奔倫教壇。遺親後君。此其罪

之大著。…略-

(4)

最も簡明な説明は'桑原陪戒

「東洋史教授資料」

l七六項

八〇項

一項。

(5)

宋史巻三六五岳飛侍。

-略-患義之言。流出肺腺。虞有諸葛孔明之風.而卒死於秦槍之手。

蓋飛輿槍。勢不両立。使飛程志則金僻可復.宋恥可雪。槍得意則飛有

死而己。-略-鳴呼寛哉。鳴呼菟哉。

(6)

宋史巷四七三姦臣三秦槍侍。

-略・・・槍雨蛙相位。凡十九年。劫制君父。包蔵摘心。侶和読図。忘偶

数倫。

l時忠臣艮婿。訣鋤略壷。共感鈍無恥者。率馬槍用.

(7)

貌山松・宝達紀始巻四墳墓類。

岳武穆墳前設秦櫓象始於明。

明正徳八年。都指揮李隆。鋳鋼馬之。乃秦槍

・王氏

・万侯高三像。

反接脆墓前。久被遊人撞砕。寓歴中。按察副使泊珠。更鏡以鉄。而

添張俊

1像。

(8)

丘溶自身の著述の中には見られないが、丘港の言葉として書きしるし

たものが二つある.

1は'明

・王輩の震揮紀聞で'二は明

・郎漠の七

秦槍の講和政策をめぐって

償綬藁である。震揮紀聞では

「邸清・‥略-其論秦槍日。宋家空足。亦

不得不興和親。南宋再造。槍之力也。-略-」といい、七催績藁金三

「武穆不能恢復。秦槍再造南宋」の項では、

先正邦文荘公酒嘗云。秦槍再道南宋。岳飛不能恢復。・・・略-夫以孝

宗之時。庸財用之不足。高宗草創固可知夫。使急於用兵。徒促倫

亡。故南渡以来。推多良将。帝常為威嚇D和議之後。敵緩民養O国

方有久立之規。是槍之心錐私。而和之事則雷。豊非鬼神陰有以成宋

家之天下郎。邸蓋原其事。而究其理。非以右槍也。

(9)

王夫之・宋論巻十高宗、算八節。「滑天之秦槍」。

(10)

王士碩

・池北偶談奄九

「秦槍復認」、

宋寧宗亮泰四年。追封岳飛鳥都王O関宿二年。追奪秦槍爵。誤謬

醜。此天下常世公議。-略-

(ll)

鏡大折

・十駕静養新録巻八

「宋季恥議和」.

宋奨金讐也。義不嘗和.而紹興君臣O主和議甚カO馬後世話柄。

・・・

略・・・其国勢積弱可知夫。然則従前之壬和。以時勢論之。未馬失算

也。-略・・・賓似道援郭。遣使蒙古。講栴臣納幣。乃得退師。既而蓋

諒其事。幽囚都経等。置和議干不問。致蒙古興問罪之師。其曲荏

栗。不在蒙古也。我弱彼強O彼又先遣使。而必不肯主和以遠其亡。

蓋由道学諸儒恥言和議。-略-

とある。引用部分に直接入らない所も、論吊を誤らぬよう併せて引い

てある。

(12

)

趨翼

・二十二史別記巻二六

「和議」.

義理之説.輿時勢之論.往往不能相符。則有不可全執義理者O蓋義

理必参之以時勢。乃馬寅義理也。・・・略・‥是宋之構図.始終以和議而

二八

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(13)

(14)

(15)

(16)

19 1817

存。不和議而亡。蓋其兵力本弱。而所値遼

・金

・元三朝。督嘗勃興

之運.天之折興o固非力可争。以和保邦。拾不失園全之善策。而耳

金者。徒以和議馬辱。妾轟誌誤.虞所謂知義理。而不知時勢。聴其

言則是。而究其賓則不可行者也。

陳登原

「秦槍評」(金陵草報解

1金第

一期

l九三六)

先便

「宋金議和之新分析」(東方雑誌第三十三春野十沈

1九三六)

外山軍治

「岳飛と秦槍-

主戦論と講和論-

(支那歴史地班叢書

冨山房

一九三九)

顧友光

「岳飛抗金的故事」

(愛国主義通俗歴史故事小叢書

大中国国

書局

上海

一九五三)

郵贋銘

「岳飛停」(生活

・讃書

・新知三聯書店

北京

一九五五)

洗起爆

「宋金戟学史略」(湖北人民出版社

武漢

1九五八)

何竹棋

「岳飛抗金史略」(生活

・講書

・新知三聯書店

北京

一九六

三)

(20)

李心侍

・建炎以来紫年要録

(以下繋年要録と略栴)巻

1六九紹興二十

五年十月丙中の候

(五四二〇)。なお

()内の数字は'文海出版社

(壷湾

一九六八)の覆印本にうってある頁番故である。

(21)

彰古川・太平治蹟統類寧

「阻宗科挙牧人」の項、微宗政和五年三

月己卯の修に、

御集英殿策試。途賜何東

・属守

・博中行

・秦槍

・宇文衰純

・郭封

呂大安。賀允中

・史渠・田孝孫等以下六百七十人及第出身。-略・‥

とあり、恐ら-成績優秀な者の名前があげてあるものと考えられる。

(22)

宮崎市定

・科挙

(秋田産

京都

1九四六)

寺田剛

・宋代教育史概詮

(博文敢

東京

1九六五)

荒木敏

1・宋代科挙制度研究

(東洋史研究食

京都

1九六九)

などの関係部分を参考。

(23)

前記寺田完代教育史概説。

(24)

太平治蹟統類巻二八

「弧宗科挙取入」微宗宣和五年三月の候。

詞撃棄茂科選人秦槍。循

一資。槍江寧人。

二九〇

宋合要輯稿選挙

一二

宣和五年三月の修。

三省言O試詞聾余茂科。迫功郎

・前替州教授秦槍。-注略・・・考入次

等。依格循資。

詞聾桑茂科については'(22)折損の宮崎

・荒木著書参照。また、洪

・容顔三筆巻十

「詞聾科目」に簡明な説明がある.

(25)

以下の詮明は'前端宮崎

「科拳」三二-三五及び

一八七-一九二頁。

また、荒木

「宋代科挙制度研究」第四章

「科目」参照。

(26)

秦槍の学問については、詳細なことは明らかでないが'南宋のごくは

じめに'非常に短い期間、宰相になったことのある珪伯蒼に秦槍が

「徒草」したことがあった。繋年要録巻四六摺興元年八月辛卯の修三

(1六四)及び繋年要録巻

三相興七年八月突T]の候

(三五七〇).

(27)

宮崎市定

・宋代の太聾生生活

(アジア史研究第

一所収

東洋史研究合

京都

l九五七)

寺田前掲著書五〇及び

1二四頁。また、宋史怠

1六五職官憲五

「国

子監」の項。

(28)

宋史巻四七三

「姦臣三」秦檎樽。

靖壁光年。金兵攻持京.遣使求三鏡。槍上兵磯四事。

一言金人要論

麺厭O乞止許燕山

l路。二言金人狙詐。守禦不可緩。三乞集百官詳

議。揮其富者。載之誓書。四乞館金使手外。不可令入門及引上殿。

不報。

このほか、無名氏

・靖康要録金七靖康元年五月の候、及び徐夢等

・三

朝北盟合縞巻二七靖康元年正月四日の候に詳しい内容が載せられてい

る。なお'三朝北盟合編では

「兵機三事」とある。

(29)

宋史提要編算協力委員合

・宋代史年表

(東洋文庫

東京

l九六七)

では靖康元年正月十四日としてあるが、靖康要録では正月十日の日付

になっている

(金

一靖摩冗年正月十日の傑)0

(30)

靖康要録金七時康元年五月十

1日の候。なお、勾嘗公事は'宋史秦袷

侍では幹嘗勾事につ-っている。

(31)

靖康要鎖巻二靖摩九年二月四日の権。また三朝北盟合縮重

二三靖康元

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年二月三日の僕には'それぞれの割地俵の措富地域が明記してある。

(32)

宋史秦槍樽。

(33)

三朝北盟合編撃

二八靖康元年二月十五日の候に

「河間府

・中山府

・衣

原府三大鏡。無慮二十州五十六麻」とあって、二十州五十六願が

「三

鏡」という語に含まれていた。

(3)

楊仲良

・通鑑長編紀事本末巻

一四五欽宗皇帝

「金冠」の項'(靖康六

年)五月丁丑の候。

-略-初斡離不還抵中山

・河問雨鏡。兵民固守不肯下。覇王

・張邦

昌及割地使等。窮空域下説諭。即以矢右及之。-略…

また'靖康要録食七靖康元年五月十二日の修にも同じ記事がある0

(35)

命槍倍増部侍都。輿程璃馬割地使。奉粛王以往。金師退O槍

・璃至純

而還。

38 37 36474645444342 41

靖康要録巻七靖康元年五月十

1日の候。

宋史秦槍侍。

靖康要録金丸靖康元年七月九日の修及び金史竜三天倉四年七月成子の

修。

要録巻十

l靖康元年十月十二日の修。

通鑑長編紀事本末巻

1四五

「金冠」靖康元年十

1月己巳の修及び靖康

要録巻

1二靖康元年十

一月八日の傾。また績資治通鑑長編拾補巻五七

靖康元年十

1月己巳の候は、通鑑長編紀事本末などが引かれている。

(40)の講書の記事に

「清野」を建議したとする。

康要録巻1三靖康元年十

一月二十三日の修。

靖康要録巷

一三靖康元年十

l月二十五日の係が最も詳しい。

靖康要線審

一三靖康元年十

一月二十五日の候。

(44)と同じ修。

靖康要録巻

一四靖康元年十

一月二十六日の保。

靖康要録巻

1五靖康二年二月六日の修'また三朝北盟禽編巻八

l哨康

二年二月十四日の候。

(48)

通鑑長編紀事本末巻

一四九

「二聖北狩」靖康二年二月巽西の傍、及び

秦槍の講和政策をめぐって

績資治通鑑長編拾補雀五九靖康二年二月乙亥の櫨の注参照o

(49)

宋史巷四七三秦槍侍。

槍不顧斧戚之課。言南朝之利害。臆復嗣君位。以安四方。非特大宋

軍帽。亦大金寓低利也。

(50)

通鑑長編紀事本末巻

1四九

「二聖北狩」靖康二年二月乙亥の修、また

績資治通鑑長編拾捕食六〇靖康二年三月乙巳の候。

(51)

通鑑長編紀事本末雀

1四九時康二年三月乙巳の修。靖康要鍍金

1六靖

康二年三月十五日の候。綾資治通鑑長編拾補巻六〇靖康二年三月乙巳

の修。

(5)

靖康要録巻

l六靖康二年三月二十八日の保。三朝北盟合編食八七靖康

二年三月二十八日の修。

(53)

三朝北盟合編巻八七靖康二年三月二十九日の修。また注

(51)

(52)

の諸修。

(5)

繋年要録巻三八建炎凶年十月辛未の候

(一四

10)0

(55)

繋年要録巻

一六建炎二年六月の傾

(六七八)。

なお金人の中国式の名

前は'諸資料に相富な混乱がある.本稿では平凡社

「アジア歴史新

興」などにみえる外山軍治氏の説に従って、資料をかってに改めてあ

るところがある。

(5)

(55)に引いた資料につけてある双行の注参照。

(57)

繋年要録雀三八建炎四年十月辛未の秦槍の躍園を述べた修

(1四

1

0

-

1二)に、このあたりの事情や講書の異同などがまとめてある。

(5)

繋年要録巻三九建炎四年十

一月丙午の係

(一四四〇)。

-略-至行在。槍自言。殺監己者。奔由来蹄。朝士多疑之者。而宰

相蒋宗ヂ

・同知枢密院李回。輿槍善。力薦其忠。乃命先見宰執於政

事堂。翌日。引封。槍言。如欲天下無事。須是南自南北自北。逮建

議講和。且乞上教書左監軍昌求好。

(59)

繋年要録巻三九建炎四年十

一月丁未の傾

(一四EIl)0

-略-上目。槍撲忠過人。朕得之菩而不煤。…略-

(60)

繋年要銀盤三九建炎四年十

一月丁未の候

(一四凹

一)O

二九一

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65 64 63 6261

朝請邸試蜘史申丞致仕秦槍。試碍部備蓄。賜銀烏二百匹両。-略…

(龍)宗空言。槍初蹄用乏。欲賜銀南。又言。槍醤除資政殿学士。

欲以終発智之。上目。未須如此。且輿

l事簡倍音。-略・・・O

繋年要録撃

二九建炎四年十

1月庚戊の候

(l四四三).

繋年要録巷三九建炎四年十

一月葵亥の候

(1四五〇).

繋年要録巻四二紹興元年二月戊寅の候

(一五〇〇)0

繋年要録金四二紹興元年二月辛巳の催

(一五〇〇)0

繋年要録金四三紹興元年四月己巳の候

(一五三九)、及び同書巻四四

招興元年五月丙午の懐

(1五六二).

繋年要録金四四紹興元年五月丙申朔の候

(1五五三)、及び同署同港

同年同月丁巳の候

(1五六八)0

繋年要録巻四五紹興元年六月丁丑の懐

(一五八四)o

繋年要録巻四六紹興元年七月契丑の候

(1六

)。なお、氾宗野に

ついては、爽史蒋宗申侍のはか、建炎末紹興初の時期の繋年要録に数

多い資料がみられる。

繋年要録金四六紹興元年七月契亥の候

(1六

1五-1七)。

瞥年要録巻四六紹興元年八月丁亥の候

(一六二九)0

参知政事秦槍。守備書右僕射・同中書門下平茸事

・衆知枢密院事。

蒋宗申既発。相位久虞。槍昌吉日。我有二策。可以鎮動天下。或

問。何以不言。槍日。今無相。不可行也。語間。遮有是命。

(70)参照。

(70)に横-双行注

(一六三〇)、また繋年要録巷四七紹興元年九

月突丑の候の双行注

(一六五〇)、同書巻四九紹興元年十

一月丁酉の

(l六九七)などを参照。

繋年要録巻四七紹興元年九月突丑の修

(一六五〇)0

繋年要録巻四八紹興元年十月乙丑の候

(一六六八-六九)0

繋年要録巻四九紹興元年十

一月乙未の候

(〓ハ九六)。なお、秦槍と

胡安国との関係については、宋史巷四七三秦槍侍に、

-略-義

(胡)安国嘗問人材於瀞酢。酢以槍馬言。且比之苛文若。

(76)

(77)

83 828180 79 7887 8685 849190 89 88

二九二

故安国力言槍質於張渡諸人。槍亦力引安国。

-略・・・

とあるように、これまた学者として高名な洋酢を介して秦槍を知った

胡安国が'嘗時の有力者連に秦槍を推薦しているのである。

繋年要録巻四九紹興元年十

1月丙辰の修

(1七

1四)0

繋年要録金五〇紹興元年十二月乙丑の候

(1七二二)及び同書巻五1

紹興二年二月丁卯の修

(一七五八).

繋年要録巷五l紹興二年二月戊子の候

(一七七五)

0

繋年要録巻五二紹興二年三月己未の候

(一八〇五)

0

繋年要録巻五三摺興二年四月己卯の修の双行注(一八

l三)

0

(80)参照。

録年要録巻五三紹興二年四月己卯の候

(一八

一二-一三)o

繋年要録幾重二紹興四年四月契未の修

(l八

1六).

詔日。朕宿麻中興.累年於茨。任人共政.治致鉄然。戟加致績。登

庸二相。蓋欲共謀断。協商事功。俺地番遇O健貌惟均。凡

一時啓擬

薦聞之士。顧朕抜擢任使之問。随其才器。試可乃己。豊有二哉。

侍慮。進用之人。才可勝徳。心則婚奥。常数偏私。浸成離間。牌見

分朋植薫。互相傾拓。由妨之不早排他.可不滅哉。継自今。小大之

臣。其各同心鱒国。数倍中和。交修不達。如或朋比阿附。以害吾政

治者。其令室諌論列間奏。朕嘗厳置典刑。以課其意。

(83)の詔勅の後に書かれた解説文の中に見えることば。

繋年要録巻五四紹興二年五月壬戊の候

(一八五一)0

繋年録雲雀五四紹興二年五月丙戊の修

八六八)0

裡政文

・黄叔敷

・胡世賭

・王居正・呉表臣

・曾統

・櫨煩・張琴bは修政

局の設置とともに任命された。注(86)を参購。葦誼はややお-れて入

居した。紫年要録巷五五紹興二年六月甲中の候

八八二)参照。

繋年要録巻五六紹興11年七月契酉の候

(1九

10)a

(86)参鷹。

繋年要録巻五六紹興二年七月甲戊の候

(一九

〟二)。

繋年要録巻五六紹興二年七月辛巳の櫨

(1九

1七)に'秦槍の失脚を

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狙ったことが記されている。

(92)

繋年要録巻五七紹興二年八月壬辰の候

(l九二四)に'

97 96 95 94 93

-略-先是。呂噸浩自江上還。欲傾秦槍。両夫得其要。過中江。守

臣借金謂之日。Dj]馬薫。可也。然薫風在鎖閲。嘗先去之.暇倍大

喜。乃引

(朱)勝非馬助。・‥略・・・。

(92)に績-資料を参照し

繋年要録巻五七紹興二年八月戊串の修

(一九三九).

繋年要録巻五七紹興二年八月己酉の候

(l九四〇)0

繋年要録巻五七招典二年八月庚戊の候

(1九四〇)0

秦捨浜の追放は'繋年要録巻五七及び五八の紹興二年八月末から九月

irj5104luョID冒

にかけての係にほとんどすべての資料がみえる。

(98)

繋年要録巻五七紹興二年八月甲寅の修

(1九四四)0

(

99)繋年要録巻三九建炎四年十

l月丁未の候

(1四四二)。

-略-始朝廷雌数遣使。然但且守且和。而専輿金人解仇議和。蓋白

(秦)槍始。

(1)

繋年要線審五七紹興二年八月葵卯の修

(一九三六)

惟東宣撫使劉光世言。通問使

・朝奉郎王倫。還白

金園。始朝廷遣人

使敵。日宇文虚中之後。率募小臣或布衣。借官以行。如倫及朱弁

醜行可

・撞縦

・洪胎

・張郡

・孫悟輩.皆番所拘O旺而金左副元帥宗

経。在雲中。道都鮎検烏陵恩謀至舘中。具言息兵議和之意。倖倫南

蹄。須使人往議-略-0

(川)

繋年輩線審五七紹興二年八月甲寅の修

(1九四四)0

・・・略-槍輿左僕射呂願浩不譜。餅浩既引先勝非還朝.復白内批。合

口赴都堂議事。位知枢密院事上。欲以遠秦袷。合通報王倫来踊O殿

中侍御史貴弘年。因劾槍尊王和議。阻止国家恢復遠国。且植基専

権o漸不.E長。槍印上章酎位。上未詳。前

一日。頓浩輿参知政事樺

邦彦留身上前。復言槍之短。上乃召兵部侍郎

・素直学士院薬宗山絶入

封。}=捨所献二策。大略。欲以河北人還金。中原人還劉漁。如斯而

己。-略-

秦槍の講和政策をめぐって

lil1川109188107196115114113112

繋年要録巻五八紹興二年九月己未の候

(1九五〇)0

宋史秦拾侍。

宋史秦槍侍。

繋年要録巻

l〇二紹興六年六月乙卯の修

(三二六八)、及び同書懇

1

〇四同年八月

丁末の修

(三三l八)参照。

江(捕)の八月丁未の修参照.

繋年要録巻

一〇五紹興六年九月庚辰の候

(三三凹

l)0

繋年要録巻

一〇六紹興六年十月辛丑の修

(三三六三)0

繋年要鎖巻

一〇七紹興六年十二月甲午朔の修

(三四〇〇)a

繋年要録巻

一〇八田興七年正月丁亥の候

(三四五〇)。

繋年賀線審

一〇七紹興六年十二月;-午朔の修

(三四〇〇)0

-略-張俊。以

(秦)槍在靖庚申。建議立姓氏。不良死。有力量可

輿共天下事.

1時仁賢薦槍尤カ。遂推引之。・・・略…o

(ll1)の修に緯-双行注参照。

繋年輩線審

一〇八紹興七年正月成子の候の双行注

(三四五

1)0

宋史巻二八高

宗本紀五紹興七年三月巽西の候。

繋年要録巻

二相興七年七月壬中の候

(三五五六)0

-略-参知政事張守。突入執

(張)俊手日。守向言秦菖徳有馨。今

輿同列徐波其人。似朗1'昔異。晩節不免有愚失心。定格満天下洗愛。

蓋指棺密使秦槍也。俊以馬然O

(116)

繋年要録巻

三紹興七年八月甲辰の修

(三五八三)0

・・・略・・・定日。張波留身求去位。上問可代著。俊不封。上白。秦槍

何如。俊日。近輿共事。始知其闇。上目。然則用超鼎O途令俊擬批

召鼎。-略-0

(ll7)

繋年要録巻

三紹興七年八月戊戊の候

(三六四四)0

・・・略・・・(趨)鼎之初柏也O上謂日。卿既還相位。現任執政去留惟

卿。鼎日。秦槍不可令去。

張守

・陳奥義乞罷。上皆許之。-略-

(〓)

繋年要録巻

七紹興七年十

一月庚戊の修

(三六九八)。

-略-

(秦)槍日。陛下但積徳。中興岨白有時。-略・・・

二九三

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(M)

繋年要録雀

七紹興七年十二月突未の候

(三七

l三)0

定日。微猷閣得制王倫

・右朝講邸高公給。還白金国。初劉橡班磨。

左副元帥魯国王昌乃迭倫等韓日。好報江南。改造塗無塗。和議白此

卒達。…略-

(1)

たとえば

繋年要録巻

八紹興八年正月乙巳の傾

(三七二四)を参

照。

(

m)

繋年要録巻

七・二

八に主我派の議論が数多く載せられている。

(

1)

繋年要録巷

八招興八年三月壬辰の傑

(三七四六)0

12912g127126 125124123

梶密使秦槍。守蘭書右僕射

・同中書門下平茸事

・乗枢密使。前

1

日。趨鼎留身奏事。上白。堂中必無異議者。又日。秦槍久在棺府。

得怨望否。鼎日。槍大臣必不爾。然用之在陛下蘭。況自有閑。是夕

鎮院制下。朝士皆相賀。-略…

紫年要録巻

八紹興八年三月戊中の候

(三七五五)0

繋年要録巻

九紹興八年五月丙戊の修

(三七六八)0

繋年要録巻

九紹興八年五月辛亥の候

(三七八三)や同書金

一二〇

同年六月戊辰の係

(三七九五)などを参照。

繋年要録巻

一二二以下の紹興八年九月以後の諸資料を参照。

繋年要録巻

一二二紹興八年十月甲戊の候

(三八六五)0

(1-7)参照。

繋年要録の資料だけをみると、金

一二二紹興八年十月乙亥の候

(三八

六九)'同着同年同月辛巳の候

(三八七三)、幾

1二三同年十

1月英夫

朔の懐

(三八七五)、同感同年同月甲串の傾

(三八七六)、同巻同年同

月丙戊の修

(三八七八)、同番同年同月己丑の傾

(三八八

こ'間食同

年同月甲辰の候

(三九

一〇)などを参照。

(1

)

繋年要録巻

111四紹興八年十二月戊午の候

(三九三六)、及び同書同

懇同年同月戊辰の修

(三九四九)などを参照。

繋年要録巻

一二四紹興八年十二月庚辰の候

(三九七五~七九)0

繋年要録巻

一三七摺興十年九月壬寅朔の催

(四三三四)0

繋年要録金

1四〇紹興十

1年六月乙亥の候

(四四二l)0

二九四

(

1)

繋年要録巻

1四二摺興十

一年十

一月王子の修

(四四八九)0

(

捕)

学問の問題と秦槍とのかかわりについては'庄司荘

一「秦槍につい

て」(甲南大挙文聾論集九

一九七〇)参照。

(

1

)

繋年要録巻

1四四紹興十二年三月乙卯の候の双行注

(四五四〇)に引

用された先勝非の秀水閑居録に'

東南諸州。解額少容子多。求牒試於時運司。毎七人取

1名。比之本

質。難易百倍。秦槍於永嘉引用州人O以馬糞助。実意臣・林待碑。

競馬薫魁。名馬揖官。賓操国柄O凡郷士具耳目口鼻者。皆登要途O

吏相琴緩。其勢炎炎.日蓮月擢。無復程度。・・・略・・・

とあって、秦槍が温州永嘉郡の人を重用したことが知られる。

補工第

三表および第七表の重諌表は、建炎以来繋年要録にしたがって作成し

た。繋年要録に重課の個人名が出て-ると、その月その人は董譲の職にあ

ったとして表中に記入した。したがって、節三表の

「諌議大夫」の項の黍

確の場合'建炎四

九月から摺興元年正月までの間、右諌議大夫であった

ことは疑いないが'繋年要録のこの時期のところに名前が出てこないため

に、表では基白になっているのである。

補Ⅱ本

稿の注では、秦槍の動静に関しては、できるだけ詳細に述べたつもりで

あるが、それ以外の鮎で,は

一っ一つ注を付けなかった。したがって'注の

付けてない事賓関係については、宋史本紀の微宗

・欽宗

・高宗の部分、ま

た宋史秦槍樽及び関係する諸人の列樽、さらに'績資治通鑑長編

・同拾

補、資鑑長編紀事本末、靖康要録'三朝北盟合編、建炎以来繋年要録、中

興小紀、金史の本紀と諸人の列停'大金国史などの資料を使ってまとめて

ある。また、外山軍治

・宮崎市定

・佐伯嘗ら諸先生の論文

・著書なども大

いに参考させていただいた。