title 一九世紀イギリスの売官制 : 陸軍士官の任官・昇...

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Title <論説>一九世紀イギリスの売官制 : 陸軍士官の任官・昇 任・退官 Author(s) 村岡, 健次 Citation 史林 (1992), 75(5): 710-739 Issue Date 1992-09-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_75_710 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 一九世紀イギリスの売官制 : 陸軍士官の任官・昇任・退官

    Author(s) 村岡, 健次

    Citation 史林 (1992), 75(5): 710-739

    Issue Date 1992-09-01

    URL https://doi.org/10.14989/shirin_75_710

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 一九世紀イギリスの売官制

    エ00 (710)

    一陸軍士官の任官・昇任・退官1

    【要約】 イギリス陸軍士宮の任用制度は、一九世紀後半の一八七一年にいたるまで、その多くの部分が、なお、中世後期に起源す

    る売官制によって支えられていた。このことは、当時のイギリスが経済の最先進国であったことを考えると、何か奇異に感じられ

    るが、当時のこの国の軍事制度が依拠していたまぎれもない一つの現実であった。この前近代的な陸軍士官職の売官制は、イギリ

    ス吏研究の専門家の問では、今日までそれなりに注目され、また、それなりに論じられてもきたが、その専門家たちの研究・述作

    においても、この制度の仕組みそのものが詳述されることは、意外と少なかった。本論は、そのような研究史を踏まえ、このとこ

    ろ筆者が進めている一九世紀イギリス軍制史研究の一環として、これまでその割になおざりにされてきたこの売官制の仕組みその

    ものを、}九徴紀巾葉の時点を中心に取り上げ、その歴史的特質の一端を明らかにしょうとするものである。

                                           史林 七五巻五号  一九九二年九月

    は じ め に

    一九世紀のイギリスは、工業化の先陣を切った「最初の工業国家」(p・マサイァス)で、「世界の工場」と称えられた経

    済の最先進国であった。国内においては、その経済の分野ではもちろん、

    となり、議会制度が国制の最高機関として盤石の地位を築き上げていた。

    政治の分野でも自由主義が政策のプリンシプル

    だがその反面この国では、大陸の諸国とは異な

    って一八・九世紀にいわゆる市民革命を経験することがなかったため、一八世紀来の貴族・ジェントリを中心とするジェ

  • 一九世紀イギリスの売官制(村岡)

    ントルマンの政治支配が一九世紀へと存続し、それに見合って伝統的な諸制度が社会の多方面にわたっていつまでも生き

    続けることになった。この傾向はとりわけ政治の諸制度において著しく、国制の最高機関として盤石の地位を誇った議会

    制度にしても一九世紀のそれはけっして民主的なものではなく、その実質は貴族・ジェントリとジェントルマンの寡頭支

    配を支える恰好な政治装置でしがなかった。同様にして、その議会制度をとりまく他の国家権力の諸制度、すなわち君主

    制度、国教会制度、公務員数度、司法零度、エリート教育制度など、どれをとっても、伝統的な権威と機能に依存しない

    ものはなく、いずれも貴族・ジェントリとジェントルマンの支配の現実に照応する性格をもっていた。

     ところで陸軍士官の任官・昇任・退官をめぐる制度は、これらの諸制度の中でももっとも前近代的な性格をもつものと

    いってよかった。というのもこの制度は、一九世紀の後半にいたるまで、なんと売官制(℃賃。冨ωΦ。。閤叶ΦB)によって運営さ

    れていたからである。なるほど売官制といっても、宵宮・昇任・退官の人事いっさいがそうであったわけではなく、また

    一九世紀において売官糊が行われていたのは近衛(O轟巳ω)・騎兵(o碧ρ犀団)・歩兵(冒鍵暮蔓)各連隊の少尉から中佐にいた

    る士官職についてで、それより上の大佐と将官、少尉より下の下士官(p。甲8ヨB奮δ器創。臨。。蹟i通常属oOωと略される)

    はその限りではなかった。また、より専門的な知識と技能を要求される砲兵士官と工兵士官もその限りではなく、この分

    野では、すでに一八世紀来、任官資格としては陸軍砲兵士官学校(図。団巴霞津p・蔓ぎ&。ヨ団層≦。9三魯)を卒業することが、

                                   ①

    また昇任の基準としては先任順(・・①巳。算団)が、人事の原則と癒っていた。だがそうはいえ、当時のイギリス陸軍(常備軍の

    こと。罠兵.ヨ「マソリ、それにインド陸軍は含まない)を講成した最たる部分が上記した近衛・騎兵・歩兵の各愚連隊であっ

    てみれば(後の表-を参照)、売官糊が当直の陸軍士宮任用制度の中核的・基本的部分であったことは疑いのないところで、

    誰もそのことを事実として否定するわけにはいくまい。実際この制度は、まさにそのことのゆえに、とりわけクリミア戦

    争(一八五四-五六)において陸軍軍記の非効率性が暴露されたとき、チャールズ・トレヴェリアンをはじめとする中流進歩

    的分子の厳しい指弾にさらされることになった。だがにもかかわらず、この七度はその後もあいかわらず生き続ける。そ

    101 (711)

  • してそれが廃止されたのは、やっと一八七一年目第一次グラドストソ内閣の陸根エドワード・カードウェルによる軍制改

    革の一環としてであった。

     ところでこのカードウェルの改革は、かつての概説では、一九世紀イギリス軍制史における最大の変革として、また第

    …次グラドストン内閣の自由主義的改革の眼目として位置づけられ、概してその革新性が強調された。まりわけ陸軍士宮

    職売官制の廃止は、上院の審議延期によって事実上否決されたあと、内閣が非議会的な手段を用いてその廃止を強行した

                                  ②

    という事情もあって、とくにその革新性が強調されるきらいがあった。だがその後の最近にいたるこの間題についての諸

    研究は、カードウェル改革の効果に全般的な疑問を投げかけており、陸軍士官職売官側の廃止についても、それがただち

                                                 ③

    に陸軍におけるジェントルマン支配の崩壊につながるものではなかったことが指摘されるにいたっている。というわけで

    近年、軍制史の分野では、カードウェル改革の再検討が急がれているわけだが、以下の本稿ではそれにとりかかる前提と

    して、この陸軍士官職階官制の具体的な仕組みそのものを取り上げることにしたい。というのもこの欄度は、一つの歴史

    的形成物としてはなはだ複雑な仕組みをもっており、そのせいもあってか、今日まで、専門の史家によってこの制度が取

    り上げられても、この制度の仕組みそのものが取り上げられることは意外に少なかったからである。カードウェル改革に

    ついてはその上で、別に稿を改めて論じたいと思う。

    ①肉愚ミミ§9§譜訟軌§§§遠ミミな§心ミ§帆ミ。§砂的、§

     &℃§婦ぎ魯ミミ物ミ鴨庶G。ミ慧婁§い§§箆§8一。。竃(以下

    沁§Qミミヘミ簿ミぎ雛6ミ・ミ義甲§弘。。竃と略∀や××9

    ② たとえば円・出奔①〈審誠ミ無。蔭ミ、ぎ鳴っ砧欲簿㌔馬愚驚§簿馬

     ミ“ミ§§9ミ§冠㌧蒔(℃9ひ『け一一 σ嘱男.】W・蜜O(W9=昌ヨ)6窃ど唱」臨

    ム旧〉暮ぎξ≦。。αL≦ミ~馬§暮G§襲遷奪§噛轟誌賦∴ミトおΦρ

     ℃やω培IO象ρ

    ③近年のすべての研究がこういう姿勢をとっているといってよいが、

    代表的なものとしてたとえば次を参照。〉笹①詳〈・↓鐸鼻。さ、〉§唄

    §αω02。ξ貯図コσq寅己…〉閃雷ωωΦωωヨ⑦簿oh昏①9『αξ。二

    勾凪。『ヨω、、》ミヤNミ駄面ミ凡急9画仙ミ毒心。’翼9b。㌔お①。。一宮。「け。嵩

    蛮。冨。ω冨。。・①ρ免職建畠ミOミ織§ミ、恥き。ミ§畑ミ塾馬、§6}蕊Q3、箒ミ

    蟻9こぎしロ、ミ罫ミミ8嵐恕。。点。。ミ”議しつ欝亀§鼠概9き職無ミ蟻ミ§犠

    突舞ミミ画器℃着鳶鴇3勺『U■目ぎ総、⇔三く6幽い。コ住。員一㊤$…芝.oQ’

    頃蝉ヨg§価導ミ纂這良ミ黛”9鼠㍗ミミミ養淘ミミ帖§切蕊。。㎞よ8漁

    6ざ℃07」oけ。.

    102 (712)

  • 1

    剛九世紀売官制の前史

    一九世紀イギリスの売官制(村岡)

     最初に陸軍士官職売官制の歴史を簡単に振り返っておくのが便宜であろう。

     陸軍士官職売官制は、王政復古後の常備軍形成過程の中ですでにその不可欠な制度的一環となっていた。 一八五七年の

    陸軍士官寸恩官制に関する王立委員会報告書は、ウィリアム・テンプル卿の回想録の記述、ウィリアム・ブレイスウェイ

    トの書簡などを史料的根拠に挙げ、その状況を次のように説明している。

       「この国の常備軍について記録が存するその当初から、陸軍士官職の売買は、すでにその制度的権威を確立していたもののようで

      ある。王政復古に際し闘王に仕直する近衛軍が創設された。この軍団はチャールズ済世の信奉者と追従者から構成された。この軍

      団では士官のみならず兵士までもが、軍役から退く時には、前もって王によって承認された人物にその地位を売却することが許さ

      れていた。この時期には政府の文官の職も、購入によって取得することが公認されており、陸軍におけるこのような制度の採用も、

      当時の公務員職一般の習慣にならったものであった。圏務大臣の地位が、著名な政治家によっても、五〇〇〇ポンドを支払わなけ

      れば獲得されなかったのだから、軍需部長官のポストが購入されたり、最高司令官が辞任するに際して金銭上の補償を受けたりし

      たとしても、べつに驚くにはあたらない。一六八一年、チャールズニ世は近衛軍の指揮官の地位をラッセル大佐から購入し、それ

                                        ①

      を、それまで軍務経験のまったくなかった息子のグラフトソ公に与えたのであった。

     この説明は、陸軍士官職売官制の歴史的な成立を、史料の裏付けのもとに述べたものとして標準的なものといってよい

    が、陸軍士官職売官制の歴史的始源そのものは、ここで述べられている時点よりも遙かに古く、それが中世後期の傭兵軍

    団にあること軽いをいれなやこの傭兵軍団にあ・ては・緊の収益(略奪品●罐の身代金な・)は傭兵隊長客分隊長

    のポストに応じて配分されたが、そもそもその軍団自体、隊長なり各分隊長が自分で集めたものであったので、隊長・分

    隊長のポスト自体も、その配下の兵員もろともに売却が可能であった。中世後期の君主と絶対王政の君主は、この傭兵軍

    103 (713)

  • 団を必要に応じて雇用し、それを少しずつ、たとえば軍隊徴集権を彼の信頼する臣下にのみ委任するといった手段を導入

                                    ③

    するなりして、彼ら君主の意向に沿う国民的な軍隊へと変容させていった。だがこの過程でも、軍団もろとも隊長のポス

    トを売却する習慣は基本的に変わらなかった。なるほどこの国王軍成立の歴史の流れは、イギリスの場合、ピューリタン

                                    ④

    革命時にクロムウェルによるニュー・モデル軍の形成によって中断された。だがそれは、前記委員会報告書の説明にもあ

    ったように、チャールズニ世の新設近衛軍において復活し、以後この国の常備軍制度の積桿として定着することになった

    のであった。

     士官職の売買億、英語では「。oヨ巨ω訟8(将校任命辞令)を売買する」といういい方で表現される。だが一九世紀におい

    て実際に売買されたのは、辞令そのものではなく、位階ないし連隊内のポストであったので、本論では適宜、位階・士官

    職・ポストの売買といった表現を用いようと思う。ただそれとの関連でこの際一つ注意しておきたいのは、一九世紀中葉

    においても大尉についてはなお8。。①嵩霞びξ㊤。oヨ℃9塁という表現が普通に用いられており、また一八世紀には大佐

    についてざωΦ=自σξ騨おσq巨①馨という表現が用いられているという事実である。ここでいう。o匿窟蔓とは中隊

    を意味し、それは中世後期・近代初期における傭兵ないし国王軍隊の最大の軍団単位であった。この単位はその後戦術上

    の必要から拡大され、エリザベス時代には一〇個中隊ほどを一まとめにした連隊(目Φσqぎ。葺)が新しい単位として登場し、

                                 ⑤

    一七世紀以降それが通常時における最大の軍団単位となっていった。だから「中隊の売買」、「連隊の売買」という上記二

    つの表現は、まさに傭兵時代の軍団売買の習慣を映し出していたわけだが、それに止まらずこの二つの表現は、軍団売買

    がなくなった一九世紀においてもなお一定の意味をもっていた。というのも一九世紀の陸軍士官職売官制は、各連隊を単

    位にその中で行われることを原則としており、それがこの制度を理解する上での一つのポイントをなしているからである。

    ちなみに一九世紀の士官は連隊位階(器σq望①二巴箪爵)と陸軍位階(丁霊曳B欝)の二つの位階をもっており、売買されたの

    は常に前者の連隊位階であった。この二つの位階は、通常彼において一致していたが、もし軍功のゆえに彼の位階が上が

    104 (714)

  • 一九世紀イギリスの売官制(村岡)

    るとすれば、それは陸軍位階の方で、彼の連隊内の位階、すなわち連隊位階には変化は生じなかった。だがもし彼がその

    後、その連隊を離れ別の連隊に移動するとすれば、彼の新しい連隊内での連隊位階は彼の昇進した陸軍位階のそれになり、

    そこでその昇進した位階での売買がはじめて可能になった。

     その後一七世紀末葉から一九世紀初頭にかけて、売官制に関しどのような制度上の変更ないし進展があったかは、その

    都度そのために癒せられた勅令状(國畠巴≦舘愛弟)、総司令官の命令、さらには議会立法(一六八九年を最初に、一八世紀以

                               ⑥

    降年々可決された軍罰法など)を通じて確認することが可能となる。だが、それらの制度上の変更ないし進展がなぜまたどの

    ようになされたのかという事実関係の経緯については、いまだ十分に研究されていないのが実状である。それゆえ断定的

    なことをいうのは時期尚早の感がないでもないが、A・ブルースの最近の研究にしたがってあえていえば、一七世紀末葉

    以後一九世紀にいたるこの時期の売官制史の大筋は、それをめぐる王権と議会・軍関係老との綱引の間で、議会制優位の

    事情を反映しつつ売官制が現実的な制度として肯定され、その方向で制度の整備と浄化が図られていった点にあったと見

                ⑦

    てまず大過ないように思える。売官制の実質が当該士官の位階の売買であるよりはむしろ彼の配下の軍団の売買であった

    という事情は、一八世紀の中葉にいたるまでなお変わらなかった。その状況の中で王権の側は、王権の軍にたいする支配

    権の強化を強く望み、とくにウィリアム三世とジョージ一世は、売官制そのものを腐敗とみなし、その廃止のための政策

    を強く推し進めた。だがいっぽう、議会と軍関係者の貴族・ジェントリは、常備軍に依拠する王権の強大化と売官制廃止

    に伴う財政負担の増大を欲せず、また軍団の売買を伴う売官制は、まさに貴族・ジェントリの政治権力が拠って立つ一支

    柱であったから、王権による廃止政策は、彼らの抵抗によって、実施されても実効の挙がらないまますべて挫折してしま

    い、結局一七二〇年、勅令状によって連隊内各位階の公定価格(嵩αq三㊤仲一8箕一8)が定められ、ここに蓮宮制は法的に制度

    として確定された。そしてこうして定められた公定価格と市場価格の差は、割増価格(。く。寓①σq缶豊§箕冨)と呼ばれて違

    法とされたが、そのための禁止措置はまったく守られず、表面上は公定価格のみを支払い、裏で短時に割増価格を支払う

    105 (715)

  • 行為が黙認され、この違法の取引慣行が常態となって、以後売官制そのものが廃止される一八七一年まで存続することに

    なってしまった。

     こうして売官制は、まさに中世に起源する前近代的なものでありながら、王政復古以後、近代イギリス軍制の「支柱と

    して整備され一九世紀へともたらされた。そしてその間に公定価格の時々の改定をはじめとして、いうなればその前近代

    的な売官制の近代化をはかるという形での実に数々の部分的な改革・改定が行われた。それらの改革・改定の中で、大佐

    のポストが売官の対象から排除されていったという事態は、思うに特筆されてしかるべき最大の改革であった。というの

    もこの改革は、連隊という軍団の売買を禁止することによって、売官制そのものは残るにしても、その中のもっとも中世

    的な傭兵制的部分に終止符を打つものであったからである。連隊は、一七世紀以降一九世紀にかけての軍団の最大の単位

    で、かつ前述のとおり、一九世紀においてさえ売官制が機能する基本的な枠組であった。だがこの連隊は、一八世紀中葉

    にいたるまで、なおそれを統率する大佐すなわち連隊長(8ざづ9にはこの両方の意味がある)の私的軍団という性格をもち、

    大佐のポストの売買とは、実は連隊そのものの売買にほかならなかった。 }八世紀中葉のイギリス陸軍は、なるほどすで

    に国王の常備軍とはなっていたが、いまだ連隊長の傭兵ないし私兵集団に転化する可能性を常に持ち続けていたのである。

    それゆえ統帥権の強化をめざした一八世紀の歴代の諸王は、連隊長の売宮には繁く干渉し、その結果、連隊長の売官は一

    七六二年の事例を最後に跡を絶った。こうして大佐(とそれ以上の位階)は、以後売官の対象から除外されることになった

       ⑧

    のである。

     さて以上で、一九世紀初頭にいたるまでの売官制発展史の大筋は、ぽぽ明らかになったであろう。そこで以下、話を売

    官制が廃止される最終段階の一九世紀中葉に引き戻して、本題である売官綱の仕組みの検討にはいりたいと思う。だがそ

    の前に、売官制の全体的な規模を傭鰍する意味で、表を二つ提示しておきたい。一つは一九世紀中葉時の陸軍兵力の兵種

    別構成(表-)、他は売官制の行われていた連隊の数とそれに所属した士官数の一覧(表2)で、それぞれ統計の完備してい

    105 (716)

  • 一九世紀イギリスの売宮制(村岡)

    ① 沁愚ミ馬鼠掌§ぎ鴇O§N協ぎ鴇帖ミし。。α8や鉱×.

    ② 中世後期から近世初期にかけての傭兵制度の概要については、京大

     西洋史研究室編『傭兵制度の歴史的研究』(比乙川房 一九五五年・)、

     署●ω-り■に}応の説明がある。だがこの説明は、大陸諸国にはあて

     はまっても、必ずしもイギリスにはあてはまらない。

    褒1 陸軍兵力の兵種別構成(1861年)

    総  数

    (士官と兵士)

    221,6e4

    内 訳 (%)

    歩兵騎兵1砲兵…工兵i輸送痛生75.2

    8.9 1 12,42.0 1.0 O.5

    計1・4・・(売醐)1 15.9 (非売官鋤)

    ③〉曇剛δ昌冤じご冠。①㌧§鴨℃憲§}翁面夢恥、§こ}ニミ切ミ凡珍き、、毒まS

     IN恥Nト一りQQ9℃℃■刈一OQ9

    ④奪ミこ喝.お旧Oo畦。=

      一〇圃ρ℃.㊤Qg.

    ⑤  切p『=o仲♂§噛“鳶■、℃勺

    一こごp『コ①け読切畿、隣、壽匙匿園㌧ぽ曳臥噛.ミ黛塙団O℃一嵐℃N9

    。A蒔…α」 一ωO曜

    (典拠)Geneptal/1Ptm), Retttrn¢f British Arm),, P・P・XLII王in:

      A.R. Skelly, The Victerian Aymy at Honte, 1977, p. 18.

    表2 売官鯛の下にある連隊(数)と将校の実員数(1856年)

    連隊の種類

    近衛

    騎兵第1

    騎兵第2

    竜騎兵 計

    連隊数

    217AU

       1

    酬蝦姻㈱1謝1計

    2170

       1

    9一170

       1

    ρ08781

    1 【OQり

    7■〔◎4Qり

    1 

    57

    1sl s2

    71 25181 143 E401 220

    歩兵1・1・i・168 [1・・143122・

    騎  兵

    歩  兵

    その他

    ル 守

    フ 地 十

    イ団隙隙言

    ラ旅植備

    ハOQり

    一Q)

    1

    21

    176

    9iio 1

    5

    13

    22 1 135

     ト207 [ 1398

     1

    18 1

    6 43

    12  78  エ81121 1

    1721 47  E1750 1 305

    ,,1 ,

    181

    225

    9

    16

    395

    3S36

    105

    293

    398

    総 計13s i 22s 1 264 1 lso3 1 2326 1 4sl 1 so72

    (典拠) Ref)ortρプ「Purchase CoMMiSSiO71,1857, Appendix H, pp.

      237-263より作成。

    107 (717)

    る年を選んで示した。当暗の陸軍において売官制のもった比重の大きさが知られるであろう。

  • ⑥一八世紀以後一八七一年にいたるまでに売官の規則と価格がどう改

     定されたかについては、一八五七年の売官制に喫する王立委員会報告

     書と}八七学年の割増価格に関する王立委員会報告書とが、その間の

     主要な命令、おもな勅令状の主要部分、価格の改定表などを付録とし

     て収録している。本論も少なからず多くをこれらによった。葡巷ミ瓢&

    簿ミ“ぎ鴇Ooミ§縁無ミ“℃一Q。切8>℃℃o昌象×H…陶竜ミ馬鼠馬富Oミミ}篭㍗

     紙。ミ馬誘§巳ミ匙旨§喝ミこ帖ミQO器¥笥魂ミ黛燃ご起℃遣ミ恥ミ恥。苫

     等§§帖§帖ゆこぎミ}鳶レ。。ざ(以下沁愚。森ミ§○。§遵ω肋画§誉唖

     9雫ミ恥ミミ馬§℃誉鴨恥口。。ざと略)り〉唱鴇島8ω学困く・

    ⑦ じ⇔讐oρ§.亀甲こやミ塗

    ⑧きミ‘℃やト。虐。。嚇潮§ミ馬ミ窟ミぎ亀O。ミ託下馬§し◎。㎝メ罫oh国‘

     ρo自.ω○◎一ω1ωo◎目09

    108 (718)

    ■ 売官制の仕組み

     A 任官について

     一九世紀の中葉、売官の対象となる騎兵士官・歩兵士官の任官・昇任の人事権は、陸軍総司令官(60白滑P㊤昌α①壇-帥⇒IOげ一①囲)

    の掌握するところで、これらの人事権は、一八七〇年にいたるまで、なお彼を介して行使される国王の大権事項に属した。

    この国ではこの年にいたるまで、この士官の人事権のみならず統帥権さえ、なお議会による統制の外にあった。それゆえ

    任官を欲する者(一六歳から一九歳までの者)は、まず総司令官の総務幕僚である鼠一葎㊤蔓ω①。お$蔓を通じて総司令部

    (賄OHω① O偉ρH戯。◎)に任官の申請書を提出した。ただ近衛諸連隊については、各連隊長が伝統的に任官者の推挙権(嘔窪。冨Gq①)

    を持ち、かつ事実上その人事の決定権をも掌握していたので、近衛連隊への任官を希望する者は、その当該連隊に直接申

    請する必要があった。申請書が提出されると、旨ま富受ω8お3蔓は、これら申請者の年齢・履歴・人格・家柄などを

    調べ、適格となれば総司令官の命令でその名をリストに登録した。また近衛諸連隊では、各連隊長が同様のことを行い、

                           ①

    任官希望者のリストを作成して、これを管理した。そして任官は、これらのリストにより、少尉のポストに空席が生ずる

    に応じて行われたが、その場合、購入による場合(疇容冨ω。)と購入によらない場合(8亭℃霞魯器Φ。Ha夢。・け娼霞。げ器①)の

    二種類のケースがあった。

  • 一九世紀イギリスの売官制(村岡)

     購入によらない場合の最たるケースは、陸軍士官学校(閑。団巴屋年㊤蔓O。密σq㊦”。り雪象舞ω叶-以下サンドハーストと呼ぶ)

    を通ずる場合である。サンドハーストは、専門的な知識と技能に秀でた騎兵と歩兵の士官の養成を鼠的として一八〇一年

    に創設されたが、この学校が所定の課程の修了老にたいして行う最終試験の合格者のうち、最上位に属する卒業生には、

    購入によることなしに任官の機会が与えられた。そしてその最上位のグループには及ばなかったが、とにかく最終試験に

    合格した残余の者には、購入によって任官する資格が与えられた。そのほかサンドハーストのρ器魯、ω。蝕Φ富とぼ象き

    8山。諾(いずれも授業料免除の特待生。前老は勤務中に死亡した陸海軍・海兵隊の士官の遺児、後者はインドで女王陛下

    ないし東インド会社の軍人・官吏として勤務した者の子弟)にも、同学校の行う所定の資格試験に合格しさえずれば、購

                    ②

    入によらない任官の機会が保証された。また年功・実績の際立った何人かの下士官からの進級者にも購入によらない任官

    が保証された。だがイギリスの士官の社会は、売官制に支えられたために、表3からも察せられるように、他国のそれに

    比べて下士官からの参入者は非常に少なく、それだけに均質なジェントルマン社会であった。

     いっぽう購入によって任官を志望する者には、今のべた最優秀ではないがサンドハーストの最終試験に合格した者と総

    司令部に申請してその登録リストに載せられた者の二種類があったが、この後者の人々も、一八四九年以降、リストに載

    るに先立って所定の資格試験に合格しなければならないことになった。といってもその試験のレベルはそう高くはなく、

                    ③

    失敗する者の数はきわめて少なかった。

     年々の任官者数は、戦時と平時とでは著しく異なった。表3は、一八四九年から五五年にかけての年々の任官者の内訳

    と総数を示したものである。勤務期間中の死亡によって生じた空席は、後にも述べるが、購入によらない任官で埋められ

    た。五四・五五年に購入によらない任官が増えているのは、いうまでもなく、この時期がクリミア戦争期で多数の戦死者

    がでたことによっている。

     次に購入による任官の価格は、表4の少尉の欄に示した通りである。この価格表は、一八二一年に勅令状によって定め

    109 (719)

  • 表3 近衛・騎兵・歩兵各±官の任官者数(1849-55年置

    計下±官からサンドハーストから

    購入によらない難1入による

    461

    406

    411

    437

    450

    862

    1736

    24

    P0

    R0

    P9

    Q1

    Tm

    25

    Q3

    Q6

    R0

    R2

    T0

    P7

    履35663薦伽

    338

    370

    299

    325

    339

    372

    338

    1849

    1850

    1851

    1852

    1853

    工854

    1855

    (典拠)Report of P・t“’cltase Com7nission,1857, Appendix XII

    衷4 1821年の勅令状で定められた各位階の公定価格とそれ

      らの問の差額(括弧内)         (単位£)

    歩兵連隊

    450

     700( 250)

    1800(1100)

    3200(1400)

    4500(1300)

    近衛竜騎兵連隊と騎兵連隊

    840

    1190( 350)

    3225(2035)

    4575(1350)

    6175(1600)

    近衛歩兵連隊

    1200

    2050( 850)

    4800(2750)

    8300(3500)

    9000( 700)

    近衛騎兵第2連隊

    1200

    1600( 400)

    3500(1900)

    5350(1850)

    7250(1900)

    近衛騎兵第1逮隊

    126e

    1785( 525)

    3500(1715)

    5350(185e)

    7250(1900)

    尉三尉佐佐

    少中大少中

    (典拠)i~ePof’t of Puvcl~ase Cov7wizission,1857, Appendix 1、(ユ8).

    られた。さしあたりこの表から、歴史が古く権威の高か

    った近衛諸連隊の高価格が注目されるだろう。だが任官

    は、通常少尉より上の位階に空席が生じ、それを順次埋

    めていく昇任の連鎖の最後に生ずるものなのだから、よ

    り立ち入ったことは、次の昇任の項で一緒に説明するこ

    とにしたい。

     8 昇任について

     任官についてと同様、昇任についても、購入による場

    舎と購入によらない場合の二つのケースがあった。購入

    による場合の各位階の公定価格は、上掲の表4の通りで

    ある。この表は、一八六〇年に通常の(すなわち近衛連隊

    には属さない)騎兵士官の額が歩兵士宮の額と同額にまで

    引き下げられたほかは変わることなく、廃止時の一八七

    一年まで通用した。いっぽう闇の非合法な割増価格の額

    110 (720)

    は、そのときの状況とか購入者の資力とかに応じてさまざまであったが、近衛連隊士官と騎兵士官の諸ポストは、しばし」

    ば公定価格を上回るほどに高額であった。だが、その割増価格にも、市場の趨勢によっておのずとそれなりの相場が形成

    された。表5はその一例で、一八七〇年の割増価格に関する王立委員会が騎兵・歩兵の各士官について調査したものであ

    る。なお、この表にはないが、近衛士官の割増価格が、これらの額よりはるかに高かったのはいうまでもない。

  • 一一辮「紀イギリスの売官制(村岡)

    表5 騎兵士官と歩兵士官の平均的割増価格と

      各位当路の差額(括弧内)   ’  (単位£)

    歩兵士官害公価方響羅

    騎兵士官

    割騨電髪公定価格

    450

    800

    2500

    4700

    7000

    100

     700( 600)

    1500( 800)

    2500(1000)

      450

    1275

    4381

    7381

    10475

    575

    2581(2006)

    4181(1600)

    5975(1794)

    450

     700( 250)

    1800(1100)

    3200(1400)

    4500(1300)

    尉尉尉佐佐

    少中大少中

    (注) 1860年に騎兵士官の公定価格は引き下げられ,歩兵土官

      のそれと同額になった。

    (典拠)RePort(ゾ伽COIn?nissio・z for Ove r-Regu~atio7~Pfices,

       1870, p, xii.

    ことは、この制度を理解するに当たって留意しなければならないポイントの一

    によらない場合は各位階に属する全士官の先任順の順位を、また購入による場合は購入による昇任を希望する全士官の先

                                                       ④

    任順を、それぞれ無視して頭越しに行われてはならず、この原則は、長い間の慣習として今や不動のものとなっていた。

    そして各連隊は、年に四回、全潰宮の先任序列を位階ごとに、購入によるよらないの別を示して先任順にリストアップし、

    連隊長がそれぞれの士官につき、昇任にあたって彼の適性と、彼が購入による昇任希望者であればその購買能力を保証し

                                 ⑤

    た上で、そのリストを総司令部の竃…欝蔓ω①。お$蔓に提出した。

     任官・昇任にあたっての売官の仕組みは、千差万別なケースがあるためそれら

    に応じて実に複雑で、それらのすべてをここでいちいち説明するのは不可能に近

    い。そこでここでは、以下その仕組みの骨格と思える諸部分だけを、モデルを設

    定しながら説明することにする。まず初めに一つの前提として、次の当然の事実

    を前もって確認しておくのが便宜かと思う。それは一八七一年の改革にいたるま

    で、イギリス陸軍士官の武官官僚制には、一部の例外を除き年金制・定年綱は導

    入されていなかった、別言するなら、その前近代的な売官欄は、それを補完する

    げ巴7駆団の制度(後述)とともに、近代的・現代的な年金翻・定年制の代替物と

    して機能していたということである。この売官制のもとで例外的に年金を支給さ

    れたのは、勤務の間によほどの功績のあったほんの少数の者だけであった。

     昇任は、原則として連隊ごとに(ということは、それぞれの連隊の中で)購入による

    場合と購入によらない場合の二系列に沿って行われた。売官制(℃焉。冨。。Φ。・巻落ヨ)

    と呼ばれながら、すべての任官・昇任が売官(購入)に依ったわけではないという

                     つである。各連隊において、昇任は、購入

    111 (721)

  •  昇任のもっとも重要な場合は、いうまでもなく、それが売官によって行われる場合であった。中佐以下の各士官は、辞

                                         ⑥

    任するとき、彼が任官・昇任に際し支払った金額を売官によって取り戻す「強い要求権」をもっとされており、これが沖

    売官制を支える根本の大原則であった。それゆえ売官は、その当該位階を購入によって得た(あるいは得てきた)保有者、な

    いし後述のように、一定年限勤務して当該位階の売却資格を得た保有者が軍籍を離れるときに限って行うことができ、ま

                                                        ⑦

    た当該位階を購入によって得てきた保有者は、その勤務年限に関係なくいつでも自由にその位階を売却することができた。

    そして任官と昇任は、上記したリストに準拠して行われたが、その場合総司令部の人事当局は、上から闇雲にこのリスト

    を押しつけるのではなく、昇任ないし退任する当事者たちの間に立って取引を仲介しながら、不正を見張るレフリーの役

    割をも演じた。当局は売りに出されたポスト(位階)にたいし、前記のリストにもとづいて適切な買い手の士官を選択し、

    売り手・買い手双方の意向・条件をよく確かめ、売り手にはその買い手が勤務年限や専門的能力においてその地位を継承

    する十分な資格があることを保証し、話がまとまったとなれば、双方のエイジェントを通じて金銭の授受をするように指

    示した。なお売り手と買い手は、この間にあって、直接交渉することはあっても直接金銭の受け渡しをすることはなく、

    それはすべて当局の公認したエイジェント(ρ§団ゆσq。謀ω)を通じて行われた。任官・昇任の人事は、このエイジェントを

                                              ⑧

    通じての金銭の授受が確認されたことをもって完了したと見なされ、その氏名が官報に掲示された。

     ここで、任官と昇任を一貫して購入で獲得してきたある歩兵連隊の中佐が、軍籍を離れる決意をして、そのポスト(位階)

    を売る場合を考えてみよう。この売官にもとつく昇任の特徴は、すでに指摘した通り、かならず購入による昇任希望者が

    昇任しなければならないという点にあるわけで、それゆえ、その中佐のポストには購入を希望する先任順位第一位の少佐

    が昇任し、以下まったく同様にして順次空席となる少佐、大尉、中尉のポストにそれぞれすぐ下の位階から購入を希望す

    る先任順位第一位の者が昇任し、最後に空いた少尉のポストに購入順位第一位の任官者が任官リストから任官して、こう

    して売官制による任官・昇任の連鎖が形成された。そして各位階のポストの売買が表4にしたがって行われ、まず少尉任

    11.P. (722)

  • 一九世紀イギリスの売宮制(村岡)

    官者が四五〇ポンドを、各昇任者がそれぞれに昇任する位階との差額、すなわち少尉が二五〇ポンド、中尉が一一〇〇ポ

    ンド、大尉が一四〇〇ポンド、少佐が一三〇〇ポンドを中佐に支払い、中佐はその合計の四五〇〇ポンド(すなわち公定価

    格)を受け取って退官していった。

     だが実際の取引は、むろんそれに割増価格が付加されて行われた。任官・昇任のすべてないしその一部を購入によって

    獲得してきた士官は、その際、大抵は割増価格をも支払ってきたので、たとえ違法でも退官時にそれを取り戻すのは彼の

    権利であると通常考えていた。各士官は公認のエイジェントのところに正式の口座とは別にもう一つの口座を持っており、

                                 ⑨

    割増価格の取引はこの後者の口座を通じてむろん非公式に行われた。今表5によるとするなら、上記中佐の場合その割増

    価格は相場で二五〇〇ポンドということになるが、この場合も各昇任者が表に示された差額(ただし中尉は一〇〇ポンド)を

    支払い、中佐はその合計額を受け取った。その取引の際、購入による昇任を希望する先任順位第一位の少佐が彼に要求さ

    れた金額を、たとえば割増価格が高過ぎて支払えず、それゆえ交渉不成立となれば、当該の中佐は順位第二位の少佐の意

    向を尋ねることができ、そこで交渉が成立すれば、順位第一位の少佐は、その順位を第二位の者に明けわたさざるをえな

    かった。というのも、その順位第一位の少佐が、割増価格を値切るなどしてあくまでも自己の第一位の優先順位を主張し

    て譲らないときは、当該の中佐は、他の連隊の中佐とたがいにその地位を「交換」(δx。詳説σQ。.)することが制度上できた

      ⑩

    からで、もしそうなれば、せっかくその連隊内に生まれた少尉から中佐にいたる任官・昇任の全連鎖がその当該連隊から

    失われることになったからである。そして、こうして他の連隊に移った中佐は、最低半年聞その連隊に勤めることを義務

                                              ⑪

    づけられたが、それを過ぎれば、今度はその連隊内で自分のポストを売りに出すことができた。

                                                  ⑫

     次に購入によらない昇任は、空席が購入によらずに生じた場合に行われ、次のようなケースがあった。O現役の中佐が

    売官をせずそのまま大佐に昇任した場合。この場合この大佐は、将来将官の地位に昇ることを選択したわけだが、その代

    償として彼は、彼が中佐に昇任するまでに支払ってきた位階購入金額の回収の機会を、永久に失うことになった。いっぽ

    113 (723)

  • う空席となった中佐のポストは、購入による昇任希望者・購入によらない昇任希望者の別なく、先任順位第一位の少佐に、

    購入によらずに与えられた。そして以下まったく同様にして、空いたポストが順次先任順位第一位の大尉、中尉、少尉に

    与えられ、最後に購入によらない順位第一位の任官希望者が少尉に任官して任官・昇任の連鎖が完結した。なお、この任

    官」昇任の連鎖が生ずるのは、次の⇔~四の場合もまったく同様である。⇔三〇年以上勤続した中佐以下の士官が現役給

                                   ⑬

    支給退官、すなわち、げ巴hもミではなく費に℃昌のまま引退した場合。この退官の形式についでは後述する。㊨現役勤

    務の少尉から中佐にいたるまでの士宮が死亡した場合。このケースの存在は、この売官制がもったある種の苛酷さを物語

    っている。囁つまりこの売官制においては、売官の権利を持つ士官が現役勤務中に死んでも、それが戦死であれ病死であれ

    何であれ、彼がそのときまでに支払った位階購入の金額は、彼の未亡人や遺族にはいっさい返還されないことになってい

    た。だがこれではあまりにもひどすぎるというので、一八五六年以後、その死が戦闘中の戦死である場合、ないし戦闘中

    にうけた傷が原因で六カ月以内に死亡した場合に限り、彼がそのときまでに支払った位階購入金額が国庫から遺族に返還

            ⑭

    されるようになった。㈱定員増で連隊内にポストが新設された場合。ただしこの場合は、次に述べるように、げ巴暁-℃ρ蜜

    からの、あるいは定員外要員の移籍などで埋められることが多かった。

     さてこのように見てくると、売官制といっても、売官(すなわちそれに伴う位階購入)によらずして任官・昇任できる場舎

    がかなりあったように思われてくる。戦時はとにかく、昇任の機会が大幅に減る平時においてさえ、資産がなくそのため

    購入によらない昇任を望む士官といえども、その位階で辛抱強く先任序列第一位の順位が来るのを待ちさえずれば、なる

    ほどいずれは購入によらず一ランク上の士官になれるはずであった。だが実際には、彼が昇任できる機会は、ここで想像

    される程には多くなかった。というのも第一に、たとえ上記のような購入によらない形での空席が生じても、その空席は、

    財巴幡も勲団リストの同位階の士官に与えられることが特に平時にはよくあつたからである。 これは、国庫経費節約のため

    げ巴酬も契りストを短縮する政策の一環で、その趣旨で現役に復帰させられた士官は、そこでただちにそのポストを売却

    114 (724)

  • 一九世紀イギリスの売官制(村岡)

            ⑮

    せねばならなかった。こうしてこの場合には、購入によらない昇任を望む士官からは、そのせっかくのチャンスが失われ

    ることになったのである。また第二として、購入によらない形での空席が、幕僚などの特劉勤務のため定員外要員として

    それまで連隊外に出ていた先任順位上位の士官に与えられることもあった。それゆえこの場合は、そこでただちに任官・

                     ⑯

    昇任の連鎖は打ち切られることになった。次に第三として重要なのは、もともと購入によらずして獲得されたポストが時

    間の経過の中で売却可能なポストに転化することがあった、という事情である。一九世紀の初頭来、総司令部は、購入に

    よらずに昇任してきた者で二〇年以上現役で勤めた者にたいし、そのポストの売却を許可する政策を打ち出した。また一

    八四〇年代からは、購入によらない昇任者で勤続年限が二〇年未満の者でもその年限が三年を越えていれば、総司令官と

    陸軍大臣の裁可を得たうえでそのポストを売却し、その代金のうちから在外勤務年限については年一〇〇ポンドの、国内

                                          ⑰

    勤務年限については年五〇ポンドの退職金を取得して退官することができるようになった。つまり、元来売却ができずそ

    れゆえ購入によらない任官・昇任希望者にも割り当てられるはずだった多くのポストが、このような諸政策のためにいつ

    しか売却可能なポストに転化していったわけで、こうしてもともと少なかった購入によらない者の任官・昇任の機会は、

    クリミア戦争時を別にすれば、一九世紀の進行とともに、ますます先細りすることになったのである。

     任官・昇任をめぐる売官制の仕組みはほぼ以上のとおりである。だが仕組みはこれだけのものだとしても、購入による

    精舎とよらない場合があり、さらにそこに、ある一定年限勤めると購入によらずに獲得したポストでも売却可能になる場

    合が加わるので、かなり多様な売官のケースが生まれることになる。次にそのいくつかを例示して臥46こう。

     今中佐を例にとって説明すると、まず一方の極に、任官から中佐にいたるすべての地位を売官で獲得したというケース

                       ⑱

    がありうる。一八五六年の売官資格者一覧表によると、そのような中佐は近衛騎兵遵隊に六名、騎兵連隊に八名、歩兵連

    隊に二二名、植民地守備隊に一名おり、計三七名を数える(なお全中佐数はニニ八名一表2参照)。次にその対極には、任官

    から中佐にいたるすべての地位を購入によらずして獲得し、しかも二〇年以上勤めて中佐のポストの売却資格を得たケー

    115 (725)

  • スがあるわけで、一八五六年には、そのような幸運な中佐が歩兵連隊に一一名、植民地守備隊に三名、計一四名存在した。

    これら以外のヶ…スは、いずれもこの両極の間のどこかに位置するわけで、次に任官から中佐にいたるまでの位階の一部

    を購入で、他を購入によらずに獲得してなお二〇年は勤めていない(ということはそのポストを満額で売る資格をもたない)中

    佐の場合を考えてみよう。一八五六年の売官資格者一覧表によると、この年についてはこのようなケースは意外と少なく、

    その該当者は近衛連隊に一名、歩兵連隊に一一画いたにとどまる。その中の一例として第四九歩兵連隊に属する一中佐を

    取り上げると、彼は少尉、中尉の位階を賜覇O+為卜・㎝011聯団OOで購入し、大尉、少佐、中佐の位階を購入によらずに獲得

    しているが、当該中佐のポストを二〇〇〇ポンドで売る資格しかもっていない(満額は四五〇〇ポンド)。これはいったいど

    うしてなのか、売宮資格者一覧表はその間の経緯をまったく語ってくれないが、今仮に彼が、任官からその時まで、冨F

    饗《に降りることなく海外に一〇年国内に六年勤務したことにすれば、その蒔点でのかれのポストの売却価格は、ざO+

    HO×HOO+㎝O×①でちょうど二〇〇〇ポンドとなる。そこで堂舎がそのポストを売ったと仮定すれば、この場合も第四九

    連隊の中に少佐以下少尉にいたる任官・昇任の連鎖が形成され、中佐ポストの公定価格である四五〇〇ポンドがすでに述

    べたようなやり方で当然集められることになる。だが、その四五〇〇ボンドのうち彼が受け取ることができるのは、むろ

    ん二〇〇〇ポンドだけで(といっても実際はこれに割増価格が加わる)、では残余の二五〇〇ポンドはどうなるかというと、そ

    れは陸軍予備基金(冨旨審受図ΦωΦ冥。頃旨α  通称予備基金)と呼ばれる金庫に払い込まれた。

     ところで、この陸軍予備基金なるものだが、この基金は一八二六年にげ巴{も㊤図のかなりのポストを売却することによ

    って創始された。その目的は売嘗制の資金面での運用をより円滑ならしめることにあり、売官側管上の変更が生み出す新

                        ⑲

    たな、ないし臨時の経費の支払いに充てられた。たとえばすでに述べたように、一八六〇年以降、騎兵士官の各位階の公

    定価格は、歩兵士官のそれらと同額にまで下げられたが、六〇年以前に任官・昇任した騎兵士官は、退官に際し、当然の

    ことながら彼らが支払った旧い公定価格の額を請求できたわけで、そこに生じた新旧公定価格の差額は、この基金から支

    116 (726)

  • 払われた。また一八五六年に、それまで「陸軍列車」(.寓臨津騨目窪 一門H勲一旨り)と通称されてきた輸送部隊の売官制が廃止され

    たが、この部隊の士官が退官に際して要求しえた位階購入時の公定価格も、この基金から支払われた。いっぽうこの基金

    への収入は、上記のように勤続二〇年未満の士官の退官に際して生ずる残余金がはいったほか、すでに指摘したように、

    本来購入によらずに任官・昇任が行われるはずの増やされた、ないし空いたポストが、基金の必要に応じて適宜売官に切

    り替えられ、その売上代金が基金に収められた。なお、げ既騰らρ団との関連で生ずるこの基金の機能については、本節注

    ⑳を参照されたい。

    一一辮「紀イギリスの売宮鰹(村岡)

     C ぽ帥零窓黛について

     イギリス陸軍士官直売官制における退職・退官のあり方の基本は、これまでに述べたように、自分が現在就いているポ

    ストを売却し、その代金をいわば退職金がわりとして退官するというものであった。だが、売官制が砲兵・工兵士官、大

    佐と将官クラスについては適用されず、また傷病者・永年勤続者など、退官にあたってそれなりの優遇措置がまずは不可

    欠と思われる人々の存在を考えるなら、士官の退官に関しては、売官と並行してそれ以外のりタイアメントの制度がどう

    しても必要であった。その一つに、退官後も退官時の位階の現役給を継続して支給されるという現役給支給退宮(器け畔①α

                                                        ⑳

    h邑や曙)の志度があり、主として現役復帰が不可能となった傷病士官と永年勤続の老齢士官(ただし三〇年以上勤続が条件)

    がその対象とされた。この制度は、一八世紀来行われてきた傷病・老齢士官にたいする優遇措置から発展したもので、一

    八二二年の立法で制度化された。中佐一二名、少佐二圏名、大尉九〇名、中尉六〇名、少尉三〇名が各位階への定員配分

    の目安とされており、一八四〇年ごろでは、四〇、○○○ポンド以内、一八五・六〇年代では六〇、○OOポンド以内で賄

                  ⑳

    うという厳しい予算の枠がはめられていた。だがより重要であったのは、げ巴hもミと呼ばれる、いうなれば半退職の独特

    の制度の存在であった。近代軍制としての売官制度は、それ自体では完結せず、良くも悪くもこのかなりの国費支出を伴

    117 (727)

  • 表6 騎兵・歩兵士官のfull payとhalf-pay:  日割り(括弧内は年収換算)    (単位£s.p.)

    full pay half-payhalf-pay

    o

    o

    o

    o

    e

    10

    8

    5

    3

    2

    O (182

    0 (146

    6 (100

    0(546( 45

    10

    0

    7

    15

    12

    o)

    o)

    6)

    o)

    6)

    o

    o

    o

    o

    o

    8

    7

    5

    2

    1

    6 (155

    6 (136

    0(914( 42

    10 ( 33

    2

    17

    5

    11

    9

    6)

    6)

    o)

    8)

    2)

    1

    0

    0

    0

    0

     3

    19

    14

     9

     8

    O (419

    3 (351

    7 (266

    0 (164

    0 (146

    王5 0)

    6 3)

    2 11)

    5 O)

    o o)

    o

    o

    o

    o

    o

    17

    16

    11

     6

     5

    o

    o

    7

    6

    3

    (31e

    (292

    (211

    (120

    ( 95

     5

     0

     7

    ユ2

    16

    o)

    o)

    11)

    6)

    3)

    佐佐尉上津

    中少大申少

    佐佐尉尉寒

    中少大中少

    (典拠)full payについてはRePo’it of Pitrchase COM71tiSsiol~・

        1857, Appenclh XXXI.

        half-payについてはRW of 140ct.工858.

    蓑7 fuH pay, half-pay両公定価格間の差額(単位£s. p.)

    歩兵士官騎兵士宮

    half-payの公定価格との差額

    365

    511

    949

    13工4

    full Pεしy

    の公定価格

    450

    700

    1800

    3200

    4500

    half-payの公定価格との差額

    632 13 4

    1034 3 41352

    エ533

    full payの公定価格

    840

    1190

    3225

    4775

    6175

    尉尉尉佐佐

    少中大少中

    (Si.iva) RePort of Pu.7chase Conannission, 1857, Appendix 1, (18)

                 ⑬

    の位階(これにも公定価格があった-表7参照)の売官は、一九世紀においては原則として許されなかった。

                                  翰

     び巴{もρ図の正統的な目的は、次の三つの機能を果たすことにあった。e戦闘で傷つき現役復帰が不可能になった士官

    にげ巴hもρ団、すなわち半睡を与えてその地位(位階)と生活を保証する。◎戦闘中ないしその戦闘参加が原因で病気とな

    り、引退を余儀なくされた者の収容。ただしこの場合は、軍医務当局の証明と三年以上の勤務歴を必要とした。⇔戦時中

    に増大した現役実員を平和時に強制的にげ9。一一もρ唄に移し(器α8江。羅と称される)、あわせて給与支出の削減をはかる。

    う退任制度に支えられて、はじめて機能

    することができていたのである。

     この当時のイギリス士官は、若干の例

    外を除き、必ずh蝕一℃㊤団冨什か財巴や

    ℃ρ団冨けかのいずれかに属した。前者は

    現役の士官、後者はいうなれば引退組だ

    が、後者の士官は必要に応じて現役復帰

    を命ぜられた。ン巴暦℃曙の名のとおり、

    現役給、すなわち貯躍℃醸の半分程度

              ⑫

    の給料を支給された(表6)。げ巴7℃p図へ

    の移籍者は、その滞けにあるかぎり、

    たとえ位階の昇進があっても、給与の面

    では、び巴厩もρ団への移籍時の位階のそれ

    から上がることはなく、また、三巴暁も鶴図

             ⑳

    118 (728)

  • 一一辮「紀イギリスの売官制(村岡)

    ただしこの場合もその対象者は、原則として勤務歴三年塞上の者とされた。この⇔の機能は、いうまでもなく、戦時と平

    時に対応した現役定員ないし実員の調整を回的としており、それゆえこの対象者は、健康体であれば、たとえば上記e◎

    の引退者に代わって、砲兵・工兵士官の場合は必ず、騎兵・歩兵士官の場合は必要に応じて、現役復帰を命ぜられた。

     だがび巴hもミの目的は、この三つの正統的な機能にとどまらなかった。というのも一八世紀の宋由来、それらに加え

    て、正統ならざる新たな諸機能が付与されてきたからである。次にその主要なものを挙げておこう。

     e 購入によって位階をえた士官は、プ巴hら曙瀞げの同位階の現役復帰希望者とその立場を「交換」(.。蓉プ霞σQo”)し、

    一定期間、事情が許せばその後死ぬまで、げ巴hもp累に引退することが認められていた。その際前者のげp零℃㊤団への引退

    者は、後者の現役復帰希望者から当該位階のh巳出窓団とプ凶冷も曙の公定価格の差額(表7参照)を受け取ることがで

    き、その取引によって、彼がそれまで位階購入に投資してきた金の一部を回収することができた。それゆえこの「交換」

    を伴うげ巴隔も畠の機能は、「部分的売官」(、夢①嵩三巴ω巴。。h8きヨ一ωω一8、)などとも呼ばれ、騎兵・歩兵士官だけがそ

    の恩恵を受けた。また先に述べたげ巴hもρ嘱の正統的機能のe◎が「終身の半給」(.唱巽ヨき。簿葦囲や℃曙、)と呼ばれたの

    にたいし、この「交換」を伴うげ巴臨も醸の機能は、含に唱ρ団と財巴hもρ《の差額を払い戻せば現役への復帰が可能で

                                ⑳

    あったため、コ時的な半影」(、伴Φ白唱。再転財農ら曙.)と呼ばれた。だがいずれにせよ、これはかなり問題の制度で、一七

         ⑱

    八三年に導入されて以来、その功罪が繰り返し議論の対象となった。というのも、導入後から一九世紀の二〇年代にかけ

    ては、 この「部分的売官」を行う資格に勤務年限の制限がまったくなかったので、 金持ちの士官がこの「交換」を伴う

    げ巴臨も9団の機能を「悪用」することができたからである。たとえば、彼の所属する連隊が海外に派遣されることになっ

    たようなとき、彼は、この「交換しを伴うげ巴{も錠の機能を活用して、いろいろと工作の末び巴hも曙に身を移し、そ

                    ⑱

    の任を回避するのがしばしばであった。だが一九世紀の進行とともに、それを行う資格として、位階ごとにある一定年限

                                                    ⑳

    の勤務が義務づけられるようになり、一八五四年には、その無条件の有資格者たるための勤続年数が一=年以上、六一年

    119 (729)

  •                  ⑳

    にはさらに延びて二五年以上と定められ、この「交換」を伴うげ巴{-℃9楓の機能の「悪用」にも歯止めがかけられるよう

    になった。

     ⇔ げ鉱隔も畠の正統ならざる第二の機能は、植民地の副司令官代理(紆簡潔巴甘噛癖-σ①器同㊤一)あるいは軍需長官代理

    (α①隠受虐碧挫。毒pωげ禽-αq①器邑)に任命された者にかかわる。これらのポストに任命された者は、「交換」なしにげ巴h-饗団

    佃野にも籍を置く特権を与えられた。つまりこの場合には、けp餐℃ミがこれらの職務の付加手当の意味をもった。なお

    兵営若返の建物の管理人、巡査長、関税・内国消費税の検査官などの職には、「交換」を伴ってげ巴隔も爵に移籍した者

                    ⑫

    が副業として就くことを許されていた。

     ⇔ 次にもう一つ、げ巴hも曙の正統ならざる機能として、「特命位階」(、¢旨Pけけ㊤OげΦ蜘 Hρゆ閃》)への昇任という制度があ

    った。この制度は、一八三四年一〇月二七日の勅令状によって導入されたもので、げ巴暁も畠蔚庁の中佐、少佐、大尉の

    ポストが三つ空くごとに、特別に功のあった老一人を2嵩℃ミからげ巴hら騨嘱の一つ上のランクに移動させた。ただし

                                             ⑬

    その場合、こうして皆に田図に生じた空席は、必ずげ巴hも昌から一人戻す形で埋められた。

     さて以上が、冨管℃選制度のあらましである。要約していえば、それは定年・年金制度に代替する半退職ともいうべ

    き独特の制度で、多くの人がそこで位階の保持とげ万口も勲《の支給に満足して引退生活をきめこんでいたが、なかには積

    極的に現役復帰を望む者、一時の緊急避難的それを利用しようとする者などもおり、これらの人々が一緒になって売官制

    の底辺を支えていたのであった。

    ① 任官については、一八五七年の売官制に関する王立委員会で、その

     とき7卍凶3蔓Q。①霞。3曙であった少将。。搾Ω轟一①ωく。ユ6が詳し

     く証言している。沁竜。蕊曼馬ぎ酔こ6ぎ器Oo}ミ§鴇ミ劃一〇。雪”二巴瓢け窃

     o{国く誌9回8bρ。。.ρり占G◎’♂.

    ②サンドハーストからの任官については次を参照。きミニρ・。.G。噛藍覇N

    8占ρお旧一無知§oミ岐ミ白陶遷ミO§§譜紙§黛導ミミミな§Qミ§

    焼ミ。暮鴨勺遷鴇ミ9ミ馬魚ミミミ曙肉駄§ミ§いミミ画ミ。簿馬『義帖“§粛

    ミ.

    nミミミミ$誉憶Goミ噛ミ恥鴇§恥§ミ恥逗ミw8一Q。8(ご馬沁§ミ帖ミ

    肉匙ミミ執§OO§ミ執恥紙§弘◎Q⑦Pと略)℃やQQI㊤.

    ③勘落s、馬呉餉ミぎ題G§§鋳恥馬ミ」。。ON軍oh国こρ。。・一㊤占㌍紹。。一 120 (730)

  • 一九世紀イギリスの売官制(村岡)

     ○。9◎。デ㊤ご厨馬朗愚ミ馬&肉織§ミ馬§O睾ミ四一笥ミ3お①ρや㊤「

    ④沁愚。こミ鍾ミぎ題○。、ミ}雨梼笥§真。。無い罫。山国‘ρω.=。。山8bζ。。。”

     ㈹窃b⇒。

    ⑤爵冨ρき窪.。・菊①σq賃冨二〇窃。剛冨①。。噂〉(『鑑90)。。」ω。。三島.(鴻愚ミ馬

     ミ、ぎG睾§譜鴇§誉喚O曲事沁誌ミミご起℃、烏馬勲蕊刈ρ〉娼やH目)

    ⑥この《要求権」は長い間の慣習に支えられており、事実上権利と同

     じものであった。 沁愚。託ミ軍《§ぎ題O§畑}ミ恥篭§し。。累”竃.oh国.、

     ρ㎝.圃心心-刈蒔切幽

    ⑦奪ミ‘や×義ひρ記。。。

    ⑧エイジェントの機能については、売官制に関する王立委員会で

     O『鍔冨ω缶9ヨヨ①話冨矯(最大のエイジェントであるコックス蘂務所の

     所員)が詳しく述べている。N守ミ‘ρ。。・露b。あ・。9潟9↓ぎρ墓窪、ω

     男①σqβ冨菖。器on目。。①oQ”》.一ωρ

    ⑨鵠愚ミ馬&うミ罫亀聴G§§駐無§”易錯、客oh間このω.Ob。圃1りb。。。.

    ⑩涛(39)≦(鐸§5。臨閃。σ」。。OO㌧〉しP

    ⑪」~魯ミ馬ミ㌻ミぎ題9ミミ激仇馬§」。。窃メ塞。h閑‘2.一〇①山㊤刈b①㏄9

    ⑫菊≦。隔譲σ」。。c。①い〉』窃.

    ⑬謁愚ミ庶鍾§ぎ恕9とミ畑馬婁§』。。貫写。隔野ρ.ω8笛「

    ⑭きミ‘2.&黎a8』αOψ

    ⑮きミ‘留。=石玉①刈■

      たとえば表8は、一八二八年から五四年にかけて、彦星℃畠と現

     商量支給退官者のA個計がどう推移したかを示したものである。この表

     は、}口でいえば、ナポレオン戦争の遺産として増大した冨一{も曙

     受給者がクリ、ミア戦争が始まるまでの二七年間に三分の一以下にま

     で縮小した過程を物語っているが、この縮小は、少なからず、国庫経

     費の節約を目的としたび巴7川手リストの人為的削減政策の結果であ

     つた。

    half-payリスFと現役給支給退官者の減少 表

    人数年人数年人数年人数年

    3684

    3526

    3326

    326工

    2771

    2699

    1849

    1850

    1851

    1852

    1853

    1854

    4684

    4509

    4395

    4289

    4144

    4001

    3852

    1842

    1843

    1844

    1845

    1846

    1847

    1848

    6188

    5912

    5658

    5386

    5180

    5016

    4899

    1835

    1836

    1837

    1838

    1839

    1840

    1841

    8670

    8317

    7842

    7806

    7292

    6877

    6629

    1828

    1829

    1830

    1831

    1832

    1833

    1834

    (典拠) RePort(ゾCom7nissionefs OOZ Promotion fπthe

        /lrnり’,1854, p.6.

    ⑯溺≦。h閃oσ」。。$〉幹禽為O¶

    ⑰夘≦。H蒙σレ。。のρ〉.。。心.

    ⑱沁竜ミ妹ミ勺ミ偽ぎ総○§§帖軌q§斡弘。。貫〉唱.員

    ⑲涛§ミ》。§§砺番ミ○。ヤ}§ミ爲§」§N§蔓寄恥ミ器節§量

     一。。⑦○。”℃℃」誹-く’また、一八五七年の売官制に関する王立委員会で、

     切。閂μ甘ヨ貯匡婁く窃(陸軍省次宮)が、この基金の歴史とその時点での

     実状について非常に詳細な証言を行っている。

    ⑳ この条件は切≦o{卜。。。鑑鐸一。。①一によって定められた。

    ⑳ 現役給支給退官の制度については次を参照。 鵠愚oこ&Goミミ篤㍗

     亀暑ミ恥さ、帖きミミN偽篤ミo寒唱ミミミミミミ鳶℃、oミo驚ミミ裁

    (731)121

  •  需ミ勢§ミミ剛一〇◎乱ρ℃℃.×呂角くは一ーユ{…幻乏。{=09.一〇。窃Q◎、〉.卜◎ρ

    ⑫ 表6に関連して、ここで陸軍士官の俸給につき、次の点に留意して

     おきたい。それは、彼らの俸給がその社会的地位の割には異常なほど

     に低かった、ということである。当時の人女の年間所得は、大まかに

     いって、労働者階級だとまず一〇〇ポンド以下、中流階級は一〇〇ポ

     ンドないし二〇〇ポンドから一〇〇〇ポンドまで、上流階級は一〇〇

     〇ポンド以上と考えられていたが、表6から判るように、陸軍士官の

     年俸は、連隊の実際上の指揮官である中佐で43流階級の中程度、少尉

     では労働畏族といわれた労働者階級上層部と同程度ないしそれ以下、

     7巴?嚇唄となるとさらにその半分以下となり、中尉、少尉のそれな

     どは、男らかに人間としての最低生活をさえ保証していなかった。だ

     から士官たちの生計は、大抵の場合、現役でもはじめから成り立た

     ず、年齢層の低い中尉・少尉は、通常歩兵だと年一〇〇~一菰○ポン

     ド、騎兵だと年三〇〇ポンド以上の仕送りを受けていた(沁竜。ミミ

     、家§詠袋聴Oo§§梼紙。謡、一〇〇G随8寓.oh国こρω.㊤お一㊤Q。9鱒蕊圃-爬認り■)。

     大佐・将官クラスの年収も四〇〇ポンド台から六〇〇ポンドぐらいま

     でで、おしなべて陸軍省に勤務する同レベルの文官の給与のまず半分

     ないしそれ以下であった。この士官の俸給の低さは、彼らの社会と鯛

     度が、士宮はジェントルマンでなければならず、士官の任務は「貴族

     としての義務」(8σ言ω器。σ凱σq①)を果たすことにあるのだという理念

     を前提としていたことの雄弁な表明で、表6の俸給もだから、もとも

     と労働の対価としての賃金ではなく、法廷弁護士や内科医がうけとる

     謝礼(8①)と同種のものと考えるのが妥当であろう。なおこの点につ

     いては、9<望コ頴二二霧高〇三内営ρS言置ミい、曹ミへ~ミ貯零しり。ミ3、”

     一㊤司8唱や。。α…o。畠を参照。

    ⑳ 】峯一哨-唱曽《の制度には騎兵士官、歩兵士官の区別はなく、給料には

     差はあったが、位階の公定価格は一律だった。 需愚ミ縣皇津ミぎ題

     Goミミ訂無。ざ一◎Q下刈㌔累.o順口;ρω.ωざ刈1ω↓Oρ

    ⑳ 楚≦。{謀○。仲藁。。㎝。。㌧〉』㊤.ただ一つの例外は72囲ら我一一琢の

     士宮が植民地に移住する場合で、このときに限りその位階の売却が認

     められた。謁魯。轟曼勺ミ6、着筆09}§計無。織目◎。伊8諸.o{両‘ρ。,・

     一Q◎卜⊃一一同ω昏oP

    ⑳ この正統的な三機能については、きミ.㌧ρ.心界ご菊ノ<o出=Oo酵.

     一QOOQQ’〉ω.心隔◎1駆鼻.

    ⑳) この制度は、砲兵・工兵土官には適用されなかった。笥魯9、㌦ミ

     、ミ6斎騒題Oミミミ塁、ミN㌧ドOQ㎝指顧.o隔団こρqo巳一〇轟もQI一〇亟ρ

    ⑳ なお「交換」を伴ってゴ9躍-℃9冤に引退した者が、自分の意志、あ

     るいは特別の菓椿(たとえば臨戦態勢による動員)で現役に復帰する

     ような場合、彼の払い戻すh巳一翼嘱と7縦隔も超の差額は、陸軍予

     備基金の収入となった。労毛。{憶。9一。。①9>・Φ9

      Nミ翫こρ・蒔αQQピ

    @@@@@賊魯ミこρGα.一〇偽9ω心q㊦1ω心窃団.

    N守ミこρ.僑Uωご甥≦oh①Ooρ

    菊≦Ohbo◎◎竃9同.ドOQ①一.

    冠毛Oh男①げ.}○◎①◎〉■㊤刈.

    カタ、O{一料OO齢.一QQ㎝oQ㌧〉.αQゆ.

    H◎Q2■

    122 (732)

  • 一一辮「紀イギリスの売官制(村岡)

    班 売官制とジェントルマンの支配  結びにかえて一

     イギリス陸軍士官職売官制の全体を総括するとなると、その論点は多岐にわたる。たとえば、この制度の大きなマイナ

    ス面である割増価格の問題は、この制度に弁護の余地ない腐敗の性格を付与しており、総括にあたってはまず絶対に無視

    しえない。またいっぽう、この制度の利点としては、その経済性の問題があり、これも一九世紀におけるこの制度の存続

    を考える上で無視しえない。年金綱を回避したこの制度には、たしかに当時の「安価な政府レという風潮によく適合する

        ①

    面があった。だが、このような諸論点もこの際はただ指摘するにとどめ、ここではもっぱら本論がかかわる「売誌面の仕

    組み」の観点からこの制度の利害得失を考量し、この制度の歴史的な特質を確認することで一応の結論にしたいと思う。

     陸軍士官のプロフェションは、他の統治の諸機能、たとえば議会、中央の内閣・官僚制、法律のプロフェション(司法)

    などとくらべても、はるかに濃厚にかつ遅くまで、伝統的なジェントルマンの支配が生き残った政治領域であった。この

                                     ②

    点は、従来のイギリス軍制史の諸研究が明らかにした今日の通説といってよい。だが、ここで一つ留意しなければならな

    いのは、一九世紀の政治支配の主要な問題は、単にジェントルマンの支配が維持されたという点にあるのではないという

    ことである。一九世紀という時期は、工業化と都市化を背景に中流階級が目覚ましく興隆した時代であった。ジェントル

    マン支配の存続とは、だから、より具体的には、この興隆する中流階級を既存の体署内にどう組み込み、かつその上で自

    らの支配をどう持続させるかという問題だったのであり、この点は陸軍士官プロフェションの場合も決して例外たりえな

    かった。そして結論的にいうならぼ、一八七一年にいたるまでの時期において、すぐれてこの機能を果たしたのが、つま

    りこの陸軍士官職売官制だったのである。だがそこに行く前に、陸軍士官プロフェションの領域では、どの程度の中流階

    級の興隆があったのかということが当然問題となろう。それゆえ最初にこの問題について一言しておこう。

                                                    ③

     一九世紀中葉から現代にいたるイギリス陸軍士宮プロフェションの社会的構成については、すでにラッツェル、オトリ

    123 (733)

  • 蓑9 陸軍士官の出身階層男騒構成

                 (96)

    年1姻・・ン・リ}輔鰍

    47

    T0

    32

    R2

    1830

    1875

    21

    18

    (典拠) P.E. Razzel王, o少. cit., P.

      253.

    虚していない。いっぽうスパイアズは、

    示している。この表は軍指導層のみを対象とし、中佐以下の士官に触れていないのが難点だが、中佐以下の位階で貴族・

    准男爵・ジェントリ以外の出身者の比率が大佐・将官のそれを大きく上まわったであろうことは、まず間違いがない。先

     ④       ⑤

    …、スパイアズらの研究がある。これらの研究を通じて、一九世紀末葉から二〇世紀にかけての三

    指滋層の性格、より具体的にいうなら、将官クラスの軍指導部に一九世紀的貴族・ジェントリの影

    響力が二〇世紀の中ごろまで残存した状況、が明らかにされた。だが、一九世紀中葉の時点で、陸

    軍士宮プ戸フェションにどんな種類の中流階級出身者がどの程度含まれていたかということになる

    と、残念なことに正確なことはもう一つ明らかでない。ラッツェルの研究によるならば、この時期

    の陸軍士官プロフェションには、表9に示したように、四〇パーセントを越える中流階級出身者が

    含まれていた。だがこの数字は、パークの『貴族とジェントリの家系史』に照らしてそこに現れな

    いものを一括して中流階級と定義づけたもので、その中流階級の中身についてラッツェルは何も記

            一八五四年の士官リストをもとに、大佐と将官につき表10のような研究成果を提

    の表3にも示したように、そこには、下層中流階級ないし上層労働者階級

    出身の下士官からの昇任者も、少ないとはいえ存在したのである。そこで、

    なお不十分な研究成果であるとはいえ、表9と表10をつきあわせて考えれ

    ば、一九世紀中葉の陸軍士官プロフェションにおける中流階級についての

    一応のイメ…ジは得ることができる。すなわち、ラッツェルが示す四〇数

    パ…セントの中流階級の中には、実はジェントルマン・プロフェションに

    分類される陸海軍士官、聖職者、プロフェショナルの子弟が相当数含まれ

      ⑥

    ていた。それゆえ、彼の算出した中流階級の数値は額面どうりには受け取

    表10大佐・将宮の出:身階層G

     職業別構成(1854年)

    i大佐1将官

    17

    Q9

    P8

    S41315

    13

    Q5

    Q2

    P0

    T1510

    貴族・准男爵

    ジェントリ

    陸海軍土官

    聖職者

    プロフェショナル

    その他*

    不詳計 (90) 100 i 100

    総  数 122 1 144

    *商入・技術者・小農∵教師・土地

     差配人(典拠) E・M・Spiers, o少.oゼム, P.8.

    124 (734)

  • 一九世紀イギリスの売官制(村岡)

    りがたいが、もし、そのジェントルマン・プロフェション出身者のうち、下層の、相対的により貧しい部分をも中流階級

    と見なすなら、そこには少なくとも二ないし三割程度の中流階級出身の士官が確かに存在していた、と結論していいよう

    に思える。なお表9も表10も、非男宮制の砲兵・工兵等の士宮を含んでいること、それゆえ、本論が対象とする三宮制の

    士官については、その中流階級出身者の数値を多少低めに評価する必要のあることを付思しておく。

     さて以上が一九世紀中葉の陸軍土官のプロフェションにおける中流階級の状況である。それではこの状況の中で、陸軍

    士官多売官制はこの中流階級出身者を体制内にどう取り込み、かつジェントルマンの支配を存続させる上でどのように機

    能したのであろうか。一九世紀において陸軍士官の売官制がもっとも激しく批判されたのは、本論のはじめにも述べたよ

    うに、まさに世紀中葉、クリミア戦争後の五〇年代においてであった。トレヴェリアンを先頭に売官制の廃止論が勢いづ

    き、五六年に売官綱に関する王立委員会が成立して、そこで多くの証人が売官制の機能とその利害得失を論じた。それゆ

    え本論も、これら証人の証言に多くを依拠してきたわけだが、彼らが、その尋問の過程で挙げた士宮職売官制の最大の欠

    点は、位階購入の資力の有無によって人が差別されるこの綱度の非人閾的な性格であった。士官として命がけで戦場に赴

    き、また平和時に長年勤勉に務めたからといって、もし彼に位階購入の資力がなければ、たとえ先任順が上位でも、彼は、

    資力に恵まれた、大抵は彼よりはるか年下の若者に頭越しに追い越され、同じ連隊内で彼の指揮下に立たねばならなかっ

                                            ⑦

    た。それは、証人の一人A・スペンサー准将の言い方によるなら「人の品位を傷つける屈辱」であった。また中流階級出

    身の証人マクファーソン大尉は、二一年間現役で勤め、その間中尉の位階は購入したが大尉に昇任するまでに一八年かか

                                 ⑧

    り、その間に実に一八回も購入による昇任者によって先を越された。そして彼の場合がまさにそうだが、資力がなく先を

    越されるのは相対的に中流階級出身者に多く、資力に恵まれ先任者を追い越して先に昇任するのは、多く貴族・ジェント

    リの子弟であった。

     ではこのように、位階購入の資力の有無にもとつく差別が広く知られ、とくに中流階級出身の士宮によって日常的にそ

    125 (735)

  • 表11各位階獲得時の平均年齢

    数月  69577

    歳0  49

         1111

    砲兵・工兵士官等(非売官擬)

    歳 月数18

    21

    30 11

    44 350 10

    70 3

    騎兵・歩兵士官 (売官制)

    歳 月数18

    20 6

    26 234 10

    39 3

    58 8

    尉三尉佐佐将