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Title [書評] 橫山伊勢雄著「宋代文人の詩と詩論」 Author(s) 淺見, 洋二 Citation 中國文學報 (2009), 78: 181-196 Issue Date 2009-10 URL https://doi.org/10.14989/180326 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title [書評] 橫山伊勢雄著「宋代文人の詩と詩論」

Author(s) 淺見, 洋二

Citation 中國文學報 (2009), 78: 181-196

Issue Date 2009-10

URL https://doi.org/10.14989/180326

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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横山伊勢雄著

『末代文人の詩と詩論』

大阪大

故横山伊勢雄氏の大著

『末代文人の詩と詩論』は'主と

して宋代の詩と詩論に関する論考を集めたものである。か

って氏の指導を受けた大上正美民らによって編まれた。合

わせて三十五篇の論考が収められ、詳注書などを除-横山

氏の主要な研究成果がほぼ網羅されている。「蘇珠の文学」'

「末代文人の詩と詩論」'「末代詩論」'「唐詩と末代文学」

の四部に分けた構成も、氏の研究の全鰹像を的確に博える

ものとなっている。

これまで中国の詩と詩論に関する研究は'唐や六朝のそ

れに集中し、末代に関する研究はどちらかと言えば少な

かった。そのなかにあって横山氏は、末代に重鮎を置いて

研究を行

ってきた敷少ない研究者の一人である。その貴重

な成果が'こうしてまとめて

一覧できるようになった。そ

の意義は極めて大きい。本書が編まれ刊行されたことを'

後進の一人として先ずは喜びたい。

横山氏の末代文学研究に見られる最大の特色は何か。そ

れは本書の表題

「末代文人の詩と詩論」に端的にあらわれ

ている。すなわち

「詩」と

「詩論」の両者を視野に入れて'

その連関において末代文人の営みを考察した鮎にある。大

上氏の本書

「あとがき」によれば'横山氏の研究は末代の

詩話研究から出費したという。第Ⅲ部

「末代詩論」に収め

『槍浪詩話』研究をはじめとする論考は、氏が出費鮎か

一貫して取-組んだ末代詩論研究の成果であるが、それ

以外の論考にもこれら詩論研究の成果は積極的に活用され

ている。つまり、詩だけを考察の封象とするのではな-、

詩論をも視野に入れる形で詩を考察するという姿勢が本書

の論考を貫いているのである。横山氏の研究の最大の特色

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中国文学報

第七十八冊

であ-'今日あらためて振-返るだけの債値を持つと言え

、つ

。詩と詩論の両者を税野に入れた研究が行われる場合、両

者の関係はどのようなものになるだろうか。多-の場合'

詩論は詩を明らかにするための通過黙、あるいは手段とし

て扱われてきたのではないだろうか。ここには、詩を詩論

よりも上位に位置づける序列意識が知らず識らずのうちに

働いているかもしれない。だが'やは-我々は'同じ言語

表現の秩序のもとで作動していた言説として'両者を同じ

地平の上に位置づけて捉えるべきだろう。大上氏の

「あと

がき」には

「詩人

・士大夫の生の全鰹性」という語が見え

るが、その肇みにならって言えば、詩と詩論の両者を

「詩

・士大夫の言説の全膿性」という覗鮎から把握する必要

がある。そして'この姿勢こそ我々が横山氏の

「詩と詩

論」研究から沓展的に受け継ぐべき研究のあ-方だとわた

しは考えている。

本書に収められる論考が書かれてから、すでに長い時間

が経過した。その間'末代の詩と詩論に関する研究に大き

な進展があ

ったことは言うまでもない。したがって、横山

氏が本書で論じたことがらのなかには'今日ではなかば常

識と化してしま

ったものや、その後の研究によって乗-越

えられたものが少な-ない。しかし'だからといって本書

を素通-してしまうことには'同じ分野の研究に関わる後

進の

一人として心苦しいものを覚える。そこで編集部から

お誘いを受けたのを幸いとして'及ばずながら本書評の筆

を執るに至

った次第である。以下、本書に収められる論考

のうち'重要と思われる論考を収録順に取-あげながら'

感じたこと、気づいたことを述べていきたい。後から来た

者のアドバンテージを利用して、すでに故人となられた方

の論をあげつらうことにはアンフェアの感なきにLもあら

ずであるが'横山氏の研究成果を今日において正し-受け

継ごうと願うが故の批評である'その鮎に免じてご寛恕を

乞いたい。

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*

*

第Ⅰ部

「蘇乾の文学」は'蘇珠に関する十二篇の論考を

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収める。ここでは、詩と詩論を論じた論考のうち七篇を取

りあげて私見を述べてみたい。

1章

「蘇蝶の隠逸思想について-

陶淵明との関係を

中心として」は'蘇珠の隠逸思想について'陶淵明との関

係という税鮎から考察を加えたものである。杭州赴任時代

に陶淵明に封する蘇珠の認識が形作られ'それが黄州流涌

時代に至って更に深められていったことを論じている。

般的に言って中国の文人にとって隠逸の思想は重要なテー

マであり績けたが'蘇乾の場合もそれは例外ではな-、横

山氏に限らず多-の論者がこの問題に取-組んできた。

蘇珠の隠逸思想を論ずるにあたっては'他の何にも増し

て蘇珠の詩のテクストが重要な資料となることは言うまで

もない。本論考も蘇乾の詩を謹み込む形で論が展開される。

ところがへここで気になるのは蘇輯詩の讃解に諜-が見ら

れることである。論旨の展開にも関わる謹み誤-なので指

摘しておきたい

(ここでは二つを指摘するにとどめる)

先ず'本書二〇頁に挙げる

「自金山放船至焦山」(鴻歴

梱輯注

『蘇文忠公詩合法』巻七)の

「山林磯餓古亦有、無田

不退寧非貧」句について。これを横山氏は

「山林に磯餓す

ること古にも亦た有-'田無ければ

退かざるも寧ろ貧に

非ず」と訓じて

「本来の性を守るための隠退であるのだか

ら'山中に餓死しては何にもならない'理想の賓現のため

には十分な備えが必要だ」と解されている。だが'後句に

なん

ついては

「田無ければ退かざるは

貧に非ずや」と訓じ、

その意味するところは

「田が無ければ掃除しないというの

は欲が深すぎる」と解すべきである。つまり、氏の言うよ

うに蘇鞍は隠逸の賓現のためには資産が必要だと考えてい

たわけではな-'むしろそれとは連の考えを持

っていたの

である。

また、横山氏は菱川時代に陶淵明に封する認識が深ま-

を見せたことについて述べるなか'本書三〇頁に

「次韻答

孫倖」(『合法』巻

一九)を挙げている。この詩は黄州時代

以前の作であ-'何故ここに挙げられているのか不明であ

るが、それについては措-。重要なのは冒頭の四句

「十年

身不到朝廷'欲件騒人賦落莫、但得低頭拝東野、不箭中路

候淵明」についての理解の仕方である。氏はこの四句を

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中開文筆報

第七十八冊

「十年

身は朝廷に到らず、騒人を件いて落莫を賦さんと

欲す、但だ得たり低頭して東野を拝するを、辞さず中路に

うかが

て淵明を候

うを」と訓じて'「地方官の職にあること十年、

屈原のように江南の地で憂国の詩を作ろうとしたが、我が

詩は'地方の微官に在

って不平ばか-もらしていた孟郊ば

-のもの'いまからでもよい、平静な境地を平易な詩語で

もってうたう陶淵明のような詩を作-たいものだ」という

意味で解揮するが'これは誤-であろう。前の二句は'原

唱の作者孫伴が主語となってお-、「騒人」とは蘇覇を指

す。後の二句は

「但だ低頭して東野を拝するを得ば'中路

うかが

にて淵明を

うを辞さず」と訓ずるべきであ-、ここで

の孟郊と陶淵明は孫件を指している。四句全膿として

「孫

件は十年の歳月、朝廷とは無縁の暮らしをつづけ、いま詩

人のわたしとともに詩を作ろうとしている。孟郊

(=孫

悼)の傍にいられるならばtかの王弘のように酒を用意し

て陶淵明

(=孫倖)を引き留めたいものだ」というような

意味で解すべきだろう。孫件を陶淵明に比して述べる

1句

「酒を手にあなたのもとを訪ねて語-合いたい」という

孫件に封する親しみを込めた挨拶を述べた句であって'こ

れを横山氏のように

「陶淵明の詩の世界そのものに沈滞Lt

そこに自己の詩の規範を求めるまでに到

っている」と解す

るのは無理があるのではないだろうか。

第二章

「蘇珠の

『和陶詩』について」は'蘇輔の生涯と

関連づけながら

「和陶詩」について考察を加える。陶淵明

詩の受容という観鮎から蘇拭の隠逸思想を考察した第

一章

とも密接に関連する論考である。「和陶詩」の持

つ重要な

意義に着目した先駆的な論考の一つであ-'その問題意識

は今日なお受け稚ぐべきものとして色槌せていない。ここ

で横山氏は'蘇乾が陶淵明の隠逸に

「何ものにも束縛され

ない自由な生活の中に自己の本性を充害させる生き方」

(五四頁)のモデルを見出すことによって'単なる隠逸を

超えた思想に到達しえたことを指摘している。氏は次の第

三章の冒頭でも

「蘇拭の文学の主要なモティーフは、

一個

の人間としてその本性を全うせんとすることー

人生充賓

の追求-

にあった」(六五頁)と同様のことを述べており、

ここに氏の基本的な蘇輯理解が凝縮されていると言えよう。

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この理解の上に立って横山氏は、「和陶詩」にあらわれ

た蘇銭の思想を支えているものとして

「『人生は寄するが

如きのみ』という人生観」を挙げ'次のように述べている。

「蘇乾は有限である人間の命の替みをはかないものと感じ'

人生は無窮の自然に仮-の宿-を寄せる不安定な存在であ

ると考えている。--人生を短-不安定なものと考えれば

こそ'その刻

一刻を充章し安定したものとしようというの

である」(五七頁)と。確かに蘇乾にとって人生は

「不安定

なもの」として映っていただろう。だが、その人生に封し

「人生は寄するが如きのみ」と言い放つとき'果たして

蘇鞍は人生を

「不安定なもの」と考え、それを

「安定した

もの」に襲えようとしていたのだろうかoもっと大きな、

いわゆる

「巨視的な態度」(横山氏も本書の各所に引-吉川幸

次郎

『宋詩概説』の語)に立っての言葉として理解すべきで

はないだろうか。

第三章

「蘇拭の政治批判の詩について」は、前の二幸が

「隠逸」に焦鮎を首てるのに封して'「政治批判」に焦鮎

を普てる。「隠逸」と

「政治批判」、言うまでもな-両者の

関係は中国の文人にとっては最大のテーマであり、蘇鞍も

その例外ではない。この鮎については横山氏も第

1章にお

いて蘇輯

「次韻柳子玉過絶糧二首之二」(『合法』巻六)に

見える

「奔物の志/潜時の心」という二項封立の固式

(『孟子』以来の

「濁善/未済」と同じ圃式)を抽出すること

によって的確に捉えている

(1六頁)。前の二幸で蘇拭の

「斉物の志」を論じた横山氏は'本論考において

「潜時の

心」を論ずるのである。

ここでもやはり重要な資料として謹み込むべきは蘇韓の

詩であろう。横山氏は政治批判を行った蘇拭の詩のうち'

「山村五絶」(『合法』巻九)と

「呉中田婦歎」(『合法』巻

八)を取りあげている

(六七-七〇頁)。「山村五絶」は農民

の暮らしぶ-をうたった七言絶句の連作。畢寧六年'杭州

あかぎ

通列時代の作。例えば'その第四首は「

杖つき飯を

つつ轟

て去ること忽忽た-、眼を過ぐる青鏡

手を韓じて空

・刀

し、巌

ち得た-

見童の語音好きを、

一年の強牛は城中に

荏-」と'農民たちが貸付金の授受のために街場に頻繁に

出入-するようになったさまをうたう。青苗法の施行を背

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中閲文学報

第七十八冊

景にした作品であ-'

後に蘇拭が朝廷を批判したとして弾

劾される際の諾接となった作品であることはよ-知られて

いよう。「山村五絶」と並んで取りあげられる

「呉中田婦

歎」は長篇の七言古詩、いわゆる楽府系の

詩.幣寧

五年、

なは

同じ-杭州時代の作。「今年

梗栢

熟す

るこ

だ遅

し」の

1句に始ま-

「如かず

って河伯

(河の紳)の婦

と作

るに」の

一句に終わる'農婦の苦しみをうたった作品

であ-、氏の言葉を借-れば

「民情を上に訴え'為政者の

反省を求めるという博続的な楓諭詩」〓ハ九頁)である。

これらの詩について横山氏はあま-高い評債を輿えては

いない。「山村五絶」については

「正面き

って融合疲弊の

状況をえぐるものでもないし、いわゆる融合詩の系譜にお

いても詩の蛮術的完成度は高いものではない」(六八頁)と

述べ、「呉中田婦歎」については

「詩の番想

・表現ともに

融合詩としては類型的である」(七〇頁)と述べている。こ

のように過去の文学作品を我々の債倍散で許慣

・裁断して

しまうことに封して'わたしは疑問を感じないわけではな

い。それについては措-として'ここで横山氏はせっか-

「山村五絶」と

「呉中田婦歎」の両者を並べておきながら'

ある問題を深く追求しないままに見逃してしま

っている。

わたしにと

っては極めて興味深い重要な問題だと思われる

ので'ここに述べておきたい。

「山村五絶」と

「呉中田婦歎」とは共に融合批判を行

た作品であるが、両者の間にはさまざまな違いがある。こ

こでは、ご-素朴な事賓に注目してみよう。すなわち、前

者が

「鳥毒詩案」において蘇拭弾劾の謹接となった作品で

あるのに射して'後者はそうではないという事案である。

前者はあ-までも山村の農民の暮らしぶ-をうたった作品

であ-'政治批判を前面に掲げて書かれた詩ではない。そ

れに封して後者は政治批判を前面に掲げた作品であ-'

「官は今

鏡を求めて米を求めず」というあからさまな言

葉が述べられている。にもかかわらず'前者が弾劾の封象

とな-'後者がそうならなか

ったのは何故か。これは興味

深い問題ではないだろうか。

賓は、この鮎については横山氏も少しだけ梱れてお-'

「御史墓において問題となったのはむしろ'「請書寓巻不

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護律'致君尭舜知無術」(戯子由)といった詩

一篇の中の敷

句である場合が多い」(七〇頁)と述べている。つま-'こ

う言っていいだろう。政治批判を前面に掲げて書かれた詩

ではな-、蘇拭自身が意囲していたか否かに関わらず

(お

そら-意画していたと思われるが)、他の主題をうたうなかに

政治批判の意園を謹み取れる詩が御史墓においてはむしろ

弾劾すべき危険な作品だと見なされた'と。思うに、政治

批判を前面に掲げて書かれる博枕的な説諭詩は'権力に

とってさほど危険なものではなかったのだ。何故ならば、

それは詩のあ-うべきジャンルとして古-から認められて

きたものであ-、そこに表明される政治批判は言

ってみれ

ば権力が認めた枠内での批判に過ぎなかったからである。

そこに響いているのは作者自身の肉聾ではない。作者は批

判者という役柄を演じているに過ぎない。ところが'「山

村五経」のような詩に響いているのは作者の肉聾であ-、

そこに表明されているのは作者の本心に馨する政治批判で

ある。このように謹まれ受けとめられたからこそ'弾劾の

封象となったのであろう。そうだとすればへ「融合疲弊の

状況をえぐるものでもない」という横山氏の許債には修正

が必要である。蘇戟自身の意園をなかば越える形で'謹み

手にとってこの詩は

「状況をえぐるもの」となってしま

たのである。詩について論じる際には、作者と作品の関係

のみを捉えるだけではな-、謹み手がそれをどのように受

けとめたかという税鮎を加えることによって見えて-るも

のがあるのではないだろうか。

第四章

「蘇域の

『南行集』の詩について」は、若き日の

蘇軟が蘇渦

・蘇轍との閲で行

った唱和を集めた小集につい

て論じたものである。ここでは

『南行集』所収の詩のみな

らず'これに附された序文の文学論

(詩論)についての考

察にも多-の紙幅が割かれてお-'後の章、特に第八章

「蘇珠と黄庭堅」に論じられる内容とも重なり合う。横山

氏の蘇拭研究において重要な位置を占める論考と言えよう。

本論考のうち、『南行集』所収の蘇珠の詩を圭に蘇轍の

詩と比較して'その特質を論じた箇所はおおむね首肯でき

る考察となっている。だが'文学論についての考察

(八二

-三頁)には疑問を感じた箇所がないわけでない。ここで

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中国文学報

第七十八冊

∵,

氏は

『南行集』序文の

「夫れ昔の文を為る者、能-之を為

るを工と為すに非ず。乃ち之を為らざる能わざるを工と為

すな-」-

書こうと思って書いた文章ではな-書かざる

を得ずして書かれた文章こそが本来の文章である'という

l節に注目するo文章制作における作為を否定する考えを

述べたものであ-'第八章に用いられる氏のテクニカル

タームを用いて言えば

「自費主義」の文学観を語った言葉

と言えよう。この文学観が蘇樵の文学観の基調を形作

って

いるというのが'本論考の主眼である。この指摘は

一つの

卓見と言えるが、しかし氏がこれを次のような文学論と同

一視していることには疑問を感じる。氏が取-あげるのは

「答謝民師書」(『東披後集』巻一四)が述べる

「大略そ行雲

流水の如-'初めは走質無-'但だ常に首に行-べき所に

行き'常に止まらざるべからざる所に止まる」'あるいは

「自評文」(『東吸題蚊』巻一)が述べる

「吾が文は高射の泉

源の如-、地を揮ばずして皆な出ずべし」といった言葉で

あるが'これらはいずれも文章の自由な書き方'規範にと

らわれない表現のあ-方を水の動きに愉える形で述べたも

のであ

って'書かざるを得ずして書かれた文章こそが異の

文章であると述べる

『南行集』序文の文学観とは次元を異

にしていると言うべきだろう。些細な違いであるかもしれ

ないが'蘇株の文学論についての氏の議論の根幹に関わる

論鮎であるため、敢えて私見を述べた。

第六章

「蘇拭の詩における修節1

響喰

・擬人法

・典

故」は'これまでの五章が蘇戟詩の思想内容に焦鮎を昔て

た考察であったのに封して'言語表現そのものに焦鮎を普

てて考察したものである。横山氏の蘇戟研究のバランスの

よさが'ここにも見て取れる。

横山氏は、蘇輯詩の誓職を分析するに首たって南末の陳

『文則』の肇瞭分類を参照している。氏は第Ⅱ部第五章

「藁庭堅詩論考」の冒頭で、自身の研究方法について

「宋

人の詩はまず宋人に語らせる」(二九三頁)ということを述

べている。ここもそのような方法意識の上に立つものであ

ろう。同じ宋人である陳験の誓瞭論に操って蘇拭の誓瞭表

現を論ずるのである。このような方法それ自膿は極めて安

富なものと言えるが、しかし問題は陳験の馨愉分類がどれ

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ほどの有数性を持つかである。これについて'わたしは極

めて懐疑的である。何故かと言えば'陳膜の誓喰分類は分

類としての膿をなしていないと思われるところがあるから

である。ミシェル

・フーコー

『言葉と物』の序文に

「シナ

のある百科事典」の分類の奇妙なおかしさが印象探-取-

あげられているが'それとも通ずる論理の階梯を無税した

分類のあり方は、今日の知の僅系とは相容れない。陳験の

分類方法それ自健を考察の封象とするのであればともか-

(陳験の分類法を通して中国文人の言語表現に封する見方を分析

する研究は十分に取-組む債値があろう)'それを我々自身の

考察に採用することには疑問を感じざるをえない。

本論考は'響職の他に擬人法と典故についても論じてい

る。ここでは'典故についての考察に感じたことを述べて

おこう。ここで横山氏は蘇拭の典故使用を'(こ

典故

(二)用事

(≡)沿襲

(四)襲句の四類に分け'(一)に

ついては

「古典など先行する典籍に出庭を求められる語の

詩中での使用」'(二)については

「語の背景に故事をもつ

典故の使用」、(≡)については

「先人の詩句の発想や表現

を使用するもの」、(四)については

「沿襲の徹底したもの

で'先人の詩句をそのまま詩中に用いるもの」と定義づけ

ている

(一三四頁)。しかし'賓際には

(一)と

(二)の閲

に明確な境界線が引けるわけではない。(三)と

(四)と

を分けることはそれなりに意味があるだろうが'しかし

(四)は極-わずかの例外的な事例しかない。果たして

つの類として猫立させる必要があるだろうか。私見では

(一)と

(二)とを合わせて

「用事」、(≡)と

(四)とを

合わせて

「沿襲

(襲句)」とLt全鰹で二つの類に分ける

程度にとどめてお-方が分析の枠組みとしてはよ-有数だ

と思われる。第Ⅱ部第五章で氏は黄庭堅の典故使用につい

て論ずるが、そこでもこの四類に分ける分類方法に凍って

いる。氏にとっては重要な分類であったのだろうが'陳験

の響愉分類と同様'分類としての有効性をやや放いている

のではないだろうか。

第七章

「宋代の詩と詩論における

「意」について-

拭を中心として」は'「意」という概念をめぐって考察を

加えたものであ-、横山氏の蘇拭研究'特に蘇乾の文学観

189

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中囲文筆報

第七十八冊

に関する研究の根幹をなす論考である。中国の文学論の根

本問題について異正面から考察を試みた鮎でも大いに注目

されるものと言えよう。

本論考の第

一節

「宋詩は倫理か」には'横山氏の問題設

定の出健鮎が述べられる。

三lロで言うならば、次のように

なるだろう。これまで末代の詩は

「理」を重視する

(「尚

理」)と見なされてきたが'

一方で

「意」を重視する

(「尚

意」)傾向も見られる。したがって'宋人にとっての

「意」概念について再検討の必要がある'と。だが、この

出費鮎でわたしは践いてしまった。「理」と封立する概念

と言えば、普通は

「情」ではないだろうか、と。賓際'本

節で氏が挙げる明の楊慣

『升庵詩話』巻四は、唐詩と宋詩

とを野比して

「唐人の詩は情を圭とし--宋人の詩は理を

圭とす」と述

べている。私見

では'「意」は

「理」と

「情」のどちらに封しても接鮎を持つ概念であると思われ

る。それだけに'本節の議論には困惑を覚えた。論の出馨

鮎となる部分だけに'よ-丁寧な論述が望まれるところで

ある。

ちなみに、第

一節の冒頭で氏は

「詩は志を言う」と

「詩

は情に縁る」という中国の詩論において繰-返し唱えられ

た二項封立園式についても梱れている。前者が政治や道徳

を重視した文学観'後者が感情や美を重視した文学観とし

て、封比的な文学観を形作

ってきたことは言うまでもない

(ただし'ここで私見を差し挟むならば'これまで両者の閲には

遠いばか-が強調されすぎた嫌いがある。「志」にせよ

「情」に

せよ、どちらも人の内面・精神を指し示すものである以上'「言

志」と

「嫁情」は根本的な部分では共通する文学観を語ったもの

と言えな-もないからである。賓際'両者がほぼ同様の意味で用

いられ、互換可能な関係にあったことを示す事例は古-から少な

からず見られる)。「意」を問題にする本論考が何故

「言

志」と

「縁情」の二項封立に解れているのか。この鮎につ

いても'横山氏の論述はやや不明瞭である。「意」と

「情

(緑情)」とが共通する部分を含む概念であると見なした

からであろうか。先に述べたように横山氏は

「理」と

「意」とを封立する関係にある概念と捉えているようだが、

それを踏まえてここでは

「理」が

「言志」の文学観に'

190

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「意」が

「縁情」の文学観に封麿すると見なしているのか

もしれない。だが'そのように考えるのだとすれば'やは

りもっと丁寧な論述があってしかるべきだろう。

「意」と

いう語

のあらわす意味

の範囲は'「理」や

「情」よりも幅が廉-'

一筋縄では整理しきれないところ

がある。本論考で横山氏は、第二節

「主意と含意」'第三

「新意」'第四節

「立意と用意及び命意」というふうに

「意」概念を幾つかに分類して論を進めている

(第四節の

「立意」「用意」「命意」という分類は

『詩人玉層』巻六の分類を

借-たものである)。これらの分類も、果たしてどれほどの

有数性を持つのか'わたしには疑問である。先に第六章に

ついて述べたこととも重なるが'分類として論理の階梯に

混乱が見られるし、不必要と感じられる分類もないわけで

はない。蘇拭の文学論における

「意」の特質を明らかにす

る上であま-有効な分類となっていないように感じられた。

一般的に言って'中国の文学論について考察する場合、

「意」などの概念語それだけを取り出してあれこれと考察

を加えるのはあま-生産的ではないように思われる。コン

テクスト次第で特殊な意味を負うケースもあれば'極-過

常の意味で用いられるケースもあ-'それをひとしなみに

論ずることは避けなければならない。本書全鰻を通して、

横山氏は宋代文人が用いる語にとらわれ過ぎている嫌いが

ある。彼らの用いる語に寄-添いつつも、それとの閲に適

切な距離を確保することが不可紋であろう。そのために'

どのような覗鮎

・方法が求められるのか'我々にとって重

要な課題である。

第八章

「蘇乾と黄庭堅-上

目費主義と古典主義」は'蘇

鞍と黄庭堅の文学論を論じたものである。ここで横山氏の

言う

「自尊主義」とは自然な費露からなる文学を重視した

蘇鞍の文学観を'「古典主義」とは博学を背景に

「用事」

を重視した黄庭堅の文学観をそれぞれ指している。有-鰹

に言うならば'天才型の蘇乾と秀才型の黄庭堅という封比

を示したものと言えるだろう。

本論考の論述にはあまり大きく困惑することはなかった

が'しかし

一つだけ大きな疑問を感じた鮎がある。それは

「主知主義

(圭知性)」という概念の扱いである。横山氏は

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中国文学報

第七十八研

「主知主義」なるものを蘇拭

・責庭堅に共通する特質とし

て論じている

(一七二頁、一七四頁)

。確かに'責庭堅につ

いて氏が述べる

「古典主義」には

「主知主義」の色彩が色

濃-あらわれていよう。だが、蘇軟について氏が述べる

「自費主義」についてはどうか。

l般的に言って

「自尊主

義」とは

「主知主義」と相容れないものなのではないだろ

うか。もちろん

「主知主義」は末代

(特に北宋)の文学全

膿に通ずる最大の特色であり'蘇拭にも

「主知主義」的な

傾向を認めることは十分に可能であろう。だが'そうであ

るからこそ'氏には

「自尊主義」と

「主知主義」の関係に

ついて明確に論述してほしかったと思う。

蘇拭と責庭堅'両者の間には共通鮎もあれば相違鮎もあ

る。本論考では'蘇拭と責庭堅の共通鮎と相違鮎がうま-

整理されないままに終わってしまっているように感じられ

たが'これもまた我々が氏から受け詣いで取り組むべき課

題であるだろう。*

*

*

第Ⅱ部

「末代詩人の詩と詩論」には'蘇拭以外の宋代文

人、欧陽修

・梅毒臣

・王安石

・責庭堅

・陳師道

・陳輿義

陸瀞

・楊寓里

・朱書について論じた十篇の論考を収める。

北宋のみならず南宋にまで及ぶ幅廉い時代の文人が取-あ

げられてお-'横山氏の視野の贋さが遺憾な-聾揮されて

いる。欧陽修

・梅重臣

・王安石

・蘇戟

・黄庭堅

・陸源と

いった文人については'これまでにある程度の研究が蓄積

されているが'陳師道

・陳輿義

・楊寓里についての研究は

極めて少ない。その鉄を早-から補うものであったという

鮎においても'貴重な成果と言える。ここでは梅尭臣

・陳

師道

・楊寓里について論じた三篇の論考について述べてみ

二章

「梅尭臣の詩論」は梅尭臣の詩と詩論について、

圭に陶淵明

・院籍との闘わ-'「平淡」の詩風といった二

つの税鮎から考察したものである。「平淡」をめぐる考察

である鮎は、第Ⅲ部第三章

「宋詩論にみる

『平淡の腰』に

ついて」とも重なるものである。

ここで横山氏は梅尭臣に大きな影響を輿えた先行文人と

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して院籍

・陶淵明を取りあげ'梅重臣は院籍

・陶淵明の受

容を通して

「平淡」の作風を切-開いたという指摘を行っ

ている。氏は言う。「(梅尭臣は)深い思想を飾-過ぎぬ的

確な言葉で表現しよう。そう願うのである。そしてそのよ

うな詩法を院籍

・陶淵明に学んだのである」(二六五頁)と。

たいへん興味深い指摘であるが'しかし

一方で疑問も感じ

る。陶淵明の受容が

「平淡」へとつながったというのは確

かにその通りであろう。しかし、院籍についてはどうか。

氏自身'院籍については

「その詩は人の誇-によって細い

を招-ことをさけて、牢直な表現をとらず'曲折した表現

のうちに深い内容をひそませる詩法を取った」(二六三頁)

と述べているが、これは

「平淡」とは全-異なる方向性を

持つ詩法ではないだろうか。

第三章

「陳師道の詩と詩論」は、「詩人の人生と'その

作品とは不可分のものである」(三四四頁)との税鮎に立っ

て'前半に陳師道の人生と関連づけながら彼の詩の特質を

考察し'後半に陳師道の詩論の特質を考察するという構成

になっている。ここでは'陳師道の詩論を論じた部分に欄

馨されて感じたことを述べたい。なお'氏が取りあげる陳

師道の詩論はすべて

『後山詩話』の言葉である

(この詩話

が陳師道の著であるか百かは議論のあるところであるが、氏はそ

れについては鯛れていない)。

『後山詩話』の詩論に関して、わたしが注目したいのは

「語

(詞)」と

「意」の二項封立園式である。「語」とは言

語の表現形式を、「意」とは表現内容を指すと理解してお

いていいだろう。私見では'宋代の詩論において最も重要

な問題となっていたのが'この

「語」と

「意」との関係を

めぐる問題である。黄庭堅の唱えた

「鮎裁成金」「換骨奪

胎」にしても、根本的には

「語」と

「意」との関係性をめ

ぐる議論と言える。その種の議論が'『後山詩話』にも頻

出するのである。特に'先行する詩人の表現をどのように

自らの作品に活用するか、いわゆる

「沿襲」をめぐる議論

と連動する形で。日-、「語は少な-して意は贋し」'「語

は拙と雑も意は工な-」'「語は樫なるも意は切な-」、「語

意皆な工な-」等々。「語」と

「意」の関係という視鮎か

ら、『後山詩話』の詩論を責庭堅など宋代文人の詩論全膿

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中囲文筆報

第七十八冊

のなかに位置づけて考察してみる必要があるのではないだ

ろうか。

なお'本論考で横山氏は杜甫の

「寄」をめぐってなされ

た陳師道の詩論を重視するが

(三五五頁)'そうであるなら

ば何故

『後山詩話』に見える次の一節を取-あげないのだ

ろうか。「王介甫は工なるを以てし、蘇子曙は新なるを以

てLt黄魯直は奇なるを以てするも'子美の詩は奇と常、

工と易'新と陳と好からざるは莫し」。「寄」「工」「新」と

いった側面と

「常」「易」「陳」といった側面とを兼ね備え

た詩人として杜甫を高-許慣した言葉であるが'これは

『後山詩話』において杜甫とその

「奇」がどのように捉え

られていたかを考察する上で'極めて重要な聾吉であると

思われる。

第九章

「楊蔑里の詩論と詩-

近鰹詩を中心として」は'

楊寓里の詩の愛蓮を彼の人生と関連づけながら詩論をも視

野に入れて絶合的に論じたものである。楊商里は

『槍浪詩

話』において

「誠斎膿」という詩膿の名を輿えられてもい

るように、南宋にあっては濁臼のスタイルを確立した詩人

として認知されていたことが窺われるが'その割にこれま

では十分な研究がなされてこなかった。その意味でも本論

考は貴重な成果である。

ただ'わたしは本論考の出だしの部分で置いてしまった。

冒頭、横山氏は楊寓里が初期の江西詩派の影響下にあった

作風から

「平静な心境」をうたう作風へと奨化を遂げたこ

とを論じている。ここで氏は

「江西詩派の詩人を気ど-請

を多作していた」初期の詩として

「除夕前

一日'蹄舟夜泊

曲渦市'宿治平寺」(『誠密集』巻

一)の

「市人

歌い呼び

て時節を作す'詩人

両膝

頼よ-も高し」を取-あげ、

「寒さを倣えて身をかがめている--苦吟の姿」だと解し

ている

(四一二頁)。だが'この詩は旗から家に締る途中、

やむを得ず宿泊した寺でのわびしい自分の姿-

周囲は年

の瀬を迎えて賑わっているのに'膝を抱えてしょんぼりと

している姿を淡々とした語-口でうたった詩であって'

「江西詩振」とも

「苦吟」ともおそら-関係しない。また'

氏は楊寓里が初期の作風から脱却したことを示す詩として

「閑居初夏午睡起二絶句」其

一(『誠密集』省三)を取-あ

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げ、この詩について張夜が述べた評語

「胸襟透脱」に着目

する。氏は、この評語は楊寓里の

「椎的あるいは追撃的な

心境」を指摘したものと解する

(四二

頁)

。だが、これは

「胸中にとらわれがな-すっき-した」というような意味

であって、「碍」や

「追撃」との関係を謹み取るのはやや

探謹みに過ぎるのではないだろうか。

本論考でも横山氏は詩話を盛んに活用する。例えば、楊

寓里に猫特の詩論として

「句外の意」をめぐる議論を取り

あげて分析を加えたところでは

「詩に句中に其の節無きも

句外に其の意有る者有-」という

一節を含む

『誠斎詩話』

の議論を挙げながら興味深い問題を指摘している

(四二六

-七頁)。この部分についてへわたしは何故

「味外の味」

をめぐる楊甫里の詩論を取りあげないのか'疑問に感じた。

「味外の味」とは

「習斎論語講義序」(『誠斎集』巻七七)に

見える語。この他にも'楊高里には

「味」なる概念によっ

て詩を説明する議論が少な-ない。例えば、「陳庵詩稿序」

(『誠密集』巻八三)は次のように述べる。「夫れ詩は何為る

者ぞ。其の詞を筒ぶのみ。日-'詩を善-する者は詞を去

る.然らば則ち其の意を箇ぶのみ。日く'詩を善くする者

は意を去る。然らば則ち詞を去-意を去れば則ち詩は安-

に在るか--」-

「詞

(請)」を去-、更には

「意」を

も去ったところに詩の本質はあるのであって'詩の本質の

あり方は

「味」のそれにも似る、と。この後で楊寓里は

「奈」(茶)の味わいに瞭える形で詩の本質を説明してい

◆よさ

る。また'『誠粛詩話』にも

「詩の己に蓋きて味の方に永

きは乃ち善の善な-」とあって'言葉が蓋きたところに生

ずる

「昧」にこそ詩のすぼらしさが存するという議論がな

されている。「句外の意」に着日するのであれば、これら

「味」をめぐる議論についてもぜひ梱れるべきであろう。

ちなみに'楊寓里の詩論について横山氏は

「江西詩派の詩

法を基盤としている」(四二八頁)と概括しているが、

「味」をめぐる議論は江西詩波の詩法とは異なる方向性を

示すものと言えるのではないだろうか。本論考を通して氏

は盛んに楊寓里における

「江西濃」(江西詩液の詩法)の影

響を言うが'しかし肝心の

「江西佳」の中身が明確に押さ

えられていないため、わか-に-いところが多いと感じら

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れた。

中国文学報

第七十八冊

*

*

*

第Ⅲ部

「宋代詩論」は'宋代の詩論について論じた論考

を収める。全膿は五章からな-'『槍浪詩話』'そして末代

の詩論における椎の影響や

「平淡の膿」といった問題が論

じられている。先述のように'横山氏は詩話の研究から出

費したという。その意味では氏の研究の原鮎が示されてい

る部分であ-、それだけに力のこもった論考が並んでいる。

また'第Ⅳ部

「唐詩と宋代文学」は'末代文人の詩

・詩論

との関連を視野に入れつつ'他の時代の文人や詩以外の

ジャンルについて論じた論考を収める。全健は八草からな

り'唐の王経から元の悦撃に至るまでの幅廉い時代の文人'

また

「話本」というジャンルまでもが取-あげられており'

氏の幅廉

い関心が窺われる。第Ⅲ部

・第

Ⅳ部についても

我々が横山氏から受け継ぐべきものは少な-ない。今回は

わたしの力不足ゆえに論評を加えることができなかったが'

今後あらためて精議を試みたいと思う。

以上'第Ⅰ部

・第Ⅱ部を中心に横山伊勢雄氏の大著

『末

代文人の詩と詩論』を謹んで感じたこと'気づいたことを

述べてきた。この貴重な成果をいかにして受け継ぎ、蓉展

させるか'輿えられた課題の大きさを思うと粛然たらざる

を得ない。

(創文社へ二〇〇九年六月'線七七七頁)

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