title 張學良政權下の幣制改革 : 「現大洋票」の政治的含意 東洋 ... · 2016....
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-
Title 張學良政權下の幣制改革 : 「現大洋票」の政治的含意
Author(s) 西村, 成雄
Citation 東洋史研究 (1992), 50(4): 507-553
Issue Date 1992-03-31
URL http://dx.doi.org/10.14989/154385
Right
Type Journal Article
Textversion publisher
Kyoto University
-
&トリ£局、。ル
第五十巻
張墜良政権下の幣制改革
ー
l「現大洋票」
の政治的合意||
西
507
は
じ
め
に
一張作震後の奉天票
-奉天票暴落の第三局面l一九二八年春l
2
張作森後の奉天票と新たな金融幣制改革論
3
易機後の奉天票暴落最彩局面と
「現大洋建」への移行|一九二九年春
|
二「遼寧省城四行挽聯合準備庫」と「現大洋票」
-奉天票における「紙幣減債の逆誘致果〈チュロl
ニ数果〉」
2
「遼寧省城四行貌聯合準備庫暫行章程」|一九二九年五月一五日|
3
現大洋票の夜行と奉天票の並存|幣制改革からみた二重政策|
三遼寧幣制改革への胎動i「現大洋票本位制」への移行l
-
遼
寧における本位通貨
「現大洋菓」の成立|一九二九年秋J三O年春|
地方的僚制改革の展開と経済環境
2
第四挽
卒成四年三月護行
村
成
雄
-1-
-
508
3
遼寧幣制改革論の射程距離|『ケメラ1報告書』
と『東一一一省金融整理委員曾報告書』
l
す
び
む
fi.
じ
め
一九二
0年代中園遼寧地域の基軸的逼貨、
(1)
奉天票(漉免券)の暴落に閲する従来のとらえ方には二つの面で不十分なと
ころがあった。
第一に、奉天票暴落の指標が通常日本側の金票(朝鮮銀行券)百固との比債で表示された減債率として把握されてきた。
これは奉天票にとっては、通貨としての封外的債値を表わすとともに、
さらに金票の針金相場が前提されている黙で二重
の意味での封外債値表示であった。日本側からみれば、たとえ奉天票が事寅上の不換紙幣であり封外決済機能をもたない
(2)
「現地通貨」であるにせよ、東北特産大豆買附に匪倒的役割を果たす奉天票を金票とリンクせざるをえなかったのであ
-2-
る。しかし、奉天票の劉内債値(購買力)を考えるうえでは、
遼寧という地域における現大洋(銀元)との比債が無視されて
はならない。なぜなら、結果的には封外的針内的債値表示においていずれも紙幣インフレーションとして現われたとして
も、その基準はなお圏内銀系鋳貨に置くことが安嘗だからである。ただ、奉天票の針金票、封現大洋比債は、統計からみ
て一九三
O年半ば頃まではほぼ同率で相関しているのも事買であることから、本稿では針金票比債で奉天票の減債を論じ
ることとする。
次圃は、奉天票が暴落した劃期とされる一九二五年以降から張事良政権下までの針現大洋の減債傾向を如質に表わして
いる。この「歴年奉票債格曲線圃(一九二一よニO年どからみれば、二一年から二四年までの比較的安定期つ一元以下)から、
二五
1一一六年の滅債の激しくなった第一局面(二J六元)、
二七年牢ばの第二局面(一
O元前後)を経て、
二八年の第三局面
-
509
六一元
六O元五八元
五六元
五四元
五二元
五O元四八元
四六元
四四元
四二元
四O元三八元
ニ六元
一冗一冗一冗一冗
四二
O八
一一一一一一一一一一一
二六元
一冗元一冗一冗
四二
O八
一一一一一一一
一六元
一冗-冗一一ん
四二
O
一
一
一
〔第 1表〕 歴年奉票債格曲線園
民園ーO年至一九年 (1921-1930)
J¥フE
六元
四元
_7C
-0年一一年一二年一三年一四年一五年一六年一七年一八年一九年(1921) (1922) (1923) (1924) (1925) (1926) (1927) (1928) (1929) (1930)
- 3ー
-
一八億元
一七億元
一六億元
一五倍、元
一四億、元
一冗億一一一
一二億元
一冗也HU
-0億元
九億元
六億元
五億元
四億元
一冗立忌一一一
二1吉元
一倍、元
510
〔第2表〕 歴年奉票設行曲線園
民図一四年至一八年(l925~1929)
八億元
七億元
一四年(1925)
一五年(1926)
一七年(1928)
一八年(1929)
一六年(1927)
-4-
-
511
遼寧省物債指数表〔第 3表〕
(二01三O一否、二九年の最終局面(六O元前後)という経過をたどることができる。
この過程は、「歴年奉票護行曲線国会主よ一九年)」
都民率との相関関係を明瞭によみとりうる。また、
(3〉
率とも照臆していることに注目しておきたい。
に示された奉天票護行の堵
「遼寧省物債指数表」の物債上昇
奉天票暴落に闘する第二の不十分な黙は、
一九二九年段階最終局面における現大
洋一元に劃する奉天票六
O元(一
OO元に濁しては、六
0005前後の暴落の意味が
一九二八年六月以降の
十分には明らかにされてこなかったことにある。すなわち、
張事良政権の成立、同年一一一月末の易峨による南京園民政府との合流などの政治的
地殻襲動を前提とした地方的金融幣制政策の展開が、この暴落とどのように閥連づ
- 5一
けられるのかということである。二九年六月二五日、遼寧省政府は現大洋一元を奉
天票(奉大洋票)五
O元〈奉小洋票換算では六
O元)とする法定相場を設定したが、
そ
の後の一年を通じて奉天票の劃現大洋比債は、ほぼ法定債格と接近〈最高五六元、最
低六二元〉した範圏での襲動を示していた。衣表は、奉天票の封現大洋(一
OO元)
〈
4)
比債と、奉天票の針金票(百園〉比債を示す。
奉天票針金票比債は二九年六月以降もかなりの低落傾向をみせるのに封し、封現
大洋比債は法債との比較的安定的関係を維持している。
これは遼寧(藩陽)におけ
る市中相場の相劃的安定と、調外債値嬰動との事離を意味しており、遼寧地域社曾
経済の濁自な空間分析の必要性を示している。従来は、奉天票の針金票比債を基準
とした減債傾向が二九年後半期以降も持績していることから、東北地域経済は遁貨
-
512
〔第4表〕 奉天票の交換比率(毎月中値一箇月卒均)
針現大洋100元 釘金票100困 !t現大洋100元 針金票100困
1928年l月 2,073.66元 2,032.00元 1930年l月 6,030.00元 8,300.00元
2 2,833.33元 2,882.57元 2 5,995.00元 8,270.00元
3 2,409.00元 2,520.00元 3 6,015.00元 8,630.00元
4 2,600.41元 2,604.81元 4 6,030.00元 8,822.36元
5 2,761. 73元 2,630.35元 5 6,032.50元 9,865.00元
6 2,550.69元 2,380.43元 6 6,050.00元 11,306.52元
7 2,138.26元 2,070.00元 7 6,056.50元 11,280.92元
8 2,276.61元 2, 162. 11元 8 6,043.20元 10,723.40元
9 依 除 9 6,048.33元 10,602.30元
10 2,534.52元 2,529.04元 10 6,041. 59元 10,699.45元
11 2,762.50元 2,751. 33元 11 本6,017.76元 10,579.83元|
12 2,818.15元 2,816.33元 12 *6,006.20元 11,448.16元
! 1929年1月 2,800.43元 2,755.77元 1931年1月 本6,019.46元 13,142.50元2 2,989.33元 2,927.00元 2 *6,043.94元 14,311. 58元
3 3,652.24元 3,644.00元 3 牢6,055.74元 13,627.40元
4 4,629.00元 4,635.45元 4 牢6,098.83元 13,488.33元
5 5,388.40元 5,423.43元 5 * 6,181. 29元 14,113.87元
6 6,130.24元 6,578.57元 6 牢6,353.33元 14,747.22元
7 6,172.66元 6,650.92元 7 牢6,361.29元 14,116.45元
8 6,089.25元 7,006.11元 8 *6,220.96元 14,326.45元
9 5,885.00元 6,475.00元 9 *6,208.09元 14,063.33元
10 5,982.17元 7,231. 51元 10 本6,589.03元 14,742.09元
11 5,969.00元 7,170.95元 11 *6,174.16元 11,554.00元
12 6,025.00元 7,590.00元
出典:1928年 1 月~193C年 6 月「奉天経済旬報」月末貨幣相場表による。
1930年 7 月 ~1931年11月 「奉天商工月報」月末貨幣相場表による。
*なお, 1930年11月以降は,針現大洋菓100元についての奉天票債格である。
また,註(66),第6表を参照。
- 6ー
-
的側面において「素範」し、地域経済も大きな撹範を蒙ってきたとされた。しかし、奉天票の劃内債値指標の相劃的安定
性と、それを基盤にした新たな基軸的通貨「現大洋票」護行の篠件形成に着目するなら、二八年一二月二九日の易職後の
新たな地方的金融幣制改革の胎動に注目する必要がある。
ここではそうした幣制(通貨)改革の意味を次の三貼からとらえておきたい。
一般的に二
O世紀に入ってからの中園に
一九三五年一一月三日の法幣改革聾明にあるとされ、その骨格は、
リ1ガ
ル
テ
γ〆1
一九三三年鹿雨改元以来の銀貨本位制を放棄し、紙幣を法貨とする。
紙幣護行擢を政府系銀行に集中する。
外園鋳替によって債値維持を園る。
(5)
とする貼にあった。もちろん、それぞれの傑件が不均等に成熟する過程も含めて幣制改革の一環として位置づける必要が
ある。したがって、幣制改革とは、第一に逼貨の統一、第二に通貨債値の安定がなんらかの基礎をもつこと、第三に中央
(6)
金融機関の組織化がなされることの三僚件の歴史的形成史にほかならない。
おける幣制改革の到達黙は、
(3) (2) (1)
- 7ー
以下、張作震後の園民政府地方政権下における奉天票暴落の買態と、奉天票整理遁程が、地方的幣制改革の一環として
の免換券「現大洋票」の、浸透とどのように関連しあっていたかについて分析を加えたい。
張作震後の奉天票
1
奉天票暴落の第三局面||一九二八年春||
513
一九二七年六月一八日、張作震は前年二一月安圏軍縮司令就任以来の北京政権を再編成し、自ら陸海軍大元帥として中
華民国軍政府を組織、潜復を園務組理に任じた。他方、園民革命運動はすでに武漢政府と南京政府に分裂していたが、八
-
514
月に寧漢合作し、翌二八年初に蒋介石らは「第二次北伐」の封象として張作震北京政権の打倒をかかげ北上しはじめた。
張作震は「園民革命軍」との軍事封決のなかで守勢に置かれながら、北京政権を維持するための軍事的財政的支出をす
一九二八年蓄正月を迎えて、張作震は楊宇震を奉天に開らせ、劉向清省長や彰賢東三
(
7
)
省官銀披組掛に命じ
「軍政費三千世間元」を調達させた。その方法は、財政の暴力ともいうべき奉天票の増設であった。
(
8
)
この
ニュースが護端となり、浦餓附属地開東臨所轄の奉天取引所相場は、二七年一二月一日の針金票
一OO固が一
O九
ベて負捨しなければならなかった。
八元(封現大洋は一一
O七元)であったものが、
(9)
奉天票は約字分に減債した。時期的にも農作物の出廻り期にあたり、特産物購入のため東三省官銀競側も新紙幣を大量に
護行し、減債を促進する結果になった。
二八年一月七日には一九
OO元(封現大洋二
O五
O元〉と、
ほぼ二倍となり、
省政府側はこうしたなかで奉天票の債格維持政策を出さざるをえず、銭紗業者の投機禁止、帳簿検査、現大洋持出し禁
- 8 ー
止などの直接的金融取締の強化がなされ、他方では現大洋一元を奉小洋票(奉大洋票の二割増となる銅元票)
一六元とする公
(
日
)
定相場を設け、現大洋との先換に麿ずる措置をとった。しかし、紙幣インフレーションに伴う物債騰貴も甚しく、一月九
(日)
日の調査では、食糧口問四
Oパーセント、その他二七パーセント、組卒均三六パーセントの騰貴率を示した。この物債騰貴
は賃金生活者を直撃し、「細民殊
一一日労働者階級ノ生活ノ安定ヲ奪」う状況にあった。賃金を
「現大洋建」とする要求運動
(
ロ
〉
も組織されはじめた。奉天票建であるために貫質賃金の低下がもたらされ、
それを防止しようとする献労働争議も積鼓し
た。すでに二七年末から兵工廠では賃金の八割を現大洋で、二割を奉天票による支給としていたし、奉天紡紗廠などでも
(日)
現大洋建で奉天票市債に換算して支給していた。
奉天票はさらに一月一一一一日、四四
OO元に暴落し立曾い停止となった。特産品大豆の集散地織嶺では、小貫一商は「金票
(日本側朝鮮銀行券)モシクハ現洋貰」を要求し
(M)
たとすら言われていた。在奉天日本総領事館も、こうした事態につき「奉票ノ信用既
ニ地ニ落チ」
「奉天票
-一依ル販買ヲ拒絶シタリ
」と俸えられ
「奉票既
-一流通力ヲ失」'コ
「奉票ノ運命延テ三省
-
ノ素凱推察一一難カラス」とし、二七年一一月以来の逼化鯨大万舎の運動も「偶々三省窮民ノ一端ヲ現セルニ過キ」ずと報
告し、張作震が「中央政争ヲ事トシ居ル」朕況では「三省ハ内憂外患ノ巷ト化セサル無キヲ保シ難カラン」という危倶を
(日)
表明していた。
上ゲ」 従
来、奉天票増設ごとに出されてきた金融擾凱取締令は今回も「奉天省長公署訓令第七五競(一月一三日)」として護出
されたが、その中でも「一般一商人」の動向をとりあげて「奉票ノ行使ヲ拒絶シ、現大洋ヲ索用」する者多く、「物債ヲ引
(
日
)
「甚シキハ現大洋本位-一改メ」ょうとする傾向のあることを批判していた。そして二月一日附の省長公署の白話瞳
(ロ)
「大元帥張作震の識旨」を援用しつつ奉天票の減債防止の必要性を次のように強調した。
による布告第一競では、
の遁例であり「治奉以来十徐年」官銀競護行の涯免券(奉天票〉をもって自由に
取引し交易できるようにしてきた。しかし「近年一部好商ノ投機ト新聞ノ埋造記事一一踊ヒセラレテ、金融債値カ低落」し
第一に、紙幣の護行は東西の「富園」
」とを忘れてしまったのではないか。第二に、
一九一七年奉天票護行以来コニ省人民ノ心中ニハ、只タ奉票アッテ現洋ア
「公私財産亦奉票ヲ本位トセサルハナカγ
タ」のである。したがって「信用債値ハ依然トシテ存
- 9一
てきた。これは十数年前の現小洋票しかなくその免換問題で「市中恐怖ノ朕態」となった時、
涯党参を護行して救済した
ルヲ知ラナイ」朕態で、
在スルカラ、低落スヘキ理由ハナイ」。まさしく「唯一無二ノ紙幣」を使用することと、
にある。第三に、もし奉天票の「債格ヲ依復スルコトカ出来ナイ時ハ、本元帥ハ私産全部ヲ貰排γテ奉票ヲ措保スル」つ
もりである。あくまでも「奉票」に代わるべき紙幣はないとするものであった。
その「救済ノ責任ハ官民協力」
甚シグ」
この布告は、張作震の政治的権威をもって奉天票の減債防止を園ったものといいうるが、現賓の経済賦態は「萎鹿沈滞
「奉票ノ手持ヲ喜ハス、奉票一一依ル取引ヲ遅ケ、極力金票乃至現大洋建-一依ラムトスル傾向」にあ
った。したが
515
銭紗業者への抑塵策(帳簿検査、私服巡警などによる取締)、
って、寅際の省政府側の針策は、暴落緩和策として各一商戸の矯替取組の援大を認可すること、投機を園るものと判定した
(日)
金融維持策としての現大洋による奉天票の回放などであった。
-
516
それも日本側の観察では
「奉票ハ官憲ノ強匪命令ト張作震ノ劉省民警告ニ依リ辛フシテ其ノ流通ヲ保チ居ル」吠況にある
(川口
)
と認識されていた。奉天票暴落針策を非経済的手段と経済的手段に巨分するとすれば、
一方で強匪的に投機防止を寅施し
ザコずコ
他方で奉天票田牧資金(現大洋)の調達による市場の安定化という課題にとりくむ必要があった。
劉山間清省長らは
北京に赴き張作震との交渉のうえ、奉天票田牧のための三六
OO高元の借款と、年間所要軍費を九
000寓元に限定する
ことを決定した。
このニュースが傍えられるなかで、三月上旬の奉天票の針金票三
OOO元であったものが、中旬には二七
OO元、下旬
(
初
)
には二
OOO元と回復するにいたった。しかしながら、
「第二女北伐箪」の北上と奉天軍不利という政治的軍事的劣勢が
停えられ、
さらに五月一日済南が占領されるに及び、三日の奉天票は三一五八元の暴落を記録した。その後、
日本軍の出
兵介入と北伐の停頓、上海大連の銀高などで九日に
は二三二
O元となり、
(幻)
むしろ好感して二四
001二五
OO元蓋を保
っていた。
五月下旬の
「張ノ下野、奉軍ノ閥外撤退読」を
- 10-
四月二六日の省行政舎議では
「奉天票整理金融公債三
000寓元」の護行を決定し、各農戸には燃の税掲局を
(幻)
通じ、各一商戸には燃の一商務舎を通じた強制割嘗方式による募債を計重していた。とこ
ろが、これに封し、各牒農一商舎は強
く反射をとなえ、結局募債は見あわせることになった。奉天票回牧による減債の防止策という経済的手段すら寅施しえな
この問、
い朕況に置かれていたのである。ただこの頃、日本側でも官銀競が奉天票整理に
「現大洋票」を護行するとの情報を得て
(
お
)
いたことにも示されるように、奉天票を「唯一無二ノ紙幣」と考えるのではなく、新たな通貨護行による幣制改革論がひ
それは幣制改革論の一環に組
とつの選揮肢として意識されつつあったことは否定できない。事質、張作震の死後、九月、
みこまれることになる。
2
張作課後の奉天票と新たな金融幣制改革論
-
一九二八年六月四日未明、張作震は奉天への鯖路、聞東軍による満戴鍛橋爆破によって重傷を負い死亡するが、この事
買は張事良の蹄奉まで伏せられ、
二一日に公表された。
奉天票の針金票相場は
六月二日、
二二八八元まで回復して張作震の北京引揚げを歓迎していた。
四日の
「遭難惨死
読」を受けて
三五
O元の下落で
二六二七元となった。以後、
一九日には二三
OO元とな
った。これは、東北地域の「時局安定議想」
(M)
に刺戟されたものであった。張作寡爆殺事件の経済界に興えた影響は、
「生存読」によって
二五
OO元蓋を保ち、張間字良蹄奉の翌日
「停戦(保境安民政策)
ニ依ル課税軽減議測」など
等ノ反響ナク」といわれ、
「一般ニ
議期シ居タル関係モアリ、目下財界
ニ何
(
お
)
「一般一面況順調
ニ進展シ居レリ」という朕況であった。
七月二二日に護表された東三省保安組司令部の「東三省施政方針」には、貨幣制度の統一がうたわれ、
省財政金融整理方針が提起された。第
一に奉天票の整理、第二に物債抑制、第三に煙酒税などの軽減、第四に軍費の省庫
管理、第五に南北安協には民一一意を参酌すること、などが主な内容であった。
一八日には東
洋本位」の銀元券を護行、
とくに、奉天票の整理には省公債を回牧資金とし、東三省官銀読を三省の中央銀行に改組、三省の紙幣を統一し「現大
(お)
その免換準備に張作震の遺産五
OO寓元(一
OOO蔦元読一もあり)をあてることが致定された。
-11ー
こうした政策方針はあきらかに、張問学良政権として新たに出護した東北地域擢力がその政治的経済的基盤を再構築するう
えで不可歓のものであった。
一O寓人の軍縮を寅施し軍費五
OO寓元を節減するという方針などは、明瞭に張作霧時代と
の違いを地域社舎、地域経済にアピールしようとしたものといえる。張作粟死後の地域政治安定化にとって、軍縮と財政
金融政策の安定はその第一歩であった。その意味で、奉天票の回牧と中央銀行構想は新たな幣制政策の方向性を含むもの
であった。
517
奉天票相場は比較的安定的に経緯し七月はほぼ二
OOO元蓋の水準を維持していたが、八月
・九月にかけては「直魯軍
整理読」による張宗昌の反範憶測やホロンバイル事件による奉天軍出動設などの政治材料による下落が撞き、九月三日に
-
518
(幻)
は二六四五元にまでなった。
こうした事態に劃する「奉票維持」政策は、従来からの非経済的手段による民間銭紗・糧桟業者への「高座的取締」が
中心となっていた。それは投機業者が奉天票下落の元凶であるとする認識であり、「不良好一商」への警察力による取締と
(
お
)
逮捕がその手段であった。すでに七月一八日の財政金融整理方針が端緒的であるにせよ金融幣制改革論を出していたが、
現買にはなお強硬な非経済的手段による金融維持論が大きな役割を果していた。
したがって、九月六日附の張撃良保安綿司令や翠文選奉天省長、李友蘭官銀競穂悌らによる金融政策は二つの相異なる
レベルの方針を同時に出さざるをえなかったのである。
まず非経済的手段としての「不法行矯者ノ検奉」を強化すること
によって市場秩序の維持を園りつつ、今後の金融幣制方針として「金融統一ヲ計ル震メ:::税金牧盆ヲ以テ、現大洋制ノ
(
却
)
準備金トシテ預金」することを表明したのである。奉天票暴落に劃する相異なるレベルの方針という黙では、後者は将来
に属す経済的手段であって、
たとえ「現大洋制」を施くとしても目前の市場安定化のためには十分な役割を果しえないも
- 12ー
のであった。
しかしながら、経済的手段による市場安定化の方向はしだいに明確になりつつあった。九月段階にあって、
翠文選省長
(
ω
)
を委員長とし張振鷺財政臆長を副委員長とする金融協済舎が組織され、その他財政監査委員舎も設立されていた。奉天穂
(紅〉
一商舎に設置された「卒債委員舎」は物債安定のための公定債格を設定し積極的な活動を展開していた。特産品大豆の出廻
を前にして嘗局側は、奉天票暴落を「取引所-一於ケル先物責買ニ起因スルモノ」として取締りを強化していたが、張作帯林
(幻)
時代のような「逮捕銃殺」ではない法律規定にもとづく「財産設牧」を考慮中であるといわれていた。
さらに、張事良の金融幣制方針として停えられた情報によれば、
かれは「現大洋票ヲ護行シテ東三省全部ニ流通セシム
(お)
「将来奉票債値維持困難ノ場合、右現大洋票ヲ以テ暴落セル奉票ヲ回牧スル」致定である、と。もしこれが
ル計童」で、
事責であれば、これほど明確な、流通手段としての奉天票の機能喪失に劃する代替案はなかったといえよう。そしてどう
-
やらこの代替案は事買に近いものであった。李友蘭官銀競総緋や中園・交、通商銀行首脳らは「銀行圏名
義」で「現大洋紙幣」の護行を要請していた。一二月一一一日の翠文選省長召集の金融維持舎議では、「現大洋本位」への移
行と奉天票護行停止、東三省官銀競による「現大洋票」の護行と奉天票の回枚、現大洋票二克は現大洋一元に免換するこ
(斜)
とが決議された。
一一月に入り、
一二月一一一一一目、張事良保安組司令は遺業・中園・交通・東北・買業の各銀行長や、保安綿司令部軍需慮慮長から着任し
た魯穆庭官銀競綿掛、韓麟生舎耕、張振鷺財政醸長らを召集し次のような決定をおこなった。すなわち、遁業銀行の蹟充
を園るため奉天省庫より一
000高元、東三省官銀競より二
000高元、中園・交通商銀行より二
000高元、合計五
0
00高元を調達し、そのうち三
000寓元と遺業銀行の現大洋紙幣四
000高元で、一九二九年七月一日までに奉天票を
〈
お
〉
すべて回牧する、と。あきらかに九月以来の構想の具瞳化であり、遺業銀行主導のもとでの「現洋紙幣」震行による奉天
票回牧論にほかならない。時あたかも、易峨一週間前の幣制改革方針の樹立であった。
この聞の奉天票相場は、
一一月中旬に三
OOO元蓋に突入したが、これは例年の官銀競による特産物大量購入を背景と
- 13ー
しており、やはりなお奉天票増設によって支えられていたものであった。一二月に入ると「現大洋裂行ニ依ル奉票田牧
読」を好材料にして漸騰し、月初二七
OO元蓋となった。下旬には三
OOO元蓋となったが、二九日の「奉天域内青天白
(鉛)
日旗ノ掲揚一一人気引立チ」一一八一五元まで引きもどしていた。
このように、易峨とほぼ同時期に現大洋票護行が幣制改革論の重要な一環として提起されていた。これは、一九二八年
春の奉天票暴落第三局面期の現大洋票護行論と比較して、その現貫性はきわめて大きくなっていたといえよう。新任の魯
穆庭官銀競線掛は、張撃良宛に「東三省財政整理案」を提議し、東三省官銀披の中央銀行化、漸衣現大洋を本位制とし、
奉天票八億元を回牧し、
東三省の幣制を奉天現大洋票と恰爾演大洋票(恰大洋票〉の二種類とする本格的な幣制改革構想
519
をうち出していた。そしてすでにアメリカの紗票公司に現大洋票三
000寓元の印刷を注文し、最初は約五
OO高元を設
-
520
(幻)
行する議定であると俸えられた。
日本側はこうした改革構想そのものを問題とすることなく、官銀競がなお奉天票増援による「特産物買占」を寅施して
いるのだから
来春には
「例年ノ如ク奉百台
市場ニ掃キ出サ
ルルヲ以テ、
奉票の前途ハ決シテ安定ノ地位ニ置カサ
ルへ
のシ新」
たとない胎う動側を面見に出のしみえ注な意いをで集い中た38し"'-'て
し、
た
つまり、奉天票暴落に眼を奪われ、同時に進行しつつあった幣制改革的側面
3
易職後の奉天票暴落最終局面と「現大洋建」
への移行||一九二九年春
|
|
易峨から二週間後、
ていた。たしかに奉天票相場は常に「時局」に左右されてきた歴史をもっ。とこ
ろが、張作震死亡時と同様「一該事件ノ影
一九二九年一月一
O目、張事良は楊字震・常蔭視を暗殺した。楊宇震らは易峨に反射の立場をとっ
響トシテ見ルヘキ程ノモノナシ」とされ、むしろ、
(鈎)
ていた。
「楊ノ死去
ニ依リ政府顛覆陰謀ノ繭根一掃セラレタリトノ感」を興え
-14ー
二月の奉天票相場は例年のごとく、蓄暦年末決済の金融難や「奥地方面-一於ケル官銀競筋ノ特産買占」のため漸落歩調
をたどり、月末には三三
OO元蓋となった。
月に入りなお下落し、加えて官銀披の新票(五O元、
一OO元)護行を機に
下旬には四
OOO元蓋を突破した。特産買占用の奉天票増設は、
六高四千トン、奉票約五億元(金票一二六O寓園)」
たとえば開原で
二八年一一月以降「漏識貨車八千車、
二
(紛〉
にのぼるといわれていた。
どうやら、二九年春にかけての奉天票暴落は一年前の事態と同じようにみえる。現象的にはむしろ奉天票の減債は深刻
化して
いた。開原と公主嶺で合計九七
OO草分の大豆債格は、奉天票で約九億二一
五O寓元であったが、四月上旬までに
嘗一該地向現迭のための奉天騨受附官銀競申告額は七億一
000高元となっており、おそらく
「奥地仕向奉票ハ優
ニ、
二O
日本側のある観察者は、中園側が奉天票の濫援による「奉票市債ノ暴落ヲ待
億二達スルモノト想像セラル」といわれた。
-
チ、現洋票ヲ護行シテ奮票ヲ回牧スルコト」を企画しているのではないかと鋭い推測をしていたが、もしそうなっても
「現洋票」は「結局ハ奉票ト同
一運命ニ陥ルヘキモノ」とみなす立場にとどまるものであった。奉天票の下落は封現大洋
(HU)
四月には三
O元となっていた。
法定相場にも反映して、二九年一月に現大洋一元H奉天票二六元であったのが、
昨年よりも大規模な奉天票暴落に劃し、
溶陽(二月以降奉天を改稽)
の綿一商舎は三月一一日、翠文選遼寧省長に面談し、
紙幣護行停止や官銀競による現洋、穀類買占の禁止を要請した。物債騰貴を原因とする「巡警の増俸運
動、小資本銭舗ノ倒産等積出」をどう救済するかという貼では、組一商舎として一商民救済崩法を考慮し、かっ、「嘗局ニ封
(
必
)
シ奉票根本的整理ノ請願ヲナス」としていた。
招請一舎は四月四日、「喬一品建値を今後大洋建に改め、奉天票に換算して買買することを決議し、停知事に申請した慮認
可を得たので、直に賀行することとなった」。一商入居がすでに「現大洋叉ハ小洋銭ヲ木位トシテ取引ヲ篤
金票、
さらに、
これは事貫上、
シL
嘗然のことながら「俸給生活者」は轄嫁すべき
四月一五日以降は「省財政
- 15一
奉天票下落の「直接蒙ムル打撃ハ比較的少キ」ことを示している。
方法をもたず、すべての影響を蒙ることになった。省庫すらその保管金の減少に封醸すベく、
(円切〉
も現洋本位に改める」方針を出していた。
みたところ、奉天票の減債はその臨界朕態に到達しつつあった。もはや奉天票は全通貨流通空聞における主要な流通手
段機能すら喪失し、事質上の現大洋建がゆきわたるなかで、代替逼貨の出現篠件が成熟しつつあったのである。
ここで留意すべきは、二九年段階の奉天票暴落の政治環-境であり、
一年前の張作震時代との異なる貼である。
すなわ
ち、二八年一二月末の易職という政治的大慶動を契機に、従来まで相射的濁自性を保持していた東北地域政治が園民政府
「早晩園民政府ハ全圏流通ノ統一新紙幣ヲ護行スルニ至ルヘキ」こととして受けとめられ
の地方政府に轄化したことは、
(必)
ていた。これが、現大洋建を促進するひとつの傑件となっていた。また、三月一一一一日、遼寧省主席は園民政府財政部長宋
子文からの次のような電報を接受していた。それは、遼寧省財政の窮乏原因を
「奉票ノ素観一一アル」と指摘しつつ、同時
521
-
522
に「日本側カ遼寧省-一設置シタル朝鮮銀行、
正隆銀行、正金銀行等カ任意ニ紙幣ヲ設行シ、直接日本側ノ商業ヲ横張シ、
該園ノ人民ヲ扶助シ、間接-一我カ園ノ金融ノ命服ヲ奪フ」賦況にあることを強調し、
そうしたなかで「我方ノ金融素凱シ
物債騰貴シ民生凋落スル」に
いたったと結論づけた。そして、
日本側の「銀行護行ノ紙幣ノ額、貸出ノ額、管業朕況」に
(
必
)
っき「至急明細ニ調査シ表ヲ作製シテ報告」するよう指示していた。あきらかに、園民政府側の民族主義的認識とその施
策が展開しており、金融問題においても「通貨護行主権」にかかわる課題として、東北地域の事態そ把握していたといえ
ょう。かくして、遼寧側の封日認識とその行動も、
上述のような枠組と共鳴しつつ展開をとげることになる。奉天票暴落
の重要な原因に民族的契機が位置づけられることによって、二八年春の段階とは異なる政治的磁場が形成されていた。こ
れは遼寧における幣制改革の進展とも密接に関連することになる。
奉天票相場は、
立合停止、その後五月下旬は五八
OO元蓋にまでなった。税損局の公定換算卒、現大洋一元H
奉天票三六元説が出るに及
びさらに減債に拍車がかかった。事賀、四月一
O日以降は官銀競買出し債格は現大洋一元につき奉天票四四元となってい
(必)
た。奉天票は、基軸的通貨として暴落の最終局面を呈しつつあった。
「手持奉票ノ金票又ハ現大洋乗替、買附盆激増」という事態のもとで、
四月一一日、
五一
OO元となり
- 16ー
「遼寧省城四行競聯合準備庫」と「現大洋票」
1
奉天票における「紙幣滅債の逆説数果(チュロl
ニ数果〉」
ここで奉天票暴落現象を第一衣大戦後のドイツ
・マルクと比較しておこう。
ドイツでは一九二三年
一一
月一五日、
五OO金マルク謹券に免換できるレンテン
・マルクを護行し、
その安定的遁貨と
しての信認を得てから、
二四年夏、
ライヒス・マルク(新マルク〉を護行、
従来の一兆マルクを一新マルクに換算、劇的
-
にハイパー・インフレーションは終駕をとげた。この過程を分析した
C・B-チュロlニ
2SEEspan-自由、吋50回
目)
は、インフレが進行すればするほど紙幣を金あるいは金と免換可能な貨幣に切り換えることがいっそう容易になるという
(
幻
)
「紙幣減債の逆説殺果」があることを解明した。
貨幣的現象としての共通性から奉天票のギャロッピング・インフレーション(ハイパー・インフレーション〉をみると、一
九二九年春の段階における展開は、もはや遁貨としての債値尺度機能、支排手段機能はもとより、流通手段機能すらも喪
失し、奉天票の名目的先換劃象としての現大洋(銀元)建値か、あるいは植民地銀行としての朝鮮銀行券(金票〉にとって
かわられ、とくに流通手段機能は奉天票に代わる何らかの通貨が期待されていた。
つまり、暴落以前の原債にもどすので
はなく、新たな別の貨幣に切り換える可能性が増大し、その篠件が成熟しつつあった。
奉天票そのものは、
一九一七年以来涯免券と呼ばれた封天津・上海矯替免換を保障された紙幣であったが、寅際はきわ
した。
いわば圏家紙幣に準じた性格を興えられていた。その貼で奉天票は、本質的には「園家」
(東三省地域権力〉の財政
- 17ー
めて制限されたもので、事質上の不換紙幣として遼寧一帯に強制通用力をもたせられ、専一向に流通する遁貨として出議
的要求に麿じた過剰護行を運命づけられていたといいうるし、あるいはまた、一定の地域内のみの流通手段機能しか保持
しえない紙幣として、関外的・封地域開決済機能はなかったといえる。張作震が奉天票を東北遼寧の「唯一無一一」の通貨
であるとして、その債格維持を強調していたのも、権力によって措保されない限り、その域内流通手段機能すらも維持し
えない現賓の反映であった。
したがって、強制通用力を輿えられた園家紙幣は法定支梯手段(法貨、-om包芯口伝円〉でもあった。通貨嘗局は、通貨供
給量が免換準備量から切り離されている限り、政策的操作の劃象として自らの意思で供給量を決定しうる。もちろん、寅
瞳経減円からの反作用を受けるのは嘗然であり、その政策的恋意がある臨界貼を超えた時、
それは全世舎の構造的危機をも
523
生みだす可能性がある。
-
524
しかし他方、この現買を通貨檀制の維持運営という貼からみれば、「管理通貨システム」的特徴をもたざるをえなくな
っている。なぜなら、
「園家」として通貨を現買の経済質態と照躍させなければならず、その操作メカニズム修得への接
近が不可避的に蓄積されるからである。これは、同時代の中園の他地域における秤量貨幣としての銀南制度や鋳貨として
の銀元制度、あるいは銅元制度とは異なる性格を有していたといえよう。すなわち、東北地域では、
銀南や銀元制度が十
分に形成されうるだけの蓄積がなされていなかった現質、換言すれば民開信用経済システムの未成熟さと関連するもので
(必)
あった。まさにその未熟さを利用し
つつ、それに代位する通貨支配権を掌握し、ある程度の免換性を前提とした紙幣を普
及させたのが、辛亥革命を契機に軍事力と世界商品大豆を背景として急成長した地域権力にほかならない。
このような地域権力としての張作震政権が急成長しえたのも、二
O世紀初頭期以来、いわば一奉に世界市場とリンクさ
(
州
日
)
れた東北の大豆経済をその財政的基盤に組みこむことができたからである。大豆生産高は
一九二四年の三四五寓トンから
二五年に四
一七寓トンに増大し、一
一六年は四七八高トン、その後二九年までは四八
O寓トン蓋であったが、
三O年には五
〈印〉
三O寓トンになっていた。六年聞に約二OO高トンの増加であった。この大豆経済という質瞳経済の基盤の上に、地域権
力による政治的怒意が護動されていたのであり、貫櫨経済の弾力性がその恋一意を支えていたことを忘れるべきではない。
- 18ー
その弾力性の範囲内で農民に劃する苛酷な奉天票による貨幣的牧奪構造も保障されていたのである。大連商工舎議所の
一
九二八年初の調査によれば、奉天票などの不換紙幣による官一商筋の特産大豆買占量は、大連に搬出される二三
O寓トン
の
うち約六割で、
一三八寓トンであったという。嘗時の現大洋で
一億三八OO高元になる。
東北四行披(東三省官銀説、士口林
永衡官銀鋭、黒龍江官銀抗、遺業銀行)による農産品買上げ綿額は現大洋で
二億元以上といわれ、
(
日
)
分を占めていたともされる。
東北地域の縮生産量の約牟
奉天票暴落の最終局面にいたる数年聞は、こ
の大豆経済の膨脹がそれを世界市場に媒介すべき遁貨システムの許容量を
超えつつあった段階といえるだろう。逆にいえば、東北地域における賓瞳経済の穂瞳が、逼貨システムの襲更を含む新た
-
な政治的経済的再編成を迫っていたのである。奉天票の暴落と新たな通貨の出現はその表われであった。
2
「遼寧省域四行競聯合準備庫暫行章程」||一九二九年五月一五日||
チ品ロ
lニのいう「紙幣減債の逆説教果」は、二九年春から作用しはじめたとすることができる。この頃、東三省官銀
披開原分競の職員の言として、「奉票ノ信用ハ極度-一失墜シ、省財政ノ前途ニ多大ノ不安ヲ感セシムルニ至リシヲ以テ、
局ハ併蘭西革命後幣制改革ノ故智ニ倣ヒ、官銀、遺業、交通、中園ノ四行聯合準備庫ヲ設ケ、現洋票ノ護行ニヨリ、既設
(臼〉
ノ奉天票ヲ回牧スヘク計重中」と停えられた。
準備庫制度は、東三省官銀競副経理張耀宗が欧米覗察時にアメリカで見聞した連邦準備制度
qER曲目何冊目白話ど苦
F
一九一一一一年〉を参考にしつつ、かっ天津での盟業・中南・金城・大陸の四銀行園による聯合準備制度の運用経験をふまえ、
嘗時の官銀競組掛李友蘭に建議していた。その後、二九年春にかけて財政鹿長張振鷺らがその方針を推進し、遼寧にも官
(臼〉
銀競を中心とした準備庫の創設を園ることになった。
- 19ー
五月一五日の四行競による公告は「市面の需要に雁じ、金融を調和し護行を慎重にして免換券の信用を保持」するた
め、「聯合準備庫を組織し、現大洋票を護行」するとして、五月一七日より開業することになった。準備庫の監理官には
翠文選省長が省政府の委嘱を承けて就任した。五月
一五日附の「遼寧省城四行競聯合護行準備庫暫行一章一程」によれば、準
備庫は免換券護行と印刷、党換業務、準備金の保管業務のみをおこない、官銀競のような附属営業事業を粂ねることがで
きないものとされた。また、準備金は七割を現銀準備(銀塊、元賓銀、銀雨、銀元など〉とし、三割を有債謹此少などと規定さ
れた。党換券は、現大洋と同債値で通用し準備庫において無制限党換に鹿じる。準備庫護行の免換紙幣は暫時漫業銀行の
(
日
〉
銀行券を使用し、聯合設行準備庫名を記載するものとする。党換準備は定期的に検査を行ない公表される。
準備庫護行の現大洋票は、港業銀行券に聯合設行準備庫の記競を押捺したものであったが、五月末から市場に出廻りは
525
-
526
護行蓋帳および準備金の第一次検査がなされた。
し、準備金は造業銀行所有現銀一四
O寓元、藩海鍛路政記公司株式など有債謹券約六
O高元ということで、七割三割の比
率を保持していた。首初、現大洋票は現大洋に射し
一OO元につきニ
1=一元の聞きがあったが、蛍局の介入で同
一とさせ
(お)
られている。質際には一元ぐらいの打歩がつく賦況にあったという。
じめた。現大洋票の信用維持のため六月末には
護行二
OO寓元に封
現大洋票の瑳行にあたって、党換準備比率を巌格に規定し、
その定期検査を貫施公表することは、新規護行先換券の信
用維持にとって不可依の課題であった。なぜなら、漉免券であった奉天票とは異なるものとして印象づけ、
そこから現大
洋票に劃する信認を得る必要があったからである。
ところで、奉天票が六月五日に針金票一
OO圏につき六一三五元を記録した翌日の金融維持舎は、惨落原因に言及した
ときはじめて日本側通信の「時局宣停ニ起因スルモノ多シ」という判断を興えた。同時に、
「東三省各地-一流通スル朝鮮
- 20ー
銀行紙幣(金票)ハ奉大洋ト何等兵ナルナシ、唯園ノ強弱ニ依リ差アルノミ、由来鮮銀紙幣ハ信用アルモ日本内地ニハ紹劃
通用セス、此閲ノ事情ハ我園人知一フサルヲ以テ鮮銀紙幣ヲ金貨ノ如ク牧受ス、将来鮮銀ノ内容ヲ宜俸シ一般奉票ノ債値ヲ
快復ス」という「鮮銀券針策ハ始メテノコトナリ」とされるような、奉天票債値維持に関連する新たな針日政策を提起し
(
日
)
ていた。おそらく、日本側の東北での通貨政策とその現買を明らかにすることによって、
「通貨渡行主権」問題を通して
民族主義的意識の高揚と結集を企圃していたと考えられる。また、六月上旬の張皐良東北港防軍組司令と程文選省主席の
布告にも
「遼寧四行準備庫ヲ設置シ、
豊富ナル準備金ヲ用意シ、
現大洋票ヲ護行シ、
信用ナキ外省紙幣ヲ省城ヨリ騒逐
ヲシ
断
と烹と芸指融摘ノし安て固し、ーヲ
た5プ計。)リ
一面現大洋ノ出境ヲ禁止シ、
且金融ヲ素観セル好商ヲ軍警南官署ヲシテ巌査逮捕シ其ノ踊根
さて同じ布告文中で注目すべき文言は、
「聯合準備康ヲシテ現大洋紙幣ヲ褒行セシメタリト難モ、奉富士奉票トシテ存
置流通セシメ、現洋制度ニ改ムルモノニ非ズ」という箇所である。
つまり、奉天票は慶止するのではなく、
現大洋票と並
-
存させるという方針を明示している。これはすでに明瞭なものとなりつつあるように、奉天票自瞳が「補助貨幣」化した
もとでその流通空聞を承認することでもあり、従来の奉天票がっくりあげていた基軸的遁貨としての流通空聞を現大洋票
に譲り渡す温度的段階を意味していたのである。
ここに、嘗時の遼寧幣制改革をめぐる次元の異なる二つの政策論理が示されていた。すなわち、封現大洋でも、罰金票
「紙幣減債の逆説数果」を利用した新党換紙幣現大洋票の護
行による基軸通貨の再編というこつの政策課題である。この二つの論理とその政策化過程が交錯しつつ展開したのが、一
九二九年六月以降の現賞であった。嘗時日本側が「現大洋票ノ護行ハ、奉票相場釣上策ナリ」と判断して、奉天票維持の
でも暴落している奉天票の債値維持およびその整理問題と、
ための手段としてのみ現大洋票の護行をとらえていたのは、遼寧における本位通貨の交替の現質的可能性、
つまり免換券
としての現大洋票の浸透による通貨統一という幣制改革への重要な第一歩を見失うものであった。
3
現大洋票の護行と奉天票の並存||幣制改革からみた二重政策lli
- 21ー
現大洋票の護行がただちに奉天票に代位したのではない。
かなりの期間並存するのは嘗然のことであった。
ハ月七日、翠文選省長は金融維持舎議において、
「奉票ヲ以テ金融ノ本位トナス」
「奉小洋〔銅元票〕
四人元ヲ以テ現
洋一元トナス」
「取引ハ奉票ヲ標準トシ、金票、現洋建貨物購入ノトキハ支排勘定相場ヲトルヘシ」
(回〉
ノE額ノ現洋手持ヲ禁止ス」などの一一一項目にわたる方針をとりきめた。この内容は、奉天票を「金融ノ本位」とか「取
「現洋ノ出境及一商民
引ノ標準」とすることに示されるように、今までの奉天票の本位遁貨としての地位が一一挙になくなるのではないことを強
調するものであった。また、賞際にはなお事質上の補助遁貨として銅元票が流通していたわけで、六月段階にあって、奉
天票はその暴落にもかかわらず、贋範な社命面的基盤を保持していたとすべきであろう。
527
したがって嘗然のことながら
従来どおり奉天票の暴落を阻止すベく各一商戸(銭紗業者〉に巡警を配置し、
「巌重ナル
-
528
監視」を貫施し、
(印)
「金票トノ交換ヲ禁止」する措置がとられることになる。新たに現大洋票を護行したもとで、なおこう
した非経済的な強匪政策がとられる理由は、現大洋票が護行されたばかりの段階で本位通貨としての機能をもちえない朕
況にあったことを反映したものといえよう。
管理及現金出境禁止章程」
まず第一に、四行続準備庫成立後は、
他方、新党換券現大洋票の浸透を促進するための針策も準備されつつあった。六月一八日の省政府布告「遼寧省域金融
(印)
(財政廓長張振鷺の各豚政府軍警機関宛)はその重要な一環であった。
「爾徐ノ外埠銀行設行ノ免換紙幣ハ即時回牧スヘク、市面ニ流逼ヲ許サス」と
し、遼寧における護行券の一元化を圃ろうとしていた。
除する意向を表明していたのである。
日本側金票や渚陽における中園・交通商銀行の現大洋票などを排
第二に、逼貨護行擢をもっ銀行競が「現洋紙幣ヲ護行セントスルトキハ、均シク準備庫三加入スヘク、皐濁-一護行スル
- 22ー
「但シ造業銀行ノ既設現洋紙幣ハ此ノ限リニ在ラス」と例外規定を興えていた。遼寧におけ
る通貨渡行権を準備庫に一元化しようとする方針にもかかわらず、張作用林以来の張家の機関銀行と稿された溢業銀行の役
ヲ得ス」と規定したうえで、
割を特例として承認していた。
従来、この例外規定の評債をめぐっては次のようにとらえられてきた。
すなわち、
一カ月前の五月一七日に成立した
「準備庫暫行-章程」にいう、すべては準備庫を通して遁貨が護行されるという原則が、例外規定によって「準備庫成立の
(
臼
)
意義は著しく減じた」とするものであった。この評債は、すでに同時代的分析にもあり、
「遣業銀行、事賃上ノ脱退ハ更
「準備庫成立後約一箇月徐りにして
(位)
有名無買のものとなり、各行勝手の行動〔それぞれが現大洋票を護行〕を矯してゐる」とされていた。ごく最近の分析で
一一本制度ノ債値ヲ渡却ス」
「聯合準備庫ハ東三省官銀挽ノ塊儲ナリ」といわれたり
も、東三省官銀坑を除く三銀行の準備庫に劃する消極的態度と、東三省官銀競自身の信用確保のために準備庫を利用した
経緯から、
一九三
O年後牢から「準備庫の存在は次第に有名無賓となっていった」とし、貫際、一一一一年中頃には遼寧省金
-
(
臼
)
融管理委員舎が省政府に準備庫の閉鎖を申請していたことをもって、その有名無賓の謹左としている。
しかし、準備庫がたとえ官銀競の奉天票濫護による信用失墜をカ今ラージュし、準備庫としての統合的機能〈共同信
用機能〉が護揮されていなかったとしても、数年後にその閉鎖がいわれたとしても、奉天票に代位する免換紙幣が
また、
遼寧の四行競金融機関によって統合護行されたことの幣制改革上の意味は減じないであろう。
(臼)
「幣制統二万成という覗貼から行なわれたものではなかった」にしても、準備庫内の各銀行競が「勝手の行動」をとった
にしても、それと、上越の紙幣インフレーションを終束させる現質的可能性をもち、奉天票に代位しつつあった現大洋票
が、遼寧地域社舎でしだいに流通手段としての信認を損大させていったこととは直別される必要がある。この過程を幣制
統一への前提篠件として位置づけることが重要であろう。通貨の統一という意味での共同信用機構を準備庫にのみ求める
あるいは、
準備庫設立が
評債は、この歴史的段階における準備庫設立の劃期性を見失うことになると思われる。特権的な護券銀行が複数存在する
ことはこの段階にあってはむしろ嘗然であり、政治勢力がそれぞれに結びついていたのである。この貼は、一九三五年一
一月の園民政府による幣制改革にあっても中央・中園・交通各銀行が「法幣護行擢」をもっという非一元的性格を刻印さ
〈問山)
れていたにもかかわらず、幣制改革の劃期黙であることの評債は饗わらないのと同じである。
- 23ー
衣表に示されるごとく一九三
O年七月以降、現大洋債格に換算した奉天票流通綿額は、現大洋票の糟額を下まわる傾向
をみせ、奉天票は事買上補助通貨化し、現大洋票が本位逼貨として混合流通するにいたっている。現大洋票は約一年にし
て遼寧地域社舎の信認を得て本位通貨の地位を確立したのである。
きて第三に、先換準備比率が、現金七割以上と比較的高く設定され(この比率は一般的には六割位とされていた〉、現大洋票
(伺)
と現大洋とは「同債格一一遁用シ、打歩ヲ附スルコトヲ得ス」として、法定債格の維持を圃っていた。
第四に、準備庫護行の免換紙幣は、準備庫に加入した各銀行描恥から無制限に魚替取組をおこなうとした。しかし同時
「市面金融ヲ安田ナラシムル」ために、
529
「一切現金ヲ販運シ省城境ヲ出ツルコトヲ禁止スル」と規定することによっ
-
530
(奉天票去漉免券)}現大洋葉 i各月末流通額(現大洋換算による〉
奉天票(高元) 現大洋票(高元) 奉天票(高元)現大洋票(寓元)
1929年1月 5,569 115 6 2,229 2,211
2 5,553 118 7 2,184 2,269
3 7,454 118 8 2,167 2,502
4 4,826 95 9 2,249 2,717
5 3,987 143 10 2, 185 3,209
6 3,032 333 11 2,265 3,938
7 2,840 535 12 2,353 5,216
8 2,559 809 奉天票(寓元)現大洋票(寓元)
9 2,578 1,164 1931年1月 2,536 5,494
10 2,443 1,359 2 3,093 5,906
11 2,710 1,590 3 3,281 5, 793
12 3,045 1,967 4 3,219 5,030
奉天票(禽元) 現大洋票(寓元) 5 3,146 4,434
1930年1月 3,137 2,165 6 2,966 4,450
2 2,872 2,139 7 2,550 4,241
3 2, 765 2,124 8 2,081 4,006
4 2,493 1,981 9 1,981 3,848
5 2,433 2,055
〔第 5表〕
出典:r満洲各種紙幣流通額統計表』満銭経済調査曾,第四部, 1935年, pp. 8-9.
て、事買上の免換制限を敷い
(門別)
ていた。これに違反するもの
は取締の封象となったのであ
る。以上のごとく
現大洋票の
社舎的信認を得るための施策
が出されていたが、他方では
奉天票の暴落(六月二五日、制到
金票七九
OO元となる)阻止針
策も強化せざるをえない事態
-24ー
をむかえていた。
「官府ノ権
力ヲ以テ、納税ヨリ一般商家
ノ取引等、組テ奉票ヲ本位ト
セシメ、違反者ハ恒借ナク庭
ル 罰コシト以」テ
と 奉し 票Tこノの暴で落あ(ヲる68阻。)止
ス
かくて現大洋票の浸透政策
と、奉天票維持政策という二
重政策の同時的推行が展開す
-
ることになる。
t
六月二四日附「遼寧省政府布告第十三競」において「奉票維持開法(四僚どが出されたのも、そうした二重政策のあら
(的)
われであった。
第一候は、奉大洋五
O元(奉小票六O元)を現大洋一元とする固定債格にし、官銀競は震替取組に鷹ずるものとした。
第二僚は、省庫の賦課税摘徴牧機関は現大洋建とするが「一律ニ固定債格-一按シ、奉票ヲ徴牧シ、現洋ヲ徴牧スヘカラ
ス」と規定した。
第三僚は、一商人の交易、私人の買買は二律ニ固定債格一一按シ、奉票ヲ使用スヘシ」。
第四僚は、負替基金のために第一次巻煙草統税公債として現洋二
000高元を護行し、奉天票により護買する。
この維持掛法は、現大洋建値による奉天票の使用という奉天票の流通手段機能を維持する黙に最大の眼目があった。
L
- 25-
わば、現大洋票が貨幣としての債値尺度や支排手段機能を信認されつつあるなかで、現大洋票がまだ奉天票のような流通
手段機能を十分には捨いえない段階の過渡的性格をこの維持掛法は反映していたのである。嘗時、落海線のターミナルで
あった海龍における地方経済と、通貨欣況を停えた報告も、二九年春以来露庖一商人にいたるまで現大洋建値でその日の相場
にもとづき奉天票を仏収受している朕況を述べ、織道沿線では今まで奉天票のみ流通していたのが、最近では三割の現大洋
流通があるという。しかし地方枇曾全睦としては「遁貨トシテノ奉票債値ハ容易ニ之ヲ失フモノニアラス」と結論e
つけて
〈刊川)
いた。これも、奉天票の流通手段機能がなお保持されていたことのあらわれであろう。
531
-
532
遼寧幣制改革への胎動||「現大洋票本位制」
への移行||
1
遼寧における本位通貨「現大洋票」の成立||一九二九年秋1三O年春||
一九二九年秋にかけて、他方では中東路回牧問題に端を設した劉ソビエト戦争を展開するという事態にもかかわらず、
一一月に入っても奉天票の針金票債格は七一
OO元前後の相場に安定していた。その理由は「奉票カ流遁性ヲ失ヒ、特産
(
江
)
ノ買占ハ殆ト大部分現銀若ハ現大洋票ヲ要スル質情」になったからである。すでに現大洋票は特産物購入という貼での流
通手段機能を措いはじめていた。
東三省官銀披は、もはや奉天票増設による軍事費の補填や特産物買占という財政的暴力の行使を意のままに行えなくな
- 26ー
っていた。新たな基盤のうえに新たな蓄積メカニズムを創出する必要が増大していた。張問子良も官銀競の持っていた多元
的機能の分割をはからざるをえなくなっていた。今後、官銀披の附属事業の典型であった「特産ノ寅買行篤ヲ巌禁」し、
(冗)
その必要性が生ずれば「公済桟ヲシテ之-一嘗ラシムル事」を指示していた。官銀読の機能を限定しつつ、他にその機能の
一部を委譲することによって新たな蓄積メカニズムを模索していたといえよう。
また、東三省官銀披そのものに閲しては、園民政府の地方政権に射する支配力強化という貼でひとつの争駐を生んでい
た。園民政府側は、財政統一のために中央銀行支屈を遼寧に開設し、園税の中央管轄化と中央銀行紙幣の流通を企固し
(符〉
た。張率良の立場としては、この問題は易峨以来珠測された事柄であり、地域樺力の地方政府化に伴う不可避的課題とし
て受けとめられていたはずであった。
ず、しかし、現寅問題としては官銀競の園庫事務が中央に吸牧され、
(%〉
一五にのぼる附属事業も経営の存績が問われることになる。これらはまさに、張作震以来の東北地域権力維持のため
紙幣護行擢はもとより
「巳護紙幣モ回牧」されかね
-
の構造的特徴から生ずる矛盾であった。中央政府との政治的合流の結果、地方政権としてどのように再編成されるのかと
いう矛盾と、それへの劃躍が求められていた。
遼寧における幣制改革とは、易峨後の中園の政治的「中橿」からの匪力に劃抗する、
集の表われでもあった。現大洋票の護行は「中央ノ銀行券震行」に封抗する意味がこめられていたともいえよう。事費、
園民政府側の中央銀行開設要求はその後も繰りかえされていた。ただ、奉天票という周遁部固有の通貨の回放のための二
「周遁」自身の自律的な金融的凝
000高元公債護行については、中央財政部を遁じた園民政府令によって一
O月一五日「民園一八年遼寧省整理金融公債
(
万
〉
篠例」が公布され、むしろ中央との結びつきを強めていた。こうした個々の局面での相互反援と相互吸引を通して全世と
しての地方政権化への遁程が進行していたと理解できよう。
こうした文賑において官銀競を位置づけると、二九年秋の段階で本位通貨としての流通手段機能を捲った奉天票の護行
- 27ー
はひとつの轄換をとげ、現大洋票にその役割を譲ることになったのである。
しもちろんその過程は矛盾に満ちたものであり、とくに奉天票増設によるファイナンスが困難となり金融の逼迫を生みだ
「一商民多数」の倒産という事態を招いていた。省政府側も域内銀行圏とともに低利貸付を賓施したが、その訓令のな
かで一商工組舎に衣のように指示していた貼は注意してよい。
ニ日本側銀行叉ハ資本家ヨリ金票ヲ借受ケサル旨逼知」すること、
(
苅
)
、堅甲利兵ニ勝ルコト一を周知させる、と。この民族主義的政策はこの段階における民族主義的中央政治との相互浸透
また、
一般商人に劉し「我園銀行圏ヨリ貸出ヲ受ケ、絶劉
日本側金融勢力の準出という「経済的ノ侵略
つまり、
的あり方を示しているが、この傾向は一九二
0年代半ば以来の東北地域社舎の底流によっても増幅されていた。日本側が
依然として奉天票暴落にのみ注目していた地方政府の幣制政策の内買は、すでに民族主義的金融幣制改革の方向へと傾斜
一一一月の商況不振に劃して準備庫自瞳が救済基金の貸出しと、そのための「庫券一
000高元増護」をおこな
していた。
533
うことになったことについても日本側はなお準備庫券(現大洋菓〉もやがて「奉票ト同様暴落」するのではないかとする商
-
534
(行〉
民の警戒感を肯定的に俸えていたのである。
遼寧における金融幣制環境の構造的饗動は、
(
刊
日
)
-一改メタ」貼にあった。そこから現大洋を党換準備とした現大洋票の信認が得られつつあった。『東三省金融整理委員舎
報告書』によれば、「奉票の流通は己に末路に達し、税牧及一般官署に於て向行使するを除くの外、奉票の流通は漸衣縮
(
乃
)
少せられ」行使範圏も限定されるようになっていったのである。
一九二九年後半期を通じて、
「華商一一般カ、氷年ノ習慣ヲ脱シ、綿一アヲ銀建
2
地方的幣制改革の展開と経済環境
世界恐慌のもたらした銀債の低落は、現大洋そのものを約二割方減債させた。現大洋の針金票レ
lトも下落しはじめ
た。物債も三
i四割の騰貴を示していた。世界的銀相場の下落は「銀本位ノアラユル華一商ノ大打撃」となりつつあった。
- 28ー
落陽城一商界の長老たちは「最近市面の不況は数十年来未曾有」のものと述べていた。現大洋票の劃現大洋交換にも、打歩
(加山〉
がつき(たとえば遼陽では現大洋一元につき0・0二元)、省政府は禁止命令を出していた。
一九三
O年に入り、遼寧省政府レベルの幣制改革にむけての政策は、不況の進行する候件のもとではあったが、かなり
系統的なものとして展開していた。
並に奉天票の蛮行を中止」し、
二月上旬の金融整理舎議では、熱河省を含めた東北四省の銀行競が金融整理に責任をもち、
やがては東北四省の統一新紙幣を護行すること、そのために「東北金融整理監察委員曾」
「吉林官帖及熱河興業紙幣
を組織する方針を決定していた。
さらに、三月下旬の東北四省金融統一舎議では、
まず、遼寧省の金融整理計董に倣って、
四省の幣制を「現大洋ヲ以テ
既設行の地方紙幣は借入金によって「一律ニ回牧」し、
(
飢
)
統轄セシムル」ことなどが議決された。
本位トシ」、
さらに東三省官銀競を中央銀行に改組して「園庫を
-
ここでいう現大洋本位制や、官銀競の中央銀行化の提言は、従来からの奉天票維持政策や園民政府からの中央銀行の支
庖開設要求を引き延ばす針策といった範圏を超えて、統一新紙幣による通貨統一という管理通貨制度への傾斜を含んでい
たとみることができる。なぜなら、圏内(この場合は東北四省地域〉通貨瞳制の管理化への端緒としては、すでに、一九二
九年牢ば以降銀準備が準備庫という遁貨嘗局に集中され、決いで通貨供給量の管理をたとえ初歩的であれ政策的に操作す
る機構として準備庫が誕生し、同時に金融諸機関と行政機関によって金融維持舎議が恒常的に開催されはじめていたから
である。他方で、東北地域外との闘係は通貨的には、あたかも園際決済関係を想定しうるがごとく、銀移出制限や禁止、
その債格統制などが矯替取組と連摘するものとしてとりあげられていた。
東北地域の金融市場は、もちろんその資本主義護展の水準に規定され、官銀披による公開市場操作などを生みだしては
いなかったが、紙幣護行量の操作とその管理という「管理通貨システム」を形成させる段階に到達していたといえよう。
- 29ー
その一般的通貨的基盤は、現大洋票による通貨統一にあり、三
O年三月の調査では、藩陽における奉天票の現大洋換算綿
額を上まわる流、通量をもつにいたっていた。奉天票は「最近全く現大洋票の補助貨として通用さるることによって辛ふじ
(mM)
て其地位を保ちつつある」吠態となっていた。前掲第5表からみて轄換貼が三
O年六
1七月にあることは明瞭であろう。
七月一
O目、減式毅遼寧省政府主席は、張問円子良を委員長とし自らを副委員長とした金融整理協議曾開催のため
の準備舎議を召集した。士口林や黒龍江省の財政臆長を含む財政金融行政諸機関と各銀行競の首脳が委員に任命された。そ
そして、
の協議事項には、金融整理(通貨統一〉と雑幣回牧の方法、金票ボイコットと銀債の引上げ策、東北各銀行競の改組方法、
銀貨護行と稔出禁止、一商一民に劃する不況救済補助基金貸興開法、軍政機闘の各銀行披基金凱用制限の方法などが含まれ、
さらに賦式毅省主席らは「東北四省金融整理開法」を制定し「通貨ハ金本位、或ハ現洋本位」とする方針を提議してい
(
部
)た
535
こうした新たな金融幣制政策が議論されたのは、嘗時、中園側各地一商工組舎から出されていた銀債低落金債高騰による
-
536
経済不況針策要求に雇えるためでもあった。
(
剖
)
の護行」が要求されていた。あきらかに、地方的幣制改革への政策的劃躍がなされつつあったのであり、基本的には幣制
改革の三篠件である通貨統一、銀あるいは金準備、中央金融機関創設が珠測され、少くとも通貨統一と銀準備は現質化し
ていたと評債できよう。
たとえば、
七月上旬の東三省一商工聯合舎では、
「金紙幣(ただし免換は銀幣)
すでにふれたように三
O年傘ばには法定通貨としての地位を築いた現大洋票の信認を基礎にして、東三省官銀競組関魯
穆庭は七月「小額現大洋紙幣五
OO寓元」を護行した。券種は一元、五角、二角、一角の四種で、小額紙幣をもたなかっ
た現大洋票にとって更に一歩地域経済に浸透しうる傑件を獲得した。たとえば、溶陽で流通する小額現大洋票は溢業銀行
〈
山
山
)
ご般の小額取引には主として奉票が使用されてゐる朕態」であったからである。
の一角票のみであって、
ところで、九月一八日、張率良法防軍抑制司令は展開中の中原大戦において、蒋介石支持を意味する軍事的闘内準駐を通
電した。東北軍の関内進駐により反蒋連合は瓦解し、一
O月下旬までに東北軍は卒津地匿、河北、察恰爾南省を支配下に
中華民園陸海空軍副司令に就任した。
園民政府の一地方政権としてであった
(臥山〉
が、二年四箇月前に張作震が北京を引揚げて以来、東北軍は再度北卒・華北に駐留した。
張問円子良は一
O月九日、
- 30一
置くこととなった。
財政的負携をめぐって、
一O月二一日、財政金融協議舎が開催された。
「奉軍出動以来の財政賦態」に鑑みて、現大洋
票の増設や、遼寧省庫の造業銀行による管理などが協議され、とくに幣制政策としては官銀競と交、通・遺業雨銀行による
「三聯銀行」が先換券を護行する構想が出された。資本金二000高元は「今回、南京政府ヨリ東北軍出動費トシテ還付
シ来ル二千寓元」を充蛍するといわれた。もちろんこの。フランは寅現しなかったが、東北軍の関内準駐に伴い現大洋票の
流通匝域が天津をはじめとして旗大することになった。新護行券には「天津」と印刷し、新規大洋票五
OO高元が増設さ
れた。一二月上旬には、東三省官銀競が河北、察恰爾南省の園税牧入を管理するとともに、南省で「天津字現洋券」を流
通させるとしていた。他方遼寧省にあっても市況不振の打聞を圃るべく現大洋免換券一
000寓元を官銀披から護行する
-
(明引〉
ことが公表された。理由は「新穀、市場ニ出廻ハり、尤モ紙幣ノ不足ヲ感」じているからであった。
このようななかで、一二月二七日、遼寧省政府は「遼寧省管理金融暫行章程」の改訂を訓令公布し、聯合準備庫と遁業
銀行しか護行権をもたなかったものを官銀競にも、現大洋票護行擢を輿えた。現大洋票の調達困難という理由により官銀
競は濁立した瑳行擢をもつことによって、
準備庫のような先換準備率(七割〉の拘束を受けないことになったのである。
また、現大洋の販出出境禁止については、省城匝域を藩陽市匝と一商埠地と規定することによって、満戴附属地への搬出は
(MW〉
法的に出境とされた。この改訂章一程は、一年牢来の新たな幣制形成へのひとつの到達貼であった。なぜなら、改訂-章程公
布の一週間前、遼寧省主席召集の曾議で、「金融管理委員舎」を設立し「省下各銀行競の貸出、及び紙幣護行の事務を管
理」し、また「日本金票の排斥方法を講究」することが議決されていたことからみて、何らかの形での影響があったと考
えられるからである。この頃日本側に入っていた情報でも、賦式毅省主席が決のように述べていた。すなわち、
東北省、金融混凱ノ原因ハ、奉天城内各銀行競ニ於ケル種々紙幣印刷観護-一因ルモノ」であるから、
(回)
ヲシテ、最信用アル紙幣」を護行させる必要がある、と。
「現今、
- 31ー
「官銀競及漫業銀行
このような動向は、現大洋票による通貨統一が一九三
O年を通じて現貫のものとなるなかで、更に幣制改革を確貫なも
のとするための封躍であったとみることができる。このような文服でみてくると、
三O年
一二月二五日附で東北政務委員
舎に提出された、東三省金融整理委員舎委員長賦式毅らの『東三省金融整理委員舎報告書』が遼寧幣制改革にとってどの
ような意味をもっていたのかについてふれる必要がある。
3
遼寧幣制改革論の射程距離||『ケメラl報告書』と『東三省金融整理委員曾報告書』||
まず、こ
の『東三省金融整理委員舎報告書』に最も影響を興えた『ケメラl報告書』に言及する必要があろう。
537
ケメラl
(岡山内同三ロさ・欠。gBmB与を代表とする財政使節圏(のOBEESO同岡山口gnEHW42Z)は一九二九年二月南京に
-
538
「財政部甘末爾設計委員舎」として財政金融改革案の策定に従事し、
(
川
町
)
年一一月一一日提出され、三O年三月末に財政部から公表された。
それは園民政府宋子文財政部長宛に一九二九
赴き、
「中園通貨の安定と経済拭態改善」によって「我が園(アメリカ)、とりわけ西海岸地域と中園
との貿易関係の改善」をはかることだと述べていた。ケメラlはフ
Iヴァ
1大統領に支持されており、東部大金融業・大
企業勢力を代表するウ庁
lル街の「信用調査役」でもあり、中園での調査とその改革構想はア
メリ
カの封中園貿易と投資
(
町
出
)
扱大のための「通貨面からの前提篠件整備」という性格をもつものであ
った。
ケメラーはその目的を
ケメラl報告書に盛りこまれた中園における、通貨紋態分析とそれにもとづく幣制改革論をみておこう。
まず
「通貨改革案及び附属報告書の摘要」の岡田頭にあるように、
「中園の急務たる通貨改革は、現在の素飢せる通貨
(円
SF児島nEHBロ28)
に代ふるに、統一且全園に行き亙る通貨を以てすること、及び金本位制度を創設すること、の二者
(幻)
に存す」という認識から出援する。とくに中園の「銀本位制」は、貿易や政府財政に大きな障害となっている。したがっ
て、幣制改革の骨子は、金本位制に適合した制度を漸進的に各省ごとに順次採用することにある。ただ金本位制といって
- 32-
も「貫際に流通する金貨」を護行するのではなく
「銀孫」
(ω己るという信用銀鐸貨(二九年一
O月段階で銀孫一元は純金六
0・一八六六センチグラ
ムに相首し、アメリカ通貨換算四
0セント、イギリス七・
七二六五ペンス、日本0・八O二五固になる)を護行
し、先換請求に劃しては封外震替において金と無制限党換とする「金魚替本位制」
205肘
Hnysmogge円
εであった。
さらに中央銀行を中央準備銀行に改組し唯一の免換券護行銀行とし、各種の奮紙幣回牧を寅施する。そして幣制改革方式
をめぐっては、二段階改革案(間接案と呼ばれる、銀貨本位制によって統一してからその後に金本位制に鱒換する方式)を批剣して
(mm)
直接的に金本位制への移行を主張した。ケメラ
!の金本位制への直接改革案は、
への移行という潮流のなかで、
一九二九年という段階にあって、全世界
的な金本位制(金地金本位制を含む〉
中園通貨改革の最終目標を金本位制に置くことが中園
にとっても、アメリカにとっても利盆になるというものであった。
その意味で金(震替〉本位制という選揮肢は
世界恐
-
慌の本格的波及前夜という篠件下でのひとつの「合理的」選揮であったといえよう。
次に、ケメラl報告書が東北地域の通貨賦態をどのようにとらえていたかを確認しておきたい。この離は、東三省金融
整理委員舎の報告書にも影響を輿えていたからである。
つつ、 第
一に、報告書は「中園の遁貨は世界の如何なる主要園家に於ても見る能はざる最悪のものたること疑なし」と概観し
一九一四年の園幣篠例による銀元鋳造を「中園固定通貨
(EZoロと
25ロ弔問主刊ヨ)の賓現に向て、従前より更に一
歩を進めた」ものと評債し、他方では各省ごとの紙幣濫護による
「通貨扶態の素蹴」が指摘される。東北に流通する紙幣
については「満洲に於ける奉票、吉林官帖、里山龍江官帖、並に暗爾漬及び吉林銀元票は、満洲の遁貨をして恐らく全中園
中、
最悪のものとせり」と評していた。
第二に、中央準備銀行が金本位党換券の護行擢を濁占することを前提に、各省レベルの政治機関の保詮、あるいはそれ
自身の銀行の護行になるすべての種類の免換券を流通より回牧する。この回牧の封象の典型は「奉票、吉林官帖、及びそ
(叫)
の他満洲の債値下落せる免換券」で、その他贋西、雲南の省銀行先換券を指していた。
- 33ー
このような現扶認識からみて、遼寧の奉天票は債値下落した紙幣の最も典型的なものであり、
北での幣制改革はよほど困難であるという論調をおびていた。
ケメラI報告書では、東
しかし、これを承けて地方的幣制改革を企圃した東三省金融整理委員舎は、逆に東北における幣制改革質施の有利性と
可能性を見出していたのである。そのとらえ方の遣いはケメラl報告では、おそらく二九年半ば以降の現大洋票による遁
貨としての統合遁程が進行していたことと、南京からみて周遣部である東北地域における従属資本主義としての政治的経
済的凝集度を十分には認識しえなかったためであろう。
539
一九三
O年三月二二日東北政務委員曾第一一七次曾
(町四〉
議であった。遺業銀行監査役宵恩承が「東三省金融整理委員舎設立案」を提議し議決されたことによる。出用思承の委員舎
東北遼寧地域における本格的な金融幣制改革論が提起されたのは、
-
540
設立主旨説明によれば、東省は近七年来幣制の衰退のなかで「敵園の貨幣が日々増大し」省財政は困窮し、金融恐慌とも
いうべき事態をむかえている。しかし、東省自髄は物産盟かで圏外貿易では
出超であり、年に
二億雨の利盆をあげてい
る。にもかかわらず、民は困窮し財政は枯渇している。今こそ西欧各園に倣い、整理委員舎を組織し、東三省金融の整理
と。かくて、四月七日、
遼寧省政府内で減式毅を委員長とし、出用思承を主任委員と
方案と財政設計を研究すべきである、
(Mm)
する委員舎活動が開始された。
約八箇月後に提出された報告書は本文三二六頁、附録八七頁におよぶ盟系的金融幣制財政改革案であるが、こ
こでは現
(W)
朕認識と改革論の主要な特徴のみをとりあげたい。
幣制改革論の中心課題である「本位問題」では、
国錯綜し、混靖飽雑、買に制度として見るべきもの無し」 東
省現在(/)
2 貨交幣孟は
翼翼ii雑議全は眉
苧宿官不ι 同全