title 嶽麓書院所藏簡「亡律」解題 citation (2017), …う(1 ) こ の こ と は 出...
TRANSCRIPT
-
Title 嶽麓書院所藏簡「亡律」解題
Author(s) 宮宅, 潔
Citation 東方學報 = The tôhô gakuhô : journal of oriental studies(2017), 92: 229-252
Issue Date 2017-12-20
URL https://doi.org/10.14989/231152
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
-
東方學報
京都第九二册
(二〇一七):二二九-二五二頁
嶽麓書院�藏鯵﹁�律﹂解題
宮
宅
一.は
じ
め
に
︱︱盜掘鯵を讀む︱︱
二〇一六年四�より開始された硏究班﹁秦代出土�字
料の硏究﹂では︑里耶秦鯵ならびに嶽麓書院�藏鯵の會讀を
行っている︒本誌に揭載した﹁嶽麓書院�藏鯵︽秦律令
(壹)︾譯�稿﹂はその成果の一部で︑今後も繼續して嶽麓鯵の
譯�を發表してゆく豫定である︒連載の開始にあたり︑この
料を鯵單に紹介するとともに︑今號にその譯�を揭載した
﹁�律﹂部分について槪說しておきたい︒譯�とあわせて︑小�がこの貴重な
料を理解するうえでの一助となれば幸い
である︒
周知のとおり︑嶽麓書院�藏鯵は盜掘鯵である︒二〇〇七年の四�には︑すでに香�の骨董市場に出現しており︑言い
値は三〇〇萬元であったらしい﹇胡�生二〇一五﹈︒同年一二�になって︑これを湖南大學嶽麓書院が�け入れた︒�入
の時點で︑鯵はすでに八つの束と若干の殘鯵とに分かれており︑ある一つの束の外側には︑もともとこれらの鯵を�んで
229
-
いたとおぼしい竹籠の一部が附着していたという(1
)
︒このことは︑出土狀況がまったく分からないなかにあって︑嶽麓鯵が
竹籠に收められ︑墓に埋�されていた副葬品である
︱︱井戶に廢棄された鯵ではない︱︱
可能性を示唆する手がかり
として︑重視されるべきだろう︒
八つの束は︑この籠に收められていた鯵のすべてではなかった︒香�の收藏家が同時に盜掘された鯵の一部を�入して
おり︑それらも二〇〇八年八�には嶽麓書院に寄贈された︒この他にも�入者のいる可能性が殘り︑從ってこの"跡から
盜掘された鯵の總數は︑もとより知り得ない︒
嶽麓書院が�藏する盜掘鯵は︑寄贈分もあわせて二二〇〇片#度︑そのうち比�$完形に%い鯵は一三三〇餘枚である
という(2
)
︒すでに四册の報吿書が出版され︑一一五〇鯵ほどの鯵牘圖版が公表されている︒四部の報吿書とその內容は以下
の(り︒
・朱漢民・陳松長
(*+)﹃嶽麓書院藏秦鯵
(壹)﹄上海辭書出版社︑二〇一〇
(以下﹁嶽麓︹壹︺﹂)
內容:﹁〼七年質日﹂・﹁卅四年質日﹂・﹁卅五年私質日﹂︑﹁爲.治官/黔首﹂︑占夢書
・同﹃嶽麓書院藏秦鯵
(貳)﹄上海辭書出版社︑二〇一一
(﹁嶽麓︹貳︺﹂)
內容:﹁數﹂(數學書)
・同﹃嶽麓書院藏秦鯵
(參)﹄上海辭書出版社︑二〇一三
(﹁嶽麓︹參︺﹂)
內容:爲獄等狀四種
(裁0案例集)
・陳松長
(*+)﹃嶽麓書院藏秦鯵
(肆)﹄上海世紀出版股份2限公司・上海辭書出版社︑二〇一五
(﹁嶽麓︹肆︺﹂)
內容:律令
(一~三組)
律令・裁0案件集・數學書・官箴書︑さらに個人の行動記錄が書き4まれた曆
(﹁質日﹂)
という6成は︑いうまでもな
東 方 學 報
230
-
く睡虎地一一號秦墓や張家山二四七號漢墓から出土した鯵牘群と共(し︑嶽麓鯵も墓葬から盜掘されたものであるという
心證を荏えている(3
)
︒質日はいずれも始皇時9のものと見てよく(4
)
︑また﹁江陵﹂﹁當陽﹂﹁安陸﹂﹁州陵﹂といった南郡�屬
の縣名も現れ︑盜掘された"6の年代︑およびおおよその�在地を:示している︒さらにいえば︑﹁江陵公歸
︱︱江陵
縣令が歸った︱︱﹂(三十四年質日25)
という記載から︑﹁墓*﹂の地位は江陵縣の下;官.であったと假定することもで
きよう︒
とはいえ︑これらはいずれも狀況證據にすぎず︑出土狀況や同時に出土した"物の詳細が不<である以上︑右の想定を
より確かなものとするのは難しい︒そもそも︑その正式な報吿書が嶽麓鯵を﹁秦鯵﹂と呼ぶこと自體︑いささか問題をは
らんでいる︒質日をはじめ︑始皇>時9の記事であることが<白な內容を︑嶽麓鯵が數多く含んでいること自體は閒@い
ない︒だがそれは︑あらゆるA出品を總合$に分析したうえでの結論ではない︒"6やA出品の型式からも秦代の"物と
0斷されるのか︑後代の"6から秦のテキストが出土したという可能性はないのか︑といった檢討が︑嶽麓鯵については
そもそも不可能な狀況にある︒小�ならびに譯�において︑書名・論�名の引用以外に︑敢えて﹁嶽麓秦鯵﹂という呼稱
を用いていない�以である(5
)
︒
盜掘鯵であるが故の問題點として︑何よりも氣がかりなのはその眞贋であろう︒現時點で︑すでに少なからぬ盜掘鯵が
中國の大學・B物館によって�入され︑圖版・釋�が公表され︑學D$な硏究の對象となっている︒それらは科學$な分
析鑑定や內容の檢討を經て眞品と0斷されたものであり︑骨董市場に現れる厖大な數の僞E品とは一線を劃すはずだが︑
それでもなお眞僞の疑わしい鯵牘群が存在する﹇大西二〇一五﹈︒硏究手法に嚴密を9すなら︑盜掘鯵は一切Fうべきで
はないというG見が現れるのも︑決して理由のないことではない﹇冨谷二〇一四﹈︒
ただし嶽麓鯵については︑それが眞品であることは動かない︒嶽麓鯵によって怨たに知られた事實が︑その後に發表さ
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
231
-
れた里耶秦鯵の內容と合致するからである︒�も分かりやすい例は︑財產𠛬の一つである﹁貲一甲﹂が︑錢に奄算すれば
一三四四錢に相當するという怨事實であろう︒
貲一甲︑直錢千三百卌四︑直金二兩一垂︒一盾直金二垂︒贖耐︑馬四甲︑錢一
(?)
千六百八十
(嶽麓﹁數﹂82)
貲一甲は︑一三四四錢に相當し︑金二兩一垂に相當する︒一盾は金二垂に相當する︒⁝(後略)⁝
このことは﹁數﹂の公表に先立ち︑于振波の論�﹇于振波二〇一〇﹈によって廣く知られるようになった︒それが閒@い
なく秦の制度であったことは︑Kの里耶秦鯵により擔保される︒
少內巸言冗佐公士僰N西里亭貲三甲︑爲錢四千卅二︒(里耶秦鯵⑧60+
656+
665+
748)
少內嗇夫の巸が言うには︑冗佐で公士︑僰N西里出身の亭には貲三甲の罪があり︑それは四〇三二錢に相當する︒
「三甲﹂が四〇三二錢であるなら︑﹁一甲﹂は一三四四錢となる︒﹃里耶秦鯵︹壹︺﹄が刊行され︑右の鯵が知られることに
なる二〇一二年一�以Vに︑贋作者が﹁甲﹂の錢への奄算Wを知り︑﹁數﹂を僞作したというのはあり得まい︒また︑
﹁數﹂のなかには割り符
(﹁Y﹂)
の刻み目の形狀に關する說<も含まれ
(﹁數﹂118)︑それが里耶秦鯵の實例から讀み取れる
刻み目の法則と合致することも︑すでに指摘されている﹇大川など二〇一三﹈︒
盜掘鯵の多くが古典籍を記したもので︑從って眞贋0定のために書體や用字法といった基準に賴らざるを得ない(6
)
のに對
し︑嶽麓鯵は裁0記錄や法律條�を含むので︑右に示したような固い論據によってそれが眞品であることを裏付け得る︒
今後怨たな
料が出土し︑中國古代の制度について知見が閏實してゆけば︑さらなる證據が得られることも9待される︒
嶽麓鯵を硏究班で會讀することになったのは︑それが﹁本物の盜掘品﹂であることに疑問の餘地はないと0斷されたから
である︒
とはいえ︑(常の出土鯵とは@い︑Fい方に惱む部分は殘る︒會讀の對象とした法律條�集についていうなら︑この法
東 方 學 報
232
-
�集が何のために︑いかにして書かれたのか︑つまり抄寫の目$やその經雲にかかわる議論を深めていこうとしても︑そ
れには限界がある︒睡虎地秦墓や張家山漢墓の場合︑出土したテキストに墓*が役人であったという<證があり︑墓葬の
規模から推測される墓*の地位もその想定と合致していた︒また墓*の卒年についても︑大體の目安を付けることができ
た︒だが嶽麓鯵には︑睡虎地の+年記や尹灣漢墓の名謁のような︑墓*の地位を<示する�字
料が今のところ見あたら
ず︑それを墓葬の規模やA出品で補おうとしても︑そうした手がかりは�初から存在しない︒そして
︱︱繰り^し営べ
るとおり︱︱﹁墓葬から出土した﹂というV提自體が︑狀況證據による推測であって︑確乎とした事實ではない︒﹁�
律﹂の內容を分析し︑テキストとしての性質や︑その抄寫_#に想宴をふくらませていったとしても︑結局は根本$な缺
陷のために議論は振出しに戾り︑想宴はいつまでも想宴の域を出ない︒盜掘鯵には﹁出土�字
料として�も肝aなコン
テキストがAっていない﹂﹇籾山二〇一六︑七頁﹈と言わざるを得ない︒
しかし﹁本物の盜掘鯵﹂であるからには︑そこにあるのは閒@いなく古代人が記した法�の斷片である︒確かにb字や
脫�が疑われる箇�もあり︑決して出來の良い寫本ではない︒條�の正確な內容を傳えているのか︑副葬用の<器であっ
て︑中身はでたらめなのではないか︑などと疑い出せばキリがない︒ただしこれらは墓葬から發掘された他の法律條�集
にもあてはまる問題である︒とにかく目のVにある竹鯵を觀察し︑記されている�字をeい︑テキストの內容分析から右
の問題になにがしかの解答を示すしかない︒
それでもなお︑こうした硏究者のf勢が盜掘を助長することになりはしまいかというわだかまりは殘る︒盜掘問題の根
はあまりにも深く︑我々の硏究活動もこの問題と無關係であるとはいえない﹇レンフルー二〇〇〇﹈︒盜掘の根絕は容易
ではないだろうが︑今後然るべき對策がとられ︑硏究者がこの問題に思い惱む必aがなくなることを願いたい︒
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
233
-
二.嶽麓鯵の整理と︽秦律令
(壹)︾
嶽麓鯵は�入の時點で八つの束
(以下﹁束1」~「束8﹂)
と小さな殘鯵の束とに分かれていた﹇嶽麓︹壹︺︑二〇三頁﹈︒こ
れらは元來︑二つの大きな塊であったらしい﹇嶽麓︹參︺︑三一八頁﹈︒長沙にiばれた後︑これらの塊から一本一本の鯵
をはぎ取り︑各鯵に+號を振り︑脫色處理や寫眞撮影を行う作業がjめられた︒�初に振られた原鯵番號
(報吿書では﹁原
始+號﹂)
は﹁0001﹂から﹁2198﹂であるが︑そのうち
0201~0300は缺番になっている︒缺番が生じた理由はよく分から
ない(7
)
が︑束1
(0001~0200)
と束2
(0301~0495)
との閒で原鯵番號が飛んでいる︒
それぞれの原鯵番號を持つ鯵が︑どの束のどのあたりからはぎ取られたのかは︑報吿書各册の末尾に﹁揭取位置示G
圖﹂などとして讀者に示されている︒ただし束8の�後は﹁2171﹂鯵なので︑示G圖に見えるのは二〇七一枚の鯵の出土
位置に止まり︑殘りの二七枚については︑どこから出土したのか分からない(8
)
︒
殘鯵はこれらとは別に整理された︒小さな殘鯵の束の他に︑束1~8からはがれ落ちた殘鯵もあり︑それらは合計で七
〇九片にのぼる︒これら殘鯵をならべて撮影した寫眞がo部で一五枚あり︑嶽麓︹壹〕・〔貳︺においては︑何枚目の寫眞
の︑何本目の鯵なのかが連續する數字で示され︑それが殘鯵の+號となっていた︒例えば嶽麓︹貳︺の﹁C100302﹂とは︑
殘鯵
(C)で︑寫眞10の︑上から3段目︑左から2枚目の鯵であることをG味している﹇嶽麓︹貳︺︑一七一~一七二頁﹈︒
このやり方は嶽麓︹參︺から改められ︑七〇九片の殘鯵に(し番號を振る方式になった(9
)
︒
この他に︑後から寄贈された鯵にはJ01~J76という+號が與えられている︒これらについては︑それが如何なる狀態
で寄贈され︑如何にして整理されたのか︑詳しいことが分かっていない︒
嶽麓鯵のなかで︑律令・決事比類に屬すと思われる鯵は一二〇〇餘枚にtするという﹇嶽麓︹肆︺﹁V言﹂﹈︒それらは
東 方 學 報
234
-
內容により<確に區分することができないので︑まずは鯵の長さと+綴方法により大きく分類され︑そのうち三つのグ
ループ︑三九一枚(10
)
が嶽麓︹肆︺に︽秦律令
(壹)︾として收錄された︒今後︑さらに三册の報吿書が出版される豫定で︑
いずれも法律
料を收錄するものであると側聞している︒嶽麓︹肆︺に收められた各組の︑鯵の長さや+綴方法などの特
vはKのとおり︒
・第一組
(鯵番號1~105):計一〇五枚︒鯵長二九~三〇cm︑三箇�で+綴される︒5鯵背面に﹁�律﹂のy題がある︒
・第二組
(同106~283):計一七八枚︒鯵長二七.五cm︑二箇�で+綴される︒y題はないが︑各條�にはまず﹁●~律曰﹂
が冠せられる︒そこから0<する律名はo部で一九種あり︑Vから順番にあらまし以下の(り︒
田律・金布律・尉卒律・徭律・傅律・倉律・司空律・內
雜律・奔警律・戍律・行書律・置.律・}律・具律・獄
校律・興律・雜律・關市律・索律
・第三組
(同284~391):計一〇八枚︒鯵長二七.五cm︑二箇�で+綴される︒書體の特vが<確で︑睡虎地のそれと%い︒
複數の手があり︑同一の鯵・條�のなかで手が代わる場合もあるという︒
今囘︑譯�の對象とした﹁�律﹂とは︑すなわち右の第一組の竹鯵群である︒
三.第一組﹁�律﹂の�列復原:整理小組案
「�律﹂を6成するとされる一〇五枚の鯵は︑*として束8
(1930~2171)
からはぎ取られたもので︑それに束1
(九
枚)・束4
(四枚)・束6
(一枚)
の鯵が若干加わる︒﹁卅五年私質日﹂(計四六枚)
がほぼ束1
(三一枚)
と束8
(一一枚)
の
鯵から6成されるのを考え合わせると︑束1・束8は元々一つの塊として直接繫がっていたと推測される︒
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
235
-
嶽麓︹肆︺はこれら一〇五枚の鯵がどのように�列・+聯され︑どのように卷かれていたのかを復原し︑その順序に
從って整理番號を振る︒こうした復原作業は︑以Vは出土位置と書寫內容を手がかりにjめられたが︑%年は怨たに二つ
の指標が得られている︒鯵背面の反印�と劃線である︒專門の硏究者にはすでに周知のことだろうが︑兩者について鯵單
に說<しておく︒
+綴・收卷された鯵牘が地中に埋もれると︑長い年�の閒に︑內側に卷かれていた鯵の背面にその外側にあった鯵の墨
跡が鏡�字となって寫る場合がある︒これが反印�である︒その存在は赤外線技Dの發tと鯵の背面への�視とによって
知られるようになり︑各鯵の元來の位置關係を知る手がかりとして︑復原作業に活用されている︒
一方の﹁劃線﹂とは︑鯵の背面に墨で書かれた︑ないしは銳利な物で刻まれた線のことである︒例えば︑北京大學
�藏鯵の﹃老子﹄を現行本に從って�列すると︑一六~一九枚の鯵を一つのまとまりとしつつ︑左上から右下に向けて
まっすぐに引かれた計一四本の刻線が背面に出現する︒この線は竹を割って竹鯵を作成するVに︑竹筒の表面に螺旋狀に
刻まれたもので︑書寫・+綴後に錯鯵が發生するのを防ぐために施されたと考えられている(11
)
︒鯵の�列順を復原するうえ
で︑非常に重aな手がかりであることは疑いもない︒嶽麓︹參︺︹肆︺には鯵背面の赤外線寫眞も收錄され︑整理小組に
よる復原案の論據を︑いちおうは共2できる︒
「�律﹂の復原に際してもこれらの指標が活用されており︑整理小組の理解に基づく︑收卷狀況の復原案も卷末の附錄
に﹁第一組卷册復原示G圖﹂(以下﹁示G圖﹂)
として錄されている﹇三一七頁︑﹁附錄五﹂﹈︒それに據ると︑整理小組は
﹁�律﹂が書寫面を內側にし︑末尾鯵を軸にして收卷されていたものと考えており︑外側の先頭鯵からさほど離れていな
い第5鯵背面にy題があるのは︑その理解と矛盾しない︒だがこの復原案に若干の問題があるのも事實である︒
まず示G圖にみえる鯵の順序と鯵番號との齟齬︒示G圖では原鯵番號により各鯵の位置が示されているが︑それを鯵番
東 方 學 報
236
-
號に置き奄えていくと︑64鯵
(1979)
のKには71鯵
(1931)
が置かれ︑その後に72~74鯵が續いたのち︑74鯵のKは65~
70鯵に戾り︑そして70鯵のに75鯵が來ることになっている︒65~70鯵と71~74鯵の場�を置き@えた︑單純な閒@いか
もしれないが︑70鯵の位置をどこに据えるかは︑Kに営べる問題點とも關わってくる︒
第二の︑より深刻な問題點は反印�をめぐる報の混亂と矛盾である︒示G圖では反印�のある鯵とそこに寫っている
�字の見える鯵との位置關係が︑その兩者を靑くすることによって示されている︒その一方で︑﹁附錄四﹂として﹁正背
反印�對照圖﹂(以下﹁對照圖﹂)
があり︑反印�を裏燒きした寫眞と︑そこに寫っている�字が書かれた鯵の寫眞とが竝べ
て示されている︒﹁報の混亂﹂とは︑示G圖で靑く塗られている鯵と對照圖での組み合わせとが一致しないという問題
である︒具體$にいえば︑示G圖では18鯵と33鯵︑19鯵と34鯵︑21鯵と35鯵の閒にも反印の關係があるように書かれてい
るが︑對照圖には寫眞がない︒單に對照圖に擧げるのを忘れただけかもしれないが︑18・19・21鯵の背面寫眞を圖版で見
る限り︑そこにはっきりとした反印�をめがたく︑單なる揭出漏れなのか︑それとも︑そもそも反印關係の存在自體が
疑われるべきなのか︑現物を持たない者としては0斷しようがない︒
これとはに︑對照圖では12鯵と44鯵︑70鯵と86鯵との閒に反印關係があるとされ︑確かに寫眞からはそう0斷できそ
うだが︑示G圖ではこれら四枚の鯵が靑色になっていない︒反印�をめぐる﹁矛盾﹂とは︑この四鯵に關わるものである︒
まず對照圖では12鯵の背面に44鯵が寫っているとされているが︑示G圖では12鯵は卷子の�も外側の層に位置することに
なっており︑その內側にある44鯵の�字が12鯵背面に寫ることは不可能である︒70鯵と86鯵との組み合わせにも同じこと
がいえ︑70鯵の背面に︑その內側にあるとされる86鯵が寫ることはあり得ない(12
)
︒
こうした問題をG識してのことか︑�律の�列復原については︑整理小組のそれとは衣なる案が示されている︒紀婷
婷・張馳による別案
(以下﹁紀・張案﹂)
がそれである﹇紀・張二〇一六﹈︒
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
237
-
四.もう一つの�列復原:紀・張案
紀・張案は︑一一組にも/ぶ反印の關係を怨たに補い(13
)
︑それらをも手がかりにして�列の再檢討を試みる︒同時に︑整
理小組案にはなかった二つの着眼點を(じて︑このテキストが抄寫された_#を推測し︑自らの復原案の當性を擔保し
ようとしている︒
怨たな着眼點の一つは筆跡の重視である︒�律を6成する鯵の筆跡を四種に區分した上で︑�も多く見られる筆跡で書
かれた鯵がA組︑それとは衣なるものがB~D組とされる︒B組は八枚︑C組五枚︑D組一一枚で︑それ以外はすべてA
組と鑑定されている︒筆跡への�目は細部に/び︑A組に屬す鯵にD組の筆跡で修正が加えられている部分がある︑と
いった指摘すらなされている︒
もう一つの怨たな試みは︑�律の諸條�はその內容から四種に細分でき︑それぞれがまとまりをもって�列されていた
という假說の用である︒彼らはその四區分を﹁�律﹂﹁律﹂﹁占律﹂﹁
律﹂と呼ぶ︒確かに�律に含まれるとされる
各條�のなかには︑�者をった者への科罰規定や︑戶口報の申吿
(﹁占﹂)
に際し不正を行ったり官に出頭しなかっ
たりしたケースについての規定など︑�罪とは直接結びつかないものが見える︒一つの作業假說として︑興味深い着眼
點である︒
この二點を組み合わせて︑�律の抄寫_#が推測される︒彼らによれば︑�も早い段階での�律のテキストはすべてA
の手で書かれ︑﹁�律﹂﹁律﹂﹁占律﹂の順に條�が�列されていた︒このテキストにA自身が︑﹁占律﹂の後に續けるか
たちで﹁�律﹂關連の條�をe加し︑せて﹁
律﹂も書き加えた︒その後︑B・Cの筆跡で書かれた﹁�律﹂がAの手
東 方 學 報
238
-
になる﹁�律﹂の中に︑同じくDの﹁
律﹂がAによる﹁
律﹂の中に︑それぞれ揷入されるかたちでe加された︒
この抄寫_#を圖にすると︑Kのようになる︒
�初のテキスト:﹁�律A﹂﹁律A﹂﹁占律A﹂
A自身の加筆
:﹁�律A﹂﹁律A﹂﹁占律A﹂﹁�律e加分A﹂﹁
律A﹂
他の加筆︑揷入:「�律A﹂﹁�律B﹂﹁�律C」﹁�律A﹂﹁律A﹂﹁占律A﹂﹁�律e加分A﹂﹁
律A﹂﹁
律D」﹁
律A﹂
背面の劃線はこの復原案と矛盾せず︑B・C・Dの揷入部分では劃線が繫がっている一方で︑揷入部分のV後に位置する
鯵の劃線も︑揷入部分を取り除けばきちんと連續するという︒
かくしてき出された怨たな復原案は當該論�の末尾に示されており︑整理小組のそれとはまったく衣なる�列となっ
ている︒詳細は原�を參照されたいが︑この案だと︑册書の先頭付%にくるのは24~28鯵で︑それが卷子の�も外側に位
置する︒紀・張は24~28鯵の背面に卷子を括った繩の痕跡が殘るとし︑自說を補强している︒その一方で︑背面に﹁�
律﹂と書かれた第5鯵は册書の末尾%くに位置し︑收卷した狀態では卷子の中心付%にあったことになる︒整理小組案で
は第5鯵は册書の先頭付%に置かれ︑從って卷子の�外層に﹁�律﹂と書かれていたことになり︑これを標題と見るなら︑
整理小組案の方が當である︒紀・張案では背面に書かれた﹁�律﹂のG味や收卷の經雲について︑(常とは衣なる事
を想定する必aがあり︑他の點では十分な說得力を持つこの復原案がえる︑問題點の一つとなっている︒
このように兩復原案の閒には大きな相@がある︒だが實のところ︑個々の條�レベルでは@いはさほど大きくない︒複
數鯵から成ると見られる條�の︑それを6成する諸鯵の連續關係が改められている箇�は限られ︑條�そのもののV後關
係が入れ替わっているに_ぎないからである︒正確にいえば︑一つの條�がどの鯵からどの鯵まで續くのかを整理小組は
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
239
-
<言していないし︑紀・張案も同樣である︒しかし�列順や缺鯵を想定しているか否かによって︑連續すると考えている
らしい箇�はだいたい察しがつく︒一つの條�のなかで︑兩者が衣なる連續關係を想定している箇�を列擧しておく︒
・整理小組が連續關係を想定していると思しいものの︑紀・張案が否定する箇�:
1鯵↓2鯵︑4鯵↓5鯵︑8鯵↓9鯵︑45鯵↓46鯵︑66鯵↓67鯵︑78鯵↓79鯵︑82鯵↓83鯵︑86鯵↓87鯵︑92鯵↓93
鯵・紀・張案が怨たに接續を想定している箇�:
2鯵↓1鯵︑78鯵↓65鯵︑74鯵↓83鯵︑94鯵↓5鯵
二つの�列案の相@點とそれぞれがえる問題とを識しつつも︑本譯�では混亂をけるため︑正式報吿書に示された
整理小組の復原案に基本$に從った︒ただし整理小組が接續を想定していると思しい箇�に疑義があればそれを�記し︑
場合によっては別の條�として譯出した︒また二つの箇�で︑紀・張の復原案に沿って釋�を移動させてある
(網掛け部
分)
(14)
︒いささか極$なf勢ではあるが︑�列復原の手法が飛$にjした今︑�列順のo面$な檢討は︑現物や精度
の高い赤外線圖版を持つ機關の手に委ねざるを得ない︒
ただし︑�後に蛇足ながら申し添えておくと︑背面への�視が正面に書かれた�違を正確に理解するうえでの足かせと
なる可能性も︑一方では忘れてはなるまい︒劃線と鯵の�列順とが一致しない場合があることはすでに指摘されているが︑
﹁�律﹂についていえば︑53~57鯵の部分で內容から0斷される鯵の�列順と劃線とが矛盾し︑まったくに57↓56↓55
↓54↓53と鯵を竝べれば︑劃線が連續することになっている﹇紀・張二〇一六︑第三違4﹈︒想宴をしくするなら︑劃
線が繫がるかたちで背面を上にして竝べておいた數本の鯵の︑左端から順に手にとって書寫していくべきところ︑bって
右端から取っていったために︑かかる現象が生じたものと考えられる︒劃線は抄寫に先立って刻まれていたのだから︑こ
東 方 學 報
240
-
うした_bや︑b寫にともなう鯵の破棄などで︑劃線と鯵の�列の閒に矛盾が生じることは少なくなかったに@いない︒
本譯�では︑劃線が連續する場合はいちおうその事實を重しつつも︑V後の鯵が接續しない可能性を必ずしも排除しな
かった︒
五.�罪の原理
紀・張案では第一組の條�が�律・律・占律・
律の四種に區分される︒これはあくまで 宜$な呼稱であるが︑大
まかな分類としては首肯できる︒そのうち第一組の大¡を占めるのが�律と律︑つまり�罪と隱罪に關わる規定で
ある︒兩者について︑その原則を整理しておく︒まず�罪について︒
�罪への科罰を左右するa素はKの四項目である︒
①
�9閒の長さ
②
�した場�
③
�者の身分・境¢
④
�により官に與えた損£の多寡
張家山漢鯵﹁二年律令﹂には︑
.民�︑盈卒歲︑耐︒不盈卒歲︑吉
(繫)
城旦舂︒公士・公士妻以上作官府︑皆償�日︒其自出殹
(也)︑笞五十︑給
逋事︒皆籍�日︒軵數盈卒歲而得︑亦耐之︒(二年律令157)
.民が�して滿一年になれば耐︒一年未滿であれば繫城旦舂︒公士・公士の妻以上は官府で勞役し︑いずれも
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
241
-
�していた日數分を償う︒自ら出頭したならば︑笞五十にして︑のがれた分の勞役§擔に從事する︒いずれも�
した日數を記錄する︒計算して¨べ一年以上にして捕らえられた者も︑また耐︒
という規定が見え︑�が一年以上となれば耐𠛬︑未滿なら繫城旦舂
(©役9閒は�日數と同じ)
という①の原則が示さ
れる︒嶽麓﹁�律﹂にはこれと類似するものとして︑
闌�盈十二�而得︑耐︒不盈十二�爲將陽︑吉
(繫)
城旦舂︒(91鯵)
がある︒ここでも一年以上は耐︑一年未滿は繫城旦舂となっており︑①のa素は秦律にも存在していた︒
�9閒の長短のほか︑②どこに�したのかも科罰を左右した︒�も重いのは國外への�で︑睡虎地秦鯵の﹁邦
�﹂﹁出徼闌�﹂(法律答問48)
がこれに相當する︒𠛬罰は黥城旦舂である︒また秦の瓜一直後においては︑かつての國境
線
(﹁故塞﹂﹁故徼﹂)
ないしは關中と關外を分かつ境界が︑なおも强くG識されており︑關外から﹁中の縣N﹂に�して
くることは︑他の�罪と區別されていたらしい
(54︑93鯵)︒また﹁故徼﹂の內側においても︑げて他の縣Nに行った
のか︑それとも﹁蠻夷﹂の居ª地域で捕らえられたのかで處罰が衣なった
(101鯵)︒これも②のa素に含めることができ
よう︒
③のa素に目を移すと︑�者が一般人ではなく︑𠛬徒・復作(15
)
・奴婢であった場合︑それにより處罰が變した︒
城旦舂:黥して再び城旦舂とする︒自ら出頭すれば笞百︒(47鯵)
城旦で牧馬に從事する者:斬左止︒(49鯵)
城旦舂で監視役に就く者:黥して城旦舂とする︒自ら出頭すれば笞五十︒(50鯵)
隸臣妾:?+
(�日數×
六錢)の竊盜罪に科される𠛬罰︒(17鯵)
司
寇:?+
(勤務すべき日數×
六錢)の竊盜罪に科される𠛬罰︒(17~18鯵)
東 方 學 報
242
-
復
作:三ヶ�以上で耐隸臣妾︒未滿で笞五十︒(33~36︑84~86鯵)
奴
婢:眉閒とほほに黥し︑持ち*に與える︒(89︑98鯵)
〃で繫城旦舂とされている者:繫城旦舂の𠛬9に應じて肉𠛬を加え︑持ち*に與える︒(37~39鯵)
〃が故徼の外にげた場合:城旦と同じ入れ墨をして持ち*に與える︒(100鯵)
右の諸事例のうち︑隸臣妾と司寇への處罰については確としない部分が殘る︒二年律令にはKの規定が見えるからである︒
隸臣妾・收人�︑盈卒歲︑吉
(繫)
城旦舂六歲︒不盈卒歲︑吉
(繫)
三歲︒自出殹︑笞百︒其去吉
(繫)
三歲�︑吉
(繫)
六歲︒去吉
(繫)
六歲�︑完爲城旦舂︒(二年律令165)
隸臣妾・收人が�して滿一年になれば︑繫城旦舂六年とする︒一年未滿であれば︑繫城旦舂三年︒�後自ら出
頭したならば︑笞百︒繫三年の𠛬かられれば︑繫城旦舂六年︒繫六年の𠛬かられれば︑完城旦舂︒
こちらでは�日數の長短︑すなわち①のa素が隸臣妾への科罰を左右している︒秦代にもこうした規定がすでに存在し
ていた可能性も否定できない︒だが少なくとも現2の嶽麓鯵には現れず︑一方でKの規定が見える︒
/諸當隸臣妾者�︑以日六錢計之︑/司寇冗作/當踐者�︑皆以其當冗作/當踐日︑日六錢計之︑皆與盜同法︒
(17~18鯵)
隸臣妾と司寇は︑その�日數
(司寇の場合は︑正確にいえば�9閒中の©役すべきだった日數)
に六錢を乘じた額の財物を盜
んだと見なされ︑その贓額に對應する𠛬罰が科された︒官が活用できるはずだった勞働力が�により失われたことを︑
その勞働力に相當する財物を官から盜んだと見なし︑𠛬罰を加えたわけである︒④のa素に則った科罰原則である︒隸臣
妾・司寇の�はこの原則のみに據って罰せられたのか︑①の原則に④が加味されたのか︑0然としない︒ともあれ④の
原則は︑財產𠛬に當てられたり債務を§ったりして官に財物を�めるべきところ︑完濟せずに�した者にも®用された
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
243
-
(23︑66~67鯵)︒
同樣の觀點からすれば︑�によって徭役に©さなかった一般人に對しても︑その罪を竊盜罪になぞらえて罰するやり
方がとられたとも考えられる︒睡虎地秦鯵からは︑﹁將陽﹂した成年男子の︑�9閒中の徭役義務日數が書き留められ
たことが確できる︒
�自出
¯某爰書︑男子甲自詣︑辭曰︑士五︑居某里︑以迺二�不識日去�︑毋它坐︑今來自出︒●問之□名事定︑
以二�丙子將陽�︑三﹅�﹅中﹅逋﹅築﹅宮﹅廿﹅日﹅︑四年三�丁未籍一�五�十日︑毋它坐︑莫±問︒以甲獻典乙相診︑今令乙將
之詣論︑敢言之︒(封診式96~98A)
�して自ら出頭︒
¯の某の爰書︒﹁男子の甲が自ら出頭し︑供営して言うには﹃士五で︑某里に居ª︑先に二
�の某日
︱︱日付は不<
︱︱
に�しました︒他に罪に問われることはしておらず︑いま自ら出頭してきまし
た﹄と︒●問いあわせたところ⁝名V・身分は確定しました︒二�の丙子の日に將陽して�げ︑三�中に宮殿修築
の徭役からのがれること二十日︒四年三�の丁未の日に�一囘︑�9閒五ヶ�と十日閒と記錄されている︒他
に罪に問われることはしておらず︑±問することもありません︒甲を里典の乙のところに連れて行き檢分させまし
た︒いま乙に甲を連れて縣に出頭し裁きをうけさせます︒以上申し上げます︒﹂
だが︑こうした一般人の徭役れについては﹁逋事を給﹂させたとあるだけで
(V揭二年律令157)︑日數に六錢を乘じてさ
らに處罰を科す方法はとられていなかったようである︒
以上︑科罰原則に�目して�罪の諸事例を整理した︒だが複數のa素が絡み合った場合︑�²$にどのような科罰と
なるのか等︑少なからぬ課題が殘る︒
東 方 學 報
244
-
六.隱罪の原理
犯罪者・�者の隱罪は︑その事實を知った上でったのか︑それとも事實を知らないまま留め置いたのかで科罰が
大きく衣なる︒事實を知って隱した場合は︑基本$に犯罪者・�者と同罪である︒
罪人︑死罪︑黥爲城旦舂︑它各與同罪︒(二年律令167)
罪人を隱し︑それが死罪の者ならば︑黥城旦舂︒その他の罪ならそれぞれ同罪︒
これは漢初の規定だが︑嶽麓︹肆︺の3~5︑16︑45鯵から︑この原則が秦代から存在していたことが推察される︒正確
にいえば︑同罪とされたのは隱という行爲に責任を§うべき者
(﹁*﹂3~5鯵)
で︑たとえば個人の家でった場合
は︑その家長がこれに相當したと考えられる︒それ以外の家人はいくらか科罰が減じられ︑さらにその家の奴婢は連帶責
任の範圍に含まれない
(1鯵)︒
一方︑事實を知らなかった場合の科罰は財產𠛬に止まり︑留め置かれた者の罪に應じて贖耐~貲一盾の𠛬罰が科された
(60~64鯵
ただし死𠛬に相當する犯罪者については未詳)︒事實を知らずに身柄を留め置くことは﹁舍﹂と表現され︑﹁舍﹂につ
いても﹁*舍﹂とそれ以外の者との閒で科罰に差があった︒
60~64鯵の譯�︻解說︼で営べたとおり︑この條�と1鯵とを比�すれば︑﹁﹂と﹁舍﹂が區別されていることが分
かる︒�中の隸臣妾・收人を﹁舍﹂した家の者は貲一盾であるのに對し︑それより輕い財產𠛬を犯した者を﹁﹂した
場合は︑他はすべて同じ條件でも科罰はより重い貲一甲となっているからである︒﹁舍﹂より﹁﹂の方が重い犯罪であ
り︑兩者を分かつのは事實を知っていたか否かであったと考えられる︒
ただし﹁﹂と﹁舍﹂は﹁事實を知っている↑↓知らない﹂という二律背反の關係にあるのではない︒54~59鯵には某
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
245
-
人の身柄を﹁舍﹂し︑その家の﹁*舍者﹂が﹁その事實を知っていれば﹂という�言が現れる︒﹁舍﹂は﹁知﹂﹁不知﹂を
問わず︑某人の身柄を留め置くという廣やかなG味を持っており︑そのうち事實を知って留め置くという行爲が︑特に
﹁﹂と呼ばれたのであろう︒﹁舍﹂とは對照$に︑﹁~をし︑事實を知っていたならば⁝⁝﹂という言い囘しが見られ
ないのは︑﹁﹂とあれば﹁事實を知っている﹂のは自<だからであろう︒
以上︑﹁�律﹂の*aな內容について︑その原則を鯵單に整理した︒さらに詳細な解說は譯�の各部分に讓りたい︒
七.﹁�律﹂の書寫年代と抄寫の背景
紀・張案に據るならば︑﹁�律﹂は複數の人閒が︑ある#度の時閒をかけて徐々に完成させたテキストである︒そこに
收められた諸規定にも成立年代の怨舊がある︒正確な比定は難しいものの︑﹁�律﹂の年代觀を示す手かがりをいくつか
紹介しておく︒
まず﹁�律﹂の中には紀年を持つ規定が五ヵ條ある︒その紀年は始皇十四年
(V二三三)
七�
(66鯵)︑二十年
(V二二
七)
閏九�
(44︑70︑76鯵)︑二十五年
(V二二二)
五�
(45鯵)
の三種で︑從って﹁�律﹂は瓜一以Vに制定された條�を
そのなかに含んでいることになる︒睡虎地秦鯵
(法律答問163)
とほぼ一致する條�
(43鯵)
も︑瓜一以Vにéるものだろう︒
一方︑用語・用字に�目すると︑瓜一以後の用法にほぼ揃えられている︒たとえば﹁故徼﹂(81︑100︑103鯵)︒これは里耶
秦鯵の﹁名´書﹂(⑧461)
に︑
邊塞曰故塞︒毋塞者曰故徼︒
邊塞を﹁故塞﹂と呼ぶ︒城壁のない場合は﹁故徼﹂と呼ぶ︒
東 方 學 報
246
-
とあるとおり︑瓜一以Vの國境線の︑城塞のない箇�を言い︑瓜一後の用語であることは<らかである︒また始皇>以V
の用語とされ︑睡虎地秦鯵には見える﹁同牲
(生)﹂(秦律十八種151)
も﹁�律﹂では﹁同產﹂(6鯵)
に改められ︑同じく
名´書に︑
曰產︑曰族︒
とあり︑﹁生﹂を﹁產﹂に改めるよう指示しているのと一致する︒さらに私2奴隸は專ら﹁奴婢﹂と書かれる︒從來︑睡
虎地秦鯵では私2奴隸が﹁臣妾﹂とされるのに對し︑漢初の張家山漢鯵では﹁奴婢﹂に變わることが知られていたが︑里
耶秦鯵を用いて﹁臣妾↓奴婢﹂という用語變の時9をeった陳洩によると︑﹁臣妾﹂の下限は始皇二十八年八�︑﹁奴
婢﹂の確實な初見は三十二年六�であるという﹇陳洩二〇一七﹈︒
用字の特色として興味深いのは︑﹁�律﹂のなかに﹁辠﹂(82鯵)
と﹁罪﹂(1鯵など多數)
の兩者が現れることである︒
睡虎地秦鯵では專ら﹁辠﹂字が用いられるが︑龍崗秦鯵では﹁罪﹂字に變わり︑﹃說�解字﹄の︑
秦以辠似皇字︑改爲罪︒(一四y下)
秦は﹁辠﹂が﹁皇﹂という字に似ているので︑それを﹁罪﹂に改めた︒
が實例によって確かめられる︒同じく陳洩によると︑﹁罪﹂の初見は始皇三十四年六�で︑始皇三十年五�頃からこの年
に至るまでの何れかの時點で︑用字の變がµこったという﹇陳洩二〇一六﹈︒﹁�律﹂という一つのテキストの中に新舊
の用字が混在しているわけである︒
これらの手かがりを總合すると︑﹁�律﹂の�²$な書寫年代は﹁罪﹂字の¶用開始が推測される始皇三十年以影であ
る︒條�自體の成立年代は瓜一以Vにéるが︑二十年や二十五年の紀年を持つ條�でも﹁辠﹂は﹁罪﹂と書かれており
(45︑76鯵)︑三十年以影︑用字や內容が吟味され︑必aな校訂が加えられたテキストであると考えられる︒一方︑書寫年
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
247
-
代の下限は定かでないが︑二年律令に現れる罰金𠛬﹁罰金~兩﹂は見えず︑その內容は秦代のものといってよい︒
�字の校訂については︑すでに営べたとおり︑紀・張論�が多くの改訂箇�を列擧し︑さらに校訂部分とそのV後の筆
跡が衣なること︑すなわち某人の書いた�違を別人が校訂した可能性のあることを指摘している︒校訂箇�のなかには︑
一つの�字を·り︑そこに﹁田典﹂(1︑4︑61︑63鯵)
の二字を押し4んだものや︑﹁縣□﹂を﹁縣N官﹂(27︑73鯵)
ない
しは﹁縣N者﹂(93鯵)
に改めたケースが目立つ︒V者については﹁�律﹂�見のあらゆる﹁田典﹂が書き改められてい
るので︑單なるb記の修正ではなく︑用語法の變を承け︑特定の語を一括して﹁田典﹂に書き奄えた痕跡かと思われる︒
一�字分のところに﹁故徼﹂の二字を押し4んだ例
(100鯵)
も︑﹁徼↓故徼﹂という變に對應した校訂かもしれない︒
また44鯵の﹁盡論之如律﹂では︑﹁如﹂と﹁律﹂の閒に一字分の空白がある︒歐揚はこれについて︑元々﹁盡論之如�﹅
律﹂と書かれていたものを︑﹁�律﹂に收めるに際して校訂したのだと*張する﹇歐揚二〇一六﹈︒﹁�律﹂であるのは自
<なので︑﹁�﹂字を·除したとの理解である︒この*張を�け容れるなら︑これもまた校訂の一¸であったといえよう︒
ただし﹁�律﹂の語がすべて﹁律﹂に改められているわけではない︒﹁故徼﹂についても﹁徼﹂のままである例が多い︒
これらの用語については校訂が園底していないと言わざるを得ない︒﹁辠﹂字が殘るのもまた︑訂正漏れの一例といえよ
う︒本解題の冒頭で営べた﹁決して出來の良い寫本ではない﹂という印象は︑こうした點から得られるものでもある︒
そもそも︑このテキストは完成品ではなく︑正本を作成する上の︑作業用のファイルなのではないかと思わせる¹も
ある︒﹁故徼﹂への書き奄えが見える100鯵には︑一つの�字を﹁從誘﹂に改めた箇�もあり︑訂正が多いが︑この鯵の後
¡と完oに同じ�違を記した鯵が他に存在する
(103鯵)︒こちらは�字が等閒ºに書かれて校訂の跡がないものの︑100鯵
と同じく︑(常は﹁畀其*﹂と書かれる句が﹁畀*﹂とされている︒改訂箇�の多い100鯵を含む條�o體が別の鯵に書き
直され︑その末尾部分が103鯵なのではなかろうか︒以上の推測が正しければ︑この册書は條�集を+集するための作業用
東 方 學 報
248
-
ノートであったと見ることもできるだろう︒
こうした+集作業は�字の校訂に止まらなかった可能性もある︒たとえば71~74鯵は︑
𠛬とされた者の�や犯罪に
ついて規定するが︑その後段では︑
𠛬地に再び身柄を»るべきところ︑それを怠った官.への科罰と︑罪人一般の移»
を怠った官.への科罰とがあわせて記される︒あたかも︑
𠛬とされた者に焦點をすえて作成された條�の一部に︑類似
するその他のケースを書き加えたような6Eになっている︒もちろん元の詔敕がこうしたfをしていたのかもしれないが︑
やはり複數の原
料を總合した結果であると考えるのが自然ではなかろうか︒
廣瀨薰雄に據ると︑秦漢時代︑君*から下された詔敕は各官署で保存・整理され︑さらにその規定部分が拔粹され︑職
務¿行の指針として用いられており︑これが我々の目にするところの︑出土した律�・令�であるという﹇廣瀨二〇一
〇﹈︒右に指摘した+集作業の痕跡は︑廣瀨が言うところの﹁個人が自由にいくつもの皇>の詔
(王命)
を切り貼り﹂﹇同︑
一七二頁﹈する中で殘されたものだと︑ひとまずは考えられよう︒
ただし︑複數の筆跡がめられるからには︑﹁切り貼り﹂の*體は一個人ではない︒おそらく相應の地位にある者が複
數の人閒に命じて行わせた作業であろう︒さらに想宴をしくすれば︑それがまったく私$な營爲ではなく︑公務に屬す
るものであった可能性もある︒里耶秦鯵には︑縣に�屬する部局の一つが︑屬.を縣廷にÀÁして手持ちの法律集を校訂
させた記錄が見える︒
卅一年六�壬午朔庚戌︑庫武敢言之︒廷書曰︑令
操律令詣廷讎︒署書到・.µ時︒2e︒●今以庚戌Á佐處讎︒敢
言之︒(正)
七�壬千日中佐處以來︒/端發︒
處手︒(背)(⑧173)
始皇三一年六�壬午朔庚戌
(二九日)︑庫嗇夫の武が申し上げます︒縣廷からの�書に﹁書記官に律令を持參して縣
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
249
-
廷に來て校訂をさせよ︒この�書がいつ屆き︑役人をいつÀÁしたか^信せよ﹂とありました︒再度の督促があり
ました︒●いま庚戌の日に佐の處をÀÁして校訂させます︒以上申し上げます︒(後略)
かかる校訂による法�集の怨を念頭におくなら︑﹁�律﹂は數Kの校訂により怨條�がe加され︑古い用語が書き改め
られたテキストであったという想定も許されるだろう︒
こうしていくつかの﹁可能性﹂を擧げてゆくことはできる︒だがそれはあくまで想宴の域を出ない︒かつ冒頭に営べた
とおり︑嶽麓鯵についてはこうした推測を竹鯵の出土狀況から檢證することができない︒﹁相應の地位にある者﹂なとど
言ったところで︑墓*の地位を副葬品から推測することはできないし︑そもそも墓葬からの出土鯵なのかも分からない︒
嶽麓鯵硏究がえる根本$な問題がここにある︒今後も精讀をjめ︑テキストの中になにがしかの傍證を求めていくほか
あるまい︒
�(1)
陳松長二〇〇九︑七五頁︒嶽麓鯵がもともと墓に副葬されていたとい
うことは︑なかば公然の事實としてFわれているように感じられるが︑
それを客觀$に證<しうる論據は︑嚴密に言えば存在しない︒
(2)
陳松長二〇〇九によると︑八つの束から取り出した鯵のうち比�$
整ったものが一三〇〇餘枚︑收藏家からの寄贈分では整ったものが三
〇餘枚であったという︒
(3)
ただし︑睡虎地・張家山ともに出土竹鯵の總數は一〇〇〇枚#度で︑
嶽麓鯵の方が壓倒$に多い︒
(4)
「〼七年質日﹂は始皇二十七年のものと考えられるが︑八�朔の干荏
が里耶秦鯵
(⑧
133)と一致しない︒これは質日のb記であり︑そう
したb記がµこった背景については李二〇一二に論/がある︒
(5)
一方で︑﹁楚鯵﹂﹁秦鯵﹂といった呼稱の︑命名の基準自體が變しつ
つあるのも確かである︒たとえば陳洩は﹁楚鯵﹂を﹁戰國時9に楚が
荏�していた地區で出土した竹鯵﹂と定義する
(陳洩二〇一六︑三
頁)︒これに對して馮Â君は
①楚地から出土した"物であっても︑
作成地は他國である場合もあること︑②楚の�字で書かれていても︑
それは他國のテキストを楚人が抄寫したものである可能性が高いこと
を指摘し︑﹁楚鯵﹂よりもむしろ﹁某系�字の特vを備えた抄本﹂と
呼ぶのが穩當だとする﹇馮Â君二〇〇七︑二五五頁﹈︒o體として︑
�字
料が出土した"6の年代よりも︑�字
料自體の年代や書寫者
の出身地が目安にされる傾向にあると言ってよい︒こうした變は︑
�字學$知識の閏實によりテキストそのものの書寫年代が議論できる
ようになっていることに因るものではあるが︑その背景に盜掘鯵の增
東 方 學 報
250
-
加があることは否めない︒
(6)
素材の科學$分析による年代比定も重aだが︑%年は盜掘墓の木材を
利用した贋物も出現しているという﹇胡�生二〇一五﹈︒
(7)
嶽麓︹壹︺﹁附錄﹂によると︑﹁番號カード
(﹁+號牌﹂)がなかったの
で︑この一〇〇個の番號は缺けている︒赤外線スキャンをするときに
怨たに取り出せた二枚の鯵と+號が重なっていた三枚の鯵はすべて201
~300號鯵のなかに+入した﹂という︒
(8)
この二七枚
(以下﹁出土位置不<鯵﹂)に完形の鯵はなく︑せいぜい
一〇㎝#度の斷鯵ばかりである︒そのうち一六枚の鯵については︑そ
の寫眞がすでに報吿書の中に見えているが︑八枚は他の斷鯵と直接接
續するものとされている
(2179と
2198は出土位置不<鯵同士の接
續)︒21
73+
0137(數115︑束1)
2174+
1840(爲獄212︑束7)
2176+
1501(爲.59︑束6)
2179+
2198(數208)
2182+
1646/1648(爲獄229︑束7)
2183+
0913(爲獄217︑束4)
2186+
1649(爲獄210︑束7)
さらにKの三枚は︑直接は繫がらないものの︑他の斷鯵とともに一つ
の鯵を6成するものとされている︒
2177+
1117(三十五年質日3︑束4)
2184+
1088(爲獄213︑束4)
2197+
0799(數207︑束4)
こうした傾向から︑+號を與えた後の破損でできた斷片に別の+號を
振ったものかと推測する︒作業²了後に增加した鯵︑ということであ
れば︑作業中にはぎ取り損ねていた鯵などもこの出土位置不<鯵に含
まれるものかと想宴する︒
(9)
以上の︑殘鯵整理の經雲と+號の改訂については陶安二〇一六︑六一
~六四頁參照︒
(10)
そのなかには一枚が複數の斷片から成るものも含まれるので︑斷片も
一枚と數えれば︑計四〇一枚ということになる︒
(11)
鯵の背面に線が刻まれ︑それが�列の順序と對應する場合があるこ
とはかねてから指摘されてきたが
(例えば湖北省荊沙鐵路考古Å一九
九一︑四頁)︑これにo面$な檢討を加え︑より議論を掘り下げたの
は孫沛陽二〇一一である︒さらに韓巍二〇一二は北京鯵﹃老子﹄を題
材にして刻線を論じ︑それが竹鯵作成のVに刻まれたことを論證した︒
鯵の斷裂を招くような深い刻線ならともかく︑墨線の場合は︑竹を割
り︑整形し︑殺靑する行#のなかでえてしまったのではないかとい
う素朴な疑念が殘るものの︑竹鯵の背面に整形が加えられていない
ケースも少なくないことは李天虹二〇一一に指摘がある︒
(12)
對照圖には他にも問題がある︒まず擧げられている鯵に重複が多く︑
<らかなb字や餘分な圖版の揭出も少なくない︒また﹁第一組正背反
印�對照圖﹂は四頁に/ぶ
(三〇三~三〇六頁)が︑實のところ第一
組に屬す鯵は�初の一頁で²わり︑殘りの三頁に擧げられているのは
第二組・第三組の鯵である︒
(13)
これらの反印關係のなかには︑筆者の目では圖版から確できなかっ
たものも含まれる︒
(14)
一つの條�內の鯵の�列のみならず︑各條�の�列においても紀・張
の復原案に從うべき點があることは︑宮宅二〇一七を參照のこと︒
(15)
「復作﹂とは︑恩赦などにより𠛬徒身分からは解放されたものの︑そ
の後も同じ©役地で勞役に從事した者︒宮宅二〇一一︑第四違︒
引用�獻
大川俊隆・籾山
<・張
春龍
二〇一三
「里耶秦鯵中の刻齒鯵と﹃數﹄
中の未解讀鯵﹂﹃大阪產業大學論集
(人�・社會科學+)﹄一八號
嶽麓書院�藏鯵「�律」解題
251
-
大西克也
二〇一五
「﹁非發掘鯵﹂をFうために﹂﹃出土�獻と秦楚�﹄
第八號
胡
�生
二〇一五
「鯵帛の辨僞と液出鯵牘の救出について﹂(宮島和也
譯)﹃出土�獻と秦楚�﹄第八號
陳
洩
二〇一六
『竹鯵學入門
楚鯵册を中心として﹄(湯淺邦弘等譯︑
東方書店)
冨谷
至
二〇一四
「﹁骨董鯵﹂とよばれるモノ﹂中國出土É料學會
(+)
﹃地下からの贈り物
怨出土É料が語るいにしえの中國﹄(東方書店)
廣瀨薰雄
二〇一〇
『秦漢律令硏究﹄(汲古書院)
宮宅
二〇一一
『中國古代𠛬制
の硏究﹄(京都大學學D出版會)
宮宅
二〇一七
「嶽麓書院藏鯵﹁�律﹂の﹁廿年後九�戊戌以來﹂條
をめぐって﹂﹁秦代出土�字
料の硏究﹂班HP
(http://www.shin-
dai.zinbun.kyoto-u.ac.jp/sakki_pdf/20nengo9gatsubojutsuirai3_2017_
03_17.pdf)
籾山
<
二〇一六
『秦漢出土�字
料の硏究﹄(創�社)
陳
松長
二〇〇九
「嶽麓書院�藏秦鯵綜営﹂﹃�物﹄二〇〇九年第三9
陳
洩
二〇一六
「秦鯵牘中$“辠”與“罪”﹂鯵帛網二〇一六年一一�
二七日
陳
洩
二〇一七
「從“臣妾”︑“奴妾”到“奴婢”﹂鯵帛網二〇一七年一
�二七日
馮
Â君
二〇〇七
『郭店鯵與上B鯵對比硏究﹄線裝書局
韓
巍
二〇一二
「西漢竹書︽老子︾鯵背劃痕$初步分析﹂﹃北京大學藏
西漢竹書︹貳︺﹄(上海古籍出版社)
湖北省荊沙鐵路考古Å
一九九一
『�山楚鯵﹄(�物出版社)
紀
婷婷・張
馳
二〇一六
「︽嶽麓肆・�律︾+聯芻議
(精鯵版)﹂鯵帛
網二〇一六年九�一二日
李
天虹
二〇一一
「湖北出土楚鯵
(五種)格式初析﹂﹃江漢考古﹄二〇一
一年第四9
李
忠林
二〇一二
「嶽麓書院藏秦鯵︽質日︾曆朔檢討
︱︱æ論竹鯵日
誌類記事ç册與曆�之區別︱︱﹂﹃歷
硏究﹄二〇一二年第一9
歐
揚
二〇一六
「嶽麓秦鯵︽�律︾日9µ首律條�初探﹂﹃第六屆“出
土�獻與法律
硏究”曁慶祝華東政法大學法律古籍整理硏究�成立三
十周年學D硏討會論�集﹄
孫
沛陽
二〇一一
「鯵册背劃線初探﹂﹃出土�獻與古�字硏究﹄第四輯
陶
安
二〇一六
『嶽麓秦鯵復原硏究﹄(上海古籍出版社)
于
振波
二〇一〇
「秦律中$甲盾比價/相關問題﹂﹃
學集刊﹄二〇一〇
年第五9
Renfrew,A.C.,二〇〇〇
Loot,LegitimacyandOwnership:TheEthical
CrisisinArchaeology,London:Duckworth.
附
記
本稿は﹁秦代出土�字
料の硏究﹂班における議論を土臺にして執筆され
ている︒貴重なG見をくださった班員の方々に改めて感謝申し上げる︒また
本稿は日本學D振興會科學硏究費補助金
(基盤B﹁中國古代の軍事と民族
︱︱多民族社會の軍事瓜治︱︱﹂︑課題番號
25284133)︑/び京都大學硏究
連携基盤・K世代硏究者荏�事業による硏究成果の一部である︒
東 方 學 報
252