title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法...

22
Title 顓頊暦元と歳星紀年法 Author(s) 橋本, 敬造 Citation 東方學報 (1987), 59: 323-343 Issue Date 1987-03-31 URL https://doi.org/10.14989/66667 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Upload: others

Post on 30-Dec-2019

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

Title 顓頊暦元と歳星紀年法

Author(s) 橋本, 敬造

Citation 東方學報 (1987), 59: 323-343

Issue Date 1987-03-31

URL https://doi.org/10.14989/66667

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

(i)

i九七三年'擁折銀寒山2淡義から出土した曾健のなかに

l年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年

(紀元前

1

三由年)・の暦にあたると、比定されている0すなあち'陳久金

-練美東の爾氏によれば'太初改暦

爪紀元前

が〇四年)

前のも釘であ

って'その朔閏干支が

『資拾遺鑑冒鋒』に記載されている前漠の武帝拾下撃冗光元年の摩譜にも

っともよく

適合するとされているのである。

従来'堪代初期に用いられた暦法については'後述するように版項暦であ

ったという主張と投暦であ

ったという説とに

分れていた.銀雀山

2鹿蓋出土の.麿語は・'こ-つし・た両説のい

ずれが正しいかというこ・と.につ.いて解答を撃

三七くれるも.の

であ

った。

他方'常時の暦法の起算の基礎となる暦元についてはへ

1九七三年'長沙馬王堆

3親墓から出土した五惑星の運行の記

3FZE

夢との係わりが重要な意味をもつと考えられている。五惑星のうちの記載が冬

bれる水盛、土星、および水屋の記事の年

代の分析

によ

って'紀年法に係わる従来の'文献に基づ

いて立七られていた償説がはからずも検蓋されることはなり'陪

賓暦の成立と歳星紀年法の成立とのあいだに何らかの結びつきがあることが認められるOこのホ論は'そうした結び

つき

のうちでも'額貢暦元と歳星紀年絵の成立期とのあいだに密接な関係があること、および顔盈紀年法から岩頭紀年法

への

移行の天文撃的前提について論じるこ

とにある。

蘭頚暦元と萄盈紀年壊

Page 3: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

∵方

」臨折銀雀山

2窮基出土の暦譜

三二四

-陳久金

-陳美東の論文には'

この暦譜の比定のために'『資治通鑑目録』のほかに'『漢書』「五行志」

の元光元年の日

(急)

食の記事を挙げている。rすなわち'

(元光元年)七月'発未'▲先晦

l日十日有食之O

(4)

『漢書』にはあるOこ

の日食は'紀元前

二二四年八月

1九日に起こったものであるが'この日は干支が竹簡暦譜の

「発

未」と

1致する。と

れ麿こ

の暦譜の年代比定の決定的な澄凌となった.のである。しかし'問題は七

の暦法が離溶暦か否か

という鮎にある。

(L・5)

『史記』「張蒼侍」によれば'

漢は'はじめ秦の十月歳首暦を用いた、

とあるように'轟から溝の初期にかけては'甑

頁暦が使用されていた。漠になってもこの暦が採用されたのは'『漢書』「律暦志」に見られる理由付けによれば'北軍侯

ヽヽ

ヽヽ

張蒼切助言によって'この暦が

「はか空

ハ麿に比べ畠

と'それらがどれも疏閲であったもののなかでは、いちば読後近で

ハ-)

あった」からであっ.た。̀

『後漢書』「樺暦志」にも'泰畠の言葉を引用して'漠初には秦の髄須磨を用いたこと'

および暦元には

「乙卯」を用

いたと書き'併せて'「膳墳暦塵に日工

天元正月'己巳'朔旦'立春へ倶に日月を庵

って天廟密室五度に起く」と続け

でこ

ている。

『春秋長暦』の作者'潔

の劉養受渡∵

しかし、「漢初は'秦を承げ、--駿暦を軍っO

或いは目上

顧致暦を尊っとO

(毛)

今'劉氏長術は雨つながらこれを存す」と述べている。さらに蒲の在日栂の

『暦代長術輯要』では'般暦と駅項暦の撃方

Page 4: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

BIEi.爪

紀よって計算しているが'般暦の方が史賓によく合うのだとしているO

陳垣はそれをうけて、

駿暦によって'『二十史朔

閏表』を作ったのである。

こうした漢和の暦法の議論に射して'元光暦譜の曾簡は、決定的な澄嬢を輿えてくれたものという位置付けができる0

陳久金

・陳美東は、『開元占選』

一〇五に琴与りれた古暦の上元積年の値を用いて'暴項暦の上元の方は正月己巳朔旦

立春より起算し、他方へ般暦については十

1月甲子朔旦冬至より起算して'これら南暦の朔日の干支についての結果を竹

B必E

・・i:

・・JI=・・

∴・:i・㍉

・・・=・y・・.・

J・=・・L・・・:・-

・;・・・・・

:・・・・,=・・・・・I・・∴

・:・Ji5・・・J!l・=i・・:・

I-

・・

の法

九年間の月数は言

2Bx19・7B-235年二

同琴

の窄均月数は縄

B)に讐

ものとすれば'朔策すなわち

朔望月の長さは

29鋳

日となるoさて'

(巨謝辞滞日轟)×(酔瑚)

60

の蘇りが'厳頭暦の

合は立春の日の'段暦の場合は

至の日の干支になる。ただし、前者は

六十干支の己巳から'後者は甲子から教えはじめる。前者の結果は、飴りは3'すなわち壬申

となり'暦警

が、箸

の飴りはBSi

であるが'

整数のみ誓

って、甲

子から警

ると

元光元年の冬至は丁亥になり'暦譜の丙戊と

1日の差が出てくることになる。

朔日の干支の方はY

.115m蘭冊(ti.ぐノL/琵出

船)jlOj蓋SE775,6jf:~隷蘭仙(Ti.㌻

L/琵軒

琳)jjojmajRVU世JZJ

料dOjm簿

60

つまり'

i.・!・・1∵

:・・,

I,.i.'・.Z・:,)....';.I':,['J・・・;..:,;・L・・

、1㌧

,I.I:.・・=,1

60

によって得られる繰りが、各月のT日の干支蕃鵬の値となるo陳久金

・陳美東の両氏は'その

巌恵腰元と鹿屋紀年法

Page 5: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

表2 元光元年 (前134年)の朔日の干支

三二六

(〓)

結果を表示しているが'その推算結果を元年元年暦讃および

『暦代長術

輯要』と比較した部分のみを示してお-

(義

2)0

『開元責経』の記載に誤りがないものとすれば'竹簡暦譜に見える磨

日によって'太初改暦以前の漠の暦は縮須磨であったことが澄明され'

逆に'股暦であるとした

『歴代長術輯要』の推算'およびそれに従

った

陳垣の

『朔閏表』の漠初の部分は史資に合わないものと考えな-てはな

次に'

陥項暦の性格について見ておこう.『史記』・『漢書』には'

れについての記載はないが'すでに利用した唐の

『開元占軽』によれば'

上元乙卯から開元二年までの積年敗が記載されているのである。その乙

卯元の年は'前適の己巳をも

って立春合鞘の日とした部首になっている

のであるが、これについては説明が必要であるから'漠代以降の文厳に

(ほ)

よって覇琉暦の構造を考察しておくOそのために新城新藤博士の解説を紹介してみた

.

四分暦法の表

である雲

暦は'

の長さを365中日とした十九年七閏の法に基づいたものである。

年すなわち

1葦の閏に七閏月を挿入すれば、

1章の年月の後には'

朔と季節はもとの状態にもどるが、日の端数が頻り.・したがって

時刻に関してはもとの状態にはもどらないOしかし、四章つまり七六年を

1蔀とすると'

1蔀の年数を隔てて'用と時刻

と季節とは'いずれもはじめと同じ関係に同婦する。しかし'さらに朔日の干支についても同

一の干支に循環させるため

は、

一紀すなわち二十都すなわち

一五二〇年の期間が必要である。さらに

一元、つまり三紀すなわち四五六

〇年の間隔

Page 6: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

をとると'歳の干支もまたはじめと同

7の干支にもどり'すべてが再び元始の欺髄荘

同轟するのであるOただし'古四分

暦に

は'五惑星の遅行の間期は考慮されていないから'後代の

『開元占経』に見られるような叢大な敗はでてこないo

蘭虜暦は'′こうした構造のもとに∵

冗始の基準の歳として'紀元前三六六年'ないしはへ

それよりも

〓冗=

三紀=

六〇

蔀=二四〇章-四五六〇年ばかり滴った'前四九二六年を採用した暦法であったが'冬至をとる段磨などとは異なり'立

春がちょうど孟春の月の朔のあけ方

(「旦」)花あたるとしたもので'その上'立春の日の干支は甲寅であり'この歳を暦

元として'甲責の歳と構えるというものであった。

3働E

髄索暦が制蔑された時期については、新城数によれば、春秋後期から戦闘初期に行なわれた周正人すなわち冬至月すな

わち建子月が正月にあたる)が二ケ月ずれた夏正

(建寅月が正月になる)に切り換えられた時期と

1致するはずであるこ

と'また漢初の日食が多-晦にあるのは'この暦初がある程度の年代を程たため'暦面と合朔との関に次第に差を生じる

ようになってきていた結果であるというこ

と'こ

の二つの理由によって'紀元前三五〇年か三六〇年の頃の戦国中期に賦

層暦は制定されたのであろうと推定されている0こ

の制定時期については問題として凍り、後に再びもどってきたいO

『港南子担「天文訓」には'「天

(II太陰)の元始は'正月は寅に位置する

(「建寅」)o

その時、

・月はともに讐室

はL)

(14)

の膚の五度のところに入る」'「太陰の元始は甲寅に建まる」などと書かれている.これらの記事は'『准南子』の編者は'

緬項暦を前提にしていることを示している。しかも'太陽や月の位置がどこに-るかが重要であって'木盟の地平線現象

すなわちへ-アカル・ライジングは全-問題にされていない。すなわち'暦元は甲寅の顔の寅の月の正月にあること'そ

して正月の邦には'太陽と月

(および五惑星)がすべて二十八宿の替室の五度にくるというわけであるから'その時穀は

立春以外にはありえないこよは明らかであり、資は'冬至のときに牽学研度に太陽や月が位置するとしてはじめて'立春

に管主五度にくることが可能である。このことは'要するに賦項暦は真正を用いた事賓を示しているのである.

街琉腰元と歳盈紀年法

三二七

Page 7: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

三二八

『准南

の記事だけでは'∫暦元のときの日の干支はわからないOこの鮎墜

自及しているのは、-劉商の

『政審倦』を引

用した

『後漢書』「律暦志」であるOそこ

には次のように書かれている。

劉向

『改革樽』に日-、「暦紀は厳項に始まるO

上元太始'掃蒙轟提格.(すなわち甲寅)の歳、

撃取の月'朔日己巳

(LI._)

は立春'七曜は倶に管主五度混ありへ是なり」と.

さらに劉浜の文章の引用が見られ'そのなかに'

V脈E

・・・-己巳駁頚は秦の施し用いるところ--乙卯の元'入正、己巳、朔旦'立春'三光は天廟五度に衆まれり.

と書かれている0これによって'橿膚暦元は甲寅の歳の'寅の月の'己巳の朔日の立春にあたるこ

とが明らかになり'し

かもそのときの立春の時刻は、賂且にあたることがわかるのである。.清の顧観光が

「厳頭は夏術へ人正の鞘となす。赤絵

(t;)

は四百四十

一以上'その月は大なhリ」と書く通りである。

髄増感については、康代の謄

1行が

「大給暦議」のなかでかなり詳し-、統

一的に論じた。『新暦書』「暦志」に書く。

H

岩頭暦上元甲寅歳、正月r

甲寅'夢覇、合朔立春'七曜みな民雄の首にあたる。

肖その後、呂不葦これを得て、も

って奏法となし'更ども中星を考え'断じて近距をとり'乙卯の歳の正月己巳'合

朔立春をもって上元となす0

魯の宣公十五年tT卯の歳'筋頭の第十三葦首tTE卒旦立春をも

っても始皇三十三年丁亥に至ること'およそ三

(柑)

百八十三歳'・蔽頭暦の空中蔀首を得たり。

の文献に見える語嚢については'こ

では詮策し寵いがへ要するにへ暦元の歳は、呂不寒が

「近距」として採用した

年代に

1致するこ

とを論じ'稲碩腰元の甲

責の歳と'後浬以来に明らかにされたようにその歳は乙卯の歳であるという説

との整合をはかるためのものである。そのためには'賓は超厳法という劉歌の夜風を媒介頓に入れて考察しなくてほなら

Page 8: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

い。これと係わるのが経年法の問題である。

『開元占笹』に輿えられた数値によれば'臨項暦元

(「近距」)にあたる紀元前三六六年

(周覇王三年)は'署は'乙卯

の歳になり、正月朔立春の干支は甲寅になるが、この歳名そのものは甲寅と

1年の差違がある0しかし'現在につながる

この干支紀年法は、後漠以降のものであるから'

1年ぶんの超辰致束を考慮に入れると、この歳は甲寅の歳にあたるので

ある。

さて'前途の

1行の胃の儀論によれば'呂不寒が秦の暦法として爾褒暦を採用したとされている。しかし、十月を歳首

とする厳頭暦は'陳久金と陳発覚によれば、紀元前二四六年すなわち療胎盤元年に作られ、二三八年頃には使用され始め'

51胤血

武帝太初元年

(前

1〇四年)に太初暦に切り換えられるまで'約

二二四年間使用されたと推定されていた0

ハ糾)

1九七六年'雲夢から出土した秦簡の

『大事記』によれば'秦覇王五十六年

(前二五

1年)に後九月の記載がある。他

方、『史記』「秦本紀」には、それより早い秦昭袈王四十三年の記事では'はじめに十月があり'後に九月がきており'五

3矧E

十年にも'

はじめに十月がきて'後に二月の記事がある。

言うまでもなく'『呂氏春秋』には十月改顔の記述がみられ

こうした澄濠は'秦始皇元年以前の段階の、紀元前二五

1年までに既に十月を歳首とする暦法が存在していたという事案

を示している。

しかし'秦は統

一後に十月を歳首にしたという事貨があり'

しかも

『史記』「始皇本紀」の四年の項に'三月が十月の

前にきて'しかも十月

(朔)は庚貢であ

ったト」いう記通があり'さらに十三年は'正月が十月の前にきているから'少な

くともこの間に改暦が進み'改暦に努力した呂不葺が野に下った姶皇十年までに、改暦作業は資質時には終了していたも

(班)

のと'陳久金と陳美東は考えて

O

こうした磯暦の作業の進行と'長沙馬三堆

3硫基から出土した、秦姶畢

光年に始まる玉屋の運行表

は、前述の文厳のな

温肇暦元と歳盈紀年法

三二九

Page 9: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

三三〇

かに呂不葺が中屋

(南中時の里)を考えたとあることから'何らかの繋がりがあることを示唆しているかのように思える。

の間題は後に論じることにするが'十月を歳首とする暦法の賓旗

への過程は'夏正による献頚磨そのものの成立期とは

ずれているとはいうものの'嗣蛮紀年法

への韓行期とは年代的にかなり接近していたことは確かである。そこで、まず紀

年法の問題を組拓的にとりあげてみたい。

歳星紀年法の成立と展開

前漠末から儀漠初期にかけて干支紀年法に混乱が生じたが'その間轟を解決したのが

『三統暦』

にみえる凱歌の超辰法

であ

った.しかし'まず干支紀年法に移行するまでの'紀年法の発生とその肇達に崩れな-てほならないが'こ.の肇化が

賓はすでに見た暦元の干支の差違の問題と結びついているのであるO

短期間の治世年氷いわゆる元畿とともに、それとは関係のない天文撃的な周期性をも

つ紀年法として、まず出現したの

(23)

が蔵屋紀年法である。歳旦紀年法は'木星が十二年間に

1同天を巡ることから'周天を赤道に沿

って

一二等分して十二次

とし、

7年ごとに木星は

t次を進むと考えたところから費生した。

この十二次の排列は'酉から束

へという木星の見かけ

BI弧E

上の進行方向と

1致し'その名稀はよく知られている

'

屋紀

玄椅

赦醤

降婁

大梁

薫沈

、鴇首

鶏火

藷尾

大東

折東

という順序にな

っている。

他方'木履の進行方向とは逆に周天を十二等分してへ亙

れを十三辰と覇王

十芸次とは逆の.方南に東から酉

へと区分し

て、冬至鮎に太陽がくる位置を北方の

「子」にあて'順次'十二支をも

って記した。したが

ってこ

の十二辰は'さきの十

Page 10: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

二次とは進行方向が逆になうている。歳星すなわち求星がや二次を移動してゆ-のと封稀的に'木星の連行とは逆の方向

(妨)

に移動する鏡像的な慣想天機を想定して'それを太陰'歳陰'大歳などと名付

これと関連して報国中期に出現したと考えられるもう

1つの重要な概念は'十二歳名である.

標準的な名博は

『東南

子』「天文訓」に記されたものであり'

涛提格

`軍閑

執徐

大荒落

教群

協冷

酒華

作等

覇茂

夫淵戯

困敦

赤奮若

(鶴)

とな

ってい一・.聖J

『史記』「天官書」'『漢書』「天文志」、『開元占経』'

あるいは

『爾雅』「滞天」にみえる名僻

・表記などと

のあいだには'いくぶんかの桑同があるが'本質的な相違とは考えられない。すなわち、たとえば'「天官賓」では犬荒

客が大荒騒、協治が叶拾とな

っており、『漢書』では件都が作洛'閤茂が掩茂と作られており'あるいは、作郡が

『爾雅』

では搾韮'『開元占経』では搾博となっているような寮であるO

長沙馬王堆3競墓出土の

『玉屋占』にも、十二歳名があ

がっているこ

とも注目に値しよう。

さて'十二次と十二歳名との関係であるが、鹿屋が星紀の次にあるときが起算の基準になっているとされており'そ

とき,69歳名を繍提格というO『史記』「天官書」に掃経絡

(YPooなど6星)の恒星を説明して'こう書かれている。

大角

(aBoo)は'天王の帝延であるO

その爾わきに'それぞれ三皇ずつ'

星があり'鼎の足のように鈎なりになら

んでいるのが鮪蛙である。梼蛙は北斗の柄の指すと

ろにあり'それによって季節を決めることから'揃提格という

のであtS)o

さて、掃経絡の歳には'歳屋は星紀に位置するが七歳陰

(太陰)ないしは太歳は十二辰のうちのどの辰に-るのかが問

題になる。歳陰と大歳は異なるものとした輩大断の説によれば'歳陰紀年法の場合は'歳星が星紀の

次に-るとき'歳陰

は寅の辰にあり'こ

の歳は稀提格にあたるとした。したがって'

1万は柿木と昆紀の箕の境界線と'

他方は青汁と的首の

凝頚暦東と鹿足妃年絵

三三1

Page 11: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

歳陰(太陰)紀年法

I,.・・;,::..jj(..:::.)

三三二

×

○太

囲1 歳陰 (太陰)紀年法と太鹿紀年法における歳星と歳陰ない

し太歳の位置関係O出典は新城新蔵 『東洋天文学史』(東

京,1928年),p.363.

次の境界線を結ぶ

直径を封稀線として、歳盈と歳陰とが鏡像関係になる。これに射して、太歳紀年法の場合は、盛運が玄

荷の次に-るとき、太鼓は丑の辰に位置し、星紀と玄再の次の境界線と、索火と鶴火の次の境界線とを飴ぶ直径を封稀線

にして.鹿屋と太鼓とが鏡像関係になるというのである

(圏-泰盛)0

Page 12: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

この解樺は'太初元年の歳名をめぐる混乱を解決するために提唱されたものであった。太初元年は現行の干支紀年法に

ょって逆算すると丁丑になるが'『漢書』「律暦志」によれば丙子'『史記』「暦書」では甲寅になっている。丙子と丁丑の

1辰のずれは'三硫暦術に基づいた

「律暦志」は劉歌の超辰法によったものであるという自明の事葺によって容易に説明

できる。

木星は正確にいえば'見かけ上

・八三年で全天を

一周する。したがって'正確には八二

・六年ごとに

一次のずれを

生じるはずであった。劉歌は'精度は決してよ-はなかったが'

一四四年ごとに

一次をこえて'

一四五次となるような超

辰法を考案したのである。そして'秦の八年

(紀元前二三九年)、

太姶二年

(前九五年)に超辰させ'

さらに後漠の建武

二十六年

(後五〇年)にも超辰する筈であったが'後漠には'この超辰法を用いず'軍に六十千文法でもって紀年を行な

った。それが後世にまで連続する干支紀年法になった。とも角'干支紀年法と劉歓の太鼓紀年法のあいだには'秦の九年

から漠の太始二年のあいだでは

一辰の差'秦の八年以前では二辰の差がある筈であって'太初元年の丙子と丁丑の史賓の

3耶E

記事の違いは簡華に説明できる。

問題は丙子と甲寅の二辰の差ということになる。これを解決するために'鏡大折は歳陰紀年法と太歳紀年法を区別しt.

司馬遷は前者を'劉軟は後者を用いて紀年したために'この差が生じたとした。責は'この丙子と甲寅の差違は'紀年法

の饗達の歴史にかかわる問題であり'甲寅を暦元とする限項暦とも繁って-る。歳星紀年法の成立から太初紀年法の成立

に至るまでの期間のなかにその解答があるのである。

新城論文によれば'『左侍』'『国語』

にみえる歳星の位置の記述は'紀元前三六五年

(周額王四年)を基準にとったも

のである。

それらの記事'すなわち紀元前七世紀中葉の

「重耳が秋に逃れた

(重耳奔秋)」(『国語』「曹語」)という事件

が起こった

「歳星は大火の次にあ

った

(歳在大火)」とき

(前元六五五年)以後'前五世紀はじめの陳の滅亡

(『左侍』昭

栢頭暦元と歳星紀年法

三三三

Page 13: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

魔2 紀年法の変遷 (陳久金による湖 中国天文撃史文集』挑 京,1978年),p.61)。

三三四

公九年)の

「蔵屋が鴇火の攻にあった

(歳在飛火)」

とき

(前四七八年)

まで

の記事については'紀元前三六五年をエポックにして木見の十二年同期に基づ

-歳塁紀年法の計算によって逆算するとうま-合致する。そこで'この年の観

八鮒)

測態采に基づいた歳星紀年法が始ったとするのである。この年には'歳星が皇

紀の次にあったことを推算聖剛鐙にしているわけであるから'葉陰には'歳星

紀年法はそれよりも少し後に開始されたのであろうという可能性が薫されてい

る。紀元前三六五年という森屋が星紀の次にあった年は'太陰ないし顔陰は十

二辰の寅の位置にあったOしたがって'その曲名は締経絡であったOこの紀年

の健系と繋がっているのが

『呂氏春秋』「序意罵」

「維秦八年'歳在繕濃」

という紀元前二三九年の蔵屋紀年の史料である

(固2

参照)o

紀元前三六五年は'『左樽』'『国語』などの歳旦記事の推算の基準になって

い-るが'前述の霜頭暦元とは

7年のずれがあるO賓際に木星がどの位置にあっ

(糾)

たかについて推算してみると'紀元前三六六年末にあたる十二月二十五日の冬

至の2日後頃から'三六四年の年初の

(前年の冬至後

一七日目にあたる)

一月

1日頃までの1年間飴りの期間は'木星は星紀の次にあったという結果がで

る。歳星が星紀の次にあり'それ七封照的紅顔陰が寅の辰にある顔を'すなわ

ち掃提格の歳としたのは'鏑大略説の+エ張では歳陰記年法ということになる.

-『涯薄手』「天文訓」

では

「太陰」が'『史記』「天官番」

では

「顔陰」が'

Page 14: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

表3 歳名と木星の位置との関係 (陳久金 「従属

王堆烏書 『五星占』的出土試探我国古代的

歳星紀年問題」,『中国天文学史文集』 (北

京,1978),p.55より)。

そして

『漢書』「天文志」(の石氏の説明)'および

『爾雅』「樺天」

では、「太歳」が寅の辰にあるとき'

歳星は

(二十八宿の)斗

・牽

(すなわち十二次の星紀の次)にあると書かれている。こうした

史書は、歳陰紀年法を説明しているわけであるが'歳陰は太陰

・太

歳などさまざまな名辞で呼ばれているものの'本質的な相違はない

3E5F:

とする新城説は'鏡大師の説を正したものと考えてよい。

『漢書』「天文志」に

'

石氏の太歳が寅にあるとき

「歳星は斗

・牽牛にある

(歳星在斗牽牛)」

という記述に績いて'

甘氏の

「建

・孝女にあり

(在建星孝女)」

と'

太初紀年法の

「管主

・東壁に

あり

(在哲室東壁)」という二つの異なる紀年法が記述されている。

後者の太初紀年法の場合は'二十八宿の管主と東壁は十二次では敗

砦の次にあたり'木星について言えば星紀からは二次だけ進んだ位置にあり'初期の紀年法とは二年ずれることの天文学

的な意味を反映している。しかし'前者の甘氏の紀年法の場合は'建星

・孝女は星紀と玄相の二次にまたがっているため'

歳星紀年法から太初紀年法への移行期の紀年法が存在したことを示唆しているのである。

3弛凸

前項暦は紀元前三六六年を元始甲寅の歳としていることから'新城説のいう顧頭暦紀年法がそれにあたる。その説によ

れば'前三六六年を甲寅歳と構えるこの紀年法は'街頭暦そのものの制定より百数十年後に始めて街頭暦に付加されたも

3楓E

のであろうと推定されている。

馬王堆3戟墓出土の売書

『五星占』は'この問題に解答を輿えるものであ

った。陳久金は'その木星に関する記事を分

蘭頚暦元と歳星紀年法

三三五

Page 15: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

三三六

析して前のような表を得た

(表3参照)。

この表は'太歳紀年法を導入した劉歌の説にしたがって'

鏑大折が論じたもの

T致する。歳星紀年法から臨頚暦紀年法への移行の背景として、紀元前四世紀中葉からすでに一世紀以上を経過して'

新たな観測が賓行され'従来の紀年法との差を生じていた木星の位置と暦面との調整がなされたと考えな-てはならないO

それは勿論'後に劉歓が記録を整理して尊兄した超辰法とは本質的に由来が項なるものではあったであろう。

三瀬墳暦元と畠書

『五産占』の意味

すでに述べたように膳預暦は'紀元前三六六年の立春を正月朔とする'いわゆる夏正を採用したものであった.それま

での古層は'暦元の基準状態を甲子

・朔旦

・冬至とする'いわゆる周正によるものであった。まず朔旦

・冬至の天文学的

な意味を顔盈紀年法と鎗びつけて考えな-てはならない。

51弧E

歳星紀年法は'紀元前三六五年に起算のエポックを置いて、観測に基づいて石撃bによーって導入された.新城説によれ

ば'宣公以後の紀元前六

〇〇年頃以降から周正を用いた

「春秋後期暦」が戦国中期の前三百六'七

〇年頃まで行なわれた

Pl配i:

であろうとされているOさて、前三六五年のエポックの年の前年の冬至は'前述の通り'前三六六年十二月二十五日にあ

ったはずである。このとき'木星は盈紀の次に入る少し前にあり'冬至後二日の二十七日になって'ほぼ星紀の次に入っ

たと推算できる。二十八宿にあ.てはめると斗宿のほぼ十度のところにきたoその時鮎で'太陽の方はほぼ牛宿の初産に入

っていた。十二次で言えば星紀の次にあり'木星と太陽は'二十五日の冬至の時鮎では'約十五度、すなわち幸次の距離

を隔てていた。二十七日には'こ

の間隔はさらに二度近-離れた。

とも角'『漢書』「律暦志」によると、「木星が品

え始めるときは、太陽から年次'離れている

(木'農姶見、去日今次)」とあるから、木星は'文字通り、

理想的な地琴

Page 16: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

線現象である

「農始見」.(へリアカル‥フイジング)の状態になっていたのであるO

この常時'

石串らのすぐれた天文聾

者たちによって木星の位置が追跡されていたと考えてよいから'歳陰ないし太陽が寅の辰にあるとき'「蔵屋は斗

・牽牛

(の宿)にあった」(『漢書』「天文志」)というのは'このときの尊兄に基づくものであったと解樺するのがごく自然であ

ろうOこの現象と'辞意暦とはどう結びつくかが次の問題であるo

顧頚暦では'この冬至を年末にもつ紀元前三六六年という歳の立春を正月報とする。この年の前年の冬至から起算する

と'この立春は四十五日後の二月八日に位置するはずである。そのときの太陽の黄綬は三1五旺'木星は賛躍二三五度に

ったOしたがって'髄頚暦の暦元の立春においては'木星のへ-アカル・ライジング

(「農始見」)という天文学的にみ

て理想的な状態には全くなっていなかったような時鮎が設定されたわけである。このとき木星の位置は、十二次に換算す

ると折木の衣にあたり'木星より八〇度東に位置していた太陽は'二十八宿では驚室の初度に接近していたから、十二次

ではほぼ叛砦の次に逢していたと言えようが'木星についての

「良始見」の意味は失なわれてしまうことになる。

試みに'それより

山年後の紀元前三六五年の立春について考えてみると'前述の理想的な冬至の時鮎から四十五日後の

二月八日にあたるo太陽の黄経は定義によって'やはり三1五度であるが'木星のそれは二六四度になり'依然として星

紀の攻にある

(二十八番では牟宿)O「農始見」とは必ずしも言えないが'木星が星紀の衣にある限り、歳名は掃経絡であ

ることには違いない。このように、

一年間を人為的に移動Lt木星の

「良始見」という現象を基準とする紀年法の寄生の

意義を残して'後代の少な-とも木星が寮際に一次ぶんを超反するだけの年数庖隔てた時鮎の天象によって'街頭暦元が

逆算されて設定されたのだと考えると'矛盾は解治されることになるO次に'そうした年代を確定しなければならないO

ここで注意しておかな-てほならないのは'冬至と立春との間隔は'常時の四分暦では

1年の八分の1(=

四六日)と

設定され.ていたが'賓際にはそれより短かく'四四

・二日である。しかし'二、三日程度の差違は'常時の観測の精度で

髄索暦元と鹿足紀年絵

三三七

Page 17: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

三三八

3牡E

は特に問題にならず

'

街頭暦元の設定に際しては'立春が甲寅の日になるヰつに進退させて調整されたと考えられているo

さJtJ、すでに述べたように、木星の位置は

'

1年に

1次という割合に封しては八二

・六年ごとに

1衣ぶん

(すなわち三

〇度)だけとび超すという熱栗が現われる。そこで紀元前三六六年の冬至から約八三年を隔てた冬至'すなわち前二八三

年の冬至の惑星現象をみてみるO冬至の日付は十二月二十五日になり'太陽の賛霞が二七

〇度であるのに対して'木孝の

それは二五五度になる。1両者の差はjl五度'すなわち寧次Iであって'賓際に木星のヘ-アカル‥アイゼンダが観測された

はずであるoそして、十二次の匡分によれば、太陽と木星とはともに星感の衣にあった。二十八宿でいえば'木星は斗宿

にあり'太陽も同宿の末尾にあ

った。八三年という間隔では'播捉格の歳には同鋸しないから、

一年の倍数である八四

年という間隔をとって'描提格の歳になるその糞年の紀元前二八二年を考え'この場合は、冬至ではな-て立春の二月七

日を考えてみると'木星の黄経は二六四度になり'棟然して斗宿'つまり星経の衣にあった。木星は太陽かち五〇度強の

距離を隔てて'

日出前に東の空に見えていた。「展始見」の状態ではなかったが、

少な-とも

「烏山東方」とは断言でき

るような状態であったO

∴ところがこの場合は'歳名については屠頭暦元を前堤にもて議論を進めてきたわけでぁるが、紀元前三六五年をエポッ

ク七する歳星紀年法では稀提絡め歳には戻

ってこないで、その前年の赤奮若の歳にあたるO真正に基づ-宿意暦によっても

前二八二年二月七日の立春から逆算すると'前三六六年±

二十五月の冬至までは'八三年と四四日になるが'冬至を

含む前三六六年は周正が用いられていたとすると'年数では八四年になり、

一二の倍数であるから両者とも摘提格の歳と

いうこ

とになる.・離碩暦の制定に際しては、冬至前を正月とする周正から正月が冬至月の2ケ月後の更正への移行には、

前述のような天文学的現象が考慮された結果であろう.駅頭暦による紀年法への移行は、こ

の年代以後に起こったと解揮

するのが無理のないとこ

ろである。

Page 18: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

そこで、挿提格のなかでもrt特に同じ甲寅の歳に同席す各年代を考えると'紀元前二四六年になるO即ち'秦始皇元年

にあたるrJこの年の立春

(二月八日)における木星の位置を確認してみ二.Oと'葦経二七六度のところにあり

(斗宿)'

紀の次にあったo太陽の万は暫室の初産'したがって蝿皆の衆に入ったとこ

ろであった。

両者の距離は四〇度であり'

「農出東方」の状態が線いていたO他方二・木星が

「農始見」ゐ

状態になったのは'立春に先立O.前二四六年

1月八日であ

り'そのとき太陽は黄経二八五度

(二十A宿に換算すれば女宿)」木星は二七〇琴

(斗宿)にあり1前者は玄得の次に'

後者は里紀の次にあった。こ

れより

1四日前の冬至

(前二四七年十二月二十五日)には'木星は苛程二六六度

(斗宿)に

あり'木屋は太

陽に接近しっつあり'両者はともに星紀の攻にあった。

しここで'さきにあげた去漢書』「律暦志」の甘氏の酷年法'すなわち

「太顔は寅にあり、歳星は連星

・務女にある」と

いう記事が意味をもってぐるO前二八二年

(赤奮若の歳)聖止春には'禾星の黄経は二六四度になるが'依然として星紀

の次にあり'太陽との距離ははば五〇度に近かった。豊年の稀提格の読

(二八

一年)の立春

(二月八日)には'木星の黄

経は二七六度になり'斗宿から女宿の初産に接近しており'十二次では玄糟の次に入りつつあった。「甘氏」の紀年法は'

この時代の天文環象を反映していると考えることができ、石氏のそれが歳皇紀年法の成立期の紀元前四世紀前辛のそれに

基づいているのとはへ本質的な違いがあると解揮できよう0すなわち'甘氏の方のそれは'前三世紀前年の願意暦の形成

期の結果を残したものと考えるのが安雷であるO

この推論はtJ長沙馬王堆3祇墓出土の畠書『

』と甘氏の天文撃との関係が無潤できないとした席滞宗氏の見解と

3紬E

矛盾しないのである。

さて'泰治皇元年から七〇年間の惑星の運行に関しては'やはり長沙馬王堆出土の烏書に

『玉屋占』につづいて、木星'

土塁、金星の行度の記事が含まれていたO駅頭暦法にとって重要な意味をもつ'この年

(前二四六年)の記載の内容を'

髄索腰元と鹿屋紀年法

三二九

Page 19: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

さきの議論と比較してみると'烏書の五屋行皮表の用語の性格が理解できようO

秦始皇元年

(前二四六年)(元月)には、木星は

「管主と相いともに、良に東方に出ず

(相輿貸室'晶出東方)」と書か

(料)

れている.ところが'前に述べた通り、木星は'賓際にはこのとき屋紀の衣、年宿にありへ太陽だけが挽薯の次'管主の

宿に到達していた。木星は

「農始見」ではな-て'そのへ-アカル・ライジングの時鮎から

1ケ月後の明け方に.太陽の

日出に先立

って'東の空に見えてくるという状態'

すなわち

「農出東方」

と解樺できる状態が績いていたものの'「営室

と相いともに

(相輿営室)」東の空に出るというような状態ではなか

った。

したが

って'この記事では、

元年正月

の木星

(仙)

の地平線現象が重要だったのではな-て'そのとき太陽がどの宿にあ

ったかということの方に意味があると考えられる.

秦始皇元年から七

〇年間の木嶺の位置'および金屋と土星に関する位置の記載は'同じように解輝すべきものであろうO

すなわち、

元年正月から

1ケ月ほど測ると、

木星ほど厳密な解樺は不可能ではあるが、玄相の次に棄ていた他の二惑星

(金星と土星)についても'同じような地平線現象が見られたのである。しかし'こ

の時代にまで下ると'惑星の地平線

現象は'むしろ年代を刻むという象徴的な意味だけを残すようになっており'「崖出東方」という表現は'「農始見」のよ

うな厳密なへ-アカル:フイジングの定義ではな-なっていたと考えられる。

むしろそれは、太陽が管主の宿に入る時鮎

を漁知する現象として重親されたのだとさえ言えよう.したが

って'烏書

『玉屋行度表』は'敢えていうなら'秦始皇元

年までの天鱒の運行についての賓測の績み重ねのなかで得られた知識に基づいて作られた運行濠測表'すなわちオールマ

ナックであ

ったと解樺できよう?こうした

『五星行度表』の解樺をめぐ

っては'すでに何幼埼論文と薮内清論文に'重要

な考え方が出産しているOこ

の小論は'いわば'それち

の解輝を嬢大して展開したものであるO

51Ⅷ凸

何幼埼論文によれば'『五屋行度表』のうちで土星については確かに秦王政元年の現象とよく合うが、

肝心の木星'

よび金星については'戦国中期のものであろうと解稗されている。しかも'こ

の小論と関連する木星についての計算によ

Page 20: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

れば'『五星占』.の運行については、周嚢王六年

(紀元前三六三年)以後の木星の位置が廟星紀年の記述とよく合うとさ

れており'このことが福田暦元との繋がり'および木星による紀年法の起源との関係という本論の議論を生むきっかけに

なったのである。

他方'薮内滑博士による

『五星占』の木星の農兄の状態の表記の解寒によれば'土星については'何幼埼論文と同様'

(伯)

ほぼ常時の観測と見倣してもよかろうが、木星'金星の場合は常時の観測と考えられないとされて

るOただ木星の場合

は漢和の頃の観測とすれば記事とはぽ1致する。土塁の崖見記事を眼濠に'轟始皇帝三1年

(前二1六年)頃の観測を基

礎として元年にまで湖らせ'さらに木'金の雨足に対して類似の記事を作製して'七二年間の表記がなされたのであろう

と推察されている.薮内論文の解寒のなかで特に注目すべき鮎は'秦始皇帝元年の農見記事があたかも木星のそれである

かのように表記されているが'木星の賓斑にあたるわけではな-'賓は太陽の遅行にあたると解樺しなければ事賓と合わ

ないというところにある。

薮内論文のもう

一つの貴重な指摘は、『五星占』

の農鬼の記事の解帝のなかで、良兄が起こるべき月

(明記はされてい

ないが)は'太陰太陽暦のものではなく、太陰暦と結びつく節月を意味するべきものであり'たとえば正月は立春から始

って啓蟹の前日に経る期間を指すと考えるべきであり、始皇帝元年の立春は土-ラス暦の二月七日頃で、それから三〇日

ばかりが節月の正月にあたるという見解である。勿論'この論文ではこのことを前提に論じてきたことは言うまでもない。

最後に'秦始皇元年

(前二四六年)から

一〇年滞ると周東王三年

(前三六六年)になり'いずれも摘提格の歳になる。

すなわち置頚暦元にあたを歳である0周正から夏正への移行の問題'紀年法の奨蓮の問題は'すべてこの歳を基準にして

展開したに達いないというこの小論の償設を繰り返し強調しておきたいO

鹿肇暦元と鹿屋紀年法

三四一

Page 21: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

(

2)

(

3)

(

4}

(5)

(6)

(7)

(8)

14L1312ll10 9

陳久金・陳美東

「臨肝出土漠初古層初探」『文物』

t九七四年第三期、

『中国天文学史文集』、北京、1九七八年、⊥ハ六-八1に再録。以下

の引用は'再錬論文による。

陳久金

「従属三堆売音

『五鼻音』的出土試探我国舌代的歳差紀年問

題」『中国天文畢史文集』(北京t.11九七八)'四八-六五.,

陳久金・陳美東、前掬論文、六六東。

波速敏夫

F.日本・朝鮮

・中国-

日食月食賛典i.東京'1九七九年'

八某

(OppotzerNr.2555).

『史記』九六'「韻丞相列侍」三六

(百納本)五葉裏に、「破蒼偽計相

時、緒定律贋O以高瓶十月姶至粛上'因故泰時本以十月馬鹿首'弗

等」とある。

『漢書』二1'「律暦志」上

(盲納本)

1五葉裏に'「漠興'方綱紀大

基t、庶事草創、教案正朔'以北卒倹張蒼首、用髄索贋。比於六暦へ疏

闘申最欝微近」と書く.

『後漠書』毒

1.「律暦〕中は'黍邑

『命論』を引用している.それ

によれば'「儲泊暦術日.天元正月、己巳朔且、立春、倶以日月起於

天顔瞥塞五度O今

『月食』孟春之月'日在驚董」

とあるO

『歴代長術韓賓』肇

二によれば'「按

『(資治)通鑑目録』'裁劉氏長

術'起此年'藻初承秦'釣以十月轟音'用段衛。或云魚用忠魂術'今

別氏長棺'耐存之」とある。

(8)の割注に'柾目櫨は、「以史文教之'似股術馬食」と尊く0

『中国天文畢文集』'六七頁。

同'六九貢。

新城新戒

『発弾天文翠史研究』、東京'1九二八年'六二二東O

前編番'六二三京O

『港南子』「天文訓」の療文は'それぞれ

「天

一元始'正月建寅'日

月倶入管室五度」'および

「太陰元始'建干甲寅」である。

三四二

(15)

劉南

『散華樽』の原文は'「潜紀飴苧叡頚'上元太姶欝家鮪経絡之威、

遷取之月'朔日ru巳立春、七曜娯在管室五度是也」(『中国天文学文

集』'九六1九七真)0

(16)

F.徳雄蕃山「律層志」中

(百納本)、二八来意の全文を掲げておくO

「甲寅暦於孔子時衆。己巳巌琉秦所施用.漠興草創'因而不易、至

封申'迂閲不審、更用太初'漁期三百改憲之節。甲寅・己巳讃華有史'

略其年数'是以尊人各侍所既、至於課絞'岡得厳正。未甲寅東天正正

三光衆天廟五度.・・・'-・」

(1)

『武陵山人遺書』「六摩適者」三業裏にみえる原文は、攻の通り0

「敵煩夏術'番人正朔亀。水飴四百四十

一以上'其月大O」

(18

)

『新唐書』二七上'「暦志L

t七上'日度議

(百納杢

十葉裏~十犬

葉裏。

敏頚腰

上元、甲寅歳正月甲嚢最初

、倉

朔立春、七曜皆竃艮雄之首。

-I,

・其賓夏厚地.1・・・-・‥

其後呂不葦得之'滋馬奏法'更考中屋'断取近距'以乙卯歳正月

己巳合朔立春馬上元。---

盗公十五年丁卯索'膳肇鷹野十三斬首'輿麟襟暦倶以丁巳年

'至始皇三十三年丁亥、凡三百八十歳d得巌頚暦壬申蔀首o

(eu

陵久金・陳美東

「笹冗光層譜及馬王堆烏書

『五星占』的出土再採蔽塩

暦問題」『中歯天文聾史文集』(北京Yf九七八)、九五-

七。

(oeq)

震夢秦僚

『大事紀』

の樺文は'『文物』

一九七六年欝六期、ニ

ー7

四京、参周o

(21)

季秋の九月に明年の暦日を受けるという記事が

『呂氏春秋』金丸、季

秋紀第九'九月月紀にみえる。

(Si)

真正による願煩贋そのも9と'ここで論じている十月歳首の街頭暦紘

1醜してはならないoここでい

うのは秦の十月歳首暦の成立の問題

である0陳久金・陳美東の前編論究'『中国天文学史文集』'二

〇七東

Page 22: Title 顓頊暦元と歳星紀年法 東方學報 (1987), 59: …...諦墳暦元と歳選紀軍法 橋 本 造敬 ( i) i九七三 年'擁折銀寒山 2 淡義から出土した曾健のなかにl年ぶんの暦譜が食まれていた。それは義光元年(紀元前1

(23)

30 29 28 2726 25 2433 3231

参照。

紀年法の意味については'薮内清

『歴史はいつ始まったか』、中央公

論敵、1九八〇年'二

〇買以下を見よ。

たとえば新城新痕

『東洋天文学史研究』、三三九貢.

同書三六三頁など。

同書'二七九頁。

『史記』「天官菩」の原文は攻の通.Tl。「大角者、天王商連。其繭労各

有三屋'鼎足句乏'日嬢綻。靖逢着'這斗柄所持、以建時節'敦日掃

経絡。」

新城新戒'前編書'三六

1-

三六二頁O

間諜'五八丁頁等。

惑星の位置については'1

0日ごとの位置について計算されている。

BryantTuckerman.Planetary.Lunar.andSolarPositz.〇71S・60B

,

a.tod

.D.).Amer.Phil.Soc..Philad怠phia.1962.

二十八宿の位壇につ

ては'

薮内浦

『中国の天文暦法』'東京'1九六九年'五六-五七真の表な

どが役立つが'勿論'日下の議論の封象の年代についてはへ歳差を考

慮して計算しな汐ればならないO

新城'前線書'三六二'五二

-五l四貢等。

同書'六二九頁o

匪久金

『中国天

学史文集』所収論文'五1頁o烏書

『五星占』の問

題の個所の全文は'同、五三-五EI頁、または、馬王樵渓・同書車理小

40 3938 37 363534

観'「属王堆漢籍香

『五星占』粋文Lt『中国天文撃史文集』t

i~二克

彦鷹。

新城'前端啓、三九五-三九六京等。

同書'四八1貢等。

同書'六二七六。

唐津宗

「中国天

学史的

1億重要零現

-馬王堆藻基再審的

『五星

占J]J、『文物L

T九七凹年第十

1期'ま

たF中国天文学史文藻』に阿藤。

前轟論文参贋。

『申開天文準鬼文集』、九東をみよO

馬三堆漠売春

『五星占』の木星等の運行の記事が賓測記録か否かとい

う鮎をめぐる1連の葡軍については、贋兼の

『畢衡研究』に抱赦され

たO何

幼埼

「試論

『五星占』的時代和内容」、同'

山九七九年欝

!劾七

九-八七貢O

陳久金

「掲千歳星紀年若芋問題」も同、

!九八〇年第六期、八二-八

七貢O

何幼埼

「縄干

『五星占』問題答客簸」、同、

一九八

1年'九七-l〇

三頁。

(41)

注(4)折損の論文のうちへと-に

『学術研究』

一九七九年第

1期所収

論文余席。

(讐

薮内清

「馬王堆三索漠基出土の

『五星占』について」'『水野勝年発生

域蒜記念

・東方撃論集』'一九八二年十二月'7-

1二頁.

板類暦元と歳星紀年法