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Title <論説>両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置 Author(s) 西牟田, 祐二 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1985), 68(5): 767-808 Issue Date 1985-09-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_68_767 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title <論説>両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置

Author(s) 西牟田, 祐二

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1985),68(5): 767-808

Issue Date 1985-09-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_68_767

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

両大戦問期のドイツ資本主義と自動車工業の位置

西 牟 田 祐 二

両大戦一期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

【要約目 ワイマルからナチス体制へと大きな転回を見せた両大戦間期ドイツ資本主義の中にあって、ドイツ自動車工業はひときわ

特異な軌跡を描いた。ワイマル体制下「産業合理化運動」期における、アメリカ自動車工業の圧倒的な競争力に直面しての激しい

〃生き残り闘争〃。生産過程の変革にもかかわらず、きわめて深刻な経営危機。急速な資本集中運動。そして恐慌を経たのち、ナ

チス体制のもとでの急激な発展。こうして、この時期を通じて、ドイツ自動車工業は、頭初におけるネグリジブルな位置から、の

ちにおけるドイツ資本主義の中軸的部門へと巨大な成長を遂げる。本稿は、こうしたドイツ自動車工業の発展過程の分析を通じて、

両大戦間期ドイツ資本主義の全動向の解明へと迫って行くこと、これを課題とする。以って、ナチズムとは何か、といういっそう

大きな問題への手がかりとしたい。                         史林六八巻五号 一九八五年無月

はじめに1分析視角と問題の設定1

 第一次世界大戦はドイツの敗戦を以って終わった。だが、四年半に亘って未曾有の総力戦11消耗戦を繰り返し、交戦国

双方に彪大な犠牲者をもたらしたこの戦争の終結は、ドイツにとっても、決して単なる敗戦ではあり得なかった。前年に

おけるソヴィエト・ロシアの成立の強い影響を受けつつ、一九一八年一〇月二九碍、キール軍港水兵反乱によって上げら

れたドイツ革命の峰火は、瞬く間にドイツ全土に広がり、遂には一一月九日のベルリン・大ゼネスト、翌一〇日の労働者

一兵士評議会諺誉①ぎ撃巨αω。乙威逼弓鋒Φ(「労.兵レーテ」)大会にもとつく革命臨時政府の樹立へとつながるのである。

 その後革命は、激しい内戦を伴ないながらも、ドイツ社会民主党系自由労働組合津軽Φ○①≦①誌ω。沼津Φコ議長K・レ

95 (767)

ギーンとドイツ独占資本の巨頭たち、W・ラ:テナウ、C・F・v・ジーメンス、F・シュティンネスらとの間の、いわ

ゆる「中央労働共同体協定」N①づ葺鼠鴛σ購書σqΦヨΦぢの○プρ津(=年一五日)を基礎とする社会民主党の「労資協調」路線に

        ヘ  へ

よってひとまず「回避」され、明けて一九一九年八月、いわゆるワイマル体制が成立する。そうした中で、一九二一年に

始まり、二三年には頂点に至る「ハイパー・インフレーション」を経て、ようやく一九二四年にいたり、賠償問題へのア

メリカの介入11「ドーズ案」を契機とし、マルク安定ーアメリカ信用の大量流入を支えとして、ドイツ資本主義の復興軌

道が敷かれて行く。

 とはいえ、敗戦を契機とした革命的危機と経済的混乱の根底には、ドイツ資本主義の存立にかかわる危機が存在してい

たことを見のがすわけにはいかない。それはもとより、きわめて多様な諸側面をもつ状況の総体であるが、私はさしあた

り、この危機を三つのポイントにおいてとらえたいと思う。

 その第一。ドイツ革命ーーレーテ運動の指導層に着目すれぱ、通称「革命的オプロイテ」図①く9纂δ口鋒Φ〇三学識と呼ぱ

  オ  ブ  ロ  イ  テ

れた経営内活動家層、とりわけドイツ金属労働者連盟U①暮の。冨蜜簿巴舘げ①洋ΦHく興σp滋に所属する熟練労働者層の中

          ①                                                    ・・、

軸的位置が浮かび上がる。彼らは、後にふれるように、広範な金属加工・機械組立部面の労働過程において一定の労働統

へ  へ

括径路役割を担う層であって、他ならぬ彼らを中心としたレーテの成立は、生産過程における資本の本質的規定性たる

 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、②

「労働に対する轟轟的指揮権」が、これらドイツ資本主義の一つの基底的な部面において、深刻な動揺を見せるに至った

ということを意味する。社会革命の直接的危機が去った後にも、この深部の危機は依然解消しない。さらには、ワイマル

体制による労働組合のいわゆる「同権的地位」や8時間労働日といった新たな制約も加わる中で、資本がこの「労働に対

する季寄的指揮権」を再び確保し得るか否か。確保するとすれば、それは如何にしてか。これが第一のポイントである。

 その第二。敗戦1ーヴェルサイユ条約による全植民地の剥奪、アルザス・ローレヌ《シュレージェソの一部の割譲、さら

には巨額の賠償金負担iこれらはドイツ資本主義を弱体化させ、また、インフレーションは、一時的には輸出好条件と

96 (768)

両大戦問期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

なったものの、同時に旧設備の温存要因ともなった。従って、「ドーズ案」1ーマルク安定によってドイツ資本主義が世界市

場の正常な関係の中に再び組み込まれるや否や、ドイツ諸産業は、とりわけ第一次大戦前・中・後にかけての成長著しい

ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ

アメリカ資本主義諸産業の圧倒的な国際競争力にさらされ、部門によってはその国内市場における存立さえ脅かされるこ

                 ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

とになる。こうして、世界市場における国際競争力の危機、これが第二のポイントである。

                         ヘ  カ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  も  う  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  カ  カ  セ  へ

 その第三は、とりわけ軍事力の解体・喪失に由来する、ドイツ資本主義の帝国主義的存立の危機である。敗戦から革命

への過程において、周知のようにドイツ軍の軍事的指揮系統は完全にマヒし、崩壊した。ヴェルサイユ条約の軍備禁止条

項がそれに追い打ちをかける。一九二三年の、フランス・ベルギー両軍によるルール占領とそれに伴う経済的混乱は、ド

イツ資本主義の帝国主義的存立基盤の決定的脆弱化を明らかに示した。こうして、今や、帝国主義諸列強との闘争におい

てドイツ資本主義がその帝国主義的自立性を回復し、保持し得るか、否か。これが第三のポイントである。

 さて、これら三つのポイントにおいてとらえ得る危機が、いかなる解決を見るか。マルク安定(一九二四年)以降のドイ

ツ資本主義復活の帰趨は、大きくここにかかっていたと言い得るであろう。

 いま、結論を若干先取りして大づかみに言うとすればこうである。ドイツ資本主義の三つの危機解決への方向は、まず

さし当たり、ワイマル体制下でのいわゆる「産業合理化運動」園暮δ⇔巴臨①歪づσq。・げΦ≦Φσq§σqとして現われた。しかし、そ

れによっては十分な解決を見なかったばかりか、それは却って諸矛盾を深め、新たな形態において危機を再燃させること

                           へ  あ  ヘ  ヘ  ヘ   ヘ                  ヘ  ヘ  ヘ  へ      も  あ

になり、そのことが結局、世界恐慌の申で、ナチス体欄によるある種の解決  いわばナチス的「解決」一を招来する

ことになった、と。

 さて、以上のような視角を以て両大戦間期のドイツ資本主義を見てゆく場合、私は、この時期におけるドイツ自動車工

業の発展過程に着目したいと思う。というのは、まさにこの時期に、ドイツ自動車工業は、他に比肩するもののないきわ

だって特徴的な発展老示bているからである。     内                       仁

97 (769)

,図1は、今世紀に入ってから一九三八年に至るまでのドイ

ツにおける自動車生産高の推移を示したものである。ドイツ

における自動車生産は、この時期二つの顕著な発展局面をも

っている。その第一期は、 一九二四年-二八年のいわゆる

「産業合理化運動」期である。ここにおいてまず、一九〇一

年一一三年までの第一次大戦前とは質的に全く異なる急速な

発展を見ることができる。これを、同じ時期のドイツの総生

                    ③

産および各主要産業の生産の推移と比較すると、一九一三年

を一〇〇として、総生産が一九二四年の七一・九から一九二

九年の一〇二・一へと推移し、石炭・鉄鋼が同じく六二・五

から八六・○へ、電機が一九二五年の一四六から二九年の二

三八へ、化学が同じく一三三から一八六・一へ、と推移す

る中にあって、自動車生産は、一九二四年の一二〇から一九

二八年の七三八・五へと、ひときわ抜きん嵐た発展を示して

いることがわかる。ただ、 この発展も、 一九二八年を頂点

として、世界恐慌の勃発(一九二九年一〇月)以前に、またド

イツの他産業に先がけて、すでに後退に転じていることにも

気づかないわけにはいかない(一九二九年の生産指数は六八六・

○)。また、ドイツ資本主義の総体の中で、この時期のドイ

図1下イツにおける自動車生産高の推移(1901-1938年)

35(万ムε30

20

10

、9歴謡、125262728293。3、32333435363738(年)

 H.C. G. v. Seherr-Thoss, DieZdeutsclte A7‘to7nobili7tdustptie,1979, S.632.より作成。

98 (770)

                  ④

ツ自動車工業の占める部門比重を見るならば、一九二七年末の時点で、自動車を含む「陸上輸送機械」の頂全部を合わせ

て、全体の中でおよそ二%であり、石炭11鉄鋼業の一五・六%、化学の一五・○%、電機の四・八%、繊維の一四・八%

等と比較して、この時期の急速な発展をもってしても、全体の中での比重はなお相対的に小であったと言うことができよ

、つ。

 次に、第二の発展局面は、一九三三年i一九三八年である(図-)。一九三三年一月のナチス政権掌握時より、第一期を

両大戦問期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

淡1 a 1933-1938年におけるドイツ主要工業生産額

                (100万RM)

業11933年11934酬・935年11936年11937扇1938年工

2,173

1,093

1,935

2,017

 557

 525

2,047

 891

1,553

1,636

 437

 494

1,697

 883

1,4e5

1,414

 275

 446

1,512

 665

ユ,138

1,148

 248

 409

1,304

 463

 826

 700

 21e

1,169

 282

 562

 383

 141

 303

炭鉄鋼車繊業

   動  工

石銑鉄自合綿

b 1934-1938年におけるドイツ主要工業輸出額

                 (100万RM)

業}1934年11935年11936年1・937年}、938年工

379.5

92.0

169,4

206.9

335.4

120.0

259.4

440.4

86.1

195.3

209.1

312.3

116.5

269.7

277.5

52.1

177.9

148.2

258.3

90.5

261.4

41.7

172.e

78.2

226.0

72.4

120.0

90.5

171.2

224.5

39.2

169.0

87.e

218.6

62.3

94.5

綿

工作機械電  機精密機械

自動車 StaiisSisehes Jah7buch fiir das Detttsclie Reich, 1935-1940.

 R, J. Overy, Cars, Roads, And Economic Recovery in Germany

1932-8, Tlie Ecootomic History Review 27td Sept. 28-3, 1975, P.

479.による。

はるかに超える急激で大規模な発展を示している

のがわかる。この結果、ドイツ自動車工業は、ド

イツ資本主義全体の中で占める比重を決定的に変

えることになる。表1aは、一九三三年一三八年

におけるドイツ主要産業の生産額の推移を示し、

bは、同時期におけるドイツ主要産業の輸出額の

推移を示すが、両表において見られるとおり、ド

イツ自動車工業は、一九三〇年代の末には、生産

部門としても、輸出部門としても、石炭嚢鉄鋼業、

電機工業、化学工業といった、第二帝政以来のド

イツ資本主義の伝統的中心部門に比肩し得るほど

の一大部門へと成長を遂げている。

 こうして、この二つの時期の発展過程を通じて

ドイツ自動車工業は、ドイツ資本主義の全体の中

99 (771)

で、王気におけるネグリジブルとも言えるマイナーな地位から、のちにおける一つの主要部門とも言うべきメジャーな地

位へと、その存在位置を大きく変化させたのである。さらに着目すべきは、まさにこの第一期、第二期の両発展局面を媒

                                          ヘ  ヘ  へ  う  も  ヘ  ヘ  へ  あ  も

介する位置に、ナチス政権による、アウトバーンの建設跨暮8野口げ寒雲に代表される積極的な自動車工業関連諸政策が

存在していることである。

 それでは、こうしたドイツ自動車工業の発展過程は、両大戦間期ドイツ資本主義の全動向の中でいかなる意味をもって

いたのか。とりわけ、先に上げた第一次大戦後ドイツ資本主義の三つの危機「解決」との関連において、それはいかなる

意味をもっていたのか。本稿は、さしあたり、この問いにひとまずの回答を与えることを課題とする。

                                   ⑤

 研究史をひもとくとき、従来のわが国の両大戦間期ドイツ資本主義論にあっては、産業部門としては、先に上げた第二

帝政以来の主要部門たる石炭11鉄鋼業、電機工業、化学工業の動向把握にもっぱらその努力が集中されてきたことがわか

る。他方、自動車工業については、若干の言及が行なわれてはいるものの、ワイマル期におけるその「極小なる地位」を

                                ⑥

根拠として、立ち入った分析の対象からは事実上除外されてきたのである。しかしながら、そのことが、従来の両大戦間

                               ⑦

期ドイツ資本主義論にとって少なからぬ制約となってきたのではないか。

 注目すべきは、ドイツ自動車工業のたんなるその時々における絶対的および相対的な量的規定性ではない。むしろ、ド

                               ヘ  へ  あ  ヘ  ヘ  へ  あ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ

イッ資本主義の全体の中で占めるその位置が、この時期急速に根本的な質的変化を遂げつつあったという事実である。そ

うした見地に立って、ワイマル体制下「産業合理化運動」期からナチス体制の成立へ至る時期におけるその動向を追跡し

てみるとき、そこには、両大戦間期ドイツ資本主義の全動向、なかんづくナチス体制の成立と展開の全体像への、いかな

る新たな手がかりが見えてくるであろうか。以下、立ち入った分析を加えて行くことにしよう。

①坪郷実「経営レーテ運動の基礎-第一次世界大戦と大衆内活動家層

 の形成1」(一)1(四)『法学雑誌』(大阪市大)二四巻一、二、閥号、

二五巻一号。℃ン、90Φ冨Noジ切ミ噛、苛駐↓.ミミ苫糺ミさ酎・§~曾こ削ぎNミごき

O{匿ζ。o置。賦一㊤Φω、の‘墨蹟.ほか。

100 (772)

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

               ヘ  ヘ  ヘ   コ  も   カ      も  で  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ   コ  も  へ   ゐ

②  「生産過程の中では、資本は労働に対する、すなわち活動しつつあ

 ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ   ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ   ヘ  へ

 る労鋤力ないし労働者そのものに対する指揮権にまで発展した。」

   ヘ  ヘ  ヤ  ヤ  ヘ  へ

  「資本家の指揮は、内容から見れば二重的であって、それは、指揮

 される生産過程そのものが 面では生産物の生産のための社会的な労

 働過程であり、懸鯛では資本の価値増殖過程であるというその二重性

          リ   ミ   ゐ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ   う   ヘ   ヘ   ヤ   ヘ   ヘ   へ

 によるのであるが、この指揮は形態から見れば専鋼製である。」K・

 マルクス『資本論』第一巻、邦訳全集版h四〇七、四三五頁(傍点は

 筆者)。

  ここにマルクスの言う、資本の 「労働に対する専鰐的指揮権」 を

 資本主義分析のひとつのキ…概念として位置づけ直したものとして、

 尾晦芳治「資本主義から社会主義へi『否定の否定』問題によせて」

 「所有変革と『階級としての労働者』i資本主義から社会主義へ(続)」

 『経済』一九七五一六、七八年-五がある。また、この視角からの経

 済史研究として、清水克洋「産業革命期フランスにおける労働者貧困

 問題」 『経済論叢』一二七i二・三、幸田亮 「ドイツ機械工業とレ

 …ヴェ社新工場」 『経済論叢』一二九-六等がある。

③栗原優『ナチズム体制の成立』一九八一年、二六三頁、表28。但

 し、そこにおける 「自動車と造船」から自動車のみを抽出。≦曾O.

 膝。薩ヨρPb野口§首外ミ高亀ミ§ミ肋忘ミーミ臓騎簿ミ評説ミ翫ミ§画§

 §qミ曜腎凄さ§ミミ感じd①二貯\国臥9一9磯\累¢毛団。井㌧一り①即GQ.

 ω合蟄総生産および電機は、い穴蓉N)・器匡”b龍Q馬持もミ罫鷺亀ミト亀聴

 職ミ」さミミ畿ミミ、§ミ奪執ミミ摯ミ伊じごO.伊ω。ωい昏コQ。による。

④加藤栄一『ワイマル体制の経済構造』一九七三年、~九一頁、第34

 表。9ミミ騎き塁旨ミ寒さ渇ミ魯偽b馬ミ恥ぎミ帖ミおbコρω.ら。潰IG。臨.

 による。

⑤ 従来のわが國における両大戦間期ドイツ資本主義にかんする諸研究

 として、代表的なものに次の諸労作がある。塚本健『ナチス経済』

  九六四年、加藤栄一『ワイマル体制の経済構造』 一九七三年、東

 京火学社会科学研究所編『ナチス経済とニューデール』 一九七五年、

 栗原優『ナチズム体制の成立』 一九八 年、大野英二『現代ドイツ

 社会史研究序説』  九八ご年。論文としてはとりわけ、爽大社研編

 前掲訟M所収、工藤章「ナチス体制下の鉄鋼資本」、戸原四郎「ナチス

 の労働政策」、加藤栄一「ナチス財政」、さらに工藤章「IGファルベ

 ンの成立と展開」θ、⇔『社会科学研究駈二九巻五、六母、等。

⑥ドイツ自動軍工業への欝及は、塚本前掲書二四六、二九六、三=二、

 三一四頁、加藤前掲書二一〇、二=頁、工藤前掲論文「鉄鋼」一〇

 八頁、戸原前掲論文一六一頁、菓原前掲書二六一頁にあるが、いずれ

 も十分な展開を見ていない。

  また、両大戦間期のドイツ自動車工業を直接の対象とした先駆的研

 究として、古川澄明「フォルクスワーゲンヴェルクの成立過程」Q9

 『六甲台論集』 一九七八年、同「フォルクスヴァーゲンヴェルクの

 生成の史的前掲への接近-その一、ドイツ自動車産業の発展の主要特

 徴」『鹿児島経済論集』 九入二年がある。これらは、「フォルクスワ

 ーゲン企業史」という限定されれた視角からの研究ではあるが、ドイ

 ッ自動車工業発展の一般的特徴についてふれている。しかし、幾つか

 の事実関係把握において、筆者には異論が存する。後述。さらに、中

 村静治『現代自動車工業論』一九八三年、一二一-西頁、および安保

 哲夫『落間期アメリカの対外投資』一九八四年目一一二九、二三五一八

 頁の両近著においても、それぞれの視角から概括的な言及がある。

⑦従来のわが国の両大戦間期ドイツ資本主義論とりわけナチズム論を

 ヘ  ヘ  コ

 かりに分類するとすれば、次の囎一つとなろう。e「類型論的ドイツ資

 本主義掘握」によるものードイツ資本主義を特殊類型のものとし、

 そこに組み込まれた「遅れた」「前近代的なもの」の側面からナチズ

 ムを把握する立場。C⇒国家独占資本主義論によるナチズム把握。㊨

101 (773)

「中間層論」によるナチズム論。それらについての立ち入った検討は

別の機会に行ないたい。

一 「産業合理化運動」とドイツ響動車工業における生産過程の変革

 一 ドイツ自動車工業の〃生き残り闘争”

        ①                                       ②

 「産業合理化運動」

          の父と呼ばれたベルリン工科大学工作機械教室教授G・シュレジンガーは、一九二五年の時点にお

いて次のような注目すべき発言をしている。 「国境の開放は、ドイツの自動車工業およびすべてのその関連部門の死を意

味することになるかもしれない。しかも、もし死に至れば、そこからの再生は二度とあり得ないであろう。……」

                                                     ③

 『ドイツ自動車工業の生き残り闘争』bミb蕊豊蕊隷§o蔑叙ミ§ミ防纂§臥ミ。§。ミ噛“ミ§ミ馬と題されたこの小冊子が

                          さし示す事態は、何よりも、マルク安定前後のドイツにおける

図2 ドイツにおける自動車輸西入動向

     (1922-1926)

輸入

〉輸出

sXs  ×

s

s

し_,._、

  (ムm)

10, OOO

      1922    23    24     25    26(年)

Seherr-Thoss, a. a. O., S.216.より作成。

o

自動車輸出入状況(図2)に一目瞭然である。輸出の急減と対照

的な輸入の急増がはっきりと見て取れる。この事態の基礎は、

                    ヘ  ヘ  ヘ  へ  た  ヘ  ヘ  ヘ

ドイツ自動車工業の国際競争力の、とりわけアメリカ自動車工

ら業に対する決定的な劣勢であった。表2は、ドイツ自動車工業

連盟甥①8げω〈Φ昏㊤巳α曾諺葺○ヨ。げ壕巳岳げ誌①が、保護関税

要求のためのデータとしてまとめた、一九二五年時点での、米

独の同等クラス自動車の価格差を示したものである。どのクラ

スにおいても、関税抜きではアメリカ車はドイツ車のおよそ半

額であり、フォードにいたっては、同等クラスとされたブレナ

ボールのわずかの四割という低価格であった。米独両自動車工

102 (774)

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

表2 米独同等クラス自動車の価格差(1925年)

その価格

  (RM)

6,050

8,075

13,500

30,500

それと同等クラスのドイツの自動庫:

ルシス70

一  麟

ボクトー

ナィ三四

レ  ウ

ブデプア

その関税抜き価格

 (RM)2,430

2,849

6,452

16,650

その重量

  (kg)

 7P.0

 810

1,565

1,980

外国の自動車

フ  S  一   ドシ  ボ   レ  ー

ビ  ュ  イ  ッ  ク

キャディラック・リムジン

 Almut Addicks, Die detetsche Kraftfaltptgeugindustrie in

Diss. Mtinchen 1933, S.26,による。

dept Nachkf’iegsxeit (Seit 1924),

表3「自動車工業育成関税」(純重量:工00kg当り RM)

エンジン」r 一トバイ

車動自

3,200kg以上2,200k9から3,200 kg2,200kgまで

間期

1925年

1926年7月1日から

1927年1月1目から

1927年7月1日置、ら

1928年1月1臼から

1928年7月1日から

250

225

200

150

100

75

175

160

130

100

75

40

150

135

120

90

70

30

350

320

290

250

210

工60

160

150

150

150

150

100

 P. Friedman. Die deutsche

Jg. 3-1928 Heft 3, S. 57.

Kraftfahrzeug=:lndustrie in ” Tecltnih uotd PYi7tschaft” 21

業の驚くべき生産性格差は、各々の代表的自動車

工業企業について、自動車一台当りの生産に必要

               ④

な労働者数を示すならばいっそう鮮明になる。ド

イツ車の場合のアーガー一二〇人、ホルヒ三五〇

人、ベンツ四五〇人に対して、フォード車はわず

か五%人にすぎない。

 これらの数字は、米独両自動車工業の生産性格

差が、単なる量的差異ではなく、その生産力構造

(技術的工程および労働力編成)それ自体の質的根本

的差異に根ざすことをうかがわせるに十分である。

 ドイツ自動車工業界の必死の保護関税要求に応

じて、表3の如く、 スライド式漸減のいわゆる

「自動車工業育成関税」団団δげ¢昌σqωNO嵩が設定さ

れるもとで、ドイツ自動車工業の生産合理化が促

迫される。では、こうした状況において、ドイ

ツ自動車工業の〃生き残り闘争”∪興Uρωo貯。。

犀9露鳳はいかに展開したか。

103 (775)

2

関O罫魯h窪銘『q儲出騎から周識㊦ゆhOほ曜舅αqへ

 アメリカ自動車工業の圧倒的競争力に直面した時、ドイツ自動箪工業は図①跨魯h興自σq§σqと呼ばれる、 一〇〇台から

五〇〇台単位での「組別生産」(ないし冒ット生産」)を行なっていた。すなわち、

   「まず、生産台数が確定される。それに合わせて原材料が発注され、引き渡されて生産が開始される。通常、ひとシリーズの生産

 に四分の一力年が費される。原材料の発注から工揚入荷、在庫、加工、中途在庫の繰り返しを経て、最終組立に至るまで、一般に計

                                                   ⑤

 四分の三早年を経過する。この間、そのシリーズに全資本が固定される。全資本の回収後、薪たなシリーズに取りかかる。」

 こうした、もはや全く競争力を失なった生産方式の改善のため、ドイツ自動車工業家や技術老たちは、アメリカへ、ア

                    ⑥                                         ⑦

メリカへと、いわば「巡礼の旅」空貫Φほ9財簿に出ることになる。その聖地は、デトロイト・ハイランドパークであった。

 一九二三年に先頭を切って、リュッセルスハイム・アム・マインのアダム・オペル》融BOも9が生産過程に田δ甲

びp民すなわち「ベルトコンヴェアi」を導入する。次いで一九二四年にはブレナボール・ヴェルケ切お匿◎げ。緊≦①時Φ

(ブランデンブルク)、一九二六年にはアドラー・ヴェルケ》巳①学類Φ爵Φ(フランクフルト・アム・マイン)、およびB・M・W

しd

?団駄ωoげ①寓。ざお⇔乏Φ跨。(、・・ユソヒェソ)、一九二七年にはダイムラー“ベンツU鉱B冨価しd①暴(シュトゥットガルト)の生

                      ⑧           ⑨

産過程に固δゆげ㊤巳が入ったことが、社史等々によって確認できる。この生産力改革の影響を直接被る当事老たるドイ

              ⑩

ッ金属労働者連盟DMVの調査によると、 一九二八年時点で、被調査二九経営のうち、一八経営(一六二%、所属労働者数

三〇、九〇二人一六七・九%)で工場設備の全面的な更新、四経営(一=一丁八%、=一、=九人一二六・七%)で部分的な更

新、全く更新なしが七経営(一二四・四%、二、四六七人一五・四%)であって、この時点でドイツの有力自動車企業は、すで

 あ  ヘ  モ  へ

に何らかの生産力改革を実行していたことがわかる。では、これによって工場はどう変ったか。

                                                ⑪

 アドラー・ヴェルケの技師G・プラハトル○鼠鳥。勺類。げ窪が、自社の工場改革をふまえて書いた論文に依拠して、こ

104 (776)

両大戦問期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

              ⑫

の変化のあとを見ることにしよう。図3Aは改革前の切①貯Φ気堂島σq呂σqの、 Bは改革後の鷹δ窯窪目σqロ⇔αqの作業組織

をあらわしている。

                      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

 菊Φ貯Φ艮Φ詳凶漢σqの加工工程(図3A右下)は、工作機械種ごとの職場が分立し(旋盤職場、ボール盤職場、フライス盤職場、

等々)、それぞれ専門の旋盤工、フライスエ、中ぐり工等々が集舎している。大体において各職場ごとに、親方寓①δげ鍵、

熟練工℃Hoh①ωωδ巳。。げ、半熟練工諺づσq①δ夢占、不熟練工ごロσq巴霞昇①、および徒弟いΦ鍵一ドσq①がいる。会社と各職場の

親方ないし熟練工との間で請負契約》醇。aが行なわれ、彼らは、配下の半熟練工、徒弟を指導・指揮しっっ、場合に

よっては数人からなる「組」閤90ごΦ離を作って作業する。作業の段取り、方法などすべての工程管理は、親方および熟

練工が担う。彼らは、種々の加工作業を、自らの工作機械を調整しつつ、自らの計算で行なっていくため、相当の熟練を

   ね  や  へ  あ  ヤ  う  セ  ヘ  へ  ぢ  ぬ  へ  ゐ  も  モ  ヘ  カ  カ  へ  ゐ  ヘ  へ

要し、労働過程の精神的諸要素と肉体的諸要素とを結合した高度の独立性を有する労働者層であった。また、熟練労働力

                                                     ヘ  へ

の養成も彼らにゆだねられていた。さらに、各職場の機能別分立のため、原材料が、運搬工によって、それらの間を行き

ヘ     ヘ  ヘ  へ

っ、戻りつしながら、しだいに加工・組立が進んでゆくのである。微調整を繰り返しながら一台一台の組立もまた、熟練

工が指揮する「組」によって行なわれる。総じて、園Φ慶Φ艮興賦σq量σqの特色は、労働過程がすべて親方および熟練工に、

                 ⑬

いわば人的に一任されていることである。

 これに対して、新たに書入されたコδ翠霞ユαq軽四における生産過程の根本的革新は、一見して明瞭である(図3B)。

                               ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 加工段階の、以前あった工作機械種ごとの機能別職場は消え去り、部品品種ごとの、 「流れ作業加工ライソ」が形成さ

れている。それらが続いて、エンジン、ギヤボックス等々各装置ごとの「流れ作業組立ライン」に接合し、さらには、全

部晶・装置の「流れ作業総組立ライン」へと結合されており、原材料が工場に入ってから、完成車として出て行くまで、

            ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

一方から他方へと一方的に流れて行く中で、加工・組立が進行する。加えて、工場内を一貫する男一δゆびρ巳が、この流

        へ   も   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

れに、いわゆる「時間的強制進行性」を付与する。譲δ駅費鉱αq§αqにおける頃一δゆとはこれである。

105 (777)

 こうした生産の技術的工程の変革にともなって、個々の労働者の機能と「労働の社会的編成」も一変する。各「ライ

ン」につく個々の労働者の作業は、細分化された一工程のくり返しにすぎないものとなり、旧来の熟練の一切は不要とな

                   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ   も                                                                                へ

る。他方、こうして労働者から分離された労働過程の精神的諸要素は、今や、成立した「機械体系」のうちにいわば「客

106 (778)

図Q。 〉 涛。貯。鼠二二σq雪σq(齢邉隠讐口粍プ葛鰹)㊦寄藩強国

○濯図週盤莇

 仁

弼識掌蒔癬

慨一亭誌麺舗 誹臨謬謡

蕊マ

奪漏誌麺誌  刈“ヘヌ誌蕪舖

目講當詩僻羅

 [離岸識邑

閏・嚢ゆ強隆藩藁

 [即繭浬離降高持]

H’嶺塾雪H藩薫

 [藩灘浬羅鹸斎懸誉講]

 合

完成

車倉

B 

FIie

Bfe

rtigung(流れ作業生産法)の作業組織

組立中聞倉庫

  

  

  

工場

管理

局 

“rerkbtiro

  

  

1.経

営技

術者

 Btriebsingenieur

  

  

2.改

善係

Fortschrittsman 

  

 3.

設 

 計

  

係 

 Konstru$

teur

  

  

4,装

置製

作係

  

Vorrichtungsherstelier

  

  

5.事

前計

算係

 Vorkalkulator

  

  

U.S.

W.

  

  

  

中間

倉康

  

  

  

  

 原

材料

倉庫

(田紐隠)幽鍾e縣H糾蔭皿刃欄梱終慰瓜や払e

総組立

ライ

NNI

後軸ク

カジ装置

ギアボツクス\ク

  

  

          U.

S.W.

皿.

総組

立段

階 

  

  

  

 il.

部分

組立

段階

  [流れ作業組織]       [品種別

流れ

作業

組織

G. 

Prach

ti. 

Voii de・

r Reihenferiig;

eng euf 

FlieBaptbeit, 

1926, S.

 7.

エンジン組立ライン

前輪軸加工ライン

クランク軸加工ラインU.

S.W.

  

1.部

品加

工段

  

 [

品種

別流

れ作

業組

織]

クランク室加工ライン

シリンダー加工ライン

(①卜卜) 卜OH

蓑4 ドイツ自動車工業の生産高と労働者数(指数)

   (1925-1928)  1925==工00

年次}・925}・9261・9271・928

篠労賭痢…1・4・・191・・ 11・L・

生産高i…lg1・i232・・}279・・

 Herrnann Maurer, Das Zusa7mneozscltluBpro-blem i’n de7’ deittsclten Autontobili7zdttstfie, 1936,

S.14. よりf乍成。

労働者数の変化との対比において示したものであるが、

放逐しながら(一九二六年に着目!)、

の労働老懸とは区別される、

って行くのである。

ヘ  ヵ     セ  ヘ  へ  も  へ

体化」されているが、その工場全工程にわたる進行を管理する場として、新たに 「工場管理

室」類Φ隠σ貯。(図3B中央上にその構成とともに表示)が成立し、ここに技術者・管理者的職員層

が集合する。

                  、、、、、 、、、、⑭、、、、、、、、、、

 こうして、総じてこれら、いわば「アメリカン・システム」による生産過程の改造、によっ

て、図①蔚臣①器H江αqq昌σqにおける労働者の熟練にもとつく相対的自立性は完全に排除され、資本

が「労働に対する専制的な指揮権」を貫徹する、直接的・物的・客観的手段を掌握するに至っ

た、と言うことができよう。

 こうした過程を通じて、金属加工・組立部面における熟練労働老層  すなわち、ドイツ革

命1ーレーテ運動時に多くの指導者(いわゆる「オブ減イテ」層)を輩出したこの層は、少なくとも

                                         ⑯

ドイツ自動車工業に関する限り、直接的生産過程から一掃されることになったのである。表4

は、一九二五年から二八年にかけてのドイツ自動車工業生産高の推移を、この生産に従事する

              この過程でドイツ自動車工業が、多数の労働者を生産過程外へと

    同時に生産力を急速に拡大して行ったようすが、見て取れよう。代わって、「ライン」

 いわば「工学教育を受けた職員層」が新たに形成され、いわゆる「新中間層」の一要素とな

108 (780)

① ドイツ「産業合理化運動」については、さし当たり、吉田和夫『ド

 イツ合理化運動論』 一九七六年ほか塚本前掲書、加藤前掲魯等があ

 り、また、戦前では有沢広巳.阿部勇『世界恐慌と国際政治の危機』

 一九三一年をはじめ、小島精一『産業合理化』一九二九年、向井鹿松

 『産業の合理化』一九三〇年等がある。しかしながら、安保哲夫前掲

 書一七〇買にもあるとおり、その成果と限界面についての評価は、必

 ずしも一致した線が出されていない。

② 幸田前掲論文および同「ドイツ機械工業史・合理化運動史とG・シ

 ュレジンガーの〃経営科学”」 『佐賀大学経済論集』一六一三 一九

 八三年。

両大戦問期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

⑧ ごご。今戸一旨伊N三〇ぽσo一男じ&霞四四導専ミミ欺ミ轟駐馬ミ§頓-

 織ミ」ミさ禽無ミ§ミ鴇》§乱ミ。§&ミ隷§“無二馬恥ミ賊ミ9きミ無ミ~ミ偽

 §唖』§落Mしdミ蔑冒ミ母騎も》慕、詩ぎ砺ミミ馬験§恥窃馬帖愚暗ぴ織ミさミ題-

 馬§罫ミ昏ミミ由ミ》oQ窪陣σQpぽ㌧一㊤ω。。」ω.屋.

④9国8零細鉱①びb紬凄ミ~§馬ミGミ鳶ミ§お器辱い①帯N一σq、ψ

 一boメ

⑤ 寄島臥巴ヨ碧い自葛。9ω.①一φ

⑥ 〉◆しd¢o叶。さ」曾ミ愚きミ§胆恥ミ§ミ鶏ぎ§勺肉〒》§跳馬二心一8?

 おωb。層U奮凸男①σq窪ωσ嘆σq”お“ρω.①。。臨こうした旅行記として、℃.

 空。び警器ヨbミ曽蝿9§詩霧きOミ§隷ミ雨9§詠ミ嵩ミ鼠ミミ馬ぎ-

 淘職鷲いじご〇二貯H㊤Nら●

⑦「フォード・システム」については、さし当たり、藻利重隆『経営

 管理総論』 (第二新訂版) 九六五年、塩見治人『現代大量生産体制

 論』一九七八年を見よ。

⑧U鉱ヨδ同遣しσ窪N}ρ愚智ミ恥§Wミ§ミミ曝§恥欝幕S臓勲ωε学

 茜髪掌q暮Φユ{三臼。一領b一〇〇押ω’昏。bo伊崔.竃pgΦ弓、b蕊曽aミ嵩§§偽-

 偽ミ§じ。丸きミ§贈軍職ミ§ミ鮪ミ§鳳ミ。§o守ミ9碁§二手§勘贈羽。起§§喚

 ヒdミ§酵思ミ磯ミ砧爲ミ鼠ミ。-9§壽」9U貯。。・N貯8}ど一㊤ω9

⑨先のG・シュレジソガーが、自らの主宰する技術誌..§幕無ミ装㍗

 寒ミ瀞..において、この過程について言及している。N。潔σq。ヨ騎ω①

 ゆΦ貯♂σ。。oお雪齢餌江op一読。ぎ⑦HαΦ忌ω畠8}葺。ヨ。げま呂』肉.××誌■

 一q.一9一旨①。口①津卜。O.それに続いて、各社各工場ごとの写真入り報

 告記事がある。

⑩∪零α。gω。9鼠①巨碧ぴΦ一8芝霞冨&㌧b爵§ミ笥らミ誌ミ§。ミ§-

 野ミ識馬も盲壽恥遣N。。曽睡一江Φ答σ臥弊り&曾日塁㌧翁.ggcロ。培.

⑪O幽勺雷9芦§唖ミミ聖簿ミ冬ミ略§偽碗ミ電帆島ミミこ門守題§概§

 §帖§ミ笥ぎ§臥ミOMおOミ奪騎タU一ω。o.8⑦巳ヨ一〇陰07①詳嵩OO7ω07巳①U霞日-

 ωけ9鳥倉ド⑩N①■

⑫彬ω。表口窪戸Uδ≧σ①即⑦『α實Upぎ醇・鑑。8琵回HΩo。。箋?

 o冨津ωε菖αq母マq耳。『慈穿げ蝕3、.象ミミ§譜肋壽悉帖浅濤臓の㌣

 篤袋曹。§き.隔一ω㎝じd嘗α押い①首N無二㊤一ドによって、閃⑦ぎ①艮興二σq雪σq

 における労働者態様についての補足を行なった。

⑬一九世紀末よリニ○世紀初めにかけて主要資本主義各国の金属工業

 諸生産過程において発生したいわゆる「組織的怠業」の菓態は、ひと

 つにはこのことが基盤としてあった。第一次大戦良案のドイツにおい

 て、それが労働者レーテの…つの成立基盤となったことは前述のとお

 りである。

⑭「アメリカン.システム」という規定を、ここでは、一八五一年の

 ロンドン工業博覧会を契機として名付けられた狭義のそれ、いわゆる

 〉ヨ①置鐸⇒。・岩3諺馬出帥μβ貯9母冒σQに限定するのではなく、 それ

 を出発点としつつ、二〇世紀初頭より、一〇年代において、いわゆる

 「フォード・システム」において総合化され、全弼開花を見た、いわ

 ば「二〇世紀のアメリカン・システム」の意に拡張して用いたい。

⑮ ドイツ「産業合理化運動」においてとられた諸手法一さし当たり、

 吉田前掲書九四頁等一およびその全体的性格を考慮すれば、他の諸

 産業についても同様の諸過程の進行を推測し得よう。しかし、その立

 ち入った検討は、別の機会にゆずる。

(781)109

        ニ ドイツ自動車工業諸資本の経営危機とその諸要因

 1.経営 不振

 こうしてわれわれは、 「産

業合理化運動」下ドイツ自動

車工業における生産過程の変

化のあとを確認した。ところ

が、さらに立ち入って検討す

ると、めざましい生産発展の

かげに意外な事実を発見する。

それは、この同じ時期のドイ

ツ自動車・工業諸資本の経営面

におけるはなはだしい不振状

態である。

 表5aは、この時期のドイ

ツの主要な自動車工業の諸企

業の、第一次大戦前と「産業

合理化運動」期における株式

配当率の推移を示したもので

b 岡一諸企業の貸借対照褒に現われた純損失額(RM)】 1

1913 1924 1925 1926 1927 1928 1929

\14 \25 \26 \27 \28 \29 \30

0 0 0 0 5,408,494 14,022,952 0

G 0 0 0

12,693 0

0 0 0 0 0 608,075

0 9,174,392 0 226,944

0 0 0 0 306,752 495,687 3,221,071

0 0 0 0 5,096,622 697,643 3,735,234

0 1,996,023 0 0 0 0 0

0 0 2,160,179 0 0 0

0 2,465,635 0 378,776

0 0 0 0 0 0 4,925,000

0 0 0 0 2,006,工14 0 0

G 0 0 4,945 1,241,664 889,132 1,179,036

0 0

0 0 0 0 0 0 7,477,496

0 0 4,428,031 891,703 9,082,984 0 0

GO

0 0 0 0 0

0 0 0 0 0 0 201,566

0 0 493,116 0 442,002 4,911,601 0

0 0 0 0 0 1,631,034 0

0 660,800 0 1,252 57,384 1,478,505 2,963,992

2,077,735 G 0 0 0 634β82

0 0 0 0 G 1,731,897

2β95,913 2,505,912 0 ユ36,917 65,629 594,209

0 0 0 0 0 0

0 0 0 0 0 0 0

言十〇1・6・817・556

12,052,873}…2・・834 124・・57…gi 24・・92・1831

27,271,953

a,bともに, F. Lederman, a. a. O., S,31.より作成。

110 (782)

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

 ①

ある。大戦前の一九一三年に

は、一八社のうち大部分の一

四社が配当を支払っており、

そのうち九谷が12%以上の配

当率を示していた。ところが、

「産業合理化運動」期には様

相が異なる。一九二三/二四

年において配当を支払い得て

いる企業は、二七社のうちの

%の高社のみであり、以降、

配当支払企業…数は、二五/二

六年には6、二七/二八年に

は9、二八/二九年には3、

と推移し、それ以外の大部分

の企業において無配が続いて

いる。例外的に配当を支払っ

ている少数の企業として、B

蟹W、ヴァンデラi、フォマ

ーク等があるが、それらにつ

褒5 a ドイツ主要自動車工業企業の株式配当率(%)

1929  ×30

工928 ×29

1927 ×28

1926 ×27

1925 ×26

1924 ×25

1923 ×24

1913×14

0

一  〇一〇〇〇〇一

(り 

0 0    

ハU O    

O (V 

O O O O O O 2U (U

0[

0 0000 000 00 7800000060

0  一5一0 0 4 0 0 8 0 0    

0 (V

14

U060610060

06 5000040850

【00一144812

ハU O O O 6 (U

農U 

8 (U αU 

O O O (U n》 

0 0 0 0

一〇〇  120G120

ハU G O 6 ∩U

612056

0 0 0 AU nU (V A) 

nU O O

0101000120GOO108

12

P2

O8n) 0 0 0 Qり 

0 () 

0 農U () 

0 (V nU10

O012010

∩V 【D O ∩V

0 0

一15162055 15171201412  一300249

一 4

Ntn.g

エリーテ・ディアマソトElite-Diamont

NAGプレスト

ドウクス

ピュスイソグ

M一ムラークドユルコプ

ハノマーク

R一ライ

ハンザーロイド

“ハソザ”

ホルピ

アドラー

マギルス

ベソツ

ダイムラー(ペソツ)

ゴータ

ツィクロソ

ベー・エム・ヴェ

フ,tマーク

ヴァンデラー

ダーク

シュテーヴァー

デ・カ・ヴェ

アウディ

フェノーメン

ヘルクレス

Presto

DuxBtissing

M-Mulag

Dttrl〈opp

}lanomag

R. Ley

Hansa-Lloyd

“ Hansa “

Horch

Adler

Magirus

Benz

Daimler-B.

Gothaer-WCvlclon

BMWVomag

Wanderer

Daag

Stoewer

DKWAudi

Ph6nomenHerkules

111 (783)

図4 ドイツ自動車工業平均株価(指数)の推移(1925年1月一1930年12月)

   『フランクフルター・ツァイトゥング』

1926-100 竺、、 ’ 廟

総工業平均株価

㌃1汽  ’へ、ゲ  ’A 〆 ’}・へ

、、

’〕    Vu

丸へ  \、,へ   、’、㍉

、\

!㍉ノ「馬,       、   覧   、

、、、 、

@、@、

\自動車工業平均株価

ヒ E

1925 1926 1927 1928 1929 1930(年)

脚 ㎜ ㎜ 蜘 拗 ㎜

80@ 60  40  200

F. Lederman, a. a. O., S. 31.

いても、その収益源泉は自動車生産以外の部門、す

なわち、BMWの場合はナートバイ・航空機用発動

機、ヴァンデラ!の場合はタイプライター・事務用

計算機、フォマークの場合は編み機・輪転印刷機、

                    ②

の各部門の好調に依るものであったという指摘を考

え合わせると、自動車生産部門はおしなべて赤字で

あったと言えよう。

 表5bは、同一諸企業の貸借対照表に現われた純

損失額を示している。第一次大戦前には損失を出し

た企業はなかった。ところが、「産業合理化運動」期

には、BMWを除くすべての企業で、多額の累積赤

字を計上している。一九二九年時点でこの二七社の

累積赤字を総計すると、九三、一〇二、三二二RM

にのぼり、総自己資本約二〇〇、○○○、○○○

             ③

RMのおよそ半分にも相当する。生産のめざましい

発展とはうらはらに、この時期のドイツ自動車工業

諸資本の経営状態は決して良好ではなく、むしろ深

刻な赤字累積に苦しんでいたのである。

 図4は、フランフルター・ツァイトゥング司蚕甲

112 (784)

両大戦問期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

匡負8目N①津自σqの株式市況欄によって、この時期のドイツ自動車工業企業株価の変動をしるしたものである。このグラ

フが、もっとも如実に、こうしたドイツ自動車工業諸資本の二面的な状況をあらわしている。一九二六年から二七年にか

けては、 「合理化運動」を好感して、ドイツ自動車工業株は急上昇。五五ポイントから二〇〇ポイントまで、一四五ポイ

ントをものぼりつめる。ところが、一九二七年中ごろより、一転して暴落を開始。一九二七年五月の二〇〇を頂点として、

同年=一月には一一九へ、八一ポイントの下落、短期的に小康を保ったあと、 一九二八年九月の一三二から一九二九年

一〇月の四一にまで、計一五九ポイントもの大下落であった。かの世界大恐慌の発端となったアメリカ・ニューヨーク・

ウォール街の株式大暴落、いわゆる「暗黒の木曜日」が、一九二九年一〇月二四日であるから、ドイツ自動車工業諸資本

                                  ④

の経営状況は、そのはるか以前にすでにしてどん底に至っていたことがわかる。それでは、この経営不振の原因は、一体

どこにあったのか。

2 直接的要因

 ドイツ自動車工業諸資本の経営不振の諸要因を追求して、われわれはやがて重要な事実に突き当たる。先に見たように、

一九二八年と言えば、 「産業合理化運動」下、活発に生産力改革を実行したドイツ自動車工業諸資本が、生産高を飛躍的

に増大させ、その最高水準に至らしめた年である。表6は、そうした生産の最高水準の年における主要な自動車工業企業

                ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  カ  ヘ  ヘ                            ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

の年間生産台数を、同じ年の各々の年間生産能力台数と比較し、各企業の工場操業率を算出したものである。企業によっ

てかなりの偏差がみとめられ、一概に言うことは難しいが、全体としてきわめて低い操業率にしか達していない。高級車

に特筆しているダイムラー-ベンツの特殊性を考慮してこれを除くと、最高のオペル、BMWでさえ六〇%、ドイツの自

動箪生産台数全体の七五%を占める表6にかかげた上位7社の平均では、三五・四%である。参考として掲げた、同じ年

のアメリカ自動車工業諸企業の工場操業率を比較すると、事の重大性がいっそう明らかとなる(表硲下段)。アメリカ自動

1ユ3 (785)

表6 工928年時のドイツ自動車工業主要企業の工場操業率調査1,

操 業 率1928年時生産実績年産能力日産能力二業企

60.7(90)

9.0

30.1

60.0

7e.3

28,8

13.0

35.4

45,543

6,781

7,233

9,000

11,656

8,655

3,400

92,268

122,661

75,000

7s,ooe

24,000

15,000

16,0eo2)

30,0002)

26,000

261,000

250

250オ  ペ  ル

ブレナボールア ド ラ ーベー・エム・ヴェー

ダイムラー=ベンツ

アウト・ウニオン3)

ハ ノ マ 一 ク

計社7

ドイツ自工総計

(参考)1928年蹄のアメリカ自動車工業主要企業の工揚操業率調査41

操業率80.0(%)

89.3

80.0

1928年時

生産笑績2,700,000

2,370,000

 746,000

年産能力名業企

3,375,000

2,650,000

 932,000

ジェネラル・モ・一一タース GM

フォードFordクライスラー・ダヅジChrysler-Dodge

3 社 計 5,816,000

アメリカ自工総計 9,393,000 7,764,000 82.0

1) Ledermann, a. a. O., S.82, S.120.よりf乍成。

2) H.il’laurer, a. a. O. S.3. より推言十。

3)1932年にアウト・ウニオン(Auto Union)を形成する4社,ヴァンデラー, DKW,ホル ビ,アウディの計。

4) Ledermann, a. a.0., S,104.による。フォードは,カナダ・フth 一一ドを含む。

車工業諸企業の場合、平均操業率八二・○

%、フォードにいたっては、ほぼ九〇%の

      ⑤

操業率を維持している。

工場操業率のこの低さは、ドイツ自動車

工業諸資本の経営にとって何を意味したで

あろうか。

ドイツ自動車工業の「生産合理化」の過

程は、他面では、当然のことながらドイツ

自動車工業諸企業による巨額の固定資本投

下過程であった。周知の如き固定資本の生

産物への価値移転の特殊性により、個々の

生産物へ移転される固定資本の価値部分の

大きさは、固定資本の実体たる生産設備の

利用度、従って工場操業率の高低によって

著しく変化し、それに対応して個々の生産

物原価も変動する。そして投下された固定

資本価値が大きければ大きいほど、この変

化もまた激しいものとなる。

 一例として、表7によって、アドラi・

114 (786)

ヴェルケの、手工的はけ塗装に代って「流れ作業システム」に組み込まれた新塗装法、「高温浸せき法」日窪。巨帥ぼ興く。撃

鍵冥Φ⇔の場合の塗装原価形成を見てみよう(表7)。操業率に応じて、労賃、浸出液消費、ラッカー消費などはほぼ比例

的変化をするが、固定資本部分の転化形態である、原価償却と利子払いからなる固定費は常に一定額である。それゆえ、

この固定費がどれだけの台数の車に分割されるかに従って、一台当りの塗装原価は変化する。操業率三三ヵ三分ノ一%の

時は、五、○○○台の自動車に分割され、 一台当りの塗装原価は三四、四六RM、操業率六六ヵ三分ノニ%の場合は、

一〇、○○○台に分割され、一台当りの塗装原価は一九、六四RM、操業率一〇〇%では、一五、○○○台に分割され、

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

衰7 高温浸せき法による塗装原価形成(アドラー・ヴェルケ)

                     (単位:RM)

loogo66」69033%90二業操

15,00010,0005,000年間生産台数

le4,880104,880104,880固 定 費 年 間

(原価償却と利子払い)

IZ28015,12012,96e賃労

1,5001,050600菖オ 滋~ ?肖  多毫

45,00030,eoo15,000ラッカー消費

51.84045,360

220,500196,410

14.7019.64

38,800

172,370

  34.46

費雑

一台当りの塗装原価

 1’1. Ludxnyrig, Die Arbeitslosiglceit in der deutschen Au-

tomobilindustrie, ScJ;pti ften des Tierei’ns fiir Sogialf)olitift,

185/II,1932, S.143.による。

一四、七〇RM、と大きな変化を見せる。ここにおい

て仮に、一台当りの「塗装市価」が、平均一九、○O

RMと市場決定されていたとすれば、アドラー・ヴェ

ルケは、操業率三三ヵ三分ノ一%の時は、一台当り一

       も  ヘ                                  ヘ  ヘ  へ

五、四六RMの損失、総売上に対する「年間損失率」

は四五%。操業率六六ヵ三分ノニ%では、一台当り○、

六四RMの利益、総計六四〇〇RMの利益、総売上に

対する年間利益率は三・三%、操業率一〇〇%では、

一台当り四、三〇RMの利益、総計六四五〇〇RMの

            ヘ  ヘ  へ

利益、総売上に対する年間利益率は二九・三%となる。

したがって、企業会計上のいわゆる「損益分岐点」は、

この場舎、操業率約六六%の所にくるわけである。

 いまかりに、この例を、ドイツの自動車工場の全体

115 (787)

に敷介して大過ないものとすれぼ、ドイツ自動車工業における平均操業率三五・四%が何を意味するかは、問わずして明

らかである。 「産業合理化運動」期ドイツ自動車工業において、巨額の圃定資産投下を通じて形成されたこうした生産力

        、、、、⑥、、、、、、、、、、

装置は、常に、 「大量生産」を条件としてはじめて、商品低廉化手段として作用し、合理的な生産方式たり得る。そうで

なければ、正反対に、いわば「あまりにも高価な生産方式」へと一変してしまうのである。

 ドイツ自動車工業が「合理化手段」として導入した最新鋭の「流れ作業システム」の中を、原材料がゆっくりと進んで

                                      ⑦

行き、工場から大変高価な製品として押し出され、そして多量の完成車在庫が滞留する、といった光景が見られたとすれ

ば、それはドイツ「産業合理化運動」の中でも、最も不合理な情景の一つであったにちがいない。こうして一方において

                                                ヘ  へ

は、低操業率がドイツ車の原価を強く押し上げる。他方においては、この間、低価格のアメリカ車の流入は、輸入が一九

                                            ヘ   へ   あ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

二七年の一二、○○○台から二八年の一八、○○○台へと増加し、また、アメリカ企業を中心とした外国企業の組立経営

による台数が、二七年の二二、○○○台から二八年の三五、○○○台へと本格化する、いった二重の形態でいっそう激し

いものとなり、こうして激化する競争戦は、ドイツにおける自動車市場価格をいよいよ低下させる(一九二五年を一〇〇と

                           ⑨

して、二六年六月には八○、二七年六月には七〇、二八年六月には六五)。一方における高原価、他方における低価格の両者に挾

撃され、ドイツ自動車工業諸資本はその狭間に苦しむことになったのである。ドイツ自動車工業諸資本の経営不振の直接

の要因は、まさにここにあったと言わねばならない。

116 (788)

3 諸 結 果

 表8aは、 「産業合理化運動」開始期の一九二四年から一九三二年に至るまでの、ドイツ自動車工業企業数の推移を示

している。ドイツ自動車工業における「生産合理化」の過程が、同時に、そのための資金調達のできない弱小企業の脱落

と淘汰の過程であったことは言うまでもない。一九二四年の八六社から、二五年の四九社、二六年の三〇縫といった企業

両大戦問期のドィッ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

表8 a ドイツ自動車工業企業数の推移(1924-32年)

193219311930192919281927192619251924年

16 16 17172719304986社

A.Becker,/lbsat4proble7ne der deutselten PJ〈レV-indv.st7’ie,1979, S.56.より作成。

       b

合同年    旧  企  業1926年ダイムラー・モトーレン・ヴェルケ 6月   ベンツ&Cie, AG

 12月 ゴータ・ヴァゴソ

   ツィクロソ1927年プレスト

   NAG1928年 ビュスイソグ

   〕M〔一ムラーク

1929年 BMW   ゴータ・ヴァゴン

   ツィクロン

   ディクシエ929年 ハンザーロイド

   ハンザ

1929年GM   アダム・オペル

1930年 ビュスィソグ

   NAG1932年 アウディ

   ホルヒ

   ヴァンデラー

   DKW

ドイツ自動車工業における企業合同(1926年~1932年)

  新企業(所在地)

ダイムラー・ベンツAG(シュトクヅトガルト)

ゴータ・ヴァゴン(ゴータ)

axT A G

(ベルリン)

ビュスイソグ(ブラウソシュヴァイク)

B !tlxNr

(ミュンヘン)

ハンザーロイド(ブレーメン)

オペル(リュツセルスハイム)〔GM子会琶へ〕

ビュスィソグ=NAG(ブラウソシュヴァイク)

アウト・ウニオン(ケムニヅツ)

Seherr-Thoss. a. a. O., S.644-645.より作成。

数の減少は、ほぼそうした性

格のものと考えることができ

よう。だが、さらなる問題は、

生産改革が一段落した後も、

この企業数の減少過程がやむ

ことなく進行したことである。

一九二六年の三〇台から、二

七年の一九、二八年の二七、

二九年の一七へと推移して行

く。われわれはここに、上に

見た経営不振への最初の対応

としての、ドイツ自動車工業

諸資本の合同運動一資本集中

の過程を見ることができる。

表8bは、一九二六年以降の

ドイツ自動車工業主要企業間

におこなわれた主な企業合同

を示したものである。生産改

革を行なった企業どうしが、

117 (789)

9

{ダイムラー=ペソツ

 BMW

{アダム・オペル

 アドラー・ヴェルケ

ドイツ銀行Deutsche Bank

アウト・ウニオソ

アウディ,ホルヒ,

ヴァンデラーtDKW,(1932年iこ合同)

ダナート銀行Danat Bank

ザクセン国立銀行    一一

Sachsische Staatsbanl〈

先に見た自動車工業企業側の経営不振により、累積債務が銀行の参与権に転ずる形で、

変わっていった。

 こうした過程の結果、ドイツ諸大銀行とドイツの主要自動車工業企業との間には、表9のような結合関係が形成される

    ⑭

にいたった。

 ドイツ自動車工業における資本集中運動は、さらには、これらドイツ諸大銀行の主導によって続行されたが、なかでも、

ダイムラー-ベンツ、BMWを配下に収めたドイツチェ・バンクは、 「多数の採算の取れないドイツ自動車会社の結合」

によって「ドイツ自動車トラスト」を創出し、これによって、規模の点ではるかに優位に立つアメリカ自動車工業への対

合同によって工場間分業の薄墨等を行ない、競合車種の減少、規模拡大による部品の共通

                  ⑩

化等を試みたものと考えることができよう。

 この合同過程を、背後にあって強力に推し進めたのは、ドイツの諸大銀行(ドイツチェ・

                              ⑪

バンク、ディスコソト・ゲゼルシャフト、ドレスデン銀行、ダナート銀行等)であった。周知のよ

うに、ドイツ「産業合理化運動」への資金供給においては、外資、とりわけアメリカから

                                    ⑫

の長期資金、短期資金の流入が大きな役割をはたした。そのうち、外債の直接発行による

長期資金の調達は、鉄鋼、電機などの巨大企業に限られた方途であり、なお形成期にあっ

たドイツ自動車工業諸企業の手のとどく存在ではなかった。そこで、ドイツ自動車工業の

「生産合理化」のための資本供給は、ドイツの諸大銀行を通じて行なわれることになった。

外資との関係では、アメリカからの短期資金がいったんドイツ諸大銀行に流入し、そこか

ら自動車工業諸企業へと流れるといった間接的関係にあった。こうした関係を通じて、ド

イツ諸大銀行とドイツ自動車工業諸資本との関係は、しだいに深まって行ったが、それは、

                     ⑬

                         しだいに銀行側の主導的関係へと

118 (790)

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

          ⑮

抗力形成に努めていた。こうした構想から、ドイツチェ・バンクは、続いて一九二九年には、ダナート銀行に対し、オペ

ルとダイムラー-ベンツの合併を申し出た。オペルは当時ドイツ最大の大衆車企業であり、ダイムラー観ベンツは最大の

高級車企業であって、一九二八年における両社の生産台数を合計すると当時のドイツ自動車生産全体の四割強を占める。

従って、この合同が実現すれば、ドイツ自動車工業の中核が形づくられるであろうことは確実であった。ところがダナー

                                                     ⑯

ト銀行は、意外やそれに代えて、オペルのアメリカ・ジェネラル・モータースによる買収を斡旋したのである。

 この背後には、 「ドーズ案」(一九二四年)以来の、ドイツ「産業合理化運動」への資金供給にとどまらない、アメリカ

金融資本(とりわけモルガソ系)のドイツ主要産業支配への志向がかくされており、ダナート銀行、ドレスデン銀行はいわば

                        ⑰

その「代理人」に転化していたという事清があったのであるが、こうして、ドイツ自動車工業諸資本の経営危機は、いわ

  ゐ   へ   も   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   カ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ   あ   へ   も   へ

ば「ドイツ自動車工業をめぐる、ドイツ金融資本とアメリカ金融資本との争奪戦」とも言うべき事態にまで広がりを見せ

るに至ったのである。

 では、ドイツ自動車工業に導入された「大量生産システム」の全面的展開を押しとどめ、そこに発する経営危機によっ

てドイツ自動車工業の対アメリカ「生き残り闘争」を窮地に追いつめている根本要因と見られる、ドイツにおける自動車

需要の狭い限界性は何によって規定されていたのか。そしてドイツ自動車工業諸資本の経営危機打開への方向はどこに求

められるのであろうか。

 ①男ピoO臼旨雪P魯襲・9層ω■誌.但し、アダム・オペル、ブレナボ  ⑤表にあるとおり、切.い高角ヨ雪昌.麟爽(y”δ蒔に依拠した数字で

 ールは、この時期、阿族会社11株式宋公開のため欠けている。

② 労ピ①α窪葺斜罎ご箪39”白Q.ω一.

③男い巴興ヨ雪P魯a・O‘ω曾G。膳.

④ 古川澄鋸氏は、前掲論文「史的前提漏の中で、このドイツ自動車工

 業諸資本の経営破綻について、 「世界経済恐慌を契機として顕在化」

 と言われているが、これは正しくない。

 ある。原資料は、ベルリン・タークブラット穿ミ§ミ肩薦ミミW一九

 二八年五月三〇日付。ただ、フォード社にとって、一九二七、八年は、

 車種をT型からA型に切り換える過渡期にあたっており、そのことと

 のつき合わせ、および正確な時期の確定はなお必要である。

⑥「大量生産」はもとより相対的な概念である。その厳密な規定をす

 ることは難しい。ここでは、 「個々の独立した機械」にとどまらぬ

119 (791)

  う  ヤ  も  ヘ  ヤ  ら  で                 ち  へ  も  ヘ  ヘ  ヤ  め

 「本来の機械体系」ないし「機械閉の白一動体系」 (K・マルクス『資本

                       ヘ  ヘ  へ  む  ヤ  コ  へ

 論』第一巻、邦訳全集版下四九五-七頁)の成立とその連続的運動に

 よる生産、ということを一つの指標として考えたい。

⑦局U巴卑酒庫p騨鼻PQo・。。。。.

⑧ω呂賃学習。ωωヤ鶏.自.9篤ω■b。δ、爬b。ド

⑨卑ゼ⑦9H日p。≧嚇畠§.9㌧ω●H伊

⑩峯竃祭冨さ斜噛39

⑪この時期のドイツ諸大銀行各行の自己資本、預金残高等については、

 さし当たり、 国・OO器≦①旨①び風鐸き§四ぎゅ騨N9§“魚蕊§§』§N価留ミ・

 qぎ§§§ミ㌧ミ馬簿§物魯ミ§§愚ミ恥職§§奪§§§“砺

 註bミ箒もミ§織遣ミ虹b遣・邦訳川鍋・熊谷・松本訳『大銀行・工業

 独占.国家ーヴァイマル期ドイツ国家独占資本主義史論-』四二二頁

 参照。

⑫塚本前掲書六〇一ぬ主群、および同舞姫25表。

⑬例一、ホルヒの場合、増資三〇〇万RMのうち二五〇万R雛をザク

 セン国立銀行が引き受け。例二、ダイムラー“ベンツの場合、四〇〇

 〇万RMにふくれ上がった銀行債務を株式・社債に転換、その大部分

 をドイツチェ・パンクが引き受け。例三、アドラー・ヴェルケの揚合、

 ダナート銀行主導の融資団によって一五〇〇万RMの新株…引き受け。

 アドラーはそれを債務整理に支出。》.切⑦o犀①さ爵奪O・ω・α①・

@〉.ω①。ぎさ争a。O‘ψ$

⑮ 丙■Ooωω≦⑦鵠。び翁騨9邦訳四〇七頁。なお、その推進者は、 の

 ちの監査役会会長E・G・フォン・シュタゥスである。 「ヴュルテソ

 ベルクの生まれの彼は、王立ヴェルテンベルク宮廷銀行で修業したの

 ち、一八九八年にドイツ銀行に入り、まずはその管理者ゲオルク.フ

 ォン・ジーメンスの、その死 (一九〇一年)後は後継者でロックフ

 エラーのスタンダード石油との戦いでの中心人物アルトゥール・フォ

 ン・グヴィンナーの私設秘書となった。シュタウスは、一九〇六年に

 は、ドイツ銀行の石油事業の管理を引きうけ、バルカンから近東諸鼠

 へと向うドイツ帝国主義の拡張働動の最主要代表者の一人となった。

 一九一一二年に、彼はアメリカ旅行を行ない、そこでロックフェラー・

 トラストと協調を成立させた。彼は一九}五年からドイツ銀行の理事

                           ヘ  ヤ  へ

 となった。そこでの彼の仕事の領域は、戦後の時期にかけて、専門と

 へ  り

 してはとくに電気・化学・自動車・航空・映画・軽工業部門であった

   つ  う  つ  ヤ  マ

 し、地域的にはドイツ南部、すなわちバイエルンとヴュルテンベルク

 であった。」(同書三四頁、傍点は原著者)

⑯同書四〇七頁。

⑰同書三二九、三七〇頁。ゴスヴァイラーは、これらを「ドイツの

 『ドーズ案化』と関連してドイツ独占ブルジョアジー内都に形成され

 た『アメリカ派』」と呼んでいる(三二九頁)。

12e (792)

三 ドイツ自動車工業諸資本の経営危機をめぐる「社会的一-構造的」諸要因

1

ドイツ自動車需要を制約する諸要因

表10は、一九二五年、二八年、三二年置の各時点における、欧米主要国の自動車一台当りの人口を示したものである。

両大戦問期のドイツ資本主義と自動車工業の弦燈(西牟田)

これによって、この時期の各国の、いわゆる「モータリゼーション」の水準についてのおよその概観をつかむことができ

る。アメリカ合衆国の圧倒的水準は、ここでも再度確認できる。いま一つ明らかなのは、ドイツがこの点において、アメ

リカに比してばかりでなく、イギリス、フランスに比しても著しく低い水準にあったということである。 「産業合理化運

動」下での急速な生産発展の後(一九二八年、三二年)においても、なおこの劣勢は基本的に変わっていない。ここから、ド

イツにおける自動車市場の拡大の可能性を展望したとしても、必ずしも不当ではあるまい。実際、それがドイツ自動車工

業家たちの展望でもあった。しかし、その現実化をおしとどめていた諸要因が存在していたわけである。それは何か。ド

イツにおいて自動車需要を制約していたと見られる諸要因として、次の諸点が浮び上がってくる。

                       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  カ  あ                  へ

 まず第一には、貨物・旅客両輸送分野において、ドイツにおける鉄道網の高度な整備、ライヒスバーン菊Φざ冨び夢ゆの

表10欧米主要国における自動車1台当り人口

フランス  ドイツイギリス

244

134

100

74

S4

Q5

50

R8

R0

力国リ

衆硲砿娼

メア合、

次 年年年

  ら      

  ワけ リロ らご

年  191919Wolfgang B. von Lengercke, Kva.ftfargeug uotd

Staat, 1941, }leldelberg-Berlin-Magdeburg, S. 76,

77. よりで玉成。

ヘ  へ  も  ヘ  ヘ  ヘ                         へ  リ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  も  ヘ  へ

独占的な地位とそれを支持するライヒ政府の鉄道中心の交通政策があった。これは、普填戦

争、普仏戦争、第一次大戦を通じての、ドイツ第二帝政における鉄道の軍事戦略的位置をも

         ①

その背景にもっている。こうした地位からライヒスバーンは、数度にわたり、鉄道の利益を

はかって自動車交通に規制を加える法令さえ出させてきた。この傾向は、一九二四年以降の

自動車交通の顕著な発達に直面していっそう強まったのであって、遂に、一九三一年十月六

日の行政命令く露。同着§αqにおいて頂点に達した。そこでは、自動車交通に対する、①厳

                            ②

格な許可制、②運賃規制、③保険加入の強制、が規定されている。

 第二には、交通関係の公共投資が、上述のように鉄道整備へと主に向けられてきた裏面と

   へ  あ  へ  ら  ゐ  あ  つ  ゐ  う  も  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

して、自動車交通の要求を充たす道路整備の不十分性があげられる。一九三三年に至ってお

                      ③

こなわれた、ドイツの道路整備状況についての調査によると、 「通常の自動車交通の要求を

充たす路幅は、五・五皿以上」とされる状況下において、ドイツにおける「第一級の道路」

121 (793)

褒11 a

シリンダー容量100cc至り 12.60 RM

2,500 ccの標準型自動車で 315.00 RM(年額)

11当り 16.23pf.(cf.ガソリン原価1~当り 6,0 pf)

11当り4.66pf

自 動 車 税

11当り20.89pf燃料消費151/100km,と,

年間走行距離2,0000 kmとする

     627.00RM(年額)

ガソリン関税アルコール混入義務負担および国内消費税

燃料関係税の計

∴ 自動車1台当り年問税負坦額942.00RM

b 欧米各國における自動車1台当り税負坦額(年間)

ドイツ 942RMフランス  740RM

イギリスアメ リカ

589 RM134 RA,1

a,bともW. Jacobi, a. a. O. S.20.より作成。

力合衆国は国内において、イギリス、フンラ

豊富であるも、石油はほぼ皆無である。この

 と位置づけられるの富山の-毒α源。〈貯獣巴ω霞㊤こ。露でさえ、五・五m以

上は30%にすぎない。その下級の民目飢。。占巳切①巴藁ωω#ρじ。o口になると、

 66・5%が路幅四・五m以下である。総じてこの調査では、ドイツの全

         ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

道路の67%が、 「舗装および路幅」の点で「近代的な自動車交通には不

 、 、            ④

適格」とされたのであった。

                    ヘ  へ  も  も  ヘ  ヘ  ヘ  へ  リ  へ

  第三には、いっそう直接的な要因として、ライヒ政府の租税政策およ

  ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ   ぬ       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      へ   む   ヘ   ヘ   ヘ   へ   ぬ   へ

 び関税政策による、自動車の保有・使用への重い課税が指摘できる。

 「自動車華奢移晶」という、いわば「伝統的な自動車観」にもとづいて、

                             ⑤

 ライヒ政府は高率の自動車税、およびガソリン輸入関税を賦課した。こ

れから、自動車一台当りの年間税負担を試饗すると次のようになる(表

 11a)。

  この値を、国際自動車経済会議報によって他の欧米諸国と比較するな

 らば(表10b)、ドイツにおける自動車の相対的に高い税負担は明瞭であ

 る。

  第四に、上記におけるガソリン輸入関税ともかかわるが、重要な問題

            ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   セ   ヘ   へ   ら   へ

 として、ドイツにおける石油供給体制の不利という問題がある。アメリ

は植民地において豊富な油田を有するが、それに対してドイツは、石炭は

 から、ドイツでは、石炭液化翻合成石油製造や、ディーゼル・エンジン

122 (794)

の開発など独自の技術を発達させることにもなるが、やはり、自動車交通の拡大にとって、石油が全て輸入品で高価につ

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

くことは不利に作用し、ましてや、ヴェルサイユ条約による巨額の賠償金負担に由来する可能なかぎりの輸入制限の要請

下ではなおさらのことであったと考えられる。

                     リ  ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ      へ  あ  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 第五として、これらすべてとかかわって、 「自動 卑疑薯修品」という「伝統的自動車観」が、ドイツ国民玉船の一般的

                           ⑥

意識の中に根強く残存していたことも見逃すわけにはいかない。

 これらの諸要因は、相互に関連し、規定し合って、総体として、この時期のドイツ自動車需要を制約するいわぼ「社会

的一構造的」諸要因を形成していたと考えることができる。

 だが、ここでいま一歩考察を進めるとすれば、重要なのは、こうしたライヒ政府の鉄道中心の交通政策およびそれに相

                   ヘ  ヘ  ヘ  へ  あ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  も  ヘ  ヘ  へ

応ずる諸政策体系・意識体系の背後には、第二帝政以来のドイツ資本主義に特徴的な産業的発展講造があったということ

         、、、、、、、、、、、 、、 、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、⑦、、、、

である。すなわち、石炭-鉄鋼を中心として、電機、化学が連なり、それらが全体として「鉄道によって総括」されると

ヘ  ヘ  ヘ  へ

いう体系がそれである。

                          ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 そうした従来からのドイツ資本主義の発展構造があり、それに相応するライヒ政府の政策諸体系があり、さらに第一次

                                                ヘ  ヘ  ヘ     へ

大戦後のヴェルサイユ的-ワイマル的諸条件が加わって“総体として、先の如きドイツ自動車需要に対する「社会的遺構

へ  ヘ    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

造的」制約諸要因が形成されていたと言うことができよう。これらのことが、 「産業合理化運動」下導入された自動車工

業における「大量生産システム」すなわち、いわぼ「アメリカン・システム」、の全面展開を押しとどめ、そればかりか

むしろ投下された巨額の固定資本を負の重圧に転化することによって、ドイツ自動車工業諸資本を深刻な経営危機へと至

らしめていたと言うことができよう。

 こうした、ひとりドイツ自動革工業の個別資本的ないし個別産業的対応レヴェルをはるかに超えた諸事情は、同時代の

ドイツ経営学者F・レーダマンをして、これを、 「ドイツ自動車工業における〃合理化の誤算”」諫ミ蓉畿§ミ慧ミ§偽

                                   ⑧

-…亀ミ》§£織ミ§ミ砺簿§』ミ§8ミ§§無§と呼ばしめるに十分であった。

123 (795)

2

「産業合理化運動」期ドイツ資本主義の「構造的諸矛盾」

124 (796)

 しかしながら、ここで、こうした全構造の中にあっての、同時期のドイツ資本主義の他の諸産業の動向にも少しく目を

転じてみるならば、レ1ダマンの視野にはなかったものも、われわれには見えてくる。

 従来のわが国の両大戦間期ドイツ資本主義に関する諸研究の教えるところによっても、この「産業合理化運動」期には、

           ⑨                 ⑩

例えば、鉄鋼業においても、あるいは化学工業においても、 「産業合理化運動」による新規の配備投資や新部門開発とそ

れに見あわない市場状況、したがって設備の低操業率や収益悪化等といった問題が、多かれ少なかれ諸部門に共通して存

在していたということがわかる。それについての立ち入った検討は、別の機会にゆずるとしても、そうした事態は、先に

示したドイツ資本主義の従来の発展構造のもとでの諸産業部門の発展が、今や一定の限界に達していたということをうか

がわせるものである。図5に見るように、第二帝政成立以来、躍進を続けてきたドイツにおける鉄道網の発達が、第一次

大戦後の、われわれの聞題としている「産業合理化運動」期には顕著な停滞を見せていることは、その重要な一端をのぞ

かせるものである。

 こうして、一方においてドイツ資本主義の第二帝政以来の発展構造に由来するライヒ政府の政策諸体系が、ドイツにお

ける自動車工業の発展を制約し、他方では、その同じ政策諸体系のもとでの諸産業の発展自体が、今やその限度に達して

いるという状態、しかも「産業合理化運動」による生産力の発展が、そうしたいわば「構造的諸矛盾」をますます深化さ

せつつあるという状態一これが「産業合理化運動」期ドイヅ資本主義の全困難を形づくっていたと考えられる。よく知

                                              ⑪

られているところの、 「産業合理化運動」期における、第一次大戦前とはかなり様相を異にする高失業状態(一九〇〇年一

一九一三年には、通常、失業率二~三%、恐慌時のみ七~八%であったが、一九二四年i一九二八年には常時10%以上の失業率を示し

た。)は、この時期のドイツ資本主義が、短期間の「投資景気」畏くΦ導δ蕊閃。且§巨ξにもかかわらず、全体として慢性

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

図5 ドイツにおける鉄道網の発達(延長Km)

含植民地

1941(年)

70,000  (km)

60,000

50,000

40,000

30,000

20,000

10, OOO

         1871    1881   ユ891    1901    1911   1921   1931

Statistischesノ’altPtbuch∫轟7 da.s Dei.ttsclte Reich,1880-1938 より作…成o

o

① 第一次大戦期のドイツにおける鉄道の軍事的位置については、さし

 当たり、〉。轡即↓僧覧。ジ↓ミ達装琴臓ミ§撃鼠壽N§無ミミミ恥-

的な不況状態にあったことの端的な表現であると言えよ

⑫恥つ。

 一九二九年一〇月二四日、アメリカ・ニューヨーク・

ウォール街に端を発した世界恐慌は、こうしたドイツ資

本主義の構造的諸困難に追いうちをかけ、高失業は、一

九三二年には約六〇〇万人という危機的な失業状態に達

する。その一方で、ダナート銀行の倒産、ドイツチェ・

                        ヘ

パンク、デスコント・ゲゼルシャフトの合同といった金

へ  ヘ  へ  ぬ

融再編成も進行する。こうした中にあって、今や、一方

においてはドイツ自動車工業をも支配下に置き、他方に

おいては、石炭-鉄鋼業、電機、化学といった従来から

の主要産業をも系列下にもちつつその頂点に立つドイツ

         ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  う  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

諸大銀行としても、あるいはそれらの総体としてのドイ

ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ

ツ金融資本としても、その産業的基盤における何らかの

構造的変革が求められていたと言い得るであろう。

 こうした中で、一九三三年一月三〇日、ナチスの政権

掌握が行なわれるのである。

琶護国震日。呂ωミ。答F一Φ㊦O●倉田稔訳『纂一次世界大戦』一八頁。

②O・賦。σqH9曾ミミミミ醗酵9§δ。ミb翁ミミミ蕊欝券馬ミ恩。ミ§N125 (797)

 §b婁逡ミ§尽§蕊さ母ミ粛無§§、忌ミ鴇ぎ蕊砺ミミミ§N賊q娩き

 ℃話αqδω轡60’①9㊤ド

⑧唐■冒89b爵さき§ぎ§竃Nミ、軌ミミ§偽§い誉§ミ。ミ隷冒ミ軌題

 §b馬ミ鶏ミミミいド逡一㌧ω◆器噸

④ 一九三〇年秋には、ドイツ熱動車クラブ〉臨σqo竃。綬鶏do艮ω魯Φ娼

 〉葺。旨。露7Ω百σが、道路の自動車交通向け整備…を求める要望書を政

 府に提出している。≦■智ooσ㌍鼻騒.9、ω■ωb。。

⑤ これは、累進課税等による所得再配分といったワイマル体湘制の禰粗醐祝

 原剛における恰好の課税標的として自動車保有が見なされたことにも

 よると言い得よう。

⑥ ≦.冒8αh陶畠為■食ω.嵩.興味深い事例として、 …九三二年に行

 なわれた経済学者ゾソバルト教授と化学者オズワルド教授との問う激

 しい論争がある。前者は自然保離脳と騒音防止のために自動車の大部分

 の禁止を説き、後者は自動車の技術的進歩性と実用性を熱狂的に擁護

 している。薫9冒oo9山霊.9」ω.翼庸q

⑦レーニン『資本主義の最高の段階としての三園主義』(岩頚文庫版、

 宇高基輔訳)}七頁。

⑧ また、向井鹿松『産業の合理化』 (一九三〇年)は、当蒋のわが国

 からドイツ「産業合理化運動」への視察旅行報告書の一つであるが、

 そこでは、 「合理化が技術上成功して、経営上失敗した」例として、

 ドイツ自動車工業が取り上げられており、なかんづく、次のように言

 われる。 「これらのドイツの自動車会社は、いわゆる米岡式合理化と

 して、折角こしらえたコンヴェヤーシステムを悉く撤廃して、現在で

 は、更にこれを単純な流動作業にやり直したのである。けだし、これ

 コソヴェヤーは、一日に数百台を製作し得る工場では霊気であっても、

 ドイツの如く、 一日に最高二、}二十台しか製作し得ない所では引き合

 わないのである。かくして、技術家が鼓動を高くして狂奔した自動車

 工業の作業合理化も、ドイツでは塗下の所失敗に帰したのである。」

 」七九頁。

⑨ この時期のドイツ鉄鋼業については、さし当たり、工藤章前掲論文

 「鉄鋼」、とりわけ操業率の悪化(九三頁)および鉄鋼製・習眼目罰構

 成の変化(}○八頁)が参考になる。鉄鋼製贔のうち、鉄道資材.車

 両が、一九一三年の二七〇万トン(全体の16・8%)から一九二八年

 の一四〇万トソ(11・4%)へと急落しているのが目立つ。全体では

 }六〇〇万トンから「二八八熊トンへの減少となっている(鎗7表)。

⑩化学工業については、さし当たり、工藤章前掲論文「王Gファルベ

 ンの成立と贋開」。 IGファルペンは、この時期、新部門開発へと新

 規投資を集中した。すなわち、ヘキストがアセチレン・合成酔酸(溶

 剤)、バイエルが合成ゴム・ラッカー、またロイナ工場において石炭

 液化琵合成石油、等である。しかし、一九二〇年代においては、「ほ

 とんど、ないし全く、粛場が拓かれなかった」と言う(…一〇頁)。

 ここには、かなり明確に、王Gファルペンの自動車関連分野への志向

 が読み取れるのであるが、先に見たドイツ自動車工業の危機がここで

 も影を落としていると言える。

⑪ 塚本健前掲書『ナチス経済隔九四頁、加藤栄一前掲書『ワイマル体

 制の経済構造)』二一〇!一=一百ハ。

⑫ もとより、問題は、それをいかに把握するかである。

126 (798)

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

1

四 ナチス政権による「モトーリズィールング」政策の展開

「モトーリズィールング・ポリティーク」

 政権掌握の=一日後、 一九三三年二月二一日に開催されたベルリン・モ…タ1ショーbσΦ匹冒興}昇。白。げ陣貯Gωω8崔蝦pσq

において、ヒトラーは次のように演説する。

  「一九世紀における鉄道の驚くべき発達は、交通の革命をもたらしたが、その複雑なる発達は、遂に交通における個

 人の自由を奪うに至った。今や、個人の計画に従って行動し得る新時代の交通機関たる自動車とその道路を建設し、こ

                      ①

 れによって交通の自由を獲得しなければならない。」

                                ②

 ヒトラーはこうして、ナチス政権による包括的な「モトーリズィールング」冨♀o目誤読§σq計爾の実行を宣言し、以降、

矢継ぎぼやに自動車工業振興諸政策を打ち出すことになる。それが、政権掌握前夜のドイツ自動車工業とヂイッ資本主義

とのいかなる諸状況の中からのものかは、既に見たとおりである。その具体的な展開過程については後に見ることにして、

ここでは、ヒトラ…による特徴的な自動車の意義づけの背後にあった、いま一つの重要な企図について述べねぼならない。

 それは、ドイツ国防軍内に第一次大戦敗戦以来形成されて来ていた、 いわゆる 「軍モトーリズィールング」頴①oお甲

           ③

ヨ9霞霞震琶αq構想であった。国防軍将校W・ネーリングが一九三一年に出したパンフレット.、缶8お。・ヨ98延買§σQ、”

(匂σ①吋出旨 一りQQド      暫)から、特徴的な箇所を長文ながら引用してみよう。

  「彪大な量の自動車を、軍事目的でストックしておくのは費用がかかりすぎる。また、開戦時にそれらが(技術的に)

                       ヘ  ヘ  ヘ    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヤ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  あ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 時代遅れとなり、敵に劣勢をとる危険性も高い。さらに、軍は戦時に彪大な数の自動車運転手を必要とする。(傍点は筆

 者、以下同様。)平時において、すでに十分な自動箪使用が行なわれているのでなければ、それは達成できない。……

  したがって、責任ある人々は全力を尽し、ドイツの自動車工業を高水準に保つばかりでなく、いっそうの発展を促

127 (799)

し、最高度の繁栄に至らしめるべく努力すべきである。その事業の如何に祖国の運命は将来大きく左右されるであろう。

                             ヘ  ヘ  ヘ  へ  も  ヘ  カ  ヘ  ヘ  へ  あ  へ

 ……こうした、自動車工業への強力な支援をなすべき理由は、軍のモトーリズィールソグ団Φ零Φのヨ08税邑窪§σqが、

         ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  リ  ヘ  へ

自動車工業および経済のモトーリズィ:ルング≦馨の。げ鉱富§99邑oH琶σqに、すなわち、経済生活の中にすでに存在

 している自動車の主要部分とそれらの生産工場とを軍の目的のために余すところなく利用することに依存するからなの

  ④

である。」

 さて、こうした側面をいわば「メダルの裏」として、 「モトーリズィ:ルソグ・ポリティーク」はいかなる展開を見せ

たか。

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 まず第一に、自動車税が撤廃される。一九三三年置月一〇日の「自動車税法ノ改正二関スル法律」は、第二条a項にお

いて次のように規定する。 「乗用自動車、乗用自動二輪車、及ビ内燃機関ヲ動力トスル全テノオムニバスデ、一九三三年

                  、、、、、、、、、⑤

三日μ=二日 以降二許可サレタルモノハ、全テノ税ヲ免ゼラル。」(傍点は筆者)

 さらに、 一九三三年五月三一日法により、中古自動車に対しても免税が実施された。この措置は、自動車の維持費を

                         ⑥

「ただちに10~15%引き下げる効果をもった。」と言われる。

                                        ⑦

 政策の第二は、自動車道路の整備と大拡張であった。一九三三年、新たに「ドイツ道路総監」○竃①鎚冒ω需葬。屡局竃

伽霧αΦ耳ωoげΦωけ雷ゆ象宅①。・Φ昌が置かれ、従来、統一を欠いていた道路行政が、これによって専一的に統轄され、自動車

道路網の整備と拡張が大規模に開始される。その中軸は、 一九三三年五月一日の「国民労働祝祭日」(「メーデー」の戯画)

において発表された全長七〇〇〇㎞の自動草専用道路アウトバーン》鼻。げρげ昌の建設である。実施のために、ただちに

                                ⑧

一九三三年六月二七β、 「ライヒスアウトバーン会社ノ設立二関スル法律」が公布された。

           ヲ イ ヒ ス バ   ン

  「第一条 ドイツ・ライヒ鉄道会社ハ、其ノ附帯事業トシテ、自動車道路ノ建設及ビ管理ヲ為スコトヲ得。之二丁キ設立シタル会

 社ノ名称ハ、ドイツ・ライヒスアウトバーン会社トス。

128 (800)

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

   「第九条 ドイツ・ライヒスアウトバーン会社ハ、業務執行二関シ、公用収用ヲ為スコトヲ得。

   「第一ご条 ドイツ・ライヒ政府ハ、本法施行二必要ナル命令ヲ発スルコトヲ得。」

 こうして、同年九月二三日には、まずフランクフルト・アム・マインーマンハイム問路線が起工され、以降、急ピッ

チで工事が進む。三五年五月には、第一上線フランクフルト・アム・マインーダルムシュタット闇が開通し、一九三八

                       ⑨

年=一月には、はやくも延長三〇〇〇㎞が完成を見た。

                  、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、                             ⑩

 第三は、ライヒスバーンに、新たに、トラック輸送部門を設立し、トラックの大発注を行なったことである。従来、ラ

                                                    ヘ  ヘ  ヘ

イヒスバーンは自動車交通に敵対的な態度をとってきたが、先のライヒスアウトバーン会社設立に当って、これをライヒ

も  ヘ  へ  た  ヘ  へ  も  ら

スバーソの子会社としたことと合わせて、これらによって、鉄道の既得権益と自動車交通との和合をはかったのである。

 さらに第四に、注目すべき政策として、ベルリン・モーターショーによる大規模宣伝・広告・需要開発事業がある。一

表12ベルリン・モーターシa一への参加者

展示者数

脚 鋤姻姻姻姻㎜脚

会場の広さ(平方m)

16.0

16.0

19.0

45.0

45.0

45.e

50.0

35.0

参加者(万人)

29.5

35.0

41,0

59.0

64,0

73.0

77.0

82.5

1931

1932

1933

1934

1935

1936

1937

1938

1939

 Iml. C. G. v. Seherr-Thoss, a. a. O,, S. 640,

641.より作成。

 W.Jacobi, a. a.0., S.37.によって補足。

八九七年以来ドイツ自動車工業連盟閃●阜2の行なっていたものが、 ナチ

        ヘ  へ  あ  ヘ

ス政権のもとでは国家開催となった。表12は、一九三一年から一九三九年に

至る累年のベルリン・モーターショーへの参加者数の推移を示したものであ

るが、一九三三年の三五万人から、年々、四一万人、五九万人、六四万人、

七三万人、七七万人、八三万人と、みるみる参加者がふくれ上がっていった

様子が見て取れる。ここにおいて、大量生産体制の不可欠の前提と言うべき、

ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  へ  ぬ  ヘ  へ  ら  ヘ  ヘ

アメリ二二マス・マーケッティングが、いわば個別企業レヴェルを超えた国

                ⑪

家規模で実行されていったと言い得る。

 そしてこの場において、ヒトラーは、先の如き門モトーリズィールング」

のための諸演説を行なったのである。それは、自動車の宣伝・広告とナチ・

129 (801)

イデオロギーの宣伝・「広告」(!)との渾然一体たる奇妙な融合の世界であり、ここにおいてアメリカでおこなわれた

「伝統的自動車観」のフォード的旋回が、ドイツではヒトラーによって戯画的に利用されたのであった。本章冒頭にかか

げた演説は、ブルジョア的個人主義から必然的に生じる「強い個人への憧憬」を、強者への自発的服従に転化する、いわ

                  ⑫

ゆる「ゲルマン的民主主義」のイデオロギーの諸特徴を示す代表例と言ってよい。こうした、ドイツ国民の一般的意識の

                            ヘ  ヘ  ヘ  へ  も

旋回を通じて、ヒトラーへの服従、ドイツ帝国主義再建運動への自発的参加、その忠実なる〃運転手”としてのドイツ国

民の育成へと誘導して行くこと、これこそまさにナチスのねらいである。

 著名な「国民車」構想く。貯ω≦曽σqΦ亭亭。σq墨ヨは、いわばその「極致」であった。 一九三四年のベルリン・モーターシ

ョーにおいてヒトラーは演説する。

  「自動車が、特殊の恵まれた階級の交通機関である間は、より勇敢な、より勤勉な、そしてより有為なる同朋大衆が

 自動車の利用から隔離されている事実は、一つの苦き感情をもたらすものである。自動車は、限られたる階級の生活様

                                              ⑬

 式に有用なるのみならず、日曜祭日における大衆のはかり知らざる嬉ぱしき幸福の源泉とならねぼならない。」

 こうして、「天才技術者」フェルディナント・ポルシェに、「廉価、取扱い容易、悪路走行性、燃料経済性」を考慮した

                                 ⑭、、、、、、、、、、、、、、、、

「国民車」<o涛ω芝㊤σq魯を設計せよ、との命令が下された。種々の経過をへて、アダム・オペルが排除され、ダイムラー

 ・…、、、、、、、、、、、、、、、⑮

ーベンツとドイツチェバンクの主導権の下に、 「ドイツ労働戦線」DAFの主要事業として、一九三七年VW準備会社が

設立され、中部ドイツ・ウォルフスブルクのファーラースレーベソに本工場の建設が始められる。 一九三八年に 「国民

車」<○涛。。甫9σq魯の設計が成ると、ナチスの労働者レクリエーション組織函冨津α霞。げ津①巳。にちなんでKDFヴァ

ーゲンと名付けられた。

             あ  へ  あ  ヘ      ヘ  ヘ  へ  ら  ヘ  ヘ  へ  た  ヘ  ヘ     ヘ  へ

 さて、これらの諸政策は、体系的な「モトーリズィールング」政策を成すものであり、従来のライヒ政策諸体系の、少

                                ⑯

なくとも交通諸関連の政策に関するかぎり、全面的とも言える転換を意味し、先に考察した、ドイツ自動車工業に対する、

130 (802)

                                             ⑰

とりわけドイツ自動車需要に対する「社会的胆構造的」制約諸要因をことごとく打ち壊すものであった。果たして、これ

ら諸政策のドイツ自動車市場とドイツ自動草生産に及ぼした作用にはめざましいものがある。その直接的効果から見て行

くことにしよう。

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

2

その直接的効果と意義

 図1を再度見てみよう。ドイツ自動車生産は、一九三三年の約一〇万台から、翌三四年には、はやくも一九二八年水準

を一気に超えて一七万台へ、以降、三五年には二四万台、三六年には三〇万台、三八年には三四万台へと、急激な拡張を

見せているのがわかる。わずか数年で、一九二八年水準の三倍近くへのこの急激な拡大が、如何にして行なわれたかは、

今や、明確に、規定することができる。 「産業舎理化運動」下に導入された生産システム(「いわばアメリカン・システム」)

が、ナチス政権によるこの「モトーリズィルソグ」政策と結合し、それによって制約諸要因から解き放たれて全面展開を

                                                   ⑱

開始したのである。こうしてはじめて、ドイツ自動車工業における大量生産体制が確立を見たと言うことができる。

 「流れ作用システム」の能動化とともに、先に見た資本の「労働に対する専制的指揮権」も、今や、ドイツ自動車工

業の生産過程に彪大に流れ込む労働者群に対し、有効に機能し始める。そこにおける 「トップースタッフーライン」と

いった専制的指揮体系は、ナチスのいわゆる「指揮者原理」団盗電巽鷲ぢN首を実現する生産過程における基礎とも言い得

る。 

一九三三年五月の「官製メーデー」直後に行なわれた、既存労働組合の暴力的解体と「労働戦線」DAFによる再統合、

「労働管理官」↓お昌ぎ臼興山費》HげΦ導による専権的労働条件決定、一九三四年一月一〇日の「国民労働秩序法」、 「労

働手帳」による強権的労働力配置等によって補完され、生産過程における資本の「労働に対する専制的指揮権」が、全面

的な貫徹を見たのである。

131 (803)

 こうして三〇年代の後半には、ドイツ自動車工業は、石炭-鉄鋼、電機、化学に比肩する一大部門へと成長を遂げる

(表一a、b)。だがそれだけではない。 この過程に先導されて、鉄鋼、化学、電機といったドイツ資本主義の伝統的主要

                ヘ  ヘ                       ヘ  コ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  マ     ヘ  へ

部門が自動車関連分野(鉄鋼における薄板、化学における合成ゴム、合成石油、ラッカー、溶剤、等)を急速に拡大させ、「石炭一

                               へ  ぬ  へ  あ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  あ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  も  へ  る  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

鉄-鉄道」を中心とした従来の産業的諸関連から、いまや、いわば「自動車工業を中軸とする諸産業の大量生産体制」へ

                             ⑲

と、ドイツ資本主義が大きく構造転換を開始したということである。

                                               ⑳

 こうした全過程を通じて、重大な失業者の吸収、恐慌からの急速な脱出が行なわれたと言うことができよう。

3

外貨危機と「第二次四ケ年計画」

132 (804)

 ドイツ資本主義のこうした急速な景気回復は、しかしながら、そのうちに重大な問題をはらむものであった。景気回復

                                       ヘ  ヘ     ヘ  へ

過程にともなう原料輸入の急増は、以上のような新たな発展構造に由来して、とりわけ、石油、ゴムにおいて顕著であっ

た。また、石油輸入において重要な位置を占めたのは、東欧のルーマニア、およびロシアであった(表13)。

 これは、一九三六年に至って、深刻な外貨危機をもたらしたが、それは一方において経済政策の重点とテンポをめぐる

                                ⑳

激しい論戦を巻き起こすとともに、他方において、いわゆる「広域経済圏」OHo費碧ヨ三艮ω。ロ鉱けへの強い要求を呼び起

こすことになる。

                                     ⑫

 ここにおいて打ち出されたのが、ヒトラーのいわゆる「第二次四ヵ年計画」であった。

                                ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  へ

その要点は、第一に、化学工業の総動員によって代替品生産、とりわけ合成ゴム、合成石油の大規模生産を政府助成で行

                        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

なうこと。さらに第二に、自動重工業(なかんづくその内燃機関生産)を基礎として独自の軍事力を構築すること、すなわち、

「機甲師団」、「自動車戸歩兵師団」、および「空軍」の大規模編成であった。後者はほかならぬ、「軍モトーリズィールン

        ㊧

グ」の実現であった。

両大戦間期のドイツ資本主義と自動車工業の位置(西牟田)

表13 ドイツの石湘輪入(1934年一1938年)

              (単位:100万R瓦E)

計タール慕

溜弘遠合

原油及び

タ ール燃料及び

潤滑一年

150.0

195.6

269.6

脇娼M

15.4

24.6

43.4

128.4

169.2

224.8

1934

1936

1938

W.Croll,曜irtschαft伽EUPtopa’ischeov Rau7it,1940,邦

訳『ナチス広域経済論』(世界経済調査会訳,1943年)387頁よ

り作成。

        うち,東欧からの石油輪入

          (ルーマニア)

明年

26.2

53.8

1929

1936

 H. Uhrmacher,

り作成。

GPtoBPtaumtuirtschaft,1938,邦訳同85頁よ

 自動車工業への直接的介入としても、一九三八年、ゲーリングの

主溝下で 「自動車全権委員長」Q①口興鉱び。く。揖諺ぎげ註σq陸Φ隔費自器

                            ㊧

囚建h窪㊤訂≦①ω魯が任命され、いわゆるシェル・プログラムω。げΦ一7

                          り  ゐ  ヘ  ヘ     へ

嘆。σq蜜日によって、自動篤生産におけるいっそうの車種制限一帯

へ  へ  ら  へ

準化強制が行なわれる(これによって、乗用者の画数は五二から三〇へ、

トラックの型数は一三三から二一へと縮減された)。同一観点から、フォ

          ヘ  ヘ  へ  ら  ヘ  ヘ  へ  ゐ  ヘ  ヘ

ルクスヴァーゲンー単一車種大量生産工場の建設が急がれる。

 こうした中で、 「広域経済圏」建設への動きはあわただしさを増

し、一九三八年オーストリア併合、一九三九年三月チェコスロバキ

                       ㊧

ア保護国化、ドイッーールーマニア経済五ヵ年協定の後、同年九月一

日、 「ドイツ機甲師団」はポーランド侵略を開始。ここに第二次世

界大戦を勃発せしめるのである。

①刃08『ω〈。3程αα霞〉葺。導。σ韓ロ曾ω薮やへ尋§壽斡楠ミ肉噛ミ§鑓

 駄ミNミ偽§ミ焼ミミ這ミ。↓きミ§襲ミミ“茜bd⑦H一二一りω。。◆昏晦松義『自

 動車工業の確立』一九四一年、二三六頁。

②旨08噌甘p匡。昌(「モータリゼーション」)の独名であるが、ニュアン

 スを考慮して表記の如く記す。

③勺振(酵。霧。曇肉ミ§も隷驚§題馬§織§煙§織ミ§ミ防蝕§§働口ミー

 鑓画薦§蝕襲嵐恥一8ゆ一おω㊤、鷺驚騰馬§N切ミ愚凡ミ織ミ臥ミ09§§』塾

 Oミ§ミ轟U器ω.∪お巴Φジ旨Φ①れ㌧ω■りO.

④≦.宕。ξぎαqい導ミ§ミ帖ミミミ・ミ嘩じd巴貯巳。。どψωαN三①幕σ巴

 膨首石07び⑦嶺覧亀謡■9Qo.㊤Q。舜

⑤ ♂〈●鞠印8ぼ℃a義.9㌧ψ卜σω「

⑥切藁.○く¢蔓い愚’ミこ℃。ミ曲

⑦ ≦。一碧。σ一b轟a.Oこω認.

⑧誘くoHぎbミ昏§§い亀ミO鴇ミ翻ミミ馬、、尋詩型§§貯ぎ“・§、、”

 ∪富ω・い¢な覧σq・おω9ψ凱・岩崎前掲書二四一頁。

⑨岩崎前掲書二四四頁。

133 (805)

⑩ρ§①σq擢叫誌.額冒Pω。δρ

⑪ この時点(一九三三年二月)に至るまでに、ドイツ自動車工業諸企

 業が、個別資本として、マス・マーケティングのためにいかなる諸手

 段を講じたかについては、なお十分につきとめられていない。後日を

 期したい。

⑫「多数決という議会主義の原理は、個人の権利を否定し、そのかわ

 りにその時々の群集の数を置き、こうして自然の貴族主義的根本思想

 を凌辱する。」「マルクシズムというユダヤ的教説は、自然の貴族主義

 的原理を拒否し、力と強さという永遠の優先権のかわりに、大衆の数

 とかれらの空虚な重さとをもってくる。マルクシズムは、このように

 して、人間における個人の価値を否定し、民族と人種の意義に異論を

 となえ、そうして人間性からその存立と文化の前提をうばいとってし

 まう。」「必要なのは、真のゲルマン的民主主義である。そこには、個

 々の問題に対する多数決はなく、ただ自己の決断に対して能力乏生命

 とを投入する人間の決定だけが真の意志として貫徹する。」〉.頸笛。さ

 §§さ謡蚤這b。9平野・累積訳(角川文庫版)簡わが闘争』㊤一二

 六頁以下。

⑩ 山石崎晶削掲書二四工ハ百ハ。

⑭ さし当たり、古川前掲論文「成立過程」、罵.国乱巳肉。”N9切。一一①

 匹窪く。一器芝㊤σQ窪覧93器σ包畠窪二野。置ω自ωoげ。邸内ユ£ωく。旨舞。ぽ巨αq・

 智ミぴ画§濤罵≦窪。・。冨h房σq①切。露。澤。弘㊤0卜。みを見よ。

⑮国■頃雪穿。為義.9唱ω.ω倉轟①。。’

⑯ナチス政権の諸政策全般を検討し、その中にこの「モトーリズィー

 ルング」政策を位置づけることは一つの独自な課題である。

⑰ 唯一、ガソリン輸入関税だけは廃止されなかった。これは、後に重

 要な意味をもってくる。

⑱一九三ニー五年におけるドイツ自動車工業各社の経営指標は次のと

 おりである(表14)。

⑲ この「構造転換」のいっそう立ち入った考察は、別稿において行な

 いたい。

⑳ドイツの工業生産指数(一九二九年⊥○○)は、}九三三年には

 六〇・七、㎜九三五年には九四・○、一九三七年には二七・二。失

 業率は、一九避三年二六・三%、三五年一一・六%、三七年五・一%

 塚本前掲書二九七頁。

⑳毛■Oお貫ミ喜鼻息画ミ節ミ愚ミ象ぎ3需§§弘譲ρ邦訳「ヨー

 ロッパ地域における経済」、国・q寓翼下OげΦひO着ゆ蕾§}Wき欺騎ミミ、

 一りωc。㌧邦訳「広域経済」両者とも世界経済調査会訳∵編『ナチス広域

 経済論』一九四三年所収。

⑫ 大野前掲書所収「四ヶ年計画と経済政策の転換ーナチ・レジーム研

 究ノート」一八三頁以下、とりわけ一九二頁。

⑳ この「軍モトリーズィールング」国⑦o円窃ヨ。ε鼠鍮。把昌σqが、従来わ

 が国では、 「軍機械化」と邦訳されてきた。

  なお、ドイツ航空工業とドイツ自動車工業との直接的関連は、辻猛

 三.『ドイツの航空工業』一九照三年、一〇ニー一〇三頁。とくにドイ

 ツの航空機種とその発動機を示せば以下のとおりである。単座戦闘機

 メッサーシュミット言。δO男卜。一発動機ダイムラー1ーベソツUじご①O一

 累、双発戦闘機フォッケウルフ哨芝冨『1発動機ダイムラー1ーベンツ

 Ubご①OH、急降下爆撃機ユンカース甘。。刈〉一発動機甘Bo卜。δ、爆

 撃機ドニエールU。b。ミ司一発動機ヒロ竃≦。。9、等。

⑭ やヨ己日9お為褻.9ω」㊤斜同、ご・覧珍。『旨σq言αo『一己富。9口

 囚冨理智ξ器薦ヨ含。。仲缶。きαOΦg冨}σ。く。一一目叫。露一こ口8h鐸α器H〈轟-

 津欝ξ’く。・。①p旨ミ守§壽濤唖§ミ題ぎ》薦“恕ミき誉”ε1一8り=8詳

 oQ■一Q。①.

⑳ ≦噂ρo一ど貸・a・9邦訳二憶一八頁。 これにもとづきドイツ闘ルーマ

134 (806)

両大戦間期のドィッ資本主義と自動車工業の位置(西牟囲)

表14 ドイツ自動車工業各社の経蛍状況(1932-1935年)

1・932年11933年i1934年i・93・年

アダム・オペル

売上高(100万RM)販  台  売 数従 業 員 数営業総収入(100万RM)

純  益( 〃 )配  盗  金(%)

ダイムラー=ベンツ

売   上   高

従 業 員 数営 業 総 収 入

純      益配  当  金(%)

高数入益殉

    (

贈員収金

二上総

ゆ業 当

ト 業

ア忍従無二至

高数入二二

    く

堕 収金

ノ 台

工ヴ上 総

狛売業障

ア売販営純配

 602L581

6,600

25.94

-O.84

 0

 658,700

3工.22

-4,95

 0

 404,359

19.01

-O.57

 0

30.75

4,773

11.38

-5.02

 0

 9035,599

13,000

47,73

5.01

 0

 10014,000

49.34

2.47

 e

 657,371

28.45

0.86

 0

47.75

7,476

21.00

工.11

 0

168-184

 68,2e4

 18,000

 82.6e

 13.40

  0

 14722,6eO

82.24

4.13

 e

 11612,256

49.75

0.91

 4

64.20

10,249

29.98

L57

 0

210-230

102,759

 18,300

 112.82

 工9.76

  e

ア合弁石油会社が設立された。

 22626,600

111.le

3.22

 5

 18116,500

77.38

1.60

 6

83.30

18,233

38.38

1.42

 4 『フランクフルター・ッァイトゥソグ』1936年8月30日附による。

H.Priester,1)as Detttsche晒’rtsehafswunder,1936,邦訳(加倉井訳 1938

年) 置ドィッ経済の驚異』351頁。

135 (807)

お わ り に

 さて、以上行なってきたドイツ自動車工業発展過程の分析は、われわれに次のことをさし示しているように思われる。

 ワイマル体制下「産業合理化運動」期に現われたドイツ自動箪工業諸資本の経営危機とドイツ資本主義の「構造的諸矛

盾」の中から、恐慌をへて出現したナチズムによる「モトーリズィールソグ」政策は、ドイツ自動車工業の発展の制約を

                ゐ  ヘ               ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  も  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

とりのぞいたばかりでなく、それをてことして、ドイツ資本主義のある構造転換-石炭と鉄とそれらの総括としての鉄

道という第二帝政以来の体系から、自動車工業における大量生産体制を中軸に、鉄鋼、化学、巨大な道路建設、および石

油という、ドイツにとっていわば必然的に「広域経済圏」建設へとつながらざるを得ない体系への、構造転換を行なうも

のであった。同時にこの構造転換は、国家権力を用いた博大な失業老の構造的組み込み、 「軍モトーリズィールング」と

                    へ  う  で  あ  で  ぬ  リ  コ  む  う  あ  ヤ  ヤ  む  ヤ  マ  ヘ    ヤ  ヤ  ヤ  も  や  ヤ    で  ち  ぬ  ち

いう独自な経済軍事化を押し進め、いわば、工場内における資本の専制的指揮権を「社会に全面化」して行く、とも言う

べき過程であった。

                 へ  あ  ヘ  ヘ  ヘ   ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ   ヘ  ヘ  カ

 これらを総じて、第一次大戦敗戦後ドイツ資本主義の三つの危機  生産過程における指揮権、国際競争力、帝国主義

          ゐ  ヘ  ヘ  ヘ     カ  へ

的自立1のいわば、ナチス的「解決」と言うことができよう。そこに現われたドイツ自動車工業およびその「アメリカ

ン・システム」の中軸的位置は、いまや、ナチズムの本質にかかわってある重要な問題を提起しているように思われる。

                     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  カ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  う  ヘ  ヘ  ヘ  へ  あ  ヘ  へ  も  へ

すなわち、ナチズムの生成と展開において、「急速に発展しつつある新興産業資本のはたす役割」、そこに、ナチスの本質

が見えてくるのではないか、ということ、これである。

136 (808)

 〔付記〕 本稿は、土地制度史学会一九八三年度秋季学術大会において筆者の行なった同等の報告に加筆したものである。なお、本

稿作成に当たり、京都大学尾騎芳治・渡辺尚両先生および経済史研究会の方々にお世話になった。記して謝意を表する。

                                  (京都大学大学院生 京都市左京

fermally con’sidered as theoretical piOBeers in the movernent, only

follOwed the idea that the Catholics initiatedL But the argttment wltich

focuses exclusively upoエ1 the relations13ips of tke England.lreland parlia・

ments tends to.overlook the important fact’ G indeed the Catholics acted

against the assertion that English laws were enforceable in lreland.

But the idea itself was developed in the process of the constitutional

confiicts between the English parliament and the crown. While the

asSertion Made by tlie Catholics’ 1s often evaluated based olt the rela-

tionships of the England-lreland parliaments, we must recons1der the

problem in a triangular ’relatlon 一 the English parliament, the lrlsh

parliament and the crown. Here we will pay our spec1al attention to

the Catho1ics’ view on the relation between the lrish parliament and

the crown, which is most typically reflected in a series of the peace

negotlations which took place between the Coniederate Catholics and

Charles 1.

German Capitalism in the interwar period and

     the Place of the Automobilindustry

by

Yuji Nishimuta

  In German capita11sm in the interwar period which had changed

drasticaily from“Weimar”to“Nationa工Socialism”, German automo-

bilindustry developed in a pecullar trace.

  At the lndustrial-rationalization era in Weimar republic, they had to

struggle for existence agaist American automobilindustry which had

an overwhelming competit1on-power. ln spite of their reformat1ons of

the productionprocess, they had to be distressed ae crises of manage-

ment. The rapid process of capital centralizatioエ10ccured. And after

the world economic Crisis, amazing developrnent in the ‘ National So-

cialistic ’ period.

  In tkls way through the 1920’s and 30’s, German automob11industry

has realized an enormous growth, from a negligible being at the be-

gin .ning to one of the key-dipartment in Gerrnan Capitalism at the

end.

(812)

  With what,character’did this developmentpro6ess gO? And what

sigBificance did it have in the total-process of German capitalisM

in the interwar・period?

  To answer. this qttestion is the subject of this article.

  1 will. advance my analysis as follows :

    ’1. /’‘IndustrialLrationaiization inovement’ and the Change of the

     productionprocess of German automobilindustry

   II. ‘ The Crisis of Management ’ in the German automobilindustrial

     enterprises and their factors

  ’III.’ ・ The ‘Soc1o-structural’ factors concerning ‘ the ’Crisis of Mana-

     gemenゼin the German automobilindustrial enterprises.

  IV. ‘Motorisierungspolitik ’ by the government of National Sociallst.

  On this way 1 would like to demonstrate that this process had oc-

cupied... one of the central places in the coming.aエ1d..development of

National Socialism.

  1 think it will give a new clue to the most diMcult problem: what

was the National Socialism?

(811)