通訳翻訳論 日本の翻訳通訳史(2)tuuyaku-honyaku.my.coocan.jp/dokkyo/03.pdf ·...
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通訳翻訳論日本の翻訳通訳史(2)
獨協大学 国際教養学部言語文化学科永田小絵
日本における通訳の歴史 中国との古来からの行き来
◦ 二カ国語を話す人材
ポルトガルとの南蛮船貿易
◦ 長崎でのキリスト教布教(最初は黙認)
◦ 信者の増加→幕府は団結を恐れるようになる
◦ 16世紀末、バテレン追放令
◦ 鎖国時代に唯一海外に開かれた窓口「出島」
17世紀初、長崎の出島
◦ オランダ、中国などとの往来
◦ 出島の商館
◦ 阿蘭陀通詞、唐通事の成立
◦ 他にタイ語、ベトナム語、インド地方言語の通訳も存在
http://www4.airnet.ne.jp/sakura/blocks_menu/conjyaku_02/kodayu/kodayu13.html
阿蘭陀通詞と唐通事
長崎奉行のもとにおかれた通訳官◦ 役人として勤める。
◦ 職位が細かく決まっている。
◦ 貿易・外交など対外折衝全般を取り仕切る。
◦ 親から子へ代々受け継がれる職業である。
民間の通訳者(内通詞)◦ 出島の商館に出入りする民間の業者
◦ 通訳を行って、その都度「口銭」を得る。
◦ 自由競争によって仕事を獲得する。
◦ 後に幕府によって組織化される。
長崎の阿蘭陀通詞と翻訳
◦長崎 ー 鎖国時代に海外に開かれた窓口
当時の幕府は通詞に「阿蘭陀風説書和解」を提出させるなど、海外からの情報入手に積極的。
1720年、八代将軍吉宗はキリスト教関係以外の洋
書の輸入禁制を緩和し、多くの書籍が日本にもたらされた。
長崎オランダ通詞による辞書の編纂
来日オランダ人による私塾
シーボルトの鳴滝塾
蘭学の流行
解体新書の翻訳
通詞の組織
幕府に雇用される通詞と民間の通詞
正規の通詞:大通詞、小通詞、稽古通詞
民間の通詞:内通詞小頭・内通詞
1695年 通詞目付の設置
十七世紀末に基本的な体制が成立
◦ 通詞目附-大小通詞-稽古通詞(幕府組織)
◦ 内通詞小頭-内通詞(民間組織)
通詞の職業は家を単位として世襲で代々受け
継がれる
江戸時代の日蘭交流
国立国会図書館のサイトを利用して下記のトピックについて説明します。http://www.ndl.go.jp/nichiran/index.html
蘭学者の活躍
オランダ語の学習
海外知識の受容
適塾と『ヅーフ・ハルマ』
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/smart/t201201.html
通訳者兼外交官的役割をも担っていた唐通事
ハルマ和解(日本最初の蘭和辞書)1796年彦根城博物館ホームページ・洋学コレクションより
ヅーフハルマ江戸時代後期に編纂された蘭和辞典。通称『長崎ハルマ』。 1883年完成。
適塾史跡公園の展示より
開国から明治へ
ペリー率いる米国艦隊の来港
オランダ語が通じないことがわかる
幕府は阿蘭陀通詞に英語を学ばせる
1853年 米国から帰国したジョン万次郎を召し抱える
1860年 米国に視察団を派遣(咸臨丸)
欧米の社会、文化、技術などが日本に紹介される
福沢諭吉の活躍
フェートン号事件
1808年 長崎にオランダ国旗をかかげたイギリスの軍艦が突如侵入し、母国船と思いこんで駆けつけたオランダ商館人を人質に、飲料水や食料を要求した。
幕府は英語の必要性を感じ、長崎のオランダ通詞に英語学習を命じた。
阿蘭陀通詞の英語学習
軍人としてイギリスに駐在したことのあるオランダ人、ブロムホフが教師となり、英語学習が始まった。
1810年 通詞たちは最初の英会話手引き書『諳厄利亜興学小筌(あんぐり
あこうがくしょうせん) 』を完成。
1814年 通詞たちは最初の英和辞典『諳厄利亜語林大成』を完成。
諳厄利亜興学小筌 1810年の表記
英語 英語発音 日本語 カナ説明 分類
Heaven. ヘーヘン 天 乾坤部
Earth. ヱールス 地 乾坤部
World. ウヲルヽト 宇宙 乾坤部
Sun. シユン 日 乾坤部
Moon. ムーン 月 乾坤部
Stars. ステルス 星 乾坤部
Created. ケレテット 開闢 乾坤部
Element. ヱレメント 四元 乾坤部
Creature. ケレーテユル 天地造物 乾坤部
East. イースト 東 乾坤部
West ヱスト 西 乾坤部
South ソウス 南 乾坤部
North. ノルス 北 乾坤部
『諳厄利亜語林大成』1814年
収録語彙数は約6000語しかなかった。
日本最初のアメリカ人英語教師ラナルド・マクドナルドの上陸
スコットランド系の父親とアメリカ先住民の母親の間に生まれる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89
アメリカ先住民のルーツは日本にあると信じ、米国の捕鯨船乗組員となって日本に密航。
1848年 北海道の利尻島に上陸。アイヌ民族とともに十日間ほど過ごした後、逮捕される。
日本にはじめて上陸したアメリカ人。(英語母語話者としては、1600年の三浦按針・ウィリアム・アダムスが最初)
マクドナルドは長崎に護送される。
阿蘭陀通詞とマクドナルド
森山栄之助ら14名の長崎通詞が獄中にあったマクドナルドから英語の教授を受けることになる。
通詞らは『諳厄利亜語林大成』を手に、ブロムホフから学んだオランダ訛りの英語の発音矯正を受けた。
長崎に来て半年後、マクドナルドは米軍艦に引き渡され強制送還となった。別れの際に残した言葉は“Sayonara, my dear, Sayonara”。
マクドナルドは帰国後、日本が未開の地ではなく文明の開けた国であることをアメリカに伝え、彼の墓誌銘には「 Sayonara」の文字が刻まれた。
← マクドナルド生誕、アメリカ・オレゴン州に建てられた日本語による記念碑
「マクドナルド顕彰之碑」 長崎↓
今西佑子著文芸社 2013 マクドナルド (著), ウィリアム・ルイス (編
さん), 村上 直次郎 (編さん)刀水書房; 補訂版 (1993/01)
マクドナルド・森山栄之助の登場する小説
吉村昭著『海の祭礼』 文春文庫
ペリー来航五年前、鎖国中の日本に憧れたアメリカ人青年ラナルド・マクドナルドは、ボートで単身利尻島に上陸する。長崎の座敷牢に収容された彼から本物の英語を学んだ長崎通詞・森山栄之助は、開国を迫る諸外国との交渉のほぼ全てに関わっていく。彼らの交流を通し、開国に至る日本を描きだす長編歴史小説。
浦賀に来港した黒船
1837年 アメリカ商船モリソン号
◦ 漂流民の引き渡しに来たが、攻撃を受けて退散
1846年 アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル率いる帆船艦隊 コロンバス号・ヴィンセンズ号
◦ 米国政府派遣により通商を開くこと目的に来港するが果たせず。
1853年 ペリー艦隊来港
◦ 蒸気船の旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号
◦ 帆船のサラトガ号・プリマス号
ペリーと黒船
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/6663/m_rkouza/html/z_kurofune2.html#peri
http://www.city.kashiwazaki.niigata.jp/hidamari/kurofunekan/kurofune.htm
ペリー艦隊乗組員および言語
海軍軍人(専門外交官ではない)、中国語・オランダ語が少しわかる(日本語も少々?)
ペリー提督(中国海域艦隊司令長官→「東印度支那日本海水師提督」→「特命欽差大臣専到日本國兼管本國師船現泊日本海提督」)
ウイリアムス(漢語・日本語通訳。宣教師・中国学者)
ポルトマン(蘭語通訳。オランダ人)
羅森(漢語通訳助手。中国人)
アダムス中佐(艦隊参謀長)ら[交渉の実務]
(漂流民・仙太郎サムパッチが同船、交渉には参加せず)
黒船来港の際の日本側交渉団
日本側の乗船者
◦ 中島三郎助(浦賀奉行所与力)初日の乗船者
◦ 香山栄左衛門(同上)翌日、中島とともに乗船
◦ 堀達之助(主席通訳官)
◦ 立石得十郎(二等通訳官)
◦ 森山栄之助は奉行所詰で乗船はしてない
船内で行われた最初の交渉で米国側の強硬な態度を見
て、与力の中島と通訳の堀は中島が浦賀の副奉行であ
るとウソをついている。
http://momi.jwu.ac.jp/nichibun/shimizu/gengo1.htm
『幕末の外交官 森山栄之助』1848年、漂着した米捕鯨船員15人が長崎に送られ、米国では彼らが虐待されているとのうわさが広がる。米艦が長崎に来航し、強硬に即刻引き渡しを要求する。慣例では、遭難者はオランダ船でバタビアに送られることになっていた。奉行所はうろたえる。ところが森山は、オランダ商館の助言で船員たちを出島に移し、そこで米艦に乗せるという便法で問題を解決してしまった。1854年にはペリーとの間で日米和親条約が結ばれる。米側代表団の一人は森山を通詞ではなく「応接掛代理」と呼び、「条約の処理はすべて栄之助の手に委譲されているのかと」推測している。その年11月にはロシアのプチャーチンが来日。日露和親条約でも森山は個人の裁量で下交渉に当たり、プチャーチンと対面で激論を交わす。1867年、森山はついに兵庫副奉行に任じられる。町人身分からの大出世だ。だがその直後に、肝心の幕府が崩壊してしまった。森山は明治4年、51歳の若さで死去する。
浦賀奉行所通詞 森山栄之助
1820年6月1日生まれ、父は阿蘭陀大通詞。
◦ 1848年 数ヶ月間、マクドナルドに英語の発音矯正
を受け、マクドナルド送還時には通詞としてプレブル号との折衝にあたる。
◦ 1853年、ペリー来港の際には浦賀奉行所詰めの通詞として働く。
◦ 1854年、米艦隊来港の折りに英語通詞の命を受けた。
◦ いずれの折衝においても英語の能力は通訳ができるほどではなく、オランダ語に英語を差し挟み、あとは手振り身振りでコミュニケーションするといった程度であったらしい。
森山栄之助http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%B1%B1%E6%A0%84%E4%B9%8B%E5%8A%A9
文政3年(1820年)、長崎に生まれる。家は代々オランダ通詞を務めていた。嘉永元年(1848年)、偽装漂着のアメリカ人ラナルド・マクドナルドから本格的に英語を学び、蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として活躍する。嘉永3年(1850年)には「エゲレス語和解」の編集に従事し、嘉永6年(1853年)のプチャー
チン来航の際は川路聖謨の通詞として活躍する。また、オランダの地図に樺太の日露国境が北緯50度線となっていることを発見する。これが、日本の対露国境の根拠となる。
嘉永7年(1854年)のマシュー・ペリー来航の際も通訳を務め、その後江戸小石川に英語塾を開く。文久2年(1862年)には開港
延期問題で渡欧した竹内保徳遣欧使節団の通訳としてオールコックと同船でイギリスに赴き、使節一行とロンドンで合流する。その後、各国を巡り帰国。帰国後は通弁役頭取、外国奉行支配調役などを歴任すると共に、万延元年(1860年)の大統領
への英文書の作成にも活躍する。しかし、維新後は新政府に仕えることはなかった。
日本側主席通訳官 堀達之助 1823年~1894年 オランダ通詞中山家の出身
父三郎はフェートン号事件で活躍した阿蘭陀大通詞、母は唐通事の陳家から嫁ぐ。
1853年 ペリー来港時に主席通訳官を務める。
ペリー艦隊に対して最初に発した言葉“I can speak Dutch”が有名。
晩年は『英和対訳袖珍辞書』を編纂
一郎、孝之、広太郎、寛之助の4人の男子がおり、五代友厚の私的通訳を務めた孝之以外の3人がいずれも通詞に。
英和対訳袖珍辞書 1866年(写真はhttp://www.kufs.ac.jp/toshokan/50/eiwa.htmによる)
堀達之助(阿蘭陀通詞)の編による英和辞書
米国側主席通訳官サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ
1812年、アメリカニューヨーク州ユチカ市で、14人兄弟の長男として生まれる。
1832年、米国対外宣教委員会の中国の広東印刷場(後にマカオへ移転)の監督者になり10年ほど滞在。印刷技術、中
国語、ポルトガル語、日本語を学ぶ。アメリカへ一時帰国し、『中国総論』という書物を出版。
1837(天保8)年、米国船モリソン号には20代の若き日のウィリアムズも同乗していた。
1953年、ペリーとともに主席通訳官として来日。アメリ
カ大統領の国書を受け取るまで日米両国の実務者間では何度も協議が繰り返され、その際の通訳に当たった。
帰国後『ペルリ日本遠征随行記』を著す。
中国人乗組員 羅森 香港から遠征隊に参加した中国人
ペリー艦隊随行記で『日本日記』、フランシス・L・ホークス編の公式報告書「ペルリ提督日本遠征記」第二巻に次のような前書きがされて付録として採録された。ペルリ提督の第二回日本訪問(ある中国人が記した日記)
「二度目の日本訪問に向けて中国から出航する際、通訳のウィリアムズ氏の助手として働いていた。非常に教養があり優秀な中国人〔羅森〕がほかの者と一緒に艦隊に加わった。観察眼の鋭い彼が日本訪問時に記した日誌は、教養ある中国人の知性をよく表しており、また、周囲のアメリカ人の考えに影響されない東洋人としての見解が記されているため、合衆国の読者にとっても興味深いものと考え、この巻の付録に付け加えた。」
羅森が街を歩くと物見高い庶民が次々に話しかけ、漢字の筆談で扇面に文字を書いてくれとせがんだという。
ペリー会見の図『ペルリ提督日本遠征記』よりhttp://www.wsnet.ne.jp/~hakodate/shishi/vol1/t01/t010210.html
ペリー提督日本遠征記 (上・下)(角川ソフィア文庫)
猪口孝が読み解く『ペリー提督日本遠征記』
幕末日本の外国語
中国語:歴史の古い漢学の伝統によって、口語中国語は話せなかったが、漢文の筆談でかなりのことが通じた。
オランダ語:日本で唯一のきちんと学ばれていた西洋の言語。
英語:阿蘭陀通詞たちがオランダ人やマクドナルドに習ったことがあったが、スムーズに話が通じるほどのレベルではなかった。
幕末の日米交渉と通訳
ペリーは通訳としてアメリカ人ウイリアムス、オラン
ダ人ポートマン、中国人羅森を伴っていた。
年二回目の来港時に通詞の名村五八郎が会見に間に合
わなかったため、羅森が英語を漢文に直して江戸幕府
役人に意志の伝達をした。
幕府側とペリー側とのやりとりは次のように行われた。
◦ 日本語←→オランダ語←→英語
◦ 日本語←→漢文←→英語
1856年 下田総領事となったハリスは赴任時にオラン
ダ語通訳兼書記としてヒュースケンを同行している。
中浜(ジョン)万次郎 1827年 土佐に生まれる
1841年 14歳 漂流してアメリカ船に救助され渡米
1852年 危険を冒して帰国。土佐藩主山内容堂に召し
抱えられ藩校の教授となり、アメリカ文化などを講義、坂本龍馬らに影響を与える。
ペリー来港時には幕府に呼び出されるが、米国在住であったことから正式の交渉通訳はできず、舞台裏で条約の締結に尽力した。
1860年、勝海舟率いる咸臨丸に福沢諭吉らとともに乗船し、訪米期間中は通詞や英語教授などで活躍。
英会話テキスト『英米対話捷径』を著す。
後に開成学校(東大の前身)の英語教授となる。
通弁方 中浜万次郎
中浜万次郎像http://www.linkclub.or.jp/~shinji-h/Kanrinmaru/Jyoin/Nakahama.html
http://www.yomiuri.co.jp/inpaku/81/essayw/040.htm
中浜万次郎 『英米対話捷径』(1859)
アルファベット
◦
「ヱービーシーリーイーヱフヂーヱイチ
アイゼイケーヱルヱムヱンノーピーキウ
アーヱシチーユーフヘー
タブリヨヱキ
シワイジー」
「T」は「チー」、「D
」は「リー」。
「thirteen
」は「サアチン」、「p
retty
」は
「ブロテ」、「m
isty
」は「メステ」で、[ti]
の音写についてはチ系・テ系両方(長母音が
チ、短母音がテとおぼしい)。
会話(漢文訓読と同じ返り点つき)
いかがごきげんレ
あなたさまよふ
ござるか
ハヲ
ヅー
ユー
ヅー
シヤァー
Ho
w d
o yo
u d
o Sir?
いづくにてなされたかニ
あなた見一レ
かれを
フハヤ
デッチユー
シー
ヒム
Wh
ere did
you
see h
im?
わたくし
よろこぶレ
ことをレ
みる三
おまんのおけるをニ
よきうまきことに一
アイアム
ハペ
ツ
シー
ユー
I am h
app
y to see yo
u
イン
グーリ
ヘルス
in go
od
health
.
開国後の日本
横浜に外国人居留地を開き、多くのアメリカ人やアメリカ人に雇用された中国人が横浜に住むようになる。→後の横浜中華街のルーツ。
日本人も横浜に店を持ったり、海外との貿易に従事することが多くなり、国際交流が急激に進んだ。
一方、米国の進んだ科学技術を目の当たりにした政府は、それまでの漢学・儒学・蘭学よりも英学の振興に意を注ぐようになる。
福沢諭吉
福沢諭吉 1835-1901年◦ 緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ
◦ 1858年 江戸に蘭学塾を開く
◦ 1859年 横浜見物で外国人にオランダ語で話しかけ、まったく話が通じないことにショックを受け、これからは英語が必要であることを実感し、英語を学び始める
◦ 1860年 咸臨丸でアメリカに行く
◦ 1861年 幕府の通訳官としてヨーロッパへ行く
◦ 1864年 幕府の「翻訳御用」となる
◦ 1866年 『西洋事情』初版出版、欧米文化を紹介
福澤諭吉と英語
『福翁自伝』に見る英語学習への決意(現代語訳)
今まで死にものぐるいで蘭学の勉強をしてきたが横浜に来てみると少しも言葉が通じない。店の看板を見てもわからない。これまで実に無駄な勉強をしてきたものだとすっかり落胆した。今我が国は開国しようとしている。これからは英語が必要になる。洋学者として英語ができなければ仕方がない。横浜から帰った翌日、これからは万事一切、英語だと覚悟をきめた。
(福澤諭吉、24歳の頃のことである)
福澤諭吉の主な著書
『西洋事情』、『西洋旅案内』、『窮理圖解』(科学入門書)、『世界國盡』『學問ノスヽメ』、『ひゞのをしへ』、『文明論之概略』、『通俗民權論』、『通俗國權論』、『民情一新』、『時事小言』、『福翁自伝』、『福翁百話』、『福翁百餘話』、『瘠我慢の説』、『丁丑公論』
西洋事情を伝え、国民を啓蒙する目的
福澤諭吉の翻訳論
「世の中に原書が読めて翻訳のできぬ人は、唯むづかしい漢文のやうな訳文ができぬと云ふまでのことで、原文の意味はよく分つて居ることだから、其意味を口で云ふ通りに書くことは誰にもできませう。して見ればこの後は世の中の原書よみは其まゝ翻訳者になられる、そこで世間に翻訳書はふえて、其書は読み易く、何ほどの便利かしれません。翻訳書のをかしいと云ふのは、漢文のやうな文章の中にはなしのことばがまじるからこそをかしけれ、これをまるではなしの文にすればすこしもをかしいわけはありますまい」「明治七年六月七日集会の演説」(『福澤全集緒言』)より。
『幕末遣欧使節団』 講談社学術文庫
開港延期交渉と欧州視察の命を受け、三十八人のサムライ使節団、欧州六カ国を巡歴。攘夷の嵐が吹き荒れる幕末。先に欧米に約した開市開港の実施延期を要請するため、幕府はヨーロッパに使節団を派遣した。文久二年、総勢三十八名のサムライたちは、西洋事情調査の命をも受けて、仏・英・蘭・露など六ヵ国を歴訪。一年にも及ぶ苦難と感動に満ちたこの旅を、彼らの日記や覚書、現地の新聞・雑誌の記事等をもとに、立体的に復元する。
第一回遣欧使節一行 ナダール撮影文久2年(1862) 成島謙吉氏寄贈
文久3年(1863)遣欧使節の写真(『日本人』34、明治新聞雑誌文庫蔵)
岩倉使節団
明治4年(1871年)に横浜港を船で出
発し、サンフランシスコに上陸。アメリカ大陸を横断し、ワシントンD.C.を
訪問した後、ヨーロッパへ渡り、各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの12カ国に上る。
岩倉使節団の主なメンバー 岩倉具視:特命全権大使、木戸孝允(桂小五郎):副使、大久保利通:副使、伊藤博文:副使、福地源一郎:一等書記官、中江兆民:イギリス留学、鍋島直大:イギリス留学、前田利嗣:イギリス留学、毛利元敏:イギリス留学、前田利同:イギリス・フランス留学、金子堅太郎:アメリカ留学、団琢磨:アメリカ留学、牧野伸顕:アメリカ留学、黒田長知:アメリカ留学、鳥居忠文:アメリカ留学、津田梅子:アメリカ留学、山川捨松:アメリカ留学、永井繁子:アメリカ留学、吉川重吉:アメリカ留学、木戸孝正:アメリカ留学、平田東助:ドイツ留学、長與專齋:ドイツ・オランダ留学
新島襄:通訳
岩倉使節団付通訳 新島襄
元治元年6月14日(1864年7月17日)
国禁を犯して函館から米船ベルリン号で海外に脱出。 21歳。
慶応元年(1865年)7月 ボストン着、
アメリカに密入国。ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学。
慶応2年(1866年)12月 アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。
岩倉使節団付通訳 新島襄
慶応3年(1867年) 24歳。フィリップス・アカデミー卒業。アーモスト大学入学。
明治3年(1870年) 27歳。アーモスト大学卒業。理学士の学位を受ける。
明治5年(1872年)初代の駐米公使となった
森有礼によって正式な留学生として認可される。現地で木戸孝允と知り合い、襄の語学力に目をつけた木戸は、明治5年3月9日(1872年4月16日)から翌年1月にかけて、通訳として岩倉使節団に参加させる。
幕末から明治の文化輸入
欧米の先進技術や学問、制度を導入
するためのお雇い外国人による教育
国費を投入しての視察団、留学生の
派遣
庶民も巻き込んだ英語学習ブーム
お雇い外国人
幕末以降~明治初期に「殖産興業」を目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された欧米人のこと
江戸幕府や各藩、明治以降は新政府もしくは各府県、あるいは民間によって招聘された。
幕末に各藩が競って外国人を抱えて雇用したために、お抱え外国人ともよばれることもある。
お雇い外国人 明治日本の脇役たち梅渓昇著講談社学術文庫
明治時代、日本の招きにより、近代化の指導者として大勢の欧米人が渡来した。その国籍は英、米、独、仏等にわたり、活躍の場も政治、法制、軍事、外交、経済、産業、教育、学術と多岐にわたった。日本での呼称そのままに、自らをYATOIと称する彼らが果たした役割はいかなるものであったか。日本繁栄の礎を築いた「お雇い外国人」の功績をさぐる。
お雇い外国人教師による教育明治六年 開成学校 理学予科の例
科目名 教員名
幾何学 ウィーダル
算術 ウィルソン
代数学 ウィルソン
化学 グリフィス
博物学 マカデー
語学 グリフィス
翻訳(学習した内容を日本語へ訳して理解)
体操と美術以外は全て英語による講義
庶民も巻き込んだ英語ブーム明治時代の英語教科書の一例
Harry, will you come out
ハールィーよ あろうか 汝は 来るで 外に
1 11 2 10 9
with me to fly my kite?
共に 私と 可く 飛ばす 私の 凧を
8 7 6 5 3 4
数字の順番に読んでいくと、「ハールィーよ、汝(なんじ)は私の凧を飛ばす可(べ)く私と共に外に来るであろうか」
という訳文が得られる。漢文訓読の応用→直訳調(欧文脈)の形成。
このころ、英語を話す芸者が話題となり、新聞記事でも紹介されている。
吉村昭 『黒船』
ペリー艦隊来航時、主席通
詞としての重責を果たしながら、思いもかけぬ罪に問われて入牢すること四年余。その後、日本初の本格的な英和辞書「英和対訳袖珍辞書」を編纂した堀達之助。歴史の大転換期を生きた彼の劇的な生涯を通して、激動する時代の日本と日本人の姿を克明に描いた作品
通訳の歴史がわかる本 『長崎唐通事』
『阿蘭陀通詞 今村源右衛門英生』
『出島』
『江戸の蘭方医学事始阿蘭陀通詞・吉雄幸左衛門耕牛』
『長崎通詞ものがたりことばと文化の翻訳者』
『開国日本と横浜中華街』
明治期の英学者
福沢諭吉 新渡戸稲造 夏目漱石
来日した外交通訳官英国公使付通訳官アーネスト・サトウ
1843 ロンドン市内クラプトン(Clapton)にサトウ家の三男として生まれる
1859 ロンドン大学に進学。ローレンス・オリファントの著書*を読み日本行きを決意する
1861 18歳の最年少で日本語通訳生に任命される
1862 横浜に到着。横浜のイギリス公使館で勤務する
1865 日本語通訳官に昇進する
1872 内縁の妻・武田兼と家族を持ち、二男に恵まれる(長男栄太郎、次男久吉)
1876 通訳職の最高位、日本語書記官に昇格する
『図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官』横浜開港資料館編有隣堂
来日した外交通訳官米国総領事館付き通訳 ヒュースケン
ヘンリー・ヒュースケン(Henry Conrad Joannes
Heusken, 1832年 - 1861)
オランダからアメリカに渡り、1856年に初代総領事タウンゼント・ハリス(Townsend Harris)
に雇われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務めた
1861年1月14日にプロシア使節宿舎であった芝
赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに襲われ、翌日死去。28歳没。
『ヒュースケン日本日記』岩波文庫青木枝朗訳
一八五八年,日米修好通商条約調印の際のアメリカ側全権使節ハリスの通訳兼書記として活躍したヒュースケン(一八三二―一八六一)の日本日記.ニューヨークを出発,日本に向う南方航路の印象を記した一八五五年から,翌年下田に到着,外交折衝や日本での見聞を綴った一八六一年までの日誌で読み物としての面白さも十分に具えた幕末外交史の貴重な記録