の 献 箇 派 合 主 論 の 前 順 思 に し 所 わ 義 者 う 六 ア 世 ......ン ド...

9
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Page 1: の 献 箇 派 合 主 論 の 前 順 思 に し 所 わ 義 者 う 六 ア 世 ......ン ド に お い て 、 彼 ら の 快 楽 主 義 が 人 々 に と っ て ど の

(研

インドにおける「順世派」と古代ギリシアの快楽主義

快楽主義の思想は人生訓となりえるか

一 

ーケ

(Ajita Kesakam

ba一F

六-

、い

「六

一人

の霊

「順

」()okayata「 Carvaka」J

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の順

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いて

、「順

いわ

関 谷 雄 磨

99 1

、「順

稿

」(

Sarva-dar£ana-samgraka.)

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が人

って

の考

(紀

頃-

(紀

一頃

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ニ 

ーケ

った

DIGHA

NIKAYA

。 Samanna-Phala Sutta

(漢

「沙

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い。

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いと

〈道

〉、

〈宗

〉、

〈唯

〉、

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稿

寿

、「文

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が語

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、感

いた

〈快

が語

を列

三 「順

思想

の差

、「順世

派」

の思想

を見

てみ

い。「順

世派

の思

想を伝

る資料

もま

た、

まと

った

もの

として残

れて

いるも

のは少

Page 3: の 献 箇 派 合 主 論 の 前 順 思 に し 所 わ 義 者 う 六 ア 世 ......ン ド に お い て 、 彼 ら の 快 楽 主 義 が 人 々 に と っ て ど の

が、

の南

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darsana-samgraha(「

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稿

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る。

イ 

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、「そ

い」

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い。

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口 

る。

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が生

る力

(ア

ゴー

。(

( 

いう

〔〈わ

〈肥

、〕

、〔「わ

いう

と結

がア

ンで

のは、そうではな

い。「これはわたしの身体である」とい

う表現は、仮の譬喩的なものとしてのみ成立すべきである。

(魂肉体同一説)

さらに、世界の種々多様相はまさに自然に(物の本性に従

て)生起するとする〈道徳的・応報的因果律

の否定〉や、ヴェ

ーダは無価値であるとする〈伝統的宗教的権威

の否定〉、知識

根拠となるのは推論ではなく感覚であるとする〈感覚主義的認

識論〉

が語られる。

SDSに見られる「順世派」の思想はおおむね以上のもので

あるが、一つ一つの項目に着目すると、アジタの思想と多くの

類似点

が見

られ、この二者の思想は同一の思想的系譜に帰する

ことができるように思われる。しかし、それぞれの主張には以

下のような差違が見られる。

ア 「順世派」の快楽説においては、「苦痛の混じる快楽」と

いうものが想定され、快楽を得る際に苦痛がやってこない

ように配慮す

る必要性が明確に論じられている。

イ 「順世派」の唯物論・断滅論においては、精神の生成過

程に

ついての説明

がなされて

いる。

ウ 「順世派」においては、魂肉体同一説(および、感覚主

義的主張)

が、論理学研究に基づいて

いる。

私見によれば、この差違こそ

が、快楽主義が人生訓として機

能する上

で重要な意味を持っているのである。

と古代 ギリシ アの快 楽主義「順世派」101 1 インド にお ける

Page 4: の 献 箇 派 合 主 論 の 前 順 思 に し 所 わ 義 者 う 六 ア 世 ......ン ド に お い て 、 彼 ら の 快 楽 主 義 が 人 々 に と っ て ど の

四 

シア

ステ

ッポ

スの場

レネ

学派

アリ

ステ

ポス(

以下

A.)

、ソ

の弟

子で

あり

がら感

主義

・快楽

主義

の立

を取

たと伝

られ

が、彼

の快楽

を要

する

と以

のよ

にな

る。

イ 

の快楽

それ自

ゆえに

望ま

いも

ので

あり、

た人

の目

であ

る。(87-88)

口 

楽と快

との間

には相

はな

く、ま

たあ

る快

が他

より

もよ

り快適

ること

もな

い。(

( 

にあ

るもの

らの快

を享受

し、

にな

いも

の楽

を苦労

して

い求

ること

しな

い。(呂

二 

いのは

、快

楽に

ち勝

って

これに

されな

いこ

とで

って、

快楽

ひか

るこ

とで

はな

い。(g

ホ 

と悪

いて

の理

を十

に学

んだ人

は、

立派

に語

こと

も、

迷信

とら

われ

いこと

も、ま

た死

いて

の恐

まぬ

かれ

こと

もで

る。(S

A.の快

は、

差違

を認

いな

い点

で、

にプ

ティ

な快

主義

ると

えよ

う。

ち、

ゆる快

は善

きも

ので

って、「受け入

べき快楽

」と「受

け入

べきで

い快

いっ

た区

は存

い。A.に

って

は、

どの

よう

な快

楽で

れ、

それ

らを順

次享

して

こと

が人

の目的

ある

しかしながら容易に想像できるように、このようなプリミテ 102

イブな快楽主義が一般に人生訓として機能するためには、大き

な障壁が存在する。すなわち、快楽を得れば得るほどより大き

な快楽を求

めずにはいられなくなり、快楽を追求すればするほ

ど快楽が遠ざかってしまうという、いわゆる「快楽主義のパラ

ドクス」

の問題である。だ

が、伝

承に見

る限り、A.白身にと

ってこれは何ら問題ではなかった。というのも、(

に見

られる

ように、彼の快楽説にお

いては、〈現にない快楽を苦労して追

求しないこと〉が〈現にある快楽を享受すること〉と並んで重

要であるからであり、人生訓としてはむしろこちらの方に重み

があると筆者は考える。

また、二において、快楽(への欲望)に負かされる(す一9皀日)

ことなく、快楽(への欲望)に打ち勝つ(召Q乢

ことが「一

よい(apiaxov)J

と述

べられるように、彼の快楽説

におい

て最も重要なことの一つは、快楽に対して、いわば「奴隷」に

対する「主人」の立場でなければならないと

いうことである。

すなわち、快楽に対する心理的状態に注目するならば、ある快

楽を追求するか否かを、常に自分が能助的に自由に決定できる

状態でなければならな

いのであって、その決定を自由に行うこ

とができず、受動的にその快楽を追求させられているかのよう

な奴隷的心理状態であってはならないということである。

上記のような快楽に対する態度は、彼独特の、万事に対する

囚われのなさが備わって

いて初めて実現するものであり、A.

Page 5: の 献 箇 派 合 主 論 の 前 順 思 に し 所 わ 義 者 う 六 ア 世 ......ン ド に お い て 、 彼 ら の 快 楽 主 義 が 人 々 に と っ て ど の

この

よう

なプ

リミ

ティ

ブな快

主義

を実

する

こと

がで

きた

も、彼

の思想

の根

にこ

の囚

われ

のな

さと、

ある種

の思

慮深

があっ

たゆ

えで

ると言

えよ

う。

さらに

、快

楽主

の立

を取

る者

にと

って

う一

つの大

は、

に対

する恐

をど

のよ

うに乗

り越

かと

いう点

ろう。

に対

る人

の恐怖

は根

なも

ので

あり、一般

に、

れを完

に克服

する

のは極

めて

い。

して

れは、快

義を

標榜

る者

にと

って

さらに重要

な問題

とな

る。

いう

のも、

が怖

いと

いう感

を抱

きな

がら

、同

に心

から快

るこ

とは難

いか

らで

ある。

かし

ホに見

れるよ

に、

A.は

この

た、

の詳

は明

かと

が、

「善

(a名’

忿i

ざ1

小)」

って乗

り越

ること

が可

能で

った

もの

と思

われ

る。以

のよ

に、

A.は

プリ

ティ

な快

主義

の立場

をと

がら

も「快

主義

パラ

ドクス」

は陥

らず

、ま

た、

う一

の問

る死

の恐

を乗

り越

ること

も可

であ

った人

ると思

れる

。し

かし

なが

ら、

キュ

レネ

派に

する彼

の後

ちは

必ず

しも

そう

はな

く、

祖A

.に共

がら

の変更

を余

なく

され

、彼

らの

思想

は徐

に学祖

それ

はか

け離

れた

のにな

って

いく

五 

.)

「ア

シア

(XI

QI

″’9

)」

「無

(fi doiovla

)」

を快

と考

え、

る要

る。

イ 

る。

る。({s

口 

が選

い。

る0 (129(

139)

( 

も不

が不

る。

や魂

が浄

る。(

127-128)

二 

い。

の虜

る原

い出

る。

| インド における「順世派」 と古代 ギリシアの快楽主義103

Page 6: の 献 箇 派 合 主 論 の 前 順 思 に し 所 わ 義 者 う 六 ア 世 ......ン ド に お い て 、 彼 ら の 快 楽 主 義 が 人 々 に と っ て ど の

}S

ホ 

し宇宙

の本性

を見

めず、

神話

の中

で語

られて

るこ

が本

では

いかと

疑心

を抱

いるな

らば

、最

いて

恐怖

を消

がで

い。そ

ゆえ、

自然

の研

をし

い限

り、

じり

のな

で快楽

の分

に与

ること

はで

きな

い。({

ず、

口におけ

「受

け入

れる

べき

でな

い快楽

の規

定に

い。E

.の快

いて

は、最

低限

の食

や飲

な、

(含

9豆

で不

な(?

Q1

91

が欲

る快

を享

つつア

タラ

シア

を達成

るこ

幸福

に至

プロ

セス

であ

って

、そ

れ以

の快

むし

ろ忌避

べきもの

に他

らな

い。こ

の説

も、徹底

する

こと

がで

れば、「快

主義

パラ

ドク

を回

るこ

が可

る。

だし

に見

れる

よう

に、

それ

は欲

ついて

「迷

いの

い考

」が必

要不

なの

であり

、必然

二に見

れる

よう

に「思

(<t>povrici<;)J

が求

られ

るこ

とに

なる

ので

ある

また

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るよ

うに

、E

.もま

た、

の快

主義

実践

る上

で最大

の問

の一

つは「最

も肝

こと

がら(

=死

)」

ついて

の恐

怖で

ると述

べる。彼

もま

た古

代イ

ンドに

ける

「順

派」

と同

く唯

物論

を採用

して自

いて

の研

てお

り、人

の死

はすな

わち

、魂

と肉

体と

が原

に還元

る感

覚主体

の消滅

って、苦

も恐怖

そこ

は存在

、従

って、

は人間

って何

ら恐

ろし

もの

では

いと主

るので

る。

六 

アリ

スティッポスと

エピクロスの

楽説に

おける差違

とその意義

さて、これら二

つの快楽説の内容的差違を検討してみたい。

まず指摘したいのは「受け入れるべきでない快楽」の規定の有

無である。どちらの快楽説も実践するのは困難であるが、少な

くともこの点に関する限り、筆者としてはどちらかと言えばE.

のそれの方

が実践

が比較的容易であり、人生訓として機能しや

いものであ

るように思われる。というのも、E.説において

は戒

めとして「受け入れるべきでない快楽」が規定されており、

言わばルールあるいはある種の規範が設定

されていると見なす

ことができるからである。極端に言えば、たとえ盲目的であっ

たとしても、ストイックにその規範に従ってさえいれば実践す

ることが可能となるのである。

しかしな

がら、A.説においては事情が異なる。あらゆる快

楽は善であり、現にあるどのような快楽も受け入れるべきなの

であり、E.説に見られる規範のようなものは存在しない。こ

れは一見

シンプルで誰にでも実践できる説であるように見える

が、その実、〈現にな

い快楽を苦労して追求しないこと〉のた

めには、その時に応じた厳格な自己抑制と思慮深

さが常に要求

され

る。それゆえ、A.説は実際には極

めて実践困難であり、

人生訓として機能しにくいように思われるのである。

104

Page 7: の 献 箇 派 合 主 論 の 前 順 思 に し 所 わ 義 者 う 六 ア 世 ......ン ド に お い て 、 彼 ら の 快 楽 主 義 が 人 々 に と っ て ど の

に、死

の恐怖

の対

いてで

が、

伝承

に見

る限

り、A

.説

いて

ほと

ど何

も語

れて

いと言

って

く、A

.自

とっ

はと

く、他

って人

とし

て機能

やす

いもので

ったと

は言

えな

いだろ

う。そ

の点

、E.

説に

いては

、自然

研究

を通

じて死

への

恐怖

を克服

ると

いう

る種

の方

が論

られて

おり

、こ

を十

に修

た者

.の言

「死

が人

にと

て何

ら恐

いも

ので

い」

う説と

もに、彼

の快

楽説

れ自

体も

生訓

とす

ること

がで

きた

かも

れな

い。少

なく

とも

、こ

の点

に関

て、E

.説

はA.

説に

べてよ

り説

得的で

るこ

とは

指摘

るこ

がで

るだろ

際、A

.を学祖

とす

るキ

レネ学

が、A

.以

後数世

のう

に学説

の大

な改

を迫

れた

は対

照的

、E.の快

主義

は紀元

一世紀

のルク

レテ

ィウ

に至

るまで

くの人

って

支持

されて

り、

の歴

的事

見て

も、E

.の説

は人

生訓

とし

て比

較的機

やす

いも

ので

ったと考

るこ

がで

るよ

うに思

れる。A

。説

とE

。説

直接

の影響

関係

があ

かど

うかと

いう問題

は本稿

の射程

を超

が、少

なくと

もA.

の快

楽説

は、

の実

がA.本

の能

に負

部分

が大

他人

の人

生訓

しては機

しに

いも

ので

あり、他方

、E

.説

思想

とし

の理論化

、言

い換

れば

、よ

説得的

な思

想に

しよ

うと

いう試

がな

れて

り、

る程度

他人

の人

生訓

とし

しや

いも

のであ

った

こと

は指

摘で

ると考

る。

七 

ジタと

「順

世派

」の

楽説におけ

る差違

の意義

ところで、三節で述べたように、アジタ説とアジタ以降の「順

世派」説を比較した場合、「順世派」説には、アジタ説には見

られないいくつかの点がある(三節を参照)。アは「快楽主義

パラ

ドクス」に陥らないための戒めであり、イ、ウは、E.

がアタラクシアを達成するための手段として自然学を用

いたの

と同様に、ある論点に関して自説をより説得的にしようとする

工夫と理解することができよう。

A.とE.の思想の関係同様、アジタと彼以降の順世派の思想

の影響関係についても、ここで断定的な結論を出すことには慎

重にならなけれぱならないが、伝承によれ嵋

アジタは当時の思

想界においてかなり名声のあった人物であり、多数の信奉者

いたとされる。従

って、彼の同時代においても後世においても、

彼の思想を好意的に受け止め、その快楽主義を実践しようとし

た人は少なくなかったと思われる。

しかしながら、アジタの快楽主義は、少なくとも伝承に見

限り、それほど説得的なものであったとは言えない。それゆえ、

彼の快楽主義をそのまま自己の人生訓とすることのできた人は

それほど多くなかったであろうと推察される。だとすれば、よ

り多くの人々がこのような思想を人生訓とするためには、より

実践しやすいものである必要

があり、そのような実利的な理由

「順世派」と古代 ギリシアの快楽主義ける| イン ドにお105

Page 8: の 献 箇 派 合 主 論 の 前 順 思 に し 所 わ 義 者 う 六 ア 世 ......ン ド に お い て 、 彼 ら の 快 楽 主 義 が 人 々 に と っ て ど の

から、「順世派」は、より詳細な説明

やアジタには見られない

考え方

の導入を必要としたのではな

いかと考えられるのであ

る。

八 

主義

のI

に、

古代

ンド

およ

び古代

ギリ

シア

おけ

る諸

々の快

の比較

考察

を行

って

きた

が、

これ

らの快

楽説

が人

生訓

して

機能

る上で

ず重要

なこと

は、

かに説

得的

るかと

いう

こと

あろ

う。

いかに優

れた

思想で

れ、

説得

でな

けれ

ば多

の人々

いて人

生訓

とし

て機能

るこ

は難

い。

して

それ

れの快

楽説

が説得

的で

るた

に不

欠で

るの

が「思慮

の存

在で

ある

と考え

る。

くと

も、「順世

」、

A.、

E.の快

説を見

る限

り、

の三者

それ

ぞれ

が独

仕方

程度

の差

はあ

れ、「快

主義

パラ

ドク

ス」

に陥

らな

いた

のあ

る種

の思

慮深

さの

必要性

を語

って

ると理解

るこ

がで

きよ

う。

わち

、A.に

いて

〈現

い快楽

を追

求し

い〉

いう

と、E.に

いて

「受

べきで

い快

楽」

いて

の規定

、「順

世派

につ

いて

は、〈苦痛

避け

て快

のみ

を得

るた

の配

〉と

いう形

それ

をは

っき

りと

て取

こと

がで

きる。

タ説

に関

して

も、

伝承

に明確

に記

されて

いな

が、彼

が思

想家

して

当時

すで

に一廉

の人

であ

った

とを考

する

らば、

「思慮

い人物」

ったと

いう含意

がある

と考

えるのはむしろ自然なことであり、彼の快楽主義もまた、ある 106

種の思慮を基礎として成り立つものであったと推察されるので

ある。

一般に、どのような形であれ快楽主義が一つの一貫した思想

として成立し、それが人生訓として機能するためには、快楽を

適正に享受するための、言わば「手段」としての思慮

が不可欠

であり、同時に、思慮を十全に用

いることによってのみ、快楽

主義の思想は人生をよりよい方向へと導く人生訓となりえるの

ではないかと筆者は考える。

(1) 「順世

派」

の思想の起源、由来に

ついて

は詳細が分かっておらず、

ただ彼

らが権威

として

いた神

や、半ば伝説上

の人物

の名が伝わ

るの

みで

る。そ

ゆえ、

唯物論・

快楽

主義

を唱

た人物

が、紀元

六-

世紀のア

ジタ以前か

ら存在して

いた可能性

を否

定す

ることは

できな

い。しかし、「順

世派」の人

がその思想の始祖と見

なして

たのは

「チャール

ヴァ

ーカ」と

いう人物

であり、手島文蒼氏は、「こ

の人物

がもし実

在す

ると

すればその年代

はゴ

ーダマプッダより少

以前

か、あ

るいはほと

んど同時

の人か

も知れな

いと推定した

い」

べて

いる。

この説を前提

とすれば、紀元

前六-

世紀の人物で

たアジタ

は、

唯物論・快楽

主義の系譜

にお

いて、

ほぼその最初期

に位置

づけられ

ることになろう。本稿で

はひとまずこの立場を取

り、

基本的

にアジ

タと同時代、

もしくは彼以降

の順世

派を議論

の対象と

する。手島文蒼

「印

度宗教論」中

外出版、一九二四年、二七四頁参

照。

(2) アジタ

を順

世派に分類すべきかどうかに

ついては議論

があ

る。

(3) 「あ

る思想p

がある人物S

の人

生訓と

して機能して

いる」と

いう

命題

を、本稿

においては、「あ

る思想p

が、あ

る人物Sの人生に反映

され、

その結果S

の人生を良

い方

向に導

いてい

る」

という意味に理

Page 9: の 献 箇 派 合 主 論 の 前 順 思 に し 所 わ 義 者 う 六 ア 世 ......ン ド に お い て 、 彼 ら の 快 楽 主 義 が 人 々 に と っ て ど の

) 

IG

 N

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iv

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寿

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寿

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Sa

rva

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ha

Sa

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10

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Sa

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1 2

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 V

ita

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ilos

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 I」

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107 1  インド におけ る「順 世派」 と古代ギリシ アの快 楽主義