1930年代農村負債整理事業の実施過程...49...

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49 1930年代農村負債整理事業の実施過程 ―「町村-むら」関係の視点から― 庄 司 俊 作 はじめに 「町村-むら」関係の視点から1930年代農村負債整理事業の実施過程を検討する ことを通して,当該期農村社会の構造を明らかにすることが本稿の目的である 1) 研究ジャンルでいうと農村政策史研究になるが,その通常の方法と同じく本稿でも 農政当局の政策対応と農村の現場の関係に焦点を当てることになる。筆者独自の, 町村とむらの関係という観点からの分析が,本稿の特色である。ここで「町村」と は行政村のことである。本稿では「村」という用語も使うが,これは町村と同義, 行政村の意味である。「むら」は現在統計用語で「農業集落」と呼ばれもので,農 村の基礎的な単位地域である。 1930年代は統合の時代であった。大恐慌によって農村の危機が一段と深まった中, 国は農村統合を図るため農民の「隣保共助の精神」に依拠したさまざまな政策をと り始める。その代表の1つが負債整理事業である。実行機関である負債整理組合 (以下適宜「整理組合」「組合」とする)については,法律をもって「隣保共助の精神に 則りて設立す」と「精神団体」であることが明記された 2) 。組合は「部落その他之 に準ずる区域」に設立される。部落イコールむらではないが,それは別として,整 理組合は,精神団体たる本質が明確にされた上で,部落等に設立され負債整理事業 の遂行に当たるという法的位置づけを与えられたことに注目したい。 また,1930年代は協同の時代でもあった。農民の協同の行動と意識が飛躍的に高 まり,それが今日の村づくりや戦後の農協につながる。農山漁村経済更生運動(以 下経済更生運動)や産業組合,農事実行組合の発展そして負債整理事業の展開がそれ に当たる。負債整理事業については後述の通り経済更生運動以上に集中と努力を必 要とする,その意味で固有の困難さをもつ事業であることと,その事業によって協

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1930年代農村負債整理事業の実施過程―「町村-むら」関係の視点から―

庄 司 俊 作

はじめに

「町村-むら」関係の視点から1930年代農村負債整理事業の実施過程を検討する

ことを通して,当該期農村社会の構造を明らかにすることが本稿の目的である1)。

研究ジャンルでいうと農村政策史研究になるが,その通常の方法と同じく本稿でも

農政当局の政策対応と農村の現場の関係に焦点を当てることになる。筆者独自の,

町村とむらの関係という観点からの分析が,本稿の特色である。ここで「町村」と

は行政村のことである。本稿では「村」という用語も使うが,これは町村と同義,

行政村の意味である。「むら」は現在統計用語で「農業集落」と呼ばれもので,農

村の基礎的な単位地域である。

1930年代は統合の時代であった。大恐慌によって農村の危機が一段と深まった中,

国は農村統合を図るため農民の「隣保共助の精神」に依拠したさまざまな政策をと

り始める。その代表の1つが負債整理事業である。実行機関である負債整理組合

(以下適宜「整理組合」「組合」とする)については,法律をもって「隣保共助の精神に

則りて設立す」と「精神団体」であることが明記された2)。組合は「部落その他之

に準ずる区域」に設立される。部落イコールむらではないが,それは別として,整

理組合は,精神団体たる本質が明確にされた上で,部落等に設立され負債整理事業

の遂行に当たるという法的位置づけを与えられたことに注目したい。

また,1930年代は協同の時代でもあった。農民の協同の行動と意識が飛躍的に高

まり,それが今日の村づくりや戦後の農協につながる。農山漁村経済更生運動(以

下経済更生運動)や産業組合,農事実行組合の発展そして負債整理事業の展開がそれ

に当たる。負債整理事業については後述の通り経済更生運動以上に集中と努力を必

要とする,その意味で固有の困難さをもつ事業であることと,その事業によって協

同の関係が一段と進むことが考慮される必要がある。かかる負債整理事業が国の政

策として打ち出されたことは協同の時代としての1930年代を象徴する。

統合といい協同といっても,歴史は協同を通して統合が進んだ。だとすれば,こ

の2側面をひと掴みにする研究が求められる。こうした研究を本稿では負債整理事

業を主題にすることによって目指す。とくに,負債整理事業が時代の象徴であるこ

とを踏まえ,1930年代の協同の一断面を重点的にさぐりたい。

そこで問題となるのは,負債整理事業の政策と展開,とくに後者では整理組合の

組織と設立と活動であり,そしてそれをめぐる町村の役割とむらの機能である。地

域とは課題であるといわれるが,町村の役割もむらの機能も地域の課題に即して明

らかにされなければならない。本稿では「負債整理」を切り口としてこの地域に迫

る。

最初に課題設定の理由を含め本稿の目的を敷衍した。1930年代負債整理事業につ

いては加瀬和俊氏の30年近くも前の研究3)があるだけであり,これまでほとんど研

究されてこなかった。加瀬氏の研究は貴重であるが,政策の立案過程の分析に限ら

れ実施過程については研究成果はまだ発表されていない。実施過程の研究が全くな

いことにこの事業の実態分析の困難さが暗示されているように思われる。いかなる

視点=方法をもつかが問われる。

1.負債整理事業の仕組み

(1)現代性

一大社会問題となった昭和恐慌期の農村負債問題について詳論する必要はないが,

行論上2点だけ指摘しておく。第1に負債の実態。農林省の発表では農家の負債総

額は45~60憶円,1戸当り約900円である。もちろんこれは推定値で正確な数字では

ない。そして,借入先は大まかに個人・頼母子講等が半分,産業組合2割,銀行・

公共団体2割,その他1割というのが,当時の有力な一般的見方だった4)。

第2に,負債整理事業は農家の負債全部を整理しようとするものではなかった。

昭和恐慌によって農村の金融ショートが起こり,借金は農家の重圧となった。農家

は「金の入る先へ先へと取立てを食」い,「自分たちの今年の生活はすっかりもう

前年中に前借してしまっている」ような生活を余儀なくされる。こうして農家から

現金がなくなり,わずかな金のために娘を身売りしたりする5)。このころの農家は

「借金まみれ」といわれたが,それは借金のため少々のことではどうにもならない

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経済状態にあることを指している。負債整理事業の「負債整理」の意味は負債の条

件緩和である。農家を借金まみれの状態から救い出し,さらに一定の期間内に負債

が返還できるようにする。そしてそれにより農家の経営と生活を再建する。

負債整理事業は1933年,農村負債整理組合法の成立により始まる。同法により,

事業主体としての負債整理組合が設立されることになったほか,政府の資金融通に

ついても,府県・市町村の責任で負債整理資金を供給し,政府が府県に対し3千万

円の損失を補償することが決まった。資金融通の方法はその後拡充され,37年9月,

農村負債整理資金特別融通及補償法で資金融通機関が市町村のほか産業組合中央金

庫や日本勧業銀行等にも拡大され政府が損失を補償することになった。また市町村

に対する損失補償では府県がその損失を補償し,それに対してさらに政府が補償す

る形になるとともに,資金が増額された6)。

まず政策としての負債整理事業の基本的性格を見ておく。政府の意図は1937年に

出された「農村負債整理ニ関スル訓令7)」(農林省訓令第8号)の中で明確に謳われて

いる。

それによると負債整理は第1に,「誠実勤勉」で「自奮更生の熱意」をもち経済

更生計画・負債償還計画が樹立できる者に対象が限られた(第1条)。第2に,上述

のように内容は負債の条件緩和であり,その目的も,債務者である農家の経済更生

に必要な限度に限られた。それを超えて債権者の利益を害することは避けなければ

ならないとされた(第3条)。第3に,負債整理によって「公の秩序」や「善良の風

俗」を害する恐れがある場合または官庁の監督下にある銀行等の業務機構を害する

ような場合も,回避すべきこととされた(第4条)。

負債整理は借金棒引きや例えば負債全部を政府低利資金に借り換えることなどで

はない。立案に当たってこのような要求を出した農民団体が存在したり,現場の農

村では負債整理の内容をこう誤解した向きがあった8)。そうした立場から見ると事

業は生ぬるいということになるが,こうした基準による評価は適切ではない。とき

は国が現代化し,各方面でその役割が増して社会,経済への介入が強化されつつあ

った時代である9)。負債整理事業も現代化しつつあった国の政策の一環であり,上

記訓令の3つの規定はその現代的性格を表わすものといえる。

そこで,長いスパンで農村負債整理事業をとらえてみる。注目されるのは,現在

の債務救済法である個人再生手続との類似性である。

個人再生手続とは,2001年,消費者金融による多重債務者の急増に対処するため

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導入された個人版の民事再生手続のことである10)。個人の再生を目的とする再建型

債務整理手続であり,この点で既存の自己破産手続と異なる。したがって,それが

裁判所によって認可決定されれば,「破産者」のように職業資格を失ったり住宅を

奪われたりすることなく,債務整理が可能となる。また手続中は給料差押えなどの

強制執行をされる恐れがない。手続きは,まず債務者が裁判所に申し立てる。申立

てができるのは「破産の原因たる事実の生じるおそれがあるとき」である。個人事

業者については,これに加え,弁済期にある債務を返済すれば事業の継続等に著し

い支障をきたすとき,申立てができることになっている。申立てを受けた裁判所は

個人再生委員(通常弁護士)を選任し,債務者の財産・収入状況や関係者間に争い

のある再生債権の調査,および債務者が適正な再生計画を立案するための必要な勧

告に当たらせる。再生債務者から提出された再生計画案について,裁判所は所定の

手続きを経て再生計画認可の決定をする。これによって「再生債権者の権利は,再

生計画の権利変更の一般的基準に従い,債務の減免,期間の猶予,その他権利変更

を受け」ることになる。

ポイントは次の3点にある。個人再生手続の権利変更は再生債務者の事業・生活

の立て直しを目的としていることから,①客観的に立てられた再生計画にもとづく。

つまり基準は恣意的ではない。②債務の減免,期間の猶予等の条件緩和である。③

裁判所の認可決定により確定する。

このように1930年代負債整理事業の中には現在の個人を対象とする再建型債務整

理手続につながる政策的な考え方が存在する。負債整理事業と個人再生手続を対比

すると,①②は同じである。③にかんしては異なるが,前者では裁判所の決定に代

わり,負債整理組合を設立しその連帯責任で効力をもたせたといえる。

(2)事業の機構と基盤

負債整理事業の機構の特徴をとらえるには,負債整理の手順をおさえる必要があ

る。それは以下の通りである11)。

まず負債整理組合が設立される。整理を希望する組合員(以下整理債務者)はその

旨を申し出,負債の償還・経済の立直しに努めることを誓う。それを受けた組合は

ただちに債権者に負債整理の申し出があったことを通知するとともに,整理債務者

の資産や負債,家計の状況を調査した上で経済更生計画と負債償還計画の樹立に着

手する。償還資金は年々の収支の剰余金と家業の経営に必要のない財産を処分した

金を当てるしかない。こうした財産処分により返還すべきものは返還した上で,20

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年以内に償還が完了する計画を立てる。しかし,どうやり繰りしても償還計画が立

たない場合,整理をする負債について,組合が債権者と整理債務者との間を斡旋し

負債の条件緩和についての協定を結ばせる12)。無理のない実行可能な償還計画にす

るためである。その際,組合から整理債務者に負債整理資金を貸し付け,負債の一

部を現金で返済させるようにした(負債整理事業資金特別融通)。「互譲妥協」を図

る「頭金」である。資金は町村から供給を受け,組合員1人当たり千円以内,また

条件緩和前の3分の1以内とされた。

負債の条件緩和にかんして当事者間で折り合いがつかないとき,組合は負債整理

委員会に協定の斡旋を請求することができた。ここまでが村内で自治的にまとまる

場合である。それでもまとまらないときは,裁判所において金銭債務臨時調停法に

よる調停が行なわれることになる。調停は債権者,整理債務者いずれからでも申し

立てることができた。

このように負債整理事業の機構ということではさしあたって,負債整理事業資金

の「融通の主体13)」として,あるいは負債整理委員会の設置区域として位置づけら

れた町村,および負債整理組合が問題となる。

負債整理事業資金は政府の低利資金が大蔵省預金部支部を通じて直接町村に供給

された。その理由として,政策当局者が「どうも今日の負債を償還する組合を作る

上に付て,其市町村が監督の任に当らないと云ふと,甚だ効果の少いことに至る虞

がある」14)との判断をもっていたことが注目される。町村は負債整理組合の「責任

者」と位置づけられた15)。とくに資金関係の理由から,町村が責任主体にならなけ

れば,政府も資金の出しようがなかった。そこで,他の施策でも預金部資金を府県

を経由せず直接町村に流す方式が増えていたので,それにならってこの方式がとら

れた16)。もとより特別融通は負債整理事業にとって不可欠であった。

次に,町村区域の負債整理委員会はたんに負債条件緩和の斡旋に当たるだけでは

なかった。同委員会は知事が町村長の意見を聞き設置等をなすものとされ,会長に

は町村長が就いた。注目されるのは,負債整理のため必要と認めるとき,村内に整

理組合が設立されていなくても設置され,同組合の設立や事業の指導など負債整理

の普及促進を図るものとされたことである(訓令第44,45条)。加え,後で明らかに

するように負債整理事業では実際に町村長の果たす役割がきわめて大きかった。

このように見ると,町村の役割というものは,それなくしては負債整理事業その

ものが成り立たないといえるほどの位置づけにあったことが,事業の仕組みと機構

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上の特徴から指摘できる。

最後に整理組合の問題,すなわち負債整理が隣保共助の精神を拠りどころにして

仕組まれたことについて。法案作成の中心になった経済更生部長小平権一のこの点

にかんする説明をみてみよう。「負債整理組合は,農山漁村部落の人々が,負債整

理をする者の世話をする為に,隣保共助の精神に則つて作る組合である。斯う言ふ

組合が,法律で認められたのは今度が始めてである」として,次のように述べる。

それは,従来,実際に行はれて来た慣行に,工夫を加へて,1つの制度とし

たものである。即ち,従来から農村漁村に於いては,負債整理をしなければな

らない者があった場合には,その隣近所の主立つた人が,家計や家業の整理の

目論見をしてやつたり,満足に返せない借金に付いては,債権者に交渉して譲

つて貰つてやつたり,いろへ面倒を見てやつた上で,尚ほ部落の人々が集つ

て,それに親戚縁者を加へて,無尽(頼母子講)の如きものを起して,負債整

理の資金を調達してやると言ふ仕来りが各地方に於いて行はれて居る。又,昔

し,二宮尊徳翁が,難村の樹て直しの為め行つた,負債整理の方法,即ち仕法

のやり方も,全く本制度と同一の精神である。本制度は,農村漁村に於ける此

の伝統的の隣保共助の精神の発露に依り,隣人同士が負債整理の為めにお互に

援助する風習を制度化したものである17)。

小平を中心メンバーの1人とする石黒農政では直接生産者を拠りどころにして政

策を打ち出すことを本質的特徴とした18)が,負債整理事業の「風習の制度化」も同

じ精神に発する。

こうした小平らの認識をめぐって,政策立案過程で興味ある議論がなされた。議

会では,冠婚葬祭等での隣保共助はあっても,負債整理をする隣保共助というもの

はかつてもなかったし今もあるとは考えられない,あるいは負債整理のためには負

債緩和の協定と事業資金の借入れが必要であり,それが限られた中では実効ある政

策になるかは覚束ないなどの質問が出された。これに対する後藤文夫農相や小平の

答弁は確信に満ちたものであった。

小平の答弁はこうだった。「私共は農山漁村に於て隣保共助の精神で,本当に共

同一致して部落の改善を図ると云ふ精神は,相当まだ残つて追つて,それを相当に

助長すれば,相当程度に於て隣保共助の組合が出来るかと考へて居ります19)」。この

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後小平が具体的にあげた「助長策」は,経済更生計画の中に負債整理事業を入れ経

済更生委員会が指導督励したり,上述の負債整理委員会が指導督励する,あるいは

信用組合等が負債整理事業を行なう場合も特別融通の対象にするなどであった。経

済更生委員会も負債整理委員会も町村区域に設立され,「町村の重立つた者」が入

って指導督励に当たる機関だった。信用組合もこの段階では町村区域の組織が一般

的であった。

負債整理が隣保共助の精神を拠りどころにしたといっても,整理組合単独で事が

成るとは想定されていなかった。整理組合の設立と活動は町村単位の機関,主体と

しての町村レベルの役職者の指導性が前提となるというのが,法案作成に当たった

小平ら政策当局者の基本にあった判断といえる。負債整理事業の仕組みは,町村と

むらの二重の機構(とその合成)によって成り立っていた。

2.負債整理事業の展開と地域性

(1)負債整理組合の設立

小平は議会で負債整理事業の目標として大まかに次のような数字をあげた。全国

約1万2千の町村中,市街地に準ずる町村3千を除く9千が対象となる農山漁村で

ある。そのうち約3千町村は負債整理資金借入れなしに負債整理をすることができ,

残り約6千町村が政府から資金の融通を受けて負債整理をすることになるだろう20),

と。

実績はどうか(表1)。負債整理事業は1934年に「最高」を迎えたとされる21)が,

その翌年の整理組合設立町村数をみると全国で3,235である。小平の予測の半分強,

そして組合数は10,314である。以降,戦時体制が強まる中,組合の設立はほとんど

なくなる。この評価は後にまわして,負債整理事業について整理組合の設立,町村

と組合との関係,組合のあり方から検討し,その展開と地域性を解明する。これに

より事業の経済的条件,普及指導組織の役割,むらの規定性が明らかになる。

最初に,整理組合の多い地域はどこか。1940年現在整理組合設立町村(以下設立町

村)の割合が多いのは,北からまず北海道が挙げられる。6割の町村に組合が設立

され,宮崎県に次ぐ。東北も全体として組合が多い地方である。全国平均以上が4

県,そのうち設立町村割合3割以上の県(以下A,全国で19道県〔表1のa/d列ゴ

シックで示す〕)は3県にのぼる。その他組合が多い県が目立つのは,四国と九州

である。四国では徳島・香川・愛媛の各県が全国平均以上で,そして後2者はAで

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(単位:%)1940年設立町村 種類別負債整理組合数

負債整理 負債整理 町村数(d)組合(a)委員会(b)

a/d b/a 無限責任 保証責任 計(c) c/b

北海道 162 187 60.0 1.15 557 2 561 3.00 270青森 51 101 30.5 1.98 186 25 211 2.09 167岩手 112 184 47.3 1.64 342 1 345 1.88 237宮城 80 86 39.4 1.08 368 13 381 4.43 203秋田 34 56 14.3 1.65 47 58 105 1.88 238山形 65 75 28.5 1.15 19 223 246 3.28 228福島 108 163 26.6 1.51 223 22 245 1.50 406茨城 59 136 15.5 2.31 151 6 157 1.15 381栃木 66 61 37.3 0.92 182 12 194 3.18 177群馬 54 94 26.2 1.74 125 - 125 1.33 206埼玉 44 66 11.9 1.50 182 - 182 2.76 369千葉 67 82 19.3 1.22 166 - 166 2.02 348東京 43 45 23.6 1.05 234 - 234 5.20 182神奈川 51 84 28.5 1.65 144 3 148 1.76 179新潟 109 117 27.0 1.07 287 34 323 2.76 403富山 66 73 24.9 1.11 120 8 128 1.75 265石川 74 77 33.8 1.04 43 166 210 2.73 219福井 70 75 39.1 1.07 53 97 150 2.00 179山梨 98 125 40.7 1.28 254 - 254 2.03 241長野 101 127 26.2 1.26 253 25 278 2.19 386岐阜 62 84 18.2 1.35 171 68 240 2.86 340静岡 56 82 17.1 1.46 55 107 162 1.98 327愛知 46 51 18.9 1.11 78 38 118 2.31 244三重 129 143 38.2 1.11 243 118 361 2.52 338滋賀 48 48 23.8 1.00 100 15 115 2.40 202京都 43 45 16.2 1.05 14 126 141 3.13 265大阪 19 30 7.6 1.58 23 13 36 1.20 249兵庫 68 79 16.2 1.16 153 13 166 2.10 420奈良 47 65 30.9 1.38 115 13 128 1.97 152和歌山 47 86 20.8 1.83 164 3 167 1.94 226鳥取 48 78 25.7 1.63 118 5 123 1.58 187島根 87 123 31.2 1.41 101 86 206 1.67 279岡山 102 128 26.2 1.25 57 237 295 2.30 390広島 64 125 15.5 1.95 108 105 218 1.74 414山口 98 161 44.5 1.64 385 34 419 2.60 220徳島 39 38 28.5 0.97 66 75 141 3.71 137香川 92 119 52.9 1.29 293 - 293 2.46 174愛媛 90 109 32.3 1.21 290 89 380 3.49 279高知 41 109 21.4 2.66 112 17 130 1.19 192福岡 62 96 19.3 1.55 42 138 180 1.88 322佐賀 50 60 37.9 1.20 14 107 121 2.02 132長崎 69 70 37.1 1.01 177 45 222 3.17 186熊本 88 152 25.1 1.73 19 389 408 2.68 350大分 58 66 22.7 1.14 150 3 153 2.32 256宮崎 64 72 65.3 1.13 357 17 375 5.21 98鹿児島 74 79 51.7 1.07 260 15 275 3.48 143沖縄 30 55 52.6 1.83 95 3 98 1.78 57合計 3,235 4367 27.3 1.35 7,696 2,574 10,314 2.36 11,863資料:農林省経済更生部『負債整理組合現況』(1940年)より作成。町村数は内閣統計局『農業調査結果報告』(1929年)

による。

表1 負債整理組合の設立

もある。九州は沖縄を含め5県がAである。とくに南九州の宮崎・鹿児島と沖縄の

各県では5割以上の町村に組合が設立されたことが注目される。

一方,設立町村が少ない地方は,第1に近畿である。奈良県を除く5府県が全国

平均よりかなり少ない。次に東海。この地方で設立町村が多いのは三重県だけで,

他の3県は近畿と同様に全国平均よりかなり少ない。関東もほぼ同様である。北陸

や東山,中国はほぼ中間的であり,北陸では石川県,とくに福井県が多いこと,東

山では山梨県は多いが,長野県は全国平均以下であること,中国ではとくに山口県

が多いこと等が注目される。

なぜ近畿や東海で少なかったかは,兵庫県の状況をみると分かる(図1)。県内で

設立町村が比較的多いのは城崎郡等の但馬,氷上郡の丹波,津名郡等の淡路の各地

方である。それと対照的に,都市部に近い,武庫郡等の摂津や印南郡等の播磨の各

地方ではきわめて少ない。摂津地方の有馬郡から西へ美嚢・加東・加西・多可・宍

粟郡と続く地帯,つまり武庫郡や印南郡等に比べ都市部から離れ,山間に入った地

帯も組合がある町村が複数存在しており,県内では組合の多い地帯といえる。とく

1930年代農村負債整理事業の実施過程

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Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ武庫 川辺 飾磨

( 1 : 1 ) ( 1 : 8 )A 加古 赤穂

( 1 : 1 ) ( 3 : 5 )印南明石 三原 ○神崎 ○津名●

( 1 : 1 ) ( 4 : 9 ) ( 1 : 2 ) ( 3 : 9 )B

揖保( 1 : 3 )

美嚢 ○多可● ○佐用●○宍粟●(3 : 12) ( 2 : 3 ) ( 1 : 6 ) (7 : 25)

C加東 ○加西●

( 2 : 2 ) ( 2 : 3 )○有馬● ○多紀● 城崎 朝来( 5 : 6 ) ( 2 : 3 ) ( 4 : 8 ) ( 3 : 9 )

出石 美方D

( 1 : 6 ) ( 4 : 8 )養父 氷上

(10 :18) (6 : 18)資料:兵庫県経済部『農村負債整理事業一覧』(1940年)より作成注:1)郡名下の( : )内の左側は負債整理組合設立町村数,右側は組合数。2)A=都市的労働市場拡大地域,B=都市的労働市場周辺地域Ⅰ,C=同Ⅱ,D=農村的労働市場支配地域。Ⅰ=都市近郊地帯,Ⅱ=米麦二毛作地帯,Ⅲ=酒米地帯,Ⅳ=水田単作地帯,Ⅴ=米・養蚕・和牛生産地帯。

3)○印は農会是運動の自発的エネルギーの強い郡。4)上記の2)と3)に関しては,拙著『近代日本農村社会の展開』ミネルヴァ書房,1991年,第9章参照。

図1 兵庫県における負債整理組合の設立

に有馬郡や宍粟郡の多さは注目される。労働市場や農業構造による同県の地域区分

については拙著22)を参照していただくとして,要するに労働市場があまり拡大せず,

農業収入も相対的に少ない,その点で総じて農家が貧しい地域に集中していた23)。

以上の考察から,貧困が,整理組合の多い少ないを分ける経済的要因であったこ

とが理解される。もちろんそれは貧しければ貧しい地域ほど負債整理事業は活発に

なるという意味ではない。全体として当時の農村は貧しく,負債整理事業の条件が

存在した。それとともに,全国的にみるとまだ一部とはいえ,近畿や東海等を中心

に負債整理事業を必要としないような豊かな地域が形成されていたことも注目され

てよい。

(2)町村と負債整理組合

整理組合の設立と活動に影響するもう1つの要因は,行政による普及促進である。

府県当局を中心に産業組合,農会陣営と連携して当たるものとされた。負債整理事

業は関係者には一般に「非常に困難なる事業」と受け止められ24),「負債整理の実施

を担当した,農林省および道府県の指導官の苦心はじつに大きなものがあった」と

される25)。ここではいくつかの府県の動向を概観し,その影響について素描する。

北海道と東北6県は合同の「負債整理事務主任官打合会」を開催するなど連携を

図り26),ともに積極的な普及促進に当たったことが特徴といえる。それは,表1の

b/a列にみる通り,1940年の全体の町村数に対する負債整理委員会設置町村の多さ

に現われている。前述のように同委員会は整理組合の設立など負債整理事業の普及

促進を行なう町村の機関である。北海道や東北は組合設立町村が多かったが,同委

員会の設置町村はさらにそれをかなり上まわっていることが注目される。つまり,

組合がかなり普及している中,組合未設立の町村に同委員会を設置し,さらに組合

の設立を図ろうという強い意志がそこにはうかがわれる。

次に,九州の典型例として宮崎県に注目する。同県は組合設立町村の割合が北海

道を凌いで全国で1位である。前掲『中央に於ける農村負債整理事業懇談会記録』

(注4参照)によると,同県については負債整理事業が「非常に進んで」いるとして,

事業に対し知事が「非常に関心と熱意」をもっていることが「指導の原動力」とな

っていること,そして懇談会の席上,知事が県下の整理組合が230を超えたことを

挙げ,「昨年の7月には124しかなかつた。本県は勤務倍加運動をやつて居るが,そ

れが負債整理事業にも現れたが,この232組合は県下の農民の1割に過ぎない。自

分は県下の農民の負債の5割を近い内に整理することを目標にこの事業を進め,そ

社会科学 78号(2007 年3月)

58

の資金の融通は是非産業組合経由でやつて行きたい」と挨拶したことが紹介されて

いる27)。

以上から,整理組合が多く,負債整理事業が活発に行なわれたと見られるところ

は,まず府県当局が積極的に事業の普及促進を図ったこと,そして率先して負債整

理委員会を設置し組合設立を積極的に推進する町村が目立つことが確認される。

ところで,ここで整理組合設立の意味に関連して,村内の組合数......

に注目したい。

表2に,今のところ資料的に判明する6道県について,村内の組合数からみた設立

町村の構成を示した。この表からまず注目されるのは,滋賀県と兵庫県である。村

内に組合が1つだけというのが,滋賀県では48%,兵庫県では53%にのぼる。組合

が1つか2つしかないということになると,両県とも7割に達する。一方,村内に

3組合以上存在するというのは,滋賀県が33%,兵庫県が26%にとどまる。兵庫県

について3組合以上存在する町村の郡別の内訳をみると,同表の注1に見る通りで

ある。そこには明確な地域性が確認され,3組合以上存在する町村は前述の県内の

貧しい地域にほぼ限られる。一方,豊かな地域では村内に組合が存在しても,1つ

か2つという町村がほとんどだった。

村内に組合が3以上ある町村の割合は,北海道46%,長野県32%,岐阜県53%,

熊本県78%である。組合設立町村割合が6割に達する北海道は比較対象から今は除

外する。長野県は滋賀・兵庫両県と類似するが,後で補足するとして,ここでは滋

賀・兵庫両県と岐阜県や熊本県との相違について考察する。この4県は,いずれも

組合設立町村割合が全国平均以下であり,全国的にみると負債整理事業があまり活

発であったとはいえない。そうした中,上のような相違が生じたのは,行政による

1930年代農村負債整理事業の実施過程

59

(単位:%)

1 2 3~4 5~7 8~10 11~ 計

北海道 35 19 22 13 4 7 150(100)長野 55 13 16 9 4 3 97(100)岐阜 34 13 16 23 10 5 62(100)滋賀 48 20 17 11 4 - 46(100)兵庫 53 18 9 12 6 - 68(100)熊本 11 10 36 29 7 6 83(100)

資料:北海道負債整理事業協会『北海道負債整理組合要覧第三次』1940年,長野県経済部『負債整理事業一覧』1939年,岐阜県『負債整理組合要覧』1940年,滋賀県経済部『農村負債整理事業要覧』1941年,兵庫県経済部『農村負債整理事業一覧』1940年,熊本県経済部『負債整理事業要覧』1939年,より作成。

注:1)兵庫県の中で3組合以上存在する町村数を郡別にみると,川辺1,美嚢1,宍粟2,作用1,城崎1,出石1,朝来1,美方1,氷上1,津名1,三原1である。

2)( )内は割合。

表2 村内の負債整理組合数から見た設立町村の構成

組合の普及促進の差異を反映していると考えられる。

この点にかんして示唆的なのは,たとえば高知県である。同県は負債整理事業が

「全国でも最も不振の県」といわれた28)。そこで県は普及促進に努めるが,その方法

として「あちこちの村に組合を作ることは止めて,集中的に数個の村を選んで,そ

の村には全部落に組合を作つて行かうといふ,さういふ方針で進ん」だ。1937年の

設立町村は僅か6で,確かに全国最低である。それが40年に41に増加,全国最不振

の地位を脱したが,それは,県の「経済部長なり,主務課長…,特に熱意があると

思ひましたのは,地方課長」らがこのいわば集中方式で普及促進を図ったからだと

考えられる。

同県のようでなくても,この方式は有効であり,府県による普及促進の方法とし

て一般にとられたと考える。岐阜県や熊本県で組合が村に5以上あるような町村が

多いのは,こうした県の指導を受け,さらに町村においてはできるだけ多くのむら

に組合を設立するという指導をした結果であろう。その証拠には,村に組合が例え

ば5以上の複数存在するというケースでは組合の設立時期が全部同じというのが,

これは両県に限らないが普通である。

これに対し兵庫県はどうか29)。同県での普及促進は関係者には次のように映った。

「御承知のやうな経済事情でありますので,一般的に見ますと,それ程負債整理事

業を重要視していない」。「県農会に於いては,負債整理事業についても先鞭をつけ

て居つたやうな県でありますが,新しい制度が出来,その制度に依る負債整理につ

いては,案外県農会方面が無関心―といつては強すぎるかも知れないが,比較的

消極的であると見受けられる」。兵庫県では事業に対する県当局等の姿勢が比較的

消極的だったことは間違いないだろう。高知県のように県が集中方式による指導を

行なうことも,そしてそれを受け町村で出来るだけ多くのむらに組合を設立すると

いう指導を行なうこともあまりなかったのではないか。その結果,組合が設立され

ても,ほとんどが村に1つか2つという形での設立あるいは村での組合のあり方に

なったと考える。おそらく滋賀県も同様だろう。

このように府県の姿勢が整理組合の設立のされ方や設立町村のあり方を分ける重

要な要因になったことが理解される。この違いは後述のように町村と整理組合の関

係あるいは組合の活動に影響する。

(3)負債整理組合のあり方

むらのありようが影響したと思われるのが整理組合のあり方である。そこで組合

社会科学 78号(2007 年3月)

60

とむらの関係を検討する。

負債整理事業は組合員の連帯責任で負債を整理するものである。連帯責任を負う

組織として組合がつくられるが,制度上組合員の責任は無限責任と保証責任の2種

類があった。前者は組合が立ち行かなくなった場合,組合財産で損の埋合せが不可

能なとき組合員は連帯してどこまでも損を埋めなければならない組合。後者は組合

員の埋合せが出資金の5倍以上で済ませられる組合である。農林省は組合員に責任

の自覚と活動を促すなどの理由から無限責任が望ましいと考え,府県や町村も出来

るだけ無限責任組合の普及促進を図る方針であったといえる。

両者の全国平均は無限責任が75%,保証責任が25%である。地域別には次の点が

ほぼ明らかである。北海道から東北,関東,北陸の新潟・富山県,東山の各地方,

つまり東日本では全部無限責任,あるいはそれが圧倒的に多い府県がほとんどであ

る。その一方,北陸の石川・福井県から東海,近畿,中国,四国,北九州の各地方,

つまり西日本では保証責任がほとんどだったり,そうでなくても過半あるいはかな

りの割合を占めるなど保証責任が多い府県が相当目立つ。要するに,東日本の無限

責任型への特化という地域的特徴,および東日本と西日本の対照的な地域性が確認

される。

こうした地域性が一般に指摘される東日本と西日本のむらのタイプと関係するのか

どうか,関係するとしてその関係性はいかに説明されるか今のところ確言しうるデー

タがない。ここではとりあえず右の事実だけを確認しておくが,ただ1点,関連して,

保証責任組合が相対的に多いことは負債整理事業の困難性を反映するとされているこ

と,したがって保証責任組合というのは,組合員の責任のあり方からして設立が容易

であり,そのため組合設立を容易にする手段としてこのタイプの組合の設立策が取ら

れた(その結果割合が増えた)と考えられることを付言しておきたい30)。

むらのあり方と明らかに関連があると判断されるのは,整理組合の組合員構成で

ある。

組合員は要整理組合員と不要整理組合員の2種類がある。前者は「借金を法の適

用に依つて整理して貰ひ一家の経済更生をしやうとする者」で,後者は「借金はあ

つても極く少額であるから全然自力で償還をして経済更生しよう,なお余力を以て

他の人の借金整理に力をかさうと言ふ者と,自分は全く借金を持たないが部落及び

村の経済更生のため部落民である組合員の借金整理の面倒を見てやろう。そうして

共々経済更生をしやうと言ふ人」である。後者はつまり「他人の借金の整理を世話

1930年代農村負債整理事業の実施過程

61

する人31)」ということになるが,組合の指導者となるべき人も含む。組合は部落全

部加入制ではなかったが,指導者を確保する上であるいは事業推進上部落の名望

家・指導層,要整理組合員の債務保証人や担保提供者,またその債権者や地主等が

加入し組合の負債整理に協力することが望ましいこととして期待された32)。

そこで,要整理組合員の比率を府県別にみると,明確な地域性が確認される(表

1参照)。北海道から東北,関東,東山の各地方,つまり東日本は同比率が高く,ほ

とんどの県で全国平均をかなり上まわる。その一方,西日本,とくに北陸の富山・

石川県,東海,近畿,中国,四国の多くの府県では同比率が全国平均よりかなり低

い。要するに不要整理組合員の組合加入は,東日本では少なく,西日本では多いの

である。

これは明らかに,村落そのものよりも個別の家が強い関東をはじめ東日本のむら

と,家よりも村落としてのまとまりの強さを特徴とする近畿をはじめ西日本のむら

の差異の反映ととらえられる。そして,要整理組合員比率の高さがむらの指導層や

債権者の組合への関心の低さや非協力を表しているとすれば,概して東日本の整理

組合はその点では事業を困難にする条件を抱え込んでいたといえる。

3.町村の役割とむらの機能

(1)現場の要望

表3は,負債整理事業についての各府県の要望事項をまとめたものである。この

他にも自作農創設維持事業との統合や個人的負債整理への拡充,経済更生事業の絶

対要件化など多様な要望事項が出されたが,主要なものに限りまとめた。また時点

は,負債整理事業が「最高」を迎えたとされる1939年の翌年のものをとった。

さらに次の点も同表の見方として注意される必要がある。関東各府県と山梨県に

ついては,どの府県も共通して表には要望事項があまり挙がっていない。これは他

府県と比較した特徴のように見えるが,必ずしも現実に要望がなかったということ

を意味しない。表の作成資料,農村更生協会『負債整理事業促進ニ関スル要望事項』

(1940年)の巻末に付録として「関東山梨8府県負債整理主任官協議会決議」(1940

年4月)が掲載されており,その中で「全国主任官会議ノ決議ニヨリ左ノ要項ヲ基

幹トシタル成案ヲ得テ之ヲ本省ニ建議シ速ニ其ノ実現ヲ期セントス」として,①部

落協同組合制度の実現促進,②農村金融を産業組合に統合,③産業組合の自己資金

による整理組合への融通に対する損失補償,④分村計画に伴う負債整理が挙げられ

社会科学 78号(2007 年3月)

62

1930年代農村負債整理事業の実施過程

63

町村関係整理組合 整理資金 整理組合の組織● 関係●● への対策

北海道 ○ ○青森 ○ ○ ○岩手 ○ ○ ○宮城 ○ ○ ○ ○秋田 ○山形 ○栃木 ○群馬 ○埼玉 ○千葉 ○東京 ○神奈川 ○新潟 ○ ○ ○富山 ○ ○ ○ ○ ○石川 ○ ○福井 ○ ○ ○山梨 ○ ○ ○ ○岐阜 ○静岡 ○ ○ ○ ○ ○愛知 ○ ○ ○ ○三重滋賀 ○ ○京都 ○ ○ ○大阪 ○ ○兵庫 ○ ○奈良 ○ ○ ○和歌山 ○ ○ ○ ○鳥取 ○島根 ○ ○ ○ ○ ○岡山 ○ ○ ○ ○ ○広島 ○ ○ ○ ○ ○山口 ○ ○ ○ ○徳島 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○香川 ○ ○ ○ ○愛媛 ○ ○高知 ○ ○ ○ ○福岡 ○ ○佐賀 ○ ○ ○ ○長崎 ○ ○大分 ○宮崎  ○ ○ ○鹿児島 ○ ○ ○ ○ ○沖縄 ○ ○ ○資料:農村更生協会『負債整理事業促進ニ関スル要望事項』(1940年)より作成。

係機関の協力強化

挙村一致の態勢 関

事業指定制度等

会の設置 負債整理

町村単位の組合連合

る代行

農事実行組合等によ

化)による代行

部落協同組合(法制

貸付利率引下げ

融資枠撤廃・拡大

事務の簡素化

整備拡充

指導監督事務組織の

助成金交付

設立 共同事業への

接融通

融資銀行から資金直

産業組合の協力促進

個人整理の拡充

置条件緩和協定推進措

表3 負債整理事業への要望政策事項

ている。これらは以下に説明するように表の要望事項と重なる。それにもかかわら

ず,関東各府県と山梨県の要望事項には挙がっていない。その理由は詳らかでない

が,この点留意が必要である。なお,負債整理主任官の地方ブロック別協議会は他

に先に触れた北海道・東北のそれが確認され,他の地方でも一般的にもたれたと考

えられる。傾向として地方ごとに要望事項が似通っているが,それはこうしたこと

の反映であると考えられる。

以上を踏まえ,表3を検討する。この表には負債整理事業の矛盾・問題点と課題

が包括的に示されている。

第1は負債整理資金に関する要望であるが,これが非常に強い。具体的には貸付

利率を4分1厘から政府資金中最低利率と同率,あるいは3分2厘に引き下げると

いうのが多かった。また,融資枠は負債額の約3分の1の枠を撤廃し2分の1に拡

大するというのが多かった。政府資金中最低利率適用の根拠として,京都府のよう

に負債整理事業の特殊性,つまり事業が特別に困難であることを指摘していること

が注目される。この要望は全国的なものであったが,とくに東海や近畿,中国の各

地方で目立つ。農村負債整理組合法制定前,議会では政府の特別融通の資金的限界

性を問題にする声が強かったが,この面での政府の政策的対応の限界性は,その後

資金が増額されたとはいえ,依然として事業の展開を制約する要因になっていたこ

とが理解される。

第2に,事務の簡素化への要望もきわめて強かった。負債整理事業に伴う事務の

煩雑さついては「負債整理組合ノ設立経営ニハ極メテ複雑多岐ナル事務ヲ伴ヒ是又

事業ノ普及上大ナル障害トナリツツアリ」(京都府),または「農山漁家ノ事務的能

力ハ融資機関ノ要求スル如キ経済更生計画及負債償還計画書ヲ期待スルコトノ極メ

テ困難ナル実情」(和歌山県)などと報告された。個人の負債償還計画書等の作成

のほか,資金融通の申請手続きや登記の届出等が個々の組合員および組合に重い負

担としてのしかかった。表3をみる限り,事務簡素化を要望事項にあげるのは東海

以西の西日本,とくに近畿の各府県で非常に多く,一方,東北や関東の東日本には

なぜかほとんど見当たらない。

事務の煩雑さは負債整理という事業の特殊性によるものであり,その点で事務簡

素化は相当実現困難な問題であったと思われる。煩雑な事務をこなす者がいなけれ

ば,事業は進まない。その点で事務の煩雑さは負債整理事業が抱える重大かつ構造

的な矛盾であったといえる。事業の遂行には煩雑な事務をこなす主体が必要である。

社会科学 78号(2007 年3月)

64

これは要するに「運営コスト」の問題だが,負債整理事業は運営コストが高く,こ

の負担がとりわけ大きかったのである。

第3に,整理組合の設立や共同事業への助成金交付,また融資銀行から組合への

直接資金融通の要望も上の2つに次いで強かった。

以下は,村の内部,すなわち負債整理事業を遂行する上での町村の役割とむらの

機能にかかわる要望事項である。

第1は,農事実行組合や養蚕実行組合等の部落区域の法人または漁業協同組合に

よる負債整理事業の代行である。この要望の含意は次の香川県の意見に余すところ

なく示されている。ちなみに,四国4県は共通して農事実行組合等による事業の代

行を要望し,資料ではその理由も類似している。この点から考えると,少なくとも

4県に限っては何らかの形で負債整理事業について共通の要望をもつにいたったと

考えられる。

負債整理組合ハ究極ノ目的トシテ農村部落ノ更生強化ヲ図ルコトデアリ其ノ

事業トシテモ農村金融ノ合理化ヲ図リ又農事実行組合養蚕実行組合等ノ事業タ

ル生産力ノ維持増進ヲ企図シテイル訳デアリ又其レヲ実行セネバ組合ノ真ノ目

的ヲ達成スル事ガ出来ナイ。然ルニ現行組合法ニテハ現在ノ農村ノ実情ニ照応

スルニ其ノ普遍性ニ於テモ乏シク又法律上ノ事業ハ或一部ニ偏スルヲ以テ現行

組合法ノ名称ヲ改正シ農村部落ノアラユルモノヲ統一整備セル組合トナスカ又

前述ノ理由カラシテ現行負債整理組合法第8条中ノ負債整理事業ヲ行フ法人ニ

農事実行組合ヲ速ニ指定スル事33)。

新たに負債整理組合を設立し負債整理事業を行なうという政策的対応には「普遍

性」が限られるというのが,上の意見の,前提となる現状認識である。そこで,

「負債整理組合」の改称とともに,①「農村部落ノアラユルモノヲ統一整備セル組

合」に再編し事業の主体にすることが1つ,もう1つは,それでなければ②既存の

農事実行組合等に事業を代行させることが要望された(事実,後に実現)。

組合の名称変更にかんしていうと,貸主ならずとも,借金がある者への蔑視があ

り,それゆえ負債整理という事業への不当視がとかく支配しがちな社会―たとえば

こうしたことがここでいう「農村ノ実情」に当たるのであろう。だとすると,「負

債」「負債整理」という言葉のもつ,村でのネガティブな意味をもっと重視すべき

1930年代農村負債整理事業の実施過程

65

だというのが,上の意見の中に潜在する意識であろう。同様の理由による組合の名

称変更の要望は香川県に限らない。

①の「農村部落ノアラユルモノヲ統一整備セル組合」とは,前述の関東地方等負

債整理主任官協議会決議にあった部落協同組合に当たるものである。「一元的強力

ナル協同体」(同決議),あるいは各種部落団体を整理統合した「強力ナル単一組織」

(新潟県),部落各種組合を一元化した「総合的事業団体」(愛媛県),「部落協同体

ノ強化再編成」(佐賀県)など,その組織のイメージはほぼ同様であろう。そして,

上記の①と②の関係は,愛媛県の要望にある通り①は「根本的改革」であるのに対

して,②は目的と事業範囲が限定される。愛媛県と同様だとすれば,香川県も当面

②を実施し,可能であれば①を追求すべきだという中身の要望だった。

関東山梨8府県も含めると,①②を要望する府県は相当の数にのぼる。隣保共助

の精神にもとづくといっても,現実問題として負債整理組合の設立と活動は大きな

困難が伴ったことをうかがわせる。

第2に,町村の役割に関係することとして,挙村一致,関係機関の協力強化を要

望する府県が目立つ。ここで関係機関とは町村,産業組合,農会である。たとえば

徳島県では,「関係団体トノ緊密ナル連絡協調ヲ要スルハ贅言ヲ要セザル所ナルモ

特ニ右3団体ノ理解ト援助ナクシテハ事業ノ遂行不可能ナリ34)」と言い切っている。

そのうえで同県は職員の増員を要望する。このようにこの要望は実は,表3の,指

導監督事務組織の整備拡充に対する要望と重なる。この事務組織整備拡充では,国

庫補助による役場や産業組合への負債整理専任職員の設置が重要な要望事項の1つ

である。また,表3の,産業組合の協力促進というのは,産業組合は負債整理事業

に消極的であるとして役員の積極的な関与を促すとか,産業組合の自己資金による

特別融通を実現するため損失補償をする必要性等を要望したものである。

このように負債整理事業における町村の役割というのは,現場では事実上かなり

重視された。

町村の役割というのは,前述した高い運営コストの負担問題ということだけに限

定されない35)。その点で注目されるのが,北海道や香川県で次のような要望が出さ

れていることである。すなわち,北海道は,整理組合を設立した町村では相互連絡

機関(例えば連合会)を組織し「相互共励」を図るとともに,事業・事務の整理統

一を講ずることを要望した。また,香川県は「農村負債整理事業制度指定制度」を

要望した。この制度は,村内全ての部落.......

に組合を設置しようとする町村に対しては

社会科学 78号(2007 年3月)

66

相当の補助金を交付するというものである。

この北海道や香川県の要望事項を確認したうえで,それが何を意味するのかを以

下で検証する必要がある。

最後に,東北や関東の特徴として,調停官の設置や関係法規での強制規定の制定

などを要望する県が多いことを付言したい。これは貸主や有力者の非協力により負

債の条件緩和の協定が困難であったことの反映である。

(2)「町村-むら」関係から見た浦里村の負債整理事業

表4に,経済更生運動の模範村として全国的に有名な長野県浦里村36)における整

理組合設立の状況を部落別に示した。本村は仁古田,岡,浦野,越戸,当郷の5部

落からなるが,これらは近世村で,現在「農業集落」と呼んでいるむら..でもある。

整理組合は5部落すべてに設立され,しかも5部落とも多少の差異があるものの

部落一丸となって設立されたと言ってよい。負債整理をする者もしない者も手を結

んでの事業遂行の体制が組まれた。このように本村の負債整理事業は,行政村とし

て確立した村を中心に全村で取り組まれたこと,これが第1の特徴である。なお,

前述の長野県の組合設立町村にかんする説明の補足であるが,本村がある小県郡は

特徴として県内でも整理組合が非常に多く,しかも本村のように村内に複数の組合

が存在した村が目立つ。

第2に,整理組合は5部落とも1936年に設立された(37年登記完了)。本村で経済

更生運動が始まるのは33年であるから,3年ほど遅れて設立されたことになる。第

3に,負債整理事業の成績がきわめて良い。その状況を一瞥すると,村の負債総額

は1932年115.1万円から35年89.6万円,41年39.0万円(うち12万円は特融と自作農創設資

金)に減少した。とくに越戸負債整理組合は成績が良く,32年の17.9万円から,事

1930年代農村負債整理事業の実施過程

67

(単位:戸,%)

戸数 農家戸数 負債戸数整理組合 要整理組 1戸当り

員数●● 合員数● 負債金額

仁古田 150 140 121 141 90 897

岡 153 137 123 137 101 860

浦 野 235 154 189 141 94 1,400越 戸 88 83 79 83 71 1,714当 郷 191 170 154 178 64 789

計 816 684 666 680 420 1,098資料:前掲長野県『負債整理事業一覧』,浦里村「経済更生計画及実行費」(1936年)より作成。

注:負債金額は各部落の負債額を戸数で除したもの。

表4 浦里村の負債整理組合

業が本格化した36年に15.1万円,41年には3.7万円へと村全体よりさらに大きく減少

した。越戸では「昭和11年11月ヨリ昭和12年12月ニ至ル間ニ於テ困難視サレタル越

戸組合ノ負債整理ハ大半完了ヲ見ルニ至レリ37)」とされる。

この3つの特徴は相互に関連しているので,それを詳しく見ていくことにする。

本村の経済更生運動は宮下周村長を抜きにしては考えられない。宮下は1929年,

弱冠32歳で村長に就任,一時中断を挟んで敗戦直後まで村長を務め経済更生運動に

よる村づくりを主導した。また,宮下は27年に長野県議になっており,この方も以

降ずっと務め長野県政の「激動の昭和38)」に活躍した。

村長になる前の1920年代,宮下は村,さらに小県郡の青年団運動の指導者として

活躍した。このことは経済更生運動の歴史的意義を考える上で重要なのでひと言触

れておくと,自由を求め地方自治の振興に情熱を燃やして立ち上がった青年層のリ

ーダーとして,宮下は「地方行政の民衆化」と町村による「徹底した自治行政」の

ために奮闘した。その町村行政・地方自治論は単純ではないが,本稿の主題との関

連では町村と部落の二重行政を否定したことが注目される。すなわち,宮下は少な

くとも,村長に就任し経済更生運動を起こす以前においては,町村による「徹底し

た自治行政」を地方自治のあるべき姿としてとらえ,自治・行政団体としての部落

の存在はむしろ否定的に評価していた確かな証拠がある39)。

町村行政・地方自治論だけでなく農業・農村振興論でも宮下は独自の主張をもっ

ていた。しかし,それは1920年代においてはまだ「思想」にとどまっていた。村長

に就任しそれを実現に移したのが経済更生運動である。そして,宮下青年会長のも

とで活動した青年会の仲間・後輩が中心になって宮下村長を支えた。このように本

村の経済更生運動は主体の面でも内容の上でも1920年代の青年団運動の「発展」と

して評価される。その進歩的なモメントである。

宮下村長誕生に伴い,村は「新体制」に移行したことに注目する必要がある(図

2)。まず,1931年に経済改善委員会が設置された。政府が経済更生運動を始めるの

が32年,本村が経済更生村に指定されるのが翌33年であるから,この経済改善委員

会は村長になった宮下が町村による「徹底した自治行政」を是とする信念から独自

につくったといえる。同委員会は不況打開,経済改善を目的とした村の「参謀本部」

であり,村会議員,産業組合役員をはじめ村内各種団体の60名を超える役員から構

成された。その後経済更生運動に取り組む中で陣容が整備される。それに加え,宮

下は村長のほか産業組合長,農会長,耕地整理組合長の村の主要四役を兼任し経済

社会科学 78号(2007 年3月)

68

更生運動を指導した40)。

さらに全村協議会が設置された。こ

れは全戸参加の機関で,「万機公論に

決すべし」を旨に年1,2回開催され

村の基本方針が協議決定された。負債

整理も生活改善もここで定められた。

このように本村では役場,産業組合,

農会など村内各種団体が連携し村が一

体となって運動に取り組んだ。この点

について,宮下の活動や浦里村経済更

生運動をかなり正確にとらえたといえ

る同時代の著作,山浦国久『更生村浦

里を語る』には「浦里村の強みは,あ

くまで村中心...

であつて,産業組合も農

会も各種団体も学校も,決して各自独

自の発達を中心とせず,全村更生を目

標として,その一分子としてのみ活動

するところに特徴があり,総合的な威

力も発揮されている41)」(傍点庄司)と

記されている。

経済更生運動の内容をみると,通年・宿泊制の補習学校による社会教育,浦野川改

修,耕地整理組合設立,産業組合利用部創設,農業倉庫の建設,塩之入貯水池造成等

とそれによる農業経営改善と食糧自給,農村金融改善,自作農創設,生活改善の徹底,

農道新設,農村ドリル工場の操業,村託児所設置,全国初の健康保険組合設立,そし

て負債整理事業等が主要な事業であった。そこには「人間らしく文化的に生き」,「単

なる精農主義ではない」村づくりという明確な理念があったとされる42)。

こうした取り組みを通して,村の一体性が飛躍的に強まったことを浦里村経済更

生運動の歴史的意義として強調したい。その面で最も寄与したと思われる事業が公

共事業,とりわけ塩之入貯水池の完成であった(1939年)。村は水に恵まれず旱魃

に苦しんできた。旱魃になると,農業用水が不足し部落間で激しい水争いが起こっ

た。一方で,大雨が降ると,村内を流れる浦野川が底浅なためすぐに氾濫した。旱

1930年代農村負債整理事業の実施過程

69

青年学校

小 学 校

浦 里 村 全 村 協 議 会

青 年 団

処 女 会

青年聨盟

主 婦 会

浦里村農会

(技 術 指 導)

(経 済 行 為)

経済改善

浦里産業組合

更生区

同 負整組合

(負整組合実行班)

五人組合

五人組合

五人組合

五人組合

五人組合

五人組合

五人組合

 三一

  八

  七

  三

  七

  六

農事実行組合

(負整組合実行班)

農事実行組合

(負整組合実行班)

農事実行組合

(負整組合実行班)

農事実行組合

(負整組合実行班)

農事実行組合

更生区

同 負整組合

更生区

同 負整組合

岡 更

同 負整組合

仁古田更生区

同 負整組合

農 事 実 行 組 合 数

図2 浦里村の経済更生運動と負債整理

事業の組織体系

出典:浦里村「経済更生計画及其実行費」44頁。

魃になっても水不足にならないことと,大雨が降っても洪水にあわないことが村民

の長年の悲願だった。それには大型貯水池を造成し水田灌漑用水の安定的確保を図

るとともに,洪水防止のための浦野川護岸堤防工事を行なう必要があった。これは

宮下の目指す浦里村の「農村生活の向上・確立」と村内融和にとって不可欠であっ

た。経済更生運動の中で宮下はこれをやり遂げた。工事には多くの村民が出役し

た。

こうして浦里村民としての共通の村民意識が醸成され,行政村としての浦里村が

確立した43)。その象徴が1936年から始まった全村運動会である。

1931年設置の経済改善委員会の規程をみると,第2条の目的の1番目に「負債整

理並に金融改善に関する事項」が挙げられている44)。それを受け32年4月,村の負

債調査が行なわれた。それによると,総戸数801戸のうち負債戸数は708戸にのぼり,

負債総額約115万円,1戸当たり負債金額1,437円であった(農家でみると順に683戸,

667戸,約98万円,1戸当たり金額同じ45))。このように恐慌下,とくに農家を中心

に深刻な負債問題に見舞われたのである。こうした中,負債整理が村の最も重要な

不況・経済対策として取り上げられ,全村民を集めた全村協議会でもその実施が確

認された。

ところが,村で負債整理組合がつくられるのは,前述の通り1936年である。経済

改善委員会で負債整理の方針が打ち出されてから事業として着手されるまで,かな

り長い時間を要している。他の経済更生事業が次々に着手される中,表面的にみる

と負債整理事業のみ取り残された形になった。なぜか。これは負債整理事業固有の

困難性を示すものといえるが,事業遂行のためには何が必要だったのか。

この点について,山浦は「負債整理組合は,更生区を単位として設立するもので

あって,負債整理の如き大事業は,村民の共同訓練と強烈なる更生精神の確把によ

つてのみ可能なので,浦里村においては先ず精神強化に重きをおいて,その着手を

延期した46)」と記している。しかし,理由を単純な精神強化論だけに帰することは

できない。負債整理を実行する村の体制をつくる必要があり,それに時間を要した

ことが結果的に負債整理事業をここまで遅らせる原因になったと考えるべきであ

る。そこで負債整理に向けて村の体制がつくられる過程を順に追ってみる。

1934・・・・

年中に...

,経済更生運動の実行機関として5部落のもとに31の農事実行組合が

設立される(前掲図2参照)。農事実行組合は経済更生運動で大きな役割を演じるが,

村当局の「あくまで村中心,部落中心47)」の方針のもとに5部落=区が新たに「更

社会科学 78号(2007 年3月)

70

生区」として設定された48)。更生区は区内農事実行組合および各種団体の連絡統制

とその指導(つまり農事実行組合の連合会),区民の精神強化の徹底,区内産業の

改良進展に関する事業,生活改善の徹底,農産物販売統制,金融改善貯金励行の各

種事業に当たった。その役員構成は,正副区長が正副部落総代,区長の命を受けて

事務を執る幹事は農事実行組合長の互選,評議員は部落協議員などとなっていた。

更生区と農事実行組合は,先に設置された村レベルの経済改善委員会,全村協議会

において決定された負債整理事業の実施をむらレベルで担う組織である。負債整理

組合は上述のように更生区を単位に設立するものとされ,また農事実行組合は負債

整理の実行機関とされ,事業の核となる個人負債整理計画樹立は農事実行組合が当

たるものとされた。

以上を要するに,負債整理事業実行の全村的方針決定,それを受けてむらレベル

での事業推進体制の構築に34年いっぱいかかったということになる。

そのうえで,村当局は整理組合設立に向けて着々と動き出す。35年,負債整理委

員会が設置され,宮下村長が会長に就き組合設立の指導に当たる。その一方で2度

目の全村負債調査を実施した。それによると,35年現在村の負債総額は32年に比し

約25万円,1戸当たりにして339円減少した49)。だが,なお1戸当たり1,100円の負

債を抱えていた。宮下は組合設立を促進するため,まず自分の部落であり5部落の

中で負債が最も多かった越戸において組合を設立,自ら組合長として負債整理に当

たった。その結果,越戸に続き他の4部落に相次いで組合が設立され,ここに全村

で負債整理事業が実施されることになった50)。

浦里村の負債整理事業は,行政村として確立した村を中心に実行されたことに特

徴がある。これまで述べてきたことに加え,村は負債整理組合奨励費,負債整理委

員会費等予算化しただけでなく,負債整理主任書記を決定するなどして組合の設立

と活動を強力にバックアップした。その状況を一瞥すると以下の通りである51)。

「宮下村長より整理上詳細に懇談あり。組合員協力して目的の貫徹に邁進す

る事に申合す」(1937年1月28日)。

「午前井沢亀喜役場へ出張し横山書記と主として無尽整理につき打合せをな

し指示を受けたり」(同2月1日)。

「井沢民一郎氏役場へ出張し宮下村長と整理上種々懇談をなす」(同2月8日)。

「午後7時より役員会を開き左の要項につき協議す。一,各農事実行組合毎

1930年代農村負債整理事業の実施過程

71

▽▽

▽▽

に各人の計画を樹立し之れが提出せしめ内容を検討し村長の裁決の下に運動

を開始すること」(同2月9日)。

「井沢民一郎井沢亀喜両名役場へ出頭整理上横山書記と面談す尚書類の作成

をなし,…」(同2月10日)。

「午前7時より各無尽講長の出席を乞い無尽講調査票につき説明をなし即日

調査する事に決す。尚同10時より横山書記の来場あり無尽講整理調査につき

種々懇談指示を受け役場提示の原案に賛成し極力無尽更生に努力する事に申

合をなす。午後も続て講長に於て無尽毎に調査表作成をなす」(同2月17日)。

「午後8時より当組合役員会を開く。(中略)。午前中は宮下組合長来場せら

れ計画書提出者の内容につき詳細に検討し午後は引き続て無尽その他の整理

をなす」(同2月20日)。

日誌の最初3週間弱の,役場と組合の接触の記事から引用した。宮下は村長と越

戸負債整理組合長の2つの立場で登場している。横山書記というのは宮下の片腕と

なった役場吏員であり,負債整理専任書記に就くとともに村の経済更生運動全体の

事務を担当した。井沢民一郎は組合の副組合長,井沢亀喜は庶務兼会計で,債権者

との条件緩和の交渉をはじめ組合の活動の中心となった。村長と役場は,書類作成

を手助けし,組合の相談に乗っている。そして,重要だった無尽講整理において役

場が一定の方針を定め,それをもとに組合が実行したことがとくに注目される。宮

下は村長として,条件緩和の交渉をはじめ負債整理の所用でしばしば出張したこと

も確認される52)。

個人的な行動にも触れておけば,宮下は,1万3,000円超の負債を抱えていた井沢

民一郎の負債整理のために,その田畑を2,000円で買い取ってやったり(井沢は後に

自作農創設により長男名義で買い戻した53)),700円あった民一郎の借金を餞別とし

て帳消しにしてやったりした。また,越戸負債債整理合の立ち上げに際し,自家の

財産を担保に4,000円を借り受け組合の負債償還資金として提供したといわれる54)。

村長という立場にあったことを考えれば,こうした行動の社会的意味は大きい。負

債整理に向けて部落の士気結束をたかめ,個人では民一郎が副組合長として負債整

理のために奔走する重要な契機になったことは確かである。

以上述べた村のあり方と対応がむらレベルの推進体制と相まって,全部落に整理

組合が設立されるという負債整理事業の全村的展開と,組合の活発な活動を生み出

社会科学 78号(2007 年3月)

72

▽▽

したのである。

(3)全村1組合の取り組み

負債整理組合は隣保共助の精神にもとづき設立されるべきものと考えられたか

ら,町村単位の組合は一般に想定されなかった。しかし,数は少ないが存在した。

こうした町村単位の組合の活動をみると,負債整理事業における町村の役割が浮き

出ており興味深い。ここでは2つの村を見ることにする.

島根県青原村55)は戸数約350戸,「非常な山村」で交通の条件が悪く,耕地が少な

いため食糧の自給も難しいという村だった。「それで産業組合中心に何も彼もやつ

て居ることが」村の特色であった。昭和恐慌の襲来を受けて村では1930年,産業組

合の臨時総会で負債整理を行なうことを決めた。そこで取りかかったのが頼母子講

の整理であり,これは相当成果をあげた。そうこうするうちに負債整理組合法が施

行された。しかし,産業組合を中心にしていた村では全村区域での負債整理を方針

としていたので,同法の原則と矛盾することからしばらく負債整理は「停滞」した。

そこで,産業組合を実行機関として実施することに対する県の許可を得たうえで,

35年,同法による負債整理に着手した。

年来の方針通り「産業組合が表裏になり」,負債整理組合長は産業組合長が兼任

し,整理組合の役員には産業組合の役員と村会議員を加えた。「結局村と産業組合

とが合体して負債整理をやるといつた形にして,全村区域で,全村民を加入さして

徹底的にやる」という方針をとった。着手後約半年で手続きが大体完了するなど

「その後の経過は極めて順速であつた」とされる。政府資金は9万円近く借り入れ

た。

村の戸数のうち261名が負債整理組合員,そのうち要整理組合員は146名であった。

村には9つ部落があり,これらは近世村で,むらでもあった。そのうち7部落が組

合に入っていたが,それは「一人残らず入つて居る」状態だったという。組合の特

徴としては,全村一円の組合に法の趣旨である隣保共助の精神を取り入れるという

ことで,9部落に対して部落会を組織させ,それが単位負債整理組合に当たるよう

にした。「相当な規約を設け,組合員間に責任をもたせ,又他の部落に迷惑の及ば

ないような契約を致し,村の組合はその連合会といふような立場」に立って活動し

た。「それが相当よく運ん」だとされる。

負債整理後の負債はだいたい整理組合と産業組合の貸付金で他はほとんどなかっ

たので,産業組合と相談して償還貯金をさせることにした。産業組合に貯金をする

1930年代農村負債整理事業の実施過程

73

と負債償還に振り替えた。こうしたやり方をとった結果,負債償還の成績はすこぶ

る良く,「整理組合の償還だけは期限を少し過ま」らなかったという。

次に,山口県宇津賀村56)の,やはり全村を1組合として負債整理組合を設立した

事例である。本村は戸数484戸,うち漁業125戸,商業127戸をかぞえ,町場を含む

農漁村であった。

注目されるのは,近世の村の状況をみると,1610年の検地帳では津黄・立石村と

一村になっていたことである。それが1842年の「風土注進案」では角山・後畑・津

黄の3村に分かれ,これが町村制により3大字となる。農林業センサスにより農業

集落,つまりむらを確定すると,現在旧宇津賀村区域には12のむらがある。むらと

大字は異なり,また近世前期では1村で,いつ3村になったか分からないがこの近

世前期の村を近世村とすると,大字は近世村とも異なる。そして,1つの近世村の

中に現在の12のむらが含まれる形である。このように山口県は一般に複雑な構成を

とる村が多いが,本村も同様であった。津黄・立石村の分村が相当後までずれ込ん

だとすると,よくある「1近世村複数むら」のタイプであり,近代の村としての宇

津賀村も,同タイプの特徴であるところの,村としてのまとまりは相対的に良かっ

たと考えられる。そして,この点に全村1組合による組織化が可能になった歴史

的・社会的要因を見ることができる。

整理組合は35年に設立され,組合員数は372名(組織率77%)で,うち要整理組

合員数は340名にのぼる。農家だけでなく,漁業,商業に従事する者もかなり組合

に入ったといえる。全村1組合にした理由は次の通りである。第1に,強力かつ徹

底した負債整理を実行するため全村1組合を選んだ。本村には22の農事実行組合が

あったが,それらの活動を見ると中心人物がいて活発に活動する組合がある一方,

ただ組合をつくっただけというところもあった。そこで負債整理を「強力に,然も

徹底的に指導する上に於いて,村に確りした統制出来る指導機関を設けて...................

,組合を...

引連れて行く......

必要がある」(傍点庄司)と考えた。第2に,事務的な理由である。負

債整理は事務的に相当複雑で各部落に任せておくと手間どる。とくにその根本をな

す個別農家の経済更生計画の樹立は部落では困難と考え,全村1組合で事務をとる

ことにした。第3に,頼母子講の負債整理は全村1組合でないと目的が達せられな

いとの判断もあった。

既存の22の農事実行組合との関係では,それを分区という単位にして,これに

「諸計画の実践指導,資金貸付の世話,資金償還確保,残負債に対する集金,共同

社会科学 78号(2007 年3月)

74

事業,共同作業の心配等々」をさせた。この分区制度は「成績が良かった」といわ

れる。

事業着手後1年半で負債の大整理が行なわれた。これにより産業組合が一番良い

影響を受けた。整理組合設立前と38年末を比較すると,余裕金7,000→3万7,000円,

貸出金7万6,000→6万6,000円,借入金4万余→2,000円,貯金6万9,000→18万円,

と事業着手時行き詰っていた産業組合が息を吹き返した。

以上,負債整理事業において町村が演ずる役割の大きさを明らかにした。町村単

位の産業組合を母体に整理組合を設置したり,全村1組合にすることによって,全

村的に,かつ徹底した事業が実行されることが分かった。そして,そうした事業遂

行の体制をとったとき,実行機関としてのむらの機能の活用補完が不可欠だったこ

とも重要な点である。

最後に,宇津賀村で全村1組合にした理由,「村に確りした統制出来る指導機関

を設けて,組合を引連れて行く」という方針にかかわって,負債整理事業にかんす

る兵庫県の方針を次に掲げる。町村とむらの関係について,このような方針が打ち

出されていた。

負債整理ニ際シテハ先ズ其衝ニ当ル機関ヲ設置セザルベカラズ即チ直接整理

ノ衝ニ当ル実行機関ト之ヲ督励シテ其活動ヲ促進セシメル指導機関トノ二重機

関ノ設置ヲ要ス。本調査委員会ニ於テハ実行機関ハ之ヲ部落区域ニ於テ組織セ

シメ1町村内ニ於テ其数相当ニ達スルカ或ハ相当数ニ達スル見込アルトキハ之

等ヲ指導統制スル為町村ヲ区域トスル指導機関ヲ設置セシムルモノトス57)。

農会是運動を起こし政府の更生運動の先駆けとなった兵庫県は,負債整理事業に

ついても県農会が先鞭をつけたが,その経験から負債整理の方法について重要な方

針を引き出した。それは政府の負債整理事業が始まる直前に県が独自に出したもの

であることに注意したい。要するにこの方針では,負債整理事業における町村の役

割とむらの機能に対応した,「指導統制」と「実行」の二重機関の必要性が強調さ

れているのである。

1930年代農村負債整理事業の実施過程

75

おわりに

農村負債整理事業の実態検証を踏まえ,筆者が考える本稿の研究史上の意義につ

いて,研究史との関連を含め簡単にまとめておこう。

大鎌邦雄氏が指摘する通り「行政村と集落の関係は戦後の地方自治研究の焦点の

1つ58)」であり,その限りでは本稿の「町村-むら」関係の視点自体,別に目新しい

ものではない。しかし大まかに言って,丸山政治学をはじめ近代化論に立つ数々の

研究はもとより,その後の歴史学の成果を含め実証性に多分に疑問が残り,町村や

むらの十分な実態解明を踏まえての立論ではなかったと考えるのは筆者ひとりでは

あるまい59)。その点でいうと,大石嘉一郎・西田美昭氏を中心とした行政村の研究60)

や自治村落論を踏まえた大鎌氏の行政村の事業展開・執行体制の研究61)は高く評価

されるべきものであり,とくに自治村落論の積極的評価という共通性を有する後者

からは理論的にも多くの示唆を受けた。だが,その大鎌氏の秋田県西目村研究も対

象時期は基本的に1920年代までであり,筆者が「近現代の政府と町村とむら」の間

に「構造変化」が起きたと捉える62)1930年代以降の分析は残念ながら手薄である。

こうした実証面から見たとき,農村負債整理事業を通して町村の役割とむらの機

能を実証したことにまず本稿の独自な意義があるといえる。

本研究では,農村負債整理事業の現代的性格,すなわち現在の債務救済法である

個人再生手続との類似性を明らかにした上で,その地域性の解明を通して,マクロ

の背景として事業展開の経済的条件(経済面)や府県や町村の普及促進(政策面)

の意味を明らかにするとともに,メゾレベルの組織に関する要因として町村の役割

とむらの機能を検証した。なぜ1930年代に負債整理事業のような取り組みが行なわ

れ一定の実績をあげることができたのかが本稿の基本的な問題意識だったが,その

要因を農村の社会構造から探るとともに,町村の役割が決定的意味を持つことを明

確にした。なお,本稿では詳しく触れられなかった事業の指導者層,つまりミクロ

レベルの個人に関する要因について付言すると,一般的に,町村長や産業組合長等

の町村レベルの役職者や,村外での生活体験があったり教員等を職業とする在地イ

ンテリ層といった,その「公」の意識が明治期の有力者のようにむらの範囲に閉じ

た層とは明らかに区別される主体が指導性を発揮しているのが目立つ63)。浦里村の

負債整理組合を見ても,村長の宮下周が越戸負債整理組合長を務めていたほか,他

の4人の組合長も,村議,つまり町村レベルの役職に過去に就いたか現在就いてい

社会科学 78号(2007 年3月)

76

る者が務めていたことが共通の特徴である。つまり組合長は町村レベルの役職者で

あった。この農村負債整理事業をめぐる主体形成は,同事業だけではなく広い視野

からあらためて問題としたい。

自治村落論への批判として,近現代の村落を近世発祥のむら一色で塗りつぶして

いるという問題点を本稿でも指摘せざるをえない。浦里村ではむらを単位に負債整

理組合が作られたが,事業の軸になる種々の調査を行ない事業遂行に大きく貢献し

たのは,むらをいくつかに分けて設立された農事実行組合であった。農事実行組合

は負債整理事業だけでなく,広く村の経済更生運動全体の実行機関として活動した。

農事実行組合の単位は五人組とされるが,実態をよく調べるとむらの中に伝統的に

存在した近隣組織がその区域となっている。一部誤解があるように農事実行組合は

何もない所に突如作られたのではない。浦里村だけを見ても,このように負債整理

事業の社会構造は重層的であり,むらだけが基盤になったのではない。

以上に加え,むら自体も一色でないことが考慮されるべきである。農村の社会構

造ということでは,むらの成り立ちや形態,つまり①近世のむらと一致するむらと

一致しないむら,②近世の村がそのまま近代の町村に移行するケース,③集居のむ

らと散居のむら,④むらの規模等による差異も重視すべきである。本稿では町村の

役割と村落の機能に焦点を当てたため,こうしたむらの性格の差異に対応した負債

整理事業のあり方の解明が手薄になった。この点にかんしても付言すると,近世の

村と一致するむらが多い近畿や北陸では農事実行組合等による負債整理事業代行の

要望が強くないことは,①に,またこれはすでに触れたが山口県宇津賀村の全村一

円の負債整理組合は,②にそれぞれ関係することとして捉えられ,さらに浦里村の

負債整理組合と農事実行組合の関係は1つは④に起因する問題として理解されよう。

1930年代に「政府と町村とむら」の間に構造変化が起こり,政府による諸政策の

積極的展開を受けて町村が公共事業をはじめ諸事業を活発化させる中,町村として

のまとまりを確保,ここに「町村が確立する」というのが筆者の主張である(1888

年町村制施行による「町村の成立」と対比)。それに伴い,村議のむら代表制,つ

まり各村への村議の均等配分など新たな「町村-むら」関係が現われる点に注目す

る。京都府雲原村では1933年,西原亀三村長の強力なリーダーシップにより村議を

12名からむらの数と同じ8名にする条例が制定された。同村では町村の確立を前提

として村議のむら代表制が名実ともに実現された。こうした自治のあり方の変更は

単に村の統合に合理的であったというだけでなく,町村が右のように変化する中,

1930年代農村負債整理事業の実施過程

77

事業による利益享受均霑要求として村民から出されるようになったことが重要であ

る。経済的格差や戸数,または村の中での地理的位置によって村議が複数いるむら

がある一方,皆無のむらがあるということでは,民主的な町村行政という観点から

見たとき,不合理なわけである。農村負債整理事業の体験談においても,やはりこ

うした問題が現場から寄せられた。その点で,否定的に捉えられる村の「部落選挙」

は歴史的なものであり,1930年代には,以上の意味でそれを助長する条件が強まっ

たとさえいえる64)。

【注】

1)本研究は現在「町村-むら」関係の視点から行なっている近現代農村社会史研究の一環として取り

まとめられた。筆者の方法については次の各論文に詳しいので参照されたい。「北橘村の農事実行組

合」(『社会科学』第71号,2003年8月),「雲原村の農村改革と西原亀三」(上)(下)(『社会科学』

第73,74号,2004年9月,2005年2月),「史学・経済史学の研究動向―近現代日本における『村落』

をめぐって」(『年報村落社会研究』第40集,2004年11月),「農家小組合の政策と展開」(『社会科学』

第76号,2006年3月),「近現代の政府と町村と集落」(『農業史研究』第40号,2006年3月)等。

2)詳しくは,小平権一『産業組合法』日本評論社,1938年,8~9頁参照。

3)加瀬和俊「農村負債整理政策の立案過程」『東京水産大学研究報告』№14,1979年3月。

4)産業組合中央会『中央に於ける農村負債整理事業懇談会記録』1939年,12頁。これは産業組合中央

会が39年3月開催した農村負債整理事業懇談会の記録である。中央会が農林省の協力を得,全国で

開催した負債整理事業の懇談会や整理組合調査の参加者の報告等を収める。数は限られるが各県の

負債整理事業の動向とその要因を簡潔かつ的確に紹介している。

5)猪俣津南雄『窮乏の農村』岩波書店,1982年,96頁。

6)詳しくは,『農林行政史』第2巻,288頁等を参照。

7)農林省経済更生部『農村負債整理関係法規』1939年,93~103頁。

8)詳しくは,農林省経済更生部『農村負債整理ニ関スル諸案要項』1936年,参照。

9)詳しくは,拙著『近現代日本の農村』(吉川弘文館,2003年)の「農民運動と農村の現代化」「昭和

恐慌と農村の変化」の各章を参照。

10)以下は,宇都宮健児『消費者金融』岩波書店,2002年,第5章と第6章をもとにまとめた。

11)以下は,小平権一『農村負債整理の手引き』中央報徳会,1933年,をもとにまとめた。

12)小平は条件緩和の一般的状況にかんして「条件緩和で平均して3割から4割位まで行つて居ります。

条件緩和は期限をずつと延ばすとか,利息だけ負けるとか,元金も3割近くも切捨てると云ふこと

も相当ある」と述べている(農村更生協会『村長は語る』1935年,86頁)。

13)農業経済研究所『農村負債整理組合法問答』泰文館,1933年,58頁。

14)同上,42頁。

15)同上,143頁。

16)同上,58頁。

17)前掲小平『農村負債整理の手引き』13~14頁。

社会科学 78号(2007 年3月)

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18)詳しくは,前掲拙著『近現代日本の農村』,拙著『日本農地改革史研究』御茶の水書房,1999年,第

7章参照。

19)前掲『農村負債整理組合法問答』186頁。

20)同上,96頁。

21)前掲『農林行政史』291頁。

22)拙著『近代日本農村社会の展開』ミネルヴァ書房,1991年,第10章参照。

23)鳥取県においても同じような状況がみられた。すなわち,「殊に弓浜部と称して居る地方がある。あ

の辺が非常農村の経済が窮乏して居る。従つて負債整理事業も矢張り西伯地方と申すあの方面に発

達して居る事情になつて居ります」(前掲『中央に於ける農村負債整理事業懇談会記録』11頁)。

24)『第1回農村負債整理事務主任官協議会要録』1935年,82頁,北海道の発言。

25)前掲『農林行政史』289頁。

26)この点は,同志社大学人文科学研究所所蔵東隆(北海道産業組合課農林主事)文書中の「東北6県

及北海道負債整理事務主任官打合会」をはじめ多くの負債整理事業関係資料から分かる。

27)前掲『中央に於ける農村負債整理事業懇談会記録』18~19頁

28)同上,10,15頁。

29)同上,16~17頁。

30)これは徳島県の事例から明確である(同上,9頁)。

31)小平権一監修・古瀬伝蔵編『農山漁村負債整理の方法と実例』日新閣,1937年,66頁。小平の説明。

32)農林省の中には,不要整理組合員を組合に入れるのは「相互監視のため」という認識もあった(前

掲『村長は語る』72~74頁,農林省金融課長西村彰一の発言)。

33)前掲『負債整理事業促進に関する要望事項』17,20頁。

34)同上,26頁。

35)同上,1,27頁。

36)浦里村の経済更生運動と宮下周村長について詳しくは,中村政則『近代日本地主制史研究』東京大

学出版会,1979年,第5章参照。

37)以上は,浦里村「負債整理事業関係書」(1941年~)による。

38)詳しくは,『激動の昭和』信濃毎日新聞社,1988年を参照。

39)村長になる前の宮下の思想と行動について詳しくは,庄司「資料紹介 経済更生優良村浦里村長宮下

周言行録(1)」『社会科学』第78号,2007年3月,「解説」(130~31頁)等を参照。

40)ちなみに,宮下の政治家としての性格を表わすものとして,こうした体制を宮下自身「決して村の

将来の為にならない」と否定的にとらえていたことを付言する(詳しくは,前掲『村長は語る』45

~46頁の宮下発言を参照)。

41)山浦『更生村浦里を語る』信濃毎日新聞社,1938年,36頁。山浦はまた経済改善委員会について

「これは県下各町村にあるものと,その委員会規程その他においては大差ないものであるが,その張

り込み方においては大いなる開きがある」と記している(同書,35頁)。なお,山浦は小学校教師を

経て県教育課(社会教育主事補)に勤務し県下の青年団を指導した。宮下の県議選出馬に際し宮下

陣営で活躍するなど宮下と親しい関係にあった。他に,定評のある『長野県青年団発達史』(信濃毎

日新聞社,1935年)等の著作がある。

42)浦里小学校百周年記念事業推進委員会『浦里教育百年の歩み』1972年,67頁。

43)この点について詳しくは,前掲拙稿「近現代の政府と町村と集落」参照。

1930年代農村負債整理事業の実施過程

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44)協調会農村課『長野県下に於ける浦里村経済改善委員会等の概況』1932年,5頁。

45)浦里村「経済更生計画及其実行費」1936年,32頁。

46)前掲『更生村浦里を語る』44頁。

47)同上,43頁。

48)更生区と農事実行組合の規約は前掲「経済更生計画及其実行費」61頁以下を参照。

49)同上,31頁。

50)前掲「負債整理事業関係書」による。

51)越戸負債整理委員会「日誌」(1937年1月~)越戸自治会所蔵。

52)『浦里村報縮刷版』(1980年)の「役場日誌」による。

53)この点は,中山徳重『浦里村』新大衆社,1943年,202~211頁等で触れられているが,負債整理や

自作農創設維持関係の浦里村行政文書で確認したところ事実であることが分かった。ただし,民一

郎が自作農創設維持事業により買い戻した土地の売渡人は全部産業組合となっている。宮下は産業

組合長でもあった。民一郎が借り入れたのは宮下個人からではなく,産業組合からであったことも

考えられる。

54)宮下自身も越戸負債整理組合の要整理組合員であった。その負債の借入先と金額は産業組合2,100円,

銀行500,頼母子講400円など総額4,000円である(「要整理者各人負債調」による)。宮下は地域公共

への経済的な寄与貢献を厭わなかった。第1,戦前に村長や県議を務めること自体,そうした精神

の発露という面があった。そのことが負債に結びついたともいえる。宮下家は所有僅か約2町歩の

地主自作で(両親と弟が農業従事),断わるまでもなく村長あるいは県議としての報酬も大した収入

にはならなかった。本人は「貧乏政治家」を自認し,県議選のたびに財産が減って海軍将校だった

もう1人の弟の仕送りを受けるような状態だったという(3男亨氏からの聞き取り)。

55)農村更生協会『負債整理組合経営の体験を語る』1939年,22~25頁および付録。

56)同上,28~30頁および付録。

57)兵庫県農村負債整理調査委員会『農村負債整理方針並其要項』1932年,10頁。

58)大鎌『行政村の執行体制と集落』日本経済評論社,1994年,11頁。

59)この点にかんしては,拙稿「史学・経済史学の研究動向―近現代日本における『村落』をめぐって」

「近現代の政府と町村と集落」等を参照。

60)大石・西田編『近代日本の行政村』日本経済評論社,1991年。

61)前掲大鎌『行政村の執行体制と集落』。

62)詳しくは,前掲拙稿「近現代の政府と町村と集落」参照。煩雑になるのでいちいち注記することは

省くが,以下に示す筆者の各主張も同拙稿で展開しているので詳しくはそれを参照していただきた

い。

63)農村負債整理事業事例にかんする資料は多いが,とりあえず農林省経済更生部『負債整理組合の事

例(第1・2輯)』1936・37年,前掲『村長は語る』,前掲『負債整理組合経営の体験を語る』等が

リアルな情報を提供しており有益である。また,村や部落の概要を踏まえつつ農村負債整理事業を

紹介回想した著作として,『野幌部落史』(1947年,第6章とくに457~62頁),新山新太郎『農民私

史』(農山漁村文化協会,1978年,165~66頁),中山トミ子『開拓農民記』(日本経済評論社,1982

年,とくに「富森保治」と「端崎平太郎」の聞き書き)等が貴重である。

64)前掲『負債整理組合経営の体験を語る』98頁。

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